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朝廷 (日本) - Wikipedia

朝廷ちょうてい (日本にっぽん)

日本にっぽんこくにかつて存在そんざいした統治とうち機構きこう

朝廷ちょうてい(ちょうてい)とは、日本にっぽんにかつて存在そんざいした政権せいけんおよび政府せいふである。大宝たいほう元年がんねん701ねん)の大宝たいほう律令りつりょう施行しこうまでには政治せいじ体制たいせい成立せいりつし、慶応けいおう3ねん12月9にち1868ねん1がつ3にち)の王政おうせい復古ふっこだい号令ごうれいにより廃止はいしされた。

朝廷ちょうてい
概要がいよう
創設そうせつねん 大宝たいほう元年がんねん701ねん
大宝たいほう律令りつりょう施行しこう
解散かいさんねん 慶応けいおう3ねん1868ねん
王政おうせい復古ふっこ
対象たいしょうこく 日本の旗 日本にっぽん
政庁せいちょう所在地しょざいち 山城やましろこく
平安京へいあんきょう
長岡京ながおかきょう
きょうひとしきょう
大和やまとこく
平城京へいじょうきょう
藤原ふじわらきょう
摂津せっつこく
難波なんばきょう
福原ふくはらきょう
近江おうみこく
近江おうみ大津おおつみや
むらさきかおりらくみや
政体せいたい 律令制りつりょうせい
代表だいひょう 天皇てんのう
太政大臣だじょうだいじん
摂政せっしょう関白かんぱく摂関せっかん政治せいじ
太上天皇だじょうてんのう院政いんせい
機関きかん
中央ちゅうおう官制かんせい 太政官だじょうかん
神祇官じんぎかん
弾正だんじょうだい
兵衛ひょうえ
衛門えもん
近衛府このえふ*
蔵人所くろうどどころ*
検非違使けびいしちょう*
かんかいよし使ちょう*
日本にっぽん中央ちゅうおう官制かんせい参照さんしょう
地方ちほう官制かんせい 大宰府だざいふ
きょうしょく
国司こくし
郡司ぐんじ
さとちょう
日本にっぽん地方ちほう官制かんせい参照さんしょう
官制かんせいがい 摂政せっしょう*
関白かんぱく*
征夷大将軍せいいたいしょうぐん*
備考びこう
* のいた官庁かんちょう官職かんしょくれいそとかんである。
ヤマト政権せいけん律令りつりょう国家こっか全国ぜんこくてき政権せいけんとしての体裁ていさいととのえた。武家ぶけ政権せいけんひとしによって実権じっけんうばわれていくが、そのちょう官位かんいあたえるなどして、官制かんせい明治維新めいじいしんまで存続そんぞくした。
ヤマト王権おうけん 統治とうち機構きこう
Template:Country alias GOJの旗 日本国にっぽんこく政府せいふ
政権せいけん
たいら政権せいけん
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名称めいしょう

編集へんしゅう

日本にっぽんにおいて「朝廷ちょうてい」という言葉ことばえるのは、『古事記こじき』の開化かいか天皇てんのう穂別ほべつくんとして「つぎ朝廷ちょうていべつおう」としるされたのが現存げんそん文献ぶんけん確認かくにんできる初出しょしゅつで、『日本書紀にほんしょき』ではたかしかみ天皇てんのうきのたかしかみ天皇てんのう60ねん(38ねんなながつおのれとりじょう》「聞神宝しんぽうけんじ朝廷ちょうてい」までさかのぼってしるされ、また、「あさにわ」がてられたものでは、けいぎょう天皇てんのうきのけいぎょう天皇てんのう51ねん(121ねんはちがつみずのえじょう》「のり進上しんじょう於朝にわ」がある。

日本書紀にほんしょきよう明天めいてんすめらぎきのよう明天めいてんすめらぎ元年がんねん(586ねん五月ごがつじょう》に「あらちょうにわ」とあるのは実在じつざいする場所ばしょ推測すいそくさせる具体ぐたいてき記述きじゅつであるが、推古天皇すいこてんのうで「あさにわ」または「にわ」として度々どど言及げんきゅうされ、じゅうななじょう憲法けんぽう官吏かんり退ずさについてかれた8じょうに「ぐんきょうひゃくりょう早朝そうちょう晏退」(官吏かんりはやあさ(まい)りて晏(おそ)く退しりぞけ)とあって政務せいむ場所ばしょとして明確めいかく推古天皇すいこてんのうしょう墾田こんでんみや発掘はっくつ調査ちょうさから実在じつざい裏付うらづけられた最古さいこの「あさにわ」である。

朝廷ちょうてい」と「あさにわ

編集へんしゅう

中国ちゅうごくでは「朝廷ちょうてい」と「あさにわ」は同義どうぎもちいられ、記紀ききでも混用こんようされているが、中国ちゅうごくでの字義じぎ広場ひろば意味いみはないにもかかわらず、日本にっぽん史学しがくではのちに「ちょうどういん」と総称そうしょうされる政務せいむ儀式ぎしきおこな建物たてものぐんかこまれた広場ひろばしてとくに「あさにわ」と区別くべつしてもちいる。

日本書紀にほんしょき推古天皇すいこてんのう推古天皇すいこてんのう16ねんはちがつみずのえじょう》「召唐きゃく於朝にわ」としるされた、ずい使裴世きよし天皇てんのう来朝らいちょう挨拶あいさつをしたとされるしょう墾田こんでんみやの「あさにわ」をして、吉村よしむら武彦たけひこは、「あさにわは、普通ふつうは『朝廷ちょうてい』の使つかうが、ここはのちのあさどういんにあたるスペースの中央ちゅうおう広場ひろばであるから、『あさにわ』のほう的確てきかくである」とべている[1]。また、熊谷くまがい公男きみおは、「左右さゆう対称たいしょう整然せいぜんとした配置はいちをとった『あさにわ』を付設ふせつしたみやは、しょう墾田こんでんみやがはじめてであった可能かのうせいたかい」としている[2]

朝政ちょうせいあさ

編集へんしゅう

朝廷ちょうてい」でおこなわれたのが朝政ちょうせいあさである。

朝政ちょうせいは、天皇てんのう早朝そうちょう政務せいむをみる「あさまつりごと」としてはじまり[3]のちてんじて、朝廷ちょうてい政務せいむ一般いっぱんす「ちょうせい」となった[注釈ちゅうしゃく 1]

あさとは、さまざまなおおやけ儀式ぎしき総称そうしょうであり、天皇てんのう即位そくい元日がんじつ朝賀ちょうが任官にんかん叙位じょい改元かいげんせんみことのりつげついたちなどの朝拝ちょうはい中心ちゅうしんとする儀式ぎしきと、ふしかい外国がいこく使へのたまものきょうなどの饗宴きょうえん中心ちゅうしんとする儀式ぎしきとがあった。

ちょうどういん

編集へんしゅう

ちょうどういん朝政ちょうせいあさおこなわれた朝廷ちょうていせいちょうであり、しょう墾田こんでんみやの「あさにわ」はまいである「みや」から分離ぶんりしてあさどういん原型げんけい姿すがたせており、「ちょうどう」をいて政務せいむる「ちょうどう政治せいじ」が開始かいしされたのを推古天皇すいこてんのう治下ちかとする[4]が、その規模きぼ確認かくにんされたものでは、じょうぼうせいにより日本にっぽん史上しじょう最初さいしょ建設けんせつされた都城みやこのじょうとされる藤原ふじわらきょう藤原ふじわらみや)のあさどういん最古さいこである。

ちょうどういんはその平城京へいじょうきょう難波なんばきょう長岡京ながおかきょう平安京へいあんきょううつっても建設けんせつされつづけた。平安へいあん時代じだい876ねんさだかん18ねん)、1058ねん康平こうへい元年がんねん)に焼失しょうしつし、そのたびに再建さいけんされたが1177ねん安元やすもと3ねん)の安元やすもと大火たいかののちは再建さいけんされなかった。

内裏だいり焼失しょうしつによりさと内裏だいりあらわれるようになって天皇てんのう政務せいむ場所ばしょあさどういん有無うむにかかわらず天皇てんのう私的してきまいであった内裏だいりうつり、あさおも内裏だいり紫宸殿ししんでんでおこなわれることとなった[5]

また、退位たいいした天皇てんのう上皇じょうこう)が「天皇てんのう当主とうしゅ[注釈ちゅうしゃく 2]である資格しかくをもって政務せいむおこな院政いんせいあさどう院外いんがいおこなわれたが、これも朝廷ちょうていふくめられる。

なお、中国ちゅうごく場合ばあいとはことなり、日本にっぽんでは、天皇てんのう私的してきまいである内裏だいりなな殿どのしゃ後宮こうきゅう)には宦官かんがんかれず、もっぱら女官にょかんによって秩序ちつじょ維持いじされた。

