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地頭 - Wikipedia

地頭じとう

鎌倉かまくら室町むろまち幕府ばくふ役職やくしょく

地頭じとう(じとう)は、鎌倉かまくら幕府ばくふ室町むろまち幕府ばくふ荘園しょうえん国衙こくがりょうおおやけりょう)を管理かんり支配しはいするために設置せっちしたしょく地頭じとうしょくという。守護しゅごとともに設置せっちされた。

平安へいあん時代じだいたいら政権せいけん以前いぜん)には、荘園しょうえん領主りょうしゅ国司こくし知行ちぎょう国主こくしゅ)が、所有しょゆうする荘園しょうえん国衙こくがりょうおおやけりょう)を現地げんち管理かんり領主りょうしゅ年貢ねんぐおさめるしょくそうかん下司げす郡司ぐんじ郷司ごうし保司やすし)を任命にんめいしたが、鎌倉かまくら時代ときよにはみなもと頼朝よりともがそのしょく任命にんめいけんつこととなり、朝廷ちょうていみとめた[1]鎌倉かまくら幕府ばくふはこれを地頭じとうしょくぶこととし、御家人ごけにんから任命にんめいし、領主りょうしゅへは年貢ねんぐおさめることを保証ほしょうした。

在地ざいち御家人ごけにんなかからえらばれ、荘園しょうえんおおやけりょうにおいて武力ぶりょくもとづき軍事ぐんじ警察けいさつ徴税ちょうぜいけんつこととなり、御家人ごけにん実質じっしつてき所領しょりょうとしてみとめることとなった。また、江戸えど時代じだいにも領主りょうしゅのことを地頭じとうんだ。

概要がいよう

編集へんしゅう

          (頼朝よりとも花押かおう
した  伊勢いせこくなみ出御しゅつぎょくりや
 補任ほにん  地頭じとうしょくごと
      ひだり兵衛ひょうえじょうおもんみそう忠久ただひさ
みぎけんしょしゃ出羽守でわのかみ平信へいしんけん党類とうるいりょう也。
而信けんはつ謀反ぼうほんれい追討ついとう畢。仍任先例せんれい
ためれいつとむつかまつ公役こうえきところ地頭じとうしょく也。はやためかれしょく
沙汰さたじょう如件。以下いか
   もとこよみねんろくがつじゅうにち

以上いじょうは、おもんみそう忠久ただひさ平信へいしんけん追討ついとうなみ出御しゅつぎょくりや伊勢いせこく地頭じとうしょく補任ほにんする内容ないようみなもと頼朝よりともによるしたぶん

幕府ばくふ御家人ごけにん所領しょりょう支配しはい保証ほしょうすることを本領ほんりょう安堵あんど(ほんりょうあんど)といい、幕府ばくふあらたに所領しょりょうあたえることをしんおん給与きゅうよ(しんおんきゅうよ)というが、いずれも地頭じとうしょくへの補任ほにんという手段しゅだんつうじておこなわれた。地頭じとうしょくへの補任ほにんは、所領しょりょうそのものの支給しきゅうではなく、所領しょりょう管理かんり支配しはい権限けんげんみとめることを意味いみしていた。所領しょりょうめぐ紛争ふんそうところつとむ沙汰さた)のさいには、幕府ばくふ保証ほしょうする地頭じとう地位ちいだけではかならずしも十分じゅうぶんではない場合ばあいもあり、地頭じとうなかには荘園しょうえん領主りょうしゅ国司こくしからそうかん郡司ぐんじ郷司ごうし保司やすしとして任命にんめいされるものすくなくなかった。ぎゃくに、近衛このえいえであったおもんみそう忠久ただひさが、頼朝よりとも推薦すいせん島津しまつそう下司げすしょく就任しゅうにんもとこよみ2ねん(1185ねん)8がつ17にち[2])したのち同地どうち惣地そうちあたまにんじられたれいもある。つまり地頭じとうは、幕府ばくふおよ荘園しょうえん領主りょうしゅ国司こくしからのじゅう支配しはいけていたとることもできるわけである。実際じっさいに、幕府ばくふさだめた法典ほうてん成敗せいばい式目しきもくには、荘園しょうえん領主りょうしゅへの年貢ねんぐ未納みのうがあった場合ばあいには地頭じとうしょく解任かいにんするといった条文じょうぶんもあった。むしろ、幕府ばくふ直属ちょくぞくする武士ぶし御家人ごけにん地頭じとう両方りょうほう側面そくめんち、御家人ごけにんとしての立場たちば鎌倉かまくら殿どのへの奉仕ほうしであり、地頭じとうしょくは、徴税ちょうぜい警察けいさつ裁判さいばん責任せきにんしゃとして国衙こくが荘園しょうえん領主りょうしゅ奉仕ほうしする立場たちばであったとする解釈かいしゃくもある。

