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遠江国 - Wikipedia

遠江とおとうみこく

東海道とうかいどうぞくするれいせいこくひと

遠江とおとうみこく(とおとうみのくに/とほたふみのくに)は、日本にっぽん地方ちほう行政ぎょうせい区分くぶんであるれいせいこくひとつ。東海道とうかいどうぞくする。現在げんざい静岡しずおかけん西部せいぶおよ中部ちゅうぶ一部いちぶ(大井川おおいがわきゅうりゅうである栃山川とちやまがわ以西いせい)。

遠江とおとうみこく

-遠江とおのえこく
-東海道とうかいどう
別称べっしょう とおしゅう(えんしゅう)
所属しょぞく 東海道とうかいどう
相当そうとう領域りょういき 静岡しずおかけん大井川おおいがわ以西いせい
しょもと
国力こくりょく うえこく
距離きょり 中国ちゅうごく
ぐんさとかず 13ぐん96さと
国内こくない主要しゅよう施設しせつ
遠江とおとうみ国府こくふ 静岡しずおかけん磐田いわた
遠江とおとうみ国分寺こくぶんじ 静岡しずおかけん磐田いわた遠江とおのえ国分寺こくぶんじあと
遠江とおとうみ国分こくぶ尼寺あまでらしょう
一宮いちのみや 小国おぐに神社じんじゃ静岡しずおかけん周智しゅうちぐん森町もりまち
ことにん八幡宮はちまんぐう静岡しずおかけん掛川かけがわ
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現代げんだいとおしゅう地方ちほうについては遠江とおとうみ参照さんしょう

遠江とおとうみ」の名称めいしょう由来ゆらい

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ろくじゅうしゅう名所めいしょ図会ずえ濱名はまなみずうみ 堀江ほりえ舘山寺かんざんじ 引佐いなさこれ細江ほそえ

ふるくは「とお淡海あわみこく(とほつあはうみのくに)」と表記ひょうきされた[1]。また飛鳥あすかきょうあとえん遺構いこうから出土しゅつどした木簡もっかんには「とお水海みずうみこく」という表記ひょうきがされている[2]。「とお淡海あわみ」とは当時とうじ奈良なら)からとおくにある淡水たんすいみずうみという意味いみであり、近江おうみこくの「きん淡海たんかい(ちかつあはうみ)」の琵琶湖びわこ対比たいひされる。この「とお淡海あわみ」にかんしては、一般いっぱんてき浜名湖はまなこすとされるが、一方いっぽう国府こくふのある磐田いわただいうら)をすとするせつもある[3]。ただしだいうら名称めいしょうとおうらであり、淡水たんすいみずうみでないことに留意りゅういされる。(当時とうじ浜名湖はまなこ淡水たんすいみずうみであったが、あかりおう7ねん1498ねん)にきたあかりおう地震じしんやそれにともな津波つなみにより、浜名はまなうみへだてていた地面じめんよわ部分ぶぶんすなひさげ)が決壊けっかい現在げんざいのような汽水みずうみとなった。)

領域りょういき

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明治維新めいじいしん直前ちょくぜん領域りょういきは、現在げんざい静岡しずおかけん下記かき区域くいき相当そうとうする。

沿革えんかく

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神武じんむ東征とうせいによって故郷こきょうわれた勢津せいづは、一族いちぞくかみ々ととも東方とうほう逃亡とうぼうしたが、一族いちぞくこころざししるしいのち神武じんむ天皇てんのうあさ国造くにのみやつこ任命にんめいされたと『先代せんだいきゅうこと本紀ほんぎ』「国造くにのみやつこ本紀ほんぎ」にえる。古墳こふん時代じだいにはけいぎょう天皇てんのうやまとけんいのち)の東国とうごく巡行じゅんこうともなって物部ものべ一族いちぞくもの次々つぎつぎ国造くにのみやつこ任命にんめいされ、次代じだいなりつとむ天皇てんのうあさしるし岐美いのちとお淡海あわみ国造くにのみやつこに、仲哀ちゅうせつ天皇てんのうあさしるしはたあしあまひさしつとむ国造くにのみやつこ任務にんむされた。

