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「谷口正隆氏インタビュー@」2021年11月4日14時2分〜  
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谷口たにぐち正隆まさたかインタビュー@」(2021ねん11月4にち142ふん〜)

かたり:谷口たにぐち 正隆まさたか/ききて田中たなか 恵美子えみこ 2021/11/04

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last update: 20231015


れなかったところは、***(hh:mm:ss)、
りがあやしいところは、【 】(hh:mm:ss)
タイムレコードは[hh:mm:ss]としています。


谷口たにぐち 正隆まさたか以下いか、「谷口たにぐち」と表記ひょうき):臼井うすい正樹まさきさんが、立岩たていわさんと横田よこたさんとさんしゃで『われらはあい正義せいぎ否定ひていする』というほん※をかれています。臼井うすい正樹まさきさんは県立けんりつだい一緒いっしょでしたが、そのかれが「横田よこたひろしはわれわれにとって研究けんきゅう対象たいしょうだ」ってったんですよ。それいたときじつ唖然あぜんとしちゃって。なんか「研究けんきゅう対象たいしょう」っていう言葉ことばかれをとらえるっていうの、とってもぼく感覚かんかくでは不思議ふしぎだったんですね。それから横田よこたひろしさんの名前なまえしたほんたんですね。それんでもね、なんかやっぱり奇異きいかんじをぬぐれないんです。ぼくかれ研究けんきゅう対象たいしょうとしていちかいたことがなくて。かれとのかかわりがはじまる発端ほったんは、あとではなしますけど、横浜よこはま障害しょうがいころしの事件じけんなのでけれど、ずっとかれとは友人ゆうじんとしてのかかわりで、だからここできっとはなされたくないようなかれ側面そくめんとか、はなしとか、行為こういというのもぼくってるんですね。でもそれは、かれがきっとってしくないとおもうだろうなとおもうからわないっていう。(笑)かっこわらい ぼくにとっては友人ゆうじんだから。そしてかれには、なんともえずきつけられて。すごいひとだなあともおもうし、なんと人間にんげんてきひとなんだろうなあとおもうところがあるから。「かれわれたくないだろうな」とおもうようなことはえないし、わない。(笑)かっこわらい そういうかんじなんですよ。[00:04:43]
横田よこた ひろし立岩たていわ しん也・臼井うすい 正樹まさき 2016/03/25 『われらはあい正義せいぎ否定ひていする――脳性のうせいマヒしゃ 横田よこたひろしと「あおしば」』生活せいかつ書院しょいん,250p.,2200+ ISBN-10: 4865000534 ISBN-13: 978-4865000535 [amazon][kinokuniya]

田中たなか 恵美子えみこ以下いか、「田中たなか」と表記ひょうき):(笑)かっこわらい はい。わかりました。

谷口たにぐち:それでね、ぼくはだからかれのことをなに記録きろくっていないです。でも、あおしばひとたちがいたものってこまめにあつめていて、横田よこたさんの俳句はいくなど。それをみんな県立けんりつだい在原ありわらさんのもとにぜんぶいてきちゃった。そのまま彼女かのじょ研究けんきゅうしつのどこかにそのままになっているとおもうんです。 それで。ここはどうだったかなとおもってね、わたし横田よこたさんとのあいだ関係かんけいするひとたちなどをメモしてみました。

田中たなか:すみません、なんかいろいろご用意よういくださって。

谷口たにぐち横田よこたさんとのことはからにして、まず最初さいしょあおしばったのは、内田うちだみどりさんです。川崎かわさきんでたんです。彼女かのじょ自立じりつしようとおもって、「自立じりつするには結婚けっこんだ」って遮二無二しゃにむに結婚けっこんしたんですって。こういうはなしぼくなん記録きろくにもってなくて、って、「ふーん」ってはなしいていたことなの。

田中たなか:いいえ、それが大事だいじです。

谷口たにぐち:それで、ぼくのところに彼女かのじょうんですよ。「あのね、つらいんだよ」って。なにつらいかっていうと、自分じぶんんだあかちゃんが、自分じぶんきとめて授乳じゅにゅうがうまくできない、すると子育こそだての手伝てつだいにているヘルパーさんをおかあさんのようにしたってしまうんだってうのね。それが本当ほんとうに、脳性のうせいまひってのはつらいとおもったっていうはなしをしてたんですね。それが内田うちだみどりさんと、一番いちばんわかころった。あのほう言語げんご障害しょうがいがほとんどなかったけど、あかちゃんそだてるには意外いがいつらさがあるのだなぁとおもっていてた記憶きおくがあるんです。

田中たなか先生せんせいなんさいぐらいのときですか?

谷口たにぐち:26?7のことだとおもいますね。

田中たなか:そのころ先生せんせいなにをしておられたんですか?

谷口たにぐちぼくは、最初さいしょ神奈川かながわ県庁けんちょうはいったんですよ。それで労働ろうどう配属はいぞくされたんだけど、つまんなくて2ヶ月かげつめちゃったの。(笑)かっこわらい

田中たなか:2ヶ月かげつってすごいですね。(笑)かっこわらい

谷口たにぐち川崎かわさき青少年せいしょうねんセンターっていうのができて職員しょくいん募集ぼしゅうやるっていたんですよ。それになんかれたかっていうと、おひるの12からよる8まで勤務きんむすればいいって。ぼくそのころね、うちに朝刊ちょうかんんでからるようなすごいよるかしで。それなら「12よる8ねがってもない」って。それでなんかわかひとあそんでいればいいんだみたいなはなしだったから。それで川崎かわさき試験しけんけたんです。そうしたらね、「県庁けんちょうめてきた」ってったら職員しょくいん課長かちょうがすごくおこって「あんたね、ひとつの仕事しごとをそんなに簡単かんたんめていいのか」ってうのね。「それで川崎かわさきなにしにるんだ?」「ですから青少年せいしょうねんセンターにはいりたくてここにてるんですよ」って、たりまえじゃないですかとおもってったんだけど。そうしたらね、「職員しょくいんないか」ってわれたの。それでね、すごく奇妙きみょうはなしだけど、「職員しょくいんるためになにもここけたわけじゃないんで、12・8青少年せいしょうねんセンターへくっていうのでけたんで、職員しょくいんにはきたくない」ってことわったのね[00:10:07]

田中たなかつよいですね、先生せんせい

谷口たにぐち:そのころ、なんていうか、「なにしよう」とおもってなかったから、公務員こうむいんになれば金儲かねもうけしないでむからなろうとおもっただけのはなしなんで。そしたらね、民生みんせいきょく庶務しょむきにされたんですよ。つくえすわらされて、「条例じょうれい規則きそくをまずめ」とかってわれて。「いやー、ここにいられるかなぁ」とおもってたら、社会福祉会館しゃかいふくしかいかんというのを川崎かわさきつくったんですよ。そこへ配属はいぞくするって課長かちょういだしたの。それで「なにやるんですか?」ってったらね、「おまえ自分じぶんでやりたいことかんがえろ」ってうのね。社会福祉会館しゃかいふくしかいかんってはじめててたのでだれなに構想こうそうてているわけじゃないんで。会館かいかんがあって、オーディオルームがあって、講堂こうどうがあって、「あとはおまえがなんでもかんがえろ」っていうことになって、かされたのね。

田中たなか:のどかな時代じだいですね、ずいぶん。建物たてものはあるんですよね?

