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資治通鑑/卷290 - 维基文库,自由的图书馆 とべ转到内容ないよう

どおりかん/まき290

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 まきひゃくはちじゅうきゅう どおりかん
まきひゃくきゅうじゅう しゅう紀一きいち
まきひゃくきゅうじゅういち 

おこり重光しげみつ大淵おおふちけんじつきげん黓困あつしはちがつ,凡いちねんゆう

どおりかん だい290かん

しゅう紀一きいち】 おこり重光しげみつ大淵おおふちけんじつきげん黓困あつしはちがつ,凡いちねんゆう

ふとしきよしかみきょう肅文こう皇帝こうていじょうこうじゅん元年がんねんからし亥年いどしこうもときゅういちねんしゅうひろじゅん元年がんねん[编辑]

からしおおやけもときゅういちねんはる正月しょうがつちょうしげるかん[1]ふとしきさき誥,授監こくたからそく皇帝こうていかんこく皋門にゅうみや即位そくい於崇もと殿しんがりせい曰:「ちんしゅうしつ裔,虢叔これ國號こくごうむべ曰周。」改元かいげん[2]大赦たいしゃ。楊邠、ふみひろしはじめおうあきらとうみな贈官ぞうかんかんため斂葬,仍訪其子孫しそん敘用。凡倉じょうくらつとむてのひらおさめ官吏かんりとくおさむあまりしょう耗。きゅうところともあまりぶつ,悉罷はん竊盜せっとう及奸しゃなみすすむ天福てんぷく元年がんねん以前いぜんけいめい罪人ざいにん反逆はんぎゃくとく誅及親族しんぞくせきぼつ貲。からそうむね[3]あきらむね[4]すすむ高祖こうそ[5]かくおけもりりょうじゅうぼうかん高祖こうそりょう職員しょくいん宮人みやびとがつこもとおる及守りょうなみ如故。はつからおとろえぬすめ不用ふようりつぶんさらていたかしほう竊盜せっとうさんひきしゃすすむ天福てんぷくちゅういたりひき。奸有夫婦ふうふじんといきょうかず男女だんじょなみかんほう竊盜せっとういちせん以上いじょうみなまたつみ反逆はんぎゃく往往おうおうぞく誅、せきぼつみかど即位そくいしゅかわ其弊。

はつ,楊邠以功臣こうしんくに戚為かた鎮者あいだ吏事,乃以三司軍將補都押牙、あなかん、內知きゃく,其人自恃じじ敕補,專橫せんおう節度せつど使不能ふのうせいいたり悉罷みかどいのちひろしはじめしん吏上とうたかしのりおとずれひろしはじめ親族しんぞくたかしのりごと:「ひろしはじめおとうとひろぶくこんそん。」はつひろしはじめ使たかしのりてのひら其家貲之せきゆかりつき其產,みな以授ひろぶくみかどけん使つかい皇子おうじさかえちょう

つちのえたつ以前いぜんふくしゅう防禦ぼうぎょ使おう彥超けんたけやすし節度せつど使

かんふとしきさき遷居西宮にしのみやおのれうえ尊號そんごう曰昭せい皇太后こうたいごう

開封かいふういんけん中書ちゅうしょれいりゅういさおそつ

みずのととりおうたかしどうたいらあきらごと

以衛じょうきょうりゅう皞主かんかくれみかど

はつ河東かわとう節度せつど使けん中書ちゅうしょれいりゅうたかし聞隱みかどぐうがいよく舉兵みなみむこう,聞迎りつ湘陰こう,乃止,曰:「われためみかどわれまたなにもとむ!」ふとしはらしょういん驤陰せつたかし曰:「かん郭公かっこうしんおわりほしおおやけ如疾引兵逾太ぎょうよりどころはじめ,俟徐しゅうしょうおおやけ即位そくいしかかえ鎮,のり郭公かっこう敢動矣。しか,且為しょうり。」たかしいか曰:「腐儒ふじゅよく離間りかんわれ父子ふし!」いのち左右さゆう曳出これ。驤呼曰:「われ經濟けいざいざい而為愚人ぐじんはかりごとごとかた甘心かんしんいえゆうろうつまねがいあずかこれどう。」たかしなみ其妻ころせこれ,且奏於朝廷ちょうていしめせ二心ふたごころ。及贇はいたかし乃遣使請贇かえりすすむみことのりほう以「湘陰おおやけざいそうしゅう今方いまがた歸京ききょう,必令とくしょおおやけ勿以ためおおやけのうどうちからしょう輔,とうおう爵,えい鎮河ひがし。」鞏廷、楊溫聞湘かげこう贇失たてまつ贇妃ただしよりどころじょしゅうこばめもり,以俟河東かとう援兵えんぺいみかど使贇以しょさとしこれ。廷美、ぬるほしくだ而懼みかどふくのこ贇書曰:「爰念斯人つきこころ於主,そく以賞其忠義ちゅうぎなによしせめ以悔ゆう,俟新節度せつど使入城にゅうじょうとうかくじょ刺史ししおおやけさら以委きょくしめせこれ。」

ちぎりおさむ內丘也,死傷ししょう頗多,また值月しょくぐんちゅう妖異よういちぎりぬし懼,深入ふかいり,引兵かえ使つかい請和於漢。かいかんほろび安國やすくに節度せつど使りゅうおく其使しゃまいだいはりみかどひだり千牛衛將軍朱憲報聘,且敘革命かくめいゆかり,以金たまたいおくこれ

みかど以鄴鎮撫ちんぶ河北かほくひかえせいちぎりよく以腹しんしょおつ,以寧こう節度せつど使さむらいまもるおやぐん指揮しき使おういんため鄴都留守るすてんゆう節度せつど使どうたいらあきらごとりょうぐん如故,仍以さむらいまもるしたがえ赴鎮。

へいみかどそち百官ひゃっかんまい西宮にしのみやためかんかくれみかど舉哀なりふくみな天子てんしれい

慕容彥超使つかい入貢にゅうこうみかどおもんばか疑懼ぎくたまものみことのり慰安いあん,曰:「こん兄事けいじやめいたり此,げんよくしげるもちおとうと扶持ふちどうやす億兆おくちょう。」

つちのえとらころせ湘陰こう於宋しゅう

りゅうたかしそく皇帝こうてい於晉,仍用いぬいゆう年號ねんごう所有しょゆうしゃ并、汾、忻、だいあらしけんたかし、蔚、沁、りょう、麟、いしじゅうしゅう。以節度せつど判官ほうがんてい珙為中書ちゅうしょさむらいろう觀察かんさつ判官ほうがん滎陽ちょうはなため戶部とべさむらいろうなみどうたいらあきらごと。以次子じしうけたまわひとしためさむらいまもるおやぐん指揮しき使ふとしはらいん,以節度せつど副使ふくしそん瑰為だいしゅう防禦ぼうぎょ使,裨將武安たけやすちょうもと徽為ぐん指揮しき使ちんひかりひろしためせん徽使。

