(Translated by https://www.hiragana.jp/)
立岩真也「『〈個〉からはじめる生命論』・2」
前々回に『現代思想』2月号特集「医療崩壊――生命をめぐるエコノミー」を、前回に同じ雑誌の3月号特集「患者学――生存の技法」を取り上げた。すくなくとも私の周囲ではとても好評。なくなりきってはいないようだから、まだの人は買ったらよいと思う。
さてその前、加藤秀一の『〈個〉からはじめる生命論』を取り上げて途中になっているのだった。その本は、生かす/殺すを巡る線引きについて考えている。
誰かが(例えば私が)「呼びかける」その相手が〈誰か〉であり、その生存を奪ってならない存在だと、加藤は言う。
1)すると、相手を思ったり思わなかったりする人の恣意に、その相手の運命を委ねることになるのではないかという疑問が生ずる。
その疑問に加藤は答えているのだった。その部分を2月号に引用した。<誰か>であるかないかは好き嫌いといった水準にあるのではないとされた。このことによって、嫌われている人、好悪の対象にならない人たちが尊重の対象から外されることを防ぐことになる。こうして、排除されない存在の範囲が広がることになる。
2)次に、加藤は呼びかけへの反応を必須としない。呼びかけに応える可能性を期待して呼びかけるという大庭健の議論を批判し、呼びかけるだけでよいと言う。実際、すくなくとも通常の意味合いでの応答はないことはよくある。この本では脳死者が取り上げられるが、他に、骨に呼びかけることがある。亡くなってずいぶん経った人を抱いて、呼びかける人がいる。不在の存在に呼びかけることもある。そしてそれは真摯なことであったりもする。それもありだろう、と思える。ここでも、<誰か>在の範囲は広がることになる。
なるほどと思う。ただこれでよいのか、うまくいくのかという気もする。そこで考えてみる。
◇◇◇
1)について。ある存在に内在する価値というより、ある存在に対する側の判断や感覚の重きが置かれてよしとする立場がある。「相互性」「関係性」といった言われ方もし、両者のどちらが優位ということではないとも言われるが、それでも、相手を見る側、相手を遇する側、主観・主体としての人間の比重は高くなっている。世界は共同主観的に構築された世界であるというのが、例えば社会学のというだけでなく、人々の常識ともなっているものの考え方だから、この見方にわりあい抵抗はない。
そして、こんな感覚とも関わって、人々の関係や感情と別に存在する「道徳律」といったものをどうも信じ難いという気持ちがある。それで「ケア(の)倫理」といった言葉がいくらか流通することになった。例えば自分の子を世話する親といった関係からものごとを考えよう、捉えよう、あるべきあり方を言おうというのである。
加藤は、この個別の関係に着目し重視する立場を「関係主義」(p.65)と呼ぶ。だが、それでは好かれない人は救われないではないかという危険性を自ら指摘する。
この立場に対置されるのは「普遍主義」とも呼ばれる。関係の近さ遠さと別に、濃さ薄さと別に、人は同じに扱われねばならないと言う。だから、この連載の第75回(2007年5月号)で取り上げたヘルガ・クーゼに『ケアリング――看護婦・女性・倫理』(原著1997年、訳書2000年、メディカ出版)という題の本があるからといって、クーゼを「ケア倫理」の系列の人と考えない方がよい。その後取り上げたピーター・シンガーやクーゼは、規範が普遍的なものあるべきだと主張する側にいて、「ケア倫理」側の人たちと対立する立場にいる。加藤の本では65頁にこのことについての言及がある。
で、加藤はどうするか。基本的には関係主義を維持する。こういう厄介な問題の存在にわりあい無頓着に、ただ「ケア」といったものを肯定してしまう幸福すぎる論もある。また死についてであれば、「二人称の死」――もちろんそうした位相は存在する――を言ってほろりとして終わり、ということもある。けれどそうでなく、相当に考えながら、この「関係主義」の方向でものを考えようという人たちがいる。この本で加藤はその一人である。他に、以前書名だけ紹介したことのある山根純佳『産む産まないは女の権利か――フェミニズムとリベラリズム』(2004、勁草書房)の論や法哲学者の奥田純一郎などの論がある
では加藤はこの問題にどのように対応するのか。「具体的な他者から愛されているか否かといった高すぎる基準」(p.66)は不要だというのだった。これは相手との関係に重きを置く立場をとる人たちの中では最低限の条件でよしとしているということだ。それは、他の論者がケアといった行為を想定してものを言うのに対し、加藤は殺さない範囲のことを考えていることにもよるだろう。
さてこのことをどう考えればよいのだろうか。
