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「谷口正隆氏インタビュー@」2021年11月4日14時2分〜
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全文
ぜんぶん
掲載
けいさい
>
「
谷口
たにぐち
正隆
まさたか
氏
し
インタビュー@」(2021
年
ねん
11月4
日
にち
14
時
じ
2
分
ふん
〜)
語
かた
り:
谷口
たにぐち
正隆
まさたか
/き
手
きて
:
田中
たなか
恵美子
えみこ
2021/11/04
:
Tweet
last update: 20231015
※
聴
き
き
取
と
れなかったところは、***(hh:mm:ss)、
聴
き
き
取
と
りが
怪
あや
しいところは、【 】(hh:mm:ss)
タイムレコードは[hh:mm:ss]としています。
谷口
たにぐち
正隆
まさたか
(
以下
いか
、「
谷口
たにぐち
」と
表記
ひょうき
):
臼井
うすい
正樹
まさき
さんが、
立岩
たていわ
さんと
横田
よこた
さんと
三
さん
者
しゃ
で『われらは
愛
あい
と
正義
せいぎ
を
否定
ひてい
する』という
本
ほん
※を
書
か
かれています。
臼井
うすい
正樹
まさき
さんは
県立
けんりつ
大
だい
で
一緒
いっしょ
でしたが、その
彼
かれ
が「
横田
よこた
弘
ひろし
はわれわれにとって
研究
けんきゅう
対象
たいしょう
だ」って
言
い
ったんですよ。それ
聞
き
いたとき
実
じつ
は
唖然
あぜん
としちゃって。なんか「
研究
けんきゅう
対象
たいしょう
」っていう
言葉
ことば
で
彼
かれ
をとらえるっていうの、とっても
僕
ぼく
の
感覚
かんかく
では
不思議
ふしぎ
だったんですね。それから
横田
よこた
弘
ひろし
さんの
名前
なまえ
も
出
だ
した
本
ほん
が
出
で
たんですね。それ
読
よ
んでもね、なんかやっぱり
奇異
きい
な
感
かん
じを
拭
ぬぐ
い
去
さ
れないんです。
僕
ぼく
は
彼
かれ
を
研究
けんきゅう
対象
たいしょう
として
一
いち
回
かい
も
見
み
たことがなくて。
彼
かれ
との
関
かか
わりが
始
はじ
まる
発端
ほったん
は、あとで
話
はな
しますけど、
横浜
よこはま
の
障害
しょうがい
児
じ
殺
ころ
しの
事件
じけん
なのでけれど、ずっと
彼
かれ
とは
友人
ゆうじん
としての
関
かかわ
りで、だからここできっと
話
はな
されたくないような
彼
かれ
の
側面
そくめん
とか、
話
はなし
とか、
行為
こうい
というのも
僕
ぼく
は
知
し
ってるんですね。でもそれは、
彼
かれ
がきっと
言
い
って
欲
ほ
しくないと
思
おも
うだろうなと
思
おも
うから
言
い
わないっていう。
(笑)
かっこわらい
僕
ぼく
にとっては
友人
ゆうじん
だから。そして
彼
かれ
には、なんとも
言
い
えず
惹
ひ
きつけられて。すごい
人
ひと
だなあとも
思
おも
うし、なんと
人間
にんげん
的
てき
な
人
ひと
なんだろうなあと
思
おも
うところがあるから。「
彼
かれ
は
言
い
われたくないだろうな」と
思
おも
うようなことは
言
い
えないし、
言
い
わない。
(笑)
かっこわらい
そういう
感
かん
じなんですよ。[00:04:43]
※
横田
よこた
弘
ひろし
・
立岩
たていわ
真
しん
也・
臼井
うすい
正樹
まさき
2016/03/25
『われらは
愛
あい
と
正義
せいぎ
を
否定
ひてい
する――
脳性
のうせい
マヒ
者
しゃ
横田
よこた
弘
ひろし
と「
青
あお
い
芝
しば
」』
,
生活
せいかつ
書院
しょいん
,250p.,2200+ ISBN-10: 4865000534 ISBN-13: 978-4865000535
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田中
たなか
恵美子
えみこ
(
以下
いか
、「
田中
たなか
」と
表記
ひょうき
):
(笑)
かっこわらい
はい。わかりました。
谷口
たにぐち
:それでね、
僕
ぼく
はだから
彼
かれ
のことを
何
なに
も
記録
きろく
に
取
と
っていないです。でも、
青
あお
い
芝
しば
の
人
ひと
たちが
書
か
いたものってこまめに
集
あつ
めていて、
横田
よこた
さんの
俳句
はいく
など。それをみんな
県立
けんりつ
大
だい
の
在原
ありわら
さんのもとにぜんぶ
置
お
いてきちゃった。そのまま
彼女
かのじょ
の
研究
けんきゅう
室
しつ
のどこかにそのままになっていると
思
おも
うんです。 それで。ここはどうだったかなと
思
おも
ってね、
私
わたし
と
横田
よこた
さんとの
間
あいだ
で
関係
かんけい
する
人
ひと
たちなどをメモしてみました。
田中
たなか
:すみません、なんかいろいろご
用意
ようい
くださって。
谷口
たにぐち
:
横田
よこた
さんとのことは
後
ご
からにして、まず
最初
さいしょ
に
青
あお
い
芝
しば
と
知
し
り
合
あ
ったのは、
内田
うちだ
みどりさんです。
川崎
かわさき
に
住
す
んでたんです。
彼女
かのじょ
は
自立
じりつ
しようと
思
おも
って、「
自立
じりつ
するには
結婚
けっこん
だ」って
遮二無二
しゃにむに
結婚
けっこん
したんですって。こういう
話
はなし
は
僕
ぼく
は
何
なん
の
記録
きろく
にも
取
と
ってなくて、
会
あ
って、「ふーん」って
話
はなし
を
聴
き
いていたことなの。
田中
たなか
:いいえ、それが
大事
だいじ
です。
谷口
たにぐち
:それで、
僕
ぼく
のところに
来
き
て
彼女
かのじょ
が
言
い
うんですよ。「あのね、
辛
つら
いんだよ」って。
何
なに
が
辛
つら
いかっていうと、
自分
じぶん
が
産
う
んだ
赤
あか
ちゃんが、
自分
じぶん
の
手
て
で
抱
だ
きとめて
授乳
じゅにゅう
がうまくできない、すると
子育
こそだ
ての
手伝
てつだ
いに
来
き
ているヘルパーさんをお
母
かあ
さんのように
慕
した
ってしまうんだって
言
い
うのね。それが
本当
ほんとう
に、
脳性
のうせい
まひってのは
辛
つら
いと
思
おも
ったっていう
話
はなし
をしてたんですね。それが
内田
うちだ
みどりさんと、
一番
いちばん
若
わか
い
頃
ころ
に
知
し
り
合
あ
った。あの
方
ほう
、
言語
げんご
障害
しょうがい
がほとんどなかったけど、
赤
あか
ちゃん
育
そだ
てるには
意外
いがい
な
辛
つら
さがあるのだなぁと
思
おも
って
聞
き
いてた
記憶
きおく
があるんです。
田中
たなか
:
先生
せんせい
が
何
なん
歳
さい
ぐらいの
時
とき
ですか?
谷口
たにぐち
:26?7のことだと
思
おも
いますね。
田中
たなか
:その
頃
ころ
先生
せんせい
は
何
なに
をしておられたんですか?
谷口
たにぐち
:
僕
ぼく
は、
最初
さいしょ
、
神奈川
かながわ
県庁
けんちょう
に
入
はい
ったんですよ。それで
労働
ろうどう
部
ぶ
に
配属
はいぞく
されたんだけど、つまんなくて2
ヶ月
かげつ
で
辞
や
めちゃったの。
(笑)
かっこわらい
田中
たなか
:2
ヶ月
かげつ
ってすごいですね。
(笑)
かっこわらい
谷口
たにぐち
:
川崎
かわさき
に
青少年
せいしょうねん
センターっていうのができて
職員
しょくいん
募集
ぼしゅう
やるって
聞
き
いたんですよ。それに
何
なん
で
惹
ひ
かれたかっていうと、お
昼
ひる
の12
時
じ
から
夜
よる
8
時
じ
まで
勤務
きんむ
すればいいって。
僕
ぼく
その
頃
ころ
ね、うちに
来
く
る
朝刊
ちょうかん
を
読
よ
んでから
寝
ね
るようなすごい
夜
よる
更
ふ
かしで。それなら「12
時
じ
・
夜
よる
8
時
じ
、
願
ねが
ってもない」って。それでなんか
若
わか
い
人
ひと
と
遊
あそ
んでいればいいんだみたいな
話
はなし
だったから。それで
川崎
かわさき
の
試験
しけん
を
受
う
けたんです。そうしたらね、「
県庁
けんちょう
を
辞
や
めてきた」って
言
い
ったら
職員
しょくいん
課
か
の
課長
かちょう
がすごく
怒
おこ
って「あんたね、
一
ひと
つの
仕事
しごと
をそんなに
簡単
かんたん
に
辞
や
めていいのか」って
言
い
うのね。「それで
川崎
かわさき
市
し
に
何
なに
しに
来
く
るんだ?」「ですから
青少年
せいしょうねん
センターに
入
はい
りたくてここに
来
き
てるんですよ」って、
当
あ
たり
前
まえ
じゃないですかと
思
おも
って
言
い
ったんだけど。そうしたらね、「
職員
しょくいん
課
か
に
来
こ
ないか」って
言
い
われたの。それでね、すごく
奇妙
きみょう
な
話
はなし
だけど、「
職員
しょくいん
課
か
に
来
く
るために
何
なに
もここ
受
う
けたわけじゃないんで、12
時
じ
・8
時
じ
の
青少年
せいしょうねん
センターへ
行
い
くっていうので
受
う
けたんで、
職員
しょくいん
課
か
には
行
い
きたくない」って
断
ことわ
ったのね[00:10:07]
田中
たなか
:
強
つよ
いですね、
先生
せんせい
。
谷口
たにぐち
:その
頃
ころ
、なんていうか、「
何
なに
しよう」と
思
おも
ってなかったから、
公務員
こうむいん
になれば
金儲
かねもう
けしないで
済
す
むからなろうと
思
おも
っただけの
話
はなし
なんで。そしたらね、
民生
みんせい
局
きょく
庶務
しょむ
課
か
付
つ
きにされたんですよ。
机
つくえ
に
座
すわ
らされて、「
条例
じょうれい
規則
きそく
をまず
読
よ
め」とかって
言
い
われて。「いやー、ここにいられるかなぁ」と
思
おも
ってたら、
社会福祉会館
しゃかいふくしかいかん
というのを
川崎
かわさき
市
し
が
作
つく
ったんですよ。そこへ
配属
はいぞく
するって
課長
かちょう
が
言
い
いだしたの。それで「
何
なに
やるんですか?」って
言
い
ったらね、「お
前
まえ
自分
じぶん
でやりたいこと
考
かんが
えろ」って
言
い
うのね。
社会福祉会館
しゃかいふくしかいかん
って
初
はじ
めて
建
た
てたので
誰
だれ
も
何
なに
も
構想
こうそう
を
立
た
てているわけじゃないんで。
会館
かいかん
があって、オーディオルームがあって、
講堂
こうどう
があって、「あとはお
前
まえ
がなんでも
考
かんが
えろ」っていうことになって、
行
い
かされたのね。
田中
たなか
:のどかな
時代
じだい
ですね、ずいぶん。
建物
たてもの
はあるんですよね?
