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桑名藩 - Wikipedia

桑名くわなはん

日本にっぽん江戸えど時代じだいに、伊勢いせこく所在しょざいしたはん

桑名くわなはん(くわなはん)は、江戸えど時代じだい伊勢いせこく桑名くわな存在そんざいしたはんはんちょうくわ名城めいじょう現在げんざい三重みえけん桑名くわな吉之丸よしのまる)。越後えちごこく中部ちゅうぶにも領地りょうちがあり柏崎かしわざき陣屋じんや統治とうちした。

くわ名城めいじょう石垣いしがき

江戸えど屋敷やしき

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  • 上屋敷かみやしき きた八丁堀はっちょうぼり 9,301つぼうち河岸かわぎし685つぼ

寛永かんえい13ねん1636ねん松平まつだいら定綱さだつな屋敷やしき拝領はいりょうしたのがはじまりとわれる。江戸えど時代じだいつうじて上屋敷かみやしきとして使つかわれた。元禄げんろく7ねん1694ねん)1がつ23にち門前もんぜんほりかるはし越中えっちゅうきょうったが、戊辰戦争ぼしんせんそう松平まつだいらじょうけいけたので、以後いご久安ひさやすきょう改名かいめいされた。いまほりそこ道路どうろとなっていて久安ひさやすきょう健在けんざいである。

  • 中屋敷なかやしき もとくら 1,760つぼあまり松平まつだいら丹波たんばもりす)

寛政かんせい5ねん1793ねん)12月28にち巣鴨すがもにあった中屋敷なかやしきえて、拝領はいりょうした。寛政かんせい5ねん7がつ23にち松平まつだいら定信さだのぶ白河しらかわはんおも)が老中ろうじゅう退任たいにんしているので、それに関係かんけいがあるかもれない。文化ぶんか5ねん1808ねん)4がつ13にちもとくら屋敷やしき市ヶ谷いちがや2,700つぼあまり交換こうかんしている。しかしひろし3ねん1846ねんうるう5がつ18にち市ヶ谷いちがや屋敷やしき交換こうかんし、もとくら1,760つぼあまり入手にゅうしゅしている。

なんごろから拝領はいりょうしているのかしょうである。この屋敷やしき江戸えどわんめんしているので、ふね発着はっちゃくする蔵屋敷くらやしきであったとおもわれる。

  • 下屋敷しもやしき こう築地つきじ 15,676つぼ4ごうあまりうち346つぼあまり稲葉いなば長門ながともりす)下谷しもたにたけもんにあった屋敷やしき交換こうかんするかたち松平まつだいら定信さだのぶ幕府ばくふ老中ろうじゅう首座しゅざ在任ざいにんちゅう寛政かんせい4ねんうるう2がつ12にち拝領はいりょうしたもので、定信さだのぶ功績こうせきによりあたえられた屋敷やしきである。ここはいちきょう屋敷やしき一部いちぶであった。ここに定信さだのぶ庭園ていえんつくり、よくおんえんづけた。
  • 下屋敷しもやしき 白金しらかねむら503つぼ伊達だて若狭わかさもりす)

天保てんぽう14ねん1843ねん)8がつ7にちに、かきからまち下屋敷しもやしき3,937つぼ交換こうかんして拝領はいりょうしたものであるが、面積めんせきおおきくちがっているし、中心ちゅうしんからはなれた場所ばしょとの交換こうかん

  • 桑名くわなはん独自どくじかかえている屋敷やしきは、小石川こいしかわ大塚おおつかで11,765つぼ上大崎かみおおさきむら下大崎しもおおさきむら入会にゅうかい4,796つぼなどがあった。

はんふみ

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滝川たきがわ一益かずます

桑名くわな中世ちゅうせいより「十楽じゅうらく」とばれ、商人しょうにん港町みなとちょう交易こうえき中心ちゅうしんとして発展はってんした[1]えいただし12ねん1515ねんごろ連歌れんが宗長そうちょう手記しゅきでは「みなとひろさが5、6まちてら家々いえいえかずすうせんけん停泊ていはくするすうせんそうふねかりがかわうつって、ほしのきらめくようにえる」とある[1]

伊勢いせこく北部ほくぶ北勢ほくせいよんじゅうはちいえ支配しはい地域ちいき長島ながしま一向いっこう一揆いっきなど本願寺ほんがんじ仏教ぶっきょう戦争せんそう結果けっか安土あづち織田おだ政権せいけん織田おだ信長のぶなが支配しはいはいり、桑名くわな地域ちいきには信長のぶなが家臣かしん滝川たきがわ一益かずますはいるが。しかし、一益かずます長島ながしましろ修築しゅうちくして居城きょじょうとしたため、くわ名城めいじょう家臣かしん守備しゅびした[2]滝川たきかわ信長のぶながぼつ羽柴はしば秀吉ひでよし対立たいりつして没落ぼつらくし(賤ヶだけたたか)、信長のぶなが次男じなん織田おだ信雄のぶお支配しはいはいる。天正てんしょう18ねん1590ねん)の小田原おだわら征伐せいばつ伊勢いせこく支配しはいしていた信雄のぶおは、秀吉ひでよし駿河するがうたてふう命令めいれい拒絶きょぜつして改易かいえきされ、伊勢いせこく豊臣とよとみ家臣かしん分散ぶんさんしてにゅうふうすることになった。桑名くわなには天正てんしょう19ねん1591ねん)に秀吉ひでよし家臣かしん一柳いちりゅう直盛なおもりにゅうふうし、規模きぼちいさいが築城ちくじょうおこなわれている[2]ぶんろく4ねん1595ねん)からはかつての西にし美濃みのさんにんしゅとして信長のぶながした勇名ゆうめいとどろかせた氏家うじいえただしもと次男じなん氏家うじいえ行広ゆきひろが2まん2000せきはいった[2]慶長けいちょう5ねん1600ねん)9がつ関ヶ原せきがはらたたか行広ゆきひろ西にしぐんくみしてくわ名城めいじょう守備しゅびしたが、西にしぐんやぶれて壊滅かいめつしたため、戦後せんご徳川とくがわ家康いえやすによって改易かいえきされた[2]

本多ほんだ忠勝ただかつ時代じだい

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初代しょだい藩主はんしゅ本多ほんだ忠勝ただかつ

慶長けいちょう6ねん1601ねん)1がつ1にち上総かずさ大多喜おおたきはんより家康いえやす譜代ふだい重臣じゅうしん本多ほんだ忠勝ただかつが10まんせきはいったことにより、桑名くわなはんたてはんする[1][3]忠勝ただかつ徳川とくがわ四天王してんのう1人ひとりとしてその武名ぶめい天下てんかとどろかせた猛者もさであり、後代こうだい武田たけだ信玄しんげん織田おだ信長のぶながらから賞賛しょうさんされたという伝承でんしょう成立せいりつした武将ぶしょうで、桑名くわなはん歴代れきだい藩主はんしゅなかもっと有名ゆうめい人物じんぶつである。忠勝ただかつ関ヶ原せきがはらたたかいでは本戦ほんせん参加さんかして武功ぶこうげるなど、武勇ぶゆうばかりが際立きわだって目立めだつが、藩政はんせいでは「慶長けいちょうまちり」とばれるだい規模きぼまちりや城郭じょうかくぞう改築かいちくなどを積極せっきょくてきって[1]今日きょうまでつづ桑名くわな市街しがい基礎きそとなり[4]、さらに東海道とうかいどう宿場しゅくば整備せいびおこなわれて[5]実質じっしつてき桑名くわな藩政はんせい確立かくりつした名君めいくんでもあった。

