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万葉集 - Wikipedia

万葉集まんようしゅう

日本にっぽん現存げんそんする最古さいこ和歌集わかしゅう

万葉集まんようしゅう」(まんようしゅう、まんにょうしゅう、きゅう字体じたい萬葉集まんようしゅう)は、奈良なら時代じだい末期まっき成立せいりつしたとみられる日本にっぽん現存げんそんする最古さいこ和歌集わかしゅうである[1]

もとこよみ校本こうほん万葉集まんようしゅう

概要がいよう

編集へんしゅう

万葉集まんようしゅう和歌わかはすべて漢字かんじかれている(万葉仮名まんようがなふくむ)[ちゅう 1]

天皇てんのう貴族きぞくから下級かきゅうかんじん防人さきもり防人さきもりうた)、大道芸だいどうげいじん農民のうみん東国とうごく民謡みんよう東歌あずまうた)など、さまざまな身分みぶん人々ひとびとんだうたおさめられており、作者さくしゃしょう和歌わかも2100しゅ以上いじょうある[1][3][4][ちゅう 2]。7世紀せいき前半ぜんはんから759ねん天平てんぴょうたから3ねん)までのやく130年間ねんかんうた収録しゅうろくされており、成立せいりつは759ねんから780ねんたからひさし11ねん)ごろにかけてとみられ、編纂へんさんには大伴家持おおとものやかもちなんらかのかたちかかわったとされる[1]完本かんぽんでは鎌倉かまくら時代ときよ後期こうき推定すいていされる西本願寺にしほんがんじほん万葉集まんようしゅうがもっともふる[6]

和歌わか原点げんてんである万葉集まんようしゅうは、時代じだいえてがれながら後世こうせい作品さくひんにも影響えいきょうあたえており(いちれいうさぎげん処女しょじょ伝説でんせつ」)、日本にっぽん文学ぶんがくにおけるだいいちきゅう史料しりょうであるが[1]方言ほうげんによるうたもいくつか収録しゅうろくされており、さらにそのなかにはびと出身しゅっしん記録きろくされていることから、方言ほうげんがく資料しりょうとしても重要じゅうよう史料しりょうである。

日本にっぽん元号げんごうれい」は、この万葉集まんようしゅうの「まき うめはなうたさんじゅうしゅ并せてじょ」の一節いっせつ典拠てんきょとし、記録きろく明確めいかくなものとしては日本にっぽんうえはじめて元号げんごう出典しゅってん漢籍かんせきでなく日本にっぽん古典こてんとなった[7][8]

成立せいりつ

編集へんしゅう

書名しょめい由来ゆらい

編集へんしゅう

万葉集まんようしゅう』の名前なまえ意味いみについてはいくつかのせつ提唱ていしょうされている。ひとつは「まんこと」をあつめたとするせつで、「おおくのことうたあつめたもの」とするものである。これは古来こらい仙覚せんがく賀茂真淵かものまぶちらに支持しじされてきた。仙覚せんがくの『万葉集まんようしゅう註釈ちゅうしゃく』では、『古今ここん和歌集わかしゅう』の「仮名かめいじょ」に、

やまとうたはひとしんをたねとしてよろづのことのはとぞなれりける

とあるのをいている。ただし、『古今ここんしゅう』の成立せいりつは『万葉集まんようしゅう』よりも時代じだいくだるため、この語釈ごしゃくが『万葉集まんようしゅう成立せいりつにできあがったものという可能かのうせい否定ひていできず、そのまま『万葉集まんようしゅう』の由来ゆらいとしてあてはめることには疑問ぎもんもある。

そのほかにも、「末永すえながつたえられるべき歌集かしゅう」(契沖けいちゅう[9]鹿しかもちまさきよし)とするせつをそのままかいして「をもってうたにたとえた」とするせつなどがある。研究けんきゅうしゃあいだ主流しゅりゅうになっているのは、『古事記こじき』の序文じょぶんに「後葉こうようのちのよながれつたへむとよくふ」とあるように、「」を「」の意味いみにとり、「まんせいにまで末永すえながつたえられるべき歌集かしゅう」ととるかんがかたである[よう出典しゅってん][だれによって?]

なお、「まんよう萬葉まんよう)」という言葉ことばは、当時とうじにおいて『万葉集まんようしゅう以外いがいではもちいられている事例じれいはほとんどられず、はや事例じれいとして、のべれき25ねん大同だいどう元年がんねん806ねん)4がつ16にちひゃくえだおう平城ひらじろ天皇てんのうたいして臣籍しんせき降下こうか春原すのはら朝臣あそんたまものせいねがさい上表じょうひょうぶんに「さかえ宗枝むねだまんよう」というられるのがげられる(『日本にっぽん』)。なお、このひゃくえだおうを『万葉集まんようしゅう』を今日きょうられるかたちにした最終さいしゅうてき編者へんしゃてるせつがあり(後述こうじゅつ)、この上表じょうひょうぶんひゃくえだおうが『万葉集まんようしゅう』の編纂へんさんおよ表題ひょうだい決定けっていなんらかの関与かんよをした状況じょうきょう証拠しょうことする研究けんきゅうしゃもいる[10][11]

編者へんしゃ成立せいりつ年代ねんだい

編集へんしゅう
 
百人一首ひゃくにんいっしゅさつもちすべ天皇てんのううたはるすぎてなつらいにけらし白妙しろたえしろたへの」とかれている。うた出典しゅってん万葉集まんようしゅうであり、万葉集まんようしゅうでは「はるぎて なつたるらし 白妙しろたえの」となっている。なお、しもは「ころもほしたり てん香具こうぐやま」である。

万葉集まんようしゅう』の成立せいりつかんしてはくわしくわかっておらず、勅撰ちょくせんせつ橘諸兄たちばなのもろえ編纂へんさんせつ大伴家持おおとものやかもち編纂へんさんせつなど古来こらい種々しゅじゅせつがあるが、現在げんざいでは家持いえもち編纂へんさんせつさい有力ゆうりょくである。ただ、『万葉集まんようしゅう』は一人ひとり編者へんしゃによってまとめられたのではなく、まきによって編者へんしゃことなるが、家持いえもちによってじゅうかん最終さいしゅうてきにまとめられたとするのが妥当だとうとされている。

万葉集まんようしゅうじゅうかんとしてまとめられた年代ねんだいまきごとの成立せいりつ年代ねんだいについて明記めいきされたものは一切いっさいないが、おおむね以下いかじゅん増補ぞうほされたと推定すいていされている。

  1. まき1の前半ぜんはん部分ぶぶん(1 -53ばん)…
    はら万葉集まんようしゅうかく天皇てんのうを「天皇てんのう」と表記ひょうき万葉集まんようしゅう原型げんけいともいうべき存在そんざいもちすべ天皇てんのう柿本人麻呂かきのもとのひとまろ関与かんよしたことが推測すいそくされている。
  2. まき1の後半こうはん部分ぶぶん+まき2増補ぞうほ…2かんほん万葉集まんようしゅう
    もちすべ天皇てんのうを「太上天皇だじょうてんのう」、文武ぶんぶ天皇てんのうを「大行天皇たいこうてんのう」と表記ひょうき元明もとあき天皇てんのう在位ざいい現在げんざいとしている。元明もとあき天皇てんのう太安万侶おおのやすまろ関与かんよしたことが推測すいそくされている。
  3. まき3 - まき15+まき16の一部いちぶ増補ぞうほ…15かんほん万葉集まんようしゅう
    契沖けいちゅう万葉集まんようしゅうまき1 - 16でいち完成かんせいし、そのまき17 - 20が増補ぞうほされたという万葉集まんようしゅうせんせつとなえて以来いらい、この問題もんだいかんしてはすうおおくの議論ぎろんがなされてきたが、まき15までしか目録もくろく存在そんざいしない写本しゃほん(「もとこよみ校本こうほん」「尼崎あまがさきほん」など)の存在そんざい先行せんこう資料しりょう引用いんよう仕方しかた部立ぶだてによる分類ぶんるい有無うむなど、万葉集まんようしゅうまき16と17のあいだかれるというかんがかた裏付うらづける史料しりょうおおい。元正がんしょう天皇てんのう市原いちはらおう大伴家持おおとものやかもち大伴坂上郎女おおとものさかうえのいらつめらが関与かんよしたことが推測すいそくされている。
  4. ざんまき増補ぞうほ…20かんほん万葉集まんようしゅう
    のべれき2ねん783ねん)ごろに大伴家持おおとものやかもちにより完成かんせいしたとされている。

ただし、この『万葉集まんようしゅう』はのべれき2ねん以降いこうに、すぐにおおやけ認知にんちされるものとはならなかった。のべれき4ねん785ねん)、家持いえもち死後しごすぐに大伴おおともつぎじんらによる藤原ふじわらたねつぎ暗殺あんさつ事件じけんがあり家持いえもち連座れんざしたためである。その意味いみでは、『万葉集まんようしゅう』という歌集かしゅう編纂へんさん事業じぎょう平城ひらじろ天皇てんのう即位そくい恩赦おんしゃにより家持いえもちつみゆるされたのべれき25ねん806ねん大同だいどう元年がんねん以降いこうにようやく完成かんせいしたのではないかと推測すいそくされている。『古今ここん和歌集わかしゅう真名まなじょには「むかし平城ひらじろ天子てんしみことのり侍臣じしんれいせん万葉集まんようしゅう」という言葉ことばせられているのも、最終さいしゅうてき完成かんせい家持いえもち赦免しゃめんであったという事情じじょう反映はんえいした記述きじゅつとみられている[12][13]。ただし、その場合ばあいには家持いえもちわって遺稿いこう完成かんせいがたにしておおやけ認知にんちた"編者へんしゃ"が存在そんざいしていたこともかんがえられるが、その"編者へんしゃ"として名前なまえがっているのはひゃくえだおう臣籍しんせき降下こうか春原すのはらひゃくえだ)である[10][14][11]ひゃくえだおう編纂へんさんへの関与かんよ指摘してきされる市原いちはらおうで、藤原ふじわらたねつぎ暗殺あんさつ事件じけん家持いえもちとの親交しんこうからみずからも連座れんざしていること、現存げんそん記録きろくから確認かくにんできる「万葉まんよう」のかたり初期しょき使用しようしゃ前述ぜんじゅつ)であることが理由りゆうげられるが、現時点げんじてんではいずれも状況じょうきょう証拠しょうこぎず、今後こんご"編者へんしゃ"の存在そんざい有無うむふくめて検討けんとうすべき要素ようそおおい。

万葉集まんようしゅう」は平安へいあん中期ちゅうきよりまえ文献ぶんけんには登場とうじょうしない。この理由りゆうについては「のべれき4ねん事件じけん家持いえもち家財かざい没収ぼっしゅうされた。そのなか家持いえもち歌集かしゅうがあり、それを契機けいきほん、やがて写本しゃほんかれて有名ゆうめいになって、平安へいあん中期ちゅうきのころから『万葉集まんようしゅう』が史料しりょうにみえるようになった」とするせつ[15] などがある。

