ずいしょ/まき81

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高麗こうらい 百濟くだら しん 靺鞨 りゅうもとめこく 俀國

こううらら[编辑]

高麗こうらいこれさき出自しゅつじおっとあまりおっとあまりおう嘗得かわはくおんないん閉於しつ內,ため日光にっこうずい而照かん而遂孕,なま一大いちだいたまごゆう一男子破殼而出,めい朱蒙チュモンおっとあまりしん朱蒙チュモン非人ひにん所生しょせい,咸請ころせこれおう聽。及壯,いんしたがえりょうしょきょまた請殺。其母以告朱蒙チュモン朱蒙チュモン棄夫あまり東南とうなんはしぐういち大水おおみずふか不可ふかこし朱蒙チュモン曰:「わがかわはく外孫そとまごにち之子ゆきこ也。いま有難ありがた,而追へい且及,如何いかとくわたり?」於是ぎょすっぽんせき而成きょう朱蒙チュモンとげわたりおいとくずみ而還。

朱蒙チュモン建國けんこくごう高句麗こうくり,以高ため朱蒙チュモン閭達嗣。いたり其孫莫來きょうへいとげ并夫あまりいたり裔孫みや,以魏せいはじめちゅう入寇にゅうこう西にし安平あびら,毌丘儉拒やぶこれみや玄孫げんそん之子ゆきこ曰昭れつみかどため慕容しょやぶとげにゅうまる,焚其宮室きゅうしつだいかすめ而還。あきられつみかどため百濟くだらしょころせ。其曾まご璉,使つかい。璉ろくせいまご[1]ざいしゅう使つかい朝貢ちょうこうたけみかどはい湯上ゆのえ開府かいふ遼東りゃおとんぐんおおやけ遼東りゃおとんおう高祖こうそ受禪じゅぜんふく使つかいまい闕,しん授大將軍しょうぐんあらためふう高麗こうらいおうとし使つかい朝貢ちょうこうぜっ

其國東西とうざい千里せんり南北なんぼくせんあまりさと平壤ぴょんやんじょうまた曰長安城あき東西とうざいろくずいやま屈曲くっきょくみなみ臨浿すいふくゆうこく內城、かんじょうなみ其都かいこれしょ,其國ちゅうよびため三京さんきょう」。あずかしんごとしょうおかせだつ戰爭せんそういき官有かんゆうふとし大兄たいけい大兄たいけいしょうけいたいこうおご[2]がらすつたなふとし大使たいししゃ大使たいししゃ小使こづかいしゃしとねおごかげぞく仙人せんにん,凡じゅうとうふくゆう內評、そとひょうしとね薩。ひとみながわかんむり使つかいじん插鳥とうとしゃかんむりようむらさきかざり金銀きんぎんふくだいそで衫,大口おおぐちはかま皮帶かわおびかわ屨。婦人ふじん裙襦襈。兵器へいきあずか中國ちゅうごくりゃくどうまい春秋しゅんじゅうこうりょうおう親臨しんりん人稅じんぜいぬのひきこくせきゆうじんそくさんねんいちぜいじゅうにんどもほそぬのいちひき。租戶いちせきななした反逆はんぎゃくしゃばく於柱,爇而斬せきぼつ其家。ぬすめそくつぐなえじゅうばいようけいすんでたかし,罕有はんしゃらくゆう五絃ごげんきんそう篳篥ひちりき橫吹よこぶきしょうぞく,吹蘆以和きょく每年まいとしはつ,聚戲於浿すいうえおうじょうこし輿こしれつ以觀こと畢,おう以衣ふく入水じゅすいふん左右さゆうため,以水せきしょう濺擲,諠呼はせ逐,再三さいさん而止。ぞくこう蹲踞そんきょきよしきよし,以趨はしためけいはいそくいちきゃくたてかくはん拱,ぎょう必搖しゅせい詭伏。父子ふしどうかわ而浴,ともしつ而寢。婦人ふじん淫奔いんぽんぞく遊女ゆうじょゆうこんよめしゃ男女だんじょしょうえつしかそく為之ためゆきおとこおくいのしししゅ而已,ざい聘之れいあるゆう受財しゃにんどもはじ死者ししゃ殯於內,けいさんねん吉日きちじつ而葬。きょ父母ちちはは及夫ふくみなさんねん兄弟きょうだいさんがつはつおわり哭泣,そうのり儛作らく以送うめ訖,悉取死者ししゃせい時服じふく玩車おけ於墓がわ會葬かいそうしゃそう而去。けい鬼神きじん淫祠いんし

ひらきすめらぎはつしきゆう使つかい入朝にゅうちょう。及平ひねこれだい懼,へいせきこくためもりこばめこれさくじゅうななねんうえたまもの璽書曰:

