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【特別公開「論点」国立西洋美術館抗議活動をめぐって】組織化された自律性 Autonomia Organizzata(松浦 寿夫) | 群像 | 講談社

特別とくべつ公開こうかい論点ろんてん国立こくりつ西洋せいよう美術館びじゅつかん抗議こうぎ活動かつどうをめぐって】組織そしきされた自律じりつせい Autonomia Organizzata

群像ぐんぞう6がつごう論点ろんてん

3月11にち国立こくりつ西洋せいよう美術館びじゅつかんで、参加さんかアーティストらによる、イスラエルのパレスティナ侵攻しんこうへの抗議こうぎおこなわれた。

特集とくしゅう展示てんじ「ここは未来みらいのアーティストたちがねむ部屋へやとなりえてきたか?――国立こくりつ西洋せいよう美術館びじゅつかん65ねん自問じもん現代げんだい美術家びじゅつかたちへのいかけ」は会期かいきえたが、議論ぎろんはいまだくされていない。

出展しゅってん作家さっか一人ひとりでもある松浦まつうら寿夫としおさんによる批評ひひょう組織そしきされた自律じりつせい Autonomia Organizzata」(群像ぐんぞう2024ねん6がつごう掲載けいさい)を特別とくべつ公開こうかいする。

群像6月号群像ぐんぞう6がつごう

自律じりつてきだからこそれん繫できる

 二人ふたり女性じょせいたがいにり、緊張きんちょうしたおもむきをしめしながらも、正面しょうめん視線しせんけたまま沈黙ちんもくたもあるつづける。そして、けっしてひろくはない国立こくりつ西洋せいよう美術館びじゅつかん地下ちかロビーをなんとなく往復おうふくする。その偶然ぐうぜん居合いあわせた人々ひとびとからの遠巻とおまきの視線しせん反応はんのうすることもなく、彼女かのじょたちの視線しせんは、どこかべつ場所ばしょけられているかのようだ。二人ふたりにつけたしろ衣服いふくには無数むすうあか絵具えのぐっている。この際限さいげんなく反復はんぷくされる歩行ほこうによる往復おうふく運動うんどうのさなかで、二人ふたりはCEASEFIRE NOWと表記ひょうきされた横長よこながぬのし、ひろげながら、あるつづける。このぬのされた直後ちょくごどう美術館びじゅつかん職員しょくいんらしき二人ふたり人物じんぶつ介入かいにゅうによって、この一連いちれん行為こうい中止ちゅうし要請ようせいされる。このぬの瞬間しゅんかんまで一連いちれん行為こうい黙認もくにんされていたのだから、中止ちゅうし要請ようせいあきらかにCEASEFIRE NOWというメッセージをかかげたことへの直接的ちょくせつてき反応はんのうかんがえられる。とはいえ、この介入かいにゅう根拠こんきょとなるどう美術館びじゅつかんのコンセンサスはどこにも明記めいきされていない。そしてこの判断はんだん権限けんげん職員しょくいん個人こじんてき管轄かんかつゆだねられているのだろうか。西洋せいよう美術館びじゅつかんからはいまなおその明確めいかく返答へんとうけてはいない。

 ともあれ、この介入かいにゅう以後いごも、二人ふたりふたたたがいのり、会場かいじょうあるつづける。つたえるべきメッセージの伝達でんたつきんじられたばかりか、メッセージそのものをもうばわれた存在そんざいが、ただただあるつづけるという行為こうい継続けいぞくてき遂行すいこうによって、言葉ことばうばわれた存在そんざい重力じゅうりょく威厳いげんとをしずかに、とはいえ不屈ふくつ意志いしとともに顕示けんじつづける。それは、想起そうきさせるあか絵具えのぐにじみを媒介ばいかいとした表象ひょうしょう作用さよう以上いじょうに、言語げんごぜっする過酷かこく状況じょうきょうのもとにあることを強制きょうせいされているパレスティナの人々ひとびと体現たいげんする威厳いげん直接的ちょくせつてき喚起かんきするものであったといえよう。個人こじんてき意見いけんくわえるとすれば、今回こんかいの「ここは未来みらいのアーティストたちがねむ部屋へやとなりえてきたか?」とだいされた展覧てんらんかいで、筆者ひっしゃにとってはもっとも衝撃しょうげきてき瞬間しゅんかんであった。それはまた、余談よだんになるが、今回こんかい展覧てんらんかい出品しゅっぴんしゃ一人ひとりである筆者ひっしゃに、たとえば絵画かいが作品さくひんがこのような強度きょうど匹敵ひってきできるようなものでなければならないというおも課題かだい自覚じかくさせるものでもあった。