まず、決める側が決めることは避けられないことであり、そうでしかありえないことは確認しておこう。つまり人のことは人が決める。神様が決めている場合でも、そう人が思い、人が思う神様が決めたことに人が従う。いつも決める側が決めている。これはよいことではないかもしれない。しかし決めないことにすれば決まらないわけでもない。人は様々なことを事実決めることができ、決めてしまっている。行なっている。たとえば殺している。そしてそれはよくないと思うなら、それを制約することになる。何も決めないわけにはいかないことがある。その人自身が決めことに周囲が従うというあり方も含め、私たちは、決めるのが決める側にいる人(たち)であることを、この決定的な不均衡を、認めるしかない。
ただこのように逃れられない意味において、ものごとが「私たち」の側にあるということと、「私たち」の態度・受け止め方によって相手のことを決めることとは別のことである。私たちが相手に愛着を感じるとか呼びかけようと思うかと別に、その相手の扱い方を決めようという決め方はあるということだ。私たち自身の利害・好悪との関わりで人の扱い方を決めてならないと、私たちが――他に決める人がいないのだから――決めるということがある。これは加藤自身の立場でもあるだろう。
ではなぜその立場を取ろうとするのか。私のその人に対する対し方によってその人の扱われ方が異なること、というか、その人が不利に扱われることはよくない、そういう思いがあり、その人に対する対し方があるということではないか。とするとそれは、「関係主義」そのものを否定する、とは言えないとしても、かなり強く制約する考え方ではないか。ここでむしろ採用されているのは普遍主義ではないか。そのようにも考えられる。とすると、「呼びかける」ことをどこまで強く見るのかという問題がやはり残る。あるいは、再度現れることになる。
◇◇◇
<誰か>であるかないかは生殺の判断に関わるのだった。そしてその<誰か>は私(たち)が呼びかける存在のことだった。
それだけを聞けば、すぐにいろいろと難癖をつけることはできる。私たちは動物にも呼びかける。さらに生物でない存在にも呼びかける。また死者にも呼びかけるではないか。その<誰か>のすべてを殺してならないというのか。そういう疑問は生じる。
ただそれに対しては、なんらかの「道徳的配慮」がなされるべきであると言っているのであって、それらをすべて殺してならないと言っているのではないと加藤は返すことになるだろう。死者を生き返らせることはできない。しかしなんらかの「倫理的配慮」は要請される。それは「生者」の尊重のあり方といくらかは違うだろう。そう言われる。なるほど、その限りでは問題はない。
ただこのことは、「生殺」(を巡る基準)については、また別のことを言わなければならないことを意味するのではないか。この点について加藤はこの本でそう明示的に述べているようには見えない。だが、とりあえず人(ヒト)に限っれば、呼びかけの相手としての人は殺してならず、他方、死者を生き返らせることはできないからそのこと自体は仕方のないことで、しかしなにがしかの配慮は正当化される、それよいということになる。形式としてはそれでいける。
ではこれでよいということになるか。そうもならないと思える。「呼びかける」とはどんなことか。
私たちは「モノ」も含めて様々な対象に向かうことがあるのだから、関係する、働きかけるというだけでは広すぎるだろう。
では「呼ぶ」ときに何が想定されているのだろうか。もちろん一つには「応え」がある。一つに「聞いている」ことがある。それらはどんな意味があるのか。そして加藤は前者を必須としなかったのだった。どう考えたらよいか。この回でもまだ終わらない。
■表紙写真を載せた本
◆加藤 秀一 20070930 『〈個〉からはじめる生命論』,日本放送出版協会,NHKブックス1094,245p. ISBN-10: 4140910941 ISBN-13: 978-4140910948 1019 [amazon]/[kinokuniya] ※ be.,
■言及した本
◆Kuhse, Helga 1997 Caring: Nurses, Women and Ethics, Blackwell
[amazon]
=2000 竹内 徹・村上 弥生 監訳,『ケアリング――看護婦・女性・倫理』,メディカ出版,319p. ISBN: 4-89573-999-6 3400+ [amazon]/[kinokuniya] ※ c04.,
◆山根 純佳 20040825 『産む産まないは女の権利か――フェミニズムとリベラリズム』,勁草書房,208+11p. ISBN-10: 4326652977 ISBN-13: 978-4326652976 2520 [amazon]/[kinokuniya] a08