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箱田 徹「市民社会は抵抗しない――フーコー自由主義論に浮上する政治」
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市民しみん社会しゃかい抵抗ていこうしない――フーコー自由じゆう主義しゅぎろん浮上ふじょうする政治せいじ

箱田はこだ てっ 2012/11/01 情況じょうきょう』「思想しそう理論りろんへん」1(2012-12べつ: 223-243 ISBN-10: 4792720028 ISBN-13: 978-4792720025 2000+ぜい [amazon][kinokuniya] ※
PDFばんへのリンク: http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/90001855.pdf

last update:20200911

目次もくじ
1 市民しみん社会しゃかいろんへのめた目線めせん
2 経済けいざいじん概念がいねん意味いみ変容へんよう
 ①しん自由じゆう主義しゅぎられる経済けいざいじん概念がいねん拡張かくちょう
 ②古典こてん経済けいざいがく経済けいざいじん――自由じゆう主義しゅぎがた統治とうち対応たいおうする主体しゅたい概念がいねん
3 市民しみん社会しゃかい――経済けいざい主体しゅたいめる主権しゅけん空間くうかん
4 主権しゅけんしゃ権力けんりょく剥奪はくだつする政治せいじ経済けいざいがく
 ①えざるした無知むち無能むのうとなる君主くんしゅ
 ②統治とうち科学かがくとはことなる政治せいじ経済けいざいがく誕生たんじょう
5 対抗たいこうみちびきとしての自由じゆう主義しゅぎ
 ①被治者ひちしゃによる被治者ひちしゃ統治とうちとしての自由じゆう主義しゅぎ
 ②終末しゅうまつろんとしての対抗たいこうみちび
 ③市民しみん社会しゃかいへの対抗たいこうみちび



以下いか本文ほんぶん
【1】市民しみん社会しゃかいろんへのめた目線めせん

 市民しみん社会しゃかい抵抗ていこうしない、フーコーは本当ほんとうにこうったのかとわれれば、である。しかしいちきゅうはちさんねんにCFDT(フランス民主みんしゅ主義しゅぎ労働ろうどう同盟どうめい幹部かんぶおこなった、社会しゃかい保障ほしょう制度せいど改革かいかくをテーマとした対談たいだんには、つぎのようなやりりがめる。
――社会しゃかい保障ほしょうかんする心理しんりてき感覚かんかく刷新さっしんするこうした必要ひつようせいがあることは、「国家こっか社会しゃかい」にたいする「市民しみん社会しゃかい」――労働ろうどう組合くみあいもその一部いちぶになりますが――にとってチャンスなのでしょうか。
――市民しみん社会しゃかい国家こっかというその対立たいりつじくは、もちろんじゅうはち世紀せいきまつからじゅうきゅう世紀せいきにかけてたいへんよくもちいられました。しかしいまもこのじくはたらいているのかはさだかではありません。ポーランドできていることはこのてん興味深きょうみぶかいですね。あのくに全土ぜんどおおったばかりの強力きょうりょく社会しゃかい運動うんどうを、国家こっかたいする市民しみん社会しゃかい叛乱はんらん同一どういつするなら、様々さまざま対立たいりつられる複雑ふくざつさや多様たようせいあやまることになります。「連帯れんたい」がたたかわなければならなかった相手あいてとう-国家こっかだけではないのです。
 〔りゃく自由じゆう主義しゅぎ経済けいざい学者がくしゃがこの対立たいりつじくじゅうはち世紀せいきまつ提起ていきしたのは国家こっか活動かつどうする領域りょういき制限せいげんするためであり、市民しみん社会しゃかい自律じりつした経済けいざい過程かていとしてかんがえられていました。市民しみん社会しゃかいとは論争ろんそうてきってもよい概念がいねんであり、当時とうじ政府せいふ施策しさく対抗たいこうし、あるしゅ自由じゆう主義しゅぎ勝利しょうりさせるためのものだったのです[1]。
 フーコーは当時とうじポーランド民主みんしゅ運動うんどう支援しえんかんして、フランスの労組ろうそナショナル・センターであり、自主じしゅ管理かんり社会しゃかい主義しゅぎ路線ろせんにもちかかったCFDTと協力きょうりょくして様々さまざま活動かつどうんでいた。ふるくから東側ひがしがわ諸国しょこく民主みんしゅ運動うんどう関心かんしんせていたフーコーの個人こじんは、過去かこ年来ねんらい市民しみん社会しゃかいろんさい評価ひょうかというながれとつながるだろう。いちきゅうろく年代ねんだい社会しゃかい叛乱はんらんからあたらしい社会しゃかい運動うんどう東側ひがしがわ世界せかいでの民主みんしゅ運動うんどうというおおきなながれを背景はいけいとして、国家こっかから自律じりつした領域りょういきとしての市民しみん社会しゃかい対抗たいこう政治せいじ舞台ぶたいあらわれる。かつてポーランドの「連帯れんたい」がその象徴しょうちょうてきにななされたことはうまでもない[2]。他方たほう、フーコーの理論りろんは、国家こっかレベルのマクロな政治せいじたいするミクロ政治せいじ、マイナーでありローカルな政治せいじ擁護ようごする理論りろんとして内外ないがい受容じゅようされていった。
 しかしインタビュアーの予想よそうはんして、フーコーは「市民しみん社会しゃかい」という言葉ことば難色なんしょくしめす。まず「国家こっかたい市民しみん社会しゃかい」という図式ずしき単純たんじゅんすぎないかと指摘してきし、このかたり歴史れきしてき限定げんていあたえる。そのうえで、この対立たいりつじく依拠いきょすると「一種いっしゅ善悪ぜんあく二元論にげんろん、すなわち国家こっか概念がいねん軽蔑けいべつてき意味いみあたえる一方いっぽうで、社会しゃかい活気かっきあふれた素晴すばらしいまとまりとして理想りそうすることをどうしてもまぬかれない」とくわえる。国家こっかだけが権力けんりょくなり主権しゅけん所有しょゆうし、権力けんりょくっていない市民しみん社会しゃかいたいし、それを一方いっぽうてき行使こうしするという古典こてんてき権力けんりょくかん存続そんぞくしていないかというわけだ。フーコーはべつ場所ばしょでこうもべている。「わたし仮説かせつとは、国家こっか市民しみん社会しゃかいという対立たいりつじく適切てきせつではないというものです」。[3]
 では国家こっか市民しみん社会しゃかい、あるいは国家こっか権力けんりょく抑圧よくあつたいしてはどのような見取みとが「適切てきせつ」なのか。このいかけにフーコーの自由じゆう主義しゅぎろんすこちがった角度かくどからこたえようとする。権力けんりょく関係かんけいみちびき=統治とうちをめぐるあらそい、統治とうちするもの統治とうちしゃ)のみちびきと統治とうちされるしゃ被治者ひちしゃ)の対抗たいこうみちびき[4]の関係かんけいせいである。被治者ひちしゃは、統治とうちしゃによるみちびき=統治とうち実践じっせんつく現実げんじつのなかで、そこでもちいられるのとおな技術ぎじゅつもちいて、対抗たいこうみちびきを実践じっせんする。したがってそもそも、国家こっかたい市民しみん社会しゃかいという対立たいりつじく存在そんざいしない。国家こっか市民しみん社会しゃかいも、自由じゆう主義しゅぎがた統治とうち技術ぎじゅつ必要ひつようとする「現実げんじつ」なのであり、フーコー統治とうちろんにとっての問題もんだいは、市民しみん社会しゃかい国家こっかから独立どくりつした領域りょういきとして称揚しょうようすることではなく、この統治とうち技術ぎじゅつ実践じっせんのありかたあきらかにすることにある。本稿ほんこうでは、かれいちきゅうなな年代ねんだいまつにコレージュ・ド・フランスでおこなった統治とうちせい講義こうぎ安全あんぜん領土りょうど人口じんこう』と『なま政治せいじ誕生たんじょう』[5]のうち、市民しみん社会しゃかい経済けいざいじん(ホモ・エコノミクス)にかんする議論ぎろんがかりにして、フーコー自由じゆう主義しゅぎろん射程しゃていさぐりたい。

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【2】経済けいざいじん概念がいねん意味いみ変容へんよう

 フーコーの統治とうちせい講義こうぎ内容ないようおおきくふたつにかれる。まず統治とうちという概念がいねん来歴らいれきそのものを古代こだいオリエントにまでさかのぼってあきらかにしながら、キリストきょう固有こゆう概念がいねんとして「ひと統治とうち」を摘出てきしゅつする。つぎに、宗教しゅうきょう改革かいかくたウェストファリア体制たいせい成立せいりつ以後いごのヨーロッパを、国家こっか理性りせいろん古典こてんてき自由じゆう主義しゅぎしん自由じゆう主義しゅぎという種別しゅべつてき統治とうち実践じっせん歴史れきしとしてえがきだす。このうち国家こっか理性りせいろんまでが『安全あんぜん領土りょうど人口じんこう』の内容ないようであり、自由じゆう主義しゅぎしん自由じゆう主義しゅぎは『なま政治せいじ誕生たんじょう』の主題しゅだいとなっている。このとき自由じゆう主義しゅぎは、じゅうのう主義しゅぎてスミスによって定式ていしきされるじゅうはち世紀せいき後半こうはん以降いこう自由じゆう放任ほうにん(レッセ・フェール)の経済けいざい思想しそうしており、しん自由じゆう主義しゅぎは、せんあいだヨーロッパに登場とうじょうした「はん計画けいかく主義しゅぎ」の思想しそう運動うんどう母体ぼたいとするしょ潮流ちょうりゅう意味いみしている。具体ぐたいてき分析ぶんせき対象たいしょうとなったのは、戦後せんご西にしドイツの経済けいざい政策せいさくイデオロギーとなる「社会しゃかいてき市場いちば経済けいざい概念がいねん形成けいせいしたフライブルク学派がくは(オルドー自由じゆう主義しゅぎしゃ)と、ミーゼスやハイエクなどオーストリア学派がくはながれを米国べいこくシカゴ学派がくはしん自由じゆう主義しゅぎである。議論ぎろん詳細しょうさいについては、筆者ひっしゃべつところべたことがあり、フーコーの議論ぎろんそくした研究けんきゅうとともに経済けいざい思想しそう独自どくじ研究けんきゅう日本語にほんご利用りようできるので、それらを参照さんしょうされたい。[6]

