(Translated by https://www.hiragana.jp/)
鎌倉 - Wikipedia

鎌倉かまくら

現在げんざい神奈川かながわけん鎌倉かまくら中心ちゅうしんたる地域ちいき

座標ざひょう: 北緯ほくい3519ふん07.7びょう 東経とうけい13933ふん06.9びょう / 北緯ほくい35.318806 東経とうけい139.551917 / 35.318806; 139.551917

鎌倉かまくら(かまくら)は、三浦半島みうらはんとう西岸せいがん地名ちめいであり[1]どう半島はんとう基部きぶにあたり、相模さがみわんめんしている[2]

1988ねん鎌倉かまくら付近ふきん空中くうちゅう写真しゃしんみなみ相模さがみわんひがし西にしきたさんぽうやまかこまれた地形ちけいみぎ三浦半島みうらはんとうびる。1988ねん昭和しょうわ63ねん撮影さつえいの8まい合成ごうせい作成さくせい国土こくど交通省こうつうしょう 国土こくど地理ちりいん 地図ちず空中くうちゅう写真しゃしん閲覧えつらんサービス空中くうちゅう写真しゃしんもと作成さくせい
鎌倉の位置(100x100内)
鎌倉
鎌倉かまくら赤丸あかまるかこったあたり)と三浦半島みうらはんとう位置いち関係かんけい
鶴岡つるおか八幡宮はちまんぐう
鎌倉かまくら大仏だいぶつ高徳院こうとくいん 阿弥陀如来あみだにょらいぞう

平安へいあん時代じだい河内かわうちはじめのゆかりのとなり[2]みなもと頼朝よりとも1180ねんうけたまわ4ねん)に当地とうち根拠地こんきょち[2]後年こうねんここで鎌倉かまくら幕府ばくふひらいて[注釈ちゅうしゃく 1]政治せいじ中心ちゅうしんとなった[1]。しかし、室町むろまち時代ときよ末期まっきには衰退すいたいした[2]

現在げんざい長谷ながたに大仏だいぶつ鶴岡つるおか八幡宮はちまんぐう鎌倉かまくら五山ごさんなど史跡しせき寺社じしゃおおのこっている[1]。また高級こうきゅう住宅じゅうたくとして有名ゆうめい[1]観光かんこう行楽こうらくとしてもられ、その海岸かいがん由比ヶ浜ゆいがはまおよび材木座ざいもくざ海岸かいがん)は有名ゆうめい海水浴かいすいよくじょうでもある[1]

概要がいよう

編集へんしゅう

奈良なら時代じだい相模さがみこく鎌倉かまくらぐんぐん所在地しょざいちとなり、古代こだいより地域ちいき中心ちゅうしんだった。771ねんまでは東海道とうかいどう経由けいゆ上総かずさこくむかった。

平安へいあん時代じだい桓武かんむたいら当主とうしゅ平直方たいらのなおかた居館きょかんかまえたが、直方のうがたむすめ河内かわうちはじめである源頼義みなもとのよりよしとの婚姻こんいん契機けいきとして鎌倉かまくらゆずわたしたことで河内かわうちはじめのゆかりのとなった。源頼義みなもとのよりよし八幡宮はちまんぐう勧請かんじょうした(鶴岡つるおか八幡宮はちまんぐう)。うけたまわ寿ことぶきひさしらんときみなもと頼朝よりとも大倉おおくら居宅きょたくとなる大倉おおくら御所ごしょをかまえて政治せいじ拠点きょてんとした。

鎌倉かまくら時代ときよには日本にっぽん政治せいじにおいて、重要じゅうよう位置いちめていた。12世紀せいきすえから14世紀せいきなかばの1333ねん元弘もとひろ3ねん)まで幕府ばくふかれ、鎌倉かまくら文化ぶんか全国ぜんこくひろがるなど、おおきなちから場所ばしょとなった。近代きんだいはいってからの鎌倉かまくらには鎌倉かまくら文士ぶんしばれる作家さっか美術家びじゅつかなどの文化ぶんかじんあつまりみ、いくつかのドラマや小説しょうせつなどの舞台ぶたいにもなるなど、ふるくから現代げんだいいたるまで重要じゅうよう場所ばしょとなっている。また、最近さいきんでは小学校しょうがっこう修学旅行しゅうがくりょこうさきとなるなど、おおいににぎわいをせている

現在げんざい鎌倉かまくら中世ちゅうせい鎌倉かまくらとは断絶だんぜつした地割じわりであるが、古都こと保存ほぞんほうによってらん開発かいはつ規制きせいされ、社寺しゃじ史跡しせき神奈川かながわけん唯一ゆいいつ国宝こくほう建築けんちくである円覚寺えんかくじ舎利しゃり殿どのふくめた文化財ぶんかざい比較的ひかくてきおおのこる。また観光かんこう振興しんこうちかられていることもあり、観光かんこうおも産業さんぎょうとしていまなお繁栄はんえいする。

ほんこうでは「歴史れきし都市とし」「文化ぶんか都市とし」「観光かんこう都市とし」としての「鎌倉かまくら」についてべることとする。

天然てんねん要塞ようさい

編集へんしゅう
 
あさえびす奈(朝比奈あさひな切通きりとおし

鎌倉かまくら市街地しがいちひがしきた西にしさんぽうやまかこまれ、みなみ相模さがみわんめんした地形ちけいをなすことから、天然てんねん要害ようがい形容けいようされる。ひがしきた西にしのいずれから鎌倉かまくらはいるとしても「鎌倉かまくらななくち」とばれるやま尾根おねすじ開削かいさくした道路どうろ切通きりどお)をとおらねばならず、後述こうじゅつする赤星あかほしただしただしによる研究けんきゅう以来いらい防御ぼうぎょしやすい土地とちがら」とかんがえられるようになった[3][4][5]鎌倉かまくら幕府ばくふ初代しょだい将軍しょうぐんみなもと頼朝よりともがここを拠点きょてんとしたのは、父祖ふそゆかりの土地とちであったこととともに、こうした地理ちりてき条件じょうけんによる部分ぶぶんおおきかったとされる。

市街地しがいち北西ほくせいには源氏山げんじやま(92メートル)があり、山並やまなみは高徳院こうとくいん鎌倉かまくら大仏だいぶつ)の裏手うらてとおって稲村ヶ崎いなむらがさきまでびている。市街地しがいちきたからひがしにかけてはろく国見山くにみさん(147メートル)、大平山おおひらやま(159メートル)、天台山てんだいざん(141メートル)、衣張山きぬばりやま(120メートル)などのひくやまつらなり、逗子ずしとのさかいたるめし島ヶ崎しまがさき和賀わが江島えじま(わかえじま)方面ほうめんびている。市街地しがいち周辺しゅうへんやまはいずれも標高ひょうこう100~150メートル程度ていどだが、標高ひょうこうひくわりには急坂きゅうざかやアップダウンのはげしい山道さんどうおおいとされ、市街地しがいち北方ほっぽう尾根おねどうには「鎌倉かまくらアルプス」の別称べっしょうがある。

鎌倉かまくらじょう

編集へんしゅう

この地形ちけいてき特徴とくちょうと、九条くじょうけん日記にっきたま』の寿ことぶきひさし2ねん1183ねん)の記事きじに「鎌倉かまくらじょう」という言葉ことばがあることから、赤星あかほしただしただし研究けんきゅう以来いらい当時とうじ鎌倉かまくら全域ぜんいき城塞じょうさい城郭じょうかく都市とし)となされていたとするせつがある[3][4][5]

ただし、この言葉ことば解釈かいしゃくをめぐっては、赤星あかほしにより防御ぼうぎょ施設しせつとされた「さるばたけだい切岸きりぎし」などに代表だいひょうされる山上さんじょう切岸きりぎしじょう人工じんこう地形ちけいが、建築けんちく木材もくざいよう石切場いしきりば採石さいせきじょう)であることが発掘はっくつ調査ちょうさ判明はんめいしたことや[6]、『たま』での「しろ」という言葉ことばが、城郭じょうかくというよりみなもと頼朝よりともの「本拠地ほんきょち」という意味合いみあいで使つかわれているとする齋藤さいとう慎一しんいち指摘してきなどがあり[7]鎌倉かまくら城郭じょうかく都市としなすかについては諸説しょせつがある[8][7]

鎌倉かまくら範囲はんい

編集へんしゅう

現代げんだい鎌倉かまくらいきは、みなみ相模さがみわんめんし、きた横浜よこはまひがし逗子ずし西にし藤沢ふじさわ隣接りんせつした区域くいきで、面積めんせきは39.5平方へいほうキロメートルである。これは周辺しゅうへん腰越こしごえまち(1939ねん合併がっぺい)、深沢ふかさわむら(1948ねん合併がっぺい)、大船おおふなまち(おおふなまち、1948ねん合併がっぺい)が合併がっぺいしたのち市域しいきである。古代こだい鎌倉かまくらはこれよりずっとせま地域ちいきで、前述ぜんじゅつひがしきた西にしさんぽうやまかこまれた地域ちいき相当そうとうし、いわゆる「きゅう鎌倉かまくら」(=鎌倉かまくらななくち内側うちがわ)にあたる。これは鎌倉かまくら市内しない市街地しがいち郊外こうがい位置いちするしょ地域ちいきにも「きた鎌倉かまくら」、「鎌倉山かまくらやま」、「西鎌倉にしかまくら」、「鎌倉かまくら逗子ずしハイランド」とう、「鎌倉かまくら」を名乗なの地区ちくがあり、これらと区別くべつする場合ばあいにももちいられる。なお、「きゅう鎌倉かまくら」の外側そとがわにあるきた鎌倉かまくら地区ちくきゅう大船おおふなまち)は、鶴岡つるおか八幡宮はちまんぐうのすぐ西にしきょぶくりょざか切通きりとおしえた地域ちいきにあるが、もっと鎌倉かまくららしい風情ふぜいのこ地区ちくひとつであるとえる。

