1932年 ねん (大同 だいどう 元年 がんねん )3月 がつ 1日 にち の満 まん 洲 しゅう 国 こく 佈告1により、国号 こくごう は「滿 まん 洲 しゅう 國 こく 」と定 さだ められている。この国号 こくごう は、1934年 ねん (康徳 やすのり 元年 がんねん )3月 がつ 1日 にち に溥儀 ふぎ が皇帝 こうてい に即位 そくい しても変更 へんこう されなかった。ただし、法令 ほうれい や公文書 こうぶんしょ では「満 まん 洲 しゅう 国 こく 」と「満 まん 洲 しゅう 帝国 ていこく 」が併用 へいよう された[13] 。帝 みかど 制 せい 実施 じっし 後 ご の英 えい 称 しょう は正 せい 称 しょう が「Manchoutikuo」または「The Empire of Manchou」、略称 りゃくしょう が「Manchoukuo」または「The Manchou Empire」と定 さだ められた[14] 。
満 まん 洲 しゅう 地方 ちほう には、ツングース系 けい 、モンゴル系 けい 、扶余系 けい など多 おお くの国 くに や民族 みんぞく が勃興 ぼっこう し、あるいは漢 かん 民族 みんぞく 王朝 おうちょう が一部 いちぶ を支配 しはい 下 か に置 お いたり撤退 てったい したりしていた。土着 どちゃく 民族 みんぞく として濊貊 ・粛慎 ・東 ひがし 胡 えびす ・挹婁 ・夫 おっと 余 あまり ・勿吉 ・靺鞨 ・女 おんな 真 しん などが知 し られるが、その来歴 らいれき や相互 そうご 関係 かんけい については不明 ふめい な点 てん が多 おお い[15] 。満 まん 洲 しゅう 南部 なんぶ から朝鮮半島 ちょうせんはんとう の一部 いちぶ にかけては遼東 りゃおとん 郡 ぐん 、遼 りょう 西郡 にしごおり が置 お かれるなど、中華 ちゅうか 王朝 おうちょう の支配 しはい 下 か にあった時期 じき が長 なが い。土着 どちゃく 民族 みんぞく による国家 こっか としては高句麗 こうくり 、渤海国 こく 、女 おんな 真 しん 族 ぞく (後 ご の満州 まんしゅう 族 ぞく )の金 かね 、後金 あときん (清 きよし )などが知 し られる。モンゴル系 けい であり東 ひがし 胡 えびす の子孫 しそん とされる鮮卑 族 ぞく による前 ぜん 燕 つばめ などや鮮卑の子孫 しそん とされる契 ちぎり 丹 に 族 ぞく による遼 りょう が支配 しはい した事 こと もある。チベット系 けい の氐族 の立 た てた前 ぜん 秦 はた の支配 しはい が及 およ んだ事 こと もある。12世紀 せいき 以降 いこう 、金 きむ 、元 もと 、明 あきら 、清 きよし と、首都 しゅと を中国 ちゅうごく 本土 ほんど に置 お く、あるいは移 うつ した王朝 おうちょう による支配 しはい が続 つづ いていた。
清朝 せいちょう の中国 ちゅうごく 支配 しはい の後 のち 、満 まん 洲 しゅう 族 ぞく の中国 ちゅうごく 本土 ほんど への移出 いしゅつ が続 つづ き満 まん 洲 しゅう の空洞 くうどう 化 か が始 はじ まった。当初 とうしょ 清朝 せいちょう は漢人 かんど の移入 いにゅう によって空洞 くうどう 化 か を埋 う めるべく1644年 ねん (順治 じゅんじ 元年 がんねん )より一連 いちれん の遼東 りゃおとん 招民開墾 かいこん 政策 せいさく を実施 じっし した[16] 。この開墾 かいこん 策 さく は1668年 ねん (康 かん 熙 7年 ねん )に停止 ていし され、1740年 ねん (乾 いぬい 隆 たかし 5年 ねん )には、満 まん 洲 しゅう は後金 あときん 創業 そうぎょう の地 ち として本格 ほんかく 的 てき に封 ふうじ 禁 きん され、漢人 かんど の移入 いにゅう は禁止 きんし され私 わたし 墾田 こんでん は焼 や き払 はら われ流入 りゅうにゅう 民 みん は移住 いじゅう させられていた(封 ふう 禁 きん 政策 せいさく )。旗 はた 人 じん たちも首都 しゅと 北京 ぺきん に移住 いじゅう したため満 まん 洲 しゅう の地 ち は「ほぼ空白 くうはく 地 ち 」[17] と化 か していた。19世紀 せいき 前半 ぜんはん には封 ふう 禁 きん 政策 せいさく は形骸 けいがい 化 か し、満 まん 洲 しゅう 地域 ちいき には無数 むすう の移民 いみん が流入 りゅうにゅう しはじめた。研究 けんきゅう 者 しゃ [18] の試算 しさん によれば1851年 ねん に320万 まん 人 にん の満 まん 洲 しゅう 人口 じんこう は1900年 ねん には1239万 まん 人 にん に増加 ぞうか した[17] 。1860年 ねん にはそれ以前 いぜん には禁止 きんし されていた旗 はた 人 じん 以外 いがい の満 まん 洲 しゅう 地域 ちいき での土地 とち の所有 しょゆう が部分 ぶぶん 的 てき に開放 かいほう され、清朝 せいちょう は漢人 かんど の移入 いにゅう を対 たい 露 ろ 政策 せいさく の一環 いっかん として利用 りよう しはじめた(闖関東 かんとう )。内 うち モンゴル(奉天 ほうてん から哈爾濱 はま ・北 きた 安 やす に至 いた る満 まん 洲 しゅう 鉄道 てつどう 沿線 えんせん の西側 にしがわ )については、蒙 こうむ 地 ち と呼 よ ばれモンゴルの行政 ぎょうせい 区画 くかく である「旗 はた 」の地域 ちいき があり、清朝 せいちょう の時代 じだい は封 ふう 禁 きん 政策 せいさく により牧 まき 地 ち の開墾 かいこん は禁止 きんし されていたが実際 じっさい は各 かく 地域 ちいき で開墾 かいこん が行 おこな われ(蒙 こうむ 地 ち 開放 かいほう )「県 けん 」がおかれていた。これらの地域 ちいき は「旗 はた 」からは押租銀 ぎん や蒙 こうむ 租を、「県 けん 」からは税 ぜい を課 か され、蒙 こうむ 租は旗 はた と国 くに とが分配 ぶんぱい していた。また土地 とち の所有 しょゆう 権 けん (業主 ぎょうしゅ 権 けん )は入植 にゅうしょく 者 しゃ になく永 えい 佃 つくだ 権 けん や永 えい 租権が与 あた えられ開放 かいほう 蒙 こうむ 地 ち の所有 しょゆう 権 けん はモンゴル人 じん 王公 おうこう ・旗 はた に帰属 きぞく するとされていた[19] 。これらの地域 ちいき ではモンゴル人 じん と入植 にゅうしょく した漢人 かんど との間 あいだ でしばしば民族 みんぞく 対立 たいりつ が生 しょう じており、1891年 ねん の金 きむ 丹 まこと 道 どう 暴動 ぼうどう 事件 じけん では内 うち モンゴルのジョソト盟 めい 地域 ちいき に入植 にゅうしょく した漢人 かんど の秘密 ひみつ 結社 けっしゃ が武装 ぶそう し現住 げんじゅう モンゴル人 じん に対 たい して虐殺 ぎゃくさつ をおこなっていた。その後 ご 、秘密 ひみつ 結社 けっしゃ が葉 は 志 こころざし 超 ちょう により鎮圧 ちんあつ されたが、入植 にゅうしょく した漢人 かんど に対 たい して復讐 ふくしゅう 事件 じけん が生 しょう じていた[注釈 ちゅうしゃく 6] 。
清朝 せいちょう はアヘン戦争 せんそう 後 ご の1843年 ねん に締結 ていけつ された虎 とら 門 もん 寨追加 ついか 条約 じょうやく により領事 りょうじ 裁判 さいばん 権 けん を含 ふく む治外法権 ちがいほうけん を受 う け入 い れることになった。
ロシア帝国 ていこく もまたアロー戦争 せんそう 後 ご の1858年 ねん に天津 てんしん 条約 じょうやく を締結 ていけつ して同等 どうとう の権利 けんり を獲得 かくとく することに成功 せいこう し、1860年 ねん の北京 ぺきん 条約 じょうやく でアムール川 がわ 左岸 さがん および沿海州 えんかいしゅう の領有 りょうゆう 権 けん を確定 かくてい させていた。
日本 にっぽん の満 まん 洲 しゅう に対 たい する関心 かんしん は、江戸 えど 時代 じだい 後期 こうき の1823年 ねん 、経世 けいせい 家 か の佐藤 さとう 信淵 のぶひろ が満 まん 洲 しゅう 領有 りょうゆう を説 と き[21] 、幕末 ばくまつ の尊皇 そんのう 攘夷 じょうい 家 か の吉田 よしだ 松陰 しょういん も似 に た主張 しゅちょう をした[22] 。明治維新 めいじいしん 後 ご の日本 にっぽん は1871年 ねん (明治 めいじ 4年 ねん )の日 にち 清 しん 修好 しゅうこう 条規 じょうき において清国 きよくに と対等 たいとう な国交 こっこう 条約 じょうやく を締結 ていけつ した。さらに日 にち 清 しん 戦争 せんそう 後 ご の下関 しものせき 条約 じょうやく 及 およ び日 にち 清 しん 通商 つうしょう 航海 こうかい 条約 じょうやく により、清国 きよくに に対 たい する領事 りょうじ 裁判 さいばん 権 けん を含 ふく めた治外法権 ちがいほうけん を得 え た。
ロシアは日 にち 清 しん 戦争 せんそう 直後 ちょくご の三 さん 国 こく 干渉 かんしょう による見返 みかえ りとして李 り 鴻章 こうしう より満 まん 洲 しゅう 北部 ほくぶ の鉄道 てつどう 敷設 ふせつ 権 けん を得 え ることに成功 せいこう し(露 ろ 清 しん 密約 みつやく )、1897年 ねん のロシア艦隊 かんたい の旅順 りょじゅん 強行 きょうこう 入港 にゅうこう を契機 けいき として1898年 ねん 3月 がつ には旅順 りょじゅん (港 みなと )大連 たいれん (湾 わん )租借 そしゃく に関 かん する条約 じょうやく を締結 ていけつ 、ハルピン から大連 たいれん 、旅順 りょじゅん に至 いた る東 あずま 清 きよし 鉄道 てつどう 南 みなみ 満 まん 洲 しゅう 支線 しせん の敷設 ふせつ 権 けん も獲得 かくとく した。日本 にっぽん は、すでに外 そと 満 まん 洲 しゅう (沿海州 えんかいしゅう など)を領有 りょうゆう し、残 のこ る満 まん 洲 しゅう 全体 ぜんたい を影響 えいきょう 下 か に置 お くことを企図 きと するロシアの南下 なんか 政策 せいさく が、日本 にっぽん の国家 こっか 安全 あんぜん 保障 ほしょう 上 じょう の最大 さいだい の脅威 きょうい とみなした。1900年 ねん (明治 めいじ 33年 ねん )、ロシアは義和 よしかず 団 だん の乱 らん に乗 じょう じて満 まん 洲 しゅう を占領 せんりょう 、権益 けんえき の独占 どくせん を画策 かくさく した。これに対抗 たいこう して日本 にっぽん はアメリカ などとともに満 まん 洲 しゅう の各国 かっこく への開放 かいほう を主張 しゅちょう し、さらにイギリス と日 にち 英 えい 同盟 どうめい を結 むす んだ。
日 にち 露 ろ 両国 りょうこく は1904年 ねん から翌年 よくねん にかけて日 にち 露 ろ 戦争 せんそう を満 まん 洲 しゅう の地 ち で戦 たたか い、日本 にっぽん は戦勝 せんしょう 国 こく となり、南 みなみ 樺太 からふと 割譲 かつじょう 、ポーツマス条約 じょうやく で朝鮮半島 ちょうせんはんとう における自国 じこく の優位 ゆうい の確保 かくほ や、遼東 りゃおとん 半島 はんとう の租借 そしゃく 権 けん と東 あずま 清 きよし 鉄道 てつどう 南部 なんぶ の経営 けいえい 権 けん を獲得 かくとく した。その後 ご 日本 にっぽん は当初 とうしょ の主張 しゅちょう とは逆 ぎゃく にロシアと共同 きょうどう して満 まん 洲 しゅう の権益 けんえき の確保 かくほ に乗 の り出 だ すようになり、中国 ちゅうごく 大陸 たいりく における権益 けんえき 獲得 かくとく に出遅 でおく れていたアメリカの反発 はんぱつ を招 まね いた。駐日 ちゅうにち ポルトガル 外交 がいこう 官 かん ヴェンセスラウ・デ・モラエス は、「日米 にちべい 両国 りょうこく は近 ちか い将来 しょうらい 、恐 おそ るべき競争 きょうそう 相手 あいて となり対決 たいけつ するはずだ。広大 こうだい な中国 ちゅうごく 大陸 たいりく は貿易 ぼうえき 拡大 かくだい を狙 ねら うアメリカが切実 せつじつ に欲 ほ しがる地域 ちいき であり、同様 どうよう に日本 にっぽん にとってもこの地域 ちいき は国 くに の発展 はってん になくてはならないものになっている。この地域 ちいき で日米 にちべい が並 なら び立 た つことはできず、一方 いっぽう が他方 たほう から暴力 ぼうりょく 的 てき 手段 しゅだん によって殲滅 せんめつ させられるかもしれない」との自身 じしん の予測 よそく を祖国 そこく の新聞 しんぶん に伝 つた えている[23] 。
清朝 せいちょう から中華民国 ちゅうかみんこく へ
1911年 ねん から1912年 ねん にかけての辛 からし 亥 い 革命 かくめい により満 まん 洲 しゅう 族 ぞく による王朝 おうちょう は打倒 うちたお され(駆除 くじょ 韃虜)、漢 かん 民族 みんぞく による共和 きょうわ 政体 せいたい 中華民国 ちゅうかみんこく が成立 せいりつ したが、清朝 せいちょう が領土 りょうど としていた満 まん 洲 しゅう ・モンゴル・トルキスタン ・チベット など周辺 しゅうへん 地域 ちいき の政情 せいじょう は不安定 ふあんてい となり、1911年 ねん にモンゴルは独立 どくりつ を宣言 せんげん 、1913年 ねん にはチベット・モンゴル相互 そうご 承認 しょうにん 条約 じょうやく が締約 ていやく されチベット・モンゴルは相互 そうご に独立 どくりつ 承認 しょうにん を行 おこな った。
満 まん 洲 しゅう は中華民国 ちゅうかみんこく 臨時 りんじ 大 だい 総統 そうとう に就任 しゅうにん した袁世凱が大 おお きな影響 えいきょう 力 りょく を持 も っていたため、東三 ひがしさん 省 しょう 総督 そうとく の体制 たいせい 、組織 そしき をそのまま引 ひ き継 つ ぎ、中華民国 ちゅうかみんこく の統治 とうち 下 か に入 はい っている。この中 なか に、東三 ひがしさん 省 しょう 総督 そうとく の趙 ちょう 爾 なんじ 巽 たつみ の下 もと で、革命 かくめい 派 は の弾圧 だんあつ で功績 こうせき を上 あ げた張 ちょう 作 さく 霖 もいた。しかし、袁世凱と孫 まご 文 ぶん が対立 たいりつ し、中華民国 ちゅうかみんこく が分裂 ぶんれつ 、内戦 ないせん 状態 じょうたい に入 はい ると、張 ちょう 作 さく 霖が台頭 たいとう し、奉天 ほうてん 軍閥 ぐんばつ を形成 けいせい し、日本 にっぽん の後押 あとお しも得 え て、満 まん 洲 しゅう を実効 じっこう 支配 しはい 下 か に置 お いた。
日本 にっぽん は日 にち 露 ろ 戦争 せんそう 後 ご の1905年 ねん に日 にち 清 しん 協約 きょうやく 、1909年 ねん には間島 まじま 協約 きょうやく において日 にち 清 しん 間 あいだ での権益 けんえき ・国境 こっきょう 線 せん 問題 もんだい について重要 じゅうよう な取 と り決 き めをおこなっていたが、中華民国 ちゅうかみんこく 成立 せいりつ によりこれらを含 ふく む過去 かこ の条約 じょうやく の継承 けいしょう 問題 もんだい が発生 はっせい していた。
満蒙 まもう 問題 もんだい と日 にち 中 ちゅう 対立 たいりつ
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん に参戦 さんせん した日本 にっぽん は1914年 ねん (大正 たいしょう 3年 ねん )10月 がつ 末 まつ から11月にかけイギリス軍 ぐん とともに山東 さんとう 半島 はんとう の膠 にかわ 州 しゅう 湾 わん 租借 そしゃく 地 ち を攻略 こうりゃく 占領 せんりょう し(青島 ちんたお の戦 たたか い )その権益 けんえき 処理 しょり として対 たい 華 はな 21カ条 かじょう 要求 ようきゅう を行 おこな い、2条約 じょうやく 13交換 こうかん 公文 こうぶん からなる取 と り決 き めを交 か わした。この中 なか に南 みなみ 満 まん 洲 しゅう 及東部内 ぶない 蒙 こうむ 古 いにしえ に関 かん する条約 じょうやく など、満蒙 まもう 問題 もんだい に関 かん する重要 じゅうよう な取 と り決 き めがなされ、満 まん 洲 しゅう 善後 ぜんご 条約 じょうやく や満 まん 洲 しゅう 協約 きょうやく 、北京 ぺきん 議定 ぎてい 書 しょ ・日 にち 清 しん 追加 ついか 通商 つうしょう 航海 こうかい 条約 じょうやく などを含 ふく め日本 にっぽん の中国 ちゅうごく 特殊 とくしゅ 権益 けんえき が条約 じょうやく 上 じょう 固定 こてい された。日本 にっぽん と中華民国 ちゅうかみんこく によるこれら条約 じょうやく の継続 けいぞく 有効 ゆうこう (日本 にっぽん )と破棄 はき 無効 むこう (中国 ちゅうごく )をめぐる争 あらそ いが宣戦 せんせん 布告 ふこく なき戦争 せんそう [注釈 ちゅうしゃく 7] へ導 みちび くこととなる。
1917年 ねん (大正 たいしょう 6年 ねん )、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 ちゅう にロシア革命 かくめい が起 お こり、ソビエト連邦 れんぽう が成立 せいりつ する。旧 きゅう ロシア帝国 ていこく の対外 たいがい 条約 じょうやく のすべてを無効 むこう とし継承 けいしょう を拒否 きょひ したソビエトに対 たい し、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん に参戦 さんせん していた連合 れんごう 国 こく は「革命 かくめい 軍 ぐん によって囚 とら われたチェコ軍団 ぐんだん を救出 きゅうしゅつ する」という大義名分 たいぎめいぶん により干渉 かんしょう 戦争 せんそう を開始 かいし した(シベリア出兵 しゅっぺい )。日本 にっぽん はコルチャーク 政権 せいけん を支持 しじ しボリシェヴィキ を攻撃 こうげき したが、コルチャク政権 せいけん 内 ない の分裂 ぶんれつ やアメリカを初 はじ めとする連合 れんごう 国 こく の撤兵 てっぺい により失敗 しっぱい 。共産 きょうさん 主義 しゅぎ の拡大 かくだい に対 たい する防衛 ぼうえい 基地 きち として満 まん 洲 しゅう の重要 じゅうよう 性 せい が高 たか まり、満蒙 まもう は「日本 にっぽん の生命 せいめい 線 せん 」と見 み なされるようになった。とくに1917年 ねん 及 およ び1919年 ねん のカラハン宣言 せんげん は人民 じんみん によりなされた共産 きょうさん 主義 しゅぎ 政府 せいふ であるソビエトが旧 きゅう ロシア帝国 ていこく の有 ゆう していた対 たい 中 ちゅう 権益 けんえき (領事 りょうじ 裁判 さいばん 権 けん や各種 かくしゅ 条約 じょうやく による治外法権 ちがいほうけん など)の無効 むこう ・放棄 ほうき を宣言 せんげん したものであり、孫 まご 文 ぶん をはじめとした中華民国 ちゅうかみんこく 政府 せいふ を急速 きゅうそく に親 しん ソビエト化 か させ、あるいは1920年 ねん には上海 しゃんはい に社会 しゃかい 共産党 きょうさんとう が設立 せつりつ され、のち1921年 ねん の中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう 第 だい 一 いち 次 じ 全国 ぜんこく 代表 だいひょう 大会 たいかい につながった。
その間 あいだ の1919年 ねん には満 まん 洲 しゅう 鉄道 てつどう が2~3万 まん 人 にん の組合 くみあい 員 いん からなる満 まん 鉄 てつ 消費 しょうひ 組合 くみあい を結成 けっせい して日本人 にっぽんじん 向 む けの市場 いちば を寡占 かせん しはじめて日本人 にっぽんじん 小売 こうり 商 しょう らの利益 りえき が害 がい されたため、満 まん 洲 しゅう 商業 しょうぎょう 会議 かいぎ 所 しょ 連合 れんごう 会 かい は満 まん 鉄 てつ 消費 しょうひ 組合 くみあい 撤廃 てっぱい 活動 かつどう を1930年 ねん まで4次 じ に渡 わた って展開 てんかい した。結果 けっか 的 てき には和解 わかい に至 いた ったが、これらの活動 かつどう が満 まん 洲 しゅう 輸入 ゆにゅう 組合 くみあい 及 およ び満 まん 洲 しゅう 輸入 ゆにゅう 組合 くみあい 連合 れんごう 会 かい の設立 せつりつ に繋 つな がった。
1928年 ねん 7月 がつ 19日 にち 、第 だい 一 いち 次 じ 国共 こっきょう 合作 がっさく により北 きた 伐 き を成功 せいこう させた蔣介石 せき の南京 なんきん 国民 こくみん 政府 せいふ は一方 いっぽう 的 てき に日 にち 清 しん 通商 つうしょう 航海 こうかい 条約 じょうやく の破棄 はき を通告 つうこく し、日本 にっぽん 側 がわ はこれを拒否 きょひ して継続 けいぞく を宣言 せんげん したが、中国 ちゅうごく における在留 ざいりゅう 日本人 にっぽんじん (朝鮮 ちょうせん 人 じん 含 ふく む)の安全 あんぜん や財産 ざいさん 、及 およ び条約 じょうやく 上 じょう の特殊 とくしゅ 権益 けんえき は重大 じゅうだい な危機 きき に晒 さら されることになった。
