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摂津国 - Wikipedia

摂津せっつこく

畿内きないぞくするれいせいこくひと

摂津せっつこく(せっつのくに、きゅう字体じたい:攝津せっつこく)は、日本にっぽんれいせいこくひとつで、瀬戸内海せとないかいひがしはし紀伊きい半島はんとう北西ほくせいはしめる地域ちいき現在げんざい大阪おおさかきた中部ちゅうぶ大半たいはん兵庫ひょうごけん南東なんとうたり、大阪おおさか神戸こうべとその周辺しゅうへんなので阪神はんしん(はんしん)とばれることもある。

摂津せっつこく

-摂津せっつこく
-畿内きない
別称べっしょう しゅう(せっしゅう)
所属しょぞく 畿内きない
相当そうとう領域りょういき 大阪おおさかきた中部ちゅうぶ大半たいはん兵庫ひょうごけん南東なんとう
しょもと
国力こくりょく うえこく
ぐんさとかず 13ぐん78さと
国内こくない主要しゅよう施設しせつ
摂津せっつ国府こくふ 1.(推定すいてい大阪おおさか大阪おおさか天王寺てんのうじ
2.(推定すいてい大阪おおさか大阪おおさか中央ちゅうおう
摂津せっつ国分寺こくぶんじ 1.(推定すいてい大阪おおさか大阪おおさか天王寺てんのうじ
2.(推定すいてい大阪おおさか大阪おおさかきた
摂津せっつ国分こくぶ尼寺あまでら推定すいてい大阪おおさか大阪おおさか東淀川ひがしよどがわ
一宮いちのみや 住吉すみよし大社たいしゃ大阪おおさか大阪おおさか住吉すみよし
すわ神社じんじゃ大阪おおさか大阪おおさか中央ちゅうおう
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沿革えんかく

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瀬戸内海せとないかい航路こうろ起点きてんで、淀川よどがわ大和やまとがわ水系すいけいとの結節けっせつてんでもあり国内こくない流通りゅうつう中心ちゅうしんである難波なんば住吉すみよしがあり津国つのくに(つのくに)とばれた。

だい14だい仲哀ちゅうせつ天皇てんのう9ねん神功じんぐう皇后こうごうさんかん征伐せいばつより七道しちどうはま現在げんざい大阪おおさかさかいさかい七道しちどう南海本線なんかいほんせん七道しちどうえき一帯いったい)(現在げんざい大阪おおさか当時とうじ住吉すみよしぐん)に帰還きかんしたとき神功しんこう皇后こうごうへの神託しんたくにより天火てんかあかりいのちながれを一族いちぞく摂津せっつこく住吉すみよしぐん豪族ごうぞく宿禰すくねが、住吉すみよし三神みかみまつる(住吉すみよし大社たいしゃはじまり)。

神武じんむ天皇てんのう即位そくいまえ上町うえまち台地だいち先端せんたん周辺しゅうへん難波なんば埼(なにわさき)に生國しょうごくたましい神社じんじゃ創建そうけん弥生やよい時代じだい後期こうき古墳こふん時代じだい応神天皇おうじんてんのう行宮あんぐう難波なんば大隈おおくまみや(なにわのおおすみのみや)。大王だいおう (おおきみ)と呼称こしょうされた倭国わのくに首長しゅちょう河内かわうち王朝おうちょう始祖しそである仁徳天皇にんとくてんのう上町うえまち台地だいち先端せんたん周辺しゅうへん難波なんば高津たかつみや(なにわのたかつのみや)を皇居こうきょとした。国内こくない流通りゅうつう中心ちゅうしんである難波なんば住吉すみよし開港かいこうされ倭国わのくに統一とういつしていった時代じだいとされる。

593ねん日本にっぽん仏教ぶっきょうである推古天皇すいこてんのう摂政せっしょう聖徳太子しょうとくたいし難波なんばあらりく四天王寺してんのうじ造立ぞうりゅうした。

645ねん孝徳天皇こうとくてんのうふたた難波なんば遷都せんとし、大化たいか改新かいしんばれる新政しんせいはこのおこなわれた。652ねん大王だいおう呼称こしょうされた倭国わのくに首長しゅちょう河内かわうち王朝おうちょう始祖しそである仁徳天皇にんとくてんのう難波なんばだか津宮つのみや跡地あとち周辺しゅうへん日本にっぽん最初さいしょ首都しゅとである難波なんばみや前期ぜんき難波なんばみや難波なんば長柄ながら豊崎とよさきみや)が完成かんせいした。孝徳天皇こうとくてんのうのち飛鳥あすかもどったが、みずのえさるらん勝利しょうりした天武天皇てんむてんのうは、畿内きない外港がいこうかかえる要地ようち難波なんばみやふくとし、国司こくしわりに、津国つのくに管掌かんしょう)する機関きかんとしてとく摂津せっつしょく(せっつしき)をいた。摂津せっつしょくきょうかんとされ、大夫たいふあきらすすむぞく四等官しとうかん構成こうせいされた。

