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満洲国 - Wikipedia

まんしゅうこく

かつて中国ちゅうごく東北とうほく存在そんざいした日本にっぽん傀儡かいらい国家こっか
満州まんしゅうこくから転送てんそう
まんしゅうこく
滿まんしゅうこく
ᠮᠠᠨᠵᡠ
ᡤᡠᡵᡠᠨ
中華民国 (1912年-1949年) 1932ねん - 1945ねん 中華民国 (1912年-1949年)
ソビエト連邦による満洲占領
満洲国の国旗 満洲国の国章
国旗こっきくにあきら
くに標語ひょうご: ぞく協和きょうわ王道おうどう楽土らくど
国歌こっか: まんしゅうこく国歌こっか
[注釈ちゅうしゃく 1]
満洲国の位置
公用こうよう 日本語にほんごまん[1]モンゴルロシア
首都しゅと 長春ちょうしゅん[注釈ちゅうしゃく 2](1932ねん3がつ1にち - 1932ねん3がつ14にち
しんきょう[注釈ちゅうしゃく 3](1932ねん3がつ14にち - 1945ねん8がつ9にち
つう[注釈ちゅうしゃく 4](1945ねん8がつ9にち - 1945ねん8がつ18にち
まんしゅうこく執政しっせい(1932ねん - 1934ねん
まんしゅうこく皇帝こうてい(1934ねん - 1945ねん
1932ねん - 1934ねん あいしんさとし溥儀ふぎ
1934ねん - 1945ねん康徳やすのりみかど
国務こくむいん総理そうり(1932ねん - 1934ねん
国務こくむ総理そうり大臣だいじん(1934ねん - 1945ねん
1932ねん - 1935ねんていたかし
1935ねん - 1945ねんちょうけいめぐみ
面積めんせき
1,133,437km²
1933ねん1,191,000km²
人口じんこう
1933ねん33,697,920にん
1937ねん36,933,206にん
1942ねん10月1にち[2]44,242,000にん
変遷へんせん
建国けんこく宣言せんげん 1932ねん3月1にち
皇帝こうてい即位そくいみかどせい実施じっし1934ねん3月1にち
ソ連それん侵攻しんこうによって滅亡めつぼう1945ねん8がつ18にち
通貨つうかえん[3]
時間じかんたいUTC +9[4]
現在げんざい中華人民共和国の旗 中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく
中国ちゅうごく東北とうほく
朝鮮民主主義人民共和国の旗 朝鮮民主主義人民共和国ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく
(ごく一部いちぶ
  1. ^ 北京ぺきん官話かんわのことでまんしゅうとはことなる。まんしゅうほうは「固有こゆうまんしゅう」とばれる。
  2. ^ まんしゅう帝国ていこく治安ちあん警務けいむ康徳やすのりはちねんじゅうがついちにち まんしゅう帝国ていこく現住げんじゅう人口じんこう統計とうけい』による。
  3. ^ 1えん=10かく=100ぶん=1000りん
  4. ^ 1937ねん以降いこう1936ねんまではUTC+8。

まんしゅうこく(まんしゅうこく、きゅう字体じたい滿まんしゅうこく拼音: Mǎnzhōu Guó)は、まんしゅう事変じへんにより日本にっぽんぐん占領せんりょうしたまんしゅう現在げんざい中国ちゅうごく東北とうほく3しょう遼寧りょうねいしょう吉林きつりんしょう黒竜江こくりゅうこうしょう)、うちこうむふるねつかわしょう領土りょうどとして1932ねん昭和しょうわ7ねん/大同だいどう元年がんねん[注釈ちゅうしゃく 5])に成立せいりつした国家こっか[1][2][3]一般いっぱん日本にっぽん傀儡かいらい国家こっか做されている[4]

まんしゅうこく地図ちず

首都しゅとしんきょうきゅう長春ちょうしゅん[1]日本にっぽん民族みんぞくまんしゅう民族みんぞくかん民族みんぞくモンゴル民族みんぞく朝鮮ちょうせん民族みんぞくの「ぞく協和きょうわ」による「王道おうどう楽土らくど建設けんせつをスローガンとし[5]清朝せいちょう廃帝はいていあいしんさとし溥儀ふぎ執政しっせいむかえ、1934ねん昭和しょうわ9ねん/康徳やすのり元年がんねん)から溥儀ふぎ皇帝こうていとしたみかどせい移行いこうし、かく大臣だいじんまんしゅうぞくめられたが、要職ようしょく関東軍かんとうぐん司令しれいかんのもと日本人にっぽんじん掌握しょうあくした[2]1945ねん昭和しょうわ20ねん/康徳やすのり12ねん)8がつたいにち参戦さんせんしたソ連それんぐん占領せんりょうされたことで消滅しょうめつした[5]。ただし完全かんぜん占領せんりょうまえの8がつ17にち重臣じゅうしん会議かいぎによりまんしゅうこく廃止はいし決定けっていされ、翌日よくじつ皇帝こうてい溥儀ふぎ退位たいい宣言せんげんしている。

しま」が常用漢字じょうようかんじでないため、日本にっぽん教育きょういくよう図書としょふく一般いっぱんてきに「みつるしゅうくに」の表記ひょうき使つかわれるが、日本にっぽん法令ほうれい一部いちぶ文献ぶんけんでは「みつるしまくに」がもちいられる(表記ひょうきについては「まんしゅう#呼称こしょうとしてのまんしゅう」も参照さんしょう)。

概要がいよう

編集へんしゅう

きよし領有りょうゆうしていたまんしゅう(または、そとまんしゅう)とばれる地域ちいきのうち、そとまんしゅうアイグン条約じょうやくおよ北京ぺきん条約じょうやくロシア帝国ていこく割譲かつじょうされ、うちまんしゅう旅順りょじゅん大連たいれんにち戦争せんそうまでは旅順りょじゅんみなと大連たいれんわん租借そしゃくかんする条約じょうやくでロシアの、戦後せんごポーツマス条約じょうやくまんしゅう善後ぜんご条約じょうやくにより日本にっぽん租借そしゃくとなっていた。さらにうちまんしゅうではロシアによりあずまきよし鉄道てつどう建設けんせつ開始かいしされ、義和よしかずだんらんさいには進駐しんちゅうしてロシア帝国ていこく陸軍りくぐん鉄道てつどう附属ふぞく中心ちゅうしん展開てんかいし、まんしゅう軍事ぐんじ占領せんりょうした。朝鮮半島ちょうせんはんとうまんしゅう権益けんえきをめぐるにち戦争せんそうのち長春ちょうしゅんひろししろ以北いほくきたまんしゅうにロシア陸軍りくぐんが、以南いなんみなみまんしゅうにロシアの権益けんえきいだ日本にっぽん陸軍りくぐんみなみまんしゅう鉄道てつどう附属ふぞく中心ちゅうしん展開てんかいしてはん植民しょくみん状態じょうたいだった。

清朝せいちょうまんしゅうぞくまんしゅうたるひがしさんしょう遼寧りょうねいしょう吉林きつりんしょう黒竜江こくりゅうこうしょう)には総督そうとくかず、奉天ほうてんばれる独自どくじ行政ぎょうせい制度せいどっていたが、ひかりいとぐち33ねん1907ねん)の東北とうほくあらためせいに、しょうわせてひがしさんしょう総督そうとく設置せっちし、管轄かんかつ地域ちいき軍政ぐんせい民政みんせい両方りょうほう統括とうかつさせた。歴代れきだい総督そうとくはいずれも袁世凱派閥はばつぞくし、東三ひがしさんしょうは袁世凱の勢力せいりょくけんであった。

1912ねん清朝せいちょう滅亡めつぼう中華民国ちゅうかみんこく北京ぺきん政府せいふ)が清朝せいちょう領土りょうど継承けいしょう主張しゅちょうし、袁世凱の臨時りんじだい総統そうとう就任しゅうにんともなえない、当時とうじひがしさんしょう総督そうとくちょうなんじたつみ奉天ほうてんとく任命にんめいされ、東三ひがしさんしょう中華民国ちゅうかみんこく統治とうちはいった。しかし、袁世凱とまごぶん対立たいりつから中華民国ちゅうかみんこく分裂ぶんれつ内戦ないせん状態じょうたいおちいり、まんしゅうでは、ちょうなんじたつみ部下ぶかだったちょうさく日本にっぽん後押あとおしもあって台頭たいとうし、奉天ほうてん軍閥ぐんばつ形成けいせいし、まんしゅう実効じっこう支配しはいしたくようになった。

また日本にっぽん1922ねん大正たいしょう11ねん)のささえせきスルきゅうこく条約じょうやくだい1じょうにより中華民国ちゅうかみんこく領土りょうどてき保全ほぜん尊重そんちょう盟約めいやくしていたが、中華民国ちゅうかみんこく中央ちゅうおう政府せいふ北京ぺきん政府せいふ)のまんしゅうでの権力けんりょくきわめて微力びりょくで、ちょうさくひきいる奉天ほうてん軍閥ぐんばつまんしゅう実効じっこう支配しはいする地方ちほう政権せいけんなして交渉こうしょう相手あいてとし、協定きょうていなどをむすんでいた。きたにより北京ぺきん政府せいふ崩壊ほうかいし、北京ぺきん政府せいふ掌握しょうあくしていたちょうさく霖がまんしゅうげてきたところを日本にっぽんぐんによってころされる(ちょうさく爆殺ばくさつ事件じけん)と、いだ息子むすこちょうまなぶりょうは、1928ねん昭和しょうわ3ねん)12月29にち奉天ほうてん軍閥ぐんばつ国民こくみん政府せいふ南京なんきん政府せいふ)に帰順きじゅんえきのぼり)させた。実質じっしつてきには奉天ほうてん軍閥ぐんばつ支配しはい継続けいぞくしていたが、まんしゅう青天白日せいてんはくじつまんべにはたかかげられることになった。

1929ねん日本にっぽん南京なんきん国民こくみん政府せいふ中華民国ちゅうかみんこく代表だいひょう政府せいふとして正式せいしき承認しょうにんした。

1931ねん昭和しょうわ6ねん)9がつ18にちやなぎじょうみずうみ事件じけんはしはっしてまんしゅう事変じへん勃発ぼっぱつ関東軍かんとうぐんによりまんしゅう全土ぜんど占領せんりょうされる。その関東軍かんとうぐん主導しゅどうしたどう地域ちいき中華民国ちゅうかみんこくからの独立どくりつ宣言せんげんし、1932ねん昭和しょうわ7ねん)3がつ1にちまんしゅうこく建国けんこくいたった。元首げんしゅまんしゅうこく執政しっせいのちまんしゅうこく皇帝こうてい)には清朝せいちょう最後さいご皇帝こうていあいしんさとし溥儀ふぎいた。

 
まんしゅうこく皇帝こうてい溥儀ふぎ

まんしゅうこく建国けんこくにあたってみずからをまんしゅう民族みんぞくかん民族みんぞくこうむ民族みんぞくからなる「まんしゅうじんまんじん」による民族みんぞく自決じけつ原則げんそくもとづく国民こくみん国家こっかであるとし、建国けんこく理念りねんとして日本人にっぽんじん漢人かんど朝鮮ちょうせんじんまんしゅうじんこうむ古人こじんによるぞく協和きょうわ王道おうどう楽土らくどかかげた。しかし後世こうせいにおいては、実質じっしつてき日本にっぽん関東軍かんとうぐん占領せんりょうした日本にっぽん植民しょくみんであり[6]傀儡かいらい国家こっか[7]であったとする見解けんかい一般いっぱんてきである。

まんしゅうこく建国けんこく以降いこう日本にっぽんとく関東かんとうぐんみなみまんしゅう鉄道てつどうつよ影響えいきょうにあり、「大日本帝国だいにっぽんていこく不可分ふかぶんてき関係かんけいゆうする独立どくりつ国家こっか」と位置付いちづけられていた[8]当時とうじ国際こくさい連盟れんめい加盟かめいこくおおくはまんしゅう地域ちいき法的ほうてきには中華民国ちゅうかみんこく主権しゅけんしたにあるべきとした。このことが1933ねん昭和しょうわ8ねん)に日本にっぽん国際こくさい連盟れんめいから脱退だったいする主要しゅよう原因げんいんとなった。

しかし1937ねん11月29にちイタリアまんしゅうこく承認しょうにん[9]つづいて同年どうねん12がつ2にちフランコ体制たいせいのスペイン[10] 1938ねん5がつ12にちにはドイツ[11] さらにタイ王国おうこくなどのだい世界せかい大戦たいせん日本にっぽん同盟どうめいこく友好国ゆうこうこく枢軸すうじく陣営じんえいりの中立ちゅうりつこくや、エルサルバドルポーランドコスタリカなどののち連合れんごうこく構成こうせいこくまんしゅうこく承認しょうにんした。さらに国境こっきょう紛争ふんそうをしばしばこしていたソビエト連邦れんぽうをも領土りょうど不可侵ふかしん約束やくそくして公館こうかん設置せっちした[12]。またイギリスアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくフランスなど国交こっこう樹立じゅりつしていなかったくに国営こくえい企業きぎょうだい企業きぎょう支店してんかまえるなど、人的じんてき交流こうりゅう交易こうえきをおこなっていた。

だい世界せかい大戦たいせん末期まっき1945ねん康徳やすのり12ねん)、にち中立ちゅうりつ条約じょうやくやぶった赤軍せきぐんソ連それん陸軍りくぐん)による関東軍かんとうぐんへの攻撃こうげきと、その日本にっぽん降伏ごうぶくにより、8がつ18にちまんしゅうこく皇帝こうてい溥儀ふぎ退位たいいしてまんしゅうこく滅亡めつぼうまんしゅう地域ちいきソ連それん占領せんりょうとなり、その国共こっきょう内戦ないせん中国ちゅうごく国民党こくみんとう中国共産党ちゅうごくきょうさんとう争奪そうだつせんおこない、最終さいしゅうてき1949ねん建国けんこくされた中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく領土りょうどとなっている。

日本にっぽんでは通常つうじょうおおやけでは「中国ちゅうごく東北とうほく」または注釈ちゅうしゃくとして「きゅうまんしゅう」という修飾しゅうしょくとも呼称こしょうする。[よう出典しゅってん]

国名こくめい

編集へんしゅう

1932ねん大同だいどう元年がんねん)3がつ1にちまんしゅうこく佈告1により、国号こくごうは「滿まんしゅうこく」とさだめられている。この国号こくごうは、1934ねん康徳やすのり元年がんねん)3がつ1にち溥儀ふぎ皇帝こうてい即位そくいしても変更へんこうされなかった。ただし、法令ほうれい公文書こうぶんしょでは「まんしゅうこく」と「まんしゅう帝国ていこく」が併用へいようされた[13]みかどせい実施じっしえいしょうせいしょうが「Manchoutikuo」または「The Empire of Manchou」、略称りゃくしょうが「Manchoukuo」または「The Manchou Empire」とさだめられた[14]

まんしゅう歴史れきし
朝鮮ちょうせん ひがしえびす 濊貊
沃沮
粛慎
つばめ りょう西郡にしごおり 遼東りゃおとんぐん
はた りょう西郡にしごおり 遼東りゃおとんぐん
前漢ぜんかん りょう西郡にしごおり 遼東りゃおとんぐん まもる朝鮮ちょうせん 匈奴きょうど
かんよんぐん おっとあまり
こうかん りょう西郡にしごおり がらす 鮮卑 挹婁
遼東りゃおとんぐん 高句麗こうくり
げんうさぎぐん
たかし あきらはじむぐん 公孫こうそん
遼東りゃおとんぐん
げんうさぎぐん
西にしすすむ たいらしゅう
慕容 宇文うぶん
ぜんつばめ たいらしゅう
ぜんはた たいらしゅう
こうつばめ たいらしゅう
きたつばめ
きたたかし 営州 ちぎり くら莫奚 しつ
あずまたかし 営州 勿吉
きたひとし 営州
きたあまね 営州
ずい 柳城やなしろぐん 靺鞨
つばめぐん
りょう西郡にしごおり
とう 営州 まつばくとく にょうらくとく しつ韋都とく 安東あんどうみやこまもる 渤海こく 黒水くろみずとく 靺鞨
だいじゅうこく 営州 ちぎり 渤海こく 靺鞨
りょう 上京じょうきょうどう   ひがし おんなしん
中京ちゅうきょうどう じょうやす
東京とうきょうどう
きむ 東京とうきょう
上京じょうきょう
あずまりょう だいしんこく
もと りょうぎょうしょう
あきら 遼東りゃおとん やつ指揮しき使
けんしゅうおんなしん うみ西にしおんなしん 野人やじんおんなしん
きよし まんしゅう
 

ひがしさんしょう
ロマノフあさ
沿海州えんかいしゅう/みどりウクライナ/江東こうとうろくじゅうよんたむろ
中華民国ちゅうかみんこく
ひがしさんしょう
極東きょくとう共和きょうわこく
ソ連それん
極東きょくとう
まんしゅうこく
ソ連それん占領せんりょうまんしゅう
中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく
中国ちゅうごく東北とうほく
ロシア連邦れんぽう
極東きょくとう連邦れんぽう管区かんく/極東きょくとうロシア
北朝鮮きたちょうせん
たきぎとうぐん
中国ちゅうごく朝鮮ちょうせん関係かんけい
Portal:中国ちゅうごく