 参加さんか作家さっか遠藤えんどう麻衣まい友人ゆうじん美術家びじゅつか百瀬ももせあやによるこの一連いちれん行為こういは「ここは未来みらいのアーティストたちがねむ部屋へやとなりえてきたか?」とだいされた国立こくりつ西洋せいよう美術館びじゅつかん開催かいさいされた展覧てんらんかい一般いっぱん内覧ないらんかい会場かいじょうくちロビーでおこなわれたものだが、このおな会場かいじょうでは、それに先立さきだち、プレス内覧ないらんかい開催かいさいされた。このプレス内覧ないらんかいでは、本展ほんてん企画きかく担当たんとうしゃである新藤しんどうあつしによる企画きかく趣旨しゅし説明せつめいおこなわれた直後ちょくごに、参加さんか作家さっか一人ひとりである飯山いいやま由貴ゆきがり、イスラエルが現在げんざいパレスティナで遂行すいこうするジェノサイドへの抗議こうぎと、国立こくりつ西洋せいよう美術館びじゅつかんとのオフィシャル・パートナーシップを締結ていけつする川崎重工かわさきじゅうこうによるイスラエルせい攻撃こうげきようドローンの輸入ゆにゅうりやめの要求ようきゅう、また、どう美術館びじゅつかんからの川崎重工かわさきじゅうこうへのはたらきかけの要求ようきゅう主旨しゅしとした声明せいめいぶん朗読ろうどくした。あらためて指摘してきするまでもなく、パレスティナの人々ひとびとたいして遂行すいこうされつつある暴挙ぼうきょとしかびようのない残虐ざんぎゃく戦闘せんとう一種いっしゅ最新さいしん兵器へいき商品しょうひん見本市みほんいちとして活用かつようするイスラエルのぐんさんふく合体がったいからの武器ぶき購入こうにゅうはこの戦争せんそう犯罪はんざいへの具体ぐたいてき加担かたんならない。このあいだ筆者ひっしゃ参加さんか作家さっかせきでFREE PALESTINEといたぬのかかげ、飯山いいやま声明せいめいぶん賛同さんどうする友人ゆうじん市民しみん方々かたがたが「川崎重工かわさきじゅうこう虐殺ぎゃくさつ加担かたんするな」という巨大きょだいまくひろげ、また、声明せいめいぶんのチラシの配布はいふおこなった。この一連いちれん抗議こうぎ活動かつどう一人ひとり参加さんか作家さっかによる大声おおごえでの恫喝どうかつとともにプレス内覧ないらんかい参加さんかしゃ展示てんじ会場かいじょうへの移動いどう促進そくしんされ、曖昧あいまいかたち聴衆ちょうしゅう減少げんしょうするなかでも続行ぞっこうされ、さらに飯山いいやまたちなんにんかはゆか直接ちょくせつよこたわることによって、抗議こうぎ意思いし提示ていじつづけた。ここでもまたよこたわる身体しんたい自重じちょうささえきれない姿勢しせいにもかかわらず、その沈黙ちんもくとともにある身体しんたい威厳いげん顕示けんじしていた。