きたかんしゅいいそん瑰、ちょうもと徽曰:「ちん高祖こうそこれぎょう一朝いっちょう墜地,今日きょうごうとくやめ而稱。顧我なん天子てんしなんじ曹是なん節度せつど使よこしま!」ゆかりけん宗廟そうびょう祭祀さいし如家じん宰相さいしょう俸錢がつとめひゃく緡,節度せつど使とめさんじゅう緡,自餘じようすゆうきゅう而已,其國ちゅうしょうかど吏。きゃくしょう使河南かなん光美てるみ嘗為ちょくしょうかん,頗諳故事こじきたかん朝廷ちょうてい制度せいどみな於光きたかんしゅ聞湘かげおおやけ,哭曰:「われ不用ふよう忠臣ちゅうしんげん,以至於此!」ため驤立ほこらさいさい

おのれ,以太馮道ため中書ちゅうしょれい竇貞かたさむらいちゅう禹珪そら

おう彥超そう使つかいつぎ敕詣じょしゅう,鞏廷とう猶豫ゆうよ肯啟せきみことのりしんへいおさむこれ

みかどいいおうたかし曰:「ちんおこり於寒ほろ,備嘗艱苦かんく,遭時みだれ一旦いったんため帝王ていおうあに敢厚たてまつやしなえ以病みん乎!」いのちたかし四方しほう貢獻こうけんちん美食びしょくぶつかのえたつしもみことのり悉罷。其詔りゃく曰:「ところたてまつとめ於朕躬,しょそん於□庶。」また曰:「せき於有なか,甚為無用むようもの。」またみことのり曰:「ちん生長せいちょう軍旅ぐんりょおや學問がくもん知治ともはる天下でんかみち文武ぶんぶかん有益ゆうえき國利こくりみんじゅつかくふうごと以聞,咸宜直書じきしょ,勿事。」みかど以蘇逢吉だいたまものおうたかしたかし曰:「逢吉所以ゆえんぞく崧也!」而不しょ

はつちぎりぬしきたよこうみ節度せつど使はん聿撚棄鎮ずいちぎりぬし以聿ひねため西南せいなん招討使。及北かんおもりつちぎりぬし使聿撚のこりゅううけたまわひとししょきたかんおも使うけたまわひとしふくしょしょう:「本朝ほんちょう淪亡,紹襲帝位ていいよく循晉しつ故事こじもとめ援北あさ。」ちぎりぬし大喜だいぎきたかんおもはつへいたむろ陰地かげちさわだんかしわちょう,以承ひとしため招討使あずかふく招討使しろしたがえあきらかんそん瑰將まんにん寇晉しゅうしたがえあきら,吐谷渾人也。

かくたかしさらめいたかし,曹威さらめいえい


からしおおやけもときゅういちねんはるがつちょうとり,以皇子おうじてんゆうきば內都指揮しき使さかえため鎮寧節度せつど使せんあさ為之ためゆき僚佐,以侍おうさとしため節度せつど判官ほうがんみぎ闕崔頌為觀察かんさつ判官ほうがんこうしょろうおうしらきためてのひら書記しょき。頌,きょう之子ゆきこしらき東平とうへいじん也。

つちのえいぬきたかんへい五道攻晉州,節度せつど使おう晏閉じょう不出ふしゅつりゅううけたまわひとし以為おびえあり登城とじょう。晏伏へい奮擊,きたかんへい死傷ししょうしゃせん餘人よにんうけたまわひとしふく兵馬へいば使安元やすもとたから焚晉しゅう西城にししろもと寶來ほうらいくだうけたまわひとし乃移ぐんおさむ隰州。みずのと,隰州刺史ししもと遷遣ぐん指揮しき使耿繼ぎょう迎擊げいげききたかんへい於長ことぶきむら其將ほど筠等,ころせこれいくきたかんへいおさむしゅうじょう數日すうじつかつ死傷ししょう甚眾,乃引。遷,鄆州じん也。

きのえたつすわえおうまれがくてのひら書記しょきりゅうひかり入貢にゅうこう於唐。

みかど悉出かん宮中きゅうちゅう寶玉ほうぎょくすうじゅう,碎之於庭,曰:「凡為帝王ていおう安用やすもち此物!聞漢かくれみかどあずか嬖寵於禁ちゅう嬉戲きぎちん不離ふりがわ,茲事とおむべ以為鑒!」仍戒左右さゆう自今じこんめずらしはなえつものとくにゅうみや

丁未ていみちぎりおも其臣裊骨ささえあずかしゅけん偕來,即位そくい

つちのえさる,敕前かんかく聽自便びんきょがいしゅうひねおもえゆずいたり湖南こなみうまのぞみがくやめかつちょうすなおもえゆずるとめたむろ郢州,敕召れいかえ

ちょう尚書しょうしょひだりすすむさとし使ちぎりきたかんおも通事つうじ舍人とねり鞏言使於契;乞兵ため援。

みことのりたいやすし節度せつど使慕容彥超中書ちゅうしょれい翰林かんりん學士がくしぎょたかしりょうまい兗州さとしゆびたかしりょうそくたかしどお也。彥超上表じょうひょうしゃ三月さんがつみずのえいぬついたちみことのりほう曰:「こう以前いぜんあさしつとくしょう主用しゅよう讒,くら猝之あいだ,召卿赴闕。きょうそく奔馳おういのちしん宿やどいたりきょう救國きゅうこくなん而不顧身,聞君召而俟駕。以至てんほろびかん祚,へいはり郊,くだはた敗軍はいぐんそうつぎ而至,きょうそく便びんかい馬首うまくび,逕返かめかげためぬしため有終ゆうしゅうゆうはじめ所謂いわゆる危亂忠臣ちゅうしんふし疾風しっぷう勁草しんわか使つかいためしんしゃみなのう如茲,のりゆうこくしゃだれよくようしょげんちん潛龍せんりゅうかわついたちさいたいらなん浚郊ときえんたてまつしめせ喻之ごとまたとくじんいたりぎょう闕。且事ぬしみちなに必如斯!わかあるさん於漢あさまたやす忠信ちゅうしん於周しつ!以此ため懼,また乎!きょうただし悉力推心,やすみんからだこくことちんこと,如事故じこくんおもんみはじむ庶獲やすそもそもまた社稷しゃしょくよりゆきただしけんひょうりつがえうつりよし衷之まことことつき於此。」

から以楚おうまれがくためてんさくじょう將軍しょうぐん武安たけやす武平ぶへい靜江しずえやすしどお節度せつど使けん中書ちゅうしょれいすわえおう,以右ぼくしゃまごあきらきゃくしょう使姚鳳ためさつれい使

へいとらぜん淄州刺史ししひねおもえゆずる將兵しょうへい戍磁しゅう,扼黃さわ

すわえおうまれがく既得きとくこころざしおもえ舊怨きゅうえん殺戮さつりく晝夜ちゅうやたてしゅ荒淫こういん,悉以ぐんことまれたかしまれたかしふく私曲しきょくせいけい紊亂びんらんすんでつき於亂へいせきみんざい以賞つぎ士卒しそつあるふう其門而取士卒しそつなお以不ひとし怨望。雖朗しゅうきゅうしょうしたがえまれがく來者らいしゃまたみなえつゆうはなれしん