しょほん刊本かんぽん

編集へんしゅう

万葉集まんようしゅうしょほんおおきくけて、「いにしえてんほん」「次点じてんほん」「しんてんほん」に分類ぶんるいできる。この区分くぶん鎌倉かまくら学僧がくそう仙覚せんがくによるもので、てんとは万葉集まんようしゅう漢字かんじ本文ほんぶんされたくんのことをさす。そのくんされた時代じだいによって、しん分類ぶんるいしたのである。ふるてんとは、てんれき5ねん951ねん)になしつぼにんくんで、万葉まんようの9わりにあたる4000以上いじょううたくんをつけられた。確実かくじついにしえてんほん現存げんそんしていないが、武田たけだ祐吉ゆうきち小川おがわ靖彦やすひこによってかつらほんいにしえてん一部いちぶそんしているという見解けんかいしめされている。ほかに久松ひさまつ潜一せんいちあいほんいにしえてんつたえるとの見解けんかいしめしている。ふるてんつたえる資料しりょうとしては、古今ここん和歌わかろくじょうなど、平安へいあん時代じだい中期ちゅうき歌集かしゅう引用いんようされた万葉まんようがそれにあたるとの見方みかた山田やまだ孝雄たかお上田うえだ英夫ひでおらによって提示ていじされたことがあるが、現在げんざいではあまり有力ゆうりょくされていない。

ともあれ、ふるてんとはなしつぼの5にんによる一回いっかいてき作業さぎょう結果けっかであるが、次点じてんほんいにしえてん以降いこうしんてん以前いぜんひろ時代じだい成果せいかし、藤原ふじわら道長みちなが大江おおえたすくこく大江匡房おおえのまさふさおもんみ宗孝むねたかげんみなもと国実くにざねみなもとよりゆき藤原基俊ふじわらのもととし藤原ふじわらあつしたかし藤原ふじわらなかみのる藤原清輔ふじわらのきよすけ藤原ふじわらちょうただし顕昭けんしょうなど、複数ふくすう人物じんぶつ加点かてんしゃとして比定ひていされている。この次点じてんほんぞく現存げんそんしょほんとしては、よしみれき伝承でんしょうほんもとこよみ校本こうほん金澤本かねざわもと類聚るいじゅういにしえしゅう廣瀬ひろせほんなどが現存げんそんしているが、いずれもれいほんであり、完本かんぽんつたわらない。このうち、廣瀬ひろせほん藤原ふじわら定家さだいえ校訂こうていひや泉本いずみもと定家さだいえけい万葉集まんようしゅうみとめられる。1993ねん平成へいせい5ねん)に関西大学かんさいだいがく教授きょうじゅ木下きのした正俊まさとしかみほりしのぶ発見はっけんされ、所蔵しょぞうしゃである広瀬ひろせ捨三すてぞうもとどう大学だいがく教授きょうじゅ)のをとって廣瀬ひろせほんしょうされる。ただし、廣瀬ひろせほん奥書おくがきには甲府こうふ町年寄まちどしより春日かすがあきらあずか1751ねん - 1836ねん山本やまもと金右衛門きんえもん)やほんきょ宣長のりなが門弟もんてい国学こくがくしゃ萩原はぎはらもとかつ1749ねん - 1805ねん)といった甲斐かいこく国学こくがくしゃたちによる校訂こうてい痕跡こんせきしめ文言もんごんがあり、賀茂真淵かものまぶちの『万葉まんようこう』に依拠いきょした本文ほんぶんくん訂正ていせいおこなわれている。

しんてんほん仙覚せんがく校訂こうていしたしょほんし、おおきくひろしもとほん系統けいとうぶんひさしほん系統けいとうかれる。ひろし元本がんぽん系統けいとうしょほんつたわらないが、上田うえだ英夫ひでお考証こうしょうによって神宮じんぐう文庫本ぶんこぼんがもっともひろし元本がんぽん様態ようたいめるほんであることがたしかめられている。また橋本はしもと進吉しんきち田中たなかまさるによって、紀州きしゅうほんまき10までがひろし元本がんぽんちかほんではないかと推測すいそくされている。西本願寺にしほんがんじほんまき1の奥書おくがきによれば、ひろし元本がんぽん源実朝みなもとのさねともほん鎌倉かまくら右大臣うだいじんほん)などすうしゅ写本しゃほん校合きょうごうし、さらに仙覚せんがく自身じしんあんくわえて校訂こうていしたほんとみられる。

ぶんながほんかんしては、最古さいこ完本かんぽんである西本願寺にしほんがんじほんをはじめ学習院大学がくしゅういんだいがくほん陽明ようめい文庫本ぶんこぼんなどぞろいのしょほんおおく、とく西本願寺にしほんがんじほんがもっともおおくのうたすうをとどめていることから、現在げんざい万葉集まんようしゅうのテキストを場合ばあいかならずとっていいほど底本ていほんとして利用りようされている。

なお、近年きんねん出現しゅつげんした広瀬ひろせほん万葉集まんようしゅうについては、項目こうもくべつあらためて付加ふかしてがいじゅつされる必要ひつようがある。

いにしえてんほん

編集へんしゅう

本節ほんぶし特記とっき以外いがいは『日本にっぽん古典こてん文学ぶんがくだい辞典じてん岩波書店いわなみしょてん、「万葉集まんようしゅう」の項目こうもく執筆しっぴつしゃはやしつとむ)による。

かつらほん

編集へんしゅう

皇室こうしつ御物ぎょもつ平安へいあん時代じだい中期ちゅうき書写しょしゃ推定すいていされており、現存げんそんする最古さいこ写本しゃほんである。まき4の3ぶんの1ほどの109しゅおさめる1かんのほかに、断簡だんかんつが尾切おぎれともいう)が66しゅと37しゅぶん目録もくろくのこる。源兼行みなもとのけんぎょうふでとされるが、ほかに紀貫之きのつらゆき源順みなもとのしたごう藤原ふじわらこうなりみなもとしゅんぼうとするせつがある。次点じてん影響えいきょうすくなく、いにしえてんほん面影おもかげのこしている。花鳥かちょう草木くさきえがいたきわめてうつくしいつぎ色紙いろがみ使つかわれ、紙背しはい継目つぎめ花押かおうから伏見天皇ふしみてんのう御物ぎょもつといわれる。その前田まえだ利家としいえしつ芳春よしはるいん所有しょゆうとなり、利常としつねかつら宮家みやけ献上けんじょうした。はこれによる。1881ねん明治めいじ14ねん)、かつら宮家みやけ断絶だんぜつにより皇室こうしつはいった。断簡だんかん石川いしかわ武美たけみ記念きねん図書館としょかん五島ごしま美術館びじゅつかん出光いでみつ美術館びじゅつかん梅沢うめざわ記念きねんかんほか諸家しょか所蔵しょぞうしている。

金砂子きんすなごきり

編集へんしゅう

平安へいあん時代じだい後期こうき書写しょしゃかつらほんるいである。まき13の8よう13しゅのみが現存げんそんする。長歌ながうたにはくんがない。金砂子きんすなごらしたとり子紙こがみかれており、このがある。醍醐寺だいごじ石川いしかわ武美たけみ記念きねん図書館としょかんとう所蔵しょぞうしている。

よしみれき伝承でんしょうほん

編集へんしゅう

1328ねんよしみれき3ねん)にぞうたかしからけいしゅん相伝そうでんした識語しきごがあり、このがある。とり子紙こがみで、つづりそうである。まき11のだい部分ぶぶんの472しゅが1じょうおさめられている。定家さだいえ仮名遣かなづか次点じてんているが、『拾遺しゅういしゅう所収しょしゅう万葉まんよう一致いっちし、いにしえてんつたえている。松坂まつさかだか尾家おいえきゅうぞうで、ほん松本まつもと中山なかやま佐佐木ささきから文化庁ぶんかちょうて、現在げんざい国立こくりつ歴史れきし民俗みんぞく博物館はくぶつかん所蔵しょぞうしている。またまき11の欠落けつらく部分ぶぶん模写もしゃ断簡だんかん7しゅ民間みんかんにある。

次点じてんほん

編集へんしゅう

あいほん

編集へんしゅう
あいほん万葉集まんようしゅう
あいほん万葉集まんようしゅう だい9かん

平安へいあん時代じだい中期ちゅうきないし後期こうき書写しょしゃで、藤原ふじわら伊房いぶさふでとされるが藤原公任ふじわらのきんとうせつなどもある。うす藍色あいいろの漉紙に銀砂子ぎんすなごらした料紙りょうしかれていることからそのがある。まき9の5ぶんの4ほどの110しゅと111しゅぶん目録もくろくからなる1かん現存げんそんする。そのほかに

  • まき1の2しゅ
  • まき9の23しゅ
  • まき10の4しゅ
  • まき18の27しゅ

断簡だんかんのこる。次節じせつべるもとこよみ校本こうほんどう系統けいとうである。会津あいづ松平まつだいらはら中村なかむらて、現在げんざい京都きょうと国立こくりつ博物館はくぶつかん[16]所蔵しょぞうしている。断簡だんかん日本学士院にほんがくしいん石川いしかわ武美たけみ記念きねん図書館としょかん京都きょうと国立こくりつ博物館はくぶつかんいっおきな美術館びじゅつかん五島ごしま美術館びじゅつかん徳川とくがわ美術館びじゅつかんしょげい文化ぶんかいんなどが所蔵しょぞうしている。

もとこよみ校本こうほん

編集へんしゅう

1184ねんもとこよみ元年がんねん)に校合きょうごうしたとの奥書おくがきがある。平安へいあん時代じだい中期ちゅうきないし後期こうきすうぴつ寄合よりあいきである。うち、まき17、18は同筆どうひつであり、まき6は鎌倉かまくら時代じだい初期しょきうつしかんがえられている。まき3、5、8、11、15、16をのぞく14かんけい2617しゅと2129しゅぶん目録もくろく現存げんそんする。そのほかに断簡だんかん難波なんばきりないし有栖川ありすがわきりともいう)はまき3、5、8、9、13、15、16をのぞく13かん148しゅ目録もくろく201しゅぶんのこっている。すなわち15かんにわたる、ぜんうたすうの6わり以上いじょう現存げんそんしている次点じてんほんでは貴重きちょう写本しゃほんである。あいむらさき雲形くもがたぶんを漉んだとり子紙こがみの(うつしであるまき6は雲形くもがたく)ねばそうである。くろみどりあかしゅれがあり、万葉集まんようしゅう本文ほんぶん校訂こうていじょうさい重要じゅうようである。

げんじて江戸えど時代じだい初期しょきには15さつに、さらに14さつになった。まき1、4、6、10、12、19の6さつかく一部いちぶけて有栖川ありすがわ宮家みやけから高松宮たかまつのみやうつり、のこだい部分ぶぶん伊勢いせ富山とやま神戸こうべ俵屋たわらやから、天保てんぽう初期しょき桑名くわな松平まつへい1843ねん天保てんぽう14ねん)に水野みずの忠邦ただくに1911ねん明治めいじ44ねん)に古河ふるかわうつったあと、ともに文化財ぶんかざい保護ほご委員いいんかい所蔵しょぞうとなった。高松たかまつ宮家みやけきゅうぞうの6さつ古河ふるかわきゅうぞうの14さつとも、現在げんざい東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん所蔵しょぞう[17]断簡だんかん仁和寺にんなじ宮内庁くないちょう侍従じじゅうしょく東山ひがしやま文庫ぶんこ常盤山ときわやま文庫ぶんこ國學院大學こくがくいんだいがく図書館としょかんいしすい博物館はくぶつかんしろづる美術館びじゅつかんMOA美術館びじゅつかんなどが所蔵しょぞうしている。荒木田あらきだ久老ひさおゆ加藤かとう千蔭ちかげ橋本はしもとけいあきら鹿しかもちまさきよしらが校訂こうてい使用しようした。