前期ぜんき難波なんばみや天武てんむ焼失しょうしつしたが、かみひさし3ねん726ねん)、聖武天皇しょうむてんのう難波なんばみや後期こうき難波なんばみや)の造営ぞうえい着手ちゃくしゅし、平城京へいじょうきょうふくとした。天平てんぺい16ねん744ねん)にはきょうひとしきょうから難波なんばきょうへの遷都せんと実施じっしされた。聖武天皇しょうむてんのう遷都せんと翌年よくねんふたた平城京へいじょうきょうに遷ったが、その難波なんばふくとして維持いじされた。しかし、桓武かんむあさ長岡京ながおかきょう遷都せんとともなって難波なんばみや解体かいたいされ、ふくじつうしなわれたため、のべれき12ねん793ねん)3がつ9にち摂津せっつしょくはいし、あらたに摂津せっつこくいた。前身ぜんしん摂津せっつしょくからいで「」のかんし、「せっつのくに」ともび、またもと津国つのくにくんみそのままに「つのくに」ともんだ。

難波なんば土砂どしゃ堆積たいせきすすみ、その機能きのう淀川よどがわ分流ぶんりゅうにある神崎かんざき江口えぐちなどにうつっていった。

清和せいわはじめ源経基みなもとのつねもとまんなか摂津せっつもりにんぜられて河辺かべぐん多田ただそうかんかまえ、またその長子ちょうし頼光よりみつ摂津せっつもりき、子孫しそん所領しょりょう継承けいしょうして摂津せっつ源氏げんじしょうした。頼光よりみつ四天王してんのう筆頭ひっとうげられる嵯峨さがはじめみなもとつなは、源満仲みなもとのみつなかむすめ婿むこみなもとあつし仁明にんみょうはじめ)の養子ようしとなり、母方ははかたさとである渡辺わたなべ居住きょじゅうし、渡辺わたなべとなった。

中世ちゅうせい

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平安へいあん時代じだい末期まっきにちそう貿易ぼうえき重視じゅうしした平清盛たいらのきよもり大輪田おおわだはく神戸こうべ兵庫ひょうご)に着目ちゃくもくし、みなと前面ぜんめん人工じんこうとうけいしま)をきずいて安全あんぜん碇泊ていはくもうけようと、私費しひとうじて修築しゅうちく工事こうじおこなった。じんやす3ねん1168ねん)、清盛きよもり出家しゅっけして福原ふくはら神戸こうべ中央ちゅうおうから兵庫ひょうご)に別荘べっそうをかまえ、以来いらいここにんで周辺しゅうへん一帯いったい経営けいえいした。うけたまわ4ねん1180ねん)、清盛きよもり大輪田おおわだはく見下みおろす山麓さんろく福原ふくはらきょうきずき、平安京へいあんきょうからの遷都せんと強行きょうこうした。しかし、11月にはきょうかえとなった。

鎌倉かまくら時代ときよはいると、東大寺とうだいじじゅうみなもと中絶ちゅうぜつしていた大輪田おおわだはく修築しゅうちく事業じぎょうし、やがて兵庫ひょうご(ひょうごのつ)とばれて国内こくないだいいちみなととして発展はってんし、室町むろまち時代ときよには日明ひあがり貿易ぼうえき拠点きょてんとなった。

