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[[1835年]]10月に[[ボン大学]]に入学した{{sfn|佐々木|2016|pp=257-259}}<ref name="カー(1956)17">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.17</ref>。大学では法学を中心としつつ、詩や文学、歴史の講義もとった<ref name="城塚(1970)30">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.30</ref><ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.52-53</ref>。大学入学から三カ月にして文学同人誌へのデビューを計画したが、父ハインリヒが「お前が凡庸な詩人としてデビューすることは嘆かわしい」と説得して止めた<ref>[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.64-65</ref>。実際、マルクスの作った詩はそれほど出来のいい物ではなかったという<ref name="城塚(1970)30"/>。
また1835年に18歳になったマルクスは{{仮リンク|[[プロイセン陸軍|de|Preußische Armee}}]]に徴兵される予定だったが、「胸の疾患」で兵役不適格となった。マルクスの父はマルクスに書簡を出して、医師に証明書を書いて兵役を免除してもらうことは良心の痛むようなことではない、と諭している<ref name="ウィーン(2002)24">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.24</ref>。
当時の大学では平民の学生は出身地ごとに同郷会を作っていた(貴族の学生は独自に学生会を作る)。マルクスも30人ほどのトリーア出身者から成る同郷会に所属したが、マルクスが入学したころ、政府による大学監視の目は厳しく、学生団体も政治的な話は避けるのが一般的で[[決闘]]ぐらいしかすることはなかったという。マルクスも新プロイセン会の貴族の学生と一度決闘して左目の上に傷を受けたことがあるという{{sfn|佐々木|2016|pp=21-22}}<ref name="廣松2008 p.65-66">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.65-66</ref>。しかも学生に一般的だった[[サーベル]]を使っての決闘ではなく、[[ピストル]]でもって決闘したようである{{sfn|佐々木|2016|pp=21-22}}<ref name="シュワルツシルト(1950)21">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.21</ref>。
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