どおりかん/まき291

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 まきひゃくきゅうじゅう どおりかん
まきひゃくきゅうじゅういち しゅう
まきひゃくきゅうじゅう 

おこりげん黓困あつしきゅうがつつき閼逢攝ひさげかくよんがつ,凡いちねんゆう

どおりかん だい291かん
こうしゅう】 おこりげん黓困あつしきゅうがつつき閼逢攝ひさげかくよんがつ,凡いちねんゆう

ふとしきよしかみきょう文武ぶんぶ皇帝こうてい中廣なかひろじゅんねんみずのえおおやけもときゅうねん


きゅうがつきのえとらついたちえつ丞相じょうしょう裴堅そつ。以台しゅう刺史ししくれのべぶくどうさんしょうごと
庚午こうご,敕北吏民毋得にゅうちぎりさかい俘掠。
ちぎりたんすすむだか謨翰以葦いかだわたりえびすかわ入寇にゅうこういたり冀州,成德しげのり節度せつど使なんぶくしんりゅうとし指揮しき使りゅうまこと誨等たむろかいしゅう以拒ちぎり聞之,遽引へいきたわたりところかすめ冀州ちょうたけしすうひゃくにん望見ぼうけん官軍かんぐんそう噪,よくおさむちぎり官軍かんぐん敢應,ちぎりつきころせこれ
しょく山南さんなん西道さいどう節度せつど使廷珪そうしゅうじん聚兵せきちゅう,請益へいため備。しょくぬしたてまつ鑾肅まもるおそれこうちょうすすむ將兵しょうへいおもむきとぎしゅうすんで而聞しゅうじん聚兵以備きたかん,乃引還。
から武安たけやす節度せつど使あたり鎬,昏懦無斷むだんざい湖南こなんせい多門たもんごう眾心。吉水よしみずじんおうこう上書うわがきげん:「鎬非將帥しょうすいざい,必喪湖南こなみむべべつそちえきへい以救其敗。」ほう
からあるじ使經略けいりゃくろうしゅうゆうろうしゅう來者らいしゃ多言たげんりゅうげん忠順ただまさ,鎬由不為ふため備。からしゅ召劉げん入朝にゅうちょうげんくだりいいおう逵曰:「から必伐わが奈何いかん?」逵曰:「たけりょう江湖こうこけんおびかぶとすうまんやすのう拱手こうしゅ受制於人!あたり鎬撫馭無かた士民しみんいちせんとりこ也。」げん猶豫ゆうよ未決みけつしゅうこう逢曰:「ごとたかそくなるそくかれ為之ためゆき備,不可ふか也。」げん乃以逵、くだり逢及きばしょうなんけいしんちょう仿、かば公益こうえきしゅぜん琇、宇文うぶん瓊、彭まんはん叔嗣、ちょうぶんひょうじゅうにんみなため指揮しき使部分ぶぶんはつへい。叔嗣、ぶんひょうみなろうしゅうじん也。くだり逢能はかりごとぶんひょう善戰ぜんせん,叔嗣果敢かかんさんにん相須あいす成功せいこうじょう款甚暱。
しょしょうよく召漵しゅう酋長しゅうちょう苻彥どおりため援,ぎょう逢曰:「蠻貪而無よし前年ぜんねんしたがえまれがくにゅう潭州,焚掠のこわれへい以義舉,往無かつがらすよう此物,使つかい暴殄百姓ひゃくしょう哉!」乃止。しかまたかしこ彥通ため後患こうかん,以蠻酋土だん指揮しき使りゅうためぐん蠻所はばか西境にしさかい鎮遏使以備
ふゆじゅうがつ,逵等將兵しょうへいぶんどうおもむきちょうしょう,以孫ろう、曹進ため先鋒せんぽう使へん鎬遣指揮しき使かくさいまこととう將兵しょうへいたむろえき以拒戊子ぼし,逵等かつ沅江,かんりゅううけたまわぐう,裨將とくそち眾五ひゃくくだこれみずのえたつ,逵等いのちぐん舉小ぶね蔽,ちょくみやつこえき四面しめんおの寨而いれとげ克之かつゆきころせ戍兵せんにんあたり鎬告きゅう於唐。かぶとうま,逵等かつ橋口はしぐち及湘かげ乙未おとみいたり潭州。あたり鎬嬰じょうもりすくいへいいたり城中じょうちゅうへいしょうへいさるよる,鎬棄じょうはし,吏民俱潰。醴陵もんきょうおり死者ししゃまん餘人よにんどうしゅう刺史しし廖偃ためらんへいしょころせちょうとりだんおう入城にゅうじょう自稱じしょう武平ぶへい節度せつど副使ふくしけんぐんごと,以何けいため行軍こうぐん司馬しばけいしんとうつい鎬,及,斬首ざんしゅひゃくきゅううす公益こうえきおさむたけしゅうからたけしゅう刺史ししそういさおけんはしりゅうげん以公えきけんたけしゅうからしょうもり湖南こなんしょしゅうしゃ,聞長すなおちいあいつぎ遁去。りゅうげんつきふくみねきたおもんみ郴、れんにゅう於南かん
ちぎり瀛、莫、かそけしゅう大水おおみず流民りゅうみんいれふさがきょ河北かほくしゃすうじゅうまんくちちぎりしゅうけんまたこれきんみことのり所在しょざいにぎわいきゅうそんしょちゅう國民こくみんさき為所しどころかすめとくしゃ什五ろく
丁未ていみたに以病ひじひさし癒,さんひょうみかどちゅう使つかいさとしゆび曰:「きょう所掌しょしょういたりじゅうちんなん其人,苟事こうかつしゅうなに朝禮ちょうれいちんこん於便殿どのまちきょう暫入しょう。」たににゅう於金さち殿どのめんひね悃款,みかどもとたにとくやめふくごとたにのう執筆しっぴつみことのり以三つかさつとむしげるれいこくめいしるしよう
からし,敕:「民有みんゆう訴訟そしょう,必先れきけんしゅう觀察かんさつ使處決しょけつじき,乃聽詣だいしょうある能書のうがき牒,倩人しょしゃ,必書しょ倩姓めいきょしょわか倩,聽執もとところ訴必須己ごと,毋得はさみわたしきゃく訴。」
慶州けいしゅう刺史ししかく彥欽せいむさぼ雞族ひつじ,彥欽擾之以求まいない雞族とげはんひょうげかすめつなしょうみかどいのちやすしたまきしゅうごうへい討之。
りゅうげん使つかいたてまつおもてらいつげしょう:「湖南こなん世事せじ朝廷ちょうてい不幸ふこうため鄰寇しょおちいしん雖不たてまつみことのり,輒糾合きゅうごう義兵ぎへいそぎひらたきゅうくに。」
