カルーセル麻紀とは、性転換済みタレントのさきがけとなった人物である。
概要
現在の本名こそ平原麻紀と女性の名前で、戸籍も女性になっているが、彼女がショーダンサーとして活動していたころは性同一性障害というものは当時の日本においてはまったくと言っていいほど認知されていなかった。そのため、性同一性障害者特例法施行を受けるまでは出生名である平原徹男が本名で、戸籍も男のままであった。
物心をついていた頃から女性性を自覚し、立ち回りも生まれついての女性とさほど変わらなかった(たとえば、いじめに対して番長肌の男子に甘えて対抗するなど)父親への反目から15歳で家出し、札幌市のゲイバー「ベラミ」に勤務。その頃に玉を取る。以後、北海道各地のショーパブやゲイバーを転々とする日々を送る。その間にヤクザに売り飛ばされかける、スポンサーの着いた店を盛ったら失敗して借金するなどといった経験を積む。17歳でゲイバー『青江』に勤務、「マキタトオル」と名乗ったことから「魔鬼」という源氏名をもらう。しかし、『のり平』というゲイバーのバーテンと駆け落ちして青森に夜逃げ。以後、またも放浪生活に戻る。そして、名古屋で壮絶な三角関係の末に惚れた男を取られ、自殺を試みるも失敗。そうして、心身ともにボロボロの状態のまま、大阪にたどり着く。
大阪『カルーゼル』で麻紀という源氏名をもらう。そこでトーク技術などを磨き、業界で評判となる。その頃に知り合った放送作家(新野新)に「舞台にダンサーとして出てみないか?」と誘われたことがきっかけで芸能界に足を踏み入れる。このとき、カルーゼルで働く麻紀だから今の芸名を頂戴する。
1967年、『愛して横浜』で歌手デビュー。そして、1973年にはモロッコで日本人で初めて性転換手術(今で言う性別適合手術)を受ける。この時、麻酔ミスにより40度以上の高熱が続き、生死の狭間をさまよう羽目になる。この事がトラウマとなり、2011年まで手術を避けてきた。
78歳になっても若い頃のプロポーションを維持しており、術後も問題なくピンヒールで歩けたり、若い頃の服を難なく着こなせている。
2001年に大麻取締法、及び麻薬及び向精神薬取締法違反の容疑で逮捕。このときに男性戸籍であることを理由に留置場では男子房に入れられた。結局は不起訴で釈放。2004年に性同一性障害者特例法施行を受けて、ようやく戸籍が女性となり、本名も現在のものとなる。
2011年に閉塞性動脈硬化症を患い、ダンサーとしての命たる右足切除の危機に瀕するも手術により危機を脱する。翌年も同症状により左足も悪化したがこちらも手術により難を逃れる。
2020年4月に脳梗塞で緊急搬送された。テキーラを飲んだ翌日に庭の草むしりを行い、休憩がてらにコーヒーを飲もうとしたが口の端からこぼしてしまい、うまく飲めなかった。その時にふと思ったのか北海道に住む看護師の親類に電話をかけたところ、脳梗塞を指摘されたことで判明したという。偶然にも友人も緊急搬送されたと聞かされたこと、マネージャーによる手際の良い病院手配と若いイケメン医師に囲まれたこともあり、手術後は後遺症もなかったという。だが、この時の入院中に洗髪が煩わしくなったことをきっかけに自慢のロングヘアをバッサリと切り、髪も染めなくなった。
人となり・交友履歴
出生名は「(太平洋戦争で)アメリカやイギリスなどの敵国と『徹底的に戦う男』となるよう」との願いをこめてつけられたが、結局は本人が語るところの「女に徹する男」となってしまった。また、親戚の子供にも「おじちゃんだったおばちゃん」と呼ばれていた。
石原裕次郎とは妹のようにかわいがられており、普段から飲食や遊びに連れて行ってもらったり温泉も一緒に入ったりなどしていた。これはまき子公認であり、兄同様同性愛者嫌いだった裕次郎にとっては非常に珍しいケースである。なお、兄・石原慎太郎との交友も同様で、石原裕次郎の法事で再開した時は「すっかりババアになったな」「私はどうせババアよ」と軽口を叩き合う位は仲が良い兄妹分と言える間柄。
他にも友人も多く、菅原文太、藤圭子、太地喜和子、関口宏、デヴィ夫人、美川憲一、あき竹城、大黒摩季とも交友がある。また、はるな愛のことも可愛がっており、「愛に見てもらいたかった」という理由で「カルーセル麻紀のエアあやや」のオファーを承諾し披露した。
関連商品
関連項目
-
ページ番号: 5307936
-
-
リビジョン番号: 2995411
-