 ①しん自由じゆう主義しゅぎられる経済けいざいじん概念がいねん拡張かくちょう
 まず注目ちゅうもくしたいのは、フーコーがシカゴ学派がくはによる経済けいざい分析ぶんせき一般いっぱん――社会しゃかい全体ぜんたいへの、あるいは社会しゃかいかんとしての――過程かていろんじるさいに、そこでは経済けいざいじんという概念がいねん膨張ぼうちょうしていると指摘してきする箇所かしょである。経済けいざい学者がくしゃのロビンズは「経済けいざいがくとは、目的もくてき選択せんたくてき用途ようとそなえた、希少きしょう手段しゅだんとの関係かんけいのありかたとして、人間にんげん行動こうどう研究けんきゅうする科学かがくである」とべた[7]。いちきゅうななきゅうねんさんがつじゅうはちにち講義こうぎは、このよくられた定義ていぎ念頭ねんとうきながら、シカゴ学派がくは中心ちゅうしん人物じんぶつベッカーによる議論ぎろんげる。ベッカーは希少きしょう資源しげん最適さいてき分配ぶんぱいによる目的もくてき効率こうりつてき達成たっせいという近代きんだい経済けいざいがく基本きほんとなるかんがかたしたがい、人間にんげん行動こうどう経済けいざい分析ぶんせき対象たいしょうとするのであれば、あらゆる合理ごうりてき行動こうどうがその対象たいしょうとなるべきだとろんじる。フーコーはこの議論ぎろんつぎのように要約ようやくしている。
経済けいざいがく対象たいしょう一般いっぱんし、かずある目的もくてきひとつを達成たっせいするためにかぎられた手段しゅだんもちいるようなすべての行動こうどうをも包含ほうがんする可能かのうせい〔が見出みいだされます〕。すなわち、経済けいざい分析ぶんせき対象たいしょうはおそらく、目的もくてきったすべての行動こうどうさだめられなければならない。おおざっぱにって、方法ほうほう経路けいろ手段しゅだん戦略せんりゃくてき選択せんたくするという意味いみです。ようするに、経済けいざい分析ぶんせき対象たいしょうがあらゆる合理ごうりてき行動こうどう同定どうていされるのです(NBP, p. 272. さんさんぺーじ)。
 しかしこうなると、「行動こうどう分析ぶんせき対象たいしょうをあらかじめ「合理ごうりてき」とされる行動こうどうかぎ根拠こんきょまで薄弱はくじゃくにならないか。実際じっさいベッカーはフーコーがげるいちきゅうろくねん論文ろんぶん非合理ひごうりてき行動こうどう経済けいざい理論りろん」で、いわゆる合理ごうりてき行動こうどうとは「たんに、効用こうよう関数かんすう利益りえき関数かんすうなど十分じゅうぶんととのった関数かんすう整合せいごうせいのあるかたち最適さいてきすること」だとしるす。そのうえみずからの研究けんきゅうにより、「経済けいざい理論りろん非合理ひごうりてき行動こうどうたいして、これまでかんがえられていたよりもはるかに整合せいごうせいたもっている」ことがあきらかにされたとべる[8]。一般いっぱん非合理ひごうりてきなされる行動こうどうであっても、合理ごうりせい土台どだいとした経済けいざい分析ぶんせき対象たいしょうになると主張しゅちょうするのだ。フーコーはこのてん関心かんしんける。というのは、行動こうどう一定いってい条件じょうけんたいする「反応はんのう」と定義ていぎしてかまわないというベッカーの議論ぎろんでは、あらゆる「『現実げんじつれる』行動こうどう」(NBP, p. 273. さんさんいちぺーじ)が経済けいざい分析ぶんせき対象たいしょうとなるからである[9]。こうして外的がいてきしょ条件じょうけん環境かんきょう変数へんすう変動へんどうという「現実げんじつ」に体系たいけいてき反応はんのうせる「行動こうどう」が、経済けいざい分析ぶんせき対象たいしょうとなる。他方たほう経済けいざいがく行動こうどう技術ぎじゅつないしは行動こうどう主義しゅぎ心理しんりがくといった研究けんきゅう完全かんぜん統合とうごう可能かのうとなる。
 しかしベッカーらしん自由じゆう主義しゅぎしゃ仮定かていする(合理ごうりてきに)行動こうどうする個人こじん、すなわち「経済けいざいじん」は、このかたりじゅうはち世紀せいき登場とうじょうしたときとは意味合いみあいがことなっているのではないかとフーコーはう。自己じこ利益りえき最大さいだいさせるために利己りこてきうことで他者たしゃ利益りえき自然しぜん最大さいだいさせる存在そんざい統治とうち理論りろんからすれば「自由じゆう放任ほうにん主体しゅたいまたは客体かくたい」、つまり「自由じゆう放任ほうにんにとってれてはならないパートナー」が、古典こてん経済けいざいがく経済けいざいじんかんであった。これにたいしてベッカーがえが経済けいざいじんつぎのようなものだとフーコーはう。
〔この経済けいざいじんは〕まさに操作そうさ可能かのうもの環境かんきょう人為じんいてきくわえられた変容へんようたい体系たいけいてき反応はんのうせるものとしてあらわれます。経済けいざいじんとはすぐれて統治とうち可能かのうものなのです(NBP, p. 276. さんさんさんぺーじ)。
 これは逆説ぎゃくせつてき事態じたいである。経済けいざいじん統治とうちしてはならない存在そんざいから、統治とうち可能かのう存在そんざいへとわっているのだから。経済けいざい主体しゅたい行動こうどう現実げんじつたいする反応はんのうたばとして分析ぶんせき記述きじゅつできるのであれば、そこでの仮説かせつしたがって現実げんじつ構築こうちくすることで、現実げんじつ経済けいざい主体しゅたい行動こうどう影響えいきょうおよぼすことができる。れてはいけなかったものが、いつのにか自由じゆうれることができるものにわっている。この逆説ぎゃくせつは「環境かんきょう介入かいにゅうがた権力けんりょく」(佐藤さとう嘉幸よしゆきしん自由じゆう主義しゅぎ権力けんりょく』)という、アングロサクソンがたしん自由じゆう主義しゅぎ主要しゅよう特徴とくちょうであり、フーコーのしん自由じゆう主義しゅぎろんようえるだろう。

 ②古典こてん経済けいざいがく経済けいざいじん
  ――自由じゆう主義しゅぎがた統治とうち対応たいおうする主体しゅたい概念がいねん
 フーコーの統治とうちろんは、いちきゅうはち年代ねんだい定式ていしきしたがえば「自己じこ他者たしゃ統治とうち」にかんする議論ぎろんである。かれこのむ「みちびき」のかたり表現ひょうげんするなら、統治とうちとは、自己じこによる自己じこみちびき、自己じこによる他者たしゃみちびき、他者たしゃによる自己じこみちびきのみっつがかさなるいとなみにほかならない。このとき「統治とうち」といういとなみの対象たいしょうには規模きぼ制限せいげんがなく、個人こじんから国家こっかまで多様たようひろがりうることがひとつのポイントをなす。国家こっかおこな統治とうちとは、領土りょうど人民じんみんという他者たしゃ統治とうちであるとともに、国家こっか自己じこ統治とうちでもある。そして国家こっか統治とうち空間くうかんなかでは、個人こじん集団しゅうだん自己じこ他者たしゃ統治とうち実践じっせんするのである。このとき国家こっかにはつねにひとつの疑念ぎねんがつきまとう。すなわち国家こっかははたして過不足かふそくない統治とうちおこなっているのか、といううたがいである。じゅうろく世紀せいき以降いこう国家こっか理性りせいろん絶対ぜったい主義しゅぎ国家こっかにとって統治とうちはつねに「過小かしょう」であり、不十分ふじゅうぶんなものであった。だが自由じゆう主義しゅぎにとって統治とうちとはつねに「過剰かじょう」である。ぎゃくえば、統治とうち過剰かじょうさを問題もんだいするような主体しゅたい社会しゃかい理論りろんを、自由じゆう主義しゅぎはもっていることになる。それが経済けいざいじん市民しみん社会しゃかいにほかならない。
 フーコーは経済けいざいじんを「じゅうきゅう世紀せいきあたらしい統治とうち理性りせい基本きほん要素ようそ」とぶ。そして「あたらしさ」の基礎きそには「選択せんたくする主体しゅたい」というあたらしい主体しゅたい理論りろんがあることをはじめに指摘してきする。この選択せんたくする主体しゅたいとは、イギリス経験けいけんろんとらえた、みずからの苦痛くつう判断はんだん基準きじゅんとして行動こうどうする主体しゅたいのことであり、フーコーはそれを〈利害りがい主体しゅたい〉とぶ。「利害りがい」とは「個人こじんによる、還元かんげん不可能ふかのう譲渡じょうと不可能ふかのう選択せんたくという原理げんり原子げんしろんてき主体しゅたい自身じしん無条件むじょうけん典拠てんきょとする選択せんたく原理げんり」である(NBP, pp. 277-8. さんさんろくぺーじ)。この選択せんたく主体しゅたい利害りがい主体しゅたい批判ひはん対象たいしょうにするのは――先回さきまわ気味ぎみにフーコーはう――、法的ほうてき意志いしもとづく〈ほう権利けんり主体しゅたい〉と社会しゃかい契約けいやくせつてき発想はっそうだ。
 自由じゆう主義しゅぎにとって、ほう権利けんり主体しゅたいによる社会しゃかい構成こうせいはなぜ批判ひはんされねばならないのか。それは自由じゆう主義しゅぎにとって社会しゃかいとは内在ないざいてき構成こうせいされるものであり、個人こじん利害りがいはそこでそのままのかたち貫徹かんてつされなければならないからだ。フーコーがヒュームをきながら強調きょうちょうするのは、ほう権利けんり主体しゅたい利害りがい主体しゅたいふたつのことなる論理ろんりであるというてんである。国家こっか社会しゃかい構成こうせいというてん前者ぜんしゃ超越ちょうえつてき意図いとてき論理ろんりそなえ、後者こうしゃには超越ちょうえつてきまたは内在ないざいてき自然しぜん発生はっせいてき論理ろんりそなわっている。どういうことか。社会しゃかい契約けいやくせつでは、利害りがい主体しゅたいはいったん否定ひていされてほう権利けんり主体しゅたいとなり、国家こっかなり社会しゃかい構成こうせいされる。個人こじん自身じしん生命せいめい財産ざいさんといった利害りがい保護ほごするために原始げんし契約けいやくむすぶ。そしてこの契約けいやくもとづき、各人かくじん権利けんり利害りがい譲渡じょうと断念だんねんする。かくして超越ちょうえつてき主体しゅたい構築こうちくされてほう禁止きんしがもたらされるか、超越ちょうえつてき主体しゅたいによってそれらが担保たんぽされるのである。
 だが他方たほうで、原始げんし契約けいやく否定ひていするヒュームは、利害りがい主体しゅたいほう権利けんり主体しゅたいになるのではなく、そもそも利害りがい主体しゅたいだけが存在そんざいするととなえる。「一般いっぱんてきでもあり、また明白めいはくでもある利益りえきたいする考慮こうりょが、いっさいの忠誠ちゅうせいの、また忠誠ちゅうせい付随ふずいする道徳どうとくてき義務ぎむ源泉げんせん」であって「われわれを政府せいふしたがわせる一般いっぱんてき義務ぎむ社会しゃかい利益りえき必要ひつよう」なのだ[10]。ヒュームにとり、社会しゃかい契約けいやくせつ歴史れきしてきにも理論りろんてきにも裏付うらづけをいている。私益しえき追求ついきゅうするにあたり、その一部いちぶ全体ぜんたい放棄ほうきして超越ちょうえつこう設定せっていし、国家こっか社会しゃかい構成こうせいされたようなことはかつてなかったし、そのような必要ひつようもないというのがヒュームの立場たちばだった。
 フーコーはここにあらわれているふたつの主体しゅたいかん関係かんけいえがす。「ほう権利けんり主体しゅたい利害りがい主体しゅたいってわるのではありません。〔中略ちゅうりゃくほう存続そんぞくするあいだずっと、利害りがい主体しゅたい存続そんぞくつづけるのです。利害りがい主体しゅたいはつねにほう権利けんり主体しゅたいからはみるのです」(NBP, p. 278. さんさんはちぺーじ)。フーコーは、利害りがい主体しゅたいほう権利けんり主体しゅたいを「はみる」と表現ひょうげんする。つまりふたつの主体しゅたいは、主体しゅたいとしてかさなりながら、それぞれ異質いしつ論理ろんりともなって社会しゃかいのなかに存在そんざいする。こうした利害りがい主題しゅだいは、どう時代じだいのマンデヴィル『はち寓話ぐうわ』やケネーらじゅう農学のうがく議論ぎろんともかさなりうだろう。各人かくじん私益しえき放棄ほうきすることなく、ただそれを追求ついきゅうするだけで個人こじん全体ぜんたい意志いし自然しぜん一致いっちするという周知しゅうち議論ぎろんである。
 他方たほう超越ちょうえつせいいたメカニズムとは、もちろん「市場いちば」のことだ。しかしそこでの主体しゅたい同時どうじほう権利けんり主体しゅたいでもあり、一人ひとり主体しゅたいをめぐって「市場いちば契約けいやくはちょうどさかさまに機能きのうしており、ここにはふたつの異質いしつ構造こうぞう」(NBP, p. 279. さんさんきゅうぺーじ)が存在そんざいする。利害りがい主体しゅたい-市場いちばほう権利けんり主体しゅたい-契約けいやくというつい異質いしつ論理ろんり共存きょうぞんするのが自由じゆう主義しゅぎがた統治とうち空間くうかんだとってよいだろう。じゅうはち世紀せいき経験けいけんろん自由じゆう主義しゅぎ経済けいざい思想しそうが「利害りがい」をキーワードにとらえた主体しゅたいは、「利害りがい」をいったんてることで成立せいりつするほう権利けんり主体しゅたいと、「経済けいざいじん」においてかさなり交差こうさしながら統治とうち空間くうかん構成こうせいする。〈市民しみん社会しゃかい〉とは、じゅう主体しゅたいまう空間くうかんとして自由じゆう主義しゅぎがた統治とうちにより規定きていされた歴史れきしてき理念りねんてき空間くうかんにほかならない。