谷口たにぐち建物たてものっちゃって職員しょくいんがいなかった。

田中たなか:すごいですね。

谷口たにぐち:それでおこなってね。まずぼく大学だいがく心理しんり学科がっか時分じぶん全盲ぜんもうのやつと同級生どうきゅうせいだったんで。ぼく日大にちだい心理しんり学科がっかなんですけど、傷痍軍人しょういぐんじんのリハビリテーションをやるっていう心理しんり学科がっかだったんですよ。

田中たなか:そんな心理しんり学科がっかあるんですか。

谷口たにぐち:あるの。日大にちだい心理しんり学科がっか社会しゃかい学科がっか全盲ぜんもう障害しょうがいしゃれてたんですよ。心理しんり学科がっかには傷痍軍人しょういぐんじんやってて失明しつめいした、中途ちゅうと失明しつめいおとこぼく同級生どうきゅうせいでいたの。ぼくらの時代じだいはね、心理しんり学科がっか一般いっぱん教養きょうよう心理しんりがくでも英語えいごのテキストだったんですよ。日本語にほんごじゃない。それでぼくはね、すっごく文句もんくいにって。「英語えいごなにらない人間にんげんてるのに、それを一般いっぱん教養きょうよう心理しんりがく英語えいごおしえるとは何事なにごとだ」って。心理しんり学科がっか先生せんせいにすごく文句もんくいにったのね。そうしたらつけられちゃってね。それでその全盲ぜんもうのやつも英語えいごまなきゃなんない。そうすると、そいつも独身どくしんで、ずっと年上としうえだったけど、ワード・トゥ・ワードでむんですよ。ぼくらがまなきゃなんない教科書きょうかしょを、それをかれ点字てんじにする。そうやってうつしたのをあらためてかれわりに辞書じしょく。それに心理しんりがく専門せんもん用語ようごは、心理しんりがく辞典じてんがそのころはなかったので、それでアメリカで心理しんりがく辞典じてんって、また英語えいごいてやくす。

田中たなか英語えいご英語えいごいて。

谷口たにぐち:そうなの。それをみんなまたワード・トゥ・ワードでむんですよ。

田中たなか:あ、大変たいへん…。

谷口たにぐちあさからばんまでやってた。ぼくね、もうどうでもいいことばっかりしゃべってけど。

田中たなか大丈夫だいじょうぶです。どんどんってください。

谷口たにぐち高等こうとう学校がっこうとき日大にちだいだかで、英語えいご授業じゅぎょうっていちかいたことなかったんですよ。「おまえ絶対ぜったい落第らくだいだ」ってわれたの。新聞しんぶん編集へんしゅうちょうをやっていて新聞しんぶんすことに熱心ねっしんで。「絶対ぜったいまえ落第らくだいする」ってわれて。だから日大にちだいだか卒業そつぎょうしきかなかったんですよ。おふくろに「ぼく落第らくだいですから。もういちねんいますから」ってったら、「あ、そうかい」ってなもんで。そしたら学校がっこうから電話でんわがかかってきて、「おまえ卒業そつぎょう証書しょうしょ記念きねんひんあずかってるけど、どうしてないんだ!」ってうから、「え? どうしてぼく卒業そつぎょうできたんですか?」ってったら、「卒業そつぎょう証書しょうしょ記念きねんひんあずかってるぞ!」。「え、記念きねんひんまでもらえるんですか?」ってったら、「ヤマサの醤油じょうゆだ」。「はああー」、おどろきました。(笑)かっこわらい[00:15:09]

田中たなかうれしいけど。(笑)かっこわらい

谷口たにぐちぼくはそれで浪人ろうにんして、担任たんにん先生せんせいは「おまえ日大にちだいくしかないだろう」「附属ふぞくこうなんだから推薦すいせんじょうけばれるからけ」とわれて。それで入学にゅうがくしたんです。
 そんなことでね、英語えいごぜんぜんダメなのに、かれのためにワード・トゥ・ワードで英語えいごをやりだして。もうあさからばんまで英語えいごけ。それに2年生ねんせいになったときは、毎週まいしゅう英語えいご論文ろんぶんを1ほんずつ…。心理しんり学科がっか学生がくせいは10にんちょっとしかいなかったから、毎日まいにち、アメリカ文化ぶんかセンターからりたジャーナルをんで。それを翻訳ほんやくして、手書てがきのガリ版がりばんった要旨ようし教授きょうじゅとみんなに報告ほうこくする。だから全員ぜんいんみんなガリ版がりばんってましたね、自分じぶんいえに。卒業そつぎょう論文ろんぶん下書したがきも英語えいごいてました。英語えいご論文ろんぶんばっかりんでるという時代じだいで。だからはた美喜みきさんっておとこなんですけど、全盲ぜんもうのやつは。そいつと卒業そつぎょうしたのちもずっといがあって。ぼく英語えいごめるようになったのは、かれがいて英語えいごけになったせいなんです。

田中たなか:すごい。

谷口たにぐち:すごい経験けいけんでした。それなんで、川崎かわさきはいって社会しゃかい福祉ふくし会館かいかんで「なんでもやれ」ってわれたときに、「川崎かわさき視覚しかく障害しょうがいしゃってどうらしているのだろうか?」とおもった。かれはね、そのはた美喜みきさんは、仕事しごとつからなかったんですよ。それで、海老名えびな正吾しょうごという神奈川かながわけん中央ちゅうおう児童じどう相談そうだんしょ所長しょちょう当時とうじやってたひとが、失明しつめいしゃだったんです。そして海老名えびな正吾しょうごさんは日大にちだい心理しんり学科がっか先輩せんぱいということでいにってね、はた美喜みきさん紹介しょうかいしたんです。「けん職員しょくいんとしてってもらえないか」って。そしたら、「ぼくはね、県庁けんちょう職員しょくいんやってて失明しつめいしたからいまでも所長しょちょうやってられるけど、そういういきさつがあるからなんで。それだけでやってるようなもんなのよ」みたいなはなしをされた。それからいろいろおこなったなあ。横浜よこはまくんめくらいんも、職場しょくばになれないかとかね。それでかれ職業しょくぎょうくのにすごくくるしい、大変たいへんなんだなあとおもっているなかなんで、川崎かわさき視覚しかく障害しょうがいしゃってどういうらししてるのかなってまずおもった。その時分じぶんはまだだいらかっていうか、福祉ふくし事務所じむしょって。身体しんたい障害しょうがいしゃ手帳てちょう発行はっこう台帳だいちょうせてもらって、視覚しかく障害しょうがいしゃ氏名しめい住所じゅうしょをぜんぶうつさせてくれたんです。

田中たなか:ああ、当時とうじは。(笑)かっこわらい

谷口たにぐち:それで自分じぶんでリストをつくって。そのころ青年せいねん赤十字せきじゅうじ奉仕ほうしだんのグループが社会福祉会館しゃかいふくしかいかんあつまるようになってて、ボランティア活動かつどうをしていた。そのひとたちに協力きょうりょくたのんで。ぼくももう毎日まいにち訪問ほうもん調査ちょうさ」にあるきました。視覚しかく障害しょうがいしゃいえたずあるいて、よるひるも。よるくと、「主人しゅじん中途ちゅうと失明しつめいして以来いらい、こんなにおはなししたのははじめて、またてください」なんておくさんがっかけてきたりしてね。それで、『川崎かわさきにおける視覚しかく障害しょうがいしゃ実態じったい』っていうのを報告ほうこくしょにまとめたんです。それから青年せいねん赤十字せきじゅうじ奉仕ほうしだんのほうは『真夏まなつ訪問ほうもん』という、あつなかたずねてあるいた訪問ほうもんいて冊子さっしにしたりして。
 そのときね、印刷いんさつだいなんかどこにもないの。でも、【商工しょうこう印刷いんさつしゃ】という会社かいしゃ社長しゃちょうさんに「こういう報告ほうこくしょ印刷いんさつしたいんだけど」「わずかな印刷いんさつだいしかせないけれど、やってくれませんか?」、「承知しょうちいたしました」って。それ以来いらい商工しょうこう印刷いんさつ社長しゃちょうとはいで、「おかねこれしかないんだけど、これ印刷いんさつしてくれます?」とかってって。(笑)かっこわらい いつも「承知しょうちいたしました」って。ずっと恩義おんぎかんじるながいになりましたね。それで…あ、喪中もちゅうのおらせがてしまって、おはなおくっておくさんに電話でんわでおれいもうげたら、ぼくのことを自宅じたくかえってくちにしてて。「とってもえらひとなんだ」ってってたって。(笑)かっこわらい たくさん印刷いんさつしてもらいましたよ、いろんなものをね。感謝かんしゃしてます。
 そうだ。もうすこはなすすめないといけないな。年寄としよりのはなしはとりとめなくなる。

田中たなか大丈夫だいじょうぶですよ、先生せんせいわたしまれたとこぐらいからくぐらいの覚悟かくごてます、今日きょう

谷口たにぐち:いやいや(笑)かっこわらい

田中たなか:でも先生せんせい障害しょうがいがあるひと出会であったのは、このはた美喜みきさんさんが最初さいしょですか?

