(Translated by https://www.hiragana.jp/)
Murphy, Robert F.『ボディ・サイレント――病いと障害の人類学』
HOME > BOOK >

『ボディ・サイレント――やめいと障害しょうがい人類じんるいがく

Murphy, Robert F. 1987 The Body Silent, Henry Holt and Company
=19920630 つじ 信一しんいち やく新宿しんじゅく書房しょぼう,312p.
→20060209 平凡社へいぼんしゃ平凡社へいぼんしゃ文庫ぶんこ,440p.


このHP経由けいゆ購入こうにゅうすると寄付きふされます

■Murphy, Robert F. 1987 The Body Silent, Henry Holt and Company=19920630 つじ 信一しんいち やく,『ボディ・サイレント――やめいと障害しょうがい人類じんるいがく』,新宿しんじゅく書房しょぼう,312p. ISBN-10: 4880081671 ISBN-13: 978-4880081670 2600 [amazon][kinokuniya] ※ ma.→199706 新宿しんじゅく書房しょぼう,312p. ISBN-10: 4880082430 ISBN-13: 978-4880082431 [amazon][kinokuniya]→20060209 平凡社へいぼんしゃ平凡社へいぼんしゃ文庫ぶんこ,440p. ISBN-10: 4582765661 ISBN-13: 978-4582765663 [amazon][kinokuniya] ※ ma.

◆1992年版ねんばん訳書やくしょ([amazon])

内容ないよう(「BOOK」データベースより)
全身ぜんしん麻痺まひはじめたみずからの身体しんたいとこれをとりまく社会しゃかい(関係かんけい)をフィールド・ワークした、人類じんるい学者がくしゃによる最初さいしょ本格ほんかくてき身体しんたい障害しょうがいのドキュメント。

Book Description
Winner of the Columbia University Lionel Trilling Award. Robert Murphy was in the prime of his career as an anthropologist when he felt the first symptom of a malady that would ultimately take him on an odyssey stranger than any field trip to the Amazon: a tumor of the spinal cord that progressed slowly and irreversibly into quadriplegia. In this gripping account, Murphy explores society's fears, myths, and misunderstandings about disability, and the damage they inflict. He reports how paralysis?like all disabilities?assaults people's identity, social standing, and ties with others, while at the same time making the love of life burn even more fiercely.

About the Author
Robert F. Murphy (1924-1990) was professor of anthropology at Columbia University and the author of many articles and books.

◆1997年版ねんばん訳書やくしょ([amazon])

内容ないよう説明せつめい
米国べいこく文化ぶんか人類じんるい学者がくしゃ全身ぜんしん麻痺まひしはじめたみずからの身体しんたい社会しゃかいとの緊張きんちょうした関係かんけい直前ちょくぜんまでフィールドワークした記録きろく人類じんるい学者がくしゃによる本格ほんかくてき身体しんたい障害しょうがい社会しゃかいろんでありみにくろう病死びょうし排除はいじょする現代げんだい社会しゃかいへの抗議こうぎ文化ぶんかろんでもある。
著者ちょしゃ紹介しょうかい
〈マーフィー〉アメリカの人類じんるい学者がくしゃコロンビア大学ころんびあだいがく博士はかせごう取得しゅとくどう大学だいがく人類じんるい学部がくぶ学部がくぶちょうつとめる。著書ちょしょに「社会しゃかい生活せいかつ弁証法べんしょうほう」「文化ぶんかおよ社会しゃかい人類じんるいがく序曲じょきょく」など。1990ねんぼつ

文庫ぶんこばん([amazon])

内容ないよう(「BOOK」データベースより) 脊椎せきつい出来できた「良性りょうせい」の腫瘍しゅようによって神経しんけいけい徐々じょじょ破壊はかいされるといういたやまいおかされた人類じんるい学者がくしゃ自分じぶん自身じしん家族かぞく周囲しゅうい社会しゃかいをフィールドワークした感動かんどうのドキュメント。オリバー・サックスやレヴィ=ストロースも激賞げきしょう

内容ないよう(「MARC」データベースより) 脊椎せきついにできた「良性りょうせい」の腫瘍しゅようによって神経しんけいけい徐々じょじょ破壊はかいされるといういたやまいおかされた人類じんるい学者がくしゃが、自分じぶん自身じしん家族かぞく周囲しゅうい社会しゃかいをフィールドワークした人類じんるいがくてきドキュメンタリー。

著者ちょしゃ略歴りゃくれき (「BOOK著者ちょしゃ紹介しょうかい情報じょうほう」より)
マーフィー,ロバート・F.
1924~1990。1954ねんコロンビア大学ころんびあだいがくでPh.D.を取得しゅとく。イリノイ大学だいがくやカリフォルニア大学だいがくバークレーこうなどをて、63ねんコロンビア大学ころんびあだいがく人類じんるい学部がくぶ教授きょうじゅ。69ねんから72ねんまでどう学部がくぶがく部長ぶちょう

つじ 信一しんいち
文化ぶんか人類じんるい学者がくしゃ環境かんきょう運動うんどう。1952ねんまれ。明治学院大学めいじがくいんだいがく国際こくさい学部がくぶ教員きょういん。「スロー」というコンセプトをじく環境かんきょう=文化ぶんか運動うんどうすすめる。1999ねん、NGO「ナマケモノ倶楽部くらぶ」を設立せつりつ世話人せわにんつとめる。「スロー」「カフェスロー」「スローウォーター・カフェ」「ゆっくりどう」などの会社かいしゃ設立せつりつ参加さんか環境かんきょう共生きょうせいがたビジネスにむほか、数々かずかずのNPO、NGOにも参加さんかしている(ほんデータはこの書籍しょせき刊行かんこうされた当時とうじ掲載けいさいされていたものです)

目次もくじ

プロローグ よるおと
だい1 出発しゅっぱつ
 徴候ちょうこう、そして症候しょうこう
 エントロピーへのみち
 帰還きかん
だい2 からだ、自己じこ、そして社会しゃかい
 そこなわれた自己じこ
 出会であ
 自立じりつへのたたか
だい3 きるということ
 ふかまる沈黙ちんもく
 あい依存いぞん
 なまという不治ふじやまい


引用いんよう

川口かわぐちによる引用いんよう
 http://homepage2.nifty.com/ajikun/memo/r_murphy.htm

 「じゅう世紀せいき中葉ちゅうよう社会しゃかいがく指導しどうしゃとして君臨くんりんしたタルコット・パーソンズは、病気びょうき社会しゃかいてき役割やくわりについていくつかレポートをいたことがある[…]。論文ろんぶんかなしいことにしちめんどうくさい学術がくじゅつ用語ようごかれているのだが、しかしなにとか翻訳ほんやくしてみればなにのことはない、病気びょうきになったことがあるものならだれでもっていることをいっているにすぎない。つまりこうだ。通常つうじょう社会しゃかいてき役割やくわり――母親ははおや父親ちちおや弁護士べんごし、パン学生がくせい等々とうとう――は、そのひと病気びょうきになったとたんに効力こうりょく一時いちじ停止ていしする。そのひとは”病人びょうにん”という規定きていけ、病気びょうき軽重けいちょうにより通常つうじょう義務ぎむ一部いちぶ、あるいは全部ぜんぶから解放かいほうされる。(31)
 通常つうじょう義務ぎむ一時いちじ停止ていしとはいっても、病人びょうにんという役割やくわりえんじるもの義務ぎむまったくなくなってしまうということはない。いやむしろひとつのおおきいやつを背負しょまされる。つまり、回復かいふくけて努力どりょくしまないという義務ぎむだ。」(Murphy[198=1992:31-32])

