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史通 - Wikipedia

ふみどおり』(しつう、拼音: Shǐtōng)は、とうだいりゅうともいくによってあらわされたふみひょうしょぜん20かん中国ちゅうごく出現しゅつげんした最初さいしょ歴史れきし批判ひはん史料しりょう批判ひはん専門せんもんしょであり、「ただしい歴史れきししょはいかにあるべきか」「歴史れきしはいかなる態度たいど方法ほうほう歴史れきししょ執筆しっぴつのぞむべきか」というテーマを追求ついきゅうした著作ちょさくで、後世こうせいおおきな影響えいきょうあたえた。

どおり
著者ちょしゃ りゅうともいく
くに とう
言語げんご 中国ちゅうごく
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成立せいりつ

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中国ちゅうごく歴史れきししょは、司馬しばの『史記しき以来いらいさかんにかれ、こうかんからとうだいにかけて非常ひじょうおおくの歴史れきししょまれた[1][2]とく短命たんめい王朝おうちょうつづ激動げきどう時代じだいであるすすむ南北なんぼくあさ時代じだいにおいては、歴史れきししょ編纂へんさん専門せんもんかんである史官しかんだけでなく、一般いっぱん人々ひとびとまでもが歴史れきし叙述じょじゅつたずさわり、すすむだい歴史れきししょだけでじゅう種類しゅるい以上いじょう南朝なんちょうはり歴史れきししょだけでじゅう種類しゅるい前後ぜんこうまれた[2]同時どうじに、みじか政権せいけん記録きろく地方ちほうこころざし中国語ちゅうごくごばん個人こじん伝記でんきしるした別伝べつでんるい大量たいりょう制作せいさくされた[2]。また、とうだいはいると過去かこ歴史れきし清算せいさんしようとする気風きふうまれ、ふかしのもとで『だい』や『すすむしょ』が完成かんせいするなど、過去かこ歴史れきししょさい編纂へんさんさかんにおこなわれていた[3]

こうした状況じょうきょうなかで、中国ちゅうごくにおいて「史学しがく」という領域りょういき徐々じょじょ自覚じかくされるようになった。たとえば、とうだい編纂へんさんされた『ずいしょ経籍けいせきこころざしでは、書籍しょせき分類ぶんるいほうとして「よん分類ぶんるい」が確立かくりつし、歴史れきししょ分類ぶんるいする部門ぶもんである「」が独立どくりつした[1]書籍しょせき分類ぶんるいはそれぞれのジャンルの自覚じかく反映はんえいしているといえ、ここに中国ちゅうごくにおける「史学しがく分野ぶんや独立どくりつることができる[1]

こうしてすうおおくの史書ししょ作成さくせい、それにともなう史学しがく自覚じかく過程かていたのちに、中国ちゅうごくにおいて史書ししょたいする総括そうかつ史学しがくたいする方法ほうほうろん精査せいさといったいとなみがまれはじめた[1]。『ぶんこころ雕龍』の「史伝しでんへんがそのひとつであり、古来こらい史書ししょについて評論ひょうろんし、歴史れきしくものの姿勢しせいろんじている[4]。こうしたいとなみのせんちょとして、とうだいりゅうともいくによって『どおり』が完成かんせいし、過去かこ史書ししょ総括そうかつ史学しがく方法ほうほうろん精査せいさがなされ、中国ちゅうごくにおいて「史学しがく」という分野ぶんや確立かくりつするにいたった[1]

りゅうともいく登場とうじょう

編集へんしゅう

りゅうともいくげん)は、りゅうさく元年がんねん661ねん)にりゅうぞうだいとしてまれた。11さいころには『尚書しょうしょ』の学習がくしゅうはいらず、わりにあにたちがならっていた『春秋しゅんじゅうひだりでん』にのめりむなどはやくから歴史れきししょ興味きょうみち、そのまま『史記しき』『漢書かんしょ』『三国志さんごくし』などの学習がくしゅうすすんだ[5]。20さい科挙かきょ合格ごうかくすると、河南かなんよしみけんおも簿になり、そのまま18年間ねんかんつとめた[6]せいこよみ2ねん699ねん)にみぎ闕・ていおうくら曹に転任てんにんし『さんきょうたまえい中国語ちゅうごくごばん』の編纂へんさん参加さんかした。

