(Translated by https://www.hiragana.jp/)
立岩真也「『良い死』」
昨年出た拙著『良い死』(筑摩書房)に続いて今年出た『唯の生』の紹介を前回に始めた。
一つ、「唯の生」という題に関わり、生と言うに値する/しないという「線引き」に関わることを第1章に書いたことを記した。
一つ、他の論者の論を相手にしたこと、論点としては、「自己決定」に「関係」「共同性」を対置する議論を取り上げ、それはまっとうな考え方ではあるのだが、また限界もあるだろうことを書いたことを紹介した。
他にその本で取り上げた論者には、本連載で著書を紹介した――その部分も本に再録した――清水哲郎や小泉義之がいる。第6章の「より苦痛な生/苦痛な生/安楽な死」は、清水の『医療現場に臨む哲学II』(2000、勁草書房)の一部を検討している。第7章「『病いの哲学』について」では小泉の『病いの哲学』(2006、ちくま新書)を取り上げた。何を書いたかは略。読んでください。ということで、いったんここまで。
基本的なことをまず考えて述べたのは『良い死』の方だ。今流行であるのは「他者を思う自然で私の一存の死」だから、その各々を考えみようとした。第1章「私の死」、第2章「自然な死、の代わりの自然の受領としての生」、第3章「犠牲と不足について」。
そこで何を述べたのか。やはりその本を見ていただく以外にない。しかし簡単に紹介する。
第1章では、多くの場合その人の決定を大切にすることは大切だが、生死の決定の場面でそれだけを言うのは間違っていると述べ、その理由を書いた。第2章では、人工物を使った生きている私たちが人工物を否定するのはおかしいと述べ、次に、自然・世界が大切であるなら、自分は何もできなくなっても長生きすればよいと書いた。第3章では、他人を大切にすることは大切だが、そのために身を引くことを称揚することは、その大切なものを裏切ると述べ、さらに、しかし金や人が足りないから仕方がないという話については仕方がなくはないと書いた。
そこに書いたことについて、批判してもらえるなら、いくらでもしていただいたらよいと思う。ただ、気になるのは、今、この主題を主題として考えることを素通りして、「その次」に行こうとしている、そんな流れになっているように思えるということだ。
そのことは『良い死』の最初の方で書いた。その本の序章は「要約・現況」となっていて、一つには、忙しい人のために、要するに私はどのように考えているのかを短く記した。『通販生活』に掲載された文章を使った。そしてもう一つに、今学問や言論がどんな具合になっていると私が思うのかを書いた。第3節が「考えてきただろうか」という題になっている。
そこで、2005年11月、東京大学のCOE「死生学の構築」関連の催し「ケアと自己決定」で話したこと、同年の12月に熊本大学でのシンポジウム「日本の生命倫理:回顧と展望」で私が話したことから引用している。
◇◇◇
思うのはこんなことだ。哲学者や倫理学者がものを考えることをやめているように思われる。それでよいのか。よくない。学者であってもなくても考えるべきは考えるのがよいだろう。しかしなんだかそんなことはもう終わったかのようにされており、「応用」「教育」の時代になったかのようである。その教育の仕事をすることが学者の仕事であり、そうした教育を受けた医療者等が現場を采配していく、そういう仕組みを作ったり維持していくのが学問であるかのようにされている。教育も応用も大切なことに決まっているのだが、しかし、その手前で何を教えるのかである。それは実は曖昧である。あるいは、いくらかでも考えてみるならそのままに受けいれられないことが当然のこととされている。例えば、死の決定について、本人の意志、それがない場合には家族の意志に従うべきだとされる。しかしそれでよいか。そのことに関して、たくさん考えて言うべきことがある。であるのに、話は先に進んでいってしまっている。これはとてもまずいと思う。
このことをこの3月には東京での集会でも繰り返し、その前の2月、大阪での日本集中治療医学会学術集会でのシンポジウムでも繰り返した。『Medical Tribune』にそのシンポジウムの概要が掲載されるということで、編集の方と幾度かやりとりがあって掲載された。ごく単純なことを述べたのだが、最初にいただいた原稿は私が話したつもりのこととすこし異なるところもあるように思ったので、すこし直したものをお送りし、ほぼ受け入れていただいた。こちらのHPにその原案も掲載している。以下掲載されたものを引用する。「医療の信頼を得ることが先決」という見出しになった。
