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百姓 - Wikipedia

百姓ひゃくしょう

農業のうぎょう従事じゅうじしゃ農家のうか農民のうみん)のことかたり

百姓ひゃくしょう(ひゃくしょう)とは、農業のうぎょう従事じゅうじしゃ農家のうか農民のうみん)のことかたり[1][2]。そのほか、江戸えど時代じだいにおけるほん百姓ひゃくしょうのことや、あかぬけないひと情趣じょうしゅほぐさないひとたいする侮蔑ぶべつでもある[3]

百姓ひゃくしょう(ひゃくせい)は、一般いっぱん人民じんみん[4]庶民しょみん[4]おおくの役人やくにんまたは人民じんみんこと漢語かんご由来ゆらいする[1][2]ほんこう#漢語かんごとしての語義ごぎ日本にっぽんでの変遷へんせん説明せつめい


ほんこうでは、百姓ひゃくしょう語義ごぎ変遷へんせんとも日本にっぽん史上しじょうにおける百姓ひゃくしょうないし農民のうみんについて記述きじゅつする。西洋せいようにおける農民のうみん(peasant)については「農民のうみん」を、現代げんだい農業のうぎょう従事じゅうじしゃについては「農家のうか」を参照さんしょうされたい。

漢語かんごとしての語義ごぎ日本にっぽんでの変遷へんせん

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中国ちゅうごく

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しゅうだいから春秋しゅんじゅう時代じだいには、とく古来こらいの「ひめ」や「きょう」といったぞく集団しゅうだんめいでもある「せい」をきょう大夫たいふそうそうだい以降いこう科挙かきょ試験しけんエリートを教養きょうよう階層かいそうではなく、古代こだい都市とし国家こっか社会しゃかい部族ぶぞく社会しゃかい社会しゃかい秩序ちつじょ体現たいげんする族長ぞくちょう階層かいそう)をしめかたりであった。その戦国せんごく時代じだい都市とし国家こっかから領域りょういき国家こっか青銅器せいどうき時代じだいから鉄器てっき時代じだいけてのはげしいひと移動いどうともな社会しゃかい変動へんどうぞく集団しゅうだん解体かいたいし、庶民しょみんでも家族かぞくめいである「」と本来ほんらいの「せい」の混同こんどうすすみ、庶民しょみんでもほとんどせいつとされるようになった。

そのため、百姓ひゃくしょうかたりは「天下てんか万民ばんみん民衆みんしゅう一般いっぱん」を意味いみ転化てんかした。民衆みんしゅう意味いみする百姓ひゃくしょうは、『論語ろんご』・『えき』など戦国せんごく時代じだい現在げんざいかたち編集へんしゅうされたと推定すいていされる書物しょもつから、しきされる。その今日きょうまで意味いみおおきく変化へんかすることはなく、現在げんざい中国ちゅうごくでもろう百姓ひゃくしょうといえば、一般いっぱん庶民しょみん人民じんみん大衆たいしゅう)のことをす。

日本にっぽん

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日本にっぽんにおいても当初とうしょ中国ちゅうごくおな天下でんか万民ばんみんかたりであった。しかし、古代こだい末期まっき以降いこう多様たよう生業せいぎょう従事じゅうじする特定とくてい身分みぶん呼称こしょうとなり、具体ぐたいてきには支配しはいしゃそう在地ざいち社会しゃかいにおいて直接ちょくせつ把握はあく対象たいしょうとした社会しゃかい階層かいそう百姓ひゃくしょうとされた。この階層かいそう現実げんじつには農業のうぎょう経営けいえい従事じゅうじするもののみならず、商業しょうぎょう手工業しゅこうぎょう漁業ぎょぎょうなどの経営けいえいしゃ包括ほうかつしていた。だが、中世ちゅうせい以降いこう次第しだい百姓ひゃくしょう本分ほんぶんのうとすべきとする、実態じったいとはかならずしも符合ふごうしない農本主義のうほんしゅぎてき理念りねん浸透しんとう普及ふきゅうし、明治めいじ時代じだい以降いこうは、一般いっぱんてき農民のうみんことすと理解りかいされるようになった。