からしゅそぎ官爵かんしゃくりゅうにょうしゅうはつ,鎬以おそれこうしたがえ查文徽克けんしゅう,凡所俘獲みなぜんこれけんじんいいあたり佛子ぶっし」;及克潭州,不易ふえき肆,潭人いいあたり菩薩ぼさつ」;すんで而為節度せつど使せい綱紀こうきおもんみしつらえとききょうもりおさむ佛事ぶつじ,潭人失望しつぼういいあたり和尚おしょう」矣。
ひだりぼくどうたいらあきらごと馮延おのれみぎぼくどうたいらあきらごとまごあきら上表じょうひょう請罪,みなしゃくあきらひね請不やめ,乃與のべおのれみなやめもり本官ほんかん
からしゅ以比ねん出師すいしこう,乃議きゅうへいいきみんある曰:「ねがい陛下へいかすうじゅうねん不用ふようへい小康しょうこう矣!」からしゅ曰:「はた終身しゅうしん不用ふようなにすうじゅうねんゆう!」からおもおもえおう廣之ひろゆきげんはい本縣ほんけんれい
十一月じゅういちがつからし,徙保節度せつど使おりしたがえ阮為せいなん節度せつど使,討野雞族。
みずのととり,敕:「やく每歲まいさい民間みんかんしょ輸牛がわさんふんげんけいじゅうごろぜい一皮ひとかわあまり聽民よう賣買ばいばいおもんみきんうり於敵こく。」さきへいきょう以來いらいきんみんわたし賣買ばいばい牛皮ぎゅうひ,悉令輸官受直。からあかり宗之むねゆき有司ゆうしどめつぐなえ以鹽;すすむ天福てんぷくちゅうなみしおきゅうかんほうはんわたし牛皮ぎゅうひいちすん抵死,しか民間みんかん日用にちようじつ不可ふかみかどもと其弊,いたりこく建議けんぎひとし於田うね公私こうし便びん
十二月じゅうにがつへいいぬかわけつていすべり使つかいぎょうおさむふさが
きのえうまぜんせいなん節度せつど使ほうあきらけんじかいえんきぬせんひきぎんひゃくりょうみかど受,曰:「諸侯しょこうにゅう覲,天子てんしよろしゆうえん犒,あにまちかいよこしま自今じこん如此しゃみな勿受。」
おう逵將へい及洞蠻五まんおさむ郴州,みなみかんはたはんたかしとおるすくいぐう於蚝せきたかしとおる登高とうこうもち湖南こなみへい,曰:「つかれ不整ふせいやぶ也。」たてげき大破たいはふくかばねはちじゅうさと
翰林かんりん學士がくしじょたい請誅誣告ぶこく崧者かずらのべぐうきよし,馮道以為屢更赦,もとおうたかしよしみだいよししろ於帝,みずのとおさむのべぐうきよし,誅之。
りゅうげんひょうしょう潭州ざんやぶ,乞移使治朗じろうしゅう,且請貢獻こうけんうれちゃ,悉如故事こじもと
から江西えにし觀察かんさつ使すわえおうまれがく入朝にゅうちょうからしゅとめすうねんそつ於金りょう,謚曰きょうこう
はつ,麟州土豪どごう楊信ため刺史しし受命じゅめい於周。しんそつじゅうくん嗣,以州くだきたかんいたりためぐん羌所かこえ復歸ふっき款,もとめすくい於夏、しゅう

ふとしきよしかみきょう文武ぶんぶ皇帝こうてい中廣なかひろじゅんさんねんみずのとうしおおやけもときゅうさんねん


はる正月しょうがつへいたつ,以武ひらとめりゅうげんため武平ぶへい節度せつど使せいおけ武安たけやす靜江しずえとう軍事ぐんじどうたいらあきらごと;以王逵為武安たけやす節度せつど使なにけいため靜江しずえ節度せつど使しゅうこう逢為武安たけやす行軍こうぐん司馬しば
みことのりおりしたがえ阮:「雞族のうあらためしゃはいかん賜金しきん帛,のりしんへい討之。」みずのえいぬしたがえ阮奏:「酋長しゅうちょうすもも萬全等受詔立誓外,自餘じよなお不服ふふくぽう討之。」
前世ぜんせい屯田とんでんみなざい邊地へんち使つかい戍兵つくだとうまつ中原なかはら宿やどへい所在しょざいみなおけ營田以耕曠土。其後またつのこう貲戶使輸課つくだ戶部とべ別置べっちかん總領そうりょう隸州けんあるちょうやくあるようひさし奸盜,しゅうけん不能ふのうつめりょうふとしげき淮南ワイナンかすめうし以千まんけいきゅう東南とうなんもろしゅう農民のうみん使つかいとし輸租。歷數れきすうじゅうねんうし而租じょみん甚苦みかどもと其弊,かい闔門使あおしゅうちょうしこりじょう便宜べんぎ,請罷營田つとむこくまた以為ごとおつうし,敕:「悉罷戶部とべ營田つとむ,以其みん隸州けん其田そのだいおりうしのうなみたまものつくだしゃ為永ためながぎょう,悉除租牛。」これさい戶部とべぞうさんまんみん既得きとく為永ためながぎょうはじめ敢葺植木うえきすうばいあるげん:「營田ゆうこえ鐃者,わか鬻之,とくぜにすうじゅうまん緡以こく。」みかど曰:「ざい於民,なお在國ざいこく也,ちんよう此錢なんため!」
萊州刺史ししじん魯,みかど吏也,すわ贓絹まんせんひきぜにせん緡。庚午こうごたまものみかどちゅう使つかいたまもの以酒しょく曰:「なんじ抵國ほうわれ如之なにとうそん恤汝はは。」ひとし感泣かんきゅう
みかど以河けつためゆうおうたかし請自往行もと。鎮寧節度せつど使さかえ屢求入朝にゅうちょうたかし其英れつまい沮止そし閏月じゅんげつさかえふくもとめ入朝にゅうちょうかいたかしざい河上かわかみみかど乃許
ちぎり寇定しゅうかこえよしゆたかぐんていかず指揮しき使楊弘ひろしよるげき其營,だいちぎり遁去。また寇鎮しゅう本道ほんどうへいげきはしこれ
へいさる,鎮寧節度せつど使さかえ入朝にゅうちょうまもるさだ騎士きしぜん乂從さかえ入朝にゅうちょうみかど召見,殿どのぜん指揮しき使いい左右さゆう曰:「ぜん乂忠於所ごとむかしざい河中かわなか,屢挫われぐんなんじやからむべこう。」おうたかし聞榮入朝にゅうちょう,遽自河上かわかみつちのえいぬ至大しだいはり