「立命館大学大学院総合学術研究科の立岩真也教授は、基調講演「良い死?唯の死」で、倫理原則が確認されていればそれを現場に応用するだけでよいが、「そうでないのが現状だと」述べ、「まず医療をきちんと行い、そのことを社会に向けて示すことの方が先決だ」と指摘した。」
ここが概要の概要ということになる。さらに以下。少し略す。
「治療停止・尊厳死といった厄介な面にどう対処するか、現場への応用や教育が大切であることは認めるが、教える原則がはっきりしていないなら、応用のしようもないはずだ」と述べた。さらに趨勢としては治療の停止を様々に認める方向になってはいるが、論理的・倫理的に議論の終わっていないところが少なくないと指摘した。
「死にたい」と本人が言っているとして「それをそのまま受けとることがよいことなのか。自分はそうは思えないし、そのように社会も医療も対応してこなかったはずではないか、それは間違っていたのだろうか」と問いかけた。
他方、家族の意思についても、「家族は確かに患者の一番の代理者ではあろうが、経済、心理、身体的な負担が少なくない状態に置かれてもいる」と分析。停止の同意に負担軽減という要因が働くことは否定できず、「家族の意向をそのままに受け入れるべきだとならないはずだ」とした。
その上で、「医療側は社会に対し、何を最初に言わなければいけないのか」と提起した。過剰な医療による被害を避けるための患者側からの異議申し立てという図式があり、それは医療をより多く行うことが利益に結びついた時期には問題とならなかったが「医療が過剰より過少である現状では、むしろ救命・延命のためにするべきことをするという医療の基本を確認し[…]遵守し、そのことを社会にアピールすることの方が大切だろう」と述べた。そうして医療の信頼を得ることが先決とした。」
◇◇◇
なおしきれていないところがあるが、おおむねこんな話をした。ここで私は、一つに医療の現実がどうなっているのか、それをふまえたら何を先に示すべきかを述べている。つまり、現実は「過剰」でなくむしろ「過少」である、だから、するべきをする、するべきことをできるようにする、このことを訴えるべきだと述べた。このことに関しては、次回、続ける。
そしてもう一つが、基本のところが飛ばされている、終わっていることにされているという話だ。なぜその学会の大会に私を呼んでいただけたのか、わからないのだが、私はとにかく思うことを話すしかないから話した。
ただ、その場の全体はまず、たくさんの人のたくさんの話が次々となされていった。遺族に対する所謂グリーフ・ケアの話もあった。(もちろんそれはそれとして大切なことである。ただ分けて、一つひとつに取り組んでいくことも大切である。)「本題」に関わるところでは、例えば「欧米」ではしかじかである――「尊厳死」は問題にされていない――という「事実」が示され、それ以上のことは言われず、そして次に「教育」のことが語られた。その学会としても「倫理に強い」医療者を育てる、認定するという仕組みを作ろうということであった。
もちろん、医療者が哲学・倫理学を学ぶことに問題があろうはずがない。それはまったくよいことである。けれども何を学ぶのか。「生命倫理の4原則」か。しかし以前本連載で清水哲郎の本を紹介した時に述べたことだが、それでは「解」が出ないことがある。4つのどれを優先するのかといった問題が生じることがあるのだ(それを清水は正しく指摘していることを紹介した)。なのにどうして前に進めることになるのだろう。『唯の生』の第1章でとりあげたシンガーやクーゼといった人たちが言うことが正しいとされているからだろうか。だが考えてみるとわからないところがいろいろある。このことを私は書いたのだった。そうして書いたことのどこがどのように間違っているのか、示していただければ、私も話を終えることに同意するのだが。(続く)
■表紙写真を載せた本
◆立岩 真也 2008/09/05 『良い死』,筑摩書房,374p. ISBN-10: 4480867198 ISBN-13: 978-4480867193 [amazon]/[kinokuniya] ※ d01.et.,
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◆立岩 真也 2009/03/25 『唯の生』,筑摩書房,424p. ISBN-10: 4480867201 ISBN-13: 978-4480867209 [amazon]/[kinokuniya] ※ et.