満 まん 洲 しゅう は清朝 せいちょう 時代 じだい には「帝室 ていしつ の故郷 こきょう 」として漢 かん 民族 みんぞく の植民 しょくみん を強 つよ く制限 せいげん していたが、清 きよし 末 まつ には中国 ちゅうごく 内地 ないち の窮乏 きゅうぼう もあって直 ちょく 隷 ・山東 さんとう から多 おお くの移民 いみん が発生 はっせい し、急速 きゅうそく に漢 かん 化 か と開拓 かいたく が進 すす んでいた。清末 きよすえ の袁世凱 は満 まん 洲 しゅう の自 じ 勢力 せいりょく 化 か をもくろむとともに、ロシア・日本 にっぽん の権益 けんえき 寡占 かせん 状 じょう 況 きょう を打開 だかい しようとした。しかしこの計画 けいかく も清末 きよすえ 民 みん 初 はつ の混乱 こんらん のなかでうまくいかず、さらに袁の死後 しご 、満 まん 洲 しゅう で生 う まれ育 そだ った馬賊 ばぞく 上 あ がりの将校 しょうこう ・張 ちょう 作 さく 霖 が台頭 たいとう 、張 ちょう は袁が任命 にんめい した奉天 ほうてん 都 と 督 とく の段 だん 芝 しば 貴 たか を追放 ついほう し、在地 ざいち の郷 ごう 紳 しん などの支持 しじ の下 した 軍閥 ぐんばつ として独自 どくじ の勢力 せいりょく を確立 かくりつ した。満 まん 洲 しゅう を日本 にっぽん の生命 せいめい 線 せん と考 かんが える関東軍 かんとうぐん を中心 ちゅうしん とする軍部 ぐんぶ らは、張 ちょう 作 さく 霖を支持 しじ して満 まん 洲 しゅう における日本 にっぽん の権益 けんえき を確保 かくほ しようとしたが、叛服 はんぷく 常 つね ない張 はり の言動 げんどう に苦 くる しめられた。また、日 にち 中 ちゅう 両 りょう 軍 ぐん が衝突 しょうとつ した1919年 ねん の寛 ひろし 城 しろ 子 こ 事件 じけん (長春 ちょうしゅん 事件 じけん )では張 ちょう 作 さく 霖の関与 かんよ が疑 うたが われたが日本 にっぽん 政府 せいふ は証拠 しょうこ をつかむことができなかった。
さらに中国 ちゅうごく 内地 ないち では蔣介石 せき 率 ひき いる中国 ちゅうごく 国民党 こくみんとう が戦力 せんりょく をまとめあげて南京 なんきん から北上 ほくじょう し、この影響 えいきょう 力 りょく が満 まん 洲 しゅう に及 およ ぶことを恐 おそ れた。こうした状況 じょうきょう のなか1920年 ねん 3月 がつ には、外 そと 満 まん 洲 しゅう のニコラエフスク (尼 あま 港 こう )で赤軍 せきぐん によって日本 にっぽん 軍 ぐん 守備 しゅび 隊 たい の殲滅 せんめつ と居留民 きょりゅうみん が虐殺 ぎゃくさつ される尼 あま 港 みなと 事件 じけん が起 お き、満 まん 洲 しゅう が赤化 せっか されていくことについての警戒 けいかい 感 かん が強 つよ まった。1920年代 ねんだい 後半 こうはん から対 たい ソ戦 せん の基地 きち とすべく、関東軍 かんとうぐん 参謀 さんぼう の石原 いしはら 莞爾 かんじ らによって万里 ばんり の長城 ちょうじょう 以東 いとう の全 ぜん 満 まん 洲 しゅう を中国 ちゅうごく 国民党 こくみんとう の支配 しはい する中華民国 ちゅうかみんこく から切 き り離 はな し、日本 にっぽん の影響 えいきょう 下 か に置 お くことを企図 きと する主張 しゅちょう が現 あらわ れるようになった。
満 まん 洲 しゅう 事変 じへん
張 ちょう 作 さく 霖爆殺 ばくさつ 事件 じけん の現場 げんば
1928年 ねん (昭和 しょうわ 3年 ねん )5月 がつ 、中国 ちゅうごく 内地 ないち を一時 いちじ 押 お さえていた張 ちょう 作 さく 霖が国民 こくみん 革命 かくめい 軍 ぐん に敗 やぶ れて満 まん 洲 しゅう へ撤退 てったい した。田中 たなか 義一 ぎいち 首相 しゅしょう ら日本 にっぽん 政府 せいふ は張 ちょう 作 さく 霖への支持 しじ の方針 ほうしん を継続 けいぞく していたが、高級 こうきゅう 参謀 さんぼう 河本 かわもと 大作 だいさく ら現場 げんば の関東軍 かんとうぐん は日本 にっぽん の権益 けんえき の阻害 そがい になると判断 はんだん し、張 ちょう 作 さく 霖を殺害 さつがい した(張 ちょう 作 さく 霖爆殺 ばくさつ 事件 じけん )。河本 かわもと らは自 みずか ら実行 じっこう したことを隠蔽 いんぺい する工作 こうさく を事前 じぜん におこなっていたものの、報道 ほうどう や宣伝 せんでん から当初 とうしょ から関東軍 かんとうぐん 主導 しゅどう 説 せつ がほぼ公然 こうぜん の事実 じじつ となり、張 ちょう 作 さく 霖の跡 あと を継 つ いだ張 ちょう 学 まなぶ 良 りょう は日本 にっぽん の関与 かんよ に抵抗 ていこう し楊宇霆 ら日本 にっぽん 寄 よ りの幕僚 ばくりょう を殺害 さつがい 、国民党 こくみんとう 寄 よ りの姿勢 しせい を強 つよ めた。このような状況 じょうきょう を打開 だかい するために関東軍 かんとうぐん は、1931年 ねん (昭和 しょうわ 6年 ねん )9月18日 にち 、満 まん 洲 しゅう 事変 じへん (柳 やなぎ 条 じょう 湖 みずうみ 事件 じけん )を起 お こして満 まん 洲 しゅう 全土 ぜんど を占領 せんりょう した。張 ちょう 学 まなぶ 良 りょう は国民 こくみん 政府 せいふ の指示 しじ によりまとまった抵抗 ていこう をせずに満 まん 洲 しゅう から撤退 てったい し、満 まん 洲 しゅう は関東軍 かんとうぐん の支配 しはい 下 か に入 はい った。
日本 にっぽん 国内 こくない の問題 もんだい として、世界 せかい 恐慌 きょうこう や昭和 しょうわ 恐慌 きょうこう と呼 よ ばれる不景気 ふけいき から抜 ぬ け出 だ せずにいる状況 じょうきょう があった。明治維新 めいじいしん 以降 いこう 、日本 にっぽん の人口 じんこう は急激 きゅうげき に増加 ぞうか しつつあったが、農村 のうそん 、都市 とし 部 ぶ 共 とも に増加 ぞうか 分 ぶん の人口 じんこう を受 う け入 い れる余地 よち がなく、1890年代 ねんだい 以後 いご 、アメリカやブラジル などへの国策 こくさく 的 てき な移民 いみん によってこの問題 もんだい の解消 かいしょう が図 はか られていた。ところが1924年 ねん (大正 たいしょう 13年 ねん )にアメリカで排日 はいにち 移民 いみん 法 ほう が成立 せいりつ 、貧困 ひんこん 農民 のうみん 層 そう の国外 こくがい への受 う け入 い れ先 さき が少 すく なくなったところに恐慌 きょうこう が発生 はっせい し、数多 かずおお い貧困 ひんこん 農民 のうみん の受 う け皿 ざら を作 つく ることが急務 きゅうむ となっていた。そこへ満 まん 洲 しゅう 事変 じへん が発生 はっせい すると、当時 とうじ の若槻 わかつき 禮次郎 れいじろう 内閣 ないかく の不拡大 ふかくだい 方針 ほうしん をよそに、国威 こくい 発揚 はつよう や開拓 かいたく 地 ち の確保 かくほ などを期待 きたい した新聞 しんぶん をはじめ国民 こくみん 世論 せろん は強 つよ く支持 しじ し、対外 たいがい 強硬 きょうこう 世論 せろん を政府 せいふ は抑 おさ えることができなかった。
リットン調査 ちょうさ 団 だん
柳 やなぎ 条 じょう 湖 みずうみ 事件 じけん 発生 はっせい から4日 にち 後 ご の1931年 ねん 9月 がつ 22日 にち 、関東軍 かんとうぐん の満蒙 まもう 領有 りょうゆう 計画 けいかく は陸軍 りくぐん 首脳 しゅのう 部 ぶ の反対 はんたい で実質 じっしつ 的 てき な独立 どくりつ 国家 こっか 案 あん へと変更 へんこう された。参謀 さんぼう 本部 ほんぶ は石原 いしはら 莞爾 かんじ らに溥儀 ふぎ を首班 しゅはん とする親日 しんにち 国家 こっか を樹立 じゅりつ すべきと主張 しゅちょう し、石原 いしはら は国防 こくぼう を日本 にっぽん が担 にな い、鉄道 てつどう ・通信 つうしん の管理 かんり 条件 じょうけん を日本 にっぽん に委 ゆだ ねることを条件 じょうけん に満蒙 まもう を独立 どくりつ 国家 こっか とする解決 かいけつ 策 さく を出 だ した。現地 げんち では、関東軍 かんとうぐん の工作 こうさく により、反 はん 張 ちょう 学 まなぶ 良 りょう の有力 ゆうりょく 者 しゃ が各地 かくち に政権 せいけん を樹立 じゅりつ しており、9月24日 にち には袁金鎧 よろい を委員 いいん 長 ちょう 、于冲漢 かん を副 ふく 委員 いいん 長 ちょう として奉天 ほうてん 地方 ちほう 自治 じち 維持 いじ 会 かい が組織 そしき され、26日 にち には煕 ひろし 洽 ひろし を主席 しゅせき とする吉林 きつりん 省 しょう 臨時 りんじ 政府 せいふ が樹立 じゅりつ 、27日 にち にはハルビンで張 ちょう 景 けい 恵 めぐみ が東 ひがし 省 しょう 特別 とくべつ 区 く 治安 ちあん 維持 いじ 委員 いいん 会 かい を発足 ほっそく した。
翌 よく 1932年 ねん 2月 がつ に、奉天 ほうてん ・吉 よし 林 りん ・黒龍江 こくりゅうこう 省 しょう の要人 ようじん が関東軍 かんとうぐん 司令 しれい 官 かん を訪問 ほうもん し、満 まん 洲 しゅう 新 しん 政権 せいけん に関 かん する協議 きょうぎ をはじめた。2月16日 にち 、奉天 ほうてん に張 ちょう 景 けい 恵 めぐみ 、臧式毅 あつし 、煕 ひろし 洽 ひろし 、馬 うま 占 うらない 山 やま の四 よん 巨頭 きょとう が集 あつ まり、張 ちょう 景 けい 恵 めぐみ を委員 いいん 長 ちょう とする東北 とうほく 行政 ぎょうせい 委員 いいん 会 かい が組織 そしき された。2月18日 にち には「党 とう 国 こく 政府 せいふ と関係 かんけい を脱 だっ 離 はな し東北 とうほく 省 しょう 区 く は完全 かんぜん に独立 どくりつ せり」と、満 まん 洲 しゅう の中国 ちゅうごく 国民党 こくみんとう 政府 せいふ からの分離 ぶんり 独立 どくりつ が宣言 せんげん された。
東北 とうほく 行政 ぎょうせい 委員 いいん 会 かい の旗 はた
1932年 ねん 3月 がつ 1日 にち 、上記 じょうき 四 よん 巨頭 きょとう と熱 ねつ 河 かわ 省 しょう の湯玉 ゆたま 麟、内 うち モンゴルのジェリム盟 めい 長 ちょう チメトセムピル、ホロンバイル副 ふく 都 みやこ 統 みつる の凌 しのげ 陞が委員 いいん とする東北 とうほく 行政 ぎょうせい 委員 いいん 会 かい が、元首 げんしゅ として清朝 せいちょう 最後 さいご の皇帝 こうてい 愛 あい 新 しん 覚 さとし 羅 ら 溥儀 ふぎ を満 まん 洲 しゅう 国 こく 執政 しっせい とする満 まん 洲 しゅう 国 こく の建国 けんこく を宣言 せんげん した(元号 げんごう は大同 だいどう )。首都 しゅと には長春 ちょうしゅん が選 えら ばれ、新 しん 京 きょう と命名 めいめい された。国務 こくむ 院 いん 総理 そうり (首相 しゅしょう )には鄭 てい 孝 たかし 胥 が就任 しゅうにん した。
その後 ご 、1934年 ねん 3月1日 にち には溥儀 ふぎ が皇帝 こうてい として即位 そくい し、満 まん 洲 しゅう 国 こく は帝政 ていせい に移行 いこう した(元号 げんごう は康徳 やすのり に改元 かいげん [27] )。国務 こくむ 総理 そうり 大臣 だいじん (国務 こくむ 院 いん 総理 そうり から改称 かいしょう )には鄭 てい 孝 たかし 胥(後 のち に張 ちょう 景 けい 恵 めぐみ )が就任 しゅうにん した。
満 まん 洲 しゅう 国 こく をめぐる国際 こくさい 関係 かんけい
一方 いっぽう 、満 まん 洲 しゅう 事変 じへん の端緒 たんしょ となる柳 やなぎ 条 じょう 湖 みずうみ 事件 じけん が起 お こると、中華民国 ちゅうかみんこく は国際 こくさい 連盟 れんめい にこの事件 じけん を提起 ていき し、国際 こくさい 連盟 れんめい 理事 りじ 会 かい はこの問題 もんだい を討議 とうぎ し、1931年 ねん 12月に、イギリス人 じん の第 だい 2代 だい リットン伯爵 はくしゃく ヴィクター・ブルワー=リットン を団長 だんちょう とするリットン調査 ちょうさ 団 だん の派遣 はけん を決議 けつぎ した。1932年 ねん 3月 がつ から6月 がつ まで日本 にっぽん 、中華民国 ちゅうかみんこく と満 まん 洲 しゅう を調査 ちょうさ したリットン調査 ちょうさ 団 だん は、同年 どうねん 10月2日 にち に至 いた って報告 ほうこく 書 しょ を提出 ていしゅつ し、満 まん 洲 しゅう の地域 ちいき を「法律 ほうりつ 的 てき には完全 かんぜん に支 ささえ 那 な の一部分 いちぶぶん なるも」[28] とし、満 まん 洲 しゅう 国 こく 政権 せいけん を「現在 げんざい の政権 せいけん は純粋 じゅんすい 且自発 はつ 的 てき なる独立 どくりつ 運動 うんどう に依 よ りて出現 しゅつげん したるものと思考 しこう することを得 え ず」[29] とし、「満 まん 洲 しゅう に於 お ける現 げん 政権 せいけん の維持 いじ 及承認 しょうにん も均 ひと しく不満足 ふまんぞく なるべし」[30] と指摘 してき した。その上 うえ で満 まん 洲 しゅう 地域 ちいき 自体 じたい には「本 ほん 紛争 ふんそう の根底 こんてい を成 な す事項 じこう に関 かん し日本 にっぽん と直接 ちょくせつ 交渉 こうしょう を遂 とげ ぐるに充分 じゅうぶん なる自治 じち 的 てき 性質 せいしつ を有 ゆう したり」[31] と表現 ひょうげん し、中華民国 ちゅうかみんこく の法的 ほうてき 帰属 きぞく を認 みと める一方 いっぽう で、日本 にっぽん の満 まん 洲 しゅう における特殊 とくしゅ 権益 けんえき を認 みと め、満 まん 洲 しゅう に中国 ちゅうごく 主権 しゅけん 下 か の満 まん 洲 しゅう 国 こく とは異 こと なる自治 じち 政府 せいふ を建設 けんせつ させる妥協 だきょう 案 あん を含 ふく む日 ひ 中新 ちゅうしん 協定 きょうてい の締結 ていけつ を提案 ていあん した。
同年 どうねん 9月15日 にち に齋藤 さいとう 内閣 ないかく のもとで政府 せいふ として満 まん 洲 しゅう 国 こく の独立 どくりつ を承認 しょうにん し、日 ひ 満 まん 議定 ぎてい 書 しょ を締結 ていけつ して満 まん 洲 しゅう 国 こく の独立 どくりつ を既成 きせい 事実 じじつ 化 か していた日本 にっぽん は報告 ほうこく 書 しょ に反発 はんぱつ 、松岡 まつおか 洋右 ようすけ を主席 しゅせき 全権 ぜんけん とする代表 だいひょう 団 だん をジュネーヴ で開 ひら かれた国際 こくさい 連盟 れんめい 総会 そうかい に送 おく り、満 まん 洲 しゅう 国 こく 建国 けんこく の正当 せいとう 性 せい を訴 うった えた。
リットン報告 ほうこく 書 しょ をもとに連盟 れんめい 理事 りじ 会 かい は「中日 ちゅうにち 紛争 ふんそう に関 かん する国際 こくさい 連盟 れんめい 特別 とくべつ 総会 そうかい 報告 ほうこく 書 しょ 」を作成 さくせい し、1933年 ねん 2月 がつ 24日 にち には国際 こくさい 連盟 れんめい 総会 そうかい で同意 どうい 確認 かくにん の投票 とうひょう が行 おこな われた。この結果 けっか 、賛成 さんせい 42票 ひょう 、反対 はんたい 1票 ひょう (日本 にっぽん )、棄権 きけん 1票 ひょう (シャム=現 げん タイ )、投票 とうひょう 不参加 ふさんか 1国 こく (チリ )であり、国際 こくさい 連盟 れんめい 規約 きやく 15条 じょう 4項 こう [32] および6項 こう [33] についての条件 じょうけん が成立 せいりつ した。日本 にっぽん はこれを不服 ふふく として1933年 ねん 3月 がつ に国際 こくさい 連盟 れんめい を脱退 だったい する。
隣国 りんごく かつ仮想 かそう 敵国 てきこく でもあったソビエト連邦 れんぽう は、当時 とうじ はまだ国際 こくさい 連盟 れんめい 未 み 加盟 かめい であり、リットン調査 ちょうさ 団 だん の満 まん 洲 しゅう 北部 ほくぶ の調査 ちょうさ 活動 かつどう に対 たい しての便宜 べんぎ を与 あた えなかっただけでなく、建国 けんこく 後 ご には満 まん 洲 しゅう 国 こく と相互 そうご に領事館 りょうじかん 設置 せっち を承認 しょうにん するなど事実 じじつ 上 じょう の国交 こっこう を有 ゆう していたが、正式 せいしき な国家 こっか 承認 しょうにん については満 まん 洲 しゅう 事変 じへん 発生 はっせい から建国 けんこく 後 ご まで終始 しゅうし 一定 いってい しない態度 たいど を取 と り続 つづ けた。1935年 ねん にソ連 それん は満 まん 洲 しゅう 国内 こくない に保有 ほゆう する北 きた 満 まん 鉄路 てつろ を満 まん 洲 しゅう 国 こく 政府 せいふ に売却 ばいきゃく した。国境 こっきょう に関 かん しても日 にち 満 みつる -ソ連 それん 間 あいだ に認識 にんしき の相違 そうい があり、張 ちょう 鼓 こ 峰 ほう 事件 じけん などの軍事 ぐんじ 衝突 しょうとつ が起 お きている。
1932年 ねん 7月 がつ 、満 まん 洲 しゅう 国内 こくない の郵政 ゆうせい 接受 せつじゅ が断行 だんこう されると、満 まん 洲 しゅう と中国 ちゅうごく 間 あいだ の郵便 ゆうびん は遮断 しゃだん されることとなった[35] 。その後 ご 、山海 さんかい 関 せき の返還 へんかん など情勢 じょうせい 緩和 かんわ が続 つづ くと、1934年 ねん 4月 がつ 、国際 こくさい 連盟 れんめい が「満 まん 洲 しゅう 国 こく の郵便 ゆうびん 物 ぶつ は事務 じむ 的 てき 、技術 ぎじゅつ 的 てき に取 と り扱 あつか うべし」との決議 けつぎ を行 おこな う。国民 こくみん 政府 せいふ 側 がわ も「通 つう 郵は文化 ぶんか 機関 きかん 」との判断 はんだん から、満 まん 洲 しゅう 国 こく 不承認 ふしょうにん の原則 げんそく と切 き り離 はな して郵便 ゆうびん 協定 きょうてい の交渉 こうしょう につくことを受諾 じゅだく 。同年 どうねん 12月 がつ までに協定 きょうてい が成立 せいりつ し、1935年 ねん 1月 がつ からは普通 ふつう 郵便 ゆうびん が、翌 よく 2月 がつ からは小包 こづつみ 、為替 かわせ の取 と り扱 あつか いが始 はじ まった[36] 。
モンゴル人民 じんみん 共和 きょうわ 国 こく との間 あいだ にも国境 こっきょう に関 かん して認識 にんしき の相違 そうい があり、1939年 ねん にはノモンハン事件 じけん などの紛争 ふんそう が起 お きた。
1941年 ねん 4月 がつ 13日 にち 、日 にち ソ間 あいだ の領土 りょうど 領域 りょういき の不可侵 ふかしん を約 やく した日 にち ソ中立 ちゅうりつ 条約 じょうやく 締結 ていけつ に伴 ともな い、日本 にっぽん のモンゴル人民 じんみん 共和 きょうわ 国 こく への及 およ びソ連 それん の満 まん 洲 しゅう 国 こく への領土 りょうど 保全 ほぜん と不可侵 ふかしん を約 やく す共同 きょうどう 声明 せいめい が出 だ された[注釈 ちゅうしゃく 8] 。
日本 にっぽん 軍 ぐん 占領 せんりょう 後 ご 、各地 かくち で各種 かくしゅ 宗教 しゅうきょう ・政治 せいじ 思想 しそう で結 むす びついた団体 だんたい による抗日 こうにち ゲリラ闘争 とうそう が起 お こった。一時 いちじ は燎原 りょうげん の火 ひ のように満 まん 洲 しゅう 各地 かくち に広 ひろ がり、関東軍 かんとうぐん にもとても終結 しゅうけつ するとは思 おも えないような時期 じき もあったといわれるが、関東軍 かんとうぐん は殲滅 せんめつ を繰 く り返 かえ し、1935年 ねん 頃 ごろ には治安 ちあん は安定 あんてい していった。その過程 かてい で平 ひら 頂山 いただきやま 事件 じけん のような事件 じけん も起 お きているが、このような事件 じけん は氷山 ひょうざん の一角 いっかく で、1932年 ねん 9月 がつ には暫行懲治盗 ぬすめ 匪法を制定 せいてい 、この条文 じょうぶん では清朝 せいちょう の法制 ほうせい にもあった臨陣格 かく 殺 ころせ が定 さだ められ、軍 ぐん 司令 しれい 官 かん や高級 こうきゅう 警察官 けいさつかん が匪賊 ひぞく を裁判 さいばん なしで自己 じこ の判断 はんだん で処刑 しょけい する権限 けんげん を認 みと めていたため[37] 、関東軍 かんとうぐん ないし実質 じっしつ 的 てき に日本人 にっぽんじん が指導 しどう する現地 げんち 警察 けいさつ はこれを濫用 らんよう し、各地 かくち で匪賊 ひぞく とされた者 もの らの殺戮 さつりく が繰 く り返 かえ され、彼 かれ らの生首 なまくび が見 み せしめに晒 さら されることが横行 おうこう していたとされる[38] 。とくに満 まん 鉄 てつ 及 およ びその付属 ふぞく 地 ち を警備 けいび する独立 どくりつ 守備 しゅび 隊 たい は質 しつ が悪 わる く、現地 げんち 住民 じゅうみん らに恐 おそ れられたという。また、ゲリラ鎮圧 ちんあつ は最終 さいしゅう 的 てき に成功 せいこう したものの、この成功 せいこう が経済 けいざい 構造 こうぞう ・社会 しゃかい 構造 こうぞう の異 こと なる中国 ちゅうごく 本土 ほんど でも同様 どうよう にうまくいくと日本 にっぽん 軍 ぐん を誤信 ごしん させ、後 ご の日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう 拡大 かくだい に繋 つな がっていったのではないかと東京大学 とうきょうだいがく 東洋 とうよう 文化 ぶんか 研究所 けんきゅうじょ 教授 きょうじゅ の安 やす 冨 とみ 歩 ふ は疑 うたが っている[39] 。また、この満 まん 洲 しゅう でのやり方 かた は、山下 やました 奉文 ともゆき 中将 ちゅうじょう を通 つう じて、後 ご の日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう や太平洋戦争 たいへいようせんそう におけるマレー・シンガポール占領 せんりょう 期 き にも持 も ち込 こ まれたものと林 はやし 博史 ひろふみ は考 かんが えている[40] 。
