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魏 (三国) - Wikipedia

(さんこく)

中国ちゅうごくさんこく時代じだい華北かほく支配しはいした王朝おうちょう
たかし
たかし
後漢 220ねん - 265ねん 西晋
魏の位置
領域りょういきみどり)。
公用こうよう 上古じょうこ漢語かんご
宗教しゅうきょう 儒教じゅきょう仏教ぶっきょう道教どうきょう民間みんかん信仰しんこう
首都しゅと もとあきら220ねん - 226ねん
洛陽らくよう(226ねん - 265ねん
皇帝こうてい
220ねん - 226ねん 高祖こうそ ぶんみかど
260ねん - 265ねんもとみかど
つかさ相国しょうこく
220ねん - 226ねんはな
265ねん - 265ねん司馬しばえん
人口じんこう
260ねん4,432,881にん
変遷へんせん
こうかんより禅譲ぜんじょう建国けんこく 220ねん11月25にち
遼東りゃおとん公孫こうそんほろぼす238ねん8がつ23にち
高平たかひらりょうへん249ねん2がつ5にち
しょくかんほろぼす263ねん12月23にち
西にしすすむ禅譲ぜんじょう滅亡めつぼう265ねん
通貨つうか銖銭
現在げんざい中華人民共和国の旗 中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく
朝鮮民主主義人民共和国の旗 北朝鮮きたちょうせん
モンゴルの旗 モンゴル

たかし(ぎ、拼音: Wèi220ねん - 265ねん)は、中国ちゅうごくさんこく時代じだい華北かほく支配しはいした王朝おうちょう首都しゅと洛陽らくよう曹氏王朝おうちょうであることから曹魏(そうぎ)、あるいはきたたかしたいしてぜん(ぜんぎ)とも(この場合ばあいきたたかしこうぶ)いう。

中国歴史
中国ちゅうごく歴史れきし
先史せんし時代じだい中国語ちゅうごくごばん
ちゅう石器せっき時代じだい中国語ちゅうごくごばん
しん石器せっき時代じだい
さんすめらぎみかど
いにしえこく時代じだい
黄河こうが文明ぶんめい
長江ながえ文明ふみあき
りょうかわ文明ぶんめい
なつ
いん
しゅう西にしあまね
しゅう
あずまあまね
春秋しゅんじゅう時代じだい
戦国せんごく時代じだい
はた
かん前漢ぜんかん
しん
かんこうかん

孫呉そんご
かん
しょくかん
たかし
曹魏
すすむ西にしすすむ
すすむあずますすむ じゅうろくこく
そうりゅうそう たかしきたたかし
ひとしみなみひとし
りょう たかし
(西にしたかし)
たかし
(あずまたかし)
ひね りょう
(こうはり)
しゅう
(きたあまね)
ひとし
(きたひとし)
ずい
とう  
しゅうたけあまね
 
だいじゅうこく ちぎり
そう
きたそう
なつ
(西にしなつ)
りょう
そう
みなみそう
きむ
もと
あきら もと
(北元きたもと)
あきら
南明なんめい
じゅん 後金あときん
 
きよし
 
中華民国ちゅうかみんこく まんしゅうこく
 
中華ちゅうか
みんこく

台湾たいわん
中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく

系図けいず

45年間ねんかんしかつづかなかった王朝おうちょうだが、成立せいりつ基礎きそつくった曹操そうそう時期じき政権せいけんである「曹操そうそう政権せいけん」とわせてろんじられることもおおい。たかししょく戦国せんごくえがいた三国志さんごくし(『三国志さんごくし』・『三国志さんごくし演義えんぎ』など)などで後世こうせいつたわり、日本にっぽんたかし卑弥呼ひみこ記述きじゅつした「こころざし倭人わじんでん」でられる。また、昭和しょうわ吉川よしかわ英治えいじあらわした『三国志さんごくし』をはじめ、この時代じだいえがいた小説しょうせついまなお日本にっぽん人気にんきがあり、そのため知名度ちめいどたか王朝おうちょうである。