りゅうひかり輔之入貢にゅうこう於唐也,からしゅまちあつひかり輔密ごと:「湖南こなみみんつかれおもおご也。」からしゅ乃以營屯おそれこう鎬為信州しんしゅう刺史しし將兵しょうへいたむろ袁州,せん進取しんしゅ

小門おかど使つかいしゃ彥顒,ほんまれがくやつ,以首めんゆうちょう於希がくいたりあずか妻妾さいしょうざつすわ,恃恩專橫せんおうつねかたずいまれたかしある拊其まれたかし銜之。故事こじえん小門おかど使つかいへいざい門外もんがいまれがく使彥顒あずかすわあるきょしょ將之まさゆきじょうしょしょうみなはじ

まれがく以府捨焚とろけいのちろうしゅう靜江しずえ指揮しき使おう逵、副使ふくししゅうこう逢帥所部ところぶへいせん餘人よにん治之はるゆきやく甚勞,また犒賜,士卒しそつみな怨,竊言曰:「しゅうめんのりやくさく我輩わがはいしたがえ大王だいおうまん湖南こなんなにざい而囚やく!且大おう終日しゅうじつたけなわあに我輩わがはい勞苦ろうく乎!」逵、くだり逢聞そういい曰:「眾怨ふか矣,はやためけいわざわい及吾曹。」みずのえさるだんそち其眾かくちょう柯斧、しろてこ逃歸にげかえろうしゅうときまれがくよい未醒みせい左右さゆう敢白。みずのととりはじめしろまれがく湖南こなん指揮しき使とう翥將せん餘人よにんおい及,ちょく抵朗しゅう。逵等じょう其疲とぼし伏兵ふくへいたてげき士卒しそつ死傷ししょう殆盡,翥脫。逵等黜留うまこうさんさら以希がく兄子せこ光惠みつえしゅうごと光惠みつえまれ之子ゆきこ也。ひろたてまつ光惠みつえため節度せつど使,逵等あずかなにけい及諸ぐん指揮しき使ちょう倣參けつぐんごとまれがく以狀げん於唐,からおも使つかい以厚しょう招諭。逵等おさめ其賞,たて其使,こたえ其詔,からまた敢詰也。

おう彥超そうかつじょしゅうころせ鞏廷とう

きたかん鞏言いたりちぎりちぎりぬし使拽剌うめうらほう

へい,敕:「あさ廷與唐本とうほん仇怨きゅうえんえん淮軍鎮,かくもり疆域,とくたてへいみん入唐にっとうさかいしょうたび往來おうらいとく禁止きんし。」

おのれ,潞州おくわたるけんしょきたかん將卒しょうそつひゃくろくじゅう餘人よにんかくたまもの衫褲はばくつかえ

えつおうひろし俶諸どう兵馬へいば元帥げんすい


からしおおやけもときゅういちねんなつよんがつみずのえたつついたちはま淮州鎮上ごと:「淮南ワイナンひだるみん淮糴だに禁止きんし。」みことのり曰:「かれなまみんあずか此何ことむべれいしゅうけん舖無とく禁止きんし。」

しょくどおりそう使だかのべあきら固辭こじ樞密院すうみついん丁未ていみ以前いぜんくもやす榷鹽使ふとしはらしんせいためどおりそう使樞密院すうみついんごとしんせいしょく高祖こうそいもうと褒國公主こうしゅ之子ゆきこ也,しょうあずかしょくぬししょうおや狎,及知樞密すうみつ政之まさゆき大小だいしょう悉以咨之。しんせいまた經濟けいざいためおのれにん,而貪侈回よこしまあずかおうあきらとおあいおもてうらしょく政由まさよしひたおとろえ

えつおうひろし俶徙はいおうひろし倧居ひがしためちく宮室きゅうしつえん圃,娛悅さいきょう饋甚あつ

ちぎりおも使つかい如北かんつげ以周使さとしらいやくとし輸錢じゅうまん緡。きたかんおも使てい珙以あつまいないしゃちぎり自稱じしょう「侄皇帝こうてい致書於叔天授てんじゅ皇帝こうてい」,請行さつれい


からしおおやけもときゅういちねんなつがつおのれひだり金吾きんご將軍しょうぐん姚漢えいとう使於契ちぎりとめからしきたかんれいさむらいろうどうたいらあきらごとてい珙卒於契

きのえいぬ義武よしたけ節度せつど使まごかた簡避皇考こうこういみなさらめいかた諫。

ていなん節度せつど使つねいん使つかいたてまつおもて於北かん


からしおおやけもときゅういちねんなつろくがつからし,以樞密使みっしどうたいらあきらごとおうたかしためひだりぼくしゃけん門下もんかさむらいろう樞密すうみつ副使ふくし兵部ひょうぶさむらいろう范質、戶部とべさむらいろうはん三司李穀為中書侍郎,なみどうたいらあきらごとたに仍判さんつかさけんさむらいちゅう竇貞かたつかさそらけん中書ちゅうしょさむらいろうどうたいらあきらごと禹珪なみやめもり本官ほんかんみずのとうし,范質さん樞密院すうみついんごとちょう,以宣徽北いん使翟光鄴兼樞密すうみつ副使ふくし

はつみかど討河ちゅうやめため人望じんぼう所屬しょぞくこくためうたてうん使みかどすう以微げん諷之,こくただし人臣じんしんつきぶしためたいみかど以是けん即位そくいしゅよう為相ためすけとき國家こっか新造しんぞう四方しほうおおゆえおうたかし夙夜つきしん不為ふため軍旅ぐんりょはかりごとしょ裨益ひえき。范質明敏めいびん強記きょうき,謹守法度はっとこく沉毅ゆうりゃくざいみかどぜん議論ぎろん慷慨こうがいぜんたとえさとし以開主意しゅい

武平ぶへい節度せつど使うま光惠みつえ懦嗜しゅ不能ふのうふくしょしょうおう逵、しゅうこう逢、なにけいはかりごと以辰しゅう刺史ししいおりりょうりゅうげん驍勇とく蠻夷ばんいしんよくむかい以為副使ふくしげん逵等なんせい,曰:「往,はたおさむ。」乃單騎たんき赴之。すんでいたり,眾廢光惠みつえおく於唐,推言けん武平ぶへいとめひょうもとめ旄節於唐,唐人とうじんもとまたたたえ籓於しゅう

えつおうひろし俶以ぜん內外うまあゆみみやこみつる軍使ぐんしじんしゅん無罪むざいふく官爵かんしゃく

ちぎりつばめおうじゅつきしとうさついのちきたかんおうためだいかん神武じんむ皇帝こうていため皇后こうごうきたかんぬしさらめいみん


からしおおやけもときゅういちねんあきなながつきたかんおも翰林かんりん學士がくしはくきょうまもるとおるとうまいちぎりしゃさつれい,且請へい

からしおおやけもときゅういちねんあきはちがつみずのえいぬそうかんかくれみかど於穎りょう

義武よしたけ節度せつど使まごかた入朝にゅうちょうみずのえ,徙鎮こく節度せつど使,以其おとうとえきしゅう刺史しし行友ゆきともため義武よしたけとめまた徙建ゆう節度せつど使於晏鎮徐しゅう,以武やすし節度せつど使おう彥超だい