鞍山 あんざん 製鉄 せいてつ 所 しょ
大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう (第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん )に日本 にっぽん が開戦 かいせん する直前 ちょくぜん の1941年 ねん 12月4日 にち 、日本 にっぽん の大本営 だいほんえい 政府 せいふ 連絡 れんらく 会議 かいぎ は「国際 こくさい 情勢 じょうせい 急転 きゅうてん の場合 ばあい 満 まん 洲 しゅう 国 こく をして執 と らしむ可 か き措置 そち 」を決定 けってい し、その「方針 ほうしん 」において「帝国 ていこく の開戦 かいせん に当 あた り差当 さしあた り満 まん 洲 しゅう 国 こく は参戦 さんせん せしめず、英 えい 米 べい 蘭 らん 等 とう に対 たい しては満 まん 洲 しゅう 国 こく は帝国 ていこく との関係 かんけい 、未 み 承認 しょうにん 等 とう を理由 りゆう に実質 じっしつ 上 じょう 敵性 てきせい 国 こく としての取締 とりしまり の実行 じっこう を収 おさむ むる如 ごと く措置 そち せしむるものとす」として、満 まん 洲 しゅう 国 こく の参戦 さんせん を抑止 よくし する一方 いっぽう 、在 ざい 満 まん 洲 しゅう の連合 れんごう 国 こく 領事館 りょうじかん (奉天 ほうてん に英 えい 米 べい 蘭 らん 、ハルビンに英 えい 米 べい 仏 ふつ 蘭 らん 、営口に蘭 らん (名誉 めいよ 領事館 りょうじかん ))の閉鎖 へいさ を行 おこな わさせた。また館員 かんいん らは警察 けいさつ により軟禁 なんきん され、1942年 ねん に運航 うんこう された交換 こうかん 船 せん で帰国 きこく した。
このため、満 まん 洲 しゅう 国 こく は国際 こくさい 法 ほう 上 じょう の交戦 こうせん 国 こく とはならず、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の下 もと で、満 まん 洲 しゅう 国軍 こくぐん が日本 にっぽん 軍 ぐん に協力 きょうりょく してイギリスやアメリカ、オーストラリア 、ニュージーランド などとと戦 たたか っている南方 なんぽう や太平洋 たいへいよう 、インド洋 いんどよう やオーストラリア方面 ほうめん に進出 しんしゅつ するということも無 な かった。
日本 にっぽん の敗色 はいしょく が濃 こ くなった1944年 ねん の下半期 しもはんき に入 はい ると、同年 どうねん 7月 がつ 29日 にち に鞍山 あんざん の昭和 しょうわ 製鋼 せいこう 所 しょ (鞍山 あんざん 製鉄 せいてつ 所 しょ )など重要 じゅうよう な工業 こうぎょう 基地 きち が連合 れんごう 軍 ぐん 、特 とく にイギリス領 りょう インド帝国 ていこく のイギリス軍 ぐん 基地 きち 内 ない に展開 てんかい したアメリカ軍 ぐん のボーイング B29 爆 ばく 撃 げき 機 き の盛 さか んな空襲 くうしゅう を受 う け、工場 こうじょう の稼働 かどう 率 りつ は全般 ぜんぱん に「等 ひと しい低下 ていか を示 しめ し」(1944年 ねん 当時 とうじ の稼動 かどう 状 じょう 況 きょう 記録 きろく 文書 ぶんしょ より)たとしている。特 とく に、奉天 ほうてん の東郊 とうこう 外 がい にある「満 まん 洲 しゅう 飛行機 ひこうき 」では、1944年 ねん 6月 がつ には平均 へいきん で70%だった従業 じゅうぎょう 員 いん の工場 こうじょう への出勤 しゅっきん 率 りつ が、鞍山 あんざん の空襲 くうしゅう から1週間 しゅうかん 後 ご の8月 がつ 5日 にち には26%まで低下 ていか した。次 つぎ の標的 ひょうてき になるのではという従業 じゅうぎょう 員 いん の強 つよ い不安 ふあん 感 かん から、稼働 かどう 率 りつ の極端 きょくたん な下落 げらく を招 まね くことになった。
また、戦争 せんそう 後期 こうき には大豆 だいず 等 とう の穀物 こくもつ を徴発 ちょうはつ 、しかし、連合 れんごう 軍 ぐん の通商 つうしょう 破壊 はかい により船 ふね で日本 にっぽん 本土 ほんど や南方 なんぽう に輸送 ゆそう することが出来 でき なくなり、満 まん 洲 しゅう で飢餓 きが が始 はじ まる中 なか 、満 まん 洲 しゅう の鉄道 てつどう 沿線 えんせん や朝鮮 ちょうせん の釜山 ぷさん の港 みなと で大豆 だいず 等 とう が野晒 のざら しで腐 くさ っていったという[39] 。一方 いっぽう で、代 か わりに日本 にっぽん から入 い れる筈 はず の衣類 いるい ・繊維 せんい がやはり通商 つうしょう 破壊 はかい のため、あるいは南方 なんぽう 優先 ゆうせん ということで満 まん 洲 しゅう には入 はい らず、1944年 ねん 頃 ごろ の冬 ふゆ には凍死 とうし する者 もの 、(成長 せいちょう とともに服 ふく が合 あ わなくなるため)衣類 いるい 無 な しでオンドル に頼 たよ って過 す ごさねばならない子供 こども らが続出 ぞくしゅつ したとされる[41] 。
1945年 ねん 2月 がつ 11日 にち にソ連 それん 、アメリカ 、イギリス はヤルタ会談 かいだん を開 ひら き、満 まん 洲 しゅう を中華民国 ちゅうかみんこく へ返還 へんかん 、北 きた 満 まん 鉄路 てつろ ・南 みなみ 満 まん 洲 しゅう 鉄道 てつどう をソ連 それん ・中華民国 ちゅうかみんこく の共同 きょうどう 管理 かんり とし、大連 たいれん をソビエト海軍 かいぐん の租借 そしゃく 地 ち とする見返 みかえ りとして、ソ連 それん が参戦 さんせん することを満 まん 洲 しゅう 国 こく 政府 せいふ に秘密裏 ひみつり に決定 けってい した[42] 。なおこの頃 ころ 満 まん 洲 しゅう 国 こく の駐 ちゅう 日本 にっぽん 大使館 たいしかん は、東京 とうきょう の麻布 まふ 町 まち から神奈川 かながわ 県 けん 箱根 はこね に疎開 そかい する。
1945年 ねん 5月 がつ には同盟 どうめい 国 こく のドイツが降伏 ごうぶく し、日本 にっぽん は1国 こく で連合 れんごう 国 こく との戦 たたか いを続 つづ けることになる。太平洋 たいへいよう 戦線 せんせん では3月 がつ には硫黄 いおう 島 とう が、6月 がつ には沖縄 おきなわ がアメリカ軍 ぐん の手 て に落 お ち、アメリカ軍 ぐん やイギリス軍機 ぐんき による本土 ほんど への攻撃 こうげき が行 おこな われるなど、日本 にっぽん の敗戦 はいせん は時間 じかん の問題 もんだい となっていた。
1945年 ねん 6月 がつ 、日本 にっぽん は終戦 しゅうせん 工作 こうさく の一環 いっかん として、満 まん 洲 しゅう 国 こく の中立 ちゅうりつ 化 か を条件 じょうけん に未 いま だ日 にち ソ中立 ちゅうりつ 条約 じょうやく が有効 ゆうこう であったソビエト連邦 れんぽう に和平 わへい 調停 ちょうてい の斡旋 あっせん を求 もと めたが、既 すで にソ連 それん はヤルタ会談 かいだん での秘密 ひみつ 協定 きょうてい に基 もと づき、ドイツ降伏 ごうぶく から3か月 げつ 以内 いない の対 たい 日 にち 参戦 さんせん を決定 けってい していたため、日本 にっぽん の提案 ていあん を取 と り上 あ げなかった。
8月 がつ 8日 にち 、ソ連 それん は1946年 ねん 4月 がつ 26日 にち まで有効 ゆうこう だった日 ひ ソ中立 ちゅうりつ 条約 じょうやく を破棄 はき して日本 にっぽん に宣戦 せんせん 布告 ふこく し、直後 ちょくご に対 たい 日 にち 参戦 さんせん した。ソ連 それん 軍 ぐん は満 まん 洲 しゅう 国 こく に対 たい しても西 にし の外 そと 蒙 こうむ 古 ふる (モンゴル人民 じんみん 共和 きょうわ 国 こく )及 およ び東 ひがし の沿海州 えんかいしゅう 、北 きた の孫呉 そんご 方面 ほうめん 及 およ びハイラル方面 ほうめん 、3方向 ほうこう からソ満 まん 国境 こっきょう を越 こ えて侵攻 しんこう した。ソ連 それん は参戦 さんせん にあたり、直前 ちょくぜん に駐 ちゅう ソ日本 にっぽん 大使 たいし に対 たい して宣戦 せんせん 布告 ふこく したが、満 まん 洲 しゅう 国 こく に対 たい しては国家 こっか として承認 しょうにん していなかったため、外交 がいこう 的 てき 通告 つうこく はなかった。満 まん 洲 しゅう 国 こく は防衛 ぼうえい 法 ほう (1938年 ねん 4月 がつ 1日 にち 施行 しこう )を発動 はつどう して戦時 せんじ 体制 たいせい へ移行 いこう したが、外交 がいこう 機能 きのう の不備 ふび 、新 しん 京 きょう 放棄 ほうき の混乱 こんらん などにより最後 さいご まで満 まん 洲 しゅう 国 こく 側 がわ からの対 たい ソ宣戦 せんせん は行 おこな われなかった。
関東軍 かんとうぐん 首脳 しゅのう は撤退 てったい を決定 けってい し、新 しん 京 きょう の関東軍 かんとうぐん 関係 かんけい 者 しゃ は8月 がつ 10日 とおか 、憲兵 けんぺい の護衛 ごえい 付 つ き特別 とくべつ 列車 れっしゃ で脱出 だっしゅつ した。満 まん 洲 しゅう 国 こく を防衛 ぼうえい する日本 にっぽん の関東軍 かんとうぐん は、1942年 ねん 以降 いこう 増強 ぞうきょう が中止 ちゅうし され、後 のち に南方 なんぽう 戦線 せんせん などへ戦力 せんりょく を抽出 ちゅうしゅつ されて十分 じゅうぶん な戦力 せんりょく を持 も っていなかったため、国境 こっきょう 付近 ふきん で多 おお くの部隊 ぶたい が全滅 ぜんめつ した。そのため、ソ連 それん 軍 ぐん の侵攻 しんこう で犠牲 ぎせい となったのは、主 おも に満蒙 まもう 開拓 かいたく 移民 いみん をはじめとする日本人 にっぽんじん 居留民 きょりゅうみん たちであった。通 つう 化 か への司令 しれい 部 ぶ 移動 いどう の際 さい に民間 みんかん 人 じん の移動 いどう も関東軍 かんとうぐん の一部 いちぶ では考 かんが えられたが、軍事 ぐんじ 的 てき な面 めん から民間 みんかん 人 じん の大 だい 規模 きぼ な移動 いどう は「全 ぜん 軍 ぐん 的 てき 意図 いと の(ソ連 それん への)暴露 ばくろ 」にあたること、邦人 ほうじん 130万 まん 余 よ 名 めい の輸送 ゆそう 作戦 さくせん に必要 ひつよう な資材 しざい 、時間 じかん もなく、東京 とうきょう の開拓 かいたく 総局 そうきょく にも拒絶 きょぜつ され、結果 けっか 彼 かれ らは武器 ぶき も持 も たないまま置 お き去 ざ りにされ、満 まん 洲 しゅう 領 りょう に攻 せ め込 こ んだソ連 それん 軍 ぐん の侵略 しんりゃく に直面 ちょくめん する結果 けっか になった。
一説 いっせつ にはとくに初期 しょき のソ連 それん 軍 ぐん 兵士 へいし らは囚人 しゅうじん 兵 へい が主体 しゅたい だったともいわれ、軍紀 ぐんき が乱 みだ れ、戦時 せんじ 国際 こくさい 法 ほう の基礎 きそ 教育 きょういく もなく、兵士 へいし らによる日本人 にっぽんじん 居留民 きょりゅうみん に対 たい する殺傷 さっしょう や強姦 ごうかん 、略奪 りゃくだつ 事件 じけん が多発 たはつ した。また、それを怖 こわ れる日本人 にっぽんじん 居留民 きょりゅうみん や開拓 かいたく 団 だん らの中 なか には集団 しゅうだん 自決 じけつ に奔るもの、あるいは逆 ぎゃく に、ソ連 それん 軍 ぐん 将校 しょうこう らと取引 とりひき し未婚 みこん の若 わか い女性 じょせい らを自 みずか ら犠牲 ぎせい に差出 さしだ すものも続出 ぞくしゅつ したという。8月 がつ 14日 にち には葛根 かずらね 廟 びょう 事件 じけん が起 お こっている[44] [45] 。戦後 せんご 、このような形 かたち で強姦 ごうかん され妊娠 にんしん し、博多港 はかたこう に引 ひ き揚 あ げてきた女性 じょせい のためにと厚生省 こうせいしょう 引揚援護 えんご 局 きょく が、二日 ふつか 市 し に診療 しんりょう 所 しょ を設 もう け、当時 とうじ 違法 いほう であったが中絶 ちゅうぜつ 手術 しゅじゅつ を行 おこな った[46] 。もっとも満 まん 洲 しゅう でとくに初期 しょき にはソ連 それん 兵 へい による強姦 ごうかん が多発 たはつ したのは間違 まちが いないが、開拓 かいたく 移民 いみん を多 おお く出 だ した石川 いしかわ 県 けん の満蒙 まもう 開拓 かいたく 団 だん 関係 かんけい 者 しゃ の依頼 いらい で開拓 かいたく 団 だん 史 し をまとめた藤田 ふじた 繁 しげる の調査 ちょうさ ・検証 けんしょう によれば、この二日 ふつか 市 し での中絶 ちゅうぜつ のケースでは、ソ連 それん 兵 へい による強姦 ごうかん と考 かんが えるにはその多 おお くが妊娠 にんしん 時期 じき が合 あ わなかったという[47] 。実際 じっさい には暴行 ぼうこう ばかりでなく、外地 がいち で生 い き延 の びるために、満 まん 洲 しゅう や朝鮮 ちょうせん 等 とう で現地 げんち の男性 だんせい あるいは同 おな じ引揚者 しゃ の日本人 にっぽんじん 男性 だんせい らと一時 いちじ 的 てき にでも夫婦 ふうふ 同然 どうぜん となるような生活 せいかつ を送 おく るしかなかった女性 じょせい らが、郷里 きょうり 帰還 きかん を前 まえ にして中絶 ちゅうぜつ の選択 せんたく を迫 せま られた等 ひとし の事情 じじょう が考 かんが えられることを示唆 しさ している(参照 さんしょう :二日 ふつか 市 し 保養 ほよう 所 しょ )。
皇帝 こうてい 溥儀 ふぎ をはじめとする国家 こっか 首脳 しゅのう たちはソ連 それん の進撃 しんげき が進 すす むと新 あたらし 京 きょう を放棄 ほうき し、朝鮮 ちょうせん にほど近 ちか い、通 つう 化 か 省 しょう 臨江県 けん 大 だい 栗子 りつこ に8月 がつ 13日 にち 夕刻 ゆうこく 到着 とうちゃく 。同地 どうち に避難 ひなん していたが、8月 がつ 15日 にち に行 おこな われた日本 にっぽん の昭和 しょうわ 天皇 てんのう による「玉音 ぎょくおん 放送 ほうそう 」で戦争 せんそう と自 みずか らの帝国 ていこく の終焉 しゅうえん を知 し った。
2日 にち 後 ご の8月 がつ 17日 にち に、国務 こくむ 総理 そうり 大臣 だいじん の張 ちょう 景 けい 恵 めぐみ が主宰 しゅさい する重臣 じゅうしん 会議 かいぎ は通 つう 化 か 市 し で満 まん 洲 しゅう 国 こく の廃止 はいし を決定 けってい 、翌 よく 18日 にち 未明 みめい には溥儀 ふぎ が大 だい 栗子 くりご の地 ち で退位 たいい の詔勅 しょうちょく を読 よ み上 あ げ、満 まん 洲 しゅう 国 こく は誕生 たんじょう から僅 わず か13年 ねん で滅亡 めつぼう した。退位 たいい 詔書 しょうしょ は20日 はつか に公布 こうふ する予定 よてい だったが、実施 じっし できなかった。
8月 がつ 19日 にち に旧 きゅう 満 まん 洲 しゅう 国 こく 政府 せいふ 要人 ようじん による東北 とうほく 地方 ちほう 暫時 ざんじ 治安 ちあん 維持 いじ 委員 いいん 会 かい が組織 そしき されたが、8月 がつ 24日 にち にソ連 それん 軍 ぐん の指示 しじ で解散 かいさん された。溥儀 ふぎ は退位 たいい 宣言 せんげん の翌日 よくじつ 、通 つう 化 か 飛行場 ひこうじょう より飛行機 ひこうき で日本 にっぽん に亡命 ぼうめい する途中 とちゅう 、奉天 ほうてん でソ連 それん 軍 ぐん の空挺 くうてい 部隊 ぶたい によって拘束 こうそく され、通 つう 遼 りょう を経由 けいゆ してソ連 それん のチタ の収容 しゅうよう 施設 しせつ に護送 ごそう された。そのほか、旧 きゅう 政府 せいふ 要人 ようじん も8月 がつ 31日 にち に一斉 いっせい に逮捕 たいほ された。
日本 にっぽん 兵 へい と日本人 にっぽんじん 入植 にゅうしょく 者 しゃ
占領 せんりょう 地域 ちいき の日本 にっぽん 軍 ぐん はソ連 それん 軍 ぐん によって8月 がつ 下旬 げじゅん までに武装 ぶそう 解除 かいじょ された。その後 ご ソ連 それん 軍 ぐん により、シベリアや外 そと 蒙 こうむ 古 こ 、中央 ちゅうおう アジア等 ひとし に連行 れんこう ・抑留 よくりゅう された者 もの もいる(シベリア抑留 よくりゅう )。
ソ連 それん 軍 ぐん の侵攻 しんこう を中国人 ちゅうごくじん や蒙 こうむ 古人 こじん の中 なか には「解放 かいほう 」と捉 とら える人 ひと もおり、ソ連 それん 軍 ぐん を解放 かいほう 軍 ぐん として迎 むか え、当初 とうしょ 関東軍 かんとうぐん と共 とも にソ連 それん 軍 ぐん と戦 たたか っていた満 まん 洲 しゅう 国軍 こくぐん や関東 かんとう 軍 ぐん の朝鮮 ちょうせん 人 じん ・漢人 かんど ・蒙 こうむ 古人 こじん 兵士 へいし らのソ連 それん 側 がわ への離反 りはん が一部 いちぶ で起 お こったため、結果 けっか として関東軍 かんとうぐん の作戦 さくせん 計画 けいかく を妨害 ぼうがい することになった。中華民国 ちゅうかみんこく 政府 せいふ に協力 きょうりょく し反乱 はんらん を起 お こしたことから日本人 にっぽんじん 数 すう 千 せん 名 めい が中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう の八 はち 路 ろ 軍 ぐん に虐殺 ぎゃくさつ された通 つう 化 か 事件 じけん も発生 はっせい した。
また、一部 いちぶ の日本人 にっぽんじん の幼児 ようじ は、肉親 にくしん と死別 しべつ したりはぐれたりして現地 げんち の中国人 ちゅうごくじん に保護 ほご され、あるいは肉親 にくしん 自身 じしん が現地 げんち 人 じん に預 あづ けたりして戦後 せんご も大陸 たいりく に残 のこ った中国 ちゅうごく 残留 ざんりゅう 日本人 にっぽんじん 孤児 こじ が数多 かずおお く発生 はっせい した。その後 ご 、日本人 にっぽんじん は新 しん 京 きょう や大連 たいれん などの大都市 だいとし に集 あつ められたが、日本 にっぽん 本国 ほんごく への引 ひ き揚 あ げ作業 さぎょう は遅 おく れ、ようやく1946年 ねん から開始 かいし された(葫 にんにく 芦 あし 島 とう 在留 ざいりゅう 日本人 にっぽんじん 大 だい 送還 そうかん )。さらに、帰国 きこく した「引揚者 しゃ 」は、戦争 せんそう で経済 けいざい 基盤 きばん が破壊 はかい された日本 にっぽん 国内 こくない では居住 きょじゅう 地 ち もなく、苦 くる しい生活 せいかつ を強 し いられた。政府 せいふ が満蒙 まもう 開拓 かいたく 団 だん や引揚者 しゃ 向 む けに「引揚者 しゃ 村 むら 」を日本 にっぽん 各地 かくち に置 お いたが、いずれも農作 のうさく に適 てき さない荒 あ れた土地 とち で引揚者 しゃ たちは後々 あとあと まで困窮 こんきゅう した。
ソ連 それん 軍政 ぐんせい 下 か
満 まん 洲 しゅう はソ連 それん 軍 ぐん の軍政 ぐんせい 下 か に入 はい り、中華民国 ちゅうかみんこく との中 ちゅう ソ友好 ゆうこう 同盟 どうめい 条約 じょうやく では3か月 げつ 以内 いない に統治 とうち 権 けん の返還 へんかん と撤兵 てっぺい が行 おこな われるはずであったが、実際 じっさい には翌 よく 1946年 ねん 4月 がつ までソ連 それん 軍 ぐん の軍政 ぐんせい が続 つづ き、撫 なで 順 じゅん 市 し や長春 ちょうしゅん 市 し などには八 はち 路 ろ 軍 ぐん が進出 しんしゅつ して中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう が人民 じんみん 政府 せいふ をつくっていた(東北 とうほく 問題 もんだい )。この間 あいだ 、ソ連 それん 軍 ぐん は、東 ひがし ヨーロッパ の場合 ばあい と同様 どうよう に工場 こうじょう 地帯 ちたい などから持 も ち出 だ せそうな機械 きかい 類 るい を根 ね こそぎ略奪 りゃくだつ して本国 ほんごく に持 も ち帰 かえ った。
