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陳寿 - Wikipedia

ちん寿ひさし

233-297, さんこく時代じだいしょくかん西にしすすむつかえた官僚かんりょううけたまわ祚。『三国志さんごくし』の著者ちょしゃ

ちん 寿ひさし(ちん じゅ、けんきょう11ねん233ねん〉? - 元康もとやす7ねん297ねん〉?[注釈ちゅうしゃく 1])は、中国ちゅうごくさんこく時代じだいしょくかん西にしすすむつかえた官僚かんりょううけたまわ(しょうそ)。『三国志さんごくし』の著者ちょしゃとしてられる。おいひねちん蒞・ひねかい[注釈ちゅうしゃく 2]

ちん寿ひさし
西にしすすむ
太子たいしちゅう庶子しょし
出生しゅっしょう けんきょう11ねん233ねん)?
えきしゅうともえ西郡にしごおりあんかんけん
死去しきょ 元康もとやす7ねん297ねん)?
拼音 Chén Shòu
うけたまわ祚(しょうそ)
主君しゅくん りゅうぜんたけみかど司馬しばえん)→めぐみみかどあさ
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生涯しょうがい

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ちん寿ひさし生涯しょうがいいた史料しりょうとしては、とうだい編纂へんさんされた『すすむしょ』およびあずますすむ時代じだい編纂へんさんされた『華陽かようこくこころざし』が存在そんざいする。しかし、相互そうご矛盾むじゅんする記述きじゅつおお散見さんけんされる[3]

えきしゅうともえ西郡にしごおりあんかんけん代表だいひょうする名門めいもんにはちんちょう・閻氏・范氏があり、「あんかん四姓しせい」としょうされた。ちん寿ひさし出自しゅつじはそのうちのひとつ「ともえ西にしちん」である。

ちん寿ひさしはじ学識がくしきたか譙周師事しじ儒学じゅがく史学しがくおさめ、しょくかんつかえた。その経歴けいれきには諸説しょせつがあるが、まもる将軍しょうぐんしょかずらおも簿宮中きゅうちゅう文庫ぶんこ管理かんりしゃであるひがしかん秘書ひしょろうをつとめた。『すすむしょ』によれば、当時とうじ権威けんいるっていた宦官かんがんあきら意思いししたがわなかったために、左遷させん降格こうかく待遇たいぐう度々たびたびけたという[4][注釈ちゅうしゃく 3]。またちち服喪ふくもちゅう病気びょうきかかったため下女げじょくすりつくらせていたことが発覚はっかくし、親不孝おやふこうしゃとしてそしられた[6][注釈ちゅうしゃく 4]

しょくかん滅亡めつぼうおうたかし寿ことぶきりょうひそかもりれつもりおとうと)とともはいった。6にんえきしゅうやなしゅう代表だいひょうする俊才しゅんさいとされた。かれらのなかすすむつかえるうちに疎遠そえんとなっていったが、おうたかし一人ひとり寬和ひろかず性格せいかくであったため、5にんとの友誼ゆうぎたもつづけたという。しばら仕官しかんできなかったが、同門どうもんでかつての同僚どうりょうけんによって推挙すいきょされ、西にしすすむつかえた。著作ちょさくろう(7ひんかん)にはじまり著作ちょさくろうをつとめ、もりあずかちょうはな推挙すいきょによりしょさむらいけんちゅうしょさむらいろうりょう著作ちょさくろうかんすすめた。

またえきしゅう地方ちほうである『えき耆旧でん』・『えき耆旧雑記ざっき』や、しょくかんしょかずらあきら文書ぶんしょしゅうしょかずらあきらしゅう』を編纂へんさんし、ちょうはなもりあずか荀勗たか評価ひょうかされた。このほか、やはりたか評価ひょうかされたという『いにしえこくこころざし』をあらわした[7]すすむによるさんこく統一とういつ、『三国志さんごくし』を完成かんせいさせた。当時とうじ人々ひとびとは、ちん寿ひさしにはりょうざいがあるとってめた。またちょうはなは『三国志さんごくし』をたか評価ひょうかし、「『すすむしょ』をきみたくしたい」と称賛しょうさんした[8]。『華陽かようこくこころざし』によれば、ちょうはなと荀勗は『いにしえこくこころざし』をこのんでみ、ちん寿ひさし過去かこ歴史れきしであるはんかた司馬しばにもまさると激賞げきしょうした[9]