つちのえうま追立おいたて夫人ふじんしばため皇后こうごう

からしおおやけもときゅういちねんあききゅうがつきたかんおも招討使そん瑰將へいだんかしわ入寇にゅうこうちぎりよく引兵かいあずか酋長しゅうちょう於九じゅう九泉きゅうせんしょみなよくみなみ寇,ちぎりぬしきょうみずのとぎょういたりしんしゅう西にしかみおりつばめおうじゅつきし及偉おう之子ゆきこふとしやすしおう漚僧さくみだれ,弒契ぬし而立じりつじゅつきしちぎりぬし德光とくみつ之子ゆきこひとしおうじゅつりつ逃入南山なんざんしょたてまつじゅつりつ以攻じゅつきし、漚僧,ころせこれなみ其族とうたてじゅつりつためみかど改元かいげんおうれき自火じかしんおりいれかそけしゅう使つかいつげ於北かんきたかんおも樞密すうみつちょく學士がくしじょうとうおうとくちゅう如契即位そくいふく叔父おじごと,請兵以擊すすむしゅう

ちぎりぬし年少ねんしょうこう遊戲ゆうぎおや國事こくじ每夜まいよたけなわいんいたるだん乃寐,にち中方なかほうおこり國人くにびといいねむおうこうさらめいあかり

みずのえさるしょく以吏尚書しょうしょちゅうすすむ范仁じょため中書ちゅうしょさむらいろうけん吏部尚書しょうしょどうたいらあきらごと

すわえおうまれがくすんでかつちょうすなしょう許可きょか瓊,うたぐ瓊怨もちためこうむしゅう刺史ししうまあゆみ指揮しき使じょたけし左右さゆう軍馬ぐんば使ちんたかし遷、水軍すいぐん指揮しき使魯公かんきば內侍まもる指揮しき使りくはじめしゅんそちへいたて寨於城西じょうさいきたすみ,以備ろうへいそんなで役者やくしゃ將卒しょうそつみな怨怒,はかりごとさくらんまれたかし其謀,つちのえとらまれがくえんはた吏,じょたけしとうあずかまれたかしまたやましいたりとう使つかいじん先驅せんく踶嚙じゅうあまり入府にゅうふそち其徒おのきんしろてここえげん縶馬,奄至じょう縱橫じゅうおうげきじん,顛踣滿まんまれがく逾垣はしとうしゅうしゃ彥顒,いただき及踵剉之。たてまれたかしため武安たけやすとめたてへいだいかすめかそけまれがく於衡山縣やまがた

りゅうげん聞希たかしりつへいおもむき潭州,こえげん討其篡奪つみみずのえうまぐん於益西にしまれたかし懼,みずのとはつへいせんこばめこれまた使つかい如朗しゅうもとめ,請為鄰籓。てのひら書記しょきかつらはやしかんぞうせつげん曰:「まれがくきゅうしょうなおざいちょうすな,此必ほっあずかおおやけため鄰;わかさきげきまれたかし其首,しか後圖こうと湖南こなみ兼有けんゆう也。」げんしたがえこれまれたかしかしこげん即斷そくだんぐん判官ほうがん楊仲さとしてのひら書記しょきりゅうひかり輔、きば指揮しき使すすむ押牙勍等じゅう餘人よにんくびぜんたつ縣令けんれい翊繼おくろうしゅういたりそく腐敗ふはいげんあずかおう逵等みな以為なかさとしとうくびいかせめ翊,翊惶おそれ自殺じさつ

まれたかしすんでかさねまたたてしゅ荒淫こういん為政いせいおおやけ矯妄,國人くにびとはつうまのぞみがくいれちょうすな,彭師暠雖めんなおつえ黜為みんまれたかし以為暠必怨之,使送しそうまれがく於衡さんじつよく暠殺暠曰:「よく使わがため弒君ひと乎!」たてまつこと逾謹。へいいぬいたり衡山。衡山指揮しき使廖偃,ただし之子ゆきこ也,あずか其季ちち節度せつどじゅんかんただししこりはかりごと曰:「われ受馬おんこんまれがくちょう而被黜,必不めん,盍相あずか輔之!」於是そちそう及鄉じん悉為へいあずかそち共立きょうりつまれがくため衡山おう,以縣ためあるきだんこうためしがらみへんちくため戰艦せんかん,以師暠為たけきよし節度せつど使召募しょうぼ眾,數日すうじついたりまん餘人よにんしゅうけんおう判官ほうがんりゅうきょおのれもとめ援於とう

じょたけしとうまれたかし所為しょい必無なりまたかしころうしゅう、衡山逼,こわ一朝いっちょうはい,俱及よくころせまれたかし以自かいまれたかしほろさとしだい懼,みつ客將かくしょう范守まきたてまつおもて請兵於唐,から主命しゅうめい鎬自袁州將兵しょうへいまんにん西にしおもむきちょうすな


からしおおやけもときゅういちねんふゆじゅうがつからし,潞州巡檢じゅんけんひねおもえゆずる敗北はいぼくかんへい於虒てい

からあたり鎬引へいにゅう醴陵。癸巳きしすわえおうのぞみたかし使つかい犒軍。みずのえとらてんさく學士がくしつぶせばつつねたてまつ箋詣鎬請降。つね歎曰:「われひさ不死ふし,乃為小兒しょうにおくじょう!」みずのとまれたかしそちおとうと侄迎鎬,もちちり而拜,鎬下馬げばしょうみことのりろうかぶとたつまれたかしとうしたがえ入城にゅうじょう,鎬捨於瀏もんろう湖南こなんすすむ吏畢,鎬皆あつたまものとき湖南こなん饑饉ききん,鎬大はつくらあわにぎわいすわえじんだいえつ

ちぎりあきらこく節度せつど使しょう禹厥はた奚、ちぎりまんかいきたかんへい入寇にゅうこうきたかんおも將兵しょうへい萬自陰地關寇晉州,丁未ていみぐん於城きたさんめんおけ寨,晝夜ちゅうやおさむゆうへいいたり絳州。どきおう晏已はなれ鎮,おう彥超いたりじゅん檢使けんしおう萬敢權知晉州,あずかりゅうとし指揮しき使彥超、とらとし指揮しき使なん徽共こばめこれ彥超,くもしゅうじん也。