まんしゅう地方ちほうには、ツングースけいモンゴルけい扶余けいなどおおくのくに民族みんぞく勃興ぼっこうし、あるいはかん民族みんぞく王朝おうちょう一部いちぶ支配しはいいたり撤退てったいしたりしていた。土着どちゃく民族みんぞくとして濊貊粛慎ひがしえびす挹婁おっとあまり勿吉靺鞨おんなしんなどがられるが、その来歴らいれき相互そうご関係かんけいについては不明ふめいてんおお[15]まんしゅう南部なんぶから朝鮮半島ちょうせんはんとう一部いちぶにかけては遼東りゃおとんぐんりょう西郡にしごおりかれるなど、中華ちゅうか王朝おうちょう支配しはいにあった時期じきながい。土着どちゃく民族みんぞくによる国家こっかとしては高句麗こうくり渤海こくおんなしんぞく(満州まんしゅうぞく)のかね後金あときん(きよし)などがられる。モンゴルけいでありひがしえびす子孫しそんとされる鮮卑ぞくによるぜんつばめなどや鮮卑の子孫しそんとされるちぎりぞくによるりょう支配しはいしたこともある。チベットけい氐族てたぜんはた支配しはいおよんだこともある。12世紀せいき以降いこうきむもとあきらきよしと、首都しゅと中国ちゅうごく本土ほんどく、あるいはうつした王朝おうちょうによる支配しはいつづいていた。 清朝せいちょう中国ちゅうごく支配しはいのちまんしゅうぞく中国ちゅうごく本土ほんどへの移出いしゅつつづまんしゅう空洞くうどうはじまった。当初とうしょ清朝せいちょう漢人かんど移入いにゅうによって空洞くうどうめるべく1644ねん順治じゅんじ元年がんねん)より一連いちれん遼東りゃおとん招民開墾かいこん政策せいさく実施じっしした[16]。この開墾かいこんさく1668ねんかん7ねん)に停止ていしされ、1740ねんいぬいたかし5ねん)には、まんしゅう後金あときん創業そうぎょうとして本格ほんかくてきふうじきんされ、漢人かんど移入いにゅう禁止きんしされわたし墾田こんでんはらわれ流入りゅうにゅうみん移住いじゅうさせられていた(ふうきん政策せいさく)。はたじんたちも首都しゅと北京ぺきん移住いじゅうしたためまんしゅうは「ほぼ空白くうはく[17]していた。19世紀せいき前半ぜんはんにはふうきん政策せいさく形骸けいがいし、まんしゅう地域ちいきには無数むすう移民いみん流入りゅうにゅうしはじめた。研究けんきゅうしゃ[18]試算しさんによれば1851ねんに320まんにんまんしゅう人口じんこうは1900ねんには1239まんにん増加ぞうかした[17]。1860ねんにはそれ以前いぜんには禁止きんしされていたはたじん以外いがいまんしゅう地域ちいきでの土地とち所有しょゆう部分ぶぶんてき開放かいほうされ、清朝せいちょう漢人かんど移入いにゅうたい政策せいさく一環いっかんとして利用りようしはじめた(関東かんとう)。うちモンゴル(奉天ほうてんから哈爾はまきたやすいたまんしゅう鉄道てつどう沿線えんせん西側にしがわ)については、こうむばれモンゴルの行政ぎょうせい区画くかくである「はた」の地域ちいきがあり、清朝せいちょう時代じだいふうきん政策せいさくによりまき開墾かいこん禁止きんしされていたが実際じっさいかく地域ちいき開墾かいこんおこなわれ(こうむ開放かいほう)「けん」がおかれていた。これらの地域ちいきは「はた」からは押租ぎんこうむ租を、「けん」からはぜいされ、こうむ租ははたくにとが分配ぶんぱいしていた。また土地とち所有しょゆうけん業主ぎょうしゅけん)は入植にゅうしょくしゃになくえいつくだけんえい租権があたえられ開放かいほうこうむ所有しょゆうけんはモンゴルじん王公おうこうはた帰属きぞくするとされていた[19]。これらの地域ちいきではモンゴルじん入植にゅうしょくした漢人かんどとのあいだでしばしば民族みんぞく対立たいりつしょうじており、1891ねんきむまことどう暴動ぼうどう事件じけんではうちモンゴルのジョソトめい地域ちいき入植にゅうしょくした漢人かんど秘密ひみつ結社けっしゃ武装ぶそう現住げんじゅうモンゴルじんたいして虐殺ぎゃくさつをおこなっていた。その秘密ひみつ結社けっしゃこころざしちょうにより鎮圧ちんあつされたが、入植にゅうしょくした漢人かんどたいして復讐ふくしゅう事件じけんしょうじていた[注釈ちゅうしゃく 6]

清朝せいちょうアヘン戦争せんそう1843ねん締結ていけつされたとらもん追加ついか条約じょうやくにより領事りょうじ裁判さいばんけんふく治外法権ちがいほうけんれることになった。

ロシア帝国ていこくもまたアロー戦争せんそう1858ねん天津てんしん条約じょうやく締結ていけつして同等どうとう権利けんり獲得かくとくすることに成功せいこうし、1860ねん北京ぺきん条約じょうやくアムールがわ左岸さがんおよび沿海州えんかいしゅう領有りょうゆうけん確定かくていさせていた。

日本にっぽんまんしゅうたいする関心かんしんは、江戸えど時代じだい後期こうき1823ねん経世けいせい佐藤さとう信淵のぶひろまんしゅう領有りょうゆう[21]幕末ばくまつ尊皇そんのう攘夷じょうい吉田よしだ松陰しょういん主張しゅちょうをした[22]明治維新めいじいしん日本にっぽん1871ねん明治めいじ4ねん)のにちしん修好しゅうこう条規じょうきにおいて清国きよくに対等たいとう国交こっこう条約じょうやく締結ていけつした。さらににちしん戦争せんそう下関しものせき条約じょうやくおよにちしん通商つうしょう航海こうかい条約じょうやくにより、清国きよくにたいする領事りょうじ裁判さいばんけんふくめた治外法権ちがいほうけんた。

ロシアはにちしん戦争せんそう直後ちょくごさんこく干渉かんしょうによる見返みかえりとして鴻章こうしうよりまんしゅう北部ほくぶ鉄道てつどう敷設ふせつけんることに成功せいこうし(しん密約みつやく)、1897ねんのロシア艦隊かんたい旅順りょじゅん強行きょうこう入港にゅうこう契機けいきとして1898ねん3がつには旅順りょじゅんみなと大連たいれんわん租借そしゃくかんする条約じょうやく締結ていけつハルピンから大連たいれん旅順りょじゅんいたあずまきよし鉄道てつどうみなみまんしゅう支線しせん敷設ふせつけん獲得かくとくした。日本にっぽんは、すでにそとまんしゅう沿海州えんかいしゅうなど)を領有りょうゆうし、のこまんしゅう全体ぜんたい影響えいきょうくことを企図きとするロシアの南下なんか政策せいさくが、日本にっぽん国家こっか安全あんぜん保障ほしょうじょう最大さいだい脅威きょういとみなした。1900ねん明治めいじ33ねん)、ロシアは義和よしかずだんらんじょうじてまんしゅう占領せんりょう権益けんえき独占どくせん画策かくさくした。これに対抗たいこうして日本にっぽんアメリカなどとともにまんしゅう各国かっこくへの開放かいほう主張しゅちょうし、さらにイギリスにちえい同盟どうめいむすんだ。

にち両国りょうこく1904ねんから翌年よくねんにかけてにち戦争せんそうまんしゅうたたかい、日本にっぽん戦勝せんしょうこくとなり、みなみ樺太からふと割譲かつじょうポーツマス条約じょうやく朝鮮半島ちょうせんはんとうにおける自国じこく優位ゆうい確保かくほや、遼東りゃおとん半島はんとう租借そしゃくけんあずまきよし鉄道てつどう南部なんぶ経営けいえいけん獲得かくとくした。その日本にっぽん当初とうしょ主張しゅちょうとはぎゃくにロシアと共同きょうどうしてまんしゅう権益けんえき確保かくほすようになり、中国ちゅうごく大陸たいりくにおける権益けんえき獲得かくとく出遅でおくれていたアメリカの反発はんぱつまねいた。駐日ちゅうにちポルトガル外交がいこうかんヴェンセスラウ・デ・モラエスは、「日米にちべい両国りょうこくちか将来しょうらいおそるべき競争きょうそう相手あいてとなり対決たいけつするはずだ。広大こうだい中国ちゅうごく大陸たいりく貿易ぼうえき拡大かくだいねらうアメリカが切実せつじつしがる地域ちいきであり、同様どうよう日本にっぽんにとってもこの地域ちいきくに発展はってんになくてはならないものになっている。この地域ちいき日米にちべいならつことはできず、一方いっぽう他方たほうから暴力ぼうりょくてき手段しゅだんによって殲滅せんめつさせられるかもしれない」との自身じしん予測よそく祖国そこく新聞しんぶんつたえている[23]

清朝せいちょうから中華民国ちゅうかみんこく

1911ねんから1912ねんにかけてのからし革命かくめいによりまんしゅうぞくによる王朝おうちょう打倒うちたおされ(駆除くじょ韃虜)、かん民族みんぞくによる共和きょうわ政体せいたい中華民国ちゅうかみんこく成立せいりつしたが、清朝せいちょう領土りょうどとしていたまんしゅう・モンゴル・トルキスタンチベットなど周辺しゅうへん地域ちいき政情せいじょう不安定ふあんていとなり、1911ねんにモンゴルは独立どくりつ宣言せんげん、1913ねんにはチベット・モンゴル相互そうご承認しょうにん条約じょうやく締約ていやくされチベット・モンゴルは相互そうご独立どくりつ承認しょうにんおこなった。

まんしゅう中華民国ちゅうかみんこく臨時りんじだい総統そうとう就任しゅうにんした袁世凱がおおきな影響えいきょうりょくっていたため、東三ひがしさんしょう総督そうとく体制たいせい組織そしきをそのままぎ、中華民国ちゅうかみんこく統治とうちはいっている。このなかに、東三ひがしさんしょう総督そうとくちょうなんじたつみもとで、革命かくめい弾圧だんあつ功績こうせきげたちょうさくもいた。しかし、袁世凱とまごぶん対立たいりつし、中華民国ちゅうかみんこく分裂ぶんれつ内戦ないせん状態じょうたいはいると、ちょうさく霖が台頭たいとうし、奉天ほうてん軍閥ぐんばつ形成けいせいし、日本にっぽん後押あとおしもて、まんしゅう実効じっこう支配しはいいた。

日本にっぽんにち戦争せんそうの1905ねんにちしん協約きょうやく、1909ねんには間島まじま協約きょうやくにおいてにちしんあいだでの権益けんえき国境こっきょうせん問題もんだいについて重要じゅうようめをおこなっていたが、中華民国ちゅうかみんこく成立せいりつによりこれらをふく過去かこ条約じょうやく継承けいしょう問題もんだい発生はっせいしていた。

満蒙まもう問題もんだいにちちゅう対立たいりつ

だいいち世界せかい大戦たいせん参戦さんせんした日本にっぽん1914ねん大正たいしょう3ねん)10がつまつから11月にかけイギリスぐんとともに山東さんとう半島はんとうにかわしゅうわん租借そしゃく攻略こうりゃく占領せんりょうし(青島ちんたおたたか)その権益けんえき処理しょりとしてたいはな21カ条かじょう要求ようきゅうおこない、2条約じょうやく13交換こうかん公文こうぶんからなるめをわした。このなかみなみまんしゅう及東部内ぶないこうむいにしえかんする条約じょうやくなど、満蒙まもう問題もんだいかんする重要じゅうようめがなされ、まんしゅう善後ぜんご条約じょうやくまんしゅう協約きょうやく北京ぺきん議定ぎていしょにちしん追加ついか通商つうしょう航海こうかい条約じょうやくなどをふく日本にっぽん中国ちゅうごく特殊とくしゅ権益けんえき条約じょうやくじょう固定こていされた。日本にっぽん中華民国ちゅうかみんこくによるこれら条約じょうやく継続けいぞく有効ゆうこう日本にっぽん)と破棄はき無効むこう中国ちゅうごく)をめぐるあらそいが宣戦せんせん布告ふこくなき戦争せんそう[注釈ちゅうしゃく 7]みちびくこととなる。

1917ねん大正たいしょう6ねん)、だいいち世界せかい大戦たいせんちゅうロシア革命かくめいこり、ソビエト連邦れんぽう成立せいりつする。きゅうロシア帝国ていこく対外たいがい条約じょうやくのすべてを無効むこうとし継承けいしょう拒否きょひしたソビエトにたいし、だいいち世界せかい大戦たいせん参戦さんせんしていた連合れんごうこくは「革命かくめいぐんによってとらわれたチェコ軍団ぐんだん救出きゅうしゅつする」という大義名分たいぎめいぶんにより干渉かんしょう戦争せんそう開始かいしした(シベリア出兵しゅっぺい)。日本にっぽんコルチャーク政権せいけん支持しじボリシェヴィキ攻撃こうげきしたが、コルチャク政権せいけんない分裂ぶんれつやアメリカをはじめとする連合れんごうこく撤兵てっぺいにより失敗しっぱい共産きょうさん主義しゅぎ拡大かくだいたいする防衛ぼうえい基地きちとしてまんしゅう重要じゅうようせいたかまり、満蒙まもうは「日本にっぽん生命せいめいせん」となされるようになった。とくに1917ねんおよ1919ねんカラハン宣言せんげん人民じんみんによりなされた共産きょうさん主義しゅぎ政府せいふであるソビエトがきゅうロシア帝国ていこくゆうしていたたいちゅう権益けんえき領事りょうじ裁判さいばんけん各種かくしゅ条約じょうやくによる治外法権ちがいほうけんなど)の無効むこう放棄ほうき宣言せんげんしたものであり、まごぶんをはじめとした中華民国ちゅうかみんこく政府せいふ急速きゅうそくしんソビエトさせ、あるいは1920ねんには上海しゃんはい社会しゃかい共産党きょうさんとう設立せつりつされ、のち1921ねん中国共産党ちゅうごくきょうさんとうだいいち全国ぜんこく代表だいひょう大会たいかいにつながった。

そのあいだの1919ねんにはまんしゅう鉄道てつどうが2~3まんにん組合くみあいいんからなるまんてつ消費しょうひ組合くみあい結成けっせいして日本人にっぽんじんけの市場いちば寡占かせんしはじめて日本人にっぽんじん小売こうりしょうらの利益りえきがいされたため、まんしゅう商業しょうぎょう会議かいぎしょ連合れんごうかいまんてつ消費しょうひ組合くみあい撤廃てっぱい活動かつどうを1930ねんまで4わたって展開てんかいした。結果けっかてきには和解わかいいたったが、これらの活動かつどうまんしゅう輸入ゆにゅう組合くみあいおよまんしゅう輸入ゆにゅう組合くみあい連合れんごうかい設立せつりつつながった[25]

1928ねん7がつ19にちだいいち国共こっきょう合作がっさくによりきた成功せいこうさせた蔣介せき南京なんきん国民こくみん政府せいふ一方いっぽうてきにちしん通商つうしょう航海こうかい条約じょうやく破棄はき通告つうこくし、日本にっぽんがわはこれを拒否きょひして継続けいぞく宣言せんげんしたが、中国ちゅうごくにおける在留ざいりゅう日本人にっぽんじん朝鮮ちょうせんじんふくむ)の安全あんぜん財産ざいさんおよ条約じょうやくじょう特殊とくしゅ権益けんえき重大じゅうだい危機ききさらされることになった。

まんしゅう清朝せいちょう時代じだいには「帝室ていしつ故郷こきょう」としてかん民族みんぞく植民しょくみんつよ制限せいげんしていたが、きよしまつには中国ちゅうごく内地ないち窮乏きゅうぼうもあってちょく山東さんとうからおおくの移民いみん発生はっせいし、急速きゅうそくかん開拓かいたくすすんでいた。清末きよすえ袁世凱まんしゅう勢力せいりょくをもくろむとともに、ロシア・日本にっぽん権益けんえき寡占かせんじょうきょう打開だかいしようとした。しかしこの計画けいかく清末きよすえみんはつ混乱こんらんのなかでうまくいかず、さらに袁の死後しごまんしゅうまれそだった馬賊ばぞくがりの将校しょうこうちょうさく台頭たいとうちょうは袁が任命にんめいした奉天ほうてんとくだんしばたか追放ついほうし、在地ざいちごうしんなどの支持しじした軍閥ぐんばつとして独自どくじ勢力せいりょく確立かくりつした。まんしゅう日本にっぽん生命せいめいせんかんがえる関東軍かんとうぐん中心ちゅうしんとする軍部ぐんぶらは、ちょうさく霖を支持しじしてまんしゅうにおける日本にっぽん権益けんえき確保かくほしようとしたが、叛服はんぷくつねないはり言動げんどうくるしめられた。また、にちちゅうりょうぐん衝突しょうとつした1919ねんひろししろ事件じけん長春ちょうしゅん事件じけん)ではちょうさく霖の関与かんようたがわれたが日本にっぽん政府せいふ証拠しょうこをつかむことができなかった。

さらに中国ちゅうごく内地ないちでは蔣介せきひきいる中国ちゅうごく国民党こくみんとう戦力せんりょくをまとめあげて南京なんきんから北上ほくじょうし、この影響えいきょうりょくまんしゅうおよぶことをおそれた。こうした状況じょうきょうのなか1920ねん3がつには、そとまんしゅうニコラエフスクあまこう)で赤軍せきぐんによって日本にっぽんぐん守備しゅびたい殲滅せんめつ居留民きょりゅうみん虐殺ぎゃくさつされるあまみなと事件じけんき、まんしゅう赤化せっかされていくことについての警戒けいかいかんつよまった。1920年代ねんだい後半こうはんからたいせん基地きちとすべく、関東軍かんとうぐん参謀さんぼう石原いしはら莞爾かんじらによって万里ばんり長城ちょうじょう以東いとうぜんまんしゅう中国ちゅうごく国民党こくみんとう支配しはいする中華民国ちゅうかみんこくからはなし、日本にっぽん影響えいきょうくことを企図きとする主張しゅちょうあらわれるようになった。

まんしゅう事変じへん
 
ちょうさく爆殺ばくさつ事件じけん現場げんば

1928ねん昭和しょうわ3ねん)5がつ中国ちゅうごく内地ないち一時いちじさえていたちょうさく霖が国民こくみん革命かくめいぐんやぶれてまんしゅう撤退てったいした。田中たなか義一ぎいち首相しゅしょう日本にっぽん政府せいふちょうさく霖への支持しじ方針ほうしん継続けいぞくしていたが、高級こうきゅう参謀さんぼう河本かわもと大作だいさく現場げんば関東軍かんとうぐん日本にっぽん権益けんえき阻害そがいになると判断はんだんし、ちょうさく霖を殺害さつがいした(ちょうさく爆殺ばくさつ事件じけん)。河本かわもとらはみずか実行じっこうしたことを隠蔽いんぺいする工作こうさく事前じぜんにおこなっていたものの、報道ほうどう宣伝せんでんから当初とうしょから関東軍かんとうぐん主導しゅどうせつがほぼ公然こうぜん事実じじつとなり、ちょうさく霖のあといだちょうまなぶりょう日本にっぽん関与かんよ抵抗ていこう楊宇霆日本にっぽんりの幕僚ばくりょう殺害さつがい国民党こくみんとうりの姿勢しせいつよめた。このような状況じょうきょう打開だかいするために関東軍かんとうぐんは、1931ねん昭和しょうわ6ねん9月18にちまんしゅう事変じへんやなぎじょうみずうみ事件じけん)をこしてまんしゅう全土ぜんど占領せんりょうした。ちょうまなぶりょう国民こくみん政府せいふ指示しじによりまとまった抵抗ていこうをせずにまんしゅうから撤退てったいし、まんしゅう関東軍かんとうぐん支配しはいはいった。

日本にっぽん国内こくない問題もんだいとして、世界せかい恐慌きょうこう昭和しょうわ恐慌きょうこうばれる不景気ふけいきからせずにいる状況じょうきょうがあった。明治維新めいじいしん以降いこう日本にっぽん人口じんこう急激きゅうげき増加ぞうかしつつあったが、農村のうそん都市としとも増加ぞうかぶん人口じんこうれる余地よちがなく、1890年代ねんだい以後いご、アメリカやブラジルなどへの国策こくさくてき移民いみんによってこの問題もんだい解消かいしょうはかられていた。ところが1924ねん大正たいしょう13ねん)にアメリカで排日はいにち移民いみんほう成立せいりつ貧困ひんこん農民のうみんそう国外こくがいへのさきすくなくなったところに恐慌きょうこう発生はっせいし、数多かずおお貧困ひんこん農民のうみんざらつくることが急務きゅうむとなっていた。そこへまんしゅう事変じへん発生はっせいすると、当時とうじ若槻わかつき禮次郎れいじろう内閣ないかく不拡大ふかくだい方針ほうしんをよそに、国威こくい発揚はつよう開拓かいたく確保かくほなどを期待きたいした新聞しんぶんをはじめ国民こくみん世論せろんつよ支持しじし、対外たいがい強硬きょうこう世論せろん政府せいふおさえることができなかった。