谷口
たにぐち
:
建物
たてもの
は
建
た
っちゃって
職員
しょくいん
がいなかった。
田中
たなか
:すごいですね。
谷口
たにぐち
:それで
行
おこな
ってね。まず
僕
ぼく
は
大学
だいがく
の
心理
しんり
学科
がっか
時分
じぶん
に
全盲
ぜんもう
のやつと
同級生
どうきゅうせい
だったんで。
僕
ぼく
は
日大
にちだい
の
心理
しんり
学科
がっか
なんですけど、
傷痍軍人
しょういぐんじん
のリハビリテーションをやるっていう
心理
しんり
学科
がっか
だったんですよ。
田中
たなか
:そんな
心理
しんり
学科
がっか
あるんですか。
谷口
たにぐち
:あるの。
日大
にちだい
の
心理
しんり
学科
がっか
と
社会
しゃかい
学科
がっか
は
全盲
ぜんもう
の
障害
しょうがい
者
しゃ
を
入
い
れてたんですよ。
心理
しんり
学科
がっか
には
傷痍軍人
しょういぐんじん
やってて
失明
しつめい
した、
中途
ちゅうと
失明
しつめい
の
男
おとこ
が
僕
ぼく
の
同級生
どうきゅうせい
でいたの。
僕
ぼく
らの
時代
じだい
はね、
心理
しんり
学科
がっか
は
一般
いっぱん
教養
きょうよう
の
心理
しんり
学
がく
でも
英語
えいご
のテキストだったんですよ。
日本語
にほんご
じゃない。それで
僕
ぼく
はね、すっごく
文句
もんく
を
言
い
いに
行
い
って。「
英語
えいご
も
何
なに
も
知
し
らない
人間
にんげん
が
来
き
てるのに、それを
一般
いっぱん
教養
きょうよう
で
心理
しんり
学
がく
を
英語
えいご
で
教
おし
えるとは
何事
なにごと
だ」って。
心理
しんり
学科
がっか
の
先生
せんせい
にすごく
文句
もんく
を
言
い
いに
行
い
ったのね。そうしたら
目
め
つけられちゃってね。それでその
全盲
ぜんもう
のやつも
英語
えいご
で
読
よ
まなきゃなんない。そうすると、そいつも
独身
どくしん
で、ずっと
年上
としうえ
だったけど、ワード・トゥ・ワードで
読
よ
むんですよ。
僕
ぼく
らが
読
よ
まなきゃなんない
教科書
きょうかしょ
を、それを
彼
かれ
が
点字
てんじ
にする。そうやって
写
うつ
したのを
改
あらた
めて
彼
かれ
の
代
か
わりに
辞書
じしょ
を
引
ひ
く。それに
心理
しんり
学
がく
の
専門
せんもん
用語
ようご
は、
心理
しんり
学
がく
辞典
じてん
がその
頃
ころ
はなかったので、それでアメリカで
出
で
た
心理
しんり
学
がく
辞典
じてん
を
買
か
って、また
英語
えいご
で
引
ひ
いて
訳
やく
す。
田中
たなか
:
英語
えいご
で
英語
えいご
を
引
ひ
いて。
谷口
たにぐち
:そうなの。それをみんなまたワード・トゥ・ワードで
読
よ
むんですよ。
田中
たなか
:あ、
大変
たいへん
…。
谷口
たにぐち
:
朝
あさ
から
晩
ばん
までやってた。
僕
ぼく
ね、もうどうでもいいことばっかりしゃべってけど。
田中
たなか
:
大丈夫
だいじょうぶ
です。どんどん
言
い
ってください。
谷口
たにぐち
:
高等
こうとう
学校
がっこう
の
時
とき
は
日大
にちだい
二
に
高
だか
で、
英語
えいご
の
授業
じゅぎょう
って
一
いち
回
かい
も
出
で
たことなかったんですよ。「お
前
まえ
は
絶対
ぜったい
落第
らくだい
だ」って
言
い
われたの。
新聞
しんぶん
部
ぶ
の
編集
へんしゅう
長
ちょう
をやっていて
新聞
しんぶん
出
だ
すことに
熱心
ねっしん
で。「
絶対
ぜったい
お
前
まえ
落第
らくだい
する」って
言
い
われて。だから
日大
にちだい
二
に
高
だか
の
卒業
そつぎょう
式
しき
に
行
い
かなかったんですよ。おふくろに「
僕
ぼく
は
落第
らくだい
ですから。もう
一
いち
年
ねん
いますから」って
言
い
ったら、「あ、そうかい」ってなもんで。そしたら
学校
がっこう
から
電話
でんわ
がかかってきて、「お
前
まえ
、
卒業
そつぎょう
証書
しょうしょ
と
記念
きねん
品
ひん
預
あず
かってるけど、どうして
来
こ
ないんだ!」って
言
い
うから、「え? どうして
僕
ぼく
が
卒業
そつぎょう
できたんですか?」って
言
い
ったら、「
卒業
そつぎょう
証書
しょうしょ
と
記念
きねん
品
ひん
預
あず
かってるぞ!」。「え、
記念
きねん
品
ひん
まで
貰
もら
えるんですか?」って
言
い
ったら、「ヤマサの
醤油
じょうゆ
だ」。「はああー」、
驚
おどろ
きました。
(笑)
かっこわらい
[00:15:09]
田中
たなか
:
嬉
うれ
しいけど。
(笑)
かっこわらい
谷口
たにぐち
:
僕
ぼく
はそれで
浪人
ろうにん
して、
担任
たんにん
の
先生
せんせい
は「お
前
まえ
は
日大
にちだい
に
行
い
くしかないだろう」「
附属
ふぞく
校
こう
なんだから
推薦
すいせん
状
じょう
書
か
けば
入
い
れるから
行
い
け」と
言
い
われて。それで
入学
にゅうがく
したんです。
そんなことでね、
英語
えいご
ぜんぜんダメなのに、
彼
かれ
のためにワード・トゥ・ワードで
英語
えいご
をやりだして。もう
朝
あさ
から
晩
ばん
まで
英語
えいご
漬
づ
け。それに2
年生
ねんせい
になった
時
とき
は、
毎週
まいしゅう
英語
えいご
論文
ろんぶん
を1
本
ほん
ずつ…。
心理
しんり
学科
がっか
の
学生
がくせい
は10
人
にん
ちょっとしかいなかったから、
毎日
まいにち
、アメリカ
文化
ぶんか
センターから
借
か
りたジャーナルを
読
よ
んで。それを
翻訳
ほんやく
して、
手書
てが
きの
ガリ版
がりばん
で
刷
す
った
要旨
ようし
を
教授
きょうじゅ
とみんなに
報告
ほうこく
する。だから
全員
ぜんいん
みんな
ガリ版
がりばん
持
も
ってましたね、
自分
じぶん
の
家
いえ
に。
卒業
そつぎょう
論文
ろんぶん
の
下書
したが
きも
英語
えいご
で
書
か
いてました。
英語
えいご
の
論文
ろんぶん
ばっかり
読
よ
んでるという
時代
じだい
で。だから
畑
はた
美喜
みき
三
さん
って
男
おとこ
なんですけど、
全盲
ぜんもう
のやつは。そいつと
卒業
そつぎょう
した
後
のち
もずっと
付
つ
き
合
あ
いがあって。
僕
ぼく
が
英語
えいご
を
読
よ
めるようになったのは、
彼
かれ
がいて
英語
えいご
漬
づ
けになったせいなんです。
田中
たなか
:すごい。
谷口
たにぐち
:すごい
経験
けいけん
でした。それなんで、
川崎
かわさき
に
入
はい
って
社会
しゃかい
福祉
ふくし
会館
かいかん
で「
何
なん
でもやれ」って
言
い
われた
時
とき
に、「
川崎
かわさき
の
視覚
しかく
障害
しょうがい
者
しゃ
ってどう
暮
く
らしているのだろうか?」と
思
おも
った。
彼
かれ
はね、その
畑
はた
美喜
みき
三
さん
は、
仕事
しごと
が
見
み
つからなかったんですよ。それで、
海老名
えびな
正吾
しょうご
という
神奈川
かながわ
県
けん
の
中央
ちゅうおう
児童
じどう
相談
そうだん
所
しょ
の
所長
しょちょう
を
当時
とうじ
やってた
人
ひと
が、
失明
しつめい
者
しゃ
だったんです。そして
海老名
えびな
正吾
しょうご
さんは
日大
にちだい
の
心理
しんり
学科
がっか
の
先輩
せんぱい
ということで
会
あ
いに
行
い
ってね、
畑
はた
美喜
みき
三
さん
を
紹介
しょうかい
したんです。「
県
けん
の
職員
しょくいん
として
採
と
ってもらえないか」って。そしたら、「
僕
ぼく
はね、
県庁
けんちょう
の
職員
しょくいん
やってて
失明
しつめい
したから
今
いま
でも
所長
しょちょう
やってられるけど、そういういきさつがあるからなんで。それだけでやってるようなもんなのよ」みたいな
話
はなし
をされた。それからいろいろ
行
おこな
ったなあ。
横浜
よこはま
訓
くん
盲
めくら
院
いん
も、
職場
しょくば
になれないかとかね。それで
彼
かれ
が
職業
しょくぎょう
に
就
つ
くのにすごく
苦
くる
しい、
大変
たいへん
なんだなあと
思
おも
っている
中
なか
なんで、
川崎
かわさき
の
視覚
しかく
障害
しょうがい
者
しゃ
ってどういう
暮
く
らししてるのかなってまず
思
おも
った。その
時分
じぶん
はまだ
大
だい
らかっていうか、
福祉
ふくし
事務所
じむしょ
へ
行
い
って。
身体
しんたい
障害
しょうがい
者
しゃ
手帳
てちょう
の
発行
はっこう
台帳
だいちょう
を
見
み
せてもらって、
視覚
しかく
障害
しょうがい
者
しゃ
の
氏名
しめい
と
住所
じゅうしょ
をぜんぶ
書
か
き
写
うつ
させてくれたんです。
田中
たなか
:ああ、
当時
とうじ
は。
(笑)
かっこわらい
谷口
たにぐち
:それで
自分
じぶん
でリストを
作
つく
って。その
頃
ころ
、
青年
せいねん
赤十字
せきじゅうじ
奉仕
ほうし
団
だん
のグループが
社会福祉会館
しゃかいふくしかいかん
に
集
あつ
まるようになってて、ボランティア
活動
かつどう
をしていた。その
人
ひと
たちに
協力
きょうりょく
を
頼
たの
んで。
僕
ぼく
ももう
毎日
まいにち
「
訪問
ほうもん
調査
ちょうさ
」に
歩
ある
きました。
視覚
しかく
障害
しょうがい
者
しゃ
の
家
いえ
を
訪
たず
ね
歩
ある
いて、
夜
よる
も
昼
ひる
も。
夜
よる
行
い
くと、「
主人
しゅじん
が
中途
ちゅうと
失明
しつめい
して
以来
いらい
、こんなにお
話
はな
ししたのは
初
はじ
めて、また
来
き
てください」なんて
奥
おく
さんが
追
お
っかけてきたりしてね。それで、『
川崎
かわさき
市
し
における
視覚
しかく
障害
しょうがい
者
しゃ
の
実態
じったい
』っていうのを
報告
ほうこく
書
しょ
にまとめたんです。それから
青年
せいねん
赤十字
せきじゅうじ
奉仕
ほうし
団
だん
のほうは『
真夏
まなつ
の
訪問
ほうもん
記
き
』という、
暑
あつ
い
中
なか
訪
たず
ねて
歩
ある
いた
訪問
ほうもん
記
き
を
書
か
いて
冊子
さっし
にしたりして。
その
時
とき
ね、
印刷
いんさつ
代
だい
なんかどこにもないの。でも、【
商工
しょうこう
印刷
いんさつ
社
しゃ
】という
会社
かいしゃ
の
社長
しゃちょう
さんに「こういう
報告
ほうこく
書
しょ
を
印刷
いんさつ
したいんだけど」「わずかな
印刷
いんさつ
代
だい
しか
出
だ
せないけれど、やってくれませんか?」、「
承知
しょうち
いたしました」って。それ
以来
いらい
、
商工
しょうこう
印刷
いんさつ
の
社長
しゃちょう
とは
知
し
り
合
あ
いで、「お
金
かね
これしかないんだけど、これ
印刷
いんさつ
してくれます?」とかって
言
い
って。
(笑)
かっこわらい
いつも「
承知
しょうち
いたしました」って。ずっと
恩義
おんぎ
を
感
かん
じる
長
なが
い
付
つ
き
合
あ
いになりましたね。それで…あ、
喪中
もちゅう
のお
知
し
らせが
来
き
てしまって、お
花
はな
を
送
おく
って
奥
おく
さんに
電話
でんわ
でお
礼
れい
を
申
もう
し
上
あ
げたら、
僕
ぼく
のことを
自宅
じたく
帰
かえ
って
口
くち
にしてて。「とっても
偉
えら
い
人
ひと
なんだ」って
言
い
ってたって。
(笑)
かっこわらい
たくさん
印刷
いんさつ
してもらいましたよ、いろんなものをね。
感謝
かんしゃ
してます。
そうだ。もう
少
すこ
し
話
はな
し
進
すす
めないといけないな。
年寄
としよ
りの
話
はなし
はとりとめなくなる。
田中
たなか
:
大丈夫
だいじょうぶ
ですよ、
先生
せんせい
。
私
わたし
も
生
う
まれたとこぐらいから
聞
き
くぐらいの
覚悟
かくご
で
来
き
てます、
今日
きょう
。
谷口
たにぐち
:いやいや
(笑)
かっこわらい
。
田中
たなか
:でも
先生
せんせい
、
障害
しょうがい
がある
人
ひと
と
出会
であ
ったのは、この
畑
はた
美喜
みき
三
さん
さんが
最初
さいしょ
ですか?
