――フーコーは社会 保障 に関 する心理 的 感覚 を刷新 するこうした必要 性 があることは、「国家 社会 」に対 する「市民 社会 」――労働 組合 もその一部 になりますが――にとってチャンスなのでしょうか。
――市民 社会 と国家 というその対立 軸 は、もちろん十 八 世紀 末 から十 九 世紀 にかけてたいへんよく用 いられました。しかし今 もこの軸 が働 いているのかは定 かではありません。ポーランドで起 きていることはこの点 で興味深 いですね。あの国 全土 を覆 ったばかりの強力 な社会 運動 を、国家 に対 する市民 社会 の叛乱 と同一 視 するなら、様々 な対立 に見 られる複雑 さや多様 性 を見 誤 ることになります。「連帯 」が闘 わなければならなかった相手 は党 -国家 だけではないのです。
〔略 〕自由 主義 経済 学者 がこの対立 軸 を十 八 世紀 末 に提起 したのは国家 が活動 する領域 を制限 するためであり、市民 社会 は自律 した経済 過程 の場 として考 えられていました。市民 社会 とは論争 的 と言 ってもよい概念 であり、当時 の政府 の施策 に対抗 し、ある種 の自由 主義 を勝利 させるためのものだったのです[1]。
しかしこうなると、「経済 学 の対象 を一般 化 し、数 ある目的 の一 つを達成 するために限 られた手段 を用 いるようなすべての行動 をも包含 する可能 性 〔が見出 されます〕。すなわち、経済 分析 の対象 はおそらく、目的 を持 ったすべての行動 と定 められなければならない。おおざっぱに言 って、方法 ・経路 ・手段 を戦略 的 に選択 するという意味 です。要 するに、経済 分析 の対象 があらゆる合理 的 行動 と同定 されるのです(NBP, p. 272.三 三 〇頁 )。
〔このこれは経済 人 は〕まさに操作 可能 な者 、環境 に人為 的 に加 えられた変容 に対 し体系 的 な反応 を見 せる者 として現 れます。経済 人 とはすぐれて統治 可能 な者 なのです(NBP, p. 276.三 三 三 頁 )。
自由 主義 が行 う省察 は、国家 が存在 することを起点 に国家 のための国家 という目的 を達成 する手段 を統治 に探 し求 めたりはしない。そうではなく、国家 に対 して外的 かつ内的 な込 み入 った関係 にある社会 から出発 する。〔中略 〕まさに社会 という観念 によってこそ、〔統治 は〕すでにそれ自体 で「過度 」、「過剰 」だという原則 〔中略 〕により統治 技術 を展開 させることが可能 になる(NBP, p.325.三 九 三 頁 )。
それはフーコーが価格 が上昇 したとき、上昇 を放置 していても、そのうち自然 に上 げ止 まるメカニズムに備 わる自然 性 です。〔中略 〕それは政治 、国家 理性 、行政 ポリスに備 わる人為 性 にまさしく対立 させられる自然 性 です。〔中略 〕それは人間 相互 の関係 に特有 な、人 が共存 し、集 まり、交換 し、労働 し、生産 する際 に自然 に起 きることに特有 な自然 性 なのです。〔中略 〕それは社会 に備 わる自然 性 です(STP, p. 357.四 三 二 頁 )。
フーコーは統治 術 は主権 空間 のなかで行使 されなければなりません――国家 に備 わる法 権利 自体 はそう主張 します――。しかし厄介 なこと、困 ったことに、主権 空間 は経済 主体 で占 められ、住 まわれていることが明 らかになっています。他方 で経済 主体 〔中略 〕は、権力 に節制 を求 めるか、主権 者 に備 わる合理 性 や統治 術 がなんらかの科学 的 かつ思弁 的 な合理 性 の影響 下 にあることを求 めます。主権 が自 らの行動 領域 を一切 放棄 せず、主権 が経済 の測量 技師 へと転職 しなくても済 むためにはどうすべきなのでしょうか(NBP, pp. 298.三 六 二 頁 )。
〔この「経済 人 が〕統治 可能 であるのは、新 しい全体 が定義 可能 となるかぎりでのことです。この全体 は経済 人 を、法 権利 主体 と同時 に経済 の担 い手 として包含 しますが、この二 要素 間 に存在 する関係 や結合 だけではなく、それ以外 の一連 の諸 要素 も出現 させます。そうした要素 と関 わりながら、法 権利 主体 という側面 ないし経済 主体 という側面 は、部分 的 で複 合 的 な全体 の一部 となるかぎりで統合 可能 な諸 側面 を構成 します。この新 しい全体 こそが、私 が思 うに、自由 主義 型 統治 術 の特徴 なのです(ibid.三 六 三 頁 )。