金沢本かねざわもと

編集へんしゅう
 
金沢かなざわほん万葉集まんようしゅうまきだいさんろくざんまき

さんまるなお蔵館くらだて所蔵しょぞう[18]藤原ふじわら定信さだのぶふでとされるが、源俊頼みなもとのしゅんらい藤原公任ふじわらのきんとうせつもある。ねばそう、1じょう胡粉ごふんきのしろしゅとして、ほかに薄茶うすちゃ浅葱あさつきいろに、金銀きんぎん切箔きりはくらし、雲母うんもによるひし唐草からくさ亀甲きっこうなどの文様もんよう雲母うんもりした唐紙からかみ料紙りょうしとする。まき2のやく5ぶんの4の129しゅおよび150しゅぶん目録もくろくと、まき4のやく4ぶんの1の79しゅをあわせ1じょうとする。そのほかにまき3、4、6の24しゅと76しゅぶん目録もくろく断簡だんかん現存げんそんする。本文ほんぶんくんもとこよみ校本こうほん紀州きしゅうほんにもっともちかい。金沢かなざわ前田まえだきゅうぞうによる名称めいしょう1910ねん明治めいじ43ねん)に前田まえだから皇室こうしつ献上けんじょうされた。断簡だんかんはぐれおう美術館びじゅつかんとう所蔵しょぞうしている。また古筆こひつ手鑑てかがみふではやしみどり』におさめられている。

てんほん

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1124ねんてん元年がんねん)に書写しょしゃとの奥書おくがきがあり、名称めいしょうはこれに由来ゆらいする。これは万葉集まんようしゅう最古さいこ書写しょしゃ記録きろくであり、後述こうじゅつまき2断簡だんかん1129ねん大治おおはる4ねん)の書写しょしゃまき13の完本かんぽんまき15の58しゅの1かんおよび

  • まき2の6しゅ
  • まき10の42しゅ
  • まき14の10しゅ
  • まき15の25しゅ

断簡だんかん仁和寺にわじきりともいう)が現存げんそんする。檀紙だんし巻子本かんすぼんすみけいがあり、寄合よりあいしょだがまき14とまき15は同筆どうひつである。ちゅうけんほん書写しょしゃしたほんで、仙覚せんがくほん底本ていほん系統けいとうである。福井ふくい賀川かがわかんむりえい神社じんじゃ[19]所蔵しょぞう断簡だんかんは、加藤かとう熊沢くまさわ角田つのだ沢瀉おもだか武田たけだ岡村おかむら池上いけがみひさ曾神および東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん京都きょうと国立こくりつ博物館はくぶつかん天理てんり図書館としょかん石川いしかわ武美たけみ記念きねん図書館としょかん岡山おかやま美術館びじゅつかん五島ごしま美術館びじゅつかんなどが所蔵しょぞうしている。

1845ねんひろし2ねん)にばん信友のぶとも京都きょうと曼殊まんしゅいん所蔵しょぞうれいほん5かん現存げんそんしない)をかげうつして『けんてん万葉集まんようしゅう』を作成さくせいして

  • まき2の9しゅ
  • まき10の4しゅ
  • まき14の10しゅ
  • まき15の11しゅ
  • まき17の4しゅ

のこっている。したがって総計そうけい306しゅ現存げんそんする。こちらは京都きょうと大学だいがく所蔵しょぞうである。

でん壬生みぶたかし祐筆ゆうひつほん

編集へんしゅう

鎌倉かまくら時代じだい中期ちゅうき書写しょしゃ書写しょしゃしゃ伝承でんしょうによる名称めいしょうだが、確証かくしょうはない。もと冊子さっしほん巻子本かんすぼんにしており、まき9の前半ぜんはん85しゅを3かんにしたものとこうりの4しゅ断簡だんかん現存げんそんする。てんほん同系どうけいで、仙覚せんがくほん底本ていほん系統けいとうである。四日市よっかいちだか尾家おいえきゅうぞうで、佐佐木ささき石川いしかわ武美たけみ記念きねん図書館としょかん所蔵しょぞうしている。

尼崎あまがさきほん

編集へんしゅう

平安へいあん時代じだい末期まっき書写しょしゃ雲母うんも引斐料紙りょうしつづりそうまき16のぜん1じょう(1まいく)101しゅと、まき12の61しゅ断簡だんかん、11しゅ模写もしゃ現存げんそんする。てんほんけいで、仙覚せんがくほん底本ていほん系統けいとうであり、『類聚るいじゅういにしえしゅう』にちかい。断簡だんかん尼崎あまがさきからたことによる名称めいしょう倉敷くらしきぼうから京都きょうと大学だいがく所蔵しょぞうしている。断簡だんかん池上いけがみ亀井かめい反町そりまち渡辺わたなべ酒井さかい沢瀉おもだか田中たなかつじさかおよび円照寺えんしょうじ京都女子大学きょうとじょしだいがく天理てんり図書館としょかん石川いしかわ武美たけみ記念きねん図書館としょかんしろづる美術館びじゅつかん出光いでみつ美術館びじゅつかんなどが所蔵しょぞうしている。模写もしゃ東洋文庫とうようぶんこ所蔵しょぞう古筆こひつ手鑑てかがみもも花水はなみず」「こころ画帖がじょう」「鸞鳳じょう」「ふでかん」「ふでりん」に所収しょしゅうされている。

つて冷泉れいせん為頼ためよりひつほん

編集へんしゅう

半紙はんしがた袋綴ふくろとじ1さつで、まき1のほぼすべて83しゅ記載きさいする。ただし目録もくろくには校合きょうごうがある。くんはカタカナで、長歌ながうた本文ほんぶんみぎに、短歌たんかひだりべつぎょうしるしている。江戸えど時代じだい初期しょき冷泉れいせん為頼ためよりふでつたえられるが、カナに古体こたいがあり室町むろまち時代じだい書写しょしゃかんがえられている。尾張おわり久米くめばん佐佐木ささきて、石川いしかわ武美たけみ記念きねん図書館としょかん所蔵しょぞうしている。

はる日本にっぽん

編集へんしゅう

鎌倉かまくら時代じだい中期ちゅうき1243ねんひろしもと元年がんねん)と翌年よくねん春日しゅんじつ神社じんじゃ若宮わかみや神官しんかんちゅうしんゆうじょう書写しょしゃしたとの奥書おくがきがあり、名称めいしょうはこれによる。おおくが春日しゅんじつ若宮わかみや神官しんかん和歌わか懐紙かいし裏側うらがわ使用しよう断簡だんかんなので春日しゅんじつふところ紙切かみきりともいう。もとは袋綴ふくろとじ

  • まき5の24しゅ書翰しょかん2
  • まき6の37しゅ目録もくろく30しゅぶん
  • まき7の100しゅ目録もくろく217しゅぶん
  • まき8の54しゅ目録もくろく38しゅぶん
  • まき9の8しゅ
  • まき10の15しゅ
  • まき13の14しゅ
  • まき14の37しゅ
  • まき19の16しゅ
  • まき20の77しゅ

合計ごうけい382しゅ目録もくろく285しゅぶん書翰しょかん2以上いじょう現存げんそんする。

懐紙かいし和歌わか鑑賞かんしょうのためまんようけずっているので判読はんどく困難こんなんなものが多数たすうある。本文ほんぶんみぎにカタカナでくんをつけるが、仙覚せんがく以前いぜん次点じてんほんである。前田まえだきゅうぞうだが明治めいじ初期しょき諸家しょか分散ぶんさんして、松岡まつおか関戸せきと福井ふくい吉永よしなが谷村たにむら八木はちぼくおよびきよしあきらぼう國學院大學こくがくいんだいがく図書館としょかん石川いしかわ武美たけみ記念きねん図書館としょかんハーバード大学だいがくフォッグ美術館びじゅつかん石川いしかわ県立けんりつ郷土きょうど資料しりょうかんなどが所蔵しょぞうしている。

紀州きしゅうほん神田かんだほん

編集へんしゅう

全巻ぜんかん20かん前半ぜんはんまき10までが次点じてんほん鎌倉かまくら時代じだい末期まっき寄合よりあいきである。ただしまき7が2しゅき、まき10で1しゅ重出じゅうしゅつする。とり子紙こがみ元来がんらいねばほんつづりほん改装かいそうしている。くんをカタカナで漢字かんじ右側みぎがわすが、しんてんくん左側ひだりがわなどにくわえられている。まき10の奥書おくがきから藤原ふじわらただしけんみなもと光行みつゆきくだりとお系統けいとうほんられるが、てんほんとはかならずしも合致がっちしない。後半こうはんまき11以降いこう室町むろまち時代じだい後期こうき1542ねん天文てんもん11ねん以前いぜんぶんながさんねんほんけいしんてんほんによるうつしである。後藤ごとう公益こうえき財団ざいだん法人ほうじん後藤ごとう報恩ほうおんかい昭和しょうわ美術館びじゅつかん所蔵しょぞうしている。水戸みと徳川とくがわの『よんてんまんよう』に校合きょうごうし、契沖けいちゅうの『万葉まんようだいたくみ』にも引用いんようされている。

類聚るいじゅういにしえしゅう

編集へんしゅう

歌体かたい題材だいざいによりうた分類ぶんるいしている。平安へいあん時代じだい末期まっき書写しょしゃ。3834しゅ現存げんそんする。中山ちゅうざん大谷おおやて、龍谷大りゅうこくだいがく所蔵しょぞうしている[20]

りゃく類聚るいじゅう鈔』

編集へんしゅう

これも歌体かたい題材だいざいによりうた分類ぶんるいしている。1250ねんけんちょう2ねん)の書写しょしゃで、1934しゅ現存げんそんする。奈良なら興福こうふくいん石川いしかわ武美たけみ記念きねん図書館としょかん所蔵しょぞうしている。

