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渡辺克典「中途障害を語り紡ぎ、それを<学>とすること――『ボディ・サイレント』を読む」
「中途障害を語り紡ぎ、それを<学>とすること――『ボディ・サイレント』を読む」
渡辺 克典 2011/07/18
障害学研究会・
第3
回研究会報告 於:
立命館大学
■事前配付資料(レジュメ)
1.社会、文化をめぐって
1.1 人間社会一般の特徴づけ
マーフィーは、身体障害を「個人」と「社会」のせめぎ合いの場として考える
引用:歴史というものは、人間の意図を文化的諸価値とが表現されていく過程ではなく、一般にはむしろ両者の矛盾の表現だ。身体麻痺の研究はこうした個の社会に対する戦いを見物するには絶好の闘技場(アリーナ)となる。この意味で身障者は一般人と種(しゅ)を異にする無縁の他者などではなく、むしろ人間的状況一般の隠喩(メタファー)だといえる。(22頁)
「個人」と「社会」のせめぎ合いの場であるからこそ、それはある個人の属性ではなく、「社会」のなかで決定される。マーフィーはこのことを「障害」という概念の相対的な関係性から取り上げている。
引用:思えば“障害(ディスアビリティ)”というのは、無定形で相対的なことばだ。(121頁)
「障害」概念がもつ意味づけについて
引用:アメリカ文化において、また他の多くの文化において、自立できないこと、そして他者に一方的に依存することは社会的な地位の低下を結果する。ほとんどの社会は、子供たちに助け合う互酬の精神を教え込もうとし、また一方、ある程度の自立心を養おうとする。過度の依存、また相互性への侵害は子供の特徴だとされ、大人にそれがみられる場合には――それが本人のせいでない時にも――社会的な制裁を受ける。重度身体障害者や高齢者がしばしば子供のような扱いを受けるのはここにひとつの理由がある。・・・依存からの脱却こそが身障者政治運動の中心課題となってきたのは、こうした理由によるのである。(331-332頁)
→ これらの問題関心に沿って、社会と社会を比較した上で「文化」を抽出する人類学の手法を用いる。つまり、アメリカにおける健常者と障害者の比較を通じてアメリカ的社会を描く。
1.2 アメリカ的社会とその変化
1.2.1 アメリカの変化
・身体障害者の人口増加(248頁)
・ベトナム戦争による性別・階層差と死傷者の関係(250頁)
・1973年「リハビリテーション法」(市民権法、憲法修正第14条)(252頁)
1)社会形成の「投資」としてのリハ法
引用:身障者のためのリハビリテーション法はじつはとてもよい投資なのだ。(258頁)
2)リハ法もたらした社会意識の変化
引用:1973年のリハビリテーション法は身障者にとっての意識革命となった。単なる“不具者”の寄せ集めではなく、ひとつの階級(クラス)として自分たちをみるきっかけとなった。この改良的な法律は身障者市民権運動に必要な武器となった。・・・この新しい自覚の結果として、多すぎるほどの身障者による身障者のための組織が現われ、これまでにない活動性と戦闘性が生まれた。(262頁)
→ リハ法がもたらした影響
引用:彼らはまた、組織の中で他者――しかし自分と似た問題を抱えたそれ――と出会い、社会の境界地帯(リミナリティ)ならではの平等主義的な空気の中で、友好関係を結ぶことになる。(268頁、2.2「境界性」については2.2で取り上げる)
1.2.2 ウィリアム・ライアン「被害者を責める」「貧困の文化」(97頁)
引用:アメリカでは白人であるということは、ふつうであるということ。それは言語民族学者たちのいう“徴(しるし)なしのカテゴリー”、つまりその類の中では一般的で、それを基準にし、それとの比較で他が規定されるといったことばだ。(186頁)
→ デュルケム(cf.116頁)やフーコー、ゴフマン(2.1)にもつながる議論
引用:自立、独立独行、そして自主性はアメリカ文化における中心的な価値である。この文化のもつもっとも持続的な神話のひとつは、国が一群の非凡なる個人の努力によって建てられたというものだ。・・・この建国神話によれば、これら諸個人は政府の後ろ盾はもちろん誰の助けもなしに成功を獲得したことになっている。彼らは自分の足ですっくと立った人々だ。(330頁)
アメリカ文化の中心的な価値(神話)の問題から、それから排除される人びとの問題へ
→ ゴフマンのスティグマ論
2.ゴフマン、ターナーをめぐって
2.1 ゴフマン「スティグマ」――相互行為をめぐる問い
引用:フレッド・デイヴィスの研究の中心問題は、はじめての出会い、つまり障害のない人びとが“まず目のやり場に困る”という初対面の場合だ。(221頁)
ゴフマンによる相互行為論へ
特徴:逸脱者(マイノリティ、犯罪者、障害者)の具体的な相互行為の問題を、その社会に存在しているレッテル(これをゴフマンは「社会的アイデンティティ」とよぶ)のやりとりの場面から考える。
引用:身障者は前科者、ある種の民族的あるいは人種的な少数者たち(マイノリティ)、精神病患者などと同様、社会的に低い地位を占めている。本人たちが自分自身についてどう考えるかにかかわらず、社会は身障者たちに否定的なレッテルを貼りつける。以後彼らの社会生活はこの押し付けられたイメージとの闘いとなる。このことでわかるように、汚名(スティグマ)とは、身障にくっついているおまけなのではなく、身障そのものの実質なのだ。(201頁)