 今回こんかい一連いちれん抗議こうぎ活動かつどうかんしては新聞しんぶんとうのジャーナリズムでの言及げんきゅうをはじめとして、おおくの意見いけんみみにすることになった。批判ひはんてき論調ろんちょうしゅとして、なぜ西洋せいよう美術館びじゅつかん抗議こうぎ活動かつどうおこなうのか、なぜ出品しゅっぴん辞退じたいせずに、展示てんじ参加さんかしつつ抗議こうぎ活動かつどうおこなうのか、なぜ抗議こうぎ意思いし作品さくひんそれ自体じたいによって表明ひょうめいしないのかというさんてん集約しゅうやくされるだろう。このさんてんかんしては当日とうじつ配布はいふした声明せいめいぶんがすでに明瞭めいりょうしめしているのでここでかえ必要ひつようはないとおもうが、ごく簡単かんたん応答おうとうしておきたい。今回こんかい展覧てんらんかい出品しゅっぴんされた飯山いいやま作品さくひんあきらかにしているように、西洋せいよう美術館びじゅつかん基盤きばんとなる松方まつかたコレクションを形成けいせいした松方まつかた幸次郎こうじろう川崎重工かわさきじゅうこう前身ぜんしんである川崎かわさき造船ぞうせんしょ初代しょだい社長しゃちょうであり、しかもコレクションの形成けいせいてられた資金しきん海軍かいぐんとの密接みっせつ関係かんけい維持いじしつつ拡張かくちょうした造船ぞうせんぎょう収入しゅうにゅうによるものであった。そして、この西洋せいよう美術館びじゅつかん形成けいせい歴史れきしおよびどう美術館びじゅつかん昨年さくねん川崎重工かわさきじゅうこうとのオフィシャル・パートナーシップを締結ていけつした事実じじつかんがえれば、川崎重工かわさきじゅうこうによるイスラエルのぐんさんふく合体がったいからの武器ぶき購入こうにゅう計画けいかくたいしてその放棄ほうきびかけるようにどう美術館びじゅつかんうったえるという活動かつどう根拠こんきょ正当せいとうせいちえるだろう。実際じっさい伊藤忠いとうちゅうはイスラエルの大手おおて軍事ぐんじ産業さんぎょうエルビット・システムズとの協力きょうりょく関係かんけい本年ほんねんがつまつをもって解消かいしょうすると公表こうひょうしている。

 また、出品しゅっぴん辞退じたいという選択せんたくにかなっているようにえるが、美術館びじゅつかん内部ないぶ抗議こうぎ活動かつどう展開てんかいするためには展示てんじ参加さんかする以外いがい方法ほうほう存在そんざいしえないし、美術館びじゅつかん不協和音ふきょうわおんひびかせること自体じたい本展ほんてんカタログにせられた文章ぶんしょうでの田中たなか正之まさゆき館長かんちょうからのわれわれ参加さんか作家さっかたいしての要請ようせいであったはずだ。また、どうカタログで、本展ほんてん企画きかくしゃである新藤しんどうあつしは「予期よきせぬものの到来とうらいなしに、美術館びじゅつかん未来みらいかんがえることはできない」という一文いちぶん序論じょろんじていたのだから、この抗議こうぎ活動かつどう最良さいりょうとはわないまでも、西洋せいよう美術館びじゅつかん要請ようせいたいしての明確めいかく応答おうとうたりえていたはずだ。そして、われわれのげかけたいにたいしてのどう美術館びじゅつかんからの明瞭めいりょう返答へんとうはまだなされていない。

 最後さいごに、なぜ作品さくひん抗議こうぎ表明ひょうめいしないのかといういにたいしては、ごくはしてきに、作品さくひん意見いけん表明ひょうめいではなく、その固有こゆう自己じこ組織そしきによって自律じりつてき形成けいせいされるものであると指摘してきするにとどめておきたい。また、ここで自律じりつてきというかたりもちいたが、自律じりつてきとは外部がいぶとの接続せつぞく回路かいろいている状態じょうたいのことではない。むしろ、自律じりつてきであるからこそ、領域りょういき種々しゅじゅ活動かつどう交差こうさし、交錯こうさくするれん繫の線分せんぶん出現しゅつげんさせることができるのではないだろうか。たとえば、筆者ひっしゃ画布がふ絵具えのぐという最低限さいていげん媒体ばいたいもちいていわゆる抽象ちゅうしょうてき絵画かいが作品さくひん制作せいさくしている。そこにいかなる政治せいじてき意見いけん見出みいだすことはできないだろう(簡潔かんけつかつ抽象ちゅうしょうてき構造こうぞうそなえた自作じさくかんして、この作品さくひんただしくることができれば全体ぜんたい主義しゅぎたいする反対はんたい表明ひょうめい理解りかいできるはずだと豪語ごうごしたバーネット・ニューマンの事例じれいがあるとしても)。この文章ぶんしょう題名だいめいかかげたアウトノミア・オルガニザータとはトニ・ネグリたちがいちきゅうなな年代ねんだい形成けいせいしたうん動体どうたい名称めいしょうであるが、ここで、空虚くうきょ通路つうろとして自律じりつてき感覚かんかく筆触ひっしょく可変かへんてき組織そしき論理ろんりによって存在そんざいせん性的せいてき次元じげん開示かいじつづけたセザンヌの制作せいさくおな思考しこう体制たいせいのもとで想起そうきすることも可能かのうだろう。

