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考古学 - Wikipedia

考古学こうこがく

人類じんるいのこした物質ぶっしつ文化ぶんか研究けんきゅうとおし、人類じんるい活動かつどうとその変化へんか研究けんきゅうする学問がくもん

考古学こうこがく(こうこがく、英語えいご: archaeology、archæology、archeology[ちゅう 1])は、人類じんるいのこした遺跡いせきから出土しゅつどした遺構いこうなどの物質ぶっしつ文化ぶんか研究けんきゅうとおし、人類じんるい活動かつどうとその変化へんか研究けんきゅうする学問がくもんである。

たいして、歴史れきしがくは、文字もじによる記録きろく文献ぶんけんもとづく研究けんきゅうおこなう。

名称めいしょう

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考古学こうこがくという名称めいしょうは、古典こてんギリシャἀρχαιολογίαἀρχαιο [ふるい] + λογία [言葉ことば学問がくもん]、arkhaiologia アルカイオロギアー)からまれ、それをやくして「考古学こうこがく」とした。

英語えいごではarchaeologyという。米国べいこくふく標準ひょうじゅん表記ひょうきでは -ae とつづるが、べいではギリシア由来ゆらいの -ae のつづりをらず、発音はつおんわせてたんに -e とつづることがある。

日本語にほんごの「考古学こうこがく」(考古こうこ)という言葉ことばは、明治めいじ初期しょきにはふるものこのむという意味いみ好古こうこしるされていたが、ふるきを考察こうさつする学問がくもんだというかんがえからフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト次男じなんハインリヒ・フォン・シーボルトが1879ねん日本にっぽん学会がっかいおくった著書ちょしょ考古こうこせつりゃく』に、緒言しょげんしるした吉田よしだただしはるが「考古学こうこがく欧州おうしゅう学課がっか一部いちぶにして、云々うんぬん」とのべており、考古学こうこがくという名前なまえ使つかわれた最初さいしょとされている[1]

佐原さはらしんによると「考古学こうこがく内容ないようまさしく明確めいかくにしたのがシーボルトの『考古こうこせつりゃく』であることは間違まちがいない」が、「考古学こうこがく」というがはじめてあらわれたのは、1877ねん(明治めいじ10)、大森おおもり貝塚かいづか遺物いぶつ天皇てんのう御覧ごらんきょうされることにまったとき文部もんぶ大輔だいすけ田中たなか不二麿ふじまろ文部もんぶしょう神田かんだ孝平たかひらかの上申じょうしんしょのなかであるというせつもある[2]

考古こうこ」という漢語かんご自体じたいふるくからある(たとえば、きたそうりょだい考古こうこ中国語ちゅうごくごばん[3])。

概要がいよう

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先史せんし時代じだい文字もじにより記録きろくされるよりもまえ時代じだい)の人類じんるいについての研究けんきゅう注目ちゅうもくされるが、文字もじによる記録きろくのある時代じだい歴史れきし時代じだい)についても文献ぶんけん史学しがく補完ほかんするものとして、またはモノをとおして過去かこ人々ひとびと生活せいかついとなみ、文化ぶんか価値かちかん、さらには歴史れきしてき事実じじつ解明かいめいするために文献ぶんけん以外いがい手段しゅだんとして非常ひじょう重要じゅうようであり、中世ちゅうせいしろかんあと廃寺はいじなど)・近世きんせい武家ぶけ屋敷やしきあと市場いちばあとなど)の遺跡いせき考古学こうこがく研究けんきゅう分野ぶんやである。近代きんだいにおいても廃絶はいぜつした建物たてもの汐留しおどめ遺跡いせき;きゅう新橋しんばし停車場ていしゃじょうあとなど)や、戦時せんじちゅう防空壕ぼうくうごう発掘はっくつ調査ちょうさされることがある。

考古学こうこがくは、遺物いぶつ型式けいしきがくてき変化へんかと、遺構いこう関係かんけいそう遺物いぶつ包含ほうがんそう)の上下じょうげ関係かんけいといったそうがくてき分析ぶんせきつうじて、出土しゅつど遺物いぶつつうてき変化へんかてる「へんねん作業さぎょうたてじくとし、よこじくどう時代じだい推察すいさつされる遺物いぶつ特徴とくちょうたとえば土器どきほどこせぶん技法ぎほう製作せいさく技法ぎほう表面ひょうめん調整ちょうせい技法ぎほうなど)の比較ひかくとおして構築こうちくされるへんねんろん基盤きばんとして、遺物いぶつ遺構いこうからあきらかにできるひとつの社会しゃかいぞう文化ぶんかぞう提示ていじ目指めざしている。

