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【武田砂鉄が気鋭美術家の初エッセイ集『なめらかな人』を読む】世の中を背負わない(武田 砂鉄) | 群像 | 講談社

武田たけだ砂鉄さてつ気鋭きえい美術家びじゅつかはつエッセイしゅう『なめらかなひと』をむ】なか背負しょわない

群像ぐんぞう2024ねん7がつごう掲載けいさい書評しょひょう

気鋭きえいのアーティスト百瀬ももせあやさんによるはつエッセイしゅう『なめらかなひと』が刊行かんこうされました。

武田たけだ砂鉄さてつさんは本書ほんしょを「このほんんでいたら、らいでいていいとおもえる」とひょうします。

刊行かんこう記念きねんして、群像ぐんぞう7がつごう掲載けいさい書評しょひょうなか背負しょわない」を特別とくべつ公開こうかいします。

百瀬文『なめらかな人』百瀬ももせあや『なめらかなひと

なか」ってだれ

 あるひとについて、自分じぶんているとおもう。やっぱりていないとおもう。このかえしってあちこちでしょうじているものだが、どうしてているのか、ていないのか、ふかりしてみても、正直しょうじきよくわからない。よくわからないまま、ひとちかづいていき、あるいはちかづかれ、一緒いっしょになったり、一緒いっしょにならなくなったりする。らしていると、ひとはどんどんながれていく。どうしてもひとんでしまうし、ある仕事しごとわればわなくなるし、ちょっとだけ雑談ざつだんできるようになったとなりとなり部屋へやひとらぬあいだしていく。

 ひとひととは、ずっと正体しょうたいをつかませないまま存在そんざいうのではないか。自分じぶん場合ばあい一番いちばんちかくにいる存在そんざいつまだが、いまだによくわからない部分ぶぶんがある。わかってたまるかとおもうし、わかられてたまるかとおもっているはず。これでいい。他人たにん結婚けっこん披露宴ひろうえん出席しゅっせきして、司会しかいしゃが「〇〇をて、おたがつうい……」とか、「今日きょうこうして永遠えいえんあいちかい……」なんて常套句じょうとうくかさねているのをくと、「つううとはなにか」「永遠えいえんとはなにか」などと、新書しんしょのタイトルにすればそれなりにれるかもしれない命題めいだいかんでしまう。関係かんけいせい確定かくていし、それを共有きょうゆうすることへのためらいのさにたじろいでしまう。

「たとえこの地球ちきゅうりにむことになったとしても家族かぞくでいられるように、わたしたちは将来しょうらい約束やくそくをしないのだとおもう」

 美術家びじゅつか百瀬ももせぶんのエッセイしゅうにこうある。百瀬ももせは、二人ふたり男性だんせいパートナーと同居どうきょしている。二人ふたりとも「大切たいせつでかけがえのない存在そんざい」だが、それが「恋愛れんあい感情かんじょう」なのかどうか、相手あいてがどうとらえているのか、らぎがある。だから約束やくそくをしない。もちろんそれは、いまがよければいいじゃん、ではない。将来しょうらい約束やくそくしないのは、将来しょうらいげているのではなくて、その都度つどかんがえる誠実せいじつさを手放てばなしたくないからなのか。

 いわゆる普通ふつうとされるらしをしているひとまえに、そうではないらしをしているひとあらわれると、そのらしかた理解りかいできるかどうかといった尺度しゃくど登場とうじょうしやすい。どうして理解りかいしなければなんておもうんだよ、としんなか舌打したうちをする。

 二人ふたり男性だんせいパートナーと同居どうきょする女性じょせいらしかたはおそらく理解りかいされにくい。でも、なんで、らしかたって、よくわからないほかだれかに理解りかいされなければいけないのだろうか。人間にんげん関係かんけいせい評価ひょうかするじょうで、「でも、本人ほんにんたちがいいならそれでいいよ」という評価ひょうかがある。わりと、寛容かんよう評価ひょうかとしてられがちではあるのだが、そんなのいいにまっているだろ、である。そもそも、おまえはどうして評価ひょうかしようとしたんだよ、という苛立いらだちがある。でも、ひょう苛立いらだちをすと面倒めんどうなので、しんなか煮込にこんでみる。