ちん受天いのち愛育あいいく率土そっとおううみすみ宣揚せんようあさよく使えんくびかたあしかくとげ其心。おうごと使つかいじんさいつね朝貢ちょうこう,雖稱はんまことぶしつきおうすんで人臣じんしん,須同ちんとく,而乃驅逼靺鞨,かたきんちぎりしょはんひたぶる顙,ためわがしんわらわ,忿善じん慕義,なに毒害どくがい情深なさけぶか乎?たいこうじん,其數しょうおう必須ひっす聞奏。昔年せきねん潛行せんこう財貨ざいかどう小人こどもわたしはたいしゆみしゅ逃竄こくあに修理しゅうり兵器へいき意欲いよく臧,こわゆう外聞がいぶんためぬすめ竊?ときいのち使者ししゃなで慰王はんほんよくといかれ人情にんじょうきょうかれせいじゅつおう乃坐そらかんいむぼうもり使つかい其閉ふさがみみえい聞見。ゆうなんかげあくどるよく人知じんち禁制きんせいかんかしこ其訪察?またすううま殺害さつがいじん,屢騁かんはかりごと動作どうさ邪說じゃせつこころざいまろうど
ちん於蒼せい悉如赤子あかごたまものおう土宇つちう,授王官爵かんしゃくふかおんことさわあきらちょ遐邇。おうせんふところ不信ふしんつね猜疑さいぎつね使つかいじんみつ覘消いきじゅんしんあにわか是也これやぶたとうよしちん訓導くんどう不明ふめいおう愆違,一已いつちゃん寬恕かんじょ今日きょう以後いご必須ひっす改革かいかくまもりはんしんふしたてまつあさ正之まさゆきてんなんじはん,勿忤他國たこくのりちょうとおる富貴ふうきじつしょうちんしんかれ一方いっぽう,雖地せまじんしょうしか普天ふてんしたみなためちんしんこんわか黜王,不可ふかきょおけおわり須更せんかんぞく,就彼やすなでおうわか洒心えきぎょうりつよし憲章けんしょうそくちんりょうしんなにろうべつざい彥也?むかし帝王ていおう作法さほうひとししんためさきゆうぜん必賞,ゆうあく必罰,四海しかい內,聞朕むねおうわか無罪むざいちんゆるがせへい自餘じよはんこくいいちんなん也!おう必虛こころおさめちん此意,まき疑惑ぎわくさらふところこと
往者おうしゃひね叔寶だい在江あるえかげ殘害ざんがいじん庶,おどろきどうわが烽候,しょうかすめわが邊境へんきょうちん前後ぜんこう誡勑,經歷けいれきじゅうねんかれそく長江ちょうこうそと,聚一すみ眾,惛狂驕傲きょうごうしたがえちんごといのちはた出師すいしじょかれきょうぎゃく來往らいおうみつる旬月じゅんげつへいすうせん歷代れきだい逋寇,一朝いっちょうきよしとろけ,遐邇乂安,にんしん胥悅。聞王歎恨,どく致悲きず,黜陟幽明ゆうめい有司ゆうししょくつみおう不為ふためひねほろびしょうおう不為ふためひねそんらくこうみだれなにためしか也?おういいりょうすいこうなん長江ちょうこう高麗こうらいこれにん多少たしょうひねこくちんわかそん含育,せめおうぜん愆,いのちいち將軍しょうぐんなにまてちから慇懃いんぎんあかつきしめせもとおうしんみみむべとくちんなつけもとめぶく

とくしょ惶恐,はたたてまつおもて陳謝ちんしゃかいびょうそつもと嗣立。高祖こうそ使使はいもとためじょう開府かいふただしどうさんつかさ襲爵しゅうしゃく遼東りゃおとんぐんおおやけたまものころもいちかさねもとたてまつおもて謝恩しゃおん,并賀祥瑞しょうずいいん請封おう高祖こうそゆうさつもとためおう

明年みょうねんもとりつ靺鞨まん寇遼西にし,營州そうかん韋沖げきはしこれ高祖こうそ聞而だいいかいのちかんおうりょうため元帥げんすいそう水陸すいりく討之,しもみことのり黜其爵位しゃくいとき餽運つぎろくぐんとぼしくえ臨渝せきふくぐうやまし疫,王師おうし不振ふしん。及次りょうすいもとまた惶懼,使つかい謝罪しゃざい上表じょうひょうしょう遼東りゃおとん糞土ふんどしんもと云云うんぬんうえ於是やめへいまち如初,もとまたとし朝貢ちょうこう

煬帝嗣位,天下てんか全盛ぜんせいこうあきらおう、突厥けいじんあせなみおやまい貢獻こうけん,於是ちょうもと入朝にゅうちょうもと懼,はんあや頗闕。大業おおわざななねんみかどはた討元つみくるまわたりりょうすいうえ營於遼東りゃおとんじょうふんどう出師すいしかくとみへい於其城下じょうか高麗こうらいりつへいこばめせんおお不利ふり,於是みな嬰城固守こしゅみかどれいしょぐんおさむまた勑諸しょう:「高麗こうらいわかくだしゃそくむべなでおさめとくたてへい。」じょうすすむおちいぞく輒言請降,しょはたたてまつうま敢赴さきれいはせそうほういたりぞくもり禦亦備,ずいこばめせん。如此しゃ再三さいさんみかどさとるよし食盡しょくじんろうてん輸不ままししょぐんはい績,於是はんこれぎょう也,ただ於遼すい西にし拔賊たけ厲邏,おけ遼東りゃおとんぐん及通てい鎮而還。