武家ぶけ政権せいけん樹立じゅりつされる以前いぜん以後いご朝廷ちょうてい性格せいかくおおきくことなり、武家ぶけ政権せいけん樹立じゅりつされる以前いぜん政権せいけんとして機能きのうし、武家ぶけ政権せいけん樹立じゅりつされた以後いご武家ぶけ政権せいけん権威けんい保障ほしょうする立場たちばとなった。

大宝たいほう律令りつりょう施行しこう以前いぜん

編集へんしゅう

大和やまと朝廷ちょうてい

編集へんしゅう

奈良なら時代じだい以前いぜん古墳こふん時代じだいから飛鳥あすか時代ときよにかけての畿内きない政権せいけんは、おも飛鳥あすか近辺きんぺん大和やまと地方ちほうみやいていたので「大和やまと時代じだい朝廷ちょうてい」という意味合いみあいで「大和やまと朝廷ちょうてい」と呼称こしょうされてきた。しかし、大和やまと地方ちほう古墳こふん時代じだい当時とうじは「やまと」もしくは「大倭おおやまと」と表記ひょうきされ「大和やまと」の表記ひょうきこうのものであることと、1970ねん以降いこう古墳こふん時代じだい政治せいじ組織そしきにかかわる研究けんきゅう進展しんてんから、朝廷ちょうてい語源ごげんである「君主くんしゅせい官僚かんりょう組織そしきをともなった政府せいふおよび政権せいけん」というよりも、古墳こふん時代じだいかんしては「ヤマト政権せいけん」または「ヤマト王権おうけん」とばれることがおおくなっており[注釈ちゅうしゃく 3]、「大和やまと朝廷ちょうてい」の表記ひょうきすくなくなっている[注釈ちゅうしゃく 4]

このことについて、せき和彦かずひこは、「朝廷ちょうてい」は「天皇てんのう政治せいじ」であり、4世紀せいき5世紀せいき政権せいけんを「大和やまと朝廷ちょうてい」とぶことは不適切ふてきせつであると主張しゅちょう[6]鬼頭おにがしら清明きよあきもまた、一般いっぱんけの書物しょもつのなかで、磐井いわいらん当時とうじ近畿きんきには複数ふくすう王朝おうちょうが併立することもかんがえられ、また、たけれつあさ以前いぜんは「天皇てんのう直接的ちょくせつてき祖先そせんにあたる大和やまと朝廷ちょうてい無関係むかんけい場合ばあいかんがえられる」として「大和やまと朝廷ちょうてい」のかたりつぎたい天皇てんのう以後いごかぎってもちいるべきと説明せつめいしている[7]

また中国ちゅうごくがわ史書ししょである『ずいしょ』600ねんじょう記述きじゅつでは、日本にっぽんよる政治せいじ(まつりごと)をおこなっていることを説明せつめいし、中国ちゅうごく皇帝こうてい合理ごうりてきでないとし、あらためるように指示しじしたことがべられており、中国ちゅうごく国交こっこうむす必要ひつようせい律令制りつりょうせい導入どうにゅうのため、日本にっぽんがわ中国ちゅうごくしきである「あさ政治せいじおこなうスタイル」に変化へんかしている。内容ないようとしては、日本にっぽんがわは、日本にっぽんには独自どくじ思想しそう文化ぶんかがあると主張しゅちょうしたが、中国ちゅうごくがわはこれを否定ひていしたため、以後いご中国ちゅうごく文化ぶんかわせたことになる。つまり古墳こふん時代じだい日本にっぽんは、朝廷ちょうていあさ政治せいじをする体制たいせいではなかった。

645ねん中臣鎌足なかとみのかまたり中大兄皇子なかのおおえのおうじこしたおつへんにより、蘇我そがたおされたことにはじまり、646ねんには改新かいしんみことのりされ、大化たいか改新かいしんおこなわれた。それによりすめらぎごく天皇てんのう退位たいいし、中大兄皇子なかのおおえのおうじではなく孝徳天皇こうとくてんのう即位そくいした。中大兄皇子なかのおおえのおうじ皇太子こうたいしとして政務せいむをとった。

667ねん近江おうみ大津おおつみや遷都せんとし、668ねんには中大兄皇子なかのおおえのおうじ天智天皇てんぢてんのう即位そくいした。

すめらぎおや政治せいじ

編集へんしゅう

672ねん天智天皇てんぢてんのう崩御ほうぎょすると、同年どうねんには大海人皇子おおあまのおうじ弘文天皇こうぶんてんのうたいして挙兵きょへいし、みずのえさるらん勃発ぼっぱつする。このたたかいに大海人皇子おおあまのおうじ勝利しょうりし、天武天皇てんむてんのう即位そくいする。また、近江おうみ大津おおつみやから飛鳥ひちょうもどした。そして、皇族こうぞく要職ようしょくめ、大臣だいじん一人ひとりもいなかったため、すめらぎおや政治せいじばれる。

679ねん天武天皇てんむてんのう皇位こうい継承けいしょうあらそいがしょうじないように吉野よしの盟約めいやくむすばれる。

大宝たいほう律令りつりょう施行しこう以降いこう武家ぶけ政権せいけん樹立じゅりつ以前いぜん

編集へんしゅう

701ねんとう律令りつりょう参考さんこう大宝たいほう律令りつりょう施行しこうされる。また、757ねんには養老ようろう律令りつりょう施行しこうされ、朝廷ちょうてい政治せいじ制度せいど確立かくりつされることになる。

親政しんせい

編集へんしゅう

781ねんひかりじん天皇てんのう譲位じょういしたことにより、桓武かんむ天皇てんのう即位そくいする。そして784ねん平城京へいじょうきょうから長岡京ながおかきょう遷都せんとするが、天災てんさい相次あいついだため、794ねん平安京へいあんきょう遷都せんとする。また、蝦夷えぞ服属ふくぞくさせるために3わた蝦夷えぞ征討せいとうおこなった。しかし、805ねんには徳政とくせいしょうろんき、藤原ふじわらいとぐち進言しんげんれ、蝦夷えぞ征討せいとう平安京へいあんきょう造作ぞうさく中断ちゅうだんした。

887ねん臣籍しんせき降下こうかしていたみなもとじょうしょう光孝みつたか天皇てんのう重態じゅうたいおちいったことにより、親王しんのう宣下せんげ立太子りったいししたが、そのまま崩御ほうぎょしたため、宇多天皇うだてんのう即位そくいした。

宇多天皇うだてんのう藤原基経ふじわらのもとつね関白かんぱくにんじる詔勅しょうちょくはっするがもとけい一度いちどことわる。そのおもねにんじる詔勅しょうちょくはっするが、もとけい実権じっけんのない役職やくしょくとして抗議こうぎし、一切いっさい政務せいむ放棄ほうきし、おもね事件じけんきる。そして宇多天皇うだてんのう詔勅しょうちょくし、たちばなひろしょう罷免ひめんした。891ねんもとけいぬと宇多天皇うだてんのうもとけい嫡子ちゃくしである藤原ふじわらひらた参議さんぎにんじるが、それ以外いがいにもみなもとであるみなもとのうゆう菅原すがわら道真みちざねなど藤原ふじわらきた嫡流ちゃくりゅうからはなれたひとおお抜擢ばってきし、律令制りつりょうせいへの回帰かいきはかった。この治世ちせい寛平かんぺいばれる。

897ねん宇多天皇うだてんのう譲位じょういしたことにより、醍醐天皇だいごてんのう即位そくいする。

醍醐天皇だいごてんのうときたいら道真みちざね左右さゆう大臣だいじんにんじて政務せいむまかせるが、901ねんときたいら讒言ざんげんれたことにより、あきらたいへん発生はっせいし、道真みちざね左遷させんした。しかし、ときひらたおよび醍醐天皇だいごてんのう律令制りつりょうせいへの回帰かいき先代せんだい同様どうようはかるが成功せいこうせず、律令制りつりょうせい復活ふっかつ最後さいごこころみとなった。また、文化ぶんかめんでは勅撰ちょくせん和歌集わかしゅうである古今ここん和歌集わかしゅう編纂へんさんした。この治世ちせい延喜えんぎばれる。

935ねんうけたまわひらてんけいらん勃発ぼっぱつし、朝廷ちょうてい征伐せいばつぐんおく鎮圧ちんあつした。しかし、律令制りつりょうせい衰退すいたい明白めいはくとなる。

944ねん朱雀すざく天皇てんのう譲位じょういしたことにより、村上むらかみ天皇てんのう即位そくいする。

うけたまわひらてんけいらん影響えいきょう朝廷ちょうてい財政ざいせい逼迫ひっぱくしていたため、倹約けんやくつとめた。また、こうせん和歌集わかしゅう編纂へんさんし、歌人かじんきん琵琶びわ楽器がっきにも精通せいつうした。この治世ちせいてんれきばれる。