雄武おうむ節度せつど使こうまことけんそつ,其子きば指揮しき使紹基はかりごとかさねちち詐稱さしょうまことけん疾病しっぺいおもておのれぐんごと觀察かんさつ判官ほうがんあきらきり諫,紹基いかこれからしうし,以彬謀反ぼうほん聞。
おうたかしかたもとめりょう籓鎮,みかどとくやめみずのえとら,以峻兼平かねひら節度せつど使
こう紹基屢奏ざつとりこはんあたり,冀得うけたまわかさねみかど六宅使張仁謙詣延州巡檢,紹基不能ふのう匿,始發しはつちち
つちのえさるおりしたがえ阮奏くだじゅう一族いちぞく
唐草からくささわ邵棠じょうげん:「きんゆう淮上,聞周ぬし恭儉きょうけんぞうおさむ德政とくせいわれへいしんやぶ於潭、ろうおそれ其有みなみ征之まさゆきこころざしむべ為之ためゆき備。」
はつおう逵既かつ潭州,以指揮しき使なんけいため靜江しずえ節度せつど副使ふくししゅぜん琇為武安たけやす節度せつど副使ふくしちょうぶんひょうため武平ぶへい節度せつど副使ふくししゅうこう逢為武安たけやす行軍こうぐん司馬しばけいしんぜん琇各おけきばへいあずか逵分ちょうごと,吏民莫知しょしたがえまいうたげしゅうしょしょう使しゅまがえ拿如ふく上下じょうげこれぶんただぎょう逢、ぶんひょうごと逵盡れい,逵親あいけいあずか逵不きょうろうしゅうまた能事のうじりゅうげんあずかぜん琇謀さくらんげんもと逵之きょううたぐ逵使けい伺己,はた討之,逵聞,甚懼。くだり逢曰:「りゅうげんもとあずか吾輩わがはい同心どうしんなにけいしんしゅぜん琇恥ざいおおやけおおやけよろしはや。」逵喜曰:「あずか公共こうきょうじょきょうとうどう潭、ろうおっとふくなんゆう!」かいみなみかん寇全、みちながしゅうぎょう逢請:「いたりろうしゅうせつげんけいしんぜん琇南討,俟至ちょうすな,以計これ,如掌ちゅうぶつみみ。」逵從くだり逢至ろうしゅうげん以敬ため南面なんめんぎょう營招討使,ぜん琇為先鋒せんぽう使はたきばへい百餘人會潭州兵以御南漢。二人ふたりいたりちょうすな,逵出郊迎,そう甚歡,うたげいん連日れんじつ以美えさけい真因しんいん淹留すすむろうしゅう指揮しき使なか遷部へいさんせんにんひさ戍潭しゅうけいしん使先發せんぱつおもむきみねきたあたまかいとういん士卒しそつおもえこうなか遷擅還ろうしゅう。逵乘けいよい使つかいじんいつわりためげん使者ししゃせめけい以「みなみ寇深おかせ亟捍專務せんむあらえんふとしいのち械公かえり西府にしふ。」よしおさむ繫獄。ぜん琇逃へいおいこれがつからしついたちけい以徇。いくぜん琇及其黨じゅう餘人よにんみなこれ
みずのとうし,鎮寧節度せつど使さかえ澶州。
はつちぎりぬし德光とくみつきたかえ,以晉でん國寶こくほうずいいたりさら以玉さくたから
おう逵遣使以斬なんけいつげりゅうげんげんとくおのれ庚申こうしんかいとうすうにん
くるる密使みっしひら節度せつど使どうたいらあきらごとおうたかし晚節ばんせつえき狂躁きょうそう奏請そうせい以端あきら殿どの學士がくしがお衎、樞密すうみつちょく學士がくしひねかんだい范質、こく為相ためすけみかど曰:「進退しんたいおさむ輔,不可ふかくら猝,俟朕さらおもえこれ。」たかしりょくろんれつひた不遜ふそん日向ひなたちゅうみかどひさししょくたかしそうやめみかど曰:「今方いまがたかんしょく,俟假ひらけ,如卿しょそう。」たかし乃退。
みずのとみかどはこ召宰しょうくるる密使みっしいれかそけたかし於別しょみかど馮道とう,泣曰:「おうたかしりょうちんふとし甚,よくつき大臣だいじん,翦朕羽翼うよくちんおもんみいち專務せんむあいだ阻,暫令まい闕,やめふところ怨望。あにゆうてん樞機すうきふくけん宰相さいしょうまたもとめ重鎮じゅうちんかん其志おもむきことみつるいやきみ如此,だれそくこらえこれ!」甲子きのえね,貶峻しょうしゅう司馬しばせいりゃく曰:「にくぐん,孩撫ちん躬。」みかどおもんばか鄴都留守るすおういんやすいのちいんなおしょく使うけたまわ誨詣いんさとし以峻とくざいじょうたかしいたりしょうしゅうとくはらやましみかどなお愍之,いのち其妻往視いく而卒。
みかどいのちおりしたがえ阮分へいたむろのぶしゅうこう紹基はじめ懼,屢有貢獻こうけんまたいのち供奉ぐぶかんちょうふところさだはたきんへいりょう指揮しきたむろ鄜、のべ,紹基乃悉以軍ごと副使ふくしちょうただしかぶといぬ,以客しょう使こうくんけんのぶしゅう
さんがつきのえさる,以鎮やすし節度せつど使さかえため開封かいふういんすすむおうへいいぬ,以樞密すうみつ副使ふくしていひとし誨為鎮寧節度せつど使
はつころせうしぞく與野よの雞族ゆうすき,聞官ぐん討野雞,饋餉むかえたてまつ官軍かんぐん其財畜而かすめころせうしぞくはん與野よの雞合,はいやすししゅう刺史ししちょうけんたけ於包やまみかど以郭彥欽擾群えびす,致其さくみだれ,黜廢於家。
はつかいしゅう刺史しし浚儀かく元昭もとあきあずか榷鹽使あつしだまゆうすきゆたかだま婿むこじんうらため樞密すうみつ主事しゅじ元昭もとあきうたぐひとしうらひさしかいまもるさだはんゆたかだま有子ゆうこざい河中かわなか元昭もとあきおさむけいゆたかだまそうごと其叛,ことれんじんうらみかどためくるる密使みっし其誣,しゃく不問ふもんいたりひとしうらため樞密すうみつうけたまわむねもと昭代しょうだい,甚懼,洛陽らくよう,以告ひとしうらおとうとじん滌,ひとし滌曰:「われけい平生へいぜいあずか人為じんい怨,きょう肯以わたしがいこう乎!」すんでいたりちょうひとしうらしろみかど,以元あきらため慶州けいしゅう刺史ししおのれうし,以棣しゅうだんねり使ふとしはら王仁わに鎬為せん徽北いん使けん樞密すうみつ副使ふくし