考古学こうこがく位置付いちづ

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日本にっぽんでは従前じゅうぜんより日本にっぽん史学しがく東洋とうよう史学しがく西洋せいよう史学しがくなら歴史れきしがくよん分野ぶんやとみなされる傾向けいこうにあり、記録きろく文書ぶんしょにもとづく文献ぶんけんがくてき方法ほうほうおぎなうかたちで発掘はっくつ資料しりょうをもとに歴史れきし研究けんきゅうをおこなう学問がくもんととらえられてきた。ヨーロッパでは伝統でんとうてき先史せんし時代じだい考古学こうこがくてき研究けんきゅうする「先史せんしがく」という学問がくもん領域りょういきがあり、歴史れきしがく人類じんるいがくとは関連かんれんをもちながらも統合とうごうされた学問がくもん分野ぶんやとして独立どくりつしてとらえられる傾向けいこうつよい。

アメリカでは考古学こうこがく人類じんるいがく一部いちぶであるという見解けんかい主流しゅりゅうである。

考古学こうこがく

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考古学こうこがく近代きんだい西洋せいようまれた比較的ひかくてきあたらしい学問がくもんだが、ぜん近代きんだいから世界せかいしょ地域ちいき考古学こうこがく類似るいじするいとなみが学界がっかい内外ないがいおこなわれていた(好古こうこ参照さんしょう)。

近代きんだいてき考古学こうこがくは、18世紀せいきまつから19世紀せいきにかけて、地質ちしつ学者がくしゃオーガスタス・ピット・リバーズ英語えいごばん[ちゅう 2]ウイリアム・フリンダース・ペトリ[ちゅう 3]らによってはじめられた。特筆とくひつすべき業績ぎょうせきかさねられてゆき、20世紀せいきにはモーティマー・ウィーラー英語えいごばんらにがれた。1960年代ねんだいから70年代ねんだいにかけて物理ぶつりがく数学すうがくなどの純粋じゅんすい科学かがく理学りがく)を考古学こうこがくれたプロセス考古学こうこがく(ニューアーケオロジー)[ちゅう 4]がアメリカを中心ちゅうしんとして一世いっせい風靡ふうびした[4]

西洋せいよう考古学こうこがく

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中国ちゅうごく考古学こうこがく

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日本にっぽん考古学こうこがく

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日本にっぽん考古学こうこがく発祥はっしょう
那須なす国造くにのみやつこのある笠石かさいし神社じんじゃ碑文ひぶん検証けんしょうのため徳川とくがわ光圀みつくにによる日本にっぽん最初さいしょ発掘はっくつ調査ちょうさうえさむらいづか古墳こふんしもさむらいづか古墳こふん実施じっしされた。

日本にっぽんではじめて先史せんし時代じだい遺物いぶつ石器せっき時代じだい青銅器せいどうき時代じだい鉄器てっき時代じだいさん時代じだい区分くぶんほう[ちゅう 5]適用てきようしたのがフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトである[5][ちゅう 5]

日本にっぽんでは、動物どうぶつ学者がくしゃエドワード・モース1877ねん明治めいじ10ねん大森おおもり貝塚かいづか調査ちょうさおこなったのが、日本にっぽん近代きんだい考古学こうこがくのあけぼのとされる。しかしモースのおし本来ほんらい専攻せんこうである動物どうぶつがくすすんだため、モースが科学かがくとしてひらいた近代きんだい考古学こうこがく順調じゅんちょうすすまなかった。むしろ、モースよりさきであったというせつもある[6]どう時期じき大森おおもり貝塚かいづか発掘はっくつ調査ちょうさしたハインリヒ・フォン・シーボルトしょうシーボルト、シーボルト次男じなん外交がいこうかん)のほう専門せんもん知識ちしき豊富ほうふであり、モースの学説がくせつ度々たびたびハインリヒの研究けんきゅうにより論破ろんぱされている[よう出典しゅってん]。なお、日本にっぽんにおいての考古学こうこがく最初さいしょ定義ていぎもこのハインリヒの出版しゅっぱんした『考古こうこせつりゃく』によってなされた。