 いずれにせよ、このような作品さくひん制作せいさくしている画家がか政治せいじてき意見いけんべることはできないのだろうか。あるいは、渡辺わたなべ一夫かずおの「文法ぶんぽう学者がくしゃ戦争せんそう呪詛じゅそることについて」(いちきゅうよんはちねん)にれておくべきだろうか。この文章ぶんしょうろんじられる文法ぶんぽう学者がくしゃはデンマークのフランス語ふらんすご学者がくしゃ、クリストフ・ニーロップである。ニーロップはろくかんほん大著たいちょ、『フランス語ふらんすご歴史れきし文法ぶんぽう』をはじめとして、厳密げんみつフランス語ふらんすごがく研究けんきゅう遂行すいこうすると同時どうじに、だいいち世界せかい大戦たいせんのごく初期しょきから一貫いっかんして反戦はんせんうったえる文章ぶんしょう発表はっぴょうつづけ、これらの文章ぶんしょうをまとめた著書ちょしょ、『戦争せんそう文明ぶんめい』(いちきゅういちななねん)の序文じょぶん末尾まつびには「抗議こうぎしない人間にんげん共謀きょうぼうしゃである」と大文字おおもじまれている。だが、この渡辺わたなべ一夫かずお文章ぶんしょう題名だいめいは、「文法ぶんぽう学者がくしゃも」ではなく、「文法ぶんぽう学者がくしゃであるからこそ」と正確せいかくえるべきだろう。「いち市民しみん抗議こうぎできる」ではなく、「いち市民しみんであるからこそ抗議こうぎできる」というようにこの命題めいだい変形へんけいされなければならない。そして、この変形へんけい助詞じょしという文法ぶんぽうてきちいさな単位たんい立脚りっきゃくしている。この助詞じょし変位へんいへの繊細せんさい反応はんのうひとつとして、たとえば、自由じゆう「に」うたえるから、自由じゆう「を」うたえるへと、助詞じょしちいさな変位へんいによって自由じゆう領域りょういき縮減しゅくげん明瞭めいりょう提示ていじした忌野いまわの清志郎きよしろう想起そうきすることは奇妙きみょうなことだろうか。いずれにせよ、ニーロップは文法ぶんぽう学者がくしゃとしての自律じりつてき研究けんきゅう活動かつどう遂行すいこうしたがゆえに、かれ文法ぶんぽう研究けんきゅう外部がいぶとの接続せつぞく実現じつげんしえたのではなかっただろうか。そして、この上記じょうきさんてん批判ひはんは、ごくはしてきに、いずれも、パレスティナにたいしてのジェノサイドへの加担かたん放棄ほうきするようにという要請ようせいそれ自体じたい隠蔽いんぺいとして作用さようするものでしかないだろう。