谷口
たにぐち
:
最初
さいしょ
です。1954
年
ねん
くらいだったかな。
田中
たなか
:
一番
いちばん
最初
さいしょ
。
谷口
たにぐち
:はい。そしてね、
社会福祉会館
しゃかいふくしかいかん
はなんとなくおもしろい
感
かん
じになってきて。
親戚
しんせき
が
訪
たず
ねて
来
く
ると「うちにいるな」って
家
いえ
を
出
だ
されてしまう、すごい
吃
ども
りの
人
ひと
が
来
き
たり。
聴覚
ちょうかく
障害
しょうがい
者
しゃ
のグループも
集
あつ
まったりして、それまでの
人生
じんせい
では
巡
めぐ
り
合
あ
わなかった
人
ひと
たちと
知
し
り
合
あ
うようになりましたね。そのころ、「
16
じゅうろく
ミリ
映写
えいしゃ
技術
ぎじゅつ
講習
こうしゅう
会
かい
」っていう
県
けん
の
講習
こうしゅう
会
かい
を
受
う
けて、
16
じゅうろく
ミリ
映写機
えいしゃき
とそのフィルムを
借
か
りてきて
映写
えいしゃ
会
かい
をやりだしたの。それで
聴覚
ちょうかく
障害
しょうがい
者
しゃ
の
人
ひと
が
観
み
たい
映画
えいが
があるって
言
い
うと、
講堂
こうどう
で
映画
えいが
会
かい
。
聴覚
ちょうかく
障害
しょうがい
だからスピーカーいらないんだろうと
思
おも
って
音
おと
を
消
け
しちゃったらすごく
怒
おこ
られちゃって。「
聴覚
ちょうかく
障害
しょうがい
だって、
振動
しんどう
が
伝
つた
わるんだから
音
おと
はちゃんと
出
だ
してくれ」って
言
い
われて。ああそういうもんなのかなと。いちいち「そうなのか」と
思
おも
わされることが
多
おお
くて。
それで
話
はなし
つめますね。
視覚
しかく
障害
しょうがい
者
しゃ
の
実態
じったい
調査
ちょうさ
の
結果
けっか
、
点字
てんじ
は
先天的
せんてんてき
に
失明
しつめい
して
盲学校
もうがっこう
に
行
い
った
人
ひと
は
読
よ
めるけど、
中途
ちゅうと
失明
しつめい
者
しゃ
はほとんど
点字
てんじ
を「
打
う
つ」「
読
よ
む」ができない。つまり
読
よ
み
書
か
きの
手段
しゅだん
がないんだってわかったんです。それで、
録音
ろくおん
テープを
聴
き
く、
本
ほん
の
代
か
わりに
録音
ろくおん
したものを
使
つか
ったらどうかと
思
おも
って。それで
神奈川
かながわ
県
けん
の
障害
しょうがい
福祉
ふくし
課
か
に
行
い
きました。そしたら
視覚
しかく
障害
しょうがい
者
しゃ
用
よう
に
貸
か
し
出
だ
すテープレコーダーは4
台
だい
しかない、
県内
けんない
の
視覚
しかく
障害
しょうがい
者
しゃ
用
よう
に。それでね、
自分
じぶん
が
持
も
っていたソニーのテープレコーダーを
視覚
しかく
障害
しょうがい
者
しゃ
の
家
いえ
に
貸
か
し
出
だ
したことがあったんです。それは、「
浪曲
ろうきょく
をどうしても
聴
き
きたい」と
言
い
ってこられた
方
ほう
がいましたのでね。それで
浪曲
ろうきょく
のテープを、NHK
厚生
こうせい
文化
ぶんか
事業
じぎょう
団
だん
へ
行
い
って
聞
き
いたら「ある」っていうんですよ。それでそれを
何
なん
本
ほん
か
貸
か
してもらって、そのお
宅
たく
にテープと
一緒
いっしょ
に
届
とど
けた。そうしたら、
僕
ぼく
の
名前
なまえ
が
入
はい
ったテープレコーダーが
質屋
しちや
に
入
はい
ったって
警察
けいさつ
から
連絡
れんらく
があったんですよ。それで
僕
ぼく
はね、「ああ、そうか、あの
人
ひと
、
浪曲
ろうきょく
じゃなくてその
日
ひ
の
食
た
べるものを
買
か
うお
金
かね
がさきなんだよなあ」と
思
おも
って。それでね、またそれも
胸
むね
突
つ
かれちゃって。
驚
おどろ
きましたね。それでね、「
社会
しゃかい
福祉
ふくし
っていうのはしっかり
勉強
べんきょう
しないとだめだな」と
思
おも
って。それで
明治
めいじ
学院
がくいん
の
二
に
部
ぶ
の
社会
しゃかい
福祉
ふくし
学科
がっか
の
授業
じゅぎょう
に
少
すこ
し
通
かよ
ったんです。
田中
たなか
:
先生
せんせい
それは、
何
なん
歳
さい
ぐらいの
時
とき
ですか?
谷口
たにぐち
:
大学
だいがく
出
で
て3
年
ねん
ぐらい
経
た
った
時
とき
ですね。
田中
たなか
:じゃあ、ちょうど
内田
うちだ
さんとかと
出会
であ
ったりする
頃
ころ
?
谷口
たにぐち
:そうですね。だからね、
社会
しゃかい
福祉
ふくし
に
関
かん
するなんかね「
思
おも
い」ってのは
湧
わ
くんですけど、どうやって
勉強
べんきょう
すればいいのかよくわからないというのがあって。
さっきの
話
はなし
に
戻
もど
りますと、『
視覚
しかく
障害
しょうがい
者
しゃ
の3
分
ぶん
の2が
文盲
もんもう
の
生活
せいかつ
をしております』というビラを
作
つく
ったんですよ。それでね、テープレコーダーを
補
ほ
装具
そうぐ
にしてもらいたい、
誰
だれ
でもテープレコーダーを
持
も
てるようにして。その
頃
ころ
はみんな
持
も
ってなかったんですよ、テープレコーダーなんて。そうしたらナショナルさんがね、
何
なん
万
まん
枚
まい
っていうビラを
作
つく
ってくれたんです。それで
川崎
かわさき
の
駅前
えきまえ
でボランティアと
一緒
いっしょ
に『
視覚
しかく
障害
しょうがい
者
しゃ
にテープレコーダーを』っていうビラを
配
くば
ってね、
署名
しょめい
運動
うんどう
をしたんです。
そんなことをしていながら、
社会福祉会館
しゃかいふくしかいかん
で
自分
じぶん
たちで
研究
けんきゅう
会
かい
を
始
はじ
めたんですよ。「
児童
じどう
福祉
ふくし
研究
けんきゅう
会
かい
」って
言
い
ったんですけど、
明治
めいじ
学院
がくいん
の
濱野
はまの
一郎
いちろう
さんなんかがまだ
明治
めいじ
学院
がくいん
の
准
じゅん
教授
きょうじゅ
かなにかで、「
児童
じどう
相談
そうだん
所
しょ
の
役割
やくわり
について
知
し
りたい」っていうんで
川崎
かわさき
に
来
き
ていた。それから
川崎
かわさき
児童
じどう
相談
そうだん
所
しょ
のソーシャルワーカーやってた
大澤
おおさわ
隆
たかし
さん、
後
のち
に
県
けん
の
障害
しょうがい
福祉
ふくし
課
か
の
課長
かちょう
をやって、それから
岩手
いわて
県立
けんりつ
大
だい
の
教授
きょうじゅ
になってますけど。そういう7?8
人
にん
で
研究
けんきゅう
会
かい
を
始
はじ
めました。〆は
必
かなら
ず
宴会
えんかい
で、25
年
ねん
続
つづ
きました。[00:31:45]
田中
たなか
:すごいですね。
谷口
たにぐち
:
大澤
おおさわ
隆
たかし
さんが
川崎
かわさき
児童
じどう
相談
そうだん
所
しょ
のソーシャルワーカーをやってて、
社会福祉会館
しゃかいふくしかいかん
に
空気
くうき
銃
じゅう
の
弾
たま
をガラス
戸
ど
に
撃
う
ちこんだ
少年
しょうねん
がいて、そのことで
大澤
おおさわ
さんが
訪
たず
ねてきた。それで
僕
ぼく
は
彼
かれ
と
初
はじ
めて
会
あ
ったんです。それでね、
青
あお
い
芝
しば
の
人
ひと
たちと
初
はじ
めての
出会
であ
いになることとつながるのだけれど、
大澤
おおさわ
さんが
民生
みんせい
住宅
じゅうたく
の
管理人
かんりにん
をやってたんですよ。
神奈川
かながわ
県立
けんりつ
の
民生
みんせい
住宅
じゅうたく
というのは
川崎
かわさき
の
山
やま
の
中
なか
にありまして、
生活
せいかつ
保護
ほご
を
受給
じゅきゅう
していて、
橋
はし
の
下
もと
とか、
要
よう
するにホームレス
状態
じょうたい
で
暮
く
らしている
人
ひと
たちを
住
す
まわせる
集合
しゅうごう
住宅
じゅうたく
なんです。5
階
かい
建
だ
てだったかな。
大
おお
きいんですよ。そこの
管理人
かんりにん
のところになんでも
相談
そうだん
ごとが
来
く
る。「
旦那
だんな
が
刑務所
けいむしょ
入
はい
ってて、
母子
ぼし
で
生活
せいかつ
保護
ほご
を
受
う
けながら
内職
ないしょく
やって
暮
く
らしている」とかね。それで
大澤
おおさわ
さんがね「
民生
みんせい
住宅
じゅうたく
の
実態
じったい
調査
ちょうさ
やってくれないか」
言
い
ってきて、それで
彼
かれ
が
手引
てび
きをしてくれて、
僕
ぼく
が
全戸
ぜんこ
訪問
ほうもん
調査
ちょうさ
をやったんです。
民生
みんせい
住宅
じゅうたく
の。
田中
たなか
:
全戸
ぜんこ
!?
谷口
たにぐち
:そう。どういう
人間
にんげん
関係
かんけい
があるかという
点
てん
ではソシオグラムなどを
作
つく
りましてね。
相談
そうだん
相手
あいて
の
一番
いちばん
は
大澤
おおさわ
さん。
福祉
ふくし
事務所
じむしょ
のワーカーを
相談
そうだん
相手
あいて
としていなかったのには
驚
おどろ
きました。
内職
ないしょく
していることなど
知
し
られたくない
人
ひと
が
福祉
ふくし
事務所
じむしょ
のワーカーなんです。それを
大澤
おおさわ
さんがね、「
神奈川
かながわ
県
けん
の
社会
しゃかい
事業
じぎょう
研究
けんきゅう
発表
はっぴょう
大会
たいかい
があるから
発表
はっぴょう
しないか」って。それで
発表
はっぴょう
したんです。
その
大会
たいかい
にね、
次々
つぎつぎ
と
脳性
のうせい
まひの
人
ひと
たちが
入
はい
ってきた。その
人
ひと
たちが
青
あお
い
芝
しば
の
面々
めんめん
だったんですね。
横塚
よこつか
晃一
こういち
さんとか
小山
こやま
正義
まさよし
さんとかね、
白石
しらいし
清春
きよはる
さん。それから
矢田
やた
龍司
りゅうじ
さんとかね。ここに
名前
なまえ
があるような
人
ひと
たちが
来
き
たんですね。
矢田
やた
龍司
りゅうじ
さんは
川崎
かわさき
の
住
す
まいでしたから、
個人
こじん
的
てき
なことも
含
ふく
めて
悩
なや
みや
相談
そうだん
はずっと
亡
な
くなるまで、なんとなく
受
う
けるようになって。しばらく
時
とき
を
置
お
いてですが、ほかの
人
ひと
たちともお
付
つ
き
合
あ
いが
始
はじ
まりました。1968
年
ねん
7
月
がつ
の
神奈川
かながわ
県
けん
社会
しゃかい
事業
じぎょう
研究
けんきゅう
発表
はっぴょう
大会
たいかい
、
青
あお
い
芝
しば
の
会
かい
の
人
ひと
たちが
初
はじ
めて
会場
かいじょう
に
姿
すがた
を
現
あらわ
したというのが、とても
印象深
いんしょうぶか
く
記憶
きおく
に
残
のこ
っています。
田中
たなか
:なんで
来
き
たんですかね?
谷口
たにぐち
:
多分
たぶん
ね、この
頃
ころ
の
社会
しゃかい
福祉
ふくし
になにか
怪
あや
しげな
印象
いんしょう
を
抱
だ
いていたか、
疑問
ぎもん
を
持
も
っていたのではないかと
想像
そうぞう
します。
神奈川
かながわ
県
けん
は
入所
にゅうしょ
型
がた
の
施設
しせつ
整備
せいび
を
急
いそ
ぎ
始
はじ
めていた
時期
じき
でしたから。[00:35:43]
田中
たなか
:なるほど。それで「
大会
たいかい
っていうからちょっと
行
い
ってみよう」みたいな。
誰
だれ
でも
入
い
れたんですか?