書評しょひょう紹介しょうかい解説かいせつ

寺山てらやま 久美子くみこ 19921220 「(ほん新刊しんかん紹介しょうかい)ロバート・F・マーフィーちょ つじ 信一しんいちやく『ボディ・サイレント――やまい障害しょうがい人類じんるいがく』」,『われら人間にんげん』063:32-33
立岩たていわ しん也 19920831 書評しょひょう:ロバート・F・マーフィ『ボディ・サイレント――やめい・と障害しょうがい人類じんるいがく』」,『週刊しゅうかん読書どくしょじん』1948:04
川口かわぐち 有美子ゆみこ 200508 「ロバート・F・マーフィーの『ボディ・サイレント』における「麻痺まひ」について」
 http://homepage2.nifty.com/ajikun/memo/r_murphy2.htm
立岩たていわ しん也 20060206 「『ボディ・サイレント』文庫ぶんこばん平凡社へいぼんしゃかん解説かいせつ,Murphy[1987=1992→2006:]


言及げんきゅう

◆Oliver, Michael 1990 The Politics of Disablement, Macmillan,(=20060605, 三島みしま亜紀子あきこ山岸やまぎし倫子ともこ山森やまもりあきら横須賀よこすか俊司しゅんじやく障害しょうがい政治せいじ――イギリス障害しょうがいがく原点げんてん明石書店あかししょてん).
(pp.x-x)
(2しょう 「障害しょうがい文化ぶんかてき考察こうさつ」)
 身体しんたい障害しょうがい真剣しんけんひとつの分析ぶんせきてきカテゴリーとする人類じんるい学者がくしゃはほとんど存在そんざいしなかったが、すぐれた人類じんるい学者がくしゃであるコロンビア大学ころんびあだいがくのマーフィー教授きょうじゅは、みずからの障害しょうがいしゃとしての経験けいけん人類じんるいがくてき枠組わくぐみに位置いちづけるこころみをした(Murphy, 1987)。かれ著書ちょしょ障害しょうがい人類じんるいがくではなく、障害しょうがい世界せかいたびする個人こじんてき考察こうさつである。それは、いちきゅう世紀せいき人類じんるい学者がくしゃ個人こじんてき考察こうさつや、とおはなれた異国いこくへのたびや、そこで出会であった風変ふうがわりでエキゾチックな人々ひとびととの出会であいにていなくはない。かれは、障害しょうがいには社会しゃかいてき抑圧よくあつせられていることをみとめているが、社会しゃかいてき抑圧よくあつによってディスアビリティが形成けいせいされていることを指摘してきしなかった。障害しょうがいしゃ周縁しゅうえんいやられていることにかんするかれ解釈かいしゃく弱点じゃくてんについては、本章ほんしょう後半こうはんべる。
(pp.x-x)
(2しょう 「障害しょうがい絶対ぜったいてき理論りろん」)
 だい基盤きばんは、ターナーの研究けんきゅう(Turner, 1967)にもとづいており、「境界きょうかいせい(liminality)」という概念がいねん発展はってんさせたものである。これは最近さいきん、あらゆる社会しゃかいにおける障害しょうがいしゃ社会しゃかいてき地位ちい解釈かいしゃくするのにもちいられてきた。
 「長期ちょうきにわたる身体しんたいてきインペアメントは、病気びょうきでも健康けんこうでもなく、んでいるのでも完全かんぜんきているのでもなく、社会しゃかいから排除はいじょされているのでも統合とうごうされているのでもない。かれらは人間にんげんだが、身体しんたい支障ししょうがあるか、機能きのう不全ふぜんがあり、完全かんぜん人間にんげんとされているかは疑問ぎもんである。かれらは病気びょうきではない。というのは、病気びょうきぬか回復かいふくするかのどちらかに移行いこうするからである。病人びょうにん病気びょうき回復かいふくするまで社会しゃかいてき地位ちい中断ちゅうだんされた状態じょうたいのままである。障害しょうがいしゃ同様どうよう中断ちゅうだんされた状態じょうたいのままで人生じんせいついやすことになる。そこで障害しょうがいしゃ得体えたいれない、あいまいな存在そんざいとして社会しゃかいから中途半端ちゅうとはんぱ孤立こりつすることとなる(Murphy, 1987, p. 112)。」
 この解釈かいしゃくにはふたつの問題もんだいがある。だいいちに、すでに指摘してきしたように、障害しょうがいしゃ個人こじんまたは集団しゅうだんは、すべての社会しゃかい周縁しゅうえん位置いちづけられているわけではない。だいに、障害しょうがいしゃ社会しゃかいてき地位ちいかんする解釈かいしゃくは、人間にんげん思想しそう二元論にげんろんてき思考しこう(Levi-Strauss, 1977)や、記号きごうろんてき秩序ちつじょ研究けんきゅう(Douglas, 1966)に還元かんげんされてしまう。この還元かんげん主義しゅぎ以下いかにもとづいている。
 「特殊とくしゅ記述きじゅつてき人類じんるいがくでは……、最終さいしゅうてき分析ぶんせきにおいて、社会しゃかい社会しゃかい経済けいざいてき連関れんかん具現ぐげんではなく、思考しこう体系たいけい具現ぐげんされたものとなされる(Abberley, 1988, p. 306)。」
 さらに、
 「障害しょうがいしゃ不利益ふりえきをもたらす、現実げんじつ身体しんたいてき社会しゃかいてき差異さいから注意ちゅういをそらす一方いっぽうで、形而上学けいじじょうがくてき他者たしゃ」の観念かんねんをそのまま永続えいぞくさせる(Abberley, 1988, p. 306)。」
 また、つぎのような馬鹿ばかげた見方みかたみちびく。
 「しかしながら、身体しんたいてきなハンディキャップがある人々ひとびと組織そしきてき排除はいじょいやしめる決定的けっていてき経済けいざいてき理由りゆうはない(Murphy, 1987, p. 110)。」
 実際じっさいには、障害しょうがいしゃ排除はいじょする決定的けっていてき経済けいざいてき理由りゆう存在そんざいしている。資本しほん主義しゅぎにおいて社会しゃかいてき経済けいざいてき連関れんかん具現ぐげんされることで、資本しほん主義しゅぎ社会しゃかいにおける障害しょうがいしゃ直接的ちょくせつてき排除はいじょみちびかれる。このてんかんしては後述こうじゅつしたい。
(pp.x-x)
(5しょう 「女性じょせいとディスアビリティ」)
 障害しょうがいしゃ女性じょせい男性だんせい役割やくわりはいむのがむずかしいことにづいているが、同時どうじ伝統でんとうてき女性じょせい役割やくわり接近せっきんすることをしばしば拒否きょひしている。というのは、障害しょうがいしゃ女性じょせい無性むしょう存在そんざいであり、母性ぼせいには不向ふむきで、あるいは母性ぼせいまっとうできないとおもわれているからである。この「じゅう障害しょうがい」こそが障害しょうがいしゃ女性じょせい経験けいけん構成こうせいし、ディスアビリティによる抑圧よくあつをとくに増大ぞうだいさせるのである。
りゃく
 理論りろんてき(そして、政治せいじてき観点かんてんからすると、こういうことはたしかにありることであるが、障害しょうがいしゃ女性じょせい障害しょうがいしゃ男性だんせい経験けいけん直接ちょくせつ比較ひかくするための客観きゃっかんてき、あるいは主観しゅかんてき種類しゅるい経験けいけんてきデータが十分じゅうぶんにはない。これにより、男性だんせい視点してん(Murphy, 1987)からではあるが、障害しょうがいしゃ女性じょせい経験けいけん障害しょうがいしゃ男性だんせい経験けいけんよりも抑圧よくあつてきなものではないかもしれないという議論ぎろんもなされている。こうした議論ぎろん承知しょうちしているわけでも、それに同意どういしているわけでもないが、障害しょうがいしゃ女性じょせい主張しゅちょうのなかにもこの議論ぎろん結果けっかてき支持しじするようなものも見受みうけられる。
りゃく
 換言かんげんすると、障害しょうがいしゃ受動じゅどうてきであると想定そうていされていることと、女性じょせい受動じゅどうてきであると想定そうていされていることのあいだつよ関連かんれんがあるということだ。障害しょうがいしゃ付随ふずいしたこの受動じゅどうせい本来ほんらいてきなものではなく、アバーレイ(Abberley, 1987)の用語ようごによれば、「まったくイデオロギーてきな」ものにすぎないと認識にんしきされるべきである。たとえば、障害しょうがいしゃ男性だんせい障害しょうがいしゃ女性じょせいとのちがいについていうならば、その差異さいがたとえ「実在じつざいてき」あるいは本来ほんらいてきなものであるかのようにえたとしても、それはかならずしも事実じじつではない。尿にょう管理かんり(management of bladder incontinence)についてかんがえてみよう。男性だんせいよりも女性じょせいのほうが困難こんなんであると想定そうていされており、それは生物せいぶつがくてき差異さいによって説明せつめいされている。しかし、障害しょうがいしゃ女性じょせい場合ばあいしるべ尿にょうカテーテルと尿にょうりパットのふたつしか選択肢せんたくしがないにもかかわらず、障害しょうがいしゃ男性だんせいにはさまざまな方法ほうほう装具そうぐ装置そうち用意よういされているという現状げんじょう男女だんじょ生物せいぶつがくてき差異さいによってのみ説明せつめいできるだろうか。また今日きょうでは、外科げかてき移植いしょくによる膀胱ぼうこう括約筋かつやくきん電気でんき刺激しげきといったあたらしい技術ぎじゅつ発展はってんしているが、それさえもあたらしい技術ぎじゅつ必要ひつようとしている女性じょせいよりも、それをあまり必要ひつようとしていない男性だんせいのほうがよりおお施術しじゅつされている実態じったいがある。したがって、「失禁しっきん女性じょせい問題もんだいである」という主張しゅちょうつのではないだろうか。