まさしく権力 のはたらきと権力 関係 のなかで、またそれらを絶 えず逃 れるものから、いわば統治 者 と被治者 が交 わる地点 で相互 に作用 しあう過渡 的 な形象 が生 まれるのです。この形象 はつねに存在 していたわけではないけれども、しかしやはり現実 的 なものであり、この場合 には市民 社会 として、またある場合 には狂気 と呼 ばれうるのです(NBP, p. 301.三 三 六 頁 )。
こうした不 確定 なものこそ、経済 人 が個々 に行 う計算 をいわば基礎 づけ、そこに整合 性 を与 え、効果 を及 ぼし、それを現実 に組 み入 れて世界 のあらゆる他者 と可能 なかぎり最適 な形 で結 びつけるのです。つまり、経済 人 が自 ら行 う計算 の実証 性 を、計算 を逃 れるものすべてに依拠 させるシステムがあるのです(NBP, p. 281.三 四 二 頁 )。
〔見 えざる手 については〕これまでつねに、言 ってみれば「手 」の方 に重 きが置 かれていました。分散 した糸 をすべてより合 わせて一 つの全体 を作 る摂理 のようなものがあるという点 が強調 されていました。しかしもう一 つの要素 、つまり「見 えざる」の部分 〔不可視 性 〕も、それに劣 らず重要 ではないでしょうか。不可視 性 とは、自 らの背後 で調整 を行 っている、または一人 一 人 が自前 で行 っていることを結 びつけている手 があると人々 が理解 することを、人知 の不完全性 を理由 に妨 げるような状況 のことだけを指 すのではありません。不可視 性 とは不可欠 なものです。不可視 性 ゆえに、経済 の担 い手 は誰 であっても共同 の利益 を追求 してはならないし、追求 することができないのです(NBP, p. 281.三 四 四 頁 )。
経済 学 は、一 国家 内 で主権 を行使 する主権 者 の法的 形態 を、社会 の生 にとって本質 であるものとして現 れつつあるもの、つまり経済 過程 に置 き換 える(NBP, p. 286.三 四 七 頁 )。
アダム・スミスの政治 経済 学 、経済 的 自由 主義 は、こうした〔経済 主権 という〕政治 的 プロジェクトを全 否定 します。もっと過激 ない方 をすれば、国家 と国家 主権 を指標 とするような政治 理性 を無 価値 とするのです(NBP,p. 288.三 五 〇頁 )。
こうしてみると自由 を尊重 しないことは、法 に照 らして権利 を濫用 するということだけでなく、とりわけ、しかるべき形 で統治 できていないということなのです。自由 と、自由 に固有 な限界 とを統治 実践 の場 の内部 に統合 することが、今 や最 重要 課題 になったのです(STP, p. 361.四 三 二 頁 )。
統治 性 分析 とは〔中略 〕「すべては政治 的 である」という命題 を含 んでいます。〔中略 〕政治 とは統治 のあり方 〔統治 性 〕に対 する抵抗 、最初 の蜂起 、最初 の対決 と共 に生 まれたものにほかならないのです(STP, p. 221n5.二 六 七 頁 編 注 5)。
「国家 の無 限定 な統治 性 が停止 する時 、それは何 によるのでしょうか。それはまさに社会 そのものとなるものの出現 によります。市民 社会 が国家 による制約 と監 視 から解放 された暁 には、国家 権力 がここでいう市民 社会 に吸収 されたときには、〔中略 〕歴史 の、とは言 いませんが、少 なくとも政治 の時間 、国家 の時間 は終 わることになるのです(STP, pp. 363-4.四 三 九 頁 )。
ある十 九 世紀 以来 、一連 の統治 合理 性 が重 なり合 い、支 え合 い、異議 を唱 え合 い、争 い合 っているのです。真理 に基 づく統治 術 、主権 国家 の合理 性 に基 づく統治 術 、経済 主体 の合理 性 に基 づく統治 術 、一般 的 に言 えば被治者 自身 の合理 性 に基 づく統治 術 があるのです(NBP, p. 316.三 八 五 頁 )。
「結局 のところ政治 とは何 でしょう。様々 な指標 と結 びつく統治 術 のはたらきであり、そうした様々 な統治 術 が引 き起 こす論争 ではないのだとしたら(NBP, p. 317.三 八 五 頁 )。