まんしゅうこく建国けんこくとその経緯けいい

編集へんしゅう
執政しっせい就任しゅうにん式典しきてん
まん議定ぎていしょ調印ちょういんしき
 
リットン調査ちょうさだん

やなぎじょうみずうみ事件じけん発生はっせいから4にちの1931ねん9がつ22にち関東軍かんとうぐん満蒙まもう領有りょうゆう計画けいかく陸軍りくぐん首脳しゅのう反対はんたい実質じっしつてき独立どくりつ国家こっかあんへと変更へんこうされた[26]参謀さんぼう本部ほんぶ石原いしはら莞爾かんじらに溥儀ふぎ首班しゅはんとする親日しんにち国家こっか樹立じゅりつすべきと主張しゅちょうし、石原いしはら国防こくぼう日本にっぽんにない、鉄道てつどう通信つうしん管理かんり条件じょうけん日本にっぽんゆだねることを条件じょうけん満蒙まもう独立どくりつ国家こっかとする解決かいけつさくした。現地げんちでは、関東軍かんとうぐん工作こうさくにより、はんちょうまなぶりょう有力ゆうりょくしゃ各地かくち政権せいけん樹立じゅりつしており、9月24にちには袁金よろい委員いいんちょう于冲かんふく委員いいんちょうとして奉天ほうてん地方ちほう自治じち維持いじかい組織そしきされ、26にちにはひろしひろし主席しゅせきとする吉林きつりんしょう臨時りんじ政府せいふ樹立じゅりつ、27にちにはハルビンでちょうけいめぐみひがししょう特別とくべつ治安ちあん維持いじ委員いいんかい発足ほっそくした。

よく1932ねん2がつに、奉天ほうてんよしりん黒龍江こくりゅうこうしょう要人ようじん関東軍かんとうぐん司令しれいかん訪問ほうもんし、まんしゅうしん政権せいけんかんする協議きょうぎをはじめた。2月16にち奉天ほうてんちょうけいめぐみ臧式あつしひろしひろしうまうらないやまよん巨頭きょとうあつまり、ちょうけいめぐみ委員いいんちょうとする東北とうほく行政ぎょうせい委員いいんかい組織そしきされた。2月18にちには「とうこく政府せいふ関係かんけいだっはな東北とうほくしょう完全かんぜん独立どくりつせり」と、まんしゅう中国ちゅうごく国民党こくみんとう政府せいふからの分離ぶんり独立どくりつ宣言せんげんされた。

 
東北とうほく行政ぎょうせい委員いいんかいはた

1932ねん3がつ1にち上記じょうきよん巨頭きょとうねつかわしょう湯玉ゆたま麟、うちモンゴルのジェリムめいちょうチメトセムピル、ホロンバイルふくみやこみつるしのげ陞が委員いいんとする東北とうほく行政ぎょうせい委員いいんかいが、元首げんしゅとして清朝せいちょう最後さいご皇帝こうていあいしんさとし溥儀ふぎまんしゅうこく執政しっせいとするまんしゅうこく建国けんこく宣言せんげんした(元号げんごう大同だいどう)。首都しゅとには長春ちょうしゅんえらばれ、しんきょう命名めいめいされた。国務こくむいん総理そうり首相しゅしょう)にはていたかし就任しゅうにんした。

その1934ねん3月1にちには溥儀ふぎ皇帝こうていとして即位そくいし、まんしゅうこく帝政ていせい移行いこうした(元号げんごう康徳やすのり改元かいげん[27])。国務こくむ総理そうり大臣だいじん国務こくむいん総理そうりから改称かいしょう)にはていたかし胥(のちちょうけいめぐみ)が就任しゅうにんした。

まんしゅうこくをめぐる国際こくさい関係かんけい

一方いっぽうまんしゅう事変じへん端緒たんしょとなるやなぎじょうみずうみ事件じけんこると、中華民国ちゅうかみんこく国際こくさい連盟れんめいにこの事件じけん提起ていきし、国際こくさい連盟れんめい理事りじかいはこの問題もんだい討議とうぎし、1931ねん12月に、イギリスじんだい2だいリットン伯爵はくしゃくヴィクター・ブルワー=リットン団長だんちょうとするリットン調査ちょうさだん派遣はけん決議けつぎした。1932ねん3がつから6がつまで日本にっぽん中華民国ちゅうかみんこくまんしゅう調査ちょうさしたリットン調査ちょうさだんは、同年どうねん10月2にちいたって報告ほうこくしょ提出ていしゅつし、まんしゅう地域ちいきを「法律ほうりつてきには完全かんぜんささえ一部分いちぶぶんなるも」[28]とし、まんしゅうこく政権せいけんを「現在げんざい政権せいけん純粋じゅんすい且自はつてきなる独立どくりつ運動うんどうりて出現しゅつげんしたるものと思考しこうすることをず」[29]とし、「まんしゅうけるげん政権せいけん維持いじ承認しょうにんひとしく不満足ふまんぞくなるべし」[30]指摘してきした。そのうえまんしゅう地域ちいき自体じたいには「ほん紛争ふんそう根底こんてい事項じこうかん日本にっぽん直接ちょくせつ交渉こうしょうとげぐるに充分じゅうぶんなる自治じちてき性質せいしつゆうしたり」[31]表現ひょうげんし、中華民国ちゅうかみんこく法的ほうてき帰属きぞくみとめる一方いっぽうで、日本にっぽんまんしゅうにおける特殊とくしゅ権益けんえきみとめ、まんしゅう中国ちゅうごく主権しゅけんまんしゅうこくとはことなる自治じち政府せいふ建設けんせつさせる妥協だきょうあんふく中新ちゅうしん協定きょうてい締結ていけつ提案ていあんした。

同年どうねん9月15にち齋藤さいとう内閣ないかくのもとで政府せいふとしてまんしゅうこく独立どくりつ承認しょうにんし、まん議定ぎていしょ締結ていけつしてまんしゅうこく独立どくりつ既成きせい事実じじつしていた日本にっぽん報告ほうこくしょ反発はんぱつ松岡まつおか洋右ようすけ主席しゅせき全権ぜんけんとする代表だいひょうだんジュネーヴひらかれた国際こくさい連盟れんめい総会そうかいおくり、まんしゅうこく建国けんこく正当せいとうせいうったえた。

リットン報告ほうこくしょをもとに連盟れんめい理事りじかいは「中日ちゅうにち紛争ふんそうかんする国際こくさい連盟れんめい特別とくべつ総会そうかい報告ほうこくしょ」を作成さくせいし、1933ねん2がつ24にちには国際こくさい連盟れんめい総会そうかい同意どうい確認かくにん投票とうひょうおこなわれた。この結果けっか賛成さんせい42ひょう反対はんたい1ひょう日本にっぽん)、棄権きけん1ひょう(シャム=げんタイ)、投票とうひょう不参加ふさんか1こくチリ)であり、国際こくさい連盟れんめい規約きやく15じょう4こう[32]および6こう[33]についての条件じょうけん成立せいりつした。日本にっぽんはこれを不服ふふくとして1933ねん3がつ国際こくさい連盟れんめい脱退だったいする。

隣国りんごくかつ仮想かそう敵国てきこくでもあったソビエト連邦れんぽうは、当時とうじはまだ国際こくさい連盟れんめい加盟かめいであり、リットン調査ちょうさだんまんしゅう北部ほくぶ調査ちょうさ活動かつどうたいしての便宜べんぎあたえなかっただけでなく[34]建国けんこくにはまんしゅうこく相互そうご領事館りょうじかん設置せっち承認しょうにんするなど事実じじつじょう国交こっこうゆうしていたが、正式せいしき国家こっか承認しょうにんについてはまんしゅう事変じへん発生はっせいから建国けんこくまで終始しゅうし一定いっていしない態度たいどつづけた。1935ねんソ連それんまんしゅう国内こくない保有ほゆうするきたまん鉄路てつろまんしゅうこく政府せいふ売却ばいきゃくした。国境こっきょうかんしてもにちみつる-ソ連それんあいだ認識にんしき相違そういがあり、ちょうほう事件じけんなどの軍事ぐんじ衝突しょうとつきている。

1932ねん7がつまんしゅう国内こくない郵政ゆうせい接受せつじゅ断行だんこうされると、まんしゅう中国ちゅうごくあいだ郵便ゆうびん遮断しゃだんされることとなった[35]。その山海さんかいせき返還へんかんなど情勢じょうせい緩和かんわつづくと、1934ねん4がつ国際こくさい連盟れんめいが「まんしゅうこく郵便ゆうびんぶつ事務じむてき技術ぎじゅつてきあつかうべし」との決議けつぎおこなう。国民こくみん政府せいふがわも「つう郵は文化ぶんか機関きかん」との判断はんだんから、まんしゅうこく不承認ふしょうにん原則げんそくはなして郵便ゆうびん協定きょうてい交渉こうしょうにつくことを受諾じゅだく同年どうねん12がつまでに協定きょうてい成立せいりつし、1935ねん1がつからは普通ふつう郵便ゆうびんが、よく2がつからは小包こづつみ為替かわせあつかいがはじまった[36]

モンゴル人民じんみん共和きょうわこくとのあいだにも国境こっきょうかんして認識にんしき相違そういがあり、1939ねんにはノモンハン事件じけんなどの紛争ふんそうきた。

1941ねん4がつ13にちにちあいだ領土りょうど領域りょういき不可侵ふかしんやくしたにち中立ちゅうりつ条約じょうやく締結ていけつともない、日本にっぽんのモンゴル人民じんみん共和きょうわこくへのおよソ連それんまんしゅうこくへの領土りょうど保全ほぜん不可侵ふかしんやく共同きょうどう声明せいめいされた[注釈ちゅうしゃく 8]

日本にっぽんぐん占領せんりょう各地かくち各種かくしゅ宗教しゅうきょう政治せいじ思想しそうむすびついた団体だんたいによる抗日こうにちゲリラ闘争とうそうこった。一時いちじ燎原りょうげんのようにまんしゅう各地かくちひろがり、関東軍かんとうぐんにもとても終結しゅうけつするとはおもえないような時期じきもあったといわれるが、関東軍かんとうぐん殲滅せんめつかえし、1935ねんごろには治安ちあん安定あんていしていった。その過程かていひら頂山いただきやま事件じけんのような事件じけんきているが、このような事件じけん氷山ひょうざん一角いっかくで、1932ねん9がつには暫行懲治ぬすめ匪法を制定せいてい、この条文じょうぶんでは清朝せいちょう法制ほうせいにもあった臨陣かくころせさだめられ、ぐん司令しれいかん高級こうきゅう警察官けいさつかん匪賊ひぞく裁判さいばんなしで自己じこ判断はんだん処刑しょけいする権限けんげんみとめていたため[37]関東軍かんとうぐんないし実質じっしつてき日本人にっぽんじん指導しどうする現地げんち警察けいさつはこれを濫用らんようし、各地かくち匪賊ひぞくとされたものらの殺戮さつりくかえされ、かれらの生首なまくびせしめにさらされることが横行おうこうしていたとされる[38]。とくにまんてつおよびその付属ふぞく警備けいびする独立どくりつ守備しゅびたいしつわるく、現地げんち住民じゅうみんらにおそれられたという。また、ゲリラ鎮圧ちんあつ最終さいしゅうてき成功せいこうしたものの、この成功せいこう経済けいざい構造こうぞう社会しゃかい構造こうぞうことなる中国ちゅうごく本土ほんどでも同様どうようにうまくいくと日本にっぽんぐん誤信ごしんさせ、にちちゅう戦争せんそう拡大かくだいつながっていったのではないかと東京大学とうきょうだいがく東洋とうよう文化ぶんか研究所けんきゅうじょ教授きょうじゅやすとみうたがっている[39]。また、このまんしゅうでのやりかたは、山下やました奉文ともゆき中将ちゅうじょうつうじて、にちちゅう戦争せんそう太平洋戦争たいへいようせんそうにおけるマレー・シンガポール占領せんりょうにもまれたものとはやし博史ひろふみかんがえている[40]

だい世界せかい大戦たいせん

編集へんしゅう
 
鞍山あんざん製鉄せいてつしょ

だい東亜とうあ戦争せんそうだい世界せかい大戦たいせん)に日本にっぽん開戦かいせんする直前ちょくぜん1941ねん12月4にち日本にっぽん大本営だいほんえい政府せいふ連絡れんらく会議かいぎは「国際こくさい情勢じょうせい急転きゅうてん場合ばあいまんしゅうこくをしてらしむ措置そち」を決定けっていし、その「方針ほうしん」において「帝国ていこく開戦かいせんあた差当さしあたまんしゅうこく参戦さんせんせしめず、えいべいらんとうたいしてはまんしゅうこく帝国ていこくとの関係かんけい承認しょうにんとう理由りゆう実質じっしつじょう敵性てきせいこくとしての取締とりしまり実行じっこうおさむむるごと措置そちせしむるものとす」として、まんしゅうこく参戦さんせん抑止よくしする一方いっぽうざいまんしゅう連合れんごうこく領事館りょうじかん奉天ほうてんえいべいらん、ハルビンにえいべいふつらん、営口にらん名誉めいよ領事館りょうじかん))の閉鎖へいさおこなわさせた。また館員かんいんらは警察けいさつにより軟禁なんきんされ、1942ねん運航うんこうされた交換こうかんせん帰国きこくした。

このため、まんしゅうこく国際こくさいほうじょう交戦こうせんこくとはならず、だい世界せかい大戦たいせんもとで、まんしゅう国軍こくぐん日本にっぽんぐん協力きょうりょくしてイギリスやアメリカ、オーストラリアニュージーランドなどととたたかっている南方なんぽう太平洋たいへいようインド洋いんどようやオーストラリア方面ほうめん進出しんしゅつするということもかった。

日本にっぽん敗色はいしょくくなった1944ねん下半期しもはんきはいると、同年どうねん7がつ29にち鞍山あんざん昭和しょうわ製鋼せいこうしょ鞍山あんざん製鉄せいてつしょ)など重要じゅうよう工業こうぎょう基地きち連合れんごうぐんとくイギリスりょうインド帝国ていこくイギリスぐん基地きちない展開てんかいしたアメリカぐんボーイングB29ばくげきさかんな空襲くうしゅうけ、工場こうじょう稼働かどうりつ全般ぜんぱんに「ひとしい低下ていかしめし」(1944ねん当時とうじ稼動かどうじょうきょう記録きろく文書ぶんしょより)たとしている。とくに、奉天ほうてん東郊とうこうがいにある「まんしゅう飛行機ひこうき」では、1944ねん6がつには平均へいきんで70%だった従業じゅうぎょういん工場こうじょうへの出勤しゅっきんりつが、鞍山あんざん空襲くうしゅうから1週間しゅうかんの8がつ5にちには26%まで低下ていかした。つぎ標的ひょうてきになるのではという従業じゅうぎょういんつよ不安ふあんかんから、稼働かどうりつ極端きょくたん下落げらくまねくことになった。

また、戦争せんそう後期こうきには大豆だいずとう穀物こくもつ徴発ちょうはつ、しかし、連合れんごうぐん通商つうしょう破壊はかいによりふね日本にっぽん本土ほんど南方なんぽう輸送ゆそうすることが出来できなくなり、まんしゅう飢餓きがはじまるなかまんしゅう鉄道てつどう沿線えんせん朝鮮ちょうせん釜山ぷさんみなと大豆だいずとう野晒のざらしでくさっていったという[39]一方いっぽうで、わりに日本にっぽんかられるはず衣類いるい繊維せんいがやはり通商つうしょう破壊はかいのため、あるいは南方なんぽう優先ゆうせんということでまんしゅうにははいらず、1944ねんごろふゆには凍死とうしするもの、(成長せいちょうとともにふくわなくなるため)衣類いるいしでオンドルたよってごさねばならない子供こどもらが続出ぞくしゅつしたとされる[41]

1945ねん2がつ11にちソ連それんアメリカイギリスヤルタ会談かいだんひらき、まんしゅう中華民国ちゅうかみんこく返還へんかんきたまん鉄路てつろみなみまんしゅう鉄道てつどうソ連それん中華民国ちゅうかみんこく共同きょうどう管理かんりとし、大連たいれんをソビエト海軍かいぐん租借そしゃくとする見返みかえりとして、ソ連それん参戦さんせんすることをまんしゅうこく政府せいふ秘密裏ひみつり決定けっていした[42]。なおこのころまんしゅうこくちゅう日本にっぽん大使館たいしかんは、東京とうきょう麻布まふまちから神奈川かながわけん箱根はこね疎開そかいする。

1945ねん5がつには同盟どうめいこくのドイツが降伏ごうぶくし、日本にっぽんは1こく連合れんごうこくとのたたかいをつづけることになる。太平洋たいへいよう戦線せんせんでは3がつには硫黄いおうとうが、6がつには沖縄おきなわアメリカぐんち、アメリカぐんやイギリス軍機ぐんきによる本土ほんどへの攻撃こうげきおこなわれるなど、日本にっぽん敗戦はいせん時間じかん問題もんだいとなっていた。

ソ連それんまんしゅう侵攻しんこう

編集へんしゅう

1945ねん6がつ日本にっぽん終戦しゅうせん工作こうさく一環いっかんとして、まんしゅうこく中立ちゅうりつ条件じょうけんいまにち中立ちゅうりつ条約じょうやく有効ゆうこうであったソビエト連邦れんぽう和平わへい調停ちょうてい斡旋あっせんもとめたが、すでソ連それんヤルタ会談かいだんでの秘密ひみつ協定きょうていもとづき、ドイツ降伏ごうぶくから3かげつ以内いないたいにち参戦さんせん決定けっていしていたため、日本にっぽん提案ていあんげなかった[43]

8がつ8にちソ連それん1946ねん4がつ26にちまで有効ゆうこうだった中立ちゅうりつ条約じょうやく破棄はきして日本にっぽん宣戦せんせん布告ふこくし、直後ちょくごたいにち参戦さんせんした。ソ連それんぐんまんしゅうこくたいしても西にしそとこうむふる(モンゴル人民じんみん共和きょうわこくおよひがし沿海州えんかいしゅうきた孫呉そんご方面ほうめんおよびハイラル方面ほうめん、3方向ほうこうからソまん国境こっきょうえて侵攻しんこうした。ソ連それん参戦さんせんにあたり、直前ちょくぜんちゅう日本にっぽん大使たいしたいして宣戦せんせん布告ふこくしたが、まんしゅうこくたいしては国家こっかとして承認しょうにんしていなかったため、外交がいこうてき通告つうこくはなかった。まんしゅうこく防衛ぼうえいほう(1938ねん4がつ1にち施行しこう)を発動はつどうして戦時せんじ体制たいせい移行いこうしたが、外交がいこう機能きのう不備ふびしんきょう放棄ほうき混乱こんらんなどにより最後さいごまでまんしゅうこくがわからのたい宣戦せんせんおこなわれなかった。

