武田信昌(たけだ・のぶまさ 1447 ~ 1505)とは、甲斐国の戦国大名である。甲斐武田家16代当主。武田信守の子。子に武田信縄、油川信恵、岩手縄美、松尾信賢、帰雲軒宗存がいる。
ここでは子・岩手縄美についても記す。
ここまでの甲斐武田氏
甲斐武田氏(以下武田氏)は源頼義の三男・源義光を祖とする甲斐源氏の嫡流、本家である。佐竹氏・小笠原氏・南部氏なども同系統にあたる。
義光を初代として数えるケースもあれば、武田姓を初めて名乗った武田信義(義光曾孫)を初代としている事もある。大百科では前者を初代としている(※既に作成されている武田信玄の記事が後者の代数になっており、それが2016年時点で編集停止状態になっているため、そちらに合わせておく)。
11代・武田信成の弟・武田氏信が安芸武田氏(のちの若狭武田氏)を、14代・武田信重の弟・武田信長が上総武田氏をそれぞれ創設し、武田一族は各地に広がっていった。武田本家は長らく甲斐に土着して勢力を拡張していたが、13代・武田信満の時に上杉禅秀の乱(1416年)に加担したために自害に追い込まれ、一時的に滅亡。以降は雌伏の時を過ごす。当主は操り人形となり、跡部氏や穴山氏といった豪族たちに実権を握られていた。
生涯
1447年、武田信守の子として誕生。
1450年、祖父の14代・武田信重が家臣に暗殺されてしまう。1455年には跡を継いだ父・信守も治世わずか5年で病没し、若干9歳の信昌が家督を継ぐ。このように武田氏は暗黒期真っ只中であり、守護代である跡部明海&跡部景家父子の専横を許していた。これをよく思わない家臣たちの助けもあり、1464年に跡部明海が病死すると、その翌年には諏訪信満の援軍も借りて跡部景家を小田野城にて自害に追い込んだ。
1472年になると信濃の佐久郡・小県郡を領する豪族・大井政光&大井政朝父子が甲斐へと乱入してきたため、これと戦った。のち弱体化した大井氏に対して外征を図ったが、当時の信濃では村上政清&村上政国父子が大きく勢力を拡大しており、彼らに阻まれて撤退を余儀なくされた。まもなく村上氏は大井安房丸(政光の子、政朝の弟)を小諸へと追い払い、大井氏を滅ぼしている。
また甲斐国内においても跡部氏の排除に成功したまでは良かったが、後年になると穴山氏や小山田氏などの有力国人衆が勢力を伸ばし始めた。
1491年に嫡男・武田信縄に家督を譲った。にも拘わらず、後に次男・油川信恵を当主に据えようと変心したために内紛が発生。伊勢盛時の介入を受けるなど甲斐国内は大混乱となった。半滅亡状態で衰退していた武田氏を復興させたかに見えたが、これで再び武田氏は低迷期を過ごすこととなり、内紛の最中に病死。
曾孫にあたる武田信玄(晴信)は、信昌の『昌』字を家臣に与えることが多かった。自分の『晴』は将軍・足利義晴から賜った物、『信』は武田の通り字、かといって追放した信虎の『虎』字を用いる訳にもいかず…という都合上と思われるが、武田家復活の第一歩を踏み出した人物としての評価がうかがえる。
補足
「信長の野望」(PC)シリーズにおける武田信昌の能力一覧。
1作品のみ、シナリオも1495年のみの登場。まあまあの能力。
子・岩手縄美
岩手縄美(いわて・つなみつ/つなよし ? ~ 1508)とは、甲斐国の戦国武将である。武田信昌の子。兄に武田信縄、油川信恵。弟に松尾信賢、帰雲軒宗存。子に岩手信盛、岩手信行がいる。
甲斐国内の岩手という場所に所領を与えられたため、岩手姓を称す。
長兄・武田信縄の死後、次兄・油川信恵と共に甥・武田信虎に対して叛旗を翻す。1508年、勝山合戦で大敗して戦死した。
関連項目
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