鎌倉かまくら幕府ばくふ成立せいりつ段階だんかいでは、荘園しょうえん領主りょうしゅ国司こくし権力けんりょく依然いぜんとしてつよく、一方いっぽう地頭じとう任命にんめいされた武士ぶし現地げんち事情じじょう識字しきじ行政ぎょうせいうと東国とうごく出身しゅっしんしゃおおかった。このため、独力どくりょく遠隔えんかく荘園しょうえん経営けいえいたれる現地げんち沙汰さたじん準備じゅんびし、年貢ねんぐ運搬うんぱん準備じゅんび荘園しょうえん領主りょうしゅがわとの交渉こうしょう年貢ねんぐけつかい算用さんようなどの事務じむてき能力のうりょく(またはそれが出来でき人材じんざい)を必要ひつようとした。伊勢いせこく治田はった御厨みくりや地頭じとう補任ほにんされながら、現地げんち沙汰さたじん荘園しょうえん領主りょうしゅである伊勢神宮いせじんぐう対立たいりつして処分しょぶんされた畠山はたけやま重忠しげただ千葉ちばたねただし里見さとみ義成よしなりひとしたいして「現地げんちだい代官だいかん)がられないならば、(しんおんの)領地りょうちいただくべきではない」とべている(『吾妻あづまきょう文治ぶんじ3ねん10がつ4にちじょう)。このため、大江広元おおえのひろもと一条いちじょうのうおもんみそう忠久ただひさなど京都きょうと出身しゅっしんかんじんいえ経験けいけんしゃ戦功せんこうとは無関係むかんけいにその事務じむ能力のうりょくによって地頭じとう補任ほにんされたれいられる[3]

しかし、地頭じとう補任ほにんけん解任かいにんけん幕府ばくふだけがゆうしており、荘園しょうえん領主りょうしゅ国司こくしにはその権限けんげんがなかった。そのため、地頭じとうはその地位ちい背景はいけいに、すすむのう実施じっしなどをとおして荘園しょうえんおおやけりょう管理かんり支配しはいけん徐々じょじょうばっていった。具体ぐたいてきには、地頭じとう様々さまざま理由りゆうをつけては荘園しょうえん領主りょうしゅ国司こくしへの年貢ねんぐ滞納たいのう横領おうりょうし、両者りょうしゃあいだ紛争ふんそうしょうじると、毎年まいとし一定いっていがく年貢ねんぐ納入のうにゅう荘園しょうえん管理かんり地頭じとう(じとううけ)をおこなうようになった。地頭じとう請は、不作ふさくとしでも約束やくそくがく領主りょうしゅ国司こくし納入のうにゅうするといったリスクをってはいたが、一定いっていがく年貢ねんぐほか自由じゆう収入しゅうにゅうとすることができたため、地頭じとう無法むほう重税じゅうぜい多大ただい利益りえき搾取さくしゅするケースがおおかった。そして、この制度せいどにより地頭じとう荘園しょうえんおおやけりょう徐々じょじょ横領おうりょうしていった。

それでも荘園しょうえん領主りょうしゅ国司こくし約束やくそくがく納入のうにゅうしない地頭じとうがいたため、荘園しょうえんおおやけりょう領域りょういき自体じたい地頭じとう領主りょうしゅ国司こくし折半せっぱんする中分なかぶん(ちゅうぶん)がおこなわれることもあった。中分なかぶんには、両者りょうしゃ談合だんごうあずか)で決着けっちゃくするあずか中分なかぶん(わよちゅうぶん)や、荘園しょうえんおおやけりょう境界きょうかいいて完全かんぜん分割ぶんかつする下地したじ中分なかぶん(したじちゅうぶん)があった。

地頭じとうは、居館きょかん堀内ほりうち:ほりうちとうしょうした)の周辺しゅうへん直営ちょくえい保有ほゆうしていた。平安へいあん鎌倉かまくら慣習かんしゅうでは、居館きょかん年貢ねんぐ公事こうじ免除めんじょされる土地とちとされており、それを根拠こんきょとして、地頭じとう居館きょかん周辺しゅうへん免税めんぜいとして直営ちょくえいするようになった。この直営ちょくえいは、つくだ(つくだ)、御作みつくり(みつくり)、せいさく(しょうさく)、門田かどた(かどた)などとばれ、地頭じとう保有ほゆうする農奴のうどである下人げにん(げにん)やところしたがえ(しょじゅう)、また小作こさくそうみん耕作こうさくをさせていた。この直営ちょくえいからの収入しゅうにゅうは、そのまま地頭じとう利得りとくとなった。