◆Frank, Arthur W., 1995, The Wounded Storyteller: Body, Illness, and Ethics, Chicago: University of Chicago Press(=2002, 鈴木すずき智之としゆきやくきずついた物語ものがたりかた――身体しんたいやめい・倫理りんり』ゆみる出版しゅっぱん).
(pp182-184)
 こうした自己じこ変化へんかのありようはあきらかにジェンダーによるかたよりをつものではない。ロードのそれと同様どうよう物語ものがたりは、あらゆるてん彼女かのじょのそれとは異質いしつ人口じんこうがくてきプロフィールをつロバート・マーフィーによってもかたられている。マーフィーは、著名ちょめいなる学究がっきゅうてき人類じんるい学者がくしゃであり、コロンビア大学ころんびあだいがく学部がくぶちょうしょくにあったとき病状びょうじょうづき、それは脊柱せきちゅうにおける良性りょうせい腫瘍しゅようであると診断しんだんされることになる。この腫瘍しゅよう肥大ひだいは、最終さいしゅうてきかれ手足てあし麻痺まひへとんでいく。かれやめいの物語ものがたりは、その身体しんたい能力のうりょく低下ていか縮小しゅくしょうしめしながらも、同時どうじかれ精神せいしんひろがりを獲得かくとくしていく過程かていえがく。マーフィーは、やめいを人類じんるいがくてき調査ちょうさ旅行りょこう比較ひかくし、自分じぶんはいっていこうとしている医療いりょう世界せかいを、調査ちょうさのためにわたあるいてきたジャングルにも「けずおとらず新奇しんきな」世界せかいとして発見はっけんする(31)。
 かれ自身じしんってきた調査ちょうさなかから、マーフィーは変容へんようした自分じぶんとこれまでの自分じぶんとをむすびつけるメタファーを発見はっけんする。そのほん執筆しっぴつするあいだかれはほぼ完全かんぜん麻痺まひ状態じょうたいにあり、椅子いすからだしばりつけて、ただコンピューターのキーボードのうえゆびだけをうごかしていた。かれはこうしるしている。「わたしかたかたは……ペルー・アマゾンのシャーマンによる神話しんわかたりと不気味ぶきみ類似るいじしめしている。シャーマンたちは、自分じぶんからだ完全かんぜん不動ふどう状態じょうたいたもったまま、神話しんわつたえていくのである」。マーフィーの変化へんか信憑しんぴょうせいも、同時どうじにまたその道徳どうとくせいも、かれ過去かこ現在げんざいとをつなぐこうしたメタフォリカルな結合けつごうのうちに存在そんざいする。ここでは、いかなる約束やくそく手形てがた発行はっこうされない。メタファーがそれ自体じたいにおいて、そこで約束やくそくされたものをわたしているのである。
 マーフィーは、かれ自身じしんによる記述きじゅつにおいては、伝達でんたつする身体しんたい理念りねんがた適合てきごうするものではない。かれみずからのえがくところによれば、マーフィーは自分じぶん身体しんたい能力のうりょく低下ていかを、[自己じこを]身体しんたいから「徹底てっていしてはなす」ことによって処理しょりしようとしている。こうしたはなしは、かれが「これまでいち自分じぶん肉体にくたいほこりをったことがなく、……そのかわりに知恵ちえみがいてきた」がゆえに、比較的ひかくてきたやすいことであった。わたしにはマーフィーの自己じこ描写びょうしゃそのものに異論いろんとなえることができるわけではない。しかしそれでも、かれかたること(テリング)のなかで、自分じぶん身体しんたいむすびついていったのだと主張しゅちょうすることができるだろう。シャーマンのメタファーにおいては、マーフイーの身体しんたいたんにその主題しゅだいにとどまるものではなく、その身動みうごきのれない姿勢しせいそのものにおいて、かたりの媒体ばいたいとなっている。シャーマンのかたりがどこかその身体しんたいたもかたっているのと同様どうように、マーフイーのかたりもまたその身体しんたい依存いぞんしているのである。かれ人生じんせいのそれ以前いぜん段階だんかいでは、マーフィーは自分じぶん身体しんたいにさほどほこりをっていなかったかもしれない。しかし、いていくなかかれは、メタフォリカルで神話しんわてきですらあるずっしりとしたおもみを、身体しんたいあづけていくのである。
 マーフィーの物語ものがたり機能きのうするのは、かれ身体しんたいがそのおもみをささえているからである。それはちょうど、ロードの生活せいかつやサックスの著述ちょじゅつ活動かつどうが、みずからの身体しんたいとおして要求ようきゅうされているものをささえているのと同様どうようである。かれらは、みずからのやまいいの物語ものがたりかたなかで、それぞれに、危急ききゅうときえること以上いじょうなにかをなしとげている。くということが人格じんかく測定そくていすることになり、そのいとなみのなか再帰さいきてきにその人格じんかく論証ろんしょうされている。
 それまでにもずっとそうであった自分じぶん本当ほんとう姿すがたとしてあった自分じぶん実現じつげんすることによって、かれらはそれぞれにその自己じこの、さい創造そうぞうされた道徳どうとくてき姿すがたとなる。さもなければそうなるための準備じゅんびととのえる。こうして、人格じんかく提示ていじするなかで、記憶きおく改訂かいていされ、中断ちゅうだん消化しょうかされ、目的もくてき把握はあくされる。物語ものがたりかた英雄えいゆうとして主張しゅちょうする。「わたしなにこったとしても、あるいはなにころうとも、目的もくてきわたし自身じしんさだめるべきものとしてある」と。
(p233)
 すべてのやまいいの物語ものがたりは、「人間にんげん条件じょうけん実存じつぞんてき普遍ふへん」としてのくるしみにその共通きょうつうゆうしている。この共同きょうどうせいは、さまざまなやまいいの類型るいけいばかりでなく、人種じんしゅ性別せいべつえて存在そんざいしている。オードリー・ロードの物語ものがたりは、ロバート・マーフィーのそれと隠喩いんゆてきには相似そうじてきである(だいろくしょう自己じこ物語ものがたりとしての探求たんきゅう」を参照さんしょう)。しかし、こうした相似そうじてき隠喩いんゆせいつくげている筋書すじがきは、二人ふたり著者ちょしゃの「それぞれに個別こべつてき世界せかい」のちがいを反映はんえいしている。同様どうように、ロードの予言よげんてき義憤ぎふんとオルソップの貴族きぞくてき忍従にんじゅうあいだにある差異さいも、それぞれのパーソナリティのちがいからではほとんど説明せつめいがつかない。つまりそれは、またべつのいかけを要求ようきゅうする事柄ことがらなのである。かれらの物語ものがたりは、それぞれがきている世界せかいが、それぞれにみだしたものである。しかし同時どうじに、この個別こべつてき世界せかいは、共同きょうどうたいかれらのものとして認知にんちする個々ここ物語ものがたり解釈かいしゃくほどこすたびに、そのつどあらたに形成けいせいされるものでもある。それぞれに個別こべつてき世界せかい物語ものがたりつくげていくのであるが、同時どうじ物語ものがたりとその解釈かいしゃくとが、その個別こべつてき世界せかい統合とうごうしていくのである。


