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Murphy, Robert F.『ボディ・サイレント――病いと障害の人類学』
『ボディ・サイレント――病 やめ いと障害 しょうがい の人類 じんるい 学 がく 』
Murphy, Robert F. 1987 The Body Silent , Henry Holt and Company
=19920630 辻 つじ 信一 しんいち 訳 やく ,新宿 しんじゅく 書房 しょぼう ,312p.
→20060209 平凡社 へいぼんしゃ ,平凡社 へいぼんしゃ 文庫 ぶんこ ,440p.
■Murphy, Robert F. 1987 The Body Silent , Henry Holt and Company=19920630 辻 つじ 信一 しんいち 訳 やく ,『ボディ・サイレント――病 やめ いと障害 しょうがい の人類 じんるい 学 がく 』,新宿 しんじゅく 書房 しょぼう ,312p. ISBN-10: 4880081671 ISBN-13: 978-4880081670 2600 [amazon] /[kinokuniya] ※ ma.→199706 新宿 しんじゅく 書房 しょぼう ,312p. ISBN-10: 4880082430 ISBN-13: 978-4880082431 [amazon] /[kinokuniya] →20060209 平凡社 へいぼんしゃ ,平凡社 へいぼんしゃ 文庫 ぶんこ ,440p. ISBN-10: 4582765661 ISBN-13: 978-4582765663 [amazon] /[kinokuniya] ※ ma.
◆1992年版 ねんばん 訳書 やくしょ ([amazon])
■内容 ないよう (「BOOK」データベースより)
全身 ぜんしん が麻痺 まひ し始 はじ めた自 みずか らの身体 しんたい とこれをとりまく社会 しゃかい (関係 かんけい )をフィールド・ワークした、人類 じんるい 学者 がくしゃ による最初 さいしょ の本格 ほんかく 的 てき な身体 しんたい 障害 しょうがい のドキュメント。
Book Description
Winner of the Columbia University Lionel Trilling Award. Robert Murphy was in the prime of his career as an anthropologist when he felt the first symptom of a malady that would ultimately take him on an odyssey stranger than any field trip to the Amazon: a tumor of the spinal cord that progressed slowly and irreversibly into quadriplegia. In this gripping account, Murphy explores society's fears, myths, and misunderstandings about disability, and the damage they inflict. He reports how paralysis?like all disabilities?assaults people's identity, social standing, and ties with others, while at the same time making the love of life burn even more fiercely.
About the Author
Robert F. Murphy (1924-1990) was professor of anthropology at Columbia University and the author of many articles and books.
◆1997年版 ねんばん 訳書 やくしょ ([amazon])
■内容 ないよう 説明 せつめい
米国 べいこく の文化 ぶんか 人類 じんるい 学者 がくしゃ が全身 ぜんしん が麻痺 まひ しはじめた自 みずか らの身体 しんたい と社会 しゃかい との緊張 きんちょう した関係 かんけい を死 し の直前 ちょくぜん までフィールドワークした記録 きろく 。人類 じんるい 学者 がくしゃ による本格 ほんかく 的 てき な身体 しんたい 障害 しょうがい の社会 しゃかい 論 ろん であり醜 みにく 老 ろう 病死 びょうし を排除 はいじょ する現代 げんだい 社会 しゃかい への抗議 こうぎ の文化 ぶんか 論 ろん でもある。
■著者 ちょしゃ 紹介 しょうかい
〈マーフィー〉アメリカの人類 じんるい 学者 がくしゃ 。コロンビア大学 ころんびあだいがく で博士 はかせ 号 ごう を取得 しゅとく 。同 どう 大学 だいがく 人類 じんるい 学部 がくぶ の学部 がくぶ 長 ちょう を務 つと める。著書 ちょしょ に「社会 しゃかい 生活 せいかつ の弁証法 べんしょうほう 」「文化 ぶんか 及 およ び社会 しゃかい 人類 じんるい 学 がく −序曲 じょきょく 」など。1990年 ねん 没 ぼつ 。
◆文庫 ぶんこ 版 ばん ([amazon])
■内容 ないよう (「BOOK」データベースより)
脊椎 せきつい に出来 でき た「良性 りょうせい 」の腫瘍 しゅよう によって神経 しんけい 系 けい が徐々 じょじょ に破壊 はかい されるという死 し に至 いた る病 やまい に冒 おか された人類 じんるい 学者 がくしゃ が自分 じぶん 自身 じしん や家族 かぞく 、周囲 しゅうい の社会 しゃかい をフィールドワークした感動 かんどう のドキュメント。オリバー・サックスやレヴィ=ストロースも激賞 げきしょう 。
■内容 ないよう (「MARC」データベースより)
脊椎 せきつい にできた「良性 りょうせい 」の腫瘍 しゅよう によって神経 しんけい 系 けい が徐々 じょじょ に破壊 はかい されるという死 し に至 いた る病 やまい に冒 おか された人類 じんるい 学者 がくしゃ が、自分 じぶん 自身 じしん や家族 かぞく 、周囲 しゅうい の社会 しゃかい をフィールドワークした人類 じんるい 学 がく 的 てき ドキュメンタリー。
■著者 ちょしゃ 略歴 りゃくれき (「BOOK著者 ちょしゃ 紹介 しょうかい 情報 じょうほう 」より)
マーフィー,ロバート・F.
1924~1990。1954年 ねん にコロンビア大学 ころんびあだいがく でPh.D.を取得 しゅとく 。イリノイ大学 だいがく やカリフォルニア大学 だいがく バークレー校 こう などを経 へ て、63年 ねん コロンビア大学 ころんびあだいがく の人類 じんるい 学部 がくぶ 教授 きょうじゅ 。69年 ねん から72年 ねん まで同 どう 学部 がくぶ 学 がく 部長 ぶちょう
辻 つじ 信一 しんいち
文化 ぶんか 人類 じんるい 学者 がくしゃ 、環境 かんきょう 運動 うんどう 家 か 。1952年 ねん 生 う まれ。明治学院大学 めいじがくいんだいがく 国際 こくさい 学部 がくぶ 教員 きょういん 。「スロー」というコンセプトを軸 じく に環境 かんきょう =文化 ぶんか 運動 うんどう を進 すす める。1999年 ねん 、NGO「ナマケモノ倶楽部 くらぶ 」を設立 せつりつ 、世話人 せわにん を務 つと める。「スロー」「カフェスロー」「スローウォーター・カフェ」「ゆっくり堂 どう 」などの会社 かいしゃ 設立 せつりつ に参加 さんか 、環境 かんきょう 共生 きょうせい 型 がた ビジネスに取 と り組 く むほか、数々 かずかず のNPO、NGOにも参加 さんか している(本 ほん データはこの書籍 しょせき が刊行 かんこう された当時 とうじ に掲載 けいさい されていたものです)
■目次 もくじ
プロローグ 夜 よる の音 おと
第 だい 1部 ぶ 出発 しゅっぱつ
徴候 ちょうこう 、そして症候 しょうこう
エントロピーへの道 みち
帰還 きかん
第 だい 2部 ぶ からだ、自己 じこ 、そして社会 しゃかい
損 そこ なわれた自己 じこ
出会 であ い
自立 じりつ への闘 たたか い
第 だい 3部 ぶ 生 い きるということ
深 ふか まる沈黙 ちんもく
愛 あい と依存 いぞん
生 なま という不治 ふじ の病 やまい い
■引用 いんよう
◆川口 かわぐち による引用 いんよう
http://homepage2.nifty.com/ajikun/memo/r_murphy.htm
「二 に 十 じゅう 世紀 せいき 中葉 ちゅうよう の社会 しゃかい 学 がく の指導 しどう 者 しゃ として君臨 くんりん したタルコット・パーソンズは、病気 びょうき の社会 しゃかい 的 てき 役割 やくわり についていくつかレポートを書 か いたことがある[…]。論文 ろんぶん は悲 かな しいことにしちめんどうくさい学術 がくじゅつ 用語 ようご で書 か かれているのだが、しかし何 なに とか翻訳 ほんやく してみれば何 なに のことはない、病気 びょうき になったことがある者 もの なら誰 だれ でも知 し っていることをいっているにすぎない。つまりこうだ。通常 つうじょう の社会 しゃかい 的 てき 役割 やくわり ――母親 ははおや 、父親 ちちおや 、弁護士 べんごし 、パン屋 や 、学生 がくせい 等々 とうとう ――は、その人 ひと が病気 びょうき になったとたんに効力 こうりょく を一時 いちじ 停止 ていし する。その人 ひと は”病人 びょうにん ”という規定 きてい を受 う け、病気 びょうき の軽重 けいちょう により通常 つうじょう の義務 ぎむ の一部 いちぶ 、あるいは全部 ぜんぶ から解放 かいほう される。(31)
通常 つうじょう の義務 ぎむ の一時 いちじ 停止 ていし とはいっても、病人 びょうにん という役割 やくわり を演 えん じる者 もの に義務 ぎむ が全 まった くなくなってしまうということはない。いやむしろひとつの大 おお きいやつを背負 しょ い込 こ まされる。つまり、回復 かいふく に向 む けて努力 どりょく を惜 お しまないという義務 ぎむ だ。」(Murphy[198=1992:31-32])
■書評 しょひょう ・紹介 しょうかい ・解説 かいせつ
◆寺山 てらやま 久美子 くみこ 19921220 「(本 ほん /新刊 しんかん 紹介 しょうかい )ロバート・F・マーフィー著 ちょ 辻 つじ 信一 しんいち 訳 やく 『ボディ・サイレント――病 やまい と障害 しょうがい の人類 じんるい 学 がく 』」,『われら人間 にんげん 』063:32-33
◆立岩 たていわ 真 しん 也 19920831 「書評 しょひょう :ロバート・F・マーフィ『ボディ・サイレント――病 やめ い・と障害 しょうがい の人類 じんるい 学 がく 』」 ,『週刊 しゅうかん 読書 どくしょ 人 じん 』1948:04
◆川口 かわぐち 有美子 ゆみこ 200508 「ロバート・F・マーフィーの『ボディ・サイレント』における「麻痺 まひ 」について」
http://homepage2.nifty.com/ajikun/memo/r_murphy2.htm
◆立岩 たていわ 真 しん 也 20060206 「『ボディ・サイレント』文庫 ぶんこ 版 ばん (平凡社 へいぼんしゃ 刊 かん )解説 かいせつ 」 ,Murphy[1987=1992→2006:]
■言及 げんきゅう
◆Oliver, Michael 1990 The Politics of Disablement, Macmillan,(=20060605, 三島 みしま 亜紀子 あきこ ・山岸 やまぎし 倫子 ともこ ・山森 やまもり 亮 あきら ・横須賀 よこすか 俊司 しゅんじ 訳 やく 『障害 しょうがい の政治 せいじ ――イギリス障害 しょうがい 学 がく の原点 げんてん 』明石書店 あかししょてん ).