からしゅふく以左ぼくしゃ馮延おのれどうたいらあきらごと
しゅうこう逢惡武平ぶへい節度せつど副使ふくしちょう仿,げん於王逵曰:「なにけいしん,仿之親戚しんせき,臨刑以後いごことぞく仿,おおやけむべ備之。」なつよんがつ庚申こうしん,逵召仿飲,よい而殺
へいとらかえりとく節度せつど使けんさむらいちゅうつねおもえ入朝にゅうちょうつちのえたつ,徙平節度せつど使將行まさゆきそう曰:「しんざいそうしゅう,舉絲よんまんりょう在民ざいみんあいだ,謹以うえすすむ,請征。」みかど頷之。五月ごがつちょう,敕榜そうしゅう凡常ぼんじょうおもえしょ舉絲悉蠲やめ輸者復歸ふっきおもえまた怍色。
とうまつ以來いらい所在しょざい學校がっこう廢絕はいぜつしょく毋昭裔出私財しざいひゃくまん營學かん,且請こくばんしるしきゅうけい》。しょく主從しゅうじゅうよししょくちゅう文學ぶんがくふくもり
ろくがつみずのえ,滄州そうちぎりたんともだい軍事ぐんじ范陽ちょうぞうえいらいくだ
はつからあかり宗之むねゆき宰相さいしょう馮道、請令ばん國子くにこかんさと校正こうせいきゅうけい》,こくばんしるしうり朝廷ちょうていしたがえこれちょういたなりけんじこれよし,雖亂世らんせい,《きゅうけいつて佈甚ひろ
おう逵以しゅうこう逢知潭州,將兵しょうへいかさねろうしゅう克之かつゆきころせ指揮しき使てい珓,武安たけやす節度せつど使どうたいらあきらごとりゅうげんかそけ於別かん
あきなながつおういんさんひょう入朝にゅうちょうみかどうたぐ其不まこと使つかいどめ
から大旱たいかんいずみ涸,淮水わたるひだる民度みんど淮而きたしゃしょうつぎほりことぶきはつへいこれみんあずかへい而北らいみかど聞之曰:「彼我ひがみん一也かずや,聽糴まい淮。」唐人とうじんとげちくくら糴以きょうぐんはちがつおのれみことのりとうみん人畜じんちくべいしゃ聽之,以舟しゃうんしゃ勿予。
おう逵遣使上表じょうひょう,誣「りゅうげんはかりごと以朗しゅうくだからまたよくおさむ潭州,其眾したがえはい而囚しんやめいたりろうしゅうなでやすぐん訖。」且請ふくうつり使潭州。かぶといぬ通事つうじ舍人とねり翟光裔詣湖南こなみ宣撫せんぶしたがえ其所請。逵還ちょうすな,以周ぎょう逢知ろうしゅうごとまたはん叔嗣ころせりゅうげん於朗しゅう
きゅうがつおのれたけしげる節度せつど使しろじゅうさんそうふさが決河けっか
ちぎり寇樂ことぶきひとししゅう戍兵みぎやすしあたまりゅう彥章ころせかんもりのべ熙,はかりごとおうちぎりかつなみ其黨ふく誅。
みなみかんおもりつ其子つぎきょうためまもるおう,璇興ためかつらおうけいきょうため荊王,きょうためただしおうたかしきょうためうめおう
ひがしあおじょみなみいたりやすふく西にしいたる、慈,きたいたるかい、鎮,みな大水おおみず
みかどいれあきとくふうしびれやましがい於食いん及步趨,じゅつしゃげんよろし散財さんざい以禳みかどほしまつ南郊なんこうまた以自はり以來いらい,郊祀つねざい洛陽らくよううたぐこれ執政しっせい曰:「天子てんししょすなわち以祀ひゃくかみなに必洛!」於是,はじめちく圜丘、社稷しゃしょくだんさくふとしびょう於大おだいはりみずのと馮道むかいふとしびょう社稷しゃしょく神主かんぬし於洛
みなみかん大赦たいしゃふゆ十一月じゅういちがつおのれうしふとしつね請准洛陽らくようちくよん郊諸だんしたがえこれ十二月じゅうにがつちょうついたち神主かんぬし至大しだいはりみかどむかえ於西郊,祔享於太びょう
鄴都留守るすてんゆう節度せつど使けんさむらいまもるおやぐん指揮しき使どうたいらあきらごとおういん恃功專橫せんおう,凡河きた鎮戍へい應用おうよう處分しょぶんしゃいんそく以帖ぎょうまた掊斂みんざいみかど聞之えつ使つかいじんいい曰:「きょう與國よこく同體どうたい,鄴都帑庾甚豐,きょうほっようそくこれなに患無ざい!」成德しげのり節度せつど使なんぶくしんもとあくいん甲子きのえねぶく進入しんにゅうあさみつ以殷かげごとしろみかどみかどよしうたぐこれおつうしいん入朝にゅうちょうみことのりとめいんたかしきょうじょう內外巡檢じゅんけん
つちのえたつしゅう防禦ぼうぎょ使おりとく扆奏きたかんはたたかし入寇にゅうこうげきはしこれ
おういんごと出入でいり從者じゅうしゃ常數じょうすうひゃくにんいん請量きゅうよろい仗以備巡邏じゅんらみかどなんときみかどたい不平ふへい將行まさゆき郊祀,而殷はさみふるえぬしいきおいざい左右さゆう,眾心みずのえさるみかどりょくやまししげるいさお殿どのいんにゅう起居ききょとげこれしたせい誣殷はかりごと以郊祀さくらんりゅうのぼりしゅう出城でしろころせこれいのち鎮寧節度せつど使ていひとし誨詣鄴都やすなでじん誨利いん家財かざい,擅殺いん,遷其ぞく於登しゅう
からほこらろうちゅうせい誥徐鉉言みつぎ舉初しつらえむべ遽罷,乃復ぎょう
さきすわえしゅう刺史ししけい洙請おさむ白水しろみず塘溉以實あたり,馮延おのれ以為便びん德明のりあきいん請大辟曠ため屯田とんでん修復しゅうふく所在しょざいみぞ塘堙はいしゃ。吏因えんおかせ擾,だいきょうりょくやくだつ民田たみだ甚眾,みん愁怨訴。じょ鉉以しろとうぬしから主命しゅうめい鉉按,鉉籍民田たみだ悉歸其主。ある譖鉉擅作ぶくからおもいかりゅう鉉舒しゅうしか白水しろみず塘竟なり
からおもまたいのちしょうかん馮延魯巡なでしょしゅうみぎ拾遺しゅういじょ鍇表のべ無才むさい多罪たざい,舉措かるあさむべたてまつ使つかいからおもいか,貶鍇こうしょろうぶん司東しとうみやこ。鍇,鉉之おとうと也。