このようなやりとりは、エチケットのような非明示的なルールが規制する。
引用:かつて誰一人として私に、半身――いまはもう全身――麻痺のからだをもつというのが、どんな感じのものなのか、と尋ねた者はいない。そういう質問は、中流階級(ミドル・クラス)のエチケットに反するからである。(157頁)
関連(1):ゲオルグ・ジンメル「闘争」
1)闘争の偏在/潜在性
引用:実はすべての社会的な出会いに一触即発の機会が潜んでいるのであって、身障者の場合は、ただこの一般的心理が極端な形をとった例にすぎない。(220頁)
2)社会行動における「秘密」
引用:社会行動は、“目的論に決定されたお互いについての無知”にもとづくものだ・・・つまり、人びとがもしお互いに私的なことがらについてはっきりとした情報を掴んで、自らも隠しごとなくすべてを正直に出すようになると、かえって社会性というものは破壊され、人間社会は成りたなくなってしまう。(220頁) → こうした危うい関係の中で、誤解はますます巨大化し社交性はますます損なわれていく。(221頁)
関連(2):ラドクリフ=ブラウン「冗談関係(ジョーキング・リレーションシップ)」
インド・クラスにおける盲人へのいじめ
→ からかうことで仲間に入ることができる。引用:「人類学者たちが一部の未開社会で、義理の兄弟姉妹など婚姻関係の間で見出した、“冗談関係”の一種というわけだ」(211頁)
→ インドで身障者をからかうことが、アメリカで身障者を避けることと入れ代わっているだけだという見方も成り立つ。(211頁) ※ cf. 江原由美子「からかいの政治学」
関連(3):ベアトリス・ライト「拡張」
身体の問題が性格の問題へと広げられる
ゴフマン批判から「境界性」へ
ゴフマンは少数者をみな社会的規準から逸脱した余所者(アウトサイダー)としてとらえた。 → 問題点(1)法的・道徳的な基準を故意に破ったものと、責任のない者を同じカテゴリーでとらえてしまっている。(2)身体障害者のみに適用される価値観と感情的な反応が存在する。
→ 理論的な混乱を招く。→ 境界性(リミナリティ)としてとらえることを提案
2.2 ターナー「境界性(リミナリティ)」――二項対立的世界観
ターナーの「境界性」の議論において、長期的な障害者(中途障害者、難病者など)は健常者/障害者の二項関係ではなく、その中間(=境界)として考える。
引用:長期にわたって身体障害者として生きる者は、病気というのでもなく、しかし健康というのでもない中途半端なあり方をしている。(236頁)
「境界性」としての障害者の特徴は、その平等的な人間関係にある
引用:境界(リミナル)人間としての身障者たちは社会的序列によって分け隔てられることのない丸ごとの人間として相対し合う。そしてしばしばお互いにびっくりするような率直さで胸のうちを明かし合う。(243頁)
ただし、「境界性」人間間での平等的な人間関係は、その反面として、そうでない人びととの関係において(分類にあてはまらない)曖昧な存在としての苦悩を抱えることになる。
引用:身障者としての私のあり方の不確定性が、私の入院の際には一時解消する・・・病院に入るや、私はどっちつかずの曖昧な存在ではなくなる。つまり、私は病人という分類の中にすっきりおさまる。(282頁)
関連:メアリ・ダグラス「汚穢と禁忌」
3.それを学術な成果とする、ための課題
3.1 量的な変化から質的な変化へ
引用:立ち上がることができないということの意味は決定的だった。これまでゆるやかに音もなく進行してきた量的な変化が、急に大きな質的な転換として現われる。(278頁)
※ 参与観察の利点について
引用:アンケート調査などとちがって、調査者は、こう思いこう感じるという人々の言説を、彼らの実際の行動と照らし合わせることができる。これは本質的な問題である。なぜなら人間というものは、このように行動すべきだといいながら実際にはそうしないとか、自分ではやっていると思っていることでも実際にはしていないとか、いうこと、思うこと、することがずれていることがしばしばだからだ。(290頁)
3.2 これまでの研究成果への批判的まなざし
引用:[身体麻痺の社会的・文化的意味をめぐる]ほとんどのもの[研究]は社会学者、社会心理学者、社会福祉指導員(ソーシャル・ワーカー)、看護士、医師によって書かれていた。その質はでこぼこで、一級の社会理論から、これまでに私が読んだ人間科学関係の本の中でも最低級――あきれるほどひどい――ものまであった。(287頁、[]は引用者補)
3.3 「語り紡ぐこと」と「<学>とすること」の往還関係のなかで
これまでの身体障害者をめぐる<学>に対する批判的な視点
→ 「質的な変化」の把握の不十分さ(=中途障害者としての自身の経験)
<学>として問題化される論点の提示
→ マーフィーにおいては「健常者/障害者という見方」「スティグマへの批判」
(アメリカの)社会/文化に関する知見 → これをどう活かしていくか?
■cf.
◆ Murphy, Robert F. (ロバート・F.マーフィー)
◆ 『ボディ・サイレント――病いと障害の人類学』
◆ Goffman, Erving(アーヴィング・ゴッフマン)
◆ 米国リハビリテーション法