曹操そうそう台頭たいとう

編集へんしゅう

こうかん末期まっきはばらん184ねん)がきたのち皇帝こうてい統制とうせいりょく非常ひじょうよわまり、ただしたく専横せんおうはじまるも部下ぶかりょぬのころされ、群雄割拠ぐんゆうかっきょ状態じょうたいとなる。そのなか台頭たいとうしたのが曹操そうそうであった。はんただしたくかかげて挙兵きょへいしたことを皮切かわきりに活動かつどう開始かいしした曹操そうそう192ねん兗州まきとなり、そのあおしゅうからはばぞくへい30まんにん戦闘せんとういん100まんにん投降とうこうさせて自分じぶん配下はいかおさめ、その急激きゅうげき勢力せいりょく拡大かくだいさせた。

196ねん曹操そうそう屯田とんでんせい開始かいしし、流民りゅうみんあつめてたがやものがいなくなった農地のうちたがやさせた。また曹操そうそうけんじみかどみずからの本拠ほんきょであるもとあきらむかれ、ただしたくもと配下はいかであったりょぬのちょうなどの勢力せいりょくほろぼす。200ねんにはかんわたりたたか袁紹やぶり、207ねんには袁氏味方みかたする騎馬きば遊牧ゆうぼく民族みんぞくがらすやぶって中国ちゅうごく北部ほくぶ手中しゅちゅうおさめ(しろおおかみやまたたか)、同年どうねんかん丞相じょうしょうとなる。

208ねん曹操そうそう南方なんぽうまごけんりゅう連合れんごうぐんめるが、しゅうらのけいによりやぶれ、飢餓きが疫病えきびょうかさなり非常ひじょうおおくの兵士へいしくなる(あかかべたたか)。同年どうねんみなみぐん守備しゅびしていた曹仁しゅう瑜にやぶれ、まごけん支配しはいとなった。また、りゅう備が荊州南部なんぶ4ぐん制圧せいあつし、曹操そうそうりゅう備・まごけんさんしゃ鼎立ていりつ様相ようそうていした。

211ねん曹操そうそううまちょうをはじめとするせきなか軍閥ぐんばつ連合れんごうぐんやぶった(潼関のたたか)。その曹操そうそうぐんなつほうふかしらがせきちゅう軍閥ぐんばつ連合れんごうぐん残党ざんとう制圧せいあつした。212ねん曹操そうそうまごけん征伐せいばつぐんこしたが、いちがつあま対峙たいじしたのち撤退てったいした(だいいち濡須こうたたか)。

こうおう即位そくい

編集へんしゅう

213ねん曹操そうそうじゅうぐん河東かとうぐん河内かわちぐんぐんちょうぐん中山ちゅうざんぐん常山つねやまぐん鉅鹿ぐん安平あびらぐんあまりょうぐん平原ひらばらぐん)をもってこうふうじられた[1]216ねん、さらに曹操そうそうおうふうじられた。当時とうじ皇族こうぞく以外いがいには「おう」のあたえないという不文ふぶんりつがあったのにもかかわらず、曹操そうそう王位おういいたということは、すなわち簒奪さんだつへのぜん段階だんかいであった。しかし曹操そうそう存命ぞんめいちゅう皇帝こうていうばわずにいた。

215ねん曹操そうそうかんちゅうちょう降伏ごうぶくさせた(陽平ようへいせきたたか)。その曹操そうそうぐんすう年間ねんかんにわたり、えきしゅうしょく)を制圧せいあつしたりゅう備軍とかんちゅう周辺しゅうへん激戦げきせんひろげた。216ねん曹操そうそうみずかぐんひきいてふたたまごけん征討せいとうおもむいた。やく半年はんとしあいだ対峙たいじしたのちまごけん和睦わぼくもうれたためぐんいた(だい濡須こうたたか)。

219ねんかんちゅう守備しゅびしているなつこうふちりゅうつぶさられ(じょうぐんやまたたか)、曹操そうそうみずかかんちゅう援軍えんぐん出向でむいたが、苦戦くせん被害ひがいおおきくなったので撤退てったいかんちゅうりゅうつぶさうばわれた。また、りゅう備の部将ぶしょうせきはね北上ほくじょうして曹操そうそう勢力せいりょく樊城じょう包囲ほういし、曹操そうそう部将ぶしょう于禁ひきいるななぐん壊滅かいめつさせ、曹操そうそう部将ぶしょうの于禁・龐徳捕虜ほりょとした。曹操そうそう司馬しば蔣済提案ていあんしたがい、まごけん同盟どうめいむすび、じょあきららを派遣はけんしてせきはねやぶった(樊城のたたか)。