どうしゅうばんようほら蠻酋ばんたかし聚眾自稱じしょうばんよう州都しゅうとすべ,屢寇郴、どうしゅう
おつみかどあさとおるふとしびょう兗冕,左右さゆうわき以登かいさいいちしつしゃくけんじ,俯首不能ふのうはい而退,いのちすすむおうさかえおわりれいゆう宿やど南郊なんこうやましゆうげきいくすくえ夜分やぶんしょういよいよ

ふとしきよしかみきょう文武ぶんぶ皇帝こうていちゅう顯德けんとく元年がんねんきのえとらおおやけもときゅうよんねん


はる正月しょうがつへいついたちみかどまつ圜丘,僅能瞻仰致敬而已,しん爵奠ぬさみな有司ゆうしだい大赦たいしゃ改元かいげん。聽蜀さかい通商つうしょう
つちのえとらやめ鄴都,ただしためてんゆうぐん
かのえたつすすむおうさかえけんさむらいちゅうばん內外兵馬へいばごととき群臣ぐんしんまれとくみかど中外ちゅうがい恐懼きょうく,聞晉おうてんへいにんこころやややす
ぐんゆう流言りゅうげん郊賞うす於唐あきら宗時むねときしゃみかど聞之,みずのえうま,召諸はたいたり寢殿しんでんゆずる曰:「ちん即位そくい以來いらいあくころも菲食,せん以贍ぐんためねん蓄積ちくせき四方しほう貢獻こうけん,贍軍そと,鮮有贏餘,なんじやからあに知之ともゆきこん乃縱兇徒きょうとあがくち顧人ぬし勤儉きんけん,察國貧乏びんぼうまたおもえおのれゆうなんこう而受しょうおもんみ怨望,於汝やから安乎あいが!」みな惶恐謝罪しゃざい退すささく不逞ふていしゃ戮之,流言りゅうげん乃息。
はつみかどざい鄴都,あい小吏しょうり曹翰ざい使つかいことすすむおうさかえさかえ鎮澶しゅう,以為きばしょうさかえにゅうため開封かいふういんべつ召翰,翰自いたりさかえかい。翰請あいだげん曰:「大王だいおう國之くにゆきもうか嗣,こん主上しゅじょうやまし大王だいおうとういれ侍醫じいやく奈何いかんなおけつごと於外よこしま!」さかえかんさとる即日そくじつにゅうとめ禁中きんちゅうへいいぬみかどやましあつとましょつかさほそつとむみな勿奏,ゆう大事だいじのりすすむおうさかえ稟進どめ宣行のぶゆきこれ
以鎮やすし節度せつど使ていひとし誨為くるる密使みっしどうたいらあきらごと
戊子ぼし,以義たけとめまご行友ゆきとも保義やすよしとめかんどおりさくかたとめ馮繼ぎょうみなため節度せつど使つうふとし原人げんじん也。
みかど屢戒すすむおう曰:「むかしわれ西にしせいからじゅうはちりょう發掘はっくつしゃ,此無おもんみ多藏たぞう金玉きんぎょく也。わがとうころも以紙ころも,斂以かわらかんそく營葬,勿久とめ宮中きゅうちゅう;壙中無用むようせき,以甓だいこうじんやくみなやとえ,勿以はんみんそう畢,つのきんりょうみんさんじゅう,蠲其ざつ徭,使つかいもり;勿修下宮したみや,勿置もりりょう宮人みやびと,勿作せきひつじとらひとうまおもんみこくせきおけりょうぜんうん:『しゅう天子てんし平生へいぜいこう儉約けんやくのこれい用紙ようしころもかわらかん,嗣天子てんし敢違也。』なんじあるわれたがえわれぶくなんじ!」また曰:「ひろしよしとうあずかふし鉞,じんうら勿使はなれ樞密院すうみついん。」
かのえとらみことのりぜんのぼりしゅう刺史しししゅうくんとうふさが決河けっかさきかわけつれいかわさかなさんなつめたけ常樂じょうらくえき河陰かいんろくあかり鎮、原武はらたけはちくちいたり分遣ぶんけん使者ししゃふさがこれ
みかどいのちおもむきくさせい,以端あきら殿どの學士がくし戶部とべさむらいろうおう溥為中書ちゅうしょさむらいろうどうたいらあきらごとみずのえたつせんせい畢,左右さゆう以聞,みかど曰:「われ恨矣!」以樞密すうみつ副使ふくし王仁わに鎬為永興りょうご節度せつど使,以殿まえ指揮しき使しげるしんりょう武信たけのぶ節度せつど使うまぐん指揮しき使樊愛のうりょうたけじょう節度せつど使ぐん指揮しき使なん徽領昭武あきたけ節度せつど使じゅうすすむ年長ねんちょう於晉おうさかえみかど召入禁中きんちゅうぞく以後いごこと,仍命はいさかえ,以定君臣くんしんこれぶんみかど殂於しげるいさお殿どの不發ふはつ乙未おとみせん遺制いせいへいさるすすむおうそく皇帝こうてい
はつ靜海しずみ節度せつど使くれけんそつあきら岌立。あきら岌卒,おとうと昌文まさふみりつこれがつはじめ請命於南かんみなみかん以昌ぶんため靜海しずみ節度せつど使けんやす南都なんとまもる
きたかんしゅ聞太晏駕,甚喜,はかりごとだい入寇にゅうこう使つかい請兵於契がつちぎり其武てい節度せつど使政事せいじれい楊兗しょうまん如晉きたかんおも將兵しょうへいさんまん,以義なり節度せつど使しろしたがえあきらため行軍こうぐん都部いちぶしょたけやすし節度せつど使ちょうもと徽為ぜんほこさき指揮しき使あずかちぎりだんかしわみなみおもむき潞州。
しょくひだりただしせいうまあゆみ指揮しき使やすし節度せつど使やすおもえけん譖殺はりぎょうはいちょう廷隱,しょくじんみなあくしょくぬし使將兵しょうへいすくいおうけいたかしおもえけん逗橈こう,內慚懼,やすはりぎょう誅,宮門きゅうもん守衛しゅえいげんおもえけん以為うたぐおのれげんおお不遜ふそんおもえけんてん宿衛しゅくえいころせ士卒しそつ以立しょくぬし閱衛ゆうねんなおたけし而為おもえけんしょ斥者,ふくとめ隸籍,おもえけんころせこれしょくぬし能平のっぺいおもえけん三子みつご,扆、嗣、裔,倚父ぜい暴橫,為國ためくにじん患。翰林かんりん使おう屢言おもえけん怨望,はたはんちょうおもえけん入朝にゅうちょうしょく主命しゅうめい壯士そうしげきころせこれ,及其さんまたすわ擅啟かなでなみ誅之。
