オーケストラの指揮しき者しゃ、登場とうじょうルートは2つある？観客かんきゃくが知しらない奏者そうしゃのプロの技わざ

「マエストロ、素晴すばらしいベートーヴェンをなさってください」とステージマネージャーに言いわれた僕ぼくは、「オーケストラと一緒いっしょに、深ふかみのある音楽おんがくをするつもりです」と、強つよい意志いしを持もってステージに向むかいながら、満場まんじょうの観客かんきゃくの拍手はくしゅを受うける――。なんてことは、実じつはありません。

　もちろん、“強つよい意志いしを持もって”という点てんは当あたっていますが、これは心しんの中なかだけの話はなしですし、ステージマネージャーとこんな素敵すてきなやりとりをすることなど、世界中せかいじゅうのオーケストラを見渡みわたしてもないでしょう。日本にっぽんでも欧米おうべいでも、今いまから舞台ぶたいに上あがる指揮しき者しゃやソリストに対たいして、ステージマネージャーが言いうことは決きまっています。反対はんたいに、指揮しき者しゃやソリストのほうから、「どこを通とおったらいいのでしょうか？」と尋たずねることもあります。

　みなさんは、僕ぼくが何なんの話ばなしをしているのか、よくわからないと思おもいます。しかも、ステージに道みちなどないにもかかわらず、「どこを通とおったらいいのか？」という質問しつもん自体じたい、変へんに思おもわれるに違ちがいありません。しかし、指揮しき者しゃにとって、ステージには道みちがあるのです。一人ひとりでピアノを弾ひくリサイタルや、4～5人にんでアンサンブルをする室内楽しつないがくメンバーなら、大おおきく真まっ平たいらな空間くうかんであるステージを好すきに歩あるいて演奏えんそうする位置いちまで行いけばいいのですが、オーケストラの場合ばあいは、大おおきなステージいっぱいに楽員がくいんがいます。そんななか、指揮しきをする指揮しき台だいに行いく道みちは2つしかないのです。

　一番いちばん簡単かんたんなのは、オーケストラの前まえを通とおって指揮しき台だいに到達とうたつする方法ほうほうです。これこそ、本道ほんどうといえます。誰だれに迷惑めいわくかけるわけでもなく、楽員がくいんの椅子いすに足あしを引ひっかけて躓つまずく危険きけん性せいもなく、観客かんきゃく席せきに笑顔えがおでも振ふりまきながら、悠然ゆうぜんと歩あるくことができます。

　ところが、ステージが狭せまかったり、奏者そうしゃをたくさん必要ひつようとする大だい規模きぼな曲きょくで、オーケストラがステージの前面ぜんめんまでぎっちりと配置はいちされている場合ばあいはオーケストラの前まえは通とおれないので、第だい一いちヴァイオリン集団しゅうだんと第だい二にヴァイオリン集団しゅうだんが陣取じんどっている間あいだをすり抜ぬける“裏道うらみち”を通とおることになります。

　オーケストラ奏者そうしゃはお互たがいにできるだけ近寄ちかよって演奏えんそうするので、みんなびっしりとひしめき合あっているのですが、指揮しき者しゃやソリストが通とおる際さいには、少すこし左右さゆうに動うごいて道みちをつくることになっています。その際さいは、もちろんステージマネージャーから奏者そうしゃには、「今日きょうは中なかを通とおってくるからね」と、あらかじめ伝達でんたつされています。そして指揮しき者しゃが通とおった後のちは、すばやく所定しょていの位置いちに戻もどり、演奏えんそうが終おわったら、さっと指揮しき者しゃの道みちをつくってくれます。ヴァイオリンの後うしろの奏者そうしゃは、なかなか大変たいへんなのです。

指揮しき者しゃが通とおる2つのルート

　このようなわけで、ステージマネージャーは、ステージに上あがる寸前すんぜんの指揮しき者しゃやソリストと芸術げいじゅつ的てきな会話かいわをすることもなく、「マエストロ、今日きょうはオーケストラの前まえを通とおってください」とか、「オーケストラの中なかを通とおってください」と、本道ほんどうか裏道うらみちかを指示しじして、指揮しき者しゃは「はい」と言いってステージに向むかうことになるのです。

　しかし、「前まえを通とおってください」と本道ほんどうを指示しじされたにもかかわらず、うっかりと裏道うらみちに行いってしまう場合ばあいもありますし、そもそも裏道うらみちのほうが好すきな指揮しき者しゃもいます。実じつは僕ぼくも裏道うらみちのほうが好すきなのですが、もちろん、そんなことはヴァイオリンの後うしろの奏者そうしゃには伝つたわっていません。それでも、彼かれらも経験けいけん上じょうわかっていて、自分じぶんたちがいる裏道うらみちに足音あしおとが聞きこえてきたら、まるで打うち合あわせをしていたかのように、さっと動うごいてくれるのもオーケストラ奏者そうしゃのプロの技わざです。