谷口たにぐち最初さいしょです。1954ねんくらいだったかな。

田中たなか一番いちばん最初さいしょ

谷口たにぐち:はい。そしてね、社会福祉会館しゃかいふくしかいかんはなんとなくおもしろいかんじになってきて。親戚しんせきたずねてると「うちにいるな」っていえされてしまう、すごいどもりのひとたり。聴覚ちょうかく障害しょうがいしゃのグループもあつまったりして、それまでの人生じんせいではめぐわなかったひとたちとうようになりましたね。そのころ、「16じゅうろくミリ映写えいしゃ技術ぎじゅつ講習こうしゅうかい」っていうけん講習こうしゅうかいけて、16じゅうろくミリ映写機えいしゃきとそのフィルムをりてきて映写えいしゃかいをやりだしたの。それで聴覚ちょうかく障害しょうがいしゃひとたい映画えいががあるってうと、講堂こうどう映画えいがかい聴覚ちょうかく障害しょうがいだからスピーカーいらないんだろうとおもっておとしちゃったらすごくおこられちゃって。「聴覚ちょうかく障害しょうがいだって、振動しんどうつたわるんだからおとはちゃんとしてくれ」ってわれて。ああそういうもんなのかなと。いちいち「そうなのか」とおもわされることがおおくて。
 それではなしつめますね。視覚しかく障害しょうがいしゃ実態じったい調査ちょうさ結果けっか点字てんじ先天的せんてんてき失明しつめいして盲学校もうがっこうったひとめるけど、中途ちゅうと失明しつめいしゃはほとんど点字てんじを「つ」「む」ができない。つまりきの手段しゅだんがないんだってわかったんです。それで、録音ろくおんテープをく、ほんわりに録音ろくおんしたものを使つかったらどうかとおもって。それで神奈川かながわけん障害しょうがい福祉ふくしきました。そしたら視覚しかく障害しょうがいしゃようすテープレコーダーは4だいしかない、県内けんない視覚しかく障害しょうがいしゃように。それでね、自分じぶんっていたソニーのテープレコーダーを視覚しかく障害しょうがいしゃいえしたことがあったんです。それは、「浪曲ろうきょくをどうしてもきたい」とってこられたほうがいましたのでね。それで浪曲ろうきょくのテープを、NHK厚生こうせい文化ぶんか事業じぎょうだんっていたら「ある」っていうんですよ。それでそれをなんほんしてもらって、そのおたくにテープと一緒いっしょとどけた。そうしたら、ぼく名前なまえはいったテープレコーダーが質屋しちやはいったって警察けいさつから連絡れんらくがあったんですよ。それでぼくはね、「ああ、そうか、あのひと浪曲ろうきょくじゃなくてそのべるものをうおかねがさきなんだよなあ」とおもって。それでね、またそれもむねかれちゃって。おどろきましたね。それでね、「社会しゃかい福祉ふくしっていうのはしっかり勉強べんきょうしないとだめだな」とおもって。それで明治めいじ学院がくいん社会しゃかい福祉ふくし学科がっか授業じゅぎょうすこかよったんです。

田中たなか先生せんせいそれは、なんさいぐらいのときですか?

谷口たにぐち大学だいがくて3ねんぐらいったときですね。

田中たなか:じゃあ、ちょうど内田うちださんとかと出会であったりするころ

谷口たにぐち:そうですね。だからね、社会しゃかい福祉ふくしかんするなんかね「おもい」ってのはくんですけど、どうやって勉強べんきょうすればいいのかよくわからないというのがあって。
 さっきのはなしもどりますと、『視覚しかく障害しょうがいしゃの3ぶんの2が文盲もんもう生活せいかつをしております』というビラをつくったんですよ。それでね、テープレコーダーを装具そうぐにしてもらいたい、だれでもテープレコーダーをてるようにして。そのころはみんなってなかったんですよ、テープレコーダーなんて。そうしたらナショナルさんがね、なんまんまいっていうビラをつくってくれたんです。それで川崎かわさき駅前えきまえでボランティアと一緒いっしょに『視覚しかく障害しょうがいしゃにテープレコーダーを』っていうビラをくばってね、署名しょめい運動うんどうをしたんです。
  そんなことをしていながら、社会福祉会館しゃかいふくしかいかん自分じぶんたちで研究けんきゅうかいはじめたんですよ。「児童じどう福祉ふくし研究けんきゅうかい」ってったんですけど、明治めいじ学院がくいん濱野はまの一郎いちろうさんなんかがまだ明治めいじ学院がくいんじゅん教授きょうじゅかなにかで、「児童じどう相談そうだんしょ役割やくわりについてりたい」っていうんで川崎かわさきていた。それから川崎かわさき児童じどう相談そうだんしょのソーシャルワーカーやってた大澤おおさわたかしさん、のちけん障害しょうがい福祉ふくし課長かちょうをやって、それから岩手いわて県立けんりつだい教授きょうじゅになってますけど。そういう7?8にん研究けんきゅうかいはじめました。〆はかなら宴会えんかいで、25ねんつづきました。[00:31:45]

田中たなか:すごいですね。

谷口たにぐち大澤おおさわたかしさんが川崎かわさき児童じどう相談そうだんしょのソーシャルワーカーをやってて、社会福祉会館しゃかいふくしかいかん空気くうきじゅうたまをガラスちこんだ少年しょうねんがいて、そのことで大澤おおさわさんがたずねてきた。それでぼくかれはじめてったんです。それでね、あおしばひとたちとはじめての出会であいになることとつながるのだけれど、大澤おおさわさんが民生みんせい住宅じゅうたく管理人かんりにんをやってたんですよ。神奈川かながわ県立けんりつ民生みんせい住宅じゅうたくというのは川崎かわさきやまなかにありまして、生活せいかつ保護ほご受給じゅきゅうしていて、はしもととか、ようするにホームレス状態じょうたいらしているひとたちをまわせる集合しゅうごう住宅じゅうたくなんです。5かいてだったかな。おおきいんですよ。そこの管理人かんりにんのところになんでも相談そうだんごとがる。「旦那だんな刑務所けいむしょはいってて、母子ぼし生活せいかつ保護ほごけながら内職ないしょくやってらしている」とかね。それで大澤おおさわさんがね「民生みんせい住宅じゅうたく実態じったい調査ちょうさやってくれないか」ってきて、それでかれ手引てびきをしてくれて、ぼく全戸ぜんこ訪問ほうもん調査ちょうさをやったんです。民生みんせい住宅じゅうたくの。

田中たなか全戸ぜんこ!?

谷口たにぐち:そう。どういう人間にんげん関係かんけいがあるかというてんではソシオグラムなどをつくりましてね。相談そうだん相手あいて一番いちばん大澤おおさわさん。福祉ふくし事務所じむしょのワーカーを相談そうだん相手あいてとしていなかったのにはおどろきました。内職ないしょくしていることなどられたくないひと福祉ふくし事務所じむしょのワーカーなんです。それを大澤おおさわさんがね、「神奈川かながわけん社会しゃかい事業じぎょう研究けんきゅう発表はっぴょう大会たいかいがあるから発表はっぴょうしないか」って。それで発表はっぴょうしたんです。
その大会たいかいにね、次々つぎつぎ脳性のうせいまひのひとたちがはいってきた。そのひとたちがあおしば面々めんめんだったんですね。横塚よこつか晃一こういちさんとか小山こやま正義まさよしさんとかね、白石しらいし清春きよはるさん。それから矢田やた龍司りゅうじさんとかね。ここに名前なまえがあるようなひとたちがたんですね。矢田やた龍司りゅうじさんは川崎かわさきまいでしたから、個人こじんてきなこともふくめてなやみや相談そうだんはずっとくなるまで、なんとなくけるようになって。しばらくときいてですが、ほかのひとたちともおいがはじまりました。1968ねん7がつ神奈川かながわけん社会しゃかい事業じぎょう研究けんきゅう発表はっぴょう大会たいかいあおしばかいひとたちがはじめて会場かいじょう姿すがたあらわしたというのが、とても印象深いんしょうぶか記憶きおくのこっています。

田中たなか:なんでたんですかね?

谷口たにぐち多分たぶんね、このころ社会しゃかい福祉ふくしになにかあやしげな印象いんしょういていたか、疑問ぎもんっていたのではないかと想像そうぞうします。神奈川かながわけん入所にゅうしょがた施設しせつ整備せいびいそはじめていた時期じきでしたから。[00:35:43]

田中たなか:なるほど。それで「大会たいかいっていうからちょっとってみよう」みたいな。だれでもれたんですか?