慶長けいちょう14ねん1609ねん)、忠勝ただかつ隠居いんきょして嫡男ちゃくなん本多ほんだ忠政ただまさだい2だい藩主はんしゅとなる[6]大坂おおさかじんでは徳川とくがわかた先鋒せんぽうとして参戦さんせん[6]大坂おおさかかた薄田うすだ兼相かねすけ毛利もうり勝永かつながらと激戦げきせんひろげた[7]。まただいさかじん家康いえやす孫娘まごむすめ豊臣とよとみ秀頼ひでより正室せいしつであった千姫せんひめ忠政ただまさ嫡男ちゃくなん本多ほんだ忠刻ただとき婚姻こんいんしたこともあり、元和がんわ3ねん1617ねん)7がつ14にち忠政ただまささき武功ぶこうにより西国さいこくさえとして播磨はりま姫路ひめじはん15まんせき加増かぞううつりふうされ[8][7][9]忠刻ただとき千姫せんひめ化粧けしょうりょうとして10まんせきを(姫路ひめじ新田にったはん)、忠刻ただとき実弟じってい本多ほんだ政朝まさともが5まんせきをそれぞれあたえられて播磨はりまうつりふうとなった[9]

久松ひさまつ松平まつへい時代じだいだい1

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本多ほんだわって家康いえやす異父いふおとうとである松平まつだいら定勝さだかつが、山城やましろ伏見ふしみはん5まんせきから6まんせき加増かぞうの11まんせきはいった[10]元和がんわ6ねん1620ねん)には伊勢いせ長島ながしまりょう7000せきあたえられて11まん7000せきとなる[10]定勝さだかつ寛永かんえい元年がんねん1624ねん)3がつ14にち死去しきょし、だい2だい藩主はんしゅ次男じなん松平まつだいら定行さだゆきいだ[10]。このさいに7000せきおとうと松平まつだいら定房さだふさ分与ぶんよしたため[10]ふたたび11まんせきとなった。定行さだゆき水道すいどう設置せっち[11]上水道じょうすいどう町屋まちや用水ようすい工事こうじ城下じょうかにおける湿地しっち開拓かいたくによる三崎みさき新田しんでん開発かいはつなどに尽力じんりょくしたが、寛永かんえい12ねん1635ねん)7がつ28にちに15まんせき加増かぞうされたうえ松山まつやまはんうつりふうされた[11]

このため、美濃みの大垣おおがきはん6まんせき[12]より定行さだゆきおとうと松平まつだいら定綱さだつなが11まん3000せき加増かぞうされてはい[13]定綱さだつな新田にった開発かいはつ水利すいり整備せいび家臣かしんだん編成へんせいなどに尽力じんりょく名君めいくんとしてのほまれがたかく、実際じっさい桑名くわなはん定綱さだつなであるともいわれており、実際じっさいに鎮国こう、鎮国大明神だいみょうじんとしてまつられている[13]。しかし桑名くわな洪水こうずい相次あいつ場所ばしょで、慶安けいあん3ねん1650ねん)のだい洪水こうずいでは6まん4000せきもの被害ひがいをもたらすだい惨事さんじとなった。

慶安けいあん4ねん1651ねん)12月に定綱さだつなぼっし、だい4だい藩主はんしゅには次男じなん松平まつだいらじょうりょううけたまわおう元年がんねん1652ねん)2がつ就任しゅうにんするも、病弱びょうじゃくのためあかりれき3ねん1657ねん)7がつ死去しきょした[14]。このため伊予いよ松山まつやまはんより養子ようしとして松平まつだいら定重さだしげだい5だい藩主はんしゅとしてはい[15]。この定重さだしげは53ねんにわたって桑名くわな支配しはいするという長期ちょうき政権せいけんであったが、この時代じだいには天災てんさい相次あいつぎ、天和てんわ元年がんねん1681ねん)、天和てんわ3ねん1683ねん)、貞享ていきょう3ねん1686ねん)、元禄げんろく3ねん1690ねん)、元禄げんろく8ねん1695ねん)、元禄げんろく14ねん1701ねん)、宝永ほうえい4ねん1707ねん)とつづけに水害すいがい発生はっせいし、火災かさいにおいても寛文ひろふみ5ねん1665ねん)、元禄げんろく14ねん(1701ねん)、元禄げんろく15ねん1702ねん)、宝永ほうえい4ねん(1707ねん)と発生はっせいした[16]

このため家臣かしん減給げんきゅうやリストラが頻繁ひんぱんおこなわれたが、定重さだしげは8せき3にん扶持ふち小者こものであった野村のむらぞうみぎ衛門えもん郡代ぐんだい抜擢ばってきし、野村のむら倹約けんやくれい新田にった開発かいはつなど藩政はんせい再建さいけん敏腕びんわんるった[17]。これはだい成功せいこうだったが、譜代ふだい家臣かしんだん嫉視しっしい、宝永ほうえい7ねん1710ねん)5がつ29にち野村のむら死罪しざいしょされた(野村のむら騒動そうどう[18]。そしてこの騒動そうどう幕府ばくふにもられるところとなり、うるう8がつ15にち定重さだしげ越後えちご高田たかだはん懲罰ちょうばつてきうつりふうめいじられた[19]

奥平おくだいら松平まつへい時代じだい

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奥平おくだいら松平まつへい家紋かもん桑名くわな団扇うちわ

つぎ藩主はんしゅとなったのは奥平おくだいら松平まつへい当主とうしゅ松平まつだいらただしみやびで、備後びんご福山ふくやまはんから10まんせきはいった。この奥平おくだいら松平まつへい徳川とくがわ家康いえやす重臣じゅうしん奥平おくだいらしんあきら家康いえやす長女ちょうじょかめひめとのあいだまれた四男よつお松平まつだいら忠明ただあき系統けいとうである[20]奥平おくだいら松平まつへい元禄げんろく4ねん1691ねん)にちゅうみやび祖父そふ松平まつだいら忠弘ただひろ陸奥みちのく白河しらかわはんおもだったとき白河しらかわ騒動そうどうしょうされる御家おいえ騒動そうどうこして5まんせき削減さくげん家老がろう処罰しょばつ出羽でわ山形やまがたはんへのひだり遷移せんいふうなど処罰しょばつけていたいえであったが[20]忠弘ただひろあといだただしみやび中興ちゅうこう名君めいくんとして学問がくもん振興しんこう寺社じしゃ改築かいちくなどをおこなった[21]のべとおる3ねん1746ねん)にちゅうみやび死去しきょ[21]よんなん松平まつだいら忠刻ただときだい2だい藩主はんしゅいだ[22]。この忠刻ただとき時代じだいたかられき治水ちすいおこなわれて薩摩さつまはんでは平田ひらた靭負ゆきえ以下いか病死びょうししゃ32にん自殺じさつしゃ52にんして幕府ばくふ桑名くわなはんたいする怨念おんねんのこった[22]忠刻ただとき明和めいわ8ねん1771ねん)に隠居いんきょし、次男じなん松平まつだいらただしけいだい3だい藩主はんしゅとなる[22]。この時代じだいには天明てんめい2ねん1782ねん)に4洪水こうずいこって被害ひがいおおきく、それに連鎖れんさして年貢ねんぐ減免げんめんもとめる百姓ひゃくしょう一揆いっきこる始末しまつで、はん財政ざいせい悪化あっかした[22]