220ねん曹操そうそうやまいのため死去しきょし、たけおうおくりなされた。曹操そうそうぬとともに、曹操そうそうである曹丕おうこうかん丞相じょうしょう地位ちいいだ。

建国けんこく

編集へんしゅう

そして曹丕はけんじみかどから禅譲ぜんじょうけ、とく王朝おうちょうのため、とくであったのちかん雒陽洛陽らくようもどしてとし、皇帝こうていとなった。そしてちち曹操そうそうふとしたけ皇帝こうてい追号ついごうした。また、こうかんけんじみかど山陽さんようこうとし、こうかん諸侯しょこうおうはそれぞれたかしとくこうくだふうした。翌年よくねんしょくりゅう備も対抗たいこうして(かんの)皇帝こうていしょうし、さらに229ねんにはまごけん皇帝こうていしょうし、1人ひとりしか存在そんざいできないはずの皇帝こうていが3にんならつという、かつてない事態じたいになった[2]

ぶんみかど(曹丕)は九品くほんかんじんほう実施じっしし、中書ちゅうしょしょう設置せっちなどしょ制度せいど整備せいびして体制たいせい完全かんぜんなものへと移行いこうさせた。しかしその影響えいきょうこうかんから形成けいせいされてきた豪族ごうぞくそう貴族きぞくし、官職かんしょく独占どくせんおこなうようになった。この問題もんだい時代じだいはまだ端緒たんしょえた程度ていどであるが、西にしすすむになってから深刻しんこくした。

また、222ねんは3方向ほうこうから曹休りょはんやぶり、曹真なつこうなおちょうらがこうりょう包囲ほうい攻撃こうげきし、まごもりしょかずらやぶったが、曹仁がしゅやぶれ、疫病えきびょう流行りゅうこうしたため退却たいきゃくした。

曹丕は226ねん崩御ほうぎょし、長男ちょうなん曹叡あきらみかど)が皇帝こうていとなった。227ねんまごけんしょかずら瑾らが3方向ほうこうからめたが、司馬しば・曹休らにやぶれた。228ねんはじめたちしょくしょかずらあきら内応ないおうして反乱はんらんこしたが、司馬しば懿に鎮圧ちんあつされ、また同年どうねんしょかずらあきらちょうくもめてきたが、曹叡が派遣はけんしたちょう郃・曹真が撃退げきたいしている。さらに同年どうねん、曹休がめるが、いしていにおいてりくへりくだ大敗たいはいした。

229ねんしょくしょかずらあきら派遣はけんしたひねしきによってたけみやこ陰平かげひらうばわれた。またクシャーナあさしものヴァースデーヴァ1せいなみ調ちょう)、はじめて使節しせつらを中国ちゅうごく派遣はけんからおや大月おおつきおうかりかねしるしあずかっている。

231ねんふたたしょかずらあきらめてきたが、りょうぐんとも決着けっちゃくがつかず退却たいきゃくしている。ちょう郃は司馬しば懿に追撃ついげきいられしょくぐんったが、伏兵ふくへい射殺しゃさつされた(祁山のたたか)。234ねんしょく連携れんけいしてどう時期じきめてきたが、ひがしではまんちょうらがまごけん撃退げきたいし、西にしではしょかずらあきら病死びょうししたためしょくぐん撤退てったいした。しょかずらあきら死去しきょしたのちは、曹叡が宮殿きゅうでん造営ぞうえいさけにのめりんで国政こくせいおろかになったため、疲弊ひへいしていった。

235ねんかそけしゅう刺史ししおうつよし部下ぶかかんりゅう鮮卑ぞく大人おとな軻比のう暗殺あんさつした。238ねん司馬しば懿を派遣はけんし、遼東りゃおとん謀反むほんこした公孫こうそんふちほろぼしている。同年どうねん邪馬台国やまたいこく卑弥呼ひみこはじめてなんますまいらを中国ちゅうごく派遣はけんからおややまとおうかりかねしるし銅鏡どうきょう100まいあたえられる。[3]