(pp.x-x)
(2章 しょう 「障害 しょうがい の文化 ぶんか 的 てき 考察 こうさつ 」)
身体 しんたい 障害 しょうがい を真剣 しんけん に一 ひと つの分析 ぶんせき 的 てき カテゴリーとする人類 じんるい 学者 がくしゃ はほとんど存在 そんざい しなかったが、すぐれた人類 じんるい 学者 がくしゃ であるコロンビア大学 ころんびあだいがく のマーフィー教授 きょうじゅ は、自 みずか らの障害 しょうがい 者 しゃ としての経験 けいけん を人類 じんるい 学 がく 的 てき 枠組 わくぐ みに位置 いち づける試 こころ みをした(Murphy, 1987)。彼 かれ の著書 ちょしょ は障害 しょうがい の人類 じんるい 学 がく ではなく、障害 しょうがい の世界 せかい を旅 たび する個人 こじん 的 てき な考察 こうさつ である。それは、一 いち 九 きゅう 世紀 せいき の人類 じんるい 学者 がくしゃ の個人 こじん 的 てき な考察 こうさつ や、遠 とお く離 はな れた異国 いこく への旅 たび や、そこで出会 であ った風変 ふうが わりでエキゾチックな人々 ひとびと との出会 であ いに似 に ていなくはない。彼 かれ は、障害 しょうがい には社会 しゃかい 的 てき な抑圧 よくあつ が課 か せられていることを認 みと めているが、社会 しゃかい 的 てき 抑圧 よくあつ によってディスアビリティが形成 けいせい されていることを指摘 してき しなかった。障害 しょうがい 者 しゃ が周縁 しゅうえん に追 お いやられていることに関 かん する彼 かれ の解釈 かいしゃく の弱点 じゃくてん については、本章 ほんしょう の後半 こうはん で述 の べる。
(pp.x-x)
(2章 しょう 「障害 しょうがい の絶対 ぜったい 的 てき 理論 りろん 」)
第 だい 二 に の基盤 きばん は、ターナーの研究 けんきゅう (Turner, 1967)にもとづいており、「境界 きょうかい 性 せい (liminality)」という概念 がいねん を発展 はってん させたものである。これは最近 さいきん 、あらゆる社会 しゃかい における障害 しょうがい 者 しゃ の社会 しゃかい 的 てき 地位 ちい を解釈 かいしゃく するのに用 もち いられてきた。
「長期 ちょうき にわたる身体 しんたい 的 てき インペアメントは、病気 びょうき でも健康 けんこう でもなく、死 し んでいるのでも完全 かんぜん に生 い きているのでもなく、社会 しゃかい から排除 はいじょ されているのでも統合 とうごう されているのでもない。彼 かれ らは人間 にんげん だが、身体 しんたい に支障 ししょう があるか、機能 きのう 不全 ふぜん があり、完全 かんぜん な人間 にんげん とされているかは疑問 ぎもん である。彼 かれ らは病気 びょうき ではない。というのは、病気 びょうき は死 し ぬか回復 かいふく するかのどちらかに移行 いこう するからである。病人 びょうにん は病気 びょうき が回復 かいふく するまで社会 しゃかい 的 てき 地位 ちい は中断 ちゅうだん された状態 じょうたい のままである。障害 しょうがい 者 しゃ も同様 どうよう に中断 ちゅうだん された状態 じょうたい のままで人生 じんせい を費 つい やすことになる。そこで障害 しょうがい 者 しゃ は得体 えたい の知 し れない、あいまいな存在 そんざい として社会 しゃかい から中途半端 ちゅうとはんぱ に孤立 こりつ することとなる(Murphy, 1987, p. 112)。」
この解釈 かいしゃく には二 ふた つの問題 もんだい がある。第 だい 一 いち に、すでに指摘 してき したように、障害 しょうがい 者 しゃ 個人 こじん または集団 しゅうだん は、すべての社会 しゃかい で周縁 しゅうえん 部 ぶ に位置 いち づけられているわけではない。第 だい 二 に に、障害 しょうがい 者 しゃ の社会 しゃかい 的 てき 地位 ちい に関 かん する解釈 かいしゃく は、人間 にんげん の思想 しそう の二元論 にげんろん 的 てき な思考 しこう (Levi-Strauss, 1977)や、記号 きごう 論 ろん 的 てき 秩序 ちつじょ の研究 けんきゅう (Douglas, 1966)に還元 かんげん されてしまう。この還元 かんげん 主義 しゅぎ は以下 いか にもとづいている。
「特殊 とくしゅ な記述 きじゅつ 的 てき 人類 じんるい 学 がく では……、最終 さいしゅう 的 てき な分析 ぶんせき において、社会 しゃかい は社会 しゃかい 、経済 けいざい 的 てき 連関 れんかん の具現 ぐげん 化 か ではなく、思考 しこう 体系 たいけい が具現 ぐげん 化 か されたものと見 み なされる(Abberley, 1988, p. 306)。」
さらに、
「障害 しょうがい 者 しゃ に不利益 ふりえき をもたらす、現実 げんじつ の身体 しんたい 的 てき 、社会 しゃかい 的 てき 差異 さい から注意 ちゅうい をそらす一方 いっぽう で、形而上学 けいじじょうがく 的 てき 「他者 たしゃ 」の観念 かんねん をそのまま永続 えいぞく させる(Abberley, 1988, p. 306)。」
また、次 つぎ のような馬鹿 ばか げた見方 みかた も導 みちび く。
「しかしながら、身体 しんたい 的 てき なハンディキャップがある人々 ひとびと を組織 そしき 的 てき に排除 はいじょ し卑 いや しめる決定的 けっていてき な経済 けいざい 的 てき 理由 りゆう はない(Murphy, 1987, p. 110)。」
実際 じっさい には、障害 しょうがい 者 しゃ を排除 はいじょ する決定的 けっていてき な経済 けいざい 的 てき 理由 りゆう は存在 そんざい している。資本 しほん 主義 しゅぎ において社会 しゃかい 的 てき 、経済 けいざい 的 てき 連関 れんかん が具現 ぐげん 化 か されることで、資本 しほん 主義 しゅぎ 社会 しゃかい における障害 しょうがい 者 しゃ の直接的 ちょくせつてき な排除 はいじょ が導 みちび かれる。この点 てん に関 かん しては後述 こうじゅつ したい。
(pp.x-x)
(5章 しょう 「女性 じょせい とディスアビリティ」)
障害 しょうがい 者 しゃ 女性 じょせい は男性 だんせい 役割 やくわり に入 はい り込 こ むのが難 むずか しいことに気 き づいているが、同時 どうじ に伝統 でんとう 的 てき な女性 じょせい 役割 やくわり に接近 せっきん することをしばしば拒否 きょひ している。というのは、障害 しょうがい 者 しゃ 女性 じょせい は無性 むしょう の存在 そんざい であり、母性 ぼせい には不向 ふむ きで、あるいは母性 ぼせい を全 まっと うできないと思 おも われているからである。この「二 に 重 じゅう の障害 しょうがい 」こそが障害 しょうがい 者 しゃ 女性 じょせい の経験 けいけん を構成 こうせい し、ディスアビリティによる抑圧 よくあつ をとくに増大 ぞうだい させるのである。
(略 りゃく )
理論 りろん 的 てき (そして、政治 せいじ 的 てき )観点 かんてん からすると、こういうことは確 たし かにあり得 え ることであるが、障害 しょうがい 者 しゃ 女性 じょせい と障害 しょうがい 者 しゃ 男性 だんせい の経験 けいけん を直接 ちょくせつ 比較 ひかく するための客観 きゃっかん 的 てき 、あるいは主観 しゅかん 的 てき 種類 しゅるい の経験 けいけん 的 てき データが十分 じゅうぶん にはない。これにより、男性 だんせい の視点 してん (Murphy, 1987)からではあるが、障害 しょうがい 者 しゃ 女性 じょせい の経験 けいけん は障害 しょうがい 者 しゃ 男性 だんせい の経験 けいけん よりも抑圧 よくあつ 的 てき なものではないかもしれないという議論 ぎろん もなされている。こうした議論 ぎろん を承知 しょうち しているわけでも、それに同意 どうい しているわけでもないが、障害 しょうがい 者 しゃ 女性 じょせい の主張 しゅちょう のなかにもこの議論 ぎろん を結果 けっか 的 てき に支持 しじ するようなものも見受 みう けられる。
(略 りゃく )