◆Barnes, Colin ; Mercer, Geoffrey ; Shakespeare, Tom 1999 Exploring Disability : A Sociological Introduction, Polity Press(=20040331, 杉野すぎの昭博あきひろ松波まつなみめぐみ・山下やました幸子さちこやく『ディスアビリティ・スタディーズ――イギリス障害しょうがいがく概論がいろん明石書店あかししょてん.
(pp.x-x)
(3しょう 「3. 「慢性まんせいびょう障害しょうがい」の経験けいけん」)
 対処たいしょ戦略せんりゃく選択せんたくは、インペアメントをもつひとたいする一般いっぱん人々ひとびと専門せんもん態度たいどによって、ひどく制約せいやくされている。マーフィー(Murphy et al., 1988)によると、インペアメントとは、人々ひとびと自分じぶんからは距離きょりをおきたい脅威きょういとみなすものであり、したがって、障害しょうがいしゃのことは異端いたんしゃあるいは象徴しょうちょうてきな“他者たしゃ”として位置いちづけられてしまうのである。またマーフィーは、ひととしての価値かち下落げらくのヒエラルキーというものを示唆しさしており、その段階だんかいは、「障害しょうがい程度ていど種類しゅるい」によって、あるいは「標準ひょうじゅんてき人間にんげん様式ようしきからどれだけ距離きょりがあるか」によって位置いちわるのである(Murphy, 1987: 132)。マーフィーはこうした“やっかい”な状況じょうきょうをとらえるのに、“リミナリティ(境界きょうかいせい)”という用語ようごもちいた。そこに含意がんいされているのは「社会しゃかいてきちゅうぶらりん」の状態じょうたいであり、そうした宙吊ちゅうづ状態じょうたいのなかで障害しょうがいしゃは「社会しゃかいそとにあるというのでもないが、完全かんぜん社会しゃかいのなかに包摂ほうせつされているわけでもない」のであり、過去かこ役割やくわりやあるべきぞううしなわれているがそれにかわるあたらしいものはまだまれておらず、その結果けっかとして障害しょうがいしゃは「定義ていぎしがたい曖昧あいまいものたちとして、社会しゃかいからなかばはみしている」のである。
 べつ医療いりょう社会しゃかいがく潮流ちょうりゅうとしては、患者かんじゃ経験けいけん主観性しゅかんせいをより現象げんしょうがくてき強調きょうちょうしようとするうごきがある(G. Williams, 1996)。このうごきは、自己じこさい構成こうせいや、かたりをとおしたアイデンティティの折衝せっしょうさい折衝せっしょう関心かんしんけている(Sacks, 1984; Charmaz, 1987; Mathieson & Stam, 1995)。これらの研究けんきゅう特徴とくちょうは、個人こじん経験けいけんおおきな関心かんしんせていることだ。自己じこ身体しんたいとは通常つうじょう意識いしきにのぼらず、自明じめいのものだとすれば、発病はつびょうしたりインペアメントをもったりすることは、そうした意識いしき全面ぜんめんてきえることになる。これらの研究けんきゅうは、ひとがどのようにして“なに具合ぐあいわるい”とづくようになるのか、そしてなにこっているかを徐々じょじょさっするうちに、いかにして“自分じぶん身体しんたい意識いしきする”ようになるのかについて、かなり詳細しょうさい調査ちょうさしている。とくに、自分じぶん自身じしんがん神経しんけい難病なんびょう心臓しんぞう発作ほっさ見舞みまわれたことがある人々ひとびとみずからの経験けいけんふか探索たんさくしようとした現象げんしょうがくてき分析ぶんせきには、るべきものがある(Murphy, 1987; Frank, 1991)。
 しかしながら、現実げんじつ世界せかいから距離きょりをとるようなこのたねのアプローチこそが、ディスアビリティ理論りろんからのつよ批判ひはんこしてきた。こうしたアプローチは自己じこ耽溺たんできてきで、かつ“悲劇ひげきてき”な障害しょうがいしゃのステレオタイプを補強ほきょうするものとして退しりぞけられた。このディスアビリティ理論りろんによる批判ひはんは、すうおおくの社会しゃかい学者がくしゃ不安ふあんいだかせてしまうものだった。あまりに自明じめいのことであるが、医療いりょう社会しゃかい学者がくしゃとディスアビリティ理論りろんとのあいだ建設けんせつてき対話たいわをするためには、環境かんきょうとインペアメントの関係かんけいをさらにふか探索たんさくすることに焦点しょうてんづける必要ひつようがあるだろう。現在げんざいのところ両者りょうしゃあいだには、アプローチの仕方しかたにおいて明快めいかい相違そういてんがある。

Murphy, R. (1987) The Body Silent, London: Phoenix House. (ロバート・F・マーフィー〔つじ信一しんいちやく〕『ボディ・サイレント――やめいと障害しょうがい人類じんるいがく新宿しんじゅく書房しょぼう、1997ねん
Murphy, R., Scheer, J., Murphy, Y. and Mack, R. (1988) 'Physical Disability and Social Liminality: A Study of the Rituals of Adversity', Social Science and Medicine, 26 (2), 235-42.