アジア各地かくち日本人にっぽんじん学者がくしゃには、興亜こうあいん外務省がいむしょう朝鮮ちょうせん総督そうとく満州まんしゅうこくまんてつ関東軍かんとうぐん援助えんじょがあった。これらの調査ちょうさ研究けんきゅうも、皇国こうこく史観しかん抵触ていしょくしないかぎり「自由じゆう」が保証ほしょうされた。中国ちゅうごく学者がくしゃ当時とうじ呼称こしょうささえ学者がくしゃ)と一部いちぶとの合作がっさく企画きかくして結成けっせいされた東亜とうあ考古こうこ学会がっかいも、学者がくしゃのあるべき姿すがたとして評価ひょうかされた。考古こうこ学者がくしゃ自身じしんすすんで大陸たいりくかけていった[7]

宮崎みやざきけん西にし都原みやこばる古墳こふんぐん発掘はっくつ県知事けんちじ発案はつあん1912ねん大正たいしょう元年がんねん)から東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく黒板こくばん勝美かつみ)と京都きょうと帝国ていこく大学だいがく喜田きた貞吉さだきち浜田はまだ耕作こうさく)の合同ごうどう発掘はっくつおこなわれた。1917ねん大正たいしょう6ねん京都きょうと帝国ていこく大学だいがく考古学こうこがく講座こうざがおかれ、考古学こうこがく講座こうざ初代しょだい教授きょうじゅ浜田はまだ耕作こうさく中心ちゅうしん基礎きそてき古墳こふん研究けんきゅうはじまった。大正たいしょう時代じだいは、考古学こうこがくにおける古墳こふん研究けんきゅう基礎きそ資料しりょう集積しゅうせき時代じだいであった。

また20世紀せいきあいだに、都市とし考古学こうこがく英語えいごばん科学かがく利用りようした考古こうこ科学かがく英語えいごばん、ダムなどで考古学こうこがく遺跡いせき破損はそん予定よていされる現場げんばでの緊急きんきゅう発掘はっくつ調査ちょうさ救出きゅうしゅつ考古学こうこがく英語えいごばん(レスキュー・アーケオロジー)の発展はってん重要じゅうようとなった。

戦後せんごになってからは皇国こうこく史観しかんによらない実証じっしょう主義しゅぎてき研究けんきゅう大々的だいだいてき可能かのうとなり、遺伝子いでんし研究けんきゅう放射ほうしゃせい炭素たんそ年代ねんだい測定そくていなどのしん技術ぎじゅつ登場とうじょうわせて飛躍ひやくてき発展はってんした。

2000ねん日本にっぽん考古こうこ学界がっかい最大さいだいのスキャンダルとわれたきゅう石器せっき捏造ねつぞう事件じけん発覚はっかくし、学者がくしゃらの分析ぶんせき技術ぎじゅつ未熟みじゅくさ、論争ろんそうのなさ、学界がっかい閉鎖へいさせいなどが露呈ろていした。また、捏造ねつぞう工作こうさくをした発掘はっくつ担当たんとうしゃのみにせめわせ、やく25ねんわたって捏造ねつぞう見逃みのがした学識がくしきしゃ責任せきにん不問ふもんとなったことから、学界がっかい無責任むせきにん隠蔽いんぺい体質たいしつ指摘してきされた。

現代げんだい考古学こうこがく特徴とくちょう

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現代げんだい考古学こうこがく特徴とくちょうとしては、

  1. 学問がくもん分野ぶんや原子げんし物理ぶつりがく化学かがく地質ちしつがく土壌どじょうがく動物どうぶつがく植物しょくぶつがく生物せいぶつがく建築けんちくがく人口じんこう統計とうけいがく冶金やきんがく社会しゃかいがく地理ちりがく民俗みんぞくがく文献ぶんけんがく認知にんち科学かがくなど)との連携れんけいがいっそうすすんでいること
  2. 考古こうこデータの急増きゅうぞう研究けんきゅうふかまりを反映はんえいし、対象たいしょうとする事象じしょう時代じだい地域ちいき遺構いこう種別しゅべつなどによって考古学こうこがくそのものの細分さいぶん専門せんもんいちじるしいこと、また、あたらしい研究けんきゅう領域りょういきまれていることであれば大丈夫だいじょうぶだというヌワラエリがあげられる。