谷口たにぐち:オープンで、もっとおおくのひと参加さんかしてもらいたいという雰囲気ふんいきだったとおもいます。そのころ県庁けんちょう福祉ふくし先導せんどうするという意気込いきごみにあふれていたとおもいます。のちの神奈川かながわけん社協しゃきょう常務じょうむ理事りじになる仁科にしな卓郎たくろうさんが課長かちょうしょく研究けんきゅう発表はっぴょう大会たいかい先導せんどうしていた記憶きおくがあります。また、当時とうじ施設しせつ建設けんせつてみますと、『1960ねん松風まつかぜ学園がくえん柿生かきお学園がくえん』、『秦野はたの精華せいかえん』、それから津久井つくいやまゆりえんは1964ねんってるんですよ。つまりね、このころ福祉ふくしっていうのは、障害しょうがいしゃについては入所にゅうしょがた施設しせつけん責任せきにんてる。たとえば柿生かきお学園がくえんですが、ぼくが20だいなかば、60ねんほどまえはじめてきました。小田急おだきゅうせん柿生かきおえきりてやまのぼってく。その当時とうじ人家じんかもなく、くさえていてリアカーいたようなあとがあるだけの山道さんどう。その尾根おね木立こだちなか忽然こつぜん柿生かきお学園がくえんっている。はじめて「精神せいしん薄弱はくじゃく成人せいじんひとはこういうところにらしてんだなあ。すごいやまうえだなあ」とおもいました。また、横浜よこはま松風まつかぜ学園がくえん巨大きょだい施設しせつで、廊下ろうかにずらっと居室きょしつならんでいるんですけど、うえ四角しかくいガラスまどがあって、廊下ろうかあるいていくと居室きょしつなか全部ぜんぶえるっていうそういう建物たてものでした。それから秦野はたの精華せいかえんっていうのは秦野はたのにあって。これまた人家じんかからはなれたところにあった。津久井つくいやまゆりえんも、やま坂道さかみちをぐわーっとがってくと津久井つくい日赤にっせきがあって、そのさきかわべりに津久井つくいやまゆりえんがどかんとってる。でも、地元じもと女性じょせいたちがけんてた施設しせつ職員しょくいんとしてはたらけるってだいよろこびとわれていました。施設しせつってそんな風情ふぜいでしたよね。
 ですから、そのころあおしばひとたちも、そのような入所にゅうしょ施設しせつのイメージがあって、なにかっていうと施設しせつ施設しせつさえあれば解決かいけつするっていう風潮ふうちょうだ、そういうふうにかんがえてきたところに、1970ねん5がつ29にち横浜よこはま金沢かなざわ障害しょうがいしゃころしがこるんですよ。それで、神奈川かながわけん障害しょうがいしゃまも父母ちちははかい連盟れんめい横浜よこはま市長しちょうあて抗議こうぎぶんすんです。それをいたのはぼくなんです。あ、それはってる?

田中たなか:それをわたしきにました、今日こんにち

谷口たにぐち:『障害しょうがいころされるのはやむをざるきである』って。

田中たなか:これは一大いちだい事件じけんでしたね。

谷口たにぐち:それにいた背景はいけいのようなものがあったとおもうんです。ぼく川崎かわさき社会福祉会館しゃかいふくしかいかんに8ねんいましたけれど、そのいちかいには授産じゅさんしょがあって、輸出ゆしゅつようきぬのスカーフのヘリをきにするとか、造花ぞうか内職ないしょく斡旋あっせんをしていた。そこで支払しはらわれる工賃こうちん単価たんかが「えん」ではなくて「ぜに」。スゴイ労働ろうどう搾取さくしゅ先端せんたん社会しゃかい福祉ふくしとしての授産じゅさんしょがある。なにだろう、これはという問題もんだい意識いしきで、内職ないしょくをしているひとたちの生活せいかつ実態じったい調査ちょうさもやりました。そのまえには視覚しかく障害しょうがいしゃ調査ちょうさ神奈川かながわけん民生みんせい住宅じゅうたく調査ちょうさをやったことはおはなししましたが、なんですか、おおくの人々ひとびとらしが不安定ふあんていで、社会しゃかい福祉ふくしってこんなことやっていていいのかなという疑問ぎもんいてきました。そこで、自分じぶん勉強べんきょうしながら授産じゅさんしょ関係かんけいしゃあつまってもらって、たとえば江口えぐち英一ひでかず先生せんせい当時とうじ日本女子大学にほんじょしだいがく教授きょうじゅ)から不安定ふあんてい階層かいそうろん講義こうぎかせていただいたりしました。そうしたことを民政みんせいきょく職員しょくいん研修けんしゅう拡大かくだいし、一番いちばんせら康子やすこ先生せんせい重田しげた信一しんいち先生せんせい吉沢よしざわ英子えいこ先生せんせいなどに講師こうしをおねがいしてきました。

田中たなか:それはやっぱり先生せんせいほんんで、この先生せんせいにぜひてほしいっていうのは先生せんせい一筆いっぴつで? 

谷口たにぐち:いえいえ、そのままいにくんです。研究けんきゅうしつへ。それではなしかせてもらいながら、こちらのおはなしもして、おねがいするんです。生活せいかつ構造こうぞうろん中鉢ちゅうばち正美まさみ先生せんせいほんんで自宅じたくまでしかけてって。家計かけいから日本人にっぽんじん生活せいかつ分析ぶんせきしていくという手法しゅほうにもう感動かんどうしたんですね。

田中たなか先生せんせい、そのたずねてったりしたころって30だいですかね?

谷口たにぐち:そうです、30まえですね。どこか人々ひとびとらしがくなっていく道筋みちすじなくて、「社会しゃかい福祉ふくし」ってなにだろうというとおもっていました。
 また、まえにおはなしした視覚しかく障害しょうがいしゃもとめで浪曲ろうきょくのテープをりにNHK厚生こうせい文化ぶんか事業じぎょうだんったときからごえんができて、堀場ほりば平八郎へいはちろうさんという事務じむ局長きょくちょうさんが「NHKはね、ぜん放送ほうそう全部ぜんぶ録音ろくおんしてのこしていくんです」「なにかあるといけませんから全部ぜんぶ録音ろくおんを。それを厚生こうせい文化ぶんか事業じぎょうだんっております」。それでね、「視覚しかく障害しょうがいしゃようにそのテープの図書としょとしてすのなら、録音ろくおんしたもの全部ぜんぶをあなたのところにおくります」とってくださった。スゴイりょう毎月まいつきおくられてきて、それが「川崎かわさき盲人もうじん図書としょセンター」になり、ここ独自どくじ録音ろくおん図書としょつくるようになりました。
 それからボランティアグループがいくつもあつまってきて、オーディオルームでイア・エンド・コンサートをやるなど、勝手かってをやっているうちに、川崎かわさきあたらしくてる「中原なかはら会館かいかん建設けんせつ準備じゅんびしつ」に異動いどうということに。ようするに会館かいかん調度ちょうどととのえ、開館かいかんまでもっていく仕事しごとですね。元気げんき仕事しごとではなかった。
 そしたら、大澤おおさわたかしさんが県庁けんちょう障害しょうがい福祉ふくしにいて、電話でんわしてきたんです。「小児しょうに療育りょういく相談そうだんセンターって障害しょうがい療育りょういく相談そうだん機関きかんがあるんだけど、うつはないか?」って。「けんとして運営うんえい支援しえんしているところだから」。そこの理事りじちょうってはなしているうちに意気投合いきとうごうしちゃって、「じゃあきます」ってなった。「児童じどう医療いりょう福祉ふくし財団ざいだん」という法人ほうじんだったけど、借金しゃっきんはあるけど財産ざいさんはない財団ざいだん法人ほうじん(笑)かっこわらい それでそのときはじめて障害しょうがい診療しんりょう相談そうだん体験たいけんすることに。

田中たなか先生せんせい心理しんりしょくとしてはいったわけではないんですか、そこは。

谷口たにぐちぼくはいきなり管理かんりしょくで、財政ざいせいかんがえなきゃいけない役割やくわり赤字あかじ診療しんりょう相談そうだん事業じぎょう黒字くろじ検診けんしん事業じぎょうでやっと運営うんえいしてましたから。そこに「神奈川かながわけん心身しんしん障害しょうがい父母ちちははかい連盟れんめい」というのがあって。障害しょうがいべつ14団体だんたいおやかい構成こうせいされていました。その成立せいりつ年表ねんぴょうぼくつくったんですけど。[00:50:26]

田中たなか:これいただいても大丈夫だいじょうぶですか?