江口えぐち重幸しげゆき, 20000730, 「やめいのかたりと人生じんせい変容へんよう――「慢性まんせい分裂ぶんれつびょう」への臨床りんしょう民族みんぞくてきアプローチ」やまだようこへん人生じんせい物語ものがたる――生成せいせいのライフストーリー』ミネルみねるァ書房ぁしょぼう:39-75.
(p56)
 こうした接近せっきんは、みずからの進行しんこうせい脊髄せきずい腫瘍しゅようをひとつの民族みんぞくくようにえがした人類じんるい学者がくしゃマーフィーの名著めいちょ『ボディ・サイレント』(Murphy, 1987)に代表だいひょうされる、ローカルで個別こべつてきな「やめいのさい発見はっけん」ともびうる一連いちれん現象げんしょうむすびついている。これまでなんかい紹介しょうかいしてきた(江口えぐち、1992,1998)が、この時期じき医療いりょう人類じんるいがく定式ていしきした「疾患しっかんカテゴリーから文化ぶんかてきコンテクストヘ」(Littlewood,1990)という言葉ことば表現ひょうげんされる大幅おおはば視点してん変更へんこうと、さきの「説明せつめいモデル」アプローチを前提ぜんていとした、グッドらによる精緻せいちてられた「意味いみ中心ちゅうしんとするアプローチ」(Good & Good, 1981)は、こうした初期しょき医療いりょう人類じんるいがく到達とうたつてんしめ重要じゅうよう里程りていしるべせき(マイルストーン)なのである。


くすのきえい敏惠としえ山崎やまざきいにしえ, 2002, 「慢性まんせいやめいが個人こじんあたえる影響えいきょう――やめいの経験けいけんかんする文献ぶんけんてき検討けんとうから」『保健ほけん医療いりょう社会しゃかいがく論集ろんしゅう』13(1):1-11.
(p4)
 このようにBuryは、個人こじんてきやまいいの経験けいけん共通きょうつうする概念がいねん、つまり慢性まんせいやめいは症状しょうじょうのみならず「個人こじん混乱こんらん」をもこすこと、をみちびいた。同時どうじに、「やめいの意味いみ」はネガティブなものであり、「やめいに適応てきおうするための戦略せんりゃく」にも困難こんなんともなうことがしめされたのである。この「個人こじん混乱こんらん」は、人類じんるい学者がくしゃのMurphyがみずからのやまいいの経験けいけん如実にょじつつづった記述きじゅつなかに覗うことができる。Murphyは、50さいだい脊髄せきずい腫瘍しゅよう診断しんだんされ、車椅子くるまいすでの生活せいかつ余儀よぎなくされるようになり、さらに進行しんこうする四肢しし麻痺まひなどの症状しょうじょう経験けいけんしたのである。
 「家族かぞく友人ゆうじん献身けんしんてきはげましにもかかわらず、わたし一人ひとりぽっちで孤独こどくだった。そしていまわたし以前いぜんわたし劣悪れつあく縮小しゅくしょうしたもの、とかんじられるのだった。これは貧乏びんぼうなかから尊敬そんけいあつめる地位ちいにまでがったわたしのようなものにはことさらおそろしいことだろう。中身なかみのある人間にんげんになりおおせたはずの自分じぶんの、その中身なかみいまれてなくなっていく、というかんじだ。ヨランダとわたしとが長年ながねんかけてきずいてきたものすべてがさぶられていた。わたしたち中年ちゅうねん夫婦ふうふ足元あしもと突然とつぜん震動しんどうはじめた。なぜ、そしてどのようにして、こういうことがこりうるのか、わたしにはこたえようもなかった。」(邦訳ほうやく、p112-113、ヨランダとはMurphyのつま。)
(p5)
 では、ひとは「個人こじん混乱こんらん」にどう対応たいおうするのだろうか。Buryは「混乱こんらんへの反応はんのう」と表現ひょうげんしたが、より継続けいぞくてき動的どうてき個人こじんつくなおいとなみをあらわした研究けんきゅうられている。また、やめいはみずからをまな機会きかいとなるといった見方みかたもあり、ポジティブな「やめいの意味いみ」も見出みいだされているといえる。ここでは、混乱こんらんした個人こじんさい構成こうせい(biographical reconstruction)をみていくが、これは混乱こんらんした個人こじんつくなおす、つまり自己じこ人生じんせいさい解釈かいしゃくするいとなみをすものである。さきのMurphyは、これにかん以下いかのようにしるしている。
 「わたしのからだはひどくそこなわれていたが、しかしわたし生命せいめいがそのぶんってしまったかというとそんなことはない。のこされた機能きのうをフルに使つかってやっていくしかなかった。そのうちわたしはふとづいた。これは結局けっきょくのところ、普遍ふへんてき人間にんげんのありようにすぎないではないか、と。人間にんげんだれだってあたえられた限界げんかいなかで、なにとかかんとかきていくしかないのだ。わたしにはいくらかの身体しんたいてきなハンディキャップがあるが、ぎゃくおおくの長所ちょうしょもある。わたし頭脳ずのう神経しんけい中枢ちゅうすうなか唯一ゆいいつ、いまだよく機能きのうしている場所ばしょであり、そのおかげでわたし生活せいかつかてているのだった。(中略ちゅうりゃく日々ひびわたし存在そんざいそのものが脅威きょういにさらされたおかげで、わたしいちにち一週いっしゅういちがついちねんおくりものとみなすようになった。わたし現在げんざいきるようになった。」(邦訳ほうやく、p88-89)
 (1) 混乱こんらんした個人こじんさい構成こうせい結果けっか かた変化へんかあらたな「やめいの意味いみ
 混乱こんらんした個人こじんさい構成こうせい結果けっか、またはその途中とちゅう段階だんかいにおいて、Murphyの記述きじゅつ示唆しさされているような、ひとかた変化へんかしたととらえられる研究けんきゅう結果けっか報告ほうこくされている。