考古学こうこがくしょ分野ぶんや

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プロセス考古学こうこがく英語えいごばん/ニュー・アーケオロジー
60年代ねんだいにアメリカの考古こうこ学者がくしゃルイス・ビンフォード確立かくりつさせた考古学こうこがくてき方法ほうほうろん従来じゅうらい伝播でんぱ主義しゅぎてき考古学こうこがく反論はんろんし、社会しゃかい内部ないぶあるいは社会しゃかいあいだはたらいている多様たようなプロセスを抽出ちゅうしゅつ分析ぶんせきすること目指めざしている。そこでは、社会しゃかい自然しぜん環境かんきょう関係かんけい生業せいぎょう経済けいざい活動かつどう集団しゅうだんないでの社会しゃかい関係かんけい、これらに影響えいきょうあたえるイデオロギー信仰しんこう、さらには社会しゃかい単位たんいあいだ相互そうご交流こうりゅう効果こうかなどが重要じゅうようされている。プロセス考古学こうこがく発展はってんなかで、考古こうこ資料しりょう過去かこかんする見解けんかい橋渡はしわたしをおこなうためのちゅう範囲はんい理論りろんMiddle Range Theory)が登場とうじょうし、その理論りろん実践じっせんするために実験じっけん考古学こうこがく民族みんぞく考古学こうこがく歴史れきし考古学こうこがく派生はせいした。
実験じっけん考古学こうこがく
過去かこ遺構いこう遺物いぶつしきてき製作せいさく使用しよう破棄はきすることによって、現在げんざい遺構いこう遺物いぶつがどのような工程こうてい現状げんじょういたったのか考察こうさつする研究けんきゅう領域りょういきたとえば、原石げんせきから石器せっき製作せいさくして使用しようしたり、粘土ねんどから土器どき製作せいさくして調理ちょうりおこなったりして使用しようこん分析ぶんせきする。また、住居じゅうきょ建築けんちくしたのち放火ほうかなどの破棄はきおこなってそのそう堆積たいせきじょうきょう観察かんさつすることもある。
民族みんぞく考古学こうこがく(ethnoarchaeology)
現存げんそんする伝統でんとうてき文化ぶんか保持ほじする小規模しょうきぼ民族みんぞく集団しゅうだん調査ちょうさし、そこでられた知見ちけんもとづいて、過去かこ考古学こうこがくじょうのデータから様々さまざま人間にんげん活動かつどうパターンを復元ふくげんするさい比較ひかく資料しりょうやモデルをつくそうとしたり、ある考古学こうこがくじょう仮説かせつ検討けんとうする基礎きそにしようとこころみるものである。
歴史れきし考古学こうこがく / 有史ゆうし考古学こうこがく(Historical archaeology)
考古学こうこがく研究けんきゅうほうを、従来じゅうらい文字もじかった時代じだいだけでなく、文字もじ史料しりょう現存げんそんする時代じだいにも応用おうようしようとした研究けんきゅう。これにより文献ぶんけん資料しりょうでは空白くうはく部分ぶぶんであった情報じょうほうが、考古学こうこがく資料しりょうによって補完ほかんされるようになった。日本にっぽんではおも奈良なら時代じだい以降いこうすことがおおい。遺構いこう遺物いぶつ存在そんざい文献ぶんけん資料しりょうちがい、文献ぶんけん資料しりょうとはことなったり、また記録きろくされていなかったり、不明瞭ふめいりょう記録きろくたいして、まったちが事実じじつ判明はんめいしたれい法隆寺ほうりゅうじ再建さいけん再建さいけん論争ろんそうなどが顕著けんちょれい)もある。
ポスト・プロセス考古学こうこがく英語えいごばん[8]
70年代ねんだい、イギリスの考古こうこ学者がくしゃイアン・ホダーとアメリカの考古こうこ学者がくしゃマーク・レオーネ中心ちゅうしんにプロセス考古学こうこがくへの批判ひはんから形成けいせいされた。解釈かいしゃくがくてき考古学こうこがくとも呼称こしょうされる。構造こうぞう主義しゅぎ批判ひはん理論りろんしんマルクス主義まるくすしゅぎてき思考しこう影響えいきょうけつつ、一般いっぱんけ「個別こべつてき説明せつめい」をおこな傾向けいこうがある。
認知にんち考古学こうこがく
1990年代ねんだいからよく使つかわれるようになった。認知にんち科学かがく[ちゅう 6][9]しん科学かがくなどの研究けんきゅう成果せいか援用えんよう応用おうようした考古学こうこがくてき研究けんきゅう過去かこきた人々ひとびとしん研究けんきゅう推測すいそく復元ふくげん)は、検証けんしょう可能かのうせい実証じっしょうせいたもとうとすることが大変たいへんむずかしい[9]
産業さんぎょう考古学こうこがく
戦跡せんせき考古学こうこがく