換言 かんげん すると、障害 しょうがい 者 しゃ が受動 じゅどう 的 てき であると想定 そうてい されていることと、女性 じょせい が受動 じゅどう 的 てき であると想定 そうてい されていることの間 あいだ に強 つよ い関連 かんれん があるということだ。障害 しょうがい 者 しゃ に付随 ふずい したこの受動 じゅどう 性 せい は本来 ほんらい 的 てき なものではなく、アバーレイ(Abberley, 1987)の用語 ようご によれば、「まったくイデオロギー的 てき な」ものにすぎないと認識 にんしき されるべきである。たとえば、障害 しょうがい 者 しゃ 男性 だんせい と障害 しょうがい 者 しゃ 女性 じょせい との違 ちが いについていうならば、その差異 さい がたとえ「実在 じつざい 的 てき 」あるいは本来 ほんらい 的 てき なものであるかのように見 み えたとしても、それは必 かなら ずしも事実 じじつ ではない。尿 にょう 管理 かんり (management of bladder incontinence)について考 かんが えてみよう。男性 だんせい よりも女性 じょせい のほうが困難 こんなん であると想定 そうてい されており、それは生物 せいぶつ 学 がく 的 てき 差異 さい によって説明 せつめい されている。しかし、障害 しょうがい 者 しゃ 女性 じょせい の場合 ばあい は導 しるべ 尿 にょう カテーテルと尿 にょう 取 と りパットの二 ふた つしか選択肢 せんたくし がないにもかかわらず、障害 しょうがい 者 しゃ 男性 だんせい にはさまざまな方法 ほうほう や補 ほ 装具 そうぐ や装置 そうち が用意 ようい されているという現状 げんじょう を男女 だんじょ の生物 せいぶつ 学 がく 的 てき 差異 さい によってのみ説明 せつめい できるだろうか。また今日 きょう では、外科 げか 的 てき 移植 いしょく による膀胱 ぼうこう 括約筋 かつやくきん の電気 でんき 刺激 しげき といった新 あたら しい技術 ぎじゅつ も発展 はってん しているが、それさえも新 あたら しい技術 ぎじゅつ を必要 ひつよう としている女性 じょせい よりも、それをあまり必要 ひつよう としていない男性 だんせい のほうがより多 おお く施術 しじゅつ されている実態 じったい がある。したがって、「失禁 しっきん は女性 じょせい 問題 もんだい である」という主張 しゅちょう が成 な り立 た つのではないだろうか。
◆Frank, Arthur W., 1995, The Wounded Storyteller: Body, Illness, and Ethics, Chicago: University of Chicago Press(=2002, 鈴木 すずき 智之 としゆき 訳 やく 『傷 きず ついた物語 ものがたり の語 かた り手 て ――身体 しんたい ・病 やめ い・倫理 りんり 』ゆみる出版 しゅっぱん ).
(pp182-184)
こうした自己 じこ の変化 へんか のありようは明 あき らかにジェンダーによる偏 かたよ りを持 も つものではない。ロードのそれと同様 どうよう の物語 ものがたり は、あらゆる点 てん で彼女 かのじょ のそれとは異質 いしつ な人口 じんこう 学 がく 的 てき プロフィールを持 も つロバート・マーフィーによっても語 かた られている。マーフィーは、著名 ちょめい なる学究 がっきゅう 的 てき 人類 じんるい 学者 がくしゃ であり、コロンビア大学 ころんびあだいがく の学部 がくぶ 長 ちょう の職 しょく にあった時 とき に病状 びょうじょう に気 き づき、それは脊柱 せきちゅう における良性 りょうせい の腫瘍 しゅよう であると診断 しんだん されることになる。この腫瘍 しゅよう の肥大 ひだい は、最終 さいしゅう 的 てき に彼 かれ を手足 てあし の麻痺 まひ へと追 お い込 こ んでいく。彼 かれ の病 やめ いの物語 ものがたり は、その身体 しんたい 能力 のうりょく の低下 ていか と縮小 しゅくしょう を示 しめ しながらも、同時 どうじ に彼 かれ の精神 せいしん が広 ひろ がりを獲得 かくとく していく過程 かてい を描 えが く。マーフィーは、病 やめ いを人類 じんるい 学 がく 的 てき な調査 ちょうさ 旅行 りょこう と比較 ひかく し、自分 じぶん が入 はい っていこうとしている医療 いりょう の世界 せかい を、調査 ちょうさ のために渡 わた り歩 ある いてきたジャングルにも「負 ま けず劣 おと らず新奇 しんき な」世界 せかい として発見 はっけん する(31)。
彼 かれ 自身 じしん の行 い ってきた調査 ちょうさ の中 なか から、マーフィーは変容 へんよう した自分 じぶん とこれまでの自分 じぶん とを結 むす びつけるメタファーを発見 はっけん する。その本 ほん を執筆 しっぴつ する間 あいだ 、彼 かれ はほぼ完全 かんぜん な麻痺 まひ 状態 じょうたい にあり、椅子 いす に体 からだ を縛 しば りつけて、ただコンピューターのキーボードの上 うえ で指 ゆび だけを動 うご かしていた。彼 かれ はこう記 しる している。「私 わたし の語 かた り方 かた は……ペルー・アマゾンのシャーマンによる神話 しんわ の語 かた りと不気味 ぶきみ な類似 るいじ を示 しめ している。シャーマンたちは、自分 じぶん の体 からだ を完全 かんぜん に不動 ふどう の状態 じょうたい に保 たも ったまま、神話 しんわ を伝 つた えていくのである」。マーフィーの変化 へんか の信憑 しんぴょう 性 せい も、同時 どうじ にまたその道徳 どうとく 性 せい も、彼 かれ の過去 かこ と現在 げんざい とをつなぐこうしたメタフォリカルな結合 けつごう のうちに存在 そんざい する。ここでは、いかなる約束 やくそく 手形 てがた も発行 はっこう されない。メタファーがそれ自体 じたい において、そこで約束 やくそく されたものを引 ひ き渡 わた しているのである。
マーフィーは、彼 かれ 自身 じしん による記述 きじゅつ においては、伝達 でんたつ する身体 しんたい の理念 りねん 型 がた に適合 てきごう するものではない。彼 かれ 自 みずか らの描 えが くところによれば、マーフィーは自分 じぶん の身体 しんたい 能力 のうりょく の低下 ていか を、[自己 じこ を]身体 しんたい から「徹底 てってい して切 き り離 はな す」ことによって処理 しょり しようとしている。こうした切 き り離 はな しは、彼 かれ が「これまで一 いち 度 ど も自分 じぶん の肉体 にくたい に誇 ほこ りを持 も ったことがなく、……そのかわりに知恵 ちえ を磨 みが いてきた」がゆえに、比較的 ひかくてき たやすいことであった。私 わたし にはマーフィーの自己 じこ 描写 びょうしゃ そのものに異論 いろん を唱 とな えることができるわけではない。しかしそれでも、彼 かれ は語 かた ること(テリング)の中 なか で、自分 じぶん の身体 しんたい と結 むす びついていったのだと主張 しゅちょう することができるだろう。シャーマンのメタファーにおいては、マーフイーの身体 しんたい は単 たん にその主題 しゅだい にとどまるものではなく、その身動 みうご きの取 と れない姿勢 しせい そのものにおいて、語 かた りの媒体 ばいたい となっている。シャーマンの語 かた りがどこかその身体 しんたい の保 たも ち方 かた に負 お っているのと同様 どうよう に、マーフイーの語 かた りもまたその身体 しんたい に依存 いぞん しているのである。彼 かれ の人生 じんせい のそれ以前 いぜん の段階 だんかい では、マーフィーは自分 じぶん の身体 しんたい にさほど誇 ほこ りを持 も っていなかったかもしれない。しかし、書 か いていく中 なか で彼 かれ は、メタフォリカルで神話 しんわ 的 てき ですらあるずっしりとした重 おも みを、身体 しんたい に預 あづ けていくのである。
マーフィーの物語 ものがたり が機能 きのう するのは、彼 かれ の身体 しんたい がその重 おも みを支 ささ えているからである。それはちょうど、ロードの生活 せいかつ やサックスの著述 ちょじゅつ 活動 かつどう が、自 みずか らの身体 しんたい を通 とお して要求 ようきゅう されているものを支 ささ えているのと同様 どうよう である。彼 かれ らは、自 みずか らの病 やまい いの物語 ものがたり を語 かた る中 なか で、それぞれに、危急 ききゅう の時 とき を乗 の り越 こ えること以上 いじょう の何 なに かをなしとげている。書 か くということが人格 じんかく を測定 そくてい することになり、その営 いとな みの中 なか で再帰 さいき 的 てき にその人格 じんかく が論証 ろんしょう されている。
それまでにもずっとそうであった自分 じぶん 、本当 ほんとう の姿 すがた としてあった自分 じぶん を実現 じつげん することによって、彼 かれ らはそれぞれにその自己 じこ の、再 さい 創造 そうぞう された道徳 どうとく 的 てき な姿 すがた となる。さもなければそうなるための準備 じゅんび を整 ととの える。こうして、人格 じんかく を提示 ていじ する中 なか で、記憶 きおく は改訂 かいてい され、中断 ちゅうだん は消化 しょうか され、目的 もくてき が把握 はあく される。物語 ものがたり の語 かた り手 て は英雄 えいゆう として主張 しゅちょう する。「私 わたし に何 なに が起 お こったとしても、あるいは何 なに が起 お ころうとも、目的 もくてき は私 わたし 自身 じしん の定 さだ めるべきものとしてある」と。