室町むろまち時代ときよ摂津せっつ守護しゅごしょく管領かんりょう細川ほそかわ世襲せしゅうした。ただし、細川ほそかわ牽制けんせいする意図いとから室町むろまち幕府ばくふ国内こくない各地かくちぶんぐん守護しゅご設置せっちした。このため、室町むろまち時代じだい初期しょき南北なんぼくあさ合一ごういつたした明徳めいとく年間ねんかん前後ぜんこう)に細川ほそかわ安定あんていした支配しはい確立かくりつしていた今日きょう千里せんり丘陵きゅうりょうより東側ひがしがわ地域ちいき島上しまがみぐんしま下郡しもごおりのほぼ全域ぜんいき)を上郡かみごおり(かみのこおり)と総称そうしょうされた。そのおうひさし年間ねんかんまでに千里せんり丘陵きゅうりょう以西いせい摂津せっつ平野ひらの掌握しょうあくした細川ほそかわ豊島としまぐん川辺かわべぐん南部なんぶ武庫むこぐんうさぎはらぐんはちぐん下郡しもごおり(しものこおり)としょうした。ただし、上郡かみごおり下郡しもごおり本来ほんらいぐんさかいまった合致がっちしたものではなく、有馬ありまぐんにおいては播磨はりま守護しゅご赤松あかまつぶんぐん守護しゅごとなって一族いちぞく有馬ありま支配しはいしており、川辺かわべぐん北部ほくぶ能勢のせぐん清和せいわはじめゆかりの多田院ただいんあたえられていた(多田院ただいん御家人ごけにん)がのち同地どうち国人くにびと奉公ほうこうしゅであった能勢のせ細川ほそかわ傘下さんかくわわっている。そして、神崎川かんざきがわ以南いなん西成にしなり東成ひがしなり住吉すみよしの3ぐん(ほぼ現在げんざい大阪おおさか市域しいきべつぶんぐん守護しゅごかれて細川ほそかわ支配しはいからけていたため、かけぐん(かけのこおり)と総称そうしょうされた。かけぐん嘉吉よしきちらん細川ほそかわ支配しはいはいるが守護しゅごである宗家そうけきょうちょういえ)ではなく、庶流であるてんうまや支配しはいするなどことなる支配しはい体制たいせいられた[1]。なお、有馬ありまぐん天文てんもん年間ねんかん赤松あかまつ宗家そうけ衰退すいたいすると、有馬ありま細川ほそかわ実質じっしつ下郡しもごおり守護しゅごだいであった三好みよし)の傘下さんかはいることになる[2]

近世きんせい以降いこう沿革えんかく

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国内こくない施設しせつ

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すべての座標ざひょうしめした地図ちず - OSM
ぜん座標ざひょう出力しゅつりょく - KML

古代こだい摂津せっつ国内こくないには、難波なんば長柄ながらゆたか碕宮難波なんばみや難波なんばきょうとう度々たびたび天皇てんのう住居じゅうきょみや)がかまえられている(「皇居こうきょ#歴代れきだい皇居こうきょ参照さんしょう)。

国府こくふ所在地しょざいちしるした文献ぶんけんつぎとおり。

一方いっぽう史書ししょからはつぎのように推定すいていされる。

  • 難波なんばきょう大阪おおさか天王寺てんのうじ国分こくぶまち
  • のべれき24ねん(805ねん)、江頭えがしら大阪おおさか中央ちゅうおうか) (『日本にっぽん』)
  • てんちょう2ねん(825ねん)、豊島としまぐん (『日本にっぽん』)
  • うけたまわ11ねん(844ねん)、きゅうおおとり臚館 (『ぞく日本にっぽん』)
  • 12世紀せいき住吉すみよし

国分寺こくぶんじ国分こくぶ尼寺あまでら

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摂津せっつ国分寺こくぶんじあと
大阪おおさか天王寺てんのうじ
 
法華寺ほっけじ摂津せっつ国分こくぶ尼寺あまでら伝承でんしょう
大阪おおさか東淀川ひがしよどがわ

神社じんじゃ

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延喜えんぎ式内しきないしゃ

延喜えんぎしきかみめいちょう』には、大社たいしゃ2616しゃ小社しょうしゃ4946しゃけい7562しゃ記載きさいされている(摂津せっつこく式内しきないしゃ一覧いちらん参照さんしょう)。大社たいしゃ16しゃのうち、名神めいしん大社たいしゃ以下いかしめす189しゃである。

総社そうじゃ一宮いちのみや

多田院ただいん境内けいだいに「惣社そうしゃろくしょ権現ごんげん」という神社じんじゃがあったが、これは同地どうち荘園しょうえん惣社そうしゃとされている。

すわ神社じんじゃ大阪おおさか中央ちゅうおう)は「全国ぜんこくいちみやかい」に加盟かめいしており、近世きんせい以降いこうこちらも一宮いちのみやばれるようになっているが、しゃぜい住吉すみよし大社たいしゃおよばなかったとされる。二宮にのみや以下いかしょうである。

守護しゅごしょ

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場所ばしょ不明ふめいだが、国衙こくがちかくというせつがある。

安国寺あんこくじ利生りしょうとう

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  • 安国寺あんこくじ - 大阪おおさか大阪おおさか天王寺てんのうじにあった