また、のべぜんてんれきあわせて延喜えんぎてんれきばれ、後世こうせいにも善政ぜんせいとして理想りそう時代じだいとされた。しかし、それはちゅう下流かりゅう文人ぶんじん貴族きぞくそう過大かだい評価ひょうかであった。また、これらは摂政せっしょう関白かんぱくかなかったといえど、藤原ふじわらささえられていた側面そくめんおおきかった。

摂関せっかん政治せいじ

編集へんしゅう

842ねん藤原ふじわらりょうぼううけたまわへんによってみちやすし親王しんのう文徳ふみのり天皇てんのう即位そくいさせたことにより、天皇てんのう外戚がいせきになり、857ねん太政大臣だじょうだいじん就任しゅうにんした。また、866ねんにはおうてんもんへんにより、ばんきの失脚しっきゃくさせると、人臣じんしんはつ摂政せっしょう就任しゅうにんし、権威けんい確立かくりつした。

しかし、この時点じてんでは摂政せっしょうおよび関白かんぱく常設じょうせつ役職やくしょくではなかったが、藤原ふじわら長者ちょうじゃ政権せいけんにぎった。

884ねんもとけい陽成ようぜい天皇てんのう退位たいいさせ、光孝みつたか天皇てんのう即位そくいさせた。また、太政大臣だじょうだいじんであったが、大政たいせい委任いにんするみことのりはっする。また、887ねん即位そくいした宇多天皇うだてんのうもとけいおもね衡ににんじる詔勅しょうちょくはっした。これによりおもね事件じけんきる。そして、宇多天皇うだてんのう詔勅しょうちょく撤回てっかいしたことにより、藤原ふじわら権力けんりょく天皇てんのうよりつよいことをあらためてらしめることになる。

969ねん安和あわへんによりみなもと失脚しっきゃくさせると、藤原ふじわら内部ないぶあらそいがこるようになる。とくに、藤原ふじわらけんどおり藤原ふじわらけんとであらそいが激化げきかする。

また、986ねん寛和ひろかずへん発生はっせいし、花山はなやま天皇てんのう退位たいい出家しゅっけしたうえけんまごである一条天皇いちじょうてんのう即位そくいする。そして、けん摂政せっしょう就任しゅうにんしたうえに、慣例かんれいやぶって右大臣うだいじん辞任じにんした。これにより摂関せっかん専任せんにん先例せんれいとなる。

それ以降いこう藤原ふじわら摂政せっしょうおよび関白かんぱく権勢けんせいほこり、藤原ふじわら道長みちなが藤原ふじわら頼通よりみち時期じき最盛さいせいむかえた。

院政いんせい

編集へんしゅう

1086ねん白河天皇しらかわてんのう堀河ほりかわ天皇てんのう譲位じょういし、いんちょう設置せっちてんきみとして統治とうちした。しかし、はじめはおとうとへの皇位こうい継承けいしょうをなくし、自身じしんへの皇位こうい継承けいしょう目的もくてきとしていた。

1141ねんには鳥羽とば上皇じょうこう崇徳天皇すとくてんのう退位たいいさせ、近衛天皇このえてんのう即位そくいさせた。しかし、1155ねん近衛天皇このえてんのう崩御ほうぎょすると後白河天皇ごしらかわてんのう即位そくいするが、崇徳天皇すとくてんのう後白河天皇ごしらかわてんのうとのあいだ対立たいりつしょうじる。そして、鳥羽とば法皇ほうおう崩御ほうぎょすると、1156ねん皇位こうい継承けいしょうめぐあらそいと摂関せっかん家内かないあらそいによりもとらん発生はっせいし、後白河天皇ごしらかわてんのう勝利しょうりした。また、同年どうねんもと新制しんせいされた。

しかし、1160ねんにはいん近臣きんしんらのあらそいにより平治へいじらん発生はっせいするなど、あまり安定あんていしなかった。また、1179ねん平清盛たいらのきよもり対立たいりつしたことにより、うけたまわさんねん政変せいへん発生はっせいする。これにより、こう白河しらかわ上皇じょうこう鳥羽とば殿どの幽閉ゆうへいされ、院政いんせい停止ていししてしまう。ただし、福原ふくはら遷都せんと平安京へいあんきょうもどった高倉たかくら上皇じょうこう崩御ほうぎょし、清盛きよもりぼっすると平宗盛たいらのむねもりにより院政いんせい復活ふっかつする。

てんきみ三種さんしゅ神器じんぎときいんむねすことにより譲位じょういおよび親王しんのう即位そくい正当せいとうせいたせた。

また、摂関せっかん政治せいじおとろえたが、摂政せっしょう関白かんぱく自体じたいくすりへんによって、退位たいいした上皇じょうこう内裏だいりはいらない原則げんそくまれたためてんきみみずからの意思いし内裏だいりつたえるには摂政せっしょう関白かんぱくみずからの代理だいりにしてつたえる必要ひつようがあった。そのため摂政せっしょう関白かんぱく摂関せっかんとして存続そんぞくした。

武家ぶけ政権せいけん樹立じゅりつ以降いこう

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たいら政権せいけん

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1167ねんされたじんやすねんがつ宣旨せんじにより平重盛たいらのしげもり東山ひがしやま東海とうかい山陽さんよう南海なんかい諸道しょどう治安ちあん警察けいさつけんゆだねたことはじまり、1179ねんきたうけたまわさんねん政変せいへんによりのち白河しらかわ上皇じょうこう院政いんせい停止ていしさせると、日本にっぽんはつ武家ぶけ政権せいけんであるたいら政権せいけん成立せいりつした。また、清盛きよもり武家ぶけはつ太政大臣だじょうだいじん就任しゅうにんした。ただ、たいら政権せいけん朝廷ちょうてい官職かんしょくたいら独占どくせんするというもので貴族きぞくてき性格せいかくわせていたが、こう白河しらかわ法皇ほうおうとの対立たいりつにより、高倉天皇たかくらてんのう安徳天皇あんとくてんのう譲位じょういし、清盛きよもりによる傀儡かいらい院政いんせい開始かいしされることになった。

鎌倉かまくら時代ときよ

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1183ねんうけたまわ寿ことぶきひさしらんにより源義仲みなもとのよしなか上洛じょうらくしていたが、乱暴らんぼうかえしたことにより、こう白河しらかわ法皇ほうおう義仲よしなかわりみなもと頼朝よりとも上洛じょうらくもとめた。頼朝よりとも東海とうかい東山ひがしやま北陸ほくりく諸道しょどう支配しはいけん国司こくしもど寿ことぶきひさしねんじゅうがつ宣旨せんじ要求ようきゅうし、こう白河しらかわ法皇ほうおう北陸ほくりくどう以外いがいれた。これにより間接かんせつてき支配しはいけん頼朝よりともうつることになった。

1185ねん壇ノ浦だんのうらたたかたいらほろぼされるが、このとき安徳天皇あんとくてんのう三種さんしゅ神器じんぎうち形代かたしろ草薙くさなぎけん壇ノ浦だんのうらしずんだ。また、源義経みなもとのよしつねみなもとこう頼朝よりとも無断むだん官位かんいことにより頼朝よりともこう白河しらかわ法皇ほうおうより両者りょうしゃ追討ついとう院宣いんぜん獲得かくとくするとともに、両者りょうしゃついため守護しゅご地頭じとう任免にんめんけん頼朝よりとも承認しょうにんすることとなった。これにより鎌倉かまくら幕府ばくふ成立せいりつする。ただし、この時点じてんでは朝廷ちょうてい支配しはいけん侵害しんがいするものではなかった。また、1192ねん頼朝よりとも征夷大将軍せいいたいしょうぐん就任しゅうにんした。そして1218ねんには源実朝みなもとのさねとも武家ぶけはつ右大臣うだいじん就任しゅうにんした。

1221ねんまでには北条ほうじょうよしとき幕府ばくふ権力けんりょく掌握しょうあくしていた。そのため、朝廷ちょうてい幕府ばくふあいだ対立たいりつしょうじていた。そして同年どうねん後鳥羽上皇ごとばじょうこう追討ついとう院宣いんぜんはっし、承久じょうきゅうらん発生はっせいした。当初とうしょ優勢ゆうせいだったものの、次第しだい劣勢れっせいになり、ついにはやぶれた。これにより朝廷ちょうてい権力けんりょく幕府ばくふにより制限せいげんされ、ろく探題たんだいによって監視かんしけ、そして皇位こうい継承けいしょうにも影響えいきょうりょくおよぼされるようになった。