きゅうねんみかどふくおやせい,乃勑しょぐん便宜べんぎ從事じゅうじしょしょうぶんどうおさむじょうぞくぜい蹙。かい楊玄かんさくみだれはんしょいたりみかどだい懼,即日そくじつろくぐんなみかえ兵部ひょうぶさむらいろう斛斯せいほろびにゅう高麗こうらい高麗こうらい事實じじつ,悉銳らいおい殿軍でんぐんはいじゅうねんまたはつ天下でんかへいかい盜賊とうぞく蜂起ほうきにん流亡りゅうぼう所在しょざい阻絕,ぐんしついたりりょうすい高麗こうらいまたこまへい使つかい乞降,しゅうおく斛斯せい贖罪しょくざいみかどもとひたすら於懷どお鎮,受其降款。仍以俘囚ふしゅうぐんじついたり京師けいし,以高うらら使者ししゃ親告しんこく於太びょういん拘留こうりゅう。仍徵もと入朝にゅうちょうもと竟不いたりみかど勑諸ぐんいむそうさら舉,かい天下でんか大亂たいらんとげ克復こくふくぎょう

百濟くだら[编辑]

百濟くだらこれさき出自しゅつじ高麗こうらいこく。其國おう有一ゆういちさむらい婢,ゆるがせふところ孕,おうよくころせこれ。婢云:「ゆうぶつじょう如雞かん於我,ゆう娠也。」おう捨之。とげせいいちなん,棄之廁溷,ひさ而不,以為しんいのちやしなえこれめい曰東あかり。及長,高麗こうらいおう東明とうめい懼,逃至淹水,おっと餘人よにんどもたてまつこれ東明とうめいこれゆうかたきだいしゃあつし於仁しんじはじめたて其國于帶かたかん遼東りゃおとん太守たいしゅ公孫こうそん以女つまやや以昌もりため東夷あずまえびす強國きょうこくはつひゃくいえずみうみいんごうひゃくずみれきじゅうだいだいしん中國ちゅうごく前史ぜんしこれしょう矣。ひらきすめらぎはつ,其王あまりあきら使つかいみつげかたぶつはいあきらためじょう開府かいふおびかたぐんこう百濟くだらおう

其國東西とうざいよんひゃくじゅう南北なんぼくきゅうひゃくあまりさとみなみせっしんきたこばめだかうらら。其都曰居拔城。官有かんゆうじゅうろくひんちょう曰左ひらめ[3]つぎだいりつおんりつとくりつ杅率,奈率,はたとくふくむらさきたいほどこせとく,皂帶;かたとくあかたいいさお[4]あおたいたいとく以下いかみなたいぶんとく[5]つぎたけただしぐん剋虞,みなようしろたい。其冠せいなみどうただ奈率以上いじょうかざり以銀はなちょうさんねんいち交代こうたい。畿內ためゆうちまた士人しじんきょ焉。五方各有方領一人,ぽう貳之にのほうゆうじゅうぐんこおりゆうしょう。其人ざつゆうしん高麗こうらいやまととう[6]またゆう中國人ちゅうごくじん。其衣ふくあずか高麗こうらいりゃくどう婦人ふじん粉黛ふんたいおんな辮髮べんぱつたれやめよめそくぶんため兩道りょうどうばん於頭じょうぞくなお騎射きしゃ讀書どくしょ能吏のうりごとまた醫藥いやくめどぎかめうらない相之あいのじゅつ。以兩しゅよりどころためけいゆう僧尼そうにてらとうゆうかく箜篌くごそう、竽、箎、ふえらくとうつぼかこえ棊、ぶながまにぎ槊、ろうたまおどけくだりそうもとよしみれき,以建とらがつためとしくび國中くになかだいせいゆうはちぞくすなつばめ、刕氏、かいさだくに、苩氏。[7]こんめとこれれいほぼどう於華。せい如高うららゆう五穀ごこくうしいの、雞,火食かしょく。厥田しめにんみな山居さんきょゆうきょぐりまい以四仲之なかのがつおうまつりたかし及五みかどかみなみ始祖しそかたきだいびょう於國じょうさいよんほこらくに西南せいなんじん島居しまいしゃじゅうしょみな有城あるき邑。

ひらひねとしゆう一戰船漂至海東𨈭牟羅こく,其船かえけい于百ずみあきらおくこれ甚厚,并遣使たてまつおもてひらひね高祖こうそ善之よしゆきしもみことのり曰:「百濟王既聞平陳,とおれいたてまつおもて往復おうふく至難しなんわか風浪ふうろう便びん致傷ちしょうそん百濟くだらおうこころ迹淳いたりちんやめ相去あいさり雖遠,ことどうげんめんなに必數使つかいらいしょうからだ悉。自今じこん以後いご須年べつ入貢にゅうこうちんまた使つかい往,おうむべ知之ともゆき。」使者ししゃまい蹈而去。

ひらきすめらぎじゅうはちねんあきら使其長おうべんらいけんじかたぶつぞくきょう遼東りゃおとんこれやく使つかいたてまつひょう,請為ぐんしるべみかどみことのり曰:「往歲おうさいためだかうららきょうしょくみつげ人臣じんしんれいいのちはた討之。こうもと君臣くんしん恐懼きょうく畏服いふくざいちんやめ赦之,不可ふか致伐。」あつ其使而遣高麗こうらい頗知其事,以兵侵掠しんりゃく其境。