諸山しょざん

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摂津せっつこく五山ごさんじゅう制度せいど諸山しょざん五山ごさんじゅう刹にぐ「諸山しょざんかく幕府ばくふ公認こうにん禅宗ぜんしゅう寺院じいんかんてら

  • たからみつるてら神戸こうべ長田ながた) - 開基かいき法燈ほうとう国師こくし南禅寺なんぜんじ法燈ほうとう
  • 福海寺ふくかいじ神戸こうべ兵庫ひょうご) - 開山かいさんざいあん禅師ぜんじ南禅寺なんぜんじそうさとし
  • こうげんてら神戸こうべ中央ちゅうおう) - 開山かいさんあきらごく禅師ぜんじ南禅寺なんぜんじあきらきょく
  • 福厳寺ふくげんじ神戸こうべ兵庫ひょうご) - 開山かいさんふつとう国師こくし南禅寺なんぜんじ大覚だいかく
  • 禅昌寺ぜんしょうじ神戸こうべ須磨すま) - 開山かいさんつきあん禅師ぜんじ南禅寺なんぜんじだいおう
  • 安国寺あんこくじ - 開山かいさん大明だいめい国師こくし現在げんざい廃寺はいじ
  • 栖賢てら - 開山かいさん:竺当和上わじょう大徳寺だいとくじ現在げんざい京都きょうと移転いてん
  • きよしこころてら - 開山かいさんせん渓和けいわじょう現在げんざい廃寺はいじげん 高野山こうのやま真言宗しんごんしゅう
  • ぜんじゅうてら - 開山かいさんしょうたに禅師ぜんじ現在げんざい廃寺はいじ

城郭じょうかく

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摂津せっつこく範囲はんいは、おおむ現在げんざい大阪おおさか淀川よどがわ以北いほくおよび大阪おおさかいき尼崎あまがさきから神戸こうべ三田みたいた兵庫ひょうごけん南東なんとうあたる。みなみ和泉いずみこくひがし河内かわうちこく山城やましろこくきた丹波たんばこく西にし播磨はりまこくとそれぞれせっする。摂津せっつ河内かわうち和泉いずみさんこく国境こっきょうは、現在げんざいさかい方違かたたがえ神社じんじゃ三国山さんごくやま三国みくにたかし)にあったが、明治めいじ4ねん1871ねん)に和泉いずみとの国境こっきょうさかいだい小路こうじから大和やまとがわあらためられ、一部いちぶ和泉いずみ編入へんにゅうされた。

えきりんほんの『節用せつようしゅう』に摂津せっつは「みなみだんきたかん五穀ごこくさきじゅくさかなしおしげる大上おおがみこく也」としるされており、のう漁業ぎょぎょうさかんでゆたかな地勢ちせいであったことがかる。

  • 島上しまがみぐんしま上郡かみごおり)…ぜん5さと現在げんざい高槻たかつき三島みしまぐん島本しまもとまちなど。
  • しま下郡しもごおりしま下郡しもごおり)…ぜん4さと現在げんざい吹田すいた茨木いばらぎ摂津せっつなど。
  • 豊島としまぐんぜん7さと現在げんざい豊中とよなか池田いけだ箕面みのお西部せいぶなど。
  • 能勢のせぐんぜん3さと和銅わどう6ねん713ねん)に河辺かべぐん一部いちぶいて設置せっち現在げんざい豊能とよのぐん能勢のせまち豊能とよのまち
  • 川辺かわべぐん河辺かべぐん)…ぜん8さと現在げんざい尼崎あまがさき東部とうぶ伊丹いたみ宝塚たからづか北部ほくぶなど。
  • 有馬ありまぐんぜん5さと現在げんざい神戸こうべきた北部ほくぶ(きたしん)・三田みた西宮にしのみや北部ほくぶ
  • 武庫むこぐんぜん8さと現在げんざい西宮にしのみや南部なんぶ尼崎あまがさき西部せいぶ宝塚たからづか南部なんぶなど。
  • うさぎはらぐんぜん8さと現在げんざい芦屋あしや神戸こうべ東灘ひがしなだ同市どうしなだ同市どうし中央ちゅうおう東部とうぶなど。
  • はちぐんぜん5さと現在げんざい神戸こうべ兵庫ひょうご長田ながた須磨すま南部なんぶ中央ちゅうおう西部せいぶきた南部なんぶなど。
  • 西成にしなりぐん西にしせいぐん)…ぜん12さと現在げんざい大阪おおさか北西ほくせい
  • 東成ひがしなりぐん東生とうせいぐん)…ぜん5さと現在げんざい大阪おおさか東部とうぶ
  • 住吉すみよしぐんぜん5さと現在げんざい大阪おおさか南西なんせいなど。