そのちょうはな中書ちゅうしょろうげようとしたが、ちょうはな対立たいりつしていた荀勗はちん寿ひさしいとわしくおもい、官吏かんり誣告ぶこくして外地がいち長広ながひろ太守たいしゅ左遷させんさせた[注釈ちゅうしゃく 5]ちん寿ひさしはこれをはは病気びょうき理由りゆう辞退じたいしたが、もりあずか推薦すいせんにより、検察けんさつ秘書官ひしょかんであるしょ任命にんめいされた。しかしはは(『華陽かようこくこころざし』によると継母けいぼ)が死去しきょしたため離職りしょくし、はは遺言ゆいごんどおり洛陽らくようほうむった。ところが、郷里きょうり墳墓ふんぼほうむ礼法れいほうはんしているとされふたた非難ひなんされた。

もどったちん寿ひさし皇太子こうたいし司馬しば太子たいしちゅう庶子しょしとされたが、『すすむしょ』によれば拝命はいめいしなかった。『華陽かようこくこころざし』では太子たいしちゅう庶子しょしつねさむらいねたとあり、めぐみみかどちん寿ひさし才能さいのうみとめる言葉ことばのこすほど称賛しょうさんし、ちょうはなきゅうきょうてようとしたという[12]。『すすむしょ』では太子たいしちゅう庶子しょし在任ざいにんちゅう元康もとやす7ねん297ねん)に65さいぼっしたとあるが、『華陽かようこくこころざし』では元康もとやす9ねん299ねん)に司馬しば遹がはい太子たいしとされたのちつねさむらいとされたとあり、なおも生存せいぞんしている。ちょうはなえいやすし元年がんねん300ねん)に失脚しっきゃく処刑しょけいされるが、ちん寿ひさしがこれに連座れんざしたという記録きろくはなく、その洛陽らくようぼっしたという[13]。『すすむしょ』では元康もとやす7ねん297ねん)に65さいぼっしたとあるため、生年せいねんけんきょう11ねん233ねん)とされるのが一般いっぱんてきであるが、この没年ぼつねん否定ひていするせつもある[3]

  • 華陽かようこくこころざし』によると「尚書しょうしょろうぶく)は同門どうもん先輩せんぱいであり、しょくかんつかえていたときなか良好りょうこうだった」といわれる。だがしょくかんほろすすむになると、些細ささいなことから両人りょうにんなかこじれて決別けつべつし、たがいに誹謗ひぼうして攻撃こうげきしあったため、当時とうじ識者しきしゃ批難ひなんされた[14]のち驤がすすむ仕官しかんしようとしたときちん寿ひさしがそれを妨害ぼうがいしたため、驤は仕官しかんあきらめてしょくもどり、在野ざいや名士めいしとしてその生涯しょうがいえたといわれている。[よう出典しゅってん]
  • かつてのであった譙周は、ちん寿ひさしに「きょう(きみ)はかならずや学問がくもん才能さいのうをもってげるが、きっと評判ひょうばんそこなわれることになるだろう。それもまた不幸ふこうではないか。ふかつつしむのがよい」と忠告ちゅうこくしたという[15]

三国志さんごくし

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三国志さんごくし』は、編纂へんさんされた当時とうじからすぐれた歴史れきししょとして名高なだかかった。なつほうじんは『三国志さんごくし』をて、みずからが執筆しっぴつちゅうだった『しょ』をやぶててしまったという[16]みなみひとしりゅうは、まごもりすすむあき』や『りゃく』、『くれろく』、『こうひょうでん』などといった著作ちょさくぐんを、勿体もったいぶっていて検証けんしょうしがたい内容ないようであるか、あるいは内容ないよう空疎くうそ肝心かんじんなことについての記述きじゅつすくないかであると非難ひなんする一方いっぽう、「ちん寿ひさしの『三国志さんごくし』のみは文章ぶんしょう洞察どうさつ知識ちしきとがわたっていて、荀勗とちょうはな司馬しば遷とはんかたしたのも、みだりにたたえほまれしたものではない」と称賛しょうさんしている[17]