鎌倉かまくら時代じだい後期こうきには、「鎌倉かまくら」の範囲はんいは、ひがし六浦むつうら横浜よこはま金沢かなざわ)、西にし片瀬かたせがわ藤沢ふじさわ)、みなみ小坪こつぼ逗子ずし)、きた山内やまうち現在げんざい通称つうしょうきた鎌倉かまくら鎌倉かまくら)にまでひろがった。

なお、現在げんざい横浜よこはま南西なんせいおおむ戸塚とつか瀬谷せやさかえいずみ港南こうなんきゅう永野ながのむらいき)や藤沢ふじさわ一部いちぶおおむ境川さかいがわより東側ひがしがわ)をふくめた地域ちいき鎌倉かまくらぐんばれた(1948ねん消滅しょうめつ)。

鎌倉かまくら幕府ばくふ都市とし計画けいかく鎌倉かまくらろく大路おおじ

編集へんしゅう
 
はまだい鳥居跡とりいど現在げんざいいち鳥居とりいよりもやく200m山側やまがわ歩道ほどう工事こうじちゅう発見はっけんされた。みぎ(および若宮わかみや大路おおじむかがわ)の円形えんけい石敷せきふはしら発掘はっくつ上方かみがた閻魔えんまきょう方向ほうこうへのくるま大路おおじ
 
町屋まちやあと大町おおまちかどちかくの小町こまち大路おおじ魚町うおまちきょうさきつ。大町おおまち大路おおじのほか、べいまちさかなまちつじまちとうしるされている

現在げんざい鎌倉かまくら市街地しがいち(「きゅう鎌倉かまくら地域ちいき)の主要しゅよう道路どうろもうは、鎌倉かまくら時代ときよ都市とし計画けいかくもとづく「大路おおじ」の名残なごりをかなりとどめている。すなわち、鶴岡つるおか八幡宮はちまんぐうから由比ガ浜ゆいがはまかう都市とし計画けいかくじょう中心ちゅうしんせんとしての若宮わかみや大路おおじがその代表だいひょうといえる。このほか、東側ひがしがわ並行へいこうする小町こまち大路おおじ現在げんざい通称つうしょう辻説法つじせっぽうとおり、三浦みうらみちひとし)、おなじく西側にしがわこん大路おおじどう今小路いまこうじ)が、南北なんぼくせん基幹きかん大路おおじしていた。さらに東西とうざいせん基幹きかん大路おおじとしては、北側きたがわ(山側やまがわ)からじゅんに、さん鳥居前とりいまえ横大路よこおおじ下馬げばかどとお大町おおまち大路おおじどう由比ゆひはまどおり、大町おおまちどおり、名越なごやみちひとし)、さらにその南側みなみがわ(うみがわ)にははまだい鳥居跡とりいど(きゅういち鳥居とりいまえ若宮わかみや大路おおじ交差こうさするくるま大路おおじどう琵琶びわ小路こうじほんきょう寺裏てらうら辻子ずしとう)があった。このため、かなりいがんだかたちではあるが、南北なんぼく3ほん東西とうざい3ほんろく大路おおじにより碁盤ごばんじょう道路どうろもう形成けいせいされていた。

このうち、現在げんざいでは「くるま大路おおじ」のみ、一部いちぶはいどうとなっている(六地蔵ろくじぞうちかくから鎌倉かまくらだいいち小学校しょうがっこうまえはまだい鳥居跡とりいど鎌倉かまくら女学院じょがくいんまえとおり、閻魔えんまきょうわたったやく100メートルさき中絶ちゅうぜつ)。後世こうせい横須賀よこすかせん工事こうじによるものであるが、「小町こまち大路おおじ」のさかなまちきょう横須賀よこすかせん三浦みうらみち踏切ふみきりあいだにある横断おうだん歩道ほどうから、ふたたひがし方向ほうこう名越なごし方面ほうめんけるほそ辻子ずしのこっており、「くるま大路おおじ」の名残なごりうかがわれる。なお、このあたりの町名ちょうめいを「つじまち」という(大町おおまちのうち魚町うおまちきょう以南いなんから、踏切ふみきりえて材木座ざいもくざのうちもと八幡やはたあたりまで)。かつてここが、「小町こまち大路おおじ」と「くるま大路おおじ」のつじたっていたためであり、いまつじほんきょうてらつじ薬師堂やくしどうひとし名称めいしょうにそのえんのこしている。

なお、上記じょうき基幹きかん大路おおじ現在げんざい通称つうしょうされている道路どうろめいとにはまぎらわしいものがあるので、注意ちゅういようする。とくまぎらわしいのは、小町こまち大路おおじ小町通こまちどおりである。小町こまち大路おおじすじがえきょうから材木座ざいもくざまでの由緒ゆいしょある大路おおじで、その両側りょうがわには幕府ばくふ高官こうかん御家人ごけにん屋敷やしきならび、とくに大町おおまちかど以南いなん当時とうじ鎌倉かまくら随一ずいいち繁華はんかがいでもあった。このため、日蓮にちれんのいわゆる「辻説法つじせっぽう」も、この大路おおじ彼方此方おちこちおこなわれたものとかんがえられ、いま大路おおじの2箇所かしょ辻説法つじせっぽうあと記念きねん大町おおまちほんきょう寺門てらかどまえおよ小町こまち2丁目ちょうめ)がてられている。いまではこの付近ふきん閑静かんせい住宅じゅうたくがいとなっている。一方いっぽう小町こまちどおは、鎌倉かまくらえきまえから鶴岡つるおか八幡宮はちまんぐうまでの比較的ひかくてきあたらしく名付なづけられた観光かんこう土産みやげどおりであるが、現在げんざいではおおくの行楽こうらくきゃくにぎわう一大いちだい観光かんこうスポットとなっている。

また、現在げんざい、「琵琶びわ小路こうじ」とあやまってばれているだいいちしょうまえみちは、かつての「くるま大路おおじ」の一部いちぶである。なお、往古おうこは、若宮わかみや大路おおじのうち下馬げばかどからくるま大路おおじかどあいだ区間くかん琵琶びわじょう歪曲わいきょくしていたことから、琵琶びわ小路こうじばれていた。

飛鳥あすか奈良なら時代じだい以前いぜん

編集へんしゅう

発掘はっくつ調査ちょうさなど、おも考古学こうこがく分野ぶんや研究けんきゅう成果せいかつうじてその実像じつぞうせまこころみがおこなわれている[9]

鎌倉かまくら市内しないにはおおくの遺跡いせき埋蔵まいぞう文化財ぶんかざい包蔵ほうぞう)があり(とく鎌倉かまくら中心ちゅうしんはほぼ全域ぜんいき遺跡いせきのエリアとなっている[10][11])、旧石器時代きゅうせっきじだい縄文じょうもん時代じだい弥生やよい時代じだい古墳こふん時代じだい遺跡いせき発見はっけんされているが、きゅう石器せっき縄文じょうもん時代じだい遺跡いせきひがし正院しょういん遺跡いせき玉縄たまなわしろ遺跡いせきあわ船山ふなやま遺跡いせきなど)は、おも関谷せきや玉縄たまなわ大船おおふな地区ちくなどの市域しいき北西ほくせい分布ぶんぷし、柏尾川かしおがわ流域りゅういき台地だいちうえ中心ちゅうしん人々ひとびとはじめたことがわかっている[12]

弥生やよい時代じだいはいると、縄文じょうもん時代じだいつづ市域しいき北西ほくせい柏尾川かしおがわ水系すいけい丘陵きゅうりょう台地だいちじょう集落しゅうらく遺跡いせき分布ぶんぷられるが、弥生やよい時代じだい中期ちゅうき後半こうはんからは水稲すいとう耕作こうさくもとめて鎌倉かまくら中心ちゅうしんである滑川なめかわ沖積ちゅうせき低地ていちにも人々ひとびと進出しんしゅつし、低地ていち北側きたがわ滑川なめかわ上流じょうりゅう)の大倉おおくら幕府ばくふ周辺しゅうへん遺跡いせきぐん竪穴たてあな建物たてものぐん集落しゅうらくあと)があらわ[13]弥生やよい時代じだいまつごろには由比ヶ浜ゆいがはま沿岸えんがん海岸かいがん砂丘さきゅうおび位置いちする由比ヶ浜ゆいがはまみなみ遺跡いせき長谷ながたに小路こうじ周辺しゅうへん遺跡いせきなどでも弥生やよい時代じだい集落しゅうらくいとなまれるようになる[14][15]

古墳こふん時代じだい中頃なかごろ後半こうはん5世紀せいきすえ)になると、この砂丘さきゅう地帯ちたい向原むかいはら古墳こふんぐんという古墳こふんぐんつくられ、埴輪はにわ出土しゅつどしている[16]

古墳こふん時代じだいまつ6世紀せいきころ)になると、鎌倉かまくらから三浦半島みうらはんとうにかけては『古事記こじき』にえる「鎌倉かまくらべつ(かまくらわけ)」という古代こだい豪族ごうぞく勢力せいりょくけんであったとかんがえられており、横穴よこあなぐん市内しない丘陵きゅうりょう地帯ちたいおお形成けいせいされた[17]鎌倉かまくらからとなり横浜よこはまさかえあたりまで存在そんざいしている横穴よこあな遺跡いせきなかには、特徴とくちょうてきかたちをした玄室げんしつつものがあり[18]きゅう鎌倉かまくらぐん分布ぶんぷしているとして「鎌倉かまくらがた横穴よこあな」(鍛冶たんやたにしき横穴よこあな)とことがある[19][20]