司馬しば台頭たいとう

編集へんしゅう
 
264ねん領域りょういきあお

曹叡は239ねんに34さい[4]崩御ほうぎょし、その養子ようし曹芳いだ。曹叡は崩御ほうぎょさい司馬しば懿と皇族こうぞく曹爽に曹芳の後見こうけんたくした。244ねんには毌丘倹派遣はけんして、高句麗こうくり首都しゅと陥落かんらくさせるなど武威ぶいるったが、内部ないぶでは曹爽と司馬しば懿の対立たいりつこり、曹爽が司馬しば懿を排除はいじょして専権せんけんるった。249ねん司馬しば懿はこれに逆襲ぎゃくしゅうしてクーデターこして曹爽一派いっぱ逮捕たいほ権力けんりょく掌握しょうあくし、曹芳を傀儡かいらいとした(高平たかひらりょうへん)。250ねんおうあきらおうはじめらは荊州め、しゅらに勝利しょうりし、30まんせき兵糧ひょうろううばい、すうせんにん降伏ごうぶくさせた。251ねん司馬しば懿が死去しきょし、司馬しば権力けんりょくいだ。252ねんしょかずらえびすめるが、しょかずらつとむ大敗たいはいした(東興とうこうたたか)。曹芳は権力けんりょく奪還だっかん目論もくろむが、事前じぜん発覚はっかくして254ねん廃位はいいされひとしおうとされた。その曹髦皇帝こうてい擁立ようりつされた。

255ねん、毌丘倹が反乱はんらんこしたが、司馬しば鎮圧ちんあつした(毌丘倹・ぶん欽のらん)。そして同年どうねん司馬しば死去しきょし、その権力けんりょくおとうと司馬しばあきらいだ。さらに同年どうねんおうけいしょくきょう侵攻しんこうされ、大敗たいはいしている。しかし256ねんには、鄧艾めてきたきょう維に大勝たいしょうした。257ねんしょかずら同盟どうめいむすんで反乱はんらんこしたが、258ねん司馬しばあきら鎮圧ちんあつした。しょかずら誕の反乱はんらんは、ぐん26まんしょかずら誕・くれぐん20まんが1ねんにわたり激突げきとつした大戦たいせんであった(しょかずら誕のらん)。

当時とうじ司馬しばあきら権力けんりょくつよく、曹髦はまったくの傀儡かいらいであった。260ねん、曹髦はこれに不満ふまんいだき、側近そっきんすうひゃくめいれて自殺じさつてきなクーデターをこころみるが、賈充によりころされた。その擁立ようりつされたのが曹操そうそうまごにあたる曹奐であった。

263ねん司馬しばあきらは鄧艾・鍾会派遣はけんしてしょくほろぼした(しょくかん滅亡めつぼう)。しかし264ねん、鍾会がきょう維とともえきしゅう独立どくりつしようと反乱はんらんこし、混乱こんらんなかきょう維をふく多数たすうしょくしょうや鍾会・鄧艾がたれた。によりしょくほろぼされると、機会きかいじょう交州め、広大こうだい領土りょうど獲得かくとくすることとなった。これにより、司馬しばあきら最大さいだい領土りょうど現出げんしゅつした。

265ねん司馬しばあきら死去しきょし、その権力けんりょくいだ司馬しばえんにより曹奐は禅譲ぜんじょう強要きょうようされ、ほろびた。司馬しばえんあらたに西にしすすむて、280ねん征服せいふくさんこく鼎立ていりつ時代じだいわらせた。曹奐は西にしすすむ賓客ひんきゃくとしてちんとめおうふうじられ、西にしすすむはちおうらん最中さいちゅう天寿てんじゅまっとうした。

曹氏のその

編集へんしゅう

曹奐の以降いこうすすむ南朝なんちょうそう二王におうのちとして存続そんぞくしていた様子ようすがある。子孫しそん滅亡めつぼうから200ねん以上いじょう二王におうのちとしてちんとめおう相続そうぞくした。