 ところで、本展ほんてん付随ふずいした企画きかくとして、その公開こうかい座談ざだんかいが「現代げんだい美術びじゅつのない美術館びじゅつかん芸術げいじゅつ未来みらいかんがえる」とだいして開催かいさいされた(登壇とうだんしゃ梅津うめづ庸一よういち小田原おだわらのどか、新藤しんどうあつし布施ふせ琳太ろうよん筆者ひっしゃ)。冒頭ぼうとう司会しかい新藤しんどうがマーク・フィッシャーの著作ちょさく依拠いきょして、「未来みらい消去しょうきょ」、「あたらしいものの収縮しゅうしゅく」という現状げんじょう認識にんしき紹介しょうかいしたのちに、芸術げいじゅつ未来みらいうことを「オルタナティヴ」はいかに可能かのうかといういにえたうえで、この「オルタナティヴ」をにな存在そんざいとしてのコレクティヴの可能かのうせいうという議論ぎろん方向ほうこう提示ていじされることになった。この設定せってい自体じたいにせいとまではわないにしても、この設定せっていすくなからぬ疑問ぎもんいだかざるをえなかったことも事実じじつであり、筆者ひっしゃのこののちのわずかな発言はつげんもこの疑問ぎもん提示ていじならなかった。たしかに、フィッシャーがその著書ちょしょ題名だいめいともなった「資本しほん主義しゅぎリアリズム」と思考しこう体制たいせいは「資本しほん主義しゅぎ以外いがいのオルタナティヴは存在そんざいしない」というマーガレット・サッチャーのしん自由じゆう主義しゅぎてき発言はつげん体現たいげんする時代じだい思考しこう体制たいせいであるにしても、資本しほん主義しゅぎそれ自体じたい不断ふだんに、また継続けいぞくてき無数むすうのオルタナティヴな領域りょういき創設そうせつし、それをかて延命えんめいはかってきた事実じじつ隠蔽いんぺいすることはできない。そして、かり資本しほん主義しゅぎみずからをささえる外部がいぶとしての対抗たいこうてきなオルタナティヴをもはや産出さんしゅつできないのであるとすれば、それは資本しほん主義しゅぎそれ自体じたい根底こんていてき変異へんいをもたらさざるをえない以上いじょう、それがどのようなものであるかは不明ふめいであるとしても、今後こんごとも資本しほん主義しゅぎ体制たいせい回収かいしゅう可能かのうなオルタナティヴを産出さんしゅつつづけるだろう。そして、サッチャーの命題めいだい逆説ぎゃくせつは、「オルタナティヴは存在そんざいしない」と言明げんめいする条件じょうけんとして、オルタナティヴを必要ひつようとしているというてんならない。また、フィッシャーの思考しこうにつきまとうあるしゅ陰鬱いんうつさのしるしは、どのようなオルタナティヴの創設そうせつも、結局けっきょく資本しほん主義しゅぎ延命えんめいへの貢献こうけんでしかありえないのではないかという現状げんじょう認識にんしき暗示あんじしている。

 それゆえ、フィッシャーへの依拠いきょから開始かいしされた今回こんかい問題もんだい提起ていきがあるしゅ長閑のどかさの様相ようそうていさざるをえなかったのも、オルタナティヴという概念がいねんそれ自体じたい内包ないほうする対抗たいこうせい作用さよう考察こうさつ稀薄きはくなものにまったからではないだろうか。あらためて指摘してきするまでもなく、オルタナティヴというかたりは、語源ごげんてきにも、あるなんらかのXにたいするオルタナティヴであって、その存立そんりつにおいてXを必要ひつようとするてん自律じりつてき領域りょういき構成こうせいしえない。しかもきわめておおくの場合ばあい、オルタナティヴは対抗たいこうすべき対象たいしょうとして設定せっていしたXに依拠いきょし、逆説ぎゃくせつてきにXの価値かち確立かくりつ貢献こうけんし、さらにはXの構造こうぞうそれ自体じたい模倣もほうすることになりかねない。そして、この概念がいねんがコレクティヴというもうひとつの概念がいねん連結れんけつされるとき、このオルタナティヴなコレクティヴが、Xが内包ないほうする中央ちゅうおう集権しゅうけんてき権力けんりょく構造こうぞう無自覚むじかくに、しかも場合ばあいによっては最悪さいあく形式けいしきにおいて模倣もほうし、反復はんぷくする事態じたい産出さんしゅつすることもこりえるし、実際じっさい、コレクティヴとばれる活動かつどうにおいてハラスメントの問題もんだい露出ろしゅつした事例じれいがあることも周知しゅうちのとおりだ。だとすれば、オルタナティヴという形式けいしきとはべつ形式けいしき、いわばオルタナティヴにたいするオルタナティヴこそが思考しこうされるべきではないだろうか。座談ざだんかい席上せきじょう、この文脈ぶんみゃくで、たとえば小田原おだわらのどかみずからの活動かつどうひとつとしてアーティスツ・ユニオンの事例じれい提示ていじされたが、筆者ひっしゃはむしろ、オートノミーという概念がいねん─それは、トニ・ネグリたちのアウトノミアとおなである─、つまり自律じりつせい依拠いきょしたれん繫の可能かのうせい提案ていあんするとともに、内覧ないらんかいでの抗議こうぎ活動かつどうをそのいち事例じれいとしてげた。とはいえ、筆者ひっしゃ非力ひりきゆえに、今回こんかい座談ざだんかいではこの抗議こうぎ活動かつどう自体じたいろんじることを回避かいひするかのような暗黙あんもく合意ごうい形成けいせいさからって議論ぎろんをそれ以上いじょう展開てんかいすることはできなかった。

