千葉 県 生 まれ。父 は内科 医 、名前 は、詩経 の中 の「霊 台 」の箇所 に出 てくる成語 から取 られたもの。帝 が民 の楽 しみのために霊 台 の建設 を企 てて、呼 びかけたところ、女 子 どもまでもがやってきた、というくだりから取 られたもので、「子 どももやって来 る」の意 。ふつう、「子来 」を「たねき」と読 んでもらえないので、自 ら「たぬき先生 」と称 している。父親 は、第 二 次 世界 大戦 の終了 3日 前 に戦場 で拳銃 自決 。戦時 中 、岡山 県 の母方 の祖父母 に預 けられるが、祖父 は病死 し、祖母 も重症 の火傷 。苦労 して、岡山 医科 大学 (現 ・岡山大学 医学部 )を卒業 。医師 になってからは、大阪 の社会 的 に底辺 にある人 たちの診療 所 などで勤務 。そうした診療 所 の看護 婦 をしていた女性 と結婚 。その後 東京 に移 り、原宿 で小児科 医院 を開業 。
幼児 ・子 どもの見方 、援助 の仕方 などについての世間 の考 え方 を正 し、そのための啓蒙 に力 を注 ぐ。同様 の活動 に殉 じたヤヌシュ・コルチャックを尊敬 しており、NHK・BS「わが心 の旅 」という番組 で、1996年 コルチャック先生 の足跡 を追 って、ポーランド、ワルシャワを訪 れた彼 の旅 の記録 が放送 された。雑誌 「小 さい・おおきい・よわい・つよい」(ジャパンマシニスト社 )の編集 者 代表 、「ワクチントーク・全国 」のアドバイザー的 存在 でもある。友人 で、同様 の活動 を展開 している人物 に山田 真 がいる。1987年 、『ひとりひとりのお産 と育児 の本 』で毎日 出版 文化 賞 受賞 。
ルソーの『エミール』に倣 った『新 エミール』と、その続編 で小説 仕立 ての『エミールとソフィ』なども書 いている。
2005年 3月 、九 条 の会 傘下 の「マガジン9条 」発起人 となった[1]。
「私 がはじめて毛利 さんの声 を聞 いたのは、四 十 数 年 前 。マスコミが「荒 れる小児科 学会 。一部 若手 医師 が演壇 を占拠 」などと報 じていた学会 の総会 会場 でのことです。
「一部 若手 」とは、大学 闘争 の影響 を受 け、当時 横行 していた大腿 四 頭 筋 短縮 症 や未 熟 (児 )網膜 症 (いまならRLF)に対 する醜悪 な医療 を告発 していた数 十 人 の小児科 医 のことで、私 もそのなかの一人 でした([…])。
それほど圧倒的 多数 の小児科 医 、とりわけベテランの医者 たちは結束 し、「注射 程度 で訴 えられたら、医療 が委縮 する」と大 合唱 。患者 さんらの必死 の訴 えをはねつけようとする防衛 的 で排他 的 な姿勢 を、頑 なにとりつづけて私 たちと相 対峙 していました。
当時 の学会 は、医師 会 ほどではなかったものの、学問 の場 というよりは医師 の権益 を守 る政治 団体 的 なところがあったのです。
[…]
折 しもそんなとき、いかにも敵 と思 しき年 恰好 の医者 が指名 され、悠然 とマイクを握 りました。
「渋谷 区 で開業医 をしている毛利 です」
あー、またあの大 合唱 に加担 する発言 か。そんなくやしさをこめて遠 くから睨 みつけていた私 の前 で、マイクから聞 こえてきたのは耳 を疑 うような言葉 でした。△2/3▽
[…]小児科 医 にとって、いやあらゆる大人 にとって、いちばん大切 なことはなにかを問 う発言 でした。医療 の本質 に立 って議論 を進 めないといけないとして学会 執行 部 を糾弾 し、温 かみのなかに、じつに迫力 のこもった内容 でした。さすがに、ずっと騒然 となっていた会場 が、一瞬 シーンと静 まり返 ったことは鮮明 に覚 えています。」(pp.2-3)