そして、こう堀河ほりかわ天皇てんのうらん即位そくいすると、くだりじょ入道にゅうどう親王しんのうこう高倉たかくらいんとして異例いれい院政いんせいおこなった。

1252ねんには宗尊親王むねかたしんのう皇族こうぞくから幕府ばくふ将軍しょうぐんむかえられるが実権じっけんかった。

たてたけし新政しんせい

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1300年代ねんだいには後醍醐天皇ごだいごてんのう倒幕とうばく画策かくさくするが正中せいちゅうへん元弘もとひろらんにより露見ろけんしてしまう。その影響えいきょう後醍醐天皇ごだいごてんのう退位たいいすることになり、同時どうじ隠岐おき配流はいるされることになる。しかし、そのうら倒幕とうばく運動うんどうさかんになった。そして、1333ねんには後醍醐天皇ごだいごてんのう配流はいるさきから脱出だっしゅつし、ろく探題たんだいほろぼして鎌倉かまくら新田にった義貞よしさだひきいる官軍かんぐん進軍しんぐん鎌倉かまくらたたかによりつい鎌倉かまくら幕府ばくふ滅亡めつぼうし、後醍醐天皇ごだいごてんのう復位ふくいした。これにより朝廷ちょうてい復権ふっけんたした。

しかし、新政しんせい新設しんせつされた機関きかん権限けんげん衝突しょうとつ北条ほうじょう残党ざんとうによる反乱はんらん多発たはつにより混乱こんらんきわめた。

1335ねんには北条ほうじょう残党ざんとうである北条ほうじょうぎょうによりちゅう先代せんだいらん発生はっせいすると一時いちじ鎌倉かまくら占領せんりょうされるが、これに足利尊氏あしかがたかうじときぎょう追討ついとうそうつい使征夷大将軍せいいたいしょうぐん役職やくしょく要請ようせいする。しかし、後醍醐天皇ごだいごてんのうはこれを拒否きょひした。そして、たかし勅許ちょっきょずに出陣しゅつじん後醍醐天皇ごだいごてんのうってせいひがし将軍しょうぐんごうあたえた。たかしとき行軍こうぐん撃破げきはし、鎌倉かまくら回復かいふくする。しかし、たかし鎌倉かまくら恩賞おんしょう分配ぶんぱいをするためのそでばんぶん勝手かって発給はっきゅうしたうえ上洛じょうらく命令めいれい無視むしし、たてたけし政権せいけんから離反りはんした。またたかし義貞よしさだ追討ついとう要請ようせいしたが、後醍醐天皇ごだいごてんのうぎゃく尊氏たかうじ追討ついとう義貞よしさだめいじ、たてたけしらん発生はっせいした。

義貞よしさだぐん箱根はこねたけしたたたかやぶれ、足利あしかがぐん京都きょうと進軍しんぐんする。そしてだいいち京都きょうとたたかやぶれた後醍醐天皇ごだいごてんのう比叡山ひえいざんのがれ、たかし入京にゅうきょうされるが、東国とうごくより討伐とうばつぐん上洛じょうらくし、一旦いったんたかしきょうおよび畿内きないからこと成功せいこうする。しかし、たかし九州きゅうしゅう勢力せいりょくかえし、だい京都きょうとたたか後醍醐天皇ごだいごてんのうふたたやぶれて比叡山ひえいざんげた。このとき豊仁とよひと親王しんのうひかりげん上皇じょうこうにより皇位こういき、光明こうみょう天皇てんのうとなる。また、この時点じてんでは三種さんしゅ神器じんぎかったが、後醍醐天皇ごだいごてんのうかた近江おうみたたかやぶれ、和睦わぼくしたため、三種さんしゅ神器じんぎ光明こうみょう天皇てんのうわたした。しかし、後醍醐天皇ごだいごてんのうきょう帰還きかんするが、花山院かさんのいん幽閉ゆうへいされた。また、たかしたてたけし式目しきもくさだめ、頼朝よりともおなけん大納言だいなごん就任しゅうにんし、自身じしん鎌倉かまくら殿どのしょうして鎌倉かまくら将軍しょうぐん後継こうけいしゃ名乗なのった。しかし、後醍醐天皇ごだいごてんのう花山院かさんのいん脱出だっしゅつし、光明こうみょう天皇てんのうわたした神器じんぎ贋物にせものとして後醍醐天皇ごだいごてんのう神器じんぎ本物ほんもの主張しゅちょうし、吉野よしの吉水よしみずいん行宮あんぐうさだめた。

一連いちれん行動こうどうにより、たてたけし新政しんせい瓦解がかいし、光明こうみょう天皇てんのうかたでは北朝ほくちょうおよび室町むろまち幕府ばくふ成立せいりつし、後醍醐天皇ごだいごてんのうかたでは南朝なんちょう成立せいりつした。

南北なんぼくあさ時代じだい室町むろまち時代じだい前期ぜんき

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南北なんぼくあさたたかいは当初とうしょ双方そうほうとも互角ごかく推移すいいしていた。しかし、1338ねん義貞よしさだ北畠きたばたけ顕家あきいえ相次あいついで戦死せんしみなみ朝方あさがた次第しだい劣勢れっせいとなっていく。同年どうねんたかし北朝ほくちょうより征夷大将軍せいいたいしょうぐんにんじられる。そして1339ねんには後醍醐天皇ごだいごてんのう崩御ほうぎょし、後村上天皇ごむらかみてんのう即位そくいした。そして1348ねん劣勢れっせいくつがえことはできず、四條畷しじょうなわてたたかみなみ朝方あさがた完敗かんぱいし、吉野よしのから賀名かなせい行宮あんぐううつした。

しかし、1350ねん室町むろまち幕府ばくふないかんおう擾乱じょうらんきると、直義ただよし追討ついとう院宣いんぜんるためにみこと南朝なんちょう降伏ごうぶくした。これを正平しょうへい一統いっとうう。また、このとききた朝方あさがた三種さんしゅ神器じんぎ政権せいけん返上へんじょうされた。そして薩埵とうげたたかにより直義ただよし降伏ごうぶくさせた。なお、直義ただよしはその病死びょうししている。

ただ、正平しょうへい一統いっとうながくはつづかなかった。北畠きたばたけ親房ちかふさ京都きょうと鎌倉かまくらにあった北朝ほくちょう勢力せいりょく一掃いっそううごき、京都きょうと鎌倉かまくら占領せんりょう成功せいこうした。また、きた朝方あさがたたかし征夷大将軍せいいたいしょうぐんしょくかれたうえひかりげん上皇じょうこう光明こうみょう上皇じょうこうたかしこう上皇じょうこうちょくじん親王しんのう拉致らちされてしまう。また、後村上天皇ごむらかみてんのう行宮あんぐう東条とうじょう住吉すみよし男山おとこやま八幡やはたうつした。

しかし、たかし京都きょうと鎌倉かまくらぐに奪還だっかんしたが、きた朝方あさがた拉致らちされた影響えいきょう三種さんしゅ神器じんぎうえてんきみもいなくなってしまうことになってしまったために即位そくい出来できない状況じょうきょうにあったが、女院にょいんてんきみにすることでたかしこう上皇じょうこうおとうとであるわたるじん親王しんのう後光ごこうげん天皇てんのう即位そくいさせた。また、たかし征夷大将軍せいいたいしょうぐん復職ふくしょくした。そして1358ねんみこと薨去こうきょした。

南朝なんちょう筆頭ひっとう武将ぶしょうである楠木くすのき正儀まさよし和平わへい模索もさくしていたが、実現じつげんはしなかった。しかし、1361ねんだいなな京都きょうとたたか南北なんぼくあさ疲弊ひへいしていた。これに後村上天皇ごむらかみてんのう和平わへいかんがえるようになり、また、足利あしかが義詮よしあきら融和ゆうわ路線ろせんをとるようになる。しかし、後村上天皇ごむらかみてんのう崩御ほうぎょ義詮よしあきら薨去こうきょにより和平わへい結果けっかてき実現じつげんしなかった。

1369ねん幕府ばくふ正儀まさき帰順きじゅんさせることに成功せいこうした。この要因よういんには後村上天皇ごむらかみてんのうあといで即位そくいした長慶天皇ちょうけいてんのう強硬きょうこう政策せいさくにより、正儀まさき孤立こりつしたことがげられる。これにより、南朝なんちょうさらなる衰退すいたい余儀よぎなくされた。

1383ねんにはなつけ親王しんのう北畠きたばたけ顕能あきよしが、また、1385ねんには宗良親王むねながしんのう薨去こうきょし、正儀まさよしすうねん以内いない薨去こうきょした。これにより長慶天皇ちょうけいてんのうこう亀山天皇かめやまてんのう譲位じょういした。そしてあといだ楠木くすのき正勝まさかつやぶれ、千早ちはやじょう落城らくじょうした。

また、足利あしかが義満よしみつ明徳めいとくらん有力ゆうりょく守護しゅご大名だいみょうだった山名やまなちからけずり、和平わへい交渉こうしょう開始かいし、そして1392ねん明徳めいとくやくつい南北なんぼくあさあらそいは終焉しゅうえんむかえた。