天明てんめい6ねん1786ねん)にちゅうけい死去しきょすると[22]家督かとく婿養子むこようし紀州きしゅう徳川とくがわ出身しゅっしん松平まつだいらただしいさおだい4だい藩主はんしゅとなり、寛政かんせい学問がくもん奨励しょうれい中心ちゅうしんとした改革かいかくおこなうが、病弱びょうじゃくのため寛政かんせい5ねん1793ねん)に隠居いんきょした[23]だい5だい藩主はんしゅにはちゅうこう実弟じってい松平まつだいら忠和ただかずぎ、学問がくもん振興しんこうおこな藩校はんこうすすむおさむかん創設そうせつした[23]とおる2ねん1802ねん)に忠和ちゅうわ死去しきょ[23]家督かとく越後えちご与板よいたはんからむかえた婿養子むこようし松平まつだいらただしつばさ(ただすけ)がだい6だい藩主はんしゅいだ[24]ちゅうつばさ文政ぶんせい4ねん1821ねん)に死去しきょし、長男ちょうなん松平まつだいらただしだい7だい藩主はんしゅいだ[24]。そして文政ぶんせい6ねん1823ねん)3がつ24にちちゅう堯は武蔵むさしにんはんうつりふうめいじられるが、これに反対はんたいする一揆いっきこるほどだった(文政ぶんせい桑名くわな農民のうみん一揆いっき[25][24]。これははん農民のうみんからこうきんあずかりはん財政ざいせい助成じょせいてていたが、突然とつぜんうつりふう命令めいれい返済へんさいできぬままににんうつろうとしたためで、はん豪商ごうしょう山田やまだ彦右衛門えもん肩代かたがわりしてもらってともにんはんうつった[24]。しかしうつりふう準備じゅんび最中さいちゅう一揆いっきこったので藩士はんし農民のうみん動揺どうよう[26]農民のうみん一揆いっき庄屋しょうやは20もおそわれ、一揆いっき鎮定ちんていには周囲しゅういはんから援軍えんぐん鎮定ちんていして一揆いっき首謀しゅぼうしゃ処刑しょけいされた[25]。このしの移動いどうでは漬物つけものだる墓石はかいしまでって家族かぞくまでおり[25]にんに12にちから13にちかけてようやく到着とうちゃくしても武士ぶしやその家族かぞくむためのいえかずりず、やむなく共同きょうどう生活せいかついられて人々ひとびと桑名くわな時代じだい愚痴ぐちをこぼしたという[25]。これは奥平おくだいら松平まつへい白河しらかわ騒動そうどうで5まんせき削減さくげんされていたのに家臣かしんかずらしておらず、しのぶ藩主はんしゅだった阿部あべ家臣かしんが391にんだったのにたいして奥平おくだいら松平まつへいはその3ばい存在そんざいしたからであり、はんではだいあわてで住居じゅうきょ増設ぞうせつおこなったが、このために奥平おくだいら松平まつへい桑名くわな時代じだい借財しゃくざいから引越ひっこ費用ひよう引越ひっこ費用ひよう合計ごうけいして10まんりょう以上いじょう借財しゃくざいをきずきあげた[27]

久松ひさまつ松平まつへい時代じだいだい2

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うつりふうのぞんだ松平まつだいら定信さだのぶ
 
うつりふうなげいた松平まつだいら定永さだなが

三方みかたとく

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わって陸奥みちのく白河しらかわはんから松平まつだいら定永さだなが白河しらかわはんである越後えちごこく柏崎かしわざき所領しょりょうとも合計ごうけい11まんせきはいった[28]。この久松ひさまつ松平まつへいはかつて桑名くわな藩主はんしゅであった定重さだしげ系統けいとうであり、定永さだなが寛政かんせい改革かいかくおこなった老中ろうじゅう首座しゅざ白河しらかわ藩主はんしゅであった松平まつだいら定信さだのぶ嫡男ちゃくなんである。この所領しょりょうえは隠居いんきょしていた定信さだのぶはん定綱さだつな以来いらい先祖せんぞである桑名くわなもどりたいという願望がんぼうがあり[29]、かつては尊号そんごう事件じけん定信さだのぶ対立たいりつしていた将軍しょうぐん徳川とくがわ家斉いえなり寛政かんせい改革かいかく功労こうろうしゃであり老中ろうじゅうであった定信さだのぶたいする報恩ほうおんとしてうごいたという[26]。これにたいして桑名くわな藩主はんしゅとして113年間ねんかん就任しゅうにんし、民心みんしん藩政はんせい安定あんていして墳墓ふんぼもあり、さらに左遷させんされるような致命ちめいてき失政しっせいもなかった奥平おくだいら松平まつへい藩主はんしゅ松平まつだいらただし堯はなにとかこのうつりふう命令めいれい撤回てっかいしてもらおうとうら工作こうさくおこなうも、将軍しょうぐん家斉いえなりちからうごいておりどうしようもなかった[29]。しかもそれまでにん藩主はんしゅでありただし同様どうよう失政しっせいもなくにんに9だい155ねんもいた阿部あべただしけん白河しらかわうつるという三方みかたりょうであったため、江戸えどでは、

  • れし(阿部あべただしけんにんをたちのきあべこべに、お国替くにがえとはほんに白川しらかわ
  • しのぶさまはおしながされて白川しらかわへ、あとの始末しまつはなんと下総しもうさ松平まつだいらただし
  • 白川しらかわふんどし(松平まつだいら定永さだなが)のやくおとし、今度こんど桑名くわなでしめるちょうしゃく

という落首らくしゅがはやったという[26]。これは松平まつだいら定信さだのぶ威光いこう存在そんざい当時とうじ絶大ぜつだいなものであり、両家りょうけさからうこともできなかった[26]

この国替くにがえのさい白河しらかわはんでは家臣かしん一同いちどうおおいによろこびあい、赤飯せきはんいていわったといわれる[30]理由りゆう先祖せんぞ代々だいだい墳墓ふんぼであり故郷こきょう帰還きかんできるためと、寒冷かんれいきびしい白河しらかわから温暖おんだんものなりもよい桑名くわなであること、京都きょうとだいさかちか東海道とうかいどう要衝ようしょうとして繁栄はんえいしていること、桑名くわなには良港りょうこうがありうみこう恩恵おんけいがありこれは久松ひさまつ松平まつへいにとってはおとくえといわれた[30]。ただし、白河しらかわはん時代じだい久松ひさまつ松平まつへいは1まん4000りょう[31]、そしてこのうつりふうともなしょ経費けいひが9まんりょうかかって[32]借財しゃくざいは10まん4,000りょうになり、はん財政ざいせいはますますくるまになった[31]

一方いっぽうで、この桑名くわなへのうつりふうかんして、松平まつだいら定永さだなが白河しらかわはん家臣かしん処罰しょばつ同然どうぜん桑名くわなうつりふうじさせられた、というぎゃくせつ存在そんざいする。当時とうじ江戸えど外国がいこくせんからまもるために房総半島ぼうそうはんとうにて海防かいぼう警備けいびにあたっていた白河しらかわはんはその財政ざいせいてき負担ふたんくるしんでおり、松平まつだいら定永さだなが老中ろうじゅう水野みずのただしなり白河しらかわはんとほぼどう規模きぼ房総半島ぼうそうはんとうちか下総しもうさこく佐倉さくらはんへのうつりふう希望きぼうしていた[33]。これにおどろいた佐倉さくら藩主はんしゅ堀田ほったただしあい若年寄わかどしよりであった一族いちぞく堀田ほったただしあつし相談そうだんして、水野みずのただしなり将軍しょうぐん家斉いえなりちち尊号そんごう事件じけんにおいて松平まつだいら定信さだのぶ対立たいりつしていた一橋ひとつばし治済はるさだらにうつりふう阻止そし懇願こんがんした[34]。その結果けっか水野みずのただしなり遠山とおやま景晋かげくに勘定かんじょう奉行ぶぎょう)は佐倉さくらはん白河しらかわはん海防かいぼう任務にんむぐこと、その理由りゆうづけのために白河しらかわはん江戸えど房総ぼうそうからとお桑名くわなうたてふうじさせることではなし収拾しゅうしゅうさせた。これについては、当時とうじ白河しらかわはんがわ史料しりょう[35]にも松平まつだいら定永さだながてんふうねがい理由りゆう房総ぼうそう警護けいごが「武門ぶもん面目めんぼく」でありこれをたすためであったのに、おもいもよらず桑名くわなへのてんふうめいじられたとしるされており、松平まつだいら定永さだながにとっては桑名くわな希望きぼうするうつりふうさきではなかったことを裏付うらづけている[36]