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【3】市民しみん社会しゃかい――経済けいざい主体しゅたいめる主権しゅけん空間くうかん

 フーコーにとって、じゅうはち世紀せいきなかばに自由じゆう主義しゅぎ思想しそう政治せいじ経済けいざいがく誕生たんじょうをもたらしたという思想しそう史上しじょうよくられた契機けいきれるねらいは、市民しみん社会しゃかいひとつの特殊とくしゅな「現実げんじつ」としてあらわれている、としめすことにある。その「現実げんじつ」とは統治とうち実践じっせんにとってじゅう意味いみをもつものだ。ひとつは統治とうち実践じっせんとしての「現実げんじつ」であり、もうひとつは統治とうち批判ひはん理念りねんてき参照さんしょうこうとしての「現実げんじつ」である。このことが『なま政治せいじ誕生たんじょう』の「講義こうぎ要旨ようし」ではつぎのようにべられている。
自由じゆう主義しゅぎおこな省察せいさつは、国家こっか存在そんざいすることを起点きてん国家こっかのための国家こっかという目的もくてき達成たっせいする手段しゅだん統治とうちさがもとめたりはしない。そうではなく、国家こっかたいして外的がいてきかつ内的ないてきった関係かんけいにある社会しゃかいから出発しゅっぱつする。〔中略ちゅうりゃく〕まさに社会しゃかいという観念かんねんによってこそ、〔統治とうちは〕すでにそれ自体じたいで「過度かど」、「過剰かじょう」だという原則げんそく中略ちゅうりゃく〕により統治とうち技術ぎじゅつ展開てんかいさせることが可能かのうになる(NBP, p.325. さんきゅうさんぺーじ)。
 自由じゆう主義しゅぎがた統治とうちは、市民しみん社会しゃかいという「国家こっかたいして外的がいてきかつ内的ないてき」な関係かんけいにある観念かんねんから出発しゅっぱつするからこそ、統治とうち過剰かじょう問題もんだいにできる。自由じゆう主義しゅぎがた統治とうち国家こっか統治とうちおこなうためには、市民しみん社会しゃかいという空間くうかんつく必要ひつようがあった。市民しみん社会しゃかいとは「統治とうち思想しそうじゅうはち世紀せいきまれのあたらしい統治とうち形態けいたいが、国家こっかにとって必要ひつよう相関そうかんぶつとして出現しゅつげんさせたもの」である(STP, pp. 357-8. よんさんさんぺーじ)。したがって、この自由じゆう主義しゅぎ国家こっかにとって「必要ひつよう相関そうかんぶつ」のありかた実践じっせんとが問題もんだいとなるだろう。  統治とうち批判ひはん理念りねんてき参照さんしょうこうという部分ぶぶんしょうゆずるとして、統治とうち実践じっせんとしての市民しみん社会しゃかいはどのように規定きていされるのか。まずそれはひとつの〈自然しぜんせい〉をそなえた構造こうぞうである。『安全あんぜん領土りょうど人口じんこう』では、中世ちゅうせいてき神学しんがく宇宙うちゅうろんてき自然しぜんたいし、国家こっか理性りせいろんやポリスろん固有こゆう合理ごうりせいそなえた「国家こっか」という人工じんこうぶつ対置たいちしたという表現ひょうげんもちいられる。そして、じゅうはち世紀せいきにこの人工じんこうぶつ対立たいりつすることになる「自然しぜん」は、過去かことはことなる自然しぜんせいそなえているとろんじられる。
それは価格かかく上昇じょうしょうしたとき、上昇じょうしょう放置ほうちしていても、そのうち自然しぜんまるメカニズムにそなわる自然しぜんせいです。〔中略ちゅうりゃく〕それは政治せいじ国家こっか理性りせい行政ぎょうせいポリスにそなわる人為じんいせいにまさしく対立たいりつさせられる自然しぜんせいです。〔中略ちゅうりゃく〕それは人間にんげん相互そうご関係かんけい特有とくゆうな、ひと共存きょうぞんし、あつまり、交換こうかんし、労働ろうどうし、生産せいさんするさい自然しぜんきることに特有とくゆう自然しぜんせいなのです。〔中略ちゅうりゃく〕それは社会しゃかいそなわる自然しぜんせいです(STP, p. 357. よんさんぺーじ)。
 フーコーが価格かかくという言葉ことばもちいて示唆しさするように、自然しぜん人為じんい対比たいひ擁護ようごされている「自然しぜん」とは、じゅう農学のうがくによって「発見はっけん」された一種いっしゅ自生じせいてき秩序ちつじょであり、より直接的ちょくせつてきには市場いちば価格かかくメカニズムのことであるとってよい。したがってこの自然しぜんせい前提ぜんていとする「ひと」とは、孤立こりつした個人こじんではなく、交換こうかん分業ぶんぎょうつうじてむすびつく社会しゃかいてき存在そんざいだ。こうして市場いちば価格かかくメカニズム、経済けいざいじんというみっつの問題もんだい設定せってい同時どうじかつ相互そうご連関れんかんして統治とうち舞台ぶたい登場とうじょうする。ただここに問題もんだいがあるとフーコーはう。自由じゆう主義しゅぎほう権利けんり主体しゅたいたいする利害りがい主体しゅたい優越ゆうえつによって国家こっか社会しゃかい成立せいりつ説明せつめいし、その対応たいおうぶつとして経済けいざいじんという形象けいしょう形成けいせいする。では事実じじつとして存在そんざいする国家こっか社会しゃかいはどのように統治とうちされるべきなのか。主権しゅけんはどのような原則げんそくしたがってどうえばよいのだろうか。ここに自由じゆう主義しゅぎがた統治とうち直面ちょくめんする問題もんだいがある、とフーコーは感知かんちする。
統治とうちじゅつ主権しゅけん空間くうかんのなかで行使こうしされなければなりません――国家こっかそなわるほう権利けんり自体じたいはそう主張しゅちょうします――。しかし厄介やっかいなこと、こまったことに、主権しゅけん空間くうかん経済けいざい主体しゅたいめられ、まわれていることがあきらかになっています。他方たほう経済けいざい主体しゅたい中略ちゅうりゃく〕は、権力けんりょく節制せっせいもとめるか、主権しゅけんしゃそなわる合理ごうりせい統治とうちじゅつがなんらかの科学かがくてきかつ思弁しべんてき合理ごうりせい影響えいきょうにあることをもとめます。主権しゅけんみずからの行動こうどう領域りょういき一切いっさい放棄ほうきせず、主権しゅけん経済けいざい測量そくりょう技師ぎしへと転職てんしょくしなくてもむためにはどうすべきなのでしょうか(NBP, pp. 298. さんろくぺーじ)。
 フーコーは社会しゃかい契約けいやくせつもとづく主権しゅけん理論りろん自由じゆう主義しゅぎがた統治とうち適合てきごうしないとべるものの、主権しゅけんという問題もんだいそのものが存在そんざいしなくなったとはっていない。それでは、主権しゅけん理論りろんもとづかないで、しかしもっぱら「科学かがくてき知見ちけん」によることもなく統治とうち実践じっせん構成こうせいし、そこに正統せいとうせい付与ふよするにはどうしたらよいのか。経済けいざいじん出現しゅつげんすることでしょうじたあらたな問題もんだいとは、これである。主権しゅけん空間くうかんすなわち統治とうち存在そんざいするのは、ほう権利けんり主体しゅたいでありかつ利害りがい経済けいざい主体しゅたいでもある存在そんざい、「経済けいざいじん」だ。フーコーにとって「経済けいざいじん」とは、たんに経済けいざいてきアクターではなく、ふたつの異質いしつ主体しゅたい共存きょうぞんさせる形象けいしょうにほかならない。したがって、経済けいざいじん統治とうちにかんしては、還元かんげん不可能ふかのうふたつの主体しゅたいひとつの全体ぜんたいとして統治とうちする空間くうかん契約けいやく市場いちばという異質いしつ要素ようそ両立りょうりつさせるもとめられるのである。
経済けいざいじんが〕統治とうち可能かのうであるのは、あたらしい全体ぜんたい定義ていぎ可能かのうとなるかぎりでのことです。この全体ぜんたい経済けいざいじんを、ほう権利けんり主体しゅたい同時どうじ経済けいざいになとして包含ほうがんしますが、この要素ようそあいだ存在そんざいする関係かんけい結合けつごうだけではなく、それ以外いがい一連いちれんしょ要素ようそ出現しゅつげんさせます。そうした要素ようそかかわりながら、ほう権利けんり主体しゅたいという側面そくめんないし経済けいざい主体しゅたいという側面そくめんは、部分ぶぶんてきふくあいてき全体ぜんたい一部いちぶとなるかぎりで統合とうごう可能かのうしょ側面そくめん構成こうせいします。このあたらしい全体ぜんたいこそが、わたしおもうに、自由じゆう主義しゅぎがた統治とうちじゅつ特徴とくちょうなのです(ibid. さんろくさんぺーじ)。
 この「あたらしい全体ぜんたい」こそ「市民しみん社会しゃかい」である。フーコーは当時とうじ議論ぎろんとして、いちきゅうななきゅうねんよんがつよんにち講義こうぎ半分はんぶんちかくをき、ファーガスンの『市民しみん社会しゃかい史論しろん』(いちななろくななねん)を紹介しょうかいしている。その内容ないようについては、この分野ぶんやでは代表だいひょうてきなマンフレッド・リーデルによる要約ようやく確認かくにんすればりるだろう。「市民しみん社会しゃかい静的せいてき自然しぜん法理ほうりろんは、進歩しんぽてき自然しぜんてき形式けいしき獲得かくとくすることになるが、スコットランド道徳どうとく哲学てつがくはこの形式けいしきもとづいて、近代きんだい市民しみん社会しゃかいそなわる経済けいざいてき政治せいじてき生活せいかつしょ要素ようそ徐々じょじょ解放かいほうされていくことを正当せいとうしたのである。近代きんだい市民しみん社会しゃかい歴史れきし、つまりファーガスンのう〈市民しみん〔=文明ぶんめい社会しゃかい歴史れきし〉の対象たいしょうは、人類じんるい文明ぶんめいられる自然しぜん進歩しんぽである。この歴史れきしでは、従来じゅうらい自然しぜんほうカテゴリーではもはや叙述じょじゅつしえない構造こうぞう変革へんかく中略ちゅうりゃく〕、すなわち政治せいじてき法的ほうてきかつ経済けいざいてき意味いみにおける自由じゆう主義しゅぎてき市民しみんてき社会しゃかいへの進歩しんぽ分析ぶんせきされる」。[11]
 もちろんフーコーは、市民しみん社会しゃかいとはファーガスンがとなえる「自然しぜんてき-歴史れきしてき定数ていすう」だといたいのではない。市民しみん社会しゃかいとは「直接的ちょくせつてきいちてき」な現実げんじつではなく、あくまでも近代きんだい統治とうち技術ぎじゅつ一部いちぶである「現実げんじつ」である。フーコーはこのような現実げんじつに「相互そうご作用さようによる現実げんじつ」という名前なまえあたえる。
まさしく権力けんりょくのはたらきと権力けんりょく関係かんけいのなかで、またそれらをえずのがれるものから、いわば統治とうちしゃ被治者ひちしゃまじわる地点ちてん相互そうご作用さようしあう過渡かとてき形象けいしょうまれるのです。この形象けいしょうはつねに存在そんざいしていたわけではないけれども、しかしやはり現実げんじつてきなものであり、この場合ばあいには市民しみん社会しゃかいとして、またある場合ばあいには狂気きょうきばれうるのです(NBP, p. 301. さんさんろくぺーじ)。
 市民しみん社会しゃかいとは、統治とうちしゃ被治者ひちしゃ接点せってん、すなわち国家こっか経済けいざいじん接点せってんしょうじる「現実げんじつ」であり、それを対象たいしょうとする統治とうちとは「遍在へんざいする統治とうち一切いっさい見過みすごさない統治とうちほうさだめる規則きそくのっとった統治とうちであるが、経済けいざい種別しゅべつせい尊重そんちょうする統治とうち中略ちゅうりゃく〕、市民しみん社会しゃかい管理かんりし、国民こくみんnation を管理かんりし、社会しゃかい管理かんりし、社会しゃかいてきなものを管理かんりする統治とうち」となる(NBP, p. 300. さんろくぺーじ)。市民しみん社会しゃかい経済けいざいじん自由じゆう主義しゅぎ構成こうせいするひとつの全体ぜんたい要素ようそとなっている。
 てんれておくべきことがある。まずここでの「市民しみん社会しゃかい」について、自由じゆう主義しゅぎがた統治とうちのなかで統治とうち対峙たいじするという図式ずしき成立せいりつしない。市民しみん社会しゃかいとは統治とうち実践じっせんおこなわれる主権しゅけん空間くうかんであり、統治とうちしゃ被治者ひちしゃまじわるとしてとらえられているからだ。つぎ自由じゆう主義しゅぎがた統治とうち理念りねんがたでは、経済けいざいてきなものと、社会しゃかいてきなものという意味いみでの社会しゃかいとがはたして区別くべつされているのかという問題もんだいがある。「社会しゃかい」とは資本しほんせい社会しゃかい市場いちば社会しゃかいとしての市民しみん社会しゃかいいであり、この社会しゃかいへの統治とうちは「経済けいざい種別しゅべつせい尊重そんちょうする」かたちおこなわれる。利害りがい主体しゅたいほう権利けんり主体しゅたいを「はみる」、つまり経済けいざいてきなものが主権しゅけんてき法的ほうてきなものを包摂ほうせつすることで「社会しゃかい」が登場とうじょうしているのだ。だとすれば、経済けいざいてきなものとは異質いしつ領域りょういきとしての社会しゃかいてきなものが存在そんざいする余地よちはないのではないか。この疑問ぎもんについては本稿ほんこう最後さいご検討けんとうしよう。つぎ経済けいざいじん主権しゅけん関係かんけいについて、すなわち統治とうち批判ひはん理念りねんてき参照さんしょうこうとしての「現実げんじつ」がたす機能きのう、すなわち政治せいじ経済けいざいがく役割やくわりについて検討けんとうしたい。

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【4】主権しゅけんしゃ権力けんりょく剥奪はくだつする政治せいじ経済けいざいがく

 自由じゆう主義しゅぎがた統治とうち統治とうち実践じっせんとして市民しみん社会しゃかいさだめる。では経済けいざいじんまう主権しゅけん空間くうかん主権しゅけんしゃめる位置いち役割やくわりはどのようなものか。経済けいざいじん主権しゅけんしゃ関係かんけいは、ほう権利けんり主体しゅたい主権しゅけんしゃとの関係かんけいとはおおきくことなるとフーコーはべる。もちろんほう権利けんり主体しゅたいは、社会しゃかい契約けいやくせつ自然しぜんほう観点かんてんから主権しゅけんしゃによる権力けんりょく行使こうし制限せいげんする。だが経済けいざいじん権力けんりょく行使こうし制限せいげんするにまらない。経済けいざいじん主権しゅけんしゃ権力けんりょくを「剥脱はくだつ」するにいたるのである(NBP, p. 296. さんろくぺーじ)。この剥脱はくだつ要求ようきゅううらにあるのが、経済けいざい過程かてい不可視ふかしせいと、国家こっかそなわる合理ごうりせいには必然ひつぜんてき限界げんかいがあるとの主張しゅちょうである。フーコーはとくにスミスの「えざる」が経済けいざいじん機能きのうさせるメカニズムだとしたうえで、が「えざる」ものであること、つまり不可視ふかしであるてん強調きょうちょうする。