のり天武てんむきさき長安ながやす2ねん702ねん)、りゅうともいく41さいとき著作ちょさくひだりろう転任てんにんし、たけ三思さんしのもとでじょけん中国語ちゅうごくごばんらとともに国史こくし編纂へんさんたった[7]ちゅうむねかみりゅう年間ねんかんには、『じゅうおさむのりてん実録じつろく』の編修へんしゅう参加さんかした[7]。そしてかみりゅう2ねん706ねん)、東都とうと守司もりじとなり、閑職かんしょくであることを利用りようして『どおり』の執筆しっぴつたった[7]。そのまますう年間ねんかん執筆しっぴつつづけ、けいりゅう4ねん710ねん)に『どおり』が完成かんせいしたとされる[7]

そのりゅうともいくげんむね先天せんてん元年がんねん711ねん)にやなぎおき中国語ちゅうごくごばんとともに『氏族しぞくこころざし』の改修かいしゅうたり、翌年よくねんひらきもと元年がんねんには『氏族しぞくけいろく』を完成かんせいさせる[7]。さらにひらけもと4ねんには兢とともに『のりてん実録じつろく』『ちゅうむね実録じつろく』『睿宗実録じつろく』を完成かんせいさせるなど、歴史れきし叙述じょじゅつたずさわりつづけた[7]

著述ちょじゅつ目的もくてき

編集へんしゅう

りゅうともいくは、おさないころからの学識がくしきくわえて、はつとうの『だい』や『すすむしょ』の編纂へんさん作業場さぎょうば実見じっけんした経験けいけんもあり、それらをさい検証けんしょうすることで、歴史れきししょ執筆しっぴつするさい記事きじ採録さいろくほう問題もんだいてんやさまざまな事実じじつ誤認ごにん発見はっけんしていた[注釈ちゅうしゃく 1]。しかし、りゅうともいく従事じゅうじしたふみかん実情じつじょうは、監修かんしゅう国史こくし矛盾むじゅんする編集へんしゅう方針ほうしんもとめるうえに、無知むち無能むのう同僚どうりょうかこまれ、りゅうともいくはさまざまな非難ひなんびるなど散々さんざん状況じょうきょうであった[9]

こうした状況じょうきょう絶望ぜつぼうしたりゅうともいくは、けいりゅう2ねん708ねん)に辞表じひょう提出ていしゅつした。この辞表じひょうは『どおり』忤時へん収録しゅうろくされており、そこでりゅうともいく史官しかんつとめながらも国史こくし編纂へんさん完成かんせいさせられない理由りゆうとして以下いかカ条かじょう不可ふかろん)をげている[10]。なお、このときふくめてりゅうともいくなん辞職じしょくしようとしたが、結局けっきょくゆるされなかった[11]

  1. ふみきょくにあまりに編纂へんさんかんおおく、各自かくじ牽制けんせいって一言ひとこと一言ひとこと記述きじゅつするのにさえ決断けつだんがつかず、編纂へんさん作業さぎょう進捗しんちょくしない。
  2. ふみきょく資料しりょうあつまらず、史官しかん自分じぶん資料しりょうあつめなければならないうえに、政府せいふ機関きかん制度せいど記録きろくたずねてもうしなわれている。
  3. 史官しかんたちが中央ちゅうおう権力けんりょくしゃふかいつながりをっていて、事実じじつ直書じきしょしにくくなっている。
  4. ふみきょく高官こうかん監督かんとくかん何人なんにんかれ、しかもかれらのあいだ統一とういつ見解けんかいがなく、執筆しっぴつしゃ仕事しごとにならない。
  5. 監督かんとくかんがはっきりと基準きじゅんてる、かく執筆しっぴつしゃ分担ぶんたんさだめるといった仕事しごとをせず、責任せきにん回避かいひするばかりでさきすすまない。