関東軍かんとうぐん首脳しゅのう撤退てったい決定けっていし、しんきょう関東軍かんとうぐん関係かんけいしゃ8がつ10日とおか憲兵けんぺい護衛ごえい特別とくべつ列車れっしゃ脱出だっしゅつした。まんしゅうこく防衛ぼうえいする日本にっぽん関東軍かんとうぐんは、1942ねん以降いこう増強ぞうきょう中止ちゅうしされ、のち南方なんぽう戦線せんせんなどへ戦力せんりょく抽出ちゅうしゅつされて十分じゅうぶん戦力せんりょくっていなかったため、国境こっきょう付近ふきんおおくの部隊ぶたい全滅ぜんめつした。そのため、ソ連それんぐん侵攻しんこう犠牲ぎせいとなったのは、おも満蒙まもう開拓かいたく移民いみんをはじめとする日本人にっぽんじん居留民きょりゅうみんたちであった。つうへの司令しれい移動いどうさい民間みんかんじん移動いどう関東軍かんとうぐん一部いちぶではかんがえられたが、軍事ぐんじてきめんから民間みんかんじんだい規模きぼ移動いどうは「ぜんぐんてき意図いとの(ソ連それんへの)暴露ばくろ」にあたること、邦人ほうじん130まんめい輸送ゆそう作戦さくせん必要ひつよう資材しざい時間じかんもなく、東京とうきょう開拓かいたく総局そうきょくにも拒絶きょぜつされ、結果けっかかれらは武器ぶきたないままりにされ、まんしゅうりょうんだソ連それんぐん侵略しんりゃく直面ちょくめんする結果けっかになった。

一説いっせつにはとくに初期しょきソ連それんぐん兵士へいしらは囚人しゅうじんへい主体しゅたいだったともいわれ、軍紀ぐんきみだれ、戦時せんじ国際こくさいほう基礎きそ教育きょういくもなく、兵士へいしらによる日本人にっぽんじん居留民きょりゅうみんたいする殺傷さっしょう強姦ごうかん略奪りゃくだつ事件じけん多発たはつした。また、それをこわれる日本人にっぽんじん居留民きょりゅうみん開拓かいたくだんらのなかには集団しゅうだん自決じけつに奔るもの、あるいはぎゃくに、ソ連それんぐん将校しょうこうらと取引とりひき未婚みこんわか女性じょせいらをみずか犠牲ぎせい差出さしだすものも続出ぞくしゅつしたという。8がつ14にちには葛根かずらねびょう事件じけんこっている[44][45]戦後せんご、このようなかたち強姦ごうかんされ妊娠にんしんし、博多港はかたこうげてきた女性じょせいのためにと厚生省こうせいしょう引揚援護えんごきょくが、二日ふつか診療しんりょうしょもうけ、当時とうじ違法いほうであったが中絶ちゅうぜつ手術しゅじゅつおこなった[46]。もっともまんしゅうでとくに初期しょきにはソ連それんへいによる強姦ごうかん多発たはつしたのは間違まちがいないが、開拓かいたく移民いみんおおした石川いしかわけん満蒙まもう開拓かいたくだん関係かんけいしゃ依頼いらい開拓かいたくだんをまとめた藤田ふじたしげる調査ちょうさ検証けんしょうによれば、この二日ふつかでの中絶ちゅうぜつのケースでは、ソ連それんへいによる強姦ごうかんかんがえるにはそのおおくが妊娠にんしん時期じきわなかったという[47]実際じっさいには暴行ぼうこうばかりでなく、外地がいちびるために、まんしゅう朝鮮ちょうせんとう現地げんち男性だんせいあるいはおなじ引揚しゃ日本人にっぽんじん男性だんせいらと一時いちじてきにでも夫婦ふうふ同然どうぜんとなるような生活せいかつおくるしかなかった女性じょせいらが、郷里きょうり帰還きかんまえにして中絶ちゅうぜつ選択せんたくせまられたひとし事情じじょうかんがえられることを示唆しさしている(参照さんしょう二日ふつか保養ほようしょ)。

滅亡めつぼう

編集へんしゅう

皇帝こうてい溥儀ふぎをはじめとする国家こっか首脳しゅのうたちはソ連それん進撃しんげきすすむとあたらしきょう放棄ほうきし、朝鮮ちょうせんにほどちかい、つうしょう臨江けんだい栗子りつこに8がつ13にち夕刻ゆうこく到着とうちゃく同地どうち避難ひなんしていたが、8がつ15にちおこなわれた日本にっぽん昭和しょうわ天皇てんのうによる「玉音ぎょくおん放送ほうそう」で戦争せんそうみずからの帝国ていこく終焉しゅうえんった。

2にち8がつ17にちに、国務こくむ総理そうり大臣だいじんちょうけいめぐみ主宰しゅさいする重臣じゅうしん会議かいぎつうまんしゅうこく廃止はいし決定けっていよく18にち未明みめいには溥儀ふぎだい栗子くりご退位たいい詔勅しょうちょくげ、まんしゅうこく誕生たんじょうからわずか13ねん滅亡めつぼうした[48]退位たいい詔書しょうしょ20日はつか公布こうふする予定よていだったが、実施じっしできなかった。

8がつ19にちきゅうまんしゅうこく政府せいふ要人ようじんによる東北とうほく地方ちほう暫時ざんじ治安ちあん維持いじ委員いいんかい組織そしきされたが、8がつ24にちソ連それんぐん指示しじ解散かいさんされた。溥儀ふぎ退位たいい宣言せんげん翌日よくじつつう飛行場ひこうじょうより飛行機ひこうき日本にっぽん亡命ぼうめいする途中とちゅう奉天ほうてんソ連それんぐん空挺くうてい部隊ぶたいによって拘束こうそくされ、つうりょう経由けいゆしてソ連それんチタ収容しゅうよう施設しせつ護送ごそうされた。そのほか、きゅう政府せいふ要人ようじんも8がつ31にち一斉いっせい逮捕たいほされた。

そのまんしゅう地域ちいき

編集へんしゅう
日本にっぽんへい日本人にっぽんじん入植にゅうしょくしゃ

占領せんりょう地域ちいき日本にっぽんぐんソ連それんぐんによって8がつ下旬げじゅんまでに武装ぶそう解除かいじょされた。そのソ連それんぐんにより、シベリアやそとこうむ中央ちゅうおうアジアひとし連行れんこう抑留よくりゅうされたものもいる(シベリア抑留よくりゅう)。

ソ連それんぐん侵攻しんこう中国人ちゅうごくじんこうむ古人こじんなかには「解放かいほう」ととらえるひともおり、ソ連それんぐん解放かいほうぐんとしてむかえ、当初とうしょ関東軍かんとうぐんともソ連それんぐんたたかっていたまんしゅう国軍こくぐん関東かんとうぐん朝鮮ちょうせんじん漢人かんどこうむ古人こじん兵士へいしらのソ連それんがわへの離反りはん一部いちぶこったため、結果けっかとして関東軍かんとうぐん作戦さくせん計画けいかく妨害ぼうがいすることになった。中華民国ちゅうかみんこく政府せいふ協力きょうりょく反乱はんらんこしたことから日本人にっぽんじんすうせんめい中国共産党ちゅうごくきょうさんとうはちぐん虐殺ぎゃくさつされたつう事件じけん発生はっせいした。

また、一部いちぶ日本人にっぽんじん幼児ようじは、肉親にくしん死別しべつしたりはぐれたりして現地げんち中国人ちゅうごくじん保護ほごされ、あるいは肉親にくしん自身じしん現地げんちじんあづけたりして戦後せんご大陸たいりくのこった中国ちゅうごく残留ざんりゅう日本人にっぽんじん孤児こじ数多かずおお発生はっせいした。その日本人にっぽんじんしんきょう大連たいれんなどの大都市だいとしあつめられたが、日本にっぽん本国ほんごくへの作業さぎょうおくれ、ようやく1946ねんから開始かいしされた(にんにくあしとう在留ざいりゅう日本人にっぽんじんだい送還そうかん)。さらに、帰国きこくした「引揚しゃ」は、戦争せんそう経済けいざい基盤きばん破壊はかいされた日本にっぽん国内こくないでは居住きょじゅうもなく、くるしい生活せいかついられた。政府せいふ満蒙まもう開拓かいたくだんや引揚しゃけに「引揚しゃむら」を日本にっぽん各地かくちいたが、いずれも農作のうさくてきさないれた土地とちで引揚しゃたちは後々あとあとまで困窮こんきゅうした。

ソ連それん軍政ぐんせい

まんしゅうソ連それんぐん軍政ぐんせいはいり、中華民国ちゅうかみんこくとのちゅう友好ゆうこう同盟どうめい条約じょうやくでは3かげつ以内いない統治とうちけん返還へんかん撤兵てっぺいおこなわれるはずであったが、実際じっさいにはよく1946ねん4がつまでソ連それんぐん軍政ぐんせいつづき、なでじゅん長春ちょうしゅんなどにははちぐん進出しんしゅつして中国共産党ちゅうごくきょうさんとう人民じんみん政府せいふをつくっていた(東北とうほく問題もんだい)。このあいだソ連それんぐんは、ひがしヨーロッパ場合ばあい同様どうよう工場こうじょう地帯ちたいなどからせそうな機械きかいるいこそぎ略奪りゃくだつして本国ほんごくかえった。

中華民国ちゅうかみんこく

1946ねん5がつにはソ連それんぐん撤退てったいし、まんしゅう蔣介せきひきいる中華民国ちゅうかみんこく移譲いじょうされた。中華民国ちゅうかみんこく政府せいふは、行政ぎょうせい区分くぶんまんしゅうこく建国けんこく以前いぜん遼寧りょうねい吉林きつりん黒竜江こくりゅうこう東北とうほく3しょうねつかわしょうもどした。しかしその国共こっきょう内戦ないせん再開さいかいされ、中華民国ちゅうかみんこくぐんは、人民じんみん解放かいほうぐん敗北はいぼくし、中華民国ちゅうかみんこく政府せいふ台湾たいわんとう移転いてんすることとなる。

中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく

1948ねんあきりょう瀋戦やくソ連それん全面ぜんめんてき支援しえんけた中国共産党ちゅうごくきょうさんとう中国ちゅうごく人民じんみん解放かいほうぐんまんしゅう全域ぜんいき制圧せいあつした。毛沢東もうたくとうまんしゅうこくがこののこした近代きんだい国家こっかとしてのインフラや統治とうち機構きこう非常ひじょう重要じゅうようし、「中国ちゅうごく本土ほんど国民こくみん政府せいふ奪回だっかいされようとも、まんしゅうさえ手中しゅちゅうにしたならば抗戦こうせん継続けいぞく可能かのうであり、中国ちゅうごく革命かくめい達成たっせいすることができる」として、まんしゅう制圧せいあつ全力ぜんりょくそそいだ。はちぐんきってのもうしょうはやしぴょう当時とうじ中国共産党ちゅうごくきょうさんとうナンバー2・こうまんしゅうでの解放かいほう拡大かくだいまかされていた。

きゅうまんしゅう国軍こくぐんきょうやすぐんであるひがしモンゴル自治じち政府せいふ自治じちぐんウランフによって人民じんみん解放かいほうぐん編入へんにゅうされ、チベット侵攻しんこうなどに投入とうにゅうされた[49]

1949ねん中国共産党ちゅうごくきょうさんとう中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく成立せいりつさせ、まんしゅう国領こくりょうだったひがしモンゴル地域ちいきあらたに内モンゴル自治うちもんごるじち設置せっちした。まんしゅうこく時代じだい教育きょういくけたおおくのモンゴルじんたちはうちモンゴル人民じんみん革命かくめいとう関係かんけいするものとして粛清しゅくせいされた(うちモンゴル人民じんみん革命かくめいとう粛清しゅくせい事件じけん[50][51]ソ連それんぐんからわたされたまんしゅうこく関係かんけいしゃおおくはなでじゅん戦犯せんぱん管理かんりしょ中国共産党ちゅうごくきょうさんとう思想しそう改造かいぞうけたが、毛沢東もうたくとうによって元満もとみつしゅうこく皇帝こうてい溥儀ふぎロシア帝国ていこく最後さいご皇帝こうていニコライ2せいとその一家いっか虐殺ぎゃくさつしたソ連それんより優越ゆうえつしている中国共産党ちゅうごくきょうさんとう証左しょうさとして政治せいじ利用りようされることとなった[52]溥儀ふぎ釈放しゃくほうまんしゅうぞく代表だいひょうとして中国ちゅうごく人民じんみん政治せいじ協商きょうしょう会議かいぎ全国ぜんこく委員いいん選出せんしゅつされた。

 
まんしゅうこく地図ちず

おも都市とし

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行政ぎょうせい区分くぶん

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まんしゅうこく地方ちほう行政ぎょうせい区画くかく
上記じょうき括弧かっこない記載きさいしたしょう自治じちはこれらのまんしゅうしょうぞくする現在げんざい中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく行政ぎょうせい区分くぶんである。

人口じんこう

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しんきょうだい同大どうだいがい
ハルビンの「ときわデパート」

1908ねん時点じてんまんしゅう人口じんこうは1583まんにんだったが、まんしゅうこく建国けんこくされた1932ねん10がつ1にちには2928まん8せんにんになっていた[53]人口じんこう比率ひりつとしては女性じょせい100にたいして男性だんせい123〜125の割合わりあいで、1942ねん10がつ1にちには人口じんこうは4424まん2せんにんにまで増加ぞうかしていた[54]移民いみん国家こっかとしての側面そくめんもあり、内地ないちからの日本にっぽん本土ほんどじん以外いがいでも、隣接りんせつする外地がいち朝鮮ちょうせんからの移住いじゅうしゃ増加ぞうかした[55]台湾たいわんじんも5000にんうつんだ。

国務こくむいん総務庁そうむちょう治安ちあん警務けいむ統計とうけいでは1940ねん康徳やすのり7ねん)10がつ1にちまんしゅうこく人口じんこうは4108まん0907にん男女だんじょは120:100[56]国務こくむいん国勢調査こくせいちょうさでは[57]どう時期じきまんしゅうこく人口じんこうは4323まん3954にん男女だんじょは123.8:100であった[56]統計とうけいひらきがあるのは、警察けいさつ戸口とぐち調査ちょうさにおいては現住げんじゅう人口じんこう調査ちょうさ主義しゅぎ[注釈ちゅうしゃく 9]を、臨時りんじ国勢調査こくせいちょうさにおいては現在げんざい人口じんこう調査ちょうさ主義しゅぎ[注釈ちゅうしゃく 10]採用さいようしたことによる[58]

人口じんこう構成こうせいとしては、

ぜん人口じんこう ぜん人口じんこうめる割合わりあい
まんしゅうじんかんぞくまんしゅうぞく 38,885,562にん 94.65%
日本人にっぽんじん 2,128,582にん 5.18%
その外国がいこくじんしろけいロシアじんふくむ) 66,783にん 0.16%

上記じょうきの「日本人にっぽんじん」のなかには、130まん9せんにん朝鮮ちょうせんじんふくむ。台湾たいわんじん朝鮮ちょうせんじんふくまれている[56]

主要しゅよう都市とし人口じんこう下記かきのとおり[56]

都市としめい ぜん人口じんこう そのうち日本人にっぽんじん人口じんこう データ
奉天ほうてん 1,003,716にん 170,580にん 1940ねん
哈爾はま 558,829にん 51,650にん 1940ねん
しんきょう 490,253にん 129,321にん 1940ねん
大連たいれん 338,872にん 84,794にん 1938ねん
安東あんどう 246,129にん 43,358にん 1940ねん
営口 176,917にん 8,320にん 1940ねん
よしりん 145,035にん 17,941にん 1940ねん
ひとしひとし哈爾 118,708にん 14,290にん 1940ねん

国籍こくせきほう存在そんざい

編集へんしゅう

まんしゅうこくにおいては最後さいごまで国籍こくせきほう制定せいていされなかったため、まんしゅう国籍こくせきゆうするもの範囲はんい法令ほうれいじょう明確めいかくにされず、慣習かんしゅうほうによりさだまっているものとする学説がくせつ有力ゆうりょくであった[59][60]国籍こくせきほう制定せいていされなかった背景はいけいとして、じゅう国籍こくせきみとめない日本にっぽん国籍こくせきほうじょう日本人にっぽんじん入植にゅうしょくしゃが「日本にっぽんけいまんしゅう国人くにびと」となって日本にっぽん国籍こくせき放棄ほうきせざるをないこととなれば、新規しんき日本人にっぽんじん入植にゅうしょくしゃ減少げんしょうするおそれがあること、日本にっぽん統治とうちにあった朝鮮ちょうせんじん日本にっぽん国民こくみんとしてあつかっていた朝鮮ちょうせん政策せいさくとの整合せいごうせい問題もんだいや、しろけいロシアじん帰化きか問題もんだいなどがあった[60]。1940ねん康徳やすのり7ねん)に「暫行みんせきほう」(康徳やすのり7ねん8がつ1にちみことのりれいだい197ごう)が制定せいていされ、みんせき記載きさいされたものまんしゅうこく人民じんみんとしてあつかわれた。日本人にっぽんじんまんしゅうこく出生しゅっしょうした場合ばあいには国籍こくせき不明ふめいかくになるが、まんしゅうこく特命とくめい全権ぜんけん大使たいしにそのむねとどて、大使たいし内地ないち本籍ほんせきにそれを回送かいそうすることで日本人にっぽんじんとして内地ないち戸籍こせき登録とうろくされた。

日本人にっぽんじん満蒙まもう開拓かいたく移民いみん人口じんこう

編集へんしゅう

1931ねん昭和しょうわ6ねん)から1932ねん昭和しょうわ7ねん)のまんしゅうには59まんにん日本人にっぽんじん朝鮮ちょうせん台湾たいわんせきふくむ)が居住きょじゅうし、うち10まんにん農民のうみんだった。営口では人口じんこうの25%が日本人にっぽんじんだったという。

