仁木にき 義高よしたか(にき よしたか、生年せいねん不ふ詳しょう - 建たて武たけし3年ねん9月13日にち(1336年ねん10月18日にち))は、南北なんぼく朝あさ時代じだいの武将ぶしょう。通称つうしょうは孫太郎まごたろう入道にゅうどう。子こは仁木にき義長よしなが(通称つうしょう弥二郎やじろう、仁木にき氏し嫡流ちゃくりゅうとなった仁木にき義長よしながとは別人べつじん、本文ほんぶん中ちゅうでは「弥二郎やじろう義長よしなが」とする)。
仁木にき氏し庶流の一族いちぞくであるが、系譜けいふ上じょうの位置付いちづけは不明ふめいである[1]。足利尊氏あしかがたかうじが建たて武たけし政権せいけんから離反りはんした後のち、仁木にき頼よりゆき章あきら・義長よしなが兄弟きょうだいは丹波たんば国こくや九州きゅうしゅうなど西国さいこくで軍事ぐんじ活動かつどうを展開てんかいしたが、義高よしたか・弥二郎やじろう義長よしなが父子ふしは細川ほそかわ頼よりゆき種しゅらと本ほん貫ぬき地ち三河みかわの守備しゅび部隊ぶたいに属ぞくした。
建たて武たけし3年ねん(1336年ねん)4月がつ8日にちに新田にった左ひだり馬ば助すけ[2]率ひきいる遠江とおとうみの南朝なんちょう軍ぐんが三河みかわに侵攻しんこうすると、義高よしたか・弥二郎やじろう義長よしなが・頼よりゆき種しゅらは「宮内みやうち少しょう輔四郎ろう」[3]の指揮しきの下した、新田にった軍ぐんと戦たたかう。戦たたかいは足利あしかが方かた有利ゆうりに進すすみ、4月がつ20日はつかに吉良きら荘そう(愛知あいち県けん西尾にしお市し)、6月8-9日にちに宝飯ほい郡ぐん八幡はちまん、6月28日にちに宝飯ほい郡ぐん本野ほんの原ばら(いずれも愛知あいち県けん豊川とよかわ市し)というように西にし三さん河かわから東ひがし三さん河かわへと合戦かっせんの場ばが移うつり、新田にった勢ぜいは三河みかわから退却たいきゃくした。半年はんとし後ごの9月がつに入はいると、逆ぎゃくに足利あしかが勢ぜいが遠江とおとうみに侵攻しんこう、13日にちに浜名湖はまなこ東ひがしの篠原しのはらで合戦かっせんが行おこなわれ、敗走はいそうする新田しんでん勢ぜいを追撃ついげき中ちゅうに天竜川てんりゅうがわ畔ほとりで義ぎ高だかは討死うちじにした。息子むすこの弥二郎やじろう義長よしながは恩賞おんしょう申請しんせいのために軍ぐん忠ちゅう状じょうを提出ていしゅつし[4]、同どう文書ぶんしょ写うつしが残のこったため、合戦かっせんの経過けいかが後世こうせいに伝つたわることとなった。弥二郎やじろう義長よしながのその後ごの動向どうこうは不明ふめいである。