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武田元明とは (タケダモトアキとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

武田たけだ元明もとあき単語たんご

7けん
タケダモトアキ
5.5せん文字もじ記事きじ
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武田たけだ元明もとあき(たけだ・もとあき 1562ねん1582ねん)とは、戦国せんごく時代じだい武将ぶしょう大名だいみょうである。若狭わかさこく福井ふくいけん西部せいぶ)を統治とうちした武田たけだいえとうあるじつとめた。

概要がいよう

若狭わかさ大名だいみょう武田たけだ義統よしむねつま京極きょうごくりゅうで、のち豊臣とよとみ秀吉ひでよし夫人ふじんとなった。
戦国せんごく時代じだい武田たけだいえちからうしない、武田たけだ元明もとあき越前えちぜん朝倉あさくらいえかげひびきしたかれた。
朝倉あさくらいえほろぼした織田おだ信長のぶながから冷遇れいぐうされ、本能寺ほんのうじへん信長のぶながった明智あけち光秀みつひできょうちから
明智あけち光秀みつひではいすると、武田たけだ元明もとあき織田おだいえからのゆびしめせ自害じがいさせられた。

ほこたか名門めいもん武家ぶけ

武田たけだいえみなもと血統けっとうつたえる名門めいもんであり、室町むろまち幕府ばくふ要職ようしょくつとめて活躍かつやくしたいえだった。
武田たけだいえおさめた若狭わかさこく現在げんざいでも日本海にほんかい京都きょうとむす重要じゅうような「うみげん関口せきぐち」である。
室町むろまち時代ときよ中期ちゅうきからの相次あいつ自然しぜん災害さいがい戦乱せんらん最中さいちゅうでも近畿きんき地方ちほうである程度ていど秩序ちつじょたもたれたうらには、武田たけだいえ若狭わかさ士民しみん活動かつどうがあった。
歴代れきだい武田たけだいえとうあるじ室町むろまち将軍しょうぐんささえたが、そのために中央ちゅうおう政変せいへんあおけることもおおかった。武田たけだいえ苦難くなん歴史れきしは、「武田たけだ義統よしむね」の記事きじくわしい。

戦国せんごく時代じだいおとずれととも若狭わかさではかく地域ちいき住民じゅうみん権益けんえきまもくにひとしゅたけちからこうそうかえしたが、若狭わかさ人々ひとびと武田たけだいえ敬慕けいぼしたのでほかくにのようなもとうえしょうじなかった。
国人くにびとしゅ盛衰せいすいはげしかったが)
こうそうあいだ武田たけだいえ若狭わかさしゅうひきいてしばしば京都きょうと駐留ちゅうりゅうし、幕府ばくふきょうちからした。

戦国せんごく時代じだいほか地方ちほうべれば若狭わかさ状況じょうきょう大分おおいたマシだったが、1540年代ねんだい近畿きんき三好みよし長慶ちょうけい台頭たいとうして中央ちゅうおうちからものだった細川ほそかわはるもとおとしたことで状況じょうきょう一変いっぺんする。細川ほそかわはるもと武田たけだいえ越前えちぜん朝倉あさくらいえ盟友めいゆうだった。
さらに三好みよしいえ丹波たんば若狭わかさ近江おうみ西部せいぶねらったが(日本海にほんかいへの進出しんしゅつはかった?)、当時とうじてんわざわい直撃ちょくげきひさしろくしょう氷河期ひょうがき)をけたとなりくに越前えちぜん住民じゅうみんにとって若狭わかさ生命せいめいせんだった。
ここに三好みよしいえVS朝倉あさくらいえという大勢おおぜいちからこうそう勃発ぼっぱつりょういえ若狭わかさじんもうとくにひとしゅあらそいに介入かいにゅうし、武田たけだいえ分裂ぶんれつして三好みよし朝倉あさくら代理だいり戦争せんそうおこな泥沼どろぬま突入とつにゅうした。
この内戦ないせん武田たけだ元明もとあきまれたころつづいており、ちち武田たけだ義統よしむね)とちち武田たけだしんゆたか)が各々おのおの支持しじするくにひとしゅひきいてたがいにあらそっていた。

