リカルド・パトレーゼ(Riccardo Gabriele Patrese、1954年4月17日 - )とは、イタリア出身の元レーシングドライバーのことである。
経歴
F1以前
兄の影響でカートを始め、1974年に世界カート選手権で優勝。1975年にはフォーミュラ・イタリアに参戦し3勝をあげ、シーズン2位の成績を収めた。
1976年、イタリアとヨーロッパのF3選手権に参戦し、ともに4勝をあげ2つの選手権でチャンピオンに。
1977年、ヨーロッパF2選手権にステップアップし、シーズン2位の成績をあげた。この年、F1のシャドウからレンツォ・ゾルジに替わり第6戦からF2とF1を掛け持ちする形で参戦。また、全日本F2000選手権にもスポット参戦し優勝している。
F1参戦後
F1では計9戦に参戦し、最終戦日本GPでは6位に入賞し、初のポイントを獲得した。
1978年、癌の治療のため参戦できなくなったグンナー・ニルソンの代役としてアロウズに移籍。第8戦のスウェーデンGPで2位に入り初の表彰台、シーズン通して4度の入賞でランキング11位の成績を残した。しかし一方でイタリアGPにてロニー・ピーターソンの事故死の原因になったとされ非難を浴び、アメリカGPは出場停止となってしまった(後に不可抗力であったと判明し名誉は回復している)。
1979年、開幕戦アルゼンチンGPでは予選を通過していたが決勝は走行せず。これが彼のキャリアに於いて唯一の決勝未走行のグランプリであった。その後第6戦ベルギーGPで5位に入賞するもこの年の入賞はこの一度のみであった。
1980年、第4戦アメリカ西GPで2位表彰台、第6戦モナコGPで初のファステストラップを記録するもシーズンを通して苦戦。
1981年、第2戦ブラジルGPで3位、第4戦サンマリノGPで2位と二度表彰台に立った。決してスペックの高くないマシンで時折光る走りをする点を評価され、翌年はブラバムに移籍することが決まった。
1982年、第6戦モナコGPではレース終盤にアラン・プロストがクラッシュ、更に上位を走行していたディディエ・ピローニ、アンドレア・デ・チェザリスがファイナルラップでともにガス欠でリタイアし、首位に立ったパトレーゼが初優勝。この他3度の入賞を記録しランキングは10位。
1983年、この年はなかなか序盤からなかなか結果を残せず苦しんだものの、最終戦南アフリカGPでは僚友のネルソンピケの優勝をサポートするドライビングを見せ、ピケの優勝が確定的となったところでトップをピケに譲ってもらいこのGPを優勝した。
1984年はアルファロメオに移籍。しかしマシンは信頼性を欠き、燃費も悪く、3度入賞したものの7戦連続リタイアなどパトレーゼの実力を発揮できないシーズンとなってしまった。
1985年、前年以上にマシンの戦闘力が落ち、完走も4回と良いところ無し。キャリア初のノーポイントに終わり、「自身、最悪のシーズン」と振り返るほど苦しんだ。シーズン後にはアルファロメオがF1から撤退し、古巣のブラバムへ復帰することになった。
1986年、操作の難しいマシンに苦しみ6位入賞2度にとどまる。シーズン中のテストではチームメイトであったエリオ・デ・アンジェリスの事故死という悲劇にも見舞われた。
1987年、第14戦メキシコGPで久しぶりの3位表彰台に立つも、シーズン通して入賞は2度と苦しんだ。第15戦日本GPでは怪我で負傷したナイジェル・マンセルの代役としてウィリアムズから出場した。これがきっかけとなったのか、翌年ウィリアムズF1のレギュラードライバーとして契約した。
1988年、ホンダエンジンを手放しマシンの戦闘力や信頼性が落ちたことから苦戦を強いられた。しかし、シーズン終盤には3戦連続入賞と意地を見せた。
1989年、ルノーエンジンを得てパワーアップしたマシンを駆り、開幕戦ブラジルGPでは僚友ティエリー・ブーツェンとフロントロウ独占(決勝はリタイア)、第4戦~第7戦まで4戦連続表彰台など好調、ランキングはマクラーレン勢に次ぐ3位となった。
1990年、第3戦サンマリノGPで実に7年ぶり、99戦ぶりの優勝(7年はF1史上最長期間、99戦はキミ・ライコネンの113戦ぶりに抜かれるまで最長記録であった)、入賞8回、ファステストラップもこのシーズン最多の4度記録するも、ランキングは7位と今一つな成績に終わった。
1991年、3年ぶりにマンセルとタッグを組む。第5戦カナダGPで初のポールポジションを獲得すると、第6戦メキシコグランプリでは初のポールトゥウィンを達成。第13戦ポルトガルGPでもポールトゥウィンを達成するも、中盤戦以降はマンセルが本来の調子を取り戻し、セカンドドライバーの立ち位置に。ランキングはアイルトン・セナ、ナイジェル・マンセルに次ぐ3位となった。
1992年、チームは絶好調であったもののアクティブカー特有の挙動に順応するのに遅れ、第15戦の日本GPで優勝するものの、同僚マンセルとの成績は予選成績では2勝14敗、優勝回数はマンセル9回、パトレーゼ1回と順応の速かったマンセルに圧倒されてしまった。シーズン中チームオーダーによるセカンドドライバーの役割に苦慮する場面も見られた。シーズン後、年俸の高騰やウィリアムズの方針への不満からベネトンへ移籍した。
1993年、表彰台2回を含む7度の入賞を記録するも、新たにチームメイトになったミハエル・シューマッハに遅れを取り、第7戦カナダGPでは走行中に足がつるなど体力の衰えを隠せない一幕も見せてしまった。シーズン後にはシートを喪失してしまった。
F1シート喪失後
1994年は未所属で開幕し、シートに空きが出るのを待っていた。しかし第4戦サンマリノGPでアイルトン・セナが事故死した際、ウィリアムズからオファーが届いたものの断り、そのまま引退した。
F1引退後は1995年にドイツ・スーパーツーリングカー選手権 (STWカップ) 、1997年にル・マン24時間耐久レースに参戦。
その後は草レースなどで走り、2018年にスパ24時間耐久レースにブロンズクラスで参戦した。
人物・エピソード
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関連項目
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