りゅうともいくは、こうしたきょく状況じょうきょうで、長安ながやす年間ねんかん国史こくし編纂へんさんかみりゅう年間ねんかんの『じゅうおさむのりてん実録じつろく編修へんしゅうさい自分じぶん意見いけんれられなかったことを残念ざんねんおもい、自分じぶん主張しゅちょう著述ちょじゅつかたち後世こうせいつたえようとかんがえた[12]。そこでりゅうともいくが、公務こうむとはべつ私撰しせんとしていたのが『どおり』で、その制作せいさく根底こんていには史官しかんとしての自分じぶん意見いけんれられないかれ鬱憤うっぷん挫折ざせつかんがあった[13]

りゅうともいくは『どおり』において、歴史れきし記述きじゅつ方法ほうほうとく正史せいし記述きじゅつほう)にたいする批判ひはんとおして、あるべき正史せいしつくるための方法ほうほう確立かくりつしようとこころみた[14]。それは後世こうせい史官しかんのために、国史こくし実録じつろく執筆しっぴつさい不可欠ふかけつ方法ほうほうろん心構こころがまえを提示ていじするものであった[12]。こうした史学しがく批評ひひょう専門せんもん著作ちょさくは、中国ちゅうごくのみならず、世界せかいてきても『どおり』が最古さいこきゅう著作ちょさくであるとされる[15]

どおり』に影響えいきょうあたえた書籍しょせき

編集へんしゅう

りゅうともいくは、『どおりじょへんで、自分じぶん著作ちょさくりゅうやすし淮南ワイナン』・あげゆうほうげん』・おうたかしろん』・おう風俗ふうぞくどおり』・りゅう人物じんぶつこころざし』・りくけいてん』・りゅうぶんこころ雕龍』といった古書こしょになぞらえてろんじ、自分じぶん著書ちょしょがこれらの書籍しょせき精神せいしんぎ、包括ほうかつするものであるとべている[16]りゅうともいくは、このうちとくあげゆうたいして傾斜けいしゃしており、あげゆう自身じしん境遇きょうぐうていることや、『ほうげん』が『どおり』と同様どうよう発表はっぴょう世間せけんから非難ひなんびたことなどをべている[17]

また、福島ふくしま (2003)は、このうちとくに『ろん衡』と『どおり』の関係かんけい研究けんきゅうし、両者りょうしゃ経書けいしょをも批判ひはんする批判ひはん精神せいしん用語ようご使用しようほう歴史れきし考証こうしょうほうなどにおいて共通きょうつうせいられることを指摘してきしている[18]

構成こうせい

編集へんしゅう

どおり』は「うちへん」と「外篇がいへん」から構成こうせいされる。うちへんひとつの体系たいけいてき構想こうそうしたかれ、「序文じょぶん」から「じょ」までで完結かんけつしている。一方いっぽう外篇がいへんは、「古今ここん正史せいし」「史官しかんけんおけ」が通史つうしてき記述きじゅつであるほかは、著述ちょじゅつ目的もくてきことなる雑多ざったなものがおさめられている[19]うちへん外篇がいへん成立せいりつじゅんについては諸説しょせつあり、『よん提要ていよう』ではうちへんにおいて外篇がいへんたいする言及げんきゅうあらわれていることから、外篇がいへんさきかれてのちにうちへん完成かんせいしたというせつてている[19]一方いっぽう稲葉いなば (2006, p. 272)は、ぎゃく外篇がいへんにもうちへん言及げんきゅうする場合ばあいがあることから、外篇がいへんうちへん前提ぜんていにしてかれた補完ほかん論文ろんぶんであり、うちへん短期間たんきかんにまとめてげたのちに個々ここいたさつ集成しゅうせいしたものが外篇がいへんであろうと推測すいそくしている。