三国志さんごくし』はさんこくうちたかし正統せいとうとしてあつかったが、正統せいとうとした類書るいしょはほとんどが『しょ』(おうしるなど)など、単独たんどく表題ひょうだいとしていた。しょくかん歴史れきしは、あくまで『しょ』のなかかたられたのである。これにたいちん寿ひさし表題ひょうだいじょうさんこく対等たいとうあつかい、また本文ほんぶんも『しょ』『しょくしょ』『くれしょ』とさんこくけてあつかったところにおおきなちがいがある。また、元々もともとしょくかんつかえた人物じんぶつであったため、敬語けいご使つかかたなどからもしょくかん比較的ひかくてきよくあつかおうとする姿勢しせいえる。ずいいさおりんは『じゅうこたえおさむしょ』において、「ちん寿ひさししょくひとであるから、かんぞくとした」とべている[18]

三国志さんごくし』は私撰しせんだったが、ちん寿ひさし死後しごやなしゅう大中おおなかただし尚書しょうしょろうの范頵の上表じょうひょうけて『三国志さんごくし』を筆写ひっしゃするよう勅命ちょくめいくだり、事実じじつじょう公認こうにん史書ししょとなった[19]。そのとうふとしむね時代じだい正史せいし認定にんていされた。なお『いにしえこくこころざし』・『えきしゅう耆旧でん』など、『三国志さんごくし以外いがいかれ著作ちょさくぶつ現存げんそんしていない。

ちん寿ひさしへの非難ひなん

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すすむしょ』によれば、ちん寿ひさし私怨しえんによりふでげたといううわさが、かれ存命ぞんめいしていた時点じてんながれた。たとえば、ちょうただし子孫しそんたちに、当人とうにん伝記でんきについて「べい1000せきをいただけるなら、あなたのお父上ちちうえのためによい評伝ひょうでんしるしましょう」とって原稿げんこうりょう要求ようきゅうし、それをことわられたためちょうただし伝記でんきかなかったというはなしがある[20]。また、かつてしょかずらあきら自分じぶんちち処罰しょばつし、自身じしんしょかずら瞻にうとまれたことをうらんで、しょかずらあきら伝記でんきで「臨機応変りんきおうへん軍略ぐんりゃくは、かれ得手えてではなかったからであろうか」とそれをひく評価ひょうかし、しょかずら瞻を「書画しょがたくみで、名声めいせい実質じっしつ以上いじょうであった」などといたのだ、といったはなしつたわっている[21]

以上いじょう、いずれも正史せいしすすむしょ』に収録しゅうろくされた逸話いつわであるが、『すすむしょ』という史書ししょ正確せいかくせいについては批判ひはんてき評価ひょうかおおい。ちょう儀一ぎいちぞく曹丕誅殺ちゅうさつされており、子孫しそん存在そんざいさえうたがわしい。また、ちん寿ひさししょかずらあきら軍事ぐんじ能力のうりょく疑問符ぎもんふけたとはいえ、かれ政治せいじとしての才能さいのう非常ひじょうたか評価ひょうかしており、『しょかずらしゅう目録もくろく』の完成かんせい司馬しばえん奏上そうじょうしたなかで、しょかずらあきら幼少ようしょうより抜群ばつぐん才能さいのう英雄えいゆう器量きりょうをもった人物じんぶつ当時とうじ人々ひとびとかれたか評価ひょうかしていたとしたうえで、きた敗因はいいん天命てんめいすなど、総合そうごうてき評価ひょうかとしてはしょかずらあきら賞賛しょうさんしている。

しょかずら瞻について肯定こうていてき評価ひょうかをしていないのは事実じじつである。『すすむしょ』のほかにも、まごもり異同いどう』には、「ちん寿ひさししょかずら瞻から恥辱ちじょくけたうらゆえに、『三国志さんごくし』でしょかずら瞻をわるいた」とかたしょくかん長老ちょうろうはなしつねいたことをしるしており[22]ちん寿ひさしたいする同様どうよう悪評あくひょうは、340ねん完成かんせいしたおうかくれすすむしょ』など類書るいしょ記録きろくされておりはやくからひろまっていた[注釈ちゅうしゃく 6]。だがしょかずら瞻については、あずますすむたからも『すすむ』において、国家こっかまもちちこころざしいで忠孝ちゅうこうくそうとしたてん評価ひょうかしながらも、能力のうりょくについてはさほど評価ひょうかするほどではないとしている。