また海岸かいがん砂丘さきゅうたい長谷ながたに小路こうじ周辺しゅうへん遺跡いせきでは、横須賀よこすかなどの海辺うみべでもられるはこしき石棺せっかん発見はっけんされており、由比ヶ浜ゆいがはま一帯いったい海洋かいようみん集団しゅうだん活動かつどうしていたと推定すいていされている[21]

奈良なら時代じだい律令りつりょう体制たいせいしたでは、鎌倉かまくら相模さがみこく鎌倉かまくらぐんぐんぐん役所やくしょ)がかれ、行政ぎょうせい中心ちゅうしんとなった。現在げんざい御成おなり小学校しょうがっこう中心ちゅうしんとする今小路いまこうじ西にし遺跡いせきでは、整然せいぜんなら大型おおがた掘立柱ほったてばしら建物たてものあと検出けんしゅつされ、おさめた租税そぜいけた「天平てんぺい5ねん733ねん)」めい木簡もっかん出土しゅつどしたことから、鎌倉かまくらぐんあとであることが判明はんめいした[22]

現在げんざい市内しないには、杉本すぎもとてら長谷寺はせでらあまなわ神明しんめい神社じんじゃのように創建そうけん奈良なら時代じだいつたえる寺社じしゃ存在そんざいするが、実際じっさい今小路いまこうじ西にし遺跡いせききゅう千葉ちば遺跡いせき)や若宮わかみや大路おおじ周辺しゅうへん遺跡いせきぐんきゅう千葉ちばひがし遺跡いせき)では古代こだいかわら出土しゅつどしており、古代こだい寺院じいん千葉ちば廃寺はいじ)が存在そんざいしていたことを示唆しさしている[23]

また、万葉集まんようしゅうにも登場とうじょうし、三浦半島みうらはんとう相模さがみこく)から海路かいろつうじて房総半島ぼうそうはんとう下総しもふさこく)へかう古代こだい東海道とうかいどうかよっていた[23]由比ヶ浜ゆいがはま由比ガ浜ゆいがはま中世ちゅうせい集団しゅうだん墓地ぼち遺跡いせきでは、漁労ぎょろうともな奈良なら平安へいあん時代じだい集落しゅうらく遺跡いせきや、祭祀さいしもちいられたぼくこつ出土しゅつどしており[24]古墳こふん時代じだいつづき、古代こだいにおいても沿岸えんがんではうみかかわる人々ひとびと生活せいかつつづけられていた。

なお、蘇我入鹿そがのいるか打倒だとう祈願きがんするために常陸ひたちこく鹿島かしま神宮じんぐうおとずれた藤原鎌足ふじわらのかまたりが、帰途きと霊夢れいむによってかまめた土地とちであることから「鎌倉かまくら」と命名めいめいされたとする伝説でんせつがある。これはかまあし末裔まつえいである藤原ふじわらよりゆきけい将軍しょうぐん地位ちいいた鎌倉かまくら時代じだい中期ちゅうき以後いご成立せいりつした伝説でんせつとみられ、史実しじつではないが、中世ちゅうせいから近世きんせいにかけておおくの地誌ちし採録さいろくされてひろしんじられていた[25]

鎌倉かまくらは、比較的ひかくてきふるくから人々ひとびと居住きょじゅうして古代こだいにはぐんかれ、いにしえ東海道とうかいどうなかあいだ地点ちてんとして伊豆半島いずはんとう房総半島ぼうそうはんとうつな海上かいじょう交通こうつう物流ぶつりゅう要衝ようしょうかんがえられている[26]

平安へいあん時代じだい

編集へんしゅう

平安へいあん時代じだい末期まっきには平直方たいらのなおかた居館きょかんかまえ、平忠常たいらのただつねらん鎮圧ちんあつ源頼信みなもとのよりのぶゆだねて以来いらい河内かわうちはじめゆかりのとなった。『陸奥みちのくはなし』などの軍記物語ぐんきものがたりには頼信よりのぶ息子むすこである源頼義みなもとのよりよし武勇ぶゆうにほれんだ平直方たいらのなおかた頼義よりちかむすめ婿むこむかえて鎌倉かまくらゆずったとつたえている。歴史れきし学者がくしゃ川合かわいやすしは、頼信よりのぶ父子ふし直方ちょくほう京都きょうと本拠ほんきょとする軍事ぐんじ貴族きぞくであり、直方ちょくほう京都きょうとにおいて頼義よりちかむすめ婿むこむかえたのち相模さがみもりにんじられた頼義よりちかのために鎌倉かまくらにあった所領しょりょうゆずったのではないかと推測すいそくしている[27]

鶴岡つるおか八幡宮はちまんぐう敷地しきちかんしては、1982ねん昭和しょうわ57ねん)の発掘はっくつ調査ちょうさ土葬どそう遺骨いこつ寺院じいん遺構いこうおもわれるものが発見はっけんされている。福島ふくしま金治きんじは『おもねしゃばばくしょうだいひゃくじゅうよん妙見みょうけん」に引用いんようされている仁平にだいら3ねん1153ねん)8がつ9にちづけの「妙見みょうけん菩薩ぼさつきょう注進ちゅうしんじょう」のなかで、ひじりあきら鳥羽とば法皇ほうおう藤原ふじわらただしどおり諮問しもんたいして国内こくない妙見みょうけん菩薩ぼさつ信仰しんこう拠点きょてんとして比叡山ひえいざん北谷きただに妙見みょうけんどうならんでげている「鎌倉かまくら生源寺しょうげんじ」がその該当がいとう寺院じいんであった可能かのうせい指摘してきしている。生源寺せいげんじ廃仏毀釈はいぶつきしゃくによってはいされたまつはじめてら岩窟がんくつ不動尊ふどうそんひがしにあった)の前身ぜんしん推測すいそくされており、事実じじつとすれば鶴岡つるおか八幡宮はちまんぐう建設けんせつ移転いてんをしたことになる。福島ふくしま頼朝よりとも以前いぜん鎌倉かまくら地域ちいき江ノ島えのしまふくめる)が天台宗てんだいしゅう重要じゅうよう拠点きょてんであった可能かのうせい指摘してきしている[28]

また、長谷寺はせでらあまなわ神社じんじゃ御霊みたま神社じんじゃ星井ほしいてらもと八幡宮はちまんぐう、荏柄天神てんじんしゃ、もしくはその前身ぜんしん創建そうけんされたと縁起えんぎなどにもとづきかんがえられている。

吾妻あづまあきら初期しょき鎌倉かまくらぞう

編集へんしゅう

なお従来じゅうらい鎌倉かまくら歴史れきしおもて舞台ぶたい登場とうじょうするのはみなもと頼朝よりとも登場とうじょう以降いこうとのかんがえもあり、平安へいあん時代じだい中期ちゅうき以前いぜん鎌倉かまくら実情じつじょうについては文献ぶんけん史料しりょうとぼしく、あまり明確めいかくではないとされていた。また『吾妻あづまあきらうけたまわ4ねん1180ねん)12月12にちじょうの、頼朝よりとも新邸しんてい大倉おおくら御所ごしょ)に入居にゅうきょしたさい記事きじに、「ところもと辺鄙へんぴ、而海人野ひとの叟之がい卜居ぼっきょるいしょうこれ正當せいとう于此時間じかん、閭巷直路ちょくろ村里むらざと授号、これ屋並やなみいらか門扉もんぴ輾軒云々うんぬん。(ここはもともと辺鄙へんぴ土地とちで、漁民ぎょみん農民のうみん以外いがいもうとするものすくなかったが、まさにこのとき〈=頼朝よりとも御所ごしょり〉から、道路どうろぐにされ、村里むらざとにもけられ、家屋かおく門扉もんぴならぶようになったとう)」とあることから、頼朝よりとも入部にゅうぶ以前いぜん鎌倉かまくらは、人家じんかまばらな辺境へんきょうというイメージもあった[29]

上記じょうきの「辺鄙へんぴ土地とち」という描写びょうしゃには、頼朝よりとも業績ぎょうせき称揚しょうようするための演出えんしゅつてき意図いとふくまれているとられており、頼朝よりとも(またはそれ以前いぜんからの河内かわうちはじめたち)が鎌倉かまくら拠点きょてんえらんだ理由りゆうは、むしろ東西とうざいむす海上かいじょう交通こうつう要衝ようしょうという地理ちりてき特性とくせいまえてのことだったのではないかともかんがえられている[30]。また、前述ぜんじゅつ福島ふくしま金治きんじは『吾妻あづまきょう』の表現ひょうげんを「武家ぶけ政権せいけん誕生たんじょう意図いとした説話せつわてき表現ひょうげん」と評価ひょうかし、これはそのまま徳川とくがわ家康いえやす江戸えど入城にゅうじょう逸話いつわにも転用てんようされている可能かのうせいがあるとしている[28]

みなもと鎌倉かまくら

編集へんしゅう
 
でん源頼朝みなもとのよりともぞうぞうぬしについては異説いせつもある。)