きたかんへいたむろはりこうえき昭義あきよし節度せつど使筠遣其將きよしれいひとしはたせんぎゃくせん,筠自はた大軍たいぐんかべ於太たいらえきちょうもと徽與れいひとしせんかち而北,れいひとし逐之,ふくはつころせれいひとし,俘斬士卒しそつせん餘人よにん。筠遁じょうとう,嬰城もり。筠,そくさかえ也,避上めいあらため焉。
むね聞北かんしゅ入寇にゅうこうよく將兵しょうへいこれ群臣ぐんしんみな曰:「りゅうたかしひら遁走とんそう以來いらいいきおい蹙氣沮,必不敢自らい陛下へいかしん即位そくい山陵さんりょうゆう人心じんしんえきゆらよろしけいどうむべいのちはたこれ。」みかど曰:「たかしこうわが大喪たいそうけいちん年少ねんしょう新立しんだてゆう吞天下之したのしん,此必ちん不可ふか往。」馮道かたそうみかど曰:「むかしとうふとそうじょう天下でんか嘗不くだりちんなん敢偷やす!」みち曰:「しん陛下へいかのうためからふとしそう?」みかど曰:「以吾兵力へいりょくつよやぶりゅうたかし如山あつたまごみみ!」みち曰:「しん陛下へいかのう為山いざん?」みかどえつおもんみおう溥勸ぎょうみかどしたがえこれ
さんがつおつついたちしょくぬしささげきよしひかえつる指揮しき使けん中書ちゅうしょ令孫れいそんかん武信たけのぶ節度せつど使たまもの爵樂やすぐんおうやめぐんしょくしょくぬし懲安おもえ謙之けんじ跋扈ばっこいのち山南さんなん西道さいどう節度せつど使廷珪とうじゅうにんぶんてんきんへい
きたかんじょうかつすすむ逼潞しゅうちょううしみことのりてんゆう節度せつど使彥卿引兵磁州かた鎮出きたかんぐん,以鎮やすし節度せつど使かくたかしふくこれまたみことのり河中かわなか節度せつど使おう彥超引兵すすむしゅう東出とうで邀北かんぐん,以保節度せつど使かんどおりふくこれまたいのちぐん指揮しき使やすしこう節度せつど使樊愛のうぐん指揮しき使きよし節度せつど使なん徽、義成よしなり節度せつど使しろじゅうさんていしゅう防禦ぼうぎょ使彥超、ぜん耀州だんねり使彥能將兵しょうへいさきおもむきさわしゅうせんほろ使つかいむかいさとしかんじゅうさんけんしゅうじん也。
からし大赦たいしゃ
みずのとみかどいのち馮道たてまつあずさみや赴山りょう,以鄭じん誨為東京とうきょう留守るす
おつとりみかどはつだいはりかのえとらいたりふところしゅうみかどよく兼行けんこうそくすすむひかえつる指揮しき使ていちょうあきらわたしいい通事つうじ舍人とねりていこうけん曰:「ぞくぜいかたもりむべじゅう以挫。」こうけんげん於帝,みかどいか曰:「なんじやすとく此言!必為じんしょ使げん其人そくせいしか必死ひっし,」こうけん以實たいみかどいのちなみあきら械於しゅうごくみずのえたつみかどさわしゅう宿やど於州東北とうほく
きたかんしゅ不知ふちみかどいたり潞州おさむ,引兵而南,ゆうぐん於高平之ひらのみなみ癸巳きしぜんほこさき與北よぎたかんへいぐうげききたかんへい卻。みかどおもんばか其遁おもむきしょぐん亟進。きたかんしゅ以中ぐんひね於巴こうはらちょうもと徽軍其東,楊兗ぐん其西,眾頗いむせいどき河陽かわよう節度せつど使りゅうしょうぐんいたり,眾心危懼きく,而帝志氣しきえきするどいのちしろじゅうさんあずかさむらいまもるうまあゆみおそれこうしげるしんはたひだりぐんきょ西にし,樊愛のうなに徽將みぎぐんきょひがしむかいさとしふみ彥超はたせいきょ中央ちゅうおう殿しんがりまえ指揮しき使ちょうひさしとくはたきん兵衛ひょうえみかどみかどかい臨陳督戰とくせんきたかんおもしゅうぐんしょう,悔召ちぎりいいしょしょう曰:「われようかんぐんやぶ也,なに必契今日きょうおもんみかつしゅうまた使つかいちぎり心服しんぷく。」しょしょうみな以為しか。楊兗さくぜんもちしゅうぐん退すさいいきたかんしゅ曰:「勍敵也,けいすすむ!」きたかんしゅ奮髯,曰:「どき不可ふかしつ,請公勿言,ためしかんせん。」兗默しかえつどき東北とうほくふうかたもりにわか而忽てん南風みなみかぜきたかんふくくるる密使みっしおうのべ嗣使つかさたかしかんよししろきたかんしゅうん:「どきせん矣。」きたかん主從しゅうじゅう樞密すうみつちょく學士がくしおうとくちゅう扣馬諫曰:「よし也!風勢ふうせい如此,あにじょしゃよこしま!」きたかんしゅ曰:「われけいやめぎまろう書生しょせい妄言ぼうげん,且斬なんじ!」麾東ぐん先進せんしんちょうもと徽將せんげきしゅうみぎぐん
合戰かっせんいく,樊愛のうなに徽引騎兵きへいさき遁,みぎぐんつぶせ步兵ほへいせん餘人よにんかいかぶとよびまんさいくだ於北かんみかど軍勢ぐんぜい危,引親へいはんせき督戰とくせんふとし皇帝こうていため宿衛しゅくえいはたいい同列どうれつ曰:「しゅ危如此,われぞくなんとく致死ちし!」またいいちょうひさしとく曰:「ぞくおご力戰りきせんやぶ也!おおやけ麾下きか多能たのうひだりしゃしゃ,請引へいじょうだか西出にしでため左翼さよくわが引兵ため右翼うよく以擊國家こっか安危あんきざい此一舉!」えいいさおしたがえこれかくしょうせんにんすすむせんふとし皇帝こうていさき士卒しそつはせはん其鋒,士卒しそつたたかえ不一ふいつとうひゃくきたかんへい披靡。內殿ちょくなつうまひとし瑀謂眾曰:「使つかいじょう輿こし受敵,安用やすもち我輩わがはい!」おどうま引弓大呼たいこれん斃數じゅうにん士氣しきえき殿しんがりぜんみぎばんぎょうくびぜん乂言於帝曰:「ぞくぜいごく矣,はたためわがとりこねがい陛下へいか按轡勿動,じょかんしょはたやぶこれ。」そく引數ひきすう百騎進陷陳。
