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藩 - Wikipedia

はん

日本にっぽんにおいて大名だいみょうおさめる領地りょうち

はん(はん)は、諸侯しょこうおさめる領地りょうち、およびその統治とうち組織そしきのことである。

中国ちゅうごくはん

古代こだい中国ちゅうごくしゅうで、王室おうしつ護衛ごえいする諸侯しょこうはん[1]んだのが由来ゆらいとされる。てんじて、くにさつふうされた諸侯しょこう一般いっぱん、およびその領地りょうちすようになった[2]領地りょうちのことははんこく[3]ともぶ(しげるこくとも)。

はんというかたりしゅうだいきよしだい使つかわれたが[ちゅう 1]日本にっぽんちがって固有名詞こゆうめいしとして「○○はん」のように使つかわれることはほとんどない。たとえば、とう後半こうはんからだいじゅうこくにかけて地方ちほう割拠かっきょした節度せつど使勢力せいりょくはんんだが、このしょはん領地りょうちぶときには「せん節度せつど使しゅちょんただし」「河東かわとう節度せつど使かつよう」というように、地名ちめい節度せつど使めいび、「せんはん」「河東かとうはん」とはばない。しんだいの、辺境へんきょうはん独立どくりつこくだったさんはん有名ゆうめいだが、このしょはん朝廷ちょうていからたまわったおうごうばれ、「○○はん」とはわない。ただし、明代あきよではぶくはん潞藩かつらはんなどしばしば使つかわれた。

日本にっぽんはん

日本にっぽんはんは、江戸えど時代じだいに1まんいし以上いじょう領土りょうど保有ほゆうする封建ほうけん領主りょうしゅである大名だいみょう支配しはいした領域りょういきと、その支配しはい機構きこう歴史れきし用語ようごである[4]江戸えど時代じだい儒学じゅがくしゃ中国ちゅうごく制度せいどになぞらえてもちいた漢語かんごてき呼称こしょう由来ゆらいする。

用語ようご

はんという呼称こしょうは、江戸えど時代じだいには公的こうてき制度せいどめいではなかったためこれをもちいるもの一部いちぶかぎられ、元禄げんろく年間ねんかん以降いこう散見さんけんされる程度ていどだった(新井あらい白石はくせきはん翰譜』、はやしじゅつとき成島なりしま司直しちょくへん徳川とくがわ実紀みきとう)。明治めいじ時代じだいはじめて公称こうしょうとなり、一般いっぱんひろ使用しようされるようになった。

元々もともとはん」というかたりは、古代こだい中国ちゅうごく天子てんしであるしゅうおうによってあるくにどう時代じだい華北かほくくにとはしょうせられる都市とし国家こっか)に封建ほうけん既存きそん都市とし国家こっか統治とうち制度せいど追認ついにん、もしくはしんしゅう勢力せいりょくぞく組織そしき単位たんいでの軍事ぐんじ入植にゅうしょく)された諸侯しょこう支配しはい領域りょういきし、江戸えど時代じだい儒学じゅがくしゃがこれになぞらえて、徳川とくがわ将軍家しょうぐんけ服属ふくぞく将軍しょうぐんによって領地りょうちあたえられた(と観念かんねんされた)大名だいみょうを「諸侯しょこう」、その領国りょうごくを「はん」とんだことに由来ゆらいする。あくまで江戸えど時代じだいには「はん」のかたり儒学じゅがく文献ぶんけんじょう別称べっしょうであって、公式こうしき制度せいどじょうはんしょうされたことはい。

当時とうじ江戸えど幕府ばくふは、大名だいみょうりょう領分りょうぶん(りょうぶん)、大名だいみょうつかえるもの大名だいみょうりょう支配しはい組織そしき家中いえじゅう(かちゅう)などの呼称こしょうもちいられていた。いずれも、そのまえ大名だいみょう名字みょうじもしくは拠点きょてんしろ陣屋じんや所在地しょざいち)とする地域ちいきめいかんしてんだ。