康平こうへい6ねん1063ねん)に清和せいわはじめ棟梁とうりょう源頼義みなもとのよりよし由比ゆひごう鶴岡つるおか鎌倉かまくら材木座ざいもくざ)に「鶴岡つるおか若宮わかみや」として、河内かわうちはじめ氏神うじがみである河内かわうちこく石川いしかわぐん壷井つぼい壷井つぼい八幡宮はちまんぐう勧請かんじょうした。このとしは、頼義よりちか陸奥みちのく安倍貞任あべのさだとうち、ぜんきゅうねんやく終結しゅうけつした翌年よくねんである。頼義よりちかは、氏神うじがみとして信仰しんこうする八幡やはたしん戦勝せんしょう祈願きがんしていた。そして、たたかいののち京都きょうと郊外こうがい石清水八幡宮いわしみずはちまんぐう勝利しょうり感謝かんしゃし、本拠地ほんきょちかわ内国ないこく壷井つぼい壷井つぼい八幡宮はちまんぐう勧請かんじょうし、河内かわうちはじめ東国とうごく進出しんしゅつ拠点きょてんである鎌倉かまくら八幡やはたしん分霊ぶんれいまつった。これがいま鎌倉かまくら中心ちゅうしんである鶴岡つるおか八幡宮はちまんぐう起源きげんである。

それから1世紀せいき以上いじょううけたまわ4ねん(1180ねん)、頼義よりちか玄孫げんそんであるみなもと頼朝よりとも鎌倉かまくらりした。頼朝よりともちちあさは、頼義よりちか以来いらいゆかりのある鎌倉かまくらかめだにかんかまえ、頼朝よりとも異母いぼけい義平よしひら大蔵おおくら合戦かっせんでの活躍かつやくもあり関東かんとうつよ基盤きばんっていたが、平治へいじらん平治へいじ元年がんねん/1159ねん)で平清盛たいらのきよもりとのたたかいにやぶれ、関東かんとうびる途中とちゅう尾張おわりこく殺害さつがいされた。これが初陣ういじんであったわか頼朝よりともころされるはずであったが、清盛きよもり継母けいぼにあたる池禅尼いけのぜんに助命じょめい嘆願たんがんゆるされ、摂津せっつ源氏げんじ源頼政みなもとのよりまさ一族いちぞく知行ちぎょうこくでもある伊豆いずひる小島こじまながされた。それから20ねんうけたまわ4ねん(1180ねん)、以仁王もちひとおう頼政よりまさ嫡子ちゃくしの「ぜん伊豆いずまもるみなもとなかつなつうじて全国ぜんこくみなもとはっした令旨れいしほうじた頼朝よりともは、流刑りゅうけいさき伊豆いずたいら打倒だとうへいげる。頼朝よりともぐん石橋いしばしさんたたか神奈川かながわけん小田原おだわら)では敗北はいぼくして、いったん安房あわ千葉ちばけん南部なんぶ)へがるが、ここで軍勢ぐんぜいととのえて、つづ富士川ふじかわたたかでは平維盛たいらのこれもりらの軍勢ぐんぜい圧倒あっとうする。関東かんとう平定へいていした頼朝よりとも父祖ふそゆかりのであり、天然てんねん要害ようがいである鎌倉かまくらはいり、大倉おおくら大蔵おおくら)という場所ばしょかんもうける。現在げんざい鶴岡つるおか八幡宮はちまんぐう東方とうほうよこ国大こくだい附属ふぞく鎌倉かまくら小学校しょうがっこう校舎こうしゃ校庭こうていさかい付近ふきんから清泉きよいずみ小学校しょうがっこうあたりがそのかんあと[31]、ここはのちに「大倉おおくら幕府ばくふ大倉おおくら御所ごしょ)」とばれるようになる。

おなうけたまわ4ねん(1180ねん)、頼朝よりとも八幡宮はちまんぐう鶴岡つるおか若宮わかみや由比ゆひ若宮わかみや)を由比ゆひさと鶴岡つるおかから小林こばやしきょううつす。小林こばやしさと現在げんざい鶴岡つるおか八幡宮はちまんぐう所在地しょざいちであり、「鶴岡つるおか」は地名ちめいごと移動いどうしてきたことになる(なお、由比ゆひ若宮わかみやきゅうには、いまも「もと八幡やはた」という小社しょうしゃのこる)。以後いご鶴岡つるおか八幡宮はちまんぐう鎌倉かまくら象徴しょうちょうとなり、都市とし計画けいかく八幡宮はちまんぐう中心ちゅうしんおこなわれた。寿ことぶきひさし元年がんねん(1182ねん)には八幡宮はちまんぐう表参道おもてさんどう整備せいびされた。現在げんざい鎌倉かまくらのメインストリートである若宮わかみや大路おおじがそれである。当時とうじ水田すいでんなかみちだった若宮わかみや大路おおじは、いしんで周囲しゅうい地面じめんよりかさげする工事こうじおこなわれた。現在げんざいだんかずら」(だんかずら)とばれている、りょうわき車道しゃどうより一段いちだんたかくなった歩道ほどうはその名残なごりである。

鎌倉かまくら時代ときよ

編集へんしゅう
 
鶴岡つるおか八幡宮はちまんぐうだいイチョウ

鎌倉かまくら時代じだい」あるいは「鎌倉かまくら幕府ばくふ」のはじまりをどこにくかは、研究けんきゅうしゃによって見解けんかいかれている。

  1. 頼朝よりとも鎌倉かまくらりしたうけたまわ4ねん(1180ねん)とする。
  2. こう白河しらかわ法皇ほうおうから守護しゅご地頭じとう設置せっち許可きょかされ、平家ひらかたいらなか伊勢いせたいら庶流の平清盛たいらのきよもり一族いちぞくのこと)が壇ノ浦だんのうら滅亡めつぼうした文治ぶんじ元年がんねん(1185ねん)とする。
  3. 頼朝よりとも征夷大将軍せいいたいしょうぐんにんじられたたてひさ3ねん(1192ねん)とする。

どのとしを「鎌倉かまくら時代じだい」の最初さいしょとしとするかについては、うえげた以外いがいにも2、3のせつがあるが、武士ぶしまちとしての鎌倉かまくらはじまりは頼朝よりとも鎌倉かまくらかんかまえた1180ねんとみて大過たいかないであろう。この時点じてんから日本にっぽん政治せいじ体制たいせい変化へんかし、明治維新めいじいしんまで700ねんちかつづく、武家ぶけ社会しゃかい封建ほうけん社会しゃかいはじまったのである。

河内かわうちはじめみなもと頼朝よりともいえ正系せいけい将軍しょうぐんは3だい途絶とだえ、3だい将軍しょうぐんじつあさおいじつあさあにである2だい将軍しょうぐんよりゆき)のおおやけあかつき殺害さつがいされてからは、北条ほうじょう実権じっけんにぎることになる。この当時とうじ12世紀せいきすえ13世紀せいき初頭しょとう)は、京都きょうと中央ちゅうおう政府せいふ院政いんせい)のちからおとろえておらず、中央ちゅうおう首都しゅと)と鎌倉かまくら二元にげんてき支配しはい体制たいせいであったが、うけたまわひさし3ねん(1221ねん)の承久じょうきゅうらんにおける幕府ばくふぐん勝利しょうり以後いご鎌倉かまくらがわ政治せいじてき優位ゆうい決定的けっていてきとなり、鎌倉かまくら名実めいじつどもに、日本にっぽん行政府ぎょうせいふ所在地しょざいちとなったといえる。

北条ほうじょう比企ひき三浦みうら和田わだなど、ライバルとなるおそれのある一族いちぞく次々つぎつぎほろぼし、摂家せっけ将軍しょうぐん親王しんのう将軍しょうぐん名目めいもくてき将軍しょうぐんとして擁立ようりつし、みずからは執権しっけんとして幕府ばくふ機構きこう掌握しょうあくした。3だい執権しっけん北条ほうじょうやすしときだいには、幕政ばくせい中心ちゅうしんとなる将軍しょうぐん御所ごしょ所在地しょざいち大倉おおくら幕府ばくふから北条ほうじょうよしとき大倉おおくらちんない二階堂にかいどう大路おおじかり御所ごしょて、宇都宮うつのみや辻子ずし幕府ばくふ若宮わかみや大路おおじ幕府ばくふへと移転いてんしている[32]

鎌倉かまくら幕府ばくふは13世紀せいき中頃なかごろ以降いこうもとというだい事件じけんがあったものの、政治せいじ体制たいせい一応いちおう安定あんていしていた。13世紀せいき後半こうはんには建長寺けんちょうじ円覚寺えんかくじをはじめとするぜんてらてられ、鎌倉かまくら大仏だいぶつ造立ぞうりゅうされ、鎌倉かまくら五山ごさん成立せいりつや、日蓮にちれん活躍かつやくするなど、仏教ぶっきょう文化ぶんかおおいにさかえた。

そのもと寇をきっかけに幕府ばくふ財政ざいせい逼迫ひっぱくし、うち管領かんりょう長崎ながさき専横せんおうなどで、地方ちほうでは悪党あくとう活動かつどうする。こうしたなか後醍醐天皇ごだいごてんのう倒幕とうばくくわだてる。元弘もとひろ3ねん(1333ねん)、天皇てんのうけた新田にった義貞よしさだぐん鎌倉かまくら陥落かんらくさせ、北条ほうじょうだか一族いちぞく家臣かしんひがししょうてら合戦かっせんにおいて自決じけつし、鎌倉かまくら幕府ばくふ滅亡めつぼうした。