みずのとうしからたけあきら節度せつど使りゅうひとし贍帥戰艦せんかんひゃくたけしゅうなでおさめくだにん忘其ほろびじん贍,きむ之子ゆきこ也。

から百官ひゃっかんども南平なべら起居ききょろう高遠こうえん曰:「じょうすわえみだれこれ甚易。かんしょ將之まさゆきざいただしこわ守之もりゆきなんみみ!」とおかそけしゅうじん也。つかさ致仕ちしけんくん曰:「わざわい其始此乎!」とうぬし即位そくい以來いらい嘗親ほこら郊廟,れいかん以為請。からしゅ曰:「俟天一家いっかしかこうつげしゃ。」及一舉取すわえいい諸國しょこくゆび麾可じょう岑侍えんげん:「しんしょうゆう元城もとしろらく其風,俟陛てい中原なかはら,乞魏はく節度せつど使。」からしゅもと,岑趨はいしゃ。其主おごしん佞如此。

うまのぞみがくもち唐人とうじんりつおのれため潭帥,而潭じんあくまれがくきょう請邊鎬為そちからしゅ乃以鎬為武安たけやす節度せつど使

おうたかしゆう故人こじん曰申あつし,嘗為兗州きばはた失職しっしょく饑寒きかんもちたかし拜謁はいえつ於道。かいりょうしゅうとめおり逋嘉ほどこせ上表じょうひょう請帥於朝廷ちょうていみかど絕域ぜついき非人ひにんしょよくつのりつ供奉ぐぶかん願行がんぎょうしゃがつあまり無人むじん應募おうぼたかしこもあつ於帝。ちょう,以師あつため河西かさい節度せつど使からあたり鎬趣まれたかしそち其族入朝にゅうちょううま聚族しょう泣,よくしげるまいない鎬,そう乞留きょちょうすな。鎬微曬曰:「國家こっかあずか公家くげため仇敵きゅうてき,殆ろくじゅうねんしか嘗敢有意ゆうい窺公くにこんおおやけ兄弟きょうだい鬩,困窮こんきゅうわかふくさんおそれゆう不測ふそく。」まれたかし以應,十一月じゅういちがつからしとりあずか宗族そうぞく及將せん餘人よにんごう慟登ぶねおくしゃみな哭,ひびき川谷かわたに

みかど以北いほくかんちぎりへいなおざいすすむしゅう甲子きのえね,以王たかしためぎょう營都部署ぶしょ將兵しょうへいすくいみことのりしょぐんみな受峻節度せつど,聽以便宜べんぎ從事じゅうじとく選擇せんたくはた吏。おつうしたかしぎょうみかどいたり城西じょうさいはなむけ

すわえ靜江しずえ節度せつど副使ふくしかつらしゅうまれかくれたけきよしおういん少子しょうし也。すわえおうまれひろまれがく兄弟きょうだいそうこくみなみかんしゅ以內さむらい使くれふところおんため西北せいほく招討使將兵しょうへいたむろ境上さかいかみ,伺間密謀みつぼう進取しんしゅまれひろ指揮しき使彭彥あきら將兵しょうへいたむろりゅう峒以備之。まれがく衡山使つかい以彥あきらためかつら州都しゅうとかんざいしろがい內巡檢使けんしはんぐんごとまれかくれあくせんひとつげこうむしゅう刺史しし許可きょか瓊。瓊方かしこみなみかん逼,そく棄蒙しゅう,引兵おもむきかつらしゅうあずか彥暉せん於城ちゅう。彥暉はい,奔衡さん瓊留たむろかつらしゅうふところおんよりどころこうむしゅうしんへい侵掠しんりゃくかつらかんだい擾,まれかくれ不知ふち所為しょいただしあいあずか飲酒いんしゅたい泣。

みなみかんおものこまれかくれしょげん:「たけきよしおう奄有ぜんすわえ富強ふきょうあんやすしじゅうねん正由まさよしさんじゅうしゅうとさんじゅうしゅうと兄弟きょうだいひろほこあい魚肉ぎょにく,舉先じんもとぎょう北面ほくめんかたき讎。こん聞唐へいやめよりどころちょうすな,竊計かつらりんつぎ為所しどころとうあさため與國よこくじゅう婚姻こんいん,睹茲かたぶけ危,しのぶ赴救!やめはつ大軍たいぐん水陸すいりく俱進,とうれいしょうおおやけしゅうとながようぶし旄,つねきょ方面ほうめん。」まれかくれとくしょあずか僚佐くだこれささえ使はんげん珪以ため不可ふかへいとらふところおん引兵奄至城下じょうかまれかくれ瓊帥其眾,よるせき奔全しゅうかつらしゅうとげつぶせふところおんいん以兵りゃくじょうよろしれん、梧、いむとみあきらやなぎぞう、龔等しゅうみなみかんはじめつきゆうみねみなみ

からしからあたり鎬遣先鋒せんぽう指揮しき使うけたまわ戩將へい如衡さんおもむきまれがく入朝にゅうちょうかのえたつまれがくあずかはた士卒しそつ萬餘人自潭州東下。

おうたかしとめ陝州旬日じゅんじつみかど以北いほくかんおさむすすむしゅうきゅうゆう其不もりしょうよしさわしゅうあずかたかしかいへいすくい,且遣使さとしたかし十二月じゅうにがつ戊子ぼしついたちしもみことのりさんにち西にしせい使者ししゃいたり陝,たかしいん使者ししゃげん於帝曰:「すすむしゅうぐすくけんえき拔,りゅうたかしへいほこさきかたするど不可ふかりょくそう所以ゆえん駐兵ちゅうへいまち其氣おとろえみみしんおびえ也。陛下へいかしん即位そくいよろしけいどう若年じゃくねん汜水,のり慕容彥超引兵にゅう汴,大事だいじ矣!」みかど聞之,手提てさげみみ曰:「いくはいわれごと!」かのえとら,敕罷おやせい

はつやすしやすし節度せつど使けん中書ちゅうしょれい慕容彥超聞徐しゅうたいら疑懼ぎくいよいよ甚,乃招おさめ亡命ぼうめい,畜聚たきぎかてせん以書ゆいきたかん,吏獲其書以聞。またひといつわりため商人しょうにんもとめ援於とうみかど通事つうじ舍人とねりていこうけん就申慰諭,あずかこれためちかい。彥超えきやす,屢遣押牙てい麟詣闕,にせ輸誠款,じつ覘機ごとまたけんじ天平てんぴょう節度せつど使高行たかゆきしゅうしょ,其言みなそし毀朝廷與彥超しょうゆいみかどわらい曰:「此彥ちょういつわり也!」以書しめせくだりしゅうぎょうしゅう上表じょうひょう謝恩しゃおんすんで而彥ちょうはんあとえきへいさるかくもん使ちょうしこり將兵しょうへい赴鄆しゅう巡檢じゅんけん以備

かのえおうたかしいたり絳州。おつやめ,引兵おもむきすすむしゅうすすむしゅうみなみゆうこうむあなさいため險要けんようたかしゆうきたかんへいよりどころ,聞前ほこさきやめこうむあな曰:「われごとずみ矣!」