(p233)
すべての病 やまい いの物語 ものがたり は、「人間 にんげん の条件 じょうけん の実存 じつぞん 的 てき 普遍 ふへん 」としての苦 くる しみにその共通 きょうつう の根 ね を有 ゆう している。この共同 きょうどう 性 せい は、さまざまな病 やまい いの類型 るいけい ばかりでなく、人種 じんしゅ や性別 せいべつ を超 こ えて存在 そんざい している。オードリー・ロードの物語 ものがたり は、ロバート・マーフィーのそれと隠喩 いんゆ 的 てき には相似 そうじ 的 てき である(第 だい 六 ろく 章 しょう 「自己 じこ 物語 ものがたり としての探求 たんきゅう 」を参照 さんしょう )。しかし、こうした相似 そうじ 的 てき な隠喩 いんゆ 性 せい を作 つく り上 あ げている筋書 すじが きは、二人 ふたり の著者 ちょしゃ の「それぞれに個別 こべつ 的 てき な世界 せかい 」の違 ちが いを反映 はんえい している。同様 どうよう に、ロードの予言 よげん 的 てき な義憤 ぎふん とオルソップの貴族 きぞく 的 てき な忍従 にんじゅう の間 あいだ にある差異 さい も、それぞれのパーソナリティの違 ちが いからではほとんど説明 せつめい がつかない。つまりそれは、またべつの問 と いかけを要求 ようきゅう する事柄 ことがら なのである。彼 かれ らの物語 ものがたり は、それぞれが生 い きている世界 せかい が、それぞれに生 う みだしたものである。しかし同時 どうじ に、この個別 こべつ 的 てき な世界 せかい は、共同 きょうどう 体 たい が彼 かれ らのものとして認知 にんち する個々 ここ の物語 ものがたり に解釈 かいしゃく を施 ほどこ すたびに、そのつど新 あら たに形成 けいせい されるものでもある。それぞれに個別 こべつ 的 てき な世界 せかい が物語 ものがたり を作 つく り上 あ げていくのであるが、同時 どうじ に物語 ものがたり とその解釈 かいしゃく とが、その個別 こべつ 的 てき な世界 せかい を統合 とうごう していくのである。
◆Barnes, Colin ; Mercer, Geoffrey ; Shakespeare, Tom 1999 Exploring Disability : A Sociological Introduction, Polity Press(=20040331, 杉野 すぎの 昭博 あきひろ ・松波 まつなみ めぐみ・山下 やました 幸子 さちこ 訳 やく 『ディスアビリティ・スタディーズ――イギリス障害 しょうがい 学 がく 概論 がいろん 』明石書店 あかししょてん .
(pp.x-x)
(3章 しょう 「3. 「慢性 まんせい 病 びょう と障害 しょうがい 」の経験 けいけん 」)
対処 たいしょ 戦略 せんりゃく の選択 せんたく は、インペアメントをもつ人 ひと に対 たい する一般 いっぱん の人々 ひとびと と専門 せんもん 家 か の態度 たいど によって、ひどく制約 せいやく されている。マーフィー他 た (Murphy et al., 1988)によると、インペアメントとは、人々 ひとびと が自分 じぶん からは距離 きょり をおきたい脅威 きょうい とみなすものであり、したがって、障害 しょうがい 者 しゃ のことは異端 いたん 者 しゃ あるいは象徴 しょうちょう 的 てき な“他者 たしゃ ”として位置 いち づけられてしまうのである。またマーフィーは、人 ひと としての価値 かち 下落 げらく のヒエラルキーというものを示唆 しさ しており、その段階 だんかい は、「障害 しょうがい の程度 ていど や種類 しゅるい 」によって、あるいは「標準 ひょうじゅん 的 てき な人間 にんげん の様式 ようしき からどれだけ距離 きょり があるか」によって位置 いち が変 か わるのである(Murphy, 1987: 132)。マーフィーはこうした“やっかい”な状況 じょうきょう をとらえるのに、“リミナリティ(境界 きょうかい 性 せい )”という用語 ようご を用 もち いた。そこに含意 がんい されているのは「社会 しゃかい 的 てき に宙 ちゅう ぶらりん」の状態 じょうたい であり、そうした宙吊 ちゅうづ り状態 じょうたい のなかで障害 しょうがい 者 しゃ は「社会 しゃかい の外 そと にあるというのでもないが、完全 かんぜん に社会 しゃかい のなかに包摂 ほうせつ されているわけでもない」のであり、過去 かこ の役割 やくわり やあるべき像 ぞう が失 うしな われているがそれにかわる新 あたら しいものはまだ生 う まれておらず、その結果 けっか として障害 しょうがい 者 しゃ は「定義 ていぎ しがたい曖昧 あいまい な者 もの たちとして、社会 しゃかい から半 なか ばはみ出 だ している」のである。
別 べつ の医療 いりょう 社会 しゃかい 学 がく の潮流 ちょうりゅう としては、患者 かんじゃ の経験 けいけん の主観性 しゅかんせい をより現象 げんしょう 学 がく 的 てき に強調 きょうちょう しようとする動 うご きがある(G. Williams, 1996)。この動 うご きは、自己 じこ の再 さい 構成 こうせい や、語 かた りを通 とお したアイデンティティの折衝 せっしょう ・再 さい 折衝 せっしょう に関心 かんしん を向 む けている(Sacks, 1984; Charmaz, 1987; Mathieson & Stam, 1995)。これらの研究 けんきゅう の特徴 とくちょう は、個人 こじん の経験 けいけん に大 おお きな関心 かんしん を寄 よ せていることだ。自己 じこ の身体 しんたい とは通常 つうじょう は意識 いしき にのぼらず、自明 じめい のものだとすれば、発病 はつびょう したりインペアメントをもったりすることは、そうした意識 いしき を全面 ぜんめん 的 てき に変 か えることになる。これらの研究 けんきゅう は、人 ひと がどのようにして“何 なに か具合 ぐあい が悪 わる い”と気 き づくようになるのか、そして何 なに が起 お こっているかを徐々 じょじょ に察 さっ するうちに、いかにして“自分 じぶん の身体 しんたい を意識 いしき する”ようになるのかについて、かなり詳細 しょうさい に調査 ちょうさ している。特 とく に、自分 じぶん 自身 じしん が癌 がん や神経 しんけい 難病 なんびょう や心臓 しんぞう 発作 ほっさ に見舞 みま われたことがある人々 ひとびと が自 みずか らの経験 けいけん を深 ふか く探索 たんさく しようとした現象 げんしょう 学 がく 的 てき な分析 ぶんせき には、見 み るべきものがある(Murphy, 1987; Frank, 1991)。
しかしながら、現実 げんじつ 世界 せかい から距離 きょり をとるようなこの種 たね のアプローチこそが、ディスアビリティ理論 りろん 家 か からの強 つよ い批判 ひはん を引 ひ き起 お こしてきた。こうしたアプローチは自己 じこ 耽溺 たんでき 的 てき で、かつ“悲劇 ひげき 的 てき ”な障害 しょうがい 者 しゃ のステレオタイプを補強 ほきょう するものとして退 しりぞ けられた。このディスアビリティ理論 りろん 家 か による批判 ひはん は、数 すう 多 おお くの社会 しゃかい 学者 がくしゃ に不安 ふあん を抱 いだ かせてしまうものだった。あまりに自明 じめい のことであるが、医療 いりょう 社会 しゃかい 学者 がくしゃ とディスアビリティ理論 りろん 家 か との間 あいだ で建設 けんせつ 的 てき な対話 たいわ をするためには、環境 かんきょう とインペアメントの関係 かんけい をさらに深 ふか く探索 たんさく することに焦点 しょうてん づける必要 ひつよう があるだろう。現在 げんざい のところ両者 りょうしゃ の間 あいだ には、アプローチの仕方 しかた において明快 めいかい な相違 そうい 点 てん がある。
Murphy, R. (1987) The Body Silent, London: Phoenix House. (ロバート・F・マーフィー〔辻 つじ 信一 しんいち 訳 やく 〕『ボディ・サイレント――病 やめ いと障害 しょうがい の人類 じんるい 学 がく 』新宿 しんじゅく 書房 しょぼう 、1997年 ねん )
Murphy, R., Scheer, J., Murphy, Y. and Mack, R. (1988) 'Physical Disability and Social Liminality: A Study of the Rituals of Adversity', Social Science and Medicine, 26 (2), 235-42.