326ねん、曹奐の不明ふめいだが、曹操そうそう玄孫げんそんである曹勱あずますすむによってちんとめおうふうじられた、358ねん死去しきょ363ねん、曹勱の曹恢あといだ。378ねん死去しきょ[5]383ねん、曹恢の曹霊誕あといだ[6]408ねん死去しきょ[7]

420ねんりゅうひろしあずますすむから禅譲ぜんじょう南朝なんちょうそうとなったが、りゅうひろし禅譲ぜんじょうすすめる上奏じょうそうに、ちんとめおう曹虔嗣つらねている[8]同年どうねん、曹虔嗣は死去しきょ[9]おとうと曹虔しゅうあといだ、462ねん死去しきょ[8]462ねん、曹虔しゅう曹銑あといだ。曹銑は473ねん死去しきょ[10]

479ねんしょう道成みちなり南朝なんちょうそうから禅譲ぜんじょう南朝なんちょうひとしとなったが、しょう道成みちなり禅譲ぜんじょうすすめる上奏じょうそうに、ちんとめおう曹粲つらねている。同年どうねん8がつ王位おういのぞかれた[11]

このさんこく鼎立ていりつ時代じだいは、のちちん寿ひさしにより『三国志さんごくし』にまとめられた。

196ねん曹操そうそうかんひろしなつめらの提言ていげんしたがい、屯田とんでんせい開始かいししている。屯田とんでんせいとは、戦乱せんらんのためにたがやすものがいなくなった農地のうちかん兵士へいし農民のうみん護衛ごえいしてたがやさせる制度せいどである(みんたむろ)。屯田とんでんせい当初とうしょ難航なんこうしたが、にんたかしらの尽力じんりょくにより軌道きどうり、この政策せいさくにより曹操そうそうぐん食料しょくりょう事欠ことかかないようになり、各地かくちめた民衆みんしゅうたち大量たいりょうあつめること出来できた。建国けんこくされると国境こっきょう付近ふきん首都しゅと近郊きんこう兵士へいしにも農耕のうこうおこなわせるようになった(ぐんたむろ)。

さときょさとせん科目かもくひとつのこうれんには儒教じゅきょう知識ちしきじんおも推挙すいきょされるが、曹操そうそう勢力せいりょく幹部かんぶである荀彧荀攸賈詡ただしあきら鍾繇はなおうあきららがこうかど推挙すいきょされている。曹操そうそう自身じしんこうかど推挙すいきょされている。川勝かわかつ義雄よしおは「荀彧の主導しゅどうで、曹操そうそうもとおおくの名士めいし儒教じゅきょうてき知識ちしきじん)があつまり、やがて名士めいし武将ぶしょうおさえて曹操そうそう政権せいけんないおおきな権力けんりょくった。公国こうこく出来できのちは、政府せいふの(文官ぶんかんけいの)重要じゅうよう官職かんしょく名士めいしによってめられた」としている。

曹操そうそう勢力せいりょくけん境界きょうかい付近ふきん住民じゅうみんがらすぞくぞく勢力せいりょくけんのより内側うちがわまわせた。これは戦争せんそうにこれらの人々ひとびとてき呼応こおうしたりしないようにするためであり、てき戦争せんそうけて領地りょうちうばわれても住民じゅうみんうばわれないようにするためである。さんこく時代じだい相次あいつ戦乱せんらんなどにより戸籍こせき人口じんこう激減げきげんしており、労働ろうどうしゃ非常ひじょう貴重きちょうだった。曹操そうそうぐんがらす桓の騎兵きへいはそのおおいにとどろかせた。初代しょだい皇帝こうていとなった曹丕も冀州兵士へいし5まん河南かなんぐんうつした。