ちん寿ひさし曲筆きょくひつ指摘してきするものでもっと批判ひはんけたのが高貴こうきごうこう殺害さつがい経緯けいいである。西にしすすむつかえたという立場たちばじょう、その禅譲ぜんじょうという正統せいとうせいたいして重大じゅうだい瑕疵かしあたえうるこのけんかんしてちん寿ひさし隠蔽いんぺいせざるをず、詳細しょうさい記述きじゅつしていない[23][注釈ちゅうしゃく 7]とうだい考証こうしょう学者がくしゃりゅうともいく著作ちょさくの『ふみどおり』にて、先述せんじゅつした『すすむしょ』のちょうただし逸話いつわ根拠こんきょに、伝記でんきあらわ動機どうき誠実せいじつさがけるという理由りゆうで、ちん寿ひさしおうりくはんかたま数々かずかず歴史れきしとあわせて「ごと奸賊かんぞく、戴筆のきょうじん」と罵倒ばとうし、「豺虎のえさとしてれてもかまわない」とはげしく糾弾きゅうだんした[24]。また『三国志さんごくしおもでんに「しょくには史官しかんがいないから、わざわいさち記録きろくされなかった」としるしたにもかかわらず、しょくこころざしにはわざわいさちかんする記録きろく依然いぜん散見さんけんされることを指摘してきし、「史官しかんもうけられなかったのであれば、これらのわざわいさちなにによって記録きろくされたのだろうか。おもうに、ちちが髡刑をけたはずかしめゆえに、悪評あくひょうくわえたのだろう」となんじている[25]

すすむしょ』に由来ゆらいするちん寿ひさし曲筆きょくひつせつ否定ひていするろんもある。あきらだいではおうこころざしけんが『読史どくししょう』にて、「いにしえ時代じだいより用兵ようへいにおいては、奇策きさくなしに戦功せんこうてたものはいない。しょかずら孔明こうめい用兵ようへい弱点じゃくてん奇策きさくがなかったことにある。(中略ちゅうりゃくちん寿ひさし孔明こうめいかんなかしょうなにるいしょうする一方いっぽう用兵ようへいちょうずるところではなかったとべているのは正論せいろんである。世間せけんではちん寿ひさし私情しじょうで〔しょかずらあきらを〕おとしめたとわれているが、そのようなことはない」とべている[26]しんだいにはおうもりちょうつばさによる反論はんろんおこなわれたが、これらは事実じじつ誤認ごにんがあり緻密ちみつ考証こうしょうとはいがたい[注釈ちゅうしゃく 8]

また、ちん寿ひさしはあくまで正統せいとう王朝おうちょうとしてあつかったが、しょくたいしてはりゅうを「さきぬし」、りゅうぜんを「こうぬし」とび、即位そくいさいみことのりをすべて掲載けいさいするなど特別とくべつあつかいしており、まごけんてられていることにたいしてあきらかな格差かくさがある[27]しゅつねみことは、これをしょく正統せいとう王朝おうちょうとしたいちん寿ひさし意図いとめられていたのではないかとているが、正統せいとう王朝おうちょうとしていた西にしすすむにおいてちん寿ひさし記述きじゅつ問題もんだいされていた形跡けいせきはない[28]。しかしあずますすむ以降いこう習鑿らによるしょくかん正統せいとうろんたかまるにつれ、ちん寿ひさししょくかん正統せいとうとしていないとして批判ひはんくわえられるようになった。その批判ひはんしゃ一人ひとりであるりゅうともいくは、上記じょうきいさおりんせつ反論はんろんし、ちん寿ひさし曹操そうそうや曹丕の悪行あくぎょうにははっきり言及げんきゅうしないのに、「終始しゅうし瑕疵かしのない」りゅう備のことはその長所ちょうしょ評価ひょうかせずに短所たんしょ指弾しだんしていると主張しゅちょうして、「〔ちん寿ひさしが〕どうして曹氏にそむいてりゅうかい、うとんでしょくしたしんでいるといえようか」ととがめている[29]。さらに時代じだいくだると、しょかずらあきら神格しんかくや、しょくかん正統せいとうろんしゃしゅ朱子学しゅしがく朝廷ちょうていにおける儒教じゅきょう公式こうしき解釈かいしゃくとされたことあいまって、ちん寿ひさし一層いっそう非難ひなんびることになった[注釈ちゅうしゃく 9]一方いっぽうで、しょく正統せいとうとしながらもすすむ公式こうしき見解けんかい沿わざるをなかった悲劇ひげきひとという見解けんかいもみられ、その見地けんちから不遇ふぐう人生じんせいおくったという評価ひょうかおおおこなわれてきた[30]