◆江口 えぐち 重幸 しげゆき , 20000730, 「病 やめ いの語 かた りと人生 じんせい の変容 へんよう ――「慢性 まんせい 分裂 ぶんれつ 病 びょう 」への臨床 りんしょう 民族 みんぞく 誌 し 的 てき アプローチ」やまだようこ編 へん 『人生 じんせい を物語 ものがた る――生成 せいせい のライフストーリー』ミネル みねる ヴァ書房 ぁしょぼう :39-75.
(p56)
こうした接近 せっきん は、自 みずか らの進行 しんこう 性 せい の脊髄 せきずい 腫瘍 しゅよう をひとつの民族 みんぞく 誌 し を書 か くように描 えが き出 だ した人類 じんるい 学者 がくしゃ マーフィーの名著 めいちょ 『ボディ・サイレント』(Murphy, 1987)に代表 だいひょう される、ローカルで個別 こべつ 的 てき な「病 やめ いの再 さい 発見 はっけん 」とも呼 よ びうる一連 いちれん の現象 げんしょう に結 むす びついている。これまで何 なん 回 かい か紹介 しょうかい してきた(江口 えぐち 、1992,1998)が、この時期 じき の医療 いりょう 人類 じんるい 学 がく の定式 ていしき 化 か した「疾患 しっかん カテゴリーから文化 ぶんか 的 てき コンテクストヘ」(Littlewood,1990)という言葉 ことば で表現 ひょうげん される大幅 おおはば な視点 してん の変更 へんこう と、先 さき の「説明 せつめい モデル」アプローチを前提 ぜんてい とした、グッドらによる精緻 せいち に組 く み立 た てられた「意味 いみ を中心 ちゅうしん とするアプローチ」(Good & Good, 1981)は、こうした初期 しょき の医療 いりょう 人類 じんるい 学 がく の到達 とうたつ 点 てん を示 しめ す重要 じゅうよう な里程 りてい 標 しるべ 石 せき (マイルストーン)なのである。
◆楠 くすのき 永 えい 敏惠 としえ ・山崎 やまざき 喜 き 比 ひ 古 いにしえ , 2002, 「慢性 まんせい の病 やめ いが個人 こじん 誌 し に与 あた える影響 えいきょう ――病 やめ いの経験 けいけん に関 かん する文献 ぶんけん 的 てき 検討 けんとう から」『保健 ほけん 医療 いりょう 社会 しゃかい 学 がく 論集 ろんしゅう 』13(1):1-11.
(p4)
このようにBuryは、個人 こじん 的 てき な病 やまい いの経験 けいけん に共通 きょうつう する概念 がいねん 、つまり慢性 まんせい の病 やめ いは症状 しょうじょう のみならず「個人 こじん 誌 し の混乱 こんらん 」をも起 お こすこと、を導 みちび いた。同時 どうじ に、「病 やめ いの意味 いみ 」はネガティブなものであり、「病 やめ いに適応 てきおう するための戦略 せんりゃく 」にも困難 こんなん を伴 ともな うことが示 しめ されたのである。この「個人 こじん 誌 し の混乱 こんらん 」は、人類 じんるい 学者 がくしゃ のMurphyが自 みずか らの病 やまい いの経験 けいけん を如実 にょじつ に綴 つづ った記述 きじゅつ の中 なか に覗うことができる。Murphyは、50歳 さい 代 だい に脊髄 せきずい 腫瘍 しゅよう と診断 しんだん され、車椅子 くるまいす での生活 せいかつ を余儀 よぎ なくされるようになり、さらに進行 しんこう する四肢 しし の麻痺 まひ などの症状 しょうじょう を経験 けいけん したのである。
「家族 かぞく や友人 ゆうじん の献身 けんしん 的 てき な励 はげ ましにもかかわらず、私 わたし は一人 ひとり ぽっちで孤独 こどく だった。そして今 いま の私 わたし は以前 いぜん の私 わたし の劣悪 れつあく 化 か し縮小 しゅくしょう したもの、と感 かん じられるのだった。これは貧乏 びんぼう の中 なか から世 よ の尊敬 そんけい を集 あつ める地位 ちい にまで這 は い上 あ がった私 わたし のような者 もの にはことさら恐 おそ ろしいことだろう。中身 なかみ のある人間 にんげん になりおおせたはずの自分 じぶん の、その中身 なかみ が今 いま 漏 も れてなくなっていく、という感 かん じだ。ヨランダと私 わたし とが長年 ながねん かけて築 きず いてきたものすべてが揺 ゆ さぶられていた。私 わたし たち中年 ちゅうねん 夫婦 ふうふ の足元 あしもと が突然 とつぜん 、震動 しんどう し始 はじ めた。なぜ、そしてどのようにして、こういうことが起 お こりうるのか、私 わたし には答 こた えようもなかった。」(邦訳 ほうやく 、p112-113、ヨランダとはMurphyの妻 つま 。)
(p5)
では、人 ひと は「個人 こじん 誌 し の混乱 こんらん 」にどう対応 たいおう するのだろうか。Buryは「混乱 こんらん への反応 はんのう 」と表現 ひょうげん したが、より継続 けいぞく 的 てき で動的 どうてき な個人 こじん 誌 し を作 つく り直 なお す営 いとな みを表 あらわ した研究 けんきゅう も見 み られている。また、病 やめ いは自 みずか らを学 まな ぶ機会 きかい となるといった見方 みかた もあり、ポジティブな「病 やめ いの意味 いみ 」も見出 みいだ されているといえる。ここでは、混乱 こんらん した個人 こじん 誌 し の再 さい 構成 こうせい (biographical reconstruction)をみていくが、これは混乱 こんらん した個人 こじん 誌 し を作 つく り直 なお す、つまり自己 じこ の人生 じんせい を再 さい 解釈 かいしゃく する営 いとな みを指 さ すものである。先 さき のMurphyは、これに関 かん し以下 いか のように記 しる している。
「私 わたし のからだはひどく損 そこ なわれていたが、しかし私 わたし の生命 せいめい がその分 ぶん 減 へ ってしまったかというとそんなことはない。残 のこ された機能 きのう をフルに使 つか ってやっていくしかなかった。そのうち私 わたし はふと気 き づいた。これは結局 けっきょく のところ、普遍 ふへん 的 てき な人間 にんげん のありようにすぎないではないか、と。人間 にんげん は誰 だれ だって与 あた えられた限界 げんかい の中 なか で、何 なに とかかんとか生 い きていくしかないのだ。私 わたし にはいくらかの身体 しんたい 的 てき なハンディキャップがあるが、逆 ぎゃく に多 おお くの長所 ちょうしょ もある。私 わたし の頭脳 ずのう は神経 しんけい 中枢 ちゅうすう の中 なか で唯一 ゆいいつ 、いまだよく機能 きのう している場所 ばしょ であり、そのおかげで私 わたし は生活 せいかつ の糧 かて を得 え ているのだった。(中略 ちゅうりゃく )日々 ひび の私 わたし の存在 そんざい そのものが脅威 きょうい にさらされたおかげで、私 わたし は一 いち 日 にち 、一週 いっしゅう 、一 いち 月 がつ 、一 いち 年 ねん を贈 おく りものとみなすようになった。私 わたし は現在 げんざい に生 い きるようになった。」(邦訳 ほうやく 、p88-89)
(1) 混乱 こんらん した個人 こじん 誌 し の再 さい 構成 こうせい の結果 けっか 生 い き方 かた の変化 へんか と新 あら たな「病 やめ いの意味 いみ 」
混乱 こんらん した個人 こじん 誌 し の再 さい 構成 こうせい の結果 けっか 、またはその途中 とちゅう の段階 だんかい において、Murphyの記述 きじゅつ に示唆 しさ されているような、病 や む人 ひと の生 い き方 かた が変化 へんか したと捉 とら えられる研究 けんきゅう 結果 けっか が報告 ほうこく されている。
◆浮ケ谷 うきがや 幸代 さちよ , 20040720, 『病気 びょうき だけど病気 びょうき ではない――糖尿 とうにょう 病 びょう とともに生 い きる生活 せいかつ 世界 せかい 』誠 まこと 信 しん 書房 しょぼう .