きん現代げんだいにおける国内こくない戦争せんそう痕跡こんせき戦争せんそう遺跡いせき)をあつかくにきん現代げんだい考古学こうこがくいち分野ぶんや対象たいしょうとなる戦争せんそう遺跡いせきたん戦闘せんとうあとまらず、師団しだん司令しれい航空機こうくうき墜落ついらくあと掩体ごう水没すいぼつ艦船かんせん防空壕ぼうくうごう軍需ぐんじゅ工場こうじょう、さらには現存げんそんする当時とうじ精神せいしんてき支柱しちゅう八紘はっこう一宇いちうとう忠魂碑ちゅうこんひ)などと、非常ひじょう多岐たきにわたる。1984ねん沖縄おきなわけんとう嗣一提唱ていしょうした。激戦げきせんであった沖縄おきなわでは、さかんに調査ちょうさおこなわれている[10]戦跡せんせき考古こうこがくたいしては、民俗みんぞくがく建築けんちくがくなど様々さまざま方面ほうめんからのアプローチが可能かのうである。一部いちぶでは外国がいこく戦跡せんせき研究けんきゅう中国ちゅうごくとらあたま要塞ようさい731部隊ぶたい施設しせつ研究けんきゅう南洋なんよう諸島しょとう点在てんざいするきゅう日本にっぽんぐん軍事ぐんじ兵器へいきなど)もおこなわれている。研究けんきゅうしゃとして、さか誥秀いちらがあげられる。
水中すいちゅう考古学こうこがく海洋かいよう考古学こうこがく
水中すいちゅうにある遺跡いせき遺物いぶつなどを調査ちょうさする考古学こうこがく。19世紀せいきスイスくいじょう家屋かおくあと[ちゅう 7]確認かくにん契機けいきに、フランスのクストー世界せかい各地かくち海底かいてい遺跡いせき調査ちょうさ開始かいししたのがはじまりである。日本にっぽんでも、すべりで琵琶湖びわこ湖底こていしずんだ古代こだい集落しゅうらくや、長崎ながさきけん鷹島たかしまおきもとさい沈没ちんぼつせんなどの研究けんきゅうおこなわれている。
宇宙うちゅう考古学こうこがく英語えいごばん衛星えいせい考古学こうこがく
1972ねんランドサット1ごうげられて以来いらい人工じんこう衛星えいせいデータによる地球ちきゅう観測かんそく技術ぎじゅつは、気象きしょう災害さいがい環境かんきょう海洋かいよう資源しげんなど、さまざまな分野ぶんや調査ちょうさ研究けんきゅう応用おうようされ、これまでにおおくの成果せいかをあげてきた。衛星えいせい搭載とうさいされるセンサの解像力かいぞうりょく高度こうどし、マイクロセンサや赤外線せきがいせんにより地表ちひょう状況じょうきょうがより明確めいかく観測かんそくできるようになると、衛星えいせいデータの応用おうよう範囲はんいはさらに多様たようし、密林みつりん砂漠さばくしたうずもれた古代こだい都市とし遺跡いせき検知けんちなども可能かのうとなってきた。この宇宙うちゅうからの情報じょうほう技術ぎじゅつ考古学こうこがく研究けんきゅう応用おうようしたのが宇宙うちゅう考古学こうこがくである。坂田さかた俊文としふみは、この方法ほうほうによってエジプトの未知みちのピラミッドを発見はっけんしている。
なお、疑似ぎじ科学かがく古代こだい宇宙うちゅう飛行ひこうせつも「宇宙うちゅう考古学こうこがく」としょうすることがあるが、これとは完全かんぜん別物べつものである。
環境かんきょう考古学こうこがく
文明ぶんめい歴史れきしを、その自然しぜん環境かんきょうとの関係かんけい重視じゅうしして研究けんきゅうする分野ぶんや1980ねん安田やすだけん提唱ていしょうした。1999ねん刊行かんこうの『新編しんぺん高等こうとう世界せかいB』[ちゅう 8]には、環境かんきょう考古学こうこがく成果せいか採用さいようされた。2003ねんはいって、安田やすだ以外いがい研究けんきゅうしゃによる環境かんきょう考古学こうこがくだいするほん[11]刊行かんこうされた。考古こうこ遺跡いせきから出土しゅつどする遺物いぶつなかでも、とく動植物どうしょくぶつ遺体いたいなどの分析ぶんせきから、当時とうじ食生活しょくせいかつ漁獲ぎょかく対象たいしょう、ひいては周辺しゅうへん気候きこう植生しょくせい復元ふくげんする考古学こうこがく分析ぶんせきする遺体いたいは、貝殻かいがらししこつ動物どうぶつ考古学こうこがく限定げんていすることもある)などの比較的ひかくてきおおきなものから、土壌どじょう選別せんべつふるいけ)することによってられる花粉かふん寄生虫きせいちゅうたまごなどがある。1980年代ねんだい以降いこう考古学こうこがくにおける理化学りかがく研究けんきゅう進展しんてんともな提唱ていしょうされた。渡辺わたなべまこと松井まついあきららによる研究けんきゅうくわしい。
地震じしん考古学こうこがく
地震じしん痕跡こんせき遺跡いせきからさぐる学問がくもん。1980年代ねんだい寒川さむかわあさひらの研究けんきゅうしゃにより提唱ていしょうされたあたらしい研究けんきゅう領域りょういきである。
だい考古学こうこがく
五十嵐いがらしあきら提唱ていしょうする方法ほうほうろんじょうのカテゴリー。従来じゅうらい考古学こうこがく主流しゅりゅうをなしているへんねん研究けんきゅう過去かこについての知識ちしきではなく、考古学こうこがく独自どくじ思考しこう方法ほうほうさぐろうという観点かんてんつ。名称めいしょう適切てきせつさをふくめて批判ひはんもあり、研究けんきゅう領域りょういきとしての認知にんちひくい。