谷口
たにぐち
:オープンで、もっと
多
おお
くの
人
ひと
に
参加
さんか
してもらいたいという
雰囲気
ふんいき
だったと
思
おも
います。その
頃
ころ
の
県庁
けんちょう
は
福祉
ふくし
を
先導
せんどう
するという
意気込
いきご
みに
溢
あふ
れていたと
思
おも
います。のちの
神奈川
かながわ
県
けん
社協
しゃきょう
の
常務
じょうむ
理事
りじ
になる
仁科
にしな
卓郎
たくろう
さんが
課長
かちょう
職
しょく
で
研究
けんきゅう
発表
はっぴょう
大会
たいかい
を
先導
せんどう
していた
記憶
きおく
があります。また、
当時
とうじ
の
施設
しせつ
建設
けんせつ
を
見
み
てみますと、『1960
年
ねん
松風
まつかぜ
学園
がくえん
、
柿生
かきお
学園
がくえん
』、『
秦野
はたの
精華
せいか
園
えん
』、それから
津久井
つくい
やまゆり
園
えん
は1964
年
ねん
に
建
た
ってるんですよ。つまりね、この
頃
ころ
の
福祉
ふくし
っていうのは、
障害
しょうがい
者
しゃ
については
入所
にゅうしょ
型
がた
の
施設
しせつ
を
県
けん
の
責任
せきにん
で
建
た
てる。
例
たと
えば
柿生
かきお
学園
がくえん
ですが、
僕
ぼく
が20
代
だい
半
なか
ば、60
年
ねん
ほど
前
まえ
に
初
はじ
めて
行
い
きました。
小田急
おだきゅう
線
せん
の
柿生
かきお
駅
えき
を
降
お
りて
山
やま
を
登
のぼ
って
行
い
く。その
当時
とうじ
は
人家
じんか
もなく、
草
くさ
が
生
は
えていてリアカー
引
ひ
いたような
跡
あと
があるだけの
山道
さんどう
。その
尾根
おね
の
木立
こだち
の
中
なか
に
忽然
こつぜん
と
柿生
かきお
学園
がくえん
が
建
た
っている。
初
はじ
めて「
精神
せいしん
薄弱
はくじゃく
の
成人
せいじん
期
き
の
人
ひと
はこういうところに
暮
く
らしてんだなあ。すごい
山
やま
の
上
うえ
だなあ」と
思
おも
いました。また、
横浜
よこはま
の
松風
まつかぜ
学園
がくえん
も
巨大
きょだい
な
施設
しせつ
で、
廊下
ろうか
にずらっと
居室
きょしつ
が
並
なら
んでいるんですけど、
引
ひ
き
戸
ど
の
上
うえ
に
四角
しかく
いガラス
窓
まど
があって、
廊下
ろうか
を
歩
ある
いていくと
居室
きょしつ
の
中
なか
が
全部
ぜんぶ
見
み
えるっていうそういう
建物
たてもの
でした。それから
秦野
はたの
精華
せいか
園
えん
っていうのは
秦野
はたの
にあって。これまた
人家
じんか
から
離
はな
れたところにあった。
津久井
つくい
やまゆり
園
えん
も、
山
やま
の
坂道
さかみち
をぐわーっと
上
あ
がって
行
い
くと
津久井
つくい
日赤
にっせき
があって、その
先
さき
の
川
かわ
べりに
津久井
つくい
やまゆり
園
えん
がどかんと
立
た
ってる。でも、
地元
じもと
の
女性
じょせい
たちが
県
けん
の
建
た
てた
施設
しせつ
で
職員
しょくいん
として
働
はたら
けるって
大
だい
喜
よろこ
びと
言
い
われていました。
施設
しせつ
ってそんな
風情
ふぜい
でしたよね。
ですから、その
頃
ころ
の
青
あお
い
芝
しば
の
人
ひと
たちも、そのような
入所
にゅうしょ
施設
しせつ
のイメージがあって、
何
なに
かっていうと
施設
しせつ
、
施設
しせつ
さえあれば
解決
かいけつ
するっていう
風潮
ふうちょう
だ、そういうふうに
考
かんが
えてきたところに、1970
年
ねん
5
月
がつ
29
日
にち
横浜
よこはま
の
金沢
かなざわ
区
く
で
障害
しょうがい
者
しゃ
殺
ころ
しが
起
お
こるんですよ。それで、
神奈川
かながわ
県
けん
障害
しょうがい
児
じ
者
しゃ
を
守
まも
る
父母
ちちはは
の
会
かい
連盟
れんめい
が
横浜
よこはま
市長
しちょう
宛
あて
の
抗議
こうぎ
文
ぶん
を
出
だ
すんです。それを
書
か
いたのは
僕
ぼく
なんです。あ、それは
知
し
ってる?
田中
たなか
:それを
私
わたし
は
聞
き
きに
来
き
ました、
今日
こんにち
は
谷口
たにぐち
:『
障害
しょうがい
児
じ
が
殺
ころ
されるのはやむを
得
え
ざる
成
な
り
行
ゆ
きである』って。
田中
たなか
:これは
一大
いちだい
事件
じけん
でしたね。
谷口
たにぐち
:それに
至
いた
る
背景
はいけい
のようなものがあったと
思
おも
うんです。
僕
ぼく
は
川崎
かわさき
市
し
の
社会福祉会館
しゃかいふくしかいかん
に8
年
ねん
いましたけれど、その
一
いち
階
かい
には
授産
じゅさん
所
しょ
があって、
輸出
ゆしゅつ
用
よう
の
絹
きぬ
のスカーフのヘリを
手
て
巻
ま
きにするとか、
造花
ぞうか
の
内職
ないしょく
斡旋
あっせん
をしていた。そこで
支払
しはら
われる
工賃
こうちん
の
単価
たんか
が「
円
えん
」ではなくて「
銭
ぜに
」。スゴイ
労働
ろうどう
搾取
さくしゅ
の
先端
せんたん
社会
しゃかい
福祉
ふくし
としての
授産
じゅさん
所
しょ
がある。
何
なに
だろう、これはという
問題
もんだい
意識
いしき
で、
内職
ないしょく
をしている
人
ひと
たちの
生活
せいかつ
実態
じったい
調査
ちょうさ
もやりました。その
前
まえ
には
視覚
しかく
障害
しょうがい
者
しゃ
の
調査
ちょうさ
や
神奈川
かながわ
県
けん
の
民生
みんせい
住宅
じゅうたく
調査
ちょうさ
をやったことはお
話
はな
ししましたが、なんですか、
多
おお
くの
人々
ひとびと
の
暮
く
らしが
不安定
ふあんてい
で、
社会
しゃかい
福祉
ふくし
ってこんなことやっていていいのかなという
疑問
ぎもん
が
湧
わ
いてきました。そこで、
自分
じぶん
も
勉強
べんきょう
しながら
授産
じゅさん
所
しょ
関係
かんけい
者
しゃ
に
集
あつ
まってもらって、
例
たと
えば
江口
えぐち
英一
ひでかず
先生
せんせい
(
当時
とうじ
日本女子大学
にほんじょしだいがく
教授
きょうじゅ
)から
不安定
ふあんてい
階層
かいそう
論
ろん
の
講義
こうぎ
を
聞
き
かせて
頂
いただ
いたりしました。そうしたことを
民政
みんせい
局
きょく
の
職員
しょくいん
研修
けんしゅう
に
拡大
かくだい
し、
一番
いちばん
ヶ
瀬
せら
康子
やすこ
先生
せんせい
、
重田
しげた
信一
しんいち
先生
せんせい
、
吉沢
よしざわ
英子
えいこ
先生
せんせい
などに
講師
こうし
をお
願
ねが
いしてきました。
田中
たなか
:それはやっぱり
先生
せんせい
、
本
ほん
読
よ
んで、この
先生
せんせい
にぜひ
来
き
てほしいっていうのは
先生
せんせい
の
一筆
いっぴつ
で?
谷口
たにぐち
:いえいえ、そのまま
会
あ
いに
行
い
くんです。
研究
けんきゅう
室
しつ
へ。それで
話
はなし
を
聞
き
かせてもらいながら、こちらのお
話
はなし
もして、お
願
ねが
いするんです。
生活
せいかつ
構造
こうぞう
論
ろん
の
中鉢
ちゅうばち
正美
まさみ
先生
せんせい
の
本
ほん
を
読
よ
んで
自宅
じたく
まで
押
お
しかけてって。
家計
かけい
から
日本人
にっぽんじん
の
生活
せいかつ
を
分析
ぶんせき
していくという
手法
しゅほう
にもう
感動
かんどう
したんですね。
田中
たなか
:
先生
せんせい
、その
訪
たず
ねて
行
い
ったりした
頃
ころ
って30
代
だい
ですかね?
谷口
たにぐち
:そうです、30
前
まえ
ですね。どこか
人々
ひとびと
の
暮
く
らしが
良
よ
くなっていく
道筋
みちすじ
が
見
み
なくて、「
社会
しゃかい
福祉
ふくし
」って
何
なに
だろうというと
思
おも
っていました。
また、
前
まえ
にお
話
はな
しした
視覚
しかく
障害
しょうがい
者
しゃ
の
求
もと
めで
浪曲
ろうきょく
のテープを
借
か
りにNHK
厚生
こうせい
文化
ぶんか
事業
じぎょう
団
だん
に
行
い
った
時
とき
からご
縁
えん
ができて、
堀場
ほりば
平八郎
へいはちろう
さんという
事務
じむ
局長
きょくちょう
さんが「NHKはね、
全
ぜん
放送
ほうそう
を
全部
ぜんぶ
録音
ろくおん
して
残
のこ
していくんです」「
何
なに
かあるといけませんから
全部
ぜんぶ
録音
ろくおん
を。それを
厚生
こうせい
文化
ぶんか
事業
じぎょう
団
だん
が
持
も
っております」。それでね、「
視覚
しかく
障害
しょうがい
者
しゃ
用
よう
にそのテープの
図書
としょ
として
貸
か
し
出
だ
すのなら、
録音
ろくおん
したもの
全部
ぜんぶ
をあなたのところに
送
おく
ります」と
言
い
ってくださった。スゴイ
量
りょう
が
毎月
まいつき
送
おく
られてきて、それが「
川崎
かわさき
市
し
盲人
もうじん
図書
としょ
センター」になり、ここ
独自
どくじ
の
録音
ろくおん
図書
としょ
も
作
つく
るようになりました。
それからボランティアグループがいくつも
集
あつ
まってきて、オーディオルームでイア・エンド・コンサートをやるなど、
好
す
き
勝手
かって
をやっているうちに、
川崎
かわさき
市
し
が
新
あたら
しく
建
た
てる「
中原
なかはら
会館
かいかん
建設
けんせつ
準備
じゅんび
室
しつ
」に
異動
いどう
ということに。
要
よう
するに
会館
かいかん
の
調度
ちょうど
を
整
ととの
え、
開館
かいかん
までもっていく
仕事
しごと
ですね。
元気
げんき
が
出
で
る
仕事
しごと
ではなかった。
そしたら、
大澤
おおさわ
隆
たかし
さんが
県庁
けんちょう
の
障害
しょうがい
福祉
ふくし
課
か
にいて、
電話
でんわ
してきたんです。「
小児
しょうに
療育
りょういく
相談
そうだん
センターって
障害
しょうがい
児
じ
の
療育
りょういく
相談
そうだん
機関
きかん
があるんだけど、
移
うつ
る
気
き
はないか?」って。「
県
けん
として
運営
うんえい
支援
しえん
しているところだから」。そこの
理事
りじ
長
ちょう
と
会
あ
って
話
はな
しているうちに
意気投合
いきとうごう
しちゃって、「じゃあ
行
い
きます」ってなった。「
児童
じどう
医療
いりょう
福祉
ふくし
財団
ざいだん
」という
法人
ほうじん
だったけど、
借金
しゃっきん
はあるけど
財産
ざいさん
はない
財団
ざいだん
法人
ほうじん
。
(笑)
かっこわらい
それでその
時
とき
に
初
はじ
めて
障害
しょうがい
児
じ
の
診療
しんりょう
相談
そうだん
を
体験
たいけん
することに。
田中
たなか
:
先生
せんせい
は
心理
しんり
職
しょく
として
入
はい
ったわけではないんですか、そこは。
谷口
たにぐち
:
僕
ぼく
はいきなり
管理
かんり
職
しょく
で、
財政
ざいせい
を
考
かんが
えなきゃいけない
役割
やくわり
。
赤字
あかじ
の
診療
しんりょう
相談
そうだん
事業
じぎょう
と
黒字
くろじ
の
検診
けんしん
事業
じぎょう
でやっと
運営
うんえい
してましたから。そこに「
神奈川
かながわ
県
けん
心身
しんしん
障害
しょうがい
児
じ
父母
ちちはは
の
会
かい
連盟
れんめい
」というのがあって。
障害
しょうがい
別
べつ
14
団体
だんたい
の
親
おや
の
会
かい
で
構成
こうせい
されていました。その
成立
せいりつ
の
年表
ねんぴょう
を
僕
ぼく
が
作
つく
ったんですけど。[00:50:26]
田中
たなか
:これいただいても
大丈夫
だいじょうぶ
ですか?