谷口たにぐち:どうぞどうぞ。各種かくしゅ障害しょうがいべつにできてきて、神奈川かながわけん心身しんしん障害しょうがい父母ちちははかい連盟れんめい横浜よこはまじゃないんです、横浜よこはまにありながら。なぜかっていうと、障害しょうがい福祉ふくしっていうのは、神奈川かながわけん」がやるんであって、川崎かわさき横浜よこはまも「」は行政ぎょうせいじょう責任せきにんがないという時代じだいだったんです。だから、秦野はたの精華せいかえん厚木あつぎ精華せいかえん津久井つくいやまゆりえんなど、次々つぎつぎ入所にゅうしょ施設しせつてていくのは、けん責任せきにん。そういう仕組しくみだった。ですから横浜よこはま障害しょうがい福祉ふくしはダイレクトには責任せきにんたないって姿勢しせいだった。そういうなかで、横浜よこはま金沢かなざわ障害しょうがい殺害さつがい事件じけんきてしまう。
 それでどうしてぼく抗議こうぎぶんくようになったかというと、父母ちちははかい連盟れんめい担当たんとうソーシャルワーカーみたいな役割やくわりになっていて、お手伝てつだいで父母ちちははかい連盟れんめい幹事かんじかいにはいつも出席しゅっせきしていた。よるひらかれるの。それで、たとえば一番いちばん印象いんしょうのこったのは、自閉症じへいしょうおやかい幹事かんじかいをやった。おやかいのリーダーたちがあつまって、毎年まいとし県庁けんちょう要望ようぼうしょかためるんです。相手あいて横浜よこはまじゃないんです、神奈川かながわ県庁けんちょうなんです。そうしたなかで、自閉症じへいしょうおやした要望ようぼう項目こうもくは、200項目こうもく以上いじょうになった。

田中たなか:ずいぶんおおいですね。

谷口たにぐち:それで、自閉症じへいしょうおやかい会長かいちょうが「こんなにしたってみのるわけないだろう。いちてんしぼろう」と。

田中たなか:それもすごいですね。

谷口たにぐち県立けんりつの「こども医療いりょうセンター」に自閉症じへいしょう専門せんもん病棟びょうとうができる。「専門せんもん病棟びょうとう」ってってたんですよ。その実現じつげんだけにしぼってこう。「そのくらいにしなきゃ実現じつげんできないよ」ってってた。そのときね、ぼくせきおなじくしてて、同席どうせきしゃぼく発言はつげんけんはないんですけど、おやかいおや要望ようぼうてて整理せいりしていくって、おやってなにはたらきをするのかなとおもったんですよ。それでぼく大澤おおさわたかしさんにそういうはなしをして、「おやかい自分じぶん要望ようぼう整理せいりしてけんす。へんだよ、それは」「あんなに『ヘルパーがしい。つかれた。どっかかようところがしい』ってなみだをこぼしてってる、そのこえけんにぜんぜんとどかないよ」っていうはなしをしたら、かれが「わかった。今度こんど障害しょうがいしゃ福祉ふくし大会たいかいおや要望ようぼう大会たいかい)をなみだ大会たいかいにしよう」って。(笑)かっこわらい おおくの議員ぎいんがそのかい出席しゅっせきするし、知事ちじ挨拶あいさつする。それでぼくおやかいのリーダーたちに「とにかくなまこえ沢山たくさんかす大会たいかいにしませんか」ってったんです。それと同時どうじに、けん会議かいぎいん各党かくとうひかしつまわってあるいたんです、ぼくが。議員ぎいんにダイレクトにはなしいてもらいたくて。なみだながしていてくれる議員ぎいんもいました。
それで議員ぎいんとも顔見知かおみしりになって、女性じょせい議員ぎいんなんかですごい関心かんしんひとがいて、わざわざ議会ぎかいはじまるまえに「こういう質問しつもんしたいんだけどどうだ」ときにてくれるようになって、ああでもないこうでもないって論議ろんぎわしていたりしていた。
そうした半面はんめん仕事しごとをしている「小児しょうに療育りょういく相談そうだんセンター」(神奈川かながわけん児童じどう医療いりょう福祉ふくし財団ざいだん運営うんえい)は診療しんりょう予約よやくやまのようになって、スタッフは診療しんりょう体制たいせい強化きょうかしろとう。ところが保険ほけん診療しんりょう障害しょうがいのあるおさんをて、親御おやごさんの相談そうだんおうじていくわけですから、診療しんりょうをすればするほど赤字あかじがかさむ。ひとたちは横浜よこはま在住ざいじゅうしゃおおいのだけれど、横浜よこはまからは支援しえんもない。横浜よこはま独自どくじのサービス乳幼児にゅうようじどもにたいしてはるものがない。
そうしたなかで、父母ちちははかい連盟れんめい事務じむきょくてき役割やくわりをしていて、事務じむ局長きょくちょう酒井さかい喜和きわさん、かれには重症じゅうしょう心身しんしん障害しょうがいといわれるむすめさんがいて、もうぼく横浜よこはま施策しさく現状げんじょういかりをおぼえてたんです。それで、『こういう社会しゃかいてきなサービスの状況じょうきょうでは、障害しょうがいしゃころされてもやむをざるなりきだ』っていたんですね。そしたら酒井さかい喜和きわさんが「ん?」ってあたまねじるのはた。でもね、そのまま新聞しんぶん発表はっぴょうしちゃった。朝日あさひ夕刊ゆうかんた。そして地元じもと減刑げんけい嘆願たんがん運動うんどうきたことで、「おれたちころされていいのか!」って。あおしばかいがり、児童じどう医療いりょう福祉ふくし財団ざいだんしかけてた、くるまいすでドーっと。
 その背景はいけいにはね、もう入所にゅうしょがた施設しせつやまなかにぼこぼこっていく、それ以外いがい施策しさくがほとんどてこないっていうそういう時代じだい背景はいけいがあって、「施設しせつさえあれば解決かいけつする」「施設しせつがないからころされる」ではたまらない、そういうことであおしばはげしくおこっていた。だから横田よこたひろしさんがう『あい正義せいぎ否定ひていする』っていうのは、それですよね。そんなあい正義せいぎならいらない。
そして、そのの77ねん川崎かわさきでバスの乗車じょうしゃ拒否きょひ闘争とうそうね。「くるまいすせない」ってったんで、川崎かわさき駅前えきまえ猛烈もうれつ抗議こうぎしたんですよ。一般いっぱん乗客じょうきゃくが「おれたちがれないではないか」と抗議こうぎすると、「あなたたちは365にちれる。おれたち車椅子くるまいすは365にちれないのだ」と反応はんのうしてましたね。あおしば普遍ふへん主義しゅぎもとめていたのだろうとぼく想像そうぞうしています。
 そして、79ねん特殊とくしゅ学級がっきゅう養護ようご学校がっこう制度せいどでの全員ぜんいん就学しゅうがくてくる。ここでは見事みごと選別せんべつ主義しゅぎられました。
 ともあれ、児童じどう医療いりょう福祉ふくし財団ざいだんにいたころはね、すごい労働ろうどうでした。横浜よこはまえき夜中よなかの12ふんるといえちかくのえきまでける。あさあいだ幹部かんぶ会議かいぎ早朝そうちょう会議かいぎっていうのを7時半じはんからやるんですよ。睡眠すいみんは4-5あいだというのがおおかったです。それに、財団ざいだんにはおかねがないですから、かねひろゆめばっかりる。そうして、児童じどう医療いりょう福祉ふくし財団ざいだんやぶちゃ滅茶めちゃらしをして、きて、理事りじちょう辞表じひょうきました。
しばらくして、芹沢せりざわいさむさんという神奈川かながわけんただしすみかい(きょうさいかい)の理事りじちょうから「ちょっとおにかかりたい」ってげんれて、「社会しゃかい事業じぎょう研究所けんきゅうじょというのが空席くうせきだったんで、あなたにそこの所長しょちょうをやってもらいたい」。図書としょしつもあるし、「あなたのきな研究けんきゅうをしてください」と。「なにを研究けんきゅうすればいいんですか?」とたずねたら「研究けんきゅうっていうのはひとわれてするもんじゃないでしょう」。すごいひとでした。それでくことになったら、出勤しゅっきん簿なしで、研究けんきゅう調査ちょうさて、本代ほんだいた。

