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立岩真也「「ケア」をどこに位置させるか」
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「ケア」をどこに位置いちさせるか

立岩たていわ しん 1997/05/31 『家族かぞく問題もんだい研究けんきゅう』22:2-14(家族かぞく問題もんだい研究けんきゅうかい

1.かたについて★01

 「ケア」がかたられるさい問題もんだいだとおもうのは、「家族かぞくができないから」「家族かぞくだと大変たいへんだから」といういいかた(だけ)がよくされることである。「家族かぞく社会しゃかいがく」にもそういうことはなかっただろうか。「社会しゃかい変容へんよう」「家族かぞく変容へんよう」(かく家族かぞく女性じょせいの「社会しゃかい進出しんしゅつ」、高齢こうれい…)から育児いくじ介助かいじょの「社会しゃかい」をうという筋道すじみちである。そのとおりの現実げんじつがあり、それが重要じゅうようであることはうたがいない。またその実態じったい調査ちょうさ報告ほうこくすることの意義いぎをまったく否定ひていしない。けれども、うべきことはこれだけではない。
 以下いかおもに「介助かいじょ」★02を念頭ねんとうにおく。家族かぞくがする/しないということについて、(かたはいろんろありうるが、ひとまず)以下いかみっつをかんがえる必要ひつようがある。
 1)家族かぞくがみる(だいいちてきな)義務ぎむがある(=ひとには(だいいちてきな)義務ぎむがない)ということ(現実げんじつ民法みんぽうにおける「扶養ふよう義務ぎむ」の規定きてい生活せいかつ保護ほごほうにおける「補足ほそくせい規定きていはそうなっている)に正当せいとうせいがあるのかという問題もんだい★03。
 2)介助かいじょ使つか本人ほんにんにとってどうか、
 3)1.その家族かぞくにとってどうか、2.それ以外いがい人達ひとたちにとって(所謂いわゆる社会しゃかい」にとって)どうか。
 「家族かぞく大変たいへん」という問題もんだい設定せっていはこのなかの3)の1.に(だけ)おもかかわる。調査ちょうさ研究けんきゅうにしても、そうした観点かんてんから、たとえば介護かいご負担ふたん調査ちょうさされることがおおかったとおもう。もちろんそれはそれで大変たいへん重要じゅうようなポイントではあるが、それはすべてではないということである。
 そしてこれらはみなべつのありかたとの比較ひかくにおいてわれる主題しゅだいである。1)は、同時どうじに、この原則げんそくらないとしたらどういう原則げんそくてるのかという問題もんだいである。また3)は、家族かぞくになわせる場合ばあいと、そうでない場合ばあいとを効率こうりつせい合理ごうりせい観点かんてんから比較ひかくすることでもある。たとえば介助かいじょになうのは家族かぞく(だけ)でないとして、ではわりにどのようにそれをおこなうのがよいのかについてかんがえる、また両者りょうしゃ比較ひかくしてみることが課題かだいになる。家族かぞく負担ふたんから「社会しゃかい」の負担ふたんへと主張しゅちょうするとして、もちろん負担ふたんえてなくなるわけではない。また、ここには無償むしょう家事かじ労働ろうどうとしてなされてきたこの仕事しごとをどういうものとするのか、ボランティアや所謂いわゆる有償ゆうしょうボランティアをどう評価ひょうかするかという問題もんだいかかわってくる。こうした問題もんだいこたえようとするなら、実態じったい把握はあくするだけではすまず、いろいろとかんがえてみる必要ひつようがでてくる。そして、このような主題しゅだいについても、これまで(家族かぞく社会しゃかいがく十分じゅうぶん仕事しごとをしてこなかったのではないかとわたしかんがえる。
 以下いか、2.で1)について、3.で2)について検討けんとうし、4.で3)の一部いちぶ検討けんとうしつつ、どうするかという主題しゅだいもどり、5.で具体ぐたいてきなありかたについてべる。

2.まず家族かぞく義務ぎむせられることの不思議ふしぎ

 「家族かぞくによる介助かいじょ介助かいじょかんする資源しげん提供ていきょうが、現実げんじつにはおこなわれている。このくにでは以前いぜんからそしていまでも、介助かいじょ家庭かていでなされてきた。これにたいして、高齢こうれいや、かく家族かぞくや、女性じょせいの「社会しゃかい進出しんしゅつ」のために家族かぞく機能きのう衰弱すいじゃくし、それにわってべつ領域りょういきたとえば政府せいふがこれを担当たんとうせねばならない、せざるをないといういいかたがよく、ほとんどまり文句もんくのように、みみにたこが出来できるほと、なされる。過去かこおおくのひと急性きゅうせいやまいとういまよりもっともとはやんでいったから、なが期間きかん介助かいじょ以前いぜん必要ひつようだったわけではないことはさえておこう。とはいえ、高齢こうれいかく家族かぞく自体じたい事実じじつであり、それを否定ひていしようというのではない。問題もんだいなのは、このようないいかたなかで、「本来ほんらいは」だれおこなうべきなのか、家族かぞくなのか、家族かぞくだとしたらそれはなぜかがわれていない、あるいは曖昧あいまいにされていることである。「義務ぎむ」「規範きはん」についてかんがえることを、結果けっかとして、けてしまっていることである。家族かぞく十分じゅうぶん世話せわできるなら、家族かぞく経済けいざいてき十分じゅうぶん負担ふたんできるなら、家族かぞくおこなうべきなのか、負担ふたんすべきなのか。ここからかんがえるべきだ。家族かぞくおこなわねばならない根拠こんきょはあるのか。」([1995a:231-232])
 ひとつにこういうかたがある。こたえべつ論文ろんぶん([1991][1992])で検討けんとうしたし、うえ引用いんようした文章ぶんしょう[1995a]にいた。家族かぞくにだけ義務ぎむすべき根拠こんきょはどこにもない。
 にもかかわらず義務ぎむされることと「近代きんだい家族かぞく」についての「(家族かぞく社会しゃかい学的がくてき了解りょうかいとのあいだ齟齬そごと、この齟齬そごたいする「がく」のがわ無自覚むじかくさについては[1992]でべた。たとえば「だいいちてき福祉ふくし追求ついきゅう」といったいいかた家族かぞくの「定義ていぎ」のなかでなされるが、これは、追求ついきゅうしようとその当人とうにんたちおもっている、当人とうにんたち追求ついきゅうしているということなのか、それとも(だれかによって?)追求ついきゅうしなくてはならないとされているということなのか。前者ぜんしゃ後者こうしゃ意味いみことなる。そして近代きんだい家族かぞく自発じはつてき関係かんけいであるとするなら、後者こうしゃの「義務ぎむ」は自発じはつせい自体じたいからはけっしててこないものであるはずだが★04、それをどうかんがえるのか。こうした問題もんだい曖昧あいまいにしてきた。家族かぞくの「定義ていぎ」にしても、曖昧あいまいにしてしまうような定義ていぎがなされてきた。だから、もっとはっきりさせたほうがよいとわたしおもってかんがえてきた。
 そして結論けつろんだけえば、家族かぞくだいいちてき義務ぎむす(家族かぞくがいにはさない)ことに正当せいとうせいはない★05。そして義務ぎむがないと主張しゅちょうすることは、同時どうじに、家族かぞくにだけ特権とっけん付与ふよされる(相続そうぞくにあたっての優遇ゆうぐうひとし)ことの正当せいとうせいもないと主張しゅちょうすることであり、その特権とっけん放棄ほうきされてよいと主張しゅちょうすることでもある。ここからたとえばどのような「家族かぞく政策せいさく」が帰結きけつするのかといった主題しゅだいあらわれる。