 ①えざるした無知むち無能むのうとなる君主くんしゅ
 主権しゅけんしゃ経済けいざい過程かてい介入かいにゅうすべきではない。これが自由じゆう放任ほうにん基本きほんてき主張しゅちょうだった。これはまずもって経済けいざい過程かてい可視かしせい不可視ふかしせいかんする認識にんしき問題もんだいである。分業ぶんぎょう商業しょうぎょう肯定こうていする自由じゆう主義しゅぎ思想しそうにおいては、みずからの利益りえき利己りこてき追求ついきゅうすることが他人たにん利益りえきになり、またみずからも他人たにん利己りこ主義しゅぎてき行動こうどうから恩恵おんけいける。このときいちにん経済けいざい主体しゅたいげると、そのひとにとってはみずからの行動こうどう他人たにんあたえる影響えいきょうも、みずからが他人たにんからける影響えいきょうも、ともに確定かくていなものとなるだろう。なぜなら全員ぜんいん考慮こうりょれるのはみずからの行動こうどうだけであり、だれ他人たにん行動こうどう経済けいざい過程かてい全体ぜんたいのことを考慮こうりょしていないし、できないからだ。しかし、それだからこそ経済けいざい過程かてい全体ぜんたいはうまく作動さどうする。スミスのいいかたりれば「個人こじん自分じぶん利益りえき追求ついきゅうすることで、社会しゃかい利益りえきを、自分じぶん促進そくしんしようと実際じっさいおも以上いじょうに、効果こうかてき促進そくしんすることがたびたびある」[12]。名高なだかい「えざる」である。フーコーの以下いかのくだりは、この「えざる」が登場とうじょうする箇所かしょを「確定かくてい」という表現ひょうげんもちいていいなおしたものだろう。
こうした確定かくていなものこそ、経済けいざいじん個々ここおこな計算けいさんをいわば基礎きそづけ、そこに整合せいごうせいあたえ、効果こうかおよぼし、それを現実げんじつれて世界せかいのあらゆる他者たしゃ可能かのうなかぎり最適さいてきかたちむすびつけるのです。つまり、経済けいざいじんみずかおこな計算けいさん実証じっしょうせいを、計算けいさんのがれるものすべてに依拠いきょさせるシステムがあるのです(NBP, p. 281. さんよんぺーじ)。
 自己じこ利益りえき計算けいさん、すなわち利己りこてき選択せんたくられる合理ごうりせいは、当人とうにん計算けいさんできないものによって基礎きそづけられる。この逆説ぎゃくせつてきな「システム」が「えざる」だ。この表現ひょうげん神学しんがくてきなニュアンスがあるかどうかは議論ぎろんかれるところであるが[13]、フーコーはかみ摂理せつり念頭ねんとうにあるだろうとう。えざるのシステムとは、うらかえせば、経済けいざい過程かてい全体ぜんたい透明とうめいなものとして見渡みわた俯瞰ふかんてき視点してんそなえるだけでなく、その視点してんもとにして個々人ここじん多様たよう利益りえきたばねる「」にほかならない。しかしこのは「あらゆるかたち介入かいにゅうきんじるだけでなく、経済けいざい過程かてい全体ぜんたい集計しゅうけいすることを可能かのうにするような、あらゆるかたち俯瞰ふかんてき視点してんをも禁止きんしする」(NBP, p. 284. さんよんぺーじ)。「えざる」にとり主権しゅけんてき権力けんりょく行使こうしはあってはならず、この「」は、主権しゅけんしゃから権力けんりょく剥奪はくだつするのである。
 ではえざるかみは、ひと高慢こうまんにもかみめる地位ちいにたどりくことを禁止きんしするのか。そうではないだろう。そのような超越ちょうえつてき視点してんそなえた「かみ」は実際じっさいにはいないのだ。経済けいざいじんたてまつ自然しぜんせいというえざるかみは、パノプティコンがた施設しせつがその中央ちゅうおう監視かんしとうのようなものとかんがえるべきだろう。全体ぜんたいおこない、秩序ちつじょ確保かくほして、システムを成立せいりつさせるためには、文字通もじどお視点してんとなる認識にんしき必要ひつようであるものの、システムがいったん起動きどうしてしまえば、そのような視点してん実際じっさい存在そんざいしているかは問題もんだいでなくなる。監視かんしとうひとのぼっているかどうかは関係かんけいない。ひとがいることになってさえいれば、監視かんしとうひとつのシステムを維持いじ機能きのうさせる中心ちゅうしんとしての役割やくわりたすことができる。ひるがえって自由じゆう主義しゅぎ統治とうち空間くうかん市民しみん社会しゃかいべるえざるとはあくまで、世俗せぞくてきなものとして社会しゃかい内在ないざいする自生じせいてき秩序ちつじょ市場いちばメカニズムそのものにほかならない。「」のはたらきは超越ちょうえつろんてき規定きていされる必要ひつようがない。じっさいスミスがあたえる規定きていも、「たびたびある」という経験けいけんてき議論ぎろんもとづいていた。だからこそえざるについては、監視かんしとう看守かんしゅおなじくらい、それが「えざる」もの、つまり不可視ふかしであるてん注意ちゅういはらわなければならない。
えざるについては〕これまでつねに、ってみれば「」のほうおもきがかれていました。分散ぶんさんしたいとをすべてよりわせてひとつの全体ぜんたいつく摂理せつりのようなものがあるというてん強調きょうちょうされていました。しかしもうひとつの要素ようそ、つまり「えざる」の部分ぶぶん不可視ふかしせい〕も、それにおとらず重要じゅうようではないでしょうか。不可視ふかしせいとは、みずからの背後はいご調整ちょうせいおこなっている、または一人ひとりいちにん自前じまえおこなっていることをむすびつけているがあると人々ひとびと理解りかいすることを、人知じんち不完全性ふかんぜんせい理由りゆうさまたげるような状況じょうきょうのことだけをすのではありません。不可視ふかしせいとは不可欠ふかけつなものです。不可視ふかしせいゆえに、経済けいざいになだれであっても共同きょうどう利益りえき追求ついきゅうしてはならないし、追求ついきゅうすることができないのです(NBP, p. 281. さんよんよんぺーじ)。
 えない不可視ふかしせいは、経済けいざい過程かてい全体ぜんたい円滑えんかつ機能きのうさせるために、事実じじつとしてだけでなく義務ぎむとしてすべてのプレーヤーにされる。この義務ぎむ個々ここ経済けいざい主体しゅたい経済けいざいじんだけでなく政治せいじ主体しゅたい主権しゅけんしゃにも適用てきようされるだろう。ふたつの主体しゅたい別々べつべつ人間にんげんではなく、一人ひとり主体しゅたいであるのだから。主権しゅけんしゃこそ、市民しみん社会しゃかい統治とうちとするにあたっては、経済けいざい世界せかいとのあいだの「不透明ふとうめいせい」をれ、尊重そんちょうしなければならないだろう。このとき主権しゅけんしゃみずからが無知むちであることをみとめなければならないし、無知むちであることがもとめられる。

 ②統治とうち科学かがくとはことなる政治せいじ経済けいざいがく誕生たんじょう
 フーコーはスミスをきつつべる。政府せいふ産業さんぎょう振興しんこう就労しゅうろう政策せいさくなど、ひろえばいち国内こくない資源しげん配分はいぶん最適さいてきかたちおこなうことはできない。なぜならこうした業務ぎょうむ政府せいふたすべき義務ぎむ設定せっていしたところで、実際じっさい政策せいさく実践じっせんればあきらかなように、この義務ぎむを「ひと知恵ちえ知識ちしきをいくらくしても適切てきせつかたちたすことは不可能ふかのう」だからである[14]。経済けいざい過程かてい本性ほんしょうてき無知むち政府せいふは、経済けいざい領域りょういき統治とうち対象たいしょうとしてはならない。それはじゅう理由りゆうもとづいていた。経済けいざい過程かていすなわち個々人ここじん利害りがい追求ついきゅうによる全体ぜんたい利害りがい追求ついきゅうは、自然しぜんせいのメカニズムにしたが以上いじょうそとからくわえなくてもうまくいくという肯定こうていてき理由りゆうと、政治せいじ主体しゅたいである主権しゅけんしゃ経済けいざい過程かてい全体ぜんたい把握はあくする認識にんしきつことはそもそも不可能ふかのうであるという否定ひていてき理由りゆうふたつである。両者りょうしゃあいまって経済けいざい領域りょういきへの介入かいにゅう禁止きんし自由じゆう放任ほうにんというテーゼが支持しじされる。つまり「経済けいざいてき合理ごうりせい経済けいざい過程かてい全体ぜんたいせい認識にんしきできないことに包囲ほういされるだけでなく、基礎きそづけられているのです」(NBP, p. 285. さんよんななぺーじ) 。