谷口
たにぐち
:どうぞどうぞ。
各種
かくしゅ
障害
しょうがい
別
べつ
にできてきて、
神奈川
かながわ
県
けん
の
心身
しんしん
障害
しょうがい
児
じ
父母
ちちはは
の
会
かい
連盟
れんめい
。
横浜
よこはま
じゃないんです、
横浜
よこはま
にありながら。なぜかっていうと、
障害
しょうがい
の
福祉
ふくし
っていうのは、
神奈川
かながわ
「
県
けん
」がやるんであって、
川崎
かわさき
も
横浜
よこはま
も「
市
し
」は
行政
ぎょうせい
上
じょう
の
責任
せきにん
がないという
時代
じだい
だったんです。だから、
秦野
はたの
精華
せいか
園
えん
・
厚木
あつぎ
精華
せいか
園
えん
・
津久井
つくい
やまゆり
園
えん
など、
次々
つぎつぎ
入所
にゅうしょ
施設
しせつ
を
建
た
てていくのは、
県
けん
の
責任
せきにん
。そういう
仕組
しく
みだった。ですから
横浜
よこはま
市
し
は
障害
しょうがい
福祉
ふくし
はダイレクトには
責任
せきにん
を
持
も
たないって
姿勢
しせい
だった。そういう
中
なか
で、
横浜
よこはま
市
し
金沢
かなざわ
区
く
の
障害
しょうがい
児
じ
殺害
さつがい
事件
じけん
が
起
お
きてしまう。
それでどうして
僕
ぼく
が
抗議
こうぎ
文
ぶん
を
書
か
くようになったかというと、
父母
ちちはは
の
会
かい
連盟
れんめい
の
担当
たんとう
ソーシャルワーカーみたいな
役割
やくわり
を
担
にな
っていて、お
手伝
てつだ
いで
父母
ちちはは
の
会
かい
連盟
れんめい
の
幹事
かんじ
会
かい
にはいつも
出席
しゅっせき
していた。
夜
よる
開
ひら
かれるの。それで、たとえば
一番
いちばん
印象
いんしょう
に
残
のこ
ったのは、
自閉症
じへいしょう
の
親
おや
の
会
かい
が
幹事
かんじ
会
かい
をやった。
親
おや
の
会
かい
のリーダーたちが
集
あつ
まって、
毎年
まいとし
県庁
けんちょう
に
出
だ
す
要望
ようぼう
書
しょ
を
固
かた
めるんです。
出
だ
す
相手
あいて
は
横浜
よこはま
市
し
じゃないんです、
神奈川
かながわ
県庁
けんちょう
なんです。そうした
中
なか
で、
自閉症
じへいしょう
の
親
おや
が
出
だ
した
要望
ようぼう
項目
こうもく
は、200
項目
こうもく
以上
いじょう
になった。
田中
たなか
:ずいぶん
多
おお
いですね。
谷口
たにぐち
:それで、
自閉症
じへいしょう
の
親
おや
の
会
かい
の
会長
かいちょう
が「こんなに
出
だ
したって
実
みの
るわけないだろう。
一
いち
点
てん
に
絞
しぼ
ろう」と。
田中
たなか
:それもすごいですね。
谷口
たにぐち
:
県立
けんりつ
の「こども
医療
いりょう
センター」に
自閉症
じへいしょう
専門
せんもん
病棟
びょうとう
ができる。「
専門
せんもん
病棟
びょうとう
」って
言
い
ってたんですよ。その
実現
じつげん
だけに
絞
しぼ
って
行
い
こう。「そのくらいにしなきゃ
実現
じつげん
できないよ」って
言
い
ってた。その
時
とき
ね、
僕
ぼく
、
席
せき
を
同
おな
じくしてて、
同席
どうせき
者
しゃ
の
僕
ぼく
は
発言
はつげん
権
けん
はないんですけど、
親
おや
の
会
かい
が
親
おや
の
要望
ようぼう
を
切
き
り
捨
す
てて
整理
せいり
していくって、
親
おや
の
会
あ
って
何
なに
の
働
はたら
きをするのかなと
思
おも
ったんですよ。それで
僕
ぼく
、
大澤
おおさわ
隆
たかし
さんにそういう
話
はなし
をして、「
親
おや
の
会
かい
が
自分
じぶん
の
手
て
で
要望
ようぼう
を
整理
せいり
して
県
けん
に
出
だ
す。
変
へん
だよ、それは」「あんなに『ヘルパーが
欲
ほ
しい。
疲
つか
れた。どっか
通
かよ
うところが
欲
ほ
しい』って
涙
なみだ
をこぼして
言
い
ってる、その
声
こえ
が
県
けん
にぜんぜん
届
とど
かないよ」っていう
話
はなし
をしたら、
彼
かれ
が「わかった。
今度
こんど
の
障害
しょうがい
者
しゃ
の
福祉
ふくし
大会
たいかい
(
親
おや
の
要望
ようぼう
を
出
だ
す
大会
たいかい
)を
涙
なみだ
の
大会
たいかい
にしよう」って。
(笑)
かっこわらい
多
おお
くの
議員
ぎいん
がその
会
かい
に
出席
しゅっせき
するし、
知事
ちじ
も
挨拶
あいさつ
する。それで
僕
ぼく
は
親
おや
の
会
かい
のリーダーたちに「とにかく
生
なま
の
声
こえ
を
沢山
たくさん
聞
き
かす
大会
たいかい
にしませんか」って
言
い
ったんです。それと
同時
どうじ
に、
県
けん
会議
かいぎ
員
いん
の
各党
かくとう
派
は
の
控
ひか
え
室
しつ
を
回
まわ
って
歩
ある
いたんです、
僕
ぼく
が。
議員
ぎいん
にダイレクトに
話
はなし
を
聞
き
いてもらいたくて。
涙
なみだ
を
流
なが
して
聞
き
いてくれる
議員
ぎいん
もいました。
それで
議員
ぎいん
とも
顔見知
かおみし
りになって、
女性
じょせい
議員
ぎいん
なんかですごい
関心
かんしん
を
持
も
つ
人
ひと
がいて、わざわざ
議会
ぎかい
が
始
はじ
まる
前
まえ
に「こういう
質問
しつもん
したいんだけどどうだ」と
聞
き
きに
来
き
てくれるようになって、ああでもないこうでもないって
論議
ろんぎ
を
交
か
わしていたりしていた。
そうした
半面
はんめん
、
仕事
しごと
をしている「
小児
しょうに
療育
りょういく
相談
そうだん
センター」(
神奈川
かながわ
県
けん
児童
じどう
医療
いりょう
福祉
ふくし
財団
ざいだん
が
運営
うんえい
)は
診療
しんりょう
の
予約
よやく
が
山
やま
のようになって、スタッフは
診療
しんりょう
体制
たいせい
を
強化
きょうか
しろと
言
い
う。ところが
保険
ほけん
診療
しんりょう
で
障害
しょうがい
のあるお
子
こ
さんを
診
み
て、
親御
おやご
さんの
相談
そうだん
に
応
おう
じていくわけですから、
診療
しんりょう
をすればするほど
赤字
あかじ
がかさむ。
来
く
る
人
ひと
たちは
横浜
よこはま
市
し
在住
ざいじゅう
者
しゃ
が
多
おお
いのだけれど、
横浜
よこはま
市
し
からは
支援
しえん
もない。
横浜
よこはま
独自
どくじ
のサービス
乳幼児
にゅうようじ
期
き
の
子
こ
どもに
対
たい
しては
見
み
るものがない。
そうした
中
なか
で、
父母
ちちはは
の
会
かい
連盟
れんめい
の
事務
じむ
局
きょく
的
てき
な
役割
やくわり
をしていて、
事務
じむ
局長
きょくちょう
が
酒井
さかい
喜和
きわ
さん、
彼
かれ
には
重症
じゅうしょう
心身
しんしん
障害
しょうがい
児
じ
といわれる
娘
むすめ
さんがいて、もう
僕
ぼく
は
横浜
よこはま
市
し
の
施策
しさく
の
現状
げんじょう
に
怒
いか
りを
覚
おぼ
えてたんです。それで、『こういう
社会
しゃかい
的
てき
なサービスの
状況
じょうきょう
下
か
では、
障害
しょうがい
者
しゃ
が
殺
ころ
されてもやむを
得
え
ざるなり
行
ゆ
きだ』って
書
か
いたんですね。そしたら
酒井
さかい
喜和
きわ
さんが「ん?」って
頭
あたま
捻
ねじ
るのは
見
み
た。でもね、そのまま
新聞
しんぶん
に
発表
はっぴょう
しちゃった。
朝日
あさひ
の
夕刊
ゆうかん
に
出
で
た。そして
地元
じもと
で
減刑
げんけい
嘆願
たんがん
運動
うんどう
が
起
お
きたことで、「
俺
おれ
達
たち
は
殺
ころ
されていいのか!」って。
青
あお
い
芝
しば
の
会
かい
が
立
た
ち
上
あ
がり、
児童
じどう
医療
いりょう
福祉
ふくし
財団
ざいだん
に
押
お
しかけて
来
き
た、
車
くるま
いすでドーっと。
その
背景
はいけい
にはね、もう
入所
にゅうしょ
型
がた
の
施設
しせつ
が
山
やま
の
中
なか
にぼこぼこ
建
た
っていく、それ
以外
いがい
の
施策
しさく
がほとんど
出
で
てこないっていうそういう
時代
じだい
背景
はいけい
があって、「
施設
しせつ
さえあれば
解決
かいけつ
する」「
施設
しせつ
がないから
殺
ころ
される」ではたまらない、そういうことで
青
あお
い
芝
しば
は
激
はげ
しく
怒
おこ
っていた。だから
横田
よこた
弘
ひろし
さんが
言
い
う『
愛
あい
と
正義
せいぎ
を
否定
ひてい
する』っていうのは、それですよね。そんな
愛
あい
と
正義
せいぎ
ならいらない。
そして、その
後
ご
の77
年
ねん
に
川崎
かわさき
でバスの
乗車
じょうしゃ
拒否
きょひ
闘争
とうそう
ね。「
車
くるま
いす
乗
の
せない」って
言
い
ったんで、
川崎
かわさき
駅前
えきまえ
で
猛烈
もうれつ
に
抗議
こうぎ
したんですよ。
一般
いっぱん
乗客
じょうきゃく
が「
俺
おれ
たちが
乗
の
れないではないか」と
抗議
こうぎ
すると、「あなたたちは365
日
にち
乗
の
れる。
俺
おれ
たち
車椅子
くるまいす
は365
日
にち
乗
の
れないのだ」と
反応
はんのう
してましたね。
青
あお
い
芝
しば
は
普遍
ふへん
主義
しゅぎ
を
求
もと
めていたのだろうと
僕
ぼく
は
想像
そうぞう
しています。
そして、79
年
ねん
に
特殊
とくしゅ
学級
がっきゅう
と
養護
ようご
学校
がっこう
制度
せいど
での
全員
ぜんいん
就学
しゅうがく
が
出
で
てくる。ここでは
見事
みごと
に
選別
せんべつ
主義
しゅぎ
が
採
と
られました。
ともあれ、
児童
じどう
医療
いりょう
福祉
ふくし
財団
ざいだん
にいた
頃
ころ
はね、すごい
労働
ろうどう
でした。
横浜
よこはま
駅
えき
に
夜中
よなか
の12
時
じ
2
分
ふん
に
乗
の
ると
家
いえ
の
近
ちか
くの
駅
えき
まで
着
つ
ける。
朝
あさ
1
時
じ
間
あいだ
、
幹部
かんぶ
会議
かいぎ
、
早朝
そうちょう
会議
かいぎ
っていうのを7
時半
じはん
からやるんですよ。
睡眠
すいみん
は4-5
時
じ
間
あいだ
というのが
多
おお
かったです。それに、
財団
ざいだん
にはお
金
かね
がないですから、
金
かね
を
拾
ひろ
う
夢
ゆめ
ばっかり
見
み
る。そうして、
児童
じどう
医療
いりょう
福祉
ふくし
財団
ざいだん
で
破
やぶ
茶
ちゃ
滅茶
めちゃ
な
暮
く
らしをして、
燃
も
え
尽
つ
きて、
理事
りじ
長
ちょう
に
辞表
じひょう
を
書
か
きました。
しばらくして、
芹沢
せりざわ
勇
いさむ
さんという
神奈川
かながわ
県
けん
匡
ただし
済
すみ
会
かい
(きょうさいかい)の
理事
りじ
長
ちょう
から「ちょっとお
目
め
にかかりたい」って
言
げん
れて、「
社会
しゃかい
事業
じぎょう
研究所
けんきゅうじょ
というのが
空席
くうせき
だったんで、あなたにそこの
所長
しょちょう
をやってもらいたい」。
図書
としょ
室
しつ
もあるし、「あなたの
好
す
きな
研究
けんきゅう
をしてください」と。「なにを
研究
けんきゅう
すればいいんですか?」と
尋
たず
ねたら「
研究
けんきゅう
っていうのは
人
ひと
に
言
い
われてするもんじゃないでしょう」。すごい
人
ひと
でした。それで
行
い
くことになったら、
出勤
しゅっきん
簿
ぼ
なしで、
研究
けんきゅう
調査
ちょうさ
費
ひ
が
出
で
て、
本代
ほんだい
も
出
で
た。
田中
たなか
:すごい。パラダイス。
谷口
たにぐち
:パラダイス。
誰
だれ
かが「
谷口
たにぐち
は
地獄
じごく
から
天国
てんごく
だ」って
言
い
いました。その
頃
ころ
に
作
つく
ったのが
神奈川
かながわ
県
けん
匡
ただし
済
すみ
会
かい
で
僕
ぼく
が
編集
へんしゅう
した
紀要
きよう
なんです。これは、
現場
げんば
にいる
人達
ひとたち
が
論文
ろんぶん
書
か
いてる
時間
じかん
がないので、
神奈川
かながわ
県
けん
匡
ただし
済
すみ
会
かい
の
社会
しゃかい
事業
じぎょう
研究所
けんきゅうじょ
に
来
き
てもらって、
材料
ざいりょう
を
持
も
って
語
かた
ってください。そしたらそれを
全部
ぜんぶ
文字
もじ
にして
届
とど
けます。
また、
神奈川
かながわ
県
けん
社会
しゃかい
事業
じぎょう
研究
けんきゅう
発表
はっぴょう
大会
たいかい
はその
頃
ころ
もあって、そこで
発表
はっぴょう
をした
人
ひと
のものをここにまとめるっていう。そういう、
現場
げんば
の
人
ひと
たちのまとめを
助
たす
けをしたものです。
例
たと
えば、ここにある『
神奈川
かながわ
県
けん
における
在宅
ざいたく
障害
しょうがい
児
じ
対策
たいさく
があゆみ』と
言
い
うのは、
大澤
おおさわ
隆
たかし
さんが
話
はな
したことを
全部
ぜんぶ
まとめた。
彼
かれ
はこの
論文
ろんぶん
で
日
にち
社
しゃ
大
だい
で
吉田
よしだ
久一
ひさいち
賞
しょう
をもらったんですね、これが
最初
さいしょ
の
踏
ふ
み
台
だい
になって。
彼
かれ
は
岩手
いわて
県立
けんりつ
大
だい
の
教授
きょうじゅ
になったんですね。
また、この119ページにひばり
ヶ丘
がおか
学園
がくえん
の
谷口
たにぐち
四郎
しろう
さんが
書
か
いてくれた
年表
ねんぴょう
があります。これを
見
み
てもらうと、
要
よう
するに
入所
にゅうしょ
型
がた
の
施設
しせつ
を
作
つく
っていきながら
小
ちい
さな
障害
しょうがい
幼児
ようじ
の
対策
たいさく
がぼつぼつと
昭和
しょうわ
43
年
ねん
(1963)
頃
ごろ
から
出
で
てくる。この
昭和
しょうわ
43
年
ねん
に
神奈川
かながわ
県
けん
は
初
はじ
めて
在宅
ざいたく
心身
しんしん
障害
しょうがい
児
じ
対策
たいさく
要綱
ようこう
というのを
作
つく
っている。
神奈川
かながわ
県
けん
がやっと
子
こ
どものことを
手
て
がけ
始
はじ
めた。
要
よう
するに、
僕
ぼく
が
言
い
いたかったのは、
青
あお
い
芝
しば
の
人達
ひとたち
が『
親
おや
よ!