そのような状況じょうきょうは、三好みよし長慶ちょうけいとその重臣じゅうしん内藤ないとう宗勝むねかつ若狭わかさ侵攻しんこう担当たんとう)の相次あいつわった。つづいて三好みよしいえ将軍しょうぐんころせがいしたうえ内部ないぶ分裂ぶんれつすると、三好みよしいえ若狭わかさへの侵攻しんこうどころではなくなった。
そのため朝倉あさくらいえ若狭わかさ積極せっきょくてき介入かいにゅうをする必要ひつようがなくなり、またどう時期じき北陸ほくりくいち本願寺ほんがんじ教団きょうだん)との対決たいけつ優先ゆうせんしたため、若狭わかさ代理だいり戦争せんそうから解放かいほうされた。
ただし朝倉あさくらぐんあるじちからきた加賀かがいちたたかっているあいだ越前えちぜんしゅう若狭わかさ侵攻しんこうはん朝倉あさくら攻撃こうげきしてかれらの所領しょりょう襲撃しゅうげき略奪りゃくだつおこなった。
三好みよしいえいたのちも、越前えちぜんしゅうにとってはん朝倉あさくら存在そんざい略奪りゃくだつおこな恰好かっこう標的ひょうてきとなっていた。

一方いっぽう武田たけだいえでは若狭わかさ内戦ないせん終結しゅうけつけたうごきがはじまった。
武田たけだしんゆたか朝倉あさくら)と武田たけだ義統よしむね三好みよしいえ)が和解わかいし、武田たけだいえひとつにもどった。

このころ武田たけだいえ元明もとあきつま京極きょうごくりゅうむかえた。
りゅうははマリアは、近江おうみ戦国せんごく大名だいみょう浅井あさい長政ながまさあねである。当時とうじ浅井あさい長政ながまさ近江おうみ西部せいぶ高島たかしまぐん若狭わかさ隣接りんせつ)・坂本さかもとぐんいきおいちから拡大かくだいしていた。

またりゅうちちである京極きょうごくこうきち将軍しょうぐんしょくめぐあらそいで足利あしかが義昭よしあき近江おうみおおやけかた)を支持しじした。浅井あさい長政ながまさ足利あしかが義昭よしあき支持しじしゃだった。
将軍しょうぐんいえ代々だいだいつづいた内紛ないふん近江おうみおおやけほうVSおもねなみおおやけかた)では近江おうみおおやけかた支持しじしてきた武田たけだいえ足利あしかが義昭よしあき支持しじ

1568ねん織田おだ信長のぶながしょ大名だいみょうけてうえらくへいげた。武田たけだいえ浅井あさいいえ朝倉あさくらいえとも参加さんかするはずだった。

武田たけだ元明もとあき受難じゅなん

1568ねん9月織田おだ信長のぶなが浅井あさい長政ながまさ軍勢ぐんぜい中心ちゅうしんとなって足利あしかが義昭よしあきうえらく作戦さくせん実行じっこう近江おうみおおやけかた支持しじするしょいきおいちから合流ごうりゅうしてうえらく実現じつげんした。
そのいちつきまえ若狭わかさでは朝倉あさくらぐん侵攻しんこうしてはん朝倉あさくらくにひとしゅ攻撃こうげきし、武田たけだ元明もとあきを「拉致らち」または「保護ほご」して越前えちぜん朝倉あさくら義景よしかげ武田たけだ元明もとあきいちじょうたに朝倉あさくらいえ本拠地ほんきょち)にまわせた。
朝倉あさくらぐんうえらく作戦さくせん参加さんかせず、朝倉あさくら義景よしかげ足利あしかが義昭よしあき政権せいけんたいして敵対てきたいはしないがきょうちからもしない態度たいどつづけた。
若狭わかさでは朝倉あさくらはん朝倉あさくらこうそうつづいた。