以下いか川勝かわかつ (1973, pp. 160–163)をもとに、かくへん概要がいようしめす。

うちへん(10かん39へん
  • 自序じじょ
  • 巻一けんいち
  • まき
    • たいだい : 編年体へんねんたい紀伝きでんたい比較ひかくろん
    • げんだいさん : 詔勅しょうちょく上奏じょうそう議論ぎろんといった長大ちょうだい言説げんせつ史書ししょなかでいかに採録さいろくするべきかろんじる。
    • 本紀ほんぎだいよん : 紀伝きでんたい歴史れきししょのうち「本紀ほんぎ」のただしいありかたろんじる。
    • だい : おなじく、「」のただしいありかたろんじる。
    • 列伝れつでんだいろく : おなじく、「列伝れつでん」のただしいありかたろんじる。
  • まきさん
    • ひょうれきだいなな : 正史せいし一部いちぶをなす「ひょう」についてろんじる。
    • 書志しょしだいはち : おなじく正史せいし一部いちぶをなす「しょ」または「こころざし」についてろんじる。
  • まきよん
    • 論賛ろんさんだいきゅう : 正史せいしかくへん末尾まつびす「ろん」と「さん」についてろんじる。
    • じょれいだいじゅう : 正史せいししょへん冒頭ぼうとうにときおりけられる「ついで」についてろんじる。
    • 題目だいもくだいじゅういち : 書名しょめいへんめい命名めいめい方法ほうほうろんじる。
    • だんげんだいじゅう : 正史せいしひとつの王朝おうちょう基準きじゅんとして、記述きじゅつ対象たいしょうとする時代じだい明確めいかく限定げんていすべきことをく。
    • へん次第しだいじゅうさん : 正史せいしかくへん順序じゅんじょをいかにならべるべきか考察こうさつする。
    • しょういいだいじゅうよん : 正史せいしにおける尊称そんしょう蔑称べっしょう使つかかたく。
  • まき
    • せんだいじゅう : 史料しりょう収集しゅうしゅうとそのさい必要ひつようとされる態度たいどについてろんじる。
    • ぶんだいじゅうろく : 過去かこ名文めいぶん採用さいようするさい態度たいどについてろんじる。
    • 補注ほちゅうだいじゅうなな : 前書ぜんしょ欠点けってんおぎない、異説いせつ採録さいろくする「補注ほちゅう」についてろんじる。。
    • 因習いんしゅうだいじゅうはち : 時代じだい変化へんか考慮こうりょせずに、前代ぜんだい記事きじ孫引まごびきすることの弊害へいがいべる。
    • 邑里だいじゅうきゅう : 人物じんぶつ本籍ほんせき時代じだいによってことなることを無視むしすることの弊害へいがいべる。
  • まきろく
    • 言語げんごだいじゅう : 時代じだいによる言語げんご変化へんか方言ほうげん相違そうい考慮こうりょせず、むやみに古雅こが文章ぶんしょうもちいることの弊害へいがいべる。
    • 浮詞だいじゅういち : 無用むよう粉飾ふんしょくてき表現ひょうげんもちいることの弊害へいがいべる。
    • 叙事じょじだいじゅう : 古来こらい史書ししょ叙事じょじ優劣ゆうれつろんじるとともに、叙事じょじ完結かんけつとうとぶべきことをく。
  • まきなな
    • しなだいじゅうさん : 人物じんぶつ評価ひょうか厳正げんせいおこなうべきことをろんじる。
    • 直書じきしょだいじゅうよん : 善悪ぜんあく直書じきしょしていましめとすることが史官しかん任務にんむであることをろんじる。
    • 曲筆きょくひつだいじゅう : 権力けんりょくおもねったり、私情しじょうをさしはさんだりしてふでげることのあくについてろんじる。
    • 鑑識かんしきだいじゅうろく : 史書ししょ価値かち見分みわける見識けんしきのあるひとすくないことをろんじる。