浮ケ谷うきがや幸代さちよ, 20040720, 『病気びょうきだけど病気びょうきではない――糖尿とうにょうびょうとともにきる生活せいかつ世界せかいまことしん書房しょぼう.
(pp.x-x)
(5しょう 3せつ
 アメリカの人類じんるい学者がくしゃであったロバート・マーフィ(Murphy, Robert)は、いのちがつきるまで、自分じぶん身体しんたい全身ぜんしん麻痺まひしていく様子ようす変身へんしんのプロセスとして凝視ぎょうしつづけた。マーフィによれば、障害しょうがいしゃになるということは、たんうであしうしなうことではなく、周囲しゅうい世界せかいむすびつけている身体しんたい感覚かんかくうしなうことであり、障害しょうがいしゃとしての自分じぶんそそ周囲しゅういひとたちの視線しせん経験けいけんすることなのだという(96)。それは、自己じこ身体しんたいたいする全能ぜんのうかん喪失そうしつするだけではなく、とりわけ社会しゃかい世界せかいとのつながりが喪失そうしつすることでもある。けれども、身体しんたいを、偶発ぐうはつせいれる存在そんざいとして、あるいはパトスてき存在そんざいとしてとらえるとき、身体しんたい相互そうご依存いぞんせい相互そうご伝達でんたつせいびたものとなり、他者たしゃ世界せかいかってひらかれていく。苦悩くのう経験けいけんは、必然ひつぜんてき家族かぞく友人ゆうじん同僚どうりょうどう病者びょうしゃ、そして医療いりょうスタッフなど、病者びょうしゃひとたちとの社会しゃかい関係かんけいのありかたふたたこす。
 マーフィは、自分じぶん身体しんたい周囲しゅういひとたちとの相互そうご関係かんけいのなかから、四肢しし麻痺まひという障害しょうがいのある自分じぶんのからだをだいれていくプロセスについても克明こくめいえがいている。「自分じぶんのからだ」の発見はっけんみちびかれるのは、こうした社会しゃかい関係かんけいあみ自己じこさい配置はいちされることによって可能かのうになる。「自分じぶんのからだ」とうことは、「病気びょうきになる」ことで、いったんはうしなわれたひとひととのつながりを復活ふっかつするための契機けいきとなりうるのである。たとえ医療いりょうてき言説げんせつ規定きていされていたとしても、医療いりょうてき言説げんせつ内面ないめんした「医療いりょうてき身体しんたい」とはことなる「自分じぶんのからだ」の発見はっけんや、外的がいてき世界せかいとのつながりをここにることができる。
(pp.x-x)
(5しょう 4せつ
 自覚じかく症状しょうじょうがないまま「病気びょうきである」と診断しんだんされると、客観きゃっかんてき数値すうちあるいは実証じっしょうてき図像ずぞう写真しゃしんなどによって、わたしたちは「病気びょうきである」と認識にんしきさせられる。すると、「<自分じぶんのからだ>は普通ふつう(健康けんこう)ではないらしい」ということになり、このときから自分じぶん身体しんたいを「医療いりょうてき身体しんたい」としてとらえるようになる。マーフィは、病気びょうき発症はっしょうするまえ自分じぶん身体しんたいを<わたしあし>(my leg)、<わたしうで>(my arm)とんでいたが、四肢しし麻痺まひすすむにつれて<そのあし>(the leg)、<そのうで>(the arm)とぶようになったと告白こくはくしている。かれは、その身体しんたい人称にんしょうのプロセスを「だつ身体しんたい」(disembodiment)(*8)とんでいる(96)。
 わたしたちもまた、自覚じかく症状しょうじょう身体しんたい状態じょうたい違和感いわかんがあれば、医師いし診断しんだん検査けんさ結果けっかによって人称にんしょうした「医療いりょうてき身体しんたい」として「自分じぶんのからだ」を客観きゃっかんせざるをなくなる。自覚じかく症状しょうじょうがないときわたしたちは「」の存在そんざい意識いしきしないが、「がむかむかする」といったとき、「その」という意味いみで「」の存在そんざいづく。このときの経験けいけんは、たとえ自分じぶん手足てあしおもうようにうごかないという経験けいけんではなくても、マーフィのいう「だつ身体しんたい」の経験けいけんかさなりう。
(pp.x-x)
 (*8)マーフィは、だつ身体しんたいのプロセスだけでなく自分じぶん身体しんたい周囲しゅういひとびととの相互そうご関係かんけいのなかから、四肢しし麻痺まひという障害しょうがいのある「自分じぶんのからだ」を次第しだいれていくという「さい身体しんたい」(re-embodiment)のプロセスについても言及げんきゅうしている(マーフィ、いちきゅうきゅういちさん〇-いちさんぺーじ)。

(96)マーフィ・R・F『ボディ・サイレント――やめいと障害しょうがい人類じんるいがくつじ信一しんいちやく新宿しんじゅく書房しょぼういちきゅうきゅうねんいちさん〇-いちさんさんぺーじ。(Murphy,R., The Body Silent. Henry Holt and Company, Inc., 1987.)


三井みついさよ, 20040825, 《ケアの社会しゃかいがく――臨床りんしょう現場げんばとの対話たいわ》勁草書房しょぼう.
(pp27-28)
 このように、患者かんじゃの「せい」はそのひと固有こゆうのものである。疾患しっかん進行しんこうじょうきょうによって、そのひと生活せいかつによって、あるいは生活せいかつ自己じこへの意味いみづけの仕方しかたによってそれぞれことなる。さらに、どう一人物いちじんぶつであっても時間じかんてき経過けいかにともなって様々さまざま変化へんかしうる。ある程度ていど共通きょうつうせい類似るいじせい見出みいだすことはもちろん可能かのうだが、いかに共通きょうつうせい見出みいだされ類似るいじするてんがあるにしても、やはりそのひと固有こゆうの「せい」であり、まった同一どういつのものはありない。
 そして、疾患しっかんもまた、ときに「せい」の固有こゆうせい際立きわだたせるものである。ストラウスらをはじめとした慢性まんせい疾患しっかん患者かんじゃ経験けいけんかんする研究けんきゅうあきらかにしてきたのは、じゅうあつし疾患しっかん生活せいかつ影響えいきょうあたえる疾患しっかんが、患者かんじゃにとって、みずからの生活せいかつ自己じこぞうおおきくえられるような経験けいけんとなるということであった(Corbin & Strauss [1987])。疾患しっかん障害しょうがいかかえることは、しばしば患者かんじゃ自分じぶんかえ契機けいきあたえる。たとえばR・F・マーフィーは、腫瘍しゅようによって車椅子くるまいす生活せいかつ余儀よぎなくされるようになってから、「わたしはたしかに自己じこ一部いちぶをなくしていたのだった」「わたしわたし自身じしんたいしてまえとちがうかんかたをするようになった」「自分じぶん自身じしんしんうちわたしわった。自分じぶん自身じしんたいするイメージがわった。わたしという存在そんざい根本こんぽん条件じょうけんわった」(Murphy [1987=1997:112])とべている。