3.「家出いえで」の意味いみ

 つぎに、「当事とうじしゃ」にとって、よい、気持きもちのよいことであるのかということ。ここ10ねんあまり、いえ(と施設しせつ)をらす障害しょうがいしゃについて調しらべてきた(安積あさか[1990][1995])。もちろん、ここにも家族かぞくたよ場合ばあい必要ひつようりょう充足じゅうそくされないという「不足ふそく」の問題もんだいはある。だが、(おやとしをとったとか、んだとかいう)「不足ふそく」(あるいは「虐待ぎゃくたい」)だけからいえる★06のではかならずしもない。介助かいじょという行為こういが、(すくなくともおおくの場合ばあい)「距離きょり」を必要ひつようとすること。そして家族かぞくという関係かんけい自体じたいに、ある距離きょり必要ひつようとされること。もちろんわたしたち調査ちょうさしてきたおもに20〜40さいだい障害しょうがいしゃ高齢こうれいしゃ意識いしきことなるだろう。おおくのひと家族かぞくたよりにしている。あるいはたよりにせざるをえないでいる。このことは各種かくしゅ調査ちょうさからもあきらかである。けれどすくなくとも、ケア、介助かいじょという行為こういに、つねなにちかしい関係かんけい、また「ふれあい」がもとめられているのだとあらかじ前提ぜんていするならそれはちがう。
 「たとえば、ディズニーランドにくことがボランティアと一緒いっしょあそぶということなら、ボランティアはそのひととの関係かんけいがおもしろいだろうし、ボランティアされているひともおもしろいかもしれない。けれども、自分じぶんしたしいひととそこにく、しかしそのしたしいひとべつ介助かいじょしゃ必要ひつようだというときには、その介助かいじょしゃはできるだけ無色むしょく透明とうめいであるほうがよい。そういうことをわかったうえでそれをボランティアとして自然しぜんおこなえる、人間にんげんのできたひともいるかもしれない。しかしこれはなかなかにむずかしいことではある。」([1996:134])★07
 「介助かいじょしゃとの関係かんけいたいするかんがかたいちとおりではない。介助かいじょという関係かんけいひとひとのつながりをもとめるひともいる。とくひととのつきあいを介助かいじょしゃとの関係かんけい以外いがいにあまりもとめられないひとおおい。しかし、人間にんげん関係かんけいほかにも様々さまざまにあるひと場合ばあいちがう。このことにわたしたちはあまりおもいたらないかもしれないが、すこしでもかんがえてみれば当然とうぜんのことだ。一人ひとりでいられる時間じかんひと関係かんけいする時間じかんがあって生活せいかつっていく。つきあいたいひと、つきあわねばならないひととつきあってかえってきたとき介助かいじょ必要ひつようだから介助かいじょしゃちかくにいることはけられないが、その時間じかんわきにいてひかえていてほしい。介助かいじょ過剰かじょう意味いみめてもらってはこまるのだ。このときには、介助かいじょという仕事しごと地味じみ仕事しごとで、コミュニケーションや自己じこ実現じつげん性急せいきゅうもとめられても、それはかなわない。おもれだけではやっていけない。」([1995a:134])
 「(一人暮ひとりぐらしをはじめるまえに)すで家族かぞくとの関係かんけい疎遠そえんになっている場合ばあいおおきな変化へんかはないが、家族かぞくとの生活せいかつのち介助かいじょをめぐる状況じょうきょう悪化あっかされるというかたちでなく、家族かぞくからはなれることができた場合ばあいには、かえって、家族かぞくとの関係かんけいが、以前いぜんとはちがった良好りょうこう関係かんけいとしてふたた構築こうちくされているれいがいくつもあった。」(杉原すぎはら[1996:262])