今日きょう歴史れきしがくじょうでは、大名だいみょうりょうおよびその領地りょうち支配しはい組織そしきはんはん領主りょうしゅである大名だいみょうのことを藩主はんしゅ(はんしゅ)、大名だいみょう家来けらいのことを藩士はんし(はんし)ということおおい。おなじく現代げんだい歴史れきし用語ようごとして、はんたいして幕府ばくふ直轄ちょっかつりょうのことを天領てんりょう(てんりょう)とことおおい(ただし、天領てんりょうはんおなじく、明治めいじ以降いこう公称こうしょうである)。さらには、まくはん体制たいせい研究けんきゅうしゃなかには豊臣とよとみ政権せいけんにおける大名だいみょう領国りょうごくを「はん」もしくはその前身ぜんしんとらえ、はん成立せいりつ豊臣とよとみ政権せいけんもしくはそのまえ織田おだ政権せいけんさかのぼって考察こうさつするかんがかたもある[5][6]

しかし、このはんについて、当時とうじ人々ひとびと実際じっさいなに呼称こしょうしていたかはくわしくはわかっていない[7][ちゅう 2]当時とうじ領地りょうち組織そしきは「はん」ではなく「いえ」を単位たんいとするもので、幕府ばくふからの命令めいれい藩主はんしゅでなく個人こじんたとえば長州ちょうしゅうはん場合ばあいは「松平まつだいら[ちゅう 3]大膳だいぜん大夫たいふ殿どの」)あてされており、家臣かしんはんはんでなく「当家とうけ」「他家たけ」などの呼称こしょうばれていた[7]藩士はんしについても「○○藩士はんし」とはばれず、たとえば「仙台せんだいはん」であれば公的こうてきには「松平まつだいら[ちゅう 3]陸奥むつまもる家来けらい」としょうされた。また、封地ほうちめいも「はん」よりも「ほう」をつけてあらわされることがおおかった。たとえば「仙台せんだいこう」、「尾張おわりこう」、「姫路ひめじこう」といった具合ぐあいである。

江戸えど時代じだい

はん内側うちがわ将軍しょうぐん江戸えど幕府ばくふ権威けんい権力けんりょくわく内側うちがわ一定いってい自立じりつした政治せいじ経済けいざい社会しゃかいのまとまりをち、ちいさな国家こっかのように機能きのうした。

はんは、守護しゅご大名だいみょう荘園しょうえんおおやけりょう解体かいたいし、これらに所領しょりょう一揆いっき盟約めいやく組織そしきされたそうむら権力けんりょく基盤きばんとする国人くにびときゅう武士ぶしや、武士ぶしした名主なぬしそうさむらい)を被官ひかんし、一円いちえんてき領域りょういき支配しはいきずいていったことにはじまる。これは荘園しょうえんあずかところおおやけりょう国衙こくが機構きこうといった中世ちゅうせいてき公的こうてき秩序ちつじょ機構きこう基盤きばんとする、室町むろまち時代ときよ以前いぜん武士ぶし所領しょりょう支配しはいとはことなったあたらしい支配しはい形態けいたいである。こうした社会しゃかい変動へんどう成功せいこうした守護しゅご大名だいみょうやそのした現地げんち支配しはい実務じつむになった守護しゅごだいちゅうあいだ管理かんりしょくてき家臣かしんらから成長せいちょうした戦国せんごく大名だいみょう領域りょういき自生じせいした一揆いっきてき盟約めいやく共同きょうどうたい直接ちょくせつ掌握しょうあくすることでいちえん支配しはいをさらにすすめる一方いっぽう家来けらいである配下はいか武士ぶし城下町じょうかまちあつめてつよ統制とうせい傾向けいこうはじまる。織田おだ信長のぶながてた武士ぶし所領しょりょう勢力せいりょく進展しんてんとともに次々つぎつぎうごかし、豊臣とよとみ秀吉ひでよし徳川とくがわ家康いえやす服属ふくぞくした戦国せんごく大名だいみょうかれらの地盤じばんである領国りょうごくから鉢植はちうしきしん領土りょうどうつりふうさせたので、安土あづち桃山ももやま時代じだい武士ぶし百姓ひゃくしょうあいだ職業しょくぎょうてき身分みぶんてき分離ぶんりすすみ、関ヶ原せきがはらたたか江戸えど時代じだい初期しょきだい大名だいみょうさかんな加増かぞううつりふうによって完成かんせいされた。