なお、定信さだのぶ自身じしんのぞんだうつりふうであるが、定信さだのぶ本人ほんにん高齢こうれいのため桑名くわな入部にゅうぶすることなく、文政ぶんせい12ねん1829ねん)に72さい江戸えど死去しきょした[28]

松平まつだいら定永さだながからてい猷まで

編集へんしゅう

藩主はんしゅとなった松平まつだいら定永さだながはん財政ざいせい再建さいけんにとりかかり、文政ぶんせい7ねん1824ねん)からは10ねん期限きげん藩士はんし知行ちぎょう削減さくげんした[28]。しかし文政ぶんせい12ねん(1829ねん)には江戸えど八丁堀はっちょうぼり上屋敷かみやしき類焼るいしょうし、その幕府ばくふのお手伝てつだ普請ふしんめいじられてはん財政ざいせいはさらに悪化あっかした[37]定永さだなが桑名くわなだい商人しょうにん大坂おおさか商人しょうにんからの借財しゃくざい御用ごようきんでしのいでいる[37]。なお、大坂おおさか発生はっせいした大塩おおしお平八郎へいはちろうらん触発しょくはつされてこった生田いくたよろずらんでは、桑名くわなはんりょうとして越後えちごにあったさかなぬま刈羽かりわ三島みしま蒲原かまはらなど4ぐん統括とうかつする柏崎かしわざき陣屋じんや襲撃しゅうげきされており、生田いくたら6にん全員ぜんいん死亡しぼう桑名くわなはんも3めい死亡しぼうしている[37]

定永さだなが天保てんぽう9ねん1838ねん)に死去しきょし、長男ちょうなん松平まつだいらじょうだい2だい藩主はんしゅとなる[37]てい財政ざいせい再建さいけんつとめたが、在任ざいにん3ねんらずで天保てんぽう12ねん1841ねん)に死去しきょした[37]。このためてい長男ちょうなん松平まつだいらじょうだい3だい藩主はんしゅとなるが、その時代じだいには水害すいがい見舞みまわれた[38]さいわいにして豊作ほうさくつづいてはんべいぞう満杯まんぱいになり、借財しゃくざいをすることも5年間ねんかんはなくなった[38]。しかし手伝てつだ普請ふしん江戸えど屋敷やしき類焼るいしょう安政あんせいだい地震じしんによる被災ひさい災害さいがい相次あいつ[38]。しかもこのてい猷の時代じだい幕末ばくまつ激動期げきどうき突入とつにゅうし、房総ぼうそう沿岸えんがん警備けいび京都きょうと警備けいびなどを任命にんめいされてはん財政ざいせいはますますくるしくなり、その最中さいちゅう安政あんせい6ねん1859ねん)に急死きゅうしした[38]

なお、桑名くわなはんりょう表高おもてだかは11まんせきであるが、だか桑名くわなほん領地りょうちは8まん3000せき桑名くわな員弁いなべ朝明あさけ三重みえ)、越後えちご柏崎かしわざきが5まん9000せきの14まんせきであった[28]。また、天保てんぽう改革かいかく水野みずの忠邦ただくに鳥居とりい耀蔵ようぞう排斥はいせきされたみなみ町奉行まちぶぎょう矢部やべじょうけん桑名くわなはんあづけられて絶食ぜっしょくして憤死ふんししている[39]

松平まつだいらじょうけい幕末ばくまつ動乱どうらん

編集へんしゅう
 
だい4だい藩主はんしゅ松平まつだいらじょうけい
 
鳥羽とば伏見ふしみたたかでの戦闘せんとうえがいた和装わそう洋装ようそうとが混在こんざいした服装ふくそうで、やりけん小銃しょうじゅう突撃とつげきする桑名くわなはん歩兵ほへいえがかれている。援護えんご射撃しゃげきくわえるひだりおく集団しゅうだんも「桑名くわなへい」とある
 
高須たかすよん兄弟きょうだい(1878ねん9がつ撮影さつえい
ひだりから松平まつだいらじょうけい松平まつだいら容保かたもり徳川とくがわ茂徳しげのり徳川とくがわ慶勝よしかつ

松平まつだいら猷(てい猷は徳川とくがわ家定いえさだ時代じだいに猷と改名かいめいした)の死後しご家督かとく幕末ばくまつ多事多難たじたなんのため、嫡子ちゃくしまんこれすけ松平まつだいらじょうきょう)では無理むりられて、美濃みの高須たかすはん松平まつだいらから松平まつだいらじょうけいはつひめ婿養子むこようしとしてだい4だい藩主はんしゅ就任しゅうにんした[40]。このていけい御三家ごさんけ筆頭ひっとう尾張おわりはんあるじ徳川とくがわ慶勝よしかつ徳川とくがわ茂徳しげのり会津あいづはんあるじ松平まつだいら容保かたもり石見いわみ浜田はまだはんあるじ松平まつだいらたけしげるらの実弟じっていにあたる[41]ていけい将軍しょうぐん徳川とくがわ家茂いえもちおなひろし3ねん1846ねんまれであったことから家茂いえもちなかく、あつ信任しんにんけた[42]元治もとはる元年がんねん1864ねん)には京都きょうと所司代しょしだい任命にんめいされるが、このさい若年じゃくねんであるからと拒絶きょぜつしたものの(『れき』)[43]実兄じっけい容保かたもり京都きょうと守護しゅごしょくにあったため拒絶きょぜつしきれず就任しゅうにんした[44]ていけい容保かたもり兄弟きょうだいのコンビであにたすけて京都きょうと治安ちあん西国さいこく監視かんし監督かんとくつと[44]池田いけだ事件じけん禁門きんもんへんはこの兄弟きょうだい時代じだいこっている。2かい長州ちょうしゅう征討せいとう天狗てんぐとうらんでも京都きょうと守備しゅびつとめた。京都きょうとにおいて容保かたもりていけい兄弟きょうだい禁裏きんり守衛しゅえい総督そうとくとなったいちきょう当主とうしゅ徳川とくがわ慶喜よしのぶ協調きょうちょうすることで成立せいりつした政治せいじ体制たいせいは、いちかいくわ政権せいけんばれる。いちかいくわ孝明天皇こうめいてんのうからの信任しんにん背景はいけいとして江戸えどまくかくからも独立どくりつして権力けんりょく行使こうしした[45]が、それだけに長州ちょうしゅうはんはもとより薩摩さつまはんからも打倒だとう目標もくひょうとみなされるようになる[46]。さらにだい長州ちょうしゅう征伐せいばつへの対応たいおうをめぐり、慶喜よしのぶ会津あいづ桑名くわなりょうはん対立たいりつしていちかいくわ体制たいせい瓦解がかいする[47]