1570ねんつい織田おだ信長のぶなが大軍たいぐんひきいて若狭わかさみ、こうそう調停ちょうていつづいて朝倉あさくらりょう越前えちぜん侵攻しんこうしたが、浅井あさい長政ながまさ敵対てきたいしたため織田おだぐん撤退てったいした。(金ヶ崎かねがさきたたか
近江おうみきた西部せいぶ浅井あさいぐん朝倉あさくらぐんさえた。
しかし若狭わかさこく京都きょうとおさめる政権せいけんにとって重要じゅうよう土地とちであることにわりはなく、織田おだ信長のぶなが同年どうねん織田おだいえ名将めいしょうである丹羽にわ長秀ながひで明智あけち光秀みつひで若狭わかさ派遣はけんした。
りょうしょう若狭わかさから朝倉あさくらいえいきおいちから排除はいじょのち丹羽にわ長秀ながひで若狭わかさ統治とうちした。
こうして武田たけだ元明もとあきらないあいだ丹羽にわ長秀ながひでとの因縁いんねんはじまった

1573ねん織田おだぐん越前えちぜん侵攻しんこうして朝倉あさくらいえほろぼした。
若狭わかさしゅう織田おだぐん参加さんかして奮闘ふんとうし、武田たけだ元明もとあきを「救出きゅうしゅつ」した。
かれらは武田たけだいえ復権ふっけんのぞんだが、織田おだ信長のぶなが丹羽にわ長秀ながひで若狭わかさ統治とうちしゃえた。
1575ねん越前えちぜん侵攻しんこうでも若狭わかさしゅうだい活躍かつやくしたが、武田たけだいえ復権ふっけんかった。
武田たけだ元明もとあき織田おだいえからのゆびしめせ武田たけだいええんふか若狭わかさ神宮寺じんぐうじうつんだ。

武将ぶしょうとしての活躍かつやく

とはいえ武田たけだ元明もとあき神宮寺じんぐうじかそけとざされたわけではなく、若狭わかさしゅう一緒いっしょ織田おだ信長のぶながいにったり、文化ぶんかひと交流こうりゅうした。
いま就職しゅうしょく活動かつどうをしたのうせいがある。
その甲斐かいあってか織田おだいえから若狭わかさきた西部せいぶ所領しょりょうあたえられた。

織田おだ政権せいけんはたらくことになった武田たけだ元明もとあきだったが、本能寺ほんのうじへん1582ねん)では明智あけち光秀みつひで味方みかたした。
このとき若狭わかさしゅうおおくは織田おだいえ四国しこく討伐とうばつぐん参加さんかして不在ふざいだったが、くにもとのこっていた人々ひとびと武田たけだ元明もとあき支持しじして挙兵きょへいした。
武田たけだ元明もとあきかれらをひきいて近江おうみ高島たかしまぐん侵攻しんこう南進なんしんして明智あけち光秀みつひでぐん合流ごうりゅうし、琵琶湖びわこ南東なんとう佐和山さわやましろ丹羽にわ長秀ながひできょしろ)をとした。

どう時期じき近江おうみ北東ほくとうきゅう浅井あさいりょう)ではつまりゅう兄弟きょうだいである京極きょうごく高次こうじ京極きょうごく浅井あさい旧臣きゅうしんたちから支持しじけて挙兵きょへいし、どう地域ちいき制圧せいあつ
武田たけだ元明もとあき京極きょうごく高次こうじ活躍かつやくにより、いちはや明智あけち討伐とうばつ準備じゅんびはじめた織田おだいえ北陸ほくりく方面ほうめんぐん南進なんしん抑止よくしされた。

しかし山崎やまざきたたか肝心かんじん明智あけち光秀みつひではい
前後ぜんごして越前えちぜん柴田しばた勝家かついえ織田おだいえ重臣じゅうしん)が派遣はけんした軍勢ぐんぜい近江おうみ北東ほくとう奪還だっかん京極きょうごく高次こうじ近江おうみから逃亡とうぼうして若狭わかさはしり、さらに柴田しばた勝家かついえもとんだ。