それぞれのしょとお淡海あわみこく磐田いわたぐんひさつとむこく山名やまなぐん袋井ふくろい)、こく佐野さのぐん掛川かけがわ)とされるが、『先代せんだいきゅうこと本紀ほんぎ』にはひさしつとむじきひさつとむ国造くにのみやつこ)と夜直やちょくどうとしており、国造くにのみやつことはべつぞくであることに留意りゅういされる。また菊川きくかわ流域りゅういきしろ飼郡にはもと国造くにのみやつこ祖神そしんとされるてん菩卑のういのちけん比良びらとりいのちまつ式内しきないしゃや、古墳こふん時代じだい前期ぜんきから中期ちゅうき前方後円墳ぜんぽうこうえんふん存在そんざいする。

律令りつりょう時代じだい

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7世紀せいきに、地方ちほう豪族ごうぞくであったとお淡海あわみ国造くにのみやつこひさつとむ国造くにのみやつこ国造くにのみやつこ領域りょういき合併がっぺいして遠江とおのえこく設置せっちされた。

国府こくふ所在地しょざいちは、中世ちゅうせいに「見付みつけ」とばれたところで、現在げんざい磐田いわたにあった。

ひがしとなり駿河するがこくとのさかい大井川おおいがわであった。奈良なら時代じだいには、大井川おおいがわりゅう現在げんざいよりきたながれていたため、いま栃山川とちやまがわ以南いなん遠江とおとうみこくふくまれていた。具体ぐたいてきには島田しまだ南部なんぶ藤枝ふじえだ南部なんぶ、および焼津やいづ南部なんぶ合併がっぺいまえ大井川おおいがわまちである[5]大井川おおいがわまち全域ぜんいきは、明治めいじ初期しょきまで遠江とおのえこく榛原はいばらぐんであった。

中世ちゅうせい後期こうきから近世きんせい

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遠江とおのえこく」(『天保てんぽうこく繪圖えず天保てんぽう9ねん)。原図げんずではひがしうえになっているが、90みぎ回転かいてんさせてきたうえにして表示ひょうじしている

室町むろまち時代ときよには斯波しば今川いまがわ守護しゅご補任ほにんされる。斯波しば遠江とおとうみ守護しゅご地位ちいたものの、今川いまがわ遠江とおとうみ回復かいふくはかり、おな足利あしかが一門いちもんであるよしりょう遠江とおとうみ国内こくない要地ようちである浜松はままつそう懸河けんがそうなどを支配しはいするなど、不安定ふあんてい支配しはいつづいた。

戦国せんごく時代じだい元来がんらいひがし駿河するがこく強固きょうこ地盤じばんをもつ今川いまがわ斯波しばよしりょう圧倒あっとうして領国りょうごくした。今川いまがわおとろえると、甲斐かいこく武田たけだと、今川いまがわ配下はいかから独立どくりつした三河みかわこく徳川とくがわ家康いえやすによる今川いまがわりょう分割ぶんかつやくされ、遠江とおとうみ家康いえやすりょうするとされた。しかし今川いまがわ支配しはい駆逐くちくした両氏りょうしはまもなく交戦こうせん状態じょうたいとなり、山岳さんがく丘陵きゅうりょう侵攻しんこうした武田たけだ支配しはいし、家康いえやす支配しはいとおしゅう平野ひらの掛川かけがわ地方ちほう中心ちゅうしんとする平地ひらちかぎられた。このため家康いえやす浜松はままつじょうきずいて居城きょじょううつ武田たけだ対峙たいじした。武田たけだぐん徳川とくがわぐん交戦こうせんした遠江とおとうみこくとしては、二俣ふたまたしろ高天こうてん神城かみしろ三方みかたばら有名ゆうめいである。武田たけだぐん伊那いな地方ちほうから遠江とおとうみこくはいさいには、へいえつとうげ経由けいゆ連絡れんらくせん整備せいびされた。

安土あづち桃山ももやま時代じだいになると、武田たけだ滅亡めつぼうあと武田たけだ領国りょうごく確保かくほした家康いえやす関東かんとうはちカ国かこく移転いてんし、わって遠江とおのえこくには豊臣とよとみけい大名だいみょう配置はいちされ、浜松はままつじょう堀尾ほりお吉晴よしはるが、掛川かけがわしろ山内やまうち一豊かずとよ転入てんにゅうする。