藩士はんしである武士ぶし城下町じょうかまちあつめて軍人ぐんじん官吏かんりとし、かれらの支配しはいのもとで城下町じょうかまち周辺しゅうへんいちえん支配しはい領域りょういきにあるむら石高いしたか登録とうろくされた百姓ひゃくしょうから年貢ねんぐ現物げんぶつ徴収ちょうしゅうして、はん藩主はんしゅ財源ざいげん藩士はんし給与きゅうよとして分配ぶんぱいする形態けいたいはん典型てんけいであるが、徳川とくがわによって新規しんきてられたしょうはんなかには支配しはいする領地りょうちじょう拡散かくさんしていていちえんてき支配しはいむずかしいものもあった。また肥前ひぜん鍋島なべしま統治とうちいて藩主はんしゅ一門いちもん旧主きゅうしゅ龍造寺りゅうぞうじ一門いちもんから重臣じゅうしんそう直接ちょくせつ統治とうちする領地りょうちかまえたことにみられるように、西国さいごく雄藩ゆうはんにはしばしば戦国せんごく大名だいみょうてき統治とうち機構きこう温存おんぞんさせていたれい散見さんけんされた。

明治めいじ時代じだい

1868ねん明治めいじ元年がんねん)に明治めいじしん政府せいふきゅう幕府ばくふりょう天皇てんのう直轄ちょっかつりょう天領てんりょう)としてけん編成へんせいしたさいに、大名だいみょうりょう天子てんしたる天皇てんのうの「はん」であると観念かんねんされたこともあり、「はん」はあらたに大名だいみょうりょう公称こうしょうとして採用さいようされ、藩主はんしゅ居所きょしょしろ大名だいみょう場合ばあい居城いじろ)の所在地しょざいち地名ちめいをもって「○○はん」という名前なまえはじめて正式せいしき行政ぎょうせい区分くぶんめいとなった[8][7]はんけんさんせい)。よく1869ねん明治めいじ2ねん)までに版籍はんせき奉還ほうかんおこなわれて藩主はんしゅはんごとあらためられ、1871ねん明治めいじ4ねん)の廃藩置県はいはんちけんによりさらにはんけんえられた。これによって江戸えど時代じだい以来いらいはんせい廃止はいしされ、はんりょう整理せいりされた。

なお琉球りゅうきゅうは、その実質じっしつてき支配しはいしゃである薩摩さつまはん廃藩置県はいはんちけんによってけんとなったことをけ、よく1872ねん明治めいじ5ねん)、独立どくりつ王国おうこくから日本にっぽんこく帰属きぞくする琉球りゅうきゅうはんへとあらためられた。以後いご1879ねん明治めいじ12ねん)の琉球りゅうきゅう処分しょぶんまで、琉球りゅうきゅう廃藩置県はいはんちけん日本にっぽん国内こくないにおいて唯一ゆいいつはんせいおこなわれていた地域ちいきである。

現在げんざいけん廃藩置県はいはんちけんしょけん統廃合とうはいごうしてまれたもので、おおくの地域ちいきでは旧藩きゅうはん境界きょうかい現在げんざいけん境界きょうかい一致いっちしない。

はんかたはんめい

はんけんさんせいにおいてはんちょう所在地しょざいちをもってはんめいとする規則きそくはじめからあるわけではなかった。たとえば慶応けいおう4ねん旧暦きゅうれき2がつ11にちだい中小ちゅうしょうはん区別くべつ制定せいていされたさいはんめいひょうでは、国持くにもち大身たいしん国持くにもちはんなどはきゅう国名こくめいをもってはんめいとされている。慶応けいおう4ねん旧暦きゅうれき5がつ15にちはんしるし制定せいていさいも、明治めいじ政府せいふ提出ていしゅつされたはんしるしではきゅう国名こくめいもちいたはんめいはんしるし多数たすう作成さくせいされている。最終さいしゅうてき版籍はんせき奉還ほうかんさいはんちょう所在地しょざいちをもってはんめいとする規則きそく適用てきようされ、呼称こしょうこうむはんかんしてはにんはんごとまたはその直後ちょくごはんめい改称かいしょうされた[9]。よって加賀かがはん薩摩さつまはんなどの呼称こしょうはんめいさだまるまえには実際じっさい使つかわれた実績じっせきがある。

また、久保田くぼたはん江戸えど時代じだい藩主はんしゅ官位かんいとして「秋田あきた侍従じじゅう」があり、戊辰戦争ぼしんせんそうさいぐんめい由来ゆらいの「秋田あきたはん」を名乗なのり、「秋田あきたはんしるし」とするはんしるし明治めいじ政府せいふ提出ていしゅつしているが、はんちょう所在地しょざいちはんめいとする原則げんそく徹底てっていされたことにより、「久保田くぼたはん」が正式せいしき名称めいしょうとなった。はんとしては歴史れきしてき使つかわれた名称めいしょうである「秋田あきたはん」とばれることをねがい、城下町じょうかまち名称めいしょう久保田くぼたから秋田あきた変更へんこうしたうえで、はんめい久保田くぼたはんから秋田あきたはん改名かいめいしている。