室町むろまち戦国せんごく時代じだい

編集へんしゅう
 
明徳めいとく2ねん/もとなか8ねん(1391ねん時点じてん鎌倉かまくら公方くぼう管轄かんかつこく

たてたけし新政しんせいにおいては関東かんとう統治とうちのため鎌倉かまくら将軍しょうぐんかれ、足利尊氏あしかがたかうじおとうとである直義ただよし成良親王なりながしんのうほうじて派遣はけんされる。35ねん北条ほうじょう残党ざんとう勢力せいりょくによるちゅう先代せんだいらんこり鎌倉かまくら奪還だっかんされると、討伐とうばつのためにおもむいたたかし戦後せんご鎌倉かまくら拠点きょてんたてたけし政権せいけんから離反りはんする。足利あしかがぐんは36ねん京都きょうと奪還だっかんし、京都きょうと武家ぶけ政権せいけん成立せいりつさせ、南北なんぼくあさ時代じだい貞和さだかず5ねん正平しょうへい4ねん、1349ねん)には、鎌倉かまくらみこと基氏もとうじ派遣はけんされ、東国とうごく支配しはいのための出先でさき機関きかんとして鎌倉かまくら設置せっちされる(その長官ちょうかん鎌倉かまくら公方くぼう)。

室町むろまち時代ときよには鎌倉かまくら京都きょうと幕府ばくふ対立たいりつし、えいとおるらんなどがこる。康正こうせい元年がんねん1455ねん)に5代目だいめ鎌倉かまくら公方くぼう足利あしかが成氏しげうじ室町むろまち幕府ばくふがわ対立たいりつし、下総しもうさこく古河ふるかわ茨城いばらきけん古河ふるかわ)にのがれて、以後いご古河ふるかわ公方くぼう」としょうする(とおるとくらん)。とおるとくらん以降いこう相模さがみこく扇ガ谷おうぎがやつ邸宅ていたくっていた扇谷おうぎや上杉うえすぎ勢力せいりょくけんとなるが、そのいえおさむ江戸城えどじょうきずいたことでられる太田おおた道灌どうかんである。英勝寺えいしょうじ付近ふきん扇谷おうぎや上杉うえすぎ太田おおた道灌どうかん屋敷やしきがあったとする伝承でんしょうがある。

なおこの時期じき14世紀せいき15世紀せいき)には、由比ヶ浜ゆいがはま海岸かいがん砂丘さきゅうだい規模きぼ集団しゅうだん墓地ぼちとして使用しようされており、現在げんざい由比ヶ浜ゆいがはまみなみ遺跡いせき由比ヶ浜ゆいがはま中世ちゅうせい集団しゅうだん墓地ぼち遺跡いせきからはすうせんたいぶん人骨じんこつししこつ出土しゅつどしている[33]

あかりおう7ねん8がつ25にち(1498ねん9がつ20日はつか)に発生はっせいしたあかりおう地震じしんで、鎌倉かまくら津波つなみおそわれた。高徳院こうとくいん大仏だいぶつ殿しんがり津波つなみ倒壊とうかいして、鎌倉かまくら大仏だいぶつ露坐ろざとなったとするせつがある。

えいただし9ねん(1512ねん)には北条早雲ほうじょうそううん現在げんざい鎌倉かまくら大船おおふな小田原おだわらじょうささえじょうである玉縄たまなわしろきずいた。しかし、三浦みうら半島はんとう支配しはいけんめぐって、こう北条ほうじょう里見さとみ対立たいりつふかまり、だいひさし6ねん(1526ねん)の鶴岡つるおか八幡宮はちまんぐうたたかでは鎌倉かまくらちゅう戦場せんじょうになっている。

江戸えど時代じだい以降いこう

編集へんしゅう

近世きんせいはいると、江戸えど武家ぶけ政権せいけん成立せいりつし、鶴岡つるおか八幡宮はちまんぐう徳川とくがわ家康いえやす秀忠ひでただ保護ほご社殿しゃでん修理しゅうりおこなわれたが、太田おおた道灌どうかん輩出はいしゅつした鎌倉かまくらが、以降いこう政治せいじおもて舞台ぶたいつことはもはやなかった。

江戸えど時代じだい中期ちゅうき貞享ていきょう2ねん(1685ねん)に徳川とくがわ光圀みつくに自身じしん鎌倉かまくら紀行きこうもと編纂へんさんさせた『新編しんぺん鎌倉かまくらこころざし』が刊行かんこうされると鎌倉かまくら名所めいしょ史跡しせき数々かずかずられるようになり、鎌倉かまくら江戸えど近郊きんこう遊楽ゆうらくとなった。「鎌倉かまくらななくち」「鎌倉かまくらじゅうきょう」「鎌倉かまくらじゅう(じっせい)」などのいわゆる「名数めいすう」もこのしょもとづいている。なお、1706ねん宝永ほうえい3ねん刊行かんこう書物しょもつ風俗ふうぞく文選ぶんせん」(森川もりかわ許六きょろくせん)の「鎌倉かまくら」のこうには、鎌倉かまくら名所めいしょ短歌たんかなどが記載きさいされている[34]

近代きんだいになると、鎌倉かまくらは、海水浴かいすいよくじょう観光かんこうとしてさかえるようになる。また、鎌倉かまくら文士ぶんしばれるおおくの文人ぶんじんらが誕生たんじょうした。現代げんだい鎌倉かまくらは、おおくの史跡しせき観光かんこう、そして良好りょうこう自然しぜん環境かんきょうのこ住宅じゅうたくゆうするエリアとして発展はってんしている。

りゃく年表ねんぴょう

編集へんしゅう

武家ぶけによる社会しゃかい仕組しくみや文化ぶんかは「武家ぶけ古都こと鎌倉かまくら」からひろがり、日本人にっぽんじん価値かちかん行動こうどう様式ようしきおおきな影響えいきょうあたえてきた。これらの精神せいしんてき文化ぶんかてき遺産いさんは、政治せいじ経済けいざい宗教しゅうきょうなど様々さまざま分野ぶんやにおいて、武家ぶけ政権せいけん消滅しょうめつ日本人にっぽんじんのよりどころとしておおくのものが現在げんざいまでがれている。

鎌倉かまくら時代じだいには、鎌倉かまくら文化ぶんかさかえた。仏教ぶっきょうでは、従来じゅうらいからあった真言宗しんごんしゅうりつむねくわえ、鎌倉かまくらしん仏教ぶっきょう禅宗ぜんしゅう浄土宗じょうどしゅう時宗じしゅう日蓮宗にちれんしゅうなど)が興隆こうりゅうし、全国ぜんこくひろまり、その日本人にっぽんじん宗教しゅうきょうのありかた方向ほうこうせい多大ただい影響えいきょうあたえてきた。

この時代じだいには、東国とうごく鎌倉かまくら西国さいこくきょうというふたつの中心ちゅうしんができ、武士ぶし日本にっぽん各地かくち土地とち支配しはいした。遠隔えんかくあいだみなみそうもととの貿易ぼうえきさかんになり、ぜに貨が輸入ゆにゅうされたことにより、貨幣かへい経済けいざいひろがった。これら背景はいけい為替かわせ制度せいど誕生たんじょうするなど、鎌倉かまくら時代じだいはその日本にっぽんにおける経済けいざいてき発展はってん準備じゅんびされた時代じだいともなっていった。

鎌倉かまくら文士ぶんし

編集へんしゅう

鎌倉かまくら文士ぶんしとは、神奈川かながわけん鎌倉かまくらむ(あるいはんでいた)文学ぶんがくしゃ総称そうしょうはやくから横須賀よこすかせんとおり、東京とうきょう出版しゅっぱんしゃへのアクセスもかった鎌倉かまくらは、おおくの文学ぶんがくしゃ美術家びじゅつか芸術げいじゅつこのまれた。夏目なつめ漱石そうせき芥川あくたがわ龍之介りゅうのすけ国木田独歩くにきだどっぽ川端かわばた康成やすなり大佛だいぶつ次郎じろうをはじめとする文人ぶんじんらが鎌倉かまくらみ、あるいは鎌倉かまくら舞台ぶたいとした作品さくひんのこしている。

鎌倉かまくらペンクラブは1933ねん昭和しょうわ8ねん設立せつりつわれている。1938ねん昭和しょうわ13ねん当時とうじ会員かいいんにははやし房雄ふさお大仏だいぶつ次郎じろう大森おおもり義太郎よしたろう大岡おおおか昇平しょうへい太田おおた水穂みずほ川端かわばた康成やすなり横山よこやま隆一りゅういち中里なかさと恒子つねこ野田のだ高梧こうご山本やまもと実彦さねひこ山田やまだ珠樹たまきいま日出海ひでみ小杉こすぎ天外てんがい小林こばやし秀雄ひでお小牧こまき近江おうみ里見さとみ三好みよし達治たつじ島木しまき健作けんさく神西じんざいきよしらの名前なまえがあり、1961ねん昭和しょうわ36ねん)に解散かいさんをしている。その40ねん2001ねん平成へいせい13ねん)にだい鎌倉かまくらペンクラブが三木みきたく会長かいちょうとして設立せつりつされた[35][36]しん鎌倉かまくら文士ぶんしばれる複数ふくすう有名ゆうめい作家さっか鎌倉かまくら移住いじゅうしたが、養老ようろう孟司たけし移住いじゅうしゃではなくまれもそだちも鎌倉かまくらである。鎌倉かまくら文士ぶんし一覧いちらんについては、リンクさき参考さんこうのこと。

唱歌しょうか

編集へんしゅう

1900ねん明治めいじ33ねん)5がつ発表はっぴょうの『鉄道てつどう唱歌しょうかだい1しゅう東海道とうかいどうへん大和田おおわだ建樹たけき作詞さくしぜん64ばん)では、東海道本線とうかいどうほんせんはずれてわざわざ横須賀よこすかせん当時とうじ東海道とうかいどうせん支線しせん)にはいり、鎌倉かまくらに4ばんいている。作者さくしゃ京都きょうと近江おうみ八景はっけい太宰府天満宮だざいふてんまんぐうなど歴史れきしてき土地とち相当そうとう執着しゅうちゃくっていたからとわれ、鎌倉かまくらかんしてはのちには葉山はやま別荘べっそうかまえたりもした。