その断簡だんかんるい

編集へんしゅう
でん俊寛としひろひつきり
鎌倉かまくら時代じだい書写しょしゃまき1の2よう2しゅのみだが、本文ほんぶんくんとももとこよみ校本こうほんちかい。竹田たけだ所蔵しょぞう
定家さだいえさまきり
鎌倉かまくら時代じだい末期まっきから室町むろまち時代じだい初期しょき書写しょしゃまき1の1よう3しゅのみ。書風しょふうによる名称めいしょう為頼ためよりほんどう系統けいとうである。滋賀しがせいぜんあん所蔵しょぞう橋本はしもとけいあきらかげうつしられる。
橋本はしもとけいあきらかげうつしちゅうしんゆうはるひつきり
まき19の1よう3しゅのみ。はる日本にっぽんちゅうしんゆうはるゆうはるかげうつしで、稲葉いなば所蔵しょぞう
こう京極きょうごくさまきり
鎌倉かまくら時代じだい書写しょしゃまき7の4よう8しゅ元来がんらい冊子さっしほんであった。くんはカタカナで本来ほんらい本文ほんぶんみぎすが、のちの補筆ほひつではひだりす。系統けいとう不明ふめいながら次点じてんほんで、紀州きしゅうほんや『類聚るいじゅういにしえしゅう』にちかい。こう京極きょうごく摂政せっしょう藤原良経ふじわらのよしつね書風しょふうによる名称めいしょう佐佐木ささきて、石川いしかわ武美たけみ記念きねん図書館としょかんならびにハーバード大学だいがくフォッグ美術館びじゅつかん所蔵しょぞう
つて解脱げだつ上人しょうにんひつきり
鎌倉かまくら時代じだい初期しょき書写しょしゃまき9の1よう2しゅまき10の1よう4しゅもとろくはんかたちほんにカタカナ傍訓ぼうくんで、じょういんほん関係かんけいがある。『古筆こひつめいしゅう』による名称めいしょうだが、書風しょふうからためさまきりともばれる。佐佐木ささき石川いしかわ武美たけみ記念きねん図書館としょかん所蔵しょぞう、および小西こにし所蔵しょぞう
つてきょうひつきり
鎌倉かまくら時代じだい書写しょしゃまき3の1よう3しゅのみ。カタカナ傍訓ぼうくんで、紀州きしゅうほん細井ほそいほん一致いっちするものがある。弘誓ぐぜいいんきょう書写しょしゃとの伝承でんしょうによる名称めいしょう加藤かとう伊東いとう手鑑てかがみ所収しょしゅう
橋本はしもとけいあきらかげうつし無名氏むめいしひつきり
鎌倉かまくら時代じだい書写しょしゃまき10の1よう4しゅのみ。カタカナ傍訓ぼうくんで、『類聚るいじゅういにしえしゅう』のくんちかい。冒頭ぼうとう記載きさいによる名称めいしょう稲葉いなば所蔵しょぞう
つてためひつきり
鎌倉かまくら時代じだい中期ちゅうき書写しょしゃか。まき1の1よう3しゅのみ。斐楮もちい、傍訓ぼうくんをひらがなでいている。箱書はこがきによる名称めいしょう天理てんり図書館としょかん所蔵しょぞう
柘枝きり
鎌倉かまくら時代じだい末期まっきから南北なんぼくあさ時代じだい初期しょき書写しょしゃまき3の1よう2しゅのみ。こうぞで、元来がんらい巻子本かんすぼんか。傍訓ぼうくん古体こたいのカタカナで京大きょうだいほんあかくんちかい。による名称めいしょう佐佐木ささき石川いしかわ武美たけみ記念きねん図書館としょかん所蔵しょぞう
万葉集まんようしゅう目録もくろく
平安へいあん時代じだい後期こうき書写しょしゃまき16の1よう5ぎょうのみ。とり子紙こがみかれる。近衛このえ所蔵しょぞう元来がんらい全巻ぜんかんぶんあったとかんがえられるが、残存ざんそんしていた2かん2よう関東大震災かんとうだいしんさい焼失しょうしつし、1ようだけがのこった。原本げんぽんかげ写本しゃほんが『万葉集まんようしゅう叢書そうしょ10』所収しょしゅうである。

しんてんほん

編集へんしゅう

しんてんほんではほとんどの場合ばあい傍訓ぼうくん形式けいしきくん本文ほんぶん右側みぎがわにカタカナでしるしている。うちぶんながほんいにしえてん次点じてんしんてんのうちただしいとかんがえられたくんおおくの場合ばあい色分いろわけして右側みぎがわしるしている。それにたいひろし元本がんぽんではいにしえてん次点じてん右側みぎがわに、しんてん左側ひだりがわいている。

神宮じんぐう文庫本ぶんこぼん

編集へんしゅう

こうぞ袋綴ふくろとじ。全巻ぜんかん20さつだが

  • まき1の1よう3しゅ
  • まき2の1よう1しゅ
  • まき19末尾まつびひだりちゅう以下いかだい

いている。1546ねん天文てんもん15ねん以前いぜん室町むろまち時代じだい後期こうき書写しょしゃひろし元本がんぽんけい現存げんそんする最古さいこ写本しゃほんである。外宮げくう宮崎みやざき文庫ぶんこて、現在げんざい神宮じんぐう文庫ぶんこ所蔵しょぞうしており、このがある。

細井ほそいほん

編集へんしゅう

こうぞ袋綴ふくろとじ。全巻ぜんかん20さつだが、まき4の後半こうはん273しゅわってまき3の後半こうはん107しゅ重複じゅうふくしてかれている。全体ぜんたい江戸えど時代じだい初期しょき書写しょしゃされたひろし元本がんぽんであるが、まき4、5、6は室町むろまち時代じだい末期まっき書写しょしゃ為頼ためよりほんどう系統けいとう次点じてんほんである。1797ねん寛政かんせい9ねん)に細井ほそい貞雄さだおぬる堂本どうもと校合きょうごう奥書おくがきしるしていることから、このがある。木村きむら正辞まさことて、現在げんざい東洋文庫とうようぶんこ所蔵しょぞうしている。

はやし道春どうしゅん校本こうほん

編集へんしゅう

そのとおはやし道春どうしゅん江戸えど時代じだい前期ぜんき細井ほそいほん書写しょしゃしたものである。現在げんざい内閣ないかく文庫ぶんこ所蔵しょぞうしている。後述こうじゅつ版本はんぽん活字かつじくんほんはこれを底本ていほんにしている。

学習がくしゅう院本いんぽん

編集へんしゅう

江戸えど時代じだい書写しょしゃであり、基本きほんてきにはひろし元本がんぽんけいだが、まき5、6は次点じてんほんけいである。学習院大学がくしゅういんだいがく図書館としょかん所蔵しょぞうで、このがある。

今出いまで河本かわもと

編集へんしゅう

江戸えど時代じだい前期ぜんき書写しょしゃである。ひろし元本がんぽんけいだが、まき4、5、6はぶんながほんけいである。現在げんざい宮内庁くないちょうしょりょう所蔵しょぞうしている。

西本願寺にしほんがんじほん

編集へんしゅう

西本願寺にしほんがんじほん鎌倉かまくら時代ときよ後期こうき13世紀せいきすえから14世紀せいき初頭しょとう書写しょしゃ推定すいていされている、20さつ冊子さっしほんである。たてやく32.1センチ、よこやく24.8センチのおおきさで、「大和やまとつづり」という装丁そうていがなされている。この写本しゃほんは、1266ねんぶんひさし3ねん)に仙覚せんがく完成かんせいさせた『仙覚せんがくぶんながさんねんほん萬葉集まんようしゅう』(原本げんぽんうしなわれている)の系統けいとうぞくしている。仙覚せんがく親交しんこうがあった北条ほうじょうみのるとき完成かんせいあいだもなく書写しょしゃしたものを、さらに書写しょしゃしたものとかんがえられている。さらに鎌倉かまくら幕府ばくふ滅亡めつぼう足利あしかが義満よしみつ北条ほうじょうみのる創建そうけんになる称名寺しょうみょうじ使者ししゃつかわして貴重きちょう書籍しょせき収集しゅうしゅうしたおりに、『しゅう河内かわうちほん源氏物語げんじものがたり』(おおきさ、装丁そうてい酷似こくじしている)などとともに入手にゅうしゅし、後年こうねん皇室こうしつ献上けんじょうしたものである。その名称めいしょうは、こう奈良なら天皇てんのう本願寺ほんがんじだい10せいあかし下賜かしして、西本願寺にしほんがんじ蔵書ぞうしょとなったことから、佐佐木ささき信綱のぶつな命名めいめいした。1917ねん大正たいしょう6ねん)に佐佐木ささきわたったあと、現在げんざい佐佐木ささき寄贈きぞうした「竹柏なぎえんほんないいちてんとして石川いしかわ武美たけみ記念きねん図書館としょかん所蔵しょぞうしている[21]

田中たなかほん

編集へんしゅう

西本願寺にしほんがんじほん書写しょしゃしたものである。題詞だいしひくい。くんくろ紺青こんじょうしゅけるのはぶんながほんじゅんずるが、この写本しゃほんでは紺青こんじょうしゅみどりけている。室町むろまち時代じだい末期まっき書写しょしゃで、各巻かくかん別人べつじんふでになる。所蔵しょぞうしゃによる名称めいしょう

河野こうのほん

編集へんしゅう

1677ねんのべたから5ねん)に河野こうのこうぎょう西本願寺にしほんがんじほん書写しょしゃしたもの。水戸みと徳川とくがわよんてんまんよう校合きょうごうし、くんくろあおしゅけている。『万葉まんようだいたくみ』にも幽斎ゆうさいほんとして引用いんようされる。あきらこうかん所蔵しょぞうしている。

金沢かなざわ文庫本ぶんこぼん

編集へんしゅう

室町むろまち時代じだい初期しょき書写しょしゃだが、飛鳥井あすかい雅世まさよみことえん法親王ほうしんのうふでとのせつもある。元来がんらい大型おおがた冊子さっしほんだったものを巻子本かんすぼんにした。まき1、9、19のぜんうた4かんまき19は二分にぶんされている)と

  • まき7の10しゅ
  • まき12の84しゅ
  • まき13の18しゅ
  • まき14の3しゅ

断簡だんかんまき13の3しゅかげうつし現存げんそんする。このほかにまき11は関東大震災かんとうだいしんさい焼失しょうしつしたが、『校本こうほん万葉集まんようしゅう』に校合きょうごうされているのと、木村きむら正辞まさことの『万葉集まんようしゅう書目しょもく提要ていよう』にまき4がしるされている。ぶんながさんねんほんけいであるが、まき11とまき19はぶんなが十年本寂印成俊本系。題詞だいしひくかれ、まき7、9、11、12、13、19はくんくろ紺青こんじょうしゅける。金沢かなざわ文庫ぶんこ伝来でんらいしたことによる名称めいしょうである。

まき1、19は大口おおぐちたいきゅうぞうで、佐佐木ささき石川いしかわ武美たけみ記念きねん図書館としょかん所蔵しょぞうしている。まき9は馬越うまごえ所蔵しょぞう断簡だんかんは、ひさ曾神、酒井さかい久松ひさまつ渡辺わたなべ池上いけがみ藤井ふじいおよび真如堂しんにょどう金剛こんごうしょうてら天理てんり図書館としょかん奈良なら県立けんりつまんよう文化ぶんかかん京都きょうと国立こくりつ博物館はくぶつかん、MOA美術館びじゅつかん山川やまかわ美術びじゅつ財団ざいだんなどが所蔵しょぞう。また古筆こひつ手鑑てかがみふでかん』に、かげ写本しゃほん東洋文庫とうようぶんこ万葉まんようきり』に所収しょしゅうされる。

陽明ようめい文庫本ぶんこぼん

編集へんしゅう

全巻ぜんかん20さつであるが、まき10の152しゅいている。とり子紙こがみ大和やまとつづり陽明ようめい文庫ぶんこきゅうぞうによる名称めいしょうであるが、まき9に1571ねんもとかめ2ねん)の奥書おくがきがあるためもとかめほんともばれる。しかし同年どうねん以後いご書写しょしゃである。ぶんながじゅうねんもとよりゆきちょくほんけいで、くろ紺青こんじょうしゅくんのこる。ぬる堂本どうもと書写しょしゃさい底本ていほんにされている。曼殊まんしゅいんから近衛このえて、現在げんざい京都大学きょうとだいがく図書館としょかん所蔵しょぞうしている。

ぬる堂本どうもと

編集へんしゅう

胡蝶こちょうそうで、ぜん20かん合本がっぽんして10じょうにしている。そのうち

  • まき6の目録もくろくはじめ28しゅぶん
  • まき10の152しゅ
  • まき19の1しゅ

いており、まき6はぬるどういちでん東京とうきょう帝国ていこく大学だいがくほんから木村きむら正辞まさことうつしたものである。ぶんながじゅうねんよりゆきちょくほんけい陽明ようめい文庫本ぶんこぼん書写しょしゃしたが、紺青こんじょうくんがなくその部分ぶぶん空白くうはくおおい。木村きむら正辞まさことから東洋文庫とうようぶんこ所蔵しょぞうしている。