あきらあまりせんりつあまりあきらりつ

大業おおわざさんねんあきら使者ししゃつばめぶんしん朝貢ちょうこう。其年,また使者ししゃおうたかし鄰入けんじ,請討だかうらら。煬帝もとれい覘高うらら動靜どうせいしかあきら內與高麗こうらいどおりはさみいつわり以窺中國ちゅうごくななねんみかどおやせいだかうららあきら使其臣こくさとし牟來請軍みかどだいえつあつしょうすず尚書しょうしょおこりろうせきりつまい百濟くだらあずか相知おうち明年みょうねんろくぐんわたりりょうあきらまたげんへい於境,こえげんすけぐんじつりょうはしひろあずかしんゆうすきまいあい戰爭せんそうじゅうねんふく使つかい朝貢ちょうこう後天こうてんみだれ使命しめいとげぜっ

南海なんかいぎょうさんがつゆう𨈭牟羅こく南北なんぼくせんあまりさと東西とうざいすうひゃく麞鹿,つけいさお於百ずみ百濟くだら西行さいぎょうさんにちいたり貊國うん

しん[编辑]

しんこくざい高麗こうらい東南とうなんきょかんらくなみあるしょう斯羅。しょう毌丘儉討高麗こうらいやぶこれ,奔沃沮。其後復歸ふっき故國ここくとめしゃとげためしん焉。其人ざつゆうはななつ高麗こうらい百濟くだらぞく兼有けんゆう沃沮、たいかん、獩之。其王ほん百濟くだらじんうみ逃入しんとげおう其國。つて祚至きん真平まっぴらひらきすめらぎじゅうよんねん使つかいみつげかたぶつ高祖こうそはい真平まっぴらためじょう開府かいふらくなみぐんこうしんおう。其先いさお於百ずみいん百濟くだらせいだかうららこう麗人れいじん不堪ふかんえびすやくそうりつとげ致強もり因襲いんしゅう百濟附庸於迦羅國。[8]

官有かんゆうじゅうななとう:其一曰伊ばつ如相こくじゃくむかえやぶわたるだいおもねしゃくおもねしゃく乙吉おときちすな咄干,及伏つぎだい奈摩奈摩,だいしゃしょうしゃ次吉つぎよし[9]つぎだいがらすしょうがらすづくりそとゆうぐんけん。其文字もじかぶとへいどう於中こくせんじん壯健そうけんしゃ悉入ぐん,烽、戍、邏俱ゆうたむろかん[10]風俗ふうぞくけいせい衣服いふくほぼあずか高麗こうらい百濟くだらどうまい正月しょうがつだん相賀あいがおうしつらえ宴會えんかいはん賚羣かん。其日はい日月じつげつしんいたりはちがつじゅうにち設樂したられいかんじんしょう以馬ぬの。其有大事だいじのり聚羣かんしょう而定ふくしょくなおもと婦人ふじん辮髮べんぱつにょうあたま,以雜綵及たまためかざりこんよめれいただ酒食しゅしょく而已,輕重けいちょうずい貧富ひんぷ新婚しんこんゆうおんなさきはいしゅうとしゅうとそくはいおっとゆうかん斂,そうおこりふんりょうおう父母ちちはは妻子さいしふくいちねん甚良沃,水陸すいりくけんしゅ。其五穀ごこく果菜かさい鳥獸ちょうじゅう物產ぶっさんほぼあずかはなどう大業おおわざ以來いらいさい朝貢ちょうこうしんやまけわし,雖與百濟くだら構隙,百濟くだらまた不能ふのう

靺鞨[编辑]

靺鞨,在高ありだかうららきた,邑落俱有酋長しゅうちょうあい總一そういち。凡有ななしゅ:其一ごうあわまつ[11]あずか高麗こうらいしょうせっしょうへいすうせん驍武,まい寇高うららちゅう其二そのじ曰伯咄部,ざいあわまつきたしょうへいななせん。其さん曰安しゃほねざいはく東北とうほく。其四曰拂𣵀ざいはく咄東。其五曰號しつざいはらい𣵀ひがし。其ろく曰黑すいざいやすしゃこつ西北せいほく。其なな曰白山部やまべざいあわまつ東南とうなんかちへいなみさんせん,而黑すいゆうため勁健。はらい𣵀以東いとうみな石鏃せきぞくそくいにしえ肅慎也。ところ山水さんすいみぞそち曰大莫弗瞞咄,東夷あずまえびすちゅうため強國きょうこくゆう太山たいざんしゃぞく甚敬かしこうえゆうぐまひぐまひょうおおかみみながいじんにんまた敢殺。卑濕,ちく如堤,鑿穴以居,開口かいこう向上こうじょう,以梯出入でいりあいあずか偶耕,あわむぎ穄。水氣みずけ鹹,なましお於木がわうえ。其畜いのしし。嚼米ためしゅいんまたよい婦人ふじんふくぬの男子だんしころもいのししいぬがわぞく以溺あらいしゅめん,於諸えびすさいため不潔ふけつ。其俗いん而妬,其妻がいいんにんゆうつげ其夫しゃおっと輒殺つまころせ後悔こうかい必殺ひっさつつげしゃゆかりかんいんことおわり發揚はつようひとみなしゃりょうためぎょうすみゆみちょうさんしゃくちょうじゃくゆうすんつねななはちがつづくり毒藥どくやくでん以射禽獸きんじゅうちゅうしゃりつ