220ねん皇帝こうていの曹丕は、ちん意見いけん採用さいようし、九品くほんかんじんほうという官吏かんり登用とうようほうはじめた(従来じゅうらい官吏かんり登用とうようほうさときょさとせん有名ゆうめい)。九品くほんかんじんほうでは官僚かんりょう役職やくしょく最高さいこういちひんかんから最低さいていきゅうひんかんまでの9とうかんひん分類ぶんるいする。また、ぐん中正ちゅうせいかん官僚かんりょう候補こうほ評価ひょうかして、一品いっぴんからきゅうひんまでのさとひん分類ぶんるいする。このさとひんもと官僚かんりょうへの推薦すいせんおこなわれ、新人しんじん官僚かんりょう最初さいしょさとひんよんひん役職やくしょくく。たとえばさとひんひんならばろくひんかん官僚かんりょうとしての出発しゅっぱつてんおこりかんばれる)となる。その順調じゅんちょう出世しゅっせしていけば最終さいしゅうてきにはさとひんおなかんひんまで出世しゅっせし、それ以上いじょうかんひんへは通常つうじょうのぼれない。司馬しば懿が実権じっけんにぎると、中正ちゅうせいかんうえに、ぐんよりもひろ地域ちいき管轄かんかつするしゅうだい中正ちゅうせい導入どうにゅうした。これにより権力けんりょくのあるものがより介入かいにゅうしやすくなった。から司馬しば西にしすすむ移行いこうしたころから、さとひん本人ほんにん才能さいのうよりおやさとひんおおきく影響えいきょうするようになり、さとひん世襲せしゅうはじまり、貴族きぞくそう形成けいせいされるようになった。

官位かんいのトップにいたものたちについては

では、兵役へいえき義務ぎむせられた世襲せしゅう軍人ぐんじん家族かぞく一般いっぱん戸籍こせきとはことなりへいばれた(へいせい)。西にしすすむあずますすむなどでへい出身しゅっしん兵士へいし軍隊ぐんたい根幹こんかんとなった。ずいとう時代じだいになると一般いっぱん戸籍こせき民衆みんしゅうから徴兵ちょうへいする兵制へいせいおこなわれるようになった。

経済けいざい

編集へんしゅう

こうかん末期まっき戦乱せんらんによるぜに不足ふそく布帛ふはく生産せいさん増大ぞうだいけて、204ねん曹操そうそうは袁紹の支配しはい地域ちいきであった華北かほく中心ちゅうしん布帛ふはくによる徴税ちょうぜい導入どうにゅうしている(ただし、部分ぶぶんてき導入どうにゅうれいみかど時代じだいまでさかのぼ可能かのうせいがあり、また曹操そうそうによる導入どうにゅう全面ぜんめんてきではなかった可能かのうせいもある)。これをきっかけにでは単位たんい布帛ふはく調ちょうせい導入どうにゅうされることになる[12]

一方いっぽう曹操そうそうは208ねんただしたく廃止はいしした銖銭を復活ふっかつさせ、成立せいりつした221ねんと227ねん銖銭があらたに鋳造ちゅうぞうされたものの、すぐに鋳造ちゅうぞう停止ていしされている。これは国家こっかてき決済けっさい手段しゅだん布帛ふはく移行いこうしたのちも、民間みんかんにおいてはすべての取引とりひき物々交換ぶつぶつこうかんもどることはなく、つづぜに需要じゅようたかかったのに対応たいおうするために銖銭を発行はっこうしたとかんがえられている[13]

曹丕曹植兄弟きょうだい詩人しじんとしても有名ゆうめいで、曹植は「詩聖しせい」としょうされるなどたか評価ひょうかされ、曹丕は文学ぶんがくろんである『てんろん』を著作ちょさくし、中国ちゅうごく文学ぶんがくかいおおきな影響えいきょうあたえた。

なにおうらが「げんがく」を創始そうしし、ろうそう思想しそう発展はってんさせた。また、竹林ちくりんななけん清談せいだんおこない、ろうそう思想しそうおおきな影響えいきょうあたえた。

相国しょうこくとなった鍾繇書道しょどうとしても評価ひょうかたかかったが、とく隷書れいしょ楷書かいしょ中間ちゅうかんのような書体しょたいである「鍾繇たい(しょうようたい)」は有名ゆうめいである。

発明はつめいうまひとし指南車しなんしゃみずてんひゃくおどけばれるみずうごからくり人形にんぎょう雑技ざつぎだん楽隊がくたいつくった。

また、文学ぶんがくてきにいえば、こうかんけんやす年間ねんかん196ねん - 220ねん)は曹操そうそう中心ちゅうしんとした文学ぶんがくサロンが形成けいせいされ、あたらしい文学ぶんがくかたちつくっていた(たてやすし文学ぶんがく)。このけんやす文学ぶんがくながれが、時代じだいのみならず、すすむ南北なんぼくあさ時代じだい全体ぜんたいにわたってつづいていく。それゆえにけんやす年間ねんかん一時期いちじきかんがえたほうが、文学ぶんがくてきにはわかりやすいとえる。