東京とうきょう帝国ていこく大学だいがくほん

編集へんしゅう

袋綴ふくろとじで、全巻ぜんかん20さつひかり明寺あけてらさとしゆうひとしぬる堂本どうもと書写しょしゃした。東京とうきょう帝国ていこく大学だいがくきゅうぞうによる名称めいしょう関東大震災かんとうだいしんさい焼失しょうしつしたが、ぬる堂本どうもとけている部分ぶぶんが『校本こうほん万葉集まんようしゅう』に校合きょうごうされている。

大矢おおやほん

編集へんしゅう

室町むろまち時代じだい末期まっきすうにんふでによる書写しょしゃ袋綴ふくろとじ全巻ぜんかん20さつであるが、

  • まき12の1しゅ
  • まき19の6しゅ
  • 6しゅくん

いている。ぶんなが十年本寂印成俊本系で寛永かんえい版本はんぽんまき7の錯簡さっかんおぎな資料しりょうとして重要じゅうようである。大矢おおやとおるきゅうぞうによる名称めいしょうだが、もと京都きょうと木田きだ家蔵かぞうで、大矢おおや佐佐木ささき石川いしかわ武美たけみ記念きねん図書館としょかん所蔵しょぞうしている。

近衛このえほん

編集へんしゅう

江戸えど時代じだい初期しょき書写しょしゃ大型おおがた袋綴ふくろとじで、20さつぜんほんぶんなが十年本寂印成俊本系であるが、中院なかのいんほんられる禁裏きんりほんまき1、20の奥書おくがきがある。大矢おおやほん同系どうけいであるが、くんは5しゅのみで書写しょしゃ字形じけい明瞭めいりょうで、より善本ぜんぽんである。近衛このえ陽明ようめい文庫ぶんこ所蔵しょぞうで、このがある。

京都大学きょうとだいがくほん

編集へんしゅう

江戸えど時代じだい初期しょき書写しょしゃ袋綴ふくろとじで、20さつぜんほんだがまき19の1しゅいている。ぶんなが十年本寂印成俊本系である。まき1、2、9、13、20に禁裏きんりほん奥書おくがきがあり、全巻ぜんかんにわたってあか禁裏きんりほん校合きょうごうしたれがある。まき1の奥書おくがきには万葉集まんようしゅうじょしるなか院本いんぽんのひとつで、ひろし元本がんぽん内容ないよう貴重きちょう写本しゃほんである。京都きょうと大学だいがく図書館としょかん所蔵しょぞうしている。

そのしょほん断簡だんかん

編集へんしゅう
谷森たにもりほん
江戸えど時代じだい初期しょき書写しょしゃで、袋綴ふくろとじまき1をく19さつ中院なかのいんほんけい題詞だいしひくく、まき3とまき4にあおくんがない。所蔵しょぞうしゃによる名称めいしょうだが、関東大震災かんとうだいしんさい焼失しょうしつした。
谷森たにもりいちほん
江戸えど時代じだい初期しょき書写しょしゃで、袋綴ふくろとじぜん20さつ中院なかのいんほんけい後半こうはん谷森たにもりほん書写しょしゃしたもの。所蔵しょぞうしゃによる名称めいしょうだが、関東大震災かんとうだいしんさいまき1とまき2が焼失しょうしつした。
多和たわ文庫本ぶんこぼん
江戸えど時代じだい書写しょしゃで、中院なかのいんほんけい谷森たにもりほんいちつてほん松岡まつおか多和たわ文庫ぶんこ所蔵しょぞうによる名称めいしょう
つてそらせい法親王ほうしんのうひつほん
江戸えど時代じだい初期しょき書写しょしゃで、中院なかのいんほんのひとつである。書写しょしゃ伝承でんしょうによる名称めいしょう前田まえだ所蔵しょぞう
岩崎いわさき文庫ぶんこいちほん
江戸えど時代じだい初期しょき寄合よりあいしょで、中院なかのいんほんけい岩崎いわさき文庫ぶんこ所蔵しょぞうによる名称めいしょうだが、現在げんざい東洋文庫とうようぶんこ所蔵しょぞう
図書としょりょういちほん
江戸えど時代じだい初期しょき書写しょしゃだが各巻かくかんべつひつで、大型おおがた袋綴ふくろとじまき1、2、14をく17さつぶんなが十年本寂印成俊本系で、くろしゅのほかにまき5以外いがいあおこんさとしがある。まき5、19、20をのぞ禁裏きんりほん校合きょうごうされるが、奥書おくがきはない。所蔵しょぞうしょによる名称めいしょう
でんきよし輔筆きり
鎌倉かまくら時代じだい中期ちゅうき書写しょしゃまき10の1よう2しゅのみ。カタカナ傍訓ぼうくんあおこんさとしがある。西本願寺にしほんがんじほんちかい。極書きわめがきによる名称めいしょうひさ曾神所蔵しょぞうしている。
八田はったきり
鎌倉かまくら時代じだい末期まっき書写しょしゃ紹巴しょうはひつとのせつもある。まき10の1よう2しゅのみ。うたひくく、カタカナ傍訓ぼうくん神宮じんぐう文庫本ぶんこぼんなどにちかい。歌詞かしによる名称めいしょう佐佐木ささきて、石川いしかわ武美たけみ記念きねん図書館としょかん所蔵しょぞうしている。
為氏ためうじさまきり
鎌倉かまくら時代じだい末期まっき書写しょしゃ雲母うんもきのとり四半しはんがたほん断簡だんかんまき10の1よう2しゅのみ。うたひくく、カタカナ傍訓ぼうくん西本願寺にしほんがんじほんとうちかい。書風しょふうによる名称めいしょう佐佐木ささきて、石川いしかわ武美たけみ記念きねん図書館としょかん所蔵しょぞうしている。
でん貫之つらゆきひつきり
鎌倉かまくら時代じだいまたは平安へいあん時代じだい末期まっき書写しょしゃまき19の1よう3しゅのみ。うたひくく、カタカナの傍訓ぼうくんぶんながほん特徴とくちょうがある。箱書はこがきによる名称めいしょう。『日本にっぽんしょ』(講談社こうだんしゃ、1978年刊ねんかん)に所収しょしゅう
かつらさまきり
室町むろまち時代じだい書写しょしゃまき7の4よう18しゅまき8の4よう11しゅのみが現存げんそんする。ぶんながほんけいで、かつらほん真似まね金銀きんぎんどろ下絵したえがあり、それによる名称めいしょうだん酒井さかいおよび東山ひがしやま文庫ぶんこ石川いしかわ武美たけみ記念きねん図書館としょかん京都きょうと国立こくりつ博物館はくぶつかんなどが所蔵しょぞうしている。
つて慈鎮ひつきり
室町むろまち時代じだい書写しょしゃまき3の1よう3しゅのみ。とり元来がんらい巻子本かんすぼんうたたかくカタカナ傍訓ぼうくんしんてんほんけいとともに推定すいていされている。極書きわめがきによる名称めいしょう天理てんり図書館としょかん所蔵しょぞうしている。
つてためつぎひつきり
まき4の目録もくろく1よう6しゅぶんのみ。系統けいとうしょう極書きわめがきによる名称めいしょう古筆こひつしのげかんじょう所収しょしゅう

版本はんぽん

編集へんしゅう

活字かつじくんほん

編集へんしゅう

江戸えど時代じだい初期しょき刊行かんこうであり、はじめての万葉集まんようしゅう版本はんぽんである。全巻ぜんかんだが10さつのものと20さつのものがある。いちめんは8ぎょう×18字詰じづめで、上下じょうげ左右さゆうじゅう界線かいせんがある。うたたかしるし、題詞だいしひだりちゅうは1ひくい。全体ぜんたいひろし元本がんぽんけいだが、まき4、5、6は細井ほそいほんけいはやし道春どうしゅん校本こうほんっているため、まき4の後半こうはん欠落けつらくし、まき3の後半こうはん重出じゅうしゅつする。また、まき3末尾まつび大伴旅人おおとものたびと大伴家持おおとものやかもち藤原ふじわらじんつて掲載けいさいされている。内閣ないかく文庫ぶんこ東京大学とうきょうだいがく図書館としょかん大阪おおさか府立ふりつ中之島なかのしま図書館としょかん石川いしかわ武美たけみ記念きねん図書館としょかんみことけいかく文庫ぶんこだい東急とうきゅう記念きねん文庫ぶんこ久邇くに文庫ぶんこだいえい博物館はくぶつかんなどに所蔵しょぞうされている。

活字かつじくんほん

編集へんしゅう

活字かつじくんほんぶんながじゅうねんほんけいさびしるし成俊なりとしほん現存げんそんしない)で校合きょうごうしてくんをつけたもの。木版もくはん袋綴ふくろとじ、全巻ぜんかん10さつである。江戸えど時代じだい初期しょき慶長けいちょう1596ねん - 1615ねん)か元和がんわ1615ねん - 1624ねん)ごろの刊行かんこうかんがえられている。なお、以下いか奥書おくがきされている。

  • まき1にぶんながじゅうねんおよびさんねん仙覚せんがく奥書おくがき
  • まき20にぶんながさんねん仙覚せんがく奥書おくがきさびしるし成俊なりとし奥書おくがき

国会図書館こっかいとしょかん石川いしかわ武美たけみ記念きねん図書館としょかん天理てんり図書館としょかん東洋文庫とうようぶんこ宮内庁くないちょうしょりょう東京大学とうきょうだいがく図書館としょかん大谷大学おおたにだいがく図書館としょかん龍谷大りゅうこくだいがく図書館としょかんなどに所蔵しょぞうされている。

寛永かんえいほん

編集へんしゅう

寛永かんえい版本はんぽんともばれる。江戸えど時代じだい初期しょき1643ねん寛永かんえい20ねん)の刊行かんこうで、京都きょうと三条さんじょう寺町てらまち安田やすだ十兵衛じゅうべえかんがある。木版もくはん袋綴ふくろとじ、全巻ぜんかん20さつである。活字かつじくんほんせい版本はんぽんだが、若干じゃっかん増補ぞうほ改訂かいていおこなわれている。江戸えど時代じだいから流布るふほんとしてもちいられ、明治めいじ時代じだいから戦前せんぜんまで各種かくしゅテキストの底本ていほんとされていた。国会図書館こっかいとしょかんなどが所蔵しょぞうしている。

宝永ほうえいほん

編集へんしゅう

1709ねん宝永ほうえい6ねん)の刊行かんこうであるが、寛永かんえいほんかんだけを出雲いずもこくてら和泉いずみじょうのものとした。国会図書館こっかいとしょかんなどが所蔵しょぞうしている。

つくり註本

編集へんしゅう

宝永ほうえいほん本文ほんぶんつくりほどこしたものである。木版もくはん袋綴ふくろとじ、全巻ぜんかん20さつである。1789ねん寛政かんせい元年がんねん)の刊行かんこうで、註は常陸ひたちこくめぐみだけ契沖けいちゅう賀茂真淵かものまぶちせつ自説じせつくわえてった。出雲いずもこくてら和泉いずみじょうどう文治郎ぶんじろうかんがある。国会図書館こっかいとしょかんなどが所蔵しょぞうしている。

万葉集まんようしゅう

編集へんしゅう

木版もくはん袋綴ふくろとじ、全巻ぜんかん20さつである。1803ねんとおる3ねん)に和泉いずみてらなどによって刊行かんこうされた。土佐とさこく今村いまむららく横田よこたよしすい宝永ほうえいほん改訂かいていくわえて本文ほんぶんだけを出版しゅっぱんしたもので、今村いまむらじょ横田よこたばつがある。内閣ないかく文庫ぶんこなどが所蔵しょぞうしている。