    • さがせ賾第じゅうなな : 史書ししょつくった著者ちょしゃ真意しんいさぐることについてろんじる。
  • まきはち
    • 摸擬だいじゅうはち : 史書ししょあらわさいに、古書こしょ模範もはんとする場合ばあいるべき態度たいどく。
    • しょごとだいじゅうきゅう : 史官しかんくべきことはなにろんじる。
    • 人物じんぶつだいさんじゅう : 史官しかんくべき人物じんぶつについてろんじる。
  • まききゅう
    • 覈才だいさんじゅういち : しん歴史れきしたる才能さいのう得難えがたいものであることをろんじる。
    • じょでんだいさんじゅう : 自序じじょかたろんじる。
    • はんしょうだいさんじゅうさん : 歴史れきし記述きじゅつにおける煩雑はんざつさと簡略かんりゃくさについてろんじる。
  • まきじゅう
    • ざつじゅつだいさんじゅうよん : 以上いじょうへんでの議論ぎろん正史せいしかかわるものであったのにたいし、ここでは正史せいし以外いがい種々しゅじゅ歴史れきししょろんじる。
    • べんしょくだいさんじゅう : 史官しかんしょくにあるもののただしいありかたろんじる。
    • じょだいさんじゅうろく : 本書ほんしょくにいたった経緯けいいと、自身じしん真意しんいしめす。
    • からだみつる・紕繆・弛張しちょう : このさんへんうしなわれてつたわらない。
外篇がいへん(10かん13へん
  • まき十一といち
    • 史官しかんけんおけだいいち : 古来こらい史官しかん制度せいど変遷へんせんと、かくだい代表だいひょうてき史官しかんについてろんじる。
  • まきじゅう
    • 古今ここん正史せいしだい : 古来こらい正史せいし編年体へんねんたい記述きじゅつふくむ)についてろんじる。
  • まき十三じゅうざ
    • うたぐふるだいさん : 『尚書しょうしょ』『論語ろんご』などにしるされる、『春秋しゅんじゅう以前いぜん記事きじかんする疑問ぎもんの10カ条かじょう
  • まき十四とし
  • まきじゅう
    • てんしげだいろく : 古来こらい史書ししょられる無駄むだ文章ぶんしょう実際じっさい例示れいじしながら添削てんさくする。
  • まきじゅうろく
    • ざつせつじょうだいなな : 『春秋しゅんじゅう以後いご最近さいきんいたるまでの歴史れきししょ全般ぜんぱんかんする問題もんだいてんうえなかした合計ごうけい66カ条かじょう
  • まきじゅうなな
    • ざつせつちゅうだいはち : 同上どうじょう
  • まきじゅうはち
    • ざつせつだいきゅう : 同上どうじょう
  • まきじゅうきゅう
    • 漢書かんしょぎょうこころざし錯誤さくごだいじゅう : 『漢書かんしょぎょうこころざし錯誤さくご問題もんだいてん
    • 漢書かんしょぎょうこころざし雑駁ざっぱくだいじゅういち : 同上どうじょう
  • まきじゅう
    • くら惑第じゅう : 『史記しき以後いご正史せいしあやまった記述きじゅつ14カ条かじょうき、論難ろんなんくわえる。
    • 忤時だいじゅうさん : 国史こくし編纂へんさん監修かんしゅうかんたいして提出ていしゅつしたりゅうともいく自身じしん辞職じしょくねがいと、その前後ぜんご事情じじょうについて。

内容ないよう

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正史せいしについて

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りゅうともいくは『どおり』において、正史せいしはどのようにかれるべきかというテーマを追求ついきゅうしたのであり[14]、まずこのてんについて以下いかべる。