中華民国 ちゅうかみんこく
1946年 ねん 5月 がつ にはソ連 それん 軍 ぐん は撤退 てったい し、満 まん 洲 しゅう は蔣介石 せき 率 ひき いる中華民国 ちゅうかみんこく に移譲 いじょう された。中華民国 ちゅうかみんこく 政府 せいふ は、行政 ぎょうせい 区分 くぶん を満 まん 洲 しゅう 国 こく 建国 けんこく 以前 いぜん の遼寧 りょうねい ・吉林 きつりん ・黒竜江 こくりゅうこう の東北 とうほく 3省 しょう や熱 ねつ 河 かわ 省 しょう に戻 もど した。しかしその後 ご 国共 こっきょう 内戦 ないせん が再開 さいかい され、中華民国 ちゅうかみんこく 軍 ぐん は、人民 じんみん 解放 かいほう 軍 ぐん に敗北 はいぼく し、中華民国 ちゅうかみんこく 政府 せいふ は台湾 たいわん 島 とう に移転 いてん することとなる。
中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく
1948年 ねん 秋 あき の遼 りょう 瀋戦役 やく でソ連 それん の全面 ぜんめん 的 てき な支援 しえん を受 う けた中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう の中国 ちゅうごく 人民 じんみん 解放 かいほう 軍 ぐん が満 まん 洲 しゅう 全域 ぜんいき を制圧 せいあつ した。毛沢東 もうたくとう は満 まん 洲 しゅう 国 こく がこの地 ち に残 のこ した近代 きんだい 国家 こっか としてのインフラや統治 とうち 機構 きこう を非常 ひじょう に重要 じゅうよう 視 し し、「中国 ちゅうごく 本土 ほんど を国民 こくみん 政府 せいふ に奪回 だっかい されようとも、満 まん 洲 しゅう さえ手中 しゅちゅう にしたならば抗戦 こうせん の継続 けいぞく は可能 かのう であり、中国 ちゅうごく 革命 かくめい を達成 たっせい することができる」として、満 まん 洲 しゅう の制圧 せいあつ に全力 ぜんりょく を注 そそ いだ。八 はち 路 ろ 軍 ぐん きっての猛 もう 将 しょう ・林 はやし 彪 ぴょう と当時 とうじ の中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう ナンバー2・高 こう 崗 が満 まん 洲 しゅう での解放 かいほう 区 く の拡大 かくだい を任 まか されていた。
旧 きゅう 満 まん 洲 しゅう 国軍 こくぐん 興 きょう 安 やす 軍 ぐん である東 ひがし モンゴル自治 じち 政府 せいふ 自治 じち 軍 ぐん はウランフ によって人民 じんみん 解放 かいほう 軍 ぐん に編入 へんにゅう され、チベット侵攻 しんこう などに投入 とうにゅう された[49] 。
1949年 ねん に中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう は中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく を成立 せいりつ させ、満 まん 洲 しゅう 国領 こくりょう だった東 ひがし モンゴル地域 ちいき に新 あら たに内モンゴル自治 うちもんごるじち 区 く を設置 せっち した。満 まん 洲 しゅう 国 こく 時代 じだい に教育 きょういく を受 う けた多 おお くのモンゴル人 じん たちは内 うち モンゴル人民 じんみん 革命 かくめい 党 とう に関係 かんけい するものとして粛清 しゅくせい された(内 うち モンゴル人民 じんみん 革命 かくめい 党 とう 粛清 しゅくせい 事件 じけん )[50] [51] 。ソ連 それん 軍 ぐん から引 ひ き渡 わた された満 まん 洲 しゅう 国 こく 関係 かんけい 者 しゃ の多 おお くは撫 なで 順 じゅん 戦犯 せんぱん 管理 かんり 所 しょ で中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう の思想 しそう 改造 かいぞう を受 う けたが、毛沢東 もうたくとう によって元満 もとみつ 洲 しゅう 国 こく 皇帝 こうてい の溥儀 ふぎ はロシア帝国 ていこく 最後 さいご の皇帝 こうてい ニコライ2世 せい とその一家 いっか を虐殺 ぎゃくさつ したソ連 それん より優越 ゆうえつ している中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう の証左 しょうさ として政治 せいじ 利用 りよう されることとなった[52] 。溥儀 ふぎ は釈放 しゃくほう 後 ご 、満 まん 洲 しゅう 族 ぞく の代表 だいひょう として中国 ちゅうごく 人民 じんみん 政治 せいじ 協商 きょうしょう 会議 かいぎ 全国 ぜんこく 委員 いいん に選出 せんしゅつ された。
満 まん 洲 しゅう 国 こく 地図 ちず
満 まん 洲 しゅう 国 こく の地方 ちほう 行政 ぎょうせい 区画 くかく
上記 じょうき の括弧 かっこ 内 ない に記載 きさい した省 しょう ・自治 じち 区 く はこれらの満 まん 洲 しゅう の省 しょう が属 ぞく する現在 げんざい の中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく の行政 ぎょうせい 区分 くぶん である。
1908年 ねん の時点 じてん で満 まん 洲 しゅう の人口 じんこう は1583万 まん 人 にん だったが、満 まん 洲 しゅう 国 こく が建国 けんこく された1932年 ねん 10月 がつ 1日 にち には2928万 まん 8千 せん 人 にん になっていた[53] 。人口 じんこう 比率 ひりつ としては女性 じょせい 100に対 たい して男性 だんせい 123〜125の割合 わりあい で、1942年 ねん 10月 がつ 1日 にち には人口 じんこう は4424万 まん 2千 せん 人 にん にまで増加 ぞうか していた[54] 。移民 いみん 国家 こっか としての側面 そくめん もあり、内地 ないち からの日本 にっぽん 本土 ほんど 人 じん 以外 いがい でも、隣接 りんせつ する外地 がいち の朝鮮 ちょうせん からの移住 いじゅう 者 しゃ が増加 ぞうか した他 た 、台湾 たいわん 人 じん も5000人 にん 移 うつ り住 す んだ。
国務 こくむ 院 いん 総務庁 そうむちょう と治安 ちあん 部 ぶ 警務 けいむ 司 し の統計 とうけい では1940年 ねん (康徳 やすのり 7年 ねん )10月 がつ 1日 にち の満 まん 洲 しゅう 国 こく の人口 じんこう は4108万 まん 0907人 にん 、男女 だんじょ 比 ひ は120:100[56] 。国務 こくむ 院 いん 国勢調査 こくせいちょうさ では[57] 、同 どう 時期 じき の満 まん 洲 しゅう 国 こく の人口 じんこう は4323万 まん 3954人 にん 、男女 だんじょ 比 ひ は123.8:100であった[56] 。統計 とうけい に開 ひら きがあるのは、警察 けいさつ 戸口 とぐち 調査 ちょうさ においては現住 げんじゅう 人口 じんこう 調査 ちょうさ 主義 しゅぎ [注釈 ちゅうしゃく 9] を、臨時 りんじ 国勢調査 こくせいちょうさ においては現在 げんざい 人口 じんこう 調査 ちょうさ 主義 しゅぎ [注釈 ちゅうしゃく 10] を採用 さいよう したことによる[58] 。
人口 じんこう の構成 こうせい としては、
全 ぜん 人口 じんこう
全 ぜん 人口 じんこう に占 し める割合 わりあい
満 まん 洲 しゅう 人 じん (漢 かん 族 ぞく 、満 まん 洲 しゅう 族 ぞく )
38,885,562人 にん
94.65%
日本人 にっぽんじん
2,128,582人 にん
5.18%
その他 た 外国 がいこく 人 じん (白 しろ 系 けい ロシア人 じん を含 ふく む)
66,783人 にん
0.16%
上記 じょうき の「日本人 にっぽんじん 」の中 なか には、130万 まん 9千 せん 人 にん の朝鮮 ちょうせん 人 じん を含 ふく む。台湾 たいわん 人 じん は朝鮮 ちょうせん 人 じん に含 ふく まれている[56] 。
主要 しゅよう 都市 とし の人口 じんこう は下記 かき のとおり[56] 。
都市 とし 名 めい
全 ぜん 人口 じんこう
その内 うち の日本人 にっぽんじん の人口 じんこう
データ
奉天 ほうてん
1,003,716人 にん
170,580人 にん
1940年 ねん
哈爾浜 はま
558,829人 にん
51,650人 にん
1940年 ねん
新 しん 京 きょう
490,253人 にん
129,321人 にん
1940年 ねん
大連 たいれん
338,872人 にん
84,794人 にん
1938年 ねん
安東 あんどう
246,129人 にん
43,358人 にん
1940年 ねん
営口
176,917人 にん
8,320人 にん
1940年 ねん
吉 よし 林 りん
145,035人 にん
17,941人 にん
1940年 ねん
斉 ひとし 斉 ひとし 哈爾
118,708人 にん
14,290人 にん
1940年 ねん
満 まん 洲 しゅう 国 こく においては最後 さいご まで国籍 こくせき 法 ほう が制定 せいてい されなかったため、満 まん 洲 しゅう 国籍 こくせき を有 ゆう する者 もの の範囲 はんい は法令 ほうれい 上 じょう 明確 めいかく にされず、慣習 かんしゅう 法 ほう により定 さだ まっているものとする学説 がくせつ が有力 ゆうりょく であった[59] [60] 。国籍 こくせき 法 ほう が制定 せいてい されなかった背景 はいけい として、二 に 重 じゅう 国籍 こくせき を認 みと めない日本 にっぽん の国籍 こくせき 法 ほう 上 じょう 、日本人 にっぽんじん 入植 にゅうしょく 者 しゃ が「日本 にっぽん 系 けい 満 まん 洲 しゅう 国人 くにびと 」となって日本 にっぽん 国籍 こくせき を放棄 ほうき せざるを得 え ないこととなれば、新規 しんき 日本人 にっぽんじん 入植 にゅうしょく 者 しゃ が減少 げんしょう する恐 おそ れがあること、日本 にっぽん の統治 とうち 下 か にあった朝鮮 ちょうせん 人 じん を日本 にっぽん 国民 こくみん として扱 あつか っていた朝鮮 ちょうせん 政策 せいさく との整合 せいごう 性 せい の問題 もんだい や、白 しろ 系 けい ロシア人 じん の帰化 きか 問題 もんだい などがあった[60] 。1940年 ねん (康徳 やすのり 7年 ねん )に「暫行民 みん 籍 せき 法 ほう 」(康徳 やすのり 7年 ねん 8月 がつ 1日 にち 勅 みことのり 令 れい 第 だい 197号 ごう )が制定 せいてい され、民 みん 籍 せき に記載 きさい された者 もの は満 まん 洲 しゅう 国 こく 人民 じんみん として扱 あつか われた。日本人 にっぽんじん が満 まん 洲 しゅう 国 こく で出生 しゅっしょう した場合 ばあい には国籍 こくせき が不明 ふめい 確 かく になるが、満 まん 洲 しゅう 国 こく の特命 とくめい 全権 ぜんけん 大使 たいし にその旨 むね を届 とど け出 で て、大使 たいし が内地 ないち の本籍 ほんせき 地 ち にそれを回送 かいそう することで日本人 にっぽんじん として内地 ないち の戸籍 こせき に登録 とうろく された。
日本人 にっぽんじん ・満蒙 まもう 開拓 かいたく 移民 いみん の人口 じんこう
編集 へんしゅう
1931年 ねん (昭和 しょうわ 6年 ねん )から1932年 ねん (昭和 しょうわ 7年 ねん )の満 まん 洲 しゅう には59万 まん 人 にん の日本人 にっぽんじん (朝鮮 ちょうせん ・台湾 たいわん 籍 せき を含 ふく む)が居住 きょじゅう し、うち10万 まん 人 にん は農民 のうみん だった。営口では人口 じんこう の25%が日本人 にっぽんじん だったという。
満 まん 洲 しゅう 事変 じへん 以前 いぜん において、漢 かん 族 ぞく 以外 いがい の満 まん 洲 しゅう への移住 いじゅう 農民 のうみん の内 うち の多数 たすう は半島 はんとう 人 じん とも呼 よ ばれた朝鮮 ちょうせん 籍 せき 日本人 にっぽんじん であり、日本 にっぽん 内地 ないち から満 まん 洲 しゅう への移住 いじゅう 者 しゃ の大半 たいはん は軍 ぐん 関係 かんけい 者 しゃ あるいは南 みなみ 満 まん 洲 しゅう 鉄道 てつどう および附属 ふぞく 地 ち の企業 きぎょう 関係 かんけい 者 しゃ とその家族 かぞく であった。満 まん 洲 しゅう 国 こく の成立 せいりつ 以降 いこう 、日本 にっぽん 政府 せいふ は国内 こくない における貧困 ひんこん 農村 のうそん の集落 しゅうらく 住民 じゅうみん や都市 とし 部 ぶ の農業 のうぎょう 就業 しゅうぎょう 希望 きぼう 者 しゃ を中心 ちゅうしん に、「満蒙 まもう 開拓 かいたく 団 だん 」と称 しょう する満蒙 まもう 開拓 かいたく 移民 いみん を募集 ぼしゅう した。さらに日本 にっぽん 政府 せいふ は1936年 ねん (昭和 しょうわ 11年 ねん )から1956年 ねん (昭和 しょうわ 31年 ねん )の間 あいだ に、500万 まん 人 にん の日本人 にっぽんじん の移住 いじゅう を計画 けいかく していた。当時 とうじ 満 まん 洲 しゅう は実際 じっさい には4千 せん 万 まん 人 にん の人口 じんこう がいたとみられるが、誤 あやま って3千 せん 万 まん 人 にん 程度 ていど と考 かんが えられていた。それが20年 ねん 後 ご には5千 せん 万 まん 人 にん に増 ふ えるのではないかとみなして、漢 かん ・満 まん ・日 び ・蒙 こうむ ・朝 あさ の五 ご 族 ぞく 中 ちゅう 、日本人 にっぽんじん がその一 いち 割 わり を確保 かくほ したいと考 かんが えたのである[39] 。結局 けっきょく は、1945年 ねん (昭和 しょうわ 20年 ねん )のポツダム宣言 せんげん 受諾 じゅだく での日本 にっぽん の降伏 ごうぶく により満 まん 洲 しゅう 国 こく は消滅 しょうめつ したために、この計画 けいかく は頓挫 とんざ に終 お わった。1938年 ねん (昭和 しょうわ 13年 ねん )から1942年 ねん (昭和 しょうわ 17年 ねん )の間 あいだ には20万 まん 人 にん の農業 のうぎょう 青年 せいねん を、1936年 ねん (昭和 しょうわ 11年 ねん )には2万 まん 人 にん の家族 かぞく 移住 いじゅう 者 しゃ を送 おく り込 こ んだ。なお、満 まん 洲 しゅう で逐次 ちくじ 開設 かいせつ されていった小学校 しょうがっこう の日本人 にっぽんじん 教員 きょういん の募集 ぼしゅう は内地 ないち の給与 きゅうよ の7割 わり から17割 わり 5分 ふん 増 ま しで募集 ぼしゅう された[注釈 ちゅうしゃく 11] 。
これらの開拓 かいたく 団 だん の土地 とち を確保 かくほ するため、先 さき に現地 げんち で耕作 こうさく していた農民 のうみん らの土地 とち を強制 きょうせい 的 てき に安値 やすね で買 か い取 と っていったという。しかし、日本 にっぽん 内地 ないち からの移民 いみん はとても数 すう 百 ひゃく 万 まん 人 にん 規模 きぼ の計画 けいかく を満 み たすものでなく、その結果 けっか 、長野 ながの 県 けん などの貧 まず しい農村 のうそん を標的 ひょうてき に、今 いま でいう補助 ほじょ 金 きん の停止 ていし をちらつかせるような形 かたち で、各地 かくち の中学校 ちゅうがっこう の教諭 きょうゆ らにもその生徒 せいと からの確保 かくほ を命 めい じて強引 ごういん に行 おこな われていったとされる。計画 けいかく を進 すす めた東宮 とうぐう 鉄男 てつお らの考 かんが えでは、日本人 にっぽんじん 移民 いみん はソ連 それん を攻撃 こうげき する際 さい の現地 げんち 近辺 きんぺん での徴兵 ちょうへい の基盤 きばん 作 づく りあるいは逆 ぎゃく に攻 せ められた際 さい の防御 ぼうぎょ の盾 たて とするためであり、したがって都市 とし などに出 で て行 い って商売 しょうばい 等 とう に従事 じゅうじ したりしないよう、彼 かれ らの多 おお くは僻地 へきち に送 おく られたが、中 なか には、比較的 ひかくてき 都市 とし に近 ちか いような場所 ばしょ で追 お い出 だ された現地 げんち 人 じん らを小作 こさく 人 じん ・使用人 しようにん として使 つか って比較的 ひかくてき 商品 しょうひん 性 せい の高 たか い作物 さくもつ を作 つく っていた例 れい もあったという。[39]
終戦 しゅうせん 時 じ 、ソ連 それん 対 たい 日 にち 参戦 さんせん によりソビエト連邦 れんぽう が満 まん 洲 しゅう に侵攻 しんこう した際 さい には、85万 まん 人 にん の日本人 にっぽんじん 移住 いじゅう 者 しゃ を抑留 よくりゅう している。公務員 こうむいん や軍人 ぐんじん を例外 れいがい として、基本 きほん 的 てき にはこれらの人々 ひとびと は1946年 ねん (昭和 しょうわ 21年 ねん )から1947年 ねん (昭和 しょうわ 22年 ねん )にかけて段階 だんかい 的 てき に連合 れんごう 国軍 こくぐん 占領 せんりょう 下 か の日本 にっぽん に送還 そうかん されている。
もともと朝鮮 ちょうせん との国境 こっきょう に近 ちか い地域 ちいき には朝鮮 ちょうせん 民族 みんぞく の居住 きょじゅう 者 しゃ も多 おお く、歴史 れきし 的 てき にも満 まん 洲 しゅう 族 ぞく との交流 こうりゅう が深 ふか かったため、建国 けんこく 当時 とうじ 日本 にっぽん 領 りょう であった朝鮮半島 ちょうせんはんとう からも多 おお くの朝鮮 ちょうせん 籍 せき 日本人 にっぽんじん が満 まん 洲 しゅう 国 こく へ移住 いじゅう した。農業 のうぎょう 以外 いがい にも水商売 みずしょうばい や小規模 しょうきぼ 商店 しょうてん などの事業 じぎょう を行 おこな うものも多 おお かった。しかし現地 げんち の住民 じゅうみん たちの反感 はんかん を買 か う事例 じれい もあったという。
1934年 ねん (昭和 しょうわ 9年 ねん )10月30日 にち 、岡田 おかだ 内閣 ないかく (岡田 おかだ 啓介 けいすけ 首相 しゅしょう )は朝鮮 ちょうせん 人 じん の内地 ないち への移入 いにゅう によって失業 しつぎょう 率 りつ や治安 ちあん の悪化 あっか が進 すす んでいる日本 にっぽん 本土 ほんど を守 まも るとして、朝鮮 ちょうせん 人 じん が満 まん 洲 しゅう に向 む かうよう満 まん 洲 しゅう 国 こく の経済 けいざい 開発 かいはつ を推 お し進 すす めることを閣議 かくぎ 決定 けってい している[62] 。
満 まん 洲 しゅう 事変 じへん 以前 いぜん からヨーロッパ におけるユダヤ人 じん 問題 もんだい に関心 かんしん を持 も ち始 はじ めていた日本 にっぽん 政府 せいふ は、満 まん 洲 しゅう 国内 こくない におけるユダヤ教 きょう 徒 と によるユダヤ人 じん 自治 じち 州 しゅう を企図 きと し、反 はん ユダヤ政策 せいさく を推進 すいしん していたナチス・ドイツ 政府 せいふ に対 たい し、その受 う け入 い れを打診 だしん していた(河豚 ふぐ 計画 けいかく )。
しかしその後 ご 、日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう (支 ささえ 那 な 事変 じへん )に突入 とつにゅう したことなどにより、日 にち 満 まん 両 りょう 政府 せいふ が本格 ほんかく 的 てき に遂行 すいこう することはなく、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 前夜 ぜんや のナチス・ドイツ やソビエト連邦 れんぽう による反 はん ユダヤ人 じん 政策 せいさく を嫌悪 けんお し、満 まん 洲 しゅう 国 こく 経由 けいゆ でアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく や南米 なんべい 諸国 しょこく に亡命 ぼうめい しようとしたユダヤ人 じん のうち少数 しょうすう が満 まん 洲 しゅう 国 こく に移住 いじゅう したにとどまった。
満 まん 洲 しゅう 国 こく の初代 しょだい 内 ない 閣 かく
満 まん 洲 しゅう 国 こく は公式 こうしき には五 ご 族 ぞく 協和 きょうわ の王道 おうどう 楽土 らくど を理念 りねん とし、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく をモデルとして建設 けんせつ され、アジア での多 た 民族 みんぞく 共生 きょうせい の実験 じっけん 国家 こっか であるとされた。共和 きょうわ 制 せい 国家 こっか であるアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく をモデルとするとしていたものの、皇帝 こうてい を国家 こっか 元首 げんしゅ とする立憲 りっけん 君主 くんしゅ 制 せい 国家 こっか である。五 ご 族 ぞく 協和 きょうわ とは、満蒙 まもう 漢 かん 日 にち 朝 ちょう の五 ご 民族 みんぞく が協力 きょうりょく し、平和 へいわ な国 くに 造 づく りを行 おこな うこと、王道 おうどう 楽土 らくど とは、西洋 せいよう の「覇道 はどう 」に対 たい し、アジアの理想 りそう 的 てき な政治 せいじ 体制 たいせい を「王道 おうどう 」とし、満 まん 洲 しゅう 国 こく 皇帝 こうてい を中心 ちゅうしん に理想 りそう 国家 こっか を建設 けんせつ することを意味 いみ している。満 まん 洲 しゅう にはこの五 ご 族 ぞく 以外 いがい にも、ロシア革命 かくめい 後 のち に共産 きょうさん 主義 しゅぎ 政権 せいけん を嫌 きら いソビエトから逃 のが れてきた白 しろ 系 けい ロシア人 じん 等 ひとし も居住 きょじゅう していた。
