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立岩真也「『〈個〉からはじめる生命論』・2」
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『〈〉からはじめる生命せいめいろん』・2

医療いりょう社会しゃかいブックガイド・82)

立岩たていわ しん 2008/05/25 『看護かんご教育きょういく』49-5(2008-5):
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  前々回ぜんぜんかい現代げんだい思想しそう』2がつごう特集とくしゅう医療いりょう崩壊ほうかい――生命せいめいをめぐるエコノミー」を、前回ぜんかいおな雑誌ざっしがつごう特集とくしゅう患者かんじゃがく――生存せいぞん技法ぎほうげた。すくなくともわたし周囲しゅういではとても好評こうひょう。なくなりきってはいないようだから、まだのひとったらよいとおもう。
  さてそのまえ加藤かとう秀一ひでかずの『〈〉からはじめる生命せいめいろん』をげて途中とちゅうになっているのだった。そのほんは、かす/ころすをめぐ線引せんひきについてかんがえている。
  だれかが(たとえばわたしが)「びかける」その相手あいてが〈だれか〉であり、その生存せいぞんうばってならない存在そんざいだと、加藤かとうう。
  1)すると、相手あいておもったりおもわなかったりするひと恣意しいに、その相手あいて運命うんめいゆだねることになるのではないかという疑問ぎもんしょうずる。
  その疑問ぎもん加藤かとうこたえているのだった。その部分ぶぶんを2がつごう引用いんようした。<だれか>であるかないかはぎらいといった水準すいじゅんにあるのではないとされた。このことによって、きらわれているひと好悪こうお対象たいしょうにならないひとたちが尊重そんちょう対象たいしょうからはずされることをふせぐことになる。こうして、排除はいじょされない存在そんざい範囲はんいひろがることになる。
  2)つぎに、加藤かとうびかけへの反応はんのう必須ひっすとしない。びかけにこたえる可能かのうせい期待きたいしてびかけるという大庭おおばけん議論ぎろん批判ひはんし、びかけるだけでよいとう。実際じっさい、すくなくとも通常つうじょう意味合いみあいでの応答おうとうはないことはよくある。このほんでは脳死のうししゃげられるが、に、ほねびかけることがある。くなってずいぶんったひといて、びかけるひとがいる。不在ふざい存在そんざいびかけることもある。そしてそれは真摯しんしなことであったりもする。それもありだろう、とおもえる。ここでも、<だれか>ざい範囲はんいひろがることになる。
  なるほどとおもう。ただこれでよいのか、うまくいくのかというもする。そこでかんがえてみる。
◇◇◇
  1)について。ある存在そんざい内在ないざいする価値かちというより、ある存在そんざいたいするがわ判断はんだん感覚かんかくおもきがかれてよしとする立場たちばがある。「相互そうごせい」「関係かんけいせい」といったわれかたもし、両者りょうしゃのどちらが優位ゆういということではないともわれるが、それでも、相手あいてがわ相手あいてぐうするがわ主観しゅかん主体しゅたいとしての人間にんげん比重ひじゅうたかくなっている。世界せかい共同きょうどう主観しゅかんてき構築こうちくされた世界せかいであるというのが、たとえば社会しゃかいがくのというだけでなく、人々ひとびと常識じょうしきともなっているもののかんがかただから、この見方みかたにわりあい抵抗ていこうはない。
  そして、こんな感覚かんかくともかかわって、人々ひとびと関係かんけい感情かんじょうべつ存在そんざいする「道徳どうとくりつ」といったものをどうもしんがたいという気持きもちがある。それで「ケア(の)倫理りんり」といった言葉ことばがいくらか流通りゅうつうすることになった。たとえば自分じぶん世話せわするおやといった関係かんけいからものごとをかんがえよう、とらえよう、あるべきありかたおうというのである。
  加藤かとうは、この個別こべつ関係かんけい着目ちゃくもく重視じゅうしする立場たちばを「関係かんけい主義しゅぎ」(p.65)とぶ。だが、それではかれないひとすくわれないではないかという危険きけんせいみずか指摘してきする。