ひらきすめらぎはつそうりつ使つかい貢獻こうけん高祖こうそみことのり其使曰:「ちん聞彼土人どじん多能たのういさむとし今來こんらいしょうじつふくちんふところちんなんじとう如子,なんじとうむべけいちん如父。」たい曰:「しんとうへきしょ一方いっぽう道路どうろ悠遠ゆうえん,聞內國有こくゆう聖人せいじん來朝らいちょうはいすんでこうむろうたまものおやたてまつせいかお下情かじょうかち歡喜かんきねがいとくちょうため奴僕どぼく也。」其國西北せいほくあずかちぎりしょうせっまいあい劫掠ごうりゃくこういん其使らい高祖こうそ誡之曰:「わが憐念ちぎりあずかしかことむべかくもりさかいあに不安ふあんらくなにため輒相攻擊こうげき,甚乖我意がい!」使者ししゃ謝罪しゃざい高祖こうそよしあつろうれいうたげいん於前。使者ししゃあずか其徒みなおこりまい,其曲折きょくせつせん鬬之よううえ顧謂侍臣じしん曰:「天地てんちあいだ乃有此物,つね作用さようへいなに其甚也!」しか其國あずかずい懸隔けんかくただあわまつ白山はくさんためちか

煬帝はつあずか高麗こうらいせんしきはい其眾,みぞそち稽率其部はいためみぎこう祿ろく大夫たいふきょ柳城やなしろあずかあたりじん來往らいおうえつ中國ちゅうごく風俗ふうぞく,請被かんむりたいみかど嘉之よしゆきたまもの以錦あやぎぬ而褒ちょう。及遼東之ひがしのやく稽率其徒以從,まいゆう戰功せんこう賞賜しょうしゆうあつじゅうさんねんしたがえみかど幸江ゆきえひろかえり柳城やなしろざいぬりぐうひそかみだれみつへい邀之,前後ぜんごじゅうせん,僅而とくめん至高しこうふくぼつ於王須拔。いく,遁歸げい

ながれもとめこく[编辑]

ながれもとめこくきょ海島うみしまこれちゅうとうけんやすぐんひがしみずぎょうにち而至。山洞やまほら。其王せい歡斯めい渴剌かぶと不知ふち由來ゆらいゆうこくだい數也かずやかれ土人どじんよびためろうひつじつま曰多拔荼。ところきょ曰波まゆみほら,塹柵さんじゅうたまき以流すいとげ為藩ためはんおうしょきょしゃ,其大いちじゅうろくあいだ,琱刻禽獸きんじゅう鬬鏤じゅたちばな而葉みつじょう纖如かみしか下垂かすい國有こくゆうよんそちみつるしょほらほらゆうしょうおう往往おうおう有村ありむらむら有鳥あっとりりょうそちなみ善戰ぜんせんしゃ為之ためゆきあい樹立じゅりついちむらこと男女だんじょみな以白紵繩まといかみしたがえこうばんにょういたりがく。其男子だんしよう鳥羽とっぱためかんむりそう以珠かいかざり赤毛あかげかたちせい不同ふどう婦人ふじん以羅もん白布しろぬのためぼう,其形正方せいほう鬬鏤がわ并雜しょく紵及ざつ以為ころもせいさい不一ふいつつづりたれにしためかざり雜色ざっしょくしょうあいだ下垂かすいしょうかい,其聲如珮。つづり鐺施釧,かかたま於頸。ふじためかさかざり以毛ゆうがたな、矟、ゆみけん、鈹之ぞく。其處しょうてつみなうすしょう以骨かく輔助へん紵為かぶとあるようぐまひょうがわおうじょうじゅうれい左右さゆう輿こし而行,しるべしたがえすうじゅうにんしょうおうじょうつくえちりばめためじゅうがた國人くにびとこうあい攻擊こうげきにんみな驍健ぜんはしなん而耐そうしょほらかくため部隊ぶたいあい救助きゅうじょりょうじん相當そうとう勇者ゆうしゃさんにん出前でまえとべ噪,交言しょうののしいんしょうげきしゃ。如其かち一軍いちぐんみなはしひと致謝,そくきょう和解わかいおさむ鬬死しゃきょう聚而しょく,仍以髑髏しゃれこうべはたこうおうしょおうそくたまもの以冠,使つかいためたいそち斂,有事ゆうじそくひとしぜいようけいまた無常むじょうなぞらえみな臨事けつ犯罪はんざいみなだん於鳥りょうそちふくのりじょう請於おうおうれい臣下しんかども議定ぎていごくかせくさりただようなわばくけつ死刑しけい以鐵きりだい如筯,ちょうしゃくあまり,鑽頂而殺けいつみようつえぞく文字もじ望月もちづき虧盈以紀時節じせつこうくさやく枯以ためねんとし