慕容彥超奏請そうせい入朝にゅうちょうみかど其詐,そくもとすんで而復しょうさかい內多ぬすめ敢離鎮。

きたかんぬしおさむすすむしゅうひさしかつかい大雪おおゆきみんしょう聚保やま寨,しょかすめぐんとぼししょくちぎりおもえ,聞王たかしいたりこうむあなしょう營夜遁。たかしにゅうすすむしゅうしょしょう請亟おいたかし猶豫ゆうよ未決みけつ明日あした,乃遣ぎょう營馬ぐん指揮しき使かたきひろしちょうはいひね使やくもとぶくひだりひさし排除はいじょ使ひねおもえゆずるかんのべぬまはた騎兵きへいおい,及於霍邑,たてへい奮擊,きたかんへい墜崖たに死者ししゃ甚眾。霍邑どう隘,のべぬまかしこ懦不急追きゅうついゆかりきたかんへい得度とくどくすりもとぶく曰:「りゅうたかし悉發其眾,はさみあかり而來,こころざし吞晉、絳。こんおとろえりょく憊,狼狽ろうばい而遁。じょう此翦撲,必為後患こうかん。」しょしょうよくすすむおうたかしふく使つかいどめとげかえちぎり丹比たんぴいたりすすむ什喪さんよんしょう禹厥はじ於無こうくぎだい酋長しゅうちょういちにん於市,旬餘じゅんよ而斬きたかんぬしはじめいき進取しんしゅきた漢土かんどやせみんひん,內供軍國ぐんこくそとたてまつちぎりしげるやくじゅうみん聊生,逃入しゅうさかいしゃ甚眾。

からしゅ以鎮みなみ節度せつど使けん中書ちゅうしょれいそうひとしおかためふとでん,以馬まれがくため江南えな西道さいどう觀察かんさつ使まもり中書ちゅうしょれい,鎮洪しゅう,仍賜爵楚おう。以馬まれたかし為永ためながやすし節度せつど使けんさむらいちゅう,鎮舒しゅう湖南こなんすすむ吏,だかしゃはい刺史しし將軍しょうぐんきょうかん,卑者以次はいかんとうぬしよしみ廖偃、彭師暠之ちゅう,以偃ためひだり殿どのちょく軍使ぐんし、萊州刺史しし暠為殿どのちょくおそれこうたまもの甚厚。湖南こなん刺史ししみな入朝にゅうちょう於唐,ながしゅう刺史ししおう贇獨いたり唐王とうのう毒殺どくさつ

みなみかんおも內侍しょうすすむはんたかしとおる將軍しょうぐんしゃぬき將兵しょうへいおさむ郴州,からあたり鎬發へいすくいたかしとおるはいとうへい於義あきらとげ郴州。あたり鎬請じょぜんみち二州刺史以備南漢。へいたつからしゅ以廖偃為どうしゅう刺史しし,以黑くも指揮しき使ちょう巒知ぜんしゅう

これさいからしゅ以安節度せつど使鄱陽おうおうのべせい為山いざん南西なんせいどう節度せつど使さらたまもの爵光山王さんのう

はつこうむしろ鎮將鹹師ろうしょうへいくだからからしゅ以其へいためたてまつふししたがえ鎬平湖南こなみから悉收湖南こなみきん帛、ちん玩、くらあわ乃至ないしふねかんちんかんはなはてしゃみな徙於きんりょうかんろうちゅう楊繼勳等くんとうおさむ湖南こなん租賦以贍戍兵。つぎ勳等くんとうつとむため苛刻,湖南こなんじん失望しつぼうくだり營糧りょう使つかいおう紹顏げん士卒しそつかてたまものたてまつふし指揮しき使まごろう、曹進いか曰:「むかしわれしたがえ鹹公くだからからまちわがあに如今湖南こなみ將士しょうしあつ哉!こん有功ゆうこうぞう祿ろくたまものまたげん如殺紹顏及鎬,よりどころ湖南こなみかえり中原なかはら富貴ふうき也!」


ふとしきよしかみきょう肅文こう皇帝こうていじょうこうじゅんねんみずのえねんこうもときゅうねんしゅうひろじゅんねん[编辑]

はる正月しょうがつ庚申こうしんよるまごろう、曹進そち其徒さくらんたば蒿潛しょうもんしかあたり鎬覺出兵しゅっぺいかく鬥,且命かくろうすすむとう以為はたあかつきせき奔朗しゅうおう逵問ろう曰:「われむかししたがえたけきよしおうあずか淮南ワイナンせん屢捷,淮南ワイナンへいえきあずかみみこんよく以朗しゅう眾復湖南こなん乎?」ろう曰:「ろうざいかねりょうすうねん,備見其政事せいじあさけんしんぐんりょうはたちゅう佞無べつ賞罰しょうばつ不當ふとう,如此,とくこくそんこう矣,なにひま兼人かねとろう請為こう前驅ぜんく湖南こなみ如拾あくたみみ!」逵悅,厚遇こうぐう

みずのえいぬはつ開封かいふう府民ふみんおっとまんおさむだいはりじょう旬日じゅんじつ而罷。

慕容彥超はつさとへい入城にゅうじょう,引泗すいちゅうごうちゅうためせん守之もりゆき備。また以旗のぼり授諸鎮將,れいつの群盜ぐんとうひょうげかすめ鄰境,所在しょざいそう其反じょう甲子きのえね,敕沂、みつ二州不復隸泰寧軍。以侍まもるぐん指揮しき使昭武あきたけ節度せつど使曹英ため都部いちぶしょ,討彥ちょうひとししゅう防禦ぼうぎょ使のべちょうためふく部署ぶしょすめらぎじょう使かわ內向くんためかんひねしゅう防禦ぼうぎょ使らくもとぶくためぎょう營馬おそれこうみかど以元ぶく宿將しゅくしょういのちえいくんとく以軍れいこれ二人ふたりみなちちごと

からあるじはつへいせんぐん於下おした邳,以援彥超。聞周へいはたいたり退すさたむろ沐陽。じょしゅう巡檢じゅんけん使はりれいあきらげき大破たいはとうへいころせ溺死できししゃせん餘人よにん其將つばめたかしけん

はつ,彥超以周しつ新造しんぞういい其易ゆらきた召北かん及契みなみさそえ唐人とうじん使つかいおかせ邊鄙へんぴ,冀朝廷ちょうてい奔命ほんめいひましかじょうあいだ而動。及北かんちぎりすすむしゅうきたはしとうへいはい於沐,彥超いきおいとげ沮。

永興りょうご節度せつど使ひろししんじ以漢しつ近親きんしんこころやす城中じょうちゅうへい不滿ふまんせんにんおうたかしざい陝,以救すすむしゅうためめいはつ其數ひゃく。及北かんへい遁去,きんへいせん餘人よにん戍長やすひろししん懼,とげ入朝にゅうちょう