なお、本来ほんらい意味いみもちいる漢文かんぶんくだおよ日本にっぽん古代こだい用例ようれいには漢音かんおん呉音ごおん混交こんこうした「ひゃくせい」、日本にっぽん中世ちゅうせい以降いこう用例ようれいには呉音ごおんの「ひゃくしょう」のみをてるのが慣例かんれいである。純粋じゅんすい漢音かんおん発音はつおんした場合ばあいは「はくせい」となる。日本にっぽん固有こゆう大和言葉やまとことばでは、「天皇てんのういつくしむべき天下てんかおおいなるたからである万民ばんみん」を意味いみする、「おおみたから」の和訓わくんがふられている。

以下いか日本にっぽんにおける百姓ひゃくしょうぞう変遷へんせんしるす。

律令りつりょう国家こっか

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古代こだいにおいては律令制りつりょうせいのもとで戸籍こせきに「りょう」と分類ぶんるいされたゆうせい階層かいそう全体ぜんたい、すなわち貴族きぞくかんじん公民こうみん雑色ざっしょくじんしなおよざつ)が百姓ひゃくしょうであり、天皇てんのうおよび「しず」とされたせい奴婢ぬひなどの賎民せんみんおよがいみんとされた蝦夷えぞなどを除外じょがいした概念がいねんであった。百姓ひゃくしょうぞくするみん主体しゅたいであった公民こうみんは、平安へいあん時代じだい初期しょきまでは古来こらい地方ちほう首長しゅちょうそう末裔まつえいである郡司ぐんじそうによって編成へんせいされ、国衙こくがにおける国司こくし各国かっこく統治とうち徴税ちょうぜい事務じむもこの郡司ぐんじそうつうじてされた。

しかし8世紀せいきすえ以降いこう律令りつりょうによる編戸あみどせいはん田制たせいによる公民こうみん支配しはい次第しだい弛緩しかん、さらには弥生やよい古墳こふん時代じだい以来いらい地方ちほう首長しゅちょうそう地域ちいき編成へんせいりょく没落ぼつらく並行へいこうして首長しゅちょうそうからの郡司ぐんじ登用とうようによるみん支配しはい編成へんせい機構きこう崩壊ほうかいし、あらたに富豪ふごうばれる産業さんぎょう経営けいえい成功せいこうしてとみ蓄積ちくせきした土着どちゃく国司こくし子弟してい郡司ぐんじ有力ゆうりょく農民のうみんらに出自しゅつじするものたちがわたしきょによっておおくの公民こうみん私的してき隷属れいぞく関係かんけいした関係かんけい成立せいりつしていく。

前期ぜんき王朝おうちょう国家こっか

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そのため、国衙こくが国司こくし四等官しとうかん全員ぜんいん郡司ぐんじそうかいして戸籍こせき登録とうろくされた公民こうみん単位たんい徴税ちょうぜいおこなうのではなく、筆頭ひっとう国司こくしたる受領じゅりょう富豪ふごうそう把握はあくしてかれらから徴税ちょうぜいおこなうようになった。この変化へんか9世紀せいきすえ宇多天皇うだてんのうから醍醐天皇だいごてんのうにかけての国政こくせい改革かいかく基準きじゅんこく登録とうろくされた公田くでん面積めんせき富豪ふごうそうあてて、この面積めんせきおうじて徴税ちょうぜいする機構きこうとして結実けつじつした。これによって10世紀せいき以降いこう律令りつりょう国家こっか王朝おうちょう国家こっか前期ぜんき王朝おうちょう国家こっか)に変質へんしつげた。ここで公田くでん請作の単位たんいとしてさい編成へんせいされた公田くでん名田なだ、請作登録とうろくしゃまけめい(ふみょう)とび、まけめいとして編成へんせいされた富豪ふごう(たと)とんだ。こうして形成けいせいされたまけめいそうがこの時代じだい以降いこう百姓ひゃくしょう身分みぶん形成けいせいした。百姓ひゃくしょう蓄積ちくせきした経営けいえい資源しげんたる動産どうさん背景はいけいにして請作面積めんせきおうじた納税のうぜい責任せきにんうが、移動いどう居住きょじゅう自由じゆうゆうする自由じゆうみんであった。かれらのした編成へんせいされた自由じゆうみん下人げにん従者じゅうしゃところしたがえらがいた。