ひとふかちょうはな,頗類於胡,またゆうしょうとし君臣くんしん上下じょうげふしはいふくれい父子ふしどうゆか而寢。男子だんし拔去ばっきょひげびん身上しんじょう有毛ありげしょみなまた除去じょきょ婦人ふじん以墨黥手,ためちゅうへびぶんよめめと以酒さかなたまかいため娉,ある男女だんじょしょうえつ便びんしょうひき偶。婦人ふじんさんちち,必食ころも產後さんご以火やいとれいあせ五日いつか便びん平復へいふく。以木そうちゅう暴海すいためしおじるため,釀米麪為しゅ,其味甚薄。しょくみなようしゅ。偶得あじ先進せんしん尊者そんじゃ。凡有宴會えんかいさけしゃ必待呼名よびな而後いんうえおうさけしゃまたよびおうめい。銜杯どもいん,頗同突厥。うたよび蹋蹄,一人ひとり唱,眾皆おと頗哀怨。扶女子じょし上膊じょうはくゆらしゅ而舞。其死しゃはたぜっ,舉至にわおやまろうど哭泣しょうちょうよく其屍,以布帛纏,裹以あしそうおや而殯,うえおこりふんためちちしゃすうがつ食肉しょくにく南境みなみざかい風俗ふうぞくしょうにんゆう死者ししゃ,邑里共食ともぐい

ゆうくまひぐま豺狼さいろうゆういのしし雞,うしひつじ驢馬ろば。厥田りょう沃,さき以火しょう而引すい灌之。もちいち插,以石ためちょうしゃくあまり,闊すうすん,而墾むべいね、粱、𢇲きびあさまめあかまめえびすまめ黑豆くろまめとうゆうかえで、栝、くすのきまつ、楩、くすのきすぎあずさたけとうはてくすりどう於江ひょう風土ふうど氣候きこうあずかみねみなみしょうるい

俗事ぞくじ山海さんかいかみまつり以酒さかな,鬬戰殺人さつじん便びんしょうしょ殺人さつじんさい其神。ある茂樹しげきおこり小屋こやあるかか髑髏しゃれこうべ於樹じょう,以箭しゃあるるいせき繫幡以為神主かんぬしおうこれしょかべ髑髏しゃれこうべ以為けい人間にんげん門戶もんこじょう必安じゅう頭骨とうこつかく

大業おおわざ元年がんねんうみなん蠻等,まい春秋しゅんじゅうてん清風せいふうしずひがしもちまれゆう煙霧えんむまた不知ふちいく千里せんりさんねん,煬帝れいじょうしゅひろし入海いりうみもとめおとずれぞくなに蠻言とげあずか蠻俱往,いんいたりゅうもとめこくげんそうどおりかすめいちにん而返。明年みょうねんみかどふくれいひろし慰撫いぶりゅうもとめしたがえひろし其布かぶと而還。とき倭國わのくに使來朝らいちょうみる曰:「此夷よこしま久國ひさくにじん所用しょよう也。」みかどたけ賁郎はたひねりょうあさ大夫たいふちょう鎮州りつへいやす浮海げき至高しこうはな嶼,またひがしぎょうにちいたり𪓟鼊嶼,またいちにち便びんいたりりゅうもとめはつりょうはた南方なんぽう諸國しょこくじん從軍じゅうぐんゆう崐崘じん頗解其語,ひと慰諭りゅうもとめしたがえこばめぎゃく官軍かんぐんりょうげきはしこれしんいたり其都,しきせんみなはい,焚其宮室きゅうしつとりこ男女だんじょすうせんにんぐんじつ而還。なんじとげぜっ

倭國わのくに[编辑]

倭國わのくにざい百濟くだらしん東南とうなん水陸すいりくさん千里せんり於大おだいうみちゅう山島やましま而居。わけどおり中國ちゅうごくさんじゅうあまりこくみな自稱じしょうおうえびすじん不知ふち里數りすうただしけい以日。其國境こっきょう東西とうざいがつぎょう南北なんぼくさんがつぎょうかくいたり於海。其地ぜいひがしだか西下さいか於邪靡堆,のりこころざし所謂いわゆるよこしまだいしゃ也。うんらくなみぐんさかい及帶かたぐんなみいちまん千里せんりざいかい稽之ひがしあずか儋耳相近すけちかかん光武みつたけ使つかい入朝にゅうちょう自稱じしょう大夫たいふやすみかどまた使つかい朝貢ちょうこういいやまとやつこく。桓、れいあいだ,其國大亂たいらん,遞相おさむ歷年れきねん無主むしゅゆう女子じょしめい卑彌呼ひみこのう以鬼どう惑眾,於是國人くにびと共立きょうりつためおう有男くにおおとうと卑彌こく。其王ゆうさむらいせんにん,罕有其面しゃただゆう男子だんしにんきゅうおう飲食いんしょくつう傳言でんごん。其王ゆう宮室きゅうしつろうかんしろしがらみみなへい守衞しゅえいためほう甚嚴。いたり于齊、はりだいあずか中國ちゅうごくしょうどおり