歴史れきし叙述じょじゅつろくいえ

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まずりゅうともいくは、冒頭ぼうとうの「ろくいえへんや「古今ここん正史せいしへんで、過去かこ歴史れきししょ以下いかろくいえ分類ぶんるいし、それぞれの特徴とくちょうとその源流げんりゅうろんじている[20][21]

なお書家しょか
尚書しょうしょ』にはじまる歴史れきししょ体裁ていさいごとしょ発言はつげんしるしたしょ)であり、上古じょうこ王者おうじゃ言葉ことば史官しかん記録きろくしたもの。王道おうどう正義せいぎ号令ごうれいとしてのかたりごとたくし、これを臣下しんか布告ふこくした。孔子こうし編纂へんさんにかかる歴史れきし叙述じょじゅつ始祖しそで、疎通そつう知道ともみちむねとする[20]書物しょもつすくない過去かこにおいては価値かちがあるが、現代げんだい史書ししょとしては不完全ふかんぜんである。このるいしょに『いっしゅうしょ』やあな中国語ちゅうごくごばんかん尚書しょうしょ』、おうずいしょ』などがある[21]
春秋しゅんじゅう
春秋しゅんじゅう』にはじまる歴史れきししょ体裁ていさい記事きじしょ出来事できごとしるしたしょ)で、実際じっさい行事ぎょうじによって実証じっしょうてき規範きはんく。元来がんらい魯国といういちこく歴史れきししょぎなかったが、孔子こうし編纂へんさんたことで規範きはんてき歴史れきし記述きじゅつとなったとする。『尚書しょうしょ』が一般いっぱん法則ほうそくくのにたいして、『春秋しゅんじゅう』は個別こべつ判例はんれい提示ていじし、孔子こうし編纂へんさんにかかるぞくごとむねとする。これにより時間じかん系列けいれつによる叙事じょじ形式けいしき編年体へんねんたい)が提供ていきょうされた[20]
ひだり伝家でんか
春秋しゅんじゅうひだりでん』にはじまる歴史れきししょ体裁ていさいごとしょである『尚書しょうしょ』と記事きじしょである『春秋しゅんじゅう』の体裁ていさいわせ、より充実じゅうじつしたふみたい改良かいりょうした。編年体へんねんたい形式けいしき基本きほんとしながら、一貫いっかんしたからだれい個別こべつ事象じしょうたいする評論ひょうろんそなえる。りゅうともいくはこれをもって「どう」が成立せいりつしたとする[20]。このるいしょ荀悦かん』、まごもりたかし春秋しゅんじゅう』、たからすすむ』、おう劭『きたひとしこころざし』などがある[21]
国語こくご
国語こくご』にはじまる歴史れきししょ体裁ていさいひだり伝家でんかによって記事きじごとわせた形式けいしき成立せいりつしたが、編年体へんねんたい叙述じょじゅつには記述きじゅつしきれない歴史れきし事象じしょうはあまりにもおおく、その欠点けってんおぎなうためにあらわれたかたちりゅうともいくは、ひだりおかあきらが『ひだりでん』を編纂へんさんしたさい収録しゅうろくしきれなかった情報じょうほうが『国語こくご』にしるされているとし、各国かっこく史書ししょ記載きさい網羅もうら選別せんべつしたものが『国語こくご』であると位置いちづけた。同時どうじに、『国語こくご』はのちの「」の起源きげんであるともされた[20]。このるいしょに『戦国せんごくさく』、あな衍『春秋しゅんじゅう国語こくご』、司馬しばぴょう九州きゅうしゅう春秋しゅんじゅう』などがあり、りゅうともいくえびすじゅうろくこく歴史れきし記述きじゅつにはこの体裁ていさいおおもちいるべきだったとしている[21]
史記しき
史記しき』にはじまる歴史れきししょ体裁ていさい。『史記しき』はみかどからかんたけみかどまでの事跡じせき記載きさいし、紀伝きでんたいり、本紀ほんぎひょうしょ列伝れつでんからる。『史記しき』の成立せいりつによってあらゆる歴史れきし叙述じょじゅつ形式けいしきまれ、歴史れきし事象じしょう幅広はばひろ体系たいけいてき記述きじゅつされた[20]一方いっぽうおな事象じしょう記述きじゅつがあちこちにかれてかれているてんおな事件じけん重複じゅうふくして記述きじゅつされているてんなどに欠点けってんがある。このるいしょりょうたけしみかど勅撰ちょくせんの『通史つうし』、延寿えんじゅみなみ』『きた』などがある[21]
漢書かんしょ
漢書かんしょ』にはじまる歴史れきししょ体裁ていさい。『史記しき』は紀伝きでんたいとして最初さいしょこころみであり、不備ふびてんおおかった。そのひとつが紀伝きでんたいという性質せいしつじょう長期間ちょうきかん叙述じょじゅつむずかしいということであり、このてん改善かいぜんいち王朝おうちょうだんだいとしてつくられたのが『漢書かんしょ』であるとする。りゅうともいくは、『漢書かんしょ』はいち王朝おうちょう興亡こうぼうあきらかにし、内容ないよう精密せいみつで、倫理りんり大筋おおすじそなえているともっとたか評価ひょうかしている[20]。このるいしょに『ひがしかんかん』『三国志さんごくし』などがある[21]