　余談よだんですが、特とくに協奏曲きょうそうきょくの場合ばあいには、主役しゅやくのソリストに、観客かんきゃくからもよく見みることができる本道ほんどうを通とおってもらい、指揮しき者しゃは遠慮えんりょがちに裏道うらみちを通とおることもあります。実じつは、これはソリストに遠慮えんりょしているだけではありません。指揮しき者しゃはソリストのあとに登場とうじょうするのですが、指揮しき台だいはソリストの場所ばしょの先さきにあるため、本道ほんどうから登場とうじょうすると、おじきしたのちに「すみません」といった感かんじでソリストの前まえを通とおり過すぎることになります。特とくに、ピアノ協奏曲きょうそうきょくの場合ばあいはオーケストラとピアノの間隔かんかくが狭せまく、すり抜ぬけることになるのも、あまり格好かっこうが良よくないため、僕ぼくはあえて最初さいしょから、裏道うらみちを通とおって指揮しき台だいまで行いくのです。

楽器がっきを表あらわす、世界せかい共通きょうつうのジェスチャー

　演奏えんそうが終おわり、指揮しき者しゃが舞台裏ぶたいうらに下さがっても、拍手はくしゅはなかなか鳴なり止やみません。そこで、再度さいどステージに何なん度ども出でてきて、お辞儀じぎをしたり、活躍かつやくした奏者そうしゃを立たたせて賞賛しょうさんするのがお決きまりの光景こうけいです。観客かんきゃくも素晴すばらしいソロを演奏えんそうした奏者そうしゃには、大おおきな拍手はくしゅで称となえてくださる感動かんどう的てきな時間じかんです。

　しかし、該当がいとうする奏者そうしゃを立たたせる指揮しき者しゃの重要じゅうような仕事しごとが意外いがいと簡単かんたんではないことは、以前いぜんにもこの連載れんさいで書かかせていただきました。大声おおごえで「フルート、立たってください！」と怒鳴どなるわけにもいきませんし、怒鳴どなったところで観客かんきゃくの盛大せいだいな拍手はくしゅでかき消けされてしまいます。

　そこでジェスチャーのみで合図あいずをするのですが、フルートを指ゆびさしても、その後うしろにいるクラリネットが、自分じぶんが当あてられたものと誤解ごかいして立たってしまうといったことが、ちょくちょくあるのです。それはそれで僕ぼくも拍手はくしゅなどしながら、その後ご、あらためてフルートに立たってもらうのですが、一番いちばん困こまるのは、「指揮しき者しゃが自分じぶんに合図あいずしているようだけれど、自分じぶんではないのでは」と奏者そうしゃが躊躇ちゅうちょしてしまって立たってくれないことです。

　そうならないように、世界せかい共通きょうつうルールのようなジェスチャーがあります。合図あいずをする楽器がっきごとに、指揮しき者しゃのジェスチャーが決きまっているのです。たとえば、フルートは横笛よこぶえなので、両手りょうてで横笛よこぶえを吹ふいている真似まねをすれば一目瞭然いちもくりょうぜんです。トランペットは演奏えんそうするのに左手ひだりての指ゆびは使つかわないので、右手みぎての指ゆびを動うごかせばわかってくれます。トロンボーンは、長ながい管かんを伸のばしたり縮ちぢめたりして演奏えんそうする真似まねすれば大丈夫だいじょうぶです。

　そんななかで面白おもしろいジェスチャーはホルンです。この楽器がっきは独特どくとくで、管かんの長ながさがなんと3.8メートルもあります。もちろん、そのままの長ながさで演奏えんそうすることはできないので、とぐろを巻まいたような形かたちの楽器がっきで、その特別とくべつな形状けいじょうがホルンの素晴すばらしいサウンドを生うみ出だすのです。そのホルンに立たってもらう合図あいずのひとつに、指ゆびで円えんを何なん度ども描えがくものがあります。これは管かんを巻まいているホルンを表あらわしているのですが、空中くうちゅうで何なん度ども指ゆびで円えんを描えがいていると、「子供こどもの時ときにトンボを捕とる時ときみたいだなあ」と思おもったりします。

　もし、オーケストラコンサートに来きたられる機会きかいがあったら、演奏えんそう後ごに指揮しき者しゃが何なにをしているかを見みるのも面白おもしろいかもしれません。実じつは、そこにも上手うまい下手へたがあって、僕ぼくは正直しょうじき苦手にがてです。

　最後さいごに指揮しき者しゃとコンサートマスターが語かたり合あっている場面ばめんも見みることができるかもしれません。「今日きょうは素晴すばらしい演奏えんそうをありがとう」「マエストロの指揮しきが感動かんどう的てきでしたよ」などといった話はなしではなく、舞台裏ぶたいうらでステージマネージャーから、「そろそろオーケストラを引ひき上あげましょう」と言いわれた指揮しき者しゃが、コンサートマスターにそれを伝つたえていることがほとんどでしょう。

　とはいえ、良よい演奏えんそうができた時ときには、お互たがいの目めで満足まんぞくを伝つたえ合あうことはもちろんです。

（文ぶん＝篠崎しのざき靖男やすお／指揮しき者しゃ）