4.有償ゆうしょう無償むしょうをめぐる利益りえき不利益ふりえき

 利益りえき不利益ふりえきという言葉ことばわたしたち安易あんい使つかうが、なんくらべて、どういう基準きじゅん不利益ふりえきであるのかをはっきりさせながらこのことをかんがえなくてはならない。家族かぞくに(無償むしょうで)になわせることによって、その家族かぞく実際じっさいはそのなか女性じょせい)がそんをし、だれかが(しかしだれが?)とくをしているという言説げんせつたとえば「マルクス主義まるくすしゅぎフェミニズム」とうからはっせられる。だが、すこ検討けんとうしてみると、そのおおくが随分ずいぶん不用意ふよういなものであることがわかる。ただここでは詳述しょうじゅつできない★08。その一部いちぶをとりあげる。
 現状げんじょうとしては、おとこかせいで(仕事しごとはしないで)おんな家族かぞく面倒めんどうをみる、またボランティア活動かつどうをする(若干じゃっかん支払しはらいがある場合ばあいもある)。これについてはいろいろわれているが、十分じゅうぶん議論ぎろんはされていない。なんだかへんかんじがするが、どこがどうへんなのか、どうすればよいのか。費用ひよう社会しゃかいてき負担ふたんして有償ゆうしょうする場合ばあい比較ひかくしてみるとどうか。べつ稿こうべたことを、そこでもちいたはぶいて、ほぼそのまま紹介しょうかいする。
 αあるふぁいま、この社会しゃかい存在そんざいする無償むしょう行為こうい有償ゆうしょう行為こういおおきな分割ぶんかつ家族かぞく成員せいいんあいだでの分業ぶんぎょう性別せいべつ分業ぶんぎょうとしてある。無償むしょう行為こういがなぜ成立せいりつするかといえば家族かぞくないでおかね分配ぶんぱいされるからである。つま無償むしょう仕事しごとをする。おっとかせいできたおかねつま使つかう。
 βべーた:このような労働ろうどう分業ぶんぎょう編成へんせいえないでサービスを無償むしょう部分ぶぶんゆだねるなら、家族かぞくなかおこなわれていたことがおな成員せいいんによる地域ちいきでの扶助ふじょというかたちうつされる。つまり主婦しゅふのボランティアである。直接ちょくせつ家族かぞく家族かぞくのためのサービスをおこなうのではないが、やはりその無償むしょう行為こうい提供ていきょうしゃおおくはつま)は、家族かぞくほか成員せいいんおおくはおっと)のかせぎで消費しょうひ生活せいかつおこなうことになる。学生がくせい無償むしょう提供ていきょうしゃでありうるのも大抵たいていおや生活せいかつ援助えんじょしているからだ。つまり、家庭かていない分業ぶんぎょう自体じたいのこり、有償ゆうしょう無償むしょう仕事しごとおこなひと以前いぜんおなじんである。家族かぞくなかだれか(つま)がおこない、そのだれかの生活せいかつ家族かぞくほかだれか(おっとおや)がささえるという構造こうぞうすこしもわっていない。とう家族かぞく以外いがい援助えんじょおこなてんだけがちがう。そして、無償むしょういながら、じつ間接かんせつてきにその無償むしょう行為こうい可能かのうにしている有償ゆうしょう仕事しごとをするひとひかえており、そのひとから給料きゅうりょうというかたちではないにせよおかねってはいる。
 βべーた特定とくてい時期じき特定とくてい家族かぞく負担ふたん集中しゅうちゅうするαあるふぁよりは、負担ふたん分散ぶんさんできるてんにはかなっている。しかしβべーたも、個々ここ家族かぞく状況じょうきょうたとえば2人ふたりぶん以上いじょうかせいでこれるひとがいるかといった事情じじょう左右さゆうされるのはαあるふぁおなじだ。
 さらに生活せいかつひととその生活せいかつらしながらそのサービスに従事じゅうじするひととのわせが家族かぞくなかたとえばおっとつま)にじられざるをえないことは、両者りょうしゃ自由じゆう制約せいやくし、相互そうご依存いぞん関係かんけい自由じゆう制約せいやくし、どちらか一方いっぽう他方たほうへの依存いぞん支配しはい従属じゅうぞく条件じょうけんとなりうる。このわせがあること自体じたいわるいというのではない。このわせのなかでも満足まんぞくし、平等びょうどうだとかんじることはありうるのだから。しかし、このわせから容易よういられないように社会しゃかいてられているなら(実際じっさいてられている)、それは支配しはい従属じゅうぞく可能かのうせい現実げんじつ構造こうぞうてきしているのだから、問題もんだいだ。2人ふたりくみたい関係かんけいがあることと、このかたちでなければ(3にんふくめて)きていけないようになっていることとはべつのことだ。むしろ後者こうしゃは、たとえば形式けいしきてき関係かんけい解消かいしょう困難こんなんにすることによってぎゃくに、人間にんげん関係かんけい実質じっしつ破壊はかいしうる。
 そしてαあるふぁβべーたとも「ただ」とってもみかけじょうのことにすぎない。無償むしょう仕事しごとをしながら生活せいかつするつま生活せいかつ可能かのうにするために、その仕事しごとたいする対価たいかとしてではないにしても、おっと支払しはらっている。
 それを有償ゆうしょうしてなに経済けいざいてき不都合ふつごうがあるだろうか。ここには、はらぶんそんするだろうという、単純たんじゅんな、しかしかなりひろ範囲はんいわたっている誤解ごかいがある。国民こくみんの「負担ふたんりつ」をめぐる一見いっけんもっともらしい議論ぎろんも、それに説得せっとくされてしまうのも、だい部分ぶぶん、こうした感覚かんかくもとづいている。だが有償ゆうしょうとは、まずは、ひともいるが、ひともいて(そしてこの両者りょうしゃべつひととはかぎらない)、きはゼロというだけのことである。個々ここへの配分はいぶん割合わりあいわり、現状げんじょうより負担ふたんえるひともいるが、ぎゃくひともおり、合計ごうけいすればおなじだ。この仕事しごとたいして配分はいぶんされたおかねは、それをったひとによる消費しょうひにまわるのだから、生産せいさん消費しょうひがこのことによってることはない。
 ぜん社会しゃかいてき負担ふたんするときには、そのおっと(だけでなく負担ふたんできるひとすべて)が負担ふたんし、それがサービスするひとはらわれる。こちらのほうが、家族かぞくなか有償ゆうしょう無償むしょうとをわせる方法ほうほうくらべ、権利けんり公正こうせい保障ほしょうができる。
 ならば、βべーた(そしてそれとさほどちがわない主婦しゅふの「有償ゆうしょうボランティア」)を、採用さいようすべき基本きほんてきな「システム」として支持しじすることはできない。
 このような無償むしょう有償ゆうしょう分業ぶんぎょう家庭かていがい拡大かくだいすることは不可能ふかのうではない。つまりは、ボランティアの生活せいかつ家族かぞくでないほかひとささえるということである。これは個々ここ家族かぞく経済けいざい状態じょうたい左右さゆうされるよりは合理ごうりてきかたちだ。だが、それは結局けっきょく活動かつどうするひとにおかね分配ぶんぱいすることになり、有償ゆうしょうかたち統一とういつするのと結果けっかてきわらない。