ほかにも、ちん寿ひさし当時とうじ政権せいけんである西にしすすむ自体じたいにおもねり、その正当せいとうせいたかめる記述きじゅつおこなっているという指摘してき数多かずおお存在そんざいする[31]田中たなか靖彦やすひころんじるには、恩人おんじんであるもりあずか祖父そふもりはその業績ぎょうせきくらべてはるかに称賛しょうさんくわえられているうえ、『三国志さんごくし』を筆写ひっしゃせよという勅命ちょくめいは、当時とうじ政権せいけんであるすすむにとって都合つごう要素ようそゆうしていたからともとらえられる[32]。さらには『三国志さんごくし』という書名しょめい自体じたいが、たかししょくのいずれにも正統せいとうせいあたえておらず、ひいてはそれらを統一とういつしたすすむこそが正統せいとうであり、なおかつその偉大いだいさを礼賛らいさんすることにもつながるとしている[33]

また渡邉わたなべ義浩よしひろは、ちん寿ひさししょかずらあきら批判ひはん背景はいけいには、いんだま-譙周-ひね寿ことぶきつらなる「しょくがく」と、しょかずらあきら中心ちゅうしんとする「荊州がく」というしょく国内こくないにおける学閥がくばつ対立たいりつ存在そんざいし、ちん寿ひさしが「しょくには史官しかんがいないからわざわいさち記録きろくされなかった」とべているのは、しょくがくおもんじる讖緯せつ否定ひていするしょかずらあきら構築こうちくしたしょく史官しかん制度せいど批判ひはんてきであった(讖緯せつもとづかない歴史れきしわざわいさち記録きろく価値かちかんがえていた)からだとろんじている[34]

ちん寿ひさし題材だいざいとした作品さくひん

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ すすむしょちん寿ひさしでんと『華陽かようこくこころざし』では没年ぼつねんことなり、『華陽かようこくこころざし』では「ちょうはなぼっした300ねん以降いこう」と記録きろくされている。
  2. ^ ちんひね蒞はちん寿ひさしあにひねかいひね蒞の従弟じゅうてい[1]。また『三国志さんごくし演義えんぎ』のうちたくわれほんでは、だい100かい総評そうひょうに「ちん寿ひさしのち史書ししょむとっていたなら、このときひねしきころさないほうがかえってかった」とあり、ちん寿ひさしひねしき縁戚えんせきであるかのようにかれている[2]
  3. ^ 津田つだひさは、ちん寿ひさしは卑官とはいえ中央ちゅうおう官職かんしょくである秘書ひしょろうまで昇進しょうしんしているため、あきらとの対立たいりつ自体じたいうたがわしいとしている[5]
  4. ^ これは儒教じゅきょうれいきょうにおいて、おやぬとなげかなしみ、飲食いんしょくろくらずせさらばえ、つえしではあるけぬほどるのが「こう」とされたためであり、おや服喪ふくもちゅうろうわるのはもってのほかとされていたからである。
  5. ^ 華陽かようこくこころざし』によると、その理由りゆうは『三国志さんごくしこころざし記述きじゅつが荀勗の沿わなかったためだというが、同書どうしょには荀勗が『三国志さんごくし』を絶賛ぜっさんしたという記載きさいもある[10]田中たなか靖彦やすひこは、記述きじゅつらなかったというのは口実こうじつにすぎず、司馬しばえんによるくれ実施じっしについて意見いけん紛糾ふんきゅうしたさいに、ちん寿ひさし出兵しゅっぺい賛成さんせいちょうはなについたことで政敵せいてきなされたのがしん原因げんいんだとろんじている[11]
  6. ^ 正史せいしすすむしょ』は648ねんかん
  7. ^ 裴松本件ほんけんについて、「しょくかん正統せいとうろん」をとなえた最初さいしょ歴史れきししょとしてられる習鑿かんすすむ春秋しゅんじゅう』をちゅうくことでおぎなっている。
  8. ^ おうもりじゅうななしょう』のちん寿ひさし擁護ようごにはいくつかの事実じじつ誤認ごにんちょうただしらはたんなるたくみ佞のしんつててられるはずがない、しょかずらあきらは6も祁山に出征しゅっせいし、いちしょうおさめなかったなど)があり、反論はんろんけている。ちょうただし曹操そうそうたか評価ひょうかされ、そのしまれたとされ、『りゃく』にはそのつててられている。またちん寿ひさししるした『三国志さんごくし本文ほんぶんによれば、しょかずらあきらが祁山にたのは2であり、きた全体ぜんたいも5で、だいさんきたでは勝利しょうりげている。
  9. ^ ちん寿ひさし同様どうようしょくかん旧臣きゅうしん西にしすすむつかえたひそか(『文選ぶんせん』などに採録さいろくされた、『ひね情事じょうじひょう』でられる文人ぶんじん)にたいしても、同様どうよう非難ひなんびせられている。