まんしゅう事変じへん以前いぜんにおいて、かんぞく以外いがいまんしゅうへの移住いじゅう農民のうみんうち多数たすう半島はんとうじんともばれた朝鮮ちょうせんせき日本人にっぽんじんであり、日本にっぽん内地ないちからまんしゅうへの移住いじゅうしゃ大半たいはんぐん関係かんけいしゃあるいはみなみまんしゅう鉄道てつどうおよび附属ふぞく企業きぎょう関係かんけいしゃとその家族かぞくであった。まんしゅうこく成立せいりつ以降いこう日本にっぽん政府せいふ国内こくないにおける貧困ひんこん農村のうそん集落しゅうらく住民じゅうみん都市とし農業のうぎょう就業しゅうぎょう希望きぼうしゃ中心ちゅうしんに、「満蒙まもう開拓かいたくだん」としょうする満蒙まもう開拓かいたく移民いみん募集ぼしゅうした。さらに日本にっぽん政府せいふ1936ねん昭和しょうわ11ねん)から1956ねん昭和しょうわ31ねん)のあいだに、500まんにん日本人にっぽんじん移住いじゅう計画けいかくしていた。当時とうじまんしゅう実際じっさいには4せんまんにん人口じんこうがいたとみられるが、あやまって3せんまんにん程度ていどかんがえられていた。それが20ねんには5せんまんにんえるのではないかとみなして、かんまんこうむあさぞくちゅう日本人にっぽんじんがそのいちわり確保かくほしたいとかんがえたのである[39]結局けっきょくは、1945ねん昭和しょうわ20ねん)のポツダム宣言せんげん受諾じゅだくでの日本にっぽん降伏ごうぶくによりまんしゅうこく消滅しょうめつしたために、この計画けいかく頓挫とんざわった。1938ねん昭和しょうわ13ねん)から1942ねん昭和しょうわ17ねん)のあいだには20まんにん農業のうぎょう青年せいねんを、1936ねん昭和しょうわ11ねん)には2まんにん家族かぞく移住いじゅうしゃおくんだ。なお、まんしゅう逐次ちくじ開設かいせつされていった小学校しょうがっこう日本人にっぽんじん教員きょういん募集ぼしゅう内地ないち給与きゅうよの7わりから17わり5ふんしで募集ぼしゅうされた[注釈ちゅうしゃく 11]

これらの開拓かいたくだん土地とち確保かくほするため、さき現地げんち耕作こうさくしていた農民のうみんらの土地とち強制きょうせいてき安値やすねっていったという。しかし、日本にっぽん内地ないちからの移民いみんはとてもすうひゃくまんにん規模きぼ計画けいかくたすものでなく、その結果けっか長野ながのけんなどのまずしい農村のうそん標的ひょうてきに、いまでいう補助ほじょきん停止ていしをちらつかせるようなかたちで、各地かくち中学校ちゅうがっこう教諭きょうゆらにもその生徒せいとからの確保かくほめいじて強引ごういんおこなわれていったとされる。計画けいかくすすめた東宮とうぐう鉄男てつおらのかんがえでは、日本人にっぽんじん移民いみんソ連それん攻撃こうげきするさい現地げんち近辺きんぺんでの徴兵ちょうへい基盤きばんづくりあるいはぎゃくめられたさい防御ぼうぎょたてとするためであり、したがって都市としなどにって商売しょうばいとう従事じゅうじしたりしないよう、かれらのおおくは僻地へきちおくられたが、なかには、比較的ひかくてき都市としちかいような場所ばしょされた現地げんちじんらを小作こさくじん使用人しようにんとして使つかって比較的ひかくてき商品しょうひんせいたか作物さくもつつくっていたれいもあったという。[39]

終戦しゅうせんソ連それんたいにち参戦さんせんによりソビエト連邦れんぽうまんしゅう侵攻しんこうしたさいには、85まんにん日本人にっぽんじん移住いじゅうしゃ抑留よくりゅうしている。公務員こうむいん軍人ぐんじん例外れいがいとして、基本きほんてきにはこれらの人々ひとびと1946ねん昭和しょうわ21ねん)から1947ねん昭和しょうわ22ねん)にかけて段階だんかいてき連合れんごう国軍こくぐん占領せんりょう日本にっぽん送還そうかんされている。

朝鮮ちょうせんじん移住いじゅうしゃ

編集へんしゅう

もともと朝鮮ちょうせんとの国境こっきょうちか地域ちいきには朝鮮ちょうせん民族みんぞく居住きょじゅうしゃおおく、歴史れきしてきにもまんしゅうぞくとの交流こうりゅうふかかったため、建国けんこく当時とうじ日本にっぽんりょうであった朝鮮半島ちょうせんはんとうからもおおくの朝鮮ちょうせんせき日本人にっぽんじんまんしゅうこく移住いじゅうした。農業のうぎょう以外いがいにも水商売みずしょうばい小規模しょうきぼ商店しょうてんなどの事業じぎょうおこなうものもおおかった。しかし現地げんち住民じゅうみんたちの反感はんかん事例じれいもあったという[55]

1934ねん昭和しょうわ9ねん10月30にち岡田おかだ内閣ないかく岡田おかだ啓介けいすけ首相しゅしょう)は朝鮮ちょうせんじん内地ないちへの移入いにゅうによって失業しつぎょうりつ治安ちあん悪化あっかすすんでいる日本にっぽん本土ほんどまもるとして、朝鮮ちょうせんじんまんしゅうかうようまんしゅうこく経済けいざい開発かいはつすすめることを閣議かくぎ決定けっていしている[62]

ユダヤじん自治じちしゅう

編集へんしゅう

まんしゅう事変じへん以前いぜんからヨーロッパにおけるユダヤじん問題もんだい関心かんしんはじめていた日本にっぽん政府せいふは、まんしゅう国内こくないにおけるユダヤきょうによるユダヤじん自治じちしゅう企図きとし、はんユダヤ政策せいさく推進すいしんしていたナチス・ドイツ政府せいふたいし、そのれを打診だしんしていた(河豚ふぐ計画けいかく)。

しかしそのにちちゅう戦争せんそうささえ事変じへん)に突入とつにゅうしたことなどにより、にちまんりょう政府せいふ本格ほんかくてき遂行すいこうすることはなく、だい世界せかい大戦たいせん前夜ぜんやナチス・ドイツソビエト連邦れんぽうによるはんユダヤじん政策せいさく嫌悪けんおし、まんしゅうこく経由けいゆアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく南米なんべい諸国しょこく亡命ぼうめいしようとしたユダヤじんのうち少数しょうすうまんしゅうこく移住いじゅうしたにとどまった。

国家こっか体制たいせい

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国旗こっき国歌こっか

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まんしゅうこく初代しょだいないかく

まんしゅうこく公式こうしきにはぞく協和きょうわ王道おうどう楽土らくど理念りねんとし、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくをモデルとして建設けんせつされ、アジアでの民族みんぞく共生きょうせい実験じっけん国家こっかであるとされた。共和きょうわせい国家こっかであるアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくをモデルとするとしていたものの、皇帝こうてい国家こっか元首げんしゅとする立憲りっけん君主くんしゅせい国家こっかである。ぞく協和きょうわとは、満蒙まもうかんにちちょう民族みんぞく協力きょうりょくし、平和へいわくにづくりをおこなうこと、王道おうどう楽土らくどとは、西洋せいようの「覇道はどう」にたいし、アジアの理想りそうてき政治せいじ体制たいせいを「王道おうどう」とし、まんしゅうこく皇帝こうてい中心ちゅうしん理想りそう国家こっか建設けんせつすることを意味いみしている。まんしゅうにはこのぞく以外いがいにも、ロシア革命かくめいのち共産きょうさん主義しゅぎ政権せいけんきらいソビエトからのがれてきたしろけいロシアじんひとし居住きょじゅうしていた。

そのなかでもとくに、ボリシェヴィキとの戦争せんそうやぶれてほろぼされたみどりウクライナウクライナじん勢力せいりょくまんしゅうこく接触せっしょくはかっており、戦前せんぜんにはまん宇のさんこく同盟どうめいはん戦争せんそう開始かいしする計画けいかく協議きょうぎしていた。しかし、1937ねんにはウクライナじん組織そしきにかわってロシアじんのファシスト組織そしきロシアファシストとう)を支援しえんする方針ほうしん変更へんこうし、ロシアじん組織そしき対立たいりつのあるウクライナじん組織そしきとは断交だんこうした。だい世界せかい大戦たいせんちゅうふたたびウクライナじん組織そしきむすぼうとしたが、太平洋たいへいよう方面ほうめんでの苦戦くせんもあり、極東きょくとうでのはん武力ぶりょく抗争こうそう実現じつげんしなかった。

まんしゅうこく建国けんこく経緯けいいもあって日本にっぽん計画けいかくてき支援しえんした、きわめて短期間たんきかん発展はってんした。内戦ないせんつづ中国ちゅうごくからのかんじんや、あたらしい環境かんきょうもとめる朝鮮ちょうせんじんなどの移民いみんがあり、とりわけ日本にっぽん政府せいふ政策せいさくしたがってまんしゅう国内こくない用意よういされた農地のうち入植にゅうしょくする日本にっぽん内地ないちじんなどの移民いみん大変たいへんおおかった。これらの移民いみんによってまんしゅうこく人口じんこう急激きゅうげきいきおいで増加ぞうかした。

国家こっか機関きかん

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国務こくむいん

まんしゅうこく政府せいふは、国家こっか元首げんしゅとして執政しっせいのち皇帝こうてい)、諮詢しじゅん機関きかんとして参議さんぎ行政ぎょうせい機関きかんとして国務こくむいん司法しほう機関きかんとしてほういん立法りっぽう機関きかんとして立法院りっぽういん監察かんさつ機関きかんとして監察かんさついんいた。

国務こくむいんには総務庁そうむちょう設置せっちされ、官制かんせいじょう首相しゅしょう補佐ほさ機関きかんながら、日本人にっぽんじん官吏かんりのもとまんしゅうこく行政ぎょうせい実質じっしつてき中核ちゅうかくとして機能きのうした(総務庁そうむちょう中心ちゅうしん主義しゅぎ)。それにたい国務こくむいん会議かいぎ議決ぎけつ参議さんぎ諮詢しじゅん形式けいしきてきなものにとどまり、立法院りっぽういんいたっては正式せいしき開設かいせつすらされなかった。

元首げんしゅ

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皇宮こうぐうとしててられたどういさお殿どの

元首げんしゅ執政しっせい、のち皇帝こうてい)は、あいしんさとし溥儀ふぎがつき、1937ねん康徳やすのり4ねん)3がつ1にち公布こうふされた帝位ていい継承けいしょうほうだいいちじょうにより、溥儀ふぎ皇帝こうてい男系だんけい子孫しそんたる男子だんし帝位ていい継承けいしょうすべきものとされた[63]

帝位ていい継承けいしょうほう想定そうていがい事態じたいそなえて、まんしゅう帝国ていこく駐箚ちゅうさつ駐在ちゅうざい大日本帝国だいにっぽんていこく特命とくめい全権ぜんけん大使たいしけん関東軍かんとうぐん司令しれいかんとの会談かいだんで、皇帝こうていは、清朝せいちょう復辟ふくへき策謀さくぼうおさえ、関東軍かんとうぐん指名しめいけん確保かくほさせるため、自身じしんみかどおとこ子孫しそんいときは、日本にっぽん天皇てんのう叡慮えいりょによって帝位ていい継承けいしょうしゃさだめるむね皇帝こうてい宣言せんげんすることなどを内容ないようとした覚書おぼえがきなどに署名しょめいしている(なお、溥儀ふぎにはこの時点じてん実子じっしがおらず、その死去しきょするまで誕生たんじょうしていない)。

国民こくみん

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まんしゅうこく瓦解がかいいたるまで国籍こくせきほうさだめず、法的ほうてき国民こくみん規定きていはなされなかった。結果けっか移民いみん官僚かんりょうふくめたまんしゅう居住きょじゅう日本人にっぽんじん日本にっぽん国籍こくせきゆうしたままであり、敗戦はいせん法的ほうてき障害しょうがいしに日本にっぽんげること出来できた。1940ねん康徳やすのり7ねん)に「暫行みんせきほう」(康徳やすのり7ねん8がつ1にちみことのりれいだい197ごう)が制定せいていされ、みんせき記載きさいされたものまんしゅうこく人民じんみんとしてあつかわれた。

行政ぎょうせい

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ていたかし胥(中央ちゅうおう)ほか首脳しゅのう

1932ねん大同だいどう元年がんねん)の建国けんこくには首相しゅしょう執政しっせいせいでは国務こくむいん総理そうり帝政ていせい移行いこう国務こくむ総理そうり大臣だいじん)としてていたかし胥が就任しゅうにんし、1935ねん康徳やすのり2ねん)には軍政ぐんせい大臣だいじんちょうけいめぐみ首相しゅしょう就任しゅうにんした。

しかし実際じっさい政治せいじ運営うんえいは、まんしゅう帝国ていこく駐箚ちゅうさつ大日本帝国だいにっぽんていこく特命とくめい全権ぜんけん大使たいしけん関東軍かんとうぐん司令しれいかん指導しどうおこなわれた。元首げんしゅ首相しゅしょう閣僚かくりょうをはじめ官吏かんり任命にんめいし、官制かんせいさだめる権限けんげんあたえられたが、関東軍かんとうぐん実質じっしつてきまんしゅうこく高級こうきゅう官吏かんりとく日本人にっぽんじんおも就任しゅうにんする総務庁そうむちょう長官ちょうかん各部かくぶ次長じちょう次官じかん)などは、高級こうきゅう官吏かんり任命にんめい罷免ひめん決定けっていする権限けんげんをもっていたので、関東軍かんとうぐん同意どういがなければこれらを任免にんめんすることができなかった。

公務員こうむいんやく半分はんぶん日本にっぽん内地ないちじんめられ、たか地位ちいほど日本人にっぽんじん占有せんゆうりつたかかった。これらの日本にっぽん内地ないちじん日本にっぽん国籍こくせきゆうしたままである。俸給ほうきゅう税率ぜいりつめんでも日本人にっぽんじん優遇ゆうぐうされた。関東軍かんとうぐんまんしゅうこく政府せいふをして日本にっぽん内地ないちじんかく行政ぎょうせい官庁かんちょうちょう次長じちょう任命にんめいさせてこのくに実権じっけんにぎらせた。これを内面ないめん指導しどうんだ(さんスケ)。これにたいし、石原いしはら莞爾かんじつよ批難ひなんしていた。しかし、台湾たいわんじんまんしゅう国人くにびと)のしゃ介石かいせき外交がいこう総長そうちょう就任しゅうにんしており、裁判官さいばんかん検察官けんさつかんなども日本にっぽん内地ないちじん以外いがい民族みんぞくから任用にんようされるなど[64]日本にっぽん内地ないちじん以外いがい民族みんぞくにも高位こうい高官こうかんたっする機会きかいがないわけではなかった。しかし、これも日本にっぽん従順じゅうじゅんであること前提ぜんていで、初代しょだい首相しゅしょうていたかし胥も関東軍かんとうぐん批判ひはんする発言はつげんおこなったことから、なか解任かいにんかたち辞任じにんまれている。

しょう長等ながら地方ちほう長官ちょうかん建国けんこく当初とうしょ現地げんち有力ゆうりょくしゃ任命にんめいされることおおかったが、これも次第しだい日本人にっぽんじんえられていった。

選挙せんきょ政党せいとう

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憲法けんぽう相当そうとうする組織そしきほうには、一院制いちいんせい議会ぎかいとして立法院りっぽういん設置せっち規定きていされていたが選挙せんきょいちおこなわれなかった。政治せいじ結社けっしゃ組織そしき禁止きんしされており、まんしゅうこく協和きょうわかいという官民かんみん一致いっち唯一ゆいいつ政治せいじ団体だんたいのみが存在そんざいし、実質じっしつてき民意みんい機関きかんとして期待きたいされた。

ほう制度せいど

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憲法けんぽう相当そうとうする組織そしきほう人権じんけん保障ほしょうほうをはじめ、民法みんぽう刑法けいほうなどの基本きほん法典ほうてんについて、日本にっぽんならったほう制度せいど整備せいびされた。当時とうじ日本にっぽんほうとの相違そういとしては、組織そしきほうにおいて、かく閣僚かくりょう合議ごうぎたいとしての内閣ないかくではなく、首相しゅしょう個人こじん皇帝こうてい輔弼ほひつ機関きかんとされたこと、刑法けいほうにおける構成こうせい要件ようけんはほぼ同様どうようであるが、法定ほうていけい若干じゃっかん日本にっぽん刑法けいほうよりおも規定きていされていること、検察庁けんさつちょう裁判所さいばんしょから分離ぶんりした独自どくじ機関きかんとされたことなどがげられる。

標準時ひょうじゅんじ

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まんしゅうこく版図はんとではにちちゅう支配しはいいきごとにことなる標準時ひょうじゅんじもちいられていたが、まんしゅうこく東経とうけい120子午線しごせんとし、UTC+8標準時ひょうじゅんじとして統一とういつした。1937ねん1がつ1にち日本にっぽん標準時ひょうじゅんじわせてUTC+9変更へんこうされた[65]変更へんこう子午線しごせん東経とうけい135となり、まんしゅう国内こくないとおっていない。

外交がいこう

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外交がいこう関係かんけい

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ざいまんしゅうこく中華民国ちゅうかみんこく大使館たいしかん

日本にっぽん建国けんこく宣言せんげんされてやく半年はんとし1932ねん9月に承認しょうにん[66]、エルサルバドルとコスタリカは1934ねん早期そうき承認しょうにんした。エチオピア侵略しんりゃく経済けいざい制裁せいさい国際こくさい連盟れんめい脱退だったいしたイタリアは、1937ねん12月に承認しょうにん[67]した。

ドイツ1936ねん日本にっぽん防共ぼうきょう協定きょうていむすんでいたが、一方いっぽう当初とうしょまんしゅうこく承認しょうにんおこなわず、ちゅうどく合作がっさく中華民国ちゅうかみんこくともむすばれていたこともあり極東きょくとう情勢じょうせい不干渉ふかんしょう立場たちばをとっていた。しかし防共ぼうきょう協定きょうていにちどくさん国防こくぼうども協定きょうていになった翌年よくねん1938ねん2がつ承認しょうにんした[68][69])。

だい世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつにもフィンランドをはじめとする枢軸すうじくこくタイなどの日本にっぽん同盟どうめいこくクロアチアどく立国りっこくスペインなどの枢軸すうじくこく友好国ゆうこうこく、ドイツの占領せんりょうにあったデンマークなど、合計ごうけい20かこくまんしゅうこく承認しょうにんした(1939ねん当時とうじ世界せかい独立どくりつこくは60かこくほどであった)。また、イギリスフランスは「日本にっぽんのいいぶんもわかる、我々われわれ権益けんえき確保かくほできるならいいだろう」として、かげでは承認しょうにんする用意よういがあった[信頼しんらいせいよう検証けんしょう][70]

外交がいこう活動かつどう

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まんしゅうこく上記じょうきくにのうち、日本にっぽん南京なんきん国民こくみん政府せいふ常駐じょうちゅう大使たいしを、ドイツとイタリアとタイに常駐じょうちゅう公使こうしいていた[76]東京とうきょうかれていたまんしゅうこく大使館たいしかん麻布あざぶ桜田さくらだまち50(現在げんざいみなともと麻布まふ)にあり、ここは日本にっぽんこく中華民国ちゅうかみんこくとのあいだ平和へいわ条約じょうやく締結ていけつ中華民国ちゅうかみんこく大使館たいしかんとなり、にちちゅう国交こっこう正常せいじょうのち中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく大使館たいしかんわった[77][注釈ちゅうしゃく 12]

1941ねん康徳やすのり8ねん)にはハンガリーやスペインとともに防共ぼうきょう協定きょうていくわわっている。一方いっぽうにちどくさんこく同盟どうめいには加盟かめいせず、だい世界せかい大戦たいせんにおいても連合れんごうこくへの宣戦せんせん布告ふこくおこなっていない。しかしながら日本にっぽん同盟どうめい関係かんけいむす日本にっぽんぐん関東軍かんとうぐん)の駐留ちゅうりゅうゆるすほか、ぐん主導しゅどうけんにぎ位置いち日本人にっぽんじん多数たすうおくられていたうえに、軍備ぐんびおおくが日本にっぽんから提供ていきょうもしくは貸与たいよされているなど、軍事ぐんじじょう日本にっぽん一体化いったいかしており実質じっしつてきには枢軸すうじくこく一部いちぶであったとも解釈かいしゃくできる[だれによって?]