 とすると、そのひと自身じしんによる無償むしょう活動かつどうえるのは、おなじん一方いっぽうでは有給ゆうきゅう仕事しごとをし、べつ時間じかん無償むしょう活動かつどう従事じゅうじする場合ばあいだけである。それですべてがうまくいくなら、それでよい。だがうまくいくだろうか。(以上いじょう[1995a:237-240])
 うまくいかないことを[1995a]でべた。ボランティアの理念りねん意義いぎはおおいにかたられてよいし、以上いじょうはボランティアの否定ひていをまったく意味いみしない。ただ、検討けんとうされるべきはこのことだけではないということである。以上いじょうからつぎのようなこともえる。
 だいいちに、うえのように損得そんとくきが全体ぜんたいとしてゼロだとえるのは、供給きょうきゅうされるサービスの水準すいじゅんわらない場合ばあいである。別言べつげんすれば、社会しゃかいてき負担ふたん移行いこうすることによってそのサービスの増加ぞうか見込みこまれるなら、それと比較ひかくした場合ばあい現状げんじょうから不利益ふりえきこうむっているのはひく水準すいじゅんさえられている利用りようしゃであり、利益りえきているのは負担ふたんしゃである★09。
 だいに、介助かいじょかかわる負担ふたんだけをかんがえるなら、現状げんじょうとくをしているのは、(損得そんとく有無うむ損得そんとく度合どあいは、ぜい徴収ちょうしゅう制度せいどのありかたとうによってわってくるのだが、大雑把おおざっぱって)介助かいじょしない(介助かいじょされるじんがいない)にん家族かぞく、その負担ふたん社会しゃかいてき平均へいきん以下いかひと家族かぞく他人たにんぶん負担ふたんせずにむことによって税金ぜいきんなら税金ぜいきんやすくてんでいるひと家族かぞくであり、これらの人達ひとたち社会しゃかいてき負担ふたん移行いこうすることによって(「他人たにん」(の家族かぞく)」にかかわる負担ふたんうことによって)そんをすることになる。こうして、不利益ふりえきけているのは、不払ふばらいで家事かじおこなう、ひと世話せわをするひと家族かぞくすべてではない。この利益りえき不利益ふりえきは、家族かぞく単位たんいとして権利けんり義務ぎむ設定せっていされていること(2.)からしょうじている。家族かぞくあるいは女性じょせい全般ぜんぱん不利益ふりえきこうむっているとかんがえてしまうひとは、社会しゃかいてき負担ふたんとする場合ばあいも、その社会しゃかい成員せいいんである一人ひとりいちにん負担ふたん継続けいぞくするという至極しごく当然とうぜんのことを十分じゅうぶんまえていない。
 ただ、介助かいじょ必要ひつようおおくの場合ばあい人生じんせい一時期いちじき集中しゅうちゅうてきあらわれ、それを特定とくていひとになわねばならないことによって、社会しゃかいてき活動かつどう停止ていしせざるをえないといったことがこる。これは労働ろうどうりょく利用りようほうとして効率こうりつてきであるとはえない。
 また、介助かいじょ必要ひつようは(かなりたかい)可能かのうせいしょうずる。しかもしょうじない可能かのうせいあらかじめわからない。「社会しゃかい」を、いざというときのための保険ほけんのようなものだとかんがえることもできる。一生いっしょう介助かいじょける必要ひつようがない場合ばあいもあるかもしれないが、それはそれでうんかったということである。てたおかね使つかえずにそんをしたとはおもわないだろう。ての保険ほけんのようなものだ。自分じぶんのためにたくわえ、使つかわずあるいは使つかのこしてんだら無駄むだになるが、保険ほけんのシステムでは自分じぶんでないにしてもだれかが使つかうことになり、そのぶん自分じぶん自分じぶんのために貯金ちょきんするがくよりも保険ほけんりょうやすくてすむ。「たすう」「ささう」のは自分じぶんのためになる。「互酬」という言葉ことば使つかわれることもある。そしてこの場合ばあいに、単位たんいおおきくとることは効率こうりつてき選択せんたくではない。家族かぞくという単位たんいちいさな保険ほけん会社かいしゃかんがえることができるが、単位たんいとしてちいさすぎるのであり、この範囲はんい拡大かくだいすることはこの保険ほけんシステムの安定あんていせいをもたらす。このように、他人たにんのためではなく結局けっきょく自分じぶんのためだといういいかたもできるし、実際じっさい頻繁ひんぱんになされる。これがかなり説得せっとくりょくがあることはみとめる。しかし、これは未来みらい確定かくていせいうえっている。民間みんかん保険ほけんかんがえればよい。はらもどしがおおひと加入かにゅうみとめる保険ほけん保険ほけんりょう高額こうがくになるから、保険ほけんりょうやすほうがよいとおもひとすで病気びょうき障害しょうがいっているひと加入かにゅうする保険ほけん加入かにゅうしないだろう。まれるまえまれたのちのことはわからないとうかもしれない。しかしたとえば遺伝子いでんし検査けんさによって将来しょうらい病気びょうきにかかるかくりつたかひとがわかるようになったとしよう。そのひと(あるいはそのおや)は、保険ほけんへの加入かにゅうことわられるか、しの保険ほけんりょうはらわねばならなくなる。(この段落だんらくは[1995a:230-231])
 以上いじょうまえたうえでどうかんがえるか。これは損得そんとく勘定かんじょう自体じたいからはてこない。だいいちてんについて、負担ふたん増加ぞうかみとめるとしよう。だいてんに、かりに「リスク」がわかっている場合ばあいでも加入かにゅう拒否きょひしないとしよう。とするなら、ひとはよくきていく権利けんりがある、おなじことをいいかえれば、そのようにきていくことを支援しえんする義務ぎむ人々ひとびとにはあるということである。その義務ぎむをそのひと家族かぞく家族かぞくでないひととはおなじにう。これが原則げんそくとなる。そのうえで、この方法ほうほうが、大抵たいていひとにとって十分じゅうぶん効率こうりつてき合理ごうりてきであるという主張しゅちょうをすることになる。
 この原則げんそく自体じたいはまったく単純たんじゅんなものである。ただ、社会しゃかい原則げんそく(だけ)でうごくわけではない。当然とうぜん利害りがいからむ。また効果こうかてき効率こうりつてきであるということはそれ自体じたいとしてはすこしもわるいことではなく、むしろより効果こうかてきであるほうがよいのだから、合理ごうりせい効率こうりつせいという観点かんてんはぶくことはない。このようにかんがえていくなら、各種かくしゅ現状げんじょう批判ひはん言説げんせつ改革かいかく正当せいとう言説げんせつなかに、そのままにれられない、損得そんとく計算けいさん仕方しかた間違まちがっているものが数多かずおおくあることに気付きづく。と同時どうじに、効率こうりつせいにどれだけの意味いみをもたせるのか、たとえば「互助ごじょ」といういいかただけで主張しゅちょうしていってよいのか、はっきりさせる必要ひつようがある。★10