出典しゅってん

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  1. ^    (中国ちゅうごく) 華陽かようこくこころざしまき11ひね寿ことぶきつたえ, ウィキソースより閲覧えつらん, "[ちんひさし]兄子せこ長信ながのぶまたゆう文才ぶんさいつぎことぶき著作ちょさくろううえれんれいおとうと蒞,叔度,やなしゅうべつ,驃騎將軍しょうぐんひとしおう辟掾,そつらく。蒞従弟じゅうていかいたちしゅうぬし簿,察孝れん,褒中れい永昌えいしょう西部せいぶじょうたてやすしきょう太守たいしゅみなあきらつばらうららはせめい當世とうせい。凡壽しょ述作じゅっさくひゃくへん、蒞、かいかくすうじゅうへん。二州先達及華夏文士多為作傳,だい較如此。" 
  2. ^ たくわれ先生せんせい批評ひひょう三国志さんごくしだい100かい (PDF) . 貫中かんちゅうにえたくわれ先生せんせい批評ひひょう三国志さんごくし』(緑蔭りょくいん堂本どうもと). 典籍てんせき総合そうごうデータベース. 早稲田大学わせだだいがく図書館としょかん. 2024ねん5がつ27にち閲覧えつらん, "ちんひさし後來こうらいへん,此時ころせひねしきたおせこう。"
  3. ^ a b 田中たなか 2011, p. 70.
  4. ^    (中国ちゅうごく) すすむしょまき82ひね寿ことぶきつたえ, ウィキソースより閲覧えつらん, "宦人あきらせんろうけん大臣だいじんみなきょく,[ひね]ことぶきどく不為ふためこごめゆかり屢被譴黜。" 
  5. ^ 田中たなか 2011, p. 83。- 津田つだ(2001)の孫引まごびき、ぺーじすう不明ふめい
  6. ^    (中国ちゅうごく) すすむしょまき82ひね寿ことぶきつたえ, ウィキソースより閲覧えつらん, "[ちんひさし]遭父ゆうやまし使つかい婢丸やくきゃく往見鄉黨きょうとう以為貶議。" 
  7. ^    (中国ちゅうごく) すすむしょまき82ひね寿ことぶきつたえ, ウィキソースより閲覧えつらん, "[ちんひさし]せんしょくしょうしょかずらあきらしゅう》,そう。[...]ことぶきまたせんいにしえこくこころざしじゅうへん、《えき耆舊でんじゅうへん文章ぶんしょうでん於世。" 
  8. ^    (中国ちゅうごく) すすむしょまき82ひね寿ことぶきつたえ, ウィキソースより閲覧えつらん, "[ちんひさし]せんしょく三國志さんごくし》,凡ろくじゅうへん時人じじんしょう其善敘事,有良ありらざいちょうはなふか善之よしゆきいいことぶき曰:「とう以《すすむしょしょうづけみみ。」" 
  9. ^    (中国ちゅうごく) 華陽かようこくこころざしまき11ひね寿ことぶきつたえ, ウィキソースより閲覧えつらん, "たいら,[ひね]ことぶき鳩合きゅうごうさん國史こくししるしょくさんしょろくじゅうへんごう三國志さんごくし》;またちょいにしえこくこころざしじゅうへんひん典雅てんが中書ちゅうしょかん荀勗、れいちょうはなふかしあい,以班かたふみ不足ふそくかた也。" 
  10. ^    (中国ちゅうごく) 華陽かようこくこころざしまき11ひね寿ことぶきつたえ, ウィキソースより閲覧えつらん, "[ちょう]はなひょうれいけん中書ちゅうしょろう。而[ひね]ことぶきこころざしゆうしつ[]つとむつとむよく其處內,おもてため長廣ながひろ太守たいしゅ。" 
  11. ^ 田中たなか 2011, pp. 85–86.
  12. ^    (中国ちゅうごく) 華陽かようこくこころざしまき11ひね寿ことぶきつたえ, ウィキソースより閲覧えつらん, "太子たいしはい徙後,さいけんつねさむらいめぐみみかどいいそらちょうはな曰:「ことぶきざいよろし不足ふそく久兼ひさかね也。」はなひょうよくとうきゅうきょうかい受誅,ちゅうけんはい擯。" 