(pp.x-x)
(5章 しょう 3節 せつ )
アメリカの人類 じんるい 学者 がくしゃ であったロバート・マーフィ(Murphy, Robert)は、命 いのち がつきるまで、自分 じぶん の身体 しんたい が全身 ぜんしん 麻痺 まひ 化 か していく様子 ようす を変身 へんしん のプロセスとして凝視 ぎょうし し続 つづ けた。マーフィによれば、障害 しょうがい 者 しゃ になるということは、単 たん に腕 うで や足 あし を失 うしな うことではなく、周囲 しゅうい の世界 せかい と結 むす びつけている身体 しんたい 感覚 かんかく を失 うしな うことであり、障害 しょうがい 者 しゃ としての自分 じぶん に注 そそ ぐ周囲 しゅうい の人 ひと たちの視線 しせん を経験 けいけん することなのだという(96)。それは、自己 じこ の身体 しんたい に対 たい する全能 ぜんのう 感 かん が喪失 そうしつ するだけではなく、とりわけ社会 しゃかい や世界 せかい とのつながりが喪失 そうしつ することでもある。けれども、身体 しんたい を、偶発 ぐうはつ 性 せい を受 う け入 い れる存在 そんざい として、あるいはパトス的 てき 存在 そんざい として捉 とら えるとき、身体 しんたい は相互 そうご 依存 いぞん 性 せい や相互 そうご 伝達 でんたつ 性 せい を帯 お びたものとなり、他者 たしゃ や世界 せかい に向 む かって開 ひら かれていく。苦悩 くのう の経験 けいけん は、必然 ひつぜん 的 てき に家族 かぞく や友人 ゆうじん 、同僚 どうりょう 、同 どう 病者 びょうしゃ 、そして医療 いりょう スタッフなど、病者 びょうしゃ を取 と り巻 ま く人 ひと たちとの社会 しゃかい 関係 かんけい のあり方 かた を再 ふたた び呼 よ び起 お こす。
マーフィは、自分 じぶん の身体 しんたい と周囲 しゅうい の人 ひと たちとの相互 そうご 関係 かんけい のなかから、四肢 しし 麻痺 まひ という障害 しょうがい のある自分 じぶん のからだを第 だい に受 う け入 い れていくプロセスについても克明 こくめい に描 えが いている。「自分 じぶん のからだ」の発見 はっけん に導 みちび かれるのは、こうした社会 しゃかい 関係 かんけい の網 あみ の目 め に自己 じこ が再 さい 配置 はいち されることによって可能 かのう になる。「自分 じぶん のからだ」と向 む き合 あ うことは、「病気 びょうき になる」ことで、いったんは失 うしな われた人 ひと と人 ひと とのつながりを復活 ふっかつ するための契機 けいき となりうるのである。たとえ医療 いりょう 的 てき 言説 げんせつ に規定 きてい されていたとしても、医療 いりょう 的 てき 言説 げんせつ を内面 ないめん 化 か した「医療 いりょう 的 てき 身体 しんたい 」とは異 こと なる「自分 じぶん のからだ」の発見 はっけん や、外的 がいてき 世界 せかい とのつながりをここに見 み ることができる。
(pp.x-x)
(5章 しょう 4節 せつ )
自覚 じかく 症状 しょうじょう がないまま「病気 びょうき である」と診断 しんだん されると、客観 きゃっかん 的 てき な数値 すうち あるいは実証 じっしょう 的 てき な図像 ずぞう 写真 しゃしん などによって、私 わたし たちは「病気 びょうき である」と認識 にんしき させられる。すると、「<自分 じぶん のからだ>は普通 ふつう (健康 けんこう )ではないらしい」ということになり、このときから自分 じぶん の身体 しんたい を「医療 いりょう 的 てき 身体 しんたい 」として捉 とら えるようになる。マーフィは、病気 びょうき が発症 はっしょう する前 まえ に自分 じぶん の身体 しんたい を<私 わたし の足 あし >(my leg)、<私 わたし の腕 うで >(my arm)と呼 よ んでいたが、四肢 しし 麻痺 まひ が進 すす むにつれて<その足 あし >(the leg)、<その腕 うで >(the arm)と呼 よ ぶようになったと告白 こくはく している。彼 かれ は、その身体 しんたい の非 ひ 人称 にんしょう 化 か のプロセスを「脱 だつ 身体 しんたい 化 か 」(disembodiment)(*8)と呼 よ んでいる(96)。
私 わたし たちもまた、自覚 じかく 症状 しょうじょう や身体 しんたい 状態 じょうたい に違和感 いわかん があれば、医師 いし の診断 しんだん や検査 けんさ の結果 けっか によって非 ひ 人称 にんしょう 化 か した「医療 いりょう 的 てき 身体 しんたい 」として「自分 じぶん のからだ」を客観 きゃっかん 視 し せざるを得 え なくなる。自覚 じかく 症状 しょうじょう がないとき私 わたし たちは「胃 い 」の存在 そんざい を意識 いしき しないが、「胃 い がむかむかする」といったとき、「その胃 い 」という意味 いみ で「胃 い 」の存在 そんざい に気 き づく。このときの経験 けいけん は、たとえ自分 じぶん の手足 てあし が思 おも うように動 うご かないという経験 けいけん ではなくても、マーフィのいう「脱 だつ 身体 しんたい 化 か 」の経験 けいけん と重 かさ なり合 あ う。
(pp.x-x)
(*8)マーフィは、脱 だつ 身体 しんたい 化 か のプロセスだけでなく自分 じぶん の身体 しんたい と周囲 しゅうい の人 ひと びととの相互 そうご 関係 かんけい のなかから、四肢 しし 麻痺 まひ という障害 しょうがい のある「自分 じぶん のからだ」を次第 しだい に受 う け入 い れていくという「再 さい 身体 しんたい 化 か 」(re-embodiment)のプロセスについても言及 げんきゅう している(マーフィ、一 いち 九 きゅう 九 きゅう 二 に 、一 いち 三 さん 〇-一 いち 三 さん 五 ご 頁 ぺーじ )。
(96)マーフィ・R・F『ボディ・サイレント――病 やめ いと障害 しょうがい の人類 じんるい 学 がく 』辻 つじ 信一 しんいち 訳 やく 、新宿 しんじゅく 書房 しょぼう 、一 いち 九 きゅう 九 きゅう 二 に 年 ねん 、一 いち 三 さん 〇-一 いち 三 さん 三 さん 頁 ぺーじ 。(Murphy,R., The Body Silent. Henry Holt and Company, Inc., 1987.)
◆三井 みつい さよ, 20040825, 《ケアの社会 しゃかい 学 がく ――臨床 りんしょう 現場 げんば との対話 たいわ 》勁草書房 しょぼう .
(pp27-28)
このように、患者 かんじゃ の「生 せい 」はその人 ひと 固有 こゆう のものである。疾患 しっかん の進行 しんこう 状 じょう 況 きょう によって、その人 ひと の生活 せいかつ によって、あるいは生活 せいかつ や自己 じこ への意味 いみ づけの仕方 しかた によってそれぞれ異 こと なる。さらに、同 どう 一人物 いちじんぶつ であっても時間 じかん 的 てき 経過 けいか にともなって様々 さまざま に変化 へんか しうる。ある程度 ていど の共通 きょうつう 性 せい や類似 るいじ 性 せい を見出 みいだ すことはもちろん可能 かのう だが、いかに共通 きょうつう 性 せい が見出 みいだ され類似 るいじ する点 てん があるにしても、やはりその人 ひと 固有 こゆう の「生 せい 」であり、全 まった く同一 どういつ のものはあり得 え ない。
そして、疾患 しっかん もまた、ときに「生 せい 」の固有 こゆう 性 せい を際立 きわだ たせるものである。ストラウスらをはじめとした慢性 まんせい 疾患 しっかん 患者 かんじゃ の経験 けいけん に関 かん する研究 けんきゅう が明 あき らかにしてきたのは、重 じゅう 篤 あつし な疾患 しっかん や生活 せいかつ に影響 えいきょう を与 あた える疾患 しっかん が、患者 かんじゃ にとって、自 みずか らの生活 せいかつ や自己 じこ 像 ぞう を大 おお きく変 か えられるような経験 けいけん となるということであった(Corbin & Strauss [1987])。疾患 しっかん や障害 しょうがい を抱 かか えることは、しばしば患者 かんじゃ に自分 じぶん を振 ふ り返 かえ る契機 けいき を与 あた える。たとえばR・F・マーフィーは、腫瘍 しゅよう によって車椅子 くるまいす 生活 せいかつ を余儀 よぎ なくされるようになってから、「私 わたし はたしかに自己 じこ の一部 いちぶ をなくしていたのだった」「私 わたし が私 わたし 自身 じしん に対 たい して前 まえ とちがう感 かん じ方 かた をするようになった」「自分 じぶん 自身 じしん の心 しん の内 うち で私 わたし は変 か わった。自分 じぶん 自身 じしん に対 たい するイメージが変 か わった。私 わたし という存在 そんざい の根本 こんぽん 条件 じょうけん が変 か わった」(Murphy [1987=1997:112])と述 の べている。
◆立岩 たていわ 真 しん 也, 20041115, 『ALS――不動 ふどう の身体 しんたい と息 いき する機械 きかい 』 医学書院 いがくしょいん ,449p. ISBN:4260333771 2940
(p60)
病気 びょうき の場合 ばあい には、闘病 とうびょう すること、病気 びょうき と闘 たたか うことはよしとして、それ以外 いがい の社会 しゃかい 的 てき 責務 せきむ が免除 めんじょ されることがあることが言 い われる。米国 べいこく の人類 じんるい 学者 がくしゃ が、良性 りょうせい 骨髄 こつづい 腫瘍 しゅよう で全身 ぜんしん が麻痺 まひ していく自 みずか らとその周囲 しゅうい の世界 せかい とをフィールドにして書 か いた著名 ちょめい な本 ほん には次 つぎ のように紹介 しょうかい されている。
【113】 パーソンズの《論文 ろんぶん は悲 かな しいことにしちめんどうくさい学術 がくじゅつ 用語 ようご で書 か かれているのだが、しかし何 なに とか翻訳 ほんやく してみれば何 なに のことはない、病気 びょうき になったことがある者 もの なら誰 だれ でも知 し っていることをいっているにすぎない。つまりこうだ。通常 つうじょう の社会 しゃかい 的 てき 役割 やくわり ――母親 ははおや 、父親 ちちおや 、弁護士 べんごし 、パン屋 や 、学生 がくせい 等々 とうとう ――は、その人 ひと が病気 びょうき になったとたんに効力 こうりょく を一時 いちじ 停止 ていし する。その人 ひと は“病人 びょうにん ”という規定 きてい を受 う け、病気 びょうき の軽重 けいちょう により通常 つうじょう の義務 ぎむ の一部 いちぶ 、あるいは全部 ぜんぶ から解放 かいほう される。/通常 つうじょう の義務 ぎむ の一時 いちじ 停止 ていし とはいっても、病人 びょうにん という役割 やくわり を演 えん じる者 もの に義務 ぎむ が全 まった くなくなってしまうということはない。いやむしろひとつの大 おお きいやつを背負 しょ い込 こ まされる。つまり、回復 かいふく に向 む けて努力 どりょく を惜 お しまないという義務 ぎむ だ。》(Murphy[198=1992:31-32])
それで楽 らく ができる時 とき もあるのだが、それはその人 ひと が社会 しゃかい 的 てき 行為 こうい 者 しゃ としては認 みと められにくいということでもある。病人 びょうにん は黙 だま っているものだとされてしまうと、何 なに か言 い いたいことがある時 とき には困 こま る。もちろん、病人 びょうにん だからといってこの役割 やくわり を担なければならないということはないのだから、病人 びょうにん のままでこの役割 やくわり を拒絶 きょぜつ すればよいのではある。ただ、病気 びょうき と治療 ちりょう にだけ関心 かんしん が向 む けられると、それ以外 いがい の部分 ぶぶん に向 む けられてよい力 ちから が削 そ がれるということはある。
◆田中 たなか みわ子 こ , 20050825, 「障害 しょうがい と身体 しんたい の「語 かた り」」『障害 しょうがい 学 がく 研究 けんきゅう 』1:111-135.