また、経済けいざい大臣だいじんかんくもかい団長だんちょうにした「まんしゅう帝国ていこく修好しゅうこう経済けいざい使節しせつだん」がイタリアやバチカン、ドイツやスペインなどの友好国ゆうこうこく訪問ほうもんし、ピウス12せいベニート・ムッソリーニアドルフ・ヒトラーらと会談かいだんしている。また1943ねん康徳やすのり10ねん)に東京とうきょう開催かいさいされただい東亜とうあ会議かいぎにもちょうけいめぐみ国務こくむ総理そうり大臣だいじん参加さんかし、タイや自由じゆうインドなど各国かっこく指導しどうしゃ会談かいだんしている[78]

外交がいこうじょう交渉こうしょう接点せってんがあった諸国しょこく

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まんしゅうこく正式せいしき外交がいこう関係かんけい樹立じゅりつされていない諸国しょこくとも事実じじつじょう外交がいこうじょう交渉こうしょう接点せってん複数ふくすう保有ほゆうしていた。奉天ほうてんとハルピンにはアメリカとイギリスの総領事館そうりょうじかん、ハルピンにはソ連それんとポーランドの総領事館そうりょうじかんなど13の総領事館そうりょうじかん設置せっちされていた。

ソビエト連邦れんぽうとはまんしゅうこく建国けんこく直後ちょくごから事実じじつじょう国交こっこうがあり、イタリアやドイツよりもながいが存在そんざいした[74]まんしゅうこくが1928ねんの「ソささえあいだハバロフスク協定きょうてい」にもとづきざいみつるソビエト領事館りょうじかん存続そんぞくみとめるとソ連それん極東きょくとうソ連それんりょうまんしゅうこく領事館りょうじかん設置せっちみとめ、ソ連それん国内こくないチタブラゴヴェシチェンスク[79]まんしゅうこく領事館りょうじかん設置せっちみとめた[34]。さらににち中立ちゅうりつ条約じょうやく締結ていけつには「まんしゅう帝国ていこく領土りょうど保全ほぜん不可侵ふかしん」を尊重そんちょうする声明せいめいはっするなど一定いってい言辞げんじあたえていたほか、きたまん鉄道てつどう讓渡じょうと協定きょうていによりきたまん鉄道てつどうあずまきよし鉄道てつどうから改称かいしょう)をまんしゅうこく政府せいふ譲渡じょうとするなど、まんしゅうこくとの事実じじつじょう外交がいこう交渉こうしょうおこなっていた。

また、まんしゅうこく正式せいしき承認しょうにんしなかったドミニカ共和国どみにかきょうわこくエストニアリトアニアなどもまんしゅうこく国書こくしょ交換こうかんおこなっていた。このほか、バチカンローマ教皇きょうこうちょう)は、教皇きょうこう使節しせつ(Apostolic delegate)をまんしゅうこく派遣はけんしていた[注釈ちゅうしゃく 13]

 
禁衛きんえいたい

まんしゅうこく国軍こくぐんは、1932ねん大同だいどう元年がんねん)4がつ15にち公布こうふ陸海りくかいぐん条例じょうれい大同だいどう元年がんねん4がつ15にち軍令ぐんれいだい1ごう)をもって成立せいりつした。まん議定ぎていしょによって日本にっぽんぐん関東軍かんとうぐん)の駐留ちゅうりゅうみとめていたまんしゅうこく自体じたい性質せいしつじょうもあり、「関東軍かんとうぐんとの連携れんけい」を前提ぜんていとし、「国内こくない治安ちあん維持いじ」「国境こっきょう周辺しゅうへん河川かせん警備けいび」をおも任務にんむとした、軍隊ぐんたいというより関東軍かんとうぐん後方こうほう支援しえん部隊ぶたいじゅん軍事ぐんじ組織そしき国境警備隊こっきょうけいびたいとしての性格せいかくつよかった。

後年こうねん太平洋戦争たいへいようせんそう激化げきかけた関東軍かんとうぐん弱体じゃくたいたい開戦かいせん可能かのうせいから実質じっしつてき国軍こくぐんすすめられたが、ソ連それんたいにち参戦さんせんさい所轄しょかつ上部じょうぶ機関きかんより離反りはんしてソ連それんがわ投降とうこう転向てんこうする部隊ぶたい続出ぞくしゅつし、関東軍かんとうぐん防衛ぼうえい戦略せんりゃく破綻はたんさせた。

経済けいざい

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まんしゅう中央ちゅうおう銀行ぎんこう

政府せいふ主導しゅどう日本にっぽん資本しほん導入どうにゅうによる重工業じゅうこうぎょう近代きんだいてき経済けいざいシステム導入どうにゅう大量たいりょう開拓かいたくみんによる農業のうぎょう開発かいはつなどの経済けいざい政策せいさく成功せいこうおさめ、急速きゅうそく発展はってんげるが、にちちゅう戦争せんそうにちはな事変じへん)による経済けいざいてき負担ふたん、そしてその影響えいきょうによるインフレーションは、まんしゅうこく体制たいせいたいするまんしゅう国民こくみん不満ふまん要因よういんともなった。政府せいふ指導しどうによる計画けいかく経済けいざい基本きほん政策せいさくで、企業きぎょうあいだ競争きょうそうはいするため、いち業界ぎょうかいにつきいちしゃ原則げんそくとした。

三井みつい財閥ざいばつ三菱みつびし財閥ざいばつ財閥ざいばつけい企業きぎょうをはじめとするおおくの日本にっぽん企業きぎょう進出しんしゅつしたほか、国交こっこう樹立じゅりつしていたドイツやイタリアの企業きぎょうであるテレフンケンボッシュおよびフィアット進出しんしゅつしていた。なお、日産にっさんコンツェルン1937ねん康徳やすのり4ねん)に持株もちかぶ会社かいしゃ日本にっぽん産業さんぎょうまんしゅう移転いてんし、まんしゅう重工業じゅうこうぎょう開発かいはつまんぎょう)を設立せつりつしている。さらに国交こっこうのないアメリカのだい企業きぎょうであるフォード・モーターゼネラルモーターズおよびクライスラーゼネラル・エレクトリックひとし、イギリスの香港ほんこん上海しゃんはい銀行ぎんこうなども進出しんしゅつし、1941ねん7がつにちえいべい関係かんけい悪化あっかするまで企業きぎょう活動かつどうつづけた。

三菱みつびしアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくアソシエイテッド石油せきゆAssociated Oil)は1931ねん合弁ごうべん三菱石油みつびしせきゆ設立せつりつ[81]三菱石油みつびしせきゆは1934ねん昭和しょうわ9ねん)2がつ資本しほんきん500まんえん大連たいれんまんしゅう石油せきゆ設立せつりつ[82]翌年よくねん1がつ大連たいれん製油せいゆしょ建設けんせつ[83]。1936ねんには、満州まんしゅう石油せきゆ渤海石油せきゆ(Pohai Petroleum Company)が共同きょうどう天津てんしんだいはなあぶら(Ta Hua Petrorium、1932ねん設立せつりつ)を買収ばいしゅうするなど事業じぎょう拡大かくだい[84][注釈ちゅうしゃく 14]、1938ねんには子会社こがいしゃとしてこうむつよし石油せきゆ(もうきょうせきゆ)も設立せつりつした。

また日本にっぽん帝国ていこくは、きた樺太からふとでの石油せきゆ試掘しくつ同様どうように、ジャライノール阜新あぶらみゃく試掘しくつおこなっていたが、そのことは当時とうじ軍事ぐんじ機密きみつであった[86]

法定ほうてい通貨つうかまんしゅう中央ちゅうおう銀行ぎんこう発行はっこうしたまんしゅうこくえんえん、yuan)で、1えん=10かく=100ふん=1000りんだった。当時とうじ中華民国ちゅうかみんこく現在げんざい中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく通貨つうか単位たんいえんもと、yuan)でおなじだが、中華民国ちゅうかみんこく通貨つうかが「ほうぬさ」とばれたのにたいし、おなじくほうぬさ意味いみをもつまんしゅうこく通貨つうかは「くにぬさ」と表記ひょうきして区別くべつした。中華民国ちゅうかみんこくぎんえんほうぬさおよ現在げんざい人民元じんみんげ台湾たいわんもと香港ほんこんもと)と同様どうよう漢字かんじで「もと」と表記ひょうきしたが、まんしゅう国内こくない貨幣かへいほうでは、日本にっぽんこく同様どうように「えん」(えん)の表記ひょうき採用さいようされた。

貨幣かへいほうきょうれいだい25ごう)の公布こうふは、まんしゅうこく成立せいりつした同年どうねん(1932ねん)6がつ11にちである。 きむ解禁かいきん世界せかいてきながれとなるなか日本にっぽんではかね解禁かいきんおこなわれていたが、通貨つうか中華民国ちゅうかみんこくおなじく銀本位ぎんほんいせいでスタートし、げん大洋たいよう(袁世凱弗、まごぶんどるばれたぎんもと通貨つうか)と等価とうかとされたが、1935ねん11月に日本円にほんえん基準きじゅんとする管理かんり通貨つうか制度せいど移行いこうした。このほか主要しゅよう都市としまんてつ付属ふぞく中心ちゅうしんに、関東かんとうしゅう法定ほうてい通貨つうかだった朝鮮ちょうせん銀行ぎんこう発行はっこう朝鮮ちょうせんけん使用しようされていたが、1935ねん昭和しょうわ10ねん)11月4にち日本にっぽん政府せいふが「まんしゅうこくくにぬさ価値かち安定あんてい及幣せい統一とういつかんするけん」を閣議かくぎ決定けっていしたことにより、まんしゅう国内こくない流通りゅうつうしていた日本にっぽんがわ銀行ぎんこうけん回収かいしゅうされ、くにぬさ統一とういつされた。

まんしゅうこく崩壊ほうかいソ連それんぐん占領せんりょう国民こくみん政府せいふ統治とうちくにぬさつづ使用しようされたが、1947ねん中華民国ちゅうかみんこく中央ちゅうおう銀行ぎんこう発行はっこうした東北とうほくきゅうしょう流通りゅうつうけん東北とうほく流通りゅうつうけん)に交換こうかんされ、流通りゅうつう停止ていしとなった。

まんしゅうこく建国けんこく以前いぜん貨幣かへい制度せいどは、きわめて混乱こんらんしていた。すなわちどう本位ほんい貨(せいぜにどうもと)および紙幣しへいかんじょうどうもとひょう)、銀本位ぎんほんい貨(大洋たいようぜにしょうようぜにぎんじょう)および紙幣しへい大洋たいようひょうしょうようひょうぎんわたしじょう)があり、うち不換紙幣ふかんしへいすくなくなかった。ほかに外国がいこく貨幣かへいであるえんぎんぼくぎん日本にっぽん補助ほじょ貨、日本にっぽん銀行ぎんこうけんかねひょう朝鮮ちょうせん銀行ぎんこうけん)、鈔票(横浜よこはま正金しょうきん銀行ぎんこう発行はっこうえんぎん基礎きそとした兌換だかんけん)などが流通りゅうつうし、購買こうばいりょく一定いっていせず、流通りゅうつう範囲はんい一様いちようでなかった。まんしゅうこく建国けんこく直後ちょくごまんしゅう中央ちゅうおう銀行ぎんこう設立せつりつされるとともにきゅう紙幣しへい回収かいしゅう整理せいり開始かいしされ、1935ねん康徳やすのり2ねん)8がつまつまでにほとんどすべてが回収かいしゅうされた。

こうして貨幣かへいくにぬさ統一とういつされ、鈔票の流通りゅうつう関東かんとうしゅうのみとなり、そのがくちいさく、かねひょうは1935ねん康徳やすのり2ねん)11月4にちまんしゅうこくぬさたい金円きんえんとう維持いじかんするまん両国りょうこく政府せいふによる声明せいめい以来いらいかねひょうからくにぬさえられることがえて、まんてつ関東かんとうしゅうない郵便ゆうびんきょくおよびまんしゅうこく関係かんけいしょ会社かいしゃくにぬさはらい実施じっしとあいまってくにぬさ使用しよう範囲はんいひろがった。くにぬさえん単位たんいで、純銀じゅんぎん 23.91g の内容ないようゆうするとさだめられたが、本位ほんい貨幣かへいつくられないためにいわば銀塊ぎんかい本位ほんいで、兌換だかん規定きていいために変則へんそく制度せいどであった。

貨幣かへいひゃくえんじゅうえんえんいちえんかく紙幣しへい一角いっかくふんいちふんりん貨(硬貨こうか)が発行はっこうされ、紙幣しへい制限せいげん法貨ほうかとして通用つうようされた。紙幣しへいまんしゅう中央ちゅうおう銀行ぎんこう発行はっこうし、正貨せいか準備じゅんびとして発行はっこうがくたいして3わり以上いじょう金銀きんぎんかたまり確実かくじつ外国がいこく通貨つうか外国がいこく銀行ぎんこうたいする金銀きんぎん預金よきんを、保証ほしょう準備じゅんびとして公債こうさい証書しょうしょ政府せいふ発行はっこうまたは保証ほしょうした手形てがた、その確実かくじつ証券しょうけんまたは商業しょうぎょう手形てがた保有ほゆうすべきことがめいじられた。のち貨の代用だいようとして一角いっかくぶん小額しょうがく紙幣しへい発行はっこうされた。

やがてぐん軍費ぐんぴ要求ようきゅうはもとより私用しよう同然どうぜん物資ぶっし調達ちょうたつ安易あんいにこれにたよろうとする日本人にっぽんじん官吏かんりそう堕落だらくとうから、まんしゅう中央ちゅうおう銀行ぎんこう実体じったいとしての正貨せいか準備じゅんび関係かんけいなく様々さまざま便法べんぽう駆使くしして紙幣しへい濫発らんぱつ、インフレを急速きゅうそくさせ、住民じゅうみん困窮こんきゅうさせていくことになる[39][87]。もともと経済けいざいりょくでは中国ちゅうごく日本にっぽんより上回うわまわっているとられていたこと、中国ちゅうごくには英国えいこくからの経済けいざい支援しえんがあったこともあるが、にちちゅう戦争せんそうちゅう同様どうよう現象げんしょう中国ちゅうごく本土ほんどにおいてもこされ、これは日本にっぽんぐんっても日本にっぽんがわほうぬさ軍票ぐんぴょう値打ねうちはがらないといわれる事態じたい一因いちいんとなっている。

郵政ゆうせい事業じぎょう

編集へんしゅう
 
皇帝こうてい溥儀ふぎえがく15ふん普通ふつう切手きって(1934ねん11月発行はっこう
 
各種かくしゅねん切手きって葉書はがき

中華ちゅうか郵政ゆうせいおこなっていた郵便ゆうびん事業じぎょうを1932ねん7がつ26にち接収せっしゅうし、同日どうじつまんしゅうこく郵政ゆうせい」(帝政ていせい移行いこうは「まんしゅう帝国ていこく郵政ゆうせい」)による郵政ゆうせい事業じぎょう開始かいしされた。中華ちゅうか郵政ゆうせいまんしゅうこく発行はっこうした切手きって無効むこうとしたため、1935ねんから1937ねんまでの期間きかん中国ちゅうごく本土ほんどとの郵便ゆうびんぶつ添付てんぷするために国名こくめい表記ひょうきのぞき「郵政ゆうせい表記ひょうきのみとした「まんはなどおり郵切しゅ」が発行はっこうされていた。

どう郵政ゆうせいまんしゅうこく崩壊ほうかいまでに発行はっこうした切手きって種類しゅるいは159をかぞえ、記念きねん切手きって[88]おお発行はっこうした。日本にっぽんとの政治せいじてきつながりを宣伝せんでんする切手きっておおく、1935ねんの「皇帝こうてい訪日ほうにちねん」や1942ねんの「まんしゅうこく建国けんこくじゅう周年しゅうねんねん」・「あたらしよしみ坡(シンガポール)陥落かんらくねん」・「だい東亜とうあ戦争せんそういち周年しゅうねんねん」などの記念きねん切手きって日本にっぽんおなじテーマで切手きって発行はっこうしていた。

1944ねんの「まん共同きょうどうたい宣伝せんでん」のように、中国ちゅうごくほか日本語にほんご表記ひょうきした切手きってもあった。郵便ゆうびん貯金ちょきん事業じぎょうおこなっており、1941ねんには「貯金ちょきん切手きって」も発行はっこうしている。

まんしゅうこく最後さいご発行はっこうとなった郵便ゆうびん切手きっては、1945ねん5がつ2にち発行はっこうされたまんしゅうこく皇帝こうていくんみん詔書しょうしょ10周年しゅうねん記念きねんする切手きってである。予定よていではその戦闘せんとう3購入こうにゅうするための寄附きふきんづけ切手きって発行はっこう計画けいかくされていたが、まんしゅうこく崩壊ほうかいのために発行はっこう中止ちゅうしとなり大半たいはん廃棄はいき処分しょぶんになった。だがだい世界せかい大戦たいせんまんしゅう進駐しんちゅうしたソ連それんぐんにより一部いちぶ流出りゅうしゅつし、市場いちば流通りゅうつうしている。

アヘン栽培さいばい

編集へんしゅう

日本にっぽん内地ないちおよ朝鮮ちょうせんのぞいてアヘン阿片あへん専売せんばいせいややきん政策せいさく採用さいようしており、まんしゅう地域ちいきでもアヘン栽培さいばい実施じっしされていた。名目めいもくじょうモルヒネ原料げんりょうとしての薬事やくじ処方しょほうかた原料げんりょう栽培さいばいだが、これらアヘン栽培さいばい馬賊ばぞく資金しきんげん関東かんとうぐん工作こうさく資金しきん流用りゅうようされ、上海しゃんはいなどでりさばかれた。

1932ねん大同だいどう元年がんねん)に阿片あへんほう大同だいどう元年がんねん11がつ30にちきょうれいだい111ごう)が制定せいていされ、アヘンの吸食が禁止きんしされた。ただし未成年みせいねんしゃ以外いがいのアヘン中毒ちゅうどくしゃ治療ちりょうじょう必要ひつようがある場合ばあいは、管轄かんかつ警察けいさつ署長しょちょう発給はっきゅうした証明しょうめいしょ携帯けいたいしたうえ政府せいふ許可きょかけた阿片あへん小売こうりじんから購入こうにゅうすることができた。