5.かわりに

 どうすればよいか。必要ひつようなことは、非常ひじょうめてではあるが[1995a]とうべた。
 サービスは基本きほんてき有償ゆうしょうとし、税金ぜいきんとうさい分配ぶんぱいとしてその資源しげん提供ていきょうされることがまず選択せんたくされるべきだとかんがえる。政府せいふ費用ひようあつ配分はいぶんする主体しゅたいとしての役割やくわりたす。
 だいいちに、有料ゆうりょうしないと必要ひつような「りょう」をられないからである。だいに、契約けいやく関係かんけいにすることで、ときたよりなくとき独善どくぜんてき相手あいて左右さゆうされず、自分じぶん要求ようきゅうをはっきり主張しゅちょうし、「しつ」を確保かくほするためである。だがそれだけでもない。だいさん理由りゆうは、「負担ふたん」のありかた、「おおやけわたし」の関係かんけいのありかた関係かんけいする。サービスをおこなう負担ふたんだれもとめるか。直接ちょくせつ提供ていきょうしゃにか。つまりそのひとを「ボランティア」とするのか。あるいは自己じこ負担ふたん家族かぞく負担ふたんか。いずれでもなく、社会しゃかい全体ぜんたいがこれをになうべきだとかんがえる。それは、負担ふたんできるひとすべてに負担ふたん義務ぎむづけ、強制きょうせいすることを意味いみする。ただ、社会しゃかいすべてのひと直接ちょくせつ参加さんかすることはのぞめないし、それを強制きょうせいするわけにもいかないなら、実際じっさい可能かのうなのは、税金ぜいきんとうのかたちで負担ふたんさせることである。とすると、直接的ちょくせつてき参加さんかへの回路かいろひらいておくと同時どうじに、またひらいておくためにも、負担ふたんできるもの税金ぜいきん保険ほけんりょう負担ふたんし、それがサービスの提供ていきょうたいする対価たいかとして支払しはらわれるのがもっと合理ごうりてきであり、また義務ぎむとして負担ふたんせる(強制きょうせいできる)のは政治せいじてき決定けっていかいした場合ばあいだけである。これが社会しゃかい全体ぜんたいによる支援しえん実現じつげん仕方しかたとして採用さいようされる。だからここで、有償ゆうしょうとは自己じこ負担ふたんのことではない。実際じっさいにサービスを提供ていきょうするひとがいて、そのひとをさらにべつ人達ひとたちささえる。(無償むしょう行為こういおこな家族かぞくかねかせいでくる家族かぞくささえるという関係かんけいにもこれを縮小しゅくしょうしたかたちがあるにはある。しかし、それが合理ごうりてきであるとえないことは4.でべた。また、義務ぎむ家族かぞくなかじられることに正当せいとうせいがないことは2.でべた。)実際じっさいにはすべてのひとがサービスの提供ていきょうかかわらないとしても、すべてのひと権利けんり擁護ようごする義務ぎむたす。だからここには負担ふたん一方いっぽうてきけはない。きる権利けんりみとめるとは、このようにすべてのひと義務ぎむうことだとかんがえるなら、むしろこちらがえらばれてよい。
 上述じょうじゅつした立場たちば場合ばあい通常つうじょう、その実際じっさい供給きょうきゅう担当たんとうする主体しゅたいとしても政府せいふ指定していされる。ここがよく間違まちがえられるところである。資源しげんだれすかということと、だれがサービス供給きょうきゅうたずさわるかとはべつのことだ。社会しゃかいてき負担ふたん主張しゅちょうすることは、政府せいふがサービスの提供ていきょうまで直接ちょくせつ担当たんとうすることを意味いみしない。つぎに、供給きょうきゅう主体しゅたいべつにすることをなぜ主張しゅちょうするか。理由りゆう単純たんじゅんで、利用りようしゃにとってよいサービスがよいサービスだということである。だれからどのようなサービスをるかにかかわる決定けってい利用りようしゃゆだねられるべきだとかんがえる。つまり資源しげん供給きょうきゅうとサービス(の提供ていきょうしゃ)についての決定けってい分離ぶんりし、前者ぜんしゃ政治せいじてきさい分配ぶんぱいによって確保かくほし、後者こうしゃ当事とうじしゃ利用りようしゃゆだねればよい。しかし、個人こじん単独たんどく供給きょうきゅうされた資源しげん利用りようし、サービスを利用りようすることはむずかしい。ならば、そこに組織そしき介在かいざいすればよい。しかしその組織そしきとして行政ぎょうせい機関きかんかならずしも適任てきにんとはえない。★11
 だいいちに、政府せいふはその行政ぎょうせい区域くいきについてつね単一たんいつ主体しゅたいであるため、競争きょうそうはたらかない。利用りようしゃにとっては選択肢せんたくし存在そんざいしない。
 だいに、市民しみん直接的ちょくせつてき参加さんかむずかしい。活動かつどう従事じゅうじするひと非常勤ひじょうきん公務員こうむいんとして登録とうろくするというもある。しかしそれでは、サービス提供ていきょうのありがた企画きかく決定けっていまで市民しみんになうことはできないだろう。
 だいさんに、市民しみん参加さんか、というよりむしろ利用りようしゃの(そしてその代弁だいべんしゃの)参加さんかもとめられる。価格かかくメカニズムがうまくはたらくなら、供給きょうきゅうしゃサイドにゆだねておいてもよいかもしれない。供給きょうきゅうしゃはその製品せいひんってほしければ、品質ひんしつ等々とうとうをつかい、消費しょうひしゃれられるものを供給きょうきゅうしようとするだろうから。すべての商品しょうひんについて、消費しょうひしゃがそれを管理かんりするのは大変たいへんなことだが、それをしないでんでいるのはこういう事情じじょうがあるからだ。しかしだいいちに、一定いっていのサービスにたいして定額ていがくせいのシステムが採用さいようされる場合ばあいには、価格かかくメカニズムははたらかない。また、価格かかく上乗うわのぶん自己じこ負担ふたんになるといった場合ばあいかんがえるなら、価格かかくによってしつ制御せいぎょすればよいともえない。(供給きょうきゅうしゃ利用りようしゃ利害りがい対立たいりつして当然とうぜんである、というか、対立たいりつしうるというところからかんがえ、そのうえでそれをどうするかをかんがえていかないと、結局けっきょく供給きょうきゅうしゃがわ利害りがいによって利用りようしゃがわもとめているものをられないことになってしまう。このことが、「ふれあい」とか「たすい」とか、われかれ差異さいをうやむやにしてしまう言葉ことば使つかわれ、「ケア」というかたりもちいられるなか曖昧あいまいにされてはならないとかんがえる。cf.[1996c][1996e][1997a][1997b])
 このような場合ばあい利用りようしゃちか組織そしき、あるいは利用りようしゃ自身じしんがコントロールできる組織そしきがサービスの供給きょうきゅうおこなうという方法ほうほうひとつある。障害しょうがい当事とうじしゃ主体しゅたいとする「自立じりつ生活せいかつセンター」がそうした活動かつどうおこなっており、うまくいっているところ(介助かいじょ費用ひようかかわる制度せいど相対そうたいてきにととのっているところ)では質量しつりょうともにこれまでにない水準すいじゅんのサービスを提供ていきょうしえている([1995b])。★12