  • 6.横須賀よこすかゆきは乗替のりかえばれておるる大船おおぶねの つぎは鎌倉かまくらづるおか はじめ古跡こせきたず
  • 7.八幡宮はちまんぐう石段いしだんてる一木いちきだい鴨脚いちょうじゅ(いちょう) 別当べっとうこうあかつきのかくれしと 歴史れきしにあるは此(この)かげ
  • 8.ここにひらきし頼朝よりとも幕府ばくふのあとはなに(いず)かたぞ 松風まつかぜさむくれて こたえぬ石碑せきひこけあおし
  • 9.きたまどかさとし建長寺けんちょうじ みなみ大仏だいぶつ星月夜ほしづきよ 片瀬かたせ腰越こしごえしまも ただ半日はんにちみちぞかし

金沢かなざわ文庫ぶんこ

編集へんしゅう

北条ほうじょうみのるとき邸宅ていたくないつくったとされる武家ぶけ文庫ぶんこ鎌倉かまくらひがし結界けっかいである六浦むつうら称名寺しょうみょうじ横浜よこはま金沢かなざわ)よってながらくまもられてきた。吾妻あづまきょう主要しゅよう編纂へんさんでもある金沢かなざわ文庫ぶんこは、現在げんざい行政ぎょうせい区分くぶんでは鎌倉かまくらではなく横浜よこはまぞくするが、鎌倉かまくら文化ぶんかかたじょうくことができない。

伊藤いとう博文ひろぶみらによる復興ふっこうて、現在げんざい鎌倉かまくら時代じだい中心ちゅうしんとした所蔵しょぞうひん展示てんじ公開こうかいする、神奈川かながわ県立けんりつ歴史れきし博物館はくぶつかんとなっている。称名寺しょうみょうじからの寄託きたくひん中心ちゅうしんとする、国宝こくほう重要じゅうよう文化財ぶんかざいふく古書こしょせきとう文化財ぶんかざい保管ほかんし、調査ちょうさ研究けんきゅう展示てんじするための施設しせつである。2007ねんにはとう文庫ぶんこ保管ほかんされていた木造もくぞうだい威徳いとく明王みょうおうぞう称名寺しょうみょうじ塔頭たっちゅう光明院こうみょういん所有しょゆう)が運慶うんけいさくであることが判明はんめいして話題わだいになった。 

鎌倉かまくらにあるおもな寺社じしゃ

編集へんしゅう

山ノ内やまのうちおうぎだに源氏山げんじやま

編集へんしゅう
山ノ内やまのうち
禅宗ぜんしゅう保護ほごした北条ほうじょう所領しょりょうであったため、おおくのぜんてら往時おうじ名残なごりつたえる。建長寺けんちょうじ円覚寺えんかくじなど、鎌倉かまくら五山ごさんれっせられる格式かくしきたか大寺おおてらなら古都こと表玄関おもてげんかん
現在げんざいではきた鎌倉かまくらばれるこの一帯いったいは、精進しょうじん料理りょうりみせ茶屋ちゃやならび、一休ひとやすみする観光かんこうきゃくにぎわいをせている。数々かずかず名刹めいさつめぐり、鎌倉かまくらまであしをのばすのが、観光かんこう定番ていばんコース。
おうぎだに(おうぎがやつ)、源氏山げんじやま
扇ガ谷おうぎがやつから 化粧けしょうざか、そして 源氏山げんじやままではおもむきのある散策さんさくつづいている。現在げんざい鎌倉かまくらえき西側にしがわ一帯いったいである。
鎌倉かまくらえき西側にしがわはノスタルジックな雰囲気ふんいき小売こうりてん銭湯せんとうなどののこ御成おなりどおりがつづき、ふる時代じだい面影おもかげをよくのこしている。

鶴岡つるおか八幡宮はちまんぐう周辺しゅうへん

編集へんしゅう
  • 鶴岡つるおか八幡宮はちまんぐう - 源頼義みなもとのよりよし河内かわうちはじめ本拠地ほんきょち壺井つぼいすい八幡宮はちまんぐう勧請かんじょうしたもので、もと由比ゆいきょう鎌倉かまくら材木座ざいもくざ)にあり、みなもと頼朝よりとも現在地げんざいちうつす。河内かわうちはじめ守護神しゅごじんであり、鎌倉かまくら象徴しょうちょうてき存在そんざいである。
  • 来迎寺らいこうじ(らいこうじ) - 時宗じしゅう山号さんごうまん光山こうやま開基かいきしょう開山かいさんいちへんまたは一向いっこうともつたえるがしょう法華ほっけどう頼朝よりとも持仏堂じぶつどうきゅうぞう如意輪観音にょいりんかんのんぞう安置あんち
  • たから戒寺 - 天台宗てんだいしゅう山号さんごう金龍きんりゅうさん開山かいさんえんかんめぐみ鎮)。本尊ほんぞん地蔵じぞう菩薩ぼさつ坐像ざぞう重要じゅうよう文化財ぶんかざい。「はぎてら」としてられる。
  • 妙隆寺みょうりゅうじ - 日蓮宗にちれんしゅう山号さんごうあきらあきらさん開基かいき千葉ちばたねさだ開山かいさんにちえい。「なべかむり上人しょうにん」としてられる2せい住持じゅうじにちおや石像せきぞうがある。

二階堂にかいどう金沢かなざわ街道かいどう方面ほうめん

編集へんしゅう

観光かんこうきゃくおお鶴岡つるおか八幡宮はちまんぐう周辺しゅうへんからひがしび、六浦むつうら横浜よこはま金沢かなざわ)へとつづみちが、いにしえ六浦むつうらばれた金沢かなざわ街道かいどう幕府ばくふ交易こうえきみなとであった六浦むつうらみなと商人しょうにんたちが、しお海産物かいさんぶつはこぶ〝しおみち〟としてさかえていた。 鎌倉かまくらもっとふる歴史れきしほこすぎ本寺ほんじなど、風情ふぜいふかてらおおい。周辺しゅうへんやまふかく、んだ谷戸たにとなかにひっそりと古刹こさつたたずむ。