校異こういほん

編集へんしゅう

校異こういほん万葉集まんようしゅう』のだいつ。木版もくはん袋綴ふくろとじ、全巻ぜんかん20さつである。校異こういうえらんしるしている。1805ねん文化ぶんか2ねん)の刊行かんこうで、出雲いずもてら文治郎ぶんじろうかんがある。つくり註本の註を削除さくじょして、もとこよみ校本こうほんとう橋本はしもとけいあきら校異こうい藤原ふじわら山田やまだ)以文がさいこうくわえたものが掲載けいさいされている。国会図書館こっかいとしょかんなどが所蔵しょぞうしている。


構成こうせい内容ないよう

編集へんしゅう

ぜんじゅうかんであるが、首尾しゅび一貫いっかんした編集へんしゅうではなく、なんかんかずつ編集へんしゅうされてあったものをあつめてひとつの歌集かしゅうにしたとかんがえられている。

各巻かくかんは、年代ねんだいじゅん部類ぶるいべつくにべつなどに配列はいれつされている。また、各巻かくかんうたは、なんらかの部類ぶるいけられている。

内容ないようじょうから雑歌ぞうかぞうか相聞そうもん挽歌ばんかさんだい部類ぶるいになっている。

  • 雑歌ぞうかぞうか - 「くさぐさのうた」ので、相聞そうもん挽歌ばんか以外いがいうたおさめられている。おおやけ性質せいしつった宮廷きゅうてい関係かんけいうたたびんだうた自然しぜん四季しきをめでたうたなどである。
  • 相聞そうもんそうもんか - 「相聞そうもん」は、消息しょうそくつうじてわすことで、しゅとして男女だんじょこいみあううたひとあいするうた)である。
  • 挽歌ばんかばんか - かんときうた死者ししゃいたみ、哀傷あいしょうするうたひといたうた)である。

表現ひょうげん様式ようしきからは、

  • よせぶつひねおもえきぶつちんし - こい感情かんじょう自然しぜんのものにたとえて表現ひょうげん
  • せいじゅつ心緒しんしょせいじゅつしんしょ - 感情かんじょう直接的ちょくせつてき表現ひょうげん
  • えいぶつえいぶつか - ぶし風物ふうぶつ
  • 譬喩ひゆひゆか - 自分じぶんおもいをものにたくして表現ひょうげん

などにけられる。

まきじゅうよんだけが東歌あずまうたあずまうたをもっている。このまきには、上総かずさ下総しもうさ常陸ひたち信濃しなの四国しこく雑歌ぞうか遠江とおとうみ駿河するが伊豆いず相模さがみ武蔵むさし上総かずさ下総しもうさ常陸ひたち信濃しなの上野うえの下野げや陸奥みちのくじゅうこく相聞そうもん往来おうらい遠江とおとうみ駿河するが相模さがみ上野うえの陸奥みちのくこく譬喩ひゆくにからないものの雑歌ぞうか相聞そうもん往来おうらい防人さきもり譬喩ひゆ挽歌ばんかおどけさきなどがおさめられている。

歌体かたいは、短歌たんか長歌ながうた旋頭歌せどうかの3しゅ区別くべつされている[ちゅう 3]みじか音節おんせつながなな音節おんせつからなる。

  • 短歌たんかは、ななななななからなるもの。
  • 長歌ながうたは、じゅうすうからじゅうすうまでのものが普通ふつうであり、ななながつづけ、最後さいごとくななななという形式けいしきむすぶもの。長歌ながうたのちに、べつに、いちしゅすうしゅえる短歌たんか反歌はんかばれている。
  • 旋頭歌せどうかは、短長たんちょういちかいわせにちょう一句いっくえたかたちかたうたといい、このかたうた形式けいしきを2かいかえしたかたちである。あたまさんおながたさんかえすことから旋頭歌せどうかとついたといわれる。

うたすう

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うたかずは4500しゅあまりからなるが、写本しゃほんつてほんもとづくかぞかたが、うたすう種々しゅじゅ様々さまざませつがある。

たとえば『国歌こっか大観たいかん』によればそううたすうは4516しゅであるが、これにはいちしゅに2番号ばんごうるなど問題もんだいおおい。それらを整理せいりした武田たけだ祐吉ゆうきちによるとそううたすうは4506しゅで、そのほかに「あるほんうた」が57しゅ、「いちしょうた」が4しゅ、「一本いっぽんうた」が3しゅ、「あるしょうた」が2しゅ、「あるいうんはく」とあるうたが3しゅ、『古事記こじき』のうたが1しゅけい70しゅであるという[22]

時期じき区分くぶん

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額田王ぬかたのおおきみうた

うたつくった時期じきにより4けられる。

うた作者さくしゃそうてみると、皇族こうぞく貴族きぞくからなか下級かきゅうかんじんなどに波及はきゅうしていき、作者さくしゃ不明ふめいうた畿内きない下級かきゅうかんじん庶民しょみんうたられ、また東歌あずまうた防人さきもりなどにられるように庶民しょみんにまでひろがっていったことがかる。さらに、地域ちいきてきには、宮廷きゅうてい周辺しゅうへんからきょう畿内きない東国とうごくというふうに範囲はんい時代じだいとともに拡大かくだいされていったとかんがえられる。

うたふう万葉仮名まんようがな

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神坂かみさか神社じんじゃにある防人さきもり歌碑かひ万葉仮名まんようがなで「ちはやぶるかみさかぬさぬさまつり ときいはいのちははちちおもちちがため」とある。

防人さきもりうたさきもりのうた東歌あずまうたあずまうたなど、貴族きぞく以外いがい民衆みんしゅううたっているきわめて貴重きちょう史料しりょうでもある。派手はで技巧ぎこうはあまりもちいられず、素朴そぼく率直そっちょくうたいぶりに特徴とくちょうがある。賀茂真淵かものまぶちはこのしゅうひょうしてまこと・ますらをぶりった。

全文ぜんぶん漢字かんじかれており、漢文かんぶん体裁ていさいをなしている。しかし、うたは、日本語にほんご語順ごじゅんかれている。うたは、表意ひょういてき漢字かんじあらわしたもの、表音ひょうおんてき漢字かんじあらわしたもの、表意ひょうい表音ひょうおんとをあわせたもの、文字もじ使つかっていないものなどがあり多種たしゅ多様たようである。

編纂へんさんされたころにはまだ仮名かめい文字もじつくられていなかったため、万葉仮名まんようがなばれる独特どくとく表記ひょうきほうもちいた。つまり、漢字かんじ意味いみとは関係かんけいなく、漢字かんじ音訓おんくんだけを借用しゃくようして日本語にほんご表記ひょうきしようとしたのである。その意味いみでは、万葉仮名まんようがなは、漢字かんじもちいながらも、日本人にっぽんじんによる日本人にっぽんじんのための最初さいしょ文字もじであったとえよう。

万葉仮名まんようがなかれた大伴家持おおとものやかもちうた

万葉仮名まんようがなぶんりゅうげい あずかがたなばい 尓之敝由 夜氣やきひさ於比弖 伎尓曾乃めい

くんけん大刀たち いよよぐべし きよしさやけくまけひて にしそのそ(まき20-4467)

山上憶良やまのうえのおくらだいとうりしとき本郷ほんごうを憶ひてつくれるうた

万葉仮名まんようがなぶん去來きょらいとう はや日本にっぽん 大伴おおとも御津みと濱松はままつ まちこいやつりょうたけ

くん)いざども はや日本にっぽん大伴おおとも御津みつみつ浜松はままつ こいひぬらむ(まき1-63)

とく上記じょうき山上憶良やまのうえのおくらうたには「日本にっぽん」という語句ごく登場とうじょうする。やまとがどのような経緯けいい日本にっぽんあらためられたのかは明確めいかくには解明かいめいされていないが、山上憶良やまのうえのおくら参加さんかした702ねんだい8かい遣唐使けんとうしで、日本にっぽんがわはじめて対外たいがいてきやまとではなく日本にっぽん国号こくごう使用しようしており、上記じょうきうたもその遣唐使けんとうし時期じきまれたものなので、「日本にっぽん」という語句ごく使用しようとしてふるいものである。万葉仮名まんようがなは、奈良なら時代じだい終末しゅうまつには、字形じけいすこくずして、画数かくすうすくない文字もじ多用たようされるようになり、平安へいあん時代じだいいたるとますますその傾向けいこうつよまり、すこしでもはやく、また効率こうりつよく文字もじけるようにと、字形じけい極端きょくたん簡略かんりゃくくさりゃく)したり字画じかく省略しょうりゃくしょう)したりするようになった。そうして「平仮名ひらがな」と「片仮名かたかな」が創造そうぞうされたのである。

現在げんざいでも万葉仮名まんようがなはいたるところで使用しようされており、難読なんどく地名ちめいとされるものには万葉仮名まんようがな由来ゆらいするものがおおい。

影響えいきょう

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万葉集まんようしゅう』と方言ほうげん

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万葉集まんようしゅう』には「東風こち えつ俗語ぞくご東風こちいいあん由乃ゆの是也これや」(まき17・4017ばん)のように、当時とうじ方言ほうげんについてそれと明示めいじした記述きじゅつがあるが、いちいち方言ほうげん銘打めいうってはいなくても、じつ大量たいりょう方言ほうげん記録きろくされている。すなわち、まき14の東歌あずまうたまき20の防人さきもりである。

東歌あずまうた東国とうごく地方ちほう[ちゅう 4]うたで、東国とうごくつたわるうた収集しゅうしゅうし、どのくにうた判明はんめいしているうたかん国歌こっか。90しゅ+5しゅ)と不明ふめいうたかん国歌こっか。140しゅ+3しゅ)に二分にぶんして収録しゅうろくしている。おおくのうた上代じょうだい東国とうごく方言ほうげん多用たようされており、うた成立せいりつ年代ねんだい作者さくしゃ出自しゅつじ記録きろく経緯けいい一切いっさい不明ふめいという問題もんだいてんはあるにしても、古代こだい方言ほうげん具体ぐたいてき記録きろくとして重要じゅうよう位置いちめる。また、分量ぶんりょう豊富ほうふさも魅力みりょくである。

まれてからときぎている、知識ちしきがなかった昭和しょうわ時代じだい文献ぶんけんはばかせすぎているため、間違まちがった解釈かいしゃくもあり、その日本語にほんご歴史れきし影響えいきょうしている。

防人さきもり東国とうごくから徴集ちょうしゅうされた防人さきもりんだうたで、まき13やまき14にも少量しょうりょうえるが、もっとも著名ちょめいなのはまき20に「天平てんぴょうかちたからななさいおつがつあいかえ筑紫つくし諸国しょこく防人さきもりとう」として84しゅ収録しゅうろくされているものである。これは天平てんぴょうかちたから7さい755ねん)に徴集ちょうしゅうされた防人さきもりんだうたを、防人さきもりひきいてきた各国かっこくりょう使ことりづかいめいじて記録きろくうえすすむさせたもので、拙劣せつれつとして半数はんすうちかく(82しゅ)がてられてはいるものの、採用さいようされたうたについては作者さくしゃ名前なまえから出身しゅっしんこくくにによってはぐんめいまで)まで逐一ちくいちしるされている。しかも、万葉集まんようしゅう採録さいろくするにあたって、内容ないようはもちろん万葉仮名まんようがな表記ひょうきいたるまでうえすすむときのままで改変かいへんされていない可能かのうせいたかく、東国とうごく方言ほうげん史料しりょうとしての価値かち東歌あずまうた凌駕りょうがするものと評価ひょうかされている。