律令りつりょう国家こっかにおいては戸籍こせき登録とうろくされたぜん公民こうみん国家こっか直接ちょくせつ把握はあく対象たいしょうとなりそれがすなわち百姓ひゃくしょうであったが、王朝おうちょう国家こっかにおいては国家こっか把握はあくする必要ひつようかんじたのはみん組織そしき編制へんせいしてぜいまけめいそうだけとなり、それがすなわち百姓ひゃくしょうとなった。換言かんげんすれば、まけめいそうした編成へんせいされた下人げにん従者じゅうしゃところしたがえらは国家こっか関心かんしん埒外らちがいとなったともえよう。また、国家こっか権力けんりょく領主りょうしゅ権力けんりょく把握はあく対象たいしょうとして関心かんしんしめ範囲はんい階層かいそうこそが百姓ひゃくしょうであるという事態じたいは、以後いご歴史れきしにおいても基本きほんせんとなっていくことに注目ちゅうもくしてよい。

前期ぜんき王朝おうちょう国家こっかにおいて、まけめいそう在庁ざいちょうかんじんとして国衙こくが行政ぎょうせい実務じつむ協力きょうりょくする一方いっぽうで、しばしばいちこく単位たんい結集けっしゅうして朝廷ちょうていへの上訴じょうそ受領じゅりょう襲撃しゅうげきといったはん受領じゅりょう闘争とうそうおこなった。かれらの鎮圧ちんあつ調停ちょうていにな軍事ぐんじ担当たんとう実務じつむかんじんとして武士ぶし誕生たんじょうした。しかしこの時期じき武士ぶしはまた、みずからもまけめいとして軍人ぐんじんとしての経済けいざい基盤きばん保証ほしょうされる存在そんざいであった。

後期こうき王朝おうちょう国家こっか

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11世紀せいきなかばになると、朝廷ちょうてい内裏だいり造営ぞうえいなどを目的もくてきとした臨時りんじ課税かぜい目的もくてき全国ぜんこくいちこく平均へいきんやくすことがしばしばおこなわれるようになった。そのため公認こうにん荘園しょうえんへの課税かぜい可能かのうにするため、荘園しょうえん公認こうにん領域りょういき統合とうごうする一円いちえんおこなわれた。これによって体制たいせい国衙こくが支配しはいするおおやけりょう荘園しょうえん対等たいとう権利けんり主体しゅたいとして境界きょうかい設定せっていなどで抗争こうそうする後期こうき王朝おうちょう国家こっかへと変化へんかする。これ以後いご荘園しょうえんおおやけりょう単位たんいとした社会しゃかい構造こうぞう荘園しょうえんこうりょうせいぶ。

百姓ひゃくしょう、すなわちまけめいそうおおやけりょうぞくするもの荘園しょうえんぞくするものかれ、荘園しょうえんおおやけりょうあいだ武力ぶりょくこうそう当事とうじしゃとなった結果けっか前期ぜんき王朝おうちょう国家こっかられたようないちこく単位たんい結集けっしゅうする闘争とうそう形態けいたい急速きゅうそく消滅しょうめつした。

公認こうにんいちえんした荘園しょうえんからのいちこく平均へいきんやくそうかんつうじて徴税ちょうぜいされたが、それに対応たいおうしておおやけりょうあらたにぐんさと単位たんい地域ちいき再編さいへんおこなわれ、徴税ちょうぜい警察けいさつ裁判さいばん責任せきにんしゃとしての郡司ぐんじ郷司ごうし保司やすしかれ、かれらをつうじて徴税ちょうぜいおこなわれた。そうかん郡司ぐんじ郷司ごうし保司やすし荘園しょうえんおおやけりょうあいだ武力ぶりょく抗争こうそうえうる人物じんぶつ期待きたいされるようになり、古来こらい郡司ぐんじ一族いちぞく失脚しっきゃくして武士ぶしがそのにんてられることがおおくなっていく。こうしてそうかん郡司ぐんじ郷司ごうし保司やすし資格しかくのもと、武士ぶし在地ざいち領主りょうしゅとして国内こくない百姓ひゃくしょう支配しはいおこなかたち確立かくりつする。