東西とうざいから織田おだぐんせまなか武田たけだ元明もとあき逃亡とうぼうせず丹羽にわ長秀ながひでからのしにおうじて出向でむいたてら自害じがいした。

つま京極きょうごくりゅうのち寧々ねね豊臣とよとみ秀吉ひでよしつま)のちからえで厚遇こうぐうけ、豊臣とよとみ秀吉ひでよし夫人ふじん一人ひとりとなり、豊臣とよとみ滅亡めつぼう寧々ねねきょうちからした。
京極きょうごく高次こうじ武田たけだ元明もとあきのように自害じがいいられることはかった。のち若狭わかさ大名だいみょうとなり、武田たけだ元明もとあき遺児いじいえしんむかれた。
武田たけだ元明もとあき軍勢ぐんぜい参加さんかした若狭わかさしゅうを、丹羽にわ長秀ながひで粛清しゅくせいしなかったとされる。

武田たけだ元明もとあき自分じぶんいちにんいのち決着けっちゃくをつけるという武将ぶしょう最期さいごつとめをたした。

補足ほそく

三好みよしいえ朝倉あさくらいえじゅうねん抗争こうそう

三好みよしいえ朝倉あさくらいえあらそいは、細川ほそかわはるもとけんから20ねんあつしはさんではじまった若狭わかさ争奪そうだつせんからかぞえても10ねんおよぶ。
りょういえあらそいは周辺しゅうへん大名だいみょうみ、さらにそのさきしょ大名だいみょうにも多大ただいかげひびきあたえた。


あさいえというのちたて

武田たけだいえ朝倉あさくらいえVS三好みよしいえこうそういていた当時とうじ状況じょうきょうから、だいさんぜいちから浅井あさいいえたよったのかもしれない。
浅井あさい長政ながまさいえいきおいちからのみでかくじょうろくかくに互かく以上いじょうたたかいをしながら、同時どうじひがし斎藤さいとう攻撃こうげきして織田おだ信長のぶなが援護えんごまでした、たよりになる英雄えいゆうだった。

その浅井あさいいえ近江おうみ南部なんぶろくかく攻撃こうげきしていきおいちから拡大かくだいした大名だいみょうであり、ろくかく朝倉あさくらいえ盟友めいゆうだった。さらに浅井あさいいえは、朝倉あさくらいえろくかく接近せっきんしたひがし斎藤さいとう攻撃こうげきした。
つまり当時とうじ浅井あさいいえ朝倉あさくらいえにとって危険きけん存在そんざいだった。

そして武田たけだいえ若狭わかさ)と浅井あさいいえ近江おうみ北部ほくぶ)がむことで、りょういえ琵琶湖びわこ西にしまわり(若狭わかさ近江おうみ西部せいぶ京都きょうと瀬戸内海せとないかい)と、ひがしまわり(若狭わかさ近江おうみ東部とうぶ美濃みのちょう伊勢いせわん)の流通りゅうつうもう入口いりくち管理かんりすることがのうとなる。

1560年代ねんだい前半ぜんはんまでのいきおいちから関係かんけい
三好みよしいえ本願寺ほんがんじ教団きょうだんVSばーさす朝倉あさくらいえろくかく同盟どうめい交渉こうしょう斎藤さいとう
浅井あさいいえ1550年代ねんだい後半こうはんろくかく従属じゅうぞくしていたとされるが、上記じょうきこうそうにおいて浅井あさいぐん朝倉あさくらぐんろくかくぐんきょうちからしたことをしめ史料しりょうがなく、日和見ひよりみをしたかそもそも中立ちゅうりつだったうたがいがある。


あさくらぐんおこなった武田たけだ元明もとあき身柄みがら確保かくほ

甲斐かい武田たけだ信玄しんげん朝倉あさくらぐん行動こうどうを、同門どうもん武田たけだ元明もとあき保護ほごしたとして感謝かんしゃした。
若狭わかさ当時とうじ相変あいかわらずくにひとしゅ抗争こうそうしていたので、保護ほごもありえたはなしである。
ただし当時とうじ若狭わかさではちち武田たけだしんゆたか長年ながねん朝倉あさくらいえきょうちから)が健在けんざいでありかれ支援しえんすれば十分じゅうぶんではなかったのか、保護ほごのために武田たけだ元明もとあきちちからはなして越前えちぜんまでれて必要ひつようがあったのかは疑問ぎもんのこる。
朝倉あさくらいえ若狭わかさ事情じじょうをありのまま武田たけだ信玄しんげんしらせたのか、とおはなれた甲斐かい武田たけだいえ若狭わかさ事情じじょう正確せいかく把握はあくしていたのか、朝倉あさくらいえからのしらせを素直すなおしんじたかどうかもになるところである。