 このように経済けいざいてき合理ごうりせい全体ぜんたいせい認識にんしき不可能ふかのうせいもとづいて規定きていされると、経済けいざいてき合理ごうりせい学的がくてき対象たいしょうとする「経済けいざいがく」は「かみなき」学問がくもんとしてあらわれる。かみがいないとは全体ぜんたいせいくという意味いみであり、経済けいざいがくはこのてんで、主権しゅけんしゃには統治とうちすべき国家こっか全体ぜんたいせい把握はあくする視点してんがないことをしめす。だがそれだけではない。
経済けいざいがくは、いち国家こっかない主権しゅけん行使こうしする主権しゅけんしゃ法的ほうてき形態けいたいを、社会しゃかいせいにとって本質ほんしつであるものとしてあらわれつつあるもの、つまり経済けいざい過程かていえる(NBP, p. 286.さんよんななぺーじ)。
 経済けいざいがくはこうして市民しみん社会しゃかい設定せっていする。しかし、経済けいざいじん主権しゅけんしゃ権力けんりょく剥脱はくだつしたことにより、主権しゅけんかんする問題もんだいあらたなかたち提起ていきしたのとおなじく、経済けいざいがく法的ほうてき意味いみでの主権しゅけん主権しゅけんしゃから経済けいざい過程かていを「かすめった」だけであり、主権しゅけん問題もんだい廃棄はいきしたわけではない。すでにたように、自由じゆう主義しゅぎがた統治とうち展開てんかいする領域りょういきとしての市民しみん社会しゃかいには、ほう権利けんり主体しゅたい利害りがい主体しゅたいかくとする異質いしつふたつの原理げんり共存きょうぞん葛藤かっとうするのである。ただし両者りょうしゃともに、統治とうち実践じっせんにかんしては、主権しゅけんしゃ)の権力けんりょく行使こうし制限せいげんする論理ろんりという側面そくめんつ。もちろんその論理ろんりおおきくことなっている。ほう権利けんり主体しゅたいからすれば、統治とうち行為こうい制限せいげんする根拠こんきょ社会しゃかい契約けいやくせつによる国家こっか形成けいせい権力けんりょくしゃ義務ぎむであり、自然しぜんほうもとづくひと固有こゆう権利けんりだ。他方たほうで、利害りがい主体しゅたいからすればその根拠こんきょ主権しゅけんしゃ無知むちであること、認識にんしき能力のうりょく限界げんかいがあるという事実じじつ起因きいんする。このとき、ほう権利けんり利害りがいられる合理ごうりせいちがいをしめして、主権しゅけんしゃ無知むちであるがゆえに「無能むのう」であることをあきらかにしたのが古典こてん自由じゆう主義しゅぎ経済けいざいがくとしての政治せいじ経済けいざいがくである。社会しゃかい契約けいやくせつ国家こっか法的ほうてき設立せつりつ根拠こんきょであるにしても(立憲りっけん主義しゅぎ)、そこではたらいている経済けいざい過程かてい契約けいやくせつのっとった統治とうち主権しゅけん図式ずしきでは説明せつめいできない。これはいわゆるイデオロギーと現実げんじつのずれではない。その両者りょうしゃとも近代きんだい自由じゆう主義しゅぎ国家こっか市民しみん社会しゃかい構成こうせいしていることが自由じゆう主義しゅぎ現実げんじつなのである。
 主権しゅけん経済けいざいじん市民しみん社会しゃかい導入どうにゅうし、経済けいざい領域りょういき固有こゆう合理ごうりせいがあることをとなえる政治せいじ経済けいざいがくは、「いかに統治とうちするべきか」をおしえるかわりに、「このように統治とうちしてはならない」とく。フーコーがカントの啓蒙けいもうろんいてとなえる意味いみでの統治とうち理性りせい批判ひはん」として登場とうじょうし、経済けいざい領域りょういきたいする主権しゅけんてき介入かいにゅう不可能ふかのうせいしめして〈経済けいざい主権しゅけん〉――経済けいざい領域りょういきたい主権しゅけんしゃほう-政治せいじてき介入かいにゅうする――という発想はっそうそのものを否定ひていするのだ。たとえば『国富こくふろん』での議論ぎろんは、思想しそうてきれば、もちろんじゅうしょう主義しゅぎ学説がくせつ政策せいさくたいする批判ひはん政策せいさく技術ぎじゅつじょうのミスや理論りろんてき誤謬ごびゅうたいする論争ろんそうてき介入かいにゅうではある。しかし統治とうち理性りせい歴史れきしにとっての問題もんだいはそこではない、とフーコーはかんがえている。
アダム・スミスの政治せいじ経済けいざいがく経済けいざいてき自由じゆう主義しゅぎは、こうした〔経済けいざい主権しゅけんという〕政治せいじてきプロジェクトをぜん否定ひていします。もっと過激かげきないいかたをすれば、国家こっか国家こっか主権しゅけん指標しひょうとするような政治せいじ理性りせい価値かちとするのです(NBP,p. 288. さんぺーじ)。
 経済けいざいがく主権しゅけんから経済けいざい領域りょういきを「かすめる」とは「国家こっか国家こっか主権しゅけん指標しひょうとするような政治せいじ理性りせい」、そのような統治とうち理性りせい退しりぞけることである。このてんでスミスはじゅう農学のうがくとも必然ひつぜんてきたもとかつ。えざるのはたらきを経済けいざいひょうによって理論りろんてきあきらかにすることはできないのである。経済けいざい主権しゅけんという発想はっそう自体じたい否定ひていするならば、自然しぜんせいという経済けいざい過程かてい総体そうたいへの理論りろんてき把握はあく可能かのうせいそのものを断念だんねんしなければならない。したがって経済けいざいひょうもそれに基礎きそづけられた専制せんせい擁護ようごもありえないというわけだ(NBP, p. 287-90.さん〇-さんぺーじ)。
 しかし経済けいざいてきなものの把握はあくもとづかない合理ごうりせいとはなに依拠いきょしているのか。主権しゅけんしゃ無知むちかつ無能むのうであることをもとめる――権力けんりょく剥奪はくだつされても主権しゅけんしゃそのものは存在そんざいする――統治とうち理性りせいは、なに基礎きそづけられているのか。それは「被治者ひちしゃ合理ごうりせいである」というのがフーコーのこたえである(NBP, p. 316. さんはちよんぺーじ)。これは【2】で参照さんしょうしたベッカーの合理ごうり非合理ひごうりをめぐる議論ぎろん想起そうきさせる。ほとんどすべての人間にんげん行動こうどう合理ごうりてきである、なぜなら合理ごうりてきだから(経済けいざいがくてき論証ろんしょうできるから)というのがベッカーの主張しゅちょうだった。経済けいざい固有こゆうのメカニズム、すなわち人間にんげん行動こうどう合理ごうりせい尊重そんちょうするのが自由じゆう主義しゅぎ以後いご統治とうち基礎きそであるならば、経済けいざいじん経済けいざいてき合理ごうりせい無限むげん拡大かくだいされ、すべては経済けいざいてきなものになる。しかしそこに一体いったいなに問題もんだいがあるというのか。そもそも市民しみん社会しゃかいとは経済けいざいじんまう統治とうち空間くうかんとして構想こうそうされた「現実げんじつ」だったのではないだろうか。そうだとすれば問題もんだい市民しみん社会しゃかい告発こくはつすることでも、経済けいざいてきなものにおおかくされた政治せいじてきなものや社会しゃかいてきなものを復興ふっこうさせることではないだろう。社会しゃかいてきなものはすなわち経済けいざいてきなものであるのだから。ではフーコーはどこに統治とうちをめぐるあらそいの領域りょういき設定せっていするのだろうか。そこでどのようなあらそいがしょうじるとかんがえているのだろうか。最後さいごにこのいをかんがえてみよう。