ひらきすめらぎじゅうねんやまとおうせいおもねまい多利たりおもえ[12]ごうおもねやから雞彌,使つかいまい闕。うえれい所司しょしおとずれ風俗ふうぞく使者ししゃげんやまとおう天為てんいけい,以日ためおとうとてん未明みめい聽政,跏趺坐,日出にっしゅつ便びんとまつとむうんわがおとうと高祖こうそ曰:「此太義理ぎり。」於是訓令くんれいあらためおうつまごう雞彌,後宮こうきゅうゆうおんなろくななひゃくにんめい太子たいしためわたるどる城郭じょうかく。內官有かんゆうじゅうとういち大德だいとくしょうとく大仁おおひとつぎしょうじん大義たいぎしょう大禮たいれいしょうれい大智たいち小智しょうち大信たいしんつぎしょうしんじいん定數ていすうゆうぐんあまいちひゃくじゅうにんなお中國ちゅうごくまきおさむ。八十戶置一伊尼翼,如今さとちょう也。十伊尼翼屬一軍尼。其服飾ふくしょく男子だんしころも裙襦,其袖微小びしょうくつ如屨がたうるし其上,繫之於脚。ひと庶多はだしあし得用とくよう金銀きんぎんためかざりふるときころもよこはば結束けっそくしょうれん而無ぬいあたままた無冠むかんただし垂髮たれがみ於兩みみじょういたりずい,其王はじめせいかんむり,以錦綵為,以金銀きんぎんちりばめはなためかざり婦人ふじん束髮そくはつ於後,またころも裙襦,みなゆう襈。攕竹ためくしけずへんくさためこもざつがわためひょうえん以文がわゆうゆみかたな、矟、いしゆみ、䂎、おのうるしがわためかぶとほねためかぶら。雖有へい征戰せいせん。其王朝會ちょうかい,必陳しつらえ儀仗ぎじょうそう其國らくじゅうまん

其俗殺人さつじん強盜ごうとう及姦みなとうしゃけい贓酬ぶつざいしゃぼつためやつ自餘じよ輕重けいちょうあるながれあるつえまい訊究ごく訟,承引しょういんしゃ,以木あつひざあるちょう強弓ごうきゅう,以弦のこ其項。あるおけ小石こいし沸湯わかしゆちゅうれいしょきおいしゃさがせこれうん曲者くせものそくしゅただれあるおけへびちゅうれいこれうん曲者くせものそく螫手矣。ひと頗恬せい,罕爭訟そうしょうしょう盜賊とうぞくらくゆうげんきんふえ男女だんじょ黥臂てんめん文身いれずみぼつすいさかな文字もじただこく結繩けつじょうけい佛法ぶっぽう,於百ずみもとめ佛經ぶっきょうはじめゆう文字もじ卜筮ぼくぜいゆうしんみこ覡。まいいたり正月しょうがついちにち,必射おどけ飲酒いんしゅ,其餘節略せつりゃくあずかはなどうこう棊博、にぎ槊、ぶながまおどけ氣候きこう溫暖おんだん草木くさきふゆあお土地とちあぶら腴,みずりくしょう。以小たまき挂鸕鷀項,れい入水じゅすいさかなにちひゃくとうぞくばんまないた,藉以檞葉,食用しょくようしゅ餔之。性質せいしつじきゆうみやびふうおんなおとこしょうこんよめどうせい男女だんじょしょうえつしゃそくためこん入夫にゅうふ,必先またがいぬ[13]乃與おっとしょう婦人ふじんいん妬。死者ししゃ斂以かん槨,おやまろうど就屍歌舞かぶ妻子さいし兄弟きょうだい以白布製ぬのせいふく貴人きじんさんねん殯於がい,庶人ぼく而瘞。及葬,おけかばね船上せんじょう陸地りくち牽之,ある以小輿こしゆう阿蘇山あそさん,其石おこりせってんしゃぞく以為ことよしぎょう禱祭。ゆう如意寶珠にょいほうじゅ,其色あおだい如雞たまごよるのり有光ありみつうんぎょせい也。しん百濟くだらみな以倭ため大國たいこく珍物ちんぶつなみ敬仰けいぎょうつねどおり使往來おうらい

大業おおわざさんねん,其王多利たりおもえ使つかい朝貢ちょうこう使者ししゃ曰:「聞海西にし菩薩ぼさつ天子てんしじゅうきょう佛法ぶっぽう朝拜ちょうはいけん沙門しゃもんすうじゅうにんらいがく佛法ぶっぽう。」其國しょ曰「にち出處しゅっしょ天子てんし致書日沒にちぼつしょ天子てんし恙」云云うんぬんみかどらんえついいおおとり臚卿曰:「蠻夷ばんいしょ有無うむ禮者れいしゃ,勿復以聞。」明年みょうねんうえぶんりんろう裴清使於倭こく[14]ひゃくすみぎょういたり竹島たけしまみなみのぞむ𨈭こくけい斯麻こく,迥在大海たいかいちゅうまたあずま至一しいちささえこくまたいたりちく斯國,またひがしいたりしん王國おうこく,其人どう於華なつ,以為えびすしゅううたぐ不能ふのう明也あきやまたけいじゅうあまりこくたち海岸かいがんたけ斯國以東いとうみないさお於倭。やまとおうしょうとくおもねやからだいしたがえすうひゃくにんしつらえ儀仗ぎじょうかく來迎らいごうこうじゅうにちまた大禮たいれい哥多毗,したがえひゃく郊勞。すんでいたりかれ,其王與清ともきよしょうだいえつ,曰:「わが聞海西にしゆうだいずいれい義之よしゆきこく朝貢ちょうこうわがえびすじんへきざいうみすみ聞禮よし以稽とめさかい內,そくしょうこん清道きよみちかざりかん,以待大使たいし,冀聞大國たいこくおもんみしんこれ。」きよしこたえ曰:「皇帝こうていとくなみさわりゅう四海しかい,以王慕化,行人こうじんらい此宣さとし。」すんで而引きよし就館。其後きよしひといい其王曰:「朝命ちょうめい既達きたつ,請即戒塗。」於是しつらええんとおる以遣きよしふくれい使者ししゃずいきよし來貢らいこうかたぶつ。此後とげぜっ