その孝明天皇こうめいてんのう崩御ほうぎょにより、会津あいづ桑名くわなりょうはん京都きょうと政界せいかいでの足掛あしがかりをほぼうしなうこととなった。王政おうせい復古ふっこしょう御所ごしょ会議かいぎ慶喜よしのぶかいくわ排除はいじょしておこなわれたが、この会議かいぎでは京都きょうと所司代しょしだい京都きょうと守護しゅごしょく免職めんしょく当初とうしょ議題ぎだいふくまれていた。しかし会議かいぎちゅう松平まつだいらじょうけい京都きょうと所司代しょしだいみずか辞職じしょくし、容保かたもり同様どうよう京都きょうと守護しゅごしょくしたため、会議かいぎ結論けつろん辞職じしょく要求ようきゅう徳川とくがわ慶喜よしのぶたいするもののみとなった[48]。こののち、京都きょうと駐在ちゅうざいかいくわりょうはん兵力へいりょくあつかいが問題もんだいとなり、徳川とくがわ慶喜よしのぶりょう藩主はんしゅれてだいさか退しりぞくことで一旦いったん事態じたい収拾しゅうしゅうした[49]が、江戸えど薩摩さつま藩邸はんていちのほうはいるときゅう幕府ばくふかいくわ将兵しょうへい激昂げっこうして武力ぶりょく上洛じょうらくへのながれとなる[50]鳥羽とば伏見ふしみたたかでは会津あいづ桑名くわなはんへい主力しゅりょくとなって薩摩さつま長州ちょうしゅう激突げきとつした[51]兵力へいりょくでは幕府ばくふぐん有利ゆうりであり、さらに桑名くわなでは軍制ぐんせい改革かいかくおこなわれて近代きんだい洋式ようしき軍隊ぐんたいとなっていたが、肝心かんじん首脳しゅのう旧態きゅうたい依然いぜんとしたろうしょくめられていたために[51]新居にいりょう次郎じろう奮戦ふんせんむなしく[52]実力じつりょく発揮はっきできずにやぶれた[51]。このとき桑名くわなへい死者ししゃは11めい[53]、さらにていけいだい坂城さかきまで撤退てったいしてしろまもりにへいをつかせていたが、徳川とくがわ慶喜よしのぶ単身たんしん関東かんとうへの敵前てきぜん逃亡とうぼうはかると、命令めいれいでそれに同行どうこうすることを余儀よぎなくされた[54]

桑名くわな本国ほんごくでは1がつ3にち薩摩さつま討伐とうばつ命令めいれいとどけられ、出陣しゅつじん準備じゅんびすすめていたが、7にち以降いこうになると敗戦はいせん藩主はんしゅ江戸えど脱出だっしゅつらされ、桑名くわなだい混乱こんらんとなった[55]

当時とうじ留守るすまも筆頭ひっとう重臣じゅうしんそうおさむしょく家老がろう)の酒井さかい孫八まごはちろうであったが、酒井さかいは1がつ10にち夕方ゆうがたに15さい以上いじょう藩士はんしおよび隠居いんきょそう登城とじょうめいじ、今後こんご対応たいおうさく協議きょうぎした。対応たいおうさくとしてされたのは以下いかの3あんであった。

  1. しん政府せいふぐんへの恭順きょうじゅん開城かいじょうする「恭順きょうじゅんろん
  2. 開城かいじょうしてぜん藩士はんし江戸えどていけい合流ごうりゅうして今後こんご決定けっていする「開城かいじょう東下ひがししもろん
  3. しん政府せいふぐん抗戦こうせんして籠城ろうじょうさない「もりせんろん

協議きょうぎ紛糾ふんきゅうして意見いけんがまとまらず、やむなく酒井さかいはん神前しんぜんにおいてくじいてそれにしたがうことになり、その結果けっか開城かいじょう東下ひがししもろん」にけっした[56]

しかし、さきえない開城かいじょう東下ひがししもろんそのものにたいする不満ふまんくわえ、徳川とくがわへの忠義ちゅうぎしん政府せいふへの不信ふしんからもりせんとなえるものたたかいを無謀むぼうかんがえて恭順きょうじゅんとなえるもの納得なっとくせず、とく江戸えど時代じだい以前いぜんから桑名くわな一帯いったいんできたしょう領主りょうしゅそう末裔まつえいとされる下士かしなかには、恭順きょうじゅんろん転向てんこうのために実力じつりょく行使こうし計画けいかくするうごきがあった。1月11にち、そんな下士かし一人ひとりである矢田やたなかば左衛門さえもん同志どうしあつめ、先代せんだい・猷の実子じっしである松平まつだいらじょうきょうまんこれすけ)をしん藩主はんしゅとして擁立ようりつ恭順きょうじゅんすべきであるとする決議けつぎをまとめ、翌日よくじつ酒井さかい重臣じゅうしんたちに決議けつぎきつけた。これをったほか恭順きょうじゅん次々つぎつぎ同様どうよう要請ようせいおこない、もりせんもこれに対抗たいこうする意見いけんした。そこに桑名くわなはん朝敵ちょうてき指定していされたほうはいると、議論ぎろん恭順きょうじゅんろん一気いっきかたむいた[57]神前しんぜん籤引くじび騒動そうどう)。

ただし実際じっさい問題もんだいとして、ていけい京都きょうと所司代しょしだいとして重職じゅうしょくにあったためはん財政ざいせいくるまであり[58]軍兵ぐんびょう主力しゅりょく鳥羽とば伏見ふしみたたかいでやぶれ、桑名くわなにいたのは老幼ろうようへい500めいぎず[59]抗戦こうせん不可能ふかのうちか状態じょうたいで、酒井さかいらは猷の正室せいしつであったたまこういん真田さなだ幸良ゆきよしむすめ)の支持しじけた[58]。このさいに、あくまでることをいさぎよしとしない30めいほどが脱藩だっぱんしてていけいのもとにはしった[58]酒井さかい孫八まごはちろうはただちに尾張おわりはん周旋しゅうせん恭順きょうじゅんしん政府せいふみとめてもらおうとさくするが、尾張おわりはん領内りょうない不穏ふおん情報じょうほうもなくあお松葉まつば事件じけん発生はっせいする)により伊勢いせ亀山かめやまはん周旋しゅうせんさき変更へんこうし、おりしも知己ちきであった薩摩さつまはん海江田かいえだ信義のぶよし東海道とうかいどうぐん参謀さんぼうとしてどうはん訪問ほうもんするとるや、直接ちょくせつ海江田かいえだ交渉こうしょうおこなった。その結果けっかていきょう重臣じゅうしん鳥羽とば伏見ふしみたたかいの参戦さんせんしゃ桑名くわな帰還きかんしたものれて、四日市よっかいち東海道とうかいどう鎮撫ちんぶ総督そうとく橋本はしもとみのるはりした出頭しゅっとうすることになった。1月23にちていきょう以下いか出頭しゅっとうすると、しろわたしとぜん藩士はんししろがい寺院じいん謹慎きんしんすることがめいじられ、その保証ほしょうのためていきょう光明寺こうみょうじ幽閉ゆうへいされることになった。酒井さかいはん存続そんぞくのためこれを[60]くわ名城めいじょうは1がつ28にち[58]無血むけつ開城かいじょうとなった[61][62]

一方いっぽう江戸えどうつったていけいあに容保かたもりとも抗戦こうせん主張しゅちょうしたが、徳川とくがわ慶喜よしのぶ恭順きょうじゅんまわったうえみずからの責任せきにんていけい容保かたもりらになすりつけ、2がつ10日とおかにはつい2人ふたり登城とじょう禁止きんしにする有様ありさまであった[61]慶喜よしのぶにまで見捨みすてられたていけいは、である越後えちご柏崎かしわざきはいってあに容保かたもりとも抗戦こうせんかためた[63]。なお、これに先立さきだつ1がつ29にちには桑名くわなからていきょう擁立ようりつくわ名城めいじょう開城かいじょう決定けってい報告ほうこくけて決定けっていしたがむね本国ほんごくつたえているため、当初とうしょはん恭順きょうじゅん決定けっていしたが心算しんさんであって、抗戦こうせんろんてんじたのは柏崎かしわざき移動いどうとみる見解けんかいもある[64]。この逃亡とうぼうさいていけい会津あいづはん、さらに越後えちご長岡ながおかはん河井かわい継之助つぐのすけらと攻守こうしゅ同盟どうめいむすんだとされている[65]桑名くわなはん会津あいづはんなどきゅう幕府ばくふぐん共同きょうどうして立見たつみあきら三郎さぶろうなど一部いちぶ藩士はんし関東かんとう各地かくち転戦てんせんし、宇都宮うつのみや戦争せんそうでもやぶれはしたが奮戦ふんせんした[66]