小町こまち大町おおまち材木座ざいもくざ

編集へんしゅう
小町こまち大町おおまち
 
小町こまちどおり(2010ねん1がつ1にち撮影さつえい
 
つじほんきょうてら門前もんぜん辻説法つじせっぽうあと記念きねん大町おおまち2丁目ちょうめ
 
辻説法つじせっぽうあと記念きねん(小町こまち2丁目ちょうめ)
鎌倉かまくら中心ちゅうしん鶴岡つるおか八幡宮はちまんぐうから材木座ざいもくざ海岸かいがんまでびる参道さんどうが、メインストリートでもある若宮わかみや大路おおじとおりの左右さゆうには脇道わきみち無数むすうにあり、いちむと教会きょうかいふる洋館ようかんなどが点在てんざいし、歴史れきしかんじさせるエキゾッチクなたたずまいが垣間見かいまみられる。
メインストリートと並列へいれつして八幡宮はちまんぐうから鎌倉かまくらえきまでをつなぐのが小町こまちどおり。レストランやブティック、土産物みやげもののきつらね、観光かんこうきゃくやショッピングをする若者わかものにぎわう。
  • だいたくみてら - たんだて宗派しゅうは)の仏教ぶっきょう寺院じいん山号さんごう長慶ちょうけいやま本尊ほんぞん安産あんざんかみ産女うぶめ霊神れいじんで、「おんめさま」の通称つうしょうられる。
  • 本覚寺ほんかくじ - 日蓮宗にちれんしゅう山号さんごうみょうげんさん開山かいさん日出にっしゅつ。2せい住持じゅうじあさ建立こんりゅうした日蓮にちれん聖人せいじん分骨ぶんこつどうがある。
  • みょう本寺ほんじ - 日蓮宗にちれんしゅう山号さんごうちょうおきさん開基かいき比企ひきのうほん開山かいさんにちろう境内けいだい比企ひき一族いちぞく墓所はかしょいちはたはかへびとめ(じゃくし)明神みょうじんがある。
  • 常栄寺じょうえいじ - 日蓮宗にちれんしゅう山号さんごうめぐみ雲山くもやま開山かいさんにちみことのり。「ぼたもちてら」の通称つうしょうられる。
  • べつねがいてら - 時宗じしゅう足利あしかが持氏もちうじ供養くようとうつたえる石造せきぞう宝塔ほうとう重文じゅうぶん)がある。
  • あんよういん - 浄土宗じょうどしゅう山号さんごう祇園山ぎおんやま開基かいき北条ほうじょう政子まさこ開山かいさん願行がんぎょうぼうけんせい
  • 妙法寺みょうほうじ - 日蓮宗にちれんしゅう山号さんごうは楞厳さん(りょうごんさん)、開山かいさん日蓮にちれん中興ちゅうこう開山かいさん護良親王もりよししんのうにちあきら。「こけ石段いしだん」が著名ちょめいで、「苔寺こけでら」の別称べっしょうがある。
  • 安国やすくにろんてら - 日蓮宗にちれんしゅう山号さんごうみょう法華経ほけきょうさん開山かいさん日蓮にちれん境内けいだい岩窟がんくつ日蓮にちれんが『たて正安まさやす国論こくろん』を執筆しっぴつしたところという。
  • きょうおんてら - 時宗じしゅう山号さんごう中座なかざさん開基かいき北条ほうじょう氏康うじやす開山かいさんおもねもと材木座ざいもくざ光明寺こうみょうじ境内けいだいにあったとされ、このにあった光明寺こうみょうじ末寺まつじ善昌よしまさてら廃寺はいじになったことによりうつりけんされたとつたえられている。
  • うえこうてら - 日蓮宗にちれんしゅう山号さんごうほう久山くやま開山かいさんにちはん桜田さくらだ門外もんがいへん大老たいろう井伊いい直弼なおすけ暗殺あんさつした水戸みと藩士はんし一人ひとり広木ひろきまつかいはかがある。
  • ほんきょうてら - 日蓮宗にちれんしゅう山号さんごう法華ほっけさん開山かいさん天目てんもく日蓮にちれん辻説法つじせっぽうおこなった地域ちいきにあり、「つじほんきょうてら」とばれている。
  • つじ薬師堂やくしどう - 元々もともと医王山いおうぜん長善寺ちょうぜんじという浄土宗じょうどしゅうてらのおどうであったが、江戸えど末期まっき火災かさいてら焼失しょうしつし、おどうだけがのこった。ほんきょうてら正面しょうめん位置いちする。
  • 大宝寺たいほうじ - 日蓮宗にちれんしゅう山号さんごう福山ふくやま開山かいさん日出にっしゅつ境内けいだいにはしん三郎さぶろう源義光みなもとのよしみつ)ゆかりの福神ふくじんしゃがある。
材木座ざいもくざ
大町おおまちから材木座ざいもくざにかけては、かつて日蓮にちれんあんむすんだ庶民しょみん信仰しんこう色濃いろこ土地とちだが、近年きんねんでは湘南しょうなんのマリンスポーツのメッカ。マリンショップがのきならべ、しずかな古寺ふるでらまえをサーファーたちがっている。
  • もと八幡やはた - 鶴岡つるおか八幡宮はちまんぐうきゅう源頼義みなもとのよりよし石清水八幡宮いわしみずはちまんぐう勧請かんじょうして建立こんりゅうした。
  • 長勝寺ちょうしょうじ - 日蓮宗にちれんしゅう山号さんごう石井いしいやま開山かいさん日蓮にちれん高村たかむら光雲こううんさく日蓮にちれん銅像どうぞうがある。
  • 来迎寺らいこうじ(らいこうじ) - 時宗じしゅう山号さんごうしたがえわがやま開基かいきみなもと頼朝よりとも
  • 陀洛てら(ふだらくじ) - 真言宗しんごんしゅう山号さんごうみなみ向山むかいやま開山かいさん文覚もんがく
  • 九品寺くほんじ(くほんじ) - 浄土宗じょうどしゅう山号さんごううち裏山うらやま開基かいき新田にった義貞よしさだ開山かいさんふうこうじゅん西にし
  • 光明寺こうみょうじ - 浄土宗じょうどしゅう関東かんとう総本山そうほんざん山号さんごうてん照山てるやま開基かいき北条ほうじょう経時きょうじ開山かいさんしか阿良あらちゅうぬし禅師ぜんじ)。
  • 延命寺えんめいじ - 浄土宗じょうどしゅう山号さんごう帰命きみょうさん開山かいさんせんはちすしゃほまれのうこう北条きたじょうよりゆき夫人ふじん建立こんりゅうしたといわれている。
  • しょ神社じんじゃ - 材木座ざいもくざ氏神うじがみ明治めいじ41ねん乱橋みだれはしむら材木座ざいもくざむら合併がっぺいしたさいに、もともとこのにあった三島みしま神社じんじゃむらない八雲神社やくもじんじゃ諏訪すわ神社じんじゃおんなしゃ金毘羅こんぴらみや合祀ごうしし、しょ神社じんじゃ改称かいしょうしたもの。
  • こうぶくてら - 時宗じしゅう山号さんごうえん龍山たつやま開山かいさん一向いっこう
  • 妙長寺みょうちょうじ - 日蓮宗にちれんしゅう山号さんごううみうしおさん開山かいさん開基かいきにちじつ伊豆いず日蓮にちれんすくった漁師りょうし舟守ふなもり弥三郎やさぶろうわれる(弥三郎やさぶろう本人ほんにんというせつもあり)
  • 実相寺じっそうじ - 日蓮宗にちれんしゅう山号さんごうひろのぶさん開山かいさん開基かいきにちあきら曾我そが兄弟きょうだいかたきちされた工藤くどうゆうけい屋敷やしきだったところに、ゆうけいまごにあたるにちあきら法華寺ほっけじとして開山かいさん

長谷ながたに腰越こしごえ深沢ふかさわ大船おおふな

編集へんしゅう
長谷ながたに
鎌倉かまくらのシンボルともいえる大仏だいぶつがあるエリア。こうでん長谷ながたにえきから大仏だいぶつのある高徳院こうとくいんまでは土産物みやげものならぶ。
名物めいぶつのレトロバスがゆったりと由比ガ浜ゆいがはまどおりには長谷寺はせでらがあり、老舗しにせのきつらねている。
腰越こしごえ深沢ふかさわ
  • 満福寺まんふくじ - 真言宗しんごんしゅう山号さんごうりゅうまもるさん開基かいき奈良なら時代じだいそう行基ぎょうきつたえる。源義経みなもとのよしつね滞在たいざいし、「腰越こしごえじょう」をいたところとしてられる。
  • 龍口りゅうぐちてら - 日蓮宗にちれんしゅう山号さんごう寂光じゃっこうやま日蓮にちれんの「りゅうくち法難ほうなん」のつ。行政ぎょうせい区画くかくてきには藤沢ふじさわ片瀬かたせ位置いちする。
  • 青蓮寺しょうれんじ - 真言宗しんごんしゅう山号さんごう飯盛山いいもりさん開山かいさん空海くうかいつたえ、中興ちゅうこう開山かいさんぜんうみ通称つうしょうくさり大師だいし重要じゅうよう文化財ぶんかざい弘法大師こうぼうだいし坐像ざぞうくさり大師だいし)を安置あんちする。所在地しょざいち鎌倉かまくら手広てびろ
  • 大慶寺たいけいじ - 臨済宗りんざいしゅう山号さんごうれい照山てるやま開基かいき長井ながいひかりろく大夫たいふ開山かいさん大休たいきゅう正念しょうねん
  • えんひさてら - 日蓮宗にちれんしゅう山号さんごう常葉ときはさん開山かいさん開基かいきにち惺(にちともつたえられる)。もとはみょう本寺ほんじ末寺まつじとなりにある常盤ときわ八雲神社やくもじんじゃはかつてこのえんひさてらぞくし、天王てんのうしゃばれていた。
  • 子守こもり神社じんじゃ祭神さいじん子守こもり大神おおがみ(こもりのおおかみ)
  • ふつゆきてら - 日蓮宗にちれんしゅう山号さんごう笛田ふえださん開山かいさん仏性ぶっしょういん日秀ひびり裏山うらやま梶原かじはら景時かげとき長男ちょうなん梶原かじはらみなもとふとしけい片腕かたうでめられているとつたえられる源太げんたづかがある。
大船おおふな(おおふな)
しままで湘南しょうなんモノレールがつづく。途中とちゅう丘陵きゅうりょうには高級こうきゅう住宅じゅうたく鎌倉山かまくらやまがある。鎌倉山かまくらやま住宅じゅうたく分譲ぶんじょうとして昭和しょうわ初期しょき開発かいはつされた。
  • 常楽寺じょうらくじ - 臨済宗りんざいしゅう山号さんごうあわ船山ふなやま開基かいき北条ほうじょうやすし開山かいさん退すさこうぎょういさむ建長寺けんちょうじ創建そうけん以前いぜんらんけい道隆みちたかじゅうした。山号さんごうあわせん大船おおぶね古名こみょう
  • 称名寺しょうみょうじ今泉いまいずみ不動ふどう) - 浄土宗じょうどしゅう山号さんごう今泉いまいずみさん空海くうかい創建そうけんつたえる。
  • りゅうたからてら - 曹洞宗そうとうしゅう山号さんごう谷山たにやま開基かいき玉縄たまなわ城主じょうしゅ北条ほうじょう綱成つなしげ開山かいさんたい絮宗さかえ(たいじょそうえい)。境内けいだいには重要じゅうよう文化財ぶんかざいきゅう石井いしい住宅じゅうたく移築いちくされている。
  • 大船おおぶね観音寺かんおんじ - 曹洞宗そうとうしゅう寺院じいん巨大きょだい観音かんのんぞうられる。