中世ちゅうせい

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うけたまわ寿ことぶきひさしらんによってみなもと頼朝よりとも鎌倉かまくら殿どのとなり鎌倉かまくら幕府ばくふひらくと、鎌倉かまくら殿どの臣従しんじゅうした武士ぶしである御家人ごけにんをこれまでの郡司ぐんじ郷司ごうしそうかんえて地頭じとう任命にんめいした。かれらは御家人ごけにんとしては鎌倉かまくら殿どの奉仕ほうしし、地頭じとうとしては従来じゅうらい郡司ぐんじ郷司ごうしそうかんにんいで、徴税ちょうぜい警察けいさつ裁判さいばん責任せきにんしゃとして国衙こくが荘園しょうえん領主りょうしゅ奉仕ほうしした。この体制たいせい荘園しょうえんおおやけりょう軍事ぐんじ衝突しょうとつ収束しゅうそくむかえた。荘園しょうえんおおやけりょう前代ぜんだいつづ名田なだ分割ぶんかつ編成へんせいされ、百姓ひゃくしょうはこの名田なだ名主なぬし補任ほにん(ぶにん)されて年貢ねんぐ(ねんぐ)、公事こうじ(くじ)、夫役ぶやく(ぶやく)の納入のうにゅう責任せきにんった。名主なぬし百姓ひゃくしょうはさらに小百姓こびゃくしょう小作こさくじんあいだじん(もうと)といった領内りょうない下層かそうみんたいする支配しはいけんである名主なぬししょくゆうし、これを世襲せしゅうした。また室町むろまち時代ときよ教科書きょうかしょ相当そうとうする庭訓ていきん往来おうらいには「公家くげ廿にじゅう武家ぶけはちじゅう末裔まつえいりて庶民しょみんるのあいだ百姓ひゃくしょうう。神武じんむ天皇てんのう太子たいしよんにんり。刹利、なみもん、毘沙、こと陀とごうす。刹はいま公家くげ也。なみ武家ぶけ、毘は商人しょうにんこと百姓ひゃくしょう也。」と注釈ちゅうしゃくがあり、当時とうじ時代じだい思想しそう背景はいけいとした内容ないようであるが、職人しょくにんてこないのが注目ちゅうもくされる。

近世きんせい

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百姓ひゃくしょう農民のうみん同義どうぎとするかんがかた日本人にっぽんじんなか浸透しんとうはじめたのは江戸えど時代じだいだった。江戸えど中期ちゅうき儒者じゅしゃ伊藤いとう東涯とうがいはその著書ちょしょなかで「のう百姓ひゃくしょうノコト也」としるし、農夫のうふに「ヒヤクセウ」というくんをつけている。[5]

江戸えど時代じだいには、(1)田畑たはたと(2)家屋かおく敷地しきち所持しょじし(検地けんちちょうめい請人うけにん)、(3)年貢ねんぐと(4)しょやく両方りょうほう負担ふたんするもの百姓ひゃくしょうほん百姓ひゃくしょうやく)とした(「初期しょきほん百姓ひゃくしょう」)。なお、百姓ひゃくしょう戦時せんじにおいては小荷駄こにだなどを運搬うんぱんする(5)じん夫役ぶやく負担ふたんするものとされた。しかし、初期しょき前期ぜんき村落そんらくないでは前代ぜんだい階層かいそうおおきく、(1)(2)(3)(4)(5)のどれかをいえ小百姓こびゃくしょうあるいは多様たよう隷属れいぞくみん)も多数たすう存在そんざいしていた。やくせい地域ちいきでは、賦役ふえき負担ふたんするりょう種類しゅるいによって、ほんやくはんやくよんしょうはんやくみずやくなどにかれている場合ばあいもある。

 
百姓ひゃくしょうぞく農人のうにんという)
(『和漢わかんさんさい図会ずえ』(正徳まさのり2ねん1712ねん成立せいりつ)より)

変遷へんせん

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江戸えど幕府ばくふをはじめとした領主りょうしゅは、このようなほん百姓ひゃくしょうすう維持いじ増加ぞうかつとめ、平和へいわつづいたことによる社会しゃかい安定あんていによって耕地こうち開発かいはつすすんでいった。次第しだいほん百姓ひゃくしょう分家ぶんけ隷属れいぞくみんの「自立じりつすすみ、17世紀せいきなか以降いこうには、むら請制村落そんらく確立かくりつしていき、(1)田畑たはたや(2)家屋かおく敷地しきち所持しょじするこう百姓ひゃくしょうほん百姓ひゃくしょうであると観念かんねんされるようになった。初期しょきほん百姓ひゃくしょうむらない影響えいきょうりょく依拠いきょしなければ年貢ねんぐしょやくあつめることがむずかしかったが、むら請制に依拠いきょできる体制たいせい完成かんせいしたと評価ひょうかすることもできる。