明治めいじ時代じだい以降いこう歴史れきし用語ようごとしてはんめいもちいる場合ばあいなにかんするかで3とおりのとらかたがあり、それぞれにことなる命名めいめいほうとして併存へいそんしている[10]。その3つとは、所領しょりょうきゅうれいせいこく名義めいぎなど)、大名だいみょう城下町じょうかまちである[10]

  • たとえば「加賀かがはん」は、しゅたる所領しょりょうきゅうれいせいこくでいう「加賀かがこく」であることに由来ゆらいし、加賀かが地方ちほう以外いがいにもおおくの所領しょりょうちながら「加賀かが」のかんするもので、もっとひろ通用つうようしている名称めいしょうであるが、これとはべつに、大名だいみょう前田まえだ加賀かが前田まえだ)によっておさめられたことから「前田まえだはん」という名称めいしょう通用つうようしている。また、このはん中核ちゅうかくをなす城下町じょうかまち金沢かなざわ城下じょうか金沢かなざわじょう城下町じょうかまち)であったことにもとづいて「金沢かなざわはん」という名称めいしょうもちいられている。
  • たとえば「彦根ひこねはん」は、しゅたる所領しょりょうきゅうれいせい国名こくめいでいう「近江おうみこく」ではあるが、近江おうみ地方ちほういちはん代表だいひょうするには細分さいぶんされすぎており、そのかんすることはない。それよりも、きた近江おうみおさめるにあたって居城きょじょう佐和さわ山城やましろから彦根ひこねさん新城しんじょう彦根城ひこねじょう)にうつして政治せいじおよび地政学ちせいがくてき刷新さっしんはかったことが重要じゅうようで、彦根ひこね中核ちゅうかくたる城下町じょうかまち形成けいせいされたことにもとづいて「彦根ひこねはん」とばれることとなった。なお、彦根ひこねはんおさめたのは大名だいみょう井伊いい井伊いい掃部あたま)であるが、「井伊いいはん」とはばれず、「井伊いい彦根ひこねはん」という名称めいしょうがこれにわる。

ほんはんささえはん

江戸えど時代じだい藩主はんしゅ一族いちぞくが、おとうと庶子しょしなど、家督かとく相続そうぞく権利けんりもの所領しょりょう分与ぶんよする(ぶん)などしてあらたにはん成立せいりつさせることがあり、これをささえはんという。ささえはんたいしてぶんした藩主はんしゅはんほんはんという。藩主はんしゅ一族いちぞく以外いがい有力ゆうりょく家臣かしん所領しょりょうささえはんという場合ばあいがある。ただし、はん概念がいねん曖昧あいまいであるのと同様どうようささえはん概念がいねんも、成立せいりつ血縁けつえんであっただけであって幕府ばくふからは各々おのおの独立どくりつしたはんられていたものから、領内りょうないにおける比較的ひかくてき独立どくりつせいつよ領分りょうぶんまで、そのしめすものは確定かくていしているとはがたい。

インド・パキスタンのはん

脚注きゃくちゅう

注釈ちゅうしゃく

  1. ^ すで詩経しきょう春秋しゅんじゅうひだりでん用例ようれいがある。
  2. ^ 江戸えど時代じだいにおいても、書籍しょせきとうにおける通称つうしょうてき用法ようほうとして、薩摩さつまはんあつかった『麑藩名勝めいしょうこう』(1795ねん)や『薩藩名勝めいしょうこころざし』(1806ねん)、広島ひろしまはんあつかった『げいはんどおりこころざし』(1806ねん)などがられる。
  3. ^ a b 将軍家しょうぐんけより松平まつだいらせいたまわっている。「松平まつだいら#外様とざま大名だいみょう参照さんしょう