ちゅう

★01 この文章ぶんしょうおおくの部分ぶぶん以前いぜんいたものからの引用いんようや、その要約ようやくである。千葉大学ちばだいがく文学部ぶんがくぶ社会しゃかいがく研究けんきゅうしつ[1996]のなかづけろんとしていたいくつかの文章ぶんしょうもちいた部分ぶぶんおおいが、それらの文章ぶんしょう自体じたい過去かこいたものの要約ようやくてき性格せいかくつものなので、この場合ばあい出典しゅってんはいちいちしるさない。についてはしるす。煩雑はんざつなので、わたしたんちょ文章ぶんしょうは[1990]のように著者ちょしゃめいはぶいてしるすことにする。なお、そのいくつかは入手にゅうしゅするのが面倒めんどうだとおもう。ホームページhttp://alps.shinshu-u.ac.jp/ITAN/GED/TATEIWA/1.htmでむ(む)ことができる。また書店しょてんえないほん、またやすいたいほんについて、注文ちゅうもんくださればおおくりする。問合といあわせは 390 松本まつもと蟻ケ崎ありがさき1892-4 fax 0263-39-2141 NIFTY-Serve ID:TAE01303,internet ID:tateiwa@gipac.shinshu-u.ac.jp 立岩たついわまで。*
 *HP・連絡れんらくさきとう変更へんこう現在げんざいのHPはhttp://www.arsvi.com
★02 障害しょうがいしゃ運動うんどうなかでは、言葉ことばとして「介護かいご」より「介助かいじょ」が優先ゆうせんされることがある。また「ケア」より「パーソナル・アシスタンス」といった言葉ことば使つかわれることがある。
★03 正確せいかくには、まず自分じぶんでやりなさい、駄目だめだったら家族かぞくがやりなさい、それでも駄目だめだったら政府せいふ担当たんとうしますという順序じゅんじょになっている。本稿ほんこうだい番目ばんめだいさん番目ばんめ順序じゅんじょかた問題もんだいにしているのだが、もちろん、だいいち番目ばんめをどうかんがえるかが最初さいしょ問題もんだいである。このことについていくつかの文章ぶんしょういてきたが、立岩たていわ[1997b]にまとめた。
★04 「愛情あいじょうからおこなう」ことがあるかもしれない。しかしこのことと「愛情あいじょうがあるならおこなうべきだ」とすることとはべつのことである。[1991][1992][1996b]でべた。
★05 もちろんこれはだい原則げんそくだから、実際じっさい変更へんこうするのはむずかしい。より現実げんじつてき?なアイデアとして、障害しょうがいしゃがわから「扶養ふよう義務ぎむ定年ていねんせい」という提案ていあんがある。これはおもしろいとおもう。もちろん民法みんぽう改正かいせいなどそう簡単かんたんにできないことだが、手段しゅだん使つかっても現実げんじつをそこにちかづけることはできる。
★06 同居どうきょしつつ家族かぞく介助かいじょないという場合ばあいがあるから、この言葉ことばかならずしも正確せいかくではない。ただ、生活せいかつ保護ほご受給じゅきゅうけん問題もんだいもありかれらのおおくは実際じっさいいえる。
★07 このあたりについては岡原おかはら[1990a][1990b]も参照さんしょうのこと。
★08 [1994a][1994b]で検討けんとうした。女性じょせい男性だんせい比較ひかくして、市場いちばはたらくことがすくなく、かせぎがすくない。なぜこんなことになっているのか。こうすることによって女性じょせい以外いがいだれかが(だれもが)とくしているのだという見方みかたがある。しかしかんがえてみるとそう簡単かんたんえない。
 まず女性じょせい労働ろうどう市場いちばにおいて差別さべつする(労働ろうどう能力のうりょく無関係むかんけい性別せいべつという属性ぞくせいによって不利益ふりえきあたえることをここでは差別さべつう)ことによって、市場いちば資本しほんそして消費しょうひしゃ)は利益りえきない。だいいちに、労働ろうどう市場いちばからのしは可能かのう労働ろうどう供給きょうきゅうりょうらすから、労働ろうどう購入こうにゅうしようとするがわにとっては不利ふりである。また賃金ちんぎんとう格差かくさもうけることも、じつ利益りえきにならない。たとえば、同一どういつ労働ろうどうたか賃金ちんぎんひく賃金ちんぎん設定せっていするのと一律いちりつ両者りょうしゃ平均へいきん設定せっていする場合ばあいとを比較ひかくしてみればよい。他方たほう男性だんせい労働ろうどうしゃあきらかに(不当ふとうな)利益りえきている。しかし、おっとつま賃金ちんぎん家庭かていない合算がっさんされるなら、その家計かけい総体そうたいをみた場合ばあい、やはり経済けいざいてき利益りえきはない。(これらについては[1994b]でもっとくわしくろんじた。)
 女性じょせい家事かじをやらせるためだというかんがかたがある。しかし、そのようにもかんがえられない。たとえば、「専業せんぎょう主婦しゅふ」のまえ女性じょせい家事かじ労働ろうどうになうとともにいわゆる生産せいさん活動かつどうにも従事じゅうじしていたのだが、そこから撤退てったいさせることが利益りえきになるだろうかと単純たんじゅんかんがえてみてもよい。「不払ふばら労働ろうどう」といういいかたで、女性じょせいかれている状況じょうきょう不当ふとうせいと、男性だんせい資本しほん国家こっかがわている(不当ふとうな)利益りえき主張しゅちょうがあるが、これもめてかんがえていくと妥当だとうせいうたがわしい。ここではくわしく論証ろんしょうできないが、ひとまず以下いかのようなことを指摘してきしておこう。だいいちに、サービスの対価たいかだれもとめるべきかというてんをよくかんがえる必要ひつようがある(たとえば育児いくじ労働ろうどう対価たいか全額ぜんがくおっともとめることは、つま育児いくじかかわる負担ふたん主体しゅたいでなくなることを意味いみする)。だいに、たしかに主婦しゅふ労働ろうどうたいする支払しはらいはおこなわれていないが、主婦しゅふはともかくもその生活せいかつている。だいさんに、いえなかはたらかせるという要素ようそだけでなく、いえそとでははたらかないという要素ようそかんがえにれる必要ひつようがある。
 たしかに(子供こどもの、そして大人おとなの)ケアの仕事しごとは、すくなくとも一時期いちじきについては相当そうとう時間じかんをとられる。しかしそのために、それ専用せんよう要員よういんとして女性じょせい家族かぞく用意よういしておく(用意よういしてその生活せいかつをともかくも保障ほしょうする)ことにどれほどのメリットがあるだろうか。それが社会しゃかいてきに(すなわち家族かぞくがい人々ひとびとにとって)効率こうりつてきであるという証拠しょうこはなく、むしろ、効率こうりつてきでないとみるほう妥当だとうだとかんがえる。そしてこのことは、つま家事かじをやらせている(やってもらっている)おっとについてもえる。
 歴史れきしてきにみたとき、「専業せんぎょう主婦しゅふ」は、おっといちにんでも家計かけい維持いじしていけること、つまはたらかなくてもすむこと自体じたいが、とう家族かぞく家計かけい余裕よゆうしめし、みずからの位置いちたかめることであるとされたことによるものとかんがえられる。経済けいざいてき合理ごうりせい観点かんてん労働ろうどう配分はいぶん合理ごうりせい観点かんてんかられば無駄むだであり、ある場合ばあいにはやせ我慢がまんであることを人々ひとびとはあえてったのである。すなわち、この社会しゃかい存在そんざいする事態じたいは、資本しほん市場いちばがわからの要請ようせいではない。また、すくなくとも家庭かていないだけを家計かけい一体いったいせいかんがえ、生活せいかつ水準すいじゅんだけを場合ばあいに、おっと利益りえきているのでもないということになる。