きたかん主知しゅちみかど臨陳,褒賞ほうしょうちょうもと徽,おもむき使じょうかつすすむへいもと徽前りゃくひねうまたおせためしゅうへいしょころせもと徽,きたかん驍將ぎょうしょう也,きたぐんよしだつとき南風みなみかぜえきもりしゅうへいそう奮,きたかんへい大敗たいはいきたかんおも舉赤のぼり以收へい不能ふのうどめ。楊兗かしこしゅうへいつよ敢救,且恨きたかんぬしこれぜんぐん而退。
樊愛のうなに徽引すうせんみなみはしひかえつるひょうげかすめ輜重しちょうやくおどろきはししつほろび甚多。みかど近臣きんしん及親ぐんこうついさとしとめ,莫肯奉みことのり使者ししゃあるためぐんしょころせ揚言ようげん:「ちぎりだいいたり官軍かんぐんはい績,あまり眾已くだとりこ矣。」りゅうぐうあいのうとう於塗,あいのうとうとめしたがえ,引兵而北。とききたかんおもなお有餘ゆうよまん餘人よにん,阻澗而陳,薄暮はくぼいたりふくあずかしょぐんげききたかんへいまたはいころせおうのべ嗣,つい至高しこうひらめ,殭屍滿山まんざんだに委棄いきとく輜重しちょう器械きかいざつ不可ふか勝紀かつのりゆうみかど宿やど於野とく步兵ほへいくだてきしゃみなころせこれ。樊愛のうとう聞周へい大捷たいしょうあずか士卒しそつややややふくかえゆうたちあけぼのいたりしゃかぶとうまきゅうへい於高ひらめせんきたかんくだそつすうせん人為じんいこうじゅん指揮しきいのちぜん武勝むしょう行軍こうぐん司馬しばからけいおもえ將之まさゆき使つかい戍淮じょう千餘人賜資裝縱遣之。こくためらんへいしょはさません山谷さんや數日すうじつ乃出。ちょうとりみかどいたり潞州。
きたかんおも高平たかひら褐戴かさじょうちぎりしょおく騮,そち百餘騎由雕窠嶺遁歸,よい迷,俘村民そんみんためみちびけあやまこれすすむしゅうぎょうひゃくあまりさと,乃覺ころせしるべしゃ晝夜ちゅうやきたはしところいたるとくしょく舉箸,あるでんしゅうへいいたり,輒蒼而去。きたかんおもおとろえろうちから憊,仗於馬上まけ晝夜ちゅうやはせ驟,殆不能ふのうささえ,僅得にゅうすすむ
みかどよく誅樊あいのうとう以肅軍政ぐんせい猶豫ゆうよ未決みけつおのれひる行宮あんぐうちょうちゅうちょうひさしとくさむらいがわみかど以其ごとおとずれこれたい曰「あいのうとうもと大功たいこうかたじけなおかせぶし鉞,もちてきさき逃,ふさがせめ。且陛下方かほうよくそぎひら四海しかい,苟軍ほうだて,雖有ぐまひぐまひゃくまんこれ眾,やすとく而用!」みかど擲枕於地,だい呼稱こしょうぜんそくおさむあいのう、徽及所部ところぶ軍使ぐんし以上いじょうななじゅう餘人よにんせめ曰:「なんじ曹皆るいあさ宿將しゅくしょう不能ふのうせんこんもちふう奔遁しゃせいよく以朕ため奇貨きかうれあずかりゅうたかしみみ!」悉斬みかど以何徽先もりすすむしゅう有功ゆうこうよくめんすんで而以ほう不可ふかはいとげなみ誅之,而給槥歸そうおごはた惰卒はじめしょ懼,くだり姑息こそくせい矣。かのえしょうだか平之ひらのこう,以李じゅうすすむけん忠武ただたけ節度せつど使むかいさとしけん義成よしなり節度せつど使ちょうひさしとくけん武信たけのぶ節度せつど使彥超ため鎮國節度せつど使ちょうえい德盛とくもりたたえぶと皇帝こうてい智勇ちゆうみかど擢太皇帝こうていため殿どのぜんおそれこうりょうげんしゅう刺史しし,以馬じん瑀為ひかえづる弓箭きゅうせんちょく指揮しき使うまぜん乂為いん指揮しき使自餘じよ將校しょうこう遷拜しゃ凡數じゅうにん士卒しそつゆう行間ぎょうかん擢主ぐんひさししゃしゃくちょうあきらこれしゅう
きたかんぬしおさむそつつくろえかぶとへいかんじょう塹以備周。楊兗はた其眾きたたむろだいしゅうきたかんおうおうどくちゅうおく兗,よしもとめすくい於契ちぎりおもなかかえむくいもとはつへいすくいすすむみずのえとら,以符彥卿ため河東かわとうこう營都部署ぶしょけんふとはらこうごと,以かくたかしふくこれむかいさとしためかんしげるしんためうまあゆみおそれこう彥超ため先鋒せんぽう指揮しき使はたまんはつ潞州。仍詔おう彥超、かんとおる陰地かげちせきいれあずか彥卿ごうぐん而進,また以劉ためずい部署ぶしょだい節度せつど使しろじゅうさんふくこれ
かんあきらせい皇太后こうたいごう殂於西宮にしのみや
なつよんがつきたかん盂縣くだ彥卿ぐんすすむ城下じょうかおう彥超おさむ汾州,きたかん防禦ぼうぎょ使ただし希顏きがんくだみかど萊州防禦ぼうぎょ使やすしのべぬまおさむりょうしゅうみつしゅう防禦ぼうぎょ使瓊攻沁州,みなしたとも備庫副使ふくしふとはらけん單騎たんきせつりょうしゅう刺史ししちょうかんちょうかんちょうそくくだ
おつそうきよしかみきょう肅文たけたかし皇帝こうてい於嵩りょうびょうごうふとし
みなみかんしゅ以高おうひろし邈為雄武おうむ節度せつど使,鎮邕しゅうひろ邈以ひとし、鎮二王相繼死於邕州,固辭こじもとめ宿衛しゅくえいもといたり鎮,せい僚佐,にち飲酒いんしゅ,禱鬼しんある上書うわがき誣弘邈謀さくみだれつちのえうまみなみかんおもあま泉宮いずみみや使りんのべぐうたまもの鴆殺
はつみかど彥卿とうきたせいただしよく耀兵於晉城下じょうかおさむすんで入北にゅうほくかんさかい,其民そう以食ぶつむかいしゅう泣訴きゅうそりゅう賦役ふえきおもねがいきょうぐん須,じょおさむすすむきたかんしゅうけんつぎゆうくだしゃみかど聞之,はじめゆう兼併けんぺい使つかい往與しょしょうしょしょうみなごと「芻糧不足ふそく,請且はん以俟さい舉。」みかど聽。すんで而諸ぐんすうじゅう萬聚於太原城下,ぐんめんひょうげかすめきたかんみん失望しつぼうやややや山谷さんやかたみかど聞之,はせみことのり禁止きんしひょうげかすめやすなで農民のうみんとめせいこんとし租稅そぜい,及募みんにゅうあわはい官有かんゆう,仍發さわ、潞、すすむ、絳、慈、隰及山東さんとうきん便びんしょ州民しゅうみんうんかて以饋ぐんおのれこくまいふとげんけい芻糧。