田中たなか:すごい。パラダイス。

谷口たにぐち:パラダイス。だれかが「谷口たにぐち地獄じごくから天国てんごくだ」っていました。そのころつくったのが神奈川かながわけんただしすみかいぼく編集へんしゅうした紀要きようなんです。これは、現場げんばにいる人達ひとたち論文ろんぶんいてる時間じかんがないので、神奈川かながわけんただしすみかい社会しゃかい事業じぎょう研究所けんきゅうじょてもらって、材料ざいりょうってかたってください。そしたらそれを全部ぜんぶ文字もじにしてとどけます。
また、神奈川かながわけん社会しゃかい事業じぎょう研究けんきゅう発表はっぴょう大会たいかいはそのころもあって、そこで発表はっぴょうをしたひとのものをここにまとめるっていう。そういう、現場げんばひとたちのまとめをたすけをしたものです。
たとえば、ここにある『神奈川かながわけんにおける在宅ざいたく障害しょうがい対策たいさくがあゆみ』とうのは、大澤おおさわたかしさんがはなしたことを全部ぜんぶまとめた。かれはこの論文ろんぶんにちしゃだい吉田よしだ久一ひさいちしょうをもらったんですね、これが最初さいしょだいになって。かれ岩手いわて県立けんりつだい教授きょうじゅになったんですね。
 また、この119ページにひばりヶ丘がおか学園がくえん谷口たにぐち四郎しろうさんがいてくれた年表ねんぴょうがあります。これをてもらうと、ようするに入所にゅうしょがた施設しせつつくっていきながらちいさな障害しょうがい幼児ようじ対策たいさくがぼつぼつと昭和しょうわ43ねん(1963)ごろからてくる。この昭和しょうわ43ねん神奈川かながわけんはじめて在宅ざいたく心身しんしん障害しょうがい対策たいさく要綱ようこうというのをつくっている。神奈川かながわけんがやっとどものことをがけはじめた。
 ようするに、ぼくいたかったのは、あおしば人達ひとたちが『おやよ!ころすな』なんていてるときには本当ほんとう入所にゅうしょがた施設しせつしかなくて、コミュニティでのケアの施策しさくがなかった。そういうなか強烈きょうれつ問題もんだい意識いしきいだき、それががってきたんだとおもいますね。もちろん東京とうきょう府中ふちゅう闘争とうそうとかね、いろんなことがあるんですけれども、神奈川かながわでも強烈きょうれつ問題もんだい意識いしきがったんですね。
 それで、神奈川かながわけんただしすみかいに6ねんいたあいだにも研究けんきゅうかいやったりして、そのメンバーのごえん関東かんとう学院がくいんばれていきました。そこでの授業じゅぎょうぼく障害しょうがい福祉ふくしろん担当たんとうしました。その授業じゅぎょうあおしば面々めんめんとその車椅子くるまいすひとたちもるんですよ。エレベーターがない2かい教室きょうしつ守衛もりえさんたちが4にんも5にんあつまって、くるまいすをかつげてくれた。一生懸命いっしょうけんめい大事だいじ生徒せいとのようにしてくれた。そういうなかぼく障害しょうがい福祉ふくしろんっていうのは、おのずとわっている。当事とうじしゃをいつも念頭ねんとうかないとできない、授業じゅぎょうが。そういう授業じゅぎょうをやってかなきゃいけないんだなとおもって。客観きゃっかんてきなにかをっていればいいというはなしじゃないなあとおもって。そういうなかで8ねんごしました。
 そして、神奈川かながわけん人材じんざい確保かくほかんする委員いいんかいがありましてね、一番いちばんせら康子やすこ先生せんせい委員いいんちょう田端たばた光美てるみ先生せんせいふくいん委員いいんちょうで、ぼく関東学院大学かんとうがくいんだいがくからている委員いいんで、報告ほうこくしょ最終さいしゅうてきなまとめをするというかいひらかれた。そのごえんで、日本女子大学にほんじょしだいがくうつることになりました。
 そして日本女子大にほんじょしだいにいた92ねんの9がつ横田よこたひろしさんとバンクーバーへきました。それは84ねんごろからブリティッシュコロンビアしゅう障害しょうがいしゃ入所にゅうしょ施設しせつ閉鎖へいさはじめていて、それが終了しゅうりょうしたので、横田よこたさんが「おれきたい」「とにかくバンクーバーへって障害しょうがい当事とうじしゃいたい」ってうんですね。それでそういうアレンジメントをやったんですけど、こうで横田よこたさんの障害しょうがい当事とうじしゃのその、「おおいに運動うんどうしてるひといたい」っていういいかたをしてえたのはみんなね、脊損のひとなんですよ。それで横田よこたさんすごい不満ふまんでね。どうして脳性のうせいまひしゃえないんだって。だけど結局けっきょく最後さいごまでダメでした。
 そして帰国きこく間際まぎわになったときかれはね「谷口たにぐちさん、おれくるまいすをして」ってうのね。かれのほら持論じろんだから。「健常けんじょうしゃくるまいすをさなきゃだめだ」と。「だからおれ電動でんどう使つかわない」ってってましたからね。「おれくるまいすをさなきゃ障害しょうがいしゃのことはわからない」って。それでね、せってうから、「じゃあおれいちにちあんたとうよ」ってって。そうしたらね、バンクーバーのみせつぎからつぎからつぎからつぎへとものいにくんです。すごいんです。ぐるぐるぐるぐるまわってね。もうあのみせ、このみせつぎはあっちこっち、あのみせこのみせって。ぼく海外かいがいって土産物みやげものってったことないからおどろいちゃって。「へえ。このひとはこんなものするひとだったのかあ」とおもった。そしたら最後さいごに、「谷口たにぐちさん、寿司すしれてってくれ」ってうの。横田よこたさんが。それで2人ふたりかいですわった。そしたらとくじょう寿司すし2つたのんでくれってうのね。そして「おれ今日きょうおごるからべてくれ」って。それで寿司すしべてるうちにかれかたったのは、「おれ貯金ちょきん全部ぜんぶろして」、それでその貯金ちょきんをね、「全部ぜんぶ今日きょうもの使つかった」ってうの。それでね、それはね、世話せわになったひとの…たぶん81にんったとおもったな。「あたまかぶだけで81にんいるんで、そのひといちにんずつあたまかべながらお土産みやげったんだ」って。81にんぶん。すごい。で、「もう二度にどることないとおもうから、これでさっぱりした」って。それで「寿司すしってくれ」ってうんで、ぼくはなんかむねあつくなっちゃった、「そうだったのか」とおもって。

田中たなか:81にんおもかべるってすごいですね。

谷口たにぐち:すごいね。なんかね、靴下くつしたから帽子ぼうしから手袋てぶくろから。いろいろってた。ぼくは「そういうおとこだったのか」と感銘かんめいふかかった。
 おもせば、2004ねんの5がつ1にちから障害しょうがいしゃ支援しえんセンター運営うんえい委員いいんかいっていうのができて。それがどうしてできたかというと、酒井さかい喜和きわさんが理事りじちょうをやってた在宅ざいたく障害しょうがいしゃ援護えんご協会きょうかいを、あたらしい横浜よこはま市長しちょう民間みんかん団体だんたいおおくを整理せいり合併がっぺいさせるっていいだして、在宅ざいたく障害しょうがいしゃ援護えんご協会きょうかい横浜よこはま社協しゃきょう(01:34:51)に吸収きゅうしゅうするって市長しちょうがいいはった。ぼくらはもう反対はんたいで。社協しゃきょう体質たいしつ同一どういつされたらぶたもないっていうので。それで文章ぶんしょういているんです。『10年間ねんかん社協しゃきょう人事じんじませない。人事じんじはいじらせない、社協しゃきょうに』。それからね、横浜よこはま障害しょうがいしゃ支援しえんセンターっていう名前なまえまったんですけど、それは「『当事とうじしゃせい』と『開拓かいたくせい』と『運動うんどうせい』という3ほんばしらけっして見失みうしなうことのないように運営うんえいすること」っていう。それを公文書こうぶんしょにまとめて横浜よこはましゃ協会きょうかいちょうあてしているんですね。
 そして出来でき横浜よこはま障害しょうがいしゃ支援しえんセンターの運営うんえい委員いいんとして横田よこたひろしさんと内田うちだみどりさんが参加さんかしてきた。その運営うんえい委員いいんちょうを13年間ねんかんやってきた。そのなかおもすのは、内田うちだみどりさんが、「障害しょうがいしゃ総合そうごうなんとかのっとってのができたけど、障害しょうがいしゃはますますきにくくなってます。がんじがらめ。なんだかとても自由じゆうがなくなって、自分じぶんらしくきられる、きるみちえなくなっています」っていう。すごく基本きほんてき問題もんだい提起ていきだったとおもいますね。そういうことをって、くなってしまいました。
 それで、2013ねん6がつ3にち横田よこたさんはくなってしまい、12月4にち内田うちだみどりさんがくなった。横田よこたさんがくなったのち内田うちだみどりさんが「2019ねん12月31にちをもってあおしば活動かつどう停止ていししますってわれてる」って。これはね、横浜よこはま障害しょうがいしゃ支援しえんセンターの運営うんえい委員いいんかい運営うんえい委員いいんとしてつたえられたことの記録きろくなんです。
 横田よこたひろしさんというのは、「きてるっていうことを、そういうことをしんそこでかみしめてきているおとこなんだな」っていつもおもってました。だから最初さいしょわーっとしかけてきたられたときは、「『ぼくころされてもやむをざるきである』っていたから、いかりのあらしかってどうしていいかわからずこわかった。してしまった言葉ことばしようがないから」ってったら、「いや谷口たにぐちさん、こわがることなんかなかったんだよ」とわれたけど。(笑)かっこわらい どういう意味いみだったかわかんないけど、そういうことをわれました。[01:40:43]

田中たなか:だーってとき先生せんせい、そのあとっていうのはどうやってはなしをしたんですか?