その中 なか でも特 とく に、ボリシェヴィキ との戦争 せんそう に敗 やぶ れて亡 ほろ ぼされた緑 みどり ウクライナ のウクライナ人 じん 勢力 せいりょく と満 まん 洲 しゅう 国 こく は接触 せっしょく を図 はか っており、戦前 せんぜん には日 ひ 満 まん 宇の三 さん 国 こく 同盟 どうめい で反 はん ソ戦争 せんそう を開始 かいし する計画 けいかく を協議 きょうぎ していた。しかし、1937年 ねん にはウクライナ人 じん 組織 そしき にかわってロシア人 じん のファシスト組織 そしき (ロシアファシスト党 とう )を支援 しえん する方針 ほうしん に変更 へんこう し、ロシア人 じん 組織 そしき と対立 たいりつ のあるウクライナ人 じん 組織 そしき とは断交 だんこう した。第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 ちゅう に再 ふたた びウクライナ人 じん 組織 そしき と手 て を結 むす ぼうとしたが、太平洋 たいへいよう 方面 ほうめん での苦戦 くせん もあり、極東 きょくとう での反 はん ソ武力 ぶりょく 抗争 こうそう は実現 じつげん しなかった。
満 まん 洲 しゅう 国 こく は建国 けんこく の経緯 けいい もあって日本 にっぽん の計画 けいかく 的 てき 支援 しえん の下 した 、きわめて短期間 たんきかん で発展 はってん した。内戦 ないせん の続 つづ く中国 ちゅうごく からの漢 かん 人 じん や、新 あたら しい環境 かんきょう を求 もと める朝鮮 ちょうせん 人 じん などの移民 いみん があり、とりわけ日本 にっぽん 政府 せいふ の政策 せいさく に従 したが って満 まん 洲 しゅう 国内 こくない に用意 ようい された農地 のうち に入植 にゅうしょく する日本 にっぽん 内地 ないち 人 じん などの移民 いみん は大変 たいへん 多 おお かった。これらの移民 いみん によって満 まん 洲 しゅう 国 こく の人口 じんこう も急激 きゅうげき な勢 いきお いで増加 ぞうか した。
国務 こくむ 院 いん
満 まん 洲 しゅう 国 こく 政府 せいふ は、国家 こっか 元首 げんしゅ として執政 しっせい (後 のち に皇帝 こうてい )、諮詢 しじゅん 機関 きかん として参議 さんぎ 府 ふ 、行政 ぎょうせい 機関 きかん として国務 こくむ 院 いん 、司法 しほう 機関 きかん として法 ほう 院 いん 、立法 りっぽう 機関 きかん として立法院 りっぽういん 、監察 かんさつ 機関 きかん として監察 かんさつ 院 いん を置 お いた。
国務 こくむ 院 いん には総務庁 そうむちょう が設置 せっち され、官制 かんせい 上 じょう は首相 しゅしょう の補佐 ほさ 機関 きかん ながら、日本人 にっぽんじん 官吏 かんり のもと満 まん 洲 しゅう 国 こく 行政 ぎょうせい の実質 じっしつ 的 てき な中核 ちゅうかく として機能 きのう した(総務庁 そうむちょう 中心 ちゅうしん 主義 しゅぎ )。それに対 たい し国務 こくむ 院 いん 会議 かいぎ の議決 ぎけつ や参議 さんぎ 府 ふ の諮詢 しじゅん は形式 けいしき 的 てき なものにとどまり、立法院 りっぽういん に至 いた っては正式 せいしき に開設 かいせつ すらされなかった。
皇宮 こうぐう として建 た てられた同 どう 徳 いさお 殿 どの
元首 げんしゅ (執政 しっせい 、のち皇帝 こうてい )は、愛 あい 新 しん 覚 さとし 羅 ら 溥儀 ふぎ がつき、1937年 ねん (康徳 やすのり 4年 ねん )3月 がつ 1日 にち に公布 こうふ された帝位 ていい 継承 けいしょう 法 ほう 第 だい 一 いち 条 じょう により、溥儀 ふぎ 皇帝 こうてい の男系 だんけい 子孫 しそん たる男子 だんし が帝位 ていい を継承 けいしょう すべきものとされた[63] 。
帝位 ていい 継承 けいしょう 法 ほう の想定 そうてい 外 がい の事態 じたい に備 そな えて、満 まん 洲 しゅう 帝国 ていこく 駐箚 ちゅうさつ (駐在 ちゅうざい )大日本帝国 だいにっぽんていこく 特命 とくめい 全権 ぜんけん 大使 たいし 兼 けん 関東軍 かんとうぐん 司令 しれい 官 かん との会談 かいだん で、皇帝 こうてい は、清朝 せいちょう 復辟 ふくへき 派 は の策謀 さくぼう を抑 おさ え、関東軍 かんとうぐん に指名 しめい 権 けん を確保 かくほ させるため、自身 じしん に帝 みかど 男 おとこ 子孫 しそん が無 な いときは、日本 にっぽん の天皇 てんのう の叡慮 えいりょ によって帝位 ていい 継承 けいしょう 者 しゃ を定 さだ める旨 むね を皇帝 こうてい が宣言 せんげん することなどを内容 ないよう とした覚書 おぼえがき などに署名 しょめい している(なお、溥儀 ふぎ にはこの時点 じてん で実子 じっし がおらず、その後 ご も死去 しきょ するまで誕生 たんじょう していない)。
満 まん 洲 しゅう 国 こく は瓦解 がかい に至 いた るまで国籍 こくせき 法 ほう を定 さだ めず、法的 ほうてき な国民 こくみん の規定 きてい はなされなかった。結果 けっか 、移民 いみん や官僚 かんりょう も含 ふく めた満 まん 洲 しゅう 居住 きょじゅう の日本人 にっぽんじん は日本 にっぽん 国籍 こくせき を有 ゆう したままであり、敗戦 はいせん 後 ご 、法的 ほうてき な障害 しょうがい 無 な しに日本 にっぽん へ引 ひ き揚 あ げる事 こと が出来 でき た。1940年 ねん (康徳 やすのり 7年 ねん )に「暫行民 みん 籍 せき 法 ほう 」(康徳 やすのり 7年 ねん 8月 がつ 1日 にち 勅 みことのり 令 れい 第 だい 197号 ごう )が制定 せいてい され、民 みん 籍 せき に記載 きさい された者 もの は満 まん 洲 しゅう 国 こく 人民 じんみん として扱 あつか われた。
鄭 てい 孝 たかし 胥(中央 ちゅうおう )ほか首脳 しゅのう
1932年 ねん (大同 だいどう 元年 がんねん )の建国 けんこく 時 じ には首相 しゅしょう (執政 しっせい 制 せい 下 か では国務 こくむ 院 いん 総理 そうり 、帝政 ていせい 移行 いこう 後 ご は国務 こくむ 総理 そうり 大臣 だいじん )として鄭 てい 孝 たかし 胥が就任 しゅうにん し、1935年 ねん (康徳 やすのり 2年 ねん )には軍政 ぐんせい 部 ぶ 大臣 だいじん の張 ちょう 景 けい 恵 めぐみ が首相 しゅしょう に就任 しゅうにん した。
しかし実際 じっさい の政治 せいじ 運営 うんえい は、満 まん 洲 しゅう 帝国 ていこく 駐箚 ちゅうさつ 大日本帝国 だいにっぽんていこく 特命 とくめい 全権 ぜんけん 大使 たいし 兼 けん 関東軍 かんとうぐん 司令 しれい 官 かん の指導 しどう 下 か に行 おこな われた。元首 げんしゅ は首相 しゅしょう や閣僚 かくりょう をはじめ官吏 かんり を任命 にんめい し、官制 かんせい を定 さだ める権限 けんげん が与 あた えられたが、関東軍 かんとうぐん が実質 じっしつ 的 てき に満 まん 洲 しゅう 国 こく 高級 こうきゅう 官吏 かんり 、特 とく に日本人 にっぽんじん が主 おも に就任 しゅうにん する総務庁 そうむちょう 長官 ちょうかん や各部 かくぶ 次長 じちょう (次官 じかん )などは、高級 こうきゅう 官吏 かんり の任命 にんめい や罷免 ひめん を決定 けってい する権限 けんげん をもっていたので、関東軍 かんとうぐん の同意 どうい がなければこれらを任免 にんめん することができなかった。
公務員 こうむいん の約 やく 半分 はんぶん が日本 にっぽん 内地 ないち 人 じん で占 し められ、高 たか い地位 ちい ほど日本人 にっぽんじん 占有 せんゆう 率 りつ が高 たか かった。これらの日本 にっぽん 内地 ないち 人 じん は日本 にっぽん 国籍 こくせき を有 ゆう したままである。俸給 ほうきゅう 、税率 ぜいりつ 面 めん でも日本人 にっぽんじん が優遇 ゆうぐう された。関東軍 かんとうぐん は満 まん 洲 しゅう 国 こく 政府 せいふ をして日本 にっぽん 内地 ないち 人 じん を各 かく 行政 ぎょうせい 官庁 かんちょう の長 ちょう ・次長 じちょう に任命 にんめい させてこの国 くに の実権 じっけん を握 にぎ らせた。これを内面 ないめん 指導 しどう と呼 よ んだ(弐 に キ参 さん スケ )。これに対 たい し、石原 いしはら 莞爾 かんじ は強 つよ く批難 ひなん していた。しかし、台湾 たいわん 人 じん (満 まん 洲 しゅう 国人 くにびと )の謝 しゃ 介石 かいせき は外交 がいこう 部 ぶ 総長 そうちょう に就任 しゅうにん しており、裁判官 さいばんかん や検察官 けんさつかん なども日本 にっぽん 内地 ないち 人 じん 以外 いがい の民族 みんぞく から任用 にんよう されるなど[64] 、日本 にっぽん 内地 ないち 人 じん 以外 いがい の民族 みんぞく にも高位 こうい 高官 こうかん に達 たっ する機会 きかい がないわけではなかった。しかし、これも日本 にっぽん に従順 じゅうじゅん である事 こと が前提 ぜんてい で、初代 しょだい 首相 しゅしょう の鄭 てい 孝 たかし 胥も関東軍 かんとうぐん を批判 ひはん する発言 はつげん を行 おこな ったことから、半 なか ば解任 かいにん の形 かたち で辞任 じにん に追 お い込 こ まれている。
省 しょう 長等 ながら の地方 ちほう 長官 ちょうかん は建国 けんこく 当初 とうしょ は現地 げんち 有力 ゆうりょく 者 しゃ が任命 にんめい される事 こと が多 おお かったが、これも次第 しだい に日本人 にっぽんじん に置 お き換 か えられていった。
憲法 けんぽう に相当 そうとう する組織 そしき 法 ほう には、一院制 いちいんせい 議会 ぎかい として立法院 りっぽういん の設置 せっち が規定 きてい されていたが選挙 せんきょ は一 いち 度 ど も行 おこな われなかった。政治 せいじ 結社 けっしゃ の組織 そしき も禁止 きんし されており、満 まん 洲 しゅう 国 こく 協和 きょうわ 会 かい という官民 かんみん 一致 いっち の唯一 ゆいいつ の政治 せいじ 団体 だんたい のみが存在 そんざい し、実質 じっしつ 的 てき に民意 みんい を汲 く み取 と る機関 きかん として期待 きたい された。
憲法 けんぽう に相当 そうとう する組織 そしき 法 ほう や人権 じんけん 保障 ほしょう 法 ほう をはじめ、民法 みんぽう や刑法 けいほう などの基本 きほん 法典 ほうてん について、日本 にっぽん に倣 なら った法 ほう 制度 せいど が整備 せいび された。当時 とうじ の日本 にっぽん 法 ほう との相違 そうい としては、組織 そしき 法 ほう において、各 かく 閣僚 かくりょう や合議 ごうぎ 体 たい としての内閣 ないかく ではなく、首相 しゅしょう 個人 こじん が皇帝 こうてい の輔弼 ほひつ 機関 きかん とされたこと、刑法 けいほう における構成 こうせい 要件 ようけん はほぼ同様 どうよう であるが、法定 ほうてい 刑 けい が若干 じゃっかん 日本 にっぽん 刑法 けいほう より重 おも く規定 きてい されていること、検察庁 けんさつちょう が裁判所 さいばんしょ から分離 ぶんり した独自 どくじ の機関 きかん とされたことなどが挙 あ げられる。
満 まん 洲 しゅう 国 こく 版図 はんと では日 にち 露 ろ 中 ちゅう の支配 しはい 域 いき ごとに異 こと なる標準時 ひょうじゅんじ が用 もち いられていたが、満 まん 洲 しゅう 国 こく は東経 とうけい 120度 ど を子午線 しごせん とし、UTC+8 を標準時 ひょうじゅんじ として統一 とういつ した。1937年 ねん 1月 がつ 1日 にち に日本 にっぽん 標準時 ひょうじゅんじ に合 あ わせてUTC+9 に変更 へんこう された[65] 。変更 へんこう 後 ご の子午線 しごせん は東経 とうけい 135度 ど となり、満 まん 洲 しゅう 国内 こくない を通 とお っていない。
禁衛 きんえい 隊 たい
満 まん 洲 しゅう 国 こく の国軍 こくぐん は、1932年 ねん (大同 だいどう 元年 がんねん )4月 がつ 15日 にち 公布 こうふ の陸海 りくかい 軍 ぐん 条例 じょうれい (大同 だいどう 元年 がんねん 4月 がつ 15日 にち 軍令 ぐんれい 第 だい 1号 ごう )をもって成立 せいりつ した。日 ひ 満 まん 議定 ぎてい 書 しょ によって日本 にっぽん 軍 ぐん (関東軍 かんとうぐん )の駐留 ちゅうりゅう を認 みと めていた満 まん 洲 しゅう 国 こく 自体 じたい の性質 せいしつ 上 じょう もあり、「関東軍 かんとうぐん との連携 れんけい 」を前提 ぜんてい とし、「国内 こくない の治安 ちあん 維持 いじ 」「国境 こっきょう 周辺 しゅうへん ・河川 かせん の警備 けいび 」を主 おも 任務 にんむ とした、軍隊 ぐんたい というより関東軍 かんとうぐん の後方 こうほう 支援 しえん 部隊 ぶたい 、準 じゅん 軍事 ぐんじ 組織 そしき や国境警備隊 こっきょうけいびたい としての性格 せいかく が強 つよ かった。
後年 こうねん 、太平洋戦争 たいへいようせんそう の激化 げきか を受 う けた関東軍 かんとうぐん の弱体 じゃくたい 化 か ・対 たい ソ開戦 かいせん の可能 かのう 性 せい から実質 じっしつ 的 てき な国軍 こくぐん 化 か が進 すす められたが、ソ連 それん 対 たい 日 にち 参戦 さんせん の際 さい は所轄 しょかつ 上部 じょうぶ 機関 きかん より離反 りはん してソ連 それん 側 がわ へ投降 とうこう ・転向 てんこう する部隊 ぶたい が続出 ぞくしゅつ し、関東軍 かんとうぐん の防衛 ぼうえい 戦略 せんりゃく を破綻 はたん させた。
満 まん 洲 しゅう 中央 ちゅうおう 銀行 ぎんこう
政府 せいふ 主導 しゅどう ・日本 にっぽん 資本 しほん 導入 どうにゅう による重工業 じゅうこうぎょう 化 か 、近代 きんだい 的 てき な経済 けいざい システム導入 どうにゅう 、大量 たいりょう の開拓 かいたく 民 みん による農業 のうぎょう 開発 かいはつ などの経済 けいざい 政策 せいさく は成功 せいこう を収 おさ め、急速 きゅうそく な発展 はってん を遂 と げるが、日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう (日 にち 華 はな 事変 じへん )による経済 けいざい 的 てき 負担 ふたん 、そしてその影響 えいきょう によるインフレーション は、満 まん 洲 しゅう 国 こく 体制 たいせい に対 たい する満 まん 洲 しゅう 国民 こくみん の不満 ふまん の要因 よういん ともなった。政府 せいふ の指導 しどう による計画 けいかく 経済 けいざい が基本 きほん 政策 せいさく で、企業 きぎょう 間 あいだ 競争 きょうそう を排 はい するため、一 いち 業界 ぎょうかい につき一 いち 社 しゃ を原則 げんそく とした。
三井 みつい 財閥 ざいばつ や三菱 みつびし 財閥 ざいばつ の財閥 ざいばつ 系 けい 企業 きぎょう をはじめとする多 おお くの日本 にっぽん 企業 きぎょう が進出 しんしゅつ したほか、国交 こっこう 樹立 じゅりつ していたドイツやイタリアの企業 きぎょう であるテレフンケン やボッシュ およびフィアット も進出 しんしゅつ していた。なお、日産 にっさん コンツェルン は1937年 ねん (康徳 やすのり 4年 ねん )に持株 もちかぶ 会社 かいしゃ の日本 にっぽん 産業 さんぎょう を満 まん 洲 しゅう に移転 いてん し、満 まん 洲 しゅう 重工業 じゅうこうぎょう 開発 かいはつ (満 まん 業 ぎょう )を設立 せつりつ している。さらに国交 こっこう のないアメリカの大 だい 企業 きぎょう であるフォード・モーター やゼネラルモーターズ およびクライスラー やゼネラル・エレクトリック 等 ひとし 、イギリスの香港 ほんこん 上海 しゃんはい 銀行 ぎんこう なども進出 しんしゅつ し、1941年 ねん 7月 がつ に日 にち 英 えい 米 べい 関係 かんけい が悪化 あっか するまで企業 きぎょう 活動 かつどう を続 つづ けた。
三菱 みつびし とアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく のアソシエイテッド石油 せきゆ (Associated Oil )は1931年 ねん に合弁 ごうべん で三菱石油 みつびしせきゆ を設立 せつりつ し、三菱石油 みつびしせきゆ は1934年 ねん (昭和 しょうわ 9年 ねん )2月 がつ 、資本 しほん 金 きん 500万 まん 円 えん で大連 たいれん に満 まん 洲 しゅう 石油 せきゆ を設立 せつりつ し[82] 、翌年 よくねん 1月 がつ に大連 たいれん 製油 せいゆ 所 しょ が建設 けんせつ [83] 。1936年 ねん には、満州 まんしゅう 石油 せきゆ と渤海石油 せきゆ (Pohai Petroleum Company)が共同 きょうどう で天津 てんしん の大 だい 華 はな 火 ひ 油 あぶら (Ta Hua Petrorium、1932年 ねん 設立 せつりつ )を買収 ばいしゅう するなど事業 じぎょう を拡大 かくだい し[注釈 ちゅうしゃく 14] 、1938年 ねん には子会社 こがいしゃ として蒙 こうむ 彊 つよし 石油 せきゆ (もうきょうせきゆ)も設立 せつりつ した。
また日本 にっぽん 帝国 ていこく は、北 きた 樺太 からふと での石油 せきゆ 試掘 しくつ と同様 どうよう に、ジャライノール や阜新 で油 あぶら 脈 みゃく の試掘 しくつ を行 おこな っていたが、そのことは当時 とうじ は軍事 ぐんじ 機密 きみつ であった[86] 。
法定 ほうてい 通貨 つうか は満 まん 洲 しゅう 中央 ちゅうおう 銀行 ぎんこう が発行 はっこう した満 まん 洲 しゅう 国 こく 圓 えん (圓 えん 、yuan)で、1圓 えん =10角 かく =100分 ふん =1000厘 りん だった。当時 とうじ の中華民国 ちゅうかみんこく や現在 げんざい の中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく の通貨 つうか 単位 たんい も圓 えん (元 もと 、yuan)で同 おな じだが、中華民国 ちゅうかみんこく の通貨 つうか が「法 ほう 幣 ぬさ 」と呼 よ ばれたのに対 たい し、同 おな じく法 ほう 幣 ぬさ の意味 いみ をもつ満 まん 洲 しゅう 国 こく の通貨 つうか は「国 くに 幣 ぬさ 」と表記 ひょうき して区別 くべつ した。中華民国 ちゅうかみんこく の銀 ぎん 圓 えん ・法 ほう 幣 ぬさ (及 およ び現在 げんざい の人民元 じんみんげ 、台湾 たいわん 元 もと 、香港 ほんこん 元 もと )と同様 どうよう 、漢字 かんじ で「元 もと 」と表記 ひょうき したが、満 まん 洲 しゅう 国内 こくない の貨幣 かへい 法 ほう では、日本 にっぽん 国 こく と同様 どうよう に「圓 えん 」(円 えん )の表記 ひょうき が採用 さいよう された。
貨幣 かへい 法 ほう (教 きょう 令 れい 第 だい 25号 ごう )の公布 こうふ は、満 まん 洲 しゅう 国 こく が成立 せいりつ した同年 どうねん (1932年 ねん )6月 がつ 11日 にち である。
金 きむ 解禁 かいきん が世界 せかい 的 てき な流 なが れとなる中 なか で日本 にっぽん では金 かね 解禁 かいきん が行 おこな われていたが、通貨 つうか は中華民国 ちゅうかみんこく と同 おな じく銀本位 ぎんほんい 制 せい でスタートし、現 げん 大洋 たいよう (袁世凱弗、孫 まご 文 ぶん 弗 どる と呼 よ ばれた銀 ぎん 元 もと 通貨 つうか )と等価 とうか とされたが、1935年 ねん 11月に日本円 にほんえん を基準 きじゅん とする管理 かんり 通貨 つうか 制度 せいど に移行 いこう した。このほか主要 しゅよう 都市 とし の満 まん 鉄 てつ 付属 ふぞく 地 ち を中心 ちゅうしん に、関東 かんとう 州 しゅう の法定 ほうてい 通貨 つうか だった朝鮮 ちょうせん 銀行 ぎんこう 発行 はっこう の朝鮮 ちょうせん 券 けん も使用 しよう されていたが、1935年 ねん (昭和 しょうわ 10年 ねん )11月4日 にち に日本 にっぽん 政府 せいふ が「満 まん 洲 しゅう 国 こく の国 くに 幣 ぬさ 価値 かち 安定 あんてい 及幣制 せい 統一 とういつ に関 かん する件 けん 」を閣議 かくぎ 決定 けってい したことにより、満 まん 洲 しゅう 国内 こくない で流通 りゅうつう していた日本 にっぽん 側 がわ の銀行 ぎんこう 券 けん は回収 かいしゅう され、国 くに 幣 ぬさ に統一 とういつ された。