  13. ^    (中国ちゅうごく) 華陽かようこくこころざしまき11ひね寿ことぶきつたえ, ウィキソースより閲覧えつらん, "[ひね]ことぶきとげそつらくもちたかし其才,當時とうじ冤之。" 
  14. ^    (中国ちゅうごく) 華陽かようこくこころざしまき11ひね寿ことぶきつたえ, ウィキソースより閲覧えつらん, "あずさ潼李驤叔りゅうまた雋逸知名ちめい當世とうせい。舉秀才しゅうさい尚書しょうしょろうはいけんひら太守たいしゅ,以疾就,ざいしゅうさとじょこうかん太守たいしゅはつあずか[ひね]ことぶきひとしもちまたあい昵友。あずかことぶきじょうこう攜隙,かえあい誣攻。有識ゆうしき以是たん。" 
  15. ^    (中国ちゅうごく) すすむしょまき82ひね寿ことぶきつたえ, ウィキソースより閲覧えつらん, "はつ,譙周嘗謂[ひね]ことぶき曰:「きょう必以ざいがくなりめいとうそんおりまた幸也ゆきやむべふかまき。」ことぶきいたる此,さい致廢はずかしめみな如周ごと。" 
  16. ^    (中国ちゅうごく) すすむしょまき82ひね寿ことぶきつたえ, ウィキソースより閲覧えつらん, "[ちんひさし]せんしょく三國志さんごくし》,凡ろくじゅうへん時人じじんしょう其善敘事,有良ありらざいなつほうじんちょしょ》,ことぶき所作しょさ便びん壞己しょ而罷。" 
  17. ^    (中国ちゅうごく) ぶんこころ雕龍』まき4史伝しでんだいじゅうろく, ウィキソースより閲覧えつらん, "いたり於《こうかん紀傳きでんはつげんひがしかん》。袁張しょせいへん不倫ふりん。薛謝さくうと謬少しんわか司馬しばぴょうしょうはな嶠之じゅんとうのり其冠也。及魏だいさんゆうでん互出。《あき》《りゃくぞく,《こうひょう》《くれろくこれるいあるげきこうなんちょうあるうと闊寡ようただちんひさし三志さんし》,ぶんしつべんひろし,荀張於遷かた妄譽也。" 
  18. ^    (中国ちゅうごく) じゅうこたえおさむしょ, ウィキソースより閲覧えつらん, "かんけんじみかどりゅう備自尊崇そんすうちんひさししょくじん,以魏ためかんぞく。寗肯しょくぬしだてやめうんたけ受命じゅめい乎。" 
  19. ^    (中国ちゅうごく) すすむしょまき82ひね寿ことぶきつたえ, ウィキソースより閲覧えつらん, "やなしゅう大中おおなかただし尚書しょうしょろう范頵とう上表じょうひょう曰:「むかしかんたけみかどみことのり曰:『司馬しばしょう如病甚,悉取其書。』使者ししゃとく其遺しょげんふうぜんごと天子てんし焉。しんとうあんしょさむらいちんひさしさく三國志さんごくし》,すすむ誡,あきら得失とくしつ有益ゆうえき風化ふうか,雖文豔不わかあい如,而質ちょくこれねがいたれ採錄さいろく。」於是みことのり河南かなんいん洛陽らくようれい,就家うつし其書。" 
  20. ^    (中国ちゅうごく) すすむしょまき82ひね寿ことぶきつたえ, ウィキソースより閲覧えつらん, "あるうんちょうただしちょう暠有盛名せいめい于魏,[ひね]ことぶきいい其子曰:「覓千斛米見與,當為とうい尊公そんこうさくけいでん。」ちょうあずかこれ,竟不為ふためりつでん。" 
  21. ^    (中国ちゅうごく) すすむしょまき82ひね寿ことぶきつたえ, ウィキソースより閲覧えつらん, "[ひね]ことぶきちちため馬謖ばしょくさんぐん,謖為しょかずらあきらしょ誅,ことぶきちちまたすわ髡,しょかずら瞻又けいことぶきことぶきためあきらたてつていいあきらしょうりゃくちょうおうてきざいげん瞻惟こうしょめい其實。" 
  22. ^ 三国志さんごくしまき35ただし厥伝ちゅう引孫もり異同いどう
  23. ^ 田中たなか 2011, p. 78.