 いずれにせよ、さんがついちいちにち抗議こうぎ活動かつどうなんらかの組織そしき集団しゅうだんてきかつ統一とういつてきなプログラムにもとづいて活動かつどう展開てんかいしたというよりも、むしろ、自律じりつてき制作せいさく活動かつどう展開てんかいする何人なんにんもの美術家びじゅつかたち、しかもその作品さくひん制作せいさく媒体ばいたいも、形式けいしきもまったく異質いしつ美術家びじゅつかたちとその友人ゆうじんたちとが、臨機応変りんきおうへん可変かへんてきかつ可塑かそてきれん繫のもとにおな課題かだい共有きょうゆうしたということ以外いがいなにものでもない。また、われわれがもちいた媒体ばいたいこえ身体しんたいぬのかみ絵具えのぐというごく限定げんていてきまずしい素材そざいぎなかった。しかも、周到しゅうとう準備じゅんびおこな時間じかんもなく、ごくかぎられた時間じかんで、ほとんど瞬間しゅんかんてき多様たよう実践じっせん個別こべつてき創案そうあんし、れん繫を実現じつげんさせたにぎない。そして、このれん繫は表現ひょうげん自由じゆう行使こうしとして形成けいせいされたものではない。むしろ、現在進行形げんざいしんこうけい展開てんかいするパレスティナでのジェノサイドに抗議こうぎすることの緊急きんきゅう義務ぎむ、しかもわれわれの個人こじんてき意図いとかたちでわれわれがこの惨劇さんげきへの加担かたんいられているがゆえになおさら深刻しんこくなものである義務ぎむ、その自覚じかくとその遂行すいこうとが瞬間しゅんかんてき自律じりつてき美術家びじゅつかたち、市民しみんたちのれん繫をつくしたということだ。もちろん、このたね行為こうい遂行すいこうへの不参加ふさんか理由りゆうはいくらでも案出あんしゅつすることができる。実際じっさい活動かつどうに、おおくの不参加ふさんか理由りゆうみみにすることになった。当然とうぜんのことながら、このびかけへの不参加ふさんか意図いと尊重そんちょうされるべきであり、参加さんか強制きょうせいされるべきではない。とはいえ、事後じごてきに、主旨しゅしには賛同さんどうするが方法ほうほう同意どういできない、声明せいめいぶんすべてに同意どういできるわけではないといったご意見いけんをいただいたが、かえしになるが、今回こんかい抗議こうぎ行動こうどうへの参加さんかしゃたちは統一とういつてきなプログラムを事前じぜんそなえていたわけではないし、プログラムを議論ぎろんする時間じかんすらなく、参加さんかしゃ個々ここ個別こべつてき創案そうあんをおたがいに把握はあくしていたわけでもなく、その思考しこうにおいて統一とういつされていたわけでもないてん強調きょうちょうしておきたい。つまり、参加さんかしゃ自身じしんもまた、相互そうご共有きょうゆうしえない側面そくめんちながら、みずからの自律じりつせいないし特異とくいせい維持いじしつつ、なおかつ、緊急きんきゅう事態じたいまえにした共通きょうつう義務ぎむ遂行すいこうというてんでのみえがされる接続せつぞく線分せんぶんによって、今回こんかい活動かつどう可塑かそてき自己じこ組織そしきとして出現しゅつげんさせたということだ。そして、われわれは今後こんごたとえば、展覧てんらん会場かいじょうで、署名しょめい空間くうかんで、あるいは路上ろじょうつねあたらしく、差異さいされたれん繫を創設そうせつしていくだろう。また、このれん繫のさなかでみずからを不断ふだん差異さい変貌へんぼうつづける自律じりつせいは、れん繫によってさらに一層いっそうみずからの自律じりつせい強化きょうかするという逆説ぎゃくせつ提示ていじつづけるだろう。