殺
ころ
すな』なんて
書
か
いてる
時
とき
には
本当
ほんとう
に
入所
にゅうしょ
型
がた
の
施設
しせつ
しかなくて、コミュニティでのケアの
施策
しさく
がなかった。そういう
中
なか
で
強烈
きょうれつ
な
問題
もんだい
意識
いしき
を
抱
いだ
き、それが
盛
も
り
上
あ
がってきたんだと
思
おも
いますね。もちろん
東京
とうきょう
の
府中
ふちゅう
の
闘争
とうそう
とかね、いろんな
事
こと
があるんですけれども、
神奈川
かながわ
でも
強烈
きょうれつ
な
問題
もんだい
意識
いしき
が
持
も
ち
上
あ
がったんですね。
それで、
神奈川
かながわ
県
けん
匡
ただし
済
すみ
会
かい
に6
年
ねん
いた
間
あいだ
にも
研究
けんきゅう
会
かい
やったりして、そのメンバーのご
縁
えん
で
関東
かんとう
学院
がくいん
に
呼
よ
ばれていきました。そこでの
授業
じゅぎょう
で
僕
ぼく
、
障害
しょうがい
福祉
ふくし
論
ろん
を
担当
たんとう
しました。その
授業
じゅぎょう
に
青
あお
い
芝
しば
の
面々
めんめん
とその
他
た
の
車椅子
くるまいす
の
人
ひと
たちも
来
く
るんですよ。エレベーターがない2
階
かい
の
教室
きょうしつ
に
守衛
もりえ
さんたちが4
人
にん
も5
人
にん
も
集
あつ
まって、
車
くるま
いすを
担
かつ
ぎ
上
あ
げてくれた。
一生懸命
いっしょうけんめい
、
大事
だいじ
な
生徒
せいと
のようにしてくれた。そういう
中
なか
で
僕
ぼく
の
障害
しょうがい
福祉
ふくし
論
ろん
っていうのは、おのずと
変
か
わっている。
当事
とうじ
者
しゃ
をいつも
念頭
ねんとう
に
置
お
かないとできない、
授業
じゅぎょう
が。そういう
授業
じゅぎょう
をやってかなきゃいけないんだなと
思
おも
って。
客観
きゃっかん
的
てき
に
何
なに
かを
言
い
っていればいいという
話
はなし
じゃないなあと
思
おも
って。そういう
中
なか
で8
年
ねん
過
す
ごしました。
そして、
神奈川
かながわ
県
けん
の
人材
じんざい
確保
かくほ
に
関
かん
する
委員
いいん
会
かい
がありましてね、
一番
いちばん
ヶ
瀬
せら
康子
やすこ
先生
せんせい
が
委員
いいん
長
ちょう
、
田端
たばた
光美
てるみ
先生
せんせい
副
ふく
院
いん
委員
いいん
長
ちょう
で、
僕
ぼく
が
関東学院大学
かんとうがくいんだいがく
から
出
で
ている
委員
いいん
で、
報告
ほうこく
書
しょ
を
最終
さいしゅう
的
てき
なまとめをするという
会
かい
が
開
ひら
かれた。そのご
縁
えん
で、
日本女子大学
にほんじょしだいがく
に
移
うつ
ることになりました。
そして
日本女子大
にほんじょしだい
にいた92
年
ねん
の9
月
がつ
に
横田
よこた
弘
ひろし
さんとバンクーバーへ
行
い
きました。それは84
年
ねん
頃
ごろ
からブリティッシュコロンビア
州
しゅう
が
障害
しょうがい
者
しゃ
の
入所
にゅうしょ
施設
しせつ
の
閉鎖
へいさ
を
始
はじ
めていて、それが
終了
しゅうりょう
したので、
横田
よこた
さんが「
俺
おれ
、
行
い
きたい」「とにかくバンクーバーへ
行
い
って
障害
しょうがい
当事
とうじ
者
しゃ
に
会
あ
いたい」って
言
い
うんですね。それでそういうアレンジメントをやったんですけど、
向
む
こうで
横田
よこた
さんの
障害
しょうがい
当事
とうじ
者
しゃ
のその、「
大
おお
いに
運動
うんどう
してる
人
ひと
に
会
あ
いたい」っていうい
方
いかた
をして
会
あ
えたのはみんなね、脊損の
人
ひと
なんですよ。それで
横田
よこた
さんすごい
不満
ふまん
でね。どうして
脳性
のうせい
まひ
者
しゃ
に
会
あ
えないんだって。だけど
結局
けっきょく
最後
さいご
までダメでした。
そして
帰国
きこく
間際
まぎわ
になった
時
とき
、
彼
かれ
はね「
谷口
たにぐち
さん、
俺
おれ
の
車
くるま
いすを
押
お
して」って
言
い
うのね。
彼
かれ
のほら
持論
じろん
だから。「
健常
けんじょう
者
しゃ
が
車
くるま
いすを
押
お
さなきゃだめだ」と。「だから
俺
おれ
は
電動
でんどう
使
つか
わない」って
言
い
い
切
き
ってましたからね。「
俺
おれ
の
車
くるま
いすを
押
お
さなきゃ
障害
しょうがい
者
しゃ
のことはわからない」って。それでね、
押
お
せって
言
い
うから、「じゃあ
俺
おれ
一
いち
日
にち
あんたと
付
つ
き
合
あ
うよ」って
言
い
って。そうしたらね、バンクーバーの
店
みせ
を
次
つぎ
から
次
つぎ
から
次
つぎ
から
次
つぎ
へと
物
もの
を
買
か
いに
行
い
くんです。すごいんです。ぐるぐるぐるぐる
回
まわ
ってね。もうあの
店
みせ
、この
店
みせ
、
次
つぎ
はあっちこっち、あの
店
みせ
この
店
みせ
って。
僕
ぼく
、
海外
かいがい
行
い
って
土産物
みやげもの
って
買
か
ったことないから
驚
おどろ
いちゃって。「へえ。この
人
ひと
はこんな
買
か
い
物
もの
する
人
ひと
だったのかあ」と
思
おも
った。そしたら
最後
さいご
に、「
谷口
たにぐち
さん、
寿司
すし
屋
や
へ
連
つ
れてってくれ」って
言
い
うの。
横田
よこた
さんが。それで
2人
ふたり
で
差
さ
し
向
む
かいで
座
すわ
った。そしたら
特
とく
上
じょう
の
寿司
すし
2つ
頼
たの
んでくれって
言
い
うのね。そして「
俺
おれ
が
今日
きょう
おごるから
食
た
べてくれ」って。それで
寿司
すし
食
た
べてるうちに
彼
かれ
が
語
かた
ったのは、「
俺
おれ
は
貯金
ちょきん
を
全部
ぜんぶ
下
お
ろして」、それでその
貯金
ちょきん
をね、「
全部
ぜんぶ
今日
きょう
の
買
か
い
物
もの
に
使
つか
った」って
言
い
うの。それでね、それはね、
世話
せわ
になった
人
ひと
の…たぶん81
人
にん
と
言
い
ったと
思
おも
ったな。「
頭
あたま
に
浮
う
かぶだけで81
人
にん
いるんで、その
人
ひと
一
いち
人
にん
ずつ
頭
あたま
に
浮
う
かべながらお
土産
みやげ
買
か
ったんだ」って。81
人
にん
分
ぶん
。すごい。で、「もう
二度
にど
と
来
く
ることないと
思
おも
うから、これでさっぱりした」って。それで「
寿司
すし
食
く
ってくれ」って
言
い
うんで、
僕
ぼく
はなんか
胸
むね
が
熱
あつ
くなっちゃった、「そうだったのか」と
思
おも
って。
田中
たなか
:81
人
にん
思
おも
い
浮
う
かべるってすごいですね。
谷口
たにぐち
:すごいね。なんかね、
靴下
くつした
から
帽子
ぼうし
から
手袋
てぶくろ
から。いろいろ
買
か
ってた。
僕
ぼく
は「そういう
男
おとこ
だったのか」と
感銘
かんめい
深
ふか
かった。
思
おも
い
出
だ
せば、2004
年
ねん
の5
月
がつ
1
日
にち
から
障害
しょうがい
者
しゃ
支援
しえん
センター
運営
うんえい
委員
いいん
会
かい
っていうのができて。それがどうしてできたかというと、
酒井
さかい
喜和
きわ
さんが
理事
りじ
長
ちょう
をやってた
在宅
ざいたく
障害
しょうがい
者
しゃ
援護
えんご
協会
きょうかい
を、
新
あたら
しい
横浜
よこはま
市長
しちょう
が
民間
みんかん
団体
だんたい
の
多
おお
くを
整理
せいり
合併
がっぺい
させるってい
出
いだ
して、
在宅
ざいたく
障害
しょうがい
者
しゃ
援護
えんご
協会
きょうかい
を
横浜
よこはま
市
し
社協
しゃきょう
(01:34:51)に
吸収
きゅうしゅう
するって
市長
しちょう
がい
張
いは
った。
僕
ぼく
らは
猛
もう
反対
はんたい
で。
社協
しゃきょう
の
体質
たいしつ
に
同一
どういつ
化
か
されたら
身
み
も
蓋
ぶた
もないっていうので。それで
文章
ぶんしょう
を
書
か
いているんです。『10
年間
ねんかん
は
社協
しゃきょう
の
人事
じんじ
に
巻
ま
き
込
こ
ませない。
人事
じんじ
はいじらせない、
社協
しゃきょう
に』。それからね、
横浜
よこはま
市
し
障害
しょうがい
者
しゃ
支援
しえん
センターっていう
名前
なまえ
で
決
き
まったんですけど、それは「『
当事
とうじ
者
しゃ
性
せい
』と『
開拓
かいたく
性
せい
』と『
運動
うんどう
性
せい
』という3
本
ほん
柱
ばしら
を
決
けっ
して
見失
みうしな
うことのないように
運営
うんえい
すること」っていう。それを
公文書
こうぶんしょ
にまとめて
横浜
よこはま
社
しゃ
協会
きょうかい
長
ちょう
宛
あて
に
出
だ
しているんですね。
そして
出来
でき
た
横浜
よこはま
市
し
障害
しょうがい
者
しゃ
支援
しえん
センターの
運営
うんえい
委員
いいん
として
横田
よこた
弘
ひろし
さんと
内田
うちだ
みどりさんが
参加
さんか
してきた。その
運営
うんえい
委員
いいん
長
ちょう
を13
年間
ねんかん
やってきた。その
中
なか
で
思
おも
い
出
だ
すのは、
内田
うちだ
みどりさんが、「
障害
しょうがい
者
しゃ
総合
そうごう
なんとか
法
のっと
ってのができたけど、
障害
しょうがい
者
しゃ
はますます
生
い
きにくくなってます。がんじがらめ。なんだかとても
自由
じゆう
がなくなって、
自分
じぶん
らしく
生
い
きられる、
生
い
きる
道
みち
が
見
み
えなくなっています」っていう。すごく
基本
きほん
的
てき
な
問題
もんだい
提起
ていき
だったと
思
おも
いますね。そういうことを
言
い
って、
亡
な
くなってしまいました。
それで、2013
年
ねん
6
月
がつ
3
日
にち
に
横田
よこた
さんは
亡
な
くなってしまい、12月4
日
にち
に
内田
うちだ
みどりさんが
亡
な
くなった。
横田
よこた
さんが
亡
な
くなった
後
のち
、
内田
うちだ
みどりさんが「2019
年
ねん
12月31
日
にち
をもって
青
あお
い
芝
しば
活動
かつどう
停止
ていし
しますって
言
い
われてる」って。これはね、
横浜
よこはま
市
し
障害
しょうがい
者
しゃ
支援
しえん
センターの
運営
うんえい
委員
いいん
会
かい
の
運営
うんえい
委員
いいん
として
伝
つた
えられたことの
記録
きろく
なんです。
横田
よこた
弘
ひろし
さんというのは、「
生
い
きてるっていうことを、そういうことを
心
しん
の
底
そこ
でかみしめて
生
い
きている
男
おとこ
なんだな」っていつも
思
おも
ってました。だから
最初
さいしょ
わーっと
押
お
しかけて
来
きた
られたときは、「『
僕
ぼく
は
殺
ころ
されてもやむを
得
え
ざる
成
な
り
行
ゆ
きである』って
書
か
いたから、
怒
いか
りの
嵐
あらし
に
向
む
かってどうしていいかわからず
怖
こわ
かった。
出
だ
してしまった
言葉
ことば
は
消
け
しようがないから」って
言
い
ったら、「いや
谷口
たにぐち
さん、
怖
こわ
がることなんかなかったんだよ」と
言
い
われたけど。
(笑)
かっこわらい
どういう
意味
いみ
だったかわかんないけど、そういうことを
言
い
われました。[01:40:43]
田中
たなか
:だーって
来
き
た
時
とき
、
先生
せんせい
、そのあとっていうのはどうやって
話
はなし
をしたんですか?