朝倉あさくらいえおこなった武田たけだ元明もとあきの「保護ほご」は、うえらく作戦さくせん実施じっしいちつきまえという時期じき出来事できごとだった。
近江おうみおおやけほう面々めんめんからすればうしろからたれたようなものである。
朝倉あさくらぐんうえらく作戦さくせん参加さんかせず、しん政権せいけんだておもねなみおおやけほう反撃はんげきしてきたとき近江おうみおおやけほう支援しえんしなかった。

当時とうじ朝倉あさくらいえ甲斐かい武田たけだいえはそれぞれの宿敵しゅくてききょうちからしていた。

朝倉あさくら義景よしかげ同盟どうめい上杉うえすぎ謙信けんしん
 ×       ×
北陸ほくりくいち同盟どうめい武田たけだ信玄しんげん

この北陸ほくりくいち加賀かがいち越中えっちゅういち構成こうせいされており、両国りょうこくいちたがいに援軍えんぐんおく関係かんけいだった。
武田たけだ信玄しんげん越中えっちゅういち同盟どうめい関係かんけいむすんでいた。
くわえて北陸ほくりくいち支持しじする本願寺ほんがんじ教団きょうだんほうあるじ顕如けんにょ武田たけだ信玄しんげんおや戚の間柄あいだがらだった。
また当時とうじ武田たけだ信玄しんげん織田おだ信長のぶなが同盟どうめいしており、その織田おだいえ美濃みの越前えちぜんとなりくに)をせいふくしていた。

武田たけだ元明もとあき保護ほご」の前年ぜんねん1567ねん加賀かがいち大軍たいぐん越前えちぜん侵攻しんこうした。
朝倉あさくらいえそうちからげていちぐんたたか撃退げきたい朝倉あさくらいえ居候いそうろうしていた足利あしかが義昭よしあき仲裁ちゅうさいはいり、あつし成立せいりつさせたばかりだった。

甲斐かい武田たけだいえ朝倉あさくらいえおくった「感謝かんしゃ」の書状しょじょうは、
同門どうもん元明もとあき殿しんがり保護ほごしてくださってありがとうございます

元明もとあき殿しんがり身柄みがら丁重ていちょうあつかっていますよね? 名門めいもん武田たけだいえ一員いちいんに危がいくわえたらゆるさぬぞ。めい友達ともだちきつけて報復ほうふくするからな!」
という信玄しんげんからのおどしだったのかもしれない。


足利あしかがよしあきら政権せいけん若狭わかさ

1568ねんじょうらく成功せいこうにより誕生たんじょうした足利あしかが義昭よしあき政権せいけん近江おうみおおやけかた)だったが、おもねなみおおやけほう四国しこく支持しじしゃ中心ちゅうしんとなっていきおいちから挽回ばんかいはかった。
翌年よくねんにはおもねなみおおやけほう京都きょうと襲撃しゅうげきしたほんてらへんもあり、近畿きんき地方ちほう西部せいぶ情勢じょうせい流動的りゅうどうてきだった。
京都きょうと統治とうちというてんからると、瀬戸内海せとないかい京都きょうとあいだ流通りゅうつうのみをてには出来できなかったのが当時とうじ情勢じょうせいだった。
なので義昭よしあき政権せいけん信長のぶなが政権せいけんにとっての若狭わかさ重要じゅうようせいは、三好みよし長慶ちょうけいころよりもうえだったかもしれない。
足利あしかが義昭よしあき織田おだ信長のぶなが朝倉あさくらいえ動向どうこうみ、各々おのおの朝倉あさくら義景よしかげうえらくうながした=政権せいけんへの参加さんかもとむめた。
ぎゃくかんがえると、朝倉あさくら義景よしかげ行動こうどう義昭よしあき政権せいけん不安定ふあんていにさせるものだった。