以上いじょうのような地頭じとう請・下地したじ中分なかぶん直営ちょくえい拡大かくだいは、地頭じとう荘園しょうえん国衙こくがりょう土地とち支配しはいけん下地しもじすすむとめけん)へ侵出しんしゅつしていったことをあらわす。当然とうぜん荘園しょうえん領主りょうしゅ地頭じとううごきに対抗たいこうしていたが、全般ぜんぱんてきると地頭じとう侵出しんしゅつ加速かそくしていった。こうしたながれは、地頭じとうによるいちえん知行ちぎょうへとすすみ、次第しだい荘園しょうえんこうりょうせい解体かいたいすすめたのである。

地頭じとう元来がんらい現地げんちという意味いみち、在地ざいち荘園しょうえんおおやけりょう管理かんり治安ちあん維持いじたることを任務にんむとしていた。おおくの地頭じとう任務にんむ在住ざいじゅうし、在地ざいち管理かんりおこなっていた。しかし、有力ゆうりょく御家人ごけにんなどは、幕府ばくふ役職やくしょくち、将軍しょうぐん伺候しこうしなければならず、鎌倉かまくら居住きょじゅうするものおおかった。そうした有力ゆうりょく御家人ごけにんは、自分じぶん親族しんぞく家臣かしん現地げんち派遣はけんして在地ざいち管理かんりおこなわせていた。親族しんぞく管理かんりさせた場合ばあい御家人ごけにん惣領そうりょう)とその親族しんぞく庶子しょし)とのあいだ所領しょりょうめぐそうろん発生はっせいすることもあり、親族しんぞく地頭じとうしょく譲渡じょうとするケースもあった。

地頭じとう在地ざいち管理かんりのありかたると、荘園しょうえん領主りょうしゅことなるてんられる。地頭じとう武士ぶしなので、紛争ふんそうなどを暴力ぼうりょくてき解決かいけつした。著名ちょめい紀伊きいこくおもねかわそう(あてがわのしょう)百姓ひゃくしょう訴状そじょう[4]は、百姓ひゃくしょう地頭じとう湯浅ゆあさはじめおやほうのせいで年貢ねんぐ材木ざいもく納入のうにゅうおくれたことを荘園しょうえん領主りょうしゅ釈明しゃくめいした文書ぶんしょであるが、そうちかし百姓ひゃくしょう強引ごういん徴発ちょうはつした様子ようす抵抗ていこうすると「みみり、はなぎ、かみって、あまにしてしまうぞ」とおどした様子ようすなどがよくしるされているが、これはいま穏便おんびんほう家長かちょう斬捨きりす妻子さいし奴隷どれい家財かざい略奪りゃくだつする事例じれいおおかった[注釈ちゅうしゃく 1]。また、地頭じとうにはてぬ」という言葉ことばもある。

沿革えんかく

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発生はっせい

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地頭じとう元々もともと平安へいあん時代じだいから、土地とちのほとり、すなわち「現地げんち」を意味いみするかたりとして使用しようされはじめたとする[5]。また、ほとりを「境界きょうかい」を意味いみするかたりかいして土地とち境界きょうかい確定かくていさせる行為こういてんじて境界きょうかい確定かくてい支配しはいするひと意味いみになったとするせつもある[6]。さらに日本にっぽん地頭じとう成立せいりつとは直接的ちょくせつてきには無関係むかんけいであるものの、中国ちゅうごくとう安史やすしらん8世紀せいき後期こうき)に実施じっしされていたぜいの1つである「地頭じとうぜに」と語源ごげんおなじくするとするせつがある。このせつによれば、地頭じとうの“あたま”は、本来ほんらいは“あるじ”と同義どうぎであり、地頭じとうとは土地とちおもすなわち土地とちしんことしたが、その土地とち開発かいはつ希望きぼうするものはその土地とちしんまつことで、土地とちしんから土地とち開発かいはつする権利けんりた。とうでは開発かいはつしゃ土地とちしん地頭じとう)にたいする祭祀さいしためささげたぜにぜい地頭じとうぜに)へと転化てんかされ、日本にっぽんでは土地とちしん地頭じとう)にたいする祭祀さいしおこなったひとすなわち開発かいはつ領主りょうしゅ地頭じとうじん地頭じとうしょうされるようになったとうものである[7]