江戸えど時代じだいになると、吉晴よしはる松江城まつえじょうに、一豊かずとよ高知こうちじょう移転いてんする。わって、遠江とおとうみこくには浜松はままつはん掛川かけがわはん設置せっちされ、譜代ふだい大名だいみょうわりではいった。また、江戸えど時代じだいには、伊那いな盆地ぼんち水窪みさくぼ木材もくざいが、天竜川てんりゅうがわ舟運しゅううん利用りようして遠江とおとうみ国平くにへい野部のべ運搬うんぱんされた。

明治維新めいじいしん以後いご

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明治維新めいじいしんむかえると、徳川とくがわ宗家そうけ遠江とおのえこく駿河するがこく・そのに70まんせきあたえられ静岡しずおかはんとされた。石高こくだかやく1/10となるだいげんふうでのてんふうであったために俸禄では生活せいかつできない士族しぞくや、大井おおいがわ渡船とせん解禁かいきんによって失業しつぎょうした川越かわごえ人足ひとあしらは、牧之原まきのはら台地だいち入植にゅうしょく緑茶りょくちゃはたけ造成ぞうせいした[6]。これ以後いご小笠山おがさやま周辺しゅうへんには、緑茶りょくちゃはたけおおられる。

廃藩置県はいはんちけんのちきゅう静岡しずおかはんいだ静岡しずおかけんから遠江とおとうみこく分離ぶんり浜松はままつけん発足ほっそくした。しかし、1876ねん明治めいじ9ねん8がつ21にちけん合併がっぺいで、浜松はままつけん静岡しずおかけん足柄あしがらけん一部いちぶ伊豆いずこく)と合併がっぺいした。この決定けっていおこった遠江とおとうみ地方ちほうみんは、なん遠江とおとうみこくさい分離ぶんり明治めいじ政府せいふ懇願こんがんしたが、いずれも却下きゃっかされてわった。

1889ねん明治めいじ22ねん)に東海道本線とうかいどうほんせん開通かいつうすると、江戸えど時代じだい天竜川てんりゅうがわ舟運しゅううんともかさなって、浜松はままつには綿織物めんおりもの工場こうじょう楽器がっき工場こうじょうおお立地りっちするようになった。

だい大戦たいせんになると、東海道新幹線とうかいどうしんかんせん東名高速道路とうめいこうそくどうろ建設けんせつされ、遠江とおとうみ地方ちほうは、東海とうかい地方ちほうにおける農業のうぎょう工業こうぎょう要衝ようしょうとなっている。

近代きんだい以降いこう沿革えんかく

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浜松はままつ市役所しやくしょ周辺しゅうへん広小路ひろこうじどおり

国内こくない施設しせつ

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御殿ごてん二之宮にのみや遺跡いせき
遠江とおとうみ国府こくふ推定すいてい

国府こくふは、『和名わみょうしょう』では豊田とよだぐん、『ひろえあくたしょう』では磐田いわたぐんである。

初期しょき国府こくふは、木簡もっかん墨書ぼくしょ土器どき出土しゅつどしたことから、御殿ごてん二之宮にのみや遺跡いせき推定すいていされるが、決定的けっていてき証拠しょうこていない。平安へいあん時代じだいには見付みつけ移転いてんしたとられ、じん3ねん1242ねん以後いご成立せいりつした『東関ひがしせき紀行きこう』には、遠江とおとうみ國府こくふ(こふ)いまうらしるきぬ」とある[7]。 また、鎌倉かまくら時代じだい後期こうき以降いこう成立せいりつした『源平げんぺい盛衰せいすい』、および建治けんじ3ねん1277ねん)または弘安ひろやす2ねん1279ねん)の日記にっきとされる『十六夜いざよい日記にっき』には、「見附みつけ国府こくふ」(みつけのこう)とある。