谷口たにぐち:そのね、心身しんしん障害しょうがいおやかい連盟れんめい減刑げんけい嘆願たんがんもしたこともないし、その抗議こうぎぶんぼくいたのを発表はっぴょうしただけで、ぼく責任せきにんなんですよね。
 でも、おやかいひとたちはそれぞれの立場たちばで、あおしば説明せつめいしようとしていったんですね。たとえば、重症じゅうしょう心身しんしん障害しょうがいまもかい会長かいちょうかれってたんです。「おれむすめなんかさ、なにわないし、なに意思いし表示ひょうじがないからなにかんがえてんだかわかんないんだけど、とにかく丸裸まるはだかいのちきてんだよ」「そういういのちいだかかえて一緒いっしょのうとはおもわない」「だけど、あおしばのような『ものをひと』とおれむすめとはちがうなとおもってんだよ」「なにちがいってのをかんじちゃうんだよなあ」みたいないいかたをしてました。ころす、ころされるということとはちがうというような立場たちばはなしていたのでしょうね。
 そして、このけんとはべつに、あおしば介護かいごしゃおやくなってしまって、どうしようもなくって、どこかにまいをつけなければならないと不動産ふどうさん本当ほんとうに100けんまわった。それでもつからなかったというはなしつたわってきた。本当ほんとういえつけるのはむずかしいってはなしがあった。そのころぼく毎年まいとしイギリスにきだしてて、ホステルなんかをたずねたりめてもらったり、それからグループホームもたずねたりしてたんで、「じゃあおれね、イギリスのグループホームってどういうものなのかもういちかい本気ほんき調しらべるよ」って。それで、それをテーマにしてイギリスへく。「グループホームの運営うんえいってどうやってやるのか」「介護かいご介助かいじょ問題もんだいはどうやってやるのか」「介護かいご不要ふようひとむのか」「グループホームのタイプっていうのはどういうものがあるのか」「おわり住処すみかになるのか、一時いちじてき住居じゅうきょか」、そういうものを調しらべてきて、それを室瀬むろせ滋樹しげきさんという支援しえんしゃつたえる。で、室瀬むろせさんが媒介ばいかいこうになって、あおしばひとたちにつたわってく。いつのにか、あたらしい情報じょうほう提供ていきょうしゃ役割やくわりになっていくというかんじがありましたね。
 その横浜よこはまでは脳性のうせいまひしゃ中心ちゅうしんにしたエレベーターきのいえてて、グループホームにして、30ねん契約けいやくする家主やぬしてくる。内田うちだみどりさんもそうしたグループホームにんでいました。
 また、矢田やたさんとか、白石しらいしさんとか友人ゆうじんとしておさけんだり、個人こじんてき相談そうだんけたりして、障害しょうがいころしとはべつ個人こじんてきいがはじまったがします。

田中たなか:ふれあいのいえ室津むろつさん?…。

谷口たにぐち:そうです。ふれあい生活せいかつののいえですね。正式せいしきにはなか障害しょうがいしゃ地域ちいき活動かつどうホームの理事りじちょうをやってるとおもいます、室津むろつ滋樹しげきさんは。そういえば、日本女子大にほんじょしだい授業じゅぎょうでも「グループホームへボランティアでおこなってくれ」ってって、とまりがけでおこなってくれるひとがいました。

田中たなか:たぶん脈々みゃくみゃくつづいてたんじゃないですか、ボランティアをしていくのが。おこなった記憶きおくがありますね。
先生せんせい、もう一度いちどおうかがいしていいですか? このへんの出来事できごとのあたりっていうか、臨場りんじょうかんのあるところで。先生せんせいのその抗議こうぎぶんたいしてあおしばひとたちは先生せんせいのおつとさきたんですか?

谷口たにぐち:そう。児童じどう医療いりょう福祉ふくし財団ざいだん会議かいぎしつしかけてたの。そのときぼくはいなかった。ぼくは、直接ちょくせつ対決たいけつしてせまられるっていう経験けいけんはないんです。

田中たなか:そしたらどうやってそのあとは接点せってんができたんですか?
横田よこたさんが「あの文章ぶんしょういたひといたい」とか、そうやってたとかっていうわけでもない?

谷口たにぐちたことないですね。はい。ここにならべているひとたちって、なにとはなしのいをしてるんですよね。白石しらいしさんはかくか、こん群馬ぐんまのほうにいるのかな?

田中たなか白石しらいしさんって福島ふくしまのですか? 郡山こおりやまの。

谷口たにぐち郡山こおりやま。そう。白石しらいしさんね。かれさけんでいろんなはなしたりして、って、個人こじんてきはなしいて。それから矢田やた竜司りゅうじさんは川崎かわさきんでて、鶴見つるみ作業さぎょうしょ所長しょちょうになったんですね。それでぼくのところへってきたのは、「とにかくね、谷口たにぐちさんね、生活せいかつ保護ほごけるのはいやだったんだ」って。それで所長しょちょうになって給料きゅうりょうもらうようになったんだけど、川崎かわさきから電動でんどうくるまいすで2あいだはんですって。鶴見つるみまで。それが交通こうつう事故じこにあってたりまえみたいな経路けいろってかなきゃなんないんでこわくって、毎日まいにち通勤つうきん大変たいへん。それから「おまえだけなぜ給料きゅうりょうもらうんだって障害しょうがいしゃ仲間なかまからわれててつらいんだ」「だけど生活せいかつ保護ほごけたくないんだ」ってって。市営しえい住宅じゅうたくんでてね。そんなことをいながら。ぼく結局けっきょくなに出来できないではなしくだけだったんですけどね。
 だからなんだろうな。ぼくってなんとなく、正面しょうめんから抗議こうぎぶんのことでやりうこともいまま、なんとなくいがてくるってのか。はなしにるとか、手紙てがみおくってくるとか、そんなかんじでってて。またぼくもそういうことって記憶きおくらないでなにもしないでなんとなくあたまおもってるだけできちゃってるから。[01:51:07]

田中たなか:でもすごいですね。だっていっぱい名前なまえてきて。ちゃんと名前なまえおぼえてらっしゃるのがすごい。

谷口たにぐち:そう、名前なまえおぼえてる。それぞれの個性こせいがあるひとたちだったから。

田中たなか:でもあれですね。なんかすごくこう、敵対てきたいするようなお手紙てがみをあるしゅいたわけじゃないですか。そんなのに、そのあとはかんじで交流こうりゅうむすべてるっていうところがやっぱり、どうやってこうなったんだろうっていうのはちょっとね。

谷口たにぐち:なんとなく、あのひとたちにとって情報じょうほうげんみたいだったのかな。「ノーマリゼーションなんて、谷口たにぐちからはじめていた」ってってたし。それはもう明確めいかく入所にゅうしょ施設しせつ否定ひていっていうことなんだよって。日本にっぽんはそうなっていないけど、みたいなはなしをすると「ああ、そうなのか」みたいなね。そうですね。1970ねんはいってすぐのころだとおもいますよ。「ノーマリゼーション」なんてぼくっていいだしたのは。

田中たなか:それはやっぱり先生せんせい海外かいがい文献ぶんけんんだりされてたから?