しかし、北朝ほくちょうやく内容ないようらされなかった。そのうえ条件じょうけんには国衙こくがりょう大覚寺だいかくじみつる領地りょうちとし、両統りょうとう迭立をするというものがあったが、国衙こくがりょうはあまりられなかったうえ両統りょうとう迭立も反故ほごとなり、幕府ばくふたいして対抗たいこうするこう南朝なんちょう勢力せいりょくまれた。

室町むろまち時代じだい後期こうき戦国せんごく時代じだい

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1443ねんこう南朝なんちょうにより内裏だいり襲撃しゅうげきされ、禁闕きんけつへん発生はっせいする。これにより三種さんしゅ神器じんぎ宝剣ほうけん神璽しんじうばわれてしまう。

宝剣ほうけんぐにつかったものの、神璽しんじ1457ねん長禄ちょうろくへん赤松あかまつ奪還だっかんするまではこう南朝なんちょうのもとにあった。

1467ねん発生はっせいした応仁おうにんらん影響えいきょうにより、即位そくいれい大喪たいそうれいのための資金しきん不足ふそくした。これにより朝廷ちょうてい武家ぶけたいしてうれかんえていくことになる。ただし、幕府ばくふ武家ぶけ官位かんいたまわさい幕府ばくふとおこと統制とうせいはかっていたが、幕府ばくふ権威けんい権力けんりょく低下ていかすると幕府ばくふとおさずにたまったり、僭称せんしょうしたりするれい増加ぞうかした。たとえば、大名だいみょうちゅうでもよんしょく以外いがいくのをゆるされなかった左京さきょう大夫たいふしょう大名だいみょう複数ふくすう大名だいみょう就任しゅうにんすることができた。また、大内おおうち義隆よしたか多額たがく献金けんきんにより足利あしかが義晴よしはるをも上回うわまわしたがえ兵部ひょうぶきょう就任しゅうにんしている。

安土あづち桃山ももやま時代じだい

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1568ねん織田おだ信長のぶなが足利あしかが義昭よしあきほうじて上洛じょうらくした。これにより織田おだ政権せいけん成立せいりつするが1573ねんには義昭よしあききょうから追放ついほうした。しかし、この時点じてんでは朝廷ちょうてい義昭よしあき征夷大将軍せいいたいしょうぐんからかいかんしていない。

また、信長のぶなが1574ねん参議さんぎいて以降いこうわずか3ねん右大臣うだいじんまでのぼめた。しかし、1578ねん右大臣うだいじんけんみぎ近衛このえ大将たいしょうしたのち官職かんしょくかずくらいであった。また、信長のぶなが和平わへい交渉こうしょうさい征伐せいばつおこなさい天皇てんのう勅命ちょくめい利用りようし、政権せいけん権力けんりょくつよめた。

1582ねんにはさんしょく推任問題もんだいしょうじる。これは信長のぶなが太政大臣だじょうだいじん関白かんぱく征夷大将軍せいいたいしょうぐんのいずれかにくというものであったが、いずれにもまえ本能寺ほんのうじへん横死おうししてしまう。

同年どうねん羽柴はしば秀吉ひでよしへん首謀しゅぼうしゃである明智あけち光秀みつひで山崎やまざきたたかやぶり、以降いこう1585ねんまでにはん秀吉ひでよし勢力せいりょく一掃いっそうした。また、同年どうねん関白かんぱくしょうろん発生はっせいすると、秀吉ひでよしはこれに介入かいにゅう近衛このえぜんひさ猶子ゆうしになることで武家ぶけはじめて関白かんぱく就任しゅうにんし、1586ねんには豊臣とよとみせいたまわり、豊臣とよとみ政権せいけん成立せいりつした。また、1585ねん〜1587ねん天皇てんのうみことのりれいそう無事ぶじれいされた。

そして1590ねんまでにそう無事ぶじれい違反いはんした大名だいみょう攻略こうりゃくつい天下てんか統一とういつした。

しかし、秀吉ひでよし武家ぶけ関白かんぱくせい維持いじのために関白かんぱく豊臣とよとみ秀次しゅうじゆず太閤たいこうとなり、関白かんぱくしょく豊臣とよとみ世襲せしゅうとしようとした。だが、秀次しゅうじ事件じけんにより関白かんぱく空位くういになると、豊臣とよとみ秀頼ひでより関白かんぱくがせるために、徳川とくがわ家康いえやすのぞいて関白かんぱく大臣だいじんだれけようとしなかった。そのため、朝廷ちょうていでの宮中きゅうちゅう行事ぎょうじ官位かんい昇進しょうしんとどこおることになる。

1598ねん秀吉ひでよしぬと、武家ぶけなかでは唯一ゆいいつ大臣だいじんである家康いえやす秀吉ひでよし追放ついほうされていた菊亭きくていはる右大臣うだいじんかえにんする手続てつづきをとった。

江戸えど時代じだい

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1603ねん家康いえやす1600ねんきた関ヶ原せきがはらたたか勝利しょうりし、征夷大将軍せいいたいしょうぐん就任しゅうにんした。江戸えど幕府ばくふ成立せいりつする。また、朝廷ちょうてい監視かんしする京都きょうと所司代しょしだいかれた。

1609ねん猪熊いのくま事件じけんきると幕府ばくふ朝廷ちょうていふか介入かいにゅうし、こう陽成ようぜい天皇てんのう退位たいいすることになる。

1615ねんには朝廷ちょうてい行動こうどう制限せいげんする禁中きんちゅうなみ公家くげしょ法度はっと幕府ばくふさだめた。また、これにより、公家くげ官位かんい武家ぶけ官位かんい完全かんぜんけられ、武家ぶけ官位かんいくには幕府ばくふ承認しょうにん原則げんそくまれた。

1853ねんマシュー・ペリー浦賀うらが来航らいこう幕府ばくふ開国かいこくもとめた。そして1854ねん幕府ばくふ日米にちべい和親わしん条約じょうやく締結ていけつ開国かいこくした。また、1858ねんには日米にちべい修好しゅうこう通商つうしょう条約じょうやく締結ていけつしようとする。しかし、老中ろうじゅうである堀田ほった正睦まさとし孝明天皇こうめいてんのう条約じょうやく締結ていけつ勅許ちょっきょようとした。しかし、孝明天皇こうめいてんのう薪水しんすい給与きゅうよについてはみとめていたが、開港かいこうおよびひらきについては反対はんたいしていた。また、公卿くぎょう反対はんたい廷臣ていしんはちじゅうはちきょうれつ参事さんじけん発生はっせいした。そのため、正睦まさとし勅許ちょっきょることができなかった。

1860ねん大老たいろうである井伊いい直弼なおすけ元々もともと勅許ちょっきょなしに条約じょうやく締結ていけつするのは反対はんたいだった。しかし、松平まつだいらただしかた勅許ちょっきょ不要ふようとして、直弼なおすけ意見いけん勅許ちょっきょしに日米にちべい修好しゅうこう通商つうしょう条約じょうやくむすばれる。

1863ねんにははちがつじゅうはちにち政変せいへん発生はっせいし、長州ちょうしゅうはん攘夷じょうい過激かげき公家くげ排除はいじょするが1864ねんには禁門きんもんへん発生はっせいし、長州ちょうしゅうはん朝敵ちょうてきとなり、だいいち長州ちょうしゅう征伐せいばつつながる。

1867ねん徳川とくがわ慶喜よしのぶ政権せいけん朝廷ちょうてい返上へんじょうし、大政奉還たいせいほうかんをした。また、同年どうねん朝廷ちょうてい王政おうせい復古ふっこだい号令ごうれいはっし、王政おうせい復古ふっこをした。

大政奉還たいせいほうかん王政おうせい復古ふっこによって政治せいじ権力けんりょく回復かいふくした「朝廷ちょうてい」は、旧制きゅうせいした太政官だじょうかんせい採用さいようした。しかし、これは律令制りつりょうせいはいして成立せいりつしたまった異質いしつなもので、旧来きゅうらい朝廷ちょうてい機構きこう事実じじつじょう廃止はいしされ、しん政府せいふによって近代きんだい国家こっか体裁ていさいととのえられ、 1885ねん太政官だじょうかんせい廃止はいしして内閣ないかく制度せいど発足ほっそくしたことにより、政治せいじ機構きこうとしての「朝廷ちょうてい」は名実めいじつども消滅しょうめつした。

朝廷ちょうてい幕府ばくふ

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鎌倉かまくら幕府ばくふ成立せいりつにより政治せいじ実権じっけん武家ぶけうつって以降いこうも、天皇てんのうちょうとする「朝廷ちょうてい」は存在そんざいつづけた。