以下いか東歌あずまうた防人さきもりから1しゅずつげる。

  • ひるけば けなへひもなに 相寄あいよるとかも よるけやすけ(まき14・3483ばん
昼間ひるまくとけないひもが、おっとうからというのか、よるけやすいことだ。)
りゅうとうなみ とう奈敝比毛ひけ和賀わが西にし奈尓 おもねあずかりゅうとう ほっりゅうとう也須
  • 草枕くさまくら たび丸寝まるねひもえば わがけろ これのはりはるもちし(まき20・4420ばん
たび丸寝まるねをしてひもれたら、自分じぶんでおつけなさいよ、このはりでもって。)
久佐くざあさ久良ひさよし 妣乃あさりゅう祢乃 比毛ひもようばば やすわが弖等りょ もとれい乃波りゅうははこころざし

上記じょうきうたてもわかるように、『万葉集まんようしゅう』に記録きろくされた東国とうごく方言ほうげんには、現代げんだい東日本ひがしにっぽん方言ほうげんあいつうじるものがすくなくない。なかでも否定ひてい助動詞じょどうし「~なふ」や命令めいれいがた語尾ごび「~ろ」は、現代げんだい東日本ひがしにっぽん方言ほうげんの「~ない」「~ろ」につらなる可能かのうせい指摘してきされている。また、東国とうごく方言ほうげんよんだん動詞どうし形容詞けいようし連体れんたいがたは、「だてつき」「あいかなしけいもうといも」のように中央ちゅうおうとはことなる独特どくとく語形ごけいるが、八丈島はちじょうじまはなされる八丈はちじょう方言ほうげんは「とき」「こうやま」のように、上代じょうだい東国とうごく方言ほうげん同様どうよう語形ごけいをとることでられている。日本語にほんご方言ほうげんかずあれど、このような活用かつようのこすのは八丈はちじょう方言ほうげんなど少数しょうすうである。

日本にっぽん古来こらい物語ものがたり原型げんけいせつ

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万葉集まんようしゅうは『たけ物語ものがたり』や『浦島うらしま太郎たろう』などの古典こてん文学ぶんがく影響えいきょうおよぼしているとするせつがあり、まき16「由縁ゆえんある雑歌ぞうか」にはたけおきな天女てんにょ登場とうじょうする長歌ながうたがあり、内容ないようたけおきなの「別伝べつでんてきなものでことなる内容ないようではあるが、『たけ物語ものがたり』(かぐやひめ物語ものがたり)の源流げんりゅうのひとつととらえられるものとして関連かんれん指摘してきされている[23]まき9の高橋虫麻呂たかはしのむしまろさく長歌ながうたに『浦島うらしま太郎たろう』の原型げんけいとも解釈かいしゃくできる内容ないようの「浦島うらしま伝説でんせつ」がうたわれている[1]。ただ、「浦島うらしま伝説でんせつ」は日本書紀にほんしょき略記りゃっきでも、らえた大亀おおかめおんなかわり、つまにしてよもぎ萊山内容ないようのものがある[1]

万葉集まんようしゅうの「うさぎげん処女しょじょ伝説でんせつ」は、『大和やまと物語ものがたり』の「生田川いけだがわ伝説でんせつ」や、謡曲ようきょくもとめづか』、もり鷗外の『生田川いけだがわ』に翻案ほんあんされている[1]。また、『源氏物語げんじものがたり』でも、宇治川うじがわ身投みなげする浮舟うきふねかおるにおいみや2人ふたり男性だんせいあいされる女性じょせい)が登場とうじょうしている[1]

元号げんごうれい

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明仁あきひと天皇てんのう譲位じょういによる改元かいげん2019ねん4がつ1にち午前ごぜん1141ふん内閣ないかく官房かんぼう長官ちょうかんかんよしえら記者きしゃ会見かいけんおこなって発表はっぴょうされ、皇太子こうたいしとくじん親王しんのう践祚せんそにともなって同年どうねん5がつ1にちから施行しこうされる元号げんごうれい」の典拠てんきょとなった。「まき うめはなうたさんじゅうしゅ并せてじょ」の「初春しょしゅんれいつきにして、よしふうぎ、うめかがみまえこなを披き、らんは珮後のこうかおらす」から引用いんようした[7]。これまで日本にっぽん元号げんごう出典しゅってん漢籍かんせきであったが、はじめて日本にっぽん古典こてんからの出典しゅってんとなった。内閣ないかく総理そうり大臣だいじん安倍晋三あべしんぞう元号げんごう発表はっぴょうにともなってひらいた記者きしゃ会見かいけんにて、しん元号げんごうについて「人々ひとびとうつくしくしんなかで、文化ぶんかまれそだつ。うめはなのように、日本人にっぽんじん明日あしたへの希望きぼうかせる」というおもいをめたものであることをかたった[24]

れい」の典拠てんきょとなった「まき うめはなうたさんじゅうしゅ并せてじょ」は、天平てんぺい2ねん730ねん)の正月しょうがつ13にちに、だいおさむそち大伴旅人おおとものたびとやしき梅園うめぞの山上憶良やまのうえのおくら下僚かりょうやく30にんあつまりもよおされた「梅花ばいかうたげ」の宴席えんせきまれた32しゅ(また後日ごじつ6しゅ唱和しょうわされた)の序文じょぶんである[1]現代げんだいやくでは、「…とき新春しんしゅん正月しょうがつ外気がいきこころよふうやわらいで、うめ佳人かじん鏡台きょうだい白粉おしろいのようにしろき、らんこうぶくろのようにかおっている。…」という意味いみである[1]はなで、さくらももきくなどのはなびらをはいうかむことは、長寿ちょうじゅ祈願きがんならわしであったが、まんよう当時とうじ花見はなみは、ももうめなどの中国ちゅうごく伝来でんらいはなるのが一般いっぱんてきであったという[1]

諸点しょてん

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巻頭かんとう巻末かんまつうた

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万葉集まんようしゅう』は全巻ぜんかんで20かんであるが、その巻頭かんとううた雄略天皇ゆうりゃくてんのううたはじまり、大伴家持おおとものやかもちうためくくられている。奈良なら時代じだい人々ひとびとにおいても雄略天皇ゆうりゃくてんのう特別とくべつ天皇てんのうとして意識いしきされていたことをしめす。

大泊おおとまりややたけしおほはつせのわかたけ天皇てんのう御製ぎょせいおほみうた

かごこもよ みかごくしふくしもよ みくしぶくしち このたけをか菜摘なつみなつます いえつげらせ めいつげらさね そらみつ 大和やまとやまとくには おしなべて われこそきょれ しきなべて われこそせ われにこそは つげらめ をもをも(まき1・1ばん
かごあずか よしかご母乳ぼにゅう ぬのひさおもえあずか 美夫よしおくんこころざし 此岳尓 さい須兒 つげめいつげしゃ きょ さんあと乃國しゃ 押奈戸手とで われもときょ 吉名よしなばいしゅ われ わがもと つげ よびめいゆうはは
巻末かんまつ しんあらたしき ねんはじめの 初春しょしゅん今日きょうゆきの いやおも吉事きちじよごと

万葉集まんようしゅうには「いさな(くじらぎょ)」をんだうたうたわれているが、いさなとはくじらぎょくじらめい勇魚いさな不知ふちぎょ伊佐いささかなとも表記ひょうきしていて、おもにくじらるいす。そして「いさなとり」は、捕鯨ほげい意味いみおもうみうらはまなだなどをあらわ枕詞まくらことばとして使つかわれていた。

  • まき
    「いさなり」 淡海たんかいうみおきさけて こぎくるふね きて こぎふね おきかい いたくなねそ あたりかい いたくなねそ 若草わかくさの つまの おもとり
  • まき さん
    えつうみ角鹿つのがはま大船おおぶねかじつらぬきおろし 「いさなとり」 海路かいろでて
  • まき ろく
    やすみしし わが大君おおきみの ありどおり難波なんばみやは 「いさなとり」 うみへんきて たまじつ浜辺はまべちかあさはねなみおとさわき ゆうなぎに かいこえおと聞ゆ あかときの 寝覚ねざめにけば うみわかわたつみ潮干しおひしおひのむた うらなぎさには 千鳥ちどりつま芦辺あしべには づるたづおとひびきとよひとかたりにすれば ひとまくりよくりする しょくみけこうかふ 味原あじはらみやれどもかぬかも
  • だい いちろく
    くじらぎょり」 うみする さんする ぬれこそ うみ潮干しおひやまれすれ[ちゅう 5]

外国がいこくとの関係かんけい

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1950年代ねんだいには安田やすだ徳太郎とくたろうが『万葉集まんようしゅうなぞ』において日本語にほんご祖語そごインド北部ほくぶレプチャであるとし、万葉集まんようしゅうはレプチャめると主張しゅちょうしていた[25]

また、1980年代ねんだいには「『万葉集まんようしゅう』の言葉ことば古代こだい朝鮮ちょうせん関係かんけいがあり、それによって解釈かいしゃくできる」という意見いけんされ、一連いちれん著作ちょさくベストセラーになったことがある。背景はいけいとしては、日本にっぽん古代こだい文化ぶんか朝鮮半島ちょうせんはんとう由来ゆらいとする韓国かんこく特有とくゆう民族みんぞく主義しゅぎほお炳植やすしひろし[ちゅう 6]など)があり、それに同調どうちょうする日本人にっぽんじん藤村ふじむら由加ゆかなど)の言説げんせつ存在そんざいしている。しかし、当時とうじから一部いちぶ日本語にほんごがく研究けんきゅうしゃによって反論はんろん批判ひはん[26][27]がなされており、一連いちれん著作ちょさくは「トンデモほん」と認定にんていされた[28]

こうした外国がいこくとの関係かんけい金田一きんだいち春彦はるひこも「万葉集まんようしゅうなぞ英語えいごでもける」と批判ひはんしている[29]

研究けんきゅう

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近世きんせいには学芸がくげい文化ぶんか興隆こうりゅうから万葉集まんようしゅう研究けんきゅうおこな国学こくがくしゃあらわれ、契沖けいちゅう荷田春満かだのあずままろ賀茂真淵かものまぶち加藤かとう千蔭ちかげ田安たやす宗武むねたけ鹿しかもちまさきよし長瀬ながせ真幸まさきほんきょ宣長のりながらが万葉集まんようしゅう研究けんきゅう展開てんかいした。

きん現代げんだいには国語こくご国文学こくぶんがく観点かんてんからまんよう研究けんきゅうおこなわれ、斎藤さいとう茂吉しげよし折口おりぐち信夫しのぶ[ちゅう 7]佐佐木ささき信綱のぶつな土屋つちや文明ふみあき以上いじょう4めい自身じしん歌人かじんであり、歌人かじん立場たちばからまんようろん展開てんかいした)、澤瀉おもだかひさこう武田たけだ祐吉ゆうきち五味ごみ智英ともひでいぬやしなえこう伊藤いとうひろし稲岡いなおかこう青木あおき生子いくこ阿蘇あそ瑞枝みずえ橋本はしもと達雄たつお中西なかにしすすむ多田ただ一臣かずおみもり朝男あさお古橋ふるはし信孝のぶたかさきことぶき坂本さかもと信幸のぶゆき神野かみのこころざし隆光りゅうこう佐竹さたけ昭広あきひろ曾倉岑内藤ないとうあきら梶川かじかわ信行のぶゆき上野うえのまこと小川おがわ靖彦やすひこ鴻巣こうのす隼雄はやおてつ昌弘まさひろ藤井ふじい貞和さだかず品田しなだえついち三浦みうらたすくこれらにより万葉集まんようしゅうについて研究けんきゅうされている。外国がいこくへの翻訳ほんやくとしてはケネス・ヤスダによる英語えいごやくがある。