谷口たにぐち:そうです。68ねんにヴォルフェンスベルガーがいたのをまずった。68ねんかれて、「ほー」とおもっておどろいたけど、ヴォルフェンスベルガーのいた文章ぶんしょうって、ドイツけいひとですからすごいむずかしい。「そうなのか」とおもいながらばしていったけど、翻訳ほんやくしようとおもったけど、これはおれちからでは翻訳ほんやくできないよとおもったのはまざまざと記憶きおくしてますね。でもね、「ノーマリゼーション」という言葉ことば理念りねんがある、「常態じょうたい」とでもいうのかな、そういうことはってた。だから大澤おおさわさんが県庁けんちょうでいいだしたのは「おまえからいたからだ」ってってたけど。さだかでないんですけど、「最初さいしょにノーマリゼーションを神奈川かながわんだのは谷口たにぐちだ」とかってる。また、たとえばグループホームって「おわりのすみかであってもいいし、おわりのすみかでなくてもいいんだよ。たくなればていけばいいんだから」みたいなことだとかね。
 それから「障害しょうがいしゃ高齢こうれいをどうする?」というようなはなしたりとか。ぼくね、厚木あつぎ精華せいかえんっていうのができたとしにそれをいた。厚木あつぎ精華せいかえんっていうのはね、知的ちてき障害しょうがいしゃ高齢こうれいしゃだけあつめる施設しせつなんですよ。すごいとおもいませんか? 高齢こうれいしゃだけ。それで、それぼく日本女子大にほんじょしだい紀要きよういたんです。

田中たなか:94ねん。ずいぶん先駆せんくてきですね、先生せんせい。[01:55:00]

谷口たにぐち大澤おおさわさんにこれをせて、高齢こうれいしゃだけあつめるのは無茶むちゃでしょうって。そしたらかれが「厚木あつぎ精華せいかえんはそういう趣旨しゅし施設しせつなんだ。そこで研究けんきゅう紀要きよう創刊そうかんごうにこれを全部ぜんぶ引用いんようさせてくれって。

田中たなか知的ちてき障害しょうがいひとはなんかいま認知にんちしょうはなしなんかもけっこうたりするのって、最近さいきんですもんね。

谷口たにぐち:ああ、そう。そうですよね。

田中たなか:だからすごい先駆せんくてきな。

谷口たにぐちたりまえのことをいてるだけなんですけどね。

田中たなか:じゃあなんとなしに会合かいごうとかで出会であったり?

谷口たにぐち:そういうことだったんだとおもう。いろんなはなしをするとか、それから鶴見つるみ京浜急行けいひんきゅうこうちかくの居酒屋いざかやくるまいすで一緒いっしょはいってさけんで、ああでもないこうでもないってうとかね。たぶんぼくかたがそうだったんだとおもう。

田中たなか:そういうなか先生せんせいが、いろんな知見ちけんみたいなものをみながらしゃべって。それはまたあおしばひとにとってはちょっとあたらしい。こういうこともあるんだなみたいなことで、だんだんしたしくなっていくっていうか?

谷口たにぐち横田よこたひろしさんの息子むすこさん、たかいすらりとしたいいおとこなんだよね。

田中たなか:あ、そうなんですか。息子むすこさんったことがない。

谷口たにぐち横田よこたさんひろしにね、「あんたの精子せいし立派りっぱ精子せいしなんだなあ。あの息子むすこるとそうおもう」なんて、そんなはなしながら。オフレコだけど。友達ともだちだから、「あんた、最初さいしょ経験けいけんどこでどうしたの?」とか。(笑)かっこわらい 

田中たなか(笑)かっこわらい

谷口たにぐち:そういうはなしだとか。それから、バンクーバーおこなったときはどうしても、「谷口たにぐち、カナダのポルノをせろ」とか。(笑)かっこわらい 

田中たなかいきおいがありそうですもんね。92ねんだって…まだおいくつぐらいですかね。けっこういいおとしではあるのか。60だいですか? 

谷口たにぐち:33ねんまれじゃなかったかな? ちょっとって。33ねんまれ。

田中たなか:じゃあ60ぐらいですね、ちょうど。59とか、バンクーバー。まだ元気げんきか。
 でもそういう、なんか和解わかいしていくっていうのがなかなかいっていうか。あんまりないかなって。

谷口たにぐち和解わかいしていくもいかないもないまんま、なにか「わかっちゃった」みたいなかんじですかね。かれ下痢げりしちゃって。夫婦ふうふになったけど、下痢げりしたとき大変たいへんだったというような。

田中たなか:でもそういうはなしができるなかになっていくってのがすごいですね。

谷口たにぐち:なんかね、次元じげんちがうところではじめちゃってたっていうのかな。なんとなくね。

田中たなか:じゃあ最初さいしょはもしかしたらあれですか? 谷口たにぐち先生せんせいがこういう文章ぶんしょういた張本人ちょうほんにんだってらなかったとか? 

谷口たにぐちらなかったとおもう。

田中たなか:ああ、そうなんですね。なんかはなしているうちに、「じつぼくでした」みたいな?

谷口たにぐち:そうそうそう。「あれいちゃったから、おれもうそれで横田よこたさんたちがガーってときおれこわかったよ」とかっていうようなはなしでわかっちゃったのかな。

田中たなか:そしたらなんか「あれ? このひとだったのか」みたいな。(笑)かっこわらい なるほど。じゃぎゃくにあれですね。さきいができちゃってたっていう。

谷口たにぐち:「い」ってほど意識いしきしてなかった。なんとなく自然しぜんはなしちゃってたっていう。ぶっちゃけたばなししちゃってたっていうことかな。[01:59:43]

田中たなか:でも、そういうおいができたというのも、またね。たぶん先生せんせいなかにやっぱり元々もともとその、お友達ともだち視覚しかく障害しょうがいひとがいたりとかそういうなかで、あんまりかべつくらずにえるというか。

谷口たにぐち:それからほら。あおしばはセックスのことをあからさまにいいたてる時代じだいがあったんですよね。正面しょうめんから。「セックスどうする?」っていうのは。ぼくはそのころ一生懸命いっしょうけんめい障害しょうがいしゃとセックスの問題もんだい」っていうのは。たとえば結婚けっこんするしないにかかわらず、一緒いっしょになって妊娠にんしんしたら子育こそだてどうするのかとか。そういうのをね、一生懸命いっしょうけんめい、イギリスって調しらべたりとか。イギリスは平気へいきでやってんだよ、そういうのは。一緒いっしょになってさ、どもまれたらどうするかというと、それは社会しゃかいそだてればいいってってんだよ、イギリスはさあって。「ええ? そうなの?」というふうなね。そんないだったからかなってがしますけどね。だからかれらもほら、女性じょせいあおしばはなんかかなりあからさまでしたからね、せいについては。だから「性的せいてき経験けいけんだけはしたいけど、結婚けっこんはしたくないけど、ちょっといいおとこいないか?」とか、おもいもかけないはなし本当ほんとうせいについてあからさまな時代じだいがあったんですよ、おんなひとおとこひともね。

田中たなか:80年代ねんだいですか?

谷口たにぐち:そうだったとおもうな。

田中たなかいまはね、そこまでオープンに…。まあでもいろんなサービスというかね、あるから。でもまありてるとはえない。とくおんなひとぎゃくに、しゃべらないですかね、いま

谷口たにぐちかくされた、隠蔽いんぺいされた世界せかいでありつづけているとはおもいますね。いっときはあおしばがいいたてたけど。でもぼく本当ほんとうに、きちっとしなきゃいけない問題もんだいだとおもって。だからイギリスおこなったとき、ぼくはもういまでもわすれないのは、障害しょうがいしゃのホステルの女性じょせい施設しせつちょうが、「『セックスの権利けんり何人なんにんうばうことはできない』ってイギリスじんかんがえる。そこからスタートする」「それを抑圧よくあつして、ないものにしていくわけにはいかない」って。「だからあらゆることをかんがえて、その権利けんりまもらなきゃいけない」ってわれた。実際じっさい、イギリスの本屋ほんやくとってましたもんね。「障害しょうがいのあるひとのセックスはどうやってやるか」って、りで、じつこまかく。それは障害しょうがいのある兄弟きょうだいったおにいさんがいたほんでしたね。

田中たなか:なるほど、そうか。じゃあ、横田よこたさんたちのはなしはなんとなく。はい。

谷口たにぐち:でもその、「セルフアドボカシー」っていうのもすごく大事だいじだとおもってるんです。イギリスの障害しょうがいしゃ団体だんたいなんか、セルフアドボカシーに目覚めざめた。というのは、障害しょうがいのあるどもをったって、母親ははおやからなみだがポロリちるポスターがたんです。それで障害しょうがいしゃ団体だんたい猛烈もうれつ反応はんのうしたんですね。障害しょうがいつことが悲劇ひげきかなしみだっていうことを象徴しょうちょうするポスターをりだすのかっていうので。それで、障害しょうがいしゃ自身じしん団体だんたい各所かくしょにオフィスをかまえるなどして、前面ぜんめんてくるようになった。そして、そういうオフィスにはたいがい首相しゅしょう訪問ほうもんしていて、みんなと写真しゃしんっている。それが報道ほうどうされるなどして、社会しゃかいられ、みとめられるおおきなチャンスにはなってる。
 だから、あおしば一番いちばん残念ざんねんおもってるのは、そのセルフアドボケイトが十分じゅうぶんにでききれないまんま横田よこたさんなんかがこのっていっちゃった。内田うちだみどりなんかがっていってしまったということじゃないかなと、ぼくおもっています。




作成さくせいいわ 弘泰ひろやす
UP: 20211222 REV: 20231015
谷口たにぐち 正隆まさたか  全文ぜんぶん掲載けいさい
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