みずのえさるおうたかしすすむしゅうかえにゅう

曹英とういたり兗州,しつらえちょうかこえ。慕容彥超屢出せんくすりもとぶくみなげきはい,彥超敢出。じゅうにちちょうかこえあいとげ進攻しんこう

はつ,彥超はたはん判官ほうがんちぇしゅう諫曰:「魯,詩書ししょくにはく以來いらい不能ふのう霸諸こうしか以禮義守よしもり以長おおやけ國家こっかゆうわたし憾,えびすためうたぐきょう主上しゅじょうひらけさとしつとむいたり,苟撤備歸まことのりすわとおる泰山たいざんやす矣。どくもりちゅうれいあんじょう河中かわなか竟何しょなり乎!」彥超いか。及官ぐんかこえじょう,彥超くく士民しみんざい以贍ぐんすわ匿財死者ししゃ甚眾。ぜん陝州司馬しば閻弘魯,たから之子ゆきこ也,かしこ彥超暴,かたぶけためけんじ。彥超なお以為ゆうしょ匿,いのちしゅうさく其家,しゅういいひろ魯曰:「きみ死生しせいけいざいゆたかやくむべところあい。」ひろし魯泣はい其妻わらわ曰:「悉出所有しょゆう以救われ。」みな曰:「竭矣!」しゅう以白彥超,彥超不信ふしんおさむひろ魯夫つま繫獄。ゆう乳母うば於泥ちゅう掊得きんまといひじけんじこれ,冀以贖其ぬし。彥超曰:「果然かぜんしょ匿必なおおお。」榜掠ひろ魯夫つまにくつぶせ而死。以周ためおもねひさし於市。

きたかんへい寇府しゅう防禦ぼうぎょ使おりとく扆敗ころせせん餘人よにんがつかのえとく扆奏おさむ拔北かん岢嵐ぐん,以兵戍之。

きのえたつ帝釋たいしゃくつばめたかしけんとう使とういいとうぬし曰:「叛臣,天下てんかしょどもやまし也,不意ふいとうぬしすけとくけい乎!」とうぬしだい慚,さき所得しょとく中國人ちゅうごくじんみなれい而歸とうげんごとしゃなおけんじちゅう原之はらのさく中書ちゅうしょ舍人とねりかん熙載曰:「かくゆうこく雖淺,ためやめかたまわがへいけいどう,必有害ゆうがい無益むえき。」

かられつ以來いらいつね使つかい泛海あずかちぎりしょうゆいほしあずかこれどもせい中國ちゅうごくさらしょう饋遺,やくため兄弟きょうだいしかちぎりたんとし其貨,以虛往來おうらいじつ不為ふためとうよう也。

とうぬしこう文學ぶんがく熙載あずか馮延おのれのべ魯、こうぶん蔚、はんたすくじょ鉉之みないたりかんたすくかそけしゅうじん也。當時とうじとう文雅ぶんが於諸こくためもりしか嘗設舉,いん上書うわがきげんごとはいかんいたりはじめいのちかんりん學士がくしこうぶん蔚知みつぎ舉,進士しんしいおりりょうおうかつさだとうさんにん及第きゅうだいからしゅといぶん蔚:「聊取なん如前あさ?」たい曰:「ぜんちょうこう舉、わたし謁相はんしん專任せんにんいたりこうみみ。」からしゅえつ中書ちゅうしょ舍人とねりちょうぬきぜんあさとうだい,聞而銜之。とき執政しっせいみなよしだいそうあずか沮毀,竟罷みつぎ舉。


さんがつつちのえたつ,以內きゃくしょう使おんしゅうだんねり使すすむていひとし誨為樞密すうみつ副使ふくし

きのえいぬあらため勝軍かちいくさ曰武勝軍かちいくさ

からしゅ以太おとうとふとしたもて昭義あきよし節度せつど使馮延おのれためひだりぼくしゃぜん鎮海節度せつど使じょけいうんため中書ちゅうしょさむらいろう,及右ぼくしゃまごあきらみなどうたいらあきらごとすんでせんせい戶部とべ尚書しょうしょつねゆめすず眾中大言たいげん曰:「はくあさ甚佳,ただし及江ぶん蔚疏みみ!」あきらもとけいのべおのれいいじん曰:「金盃きんぱいだまわん,乃貯いぬ乎!」のべおのれげん於唐ぬし曰:「陛下へいか躬親庶務しょむ宰相さいしょうとくつき其才,此治どう所以ゆえん未成みせい也。」からしゅ乃悉以政事せいじそう而已。すんで而延おのれ不能ふのうつとむごと文書ぶんしょみなおおせなり胥史,軍旅ぐんりょそくあたりしょうころことえき不治ふちからしゅ乃復らん

だいきょうしょうげんあくのべおのれためじんすうじょう疏攻かいげんすわしつにゅう人死ひとじにざいかね謨、德明のりあきやから必欲ころせこれのべおのれ曰:「げん誤殺ごさついち婦人ふじん諸君しょくん以為とうげんきゅうきょう也,誤殺ごさつ乎?」どくじょうげん:「げんもとゆうちょくこえいましょすわやめかい赦,むべしたがえひろしなだめ。」げんよしとくめんひとまた以此おおこれけいうんひろやめため太子たいししょうでん

なつよんがつへいいぬついたちにちゆうしょく

みかど以曹えいとうおさむかつ兗州ひさしかつおつしもみことのりおやせい,以李こくけん東京とうきょう留守るすけんばん開封かいふうていひとし誨權だい內都點檢てんけんまた以侍まもるうまぐん指揮しき使かくたかしたかしざい京都きょうと巡檢じゅんけん

からしゅすんでかつ湖南こなん其將けんたむろえき以圖ろうしゅう,以知ぜんしゅうちょう巒兼かつらしゅう招討使以圖かつらしゅう久之ひさゆき有功ゆうこうからしゅいい馮延おのれまごあきら曰:「すわえじんもとめいきかた於我,わがゆう以撫其瘡痍而しいたげよう其力,所以ゆえんふくらいもちわれよくやめかつらりんこれやく,斂益戍,以旌ぶし授劉ごとなに如?」あきら以為よろししかのべおのれ曰:「われへんはた舉湖みなみ遠近えんきんふるえおどろき一旦いったんさんふんにんはたけい。請委はた察其形勢けいせい。」からしゅ乃遣すべ軍使ぐんしこうくん將兵しょうへい五千自吉州路趣全州,あずかちょう巒合へいおさむかつらしゅうみなみかん伏兵ふくへい山谷さんや,巒等はじめいたり城下じょうかやめとぼし伏兵ふくへいよんおこり城中じょうちゅう出兵しゅっぺい夾擊きょうげきとうへい大敗たいはいくん,巒收そつすうひゃく奔歸ぜんしゅう

五月ごがつ庚申こうしんみかどはつだいはりつちのえたついたり兗州。おのれみかど使じん招諭慕容彥超,城上じょうかみ人語じんご不遜ふそん庚午こうごいのちしょぐん進攻しんこう

