北条ほうじょう 時じ茂しげる(ほうじょう ときしげ/ときもち)は、鎌倉かまくら時代ときよ中期ちゅうきの武将ぶしょう。北条ほうじょう氏しの一門いちもん。北条ほうじょう重しげる時ときの三男さんなんで母ははは正室せいしつの平たいら基はじめ親おやの娘むすめ。常盤ときわ流りゅう北条ほうじょう氏し(常盤ときわ家か)の祖そ。六ろく波は羅ら探題たんだい北方ほっぽう。鎌倉かまくら幕府ばくふ第だい8代だい執権しっけん・北条ほうじょう時宗じしゅうの母方ははかたの叔父おじにあたる。鎌倉かまくら郡ぐん常盤ときわ郷きょうに屋敷やしきを構かまえたため常盤ときわ 時じ茂しげる(ときわ ときしげ/ときもち)とも称しょうされる。
『吾妻あづま鏡きょう』に見みる初出しょしゅつ記事きじは建けん長ちょう2年ねん(1250年ねん)正月しょうがつ3日にちの垸飯で、時とき茂しげるは一いち御ご馬うまを担当たんとうした(10歳さい)。また、同どう4年ねん(1252年ねん)4月がつの新しん将軍しょうぐん宗尊親王むねかたしんのうの鎌倉かまくら到着とうちゃくに際さいしては迎むかえの行列ぎょうれつに加くわわっている(12歳さい)。同どう6年ねん(1254年ねん)3月がつ20日はつか、服喪ふくも中ちゅうの北条ほうじょう実みのる時ときに代かわって、小しょう侍さむらい所しょの別当べっとうとなる(14歳さい)。
建けん長ちょう8年ねん(1256年ねん)4月がつ、同母どうぼ兄けいである長なが時ときの後任こうにんとして、六ろく波は羅ら探題たんだい北方ほっぽうとなり上洛じょうらく(16歳さい)。父ちち重おも時ときの筆ふでになる有名ゆうめいな「極楽寺ごくらくじ殿御とのご消息しょうそく」はこの時ときに時とき茂しげるに与あたえられたものと考かんがえられる。正せい嘉よしみ元年がんねん(1257年ねん)2月がつ22日にち、従したがえ五ご位い下か左近さこん将はた藍あい(17歳さい)。弘ひろ長ちょう元年がんねん(1261年ねん)11月、父ちち重おも時とき死去しきょ。同どう3年ねん(1263年ねん)8月がつには、摂津せっつ・若狭わかさ2カ国かこくの守護しゅご在職ざいしょくが知しられる(23歳さい)。また、同年どうねん11月がつの時とき頼よりゆきの死去しきょに際さいしては一旦いったん鎌倉かまくらに戻もどっている。文ぶん永ひさし元年がんねん(1264年ねん)8月がつ、兄あに長ちょう時じ死去しきょ。また、この年としには10年ねん以上いじょう不在ふざいであった六ろく波は羅ら探題たんだい南方なんぽうに得とく宗むね北条ほうじょう時宗じしゅうの異母いぼ兄けい時どき輔を迎むかえた。同どう3年ねん(1266年ねん)7月がつ20日はつか、廃はいされて鎌倉かまくらから離はなれた前ぜん将軍しょうぐん宗尊親王むねかたしんのうを自みずからの六ろく波は羅ら邸ていに迎むかえた。同どう4年ねん(1267年ねん)10月がつ23日にち陸奥むつ守まもる(27歳さい)。同どう7年ねん(1270年ねん)正月しょうがつ27日にち、六ろく波は羅ら探題たんだい在任ざいにん中ちゅうに京都きょうとにおいて死去しきょ(30歳さい)。六ろく波は羅ら探題たんだいの在職ざいしょくは15年ねんに及およんだ。父ちち重おも時とき、兄あに長ちょう時じとあわせて重じゅう時流じりゅうが40年間ねんかん六ろく波は羅ら探題たんだい北方ほっぽうを担当たんとうしたことになる。
和歌わかもよくし、勅撰ちょくせん集しゅうである「続ぞく古今ここん和歌集わかしゅう」、「続ぞく拾遺しゅうい和歌集わかしゅう」、「新しん後ご撰せん和歌集わかしゅう」に合あわせて4種しゅ載のせられている。子こに時どき範はん、政せい茂しげる、貞さだ茂しげるのほか女子じょし2人にんが知しられる。後のちに六ろく波は羅らを滅ほろぼす足利尊氏あしかがたかうじは曾孫そうそんにあたる。