 ただし、このようにべることは、ここに女性じょせい男性だんせいへの従属じゅうぞく存在そんざいしないということを意味いみしない。労働ろうどう市場いちば内部ないぶで、あるいは労働ろうどう市場いちば内側うちがわ外側そとがわとの境界きょうかいで、男性だんせい労働ろうどうしゃ不当ふとう利益りえきていることはうえべた。たしかに家計かけいとしてはおっとつま収入しゅうにゅう合算がっさんされ、両者りょうしゃたとえば20まんえんずつと30まんえん+10まんえん、40まんえん+0とでは総額そうがくおなじにはなる。ただ、この関係かんけいにおいて、つま生計せいけいおっと依存いぞんすることによって、従属じゅうぞくてき立場たちばかれうる――つねにそれが顕在けんざいするというわけではないのだが。
 つまり、西欧せいおうでは19世紀せいき以降いこう日本にっぽんではおも戦後せんごあらわれ、いま衰退すいたいしつつあるともえよう専業せんぎょう主婦しゅふというひとつの歴史れきしてき過程かていがあり、それと同時どうじに(そのなかに)――労働ろうどう不当ふとうやすいたたいているというのではない――男性だんせいによる女性じょせい支配しはい格差かくさ保持ほじがある。もちろん、パートタイム労働ろうどう、「兼業けんぎょう主婦しゅふ」が広範こうはん存在そんざいするわけで、これについてはべつかんがえるべき要素ようそてくる。ただ、以上いじょうべた部分ぶぶんについては、基本きほんてき論点ろんてんうごかない。(以上いじょうについて[1994a])
★09 「介助かいじょといった活動かつどうすくなくとも一定いってい部分ぶぶんは、直接ちょくせつには生産せいさん維持いじ拡大かくだいむすびつかない。労働ろうどうなり設備せつびへの投下とうかつぎ生産せいさん拡大かくだいむすびつく分野ぶんやまわることによって経済けいざい成長せいちょうする。有償ゆうしょうすれば、労働ろうどう(サービス)がよりおお有償ゆうしょうされた領域りょういきけられことになる。つまり、成長せいちょうをもたらす部門ぶもん集中しゅうちゅうてき労働ろうどうざい投下とうかされた結果けっか介助かいじょなどの「たんに」生活せいかつ維持いじするための活動かつどうめられたのだとかんがえることができる。
 もちろん、だいいちに、サービスが提供ていきょうされることによってサービスを利用りようするひと生産せいさん活動かつどう従事じゅうじできるようになる場合ばあいがあるだろう。だいに、人生じんせいのある期間きかん介助かいじょとう忙殺ぼうさつされる一方いっぽう、その前後ぜんごふくしょくくことができなかったひとが、その活動かつどう社会しゃかいによって、職業しょくぎょう従事じゅうじできる、つづけられるようになる場合ばあいがあるだろう。これらをかんがえれば事情じじょうはかなりわってくる。じつは、「生産せいさん」にとっても、有償ゆうしょう社会しゃかい効果こうかてきなのだというる可能かのうせいがある。
 このことは見逃みのがすべきではない。だがそれと同時どうじに、わたしたちは、すくなくとも現在げんざい生産せいさん拡大かくだいが――それがやがて人々ひとびと生活せいかつ全般ぜんぱん向上こうじょう寄与きよするのだという主張しゅちょう(だからいま我慢がまんしたほうがよいという主張しゅちょう)もいたじょうでも――いま生活せいかつ犠牲ぎせいにしても獲得かくとくしなくてはならないほどのものなのか、といういに直接ちょくせつこたえてもよい。我慢がまんしてやすことより、いま一人ひとりいちにん生活せいかつ大切たいせつにしてよいし、またそれが可能かのうなところにわたしたちているのだとかんがえる。わたしたちは、かたちのあるもの、かたちのこるもの、そしてその増殖ぞうしょくたいする欲望よくぼう、むしろかたちのないもの、かたちなくえてしまうものにたいする恐怖きょうふのもとにきてきたのだが、ただなにのためということもなくきていることを肯定こうていすること、あるいはそれをれること、それをえることをえらんでよいのだとおもう。」([1995a:237-238])
 かえすが、「国民こくみん負担ふたんりつ」の高低こうていとサービスの水準すいじゅん労働ろうどうりょく配分はいぶん問題もんだいとは、関連かんれんするけれども、まずはけてかんがえたほうがよい。そのうえでなお上記じょうきしたことがのこる。所有しょゆう配分はいぶんという主題しゅだいについて、基本きほんてきなことは[1997b]にしるした。
★10 「保険ほけん」という発想はっそう(とその限界げんかい)については[1997b]だいしょうせつ考察こうさつした。
★11 以下いか、よりくわしくは、政府せいふ営利えいり企業きぎょうとNPO=営利えいり(+政府せいふ組織そしき性格せいかくについて検討けんとうした立岩たていわ成井なるい[1996]。またNPOの法的ほうてき位置いちづけのありかたふくめて[1996d]。
★12 もちろん、民間みんかん組織そしき必要ひつよう全体ぜんたいおおえない場合ばあいにどのように対応たいおうすべきかといった問題もんだいのこる。(これにたいする基本きほんてき回答かいとう以上いじょうから可能かのうである。使つかえないおかね供給きょうきゅうしても権利けんり保障ほしょうする義務ぎむたしたことにはならない。実際じっさい使つかえるものとして供給きょうきゅうされるまでが義務ぎむとして社会しゃかい(その代行だいこうしゃとしての政府せいふ)にされた範囲はんいである。ただし、この部分ぶぶんたいする民間みんかん組織そしき参画さんかくさまたげられることがあってはならない)また、実際じっさい費用ひよう供給きょうきゅうシステムをどうするか。利用りようしゃたいする現金げんきん支給しきゅうという方法ほうほうもありうるが、現物げんぶつ支給しきゅう供給きょうきゅう主体しゅたいへの費用ひよう供給きょうきゅう)とした場合ばあい実際じっさいにサービスを提供ていきょうするひとわた部分ぶぶん供給きょうきゅう媒介ばいかい組織そしきわた部分ぶぶんをどうかんがえるのか。これらの問題もんだい具体ぐたいてきなシステムをかんがえていくうえ非常ひじょう重要じゅうようである。しかし基本きほんてきには、以上いじょうべた「分業ぶんぎょう」が採用さいようされてよいはずである。
 なお以上いじょうは、もちろん家族かぞくがその行為こういになうことを否定ひていするものではなく、双方そうほう合意ごういがあれば、家族かぞくは、家族かぞくでないひとおなじに、介助かいじょという仕事しごとをする一員いちいんとして位置いちづけられる。(公的こうてき介護かいご保険ほけんめぐり、家族かぞくによる介護かいごについて保険ほけんからの支給しきゅう対象たいしょうとすべきかという議論ぎろんがある。選択肢せんたくし実際じっさい用意よういし、選択せんたく現実げんじつてき可能かのうにすることを前提ぜんていとして、みとめられるべきである。)
 制度せいど紹介しょうかいは[1995a]でもある程度ていどったが、自立じりつ生活せいかつ情報じょうほうセンター[1996]がくわしく、やくつ。種々しゅじゅ制度せいど民間みんかん活動かつどうは[1992-1996]でも紹介しょうかいし、「公的こうてき介護かいご保険ほけん」もとりあげたが、よりくわしい検討けんとうはこれから。社会しゃかいサービスのシステムの変更へんこうのありかたについてはヒューマンケア協会きょうかい地域ちいき福祉ふくし計画けいかく策定さくてい委員いいんかい[1994]も参照さんしょうされたい。「自立じりつ生活せいかつ運動うんどう」の生成せいせい展開てんかいについては[1990]。「自立じりつ生活せいかつセンター」の活動かつどう([1995b])は、この運動うんどうのさらなる展開てんかいとらえることができる。