  この立場たちば対置たいちされるのは「普遍ふへん主義しゅぎ」ともばれる。関係かんけいちかとおさとべつに、うすさとべつに、ひとおなじにあつかわれねばならないとう。だから、この連載れんさいだい75かい(2007ねんがつごう)でげたヘルガ・クーゼに『ケアリング――看護かんご女性じょせい倫理りんり』(原著げんちょ1997ねん訳書やくしょ2000ねん、メディカ出版しゅっぱん)というだいほんがあるからといって、クーゼを「ケア倫理りんり」の系列けいれつひとかんがえないほうがよい。そのげたピーター・シンガーやクーゼは、規範きはん普遍ふへんてきなものあるべきだと主張しゅちょうするがわにいて、「ケア倫理りんりがわひとたちと対立たいりつする立場たちばにいる。加藤かとうほんでは65ぺーじにこのことについての言及げんきゅうがある。
  で、加藤かとうはどうするか。基本きほんてきには関係かんけい主義しゅぎ維持いじする。こういう厄介やっかい問題もんだい存在そんざいにわりあい無頓着むとんじゃくに、ただ「ケア」といったものを肯定こうていしてしまう幸福こうふくすぎるろんもある。またについてであれば、「二人称ににんしょう」――もちろんそうした位相いそう存在そんざいする――をってほろりとしてわり、ということもある。けれどそうでなく、相当そうとうかんがえながら、この「関係かんけい主義しゅぎ」の方向ほうこうでものをかんがえようというひとたちがいる。このほん加藤かとうはその一人ひとりである。に、以前いぜん書名しょめいだけ紹介しょうかいしたことのある山根やまねじゅんけいまないはおんな権利けんりか――フェミニズムとリベラリズム』(2004、勁草書房しょぼう)のろんほう哲学てつがくしゃ奥田おくだ純一郎じゅんいちろうなどのろんがある
  では加藤かとうはこの問題もんだいにどのように対応たいおうするのか。「具体ぐたいてき他者たしゃからあいされているかかといったたかすぎる基準きじゅん」(p.66)は不要ふようだというのだった。これは相手あいてとの関係かんけいおもきを立場たちばをとるひとたちのなかでは最低限さいていげん条件じょうけんでよしとしているということだ。それは、論者ろんしゃがケアといった行為こうい想定そうていしてものをうのにたいし、加藤かとうころさない範囲はんいのことをかんがえていることにもよるだろう。
  さてこのことをどうかんがえればよいのだろうか。
  まず、めるがわめることはけられないことであり、そうでしかありえないことは確認かくにんしておこう。つまりじんのことはひとめる。神様かみさまめている場合ばあいでも、そうひとおもい、ひとおも神様かみさまめたことにひとしたがう。いつもめるがわめている。これはよいことではないかもしれない。しかしめないことにすればまらないわけでもない。ひと様々さまざまなことを事実じじつめることができ、めてしまっている。おこなっている。たとえばころしている。そしてそれはよくないとおもうなら、それを制約せいやくすることになる。なにめないわけにはいかないことがある。そのひと自身じしんめことに周囲しゅういしたがうというありかたふくめ、わたしたちは、めるのがめるがわにいるひと(たち)であることを、この決定的けっていてき均衡きんこうを、みとめるしかない。
  ただこのようにのがれられない意味いみにおいて、ものごとが「わたしたち」のがわにあるということと、「わたしたち」の態度たいどかたによって相手あいてのことをめることとはべつのことである。わたしたちが相手あいて愛着あいちゃくかんじるとかびかけようとおもうかとべつに、その相手あいてあつかかためようというかたはあるということだ。わたしたち自身じしん利害りがい好悪こうおとのかかわりでひとあつかかためてならないと、わたしたちが――めるじんがいないのだから――めるということがある。これは加藤かとう自身じしん立場たちばでもあるだろう。