今日きょうにおいて「朝廷ちょうてい」という言葉ことばは「幕府ばくふ」に対応たいおうする言葉ことばとしてよく使つかわれるが、これは天皇てんのう公家くげ公家くげ政権せいけん)と武家ぶけ武家ぶけ政権せいけん)を対立たいりつした存在そんざいとしてとらえるようになった江戸えど時代じだい中期ちゅうき以降いこう影響えいきょうつよい。鎌倉かまくら時代ときよ鎌倉かまくら殿どの)、室町むろまち時代ときよ室町むろまち殿どの)にあって征夷大将軍せいいたいしょうぐん公方くぼう)による政権せいけんは「幕府ばくふ」と呼称こしょうされておらず、「武家ぶけ政権せいけん幕府ばくふ」という用例ようれい一般いっぱんてきになったのは江戸えど幕府ばくふ後期こうきいたってからであった。そもそも「朝廷ちょうてい」は京都きょうと固有名詞こゆうめいしではなく、「江戸えど幕府ばくふ」をして「朝廷ちょうてい」とれいさえひろられたのである。武家ぶけ政権せいけん幕府ばくふ)にたいする公家くげ政権せいけん朝廷ちょうてい)という用法ようほう近世きんせいもしくは近代きんだい所産しょさんといえる。

朝廷ちょうてい式微しきびろん

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皇室こうしつ式微しきびろん」ともいう[8]。「式微しきび」とは経済けいざいてき衰退すいたいした状態じょうたいすが、戦国せんごく時代じだい朝廷ちょうてい衰退すいたいしていたという論調ろんちょう江戸えど時代じだいつよまる[9]

その説話せつわひとつとして、『慶長けいちょう軍記ぐんきしょう』には、「禁裏きんり紫宸殿ししんでん築地つきじ破壊はかいのまま放置ほうちされ、三条さんじょう大橋おおはしのたもとから内侍所ないしどころろうそくひかりがえた」といったものがある。またこう奈良なら天皇てんのう百人一首ひゃくにんいっしゅや『伊勢物語いせものがたり』など色紙いろがみ宸筆しんぴつめ、ものしたため、こう奈良ならいんのものがいまおおのこっているとした伝説でんせつしょうじ、『高野たかの春秋しゅんじゅう』にも「奈良ならみかど時代じだい大内おおうち困窮こんきゅうし」としるされる。

こうした説話せつわ大戦たいせん以前いぜん官学かんがくアカデミズムの著作ちょさくなかでも史実しじつとして引用いんようされており、れいとして、渡辺わたなべゆう黒板こくばん勝美かつみがいる[8]。しかし奥野おくの高廣たかひろはこれらの式微しきびろん後世こうせい編纂へんさんぶつ批判ひはんてき墨守ぼくしゅした妄説であると主張しゅちょうし、皇室こうしつ経済けいざいしょ大名だいみょう土豪どごうによる献金けんきんなどの状況じょうきょう詳細しょうさいろん[10]式微しきびろん近世きんせい誇張こちょうぎないと結論けつろんづけた[11]

朝廷ちょうてい分裂ぶんれつ

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みずのえさるらんさい大海人皇子おおあまのおうじ中心ちゅうしんとする飛鳥ひちょう朝廷ちょうてい大友皇子おおとものおうじ弘文天皇こうぶんてんのう)を中心ちゅうしんとする近江おうみ朝廷ちょうていとが対立たいりつした。この内乱ないらんでは飛鳥あすか朝廷ちょうていがわ勝利しょうりし、大海人皇子おおあまのおうじ天武天皇てんむてんのうとして即位そくいした。

また、たてたけし新政しんせいののち、朝廷ちょうてい後醍醐天皇ごだいごてんのうほうじる大覚寺だいかくじみつる南朝なんちょう吉野よしの朝廷ちょうてい)と、持明院じみょういんみつるぞくする光明こうみょう天皇てんのうようして京都きょうと所在しょざいした北朝ほくちょうとにかれて対立たいりつした。ここでは、朝廷ちょうていが2つに分立ぶんりつしたことから、この時代じだいを「南北なんぼくあさ時代じだい」とんでいる。南朝なんちょうがわ南北なんぼくあさ合一ごういつ確約かくやくされた明徳めいとくやく反故ほごにされたとして、15世紀せいきまで活動かつどうつづけた。これをこう南朝なんちょうという。

さらに、くすりへんにおける嵯峨天皇さがてんのう平城ひらじろ上皇じょうこう関係かんけい、またうけたまわ寿ことぶきひさしらん終末しゅうまつにおける安徳天皇あんとくてんのう後鳥羽ごとば天皇てんのう関係かんけい戊辰戦争ぼしんせんそうにおいても奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめいにより東武とうぶ天皇てんのう擁立ようりつされたというせつがあるひとしいちくん万民ばんみん建前たてまえとする朝廷ちょうていではあったが、実際じっさいにはすう分裂ぶんれつきている。