立岩たていわしん也, 20041115, 『ALS――不動ふどう身体しんたいいきする機械きかい医学書院いがくしょいん,449p. ISBN:4260333771 2940
(p60)
 病気びょうき場合ばあいには、闘病とうびょうすること、病気びょうきたたかうことはよしとして、それ以外いがい社会しゃかいてき責務せきむ免除めんじょされることがあることがわれる。米国べいこく人類じんるい学者がくしゃが、良性りょうせい骨髄こつづい腫瘍しゅよう全身ぜんしん麻痺まひしていくみずからとその周囲しゅうい世界せかいとをフィールドにしていた著名ちょめいほんにはつぎのように紹介しょうかいされている。
【113】 パーソンズの《論文ろんぶんかなしいことにしちめんどうくさい学術がくじゅつ用語ようごかれているのだが、しかしなにとか翻訳ほんやくしてみればなにのことはない、病気びょうきになったことがあるものならだれでもっていることをいっているにすぎない。つまりこうだ。通常つうじょう社会しゃかいてき役割やくわり――母親ははおや父親ちちおや弁護士べんごし、パン学生がくせい等々とうとう――は、そのひと病気びょうきになったとたんに効力こうりょく一時いちじ停止ていしする。そのひとは“病人びょうにん”という規定きていけ、病気びょうき軽重けいちょうにより通常つうじょう義務ぎむ一部いちぶ、あるいは全部ぜんぶから解放かいほうされる。/通常つうじょう義務ぎむ一時いちじ停止ていしとはいっても、病人びょうにんという役割やくわりえんじるもの義務ぎむまったくなくなってしまうということはない。いやむしろひとつのおおきいやつを背負しょまされる。つまり、回復かいふくけて努力どりょくしまないという義務ぎむだ。》(Murphy[198=1992:31-32])
 それでらくができるときもあるのだが、それはそのひと社会しゃかいてき行為こういしゃとしてはみとめられにくいということでもある。病人びょうにんだまっているものだとされてしまうと、なにいたいことがあるときにはこまる。もちろん、病人びょうにんだからといってこの役割やくわりを担なければならないということはないのだから、病人びょうにんのままでこの役割やくわり拒絶きょぜつすればよいのではある。ただ、病気びょうき治療ちりょうにだけ関心かんしんけられると、それ以外いがい部分ぶぶんけられてよいちからがれるということはある。


田中たなかみわ, 20050825, 「障害しょうがい身体しんたいの「かたり」」『障害しょうがいがく研究けんきゅう』1:111-135.
(pp.x-x)
 (*8)からだが麻痺まひしていることによって、ひとたちと共通きょうつう表情ひょうじょう身振みぶりがもちいられないことを、ロバート・マーフィーは「四肢しし麻痺まひしゃ身体しんたいは、ことばであらわしにくい感情かんじょうもしくは概念がいねん表現ひょうげんしたりする『沈黙ちんもく言語げんご』をもはや使つかうことができない。なぜなら、思考しこうとからだの運動うんどうのあいだにある微妙びみょう連絡れんらくたまきたれてしまっている。近接きんせつせい身振みぶり、身体しんたいてきかまえはだまらせられ、思考しこうむすびつける身体しんたい能力のうりょく静止せいしされている」(Murphy, 1987, p.101=1992, pp.134-5)とべている。なお邦訳ほうやく変更へんこうした。


立岩たていわしん也, 2006, 「他者たしゃおも自然しぜんわたし一存いちぞんさん」『思想しそう』2006-2:
(pp.x-x)
 もうひとつ、あなたのかなしむひとがいる、せいのぞんでいるといういいかたがある。あなたがんだらひとかなしむから、おかあさんがくから、んではならないとう。だから一人ひとりめてならない、勝手かってんではならないとう。実際じっさいそのようにわれてきることにしたひとはたくさんいる。これが場面ばめんおおくあることはみとめよう。そしてそれは「自我じが確立かくりつ」が十分じゅうぶんでないこのくにひとだけにこることではない。たとえば、マーフィーのほん(Murphy[1987=いちきゅうきゅう])にもそんな記述きじゅつがある。その人類じんるい学者がくしゃ良性りょうせい骨髄こつづい腫瘍しゅようによって全身ぜんしん次第しだいうごかなくなっていき、のうとおもったのだが、つまめられておもいとどまったのだった。
 しかしだいいちに、ひとかなしむことをしてはならないとはつねにはえないだろう。立岩たていわ〇〇〇b]では、おやかなしむ相手あいて結婚けっこんしてはならないとはえないだろうと、そのことをべた。だいに、かなしんでくれるじんがいないひとがいるだろう。たとえばだれともうまくいかないでいままできたひとがいる。むろん、それでもだれかはいる、とはきっとえるのだろう。しかし、すくなくとも、本人ほんにん説得せっとくされるだれかをれてくることができないことはあるだろう。


細田ほそだみつる和子かずこ, 20061108, 『脳卒中のうそっちゅうきる意味いみ――やめいと障害しょうがい社会しゃかいがく青海あおみしゃ.
(pp.x-x)
序章じょしょう 「「絶望ぜつぼう」のなかからふたたび〈きる〉」)
 自身じしん四肢しし麻痺まひ人類じんるい学者がくしゃR. マーフィーは,「社会しゃかいにおける個人こじんのありかたもっと崇高すうこうかたちが, きずついたなまによる果敢かかんたたかいのなか凝縮ぎょうしゅくされている」といった[Murphy1987=1997]。脳卒中のうそっちゅうになった人々ひとびとが,いたみやくるしみにさらされた「絶望ぜつぼう」のただちゅうで,たたかいというるような体験たいけんかさね,それに反省はんせいくわえてあたらしい経験けいけんとしていくという過程かていに,にん社会しゃかいなかで〈きる〉ための根源こんげんてき条件じょうけん見出みいだすことができるだろう。
(pp.x-x)
 (*6)(りゃく脳卒中のうそっちゅうたいするマイナスのイメージは,欧米おうべいにも共通きょうつうしている。神経しんけいO. サックスは,自身じしん麻痺まひ体験たいけんえがいた書物しょもつなかで,脳卒中のうそっちゅうというやめいはおよそあらゆるやめいのなかで「最悪さいあくのもの」といている。サックスは左足ひだりあし麻痺まひ脳卒中のうそっちゅうによるものであるとしんみ,「こおりつくような絶望ぜつぼう」をかんじ,自殺じさつかんがえたという。そして,「ふと,ある光景こうけいかんできた。ひどく詳細しょうさいだが屈辱くつじょくてき情景じょうけいだ。おも卒中そっちゅうにおそわれたあとのみじめな半生はんせい」[Sacks 1994=1984:94]をおもったという。そして自分じぶん脳卒中のうそっちゅうでないとかり,「しんそこからわらいがこみあげ」,まったくなくなっていた食欲しょくよくもどし,看護かんご食事しょくじってくるようにたのんだという。また,文化ぶんか人類じんるい学者がくしゃのR. マーフィーは,腫瘍しゅよう次第しだい脊椎せきついかこんで神経しんけい麻痺まひさせ,四肢ししうごかなくなる病気びょうきかかっていたが,入院にゅういんちゅう見聞けんぶんから,自分じぶんふくめた患者かんじゃなか脳卒中のうそっちゅう患者かんじゃもっとそもそもうつてき存在そんざいいている。そして,「病院びょういんかれらを見出みいだすのはむずかしいことではない。というのは,かれらは無表情むひょうじょうしずみきって,ただぼんやりと虚空こくうをみつめているから」[Murphy 1987=1997:73]という。これらから,脳卒中のうそっちゅうがあらゆる病気びょうきなか最悪さいあく病気びょうき位置いちづけられていることがかる。アメリカでは1980年代ねんだい後期こうきから,麻痺まひ(paralysis)という言葉ことば差別さべつとして,使つかうことを反対はんたいされている[Murphy 1987:14]。しかしこうした記述きじゅつが,脳卒中のうそっちゅうたいする過剰かじょう否定ひていてきなイメージを喚起かんきするてんに,十分じゅうぶん慎重しんちょうになる必要ひつようがあろう。
(pp.x-x)
(1しょう 「2-A 病人びょうにん役割やくわりとその限界げんかい」)
 りにそくしてかんがえてみれば,中年ちゅうねん脳卒中のうそっちゅうになった人々ひとびとは,健康けんこう効率こうりつよくはたらけるこの社会しゃかいにおける多数たすうしゃとして,規範きはん遵守じゅんしゅするかのように選択せんたくしてきた人々ひとびとであった。かれらは,脳卒中のうそっちゅうになったとき,それまでにたくわえてきた経験けいけん参照さんしょうし,生命せいめい危機ききからだっしたのちは,もとのようにはなせるようになりたい,げんのようにうごけるようになりたいとおもい,そのために一生懸命いっしょうけんめいにリハビリ訓練くんれんをする。
 これはかれらにとって, それまでの経験けいけん参照さんしょうにした当然とうぜん行為こういであり,パーソンズが病人びょうにん役割やくわりしめした姿すがたかさなる。病気びょうきになったのち回復かいふく目指めざして病人びょうにん役割やくわりてっすることは,きわめて常識じょうしきてきたりまえのことなのである[Murphy 1987=1997:31-32]。かれらは,まずは危機ききおちいったかく位相いそう元通もとどおりにもどして,バラバラになった〈せい〉をふたた統合とうごうしようとするのである。この意味いみで,病人びょうにん役割やくわり内部ないぶしゃ視座しざから正当せいとうされうる部分ぶぶんもある。