その現地げんち領地りょうち支配しはいする有力ゆうりょくしゃまた荘園しょうえん現地げんち管理かんりする下司げすそう公文こうぶんなどのそうかんしょくおおやけりょう現地げんち管理かんりする郡司ぐんじ郷司ごうし保司やすし在庁ざいちょうかんじんかくしょくあらわすようになった。平安へいあん末期まっきたいら政権せいけんしたでは、たいら所領しょりょう現地げんち管理かんりしゃとして家人かじん武士ぶし地頭じとう任命にんめいした事例じれいがわずかながらもられたが、その実態じったい職務しょくむはよくわかっていない。

たいら政権せいけん対抗たいこうして、関東かんとう独自どくじ支配しはいけん確立かくりつしたみなもと頼朝よりとも武士ぶし政権せいけん鎌倉かまくら幕府ばくふ)は、傘下さんか武士ぶし(すなわち御家人ごけにん)を地頭じとう任命にんめいすることで、みずからの支配しはいけんつよめていった。また、御家人ごけにんおおくは、荘園しょうえんそうかんおおやけりょう郡司ぐんじ郷司ごうし保司やすしであり、荘園しょうえん領主りょうしゅ本所ほんじょ)や国司こくしとくにその筆頭ひっとうかんとしての受領じゅりょう)の家人かじん被官ひかんとしての地位ちいしかあたえられていなかったが、関東かんとう実効じっこう支配しはいしていた頼朝よりとも政権せいけん地頭じとうしょく補任ほにんされることにより、在地ざいち領主りょうしゅとしての地位ちいみとめられたのである。

ところで頼朝よりとも政権せいけん当初とうしょ関東かんとう私的してき政治せいじ軍事ぐんじ勢力せいりょくぎなかったが、たいら政権せいけんとの内戦ないせんうけたまわ寿ことぶきひさしらん)をるにしたがい、こう白河しらかわ法皇ほうおう中心ちゅうしんとする公権力こうけんりょく朝廷ちょうてい)から徐々じょじょ東国とうごく支配しはいけんみとめられ、政権せいけん正統せいとうせい獲得かくとくしていった。たいら滅亡めつぼう文治ぶんじ元年がんねん1185ねん)10がつ源義経みなもとのよしつねみなもとこう鎌倉かまくらたいして挙兵きょへいすると、11月に上洛じょうらくした北条ほうじょう時政ときまさ奏請そうせいにより、義経よしつねくだり追討ついとう目的もくてきとして諸国しょこくに「守護しゅご地頭じとう」を設置せっちすることが勅許ちょっきょされた(文治ぶんじ勅許ちょっきょ)。鎌倉かまくら幕府ばくふ成立せいりつ時期じきにはいくつかのせつがあるが、守護しゅご地頭じとう任免にんめんけんは、幕府ばくふたくされた地方ちほう警察けいさつけん行使こうしや、御家人ごけにんたいする本領ほんりょう安堵あんどしんおん給与きゅうよおこな意味いみでも幕府ばくふ権力けんりょく根幹こんかんをなすものであり、この申請しんせいみとめた文治ぶんじ勅許ちょっきょ寿ことぶきひさしねんじゅうがつ宣旨せんじならんで、鎌倉かまくら幕府ばくふ成立せいりつ重要じゅうようとして位置いちづけられることとなった。