官制かんせい

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中央ちゅうおう官制かんせい

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地方ちほう官制かんせい

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官位かんい相当そうとうひょう 

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養老ようろうれい

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  かん しょう しょく りょう つかさ
神祇官じんぎかん 太政官だじょうかん 中務なかつかさしょう 式部しきぶしょう
治部じぶしょう(a)
みんしょう
兵部ひょうぶしょう
刑部おさかべしょう(b)
大蔵省おおくらしょう(c)
みや内省ないせい
中宮ちゅうぐうしょく ひだり右京うきょうしょく
摂津せっつしょく
大膳だいぜんしょく(a)
左右さゆうだい舎人とねりりょう
だい学寮がくりょう(a)
木工もっこうりょう
雅楽ががくりょう(b)
玄蕃げんばりょう
主計しゅけいりょう(c)
主税しゅぜいりょう(d)
図書としょりょう
左右さゆうりょう(e)
左右さゆう兵庫ひょうごりょう
内蔵ないぞうりょう(a)
ぬい殿どのりょう
大炊おおいりょう
くらいりょう
陰陽いんようりょう(b)
しゅ殿しんがりりょう
典薬てんやくりょう(c)
兵馬へいば
造兵ぞうへい
鼓吹こすい
贓贖
しゅうごく
てん
正親おうぎ
鍛冶かじつかさ
畫工がこう
うちくすり(a)
しょりょう
掃部
内膳ないぜん(b)
造酒ぞうしゅ
かんやつ
園池そのいけつかさ
東西とうざい
うち兵庫ひょうご
土工どこう
葬儀そうぎ
采女うねめ
しゅふね
うるし
ぬい
織部おりべつかさ(a)
隼人はやと
うち礼司れいじ
しゅみず
しゅあぶら
うち掃部
筥陶
うちしみ(a)
しゅ鷹司たかつかさ
せいいち
したがえいち
太政大臣だじょうだいじん
せい
したがえ
左大臣さだいじん
右大臣うだいじん
せいさん 大納言だいなごん
したがえさん
せいよん うえ きょう
した きょう
したがえよん うえ 左右さゆうだいべん
した はく 大夫たいふ
せい うえ 左右さゆうちゅうべん 大輔だいすけ 大夫たいふ
した 左右さゆうしょうべん 大輔だいすけ
だい判事はんじ(b)
したがえ うえ しょう あたま
した 大副おおそい 少納言しょうなごん 侍従じじゅう
だいかんぶつ
しょう あきら あたま
せいろく うえ しょうふく 左右さゆうだいべん だい内記ないき ただし ただし
内膳ないぜん奉膳ぶんぜ(b)
した だいすすむ だいすすむ
ちゅう判事はんじ(b)
すけ
大学だいがく博士はかせ(a)
うちくすり侍医じい(a) ただし
したがえろく うえ だいゆう しょうすすむ
ちゅうかんぶつ
しょうすすむ 大進たいしん 権助ごんすけ(ごんのすけ) すけ ただし
した しょうゆう しょう判事はんじ(b)
大蔵おおくらだいしゅ(c)
しょうすすむ 大進たいしん 権助ごんすけ(ごんのすけ) ただし
せいなな うえ だいそと
左右さゆうしょうべん
ちゅう内記ないき
だいろく
だいろく しょうすすむ 内蔵ないぞうだいしゅ鑰(a)
した しょうかんぶつ
だいしゅすず
判事はんじだいぞく(b) しゅひしお(a)
しゅ菓餅(a)
だいまこと
大学だいがくじょきょう(a)
博士はかせ(c)
陰陽いんよう博士はかせ(b)
天文てんもん博士はかせ(b)
したがえなな うえ しょうそと しょうまこと
おと博士はかせ(a)
しょ博士はかせ(a)
さん博士はかせ(a)
まこと
陰陽いんよう(b)
こよみ博士はかせ(b)
咒禁博士はかせ(c)
した 大典たいてん 刑部おさかべだいかい(b)
大蔵おおくらしょうしゅ鑰(c)
医師いし(c)
博士はかせ(b)
はり博士はかせ(c)
ゆう ゆう
内膳ないぜんてんぜん(b)
せいはち うえ しょう内記ないき
しょうろく
しょうしゅすず
しょうろく
てんかわ(c)
内蔵ないぞうしょうしゅ鑰(a)
咒禁(c)
はり(c)
薬園やくえん(c)
てんくつ(a)
ゆう
した だい 治部じぶだいかい(a)
刑部おさかべちゅうかい(b)
判事はんじしょうぞく(b)
だいぞく 按摩あんま博士はかせ(c) ゆう
したがえはち うえ しょう しょうてん しょうぞく だいぞく
雅楽ががくしょ(b)
うま(e)
按摩あんま(c)
した 治部じぶしょうかい(a)
刑部おさかべしょうかい(b)
しょうぞく
しゅ計算けいさん(c)
主税しゅぜいさん(d)
だいぞく
だいはつ うえ しょうぞく だいれい れい
した しょうれい れい
挑文(a)
しょうはつ うえ れい
しみ(a)
した れい
  • 養老ようろうれい官位かんいれいにより作表さくひょう
  • 特定とくていかんのみにぞくする官職かんしょくについては、対応たいおう関係かんけいを(a)(b)(c)…でしめしている。
  • 参考さんこう文献ぶんけん吉川弘文館よしかわこうぶんかん編集へんしゅうへん日本にっぽん必携ひっけい吉川弘文館よしかわこうぶんかん2006ねんISBN 4642013490
  ぼう かん しょ だい 大宰府だざいふ 国司こくし いえ
春宮とうぐうぼう 舎人とねりかん
主膳しゅぜんかん
しゅぞうかん
しゅ殿しんがりしょ
おもしょしょ
しゅ漿署
しゅこうしょ
しゅへいしょ
しゅうましょ
弾正だんじょうだい 衛門えもん
ひだり衛士えじ
みぎ衛士えじ
ひだり兵衛ひょうえ
みぎ兵衛ひょうえ
大国たいこく うえこく 中国ちゅうごく したこく
せいいち
したがえいち
せい
したがえ
せいさん
したがえさん そち
せいよん うえ 東宮とうぐうでん
した 大夫たいふ
したがえよん うえ いん
した
せい うえ とく 大弐だいに
した
したがえ うえ とく もり
した あきら
東宮とうぐう学士がくし
しょう もり 一品いっぴん家令かれい
しょくごといち家令かれい
せいろく うえ だいちゅう ひん家令かれい
した しょうちゅう だいかん かい もり
したがえろく うえ 大進たいしん ただし しょうかん かい 一品いっぴん家扶かふ
三品みしな家令かれい
しょくごといち家扶かふ
しょくごと家令かれい
した しょうすすむ くび 大尉たいい だい判事はんじ もり
せいなな うえ だい 少尉しょうい 大工だいく
しょう判事はんじ
大典たいてん
防人さきもりただし
ひん家扶かふ
よんひん家令かれい
した 巡察じゅんさつ 大尉たいい 主神しゅしん だいじょう
したがえなな うえ 少尉しょうい しょうじょう じょう 一品いっぴんだいしたがえ
一品いっぴん文学ぶんがく
三品みしな家扶かふ
しょくごといちだいしたがえ
しょくごとせいさん家令かれい
した だいおさむ博士はかせ 一品いっぴんしょうしたがえ
ひんしたがえ
ひん文学ぶんがく
よんひん家扶かふ
しょくごといちしょうしたがえ
しょくごとしたがえさん家令かれい
せいはち うえ しょう しょうてん
陰陽いんよう
医師いし
しょうこう
さん
防人さきもりゆう
おもせん
しゅくりや
じょう
した だいぞく 大志たいし
医師いし
三品みしなしたがえ
三品みしな文学ぶんがく
よんひん文学ぶんがく
しょくごとしたがえ
したがえはち うえ しょうぞく しょうこころざし 大志たいし
医師いし
大目おおめ よんひんしたがえ
した しょうこころざし しょう 一品いっぴん大書たいしょ
だいはつ うえ 判事はんじだいれい 一品家少書吏
ひん大書たいしょ
しょくごと一位家少書吏
した 判事はんじしょうれい
防人さきもりれい
二品家少書吏
しょうはつ うえ 三品みしなしょ
よんひんしょ
しょくごと大書たいしょ
しょくごと二位家少書吏
した しょくごとさんしょ
  • 養老ようろうれい官位かんいれいにより作表さくひょう
  • 参考さんこう文献ぶんけん吉川弘文館よしかわこうぶんかん編集へんしゅうへん日本にっぽん必携ひっけい吉川弘文館よしかわこうぶんかん2006ねんISBN 4642013490

れいそとかん

編集へんしゅう
  かんしょ しょく りょう つかさ 使つかい
太政官だじょうかん 蔵人所くろうどどころ 修理しゅうりしょく 内匠たくみりょう
しょりょうりょう
兵庫ひょうごりょう
斎宮いつきりょう(a)
左右さゆうりょう
掃部りょう 斎院さいいん 左右さゆう
近衛府このえふ
検非違使けびいし
せいいち
したがえいち
せい
したがえ
内大臣ないだいじん 別当べっとう
せいさん
したがえさん 中納言ちゅうなごん 大将たいしょう
せいよん うえ 中納言ちゅうなごん
した
したがえよん うえ あたま
した 大夫たいふ 中将ちゅうじょう 別当べっとう
せい うえ 蔵人くろうど
した 少将しょうしょう
したがえ うえ あたま
した あきら あたま 長官ちょうかん
せいろく うえ ろく蔵人くろうど はたかん
した すけ
したがえろく うえ 大進たいしん すけ 次官じかん 大尉たいい
した しょうすすむ 少尉しょうい
せいなな うえ
した だいまこと
主神しゅしん(a)
はた
したがえなな うえ しょうまこと まこと 判官ほうがん
した
せいはち うえ
した だいぞく 大志たいし
したがえはち うえ しょうぞく だいぞく しょうこころざし
した しょうぞく だいぞく しゅてん
だいはつ うえ しょうぞく
した
しょうはつ うえ
した
  • 特定とくていかんのみにぞくする官職かんしょくについては、対応たいおう関係かんけいを(a)(b)…でしめしている。
  • 参考さんこうサイト)官制かんせい大観たいかん


地方ちほう区分くぶん

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律令りつりょう体制たいせい日本にっぽん地方ちほう制度せいど畿七どうしょうされる。七道しちどうのうち、東海道とうかいどう東山ひがしやまみち北陸ほくりくどう南海なんかいどう山陽さんようどう山陰さんいんどうはいずれも畿内きない5かこく畿)にせっしていた。唯一ゆいいつりくせっしていない西海にしうみみちすなわち現在げんざい九州きゅうしゅう地方ちほうには、中央ちゅうおうからの出先でさき機関きかんとして大宰府だざいふかれ、大陸たいりくとの外交がいこう軍事ぐんじおも任務にんむとし、筑前ちくぜん国司こくし兼帯けんたいするとともに西海さいかいどうぞくする諸国しょこく人事じんじ行政ぎょうせい司法しほう一部いちぶそうかんした。その権限けんげんおおきさから「とお朝廷ちょうてい(とおのみかど)」「西御門にしごもん」とばれた。

とお朝廷ちょうてい

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大宰府だざいふあと発掘はっくつ調査ちょうさにより、大宰府だざいふ政庁せいちょうは、だい17世紀せいき後半こうはん-8世紀せいき初頭しょとう)、だい2(8世紀せいき初頭しょとう-10世紀せいき中葉ちゅうよう)、だい3(10世紀せいき中葉ちゅうよう-12世紀せいき)の3つの時期じきのあったことが判明はんめいした。そのうち、だい2だい3ではあさどういん形式けいしき採用さいようされており、じょうぼう整備せいびされて、律令りつりょう国家こっか確立かくりつにあたる8世紀せいき初頭しょとうには、景観けいかんうえでも「とお朝廷ちょうてい」とぶにふさわしい状態じょうたいとなったことがわかる。

領地りょうち

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近世きんせいでは徳川とくがわ家康いえやすによって各地かくちらばっていた朝廷ちょうてい領地りょうち整理せいりされ、山科やましな1まんせきのみとなり、五代ごだい将軍しょうぐん徳川とくがわ綱吉つなよし時代じだいになり、3まんせき加増かぞうされたが、しょう大名だいみょうほどである[12][注釈ちゅうしゃく 5]

近世きんせい日本にっぽん全体ぜんたい石高こくだかが3せんまんせき将軍家しょうぐんけ直轄ちょっかつが400まんせき同書どうしょ家臣かしん400まんせきわせ、800まんせき)としても小規模しょうきぼとわかる。ただし、大名だいみょうからじょにん返礼へんれいとして献上けんじょうされた礼金れいきん進物しんもつ収入しゅうにゅうげんとなり、実質じっしつてき財政ざいせい状態じょうたいは10まんせきなか大名だいみょう匹敵ひってきした[13]