  ではなぜその立場たちばろうとするのか。わたしのそのひとたいするたいかたによってそのひとあつかわれかたことなること、というか、そのひと不利ふりあつかわれることはよくない、そういうおもいがあり、そのひとたいするたいかたがあるということではないか。とするとそれは、「関係かんけい主義しゅぎ」そのものを否定ひていする、とはえないとしても、かなりつよ制約せいやくするかんがかたではないか。ここでむしろ採用さいようされているのは普遍ふへん主義しゅぎではないか。そのようにもかんがえられる。とすると、「びかける」ことをどこまでつよるのかという問題もんだいがやはりのこる。あるいは、再度さいどあらわれることになる。
◇◇◇
  <だれか>であるかないかはなまころせ判断はんだんかかわるのだった。そしてその<だれか>はわたし(たち)がびかける存在そんざいのことだった。
  それだけをけば、すぐにいろいろと難癖なんくせをつけることはできる。わたしたちは動物どうぶつにもびかける。さらに生物せいぶつでない存在そんざいにもびかける。また死者ししゃにもびかけるではないか。その<だれか>のすべてをころしてならないというのか。そういう疑問ぎもんしょうじる。
  ただそれにたいしては、なんらかの「道徳どうとくてき配慮はいりょ」がなされるべきであるとっているのであって、それらをすべてころしてならないとっているのではないと加藤かとうかえすことになるだろう。死者ししゃかえらせることはできない。しかしなんらかの「倫理りんりてき配慮はいりょ」は要請ようせいされる。それは「生者しょうじゃ」の尊重そんちょうのありかたといくらかはちがうだろう。そうわれる。なるほど、そのかぎりでは問題もんだいはない。
  ただこのことは、「なまころせ」(をめぐ基準きじゅん)については、またべつのことをわなければならないことを意味いみするのではないか。このてんについて加藤かとうはこのほんでそう明示めいじてきべているようにはえない。だが、とりあえずひと(ヒト)にかぎっれば、びかけの相手あいてとしてのひところしてならず、他方たほう死者ししゃかえらせることはできないからそのこと自体じたい仕方しかたのないことで、しかしなにがしかの配慮はいりょ正当せいとうされる、それよいということになる。形式けいしきとしてはそれでいける。
  ではこれでよいということになるか。そうもならないとおもえる。「びかける」とはどんなことか。
  わたしたちは「モノ」もふくめて様々さまざま対象たいしょうかうことがあるのだから、関係かんけいする、はたらきかけるというだけではひろすぎるだろう。
  では「ぶ」ときになに想定そうていされているのだろうか。もちろんひとつには「こたえ」がある。ひとつに「いている」ことがある。それらはどんな意味いみがあるのか。そして加藤かとう前者ぜんしゃ必須ひっすとしなかったのだった。どうかんがえたらよいか。このかいでもまだわらない。


表紙ひょうし写真しゃしんせたほん

加藤かとう 秀一ひでかず 20070930 『〈〉からはじめる生命せいめいろん日本にっぽん放送ほうそう出版しゅっぱん協会きょうかい,NHKブックス1094,245p. ISBN-10: 4140910941 ISBN-13: 978-4140910948 1019 [amazon][kinokuniya] ※ be.,

言及げんきゅうしたほん

◆Kuhse, Helga 1997 Caring: Nurses, Women and Ethics, Blackwell
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=2000 竹内たけうち とおる村上むらかみ 弥生やよい 監訳かんやく『ケアリング――看護かんご女性じょせい倫理りんり,メディカ出版しゅっぱん,319p. ISBN: 4-89573-999-6 3400+ [amazon][kinokuniya] ※ c04.,
山根やまね じゅんけい 20040825 まないはおんな権利けんりか――フェミニズムとリベラリズム』,勁草書房しょぼう,208+11p. ISBN-10: 4326652977 ISBN-13: 978-4326652976 2520  [amazon][kinokuniya] a08


UP:20080328 REV:(誤字ごじ訂正ていせい
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