一方いっぽうくわ名城めいじょうおよび領地りょうち東海道とうかいどうすじ最大さいだいはんであり、かつ藩主はんしゅていけい親戚しんせきである尾張おわりはん管理かんりかれ[67]酒井さかい孫八まごはちろう以下いか重臣じゅうしんから足軽あしがるいたるまでのざい桑名くわな藩士はんし771めい城下じょうかの8かしょ寺院じいん収容しゅうようされて謹慎きんしんすることになった。これらの寺院じいん近接きんせつしており、これはばらばらに幽閉ゆうへいされて連絡れんらくれなくなることをおそれた酒井さかいはん首脳しゅのう先手せんてってしん政府せいふがわ提案ていあんしたさくとされている[68]酒井さかい重臣じゅうしんしん政府せいふによって幽閉ゆうへい状態じょうたいにあるていきょうあらたな藩主はんしゅとして、宥免ゆうめんはん存続そんぞくさせることを目指めざしており、謹慎きんしんちゅう藩士はんしたちをひそかに京都きょうと江戸えど柏崎かしわざき派遣はけんしている。前者ぜんしゃ桑名くわなはん宥免ゆうめん工作こうさくを、後者こうしゃ宥免ゆうめん説得せっとく材料ざいりょうとして“まえ藩主はんしゅであるていけい帰国きこくうながすものであった。当時とうじ藩士はんしたちは謹慎きんしん処分しょぶんちゅうであり、状況じょうきょうによってはしん政府せいふ重罰じゅうばつしょせられる可能かのうせいがあっただけにいのちがけの役目やくめであった[69]。また、どうはん出身しゅっしん箏曲そうきょく椙村寿ことぶき桑名くわな領民りょうみんなかにも酒井さかい重臣じゅうしん連絡れんらくって工作こうさくたるものがいた[70]。こうした工作こうさくのうち、さき実現じつげんしたのは前者ぜんしゃであった。うるう4がつ3にちしん政府せいふ謹慎きんしんちゅう藩士はんしかんたる尾張おわりはん安濃あのうはん嘆願たんがんこたえるかたちはん重臣じゅうしん鳥羽とば伏見ふしみたたかいの従軍じゅうぐんしゃ以外いがい藩士はんしについては自宅じたく謹慎きんしんえることとなり、桑名くわなはん宥免ゆうめんけた第一歩だいいっぽとなった。しかし同時どうじに、ていけい降伏ごうぶくしないかぎ宥免ゆうめん出来できないことをあらためてしめした[71]うるう4がつ29にちていきょう幽閉ゆうへいさき四日市よっかいちから桑名くわなもどることがゆるされ、酒井さかい重臣じゅうしん謹慎きんしんしていたもとみつるてらつづ謹慎きんしんすることになったが、これによってはんちょう機能きのう復活ふっかつすることになった。もとみつるてらはんちょうは10がつていきょうくわ名城めいじょう居住きょじゅうみとめられるまでつづいた[72]。その鳥羽とば伏見ふしみたたかだいさか謹慎きんしんしていた藩士はんしや、江戸えど柏崎かしわざきにいてていけい行動こうどうともにせず桑名くわなへの帰還きかんのぞもの帰国きこく問題もんだい浮上ふじょうするが、鳥羽とば伏見ふしみたたかいに参加さんかしていた藩士はんしのみを寺院じいん謹慎きんしんさせ、もの自宅じたくなどで謹慎きんしんさせるなどの措置そちっている。これは、開城かいじょう桑名くわな本国ほんごく藩士はんしたちが恭順きょうじゅん姿勢しせいせていることや、監視かんし要員よういんしている尾張おわりはん安濃あのうはん経済けいざいてき負担ふたん考慮こうりょしたものであった[73]

一方いっぽう柏崎かしわざきでは家老がろう吉村よしむらけん左衛門さえもん恭順きょうじゅんとしてつよ権勢けんせいほこっていた[74]吉村よしむらはん松平まつだいら定綱さだつなが5000せきまねいた吉村よしむらまた左衛門さえもん子孫しそんである[74]当代とうだいけん左衛門さえもんは800せきであったが、ていけいから主戦しゅせん山脇やまわきじゅう左衛門さえもんとおざけた[74]。さらに、吉村よしむら柏崎かしわざきぜん藩士はんしれて桑名くわなもど恭順きょうじゅんしようとする計画けいかくったていけいは、山脇やまわき結託けったくして吉村よしむら暗殺あんさつした[75]皮肉ひにくにもこの桑名くわな本国ほんごくでは、桑名くわなはん宥免ゆうめんけたしん政府せいふによるひろしてんだい1だんおこなわれたであった。こうして柏崎かしわざき桑名くわなへい主戦しゅせん実権じっけんにぎり、山脇やまわき立見たちみ中心ちゅうしん人物じんぶつとなって雷神らいじんたいなど4たい結成けっせいされた[76]。この桑名くわなぐんきゅう幕府ばくふぐん最強さいきょうとしてそのとどろかせ[77]旧態きゅうたい依然いぜんとした家老がろうらを排除はいじょして能力のうりょく優先ゆうせん革新かくしんてき軍隊ぐんたいとなった[76]。この軍隊ぐんたい高田たかだはんから進撃しんげきしてきた山縣やまがた有朋ありともひきいるしん政府せいふぐん鯨波げいは戦争せんそう撃破げきは[78]、その各地かくちしん政府せいふぐんやぶったが、友軍ゆうぐん長岡ながおかはん会津あいづはんなどがやぶれて重要じゅうよう拠点きょてんである鯨波げいは柏崎かしわざき放棄ほうきせざるをなくなる[78]あらたに妙法寺みょうほうじ拠点きょてんとした桑名くわなぐんは、立見たちみ活躍かつやくにより5がつにはへい損失そんしつ皆無かいむしん政府せいふぐん赤田北方あかだきたがたやぶっている[79]長岡ながおか戦争せんそうでも朝日山あさひやま合戦かっせん立見たちみおおいに活躍かつやくし、東山ひがしやまみちぐんかり参謀さんぼう松下まつした村塾そんじゅく出身しゅっしん時山ときやまじきはちって、しん政府せいふぐんだい打撃だげきあたえた[80]。しかしかれらの活躍かつやくは、結果けっかてき桑名くわな本国ほんごく藩士はんしたちの謹慎きんしんばすことになり、主戦しゅせんろんめるていけい周辺しゅうへん恭順きょうじゅんろんかたまった本国ほんごくあいだみぞふかめることになった。

その活躍かつやくながくはつづかず、立見たちみとも優秀ゆうしゅう指揮しきかんだった河井かわい戦死せんし、さらに新発田しばたはん裏切うらぎりでしん政府せいふぐん海路かいろから新潟にいがた上陸じょうりくするにおよんで、戦線せんせん瓦解がかいした[81]ていけいあに容保かたもりたよって会津あいづびた[81]会津あいづ戦争せんそうでも桑名くわなぐん会津あいづぐん共同きょうどうして激戦げきせんひろげ、立見たちみみずか抜刀ばっとうして薩摩さつまぐんたたかうほどに奮戦ふんせんした[82]。その寒河江さがえ最後さいご決戦けっせんをした立見たちみ桑名くわなぐんは、庄内しょうないはん軍勢ぐんぜいとも降伏ごうぶくした。