満 まん 洲 しゅう 国 こく 崩壊 ほうかい 後 ご もソ連 それん 軍 ぐん の占領 せんりょう 下 か や国民 こくみん 政府 せいふ の統治 とうち 下 か で国 くに 幣 ぬさ は引 ひ き続 つづ き使用 しよう されたが、1947年 ねん に中華民国 ちゅうかみんこく 中央 ちゅうおう 銀行 ぎんこう が発行 はっこう した東北 とうほく 九 きゅう 省 しょう 流通 りゅうつう 券 けん (東北 とうほく 流通 りゅうつう 券 けん )に交換 こうかん され、流通 りゅうつう 停止 ていし となった。
満 まん 洲 しゅう 国 こく 建国 けんこく 以前 いぜん の貨幣 かへい 制度 せいど は、きわめて混乱 こんらん していた。すなわち銅 どう 本位 ほんい の鋳 い 貨(制 せい 銭 ぜに 、銅 どう 元 もと )および紙幣 しへい (官 かん 帖 じょう 、銅 どう 元 もと 票 ひょう )、銀本位 ぎんほんい の鋳 い 貨(大洋 たいよう 銭 ぜに 、小 しょう 洋 よう 銭 ぜに 、銀 ぎん 錠 じょう )および紙幣 しへい (大洋 たいよう 票 ひょう 、小 しょう 洋 よう 票 ひょう 、過 か 爐 ろ 銀 ぎん 、私 わたし 帖 じょう )があり、うち不換紙幣 ふかんしへい が少 すく なくなかった。ほかに外国 がいこく 貨幣 かへい である円 えん 銀 ぎん 、墨 ぼく 銀 ぎん 、日本 にっぽん 補助 ほじょ 貨、日本 にっぽん 銀行 ぎんこう 券 けん 、金 かね 票 ひょう (朝鮮 ちょうせん 銀行 ぎんこう 券 けん )、鈔票(横浜 よこはま 正金 しょうきん 銀行 ぎんこう 発行 はっこう の円 えん 銀 ぎん を基礎 きそ とした兌換 だかん 券 けん )などが流通 りゅうつう し、購買 こうばい 力 りょく は一定 いってい せず、流通 りゅうつう 範囲 はんい は一様 いちよう でなかった。満 まん 洲 しゅう 国 こく 建国 けんこく 直後 ちょくご に満 まん 洲 しゅう 中央 ちゅうおう 銀行 ぎんこう が設立 せつりつ されるとともに旧 きゅう 紙幣 しへい の回収 かいしゅう 整理 せいり が開始 かいし され、1935年 ねん (康徳 やすのり 2年 ねん )8月 がつ 末 まつ までにほとんどすべてが回収 かいしゅう された。
こうして貨幣 かへい は国 くに 幣 ぬさ に統一 とういつ され、鈔票の流通 りゅうつう は関東 かんとう 州 しゅう のみとなり、その額 がく は小 ちい さく、金 かね 票 ひょう は1935年 ねん (康徳 やすのり 2年 ねん )11月4日 にち の満 まん 洲 しゅう 国 こく 幣 ぬさ 対 たい 金円 きんえん 等 とう 値 ち 維持 いじ に関 かん する日 ひ 満 まん 両国 りょうこく 政府 せいふ による声明 せいめい 以来 いらい 、金 かね 票 ひょう から国 くに 幣 ぬさ に換 か えられることが増 ふ えて、満 まん 鉄 てつ 、関東 かんとう 州 しゅう 内 ない 郵便 ゆうびん 局 きょく および満 まん 洲 しゅう 国 こく 関係 かんけい の諸 しょ 会社 かいしゃ の国 くに 幣 ぬさ 払 はらい 実施 じっし とあいまって国 くに 幣 ぬさ の使用 しよう 範囲 はんい は広 ひろ がった。国 くに 幣 ぬさ は円 えん 単位 たんい で、純銀 じゅんぎん 23.91g の内容 ないよう を有 ゆう すると定 さだ められたが、本位 ほんい 貨幣 かへい が造 つく られないためにいわば銀塊 ぎんかい 本位 ほんい で、兌換 だかん の規定 きてい が無 な いために変則 へんそく の制度 せいど であった。
貨幣 かへい は百 ひゃく 圓 えん 、十 じゅう 圓 えん 、五 ご 圓 えん 、一 いち 圓 えん 、五 ご 角 かく の紙幣 しへい 、一角 いっかく 、五 ご 分 ふん 、一 いち 分 ふん 、五 ご 厘 りん の鋳 い 貨(硬貨 こうか )が発行 はっこう され、紙幣 しへい は無 む 制限 せいげん 法貨 ほうか として通用 つうよう された。紙幣 しへい は満 まん 洲 しゅう 中央 ちゅうおう 銀行 ぎんこう が発行 はっこう し、正貨 せいか 準備 じゅんび として発行 はっこう 額 がく に対 たい して3割 わり 以上 いじょう の金銀 きんぎん 塊 かたまり 、確実 かくじつ な外国 がいこく 通貨 つうか 、外国 がいこく 銀行 ぎんこう に対 たい する金銀 きんぎん 預金 よきん を、保証 ほしょう 準備 じゅんび として公債 こうさい 証書 しょうしょ 、政府 せいふ の発行 はっこう または保証 ほしょう した手形 てがた 、その他 た 確実 かくじつ な証券 しょうけん または商業 しょうぎょう 手形 てがた を保有 ほゆう すべきことが命 めい じられた。後 のち に鋳 い 貨の代用 だいよう として一角 いっかく 、五 ご 分 ぶん の小額 しょうがく 紙幣 しへい が発行 はっこう された。
やがて軍 ぐん の軍費 ぐんぴ 要求 ようきゅう はもとより私用 しよう 同然 どうぜん の物資 ぶっし 調達 ちょうたつ を安易 あんい にこれに頼 たよ ろうとする日本人 にっぽんじん 官吏 かんり 層 そう の堕落 だらく 等 とう から、満 まん 洲 しゅう 中央 ちゅうおう 銀行 ぎんこう は実体 じったい としての正貨 せいか 準備 じゅんび と関係 かんけい なく様々 さまざま な便法 べんぽう を駆使 くし して紙幣 しへい を濫発 らんぱつ 、インフレを急速 きゅうそく 化 か させ、住民 じゅうみん を困窮 こんきゅう させていくことになる[39] [87] 。もともと経済 けいざい 力 りょく では中国 ちゅうごく が日本 にっぽん より上回 うわまわ っていると見 み られていたこと、中国 ちゅうごく には英国 えいこく からの経済 けいざい 支援 しえん があったこともあるが、日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう 中 ちゅう に同様 どうよう な現象 げんしょう が中国 ちゅうごく 本土 ほんど においても惹 ひ き起 お こされ、これは日本 にっぽん 軍 ぐん が勝 か っても日本 にっぽん 側 がわ の法 ほう 幣 ぬさ や軍票 ぐんぴょう の値打 ねう ちは上 あ がらないといわれる事態 じたい の一因 いちいん となっている。
皇帝 こうてい 溥儀 ふぎ を描 えが く15分 ふん 普通 ふつう 切手 きって (1934年 ねん 11月発行 はっこう )
各種 かくしゅ 紀 き 念 ねん 切手 きって と葉書 はがき
中華 ちゅうか 郵政 ゆうせい が行 おこな っていた郵便 ゆうびん 事業 じぎょう を1932年 ねん 7月 がつ 26日 にち に接収 せっしゅう し、同日 どうじつ 「満 まん 洲 しゅう 国 こく 郵政 ゆうせい 」(帝政 ていせい 移行 いこう 後 ご は「満 まん 洲 しゅう 帝国 ていこく 郵政 ゆうせい 」)による郵政 ゆうせい 事業 じぎょう が開始 かいし された。中華 ちゅうか 郵政 ゆうせい は満 まん 洲 しゅう 国 こく が発行 はっこう した切手 きって を無効 むこう としたため、1935年 ねん から1937年 ねん までの期間 きかん 、中国 ちゅうごく 本土 ほんど との郵便 ゆうびん 物 ぶつ に添付 てんぷ するために国名 こくめい 表記 ひょうき を取 と り除 のぞ き「郵政 ゆうせい 」表記 ひょうき のみとした「満 まん 華 はな 通 どおり 郵切手 しゅ 」が発行 はっこう されていた。
同 どう 郵政 ゆうせい が満 まん 洲 しゅう 国 こく 崩壊 ほうかい までに発行 はっこう した切手 きって の種類 しゅるい は159を数 かぞ え、記念 きねん 切手 きって [88] も多 おお く発行 はっこう した。日本 にっぽん との政治 せいじ 的 てき つながりを宣伝 せんでん する切手 きって も多 おお く、1935年 ねん の「皇帝 こうてい 訪日 ほうにち 紀 き 念 ねん 」や1942年 ねん の「満 まん 洲 しゅう 国 こく 建国 けんこく 十 じゅう 周年 しゅうねん 紀 き 念 ねん 」・「新 あたらし 嘉 よしみ 坡(シンガポール)陥落 かんらく 紀 き 念 ねん 」・「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 一 いち 周年 しゅうねん 紀 き 念 ねん 」などの記念 きねん 切手 きって は日本 にっぽん と同 おな じテーマで切手 きって を発行 はっこう していた。
1944年 ねん の「日 ひ 満 まん 共同 きょうどう 体 たい 宣伝 せんでん 」のように、中国 ちゅうごく 語 ご の他 ほか に日本語 にほんご も表記 ひょうき した切手 きって もあった。郵便 ゆうびん 貯金 ちょきん 事業 じぎょう も行 おこな っており、1941年 ねん には「貯金 ちょきん 切手 きって 」も発行 はっこう している。
満 まん 洲 しゅう 国 こく で最後 さいご の発行 はっこう となった郵便 ゆうびん 切手 きって は、1945年 ねん 5月 がつ 2日 にち に発行 はっこう された満 まん 洲 しゅう 国 こく 皇帝 こうてい の訓 くん 民 みん 詔書 しょうしょ 10周年 しゅうねん を記念 きねん する切手 きって である。予定 よてい ではその後 ご 、戦闘 せんとう 機 き 3機 き を購入 こうにゅう するための寄附 きふ 金 きん 付 づけ 切手 きって が発行 はっこう を計画 けいかく されていたが、満 まん 洲 しゅう 国 こく 崩壊 ほうかい のために発行 はっこう 中止 ちゅうし となり大半 たいはん が廃棄 はいき 処分 しょぶん になった。だが第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご 、満 まん 洲 しゅう に進駐 しんちゅう したソ連 それん 軍 ぐん により一部 いちぶ が流出 りゅうしゅつ し、市場 いちば で流通 りゅうつう している。
日本 にっぽん は内地 ないち 及 およ び朝鮮 ちょうせん を除 のぞ いてアヘン (阿片 あへん )専売 せんばい 制 せい と漸 やや 禁 きん 政策 せいさく を採用 さいよう しており、満 まん 洲 しゅう 地域 ちいき でもアヘン栽培 さいばい は実施 じっし されていた。名目 めいもく 上 じょう はモルヒネ 原料 げんりょう としての薬事 やくじ 処方 しょほう 方 かた 原料 げんりょう の栽培 さいばい だが、これらアヘン栽培 さいばい が馬賊 ばぞく の資金 しきん 源 げん や関東 かんとう 軍 ぐん の工作 こうさく 資金 しきん に流用 りゅうよう され、上海 しゃんはい などで売 う りさばかれた。
1932年 ねん (大同 だいどう 元年 がんねん )に阿片 あへん 法 ほう (大同 だいどう 元年 がんねん 11月 がつ 30日 にち 教 きょう 令 れい 第 だい 111號 ごう )が制定 せいてい され、アヘンの吸食が禁止 きんし された。ただし未成年 みせいねん 者 しゃ 以外 いがい のアヘン中毒 ちゅうどく 者 しゃ で治療 ちりょう 上 じょう 必要 ひつよう がある場合 ばあい は、管轄 かんかつ 警察 けいさつ 署長 しょちょう の発給 はっきゅう した証明 しょうめい 書 しょ を携帯 けいたい した上 うえ で政府 せいふ の許可 きょか を受 う けた阿片 あへん 小売 こうり 人 じん から購入 こうにゅう することができた。
満 まん 鉄 てつ のシンボル、特急 とっきゅう 「あじあ」
大連 たいれん 満 まん 鉄 てつ 総 そう 部 ぶ
満 まん 鉄 てつ の列車 れっしゃ
日本 にっぽん の半官半民 はんかんはんみん の国策 こくさく 会社 かいしゃ ・南 みなみ 満 まん 洲 しゅう 鉄道 てつどう (満 まん 鉄 てつ )は、ロシアが敷設 ふせつ した東 あずま 清 きよし 鉄道 てつどう 南 みなみ 満 まん 洲 しゅう 支線 しせん を日 にち 露 ろ 戦争 せんそう において日本 にっぽん が獲得 かくとく して設立 せつりつ されたが、満 まん 洲 しゅう 国 こく の成立 せいりつ 後 ご は特 とく に満 まん 洲 しゅう 国 こく の経済 けいざい 発展 はってん に大 おお きな役割 やくわり を果 は たした。同社 どうしゃ は満 まん 洲 しゅう 国内 こくない における鉄道 てつどう 経営 けいえい を中心 ちゅうしん に、フラッグ・キャリア の満 まん 洲 しゅう 航空 こうくう 、炭鉱 たんこう 開発 かいはつ 、製鉄 せいてつ 業 ぎょう 、港湾 こうわん 、農林 のうりん 、牧畜 ぼくちく に加 くわ えてホテル、図書館 としょかん 、学校 がっこう などのインフラストラクチャー 整備 せいび も行 おこな った。
新 しん 京 きょう 〜大連 たいれん ・旅順 りょじゅん 間 あいだ を本線 ほんせん として各地 かくち に支線 しせん を延 の ばしていた。「超 ちょう 特急 とっきゅう 」とも呼 よ ばれた流 りゅう 線形 せんけい のパシナ形 がた 蒸気 じょうき 機関 きかん 車 しゃ と専用 せんよう の豪華 ごうか 客車 きゃくしゃ で構成 こうせい される特急 とっきゅう 列車 れっしゃ 「あじあ 」の運行 うんこう など、主 おも に日本 にっぽん から導入 どうにゅう された南 みなみ 満 まん 洲 しゅう 鉄道 てつどう の車両 しゃりょう の技術 ぎじゅつ は世界 せかい 的 てき に見 み ても高 たか いレベルにあった。
一方 いっぽう 、満 まん 洲 しゅう 国 こく 成立 せいりつ 前 まえ から満 まん 鉄 てつ に対抗 たいこう して中国 ちゅうごく 資本 しほん の鉄道 てつどう 会社 かいしゃ が満 まん 鉄 てつ と競合 きょうごう する鉄道 てつどう 路線 ろせん の建設 けんせつ を進 すす めていた。これらの鉄道 てつどう 会社 かいしゃ は、満 まん 洲 しゅう 国 こく 成立 せいりつ 後 ご に公布 こうふ された「鉄道 てつどう 法 ほう 」に基 もと づいて国有 こくゆう 化 か され、満 まん 洲 しゅう 国有 こくゆう 鉄道 てつどう となった。しかし満 まん 洲 しゅう 国鉄 こくてつ による独自 どくじ の鉄道 てつどう 運営 うんえい は行 おこな われず、即日 そくじつ 満 まん 鉄 てつ に運営 うんえい が委託 いたく されて、実際 じっさい には満 まん 洲 しゅう 国内 こくない のほぼすべての鉄道 てつどう の運営 うんえい を満 まん 鉄 てつ が担 にな うことになった。新規 しんき に建設 けんせつ された鉄道 てつどう 路線 ろせん 、1935年 ねん にソビエト連邦 れんぽう との交渉 こうしょう の末 すえ に満 まん 洲 しゅう 国 こく に売却 ばいきゃく された北 きた 満 まん 鉄路 てつろ (東 あずま 清 きよし 鉄道 てつどう )など私鉄 してつ の接収 せっしゅう ・買収 ばいしゅう 路線 ろせん も全 すべ て満 まん 洲 しゅう 国鉄 こくてつ に編入 へんにゅう され、満 まん 鉄 てつ が委託 いたく 経営 けいえい を行 おこな っていた。特 とく に新規 しんき 路線 ろせん は建設 けんせつ から満 まん 鉄 てつ に委託 いたく と、「国鉄 こくてつ 」とは名 な ばかりで全 すべ てが満 まん 鉄 てつ にまかせきりの状況 じょうきょう であった。この他 ほか にも満 まん 鉄 てつ は朝鮮半島 ちょうせんはんとう の朝鮮 ちょうせん 総督 そうとく 府 ふ 鉄道 てつどう のうち、国境 こっきょう に近 ちか い路線 ろせん の経営 けいえい を委託 いたく されている。車両 しゃりょう などは共通 きょうつう のものが広 ひろ く使 つか われていたが、運賃 うんちん の計算 けいさん などでは満 まん 鉄 てつ の路線 ろせん (社線 しゃせん )と満 まん 洲 しゅう 国鉄 こくてつ の路線 ろせん (国 くに 線 せん )に区別 くべつ が設 もう けられていた。しかしこれも後 のち に旅客 りょかく 規程 きてい 上 じょう は区別 くべつ がなくなり、事実 じじつ 上 じょう 一体化 いったいか した。
満 まん 鉄 てつ は単 たん なる鉄道 てつどう 会社 かいしゃ としての存在 そんざい にとどまらず、沿線 えんせん 各駅 かくえき 一帯 いったい に広大 こうだい な南 みなみ 満 まん 洲 しゅう 鉄道 てつどう 附属 ふぞく 地 ち (満 まん 鉄 てつ 附属 ふぞく 地 ち )を抱 かか えていた。満 まん 鉄 てつ 附属 ふぞく 地 ち では満 まん 洲 しゅう 国 こく の司法 しほう 権 けん や警察 けいさつ 権 けん 、徴税 ちょうぜい 権 けん 、行政 ぎょうせい 権 けん は及 およ ばず、満 まん 鉄 てつ がこれらの行政 ぎょうせい を行 おこな っていた。首都 しゅと 新 しん 京 きょう 特別 とくべつ 市 し (現在 げんざい の長春 ちょうしゅん 市 し )や奉天 ほうてん 市 し (現在 げんざい の瀋陽 しんよう 市 し )など主要 しゅよう 都市 とし の新 しん 市街地 しがいち も大半 たいはん が満 まん 鉄 てつ 附属 ふぞく 地 ち だった。都市 とし 在住 ざいじゅう の日本人 にっぽんじん の多 おお くは満 まん 鉄 てつ 附属 ふぞく 地 ち に住 す み、日本 にっぽん 企業 きぎょう も満 まん 鉄 てつ 附属 ふぞく 地 ち を拠点 きょてん として治外法権 ちがいほうけん の特権 とっけん を享受 きょうじゅ し続 つづ け、満 まん 洲 しゅう 国 こく の自立 じりつ を阻害 そがい する結果 けっか となったため、1937年 ねん に満 まん 鉄 てつ 附属 ふぞく 地 ち の行政 ぎょうせい 権 けん は満 まん 洲 しゅう 国 こく へ返還 へんかん された。
満 まん 鉄 てつ ・国鉄 こくてつ の他 ほか にも、領内 りょうない には小 ちい さな私鉄 してつ がいくつも存在 そんざい した。これらの中 なか には国有 こくゆう 化 か され、改修 かいしゅう されて満 まん 洲 しゅう 国鉄 こくてつ の路線 ろせん となったものや、満 まん 洲 しゅう 国鉄 こくてつ が並行 へいこう する路線 ろせん を敷設 ふせつ したために補償 ほしょう 買収 ばいしゅう されてから廃止 はいし になったものもある。以下 いか に満 まん 洲 しゅう 国 こく が存在 そんざい した時期 じき に一貫 いっかん して私鉄 してつ であったものを挙 あ げる(※印 しるし は補償 ほしょう 買収 ばいしゅう 後 ご に廃止 はいし になった路線 ろせん )。
1940年 ねん 前後 ぜんご から、満 まん 鉄 てつ が請負 うけおい の形 かたち で積極 せっきょく 的 てき にこれら私鉄 してつ の建設 けんせつ に携 たずさ わるようになり、戦争 せんそう 末期 まっき の頃 ころ には相当 そうとう 数 すう の路線 ろせん が満 まん 鉄 てつ の手 て によって建設 けんせつ されるようになっていた。ただしその多 おお くが竣工 しゅんこう する前 まえ 、竣工 しゅんこう しても試運転 しうんてん をしただけの状態 じょうたい で満 まん 洲 しゅう 国 こく 崩壊 ほうかい に遭 あ って建設 けんせつ 中止 ちゅうし となり、未成 みせい 線 せん になっている。
この他 ほか 、首都 しゅと ・新 しん 京 きょう を始 はじ めとして奉天 ほうてん ・哈爾濱 はま など主要 しゅよう 都市 とし の市内 しない には路面 ろめん 電車 でんしゃ が敷設 ふせつ されていた。新 しん 京 きょう 及 およ び奉天 ほうてん では地下鉄 ちかてつ 建設 けんせつ 計画 けいかく もあったが、実現 じつげん しなかった[89] [90] 。
満 まん 洲 しゅう 航空 こうくう の新型 しんがた 機 き (ユンカース 86)の就航 しゅうこう を祝 いわ う荷札 にふだ
1931年 ねん に南 みなみ 満 まん 洲 しゅう 鉄道 てつどう の系列 けいれつ 会社 かいしゃ として設立 せつりつ されたフラッグ・キャリア の満 まん 洲 しゅう 航空 こうくう が、新 しん 京 きょう 飛行場 ひこうじょう を拠点 きょてん に満 まん 洲 しゅう 国内 こくない と日本 にっぽん (朝鮮半島 ちょうせんはんとう を含 ふく む)を結 むす ぶ定期 ていき 路線 ろせん を運航 うんこう していた。
中島 なかじま AT-2 やユンカース Ju 86 、ロッキード L-14 スーパーエレクトラ などの外国 がいこく 製 せい 旅客機 りょかくき の他 ほか にも、自社 じしゃ 製 せい の満 まん 洲 しゅう 航空 こうくう MT-1 や、ライセンス生産 せいさん したフォッカー スーパーユニバーサル などで満 まん 洲 しゅう 国内 こくない の主 しゅ 都市 とし を結 むす んだ他 ほか 、新 しん 京 きょう とベルリン を結 むす ぶ超 ちょう 長距離 ちょうきょり 路線 ろせん を運航 うんこう することを目的 もくてき とした系列 けいれつ 会社 かいしゃ である国際 こくさい 航空 こうくう を設立 せつりつ した。
満 まん 洲 しゅう 航空 こうくう は単 たん なる営利 えいり 目的 もくてき の民間 みんかん 航空 こうくう 会社 かいしゃ ではなく、民間 みんかん 旅客 りょかく 、貨物 かもつ 定期 ていき 輸送 ゆそう と軍事 ぐんじ 定期 ていき 輸送 ゆそう 、郵便 ゆうびん 輸送 ゆそう 、チャ ちゃ ータ た ー便 びん の運行 うんこう や測量 そくりょう 調査 ちょうさ 、航空機 こうくうき 整備 せいび から航空機 こうくうき 製造 せいぞう まで広範囲 こうはんい な業務 ぎょうむ を行 おこな った。
「非 ひ 武装 ぶそう 地帯 ちたい 」「天国 てんごく と地獄 じごく 」当時 とうじ プロパガンダ目的 もくてき で制作 せいさく されたもの