  • 安貞やすさだ元年がんねん(1227ねん)に平安京へいあんきょう内裏だいり」が焼失しょうしつして以来いらい天皇てんのうは「さと内裏だいり」(かり皇居こうきょ)に居住きょじゅうし、これが常態じょうたいすることになるが、中国ちゅうごくのように為政者いせいしゃ大宮おおみや殿どのまうという発想はっそうはなかった[14]。これは中国ちゅうごくのように民族みんぞくとの戦争せんそうによる慢性まんせいてき財政ざいせい逼迫ひっぱく経験けいけんたず[15]、また国内こくない武士ぶし同士どうしによる合戦かっせん自弁じべんたたかうのが原則げんそくであったため、国家こっかだい規模きぼ財政ざいせいをもつ必然ひつぜんせいがなかったことによる[16]
  • 近世きんせい古学こがくでは放伐ほうばつろん肯定こうていされ、幕府ばくふ近世きんせい朝廷ちょうてい政治せいじてき実権じっけんがない理由りゆうをつけたが、幕末ばくまつでは倒幕とうばくがわにも放伐ほうばつろん利用りようされた。
  • 近世きんせいにおける朝廷ちょうていは、外国がいこく王室おうしつとはことなり、「寸鉄すんてつびず」といわれ、独自どくじ軍隊ぐんたいゆうさなかったため、幕末ばくまつ動乱どうらんでは何事なにごとにおいても有力ゆうりょくはん顔色かおいろをうかがわなければならず、この反動はんどうから維新いしん直後ちょくごでは直轄ちょっかつ軍隊ぐんたいをもつべきという貴族きぞく論調ろんちょうがあった[17]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 朝政ちょうせい」という用語ようごは『古事記こじき』ではまった使つかわれておらず、『日本書紀にほんしょき』でも天智てんじたかし皇紀こうき天武天皇てんむてんのうでそれぞれ1箇所かしょ、わずかけい2箇所かしょだけである。
  2. ^ ここでいう「天皇てんのう」は有力ゆうりょく権門けんもんぜいとしての皇室こうしつ意味いみ律令りつりょう体制たいせい崩壊ほうかいしたのち、天皇てんのうせい形式けいしきしたが、中世ちゅうせい天皇てんのうさい高級こうきゅう権門けんもん勢家せいけの1つとして存在そんざいした。なお、「天皇てんのう」という表現ひょうげんについては「あやまった言葉ことばである」とする意見いけんがある[だれによって?]
  3. ^ その成立せいりつ時期じきについて、白石しらいし太一郎たいちろうは3世紀せいき前半ぜんはんの「邪馬台国やまたいこく連合れんごう」とは一応いちおう区別くべつして3世紀せいき中葉ちゅうよう以降いこうに「初期しょきヤマト政権せいけん」が成立せいりつしたとし、はし古墳こふん奈良ならけん)・椿井つばい大塚山おおつかやま古墳こふん京都きょうと)など出現しゅつげん前方後円墳ぜんぽうこうえんふん畿内きないにつくられた時期じきとしている。白石しらいし日本にっぽん時代じだい1 倭国わのくに誕生たんじょう序章じょしょうよん-1 初期しょきヤマト王権おうけん成立せいりつ」p.69-79
  4. ^ 笹山ささやま晴生はるおほか『詳説しょうせつ日本にっぽん』(山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ)、江坂えさかてるわたるほか『高等こうとう学校がっこうしん日本にっぽんB』(桐原書店きりはらしょてん)、加藤かとう友康ともやすほか『高等こうとう学校がっこう日本にっぽんB 改訂かいていばん』(清水しみず書院しょいん)などではいずれも「ヤマト政権せいけん」、大津おおつとおるほか『しん日本にっぽん』(山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ)では「ヤマト(大和やまと政権せいけん」、尾藤びとう正英まさひでほか『新選しんせん日本にっぽんB』(東京書籍とうきょうしょせき)では「大和やまと王権おうけん」などの表現ひょうげん採用さいようされており、高校こうこうでの「大和やまと朝廷ちょうてい」の表記ひょうきはなくなっている。
    一方いっぽう、2006ねん平成へいせい18ねん)における中学校ちゅうがっこう教科書きょうかしょにおける表記ひょうきは、『わたしたちの中学ちゅうがく社会しゃかい 歴史れきしてき分野ぶんや』(日本にっぽん書籍しょせきしんしゃ)、藤岡ふじおか信勝のぶかつほか『改訂かいていばん あたらしい歴史れきし教科書きょうかしょ』(扶桑社ふそうしゃ)の教科書きょうかしょでは「大和やまと朝廷ちょうてい」の表現ひょうげん採用さいようされている。なお、仁藤にとう敦史あつしほか『中学生ちゅうがくせい歴史れきし 日本にっぽんあゆみと世界せかいうごき』(帝国ていこく書院しょいん)では「ヤマト王権おうけん」、大口おおぐち勇次郎ゆうじろうほか『しん中学校ちゅうがっこう歴史れきし 日本にっぽん歴史れきし世界せかい』(清水しみず書院しょいん)、大濱おおはま徹也てつや歴史れきし 日本にっぽんあゆみと世界せかい』(日本にっぽん文教ぶんきょう出版しゅっぱん大阪おおさか書籍しょせき)、笹山ささやま晴生はるお歴史れきし 未来みらいつめて』(教育きょういく出版しゅっぱん)では「大和やまと政権せいけん」であった。
    学習がくしゅう指導しどう要領ようりょうでは2008ねん平成へいせい20ねん)の中学校ちゅうがっこう学習がくしゅう指導しどう要領ようりょう改訂かいていでも「大和やまと朝廷ちょうてい」の用語ようご使用しようされており([1])、高校こうこうでは従来じゅうらい大和やまと朝廷ちょうていによる国土こくど統一とういつ」([2])の文言もんごんがあったが、2009ねん平成へいせい21ねん告示こくじしん学習がくしゅう指導しどう要領ようりょうでは「大和やまと朝廷ちょうてい」の用語ようごられない(「ヤマト王権おうけん」などの用語ようごられず、どう時代じだい日本にっぽんについて「古代こだい国家こっか」との表現ひょうげんのみがられる)。
  5. ^ 最終さいしゅうてき調査ちょうさでは4まんせきえている(「皇室こうしつ財産ざいさん参照さんしょう)。

出典しゅってん

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  1. ^ 吉村よしむら集英社しゅうえいしゃばん日本にっぽん歴史れきし3 古代こだい王権おうけん展開てんかい』「だい4しょう 飛鳥ひちょう」p.117
  2. ^ 熊谷くまがい日本にっぽん歴史れきし03 大王だいおうから天皇てんのうへ』「だい4しょう 王権おうけん転機てんき」P.231
  3. ^ ずい書巻しょかんはちじゅういち·列伝れつでんだいよんじゅうろく
  4. ^ きし日本にっぽん古代こだい7 まつりごとの展開てんかい』「1 あさどう政治せいじのはじまり」p.9-24
  5. ^ 百錬ひゃくれんしょう』の記載きさいによる。
  6. ^ せき争点そうてん日本にっぽん歴史れきし2 古代こだいへんⅠ』「『ヤマト』王権おうけん成立せいりつはいつか」p.53-54
  7. ^ 鬼頭おにがしら朝日あさひ百科ひゃっか 日本にっぽん歴史れきし1 原始げんし古代こだい』「大王だいおう有力ゆうりょく豪族ごうぞく」p.250脚注きゃくちゅう
  8. ^ a b 後述こうじゅつしょ p.245
  9. ^ 後述こうじゅつしょ p.244.
  10. ^ 戦国せんごく時代じだいける皇室こうしつ研究けんきゅう国史こくしがく11ごう
  11. ^ 今谷いまたにあきら戦国せんごく時代じだい貴族きぞく講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ 2002ねん p.245.
  12. ^ 水野みずのはかる江戸えどだい誤解ごかいいろどりしゃ 2016ねん pp.213 - 214.
  13. ^ 週刊しゅうかん朝日あさひムック 『歴史れきしどう vol2[完全かんぜん保存ほぞんばん] 江戸えどらしと仕事しごとだい図鑑ずかん朝日新聞あさひしんぶん出版しゅっぱん 2019ねん p.24.
  14. ^ 後述こうじゅつしょ p.159.
  15. ^ 後述こうじゅつしょ p.159.
  16. ^ 五味ごみ文彦ふみひこ日本にっぽん中世ちゅうせい財団ざいだん法人ほうじん放送大学ほうそうだいがく教育きょういく振興しんこうかい だい2さつ1999ねん(1さつ98ねんISBN 4-595-55432-X p.159.
  17. ^ 磯田いそだみち素顔すがお西郷さいごう隆盛たかもり新潮しんちょう新書しんしょ 2018ねん ISBN 978-4-10-610760-3 p.204.

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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