仙覚せんがく

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仙覚せんがく1203ねんたてひとし3ねん)、常陸ひたちこくまれで、7さいごろに万葉集まんようしゅう研究けんきゅうこころざしたという。40さいのころには鎌倉かまくらみ、鎌倉かまくら将軍しょうぐん九条くじょうよりゆきけい知遇ちぐうていた。1243ねんひろしもと元年がんねん)、よりゆきけい歌人かじん源氏物語げんじものがたり学者がくしゃみなもとちかしぎょう万葉集まんようしゅう校訂こうてい下命かめいした。仙覚せんがく1245ねんひろしもと3ねん)か1246ねんひろしもと4ねん)にこの校訂こうてい作業さぎょうくわわり、おやぎょう書写しょしゃした写本しゃほん底本ていほんとしてほかの6種類しゅるい写本しゃほん校合きょうごうおこなって、1247ねんひろしもと5ねん)2がつ完成かんせいさせた。これが「仙覚せんがくひろし元本がんぽん萬葉集まんようしゅう」ないし「ひろし元本がんぽん」とばれているものである。ただし、後述こうじゅつぶんながほんとも仙覚せんがく校訂こうていほん原本げんぽん散佚さんいつしている。

ひろし元本がんぽんは「傍訓ぼうくん形式けいしき」をとっている。すなわち、うた漢字かんじ本文ほんぶんかたわらにカタカナでくん、つまりくだぶんれた。同時どうじ仙覚せんがく万葉集まんようしゅううたのすべてにくんほどこし、1253ねんけんちょう5ねん)にあらたにくんほどこした152しゅしるしたしょと、万葉集まんようしゅう用字ようじについてろんじた「奏覧そうらんじょう」のしょこう嵯峨さがいん献上けんじょうしている。

このえん仙覚せんがくは、こう嵯峨さがいんとその子息しそく鎌倉かまくら将軍しょうぐん宗尊親王むねかたしんのうらの支援しえんけることになり、さらに5種類しゅるい写本しゃほん閲覧えつらん可能かのうになった。そこで、1261ねんひろちょう元年がんねん)に今回こんかい仙覚せんがく単独たんどく万葉集まんようしゅう校訂こうてい作業さぎょう再開さいかいした。

この校訂こうてい1265ねんぶんなが2ねん)9がつ完成かんせいしたのが「仙覚せんがくぶんながねんほん萬葉集まんようしゅう」で、ただちに宗尊親王むねかたしんのう献上けんじょうされた。また、翌年よくねん8がつあらたな写本しゃほん完成かんせいさせた、これが西本願寺にしほんがんじほんほんである「ぶんながさんねんほん」である。その校訂こうていつづけ、ぶんながじゅうねんほん系統けいとう写本しゃほんのこっている。

万葉集まんようしゅう研究けんきゅうしゃぶんながさんねんほんとその校訂こうていほんをあわせて「ぶんながほん」とんでいる。ぶんながほんおおきな特徴とくちょう傍訓ぼうくん色分いろわけである。従来じゅうらいくんくろ仙覚せんがくあらためたくん紺青こんじょうあらたにほどこしたくんしゅしるされている[21]

万葉集まんようしゅう由来ゆらいする名前なまえ

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 平仮名ひらがな」や「片仮名かたかな」の成立せいりつ以前いぜんだったため、たとえば、助詞じょしなどはおとおな漢字かんじてるなどして表記ひょうきした(万葉仮名まんようがな)。[2]
  2. ^ 万葉集まんようしゅうびと天皇てんのう貴族きぞくから下級かきゅうかんじん防人さきもり大道芸だいどうげいじんなどさまざまな身分みぶん人々ひとびとかんがえられてきているが、品田しなだえついち東京大学とうきょうだいがく教授きょうじゅ)によれば、今日きょうではほぼすべての研究けんきゅうしゃから否定ひていされているという[5][よう検証けんしょう]
  3. ^ だい16かんにはいちしゅふつあしせき収録しゅうろくされている(国歌こっか大観たいかん3884ばん)。
  4. ^ いま長野ながのけん静岡しずおかけんから関東かんとう地方ちほう東北とうほく地方ちほう南部なんぶまでふくまれる。
  5. ^ 旋頭歌せどうかひとつ。
  6. ^ やすしひろし日本にっぽんそだった在日ざいにち韓国かんこくじんであり、韓国かんこく在住ざいじゅう韓国かんこくじんから事実じじつ認識にんしきあやまりが指摘してきされている。
  7. ^ 日本にっぽん最初さいしょ万葉集まんようしゅうぜん口語こうごやくをした[30]

出典しゅってん

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  25. ^ 安田やすだ徳太郎とくたろう日本人にっぽんじん歴史れきし だい1 まんようしゅうなぞ光文社こうぶんしゃ〈カッパ・ブックス〉、1955ねん ASIN B000JBGU8Q
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    西端にしはた幸雄ゆきお古代こだい朝鮮ちょうせん日本にっぽん古典こてんめるか』(新装しんそうばん大和やまと書房しょぼう古代こだい文化ぶんか叢書そうしょ〉、1994ねん8がつISBN 4-479-84032-X 
    安本やすもとよしてん朝鮮ちょうせんで「万葉集まんようしゅう」は解読かいどくできない』JICC出版しゅっぱんきょく、1990ねん2がつISBN 4-88063-784-X 
    安本やすもとよしてんしん朝鮮ちょうせん万葉集まんようしゅう解読かいどくできない』JICC出版しゅっぱんきょく、1991ねん9がつISBN 4-7966-0183-X などがある。
  27. ^ 朝鮮ちょうせんで「万葉集まんようしゅう」は解読かいどくできない
  28. ^ 山本やまもとひろし ちょ「オハイオしゅうでおはよう! ドン・R・スミサナ 吉田よしだしんけいわけ古代こだい、アメリカは日本にっぽんだった!』America: Land of Rising Sun」、学会がっかい へん『トンデモほん世界せかいよういずみしゃ、1995ねん11月、156-161ぺーじISBN 4-89691-166-0 
  29. ^ CiNii Articles 万葉集まんようしゅうなぞ英語えいごでもける
  30. ^ 「はじめに」(上野うえの 2017, pp. 3–12)

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん文献ぶんけん

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  • 鈴木すずき日出男ひでお万葉集まんようしゅう入門にゅうもん岩波書店いわなみしょてん岩波ジュニア新書いわなみじゅにあしんしょ414〉2002ねん10がつISBN 4005004148
  • 原田はらだ貞義さだよし万葉集まんようしゅう編纂へんさん資料しりょう成立せいりつ研究けんきゅうおうふう、2002ねん11月。ISBN 4273032600
  • 城崎きのさき陽子ようこ万葉集まんようしゅう編纂へんさん享受きょうじゅ研究けんきゅう』おうふう、2004ねん5がつISBN 4273033313
  • 古橋ふるはし信孝のぶたか誤読ごどくされた万葉集まんようしゅう新潮社しんちょうしゃ新潮しんちょう新書しんしょ73〉2004ねん6がつISBN 4106100738
  • 今井いまいゆう萬葉集まんようしゅう作者さくしゃしょうまき読解どっかいうたとその神話しんわ祭祀さいし法制ほうせい政治せいじなど』和泉いずみ書院しょいん、2005ねん9がつISBN 4757603320
  • 小川おがわ靖彦やすひこ萬葉まんようがく研究けんきゅう』おうふう、2007ねん2がつISBN 9784273034290
  • 浅見あさみとおる万葉集まんようしゅう表現ひょうげん受容じゅよう和泉いずみ書院しょいん研究けんきゅう叢書そうしょ365〉2007ねん9がつISBN 9784757604254
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  • 城崎きのさき陽子ようこ近世きんせい国学こくがく万葉集まんようしゅう研究けんきゅう』おうふう、2009ねん6がつISBN 9784273035280
  • 城崎きのさき陽子ようこ万葉集まんようしゅうくんんだ人々ひとびと:「万葉まんよう文化ぶんかがく」のこころみ』しんてんしゃしんてんしゃ新書しんしょ49〉2010ねん5がつISBN 9784787961495
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  • 井上いのうえさやか『万葉集まんようしゅうからみる「世界せかい」』しんてんしゃしんてんしゃ新書しんしょ59〉2012ねん7がつISBN 9784787961594
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  • 梶川かじかわ信行のぶゆきへん『おかしいぞ!国語こくご教科書きょうかしょふるすぎる万葉集まんようしゅうかた笠間かさま書院しょいん、2016ねん11月。ISBN 9784305708151
  • 池原いけはらようひとし萬葉集まんようしゅう訓読くんどく資料しりょう方法ほうほう笠間かさま書院しょいん、2016ねん12月。ISBN 9784305708212
  • 大石おおいし真由香まゆか近世きんせい初期しょき万葉集まんようしゅう』の研究けんきゅう北村きたむら季吟きぎん藤原ふじわら惺窩せいか受容じゅよう継承けいしょう和泉いずみ書院しょいん研究けんきゅう叢書そうしょ485〉2017ねん2がつISBN 9784757608276
  • 辰巳たつみ正明まさあき『「れい」から万葉集まんようしゅうしんてんしゃしんてんしゃ新書しんしょ78〉2019ねん7がつISBN 9784787961785
  • 廣岡ひろおか義隆よしたか萬葉まんよう形成けいせい通論つうろん和泉いずみ書院しょいん研究けんきゅう叢書そうしょ517〉2020ねん2がつISBN 9784757609402
  • 遠藤えんどうこう太郎たろう万葉集まんようしゅう起源きげんひがしアジアにいきづく抒情じょじょう系譜けいふ中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ中公新書ちゅうこうしんしょ2592〉2020ねん6がつISBN 9784121025920
  • 上野うえのまこと万葉集まんようしゅう講義こうぎ最古さいこ歌集かしゅう素顔すがお中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ中公新書ちゅうこうしんしょ2608〉2020ねん9がつISBN 9784121026088
  • 田中たなかまさる衝撃しょうげきの「万葉集まんようしゅうでんほん出現しゅつげん廣瀬ひろせほんつてほん研究けんきゅうはこうわった』はなわ書房しょぼうはなわ新書しんしょ85〉2020ねん9がつISBN 9784827340853
  • 上野うえのまことてつ昌弘まさひろ村田むらたみぎとみへん万葉集まんようしゅう基礎きそ知識ちしき』KADOKAWA〈角川かどかわ選書せんしょ650〉2021ねん4がつISBN 9784047037021
  • 大谷おおや雅夫まさお万葉集まんようしゅう出会であう』岩波書店いわなみしょてん岩波いわなみ新書しんしょ1892〉2021ねん8がつISBN 9784004318927
  • 小松こまつ靖彦やすひこ戦争せんそう文学ぶんがくしゃたち:『萬葉集まんようしゅう』ときた歌人かじん詩人しじん小説しょうせつ花鳥かちょうしゃ、2021ねん11月。ISBN 9784909832467

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