国分寺こくぶんじ国分こくぶ尼寺あまでら

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国分寺こくぶんじ磐田いわた中泉なかいずみにあった。819ねん焼失しょうしつしたが、磐田いわた見付みつけまいり慶山けいざん延命えんめいいん薬師くすし国分寺こくぶんじ本尊ほんぞん薬師やくし如来にょらい)がその法燈ほうとう伝承でんしょうする。

国分こくぶ尼寺あまでら磐田いわた国府台こうのだい本町ほんちょうにあった。

神社じんじゃ

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延喜えんぎ式内しきないしゃ
延喜えんぎしきかみめいちょう』には、大社たいしゃ2しゃ2小社しょうしゃ58しゃ60けい60しゃ62記載きさいされている(「遠江とおとうみこく式内しきないしゃ一覧いちらん参照さんしょう)。大社たいしゃ2しゃ以下いかしめすもので、いずれも名神めいしん大社たいしゃである。
 
淡海たんかい國玉くだま神社じんじゃ
総社そうじゃ一宮いちのみや以下いか

三宮さんのみや以下いかはない。

国府こくふ八幡宮はちまんぐう

守護しゅごしょ

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見付みつけ国府こくふ近隣きんりんり、中世ちゅうせい後期こうきには要塞ようさいして見付みつけじょう府中ふちゅうじょうばれた。

安国寺あんこくじ利生りしょうとう

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利生りしょうとうしょうである。

江戸えど時代じだいはん

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遠江とおとうみこくはん一覧いちらん
はんめい 居城いじろ 藩主はんしゅ
浜松はままつはん 浜松はままつじょう
掛川かけがわはん 掛川かけがわしろ
横須賀よこすかはん 横須賀よこすかじょう
相良さがらはん 相良さがら陣屋じんや
井伊谷いいのやはん 井伊谷いいのや陣屋じんや
  • 近藤こんどうしげるようまん5せんせき→1まん7せんせき。1619ねん - 1630ねんごろ領地りょうち分配ぶんぱいしたため旗本はたもとに)
掛塚かけつかはん 掛塚かけつか陣屋じんや
  • 加賀爪かがつめ:1まん1500せき→1まんせき→1まん3000せき。1641ねん - 1681ねん改易かいえき
遠江とおとうみ久野くのはん 久野くの陣屋じんや

人物じんぶつ

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遠江とおとうみまもる

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定員ていいん:1めい官位かんい相当そうとうしたがえ日付ひづけ旧暦きゅうれき

鎌倉かまくら幕府ばくふ

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室町むろまち幕府ばくふ

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戦国せんごく時代じだい

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戦国せんごく大名だいみょう

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豊臣とよとみ政権せいけん大名だいみょう

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武家ぶけ官位かんいとしての遠江とおとうみまもる

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江戸えど時代じだい以前いぜん

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江戸えど時代じだい

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 先代せんだいきゅうこと本紀ほんぎ』(成立せいりつは9世紀せいきまつから10世紀せいき初頭しょとうとされる)
  2. ^ 木簡もっかん”. 奈良なら文化財ぶんかざい研究所けんきゅうじょ. 2021ねん3がつ30にち閲覧えつらん
  3. ^ 遠江とおのえこく」『日本にっぽん歴史れきし地名ちめい大系たいけい 22 静岡しずおかけん地名ちめい平凡社へいぼんしゃ、2000ねん
  4. ^ a b 1879ねん明治めいじ12ねん)に駿河するがこく移管いかん
  5. ^ 静岡しずおかけん通史つうしへん 1(はらはじめ古代こだいへん)481-484ぺーじ
  6. ^ 緑茶りょくちゃ日本にっぽん明治めいじ前期ぜんきにおける主要しゅよう輸出ゆしゅつ商品しょうひんであった。神戸こうべこう150ねん記録きろく貿易ぼうえき統計とうけいからみる貿易ぼうえき変遷へんせん : 神戸こうべ税関ぜいかん Kobe Customs
  7. ^ いまうらは、見付みつけ南隣みなみどなりである。
  8. ^ 阿部あべ ただしひろし、1977、「将軍しょうぐん足利尊氏あしかがたかうじたかしぎょうぶん』と高座こうざぐん和田わだ深見ふかみきょうについて」、『大和やまと研究けんきゅう』3ごう大和やまと

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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