  24. ^    (中国ちゅうごく) どおりまき7きょくひつだいじゅう, ウィキソースより閲覧えつらん, "わかおう沈《ろく》濫述貶甄みことのりりくすすむきょはりこばめかずらほこさきはんかた受金而始しょちんひさしべい而方でん。此又げん奸賊かんぞくふで兇人きょうじん,雖肆しょあさとう畀豺とら可也かなり。" 
  25. ^    (中国ちゅうごく) どおりまき7きょくひつだいじゅう, ウィキソースより閲覧えつらん, "ひねくにこころざしりゅうきさきぬしでんうん:「しょくしょくわざわいさち靡聞。」あん于姊ぐんとり墮于こうみず成都せいとげんゆうけいぼしえきしゅうげん宰相さいしょうわか史官しかんおけ,此事したがえなん而書?ぶたよしちちはずかしめ受髡,茲謗しゃ也。" 
  26. ^ 読史どくししょうまき2. 中国ちゅうごく哲学てつがくしょ電子でんし計画けいかく, 2024ねん5がつ27にち閲覧えつらん, "用兵ようへいゆう不出ふしゅつ冒險ぼうけん而能有功ゆうこうしゃしょかずら孔明こうめい用兵ようへいやまいざい不能ふのう竒。[...]ちんひさししょう孔明こうめいためかんしょうまた曰用へい其所ちょう,此皆かくろんいいことぶきしょうはさみわたし致貶,其殆しか。"
  27. ^ 田中たなか 2011, p. 87.
  28. ^ 田中たなか 2011, p. 76.
  29. ^    (中国ちゅうごく) どおりまき7さがせ賾第じゅうなな, ウィキソースより閲覧えつらん, "ずい內史いさおはやしちょろんたたえちんひさししょくじん,其撰《くにこころざし》,とうしょく而抑かん國史こくし,以為格言かくげんあん曹公そう工業こうぎょう也,ぞくころせ母后ぼこうかそけ逼主じょうつみ百田ひゃくだつねわざわいせんおう莽;ぶんみかど臨戎為國ためくにこうおごしのぶがい賢良けんりょう,疏忌骨肉こつにく。而[ひね]ことぶきひょうみなたがえ其事,しょ措言。嘗抑しゃりゅうあるじいい門地もんちきょかんむね,仗順而起,えびすけん不撓ふとう終始しゅうしきずほうしょ帝王ていおうしょうやすし光武みつたけ;以宗しつげんたとえ以侯はくむべやからしん繆、すわえそう。以功れつげん。而壽ひょうそもそも其所ちょうおさむ其所たんまたとうしょくしゃ是則これのり壽之としゆき。以魏ためただしついたちこれこくてんうま攸承;しょく乃僭にせきみちゅうちょうしょ嫉。きょくしょう曹美,而虛せつりゅうあんゆう曹而こうりゅう,疏魏而親しょく也?此下きゅうゆうちゅう,引陳ことぶき上諸かみもろかずらしゅうひょうことよしこれおっと其文而有其說,また憑虛ほろびしゃ耶?" 
  30. ^ 田中たなか 2011, p. 83.
  31. ^ 田中たなか 2011, p. 78-80.
  32. ^ 田中たなか 2011, p. 81.
  33. ^ 田中たなか 2011, pp. 78, 88.
  34. ^ 渡邉わたなべ義浩よしひろ『「古典こてん中国ちゅうごく」における史學しがく儒教じゅきょう汲古書院しょいん、2022ねん、p. 107-113。

参考さんこう文献ぶんけん

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  • すすむしょまき82ひね寿ことぶきつたえ
  • 華陽かようこくこころざしまき11ひね寿ことぶきつたえ
  • 田中たなか靖彦やすひこちん寿ひさし処世しょせいと『三国志さんごくし」(PDF)『駒澤こまざわ史学しがくだい76かん、2011ねん、69-97ぺーじNAID 120006617337 
  • 津田つだひさちん寿ひさしでん研究けんきゅう」『北大ほくだい史学しがくだい41ごう、2001ねん、58-74ぺーじNAID 40003523892 

原典げんてん訳注やくちゅう

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関連かんれん項目こうもく

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