(pp.x-x)
(*8)からだが麻痺 まひ していることによって、他 た の人 ひと たちと共通 きょうつう の表情 ひょうじょう や身振 みぶ りが用 もち いられないことを、ロバート・マーフィーは「四肢 しし 麻痺 まひ 者 しゃ の身体 しんたい は、ことばで表 あら わしにくい感情 かんじょう もしくは概念 がいねん を表現 ひょうげん したりする『沈黙 ちんもく の言語 げんご 』をもはや使 つか うことができない。なぜなら、思考 しこう とからだの運動 うんどう のあいだにある微妙 びみょう な連絡 れんらく の環 たまき は断 た たれてしまっている。近接 きんせつ 性 せい 、身振 みぶ り、身体 しんたい 的 てき 構 かま えは黙 だま らせられ、思考 しこう を結 むす びつける身体 しんたい の能力 のうりょく は静止 せいし されている」(Murphy, 1987, p.101=1992, pp.134-5)と述 の べている。なお邦訳 ほうやく を変更 へんこう した。
◆立岩 たていわ 真 しん 也, 2006, 「他者 たしゃ を思 おも う自然 しぜん で私 わたし の一存 いちぞん の死 し ・三 さん 」『思想 しそう 』2006-2:
(pp.x-x)
もう一 ひと つ、あなたの死 し を悲 かな しむ人 ひと がいる、生 せい を望 のぞ んでいるというい方 いかた がある。あなたが死 し んだら人 ひと が悲 かな しむから、お母 かあ さんが泣 な くから、死 し んではならないと言 い う。だから一人 ひとり で決 き めてならない、勝手 かって に死 し んではならないと言 い う。実際 じっさい そのように言 い われて生 い きることにした人 ひと はたくさんいる。これが効 き く場面 ばめん が多 おお くあることは認 みと めよう。そしてそれは「自我 じが の確立 かくりつ 」が十分 じゅうぶん でないこの国 くに の人 ひと だけに起 お こることではない。例 たと えば、マーフィーの本 ほん (Murphy[1987=一 いち 九 きゅう 九 きゅう 二 に ])にもそんな記述 きじゅつ がある。その人類 じんるい 学者 がくしゃ は良性 りょうせい の骨髄 こつづい 腫瘍 しゅよう によって全身 ぜんしん が次第 しだい に動 うご かなくなっていき、死 し のうと思 おも ったのだが、妻 つま に止 と められて思 おも いとどまったのだった。
しかし第 だい 一 いち に、人 ひと が悲 かな しむことをしてはならないとは常 つね には言 い えないだろう。立岩 たていわ [二 に 〇〇〇b]では、親 おや が悲 かな しむ相手 あいて と結婚 けっこん してはならないとは言 い えないだろうと、そのことを述 の べた。第 だい 二 に に、悲 かな しんでくれる人 じん がいない人 ひと がいるだろう。例 たと えば誰 だれ ともうまくいかないで今 いま まできた人 ひと がいる。むろん、それでも誰 だれ かはいる、とはきっと言 い えるのだろう。しかし、少 すく なくとも、本人 ほんにん が説得 せっとく される誰 だれ かを連 つ れてくることができないことはあるだろう。
◆細田 ほそだ 満 みつる 和子 かずこ , 20061108, 『脳卒中 のうそっちゅう を生 い きる意味 いみ ――病 やめ いと障害 しょうがい の社会 しゃかい 学 がく 』青海 あおみ 社 しゃ .
(pp.x-x)
(序章 じょしょう 「「絶望 ぜつぼう 」の中 なか から再 ふたた び〈生 い きる〉」)
自身 じしん も四肢 しし 麻痺 まひ を持 も つ人類 じんるい 学者 がくしゃ R. マーフィーは,「社会 しゃかい における個人 こじん のあり方 かた の最 もっと も崇高 すうこう な形 かたち が, 傷 きず ついた生 なま による果敢 かかん な闘 たたか いの中 なか に凝縮 ぎょうしゅく されている」といった[Murphy1987=1997]。脳卒中 のうそっちゅう になった人々 ひとびと が,痛 いた みや苦 くる しみに晒 さら された「絶望 ぜつぼう 」の只 ただ 中 ちゅう で,闘 たたか いと言 い いうるような体験 たいけん を重 かさ ね,それに反省 はんせい を加 くわ えて新 あたら しい経験 けいけん としていくという過程 かてい に,人 にん が社会 しゃかい の中 なか で〈生 い きる〉ための根源 こんげん 的 てき な条件 じょうけん を見出 みいだ すことができるだろう。
(pp.x-x)
(*6)(略 りゃく )脳卒中 のうそっちゅう に対 たい するマイナスのイメージは,欧米 おうべい にも共通 きょうつう している。神経 しんけい 科 か 医 い O. サックスは,自身 じしん の麻痺 まひ 体験 たいけん を描 えが いた書物 しょもつ の中 なか で,脳卒中 のうそっちゅう という病 やめ いはおよそあらゆる病 やめ いの中 なか で「最悪 さいあく のもの」と書 か いている。サックスは左足 ひだりあし の麻痺 まひ を脳卒中 のうそっちゅう によるものであると信 しん じ込 こ み,「凍 こお りつくような絶望 ぜつぼう 」を感 かん じ,自殺 じさつ を考 かんが えたという。そして,「ふと,ある光景 こうけい が浮 う かんできた。ひどく詳細 しょうさい だが屈辱 くつじょく 的 てき な情景 じょうけい だ。重 おも い卒中 そっちゅう におそわれたあとのみじめな半生 はんせい 」[Sacks 1994=1984:94]を思 おも ったという。そして自分 じぶん が脳卒中 のうそっちゅう でないと分 わ かり,「心 しん の底 そこ から笑 わら いがこみあげ」,まったくなくなっていた食欲 しょくよく を取 と り戻 もど し,看護 かんご 師 し に食事 しょくじ を持 も ってくるように頼 たの んだという。また,文化 ぶんか 人類 じんるい 学者 がくしゃ のR. マーフィーは,腫瘍 しゅよう が次第 しだい に脊椎 せきつい を取 と り囲 かこ んで神経 しんけい を麻痺 まひ させ,四肢 しし が動 うご かなくなる病気 びょうき を罹 かか っていたが,入院 にゅういん 中 ちゅう の見聞 けんぶん から,自分 じぶん を含 ふく めた患者 かんじゃ の中 なか で脳卒中 のうそっちゅう 患者 かんじゃ を最 もっと も抑 そもそも うつ的 てき な存在 そんざい と書 か いている。そして,「病院 びょういん で彼 かれ らを見出 みいだ すのは難 むずか しいことではない。というのは,彼 かれ らは無表情 むひょうじょう で沈 しず みきって,ただぼんやりと虚空 こくう をみつめているから」[Murphy 1987=1997:73]という。これらから,脳卒中 のうそっちゅう があらゆる病気 びょうき の中 なか で最悪 さいあく の病気 びょうき と位置 いち づけられていることが分 わ かる。アメリカでは1980年代 ねんだい 後期 こうき から,麻痺 まひ (paralysis)という言葉 ことば は差別 さべつ 語 ご として,使 つか うことを反対 はんたい されている[Murphy 1987:14]。しかしこうした記述 きじゅつ が,脳卒中 のうそっちゅう に対 たい する過剰 かじょう に否定 ひてい 的 てき なイメージを喚起 かんき する点 てん に,書 か き手 て は十分 じゅうぶん 慎重 しんちょう になる必要 ひつよう があろう。
(pp.x-x)
(1章 しょう 「2-A 病人 びょうにん 役割 やくわり とその限界 げんかい 」)