会津あいづからさらに逃亡とうぼうつづけるていけいは、一色いっしょくさんせん太郎たろうあらためて榎本えのもと武揚ぶようともはこかんわたった[83]。このさいていけい随従ずいじゅうした17にんが、土方ひじかた歳三としぞう新撰しんせんぐみ入隊にゅうたいしている[83]一方いっぽうはん存続そんぞくのためていけい身柄みがらしん政府せいふ必要ひつようがあると判断はんだんした酒井さかい孫八まごはちろうは、みずか五稜郭ごりょうかくんでていけい決意けついをし、11月4にち桑名くわな出発しゅっぱつして東京とうきょうはいり、そこから尾張おわりはんしん政府せいふ了承りょうしょうて12月24にち蝦夷えぞはいり、翌年よくねん1がつ1にちていけい面会めんかいするとともに、榎本えのもと武揚ぶよう土方ひじかた歳三としぞう板倉いたくらかつしずらにていけいの引渡を要求ようきゅうした。4月になってしん政府せいふぐん五稜郭ごりょうかくせまると、酒井さかいていけい強引ごういんしてふねせ、酒井さかいさき東京とうきょうはいってていけい出頭しゅっとうさせる準備じゅんびはじめた[84]ていけい上海しゃんはいにまで密航みっこう逃亡とうぼうしたが[85]路銀ろぎんきて外国がいこくへの逃亡とうぼうあきらめ、しん政府せいふ降伏ごうぶくした[86]

桑名くわなはん存続そんぞく決定けってい終焉しゅうえん

編集へんしゅう

明治めいじ元年がんねん1868ねん)10がつ9にち松平まつだいらじょうきょう城主じょうしゅとしてくわ名城めいじょう居住きょじゅうすることがみとめられ、11月19にちには鳥羽とば伏見ふしみたたかいの従軍じゅうぐん藩士はんしたいする謹慎きんしん自宅じたく謹慎きんしんえられた(「酒井さかい孫八まごはちろう日記にっき」)ことで、べつ深刻しんこく事態じたい発生はっせいしていた[87]。9月25にちひらかれたしん政府せいふ会議かいぎで、参与さんよである木戸きど孝允たかよしは、桑名くわなはん国元くにもとがいくら恭順きょうじゅんしていてもていけい主従しゅうじゅう抵抗ていこうしているかぎりは、はんしん政府せいふぐん兵士へいし心情しんじょう考慮こうりょすれば条理じょうりじょう宥免ゆうめん不可能ふかのうであるとべている。一方いっぽうで、1がつからのながきにわたるていきょう酒井さかい以下いか藩士はんし恭順きょうじゅんたいするひろしてんは、ていきょう桑名くわな入城にゅうじょう鳥羽とば伏見ふしみしん政府せいふぐん交戦こうせんした藩士はんし自宅じたく謹慎きんしん助命じょめい確定かくてい)へのえによって、それ以上いじょうあたえるものがなくなってしまい、恭順きょうじゅんしゃたいしてはひろしてんむくいるという条理じょうりきづまってしまったのである[88]。さらに桑名くわなはん宥免ゆうめんおくれは、そのしろあずかる尾張おわりはん負担ふたんにもなっており、酒井さかい孫八まごはちろうはこかんからていけいもどそうとする工作こうさくには尾張おわり藩士はんし加担かたんしたとされている[89]

それだけに、明治めいじ2ねん1869ねん)4がつていけい投降とうこうは、桑名くわなはん人々ひとびとのみならずしん政府せいふとしても桑名くわなはん宥免ゆうめん口実こうじつ出来できたことで安堵あんどさせた。椙村寿ことぶき親交しんこうあつ大久保おおくぼ利通としみち直接ちょくせつ桑名くわなはん宥免ゆうめん嘆願たんがんしたのもこの時期じきのことである[69]。8月15にち桑名くわなはんたいする処分しょぶん決定けっていされ、松平まつだいらじょうきょう恭順きょうじゅんをもってつぶしはまぬかれ、所領しょりょうを11まんせきから6まんせきらしたうえあたえるものとされた。8月23にち尾張おわりはんなどのへい桑名くわなから撤退てったいし、9がつ20日はつかにはていきょう正式せいしきはんごとにんじてしたがえじょすることになった[90]

ていけいしん政府せいふ降伏ごうぶくすると東京とうきょう取調とりしらべをけ、明治めいじ4ねん1871ねん)3がつ14にち桑名くわなうつされ、明治めいじ5ねん1872ねん)1がつ6にちまで謹慎きんしんつづけた[86][91]

そのあいだ明治めいじ4ねん廃藩置県はいはんちけん桑名くわなはんはいはんとなり[92]桑名くわなけん安濃あのうけん三重みえけん編入へんにゅうされた。

桑名くわなはんのその

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桑名くわな藩士はんし廃藩置県はいはんちけんから2ねんろくだか交付こうふ廃止はいしされて収入しゅうにゅうたれると、下級かきゅう役人やくにん教員きょういん軍人ぐんじん求職きゅうしょくした[93]。しかし桑名くわな朝敵ちょうてきとなったことから、いわれなき差別さべつけて肩身かたみせまおもいをしており、西南せいなん戦争せんそうではうらみをらすために400めいもが出征しゅっせいしている[93]明治めいじ時代じだいにはかし、富国強兵ふこくきょうへい軍需ぐんじゅ産業さんぎょう活発かっぱつじょうじて重工業じゅうこうぎょうおおいに発展はってんした[94]

社会しゃかい

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産業さんぎょう

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桑名くわなはん成立せいりつまえから楽市らくいちせいかれ、「十楽じゅうらく」とばれて繁栄はんえいしていたが、はん成立せいりつして本多ほんだ忠勝ただかつ慶長けいちょう周到しゅうとうまちわり実施じっしすると、商工しょうこう業者ぎょうしゃあつめられて城下じょうか経済けいざいてき発展はってんすることをさいじゅう要事ようじとした[95]鋳物いもの瓦師かわらし陶工とうこうなどには住居じゅうきょあたえられてぜい免除めんじょ名字みょうじ帯刀たいとうゆるされるなどの保護ほご特権とっけんあたえられ、商工しょうこう業者ぎょうしゃまちりのさいどう業者ぎょうしゃあつめてそのままあぶらまち紺屋こんやまち鍛冶かじまち鍋屋なべやまちさかなまち船馬せんばまち風呂ふろまち伝馬てんままち誕生たんじょうし、その町名ちょうめいがそのまま現在げんざいまでつづいている[95]

桑名くわな商業しょうぎょうさかんになった理由りゆうは、東海道とうかいどう要衝ようしょうであることと船便せんびんさにもとめられる。農業のうぎょうかんしても桑名くわなべい品質ひんしつ優良ゆうりょうで、桑名くわな船便せんびん全国ぜんこく有数ゆうすうべい集散しゅうさんでもあったが、江戸えど時代じだいになるとべい取引とりひきしょまでひらかれて、その相場そうば江戸えどだいさかにもおおきな影響えいきょうあたえた。また桑名くわなまい近隣きんりん諸国しょこく酒造しゅぞうにはかせず、そうって使用しようされたため、その価値かち大変たいへんたかかった。江戸えど時代じだい中期ちゅうき江戸えどだい消費しょうひ都市としになると、桑名くわなべい幕府ばくふりょう年貢ねんぐまい美濃みのなど)は桑名くわなはこばれたうえ江戸えど大坂おおさかはこばれている[96]

松平まつだいら定綱さだつな藩主はんしゅになると、定綱さだつな地場じば産業さんぎょう奨励しょうれいしてみずかなん巡視じゅんしおとずれたこともあり、果樹かじゅに醸酒、銘茶めいちゃなどの特産とくさんあらたにまれた。これらも桑名くわな交通こうつう要衝ようしょうであったためで、木材もくざいなどは木曾きそ飛騨ひだ伊勢いせ南部なんぶ紀伊きいからあつめられて集散しゅうさんとなっている[96]

幕府ばくふによる参勤交代さんきんこうたいさだめられると街道かいどう整備せいびされたが、桑名くわな例外れいがいではなく、陸上りくじょう海上かいじょう交通こうつうさかんになった。御船みふね奉行ぶぎょう設置せっちされ、桑名くわなには大小だいしょう回船かいせん御座ぎょざぶね)が10すうそうがあった[97]漁船ぎょせん大小だいしょうふねわせると300そうゆうえていた[98]。このため桑名くわなには、しょ大名だいみょう逗留とうりゅうするための定宿じょうやど本陣ほんじん脇本わきもとじんつくられ[98]一般いっぱん旅客りょかく宿泊しゅくはくする旅籠はたごも120けんもあり、東海道とうかいどうでも有数ゆうすうにぎわいとなった(おな伊勢いせ国内こくないでも、亀山かめやま旅籠はたごが21けんしかなかった)[99]