ふみしん曰:廣谷ひろたに大川おおかわことせい人生じんせい其間ぞく,嗜欲不同ふどう言語げんご不通ふつう聖人せいじんいんしつらえきょう所以ゆえんたち其志而通其俗也。きゅうえびすしょあずかちゅうなつ懸隔けんかくしか天性てんせい柔順じゅうじゅん獷暴ふう,雖緜邈山海さんかい,而易以道なついんだいあるらいおう。暨箕避地朝鮮ちょうせんはじめゆうはちじょうきんうと而不,簡而ひさ所感しょかん千載せんざいぜっこん遼東りゃおとん諸國しょこくある衣服いふくさんかんむり冕之ようある飲食いんしょくゆうまないたまめうつわ好尚こうしょうけいじゅつあいらくぶん遊學ゆうがく京都きょうとしゃ往來おうらいつぎあるほろびぼつ不歸ふき先哲せんてつ遺風いふう,其孰のう致於斯也?孔子こうし曰:「げん忠信ちゅうしんぎょうあつしけい,雖蠻貊之邦行くにゆき矣。」誠哉せいや斯言。其俗しゃあに楛矢みつげ而已乎?高祖こうそなでゆうしゅうあまりめぐみ此中こくひらきすめらぎすえぽうごとりょうひだりてん不利ふりとげこうだいうけたまわもとこころざしつつみ宇宙うちゅうしきさんかんいき,屢發千鈞せんきんいしゆみ小國しょうこく懼亡,敢同こまししへいれん戢,四海しかい騷然そうぜんとげ以土くずれめつこくへいこころざしゆう曰:「つとむ廣德ひろのりしゃあきらつとむ廣地ひろちしゃほろび。」しかりょう東之ひがしのれつ於郡けんひさ矣。諸國しょこくあさただしたてまつみつげ闕於としだいふるえ而矜,以為じん莫若おのれ不能ふのうふところ以文とく,遽動干戈かんか。內恃富強ふきょうそとおもえ廣地ひろち,以驕怨,以怒きょうわか此而ほろびひつじ聞也。しかのりよん夷之えびすの戒,やすふかねん哉!

じょういちかん したいちかん
ずいしょ

ほん作品さくひんざいぜん世界せかいぞく公有こうゆう领域いん为作しゃ逝世やめ经超过100ねん,并且于1929ねん1がつ1にちぜん出版しゅっぱん

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  1. ろくせいまご 「」,本書ほんしょ高祖こうそおさむ上作じょうさく」。
  2. こうおご 「ほう」,しゅうしょ異域いいき傳作でんさく「俟」。
  3. ひだりたいら つうてんいちはちさくひだりりつ」。
  4. いさお きた百濟くだら傳作でんさくとく」。
  5. つぎたいとく以下いかみなたいぶんとく きた百濟くだらでん,「みなたいざいつぎぶんとくした
  6. 其人ざつゆうしん高麗こうらいやまととう 「やまと原作げんさく「俀」。按:したがえしたがえ「妥」てきゆう通用つうよう。如「桵」あるさく「㮃」,「緌」あるさく「綏」。「俀」おうやまとてきべつたい本書ほんしょ煬帝上作じょうさくやまと」。ほんまきかずしょさく「俀」しゃ今一いまいちただしあらためためやまと」。
  7. 苩氏 「苩」原作げんさくなえ」,よりどころどおりてんいちはちあらため
  8. 因襲いんしゅう百濟附庸於迦羅國 つうてんいちはちさく因襲いんしゅうにん諸國しょこくめつ。」よりどころさん國史こくし有金ありかねかんやすししょよこしまこくひとしためしんしょ併,うたぐ「於」もろなまり
  9. よし さん國史こくしさんはちさくきち」。
  10. 烽戍邏俱ゆうたむろかん つうてんいちはち,「かんさく「營」。
  11. あわまつ 原作げんさくぐりひつじ」,よりどころさつきゅうろくしんとうしょ黑水くろみず渤海靺鞨でんつうかん武德ぶとくよんねんえびすちゅうあらためしたどう
  12. 多利たりおもえ 「原作げんさくきた」,よりどころきた倭國わのくにでんつうてんいちはちつうかん大業おおわざよんねんあらためしたどう
  13. 必先またがいぬ きた倭國わのくにでん,「いぬさく」。
  14. 裴清 おうさく「裴世きよし」,唐人とうじん避諱,しょう