交通こうつう通信つうしん

編集へんしゅう

鉄道てつどう

編集へんしゅう
 
まんてつのシンボル、特急とっきゅう「あじあ」
 
大連たいれんまんてつそう
 
まんてつ列車れっしゃ

日本にっぽん半官半民はんかんはんみん国策こくさく会社かいしゃみなみまんしゅう鉄道てつどうまんてつ)は、ロシアが敷設ふせつしたあずまきよし鉄道てつどうみなみまんしゅう支線しせんにち戦争せんそうにおいて日本にっぽん獲得かくとくして設立せつりつされたが、まんしゅうこく成立せいりつとくまんしゅうこく経済けいざい発展はってんおおきな役割やくわりたした。同社どうしゃまんしゅう国内こくないにおける鉄道てつどう経営けいえい中心ちゅうしんに、フラッグ・キャリアまんしゅう航空こうくう炭鉱たんこう開発かいはつ製鉄せいてつぎょう港湾こうわん農林のうりん牧畜ぼくちくくわえてホテル、図書館としょかん学校がっこうなどのインフラストラクチャー整備せいびおこなった。

しんきょう大連たいれん旅順りょじゅんあいだ本線ほんせんとして各地かくち支線しせんばしていた。「ちょう特急とっきゅう」ともばれたりゅう線形せんけいのパシナがた蒸気じょうき機関きかんしゃ専用せんよう豪華ごうか客車きゃくしゃ構成こうせいされる特急とっきゅう列車れっしゃあじあ」の運行うんこうなど、おも日本にっぽんから導入どうにゅうされたみなみまんしゅう鉄道てつどう車両しゃりょう技術ぎじゅつ世界せかいてきてもたかいレベルにあった。

一方いっぽうまんしゅうこく成立せいりつまえからまんてつ対抗たいこうして中国ちゅうごく資本しほん鉄道てつどう会社かいしゃまんてつ競合きょうごうする鉄道てつどう路線ろせん建設けんせつすすめていた。これらの鉄道てつどう会社かいしゃは、まんしゅうこく成立せいりつ公布こうふされた「鉄道てつどうほう」にもとづいて国有こくゆうされ、まんしゅう国有こくゆう鉄道てつどうとなった。しかしまんしゅう国鉄こくてつによる独自どくじ鉄道てつどう運営うんえいおこなわれず、即日そくじつまんてつ運営うんえい委託いたくされて、実際じっさいにはまんしゅう国内こくないのほぼすべての鉄道てつどう運営うんえいまんてつになうことになった。新規しんき建設けんせつされた鉄道てつどう路線ろせん1935ねんソビエト連邦れんぽうとの交渉こうしょうすえまんしゅうこく売却ばいきゃくされたきたまん鉄路てつろあずまきよし鉄道てつどう)など私鉄してつ接収せっしゅう買収ばいしゅう路線ろせんすべまんしゅう国鉄こくてつ編入へんにゅうされ、まんてつ委託いたく経営けいえいおこなっていた。とく新規しんき路線ろせん建設けんせつからまんてつ委託いたくと、「国鉄こくてつ」とはばかりですべてがまんてつにまかせきりの状況じょうきょうであった。このほかにもまんてつ朝鮮半島ちょうせんはんとう朝鮮ちょうせん総督そうとく鉄道てつどうのうち、国境こっきょうちか路線ろせん経営けいえい委託いたくされている。車両しゃりょうなどは共通きょうつうのものがひろ使つかわれていたが、運賃うんちん計算けいさんなどではまんてつ路線ろせん社線しゃせん)とまんしゅう国鉄こくてつ路線ろせんくにせん)に区別くべつもうけられていた。しかしこれものち旅客りょかく規程きていじょう区別くべつがなくなり、事実じじつじょう一体化いったいかした。

まんてつたんなる鉄道てつどう会社かいしゃとしての存在そんざいにとどまらず、沿線えんせん各駅かくえき一帯いったい広大こうだいみなみまんしゅう鉄道てつどう附属ふぞくまんてつ附属ふぞく)をかかえていた。まんてつ附属ふぞくではまんしゅうこく司法しほうけん警察けいさつけん徴税ちょうぜいけん行政ぎょうせいけんおよばず、まんてつがこれらの行政ぎょうせいおこなっていた。首都しゅとしんきょう特別とくべつ現在げんざい長春ちょうしゅん)や奉天ほうてん現在げんざい瀋陽しんよう)など主要しゅよう都市とししん市街地しがいち大半たいはんまんてつ附属ふぞくだった。都市とし在住ざいじゅう日本人にっぽんじんおおくはまんてつ附属ふぞくみ、日本にっぽん企業きぎょうまんてつ附属ふぞく拠点きょてんとして治外法権ちがいほうけん特権とっけん享受きょうじゅつづけ、まんしゅうこく自立じりつ阻害そがいする結果けっかとなったため、1937ねんまんてつ附属ふぞく行政ぎょうせいけんまんしゅうこく返還へんかんされた。

まんてつ国鉄こくてつほかにも、領内りょうないにはちいさな私鉄してつがいくつも存在そんざいした。これらのなかには国有こくゆうされ、改修かいしゅうされてまんしゅう国鉄こくてつ路線ろせんとなったものや、まんしゅう国鉄こくてつ並行へいこうする路線ろせん敷設ふせつしたために補償ほしょう買収ばいしゅうされてから廃止はいしになったものもある。以下いかまんしゅうこく存在そんざいした時期じき一貫いっかんして私鉄してつであったものをげる(※しるし補償ほしょう買収ばいしゅう廃止はいしになった路線ろせん)。

1940ねん前後ぜんごから、まんてつ請負うけおいかたち積極せっきょくてきにこれら私鉄してつ建設けんせつたずさわるようになり、戦争せんそう末期まっきころには相当そうとうすう路線ろせんまんてつによって建設けんせつされるようになっていた。ただしそのおおくが竣工しゅんこうするまえ竣工しゅんこうしても試運転しうんてんをしただけの状態じょうたいまんしゅうこく崩壊ほうかいって建設けんせつ中止ちゅうしとなり、未成みせいせんになっている。

このほか首都しゅとしんきょうはじめとして奉天ほうてん哈爾はまなど主要しゅよう都市とし市内しないには路面ろめん電車でんしゃ敷設ふせつされていた。しんきょうおよ奉天ほうてんでは地下鉄ちかてつ建設けんせつ計画けいかくもあったが、実現じつげんしなかった[89][90]

航空こうくう

編集へんしゅう
 
まんしゅう航空こうくう新型しんがたユンカース86)の就航しゅうこういわ荷札にふだ

1931ねんみなみまんしゅう鉄道てつどう系列けいれつ会社かいしゃとして設立せつりつされたフラッグ・キャリアまんしゅう航空こうくうが、しんきょう飛行場ひこうじょう拠点きょてんまんしゅう国内こくない日本にっぽん朝鮮半島ちょうせんはんとうふくむ)をむす定期ていき路線ろせん運航うんこうしていた。

中島なかじまAT-2ユンカースJu 86ロッキード L-14 スーパーエレクトラなどの外国がいこくせい旅客機りょかくきほかにも、自社じしゃせいまんしゅう航空こうくうMT-1や、ライセンス生産せいさんしたフォッカー スーパーユニバーサルなどでまんしゅう国内こくないしゅ都市としむすんだほかしんきょうベルリンむすちょう長距離ちょうきょり路線ろせん運航うんこうすることを目的もくてきとした系列けいれつ会社かいしゃである国際こくさい航空こうくう設立せつりつした。

まんしゅう航空こうくうたんなる営利えいり目的もくてき民間みんかん航空こうくう会社かいしゃではなく、民間みんかん旅客りょかく貨物かもつ定期ていき輸送ゆそう軍事ぐんじ定期ていき輸送ゆそう郵便ゆうびん輸送ゆそうチャちゃ便びん運行うんこう測量そくりょう調査ちょうさ航空機こうくうき整備せいびから航空機こうくうき製造せいぞうまで広範囲こうはんい業務ぎょうむおこなった。

通信つうしん放送ほうそう

編集へんしゅう
 
武装ぶそう地帯ちたい」「天国てんごく地獄じごく当時とうじプロパガンダ目的もくてき制作せいさくされたもの

電話でんわファックスなどの通信つうしん業務ぎょうむラジオ放送ほうそう業務ぎょうむも、1933ねん設立せつりつされたまんしゅう電信でんしん電話でんわ(MTT)に統合とうごうされた。放送ほうそうきょくはハルビン、しんきょう瀋陽しんようなどにかれており[91]ロシアじん中心ちゅうしんつくられたハルビン交響こうきょう楽団がくだんのち日本人にっぽんじん中心ちゅうしんつくられたしんきょう交響こうきょう楽団がくだんによる音楽おんがく演奏えんそう毎週まいしゅうこれら放送ほうそうきょくだけでなく、日本にっぽん租借そしゃくにある大連たいれん放送ほうそうきょくへも中継ちゅうけいされた。聴取ちょうしゅしゃから聴取ちょうしゅりょう徴収ちょうしゅうしていたが、内地ないち先駆さきがけて広告こうこくあつかっており、また海外かいがい外国がいこくによる放送ほうそうおこなわれていた[92]

まん」としょうされた標準ひょうじゅん中国ちゅうごく日本語にほんご事実じじつじょう公用こうようとして使用しようされた。ぐん官公庁かんこうちょうにおいては日本語にほんごだいいち公用こうようであり、ほとんどの教育きょういく機関きかん日本語にほんご教授きょうじゅ言語げんごとされた。モンゴルロシアなどを母語ぼごとする住民じゅうみん存在そんざいした。また、簡易かんいてき日本語にほんごとして協和きょうわもあった。1938ねん1がつ以降いこう中国ちゅうごくまん)、日本語にほんご、モンゴルこうむ古語こご)が「国語こくご」とさだめられ授業じゅぎょうおしえられた[93]

大本おおもと教祖きょうそである出口いでぐち王仁三郎おにさぶろう布教ふきょう活動かつどう一環いっかんとしてエスペラント普及ふきゅう活動かつどうおこなっており、まんしゅうこく建国けんこくさいし、信奉しんぽうしゃである石原いしはら莞爾かんじ協力きょうりょくてエスペラントを普及ふきゅうさせる計画けいかくがあったが実現じつげんしなかった。

教育きょういく

編集へんしゅう
 
建国けんこく大学だいがく
 
大同だいどう学院がくいん

まんしゅうこく教育きょういく根本こんぽんは、儒教じゅきょうであった[94]教育きょういく行政ぎょうせいは、中央ちゅうおう教育きょういく行政ぎょうせい機関きかん文教ぶんきょうであり、文教ぶんきょう大臣だいじん教育きょういく宗教しゅうきょうれいぞくおよび国民こくみん思想しそうかんする事項じこう掌理しょうりした。大臣だいじんしたには次長じちょうかれ、さらに部内ぶない総務そうむ学務がくむおよびれいきょうの3けられ、それぞれつかさちょうかれた。総務そうむ秘書ひしょ文書ぶんしょ庶務しょむおよび調査ちょうさの4に、学務がくむ総務そうむ普通ふつう教育きょういくおよび専門せんもん教育きょういくの3に、れいきょう社会しゃかい教育きょういくおよび宗教しゅうきょうの2けられ、それぞれ教育きょういく行政ぎょうせいてのひらした。視学しがく機関きかんは、とくがくかんかれた。地方ちほう教育きょういく行政ぎょうせいは、各省かくしょうではしょうおおやけしょ教育庁きょういくちょうが、特別とくべつでは市政しせいおおやけしょ教育きょういくが、かくけんではけんおおやけしょ教育きょういくきょくが、それぞれ管内かんない教育きょういく行政ぎょうせいつかさどった。

最高さいこう学府がくふとして建国けんこく大学だいがくほか国立こくりつ大学だいがく大同だいどう学院がくいんハルピン学院がくいんなどが設置せっちされた。

小学校しょうがっこうは、修業しゅうぎょう年限ねんげんは6ねんで、初級しょきゅう小学校しょうがっこう4ねん+高級こうきゅう小学校しょうがっこう2ねんとするのが本体ほんたいであったが、初級しょきゅう小学校しょうがっこうのみをもうけることもみとめられた。教育きょういく科目かもくは、初級しょきゅう小学校しょうがっこう修身しゅうしん国語こくご算術さんじゅつ手工しゅこう図画ずが体操たいそうおよび唱歌しょうかであり、高等こうとう小学校しょうがっこうは、初級しょきゅう小学校しょうがっこうのそれのほかに歴史れきし地理ちりおよび自然しぜんの3科目かもくくわえられ、その地方ちほうとくじょうによっては日本語にほんごをもくわえられた。のちに、初級しょきゅう小学校しょうがっこう国民こくみん学校がっこう高級こうきゅう小学校しょうがっこう国民こくみんゆうきゅう学校がっこうにそれぞれ改称かいしょうされた。教科書きょうかしょは、建国けんこく以前いぜんもちいられていたさん民主みんしゅよし教科書きょうかしょわってあらたに国定こくてい教科書きょうかしょ編纂へんさんされた。僻地へきちでは、寺子屋てらこやふうの「書房しょぼう」がなおも初等しょとう教育きょういく機関きかんとしてのこされていた。

また、中国人ちゅうごくじん子弟してい対象たいしょうとした「おおやけ学堂がくどう」という小学校しょうがっこうが、旅順りょじゅん大連たいれんなど満州まんしゅう各地かくち設置せっちされた[95]おおやけ学堂がくどう日本にっぽん植民しょくみん学校がっこうなか中国人ちゅうごくじん外国がいこくじんとしてあつかった唯一ゆいいつ学校がっこうであり、関東かんとうしゅうでは1903ねんから、満州まんしゅう附属ふぞくではまんてつが1909ねんから直接ちょくせつ運営うんえいしたため、それぞれ独自どくじ教則きょうそくっていた[95]まんてつにおける1923ねん以降いこう教育きょういく課程かていは、初等しょとう4ねん高等こうとう2ねんで、まん6さい以上いじょう中国人ちゅうごくじん入学にゅうがく資格しかくがあり、科目かもく日本語にほんご中心ちゅうしんだった[95]実際じっさいにはおおやけがくどうまな日本人にっぽんじん生徒せいとも、小学校しょうがっこうまな中国人ちゅうごくじん生徒せいともあり、運動会うんどうかいなどのスポーツ大会たいかいでは合同ごうどうきそった[96]教員きょういん内地ないち師範しはん学校がっこう卒業生そつぎょうせい小学校しょうがっこう訓導くんどう経験けいけんしゃ派遣はけんされたほか、現地げんち採用さいよう中国人ちゅうごくじん助教諭じょきょうゆがいた[95]教員きょういんには佐藤さとう慎一郎しんいちろう菊池きくち秋雄あきお渡部わたなべきよしもとなど、生徒せいとには爵青うたぐおそなどがいる。

中学校ちゅうがっこうは、初級しょきゅうおよび高級こうきゅうの2段階だんかいで、修業しゅうぎょう年限ねんげんはそれぞれ3ねんで、併置へいちされるのが原則げんそくで、初級しょきゅう中等ちゅうとうには小学校しょうがっこう修了しゅうりょうしゃ入学にゅうがくさせた。教科きょうか初級しょきゅう国文こくぶん外国がいこく歴史れきし地理ちり自然しぜん生理せいり衛生えいせい図画ずが音楽おんがく体育たいいく工芸こうげい農業のうぎょう工業こうぎょう家事かじの1)および職業しょくぎょう科目かもくで、一定いってい範囲はんい選択せんたく科目かもく制度せいどみとめられ、高級こうきゅう普通ふつう師範しはんのう工科こうか商科しょうか家事かじそのかれ、その教育きょういく職業しょくぎょうされていた。

師範しはん教育きょういくは、小学校しょうがっこう教員きょういんは、しょうりつ師範しはん学校がっこうおよび高級こうきゅう中学ちゅうがく師範しはんで、養成ようせいされた。しょうりつ師範しはん学校がっこう修業しゅうぎょう年限ねんげん3ねん初級しょきゅう中学校ちゅうがっこう卒業そつぎょうしゃ入学にゅうがくさせた。普通ふつう科目かもくのほかに教育きょういく心理しんりそのし、最上級さいじょうきゅう生徒せいと付属ふぞく小学校しょうがっこうその小学校しょうがっこう教生きょうせいとして教育きょういく実習じっしゅうおこなった[注釈ちゅうしゃく 15]。ほか実業じつぎょう教育きょういく機関きかんとして職業しょくぎょう学校がっこうがあった。

ただし、日本人にっぽんじんのほとんどは、まんてつ管轄かんかつする付属ふぞく日本人にっぽんじん学校がっこうかよっていた。1937ねん治外法権ちがいほうけん撤廃てっぱいにより付属ふぞく消滅しょうめつしたのちも、教育きょういく神社じんじゃ兵事へいじかんする事項じこう日本にっぽん管轄かんかつのこされ、日本人にっぽんじんかよ学校がっこうちゅう満全まんぜんけん大使たいし管轄かんかつし、日本にっぽん国内こくないじゅんじて運営うんえいされた。この方針ほうしん日本人にっぽんじん開拓かいたくだん学校がっこうにも適用てきようされ、日本人にっぽんじん学校がっこうまんしゅうこく教育きょういく制度せいどそとかれていた。[97]

 
まんしゅう映画えいが協会きょうかいのスタジオ

1928ねんみなみまんしゅう鉄道てつどう広報こうほう広報こうほうがかり映画えいがはん通称つうしょうまんてつ映画えいが」をもうけ、広報こうほうプロパガンダよう記録きろく映画えいが製作せいさくしていた。その1937ねん設立せつりつされた国策こくさく映画えいが会社かいしゃである「まんしゅう映画えいが協会きょうかい」が映画えいが制作せいさく配給はいきゅう映写えいしゃ業務ぎょうむもおこない各地かくち映画えいがかん設立せつりつ巡回じゅんかい映写えいしゃなどもおこなった。

かわ水泡すいほう当時とうじ人気にんき漫画まんがのらくろ」の単行本たんこうぼんのうち、1937ねん昭和しょうわ12ねん)12月15にち発行はっこうの「のらくろ探検たんけんたい」では、猛犬もうけん聯隊れんたい除隊じょたいしたのらくろが山羊やぎぶたともだって石炭せきたん鉱山こうざん発見はっけんするというすじで、興亜こうあのため、大陸たいりく建設けんせつゆめのため、無限むげんうずもれる大陸たいりくたからを、滅私めっし興亜こうあ精神せいしんおこなうというはなし展開てんかいされた。

じょなかで、「おたがひに自分じぶん長所ちょうしょをもって、民族みんぞくたすってく、民族みんぞく協和きょうわというなかのよいやりかたで、東洋とうよう東洋とうようじんのためにというかんがかたがみんな(のらくろがたび途中とちゅう出会であって仲間なかまになった朝鮮ちょうせんまれのいぬシナまれのぶたまんしゅうまれのひつじこうむふるまれの山羊やぎとう登場とうじょう人物じんぶつたち)のしんなかにゑがかれました。」とあり、当時とうじ軍部ぐんぶ国民こくみん説明せつめいしていたところの「興亜こうあ」と「民族みんぞく協和きょうわ精神せいしん」をることができる。

しんきょう藝文社げいぶんしゃが1942ねん1がつから、まんしゅうこくはつ唯一ゆいいつ日本語にほんご総合そうごう文化ぶんか雑誌ざっし藝文げいぶん」を発行はっこうした。1943ねん11月、「まんしゅう公論こうろん」に改題かいだい

服装ふくそう

編集へんしゅう
哈爾はまのキタイスカヤどおり。ロシアじん店舗てんぽまえ中国ちゅうごくふく洋服ようふく和服わふく人々ひとびと闊歩かっぽする。
協和きょうわふく甘粕あまかす正彦まさひこくびからかけた儀礼ぎれいしょうひだりむねめている。
とく任官にんかん日本にっぽんおや任官にんかん相当そうとう)の文官ぶんかんだい礼服れいふく着用ちゃくようした馮涵きよし

民族みんぞく国家こっかまんしゅうこくでは、かく民族みんぞく衣装いしょう混在こんざいしていた。初代しょだい国務こくむいん総理そうりていたかしは、溥儀ふぎ皇帝こうてい即位そくい式典しきてんはじめ、公私こうしともに生涯しょうがい中国ちゅうごくふくとおしたといわれる[だれによって?]