特産とくさんぶつ

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桑名くわな名物めいぶつとして有名ゆうめいなのは海産物かいさんぶつはまぐりである。富田とみたはまぐりなど、桑名くわなはんりょうはまぐりからおおきく、にくあつきわめて美味びみであった。これは木曽川きそがわ揖斐川いびがわ河口かこう淡水たんすい海水かいすいじり場所ばしょ栄養えいよう豊富ほうふであり、かつふか泥砂でいさがあってはまぐり成長せいちょうてきした場所ばしょだったためである。そのため桑名くわなはまぐり徳川とくがわ家康いえやすをはじめ歴代れきだい将軍しょうぐんにも献上けんじょうされた。当時とうじしょうはまぐり主流しゅりゅうであり、街道かいどう沿いの茶屋ちゃやではかならられて旅人たびびとかならしょうはまぐりくえしたといわれるほどであり、からかたち色合いろあいも見事みごと貝合かいあわせや膏薬こうやく容器ようきとしても珍重ちんちょうされた[100]。また時雨しぐれはまぐりはまぐり)は美味びみ保存ほぞんしょくとして有名ゆうめいとなり、販路はんろひろかった[101]

陶器とうきでは万古ばんこしょう主流しゅりゅうとなったが[101]、これは製品せいひん万古ばんこあるいは万古ばんこ不易ふえき烙印らくいんしたためであり、幕府ばくふ御用ごようつとめたほどで江戸えど万古ばんことなり、その各地かくち技術ぎじゅつつたわってそれぞれの地名ちめいかんした万古ばんこしょう誕生たんじょうした[102]

刀剣とうけんでは徳川とくがわたたりをなしたとされるむらただし伊勢いせ刀鍛冶かたなかじ元祖がんそである[102]むらせいあじ抜群ばつぐん比類ひるいしととなえられたが、このたたりのために徳川とくがわ時代じだいには冷遇れいぐうされた。ただし幕末ばくまつには、志士ししからその伝説でんせつのために愛用あいようされた[103][104]

現在げんざいつたわる名産めいさんひんとして、安永やすながもちたがね煎餅せんべいビールとして上馬かみうま清酒せいしゅでは上馬かみうまにかれかわ、ひさ奈がある[105]

文化ぶんか教育きょういく

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桑名くわなでは江戸えど時代じだい中期ちゅうきまでは、あまり文化ぶんかてきには発展はってんがなかった[106]。しかし松尾まつお芭蕉ばしょうが3桑名くわなおとずれて、桑名くわなすうんでいることが文化ぶんか発展はってん端緒たんしょとなる[107]曲亭馬琴きょくていばきん桑名くわな訪問ほうもんしているが、このさい桑名くわな俳諧はいかい酷評こくひょうしている[107]ほかにも歌川うたがわ広重ひろしげ清河きよかわ八郎はちろう河井かわい継之助つぐのすけなどがおとずれるなど、著名ちょめいじんがたびたび桑名くわなおとずれた記録きろくおおい。著名ちょめいじんでは坂本さかもと龍馬りょうまななさとわたしで放尿ほうにょうしたところを警備けいび桑名くわな藩士はんし一喝いっかつされたといわれる)、江戸えど遊学ゆうがく途中とちゅう吉田よしだ松陰しょういんシーボルトなども桑名くわなおとずれている。

桑名くわな藩主はんしゅ松平まつだいら定永さだなが就任しゅうにんすると、陸奥みちのく白河しらかわ藩主はんしゅだった定信さだのぶにより創設そうせつされていた藩校はんこう立教りっきょうかんがそのまま白河しらかわから桑名くわなうつっている[108]教育きょういく内容ないよう国学こくがく漢学かんがく詩歌しか軍学ぐんがくなど多岐たきにわたっていた。

人口じんこう増減ぞうげん

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桑名くわな江戸えど時代じだい前期ぜんきから元禄げんろくにかけて人口じんこう家数やかず増大ぞうだいし、ピークには1まん3000にん突破とっぱしたが[109]元禄げんろく以降いこうなやんだ。これは、緊縮きんしゅく財政ざいせいによる増税ぞうぜい災害さいがい飢饉ききん多発たはつ子供こども養育よういく困難こんなんになり、また日本にっぽん全国ぜんこくあいだき(中絶ちゅうぜつ)や堕胎だたいおこなわれていたためであり、農村のうそんでも離農りのうしゃおおかったためであった[110]

歴代れきだい藩主はんしゅ

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本多ほんだ

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譜代ふだい 10まんせき

  1. 忠勝ただかつ
  2. 忠政ただまさ

松平まつだいら久松ひさまつ

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親藩しんぱん 11まんせき→11まん7000せき→11まんせき→11まん3000せき

  1. 定勝さだかつ
  2. 定行さだゆき
  3. 定綱さだつな定行さだゆきうつりふうともない、美濃みの大垣おおがきよりおとうと定綱さだつなにゅうふう
  4. ていりょう
  5. 定重さだしげ

松平まつだいら奥平おくだいら

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親藩しんぱん 10まんせき

  1. ちゅうみやび
  2. 忠刻ただとき
  3. ちゅうけい
  4. ちゅうこう
  5. 忠和ただかず
  6. ちゅうつばさ
  7. ちゅう

松平まつだいら久松ひさまつ

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親藩しんぱん 11まん3,000せき→6まんせき

  1. 定永さだなが
  2. てい
  3. てい
  4. ていけい京都きょうと所司代しょしだい
  5. ていきょう

幕末ばくまつ領地りょうち

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上記じょうきのほか、古志こしぐん17むら魚沼うおぬまぐん20むら刈羽かりわぐん31むら以上いじょうだい1柏崎かしわざきけん編入へんにゅう)、蒲原かまはらぐん144むら(うち56むらだい1新潟にいがたけん、63むら新発田しばたはん、7むら村上むらかみはん、18むら村松むらまつはん編入へんにゅう)の幕府ばくふりょうあずかった。

脚注きゃくちゅう

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  2. ^ a b c d ぐん 2009, p. 20.
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  7. ^ a b ぐん 2009, p. 19.
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  35. ^ 白河しらかわちゅうまき(1971ねん)p.169。ただし、針谷はりがや武志たけしは『』が当該とうがい文書ぶんしょ引用いんようもと記載きさいしていない、と注記ちゅうきしている。
  36. ^ 針谷はりがや武志たけし ちょ佐倉さくらはん房総ぼうそう海防かいぼう」、吉田よしだ伸之のぶゆき; 渡辺わたなべ尚志ひさし へん近世きんせい房総ぼうそう地域ちいき研究けんきゅう東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、1993ねん、153-157・159ぺーじISBN 4130260561 
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参考さんこう文献ぶんけん

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  • こおり義武よしたけ桑名くわなはん現代書館げんだいしょかん〈シリーズはん物語ものがたり〉、2009ねん11月。 
  • 水谷みずたに憲二けんじ桑名くわなはん戊辰戦争ぼしんせんそう」『戊辰戦争ぼしんせんそうと「朝敵ちょうてきはん敗者はいしゃ維新いしん-』八木はちぼく書店しょてん、2011ねん3がつ 
  • いえきん良樹よしき江戸えど幕府ばくふ崩壊ほうかい 孝明天皇こうめいてんのうと「いちかいくわ」』 講談社こうだんしゃ,kindleばん (2014ねん

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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先代せんだい
伊勢いせこく
行政ぎょうせい変遷へんせん
1601ねん - 1871ねん 桑名くわなはん桑名くわなけん
次代じだい
安濃あのうけん