電話 でんわ ・ファックス などの通信 つうしん 業務 ぎょうむ やラジオ 放送 ほうそう 業務 ぎょうむ も、1933年 ねん に設立 せつりつ された満 まん 洲 しゅう 電信 でんしん 電話 でんわ (MTT)に統合 とうごう された。放送 ほうそう 局 きょく はハルビン、新 しん 京 きょう 、瀋陽 しんよう などに置 お かれており[91] 、ロシア人 じん を中心 ちゅうしん に作 つく られたハルビン交響 こうきょう 楽団 がくだん 、後 のち に日本人 にっぽんじん を中心 ちゅうしん に作 つく られた新 しん 京 きょう 交響 こうきょう 楽団 がくだん による音楽 おんがく 演奏 えんそう も毎週 まいしゅう これら放送 ほうそう 局 きょく だけでなく、日本 にっぽん 租借 そしゃく 地 ち にある大連 たいれん 放送 ほうそう 局 きょく へも中継 ちゅうけい された。聴取 ちょうしゅ 者 しゃ から聴取 ちょうしゅ 料 りょう を徴収 ちょうしゅう していたが、内地 ないち に先駆 さきが けて広告 こうこく も扱 あつか っており、また海外 かいがい へ外国 がいこく 語 ご による放送 ほうそう も行 おこな われていた[92] 。
「満 まん 語 ご 」と称 しょう された標準 ひょうじゅん 中国 ちゅうごく 語 ご と日本語 にほんご が事実 じじつ 上 じょう の公用 こうよう 語 ご として使用 しよう された。軍 ぐん 、官公庁 かんこうちょう においては日本語 にほんご が第 だい 一 いち 公用 こうよう 語 ご であり、ほとんどの教育 きょういく 機関 きかん で日本語 にほんご が教授 きょうじゅ 言語 げんご とされた。モンゴル語 ご 、ロシア語 ご などを母語 ぼご とする住民 じゅうみん も存在 そんざい した。また、簡易 かんい 的 てき な日本語 にほんご として協和 きょうわ 語 ご もあった。1938年 ねん 1月 がつ 以降 いこう 、中国 ちゅうごく 語 ご (満 まん 語 ご )、日本語 にほんご 、モンゴル語 ご (蒙 こうむ 古語 こご )が「国語 こくご 」と定 さだ められ授業 じゅぎょう で教 おし えられた[93] 。
大本 おおもと の教祖 きょうそ である出口 いでぐち 王仁三郎 おにさぶろう は布教 ふきょう 活動 かつどう の一環 いっかん としてエスペラント の普及 ふきゅう 活動 かつどう も行 おこな っており、満 まん 洲 しゅう 国 こく の建国 けんこく に際 さい し、信奉 しんぽう 者 しゃ である石原 いしはら 莞爾 かんじ の協力 きょうりょく を得 え てエスペラントを普及 ふきゅう させる計画 けいかく があったが実現 じつげん しなかった。
建国 けんこく 大学 だいがく
大同 だいどう 学院 がくいん
満 まん 洲 しゅう 国 こく の教育 きょういく の根本 こんぽん は、儒教 じゅきょう であった[94] 。教育 きょういく 行政 ぎょうせい は、中央 ちゅうおう 教育 きょういく 行政 ぎょうせい 機関 きかん は文教 ぶんきょう 部 ぶ であり、文教 ぶんきょう 部 ぶ 大臣 だいじん は教育 きょういく 、宗教 しゅうきょう 、礼 れい 俗 ぞく および国民 こくみん 思想 しそう に関 かん する事項 じこう を掌理 しょうり した。大臣 だいじん の下 した には次長 じちょう が置 お かれ、さらに部内 ぶない は総務 そうむ 、学務 がくむ および礼 れい 教 きょう の3司 し に分 わ けられ、それぞれ司 つかさ 長 ちょう が置 お かれた。総務 そうむ 司 し は秘書 ひしょ 、文書 ぶんしょ 、庶務 しょむ および調査 ちょうさ の4科 か に、学務 がくむ 司 し は総務 そうむ 、普通 ふつう 教育 きょういく および専門 せんもん 教育 きょういく の3科 か に、礼 れい 教 きょう 司 し は社会 しゃかい 教育 きょういく および宗教 しゅうきょう の2科 か に分 わ けられ、それぞれ教育 きょういく 行政 ぎょうせい を掌 てのひら した。視学 しがく 機関 きかん は、督 とく 学 がく 官 かん が置 お かれた。地方 ちほう 教育 きょういく 行政 ぎょうせい は、各省 かくしょう では省 しょう 公 おおやけ 署 しょ 教育庁 きょういくちょう が、特別 とくべつ 市 し では市政 しせい 公 おおやけ 署 しょ 教育 きょういく 科 か が、各 かく 県 けん では県 けん 公 おおやけ 署 しょ 教育 きょういく 局 きょく が、それぞれ管内 かんない の教育 きょういく 行政 ぎょうせい を司 つかさど った。
最高 さいこう 学府 がくふ として建国 けんこく 大学 だいがく の他 ほか 、国立 こくりつ 大学 だいがく の大同 だいどう 学院 がくいん 、ハルピン学院 がくいん などが設置 せっち された。
小学校 しょうがっこう は、修業 しゅうぎょう 年限 ねんげん は6年 ねん で、初級 しょきゅう 小学校 しょうがっこう 4年 ねん +高級 こうきゅう 小学校 しょうがっこう 2年 ねん とするのが本体 ほんたい であったが、初級 しょきゅう 小学校 しょうがっこう のみを設 もう けることも認 みと められた。教育 きょういく 科目 かもく は、初級 しょきゅう 小学校 しょうがっこう は修身 しゅうしん 、国語 こくご 、算術 さんじゅつ 、手工 しゅこう 、図画 ずが 、体操 たいそう および唱歌 しょうか であり、高等 こうとう 小学校 しょうがっこう は、初級 しょきゅう 小学校 しょうがっこう のそれのほかに歴史 れきし 、地理 ちり および自然 しぜん の3科目 かもく が加 くわ えられ、その地方 ちほう の特 とく 状 じょう によっては日本語 にほんご をも加 くわ えられた。後 のち に、初級 しょきゅう 小学校 しょうがっこう は国民 こくみん 学校 がっこう 、高級 こうきゅう 小学校 しょうがっこう は国民 こくみん 優 ゆう 級 きゅう 学校 がっこう にそれぞれ改称 かいしょう された。教科書 きょうかしょ は、建国 けんこく 以前 いぜん に用 もち いられていた三 さん 民主 みんしゅ 義 よし 教科書 きょうかしょ に代 か わってあらたに国定 こくてい 教科書 きょうかしょ が編纂 へんさん された。僻地 へきち では、寺子屋 てらこや ふうの「書房 しょぼう 」がなおも初等 しょとう 教育 きょういく 機関 きかん として残 のこ されていた。
また、中国人 ちゅうごくじん の子弟 してい を対象 たいしょう とした「公 おおやけ 学堂 がくどう 」という小学校 しょうがっこう が、旅順 りょじゅん 、大連 たいれん など満州 まんしゅう 各地 かくち に設置 せっち された[95] 。公 おおやけ 学堂 がくどう は日本 にっぽん の植民 しょくみん 地 ち 学校 がっこう の中 なか で中国人 ちゅうごくじん を外国 がいこく 人 じん として扱 あつか った唯一 ゆいいつ の学校 がっこう であり、関東 かんとう 州 しゅう では1903年 ねん から、満州 まんしゅう 附属 ふぞく 地 ち では満 まん 鉄 てつ が1909年 ねん から直接 ちょくせつ 運営 うんえい したため、それぞれ独自 どくじ の教則 きょうそく を持 も っていた[95] 。満 まん 鉄 てつ における1923年 ねん 以降 いこう の教育 きょういく 課程 かてい は、初等 しょとう 科 か 4年 ねん 、高等 こうとう 科 か 2年 ねん で、満 まん 6歳 さい 以上 いじょう の中国人 ちゅうごくじん に入学 にゅうがく 資格 しかく があり、科目 かもく は日本語 にほんご が中心 ちゅうしん だった[95] 。実際 じっさい には公 おおやけ 学 がく 堂 どう で学 まな ぶ日本人 にっぽんじん 生徒 せいと も、小学校 しょうがっこう で学 まな ぶ中国人 ちゅうごくじん 生徒 せいと もあり、運動会 うんどうかい などのスポーツ大会 たいかい では合同 ごうどう で競 きそ った[96] 。教員 きょういん は内地 ないち の師範 しはん 学校 がっこう 卒業生 そつぎょうせい で小学校 しょうがっこう 訓導 くんどう 経験 けいけん 者 しゃ が派遣 はけん されたほか、現地 げんち 採用 さいよう の中国人 ちゅうごくじん 助教諭 じょきょうゆ がいた[95] 。教員 きょういん には佐藤 さとう 慎一郎 しんいちろう 、菊池 きくち 秋雄 あきお 、渡部 わたなべ 精 きよし 元 もと など、生徒 せいと には爵青 、疑 うたぐ 遅 おそ などがいる。
中学校 ちゅうがっこう は、初級 しょきゅう および高級 こうきゅう の2段階 だんかい で、修業 しゅうぎょう 年限 ねんげん はそれぞれ3年 ねん で、併置 へいち されるのが原則 げんそく で、初級 しょきゅう 中等 ちゅうとう には小学校 しょうがっこう 修了 しゅうりょう 者 しゃ を入学 にゅうがく させた。教科 きょうか 目 め は初級 しょきゅう は国文 こくぶん 、外国 がいこく 語 ご 、歴史 れきし 、地理 ちり 、自然 しぜん 科 か 、生理 せいり 衛生 えいせい 、図画 ずが 、音楽 おんがく 、体育 たいいく 、工芸 こうげい (農業 のうぎょう 、工業 こうぎょう 、家事 かじ の1科 か )および職業 しょくぎょう 科目 かもく で、一定 いってい 範囲 はんい の選択 せんたく 科目 かもく 制度 せいど が認 みと められ、高級 こうきゅう は普通 ふつう 科 か 、師範 しはん 科 か 、農 のう 科 か 、工科 こうか 、商科 しょうか 、家事 かじ 科 か その他 た に分 わ かれ、その教育 きょういく は職業 しょくぎょう 化 か されていた。
師範 しはん 教育 きょういく は、小学校 しょうがっこう 教員 きょういん は、省 しょう 立 りつ 師範 しはん 学校 がっこう および高級 こうきゅう 中学 ちゅうがく 師範 しはん 科 か で、養成 ようせい された。省 しょう 立 りつ 師範 しはん 学校 がっこう は修業 しゅうぎょう 年限 ねんげん 3年 ねん 、初級 しょきゅう 中学校 ちゅうがっこう 卒業 そつぎょう 者 しゃ を入学 にゅうがく させた。普通 ふつう 科目 かもく のほかに教育 きょういく 、心理 しんり その他 た を課 か し、最上級 さいじょうきゅう の生徒 せいと は付属 ふぞく 小学校 しょうがっこう その他 た の小学校 しょうがっこう で教生 きょうせい として教育 きょういく 実習 じっしゅう を行 おこな った[注釈 ちゅうしゃく 15] 。ほか実業 じつぎょう 教育 きょういく 機関 きかん として職業 しょくぎょう 学校 がっこう があった。
ただし、日本人 にっぽんじん のほとんどは、満 まん 鉄 てつ が管轄 かんかつ する付属 ふぞく 地 ち の日本人 にっぽんじん 学校 がっこう に通 かよ っていた。1937年 ねん の治外法権 ちがいほうけん 撤廃 てっぱい により付属 ふぞく 地 ち が消滅 しょうめつ した後 のち も、教育 きょういく 、神社 じんじゃ 、兵事 へいじ に関 かん する事項 じこう は日本 にっぽん の管轄 かんかつ に残 のこ され、日本人 にっぽんじん が通 かよ う学校 がっこう は駐 ちゅう 満全 まんぜん 権 けん 大使 たいし が管轄 かんかつ し、日本 にっぽん 国内 こくない に準 じゅん じて運営 うんえい された。この方針 ほうしん は日本人 にっぽんじん 開拓 かいたく 団 だん の学校 がっこう にも適用 てきよう され、日本人 にっぽんじん 学校 がっこう は満 まん 洲 しゅう 国 こく の教育 きょういく 制度 せいど の外 そと に置 お かれていた。[97]
満 まん 洲 しゅう 映画 えいが 協会 きょうかい のスタジオ
1928年 ねん に南 みなみ 満 まん 洲 しゅう 鉄道 てつどう が広報 こうほう 部 ぶ 広報 こうほう 係 がかり 映画 えいが 班 はん 、通称 つうしょう 「満 まん 鉄 てつ 映画 えいが 部 ぶ 」を設 もう け、広報 こうほう (プロパガンダ )用 よう 記録 きろく 映画 えいが を製作 せいさく していた。その後 ご 1937年 ねん に設立 せつりつ された国策 こくさく 映画 えいが 会社 かいしゃ である「満 まん 洲 しゅう 映画 えいが 協会 きょうかい 」が映画 えいが の制作 せいさく や配給 はいきゅう 、映写 えいしゃ 業務 ぎょうむ もおこない各地 かくち で映画 えいが 館 かん の設立 せつりつ 、巡回 じゅんかい 映写 えいしゃ なども行 おこな った。
田 た 河 かわ 水泡 すいほう の当時 とうじ の人気 にんき 漫画 まんが 「のらくろ 」の単行本 たんこうぼん のうち、1937年 ねん (昭和 しょうわ 12年 ねん )12月15日 にち 発行 はっこう の「のらくろ探検 たんけん 隊 たい 」では、猛犬 もうけん 聯隊 れんたい を除隊 じょたい したのらくろが山羊 やぎ と豚 ぶた を共 とも だって石炭 せきたん の鉱山 こうざん を発見 はっけん するという筋 すじ で、興亜 こうあ のため、大陸 たいりく 建設 けんせつ の夢 ゆめ のため、無限 むげん に埋 うず もれる大陸 たいりく の宝 たから を、滅私 めっし 興亜 こうあ の精神 せいしん で行 おこな うという話 はなし が展開 てんかい された。
序 じょ の中 なか で、「おたがひに自分 じぶん の長所 ちょうしょ をもって、他 た の民族 みんぞく を助 たす け合 あ って行 い く、民族 みんぞく 協和 きょうわ という仲 なか のよいやり方 かた で、東洋 とうよう は東洋 とうよう 人 じん のためにという考 かんが え方 かた がみんな(のらくろが旅 たび の途中 とちゅう で出会 であ って仲間 なかま になった朝鮮 ちょうせん 生 う まれの犬 いぬ 、シナ 生 う まれの豚 ぶた 、満 まん 洲 しゅう 生 う まれの羊 ひつじ 、蒙 こうむ 古 ふる 生 う まれの山羊 やぎ 等 とう の登場 とうじょう 人物 じんぶつ 達 たち )の心 しん の中 なか にゑがかれました。」とあり、当時 とうじ の軍部 ぐんぶ が国民 こくみん に説明 せつめい していたところの「興亜 こうあ 」と「民族 みんぞく 協和 きょうわ の精神 せいしん 」を知 し ることができる。
新 しん 京 きょう の藝文社 げいぶんしゃ が1942年 ねん 1月 がつ から、満 まん 洲 しゅう 国 こく で初 はつ で唯一 ゆいいつ の日本語 にほんご 総合 そうごう 文化 ぶんか 雑誌 ざっし 「藝文 げいぶん 」を発行 はっこう した。1943年 ねん 11月、「満 まん 洲 しゅう 公論 こうろん 」に改題 かいだい 。
哈爾浜 はま のキタイスカヤ
通 どお り。ロシア
人 じん 向 む け
店舗 てんぽ 前 まえ を
中国 ちゅうごく 服 ふく ・
洋服 ようふく ・
和服 わふく を
着 き た
人々 ひとびと が
闊歩 かっぽ する。
多 た 民族 みんぞく 国家 こっか ・満 まん 洲 しゅう 国 こく では、各 かく 民族 みんぞく の衣装 いしょう が混在 こんざい していた。初代 しょだい 国務 こくむ 院 いん 総理 そうり の鄭 てい 孝 たかし 胥 は、溥儀 ふぎ の皇帝 こうてい 即位 そくい 式典 しきてん はじめ、公私 こうし ともに生涯 しょうがい 中国 ちゅうごく 服 ふく を通 とお したといわれる[誰 だれ によって? ] 。
一方 いっぽう 、後任 こうにん の張 ちょう 景 けい 恵 めぐみ は、「協和 きょうわ (会 かい )服 ふく 」と呼 よ ばれる満 まん 洲 しゅう 国 こく 協和 きょうわ 会 かい の公式 こうしき 服 ふく を着用 ちゃくよう することが多 おお かった。国民 こくみん 服 ふく に似 に たデザインと色 いろ だが、国民 こくみん 服 ふく より先 さき に考案 こうあん された。階層 かいそう によって材質 ざいしつ ・デザインに違 ちが いがあったとされるが、上 うえ は国務 こくむ 総理 そうり 大臣 だいじん から下 した は一般 いっぱん 学生 がくせい まで、民族 みんぞく を問 と わず広 ひろ く着用 ちゃくよう され、石原 いしはら 莞爾 かんじ や甘粕 あまかす 正彦 まさひこ のような日本人 にっぽんじん の軍人 ぐんじん ・官僚 かんりょう ・有力 ゆうりょく 者 しゃ も着用 ちゃくよう した。協和 きょうわ 服 ふく には、飾 かざり 緒 いとぐち のような金 きん モールと、満 まん 洲 しゅう 国 こく 国旗 こっき と同 おな じ色 しょく をした五色 ごしき の房 ぼう からなる儀礼 ぎれい 章 しょう が付属 ふぞく した。ループタイ のように首 くび からかけて玉 たま 留 と めで締 し め、左 ひだり 胸 むね に房 ぼう をかける形 かたち で佩用 はいよう する。慶事 けいじ には房 ぼう の赤 あか と白 しろ 、弔事 とむらいこと には黒 くろ と白 しろ の部分 ぶぶん を強調 きょうちょう することで対応 たいおう した[98] 。
なお、宮廷 きゅうてい 行事 ぎょうじ 等 とう では、日本 にっぽん の大 だい 礼服 れいふく と酷似 こくじ したものが用 もち いられた。
1927年 ねん には同志社大学 どうししゃだいがく ラグビー部 ぶ が遠征 えんせい に来 き て8試合 しあい 行 おこな った[99] 。1928年 ねん 1月 がつ に満州 まんしゅう 代表 だいひょう による日本 にっぽん 遠征 えんせい が行 おこな われ明治大学 めいじだいがく などと対戦 たいせん し、同年 どうねん には満州 まんしゅう ラグビー協会 きょうかい が誕生 たんじょう し、日本 にっぽん の西部 せいぶ ラグビー協会 きょうかい (西日本 にしにほん 担当 たんとう 、現在 げんざい の関西 かんさい ラグビーフットボール協会 きょうかい と九州 きゅうしゅう ラグビーフットボール協会 きょうかい )の支部 しぶ となった[100] 。
1932年 ねん に満 まん 洲 しゅう 国 こく 体育 たいいく 協会 きょうかい が設立 せつりつ された。満 まん 洲 しゅう 国 こく の国技 こくぎ はサッカー であり[101] 、満 まん 洲 しゅう 国 こく 蹴球 しゅうきゅう 協会 きょうかい やサッカー満 まん 洲 しゅう 国 こく 代表 だいひょう チームも結成 けっせい されている。野球 やきゅう でも、日本 にっぽん の都市 とし 対抗 たいこう 野球 やきゅう 大会 たいかい に参加 さんか したチームがあり、日本 にっぽん プロ野球 やきゅう 初 はつ の海外 かいがい 公式 こうしき 戦 せん として、1940年 ねん に夏季 かき リーグ戦 せん を丸々 まるまる 使 つか って満 まん 洲 しゅう リーグ戦 せん が行 おこな われている。
建国 けんこく 当初 とうしょ の満 まん 洲 しゅう 国 こく ではオリンピック への参加 さんか も計画 けいかく されており、1932年 ねん 5月 がつ 21日 にち に満 まん 洲 しゅう 国 こく 体育 たいいく 協会 きょうかい はロサンゼルスオリンピック (1932年 ねん 7月 がつ 開催 かいさい )への選手 せんしゅ 派遣 はけん を同 どう オリンピックの組織 そしき 委員 いいん 会 かい に対 たい して正式 せいしき に申 もう し込 こ んでいるが、結局 けっきょく 参加 さんか は出来 でき なかった[102] 。ちなみに、派遣 はけん する選手 せんしゅ としては陸上 りくじょう 競技 きょうぎ 短距離 たんきょり 走 はし の劉 りゅう 長春 ちょうしゅん や、中距離 ちゅうきょり 走 はし の于希渭(謂 いい )などが挙 あ げられていた(ただし劉 りゅう は満 まん 洲 しゅう 国 こく 代表 だいひょう としての出場 しゅつじょう を拒否 きょひ し、中華民国 ちゅうかみんこく 代表 だいひょう として出場 しゅつじょう している)[103] [注釈 ちゅうしゃく 16] 。
1936年 ねん に開催 かいさい されたベルリンオリンピック への参加 さんか も見送 みおく られたが、1940年 ねん に開催 かいさい される予定 よてい であった東京 とうきょう オリンピック には選手 せんしゅ 団 だん を送 おく る予定 よてい であった。しかし、日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう の激化 げきか などを受 う けて同 どう 大会 たいかい の開催 かいさい が返上 へんじょう されたため、オリンピックに参加 さんか することはできなかった。なおその後 ご 、実質 じっしつ 的 てき な代替 だいたい 大会 たいかい である東亜 とうあ 競技 きょうぎ 大会 たいかい が開催 かいさい されている。
満 まん 洲 しゅう 国 こく へは多 おお くの日本人 にっぽんじん 音楽家 おんがくか が渡 わた り、西洋 せいよう 音楽 おんがく の啓蒙 けいもう 活動 かつどう を行 おこな った。満 まん 洲 しゅう 国 こく 建国 けんこく 以前 いぜん よりこの地 ち には白 しろ 系 けい ロシア人 じん を中心 ちゅうしん としたハルビン交響 こうきょう 楽団 がくだん が存在 そんざい したが、これに加 くわ えて日本人 にっぽんじん を中心 ちゅうしん に新 しん 京 きょう 交響 こうきょう 楽団 がくだん が結成 けっせい され、両者 りょうしゃ は関東軍 かんとうぐん の後援 こうえん を受 う けてコンサートや放送 ほうそう のための演奏 えんそう を行 おこな った。1939年 ねん には「新 しん 満 まん 洲 しゅう 音楽 おんがく の確立 かくりつ 及 およ び近代 きんだい 音楽 おんがく の普及 ふきゅう 」を目的 もくてき として新 しん 京 きょう 音楽 おんがく 院 いん が設立 せつりつ された。