一方いっぽう九条くじょうけん日記にっきたま』11月28にちじょうには「守護しゅご地頭じとう」の語句ごくがなく、『吾妻あづまきょう』11月28にちじょうの「諸国しょこく平均へいきん守護しゅご地頭じとう補任ほにんし」は鎌倉かまくら時代じだい後期こうき史料しりょうおおえる文言もんごんであることから、石母田いしもたただし鎌倉かまくら時代じだい後期こうき一般いっぱんてき通説つうせつもとづく作文さくぶんではないかと指摘してきし、『吾妻あづまきょう文治ぶんじ2ねん3がつ1にちじょう、2にちじょうの「ななヶ国かこく地頭じとう」の記述きじゅつから「いちこく地頭じとうしょく」の概念がいねん提唱ていしょうした(「鎌倉かまくら幕府ばくふいちこく地頭じとうしょく成立せいりつ」『中世ちゅうせいほう国家こっか東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい所収しょしゅう、1960ねん)。この石母田いしもた分析ぶんせきはしはっして、守護しゅご地頭じとう発生はっせい位置いちづけについておおくの議論ぎろん展開てんかいされ、現在げんざいではこのとき設置せっちされたのは鎌倉かまくら時代じだい一般いっぱんてきだっただいはんさんヶ条かじょう職務しょくむとする守護しゅご荘園しょうえんおおやけりょう設置せっちされた地頭じとうではなく、だんべつますへい粮米の徴収ちょうしゅう[注釈ちゅうしゃく 2]田地でんち知行ちぎょうけん国内こくない武士ぶし動員どういんけんなど強大きょうだい権限けんげんつ「くに地頭じとう」であり、守護しゅごぜん段階だんかいとするせつ有力ゆうりょくとなっている(川合かわいやすし源平げんぺい合戦かっせん虚像きょぞうぐ』〈講談社こうだんしゃ選書せんしょメチエ〉講談社こうだんしゃ、1996ねん)。

頼朝よりとも傘下さんか地頭じとう公認こうにんについては当然とうぜんながら荘園しょうえん領主りょうしゅ国司こくしからの反発はんぱつがあり、地頭じとう設置せっち範囲はんい平家ひらかぼつかんりょうたいらきゅう所領しょりょう)・謀叛ぼうほんじん所領しょりょう限定げんていされた[8]。しかし、こう白河しらかわ法皇ほうおうたてひさ3ねん1192ねん)に崩御ほうぎょすると朝廷ちょうてい抵抗ていこうよわまり、地頭じとう設置せっち範囲はんい次第しだいひろがっていった。

発展はってん

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1221ねん承久じょうきゅうらんでの勝利しょうりにより、鎌倉かまくら幕府ばくふ朝廷ちょうていがわ所領しょりょうやく3000箇所かしょ没収ぼっしゅうした。これらの土地とち西日本にしにほん所在しょざいしており、あたらしい地頭じとうとしておおくの御家人ごけにん西日本にしにほん没収ぼっしゅうりょう移住いじゅうしていった。これをしん地頭じとう(しんぽじとう)といい、それ以前いぜん地頭じとうほん地頭じとう(ほんぽじとう)とばれた。しかし、このふたつの区別くべつ曖昧あいまいになっていった。また、しん地頭じとう給分きゅうぶんさだめた規定きていしんりつほう(しんぽりっぽう)といい、その内容ないようは、

  1. 田畠たばた11まちたり1まちを、年貢ねんぐ荘園しょうえん領主りょうしゅ国司こくし納入のうにゅうする必要ひつようのない地頭じとう給田きゅうでんばたけとする。
  2. 田畠たばた1だんたり5しょう[注釈ちゅうしゃく 2]こめちょうまい)の徴収ちょうしゅうけんしん地頭じとうあたえる。
  3. 山野やまのかわうみ収益しゅうえきは、地頭じとう荘園しょうえん領主りょうしゅ国司こくし折半せっぱんする。
  4. 地頭じとうけんだんにより逮捕たいほされた犯人はんにん財産ざいさんの3ぶんの1が、地頭じとうあたえられる。

というものだった。ただし、土地とち慣習かんしゅう先例せんれいがある場合ばあいは、しんりつほう優先ゆうせんした。なお、のちしん地頭じとうねたほん地頭じとうが、ほん地頭じとうとしてのきゅうぶんしんりつほうわせようとする両様りょうよう兼帯けんたい問題もんだいしょうじた。しん地頭じとうとして西日本にしにほん所領しょりょう獲得かくとくし、一族郎党いちぞくろうとう移住いじゅうした御家人ごけにんには、安芸あき毛利もうり熊谷くまがい吉川よしかわ阿波あわ小笠原おがさわら[注釈ちゅうしゃく 3]肥前ひぜん薩摩さつま千葉ちば薩摩さつま渋谷しぶやなどがある。かなりだい規模きぼ移住いじゅうだったため、「日本にっぽんうえ民族みんぞくだい移動いどう」とひょうする論者ろんしゃもいる[注釈ちゅうしゃく 4]

室町むろまち

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鎌倉かまくら守護しゅごは、軍事ぐんじ警察けいさつけん行使こうし任務にんむであり、経済けいざいてき権能けんのう付与ふよされていなかった。そのため、在地ざいち地頭じとう積極せっきょくてき荘園しょうえん国衙こくがりょう侵出しんしゅつすることができていた。