秋風あきかぜ千恵ちえ, 20080228, 「軽度けいど障害しょうがいしゃ意味いみ世界せかい」『ソシオロジ』52(3):53-69.
(p55)
 健常けんじょうしゃ身体しんたい最善さいぜんのものととらえ、身体しんたい障害しょうがい程度ていどによって序列じょれつする、いわば障害しょうがいのヒエラルキーともうべきものがあるとロバート・F・マーフィーはう。
 「おな身障者しんしょうしゃなかでも、あるしゅ障害しょうがいをもつものものよりいやがられるということもある。障害しょうがい重度じゅうど種類しゅるいによって評価ひょうかまる一種いっしゅ階層かいそうせい原文げんぶんではhierarchy―引用いんようしゃ註)である。その一番いちばん下層かそうぞくするのがあきらかに変形へんけいしたからだをもつものだ。車椅子くるまいすちゅうあいだそうというところか。評価ひょうか基準きじゅんは、どれだけ標準ひょうじゅんてき人間にんげんのかたちからはなれているか、ということだろう。」(Murphy、1987=1997:176-177)
 以後いご本稿ほんこうではマーフィーのう「一種いっしゅ階層かいそうせい」を「障害しょうがいのヒエラルキー」と記述きじゅつする。これを採用さいようすれば、軽度けいど障害しょうがいしゃはヒエラルキーの上層じょうそうにあるということになる。そして、実際じっさいにそのようにとらえられ、たいしたことはないという評価ひょうかけて、かるくあしらわれるようである。
(p57)
 障害しょうがいのヒエラルキーは、脈々みゃくみゃくとして歴史れきしてき構築こうちくされてきたとえよう。近代きんだい産業さんぎょう社会しゃかい人間にんげん身体しんたいを「規律きりつ訓練くんれん」(Foucault、1975=1977)によって標準ひょうじゅんし、社会しゃかい適合てきごうできる「正常せいじょう」な人間にんげん標準ひょうじゅんされた身体しんたいだけをれるとしてきた。そして、障害しょうがいしゃ労働ろうどうてきさない身体しんたいとして国家こっかによって隔離かくりされ、医療いりょう保護ほご対象たいしょうとみなされてきた 。隔離かくり保護ほごが、障害しょうがいおもそうな身体しんたいから対象たいしょうになっていったであろうことは想像そうぞうかたくない。障害しょうがいのヒエラルキーが障害しょうがいを“個人こじんてき悲劇ひげき”の具現ぐげんととらえており、「個人こじんモデル」につらなることはうたがいのないところであろう。
 「正常せいじょう」な身体しんたい標準ひょうじゅんからはなれればはなれるほど排除はいじょかうとマーフィーはう。だが、ここには疑問ぎもんのこる。近代きんだい産業さんぎょう初期しょきならばそうであったかもしれない。しかし、わたしたちらす社会しゃかいはそう単純たんじゅんではない。この社会しゃかい障害しょうがいしゃ排除はいじょするが、それをあからさまにしない分別ふんべつもわきまえている。
 重度じゅうど可視かしてき障害しょうがいしゃ一方いっぽう忌避きひされながら、一方いっぽう理解りかいしめされる。障害しょうがいおもさときづらさは比例ひれいするという社会しゃかい通念つうねんは、より重度じゅうどものにより理解りかいしめせとげる。
(pp58-59)
 マーフィーは障害しょうがいしゃ境界きょうかい状態じょうたい(リミナリティ)のいち形態けいたいだとする(Murphy、1987=1997:174)。リミナリティは、通過つうか儀礼ぎれい概念がいねんふくまれる言葉ことばである。「リミナルとはもともと敷居しきいという意味いみで、正式せいしき社会しゃかいシステムのなかれないでいる『ちゅうぶらりん』の状態じょうたい」(前掲ぜんけい:174-175)である。マーフィーは、アメリカにおける身体しんたい障害しょうがいしゃをリミナリティのいち形態けいたいとしてとらえ、身障者しんしょうしゃはアメリカ文化ぶんかなかにあって“どっちつかず”という曖昧あいまい位置いちをしめているとう。「病気びょうきというのでもなく、健康けんこうというのでもない中途半端ちゅうとはんぱなありかたをしている。んでいるわけではないが、かといってじゅうふんきているというのでもない」(前掲ぜんけい:175)とうのである。
 しかし、マーフィーの分析ぶんせきは、「身障者しんしょうしゃ一般いっぱん」が社会しゃかいシステムすなわち健常けんじょうしゃ社会しゃかいのシステムにれないで曖昧あいまい位置いちにいるというにとどまっている。この分析ぶんせきでは、健常けんじょうしゃ社会しゃかいがいである障害しょうがいしゃ社会しゃかいにはれられているともかんがえられる。だが、軽度けいど障害しょうがいしゃかんがえた場合ばあいはどうだろうか。かれ彼女かのじょらは健常けんじょうしゃ社会しゃかいにも、障害しょうがいしゃ社会しゃかいにも帰属きぞくできなくて周縁しゅうえんされているといえるだろう。


立岩たていわ しん也 2008 『…』,筑摩書房ちくましょぼう 文献ぶんけんひょう


作成さくせい: 追加ついか植村うえむら かなめ
UP: 20080424 REV:20080511, 20100602
BOOK身体しんたい×世界せかい関連かんれん書籍しょせき
TOP HOME (http://www.arsvi.com)