成立せいりつ年代ねんだいについて

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厳密げんみつえば、曹丕が、禅譲ぜんじょうけて皇帝こうていになった220ねん成立せいりつとするべきである。しかしながら曹操そうそう存命ぞんめいちゅうも、曹操そうそう皇帝こうていのように君臨くんりんして万事ばんじうごかしていたのだから、曹操そうそう権力けんりょくれてからを王朝おうちょう成立せいりつることもできる。その場合ばあいつぎのような時期じき事実じじつじょう王朝おうちょう成立せいりつとらえられる。

  1. 200ねん曹操そうそうぐんかんわたりたたかいに勝利しょうりして中国ちゅうごく北部ほくぶ覇権はけん獲得かくとく
  2. 207ねん曹操そうそうこうかん丞相じょうしょうとなる
  3. 213ねん曹操そうそうこうとなる
  4. 216ねん曹操そうそうおうとなる
  5. 220ねん、曹丕、みかどとなる

皇帝こうてい一覧いちらん

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代数だいすう びょうごう 諡号しごう 姓名せいめい 在位ざいい 元号げんごう 陵墓りょうぼ 即位そくいまえ爵位しゃくい 退位たいい
こう皇帝こうてい 曹騰 きょう かんちんこう
ふとし皇帝こうてい[14] 曹嵩 きょだか かんちんこう
ふとし たけ皇帝こうてい 曹操そうそう はじめとく 高陵こうりょう かんこう
かんおう
1 高祖こうそ[15] ぶん皇帝こうてい 曹丕 220ねん - 226ねん はつ 220ねん-226ねん くびりょう かんおう
2 れつ あかり皇帝こうてい 曹叡 もとなか 226ねん - 239ねん ふとし 227ねん-233ねん
あおりゅう 233ねん-237ねん
けいはつ 237ねん-239ねん
高平たかひらりょう ひとしおおやけ
平原へいげんおう
3 厲公 曹芳 らんきょう 239ねん - 254ねん せいはじめ 240ねん-249ねん
嘉平かへい 249ねん-254ねん
ひとしおう ひとしおう
すすむの邵陵けんこう
4 曹髦 彦士 254ねん - 260ねん せいもと 254ねん-256ねん
甘露かんろ 256ねん-260ねん
高貴こうきごうこう
5 もと皇帝こうてい 曹奐 景明かげあき 260ねん - 265ねん 景元かげもと 260ねん-264ねん
咸熙 264ねん-265ねん
常道じょうどうごうこう すすむひねとめおう
  • 曹騰ふとしさんねん追号ついごうされた。
  • 曹嵩はつ元年がんねん追号ついごうされた。
  • 曹操そうそうはつ元年がんねん追号ついごうされた。
なつこうより
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
こう皇帝こうてい曹騰
 
ふとし皇帝こうてい曹嵩
 
ふとしたけ皇帝こうてい曹操そうそう
 
1高祖こうそぶん皇帝こうてい曹丕
 
2れつあかり皇帝こうてい曹叡
 
3厲公曹芳
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
曹植
 
 
曹霖
 
4曹髦
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
曹宇
 
5もと皇帝こうてい曹奐
 
 

南朝なんちょうひねとめおう一覧いちらん

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代数だいすう 姓名せいめい 在位ざいい 備考びこう
1 曹奐 265ねん - 302ねん もと皇帝こうてい
2 曹某 ? - ? 司馬しばてんせみぶんころも・鶡衣をおくった
3 曹勱 326ねん - 358ねん 曹操そうそう玄孫げんそん
4 曹恢 363ねん - 378ねん 曹勱の
5 曹霊誕 383ねん - 408ねん 曹恢の
6 曹虔嗣 408ねん - 420ねん 曹霊誕の
7 曹虔しゅう 420ねん - 462ねん 曹虔嗣のおとうと
8 曹銑 462ねん - 473ねん 曹虔しゅう
9 曹粲 473ねん - 479ねん
※曹奐の以降いこうすすむ南朝なんちょうそう二王におうのちとして存続そんぞくしていた様子ようすがある。子孫しそん滅亡めつぼうから200ねん以上いじょう二王におうのちとしてちんとめおう相続そうぞくした。