しかし、室町むろまちになると、守護しゅご半済はんせい使節しせつ遵行権利けんり付与ふよされ、守護しゅご経済けいざいてき権能けんのう一気いっき拡大かくだいすることとなった。守護しゅごは、獲得かくとくした経済けいざいりょく背景はいけいに、国内こくない地頭じとうやその武士ぶし名主なぬし有力ゆうりょくしゃそう被官ひかんとしてみずからの統制とうせいこうとし、国内こくないへの影響えいきょうりょくつよめていった。そうなると、鎌倉かまくら以来いらい地頭じとう横暴おうぼう収束しゅうそくし、従来じゅうらい地頭じとう武士ぶし同様どうよう国人くにびと(こくじん)へと変質へんしつしていき、守護しゅご領国りょうごくせい成熟せいじゅくする室町むろまち中期ちゅうきまでに地頭じとう名実めいじつともに消滅しょうめつした。

江戸えど時代じだい

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江戸えどにおいては、旗本はたもと御家人ごけにんといった大名だいみょういたらないしょう領主りょうしゅおおむね1まんせき未満みまん)を意味いみするかたりとしてのこ[9]。そのしょはんにおいて地方ちほう知行ちぎょうける給人きゅうにん言葉ことばに「地頭じとう」をすものが存在そんざいした。「山形やまがたけんだい3かんー」によると出羽でわこく米沢よねざわはんでは給人きゅうにんのことを、きゅう農民のうみんが「地頭じとうさま」と呼称こしょうしていたとしている。また、上杉うえすぎ重定しげさだ側近そっきんもりとししん権勢けんせい家老がろうらが批判ひはんするさいに「はんこく地頭じとうのよう」と形容けいようしている。また、日向ひなたこく伊東いとう飫肥おびはん支配しはい地域ちいきおよ島津しまつ支配しはい薩摩さつまはんでも、役職やくしょくとしての「地頭じとう」の名称めいしょうのこり、江戸えど時代じだい飫肥おびはん薩摩さつまはんとなっても存続そんぞくした。ただし、これは城代しろだい延長えんちょうでありぜん時代じだいの「地頭じとう」とはなるものである。

薩摩さつまはん

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戦国せんごく時代じだい島津しまつ支配しはい肝付きもつき支配しはいであった薩摩さつまこく大隅おおすみこくでは「地頭じとう」の名称めいしょうのこった。戦国せんごく地頭じとうとしては肝付きもつき支配しはい内之浦うちのうら地頭じとう薬丸やくまるけんしょう島津しまつ忠良ただよし支配しはい加世田かせだ地頭じとう奈良原ならはら長門ながとまもるが「しょさと地頭じとう系図けいず」に登場とうじょうする。その江戸えど時代じだい薩摩さつまはんとなっても存続そんぞくした。

当初とうしょ地頭じとう現地げんち移住いじゅうしていた。この勤務きんむ形態けいたいを「きょ地頭じとう」といい、郷士ごうしとはよせおやよせ関係かんけいであった。寛永かんえい年間ねんかん以降いこうはん重役じゅうやく兼務けんむすることおおくなり、任期にんきちゅう鹿児島かごしまじょうした居住きょじゅうした。これを「掛持かけも地頭じとう」といい、地頭じとう郷士ごうしたん中央ちゅうおう役人やくにん地方ちほう役人やくにん関係かんけいとなる。幕末ばくまつ一時いちじてき地頭じとう復活ふっかつした。

明治めいじ初期しょきにも本職ほんしょくのこり、長年ながねんにわたって都城みやこのじょう領主りょうしゅであった都城みやこのじょうとう津家つげが、鹿児島かごしま市内しないうつされたのち地頭じとうとして三島みしま通庸みちつねおくられ、不平ふへい士族しぞくをなだめるのに辣腕らつわん発揮はっきし、廃藩置県はいはんちけんまでそのしょくつとめたれいがみられる。また、明治めいじ伊集院いじゅういんきょう地頭じとうには郷士ごうし採用さいようされた。

概要がいよう
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役職やくしょく内容ないよう江戸えど幕府ばくふ関東かんとう付近ふきん代官だいかんとほぼおなじである。薩摩さつまはんでは一門いちもん一部いちぶいち所持しょじ領地りょうちであるわたしりょう藩主はんしゅ直轄ちょっかつかれるが、地頭じとう直轄ちょっかつほう配属はいぞくされた。江戸えど幕府ばくふ代官だいかんとの一番いちばんちがいは、薩摩さつまはん大半たいはんさと地頭じとう家老がろうから側役そばやく以前いぜん近習きんじゅばれていたしょく)までの薩摩さつまはん重役じゅうやく兼務けんむしていたてんである。また、うえいち所持しょじからしたいちだい小番こつがい小姓こしょうあずかしんばんが10にん扶持ふちきゅう以上いじょう役職やくしょくについてなったもの)までの城下じょうか就任しゅうにんした。