谷口
たにぐち
:その
後
ご
ね、
心身
しんしん
障害
しょうがい
児
じ
親
おや
の
会
かい
連盟
れんめい
は
減刑
げんけい
嘆願
たんがん
もしたこともないし、その
抗議
こうぎ
文
ぶん
は
僕
ぼく
が
書
か
いたのを
発表
はっぴょう
しただけで、
僕
ぼく
の
責任
せきにん
なんですよね。
でも、
親
おや
の
会
かい
の
人
ひと
たちはそれぞれの
立場
たちば
で、
青
あお
い
芝
しば
に
説明
せつめい
しようとしていったんですね。
例
たと
えば、
重症
じゅうしょう
心身
しんしん
障害
しょうがい
児
じ
を
守
まも
る
会
かい
の
会長
かいちょう
、
彼
かれ
は
言
い
ってたんです。「
俺
おれ
の
娘
むすめ
なんかさ、
何
なに
も
言
い
わないし、
何
なに
も
意思
いし
表示
ひょうじ
がないから
何
なに
を
考
かんが
えてんだかわかんないんだけど、とにかく
丸裸
まるはだか
の
命
いのち
で
生
い
きてんだよ」「そういう
命
いのち
を
抱
いだ
き
抱
かか
えて
一緒
いっしょ
に
死
し
のうとは
思
おも
わない」「だけど、
青
あお
い
芝
しば
のような『ものを
言
い
う
人
ひと
』と
俺
おれ
の
娘
むすめ
とは
違
ちが
うなと
思
おも
ってんだよ」「
何
なに
か
違
ちが
いってのを
感
かん
じちゃうんだよなあ」みたいない
方
いかた
をしてました。
殺
ころ
す、
殺
ころ
されるということとは
違
ちが
うというような
立場
たちば
を
話
はな
していたのでしょうね。
そして、この
件
けん
とは
別
べつ
に、
青
あお
い
芝
しば
で
介護
かいご
者
しゃ
の
親
おや
が
亡
な
くなってしまって、どうしようもなくって、どこかに
住
す
まいを
見
み
つけなければならないと
不動産
ふどうさん
屋
や
を
本当
ほんとう
に100
軒
けん
回
まわ
った。それでも
見
み
つからなかったという
話
はなし
が
伝
つた
わってきた。
本当
ほんとう
に
家
いえ
を
見
み
つけるのは
難
むずか
しいって
話
はなし
があった。その
頃
ころ
、
僕
ぼく
は
毎年
まいとし
イギリスに
行
い
きだしてて、ホステルなんかを
訪
たず
ねたり
泊
と
めてもらったり、それからグループホームも
訪
たず
ねたりしてたんで、「じゃあ
俺
おれ
ね、イギリスのグループホームってどういうものなのかもう
一
いち
回
かい
本気
ほんき
で
調
しら
べるよ」って。それで、それをテーマにしてイギリスへ
行
い
く。「グループホームの
運営
うんえい
ってどうやってやるのか」「
介護
かいご
・
介助
かいじょ
の
問題
もんだい
はどうやってやるのか」「
介護
かいご
不要
ふよう
の
人
ひと
も
住
す
むのか」「グループホームのタイプっていうのはどういうものがあるのか」「
終
おわり
の
住処
すみか
になるのか、
一時
いちじ
的
てき
な
住居
じゅうきょ
か」、そういうものを
調
しら
べてきて、それを
室瀬
むろせ
滋樹
しげき
さんという
支援
しえん
者
しゃ
に
伝
つた
える。で、
室瀬
むろせ
さんが
媒介
ばいかい
項
こう
になって、
青
あお
い
芝
しば
の
人
ひと
たちに
伝
つた
わって
行
い
く。いつの
間
ま
にか、
新
あたら
しい
情報
じょうほう
提供
ていきょう
者
しゃ
の
役割
やくわり
になっていくという
感
かん
じがありましたね。
その
後
ご
、
横浜
よこはま
では
脳性
のうせい
まひ
者
しゃ
中心
ちゅうしん
にしたエレベーター
付
つ
きの
家
いえ
を
建
た
てて、グループホームにして、30
年
ねん
契約
けいやく
する
家主
やぬし
が
出
で
てくる。
内田
うちだ
みどりさんもそうしたグループホームに
住
す
んでいました。
また、
矢田
やた
さんとか、
白石
しらいし
さんとか
友人
ゆうじん
としてお
酒
さけ
を
飲
の
んだり、
個人
こじん
的
てき
な
相談
そうだん
を
受
う
けたりして、
障害
しょうがい
児
じ
殺
ころ
しとは
別
べつ
の
個人
こじん
的
てき
な
付
つ
き
合
あ
いが
始
はじ
まった
気
き
がします。
田中
たなか
:ふれあいの
家
いえ
の
室津
むろつ
さん?…。
谷口
たにぐち
:そうです。ふれあい
生活
せいかつ
のの
家
いえ
ですね。
正式
せいしき
には
中
なか
区
く
障害
しょうがい
者
しゃ
地域
ちいき
活動
かつどう
ホームの
理事
りじ
長
ちょう
をやってると
思
おも
います、
室津
むろつ
滋樹
しげき
さんは。そういえば、
日本女子大
にほんじょしだい
の
授業
じゅぎょう
でも「グループホームへボランティアで
行
おこな
ってくれ」って
言
い
って、
泊
とま
りがけで
行
おこな
ってくれる
人
ひと
がいました。
田中
たなか
:たぶん
脈々
みゃくみゃく
と
続
つづ
いてたんじゃないですか、ボランティアをしていくのが。
行
おこな
った
記憶
きおく
がありますね。
先生
せんせい
、もう
一度
いちど
おうかがいしていいですか? このへんの
出来事
できごと
のあたりっていうか、
臨場
りんじょう
感
かん
のあるところで。
先生
せんせい
のその
抗議
こうぎ
文
ぶん
に
対
たい
して
青
あお
い
芝
しば
の
人
ひと
たちは
先生
せんせい
のお
勤
つと
め
先
さき
に
来
き
たんですか?
谷口
たにぐち
:そう。
児童
じどう
医療
いりょう
福祉
ふくし
財団
ざいだん
の
会議
かいぎ
室
しつ
に
押
お
しかけて
来
き
たの。その
時
とき
に
僕
ぼく
はいなかった。
僕
ぼく
は、
直接
ちょくせつ
対決
たいけつ
して
迫
せま
られるっていう
経験
けいけん
はないんです。
田中
たなか
:そしたらどうやってそのあとは
接点
せってん
ができたんですか?
横田
よこた
さんが「あの
文章
ぶんしょう
を
書
か
いた
人
ひと
に
会
あ
いたい」とか、そうやって
来
き
たとかっていうわけでもない?
谷口
たにぐち
:
来
き
たことないですね。はい。ここに
並
なら
べている
人
ひと
たちって、
何
なに
とはなしの
付
つ
き
合
あ
いをしてるんですよね。
白石
しらいし
さんは
確
かく
か、
今
こん
群馬
ぐんま
のほうにいるのかな?
田中
たなか
:
白石
しらいし
さんって
福島
ふくしま
のですか?
郡山
こおりやま
の。
谷口
たにぐち
:
郡山
こおりやま
。そう。
白石
しらいし
さんね。
彼
かれ
と
酒
さけ
飲
の
んでいろんな
話
はな
したりして、
付
つ
き
合
あ
って、
個人
こじん
的
てき
な
話
はなし
を
聞
き
いて。それから
矢田
やた
竜司
りゅうじ
さんは
川崎
かわさき
に
住
す
んでて、
鶴見
つるみ
の
作業
さぎょう
所
しょ
の
所長
しょちょう
になったんですね。それで
僕
ぼく
のところへ
言
い
ってきたのは、「とにかくね、
谷口
たにぐち
さんね、
生活
せいかつ
保護
ほご
を
受
う
けるのは
嫌
いや
だったんだ」って。それで
所長
しょちょう
になって
給料
きゅうりょう
もらうようになったんだけど、
川崎
かわさき
から
電動
でんどう
車
くるま
いすで2
時
じ
間
あいだ
半
はん
ですって。
鶴見
つるみ
まで。それが
交通
こうつう
事故
じこ
にあって
当
あ
たり
前
まえ
みたいな
経路
けいろ
を
乗
の
り
切
き
って
行
い
かなきゃなんないんで
怖
こわ
くって、
毎日
まいにち
通勤
つうきん
が
大変
たいへん
。それから「お
前
まえ
だけなぜ
給料
きゅうりょう
もらうんだって
障害
しょうがい
者
しゃ
仲間
なかま
から
言
い
われてて
辛
つら
いんだ」「だけど
生活
せいかつ
保護
ほご
は
受
う
けたくないんだ」って
言
い
って。
市営
しえい
住宅
じゅうたく
に
住
す
んでてね。そんなことを
言
い
いながら。
僕
ぼく
は
結局
けっきょく
何
なに
も
出来
でき
ないで
話
はなし
聞
き
くだけだったんですけどね。
だからなんだろうな。
僕
ぼく
ってなんとなく、
真
ま
っ
正面
しょうめん
から
抗議
こうぎ
文
ぶん
のことでやり
合
あ
うことも
無
な
いまま、なんとなく
付
つ
き
合
あ
いが
出
で
てくるってのか。
話
はな
しに
来
く
るとか、
手紙
てがみ
送
おく
ってくるとか、そんな
感
かん
じで
付
つ
き
合
あ
ってて。また
僕
ぼく
もそういうことって
記憶
きおく
も
取
と
らないで
何
なに
もしないでなんとなく
頭
あたま
に
思
おも
ってるだけできちゃってるから。[01:51:07]
田中
たなか
:でもすごいですね。だっていっぱい
名前
なまえ
が
出
で
てきて。ちゃんと
名前
なまえ
覚
おぼ
えてらっしゃるのがすごい。
谷口
たにぐち
:そう、
名前
なまえ
は
覚
おぼ
えてる。それぞれの
個性
こせい
がある
人
ひと
たちだったから。
田中
たなか
:でもあれですね。なんかすごくこう、
敵対
てきたい
するようなお
手紙
てがみ
をある
種
しゅ
書
か
いたわけじゃないですか。そんなのに、そのあとは
良
よ
い
感
かん
じで
交流
こうりゅう
が
結
むす
べてるっていうところがやっぱり、どうやってこうなったんだろうっていうのはちょっとね。
谷口
たにぐち
:なんとなく、あの
人
ひと
たちにとって
情報
じょうほう
源
げん
みたいだったのかな。「ノーマリゼーションなんて、
谷口
たにぐち
から
初
はじ
めて
聞
き
いた」って
言
い
ってたし。それはもう
明確
めいかく
に
入所
にゅうしょ
施設
しせつ
否定
ひてい
っていうことなんだよって。
日本
にっぽん
はそうなっていないけど、みたいな
話
はなし
をすると「ああ、そうなのか」みたいなね。そうですね。1970
年
ねん
に
入
はい
ってすぐの
頃
ころ
だと
思
おも
いますよ。「ノーマリゼーション」なんて
僕
ぼく
が
引
ひ
っ
張
ぱ
ってい
出
いだ
したのは。
田中
たなか
:それはやっぱり
先生
せんせい
が
海外
かいがい
の
文献
ぶんけん
を
読
よ
んだりされてたから?