文献ぶんけん
安積あさか 純子じゅんこ岡原おかはる 正幸まさゆき尾中おちゅう ぶん哉・立岩たついわ 也 1990 『なま技法ぎほう――いえ施設しせつらす障害しょうがいしゃ社会しゃかいがく』、藤原ふじわら書店しょてん、320p.、2500えん
―――――  1995 なま技法ぎほう――いえ施設しせつらす障害しょうがいしゃ社会しゃかいがく 増補ぞうほ改訂かいていばん藤原ふじわら書店しょてん、366p.、2900えんぜい
千葉大学ちばだいがく文学部ぶんがくぶ社会しゃかいがく研究けんきゅうしつ 1994 『障害しょうがいしゃという場所ばしょ――自立じりつ生活せいかつから社会しゃかいる』、千葉大学ちばだいがく文学部ぶんがくぶ社会しゃかいがく研究けんきゅうしつ、375p.、1200えん
売切うりきれ→ホームページ(ちゅう01)からごらんください。
―――――  1996 『NPOがえる!?――営利えいり組織そしき社会しゃかいがく』、千葉大学ちばだいがく文学部ぶんがくぶ社会しゃかいがく研究けんきゅうしつ日本にっぽんフィランソロピー協会きょうかい、366p.、1500えん
ヒューマンケア協会きょうかい地域ちいき福祉ふくし計画けいかく策定さくてい委員いいんかい 1994 『ニード中心ちゅうしん社会しゃかい政策せいさく――自立じりつ生活せいかつセンターが提唱ていしょうする福祉ふくし構造こうぞう改革かいかく』、ヒューマンケア協会きょうかい、88p.、1000えん
自立じりつ生活せいかつ情報じょうほうセンターへん 1996 『HOW TO 介護かいご保障ほしょう――障害しょうがいしゃ高齢こうれいしゃゆたかな一人暮ひとりぐらしをささえる制度せいど』、現代書館げんだいしょかん、150p.、1500えん
岡原おかはら 正幸まさゆき  1990a 「コンフリクトからの自由じゆう――介助かいじょ関係かんけい模索もさく」、安積あさか[1990:75-100]→安積あさか[1995:75-100]
―――――  1990b 「制度せいどとしての愛情あいじょう――だつ家族かぞくとは」、安積あさか[1990:121-146]→安積あさか[1995:121-146]
杉原すぎはら素子もとこ赤塚あかつか光子みつこ佐々木ささき葉子ようこ立岩たていわしん也・田中たなかあきらはやし裕信ひろのぶ三ツ木みつぎつとむいち 1996 「障害しょうがいしゃまいかたかんする研究けんきゅうだいほう)」、厚生省こうせいしょう心身しんしん障害しょうがい研究けんきゅう主任しゅにん研究けんきゅうしゃ高松たかまつ鶴吉つるきち心身しんしん障害しょうがいしゃ)の地域ちいき福祉ふくしかんする総合そうごうてき研究けんきゅう 平成へいせい年度ねんど研究けんきゅう報告ほうこくしょ』:253-263
立岩たていわ 也  1990 「はやく・ゆっくり――自立じりつ生活せいかつ運動うんどう生成せいせい展開てんかい」、安積あさかほか
[1990:165-226]→1995 安積あさか[1995:165-226]
―――――  1991 「あいについて――近代きんだい家族かぞくろん・1」、『ソシオロゴス』15:35-52
―――――  1992 「近代きんだい家族かぞく境界きょうかい――合意ごういわたしたちっている家族かぞくみちびかない」、『社会しゃかいがく評論ひょうろん』42-2:30-44
―――――  1992-1996 「自立じりつ生活せいかつ運動うんどう現在げんざい」、『季刊きかん福祉ふくし労働ろうどう』55ごうから69ごうまで連載れんさいぜん15かい
―――――  1994a 「つま家事かじ労働ろうどうおっとはいくらはらうか――家族かぞく市場いちば国家こっか境界きょうかい考察こうさつするための準備じゅんび」、『千葉大学ちばだいがく文学部ぶんがくぶ人文じんぶん研究けんきゅう』23:63-121
―――――  1994b 「労働ろうどう購入こうにゅうしゃ性差せいさべつから利益りえきていない」、『Sociology Today』5:46-56
―――――  1995a 「わたしめ、社会しゃかいささえる、のを当事とうじしゃささえる――介助かいじょシステムろん」、安積あさか[1995:227-265]
―――――  1995b 「自立じりつ生活せいかつセンターの挑戦ちょうせん」、安積あさか[1995:267-321]
―――――  1996a 「もうひとつの仕事しごと、というえかた」、千葉大学ちばだいがく文学部ぶんがくぶ社会しゃかいがく研究けんきゅうしつ[1996:134-135]
―――――  1996b 「「あい神話しんわ」について――フェミニズムの主張しゅちょう移調いちょうする」、 『信州大学医療技術短期大学しんしゅうだいがくいりょうぎじゅつたんきだいがく紀要きよう』21:115-126
―――――  1996c 「医療いりょう介入かいにゅうする社会しゃかいがく序説じょせつ」、『やまい医療いりょう社会しゃかいがく』(岩波いわなみ講座こうざ 現代げんだい社会しゃかいがく14):93-108
―――――  1996d 「社会しゃかいサービスをおこな営利えいり民間みんかん組織そしき場合ばあい――自立じりつ生活せいかつセンター(CIL)から」、じゅうしん基礎きそ研究所けんきゅうじょ平成へいせい年度ねんど市民しみん公益こうえき団体だんたい実態じったい把握はあく調査ちょうさ依託いたく調査ちょうさ結果けっか報告ほうこくしょ』(経済企画庁けいざいきかくちょう依託いたく調査ちょうさ)、pp.とくろん4-11
―――――  1996e 「だれがケアをかたっているのか」(講演こうえん)、『RSW研究けんきゅうかい 研究けんきゅう会誌かいし』19:3-27
―――――  1997a 「わたしめることのむずかしさ――空疎くうそでない自己じこ決定けっていろんのために」、『分析ぶんせき現代げんだい社会しゃかい――制度せいど身体しんたい物語ものがたり』、八千代やちよ出版しゅっぱん
―――――  1997b 私的してき所有しょゆうろん仮題かだい)、勁草書房しょぼうやく500p.、やく6000えん
立岩たていわ 也・成井なるい 正之まさゆき 1996 「(政府せいふ営利えいり組織そしき=NPO、はなにをするか」、千葉大学ちばだいがく文学部ぶんがくぶ社会しゃかいがく研究けんきゅうしつ[1996:48-60]

 Where should be "Care" Placed ?
 Tateiwa, Shinya
 信州大学医療技術短期大学しんしゅうだいがくいりょうぎじゅつたんきだいがく助教授じょきょうじゅ

……

 家族かぞく問題もんだい研究けんきゅうかい大会たいかいシンポジウム「ケアと家族かぞく――自立じりつ自己じこ実現じつげんもとめて」、
 1996ねんがつ25にち 於:明治学院大学めいじがくいんだいがく
 当日とうじつ配布はいふした印刷物いんさつぶつ表題ひょうだいは「わたしめ、社会しゃかいささえる、のを当事とうじしゃささえる」でした が、[1995a]と重複じゅうふくするので、ちょっとえてみました。
 本文ほんぶんちゅうやく40まいです。


UP:1997
介助かいじょ介護かいご  ◇家族かぞく  ◇立岩たていわ しん 
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