その観光かんこう資源しげん

編集へんしゅう

史跡しせき旧跡きゅうせき遺跡いせき

編集へんしゅう

博物館はくぶつかんとう

編集へんしゅう
  • 鎌倉かまくら国宝こくほうかん - 鶴岡つるおか八幡宮はちまんぐう境内けいだい。1928ねん開館かいかん関東大震災かんとうだいしんさい被害ひがいまえ、市内しない社寺しゃじとう文化財ぶんかざい保管ほかん展示てんじ施設しせつとして設立せつりつされた。
  • 神奈川かながわ県立けんりつ近代きんだい美術館びじゅつかん - 1951ねん開館かいかんした、日本にっぽん最初さいしょ公立こうりつ近代きんだい美術館びじゅつかん鶴岡つるおか八幡宮はちまんぐう境内けいだい鎌倉かまくらかん坂倉さかくらじゅんさん設計せっけい)とそのちかくの鎌倉かまくら別館べっかんがあったが、前者ぜんしゃは2016ねん1がつをもって展示てんじ終了しゅうりょうし、2019ねん6がつに「鎌倉かまくらぶんはなかん 鶴岡つるおかミュージアム」として再開さいかい[37]
  • 鎌倉かまくらぶんはなかん 鶴岡つるおかミュージアム
  • 鎌倉かまくら歴史れきし文化ぶんか交流こうりゅうかん
  • 鎌倉かまくら鏑木かぶらき清方きよかた記念きねん美術館びじゅつかん
  • 鎌倉かまくら市川いちかわ喜多きた映画えいが記念きねんかん
  • 鎌倉彫かまくらぼり資料しりょうかん
  • さちあきら美術館びじゅつかん
  • きた鎌倉かまくら民家みんかミュージアム
  • 鎌倉かまくら文学ぶんがくかん
  • 吉屋よしや信子のぶこ記念きねんかん - 春秋しゅんじゅう期日きじつかぎって公開こうかい[38]
  • 大佛だいぶつ次郎じろう茶亭ちゃてい - 春秋しゅんじゅう期日きじつかぎって公開こうかい[39]
  • きゅうはないただきみやてい - 建物たてもの内部ないぶ春秋しゅんじゅう期日きじつかぎって公開こうかい[40]
  • おうぎ湖山こざんそうきゅう鎌倉かまくらえん) - もと実業じつぎょう別邸べってい。2010ねんきゅう所有しょゆうしゃから鎌倉かまくら寄贈きぞう春秋しゅんじゅう期日きじつかぎって公開こうかい[41]
  • 材木座ざいもくざ公会堂こうかいどう

行楽こうらく、レジャー

編集へんしゅう

きたひがし西にしさんぽうやまみなみうみかこまれた鎌倉かまくららしい行楽こうらくやレジャーがある。

鎌倉かまくらのハイキングコース

編集へんしゅう

きたひがし西にしさんぽうやまかこまれた鎌倉かまくらにはゆたかな自然しぜんたのしむことができるハイキングコースがある。鎌倉かまくらやま標高ひょうこう100メートル程度ていど比較的ひかくてき手軽てがるたのしめることもあり、とく休日きゅうじつおおくのハイカーでにぎわっている。

海水浴かいすいよくなど

編集へんしゅう
 
鎌倉かまくら海岸かいがん右側みぎがわ)。左側ひだりがわ遠方えんぽうかすんでえているのは江ノ島えのしま

鎌倉かまくら海岸かいがん由比ヶ浜ゆいがはまおよび材木座ざいもくざ海岸かいがん)は有名ゆうめい海水浴かいすいよくじょうであり、夏季かきにはおおくの海水浴かいすいよくきゃくにぎわい、大型おおがたうみいえ出店しゅってんする。遠浅とおあさうみなのでウィンドサーフィン初心者しょしんしゃにもてきしたわんになっており、1ねんとおしてふうのある地元じもとのウィンドサーファーらがウィンドサーフィンをたのしんでおり、海岸かいがん付近ふきんにウィンドサーフィンショップも複数ふくすうあり、初心者しょしんしゃけスクールもおこなわれている。

鎌倉かまくら花火はなび大会たいかい

編集へんしゅう

海沿うみぞいの地区ちく由比ヶ浜ゆいがはまおよび材木座ざいもくざ海岸かいがん)を会場かいじょうとしておこなわれる花火はなび大会たいかい。1949ねん昭和しょうわ24ねん)からつづいており、すうすうせんはつで、例年れいねん13まんにんや15まんにんほどの人出ひとでがあり、7がつおこなわれる(日付ひづけ変動へんどう)。

脚注きゃくちゅう

編集へんしゅう

注釈ちゅうしゃく

編集へんしゅう
  1. ^ 1185ねん文治ぶんじ元年がんねん)、1192ねんたてひさ3ねんせつなど複数ふくすう見解けんかいがある。

出典しゅってん

編集へんしゅう
  1. ^ a b c d e 精選せいせんばん 日本にっぽん国語こくごだい辞典じてん鎌倉かまくら
  2. ^ a b c d 旺文社おうぶんしゃ日本にっぽん事典じてん さんていばん鎌倉かまくら
  3. ^ a b 赤星あかほし 1959.
  4. ^ a b 赤星あかほし 1972.
  5. ^ a b 平井ひらいほか 1980, pp. 335–336.
  6. ^ くに指定してい史跡しせき 名越なごし切通きりとおし逗子ずし公式こうしきHP
  7. ^ a b 齋藤さいとう 2006, pp. 184–185.
  8. ^ おか 2004, pp. 41–64.
  9. ^ 鎌倉かまくら埋蔵まいぞう文化財ぶんかざいシリーズ」より鎌倉かまくら公式こうしきHP
  10. ^ 鎌倉かまくら周知しゅうち埋蔵まいぞう文化財ぶんかざい包蔵ほうぞう一覧いちらん鎌倉かまくら公式こうしきHP
  11. ^ 鎌倉かまくら遺跡いせき地図ちずについて」鎌倉かまくら公式こうしきHP
  12. ^ 鎌倉かまくら歴史れきし文化ぶんか交流こうりゅうかん 2021, pp. 17–25.
  13. ^ 鎌倉かまくら教育きょういく委員いいんかい 1998, p. 3.
  14. ^ 鎌倉かまくら教育きょういく委員いいんかい 2001, p. 3.
  15. ^ 鎌倉かまくら歴史れきし文化ぶんか交流こうりゅうかん 2021, pp. 26–27.
  16. ^ 赤星あかほし 1959, pp. 84–88.
  17. ^ 鎌倉かまくら歴史れきし文化ぶんか交流こうりゅうかん 2021, pp. 32–33.
  18. ^ 埋蔵まいぞう文化財ぶんかざいセンター(横浜よこはま)『うめぶんよこはま31』(2015ねん)1-3ページ
  19. ^ 埋蔵まいぞう文化財ぶんかざいセンター(横浜よこはま)『さかえ重要じゅうよう遺跡いせき』(2015ねん)20-30ページ
  20. ^ さかえ横穴よこあなはか探訪たんぼう(1)”. 埋蔵まいぞう文化財ぶんかざいセンター(横浜よこはま. 2022ねん1がつ9にち閲覧えつらん
  21. ^ 鎌倉かまくら歴史れきし文化ぶんか交流こうりゅうかん 2021, p. 44.
  22. ^ 鎌倉かまくら歴史れきし文化ぶんか交流こうりゅうかん 2021, pp. 50–53.
  23. ^ a b 鎌倉かまくら歴史れきし文化ぶんか交流こうりゅうかん 2021, p. 59.
  24. ^ 鎌倉かまくら歴史れきし文化ぶんか交流こうりゅうかん 2021, pp. 56–57.
  25. ^ 黒田くろださとし ちょ「『鎌倉かまくら』とかまあし」、鎌倉かまくら遺文いぶん研究けんきゅうかい へん鎌倉かまくら社会しゃかい史料しりょうろん東京とうきょうどう出版しゅっぱん鎌倉かまくら遺文いぶん研究けんきゅう3〉、2002ねんISBN 978-4-490-20469-8 
  26. ^ 鎌倉かまくら歴史れきし文化ぶんか交流こうりゅうかん 2021, p. 50.
  27. ^ 川合かわいやすし院政いんせい武士ぶし社会しゃかい鎌倉かまくら幕府ばくふ吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2019ねん、78-80・267-268ぺーじISBN 978-4-642-02954-4 
  28. ^ a b 福島ふくしま金治きんじ ちょ鶴岡つるおか八幡宮はちまんぐう成立せいりつ鎌倉かまくら生源寺しょうげんじ江ノ島えのしま」、地方ちほう研究けんきゅう協議きょうぎかい へん都市とし近郊きんこう信仰しんこう遊山ゆさん観光かんこう 交流こうりゅう引用いんよう雄山閣ゆうざんかく、1999ねん、24-37ぺーじISBN 4-639-01640-9 
  29. ^ 鎌倉かまくら歴史れきし文化ぶんか交流こうりゅうかん 2021, p. 14.
  30. ^ 鎌倉かまくら歴史れきし文化ぶんか交流こうりゅうかん 2021.
  31. ^ 松葉まつば 2018, pp. 6–10.
  32. ^ 高橋たかはし 2005, p. 13.
  33. ^ 鎌倉かまくら教育きょういく委員いいんかい 1998, pp. 10–11.
  34. ^ 風俗ふうぞく文選ぶんせん森川もりかわ許六きょろく せん)・和漢わかんぶんみさお各務かがみ支考しこう へん)・うずらころも横井よこい也有やゆう ちょ)』藤井ふじい紫影しえいたけかささんしょ 校訂こうてい有朋ありともどう書店しょてん有朋ありともどう文庫ぶんこ)1918ねん大正たいしょう7ねん)30ぺーじ
  35. ^ 鎌倉かまくらペンクラブとは|鎌倉かまくらペンクラブ”. kamakurapen.club. 2019ねん6がつ2にち閲覧えつらん
  36. ^ これまでの活動かつどう鎌倉かまくらペンクラブ”. kamakurapen.club. 2019ねん6がつ2にち閲覧えつらん
  37. ^ 「ミュージアムについて」鎌倉かまくらぶんはなかん 鶴岡つるおかミュージアム公式こうしきサイト)(2019ねん6がつ23にち閲覧えつらん
  38. ^ 吉屋よしや信子のぶこ記念きねんかん鎌倉かまくらサイト)
  39. ^ るなび日本にっぽん観光かんこう振興しんこう協会きょうかい
  40. ^ きゅうはないただきみやてい鎌倉かまくらサイト)
  41. ^ おうぎ山荘さんそう庭園ていえん公開こうかい」(鎌倉かまくら観光かんこう協会きょうかい

参考さんこう文献ぶんけん

編集へんしゅう

関連かんれん項目こうもく

編集へんしゅう

外部がいぶリンク

編集へんしゅう