考古学こうこがく方法ほうほう

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  1. データの収集しゅうしゅう
  2. 年代ねんだい決定けってい
  3. 総合そうごうてき解釈かいしゃく

考古学こうこがく資料しりょう

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収集しゅうしゅうするデータは、人類じんるい過去かこ活動かつどう行為こういしめ物的ぶってき証拠しょうこ収集しゅうしゅうすること。具体ぐたいてきには、①人類じんるいがある目的もくてきって製作せいさく加工かこうしたもの、②人類じんるいによって利用りようされた自然しぜんかい物質ぶっしつ、③人類じんるい活動かつどう行為こういによって自然しぜんかいしょうじた変化へんかしめ物的ぶってき証拠しょうこがあげられる。

考古学こうこがく成果せいか

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世界せかい古代こだい文明ぶんめい先史せんし文化ぶんか

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日本にっぽん列島れっとう

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狭義きょうぎ日本にっぽん列島れっとう

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広義こうぎ日本にっぽん列島れっとう

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文化財ぶんかざい保護ほご活用かつよう

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ べい俗称ぞくしょうでは -ae を -e とつづる。
  2. ^ (1827-1901) 組織そしきてき計画けいかく方法ほうほう記録きろくともな発掘はっくつ実施じっし世界せかいはつ実験じっけん考古学こうこがくこころみた。
  3. ^ 1853年生ねんせい、1942ねんぼつ。エジプト土器どきへんねん体系たいけい樹立じゅりつした。
  4. ^ 理化学りかがくてき年代ねんだい測定そくていほう・コンピュータと統計とうけいがく・システムろん生態せいたいがく応用おうよう
  5. ^ a b デンマーク国立こくりつ博物館はくぶつかん民族みんぞくがく部門ぶもん開設かいせつしたときにさん時代じだい区分くぶんほう適用てきようしたクリスチャン・トムセンが1839ねんにオランダのライデンにシーボルトをたずねている。そのとき、『北欧ほくおう古代こだいがく入門にゅうもん』(どくぶんばん1837ねん)をシーボルトに献呈けんていした可能かのうせいもある。佐原さはらしん日本にっぽん近代きんだい考古学こうこがくはじまるころ -モールス、シーボルト、佐々木ささき忠二郎ちゅうじろう資料しりょうによせて-」(きんせきじょはるなり秀爾ひでじ編集へんしゅう佐原さはらしん仕事しごと1 考古学こうこがくへの案内あんない岩波書店いわなみしょてん 2005ねん)235ページ
  6. ^ cognitive science 人間にんげん認知にんち知的ちてきいとなみ)にかかわる学問がくもん領域りょういき総称そうしょう 
  7. ^ 1853ねん~1854ねんにかけてフェルナンド・ケラーによる調査ちょうさとその報告ほうこく、ロバート・マンローによるスコットランドなど「湖上こじょう住居じゅうきょ」の報告ほうこく名高なだかいのは19世紀せいきまつのフロリダしゅう南西なんせいキー・マルコの「くいじょう住居じゅうきょみん」をフランク・カッシングが発掘はっくつしたハリケーンによって倒壊とうかいした集落しゅうらくあと、アーサー・ブライドが1893ねんから1907ねんにかけて発掘はっくつしたグラストンベリーしがらみくいかこまれた紀元前きげんぜん200ねん集落しゅうらくあと
  8. ^ 川北かわきたみのるほか帝国ていこく書院しょいん時代じだい区分くぶんは、1)自然しぜん適応てきおうしながらきていた時代じだい、2)自然しぜん環境かんきょうへの挑戦ちょうせん時代じだい、3)環境かんきょう問題もんだい出現しゅつげん社会しゃかい調和ちょうわ時代じだい