さとでの実際じっさい行政ぎょうせい上級じょうきゅう郷士ごうしにより運営うんえいされていたが、上級じょうきゅう郷士ごうし解決かいけつできない案件あんけん地頭じとう裁量さいりょうとなる。また、一部いちぶさとでは地頭じとうだい派遣はけんされた。なお「掛持かけも地頭じとう」の勤務きんむ形態けいたいになって以降いこう基本きほんてきには地頭じとう城下じょうか滞在たいざい行政ぎょうせい地元じもと郷士ごうしまかせていたが、はんほうじょう地頭じとう就任しゅうにんから4ねん~5ねん以内いないに1かい現地げんち視察しさつ義務ぎむづけられていた。またはん重役じゅうやくにはわたし領主りょうしゅ就任しゅうにんしていたので、たとえば吉利よしとし現在げんざい日置ひおき日吉ひよしまち吉利よしとし領主りょうしゅ小松こまつきよし清水しみずきょう現在げんざい霧島きりしま国分こくぶ清水しみずまち地頭じとうしょく就任しゅうにんしたように、わたし領主りょうしゅ地頭じとう兼任けんにんすることもあった。ただし、きょ地頭じとうせい存続そんぞくした長島ながしまさとこしきとうきょう地頭じとうしょくとの兼職けんしょくではなく「やくうつり地頭じとう」とばれ、席次せきじふね奉行ぶぎょうものあたまあいだかれた。

さんしゅう治世ちせい要覧ようらん」によると、小姓こしょう与格よかくしんばんかく武士ぶし地頭じとう就任しゅうにんすると、家格かかくを「代々だいだい小番こつがい」に昇格しょうかくさせることができる特権とっけんがあった。通常つうじょう小姓こしょう与格よかくしんばんかく武士ぶしが10にん扶持ふち以上いじょう役職やくしょく就任しゅうにんすると「いちだい小番こつがい」に昇格しょうかくすることが出来できたがこれは本人ほんにんいちだいかぎりの昇格しょうかくであり、子孫しそん元来がんらい家格かかくのままであった。さらに、世襲せしゅう代々だいだい小番こつがい昇格しょうかくするには側役そばやく以上いじょう役職やくしょくくか、さんだいつづけて10にん扶持ふち以上いじょうしょく必要ひつようがあった。しかし、地頭じとう兼務けんむするといちだい代々だいだい小番こつがい昇格しょうかくできた。

また、後任こうにん地頭じとうまらないは「あかりしょ」とばれ、だい番頭ばんがしらしょく管理かんりかれた。ただし、出水しゅっすいきょう志布志しぶしきょう伊集院いじゅういんさとといった重要じゅうようさとかんしてはあかりしょとせずにさと地頭じとう兼任けんにんした。たとえば島津しまつひさふう加世田かせだきょう地頭じとう時代じだい出水しゅっすいきょう地頭じとう兼務けんむしている。なお、この場合ばあい島津しまつひさふうは『加世田かせだきょう地頭じとうけん出水しゅっすいきょう地頭じとう』ではなく、『加世田かせだきょう地頭じとうおよ出水しゅっすいきょうあずかり(『差引さしひき』と表記ひょうきされる場合ばあいも)』となる。

飫肥おびはん

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日向ひなた伊東いとう藩主はんしゅである飫肥おびはんにおいても、城代じょうだい延長えんちょうとして地頭じとうしょく名称めいしょうのこった。とくに重要じゅうよう地頭じとうしょく清武きよたけ地頭じとうであり、飫肥おびはん東北とうほくようである清武きよたけにおける藩主はんしゅ代理だいりともいえるしょくであった。飫肥おびはん分限ぶげんちょう[10]では、清武きよたけ地頭じとうほかに、酒谷さかや地頭じとう北河内きたかわち地頭じとう油津あぶらつ地頭じとう大堂津おおどうつ地頭じとうなどが散見さんけんできる。なお、地頭じとう薩摩さつまはん同様どうよう城下じょうかより任命にんめいされ、清武きよたけ地頭じとううままわりからたが、その地頭じとうちゅうである中小ちゅうしょうせい下士かしである徒士かちからもた。『西南せいなんでん』によると、飫肥おびはん地頭じとうはのちにとりちょう改称かいしょうしたとしている[11]