 すこまえに『なか足並あしなみがそろわない』とだいされたエッセイしゅうんだが、なか足並あしなみなんてそろえてはいけない。だって、「なか」ってだれだ。なかくんやなかちゃんがいるわけではないのだ。

「「まない」という状況じょうきょうは、つねに「む」を「しない」という否定ひていぶんかたられる。「しない」を使つかわずにそのまま肯定こうていぶん説明せつめいできるものごとは、あるしゅ社会しゃかいなか自然しぜんされているとってもいいものごとなのかもしれない。そもそもそういった二分にぶんほうでしかおたがいの身体しんたいのことをかたれないということ自体じたいが、なにかわたしたちの健康けんこうしずかにむしばんでいるようながしてしまう」

 ある女性じょせい学芸がくげいいんから「でも実際じっさいどもをむと、作品さくひんはかなりわるとおもいますよ」とわれた経験けいけんからはじめるエッセイで違和感いわかんをこのようにつづっている。

 わたしは、結婚けっこんしているけれどどもがいるわけではない状態じょうたいつま二人ふたりらしているのだが、この「でも実際じっさい」をよくびる。む・まないの主体しゅたいではないので、作品さくひんわるとおもいますよとはわれないが、おおくのひととおるステップアップの段階だんかいえるとえる景色けしきわるはずてき忠言ちゅうげん頂戴ちょうだいする。

「しない」をえらいたり、結果けっかてきに「ない」になったりする状態じょうたいもまた、日々ひびあゆみのなかの、それはそれは正直しょうじき延長線えんちょうせんじょうにあるのだが、なぜか、社会しゃかいてきに○とされる状態じょうたい対抗たいこうして△や×のような状態じょうたいにあると位置付いちづけられる。つかわれたり、「でも実際じっさい」がやってくる。普通ふつうこうするものでしょう、とひといるひとは、その普通ふつう効果こうか役割やくわりおおきく見積みつもって、勝手かって見積みつもったそれを相手あいてげつけてくる。いたいし、迷惑めいわくなのだが、げつけるはなぜか「なか」を背負せおっている。だれだよオマエ、背負せおってんじゃねぇよと、のうないでは乱暴らんぼう言葉ことばっている。

はなというものにたいする距離きょりかんがいまだによくわからない」。自分じぶんもよくわからない。きれいな花束はなたばると、きれいにするために間引まびかれた草花くさばなのほうを想像そうぞうして、いそいで同情どうじょうしたりもするのだが、正直しょうじきたいした同情どうじょうではないので、すぐにえる。完成かんせいした花束はなたばはきれいなのだが、「きれい!」でいいのかとおもいつつ、みんな「きれい!」とっているし、「きれいってことでいいのか」とわざわざくちにはしない。

 色々いろいろなところでくちごもっている。わだかまりや不安ふあんなかきている。ずっとこの状態じょうたい。そればかりでいやになるけれど、じつ根本こんぽんから解消かいしょうされるとはおもっていない。かたさがしているあいだ時間じかんってしまう。

不安ふあんは、つねにその不安ふあん根源こんげん排除はいじょしようとこころみる。だからこそ、この感情かんじょうをいったん自分じぶんのなかにれたうえで、それがほんとうに妥当だとうなものであるかどうかをかんがえなければいけないのだ」

 関係かんけいせいらぐ。かんがかたらぐ。普通ふつうとされる関係かんけいせいがある。かんがかたがある。らいでいるものとかたまっているものがぶつかると、どうしてもかたまっているものがつよいのだけれど、なんとからいだままでいられないものだろうかとかんがえる。つね不安ふあんいならした状態じょうたいになるが、このほんんでいたら、らいでいていいとおもえる。それは共感きょうかんとはちがった、差異さいをそのままにして個々ここ状態じょうたい信頼しんらいしてくれるたくましさがあるからなのだろう。

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