園山 そのやま 民平 みんぺい は音楽 おんがく 教育 きょういく や満 まん 洲 しゅう 民謡 みんよう の収集 しゅうしゅう ・研究 けんきゅう に尽力 じんりょく した他 ほか 、満 まん 洲 しゅう 国 こく 国歌 こっか を作曲 さっきょく した。その他 た 、指揮 しき 者 しゃ の朝比奈 あさひな 隆 たかし 、作曲 さっきょく 家 か の太田 おおた 忠 ただし 、大木 おおき 正夫 まさお 、深井 ふかい 史郎 しろう 、伊福部 いふくべ 昭 あきら 、紙 かみ 恭輔 きょうすけ などの音楽家 おんがくか が日本 にっぽん から短期間 たんきかん 招 まね かれ、例 たと えば太田 おおた は「牡丹 ぼたん 江 こう 組曲 くみきょく 」、大木 たいぼく は交響 こうきょう 詩 し 「蒙 こうむ 古 いにしえ 」、深井 ふかい は交響 こうきょう 組曲 くみきょく 「大陸 たいりく の歌 うた 」、伊福部 いふくべ は音 おと 詩 し 「寒帯 かんたい 林 りん 」、紙 かみ は交響 こうきょう 詩 し 「ホロンバイル」を作曲 さっきょく した。
崔 ちぇ 承 うけたまわ 喜 き は1940年代 ねんだい 当時 とうじ 、世界 せかい 的 てき に有名 ゆうめい な舞踏 ぶとう 家 か であるが、当時 とうじ の満 まん 洲 しゅう 、および中国 ちゅうごく 各地 かくち を巡業 じゅんぎょう していた[104] 。
満 まん 洲 しゅう 国 こく の国花 こっか は「蘭 らん 」[105] [注釈 ちゅうしゃく 17] とされることが多 おお いが、「蘭 らん 」は「皇室 こうしつ の花 はな (ローヤル・フラワー)」であり、日本 にっぽん における菊 きく に相当 そうとう するものであった。いわゆる「国花 こっか (ナショナル・フラワー)」は高粱 こうりゃん であり[107] 、1933(大同 だいどう 2)年 ねん 4月 がつ に決定 けってい されたとの記録 きろく がある[108] 。
満 まん 洲 しゅう 国 こく の消滅 しょうめつ 後 ご は、満 まん 洲 しゅう 族 ぞく も数 かず ある周辺 しゅうへん 少数 しょうすう 民族 みんぞく の一 ひと つと位置付 いちづ けられ、「満 まん 洲 しゅう 」という言葉 ことば 自体 じたい が中華民国 ちゅうかみんこく 、中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく 両 りょう 国内 こくない で排除 はいじょ されている(「満 まん 洲 しゅう 族 ぞく 」を「満 まん 族 ぞく 」と呼 よ び、清朝 せいちょう の「満 まん 洲 しゅう 八 はち 旗 はた 」は「満 まん 清 きよし 八 はち 旗 はた 」と呼 よ びかえるなど)。例外 れいがい 的 てき に地名 ちめい として満 まん 洲 しゅう 里 さと がその名 な をとどめている程度 ていど である。また、「中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう 満 まん 洲 しゅう 省 しょう 委員 いいん 会 かい 」のように歴史 れきし 的 てき な事柄 ことがら を記述 きじゅつ する場合 ばあい 、満 まん 洲 しゅう という言葉 ことば は変更 へんこう されずに残 のこ されている。今日 きょう 、満 まん 洲 しゅう 国 こく の残像 ざんぞう は歴史 れきし 資料 しりょう や文学 ぶんがく 、一部 いちぶ の残存 ざんそん 建築 けんちく 物 ぶつ などの中 なか にのみ存在 そんざい する。
満 まん 洲 しゅう 国 こく に存在 そんざい した日本 にっぽん の株式会社 かぶしきがいしゃ
編集 へんしゅう
傀儡 かいらい 国家 こっか ・理想 りそう 国家 こっか ・第 だい 3の歴史 れきし 認識 にんしき
編集 へんしゅう
中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく の歴史 れきし 書 しょ や事典 じてん などでは、日本 にっぽん が東 ひがし 三 さん 省 しょう を武力 ぶりょく 侵略 しんりゃく した後 のち に建国 けんこく した傀儡 かいらい 政権 せいけん 、傀儡 かいらい 国家 こっか [110] [111] [112] とされ、その傀儡 かいらい 性 せい や反 はん 人民 じんみん 性 せい を示 しめ すために「偽 にせ 満 まん 洲 しゅう 国 こく 」あるいは「偽 にせ 満 まん 」と称 しょう しており、中華民国 ちゅうかみんこく (国民党 こくみんとう ・台湾 たいわん 政府 せいふ [110] )で出版 しゅっぱん されたものでも同 おな じである[113] 。日本 にっぽん での見方 みかた は当然 とうぜん のように違 ちが い[111] 、おおむね満 まん 洲 しゅう 国 こく の政治 せいじ 実態 じったい に重点 じゅうてん をおく「傀儡 かいらい 国家 こっか 」論 ろん と、満 まん 洲 しゅう 国 こく の政治 せいじ 言説 げんせつ の分析 ぶんせき 力点 りきてん をおく「理想 りそう 国家 こっか 」論 ろん の二 ふた つに分類 ぶんるい できる[114] が、また、満 まん 洲 しゅう 国 こく が傀儡 かいらい 国家 こっか か理想 りそう 国家 こっか かという二者択一 にしゃたくいつ の問題 もんだい を重要 じゅうよう 視 し しない第 だい 3の歴史 れきし 認識 にんしき ともいうべき新 あら たな視点 してん が日 にち 中 ちゅう 両国 りょうこく の歴史 れきし マニアの間 あいだ で浮上 ふじょう してきた[115] とも言 い われている。
日本 にっぽん 国内 こくない においては、満 まん 洲 しゅう 国 こく を、日本 にっぽん や関東 かんとう 軍 ぐん の傀儡 かいらい 国家 こっか とみなす立場 たちば [116] に関 かん して、研究 けんきゅう 者 しゃ として山室 やまむろ 信一 しんいち 、加藤 かとう 陽子 ようこ 、並木 なみき 頼 よりゆき 寿 ことぶき [117] らが挙 あ げられる。辞書 じしょ や歴史 れきし 辞典 じてん の類 るい においてみれば、日本 にっぽん または関東軍 かんとうぐん の傀儡 かいらい 国家 こっか と規定 きてい するものが多 おお い[118] [119] [120] [121] 。
大日本帝国 だいにっぽんていこく の立場 たちば において、以下 いか のような論述 ろんじゅつ がある。
農業 のうぎょう 学者 がくしゃ 新渡戸 にとべ 稲造 いなぞう は在米 ざいべい 中 ちゅう の1932年 ねん (昭和 しょうわ 7年 ねん )8月 がつ 20日 はつか 、CBSラジオでスティムソン ドクトリンに反論 はんろん する形 かたち で「満 まん 洲 しゅう 事変 じへん と不戦 ふせん 条約 じょうやく 」について言明 げんめい し、「満 まん 洲 しゅう 事変 じへん は自己 じこ 防衛 ぼうえい の手段 しゅだん としてなされたものであって侵略 しんりゃく ではなく、満 まん 洲 しゅう 国 こく は一般 いっぱん に考 かんが えられているように日本 にっぽん の傀儡 かいらい 政権 せいけん ではない」と表明 ひょうめい している[122] 。親日 しんにち 運動 うんどう 家 か シドニー・ギューリック は1939年 ねん の自著 じちょ 『日本 にっぽん へ寄 よ せる書 しょ 』において、「支 ささえ 那 な における排日 はいにち 運動 うんどう は極 きわ めて徹底 てってい したものである。一般 いっぱん 民衆 みんしゅう に排日 はいにち 思想 しそう をふき込 こ む許 もと りでなく子供 こども の排日 はいにち 教育 きょういく にも力 ちから を注 そそ ぎ、このためには歴史 れきし 上 じょう の事実 じじつ さへも歪 ゆが め、虚偽 きょぎ の歴史 れきし を教 おし えて子供 こども の敵愾心 てきがいしん をそそり、憎悪 ぞうお の念 ねん を植 う え付 つ けていった」「例 たと えば満 まん 洲 しゅう は支 ささえ 那 な 本土 ほんど の一部 いちぶ であるにもかかわらず日本 にっぽん がそれを奪 うば ったと教 おし える。しかし歴史 れきし 上 じょう 満 まん 洲 しゅう が支 ささえ 那 な の一部 いちぶ であった事実 じじつ は未 いま だ一 いち 度 ど もなく[注釈 ちゅうしゃく 18] 、逆 ぎゃく に支 ささえ 那 な 本土 ほんど が満 まん 洲 しゅう の属国 ぞっこく であった歴史 れきし 上 じょう の事実 じじつ がある位 い である。これなどは全然 ぜんぜん 逆 ぎゃく な事実 じじつ を教 おし えるものであるが、その目的 もくてき は一 いち に満 まん 洲 しゅう から日本 にっぽん の勢力 せいりょく を駆逐 くちく しようとするところにあったわけである」と述 の べている[123] 。
オーウェン・ラティモア は、The Mongols of Manchuria (1934年 ねん )のなかで、中国 ちゅうごく は確 たし かに西洋 せいよう 列強 れっきょう の半 はん 植民 しょくみん 地 ち に転落 てんらく したが、同時 どうじ に中国 ちゅうごく はモンゴル やチベット などの諸 しょ 民族 みんぞく に対 たい し、西洋 せいよう 列強 れっきょう よりも苛烈 かれつ な植民 しょくみん 地 ち 支配 しはい を強制 きょうせい し、無数 むすう の漢 かん 民族 みんぞく をモンゴルの草原 そうげん に入植 にゅうしょく させては軍閥 ぐんばつ 政権 せいけん を打 う ち立 た て、現地 げんち 人 じん が少 すこ しでも抵抗 ていこう すれば、容赦 ようしゃ なく虐殺 ぎゃくさつ しており、西洋 せいよう 列強 れっきょう と中国 ちゅうごく に比 くら べて、新生 しんせい の満 まん 洲 しゅう 国 こく はモンゴル人 じん の生来 せいらい の権益 けんえき を守 まも り、民族 みんぞく 自治 じち が実現 じつげん できている、と評価 ひょうか している[124] 。
近年 きんねん の研究 けんきゅう に基 もと づくものでは、民族 みんぞく 自治 じち どころか日本 にっぽん 内地 ないち 人 じん が圧倒的 あっとうてき 優位 ゆうい に立 た つ植民 しょくみん 地 ち 的 てき 国家 こっか であったという評価 ひょうか [125] がある。
注釈 ちゅうしゃく
^ 1942年 ねん から1945年 ねん まで。それ以前 いぜん は同名 どうめい の別 べつ の曲 きょく だった。詳細 しょうさい は満 まん 洲 しゅう 国 こく の国歌 こっか を参照 さんしょう 。
^ 正式 せいしき には1932年 ねん 3月 がつ 10日 とおか の国務 こくむ 院 いん 佈告第 だい 1号 ごう で国 くに 都 と と定 さだ められた。
^ 1932年 ねん 3月 がつ 14日 にち の国務 こくむ 院 いん 佈告第 だい 2号 ごう により長春 ちょうしゅん から改称 かいしょう 。
^ 臨時 りんじ 首都 しゅと という扱 あつか いであり、正式 せいしき な首都 しゅと は新 しん 京 きょう のまま。
^ 満 まん 洲 しゅう 国 こく の元号 げんごう は、大同 だいどう (1932年 ねん 3月1日 にち - 1934年 ねん 3月1日 にち )、康徳 やすのり (1934年 ねん 3月1日 にち - 1945年 ねん 8月 がつ 18日 にち )
^ 同 どう 事件 じけん の根底 こんてい にはモンゴル人 じん と移住 いじゅう 者 しゃ である漢人 かんど との間 あいだ の土地 とち を巡 めぐ る争 あらそ いがあったとされる。モンゴル人 じん や旗 はた の王 おう 府 ふ は襲撃 しゅうげき を受 う け、モンゴル人 じん は数 すう 十 じゅう 万 まん 規模 きぼ でジェリム盟 めい やジョーオダ盟 めい 北部 ほくぶ に避難 ひなん 移住 いじゅう した[20] 。
^ モーゲンソー日記 にっき によれば、ルーズベルト大統領 だいとうりょう は「結局 けっきょく 、イタリアと日本 にっぽん が宣戦 せんせん 布告 ふこく せず交戦 こうせん する技術 ぎじゅつ を進化 しんか させてきたとすれば、なぜ我々 われわれ は同様 どうよう の技術 ぎじゅつ を開発 かいはつ できないのか」と語 かた ったとされる[24] 。
^ 「大日本帝国 だいにっぽんていこく 政府 せいふ 及「ソヴイエト」社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく 聯邦 れんぽう 政府 せいふ ハ千 せん 九 きゅう 百 ひゃく 四 よん 十 じゅう 一 いち 年 ねん 四 よん 月 がつ 十 じゅう 三 さん 日 にち 大日本帝国 だいにっぽんていこく 及「ソヴイエト」社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく 聯邦 れんぽう 間 あいだ ニ締結 ていけつ セラレタル中立 ちゅうりつ 条約 じょうやく ノ精神 せいしん ニ基 もと キ両国 りょうこく 間 あいだ ノ平和 へいわ 及友好 ゆうこう ノ関係 かんけい ヲ保障 ほしょう スル為 ため 大日本帝国 だいにっぽんていこく カ蒙 こうむ 古 こ 人民 じんみん 共和 きょうわ 国 こく ノ領土 りょうど ノ保全 ほぜん 及不可侵 ふかしん ヲ尊重 そんちょう スルコトヲ約 やく スル旨 うま 又 また 「ソヴイエト」社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく 聯邦 れんぽう カ満 まん 洲 しゅう 帝国 ていこく ノ領土 りょうど ノ保全 ほぜん 及不可侵 ふかしん ヲ尊重 そんちょう スルコトヲ約 やく スル旨 むね 厳粛 げんしゅく ニ声明 せいめい ス」[12] 。
^ 住民 じゅうみん 台帳 だいちょう を利用 りよう して人口 じんこう を算出 さんしゅつ したもの。
^ 調査 ちょうさ 票 ひょう を集計 しゅうけい して人口 じんこう を算出 さんしゅつ したもの。
^ 「満 まん 洲 しゅう 国 こく 小学校 しょうがっこう 教員 きょういん 募集 ぼしゅう ニ関 せき スル件 けん 」昭和 しょうわ 13年 ねん (1938年 ねん )1月 がつ 14日 にち 秋田 あきた 県 けん 学務 がくむ 部長 ぶちょう 通牒 つうちょう [61] 。
^ 在 ざい 日本 にっぽん 大使 たいし の一覧 いちらん も参照 さんしょう 。
^ バチカンの福音 ふくいん 宣教 せんきょう 省 しょう が派遣 はけん する教皇 きょうこう 使節 しせつ はバチカンとの外交 がいこう 関係 かんけい がない国々 くにぐに にも派遣 はけん される派遣 はけん される例 れい がある[80] 。
^ 当時 とうじ の中国 ちゅうごく の4大 だい 石油 せきゆ 会社 かいしゃ の1つ。他 た 3社 しゃ は中 ちゅう 華美 かび 大 だい 煤 すす 油 ゆ 、光 ひかり 華 はな 石油 せきゆ 、利華 りか 石油 せきゆ 。
^ 高級 こうきゅう 中学 ちゅうがく 師範 しはん 科 か もこれとほぼ同様 どうよう の教育 きょういく 内容 ないよう であった。
^ 劉 りゅう らの動 うご きに関 かか わりなく満 まん 洲 しゅう 国 こく 側 がわ は大 だい 日本 にっぽん 体育 たいいく 協会 きょうかい の支援 しえん を受 う けて参加 さんか に向 む けた活動 かつどう を続 つづ けたものの、最終 さいしゅう 的 てき に断念 だんねん した。断念 だんねん 理由 りゆう について、上記 じょうき 高嶋 たかしま 論文 ろんぶん には二 ふた つの説 せつ が挙 あ げられている。
^ 国 くに 章 しょう にも用 もち いられている「蘭 らん 」については、正 まさ しくはフジバカマ を指 さ すが、しばしばラン科 か の花 はな (Orchid)と誤解 ごかい された[106] 。
^ この記述 きじゅつ は漢 かん 代 だい に遼 りょう 西郡 にしごおり 、遼東 りゃおとん 郡 ぐん 、さらにはその先 さき の朝鮮半島 ちょうせんはんとう に楽 らく 浪 なみ 郡 ぐん などが置 お かれた事実 じじつ 、明代 あきよ にも永楽 えいらく 帝 みかど の時代 じだい に征服 せいふく され、後 のち に間接 かんせつ 統治 とうち になるも、撫 なで 順 じゅん などの拠点 きょてん に軍 ぐん を置 お き支配 しはい が及 およ んでいた事実 じじつ に反 はん する。
出典 しゅってん
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^ 三 さん 訂 てい 版 ばん ,世界 せかい 大 だい 百科 ひゃっか 事典 じてん 内 ない 言及 げんきゅう , デジタル大辞泉 だいじせん ,日本 にっぽん 大 だい 百科全書 ひゃっかぜんしょ (ニッポニカ),百科 ひゃっか 事典 じてん マイペディア,山川 やまかわ 日本 にっぽん 史 し 小 しょう 辞典 じてん 改訂 かいてい 新版 しんぱん ,ブリタニカ国際 こくさい 大 だい 百科 ひゃっか 事典 じてん 小 しょう 項目 こうもく 事典 じてん ,世界 せかい 大 だい 百科 ひゃっか 事典 じてん 第 だい 2版 はん ,旺文社 おうぶんしゃ 日本 にっぽん 史 し 事典 じてん 三 さん 訂 てい 版 ばん ,旺文社 おうぶんしゃ 世界 せかい 史 し 事典 じてん . “満州 まんしゅう 国 こく (マンシュウコク)とは? 意味 いみ や使 つか い方 かた ”. コトバンク . 2023年 ねん 11月15日 にち 閲覧 えつらん 。
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^ 同 どう 1934年 ねん (康徳 やすのり 元年 がんねん )3月 がつ 1日 にち 施行 しこう された組織 そしき 法 ほう 第 だい 1条 じょう に「満 まん 洲 しゅう 帝国 ていこく ハ皇帝 こうてい 之 の ヲ統治 とうち ス」(『政府 せいふ 公報 こうほう 日 び 譯 やく 』による)。
^ 1934年 ねん (康徳 やすのり 元年 がんねん )4月 がつ 6日 にち の外交 がいこう 部 ぶ 佈告第 だい 5号 ごう
^ なおこの点 てん については学術 がくじゅつ 的 てき に議論 ぎろん があり、また現代 げんだい における国際 こくさい 政治 せいじ 的 てき 焦点 しょうてん でもある。詳 くわ しくは中国 ちゅうごく 朝鮮 ちょうせん 関係 かんけい 史 し 及 およ び東北 とうほく 工程 こうてい を参照 さんしょう
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^ 1823年 ねん (文政 ぶんせい 6年 ねん )に著 あらわ した『混同 こんどう 秘策 ひさく 』「凡 およ そ他 た 邦 くに を経略 けいりゃく するの法 ほう は、弱 よわ くして取 ど り易 やす き処 ところ より始 はじめ るを道 みち とす。今 いま に当 あ て世界 せかい 万国 ばんこく の中 なか に於 おい て、皇国 こうこく よりして攻 おさむ 取 と り易 やす き土地 とち は、支 ささえ 那 な 国 こく の満 まん 洲 しゅう より取 と り易 やす きはなし。」
^ 『幽囚 ゆうしゅう 録 ろく 』にて「北 きた は満 まん 洲 しゅう の地 ち を割 さ き、南 みなみ は台湾 たいわん 、呂 りょ 宋 そう 諸島 しょとう を収 おさ め、進取 しんしゅ の勢 いきおい を漸 やや 示 しめ すべし」
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^ 当初 とうしょ は「啓運 けいうん 」を予定 よてい していたが、関東軍 かんとうぐん の干渉 かんしょう によって変更 へんこう
^ リットン報告 ほうこく 書 しょ 9章 しょう 「問題 もんだい の複雑 ふくざつ 性 せい 」『右 みぎ 地域 ちいき ハ法律 ほうりつ 的 てき ニハ完全 かんぜん ニ支 ささえ 那 な ノ一 いち 部分 ぶぶん ナルモ其ノ地方 ちほう 政権 せいけん ハ本 ほん 紛争 ふんそう ノ根底 こんてい ヲナス事項 じこう ニ関 せき シ日本 にっぽん ト直接 ちょくせつ 交渉 こうしょう ヲナス程度 ていど ノ広範 こうはん ナル自治 じち 的 てき 性質 せいしつ ノモノナリキ』
^ リットン報告 ほうこく 書 しょ 6章 しょう 「満 まん 洲 しゅう 国 こく 」第 だい 1節 せつ 「新 しん 国家 こっか 建設 けんせつ の階段 かいだん 」
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^ リットン報告 ほうこく 書 しょ 9章 しょう 「問題 もんだい の複雑 ふくざつ 性 せい 」
^ 紛爭 ふんそう 解決 かいけつ ニ至 いたり ラサルトキハ聯盟 れんめい 理事 りじ 會 かい ハ全會 ぜんかい 一致 いっち 又 また ハ過半數 かはんすう ノ表決 ひょうけつ ニ基 もと キ當該 とうがい 紛爭 ふんそう ノ事實 じじつ ヲ述 じゅつ へ公正 こうせい 且適當 てきとう ト認 みとめ ムル勸告 かんこく ヲ載 の セタル報告 ほうこく 書 しょ ヲ作成 さくせい シ之 の ヲ公表 こうひょう スヘシ
^ 聯盟 れんめい 理事 りじ 會 かい ノ報告 ほうこく 書 しょ カ【紛爭 ふんそう 當事 とうじ 國 こく ノ代表 だいひょう 者 しゃ ヲ除 じょ キ】他 た ノ聯盟 れんめい 理事 りじ 會員 かいいん 全部 ぜんぶ ノ同意 どうい ヲ得 え タルモノナルトキハ聯盟 れんめい 國 こく ハ該報告 ほうこく 書 しょ ノ勸告 かんこく ニ應 おう スル紛爭 ふんそう 當事 とうじ 國 こく ニ對 たい シ戰爭 せんそう ニ訴ヘサルヘキコトヲ約 やく ス(報告 ほうこく 書 しょ が当事 とうじ 国 こく を除 のぞ く理事 りじ 会 かい 全部 ぜんぶ の同意 どうい を得 え たときは連盟 れんめい 国 こく はその勧告 かんこく に応 おう じた紛争 ふんそう 当事 とうじ 国 こく に対 たい しては戦争 せんそう に訴 うった えない)
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