島上しまがみぐんしまぐん古代こだい三島みしまぐん大宝たいほう元年がんねん701ねん)に分割ぶんかつされて設置せっちされた。明治めいじ29ねん1896ねん)にさい統合とうごう

明治めいじ改廃かいはい

現在げんざい行政ぎょうせい区分くぶん

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大阪おおさか

以下いか明治めいじ4ねん(1871ねん)まで摂津せっつこくぞくした。

以下いか明治めいじ7ねん(1874ねん)まで摂津せっつこくぞくした。

以下いか明治めいじ35ねん河内かわちこくより編入へんにゅう

兵庫ひょうごけん

人物じんぶつ

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摂津せっつしょく

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摂津せっつ大夫たいふ

摂津せっつもり

鎌倉かまくら幕府ばくふ

室町むろまち幕府ばくふ

大名だいみょう

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戦国せんごく時代じだい

ゆたか

江戸えど時代じだいはん

  • 豊臣とよとみ秀頼ひでより直轄ちょっかつりょう摂津せっつ河内かわうち和泉いずみ65まん7せんせき、1600ねん-1615ねん)→大坂おおさかはん奥平おくだいら松平まつへい(10まんせき、1615ねん-1619ねん)→はいはん大和やまと郡山こおりやまはんてんふう)・天領てんりょう
  • 高槻たかつきはん内藤ないとう(4まんせき、1615ねん-1617ねん)→土岐とき(2まんせき、1617ねん-1619ねん)→松平まつだいら形原かたはら(2まんせき、1619ねん-1635ねん)→岡部おかべ(5まんせき、1635ねん - 1640ねん)→松平まつだいら形原かたはら(3まん6せんせき、1640ねん-1649ねん)→永井ながい(3まん6000せき、1649ねん-1871ねん
  • 尼崎あまがさきはん建部たけべ(1まんせき、1615ねん-1617ねん)→戸田とだ(5まんせき、1617ねん-1635ねん)→青山あおやま(5まんせき→5まん4せんせき→4まん8せんせき、1635ねん-1711ねん)→松平まつだいら桜井さくらい(4まん8せんせき→4まんせき→4まん5せんせき、1711ねん-1871ねん
  • 三田みたはん山崎やまざき(2まん3せんせき、1600ねん-1601ねん)→有馬ありま(2まんせき、1601ねん-1602ねん)→松平まつだいら能見のうみ(3まんせき、1626ねん-1632ねん)→九鬼くき(3まん6せんせき、1632ねん-1871ねん
  • 麻田あさだはん青木あおき(1まん2せんせき、1615ねん - 1871ねん
  • 茨木いばらぎはん片桐かたぎり(2まん8せんせき、1600ねん-1615ねん)→はいはん大和やまと小泉こいずみはんてんふう)・天領てんりょう
  • 中島なかじまはん稲葉いなば(4まん5700せき、1616ねん?-1629ねん)→はいはん丹波たんば福知山ふくちやまはんてんふう)・天領てんりょう
  • あじしたはん織田おだ(3まんせき→1まんせき、1600ねん-1621ねん)→はいはん断絶だんぜつ

武家ぶけ官位かんいとしての摂津せっつもり

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ゆたか以前いぜん

江戸えど時代じだい

合戦かっせん

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 退位たいいした天皇てんのう領地りょうち

出典しゅってん

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  1. ^ 天野あまの忠幸ただゆき摂津せっつにおける地域ちいき形成けいせい細川ほそかわきょうちょういえ」『増補ぞうほばん 戦国せんごくさんこう政権せいけん研究けんきゅう』(清文せいぶんどう、2015ねんISBN 978-4-7924-1039-1
  2. ^ 天野あまの忠幸ただゆき三好みよし摂津せっつ支配しはい展開てんかい」『増補ぞうほばん 戦国せんごくさんこう政権せいけん研究けんきゅう』(清文せいぶんどう、2015ねんISBN 978-4-7924-1039-1
  3. ^ 和名わみょう類聚るいじゅうしょう 20かん国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション)13コマ参照さんしょう
  4. ^ じつあくたしょう 3かん国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション)52コマ参照さんしょう
  5. ^ 節用せつようしゅう えきりんほん国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション)136コマ。
  6. ^ 日本にっぽん中世ちゅうせい国家こっか諸国しょこく一宮いちのみやせい』(2009ねん索引さくいんp. 3。
  7. ^ 日本にっぽん中世ちゅうせい国家こっか諸国しょこく一宮いちのみやせい』(2009ねん)p. 41。

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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