邪馬台国やまたいこく

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こころざし倭人わじんでんによれば「倭人わじんおびかたぐん現在げんざい北朝鮮きたちょうせん南西なんせいにあたる地域ちいき)の東南とうなん大海たいかいなかる。山島やましまってくにや邑(むら)をしている。きゅう(もと)はひゃくあまりこくあった。かんとき朝見ちょうけんするものがいた。いま交流こうりゅう可能かのうくにさんじゅうこくである……」などとある。卑弥呼ひみこ女王じょおうとする邪馬台国やまたいこくはその中心ちゅうしんとされ、さんじゅうこくのうちのおおく(じゅうこくじゃく対馬つしまこくからやつこくまで)がその支配しはいにあったという。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 池田いけだおんへん当該とうがい部分ぶぶん執筆しっぴつくぼ添慶ぶん世界せかい歴史れきし体系たいけい 中国ちゅうごく2』山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、1996ねん、9 ぺーじISBN 4-634-46160-9 
  2. ^ 実際じっさいしんすえかんはつ時代じだい群雄ぐんゆう時代じだいさんこく時代じだい以上いじょう各地かくち皇帝こうていならった前例ぜんれい存在そんざいする。
  3. ^ こころざし倭人わじんでんちゅうけいはつ2ねんは、公孫こうそんふちとの戦闘せんとう最中さいちゅうであることから、ふるくから239ねんけいはつ3ねん)のあやまりとするのが学会がっかい主流しゅりゅうであるが、異論いろんもある。
  4. ^ 年齢ねんれいには諸説しょせつがあり、34さい有力ゆうりょくとされる。
  5. ^ すすむしょ』「みかどだいはち
  6. ^ すすむしょ』「みかどだいきゅう
  7. ^ すすむしょ』「みかどだいじゅう
  8. ^ a b そうしょ』「本紀ほんぎだいろく
  9. ^ そうしょ』「本紀ほんぎだいさん
  10. ^ そうしょ』「本紀ほんぎだいきゅう
  11. ^ みなみ』「ひとし本紀ほんぎじょうだいよん」。ただし、ちんとめ前年ぜんねん4がつしょう道成みちなり封地ほうちとなったという記述きじゅつもある。また、『みなみひとししょ』には記述きじゅつし。
  12. ^ 柿沼かきぬま陽平ようへいさんこく時代じだいの曹魏の税制ぜいせい改革かいかく貨幣かへい経済けいざい質的しつてき変化へんか」(初出しょしゅつ:『東洋とうようがくほうだい92かんだい3ごう東洋文庫とうようぶんこ、2010ねん12がつ)/所収しょしゅう:柿沼かきぬま「曹魏の税制ぜいせい改革かいかく貨幣かへい経済けいざい質的しつてき変化へんか」『中国ちゅうごく古代こだい貨幣かへい経済けいざい持続じぞく展開てんかい』(汲古書院しょいん、2018ねん)) 2018ねん、P148-154.
  13. ^ 柿沼かきぬま陽平ようへいさんこく時代じだいの曹魏の税制ぜいせい改革かいかく貨幣かへい経済けいざい質的しつてき変化へんか」(初出しょしゅつ:『東洋とうようがくほうだい92かんだい3ごう東洋文庫とうようぶんこ、2010ねん12がつ)/所収しょしゅう:柿沼かきぬま「曹魏の税制ぜいせい改革かいかく貨幣かへい経済けいざい質的しつてき変化へんか」『中国ちゅうごく古代こだい貨幣かへい経済けいざい持続じぞく展開てんかい』(汲古書院しょいん、2018ねん)) 2018ねん、P155-160.
  14. ^ さん国会こっかいよう』ではだい皇帝こうていとある。
  15. ^ どおりかん』・『さん国会こっかいよう』・『歴代れきだい帝王ていおうびょうおくりなねんいみな』ではとある。

参考さんこう文献ぶんけん

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