出典しゅってん

  1. ^ 漢字かんじ学者がくしゃ白川しらかわしずによると、「はん」という漢字かんじ意味いみは「せつぶんかい」では「へいなり」といい、藩屏はんぺい原義げんぎ垣根かきね)をめぐらして帝王ていおう守護しゅごするように地方ちほう属国ぞっこくはんんだのだという。たとえば春秋しゅんじゅうひだりでんでは「むかしたけおうしょうつ。なりおうこれさだめ、明徳めいとくえらてて、以ってしゅう藩屏はんぺいとす」とあるという。白川しらかわどおり平凡社へいぼんしゃ、1298ページ
  2. ^ たとえば漢書かんしょ諸侯しょこうおうひょうには「はんこくだいなるものは、しゅうまたがりぐんね、れんじょうすうひゃく宮室きゅうしつ百官ひゃっかんせい京師けいしおなじうす」とある。白川しらかわどおり平凡社へいぼんしゃ、1299ページ
  3. ^ 元来がんらいは「くに藩屏はんぺいとなる諸侯しょこう」の意味いみであった。白川しらかわどおり平凡社へいぼんしゃ、1299ページ
  4. ^ さん百藩藩主人名事典』(新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ)のように豊臣とよとみ政権せいけんにあたる関ヶ原せきがはらたたか当時とうじ存在そんざいしていた大名だいみょう領域りょういきおよびその支配しはい機構きこうたいしても「はん」をもちいている文献ぶんけんもある。さらさかのぼって、江戸えどまで存続そんぞくした織田おだ政権せいけん大名だいみょう支配しはい機構きこうについても「はん」をもちいる文献ぶんけんがある。たとえば、別所べっしょ但馬たじま八木はちぼくはんは1585ねんりつはんであるが、たてはん以前いぜんの1580ねん自刃じじんした別所べっしょ当主とうしゅ別所べっしょ長治ながはるについても「藩主はんしゅ長治ながはるの(辞世じせいは)『いまはただうらみもあらじ諸人もろびとのいのちにかはるおもえば』といういちしゅであって一命いちめいにかえてはんみんすく切々せつせつとしたうったえがむねつ」という用例ようれいがある(橋本はしもと哲二てつじしん西国さいこく巡礼じゅんれいてら保育ほいくしゃ)。また、1922ねん編纂へんさんの「青森あおもりけん」では青森あおもりけん歴史れきしを「藩政はんせい時代じだい以前いぜん」「藩政はんせい時代じだい」「近世きんせい時代じだい」のさん年代ねんだいけ、津軽つがる藩政はんせい時代じだいとして「もとかめ天正てんしょうちゅう津軽つがる為信ためのぶ蹶起けっきぐんちゅう統一とういつして以来いらい」とし、津軽つがる為信ためのぶ家督かとくいだひさしろく10ねん(1567ねん)を以って「藩政はんせい時代じだい」の記述きじゅつはじめとしている。ただしこれは津軽つがるはんりつはん(1590ねん以前いぜん史料しりょうきわめてすくなかったためであると青森あおもりけん編纂へんさん委員いいん序文じょぶんことわっており、織田おだ信長のぶなが上洛じょうらく以前いぜん戦国せんごく大名だいみょうを「はん」としょうすることはほとんい。
  5. ^ 近世きんせい国家こっか成立せいりつ藤野ふじのたもつちょ2002ねん吉川弘文館よしかわこうぶんかん・『はん深谷ふかや克己かつみちょ、2002ねん吉川弘文館よしかわこうぶんかんなど
  6. ^ 譜代ふだい大名だいみょう創出そうしゅつまくはん体制たいせい小宮山こみやま敏和としかずちょ、2015ねん吉川弘文館よしかわこうぶんかん、P15より引用いんよう
  7. ^ a b c 毛利もうりあれこれ 〜毛利もうり博物館はくぶつかん収蔵しゅうぞう資料しりょう歴史れきしばなし〜だい254かい - 毛利もうり博物館はくぶつかん館長かんちょう代理だいり 柴原しばはら直樹なおき(ほっぷ 2015ねん8がつ7にちごう - 地域ちいき情報じょうほう新聞しんぶんしゃ
  8. ^ たとえば、毛利もうり博物館はくぶつかん所蔵しょぞうされている毛利もうりたかしおやあて任命にんめいしょには「山口やまぐちはん知事ちじ」と明記めいきされている。
  9. ^ 森谷もりたにしげるあきら, 「明治めいじ初年しょねんにおけるはんけん駒沢こまざわ史学しがく, (14), 1-21 (1967).
  10. ^ a b 江戸えど幕府ばくふ崩壊ほうかいろん藤野ふじのたもつちょ2008ねんはなわ書房しょぼう

関連かんれん項目こうもく

外部がいぶリンク