一方いっぽう後任こうにんちょうけいめぐみは、「協和きょうわかいふく」とばれるまんしゅうこく協和きょうわかい公式こうしきふく着用ちゃくようすることがおおかった。国民こくみんふくたデザインといろだが、国民こくみんふくよりさき考案こうあんされた。階層かいそうによって材質ざいしつ・デザインにちがいがあったとされるが、うえ国務こくむ総理そうり大臣だいじんからした一般いっぱん学生がくせいまで、民族みんぞくわずひろ着用ちゃくようされ、石原いしはら莞爾かんじ甘粕あまかす正彦まさひこのような日本人にっぽんじん軍人ぐんじん官僚かんりょう有力ゆうりょくしゃ着用ちゃくようした。協和きょうわふくには、かざりいとぐちのようなきんモールと、まんしゅうこく国旗こっきおなしょくをした五色ごしきぼうからなる儀礼ぎれいしょう付属ふぞくした。ループタイのようにくびからかけてたまめでめ、ひだりむねぼうをかけるかたち佩用はいようする。慶事けいじにはぼうあかしろ弔事とむらいことにはくろしろ部分ぶぶん強調きょうちょうすることで対応たいおうした[98]

なお、宮廷きゅうてい行事ぎょうじとうでは、日本にっぽんだい礼服れいふく酷似こくじしたものがもちいられた。

1927ねんには同志社大学どうししゃだいがくラグビー遠征えんせいて8試合しあいおこなった[99]。1928ねん1がつ満州まんしゅう代表だいひょうによる日本にっぽん遠征えんせいおこなわれ明治大学めいじだいがくなどと対戦たいせんし、同年どうねんには満州まんしゅうラグビー協会きょうかい誕生たんじょうし、日本にっぽん西部せいぶラグビー協会きょうかい西日本にしにほん担当たんとう現在げんざい関西かんさいラグビーフットボール協会きょうかい九州きゅうしゅうラグビーフットボール協会きょうかい)の支部しぶとなった[100]

1932ねんまんしゅうこく体育たいいく協会きょうかい設立せつりつされた。まんしゅうこく国技こくぎサッカーであり[101]まんしゅうこく蹴球しゅうきゅう協会きょうかいサッカーまんしゅうこく代表だいひょうチームも結成けっせいされている。野球やきゅうでも、日本にっぽん都市とし対抗たいこう野球やきゅう大会たいかい参加さんかしたチームがあり、日本にっぽんプロ野球やきゅうはつ海外かいがい公式こうしきせんとして、1940ねん夏季かきリーグせん丸々まるまる使つかってまんしゅうリーグせんおこなわれている。

建国けんこく当初とうしょまんしゅうこくではオリンピックへの参加さんか計画けいかくされており、1932ねん5がつ21にちまんしゅうこく体育たいいく協会きょうかいロサンゼルスオリンピック(1932ねん7がつ開催かいさい)への選手せんしゅ派遣はけんどうオリンピックの組織そしき委員いいんかいたいして正式せいしきもうんでいるが、結局けっきょく参加さんか出来できなかった[102]。ちなみに、派遣はけんする選手せんしゅとしては陸上りくじょう競技きょうぎ短距離たんきょりはしりゅう長春ちょうしゅんや、中距離ちゅうきょりはしの于希渭(いい)などがげられていた(ただしりゅうまんしゅうこく代表だいひょうとしての出場しゅつじょう拒否きょひし、中華民国ちゅうかみんこく代表だいひょうとして出場しゅつじょうしている)[103][注釈ちゅうしゃく 16]

1936ねん開催かいさいされたベルリンオリンピックへの参加さんか見送みおくられたが、1940ねん開催かいさいされる予定よていであった東京とうきょうオリンピックには選手せんしゅだんおく予定よていであった。しかし、にちちゅう戦争せんそう激化げきかなどをけてどう大会たいかい開催かいさい返上へんじょうされたため、オリンピックに参加さんかすることはできなかった。なおその実質じっしつてき代替だいたい大会たいかいである東亜とうあ競技きょうぎ大会たいかい開催かいさいされている。

音楽おんがく

編集へんしゅう

まんしゅうこくへはおおくの日本人にっぽんじん音楽家おんがくかわたり、西洋せいよう音楽おんがく啓蒙けいもう活動かつどうおこなった。まんしゅうこく建国けんこく以前いぜんよりこのにはしろけいロシアじん中心ちゅうしんとしたハルビン交響こうきょう楽団がくだん存在そんざいしたが、これにくわえて日本人にっぽんじん中心ちゅうしんしんきょう交響こうきょう楽団がくだん結成けっせいされ、両者りょうしゃ関東軍かんとうぐん後援こうえんけてコンサートや放送ほうそうのための演奏えんそうおこなった。1939ねんには「しんまんしゅう音楽おんがく確立かくりつおよ近代きんだい音楽おんがく普及ふきゅう」を目的もくてきとしてしんきょう音楽おんがくいん設立せつりつされた。

園山そのやま民平みんぺい音楽おんがく教育きょういくまんしゅう民謡みんよう収集しゅうしゅう研究けんきゅう尽力じんりょくしたほかまんしゅうこく国歌こっか作曲さっきょくした。その指揮しきしゃ朝比奈あさひなたかし作曲さっきょく太田おおたただし大木おおき正夫まさお深井ふかい史郎しろう伊福部いふくべあきらかみ恭輔きょうすけなどの音楽家おんがくか日本にっぽんから短期間たんきかんまねかれ、たとえば太田おおたは「牡丹ぼたんこう組曲くみきょく」、大木たいぼく交響こうきょうこうむいにしえ」、深井ふかい交響こうきょう組曲くみきょく大陸たいりくうた」、伊福部いふくべおと寒帯かんたいりん」、かみ交響こうきょう「ホロンバイル」を作曲さっきょくした。

ちぇうけたまわは1940年代ねんだい当時とうじ世界せかいてき有名ゆうめい舞踏ぶとうであるが、当時とうじまんしゅう、および中国ちゅうごく各地かくち巡業じゅんぎょうしていた[104]

祝祭日しゅくさいじつ

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まんしゅうこく国花こっかは「らん[105][注釈ちゅうしゃく 17]とされることがおおいが、「らん」は「皇室こうしつはな(ローヤル・フラワー)」であり、日本にっぽんにおけるきく相当そうとうするものであった。いわゆる「国花こっか(ナショナル・フラワー)」は高粱こうりゃんであり[107]、1933(大同だいどう2)ねん4がつ決定けっていされたとの記録きろくがある[108]

現在げんざい

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まんしゅうこく消滅しょうめつは、まんしゅうぞくかずある周辺しゅうへん少数しょうすう民族みんぞくひとつと位置付いちづけられ、「まんしゅう」という言葉ことば自体じたい中華民国ちゅうかみんこく中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくりょう国内こくない排除はいじょされている(「まんしゅうぞく」を「まんぞく」とび、清朝せいちょうの「まんしゅうはちはた」は「まんきよしはちはた」とびかえるなど)。例外れいがいてき地名ちめいとしてまんしゅうさとがそのをとどめている程度ていどである。また、「中国共産党ちゅうごくきょうさんとうまんしゅうしょう委員いいんかい」のように歴史れきしてき事柄ことがら記述きじゅつする場合ばあいまんしゅうという言葉ことば変更へんこうされずにのこされている。今日きょうまんしゅうこく残像ざんぞう歴史れきし資料しりょう文学ぶんがく一部いちぶ残存ざんそん建築けんちくぶつなどのなかにのみ存在そんざいする。

まんしゅうこくあつかった作品さくひん

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Category:まんしゅうこく舞台ぶたいとした作品さくひん」を参照さんしょう

まんしゅうこくまれの人物じんぶつ

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まんしゅうこく出生しゅっしょうした日本にっぽんにおける人物じんぶつについてはCategory:まんしゅうこく出身しゅっしん人物じんぶつ参照さんしょう

まんしゅうこく存在そんざいした日本にっぽん株式会社かぶしきがいしゃ

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傀儡かいらい国家こっか理想りそう国家こっかだい3の歴史れきし認識にんしき

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中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく歴史れきししょ事典じてんなどでは、日本にっぽんひがしさんしょう武力ぶりょく侵略しんりゃくしたのち建国けんこくした傀儡かいらい政権せいけん[109]傀儡かいらい国家こっか[110][111][112]とされ、その傀儡かいらいせいはん人民じんみんせいしめすために「にせまんしゅうこく」あるいは「にせまん」としょうしており、中華民国ちゅうかみんこく国民党こくみんとう台湾たいわん政府せいふ[110])で出版しゅっぱんされたものでもおなじである[113]日本にっぽんでの見方みかた当然とうぜんのようにちが[111]、おおむねまんしゅうこく政治せいじ実態じったい重点じゅうてんをおく「傀儡かいらい国家こっかろんと、まんしゅうこく政治せいじ言説げんせつ分析ぶんせき力点りきてんをおく「理想りそう国家こっかろんふたつに分類ぶんるいできる[114]が、また、まんしゅうこく傀儡かいらい国家こっか理想りそう国家こっかかという二者択一にしゃたくいつ問題もんだい重要じゅうようしないだい3の歴史れきし認識にんしきともいうべきあらたな視点してんにちちゅう両国りょうこく歴史れきしマニアのあいだ浮上ふじょうしてきた[115]ともわれている。

日本にっぽん国内こくないにおいては、まんしゅうこくを、日本にっぽん関東かんとうぐん傀儡かいらい国家こっかとみなす立場たちば[116]かんして、研究けんきゅうしゃとして山室やまむろ信一しんいち加藤かとう陽子ようこ並木なみきよりゆき寿ことぶき[117]らがげられる。辞書じしょ歴史れきし辞典じてんるいにおいてみれば、日本にっぽんまたは関東軍かんとうぐん傀儡かいらい国家こっか規定きていするものがおお[118][119][120][121]

大日本帝国だいにっぽんていこく立場たちばにおいて、以下いかのような論述ろんじゅつがある。

農業のうぎょう学者がくしゃ新渡戸にとべ稲造いなぞう在米ざいべいちゅうの1932ねん昭和しょうわ7ねん)8がつ20日はつか、CBSラジオでスティムソンドクトリンに反論はんろんするかたちで「まんしゅう事変じへん不戦ふせん条約じょうやく」について言明げんめいし、「まんしゅう事変じへん自己じこ防衛ぼうえい手段しゅだんとしてなされたものであって侵略しんりゃくではなく、まんしゅうこく一般いっぱんかんがえられているように日本にっぽん傀儡かいらい政権せいけんではない」と表明ひょうめいしている[122]親日しんにち運動うんどうシドニー・ギューリック1939ねん自著じちょ日本にっぽんせるしょ』において、「ささえにおける排日はいにち運動うんどうきわめて徹底てっていしたものである。一般いっぱん民衆みんしゅう排日はいにち思想しそうをふきもとりでなく子供こども排日はいにち教育きょういくにもちからそそぎ、このためには歴史れきしじょう事実じじつさへもゆがめ、虚偽きょぎ歴史れきしおしえて子供こども敵愾心てきがいしんをそそり、憎悪ぞうおねんけていった」「たとえばまんしゅうささえ本土ほんど一部いちぶであるにもかかわらず日本にっぽんがそれをうばったとおしえる。しかし歴史れきしじょうまんしゅうささえ一部いちぶであった事実じじついまいちもなく[注釈ちゅうしゃく 18]ぎゃくささえ本土ほんどまんしゅう属国ぞっこくであった歴史れきしじょう事実じじつがあるである。これなどは全然ぜんぜんぎゃく事実じじつおしえるものであるが、その目的もくてきいちまんしゅうから日本にっぽん勢力せいりょく駆逐くちくしようとするところにあったわけである」とべている[123]

オーウェン・ラティモアは、The Mongols of Manchuria1934ねん)のなかで、中国ちゅうごくたしかに西洋せいよう列強れっきょうはん植民しょくみん転落てんらくしたが、同時どうじ中国ちゅうごくモンゴルチベットなどのしょ民族みんぞくたいし、西洋せいよう列強れっきょうよりも苛烈かれつ植民しょくみん支配しはい強制きょうせいし、無数むすうかん民族みんぞくをモンゴルの草原そうげん入植にゅうしょくさせては軍閥ぐんばつ政権せいけんて、現地げんちじんすこしでも抵抗ていこうすれば、容赦ようしゃなく虐殺ぎゃくさつしており、西洋せいよう列強れっきょう中国ちゅうごくくらべて、新生しんせいまんしゅうこくモンゴルじん生来せいらい権益けんえきまもり、民族みんぞく自治じち実現じつげんできている、と評価ひょうかしている[124]

近年きんねん研究けんきゅうもとづくものでは、民族みんぞく自治じちどころか日本にっぽん内地ないちじん圧倒的あっとうてき優位ゆうい植民しょくみんてき国家こっかであったという評価ひょうか[125]がある。

関連かんれん項目こうもく

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人物じんぶつ

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事象じしょう

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく
  1. ^ 1942ねんから1945ねんまで。それ以前いぜん同名どうめいべつきょくだった。詳細しょうさいまんしゅうこく国歌こっか参照さんしょう
  2. ^ 正式せいしきには1932ねん3がつ10日とおか国務こくむいん佈告だい1ごうくにさだめられた。
  3. ^ 1932ねん3がつ14にち国務こくむいん佈告だい2ごうにより長春ちょうしゅんから改称かいしょう
  4. ^ 臨時りんじ首都しゅとというあつかいであり、正式せいしき首都しゅとしんきょうのまま。
  5. ^ まんしゅうこく元号げんごうは、大同だいどう1932ねん3月1にち - 1934ねん3月1にち)、康徳やすのり1934ねん3月1にち - 1945ねん8がつ18にち
  6. ^ どう事件じけん根底こんていにはモンゴルじん移住いじゅうしゃである漢人かんどとのあいだ土地とちめぐあらそいがあったとされる。モンゴルじんはたおう襲撃しゅうげきけ、モンゴルじんすうじゅうまん規模きぼでジェリムめいやジョーオダめい北部ほくぶ避難ひなん移住いじゅうした[20]
  7. ^ モーゲンソー日記にっきによれば、ルーズベルト大統領だいとうりょうは「結局けっきょく、イタリアと日本にっぽん宣戦せんせん布告ふこくせず交戦こうせんする技術ぎじゅつ進化しんかさせてきたとすれば、なぜ我々われわれ同様どうよう技術ぎじゅつ開発かいはつできないのか」とかたったとされる[24]
  8. ^ 大日本帝国だいにっぽんていこく政府せいふ及「ソヴイエト」社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく聯邦れんぽう政府せいふせんきゅうひゃくよんじゅういちねんよんがつじゅうさんにち大日本帝国だいにっぽんていこく及「ソヴイエト」社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく聯邦れんぽうあいだ締結ていけつセラレタル中立ちゅうりつ条約じょうやく精神せいしんもと両国りょうこくあいだ平和へいわ友好ゆうこう関係かんけい保障ほしょうスルため大日本帝国だいにっぽんていこくこうむ人民じんみん共和きょうわこく領土りょうど保全ほぜん不可侵ふかしん尊重そんちょうスルコトヲやくスルうままた「ソヴイエト」社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく聯邦れんぽうまんしゅう帝国ていこく領土りょうど保全ほぜん不可侵ふかしん尊重そんちょうスルコトヲやくスルむね厳粛げんしゅく声明せいめいス」[12]
  9. ^ 住民じゅうみん台帳だいちょう利用りようして人口じんこう算出さんしゅつしたもの。
  10. ^ 調査ちょうさひょう集計しゅうけいして人口じんこう算出さんしゅつしたもの。
  11. ^ まんしゅうこく小学校しょうがっこう教員きょういん募集ぼしゅうせきスルけん昭和しょうわ13ねん(1938ねん)1がつ14にち秋田あきたけん学務がくむ部長ぶちょう通牒つうちょう[61]
  12. ^ ざい日本にっぽん大使たいし一覧いちらん参照さんしょう
  13. ^ バチカンの福音ふくいん宣教せんきょうしょう派遣はけんする教皇きょうこう使節しせつはバチカンとの外交がいこう関係かんけいがない国々くにぐににも派遣はけんされる派遣はけんされるれいがある[80]
  14. ^ 当時とうじ中国ちゅうごくの4だい石油せきゆ会社かいしゃの1つ。3しゃちゅう華美かびだいすすひかりはな石油せきゆ利華りか石油せきゆ[85]
  15. ^ 高級こうきゅう中学ちゅうがく師範しはんもこれとほぼ同様どうよう教育きょういく内容ないようであった。
  16. ^ りゅうらのうごきにかかわりなくまんしゅうこくがわだい日本にっぽん体育たいいく協会きょうかい支援しえんけて参加さんかけた活動かつどうつづけたものの、最終さいしゅうてき断念だんねんした。断念だんねん理由りゆうについて、上記じょうき高嶋たかしま論文ろんぶんにはふたつのせつげられている。
  17. ^ くにしょうにももちいられている「らん」については、まさしくはフジバカマすが、しばしばランはな(Orchid)と誤解ごかいされた[106]
  18. ^ この記述きじゅつかんだいりょう西郡にしごおり遼東りゃおとんぐん、さらにはそのさき朝鮮半島ちょうせんはんとうらくなみぐんなどがかれた事実じじつ明代あきよにも永楽えいらくみかど時代じだい征服せいふくされ、のち間接かんせつ統治とうちになるも、なでじゅんなどの拠点きょてんぐん支配しはいおよんでいた事実じじつはんする。
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  13. ^ どう1934ねん康徳やすのり元年がんねん)3がつ1にち施行しこうされた組織そしきほうだい1じょうに「まんしゅう帝国ていこく皇帝こうてい統治とうちス」(『政府せいふ公報こうほうやく』による)。
  14. ^ 1934ねん康徳やすのり元年がんねん)4がつ6にち外交がいこう佈告だい5ごう
  15. ^ なおこのてんについては学術がくじゅつてき議論ぎろんがあり、また現代げんだいにおける国際こくさい政治せいじてき焦点しょうてんでもある。くわしくは中国ちゅうごく朝鮮ちょうせん関係かんけいおよ東北とうほく工程こうてい参照さんしょう
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参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん図書としょ

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外部がいぶリンク

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