谷口
たにぐち
:そうです。68
年
ねん
にヴォルフェンスベルガーが
書
か
いたのをまず
手
て
に
取
と
った。68
年
ねん
に
書
か
かれて、「ほー」と
思
おも
って
驚
おどろ
いたけど、ヴォルフェンスベルガーの
書
か
いた
文章
ぶんしょう
って、ドイツ
系
けい
の
人
ひと
ですからすごい
難
むずか
しい。「そうなのか」と
思
おも
いながら
読
よ
み
飛
と
ばしていったけど、
翻訳
ほんやく
しようと
思
おも
ったけど、これは
俺
おれ
の
力
ちから
では
翻訳
ほんやく
できないよと
思
おも
ったのはまざまざと
記憶
きおく
してますね。でもね、「ノーマリゼーション」という
言葉
ことば
と
理念
りねん
がある、「
常態
じょうたい
化
か
」とでもいうのかな、そういうことは
言
い
ってた。だから
大澤
おおさわ
さんが
県庁
けんちょう
でい
出
いだ
したのは「お
前
まえ
から
聞
き
いたからだ」って
言
い
ってたけど。
定
さだ
かでないんですけど、「
最初
さいしょ
にノーマリゼーションを
神奈川
かながわ
に
持
も
ち
込
こ
んだのは
谷口
たにぐち
だ」とか
言
い
ってる。また、
例
たと
えばグループホームって「
終
おわり
のすみかであってもいいし、
終
おわり
のすみかでなくてもいいんだよ。
出
で
たくなれば
出
で
ていけばいいんだから」みたいなことだとかね。
それから「
障害
しょうがい
者
しゃ
の
高齢
こうれい
期
き
をどうする?」というような
話
はなし
が
出
で
たりとか。
僕
ぼく
ね、
厚木
あつぎ
精華
せいか
園
えん
っていうのができた
年
とし
にそれを
書
か
いた。
厚木
あつぎ
精華
せいか
園
えん
っていうのはね、
知的
ちてき
障害
しょうがい
者
しゃ
の
高齢
こうれい
者
しゃ
だけ
集
あつ
める
施設
しせつ
なんですよ。すごいと
思
おも
いませんか?
高齢
こうれい
者
しゃ
だけ。それで、それ
僕
ぼく
は
日本女子大
にほんじょしだい
の
紀要
きよう
に
書
か
いたんです。
田中
たなか
:94
年
ねん
。ずいぶん
先駆
せんく
的
てき
ですね、
先生
せんせい
。[01:55:00]
谷口
たにぐち
:
大澤
おおさわ
さんにこれを
見
み
せて、
高齢
こうれい
者
しゃ
だけ
集
あつ
めるのは
無茶
むちゃ
でしょうって。そしたら
彼
かれ
が「
厚木
あつぎ
精華
せいか
園
えん
はそういう
趣旨
しゅし
の
施設
しせつ
なんだ。そこで
出
だ
す
研究
けんきゅう
紀要
きよう
の
創刊
そうかん
号
ごう
にこれを
全部
ぜんぶ
引用
いんよう
させてくれって。
田中
たなか
:
知的
ちてき
障害
しょうがい
の
人
ひと
はなんか
今
いま
、
認知
にんち
症
しょう
の
話
はなし
なんかもけっこう
出
で
たりするのって、
最近
さいきん
ですもんね。
谷口
たにぐち
:ああ、そう。そうですよね。
田中
たなか
:だからすごい
先駆
せんく
的
てき
な。
谷口
たにぐち
:
当
あ
たり
前
まえ
のことを
書
か
いてるだけなんですけどね。
田中
たなか
:じゃあなんとなしに
会合
かいごう
とかで
出会
であ
ったり?
谷口
たにぐち
:そういうことだったんだと
思
おも
う。いろんな
話
はなし
をするとか、それから
鶴見
つるみ
の
京浜急行
けいひんきゅうこう
の
近
ちか
くの
居酒屋
いざかや
へ
車
くるま
いすで
一緒
いっしょ
に
入
はい
って
酒
さけ
飲
の
んで、ああでもないこうでもないって
言
い
うとかね。たぶん
僕
ぼく
の
付
つ
き
合
あ
い
方
かた
がそうだったんだと
思
おも
う。
田中
たなか
:そういう
中
なか
で
先生
せんせい
が、いろんな
知見
ちけん
みたいなものを
飲
の
みながらしゃべって。それはまた
青
あお
い
芝
しば
の
人
ひと
にとってはちょっと
新
あたら
しい。こういうこともあるんだなみたいなことで、だんだん
親
した
しくなっていくっていうか?
谷口
たにぐち
:
横田
よこた
弘
ひろし
さんの
息子
むすこ
さん、
背
せ
の
高
たか
いすらりとしたいい
男
おとこ
なんだよね。
田中
たなか
:あ、そうなんですか。
息子
むすこ
さん
会
あ
ったことがない。
谷口
たにぐち
:
横田
よこた
さん
弘
ひろし
にね、「あんたの
精子
せいし
は
立派
りっぱ
な
精子
せいし
なんだなあ。あの
息子
むすこ
を
見
み
るとそう
思
おも
う」なんて、そんな
話
はな
しながら。オフレコだけど。
友達
ともだち
だから、「あんた、
最初
さいしょ
の
経験
けいけん
どこでどうしたの?」とか。
(笑)
かっこわらい
田中
たなか
:
(笑)
かっこわらい
谷口
たにぐち
:そういう
話
はなし
だとか。それから、バンクーバー
行
おこな
った
時
とき
はどうしても、「
谷口
たにぐち
、カナダのポルノを
見
み
せろ」とか。
(笑)
かっこわらい
田中
たなか
:
勢
いきお
いがありそうですもんね。92
年
ねん
だって…まだおいくつぐらいですかね。けっこういいお
年
とし
ではあるのか。60
代
だい
ですか?
谷口
たにぐち
:33
年
ねん
生
う
まれじゃなかったかな? ちょっと
待
ま
って。33
年
ねん
生
う
まれ。
田中
たなか
:じゃあ60ぐらいですね、ちょうど。59とか、バンクーバー。まだ
元気
げんき
か。
でもそういう、なんか
和解
わかい
していくっていうのがなかなか
良
よ
いっていうか。あんまりないかなって。
谷口
たにぐち
:
和解
わかい
していくもいかないもないまんま、
何
なに
か「わかっちゃった」みたいな
感
かん
じですかね。
彼
かれ
が
下痢
げり
しちゃって。
夫婦
ふうふ
になったけど、
下痢
げり
した
時
とき
は
大変
たいへん
だったというような。
田中
たなか
:でもそういう
話
はなし
ができる
仲
なか
になっていくってのがすごいですね。
谷口
たにぐち
:なんかね、
次元
じげん
が
違
ちが
うところで
付
つ
き
合
あ
い
始
はじ
めちゃってたっていうのかな。なんとなくね。
田中
たなか
:じゃあ
最初
さいしょ
はもしかしたらあれですか?
谷口
たにぐち
先生
せんせい
がこういう
文章
ぶんしょう
を
書
か
いた
張本人
ちょうほんにん
だって
知
し
らなかったとか?
谷口
たにぐち
:
知
し
らなかったと
思
おも
う。
田中
たなか
:ああ、そうなんですね。なんか
話
はな
しているうちに、「
実
じつ
は
僕
ぼく
でした」みたいな?
谷口
たにぐち
:そうそうそう。「あれ
書
か
いちゃったから、
俺
おれ
もうそれで
横田
よこた
さんたちがガーって
来
き
た
時
とき
は
俺
おれ
は
怖
こわ
かったよ」とかっていうような
話
はなし
でわかっちゃったのかな。
田中
たなか
:そしたらなんか「あれ? この
人
ひと
だったのか」みたいな。
(笑)
かっこわらい
なるほど。じゃ
逆
ぎゃく
にあれですね。
先
さき
に
良
よ
い
付
つ
き
合
あ
いができちゃってたっていう。
谷口
たにぐち
:「
良
よ
い
付
つ
き
合
あ
い」ってほど
意識
いしき
してなかった。なんとなく
自然
しぜん
に
話
はな
しちゃってたっていう。ぶっちゃけた
話
ばなし
しちゃってたっていうことかな。[01:59:43]
田中
たなか
:でも、そういうお
付
つ
き
合
あ
いができたというのも、またね。たぶん
先生
せんせい
の
中
なか
にやっぱり
元々
もともと
その、お
友達
ともだち
に
視覚
しかく
障害
しょうがい
の
人
ひと
がいたりとかそういう
中
なか
で、あんまり
壁
かべ
を
作
つく
らずに
付
つ
き
合
あ
えるというか。
谷口
たにぐち
:それからほら。
青
あお
い
芝
しば
はセックスのことをあからさまにい
立
いた
てる
時代
じだい
があったんですよね。
真
ま
っ
正面
しょうめん
から。「セックスどうする?」っていうのは。
僕
ぼく
はその
頃
ころ
も
一生懸命
いっしょうけんめい
「
障害
しょうがい
者
しゃ
とセックスの
問題
もんだい
」っていうのは。たとえば
結婚
けっこん
するしないにかかわらず、
一緒
いっしょ
になって
妊娠
にんしん
したら
子育
こそだ
てどうするのかとか。そういうのをね、
一生懸命
いっしょうけんめい
、イギリス
行
い
って
調
しら
べたりとか。イギリスは
平気
へいき
でやってんだよ、そういうのは。
一緒
いっしょ
になってさ、
子
こ
ども
産
う
まれたらどうするかというと、それは
社会
しゃかい
が
育
そだ
てればいいって
言
い
ってんだよ、イギリスはさあって。「ええ? そうなの?」というふうなね。そんな
付
つ
き
合
あ
いだったからかなって
気
き
がしますけどね。だから
彼
かれ
らもほら、
女性
じょせい
も
青
あお
い
芝
しば
はなんかかなりあからさまでしたからね、
性
せい
については。だから「
性的
せいてき
な
経験
けいけん
だけはしたいけど、
結婚
けっこん
はしたくないけど、ちょっといい
男
おとこ
いないか?」とか、
思
おも
いもかけない
話
はなし
。
本当
ほんとう
に
性
せい
についてあからさまな
時代
じだい
があったんですよ、
女
おんな
の
人
ひと
も
男
おとこ
の
人
ひと
もね。
田中
たなか
:80
年代
ねんだい
ですか?
谷口
たにぐち
:そうだったと
思
おも
うな。
田中
たなか
:
今
いま
はね、そこまでオープンに…。まあでもいろんなサービスというかね、あるから。でもまあ
足
た
りてるとは
言
い
えない。
特
とく
に
女
おんな
の
人
ひと
は
逆
ぎゃく
に、しゃべらないですかね、
今
いま
。
谷口
たにぐち
:
隠
かく
された、
隠蔽
いんぺい
された
世界
せかい
であり
続
つづ
けているとは
思
おも
いますね。いっときは
青
あお
い
芝
しば
がい
立
いた
てたけど。でも
僕
ぼく
は
本当
ほんとう
に、きちっとしなきゃいけない
問題
もんだい
だと
思
おも
って。だからイギリス
行
おこな
ったとき、
僕
ぼく
はもう
今
いま
でも
忘
わす
れないのは、
障害
しょうがい
者
しゃ
のホステルの
女性
じょせい
施設
しせつ
長
ちょう
が、「『セックスの
権利
けんり
は
何人
なんにん
も
奪
うば
うことはできない』ってイギリス
人
じん
は
考
かんが
える。そこからスタートする」「それを
抑圧
よくあつ
して、ないものにしていくわけにはいかない」って。「だからあらゆることを
考
かんが
えて、その
権利
けんり
は
守
まも
らなきゃいけない」って
言
い
われた。
実際
じっさい
、イギリスの
本屋
ほんや
へ
行
い
くと
売
う
ってましたもんね。「
障害
しょうがい
のある
人
ひと
のセックスはどうやってやるか」って、
図
ず
入
い
りで、
実
じつ
に
細
こま
かく。それは
障害
しょうがい
のある
兄弟
きょうだい
を
持
も
ったお
兄
にい
さんが
書
か
いた
本
ほん
でしたね。
田中
たなか
:なるほど、そうか。じゃあ、
横田
よこた
さんたちの
話
はなし
はなんとなく。はい。
谷口
たにぐち
:でもその、「セルフアドボカシー」っていうのもすごく
大事
だいじ
だと
思
おも
ってるんです。イギリスの
障害
しょうがい
者
しゃ
団体
だんたい
なんか、セルフアドボカシーに
目覚
めざ
めた。というのは、
障害
しょうがい
のある
子
こ
どもを
持
も
ったって、
母親
ははおや
の
目
め
から
涙
なみだ
がポロリ
落
お
ちるポスターが
出
で
たんです。それで
障害
しょうがい
者
しゃ
団体
だんたい
が
猛烈
もうれつ
に
反応
はんのう
したんですね。
障害
しょうがい
を
持
も
つことが
悲劇
ひげき
で
悲
かな
しみだっていうことを
象徴
しょうちょう
するポスターを
張
は
りだすのかっていうので。それで、
障害
しょうがい
者
しゃ
自身
じしん
の
団体
だんたい
が
各所
かくしょ
にオフィスを
構
かま
えるなどして、
前面
ぜんめん
に
出
で
てくるようになった。そして、そういうオフィスにはたいがい
時
じ
の
首相
しゅしょう
が
訪問
ほうもん
していて、みんなと
写真
しゃしん
撮
と
っている。それが
報道
ほうどう
されるなどして、
社会
しゃかい
に
知
し
られ、
認
みと
められる
大
おお
きなチャンスにはなってる。
だから、
青
あお
い
芝
しば
が
一番
いちばん
残念
ざんねん
に
思
おも
ってるのは、そのセルフアドボケイトが
十分
じゅうぶん
にでききれないまんま
横田
よこた
さんなんかがこの
世
よ
を
去
さ
っていっちゃった。
内田
うちだ
みどりなんかが
去
さ
っていってしまったということじゃないかなと、
僕
ぼく
は
思
おも
っています。
*
作成
さくせい
:
岩
いわ
弘泰
ひろやす
UP: 20211222 REV: 20231015
◇
谷口
たにぐち
正隆
まさたか
全文
ぜんぶん
掲載
けいさい
TOP
HOME (http://www.arsvi.com)
◇