さきじゅつしゃ紿彥ちょううん:「鎮星ぎょういたりかく、亢,かく、亢兗しゅうこれぶん,其下有福ありふく。」彥超乃立ほこら而禱れい民家みんかみなりつはた。彥超せいむさぼしわ官軍かんぐんおさむじょうきゅうなお瘞藏珍寶ちんぽうゆかりじん鬥志,將卒しょうそつしょうつぎゆうしゃおつ官軍かんぐんかつじょう,彥超かた禱鎮ぼしほこらそち力戰りきせんかち,乃焚鎮星ほこらあずかつま赴井つぎくん出走しゅっそうついころせこれ官軍かんぐんだいかすめ城中じょうちゅう死者ししゃきんまんにんはつ,彥超はたはんつの群盜ぐんとうおけちょういたりしゃせん餘人よにんみな山林さんりん獷悍,竟不為ふためよう

みかどよく悉誅兗州はた吏,翰林かんりん學士がくし竇儀馮道、范質,あずかこれきょうしろみかど曰:「かれみなおびえしたがえみみ。」乃赦ちょううし,以端あきら殿どの學士がくしがお衎權兗州ごとみずのえうま,赦兗しゅうかん內,彥超とうあずか逃匿しゃいちがつ自首じしゅぜんやめふく誅者赦其親戚しんせきみずのとくだたいやすしぐんため防禦ぼうぎょしゅう

からつかさ致仕ちしけんくんそつ,且死,戒家じん曰:「時事じじ如此,われとくりょうこう矣!勿封土ほうどりつ,聽人こうしゅ於其じょうめんため他日たじつ開發かいはつしるべ。」及江みなみほろび也,しょ貴人きじん高大こうだいづか不發ふはつしゃおもんみたていさおづか莫知其處。

ろくがつおつとりついたちみかど如曲阜,謁孔ほこらすんでみことはたはい左右さゆう曰:「孔子こうし陪臣ばいしん也,不當ふとう天子てんしはい。」みかど曰:「孔子こうしひゃくせい帝王ていおう,敢不けい乎!」とげはいまたはい孔子こうしいのち葺孔ほこらきんあなりんきこりさいおとずれ孔子こうしかおふちこれ,以為きょく阜令及主簿へいいぬみかどはつ兗州。

乙未おとみえつ順德じゅんとくふとし夫人ふじんそつ

ちょうとりしょく大水だいすいにゅう成都せいと,漂沒せんいえ溺死できしせん餘人よにん,壞太びょうよんしつつちのえいぬしょく大赦たいしゃにぎわいすいわざわいいえ

おのれみかど至大しだいはり

ついたちかた節度せつど使けん中書ちゅうしょれいひねとめおう馮暉そつ,其子きば內都おそれこうつぎぎょうころせ其兄つぎくんぐんごと

太子たいし賓客ひんきゃく濤之おとうと澣,ざいちぎりためつとむまさし殿どの學士がくしあずかかそけしゅう節度せつど使しょううみぜんうみしんちぎりぬし兀欲つまおとうと也。澣說うみ內附,うみ欣然きんぜんもと。澣因じょうしゅう諜者じゅう霸繼きぬひょう以聞,且與濤書,げん:「ちぎりぬしわらわ騃,せんごとえんゆうどおこころざし前人ぜんじん朝廷ちょうていわかのう用兵ようへい,必克;しかあずか,必得。二者皆利於速,其情ぜい他日たじつおわり能力のうりょくすけ河東かとうしゃ也。」みずのえとらじゅう霸至だいはりかい中國ちゅうごく多事たじはてしたがえ

からし,以馮つぎぎょうためついたちかたとめ

くるる密使みっしおうたかしせい輕躁けいそう計數けいすうこう權利けんりじんおのれ以天ためおのれにんまいげんごとみかどしたがえこれそくあるときまこと,輒慍懟,往往おうおうはつ不遜ふそんみかど以其故舊こきゅう,且有いのちこうまた其為じんまいゆうようたかし年長ねんちょう於帝,みかど即位そくいなお以兄よびあるしょう其字,たかし以是えきおご副使ふくしていひとし誨、すめらぎじょう使むかいさとしおんしゅうだんねり使しげるすすむみなみかどざい籓鎮腹心ふくしんはた也,みかど即位そくいややややすすむようたかしこころ嫉之,るいひょうしょうやましもとめかいつとむ,以詗みかどみかど屢遣左右さゆうあつしさとしたかしたい使者ししゃ亢厲。またのこ諸道しょどう節度せつど使しょもとめ保證ほしょう諸道しょどうかくけんじ其書,みかどおどろき駭久ふく左右さゆう慰勉,れいごと,且曰:「きょう倘不らいちん且自往。」なおいたりみかど樞密すうみつちょく學士がくしひねかんあずかたかし親善しんぜんれい往諭ゆびかん曰:「陛下へいかただしこえげん臨幸りんこう其第,いむ以待たかし必不敢不らい。」したがえこれあきなながつ戊子ぼしたかし入朝にゅうちょうみかど慰勞いろうれいごとじゅうすすむ,滄州じん,其母そくみかどいもうとぶく慶長けいちょう公主こうしゅ也。

こくあし跌,きずみぎひじざいつげ月餘げつよみかど以穀職業しょくぎょう繁劇はんげきおもむきれい入朝にゅうちょう以未にん趨拜。癸巳きしみことのりめんあささんただしれいごと

しょくこう尚書しょうしょはん武德ぶとくぐん邵延ひとしれい於監押王うけたまわ丕,うけたまわ丕謀さくらんからしうしひだりたてまつせい指揮しき使安次やすつぐまご欽當以部へい戍邊,往辭うけたまわ丕,うけたまわ丕邀與俱見おおやけ。欽不知ふち其謀,したがえこれうけたまわ丕至,のりれい左右さゆうげきころせのべひとしほふ其家,たたえたてまつみことのり處置しょちぐんそく開府かいふしょう士卒しそつけいしゅうはつたむろ戍。はた吏畢しゅう,欽謂うけたまわ丕曰:「こんのべひとしやめふく辜,おおやけむべ詔書しょうしょ以示眾。」うけたまわ丕曰:「わがのう致公富貴ふうき,勿問詔書しょうしょ。」欽始うけたまわ丕反,いん紿曰:「こん內外やすわが請以へいためこう巡察じゅんさつ。」そくおどうま而出,うけたまわ連呼れんことめ。欽至營,あかつきさとし其眾,そち入府にゅうふおさむうけたまわ丕,うけたまわ左右さゆうよくこばめせん,欽叱みな棄兵はしとげうけたまわ丕,これなみ其親とうつてしゅ成都せいと

天平てんぴょう節度せつど使まもり中書ちゅうしょれい高行たかゆきしゅうそつくだりしゅうゆういさむ而知よしこうだか而不矜,さく臨敵,しか吒風せい平居ひらいあずかまろうど僚宴しゅうただしただしえきにん以是重之しげゆき

みずのとしょくぬしきゃくしょう使ちょうさつ如梓しゅう慰撫いぶ吏民。

かんほうはんわたししお、麴,とい多少たしょう抵死。てい州民しゅうみんゆう以屋ぜい受鹽於官,しゅうじょう,吏以ためわたししお而殺,其妻訟冤。みずのとうしはじめみことのりはんしお、麴者以斤りょうじょうけいゆう

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