しかし、原理げんりてきには(1)(2)(3)(4)(5)の条件じょうけん貫徹かんてつしていた。たとえば、村落そんらくけがれしょうされるものなかには、こうものがいた。かれらはそのだかおうじた(3)年貢ねんぐと(4)しょやく(の一部いちぶ)を負担ふたんしたが、(5)じん夫役ぶやく負担ふたんしないので、百姓ひゃくしょうではなかった。また、山村さんそんうみづけ村落そんらくには(1)田畑たはたのない村落そんらく集落しゅうらく)も存在そんざいした。そのようなむらでも(2)家屋かおく敷地しきちかならずあり、それらを所持しょじするこう百姓ひゃくしょうほん百姓ひゃくしょうとされた。

江戸えど時代じだいちゅう後期こうき社会しゃかい変動へんどうによって、百姓ひゃくしょう内部ないぶでの貧富ひんぷ拡大かくだいしていくようになる(「農民のうみんそう分解ぶんかい」)。こうもちから転落てんらくした百姓ひゃくしょう水呑百姓みずのみびゃくしょう借家しゃくやなどとぶようになった。その一方いっぽうとみ蓄積ちくせきした百姓ひゃくしょうは、村方むらかた地主じぬしから豪農ごうのう成長せいちょうしていった。また、村役人むらやくにんつとめる百姓ひゃくしょう大前おおまえ百姓ひゃくしょう、そのような役職やくしょくかない百姓ひゃくしょう小前こまえ百姓ひゃくしょうぶようになった。

多様たよう生業せいぎょう

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実際じっさい村落そんらくには多様たよう生業せいぎょうものんでいた。百姓ひゃくしょう農民のうみんというイメージは江戸えど時代じだいからつづふる俗説ぞくせつであるが、実際じっさいには現代げんだいの「兼業けんぎょう農家のうか」よりもひろ生業せいぎょうふくんでいる。

  • しょ職人しょくにん
    • 大工だいく鍛冶たんやは、職人しょくにん身分みぶんぞくするものいとな場合ばあい水呑みずのみ借家しゃくやあるいは百姓ひゃくしょういとな場合ばあい、があった。
    • 木挽こびき屋根やね左官さかん髪結かみゆ畳屋たたみやは、水呑みずのみ借家しゃくやあるいは百姓ひゃくしょういとなんだ。
  • 宗教しゅうきょうしゃ
    • 神職しんしょく江戸えど時代じだいにおいては、吉田よしだ白川しらかわはく)が本所ほんじょとして全国ぜんこく神社じんじゃ神職しんしょく配下はいかにしようと争奪そうだつしあう状況じょうきょうにあった。しかし、幕末ばくまついたっても両家りょうけによる全国ぜんこく編成へんせい完了かんりょうせず、百姓ひゃくしょう身分みぶんのまま神職しんしょくつとめる「百姓ひゃくしょう神主かんぬし」がかなりの割合わりあい存在そんざいしていた。神職しんしょく身分みぶん獲得かくとくしたい百姓ひゃくしょう神主かんぬし百姓ひゃくしょう身分みぶんめたい村落そんらくがわとの意向いこうことなる場合ばあいがあり、百姓ひゃくしょう神主かんぬし村落そんらくとが裁判さいばんかえすこともあった。その一方いっぽうで、本所ほんじょ配下はいかになることを忌避きひする百姓ひゃくしょう神主かんぬし存在そんざいした。
    • 僧侶そうりょ:すべて僧侶そうりょ身分みぶんである。
    • 修験しゅげん
  • ざつげいみん
  • 医者いしゃ水呑みずのみ借家しゃくやあるいは百姓ひゃくしょういとなむことがおおかった。しかし、領主りょうしゅとの関係かんけい、あるいは出自しゅつじなどの由緒ゆいしょによって「浪人ろうにん」としてあつかわれる場合ばあいもあった。
  • 商人しょうにん水呑みずのみ借家しゃくやあるいは百姓ひゃくしょういとなんだ。江戸えど時代じだいには商人しょうにん身分みぶん存在そんざいせず、士農工商しのうこうしょうの「しょう」は町人ちょうにんした。
  • 漁民ぎょみん水呑みずのみ借家しゃくやあるいは百姓ひゃくしょういとなんだ。江戸えど時代じだいには「漁民ぎょみん身分みぶん成立せいりつしなかった。