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【5】対抗たいこうみちびきとしての自由じゆう主義しゅぎ

 ①被治者ひちしゃによる被治者ひちしゃ統治とうちとしての自由じゆう主義しゅぎ
 統治とうちあらそいとは統治とうちしゃ被治者ひちしゃむす関係かんけいのありかたにほかならない。このとき統治とうちしゃ被治者ひちしゃとの関係かんけいは、本稿ほんこう主題しゅだいとの関連かんれんえば統治とうち理性りせい、より一般いっぱんてきには〈真理しんり体制たいせい〉、すなわち真理しんりであるとされる言説げんせつつうてきともてきなありかた不可分ふかぶんである。このような統治とうちをめぐるあらそいをフーコーは〈みちびき〉と〈対抗たいこうみちびき〉という言葉ことばならわしており、統治とうち歴史れきしとは〈対抗たいこうみちびき〉の歴史れきしであるともべている。統治とうちろん観点かんてんからすると、自由じゆう主義しゅぎには決定的けっていてきあたらしいところがひとつある。統治とうち根拠こんきょ被治者ひちしゃおこな合理ごうりてき計算けいさん被治者ひちしゃ合理ごうりせいもとめるてんである。
 このあたらしさはふたつのことなる区分くぶん交差こうさした地点ちてんしょうじるとフーコーはう。ひとつは合理ごうりせい由来ゆらい、もうひとつはその根拠こんきょである。由来ゆらいとは、統治とうち被治者ひちしゃ統治とうちしゃのいずれの主体しゅたいもとにあるかの区分くぶんで、根拠こんきょとは、合理ごうりせい英知えいち計算けいさんのどちらからみちびされるのかについての区分くぶんである。フーコーはこの種類しゅるい区分くぶん国家こっか理性りせい登場とうじょうまえ登場とうじょう自由じゆう主義しゅぎみっつにあてはめる。つまり西洋せいようには、おおきくけてみっつの統治とうち類型るいけい存在そんざいしているということになる。まず国家こっか理性りせいろん登場とうじょう以前いぜんは、統治とうちしゃである君主くんしゅ世界せかい秩序ちつじょかんする「真理しんり」の所有しょゆうしゃとして登場とうじょうする。つぎ国家こっか理性りせいろん登場とうじょうすると、いわば神学しんがくてき世界せかいかんもとづく合理ごうりせいたいして、計算けいさんもとづく合理ごうりせい対置たいちされる。ただし計算けいさんからみちびかれる合理ごうりせいは、あくまで君主くんしゅという統治とうちしゃ中心ちゅうしんとして組織そしきされる合理ごうりせいである。
 これにたいじゅうはち世紀せいき自由じゆう主義しゅぎは、国家こっか理性りせいろんたいし、政治せいじ経済けいざいがく依拠いきょした被治者ひちしゃ合理ごうりせい対置たいちする。ここで被治者ひちしゃとは「経済けいざい主体しゅたいであり、一般いっぱんてきえば、利害りがい主体しゅたい」である。「一般いっぱんてき意味いみでの『利害りがい関心かんしん』を満足まんぞくさせるために、一定いってい手段しゅだんのぞむようなかたちもちいるもの」のことだ(NBP, p. 316. さんはちよんぺーじ)。自由じゆう主義しゅぎがた統治とうちは、こうした個人こじん合理ごうりせいもとづいて調整ちょうせいされる。このさん番目ばんめ統治とうち類型るいけいでは〈自由じゆう〉がじゅう尊重そんちょうされるべき概念がいねんとして登場とうじょうする。それはもちろん被治者ひちしゃそなわる自由じゆうである。しかしこの自由じゆう主権しゅけんしゃ政府せいふによる権利けんり制限せいげん法的ほうてき対置たいちされるような、個人こじん権利けんりとしての自由じゆうであるだけではない。自由じゆうは「統治とうちせいそのものに不可欠ふかけつ要素ようそ」として尊重そんちょうされなければならない。このてんは『安全あんぜん領土りょうど人口じんこう』の最終さいしゅう講義こうぎでもかえべられている。
自由じゆう尊重そんちょうしないことは、ほうらして権利けんり濫用らんようするということだけでなく、とりわけ、しかるべきかたち統治とうちできていないということなのです。自由じゆうと、自由じゆう固有こゆう限界げんかいとを統治とうち実践じっせん内部ないぶ統合とうごうすることが、いまさい重要じゅうよう課題かだいになったのです(STP, p. 361. よんさんぺーじ)。
 こうしてみると自由じゆう主義しゅぎがた統治とうち奇妙きみょう統治とうちである。統治とうちしゃ無知むち無能むのうであるだけでなく、経済けいざいじんとして市民しみん社会しゃかいまう被治者ひちしゃ自由じゆう合理ごうりせい尊重そんちょうする義務ぎむされている。だがこのように被治者ひちしゃ自由じゆう際限さいげんなくひろがる一方いっぽうで、経済けいざいてきなものをほう権利けんりたいして決定的けっていてき有利ゆうり立場たちばにつけるとき、被治者ひちしゃ固有こゆう合理ごうりせい統治とうち合理ごうりせいとしてみとめることをとおして、被治者ひちしゃ統治とうち舞台ぶたいに、統治とうちしゃとしてげるという決定的けっていてき政治せいじてきリスクがおかされる。自由じゆう主義しゅぎがた統治とうちという〈みちびき〉のありかたへの〈対抗たいこうみちびき〉の可能かのうせいを、この統治とうち形態けいたい前提ぜんてい条件じょうけんとしてんでいる。政治せいじ経済けいざいがく統治とうち科学かがくではなく「批判ひはん」であるかぎりで有効ゆうこうならば、その批判ひはん矛先ほこさき政治せいじ経済けいざいがくつくげる「現実げんじつ」にたいしても当然とうぜんけられることになるからだ。