出典しゅってん

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  1. ^ いずみもりこうへん日本にっぽん考古学こうこがくまなひとのために』(世界せかい思想しそうしゃ2004ねん
  2. ^ 佐原さはらしん考古学こうこがくかたる」(かねせきじょはるなり秀爾ひでじへん佐原さはらしん仕事しごと1 考古学こうこがくへの案内あんない岩波書店いわなみしょてん、2005ねん
  3. ^ 考古こうこ』 - コトバンク
  4. ^ 安斎あんざい正人まさと『KASHIWA学術がくじゅつライブラリー06 理論りろん考古学こうこがく入門にゅうもん』(柏書房かしわしょぼう、2004ねん
  5. ^ そのちょ日本にっぽん』(1832~1858のころ)
  6. ^ 大森おおもり貝塚かいづか項目こうもく参照さんしょう
  7. ^ 近藤こんどう義郎よしお戦後せんご日本にっぽん考古学こうこがく反省はんせい課題かだい」(考古学こうこがく研究けんきゅうかいへん日本にっぽん考古学こうこがくしょ問題もんだい』1964ねん
  8. ^ ポスト・プロセス考古学こうこがく”. 情報じょうほう知識ちしき&オピニオン imidas. 2024ねん5がつ19にち閲覧えつらん
  9. ^ a b 松本まつもと直子なおこ中園なかそのさとし時津とぎつ裕子ゆうこへん認知にんち考古学こうこがく』(青木あおき書店しょてん、2003ねん
  10. ^ 瀬戸せと 哲也てつや沖縄おきなわけん戦争せんそう遺跡いせき 平成へいせい22~26年度ねんど戦争せんそう遺跡いせき詳細しょうさい確認かくにん調査ちょうさ報告ほうこくしょ 沖縄おきなわ県立けんりつ埋蔵まいぞう文化財ぶんかざいセンター調査ちょうさ報告ほうこくしょ75』沖縄おきなわ県立けんりつ埋蔵まいぞう文化財ぶんかざいセンター、2015ねん
  11. ^ 高橋たかはしまなぶ平野へいや考古学こうこがく古今ここん書院しょいん 2003ねん松井まついあきらへん環境かんきょう考古学こうこがくマニュアル』(同友どうゆうしゃ、2003ねん
  12. ^ 原子力げんしりょく環境かんきょう整備せいび促進そくしん資金しきん管理かんりセンター 「地層ちそう処分しょぶんにかかわる記録きろく保存ほぞん研究けんきゅう(『はらたまきセンター技術ぎじゅつ報告ほうこくしょ』2002ねん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 小林こばやし達雄たつおへん考古学こうこがくハンドブック』(新書しんしょかん、2007ねんISBN 978-4-403-25088-0
  • コリン・レンフルー ポール・バーン考古学こうこがく理論りろん方法ほうほう実践じっせん』(東洋とうよう書林しょりん、2007ねん
  • 鈴木すずき公雄きみお考古学こうこがく入門にゅうもん』(東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、2005ねん
  • 文化庁ぶんかちょう定本ていほん 発掘はっくつ調査ちょうさのてびき』どうなりしゃ、2016ねん10がつ30にちISBN 9784886217424 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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