以上いじょうのように、村落そんらくにはさまざまな生業せいぎょう生計せいけいてているものたちが存在そんざいしていた。かれらがどの身分みぶん集団しゅうだんぞくするのかは、身分みぶん集団しゅうだん編成へんせいする本所ほんじょ動向どうこう身分みぶん集団しゅうだん自体じたい成熟せいじゅく左右さゆうされることがわかる。その生業せいぎょう種類しゅるいとともに、時期じき地域ちいきによるおおきかったのである。

近代きんだい

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明治めいじ時代じだい初期しょき農民のうみんたち

前述ぜんじゅつのように、百姓ひゃくしょう農業のうぎょう以外いがい複数ふくすう生業せいぎょうこと家計かけい維持いじしてきたが、明治めいじ時代じだいになり国策こくさくとして近代きんだいてき紡績ぼうせきおこなわれるようになると、百姓ひゃくしょう副業ふくぎょうとして養蚕ようさんさかんにおこなわれるようになった[6]。その物流ぶつりゅう発達はったつし、都市とし人口じんこう集中しゅうちゅうするようになると、しょく需要じゅようたすために養鶏ようけい単一たんいつ種類しゅるい野菜やさい栽培さいばいなどが副業ふくぎょうとなった。せんあいだまでには日本にっぽん各地かくちで、それまでさまざまにおこなわれてきた生業せいぎょう農業のうぎょう集約しゅうやくされ、百姓ひゃくしょう農家のうかへと変化へんかしていった[6]

マルクス経済けいざいがくにおける農民のうみん階層かいそう区分くぶん

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  1. かなりおおきな農業のうぎょう経営けいえいを、しばしばのうがい営業えいぎょう山林さんりん所有しょゆうなどともむすびつけ、家族かぞく労働ろうどうりょくだけでなく、一定いってい雇用こよう労働ろうどうりょく恒常こうじょうてきやとれ、搾取さくしゅ可能かのうせいをもつさい上層じょうそうのいわゆるブルジョワてき農民のうみんとしての富農ふのう
  2. 通常つうじょうてきにはその農業のうぎょう収入しゅうにゅうだけで生活せいかつをようやく維持いじし、やとやとわれる関係かんけい多少たしょうあっても、ほぼ相殺そうさいする程度ていどのいわゆるしょうブルジョワとして典型てんけいてきな、しかも上向うわむき零落れいらく分岐ぶんきてんつ、きわめて不安定ふあんてい存在そんざいである中農ちゅうのう
  3. 農業のうぎょう経営けいえいおこなうが、きわめて零細れいさいなため、生計せいけい補充ほじゅうちん労働ろうどう収入しゅうにゅうないしそれに類似るいじ勤労きんろう収入しゅうにゅう不可欠ふかけつとする、いわゆるはんプロレタリア農民のうみんである貧農ひんのう
  4. 耕地こうちをまったくもたないか、あってもごくわずかで、その生活せいかつしゅとして農業のうぎょう内外ないがいちん労働ろうどうによって維持いじするいわゆるプロレタリア(無産むさんしゃ)としての性格せいかくをもった農村のうそん労働ろうどうしゃ[7]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b 小林こばやし信明のぶあき新選しんせん漢和かんわ辞典じてん』(「常用じょうようしん小学館しょうがくかん、1982ねん1がつ20日はつかISBN 4-09-501453-9 
  2. ^ a b 阿部あべ吉雄よしお旺文社おうぶんしゃ漢和かんわ辞典じてん』(じゅう旺文社おうぶんしゃ、1969ねん3がつ1にち 
  3. ^ 百姓ひゃくしょう(ひゃくしょう) goo国語こくご辞典じてん
  4. ^ a b 百姓ひゃくしょう(ひゃくせい) goo国語こくご辞典じてん
  5. ^ 網野あみの善彦よしひこちょ歴史れきしかんがえるヒント』84-86ぺーじ
  6. ^ a b 湯澤ゆざわ規子のりこ胃袋いぶくろ近代きんだいしょくひとびとの日常にちじょう名古屋大学出版会なごやだいがくしゅっぱんかい 2018ねんISBN 9784815809164 pp.211-215.
  7. ^ 大橋おおはし隆憲たかのり編著へんちょ日本にっぽん階級かいきゅう構成こうせい』(岩波いわなみ新書しんしょ1971ねん)114-115ぺーじ

関連かんれん項目こうもく

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