 ②終末しゅうまつろんとしての対抗たいこうみちび
 〈対抗たいこうみちびき〉は終末しゅうまつろんによってもたらされる、とフーコーはう。あらゆる国家こっかは、世界せかいがいったん破滅はめつし、救済きゅうさいおとずれるのではないかという発想はっそう否定ひていし、いまここにある支配しはい体制たいせい永遠えいえんつづくと主張しゅちょうする。しかし「終末しゅうまつろん」は、そのように自己じこ主張しゅちょうする国家こっかにもまたわるときるのではないかととなえる。『安全あんぜん領土りょうど人口じんこう』のなかほどで、フーコーは実際じっさいにはげなかった講義こうぎ原稿げんこうにこうしるしていた。
統治とうちせい分析ぶんせきとは〔中略ちゅうりゃく〕「すべては政治せいじてきである」という命題めいだいふくんでいます。〔中略ちゅうりゃく政治せいじとは統治とうちのありかた統治とうちせい〕にたいする抵抗ていこう最初さいしょ蜂起ほうき最初さいしょ対決たいけつともまれたものにほかならないのです(STP, p. 221n5. ろくななぺーじへんちゅう5)。
 中世ちゅうせい国家こっか刷新さっしんした領域りょういき国家こっか主張しゅちょうする時間じかんせい挑戦ちょうせんし「わり」をげる「政治せいじ」、それが市民しみん社会しゃかいなのだ。
国家こっか限定げんてい統治とうちせい停止ていしするとき、それはなにによるのでしょうか。それはまさに社会しゃかいそのものとなるものの出現しゅつげんによります。市民しみん社会しゃかい国家こっかによる制約せいやくかんから解放かいほうされたあかつきには、国家こっか権力けんりょくがここでいう市民しみん社会しゃかい吸収きゅうしゅうされたときには、〔中略ちゅうりゃく歴史れきしの、とはいませんが、すくなくとも政治せいじ時間じかん国家こっか時間じかんわることになるのです(STP, pp. 363-4. よんさんきゅうぺーじ)。
 「社会しゃかい」が出現しゅつげんすることによって国家こっか理性りせいがた統治とうち永続えいぞくせい否定ひていされる。既存きそん意味いみでの政治せいじ時間じかんわる。法的ほうてき主権しゅけん論理ろんりとは異質いしつ国家こっか社会しゃかい構成こうせい原理げんりが、〈対抗たいこうみちびき〉としてあらわれるからだ。「社会しゃかい」とはフーコーによれば、被治者ひちしゃによる「政治せいじ」としての〈対抗たいこうみちびき〉のさん形態けいたいいち番目ばんめである。番目ばんめさん番目ばんめの〈対抗たいこうみちびき〉の主体しゅたいとされるのは、それぞれ住民じゅうみん集団しゅうだんpopulation と国民こくみん民族みんぞくnation である。終末しゅうまつろんが「革命かくめいそのものへの権利けんり」というかたちり、住民じゅうみん自身じしんが「叛乱はんらん絶対ぜったいてき権利けんりとして」国家こっかへのあらゆる従属じゅうぞくとそれをさだめる規則きそく否定ひていし、国家こっか真理しんりとはことなるみずからの根本こんぽんてき欲求よっきゅうもとづいてほうてる、いわば「人民じんみん革命かくめい」の実践じっせん番目ばんめ類型るいけいとなる。これにたいしてさん番目ばんめとしてげられるのは、国民こくみん民族みんぞく主体しゅたいとなり、国家こっか社会しゃかいかんする真理しんり保持ほじするちから我々われわれにはもうあるのだと主張しゅちょうし、国家こっか対峙たいじする「終末しゅうまつろん」である。このみっつは時代じだいじゅんならんでいるわけではないが、いずれも自由じゆう主義しゅぎがた統治とうち統治とうち歴史れきし導入どうにゅうした「被治者ひちしゃ合理ごうりせいによる統治とうち」という観点かんてんから出発しゅっぱつし、既存きそん統治とうち有限ゆうげんであることをしめしている。
 しかしそうであるならば、ファーガスンがえがいたような、文明ぶんめい社会しゃかいとして時間じかんした市民しみん社会しゃかいたいしてもまた、終末しゅうまつろんげる対抗たいこうみちびきがあるはずだ。フーコーは簡単かんたんげるだけだが、ヘーゲルからマルクスにいた市民しみん社会しゃかいろん資本しほん主義しゅぎてき生産せいさん様式ようしきたいする批判ひはんをそのひとつとしてげうるだろう。しかしどの対抗たいこうみちびきも統治とうちそのものをわらせることはできないし、そのことを目指めざしてもいない。どの終末しゅうまつろん対抗たいこうみちびきであるかぎり、みちびき=統治とうちであるからだ。この意味いみ統治とうちとは、統治とうちせい講義こうぎ各所かくしょ様々さまざま表現ひょうげんべられるように、国家こっかかんするかぎり、えざる国家こっか目指めざ運動うんどうであり、すべての統治とうち国家こっかになることを目指めざしている。いいかたえれば、フーコーにとっては「国家こっか廃棄はいき」は問題もんだいではなく、国家こっかがどのように機能きのうするかが問題もんだいなのだ。

 ③市民しみん社会しゃかいへの対抗たいこうみちび
 さてうえたように、自由じゆう主義しゅぎがた統治とうち登場とうじょうすることによって、みっつの統治とうち類型るいけいみちびきの登場とうじょうする。
じゅうきゅう世紀せいき以来いらい一連いちれん統治とうち合理ごうりせいかさなりい、ささい、異議いぎとない、あらそっているのです。真理しんりもとづく統治とうちじゅつ主権しゅけん国家こっか合理ごうりせいもとづく統治とうちじゅつ経済けいざい主体しゅたい合理ごうりせいもとづく統治とうちじゅつ一般いっぱんてきえば被治者ひちしゃ自身じしん合理ごうりせいもとづく統治とうちじゅつがあるのです(NBP, p. 316. さんはちぺーじ)。
 あるきょうせつ宗教しゅうきょうてきであることもあれば「科学かがくてき」であることもある)にもとづいた世界せかい秩序ちつじょという意味いみでの真理しんりもとづく統治とうち国家こっかかんするもとづく統治とうち経済けいざいてき合理ごうりせいもとづく統治とうち――このみっつが「かさなりう」とわれている。これはどういうことなのだろうか。ただちにわかるのは、これらみっつがじゅうきゅう世紀せいきから今日きょういたるまで、みちびきにかんするみっつの傾向けいこうとして併存へいそんするというフーコーの見立みたてである。たとえばいち番目ばんめ真理しんりもとづく統治とうちは、個人こじん利害りがいではなく歴史れきしもとづく合理ごうりせい基礎きそとした、マルクス主義まるくすしゅぎというかたち存続そんぞくする。番目ばんめ国家こっか理性りせい絶対ぜったい主義しゅぎせられる人格じんかくてき統治とうちしゃによる統治とうちについては、独裁どくさい政権せいけんというかたちのこっているのではないかとべられている。本稿ほんこうでは、さん番目ばんめ統治とうちじゅつたる「経済けいざいがく)」についててきた。このようにして近代きんだいてき統治とうちかんして、みっつのみちびきとみっつの対抗たいこうみちびきがられることになる。しかしみちびきにかんする真理まり-歴史れきし君主くんしゅ-国家こっか経済けいざいという区分くぶんと、対抗たいこうみちびきにかんする人口じんこう住民じゅうみん集団しゅうだん国家こっか民族みんぞく市民しみん社会しゃかいという区分くぶんとを一対一いちたいいち対応たいおうさせることはおおよそ不可能ふかのうだろう。そもそもこのみちびきと対抗たいこうみちびきにかんする区分くぶんは、自由じゆう主義しゅぎがた統治とうち経済けいざいじん市民しみん社会しゃかいという概念がいねん統治とうち理性りせい歴史れきしんだことであらわれた。対抗たいこうみちびきのさん類型るいけいもまた、被治者ひちしゃ合理ごうりせいもとづく、被治者ひちしゃによる被治者ひちしゃ統治とうちというあらたな観点かんてん登場とうじょうしたことでとも出現しゅつげんするのである。
 ひとつの疑問ぎもんしょうじる。フーコーの自由じゆう主義しゅぎろん経済けいざい領域りょういき全面ぜんめんする過程かてい記述きじゅつしている。たしかに対抗たいこうみちびきがあるとはうけれども、たとえば人民じんみん革命かくめい全体ぜんたい主義しゅぎまねくように、対抗たいこうみちびきもみちびきも技術ぎじゅつとしておなじであり、区別くべつがつかないのであれば、自由じゆう主義しゅぎ歴史れきし必然ひつぜんみとめて(しん自由じゆう主義しゅぎ擁護ようごしているのではないのか。そうであるからこそ公的こうてき領域りょういきとしての市民しみん政治せいじてき空間くうかん経済けいざいじん論理ろんりとはべつのところでえがくべきではないのか、と。しかしフーコーの自由じゆう主義しゅぎろんからみちびかれる政治せいじてき争点そうてんはそこにはない。
ベッカーの議論ぎろんられるように、政治せいじ経済けいざいがく統治とうち科学かがくを「批判ひはん」する言説げんせつとなることで、経済けいざいがく固有こゆう領域りょういき確立かくりつするのではなく、むしろ経済けいざい解消かいしょう-消去しょうきょしてしまう。社会しゃかいてきいとなみはすべて経済けいざいてきいとなみ(労働ろうどう生産せいさん交換こうかん消費しょうひとう)によって媒介ばいかいされているとろんじるならば、すべてはつねにすでに経済けいざいてきである、ゆえにとく経済けいざいてきなものはなにもない、ということになるのである。
 ベッカーは経済けいざいじん概念がいねんを、現実げんじつれる「統治とうち可能かのう」な存在そんざいとしてさい定義ていぎするというフーコーの議論ぎろんおもいだそう。統治とうちろん観点かんてんからすれば、ベッカーの議論ぎろんは、現実げんじつれなければならないのは被治者ひちしゃとしての経済けいざい主体しゅたいではなく、人間にんげん行動こうどう科学かがく標榜ひょうぼうする経済けいざいがくほうだと宣言せんげんするにひとしいのではないかとおもわれる。経済けいざいがく統治とうち科学かがくでは「ない」のだし、行動こうどう結果けっかについて善悪ぜんあく判断はんだんくださないのだから、行動こうどうあとづけするだけだ。いいかえれば経済けいざいがくは、すべては経済けいざいてきであるというテーゼを愚直ぐちょく実行じっこうすることで、被治者ひちしゃ現実げんじつむすぶ、関係かんけいのありようにかんする問題もんだい、すなわち統治とうち問題もんだいかびがらせる。経済けいざい論理ろんり同義どうぎにされた「市民しみん社会しゃかい」の領域りょういきなかで、その統治とうち論理ろんりおな道具立どうぐだてを使つかった対抗たいこうみちびきの可能かのうせいはからずもしめされるのである。
 しかし自由じゆう主義しゅぎじゅうきゅう世紀せいき後半こうはん以降いこう社会しゃかい問題もんだい対応たいおうせまられて自由じゆう放任ほうにん批判ひはんし、なんらかのかたち介入かいにゅうてきになることをせまられるという事実じじつについてはどうするのか。これはみっつの統治とうち類型るいけいの「かさなりい」で説明せつめいできるだろう。自由じゆう主義しゅぎがた統治とうち実際じっさいのありかたとしてはさんしゃをそれぞれのかたち混在こんざいさせている(たとえば、きょうにはケインズ主義しゅぎてき政策せいさく採用さいようすることをいとわないしん古典こてん総合そうごう)。もちろん純粋じゅんすい自由じゆう主義しゅぎがた統治とうち理念りねんがたとして理念りねんてき作動さどうするのであり、それが「みぎ」からの対抗たいこうみちびきを統治とうち空間くうかんなか構成こうせいする(ハイエクがかかげる古典こてんてき自由じゆう主義しゅぎへの回帰かいき)。市民しみん社会しゃかいには、経験けいけんろんてき社会しゃかい形成けいせい論理ろんりとして市場いちばメカニズムにせられた利害りがい主体しゅたいと、社会しゃかい契約けいやくろん自然しぜんけんもとづくほう権利けんり主体しゅたいという異質いしつふたつの論理ろんり存在そんざいする。この統治とうち空間くうかんきそ介入かいにゅうがた自由じゆう主義しゅぎ(ケインズ主義しゅぎ福祉ふくし国家こっか、オルドー自由じゆう主義しゅぎとう)というみちびきは、利害りがい権利けんりのいずれかの論理ろんりかかげて登場とうじょうする、革命かくめい運動うんどう社会しゃかい問題もんだいといった対抗たいこうみちびきへの反応はんのう反動はんどう[リアクション]でもある。
 フーコーは『なま政治せいじ誕生たんじょう』を「政治せいじとはなにか」といういかけでめくくっている。
結局けっきょくのところ政治せいじとはなにでしょう。様々さまざま指標しひょうむすびつく統治とうちじゅつのはたらきであり、そうした様々さまざま統治とうちじゅつこす論争ろんそうではないのだとしたら(NBP, p. 317. さんはちぺーじ)。
 「統治とうちじゅつのはたらき」とは一般いっぱんてき意味いみ政治せいじ闘争とうそうとして、また「論争ろんそう」は理論りろん闘争とうそうとしてとらえてよいだろう。いずれも「どのようにみちびくか」「みちびかれないか」という問題もんだい設定せっていをめぐるあらそいであることは間違まちがいない。対抗たいこうみちびきは「終末しゅうまつろん」としてあらわれるならば、自由じゆう主義しゅぎがた統治とうちへの対抗たいこうみちびきもまた「終末しゅうまつろん」である。したがってこの対抗たいこうみちびきは、被治者ひちしゃ合理ごうりせいによる統治とうちという自由じゆう主義しゅぎがた統治とうち実践じっせんつく現実げんじつのなかで、そこでもちいられるのとおな技術ぎじゅつもちいて、市民しみん社会しゃかいという統治とうち空間くうかんのなかで、市民しみん社会しゃかい時間じかんわらせるものとしてあらわれなければならない。【りょう