聴 き き取 と りに即 そく して考 かんが えてみれば,中年 ちゅうねん 期 き に脳卒中 のうそっちゅう になった人々 ひとびと は,健康 けんこう で効率 こうりつ よく働 はたら けるこの社会 しゃかい における多数 たすう 者 しゃ として,規範 きはん を遵守 じゅんしゅ するかのように選択 せんたく してきた人々 ひとびと であった。彼 かれ らは,脳卒中 のうそっちゅう になった時 とき ,それまでに蓄 たくわ えてきた経験 けいけん を参照 さんしょう し,生命 せいめい の危機 きき から脱 だっ した後 のち は,元 もと のように話 はな せるようになりたい,元 げん のように動 うご けるようになりたいと思 おも い,そのために一生懸命 いっしょうけんめい にリハビリ訓練 くんれん をする。
これは彼 かれ らにとって, それまでの経験 けいけん を参照 さんしょう にした当然 とうぜん の行為 こうい であり,パーソンズが病人 びょうにん 役割 やくわり で示 しめ した姿 すがた と重 かさ なる。病気 びょうき になった後 のち ,回復 かいふく を目指 めざ して病人 びょうにん 役割 やくわり に徹 てっ することは,きわめて常識 じょうしき 的 てき な当 あ たり前 まえ のことなのである[Murphy 1987=1997:31-32]。彼 かれ らは,まずは危機 きき に陥 おちい った各 かく 位相 いそう を元通 もとどお りに取 と り戻 もど して,バラバラになった〈生 せい 〉を再 ふたた び統合 とうごう しようとするのである。この意味 いみ で,病人 びょうにん 役割 やくわり は内部 ないぶ 者 しゃ の視座 しざ から正当 せいとう 化 か されうる部分 ぶぶん もある。
◆秋風 あきかぜ 千恵 ちえ , 20080228, 「軽度 けいど 障害 しょうがい 者 しゃ の意味 いみ 世界 せかい 」『ソシオロジ』52(3):53-69.
(p55)
健常 けんじょう 者 しゃ の身体 しんたい を最善 さいぜん のものととらえ、身体 しんたい を障害 しょうがい の程度 ていど によって序列 じょれつ 化 か する、いわば障害 しょうがい のヒエラルキーとも言 い うべきものがあるとロバート・F・マーフィーは言 い う。
「同 おな じ身障者 しんしょうしゃ の中 なか でも、ある種 しゅ の障害 しょうがい をもつ者 もの が他 た の者 もの より嫌 いや がられるということもある。障害 しょうがい の重度 じゅうど や種類 しゅるい によって評価 ひょうか の決 き まる一種 いっしゅ の階層 かいそう 制 せい (原文 げんぶん ではhierarchy―引用 いんよう 者 しゃ 註)である。その一番 いちばん 下層 かそう に属 ぞく するのが明 あき らかに変形 へんけい したからだをもつ者 もの だ。車椅子 くるまいす は中 ちゅう 間 あいだ 層 そう というところか。評価 ひょうか の基準 きじゅん は、どれだけ標準 ひょうじゅん 的 てき な人間 にんげん のかたちから離 はな れているか、ということだろう。」(Murphy、1987=1997:176-177)
以後 いご 、本稿 ほんこう ではマーフィーの言 い う「一種 いっしゅ の階層 かいそう 制 せい 」を「障害 しょうがい のヒエラルキー」と記述 きじゅつ する。これを採用 さいよう すれば、軽度 けいど 障害 しょうがい 者 しゃ はヒエラルキーの上層 じょうそう にあるということになる。そして、実際 じっさい にそのようにとらえられ、たいしたことはないという評価 ひょうか を受 う けて、軽 かる くあしらわれるようである。
(p57)
障害 しょうがい のヒエラルキーは、脈々 みゃくみゃく として歴史 れきし 的 てき に構築 こうちく されてきたと言 い えよう。近代 きんだい 産業 さんぎょう 社会 しゃかい は人間 にんげん の身体 しんたい を「規律 きりつ ・訓練 くんれん 」(Foucault、1975=1977)によって標準 ひょうじゅん 化 か し、社会 しゃかい に適合 てきごう できる「正常 せいじょう 」な人間 にんげん 、標準 ひょうじゅん 化 か された身体 しんたい だけを受 う け入 い れるとしてきた。そして、障害 しょうがい 者 しゃ は労働 ろうどう に適 てき さない身体 しんたい として国家 こっか によって隔離 かくり され、医療 いりょう ・保護 ほご の対象 たいしょう とみなされてきた 。隔離 かくり や保護 ほご が、障害 しょうがい の重 おも そうな身体 しんたい から対象 たいしょう になっていったであろうことは想像 そうぞう に難 かた くない。障害 しょうがい のヒエラルキーが障害 しょうがい を“個人 こじん 的 てき 悲劇 ひげき ”の具現 ぐげん ととらえており、「個人 こじん モデル」に連 つら なることは疑 うたが いのないところであろう。
「正常 せいじょう 」な身体 しんたい の標準 ひょうじゅん から離 はな れれば離 はな れるほど排除 はいじょ に向 む かうとマーフィーは言 い う。だが、ここには疑問 ぎもん が残 のこ る。近代 きんだい 産業 さんぎょう 化 か の初期 しょき ならばそうであったかもしれない。しかし、わたし達 たち が暮 く らす社会 しゃかい はそう単純 たんじゅん ではない。この社会 しゃかい は障害 しょうがい 者 しゃ を排除 はいじょ するが、それをあからさまにしない分別 ふんべつ もわきまえている。
重度 じゅうど で可視 かし 的 てき な障害 しょうがい 者 しゃ は一方 いっぽう で忌避 きひ されながら、一方 いっぽう で理解 りかい を示 しめ される。障害 しょうがい の重 おも さと生 い きづらさは比例 ひれい するという社会 しゃかい 通念 つうねん は、より重度 じゅうど な者 もの により理解 りかい を示 しめ せと告 つ げる。
(pp58-59)
マーフィーは障害 しょうがい 者 しゃ を境界 きょうかい 状態 じょうたい (リミナリティ)の一 いち 形態 けいたい だとする(Murphy、1987=1997:174)。リミナリティは、通過 つうか 儀礼 ぎれい の概念 がいねん に含 ふく まれる言葉 ことば である。「リミナルとはもともと敷居 しきい という意味 いみ で、正式 せいしき に社会 しゃかい システムの中 なか に入 い れないでいる『宙 ちゅう ぶらりん』の状態 じょうたい 」(前掲 ぜんけい :174-175)である。マーフィーは、アメリカにおける身体 しんたい 障害 しょうがい 者 しゃ をリミナリティの一 いち 形態 けいたい としてとらえ、身障者 しんしょうしゃ はアメリカ文化 ぶんか の中 なか にあって“どっちつかず”という曖昧 あいまい な位置 いち をしめていると言 い う。「病気 びょうき というのでもなく、健康 けんこう というのでもない中途半端 ちゅうとはんぱ なあり方 かた をしている。死 し んでいるわけではないが、かといって十 じゅう 二 に 分 ふん に生 い きているというのでもない」(前掲 ぜんけい :175)と言 い うのである。
しかし、マーフィーの分析 ぶんせき は、「身障者 しんしょうしゃ 一般 いっぱん 」が社会 しゃかい システムすなわち健常 けんじょう 者 しゃ 社会 しゃかい のシステムに入 い れないで曖昧 あいまい な位置 いち にいるというにとどまっている。この分析 ぶんせき では、健常 けんじょう 者 しゃ 社会 しゃかい 外 がい である障害 しょうがい 者 しゃ 社会 しゃかい には受 う け入 い れられているとも考 かんが えられる。だが、軽度 けいど 障害 しょうがい 者 しゃ を考 かんが えた場合 ばあい はどうだろうか。彼 かれ /彼女 かのじょ らは健常 けんじょう 者 しゃ 社会 しゃかい にも、障害 しょうがい 者 しゃ 社会 しゃかい にも帰属 きぞく できなくて周縁 しゅうえん 化 か されているといえるだろう。
◆立岩 たていわ 真 しん 也 2008 『…』,筑摩書房 ちくましょぼう 文献 ぶんけん 表 ひょう
*作成 さくせい : 追加 ついか :植村 うえむら 要 かなめ