庚申こうしんふとし中書ちゅうしょれい瀛文懿王馮道そつみちしょう以孝謹知めいからそうむねはじめ貴顯きけんるいあさ不離ふりはたそう三公みつきみさんくらいためじんきよし寬弘かんこうにん莫測其喜慍,滑稽こっけいさとし,浮沉取よう,嘗著《長樂ながらろう敘》,じゅつるいあささかえぐうじょう時人じじん往往おうおう以德りょう推之。
おう修論しゅうろん曰:「れい廉恥れんち國之くにゆきよん維。よん維不ちょうくに滅亡めつぼう。」れいよし治人はるひと大法たいほう廉恥れんちだてじんだいふしきょうため大臣だいじん而無廉恥れんち天下てんか其有不亂ふらん國家こっか其有亡者もうじゃ乎!讀馮どう長樂ながらろう敘》,其自じゅつ以為さかえ,其可いい廉恥れんちしゃ矣,のり天下でんか國家こっかしたがえ知也ともや於五代得全節之士三,ごとしんじゅうゆうみな武夫たけおせんそつあに於儒しゃはて其人哉?高節こうせつあくみだれうす其世而不肯出歟?そもそもくん天下でんかしゃ不足ふそく顧,而莫のう致之歟?嘗聞五代時有王凝者,いえあおひとしこれあいだため虢州さんぐん,以疾そつ於官。しこりもとひんいちなおようつま,攜其其遺むくろ以歸,ひがし開封かいふうとめ於旅しゃ主人しゅじん不納ふのう顧天やめくれ肯去,主人しゅじん牽其ひじ而出仰天ぎょうてん慟曰:「わがため婦人ふじん不能ふのうもりぶし,而此しゅためじんしょよこしま!」そく引斧だん其臂,しゃ為之ためゆき嗟泣。開封かいふういん聞之,しろ其事於朝,あつ恤李而笞其主じん嗚呼ああ自愛じあい其身而忍はじ以偷生者しょうじゃ,聞李ふうむべしょう愧哉!
しんこう曰:天地てんちしつらえ聖人せいじん則之のりゆき,以制れい立法りっぽう,內有夫婦ふうふそとゆう君臣くんしんしたがえおっと終身しゅうしんあらためしんことくんゆう。此人どうだいりん也。苟或はいらん莫大ばくだい焉!范質しょう馮道あつとく稽古けいこひろしざいえらりょう,雖朝だい遷貿,にん無間むげんごと,屹若きょさん不可ふかてん也。しん以為せいおんなしたがえおっと忠臣ちゅうしんことくんためおんな不正ふせい,雖復はなしょくよし紝之たくみ不足ふそくけん矣;ためしん不忠ふちゅう,雖復ざい智之としゆきぎょうゆう不足ふそく矣。なにそくだいふしやめ虧故也。道之みちゆき為相ためすけれきあさはちせいわか逆旅げきりょ過客かかくあさため仇敵きゅうてきくれため君臣くんしんえきめんへんやめ,曾無愧怍,だいふし如此,雖有小善しょうぜんいさおあししょう乎!ある以為とうしつほろび群雄ぐんゆうりょくそう帝王ていおう興廢こうはいとおしゃじゅうねんこんしゃよんさんねん,雖有ちゅうさとしはたわかこれなにとうときしつ臣節しんせつしゃ非道ひどういちにんあにどくざい道哉みちやしん以為忠臣ちゅうしんゆうおおやけ如家,危致いのちきみゆうのりきょう諫力そうくに敗亡はいぼうそく竭節致死ちしさとしくに有道ありみちそくくに道則みちのりかくれあるめつあと山林さんりんあるゆうゆう下僚かりょう今道いまみちたかしちょうそくかんむりさんけんにんそくくび諸相しょそうくにそんそくたがえ拱嘿,竊位もと餐,くにほろびのりぜん苟免,むかい勸進かんじんくんそく興亡こうぼうせっかかと道則みちのり富貴ふうき如,茲乃奸臣かんしんゆうやすあずか人為じんい哉!あるいいどうのう全身ぜんしんどおがい亂世らんせい,斯亦けんやめしんいい君子くんしゆうころせ身成みなりじんもとめ生害しょうがいじんあにせん全身ぜんしんどおがいため賢哉けんやしかのりぬすめ跖病おわり而子ひしおはてだれけん乎?そもそも此非とくどう愆也,くんまたゆうせめ焉,なにそく不正ふせいおんなちゅう羞以ため不忠ふちゅうこれにんなかくん羞以ためしんかれしょうまえあさ其忠そくはんくんごとかたき其智そく社稷しゃしょくため墟。後來こうらいきみ誅不棄,乃復よう以為しょうかれまたやす盡忠じんちゅう於我而能其用乎!曰:とくどう愆,またときくんせめ也!
からしとり彥卿そうきたかんけんしゅう刺史ししふとはらかんひかりねがいあらししゅう刺史ししかくげんみな舉城くだはつ彥卿ゆうおんなてきまもる貞之さだゆきたかしくん相者そうしゃげん其貴當為とうい天下でんかははまもりさだ曰:「われなおはは天下でんかきょうわが乎!」はんとげぎま。及敗,たかしくんさき自刃じじん其弟いもうと及符匿幃たかしくんくら猝求とげ剄。らんへいすんでいれ安坐あんざ堂上どうじょうしからんへい曰:「われちちあずか郭公かっこうためこんおとうとなんじ曹勿無禮ぶれい!」ふとし使つかい於彥きょう。及帝鎮澶しゅうふとしためみかどめとこれみずのえいぬたてため皇后こうごうこうせい和惠かずえ而明けつみかど甚重
おう彥超、かんどおりおさむいししゅう克之かつゆき刺史ししやす彥進。みずのと,沁州刺史しし廷誨降。庚午こうごみかどはつ潞州,おもむきすすむみずのととりきたかん忻州かんぐん勍殺刺史ししちょう皋及ちぎり通事つうじ楊耨しゅうと,舉城くだ。以勍ため忻州刺史しし
おう逵表請復徙使治朗じろうしゅう


 まきひゃくきゅうじゅう かえしかいいただき まきひゃくきゅうじゅう

ほんきたそう作品さくひんざいぜん世界せかいぞく公有こうゆう领域いん为作しゃ逝世やめ经遠とおちょう过100ねん

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