いえはた丹羽たんばちょうしゅう

丹羽にわ長秀ながひでわかころから織田おだ信長のぶながつかえてだい活躍かつやくつづけた武将ぶしょうだった。
その丹羽にわ長秀ながひで明智あけち光秀みつひでが、こうそうすうじゅうねんつづいた若狭わかさひらたじょうした。

ところで足利あしかが義昭よしあき政権せいけんつづ信長のぶなが政権せいけんたのみとしただろう日本海にほんかい京都きょうとむすルートは2つある。
一方いっぽう若狭わかさから近江おうみ西部せいぶ(または琵琶湖びわこ)をとお京都きょうとへのルート
他方たほう若狭わかさまたはから丹波たんばとお京都きょうといたルート
この2つのルートじゅう要地ようち織田おだ信長のぶながからまかされた丹羽にわ長秀ながひで明智あけち光秀みつひでが、武田たけだ元明もとあき人生じんせい左右さゆうした。


武田たけだ元明もとあき領地りょうち

織田おだいえ武田たけだ元明もとあきあたえた領地りょうち若狭わかさきた西部せいぶで、織田おだいえ排除はいじょされた朝倉あさくらくにひとだった武藤むとうともえき領地りょうちだった。武藤むとうみずぐんひきいてつよもりほこった武将ぶしょうだったので、そのあたりはうみうんなどで実入みいりのおお土地とちだったのうせいがある。
武藤むとうのち武田たけだ元明もとあき挙兵きょへい参加さんかした。
それまでの武藤むとう消息しょうそく不明ふめい武田たけだ元明もとあき武藤むとう旧領きゅうりょうおさめるようになってから居候いそうろうしてたのかもしれない。


武田たけだ元明もとあき京極きょうごくだかつぎ共闘きょうとう

本能寺ほんのうじへんでは秀吉ひでよし中国ちゅうごくだいかえしが有名ゆうめいだが、じつ北陸ほくりく柴田しばた勝家かついえ秀吉ひでよしけずおとらずはやかった。
本能寺ほんのうじへんった柴田しばた勝家かついえただちに越前えちぜん帰還きかんし、いずるじん準備じゅんびはじめた。
そしてじんしていれば、もあった。
というのも近江おうみ南部なんぶには、柴田しばた勝家かついえもと部下ぶかだったくにひとしゅ大勢おおぜいいた。そしてかれらは本能寺ほんのうじへんこう織田おだいえ支持しじして明智あけちぐんたたかっていた。柴田しばた勝家かついええんふか佐久間さくまいえいがあるくにひとしゅもいたし、丹羽にわ長秀ながひで忠実ちゅうじつくにひとしゅもいた。
柴田しばた勝家かついえ現地げんち辿たどくができれば、かれらを糾合きゅうごうして明智あけちぐん決戦けっせんいどむことができたのである。
しかし武田たけだ元明もとあき京極きょうごく高次こうじふさがった。

なので柴田しばた勝家かついえ障害しょうがいとなる武田たけだぐん京極きょうごくぐん排除はいじょしなければならなかったのだが、名門めいもん御曹司おんぞうしたちは地元じもと人々ひとびとから支持しじけたからこそ挙兵きょへいできた。
そのてきぐん本能寺ほんのうじへんこうみじか時間じかん威圧いあつしてしたがわせる、または駆逐くちくするには大軍たいぐん必要ひつようだったはずである。
ところが当時とうじ北陸ほくりく情勢じょうせい不穏ふおんだったため、柴田しばた勝家かついえただちに大軍たいぐんひきいて近江おうみじんすることは不可能ふかのうだった。
柴田しばた勝家かついえ部下ぶか柴田しばたかつゆたかたちを近江おうみ派遣はけんした。この軍勢ぐんぜい近江おうみ北東ほくとう確保かくほしたものの、そのあいだ羽柴はしば秀吉ひでよし明智あけち光秀みつひでやぶった(山崎やまざきたたか)。
きょうちからもの(になるかもしれない相手あいて)とのあいだ邪魔じゃましゃがいたかどうかが、柴田しばた勝家かついえ秀吉ひでよし明暗めいあんけた一因いちいんとなった。

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