当初とうしょ清武きよたけ地頭じとう宝永ほうえい2ねん1705ねん)から正徳まさのり3ねん1713ねん)まで伊東いとう織部おりべゆうぜん就任しゅうにんした以外いがいはほとんど河崎かわさき就任しゅうにんしていたが、とおる9ねん1724ねん)5がつ長倉ながくら善左衛門ぜんざえもん就任しゅうにんして以後いご河崎かわさき以外いがい就任しゅうにんした[10]

酒谷さかや地頭じとうとしては、西南せいなん戦争せんそう飫肥おびたいいちばんたい小隊しょうたいちょうとなった佐土原さどわら藤吾とうご[11]などがられる。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ この「あまにしてしまうぞ」は、女性じょせいあたまってしまう、つまり坊主ぼうずあたまにするという意味いみであって、出家しゅっけさせるという意味いみではない。
  2. ^ a b 1だんたん)はおおむこめ1いし収穫しゅうかくげられる面積めんせきとされていたので、想定そうていされる収穫しゅうかくやく5%が徴収ちょうしゅうされることとなる。
  3. ^ 小笠原おがさわらは、後鳥羽上皇ごとばじょうこうかたいた佐々木ささきわって、阿波あわこく守護しゅごにもにんじられている。阿波あわ移住いじゅうした一族いちぞくなかから、のち三好みよしる。
  4. ^ 西日本にしにほんではないが、三河みかわこく守護しゅごしょく荘園しょうえん地頭じとうしょく獲得かくとくした足利あしかがも、よしりょうをはじめとする支流しりゅうが、この時期じき三河そうご多数たすう移住いじゅうしている。

出典しゅってん

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  1. ^ 荘園しょうえんおおやけりょう秩序ちつじょ安定あんていをもたらしたなどの功績こうせきにより、朝廷ちょうていみなもと頼朝よりともたか官位かんい大功たいこうなどをさづけた。
  2. ^ 島津しまつ文書ぶんしょもとこよみねんはちがつじゅうななにちみなもと頼朝よりともぶん』より。なお、もとこよみ2ねんは8がつ14にちまでであるが、鎌倉かまくらまでつたわるのがおくれたことによるものか。
  3. ^ 菱沼ひしぬま一憲かずのり中世ちゅうせい地域ちいき社会しゃかい将軍しょうぐん権力けんりょく』(汲古書院しょいん、2011ねん)P140-147
  4. ^ 健治けんじ元年がんねん10がつ28にちづけ紀伊きいこく阿弖河あてがわそう上村うえむら百姓ひゃくしょうとうさるじょう高野山こうのやま文書ぶんしょ
  5. ^ うえ横手よこてまさたかし地頭じとう概念がいねん変遷へんせん」『日本にっぽん中世ちゅうせい政治せいじ研究けんきゅうはなわ書房しょぼう、1970ねん
  6. ^ 保立ほたて道久みちひさ平安へいあん時代じだい国家こっか荘園しょうえんせい」『中世ちゅうせい国土こくどだかけん天皇てんのう武家ぶけ校倉あぜくら書房しょぼう、2015ねんはら報告ほうこく:1992ねん
  7. ^ 古賀こがのぼるとう青苗あおなえぜに地頭じとうぜにについて」(『りょう税法ぜいほう成立せいりつ研究けんきゅう雄山閣ゆうざんかく、2012ねん
  8. ^ 平家ひらかぼつかんりょうたいしても朝廷ちょうていかえしがあり、こう白河しらかわ法皇ほうおうは3がつ平家へいけぼつかんりょう丹波たんばこく箇荘をいんりょうにするようめいじている(『吾妻あづまきょう文治ぶんじ2ねん3がつ8にちじょう)。
  9. ^ 公事こうじかたじょうしょだいさんじょう御料ごりょういち地頭じとう地頭じとうたがえ出入でいりならびに跡式あとしき出入でいり捌之ごと
  10. ^ a b 参照さんしょう野田のだ敏夫としお校訂こうてい飫肥おびはん分限ぶげんちょう」(昭和しょうわ49ねん12月3にち日向ひなた文化ぶんか談話だんわかい発行はっこう所収しょしゅう
  11. ^ a b くろりゅうかい へん西南せいなんでん下巻げかんくろりゅうかい本部ほんぶ、1911ねん4がつNDLJP:773389 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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