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【註】
1 Michel Foucault, Dits et écrits, Paris : Gallimard, 1994, IV, p.374.(以下いかDE略記りゃっき)「無限むげん需要じゅよう直面ちょくめんする有限ゆうげん制度せいど西にしえい良成よしなりやく、『ミシェル・フーコー思考しこう集成しゅうせい Ⅸ』筑摩書房ちくましょぼう〇〇いちねんいちはちぺーじ本稿ほんこうでのフーコーのテキストの引用いんようは、訳文やくぶん変更へんこうしている。
2 ハーバーマス『公共こうきょうせい構造こうぞう転換てんかん』をはじめとして、市民しみん社会しゃかいcivil societyの概念がいねん議論ぎろん現状げんじょうろんじた文献ぶんけん多数たすうあるが、近刊きんかんしょでは植村うえむら邦彦くにひこ市民しみん社会しゃかいとはなにか』平凡社へいぼんしゃいちねん参照さんしょう本稿ほんこうで「市民しみん社会しゃかい」という訳語やくご範囲はんいは、じゅうはち世紀せいき後半こうはん以降いこうの、国家こっかから自律じりつした領域りょういきとして構想こうそうされた「市民しみん社会しゃかい」である。
3 DE, IV, p. 89. 「ミシェル・フーコーとの対話たいわ増田ますだ一夫かずおやく、『ミシェル・フーコー思考しこう集成しゅうせい Ⅷ』筑摩書房ちくましょぼう〇〇いちねんはちぺーじ
4みちびき〉conduite、〈対抗たいこうみちびき〉contre-conduiteについて、コレージュ・ド・フランス講義こうぎろく邦訳ほうやくしょでは「はん-操行そうこう」という訳語やくご採用さいようされている。しかしフーコーのいちきゅうなな年代ねんだい後半こうはん以降いこう展開てんかいする統治とうちろんでは「みちびき」とは自己じこ他者たしゃみちびくこと、すなわちひろ意味いみでの〈統治とうち〉gouvernementの実践じっせんす。したがって概念がいねんあいだのつながりを明確めいかくにするために「みちびき」のかたりもちいる。くわしくは以下いか参照さんしょう箱田はこだてっ抵抗ていこう不在ふざい闘争とうそう遍在へんざい―フーコー統治とうちろん主体しゅたいろんてき展開てんかいについて」、『現代げんだい思想しそうだいさんななかんだいななごう〇〇きゅうねんいちよん-いちなないちぺーじ。また、つかさまき牧人ぼくじん革命かくめいみちびきにかんする議論ぎろんについては、市田いちだ良彦よしひこ革命かくめいろん平凡社へいぼんしゃいちねん終章しゅうしょう参照さんしょう
5書誌しょしはそれぞれ以下いかとおり。Michel Foucault, Sécurité, territoire, population, Paris: Gallimard/Le Seuil, 2004.『安全あんぜん領土りょうど人口じんこう高桑たかくわ和己かずみやく筑摩書房ちくましょぼう〇〇ななねん。Michel Foucault, Naissance de la biopolitique, Paris: Gallimard/Le Seuil,2004.『なま政治せいじ誕生たんじょうまきあらため康之やすゆきやく筑摩書房ちくましょぼう〇〇はちねん以下いか、それぞれSTPNBP略記りゃっきし、引用いんよう箇所かしょについて原文げんぶん邦訳ほうやくしょぺーじすうじゅん本文ほんぶんちゅうしめす。
6 たとえばつぎ参照さんしょう箱田はこだてっ抵抗ていこう権力けんりょくから統治とうち主体しゅたいへ(かり)』慶応義塾大学けいおうぎじゅくだいがく出版しゅっぱんかい近刊きんかん作成さくせいしゃ註:『フーコーの闘争とうそう――〈統治とうちする主体しゅたい〉の誕生たんじょう参照さんしょう]。佐藤さとう嘉幸よしゆきしん自由じゆう主義しゅぎ権力けんりょく フーコーから現在げんざいせい哲学てつがくへ』人文書院じんぶんしょいん〇〇きゅうねん雨宮あまみや昭彦あきひこ競争きょうそう秩序ちつじょのポリティクス ドイツ経済けいざい政策せいさく思想しそう源流げんりゅう東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい〇〇ねん
7 ライオネル・ロビンズ『経済けいざいがく本質ほんしつ意義いぎつじろく兵衛ひょうえやく東洋経済新報社とうようけいざいしんぽうしゃいちきゅうはちいちねんぺーじ訳文やくぶん原文げんぶん参照さんしょうして変更へんこう
8 Gary Becker, The Economic Approach to Human Behavior, Chicago: University of Chicago Press, 1976, pp. 153-4.
9 Becker, The Economic Approach, p. 167.をまえたとおもわれる表現ひょうげん。「非合理ひごうりてき行動こうどうであっても現実げんじつれなければならず、たとえば、機会きかい集合しゅうごうないにはもはや存在そんざいしていない選択せんたくもとめることはできない。またこれらの集合しゅうごう不規則ふきそく変数へんすうによって固定こていまたは支配しはいされるのではなく、様々さまざま経済けいざい変数へんすうによって体系たいけいてき変更へんこうされる。〔中略ちゅうりゃく〕したがって体系たいけいてき反応はんのうが、大半たいはん非合理ひごうりてき行動こうどうふくんだ多様たよう決定けってい規則きそくとともに、期待きたいすることができる」。
10 ヒューム「原始げんし契約けいやくについて」小西こにしよしみ四郎しろうやく、『世界せかい名著めいちょ 27』中央公論社ちゅうおうこうろんしゃいちきゅうろくはちねんいちろくぺーじ
11 Manfred Riedel "Gesellschaft, bürgerliche," in O. Brunner, W. Conze, R. Koselleck, eds., Geschichtliche Grundbegriffe, t. 2, Stuttgart, E. Klett, 1975, pp. 749-750.『市民しみん社会しゃかい概念がいねん河上かわかみりんいっつねしゅんそう三郎さぶろうへんやく、以文しゃいちきゅうきゅうねんいちぺーじ訳文やくぶん変更へんこうした。
12 スミス『国富こくふろんだいよんへんだいしょう
13 つぎ論文ろんぶんは「えざる」という表現ひょうげんがスミスの創作そうさくではなく、じゅうなな世紀せいき以降いこう神学しんがくとう領域りょういき頻繁ひんぱんもちいられていたことを指摘してき検証けんしょうし、スミス自身じしん意図いと完全かんぜんはかることはできないが、どう時代じだい読者どくしゃはこの表現ひょうげん摂理せつりという意味いみったはずだと主張しゅちょうする。Peter Harrison, "Adam Smith and the History of the Invisible Hand," Journal of the History of Ideas, 72(1), 2011, pp. 29-49.
14 スミス『国富こくふろんだいよんへんだいきゅうしょう。このとき、周知しゅうちのように、政府せいふたすべき義務ぎむは「自然しぜんてき自由じゆう体系たいけいしたがって」国防こくぼう司法しほう公共こうきょう事業じぎょうみっつにかぎられる。

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以上いじょう執筆しっぴつしゃのPCに保存ほぞんされている校了こうりょう原稿げんこうです。


作成さくせい箱田はこだ てっ
UP: 20130912 REV: 20200911
全文ぜんぶん掲載けいさい  ◇Foucault, Michel
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