付記ふき
 さんがついちいちにち抗議こうぎ活動かつどうさい配布はいふされた資料しりょうおよび、今回こんかい活動かつどう補足ほそくてき情報じょうほうかんしてはAPVA-JST(@apvajst)/Xのサイトを参照さんしょうしていただきたい。
 いくつかの新聞しんぶん報道ほうどうがなされたが、さんがついちいちにちづけ毎日新聞まいにちしんぶんによる報道ほうどうかんして若干じゃっかん指摘してきしておきたい。かなりはや時期じきのこの報道ほうどうみじか文面ぶんめんなか当日とうじつ出来事できごと簡潔かんけつ紹介しょうかいしている。ところが、この記事きじでは川崎重工かわさきじゅうこうという企業きぎょうめい意図いとてき隠蔽いんぺいされ、それにたいして、抗議こうぎ活動かつどう実践じっせんした飯山いいやま由貴ゆき遠藤えんどう麻衣まい百瀬ももせぶんさん名前なまえ明示めいじされている。無防備むぼうび個人こじん名前なまえ明示めいじする一方いっぽうで、企業きぎょうめい隠蔽いんぺいするというこの非対称ひたいしょうてき不均衡ふきんこう記述きじゅつは、それ自体じたいとして犯罪はんざいてき報道ほうどう姿勢しせいとしかいようがなく、このような報道ほうどう姿勢しせいこそが、個人こじん政治せいじてき次元じげんでの発話はつわをより困難こんなんなものにするというてんで、批判ひはん回路かいろをあらかじめ封鎖ふうさすることに貢献こうけんする抑圧よくあつ原理げんりとして作動さどうしているてん強調きょうちょうしておきたい。また、長年ながねん同紙どうし読者どくしゃとして、筆者ひっしゃふか失望しつぼうしたこともくわえておきたい。

 そのさんがつにちに、飯山いいやま遠藤えんどう両氏りょうし筆者ひっしゃ西洋せいよう美術館びじゅつかんからの要請ようせいどう美術館びじゅつかんおもむき、田中たなか館長かんちょう新藤しんどう主任しゅにん研究けんきゅういんとの会談かいだんち、美術館びじゅつかんがわからの当日とうじつ対応たいおうかんする説明せつめいけた。とはいえ、この時点じてんで、内覧ないらんかい当日とうじつのわれわれからのいかけに美術館びじゅつかんがわからの明確めいかく返答へんとうしめされたわけではなく、また、当日とうじつのパフォーマンスの中止ちゅうし要請ようせい警察けいさつ介入かいにゅう警察けいさつたいしての退去たいきょ要請ようせい有無うむかんしても、詳細しょうさい把握はあくがなされていないようだったので、次回じかい会談かいだんけていくつかの要望ようぼう質問しつもん提示ていじした。なお、拙稿せっこう執筆しっぴつ段階だんかいではいまだ次回じかい会談かいだん日程にってい決定けっていしていない。

 さらに、今回こんかい企画きかくてん同時どうじ開催かいさいされている「真理しんりはよみがえるだろうか:ゴヤ〈戦争せんそう惨禍さんかぜん場面ばめんてんかかげられた解説かいせつパネルにおいて、ウクライナ、パレスティナというかたり当初とうしょ現在げんざい進行しんこうちゅう戦争せんそう事例じれいとしてかかげられながら、なんかのなおしののちに、現在げんざいのパネルからはこれらの具体ぐたいてき場所ばしょ名前なまえ抹消まっしょうされている(なお、この経緯けいいかんしては、美術家びじゅつかのBARBARA DARLINgによる詳細しょうさいなポストにご教示きょうしいただいたことを感謝かんしゃとともに記載きさいしておきたい。とりわけ、さんがついちろくにちおよびさんがつさんにちのポストを参照さんしょう。BARBARA DARLINg@BARBARA_DARLINg/X)。そして、この変更へんこう抹消まっしょう過程かていがどのような判断はんだんしんきゅうにおける決定けっていによるものであるかは不明ふめいである。このてんかんしても、現在げんざい準備じゅんびちゅう西洋せいよう美術館びじゅつかんたいしての質問しつもんじょうくわえたいとおもう。
よんねんよんがついちにち

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