以上いじょう分類ぶんるいは、りゅうともいくの「史書ししょからだれい文章ぶんしょう時代じだいによって変化へんかせねばならない」とするかんがかたから、過去かこ歴史れきししょ歴史れきしてき位置いちづけ、その変遷へんせん考察こうさつしようとしたものである[22]りゅうともいくは、経書けいしょである『尚書しょうしょ』『春秋しゅんじゅう』の精神せいしんは、史書ししょ分類ぶんるいされる『史記しき』『漢書かんしょ』にも継承けいしょうされているとし、こうした歴史れきし叙述じょじゅつ精神せいしん聖人せいじんからがれたものであるとかんがえていた[23]

りゅうともいくは、以上いじょう歴史れきし叙述じょじゅつろくいえのうち、現在げんざい手本てほんとすべきなのは「ひだり伝家でんか」と「漢書かんしょ」であるとする[24]。「ひだり伝家でんか」についてりゅうともいくは、「春秋しゅんじゅうさんつて」のなかで『ひだりでん』がもっとすぐれていることを「さるひだりへん強調きょうちょうし、その理由りゆうとして著者ちょしゃひだりおかあきら幅広はばひろ資料しりょうていることと、『ひだりでん』がひだりおかあきら直接ちょくせつ見聞けんぶんもとづくことをげる[25]りゅうともいくにとって、『ひだりでん』は歴史れきし事実じじつ忠実ちゅうじつであるうえに、たか倫理りんりせい道徳どうとくせいそなえた歴史れきししょであった[25]

そしてもうひとつの「漢書かんしょ」が、りゅうともいくもっと重視じゅうししたふみたいである。古来こらい史官しかん王朝おうちょうつかえて事実じじつ記録きろくしていく人々ひとびとであり、乱世らんせいでなければ、歴史れきしくという行為こうい王朝おうちょう秩序ちつじょささえるためという意識いしきのもとにあった[26]りゅうともいくつかえたから王朝おうちょうは、かん理想りそうとし、かんならとうという意識いしきった王朝おうちょうであって、その史官しかん課題かだいは「とう歴史れきしをいかに正確せいかく記述きじゅつするか」ということにある[26]りゅうともいくにとって、歴史れきし記述きじゅつ範囲はんいはあくまでひとつの王朝おうちょうであり、そこでだんだいである『漢書かんしょ』をたか評価ひょうかした[27]

これに関連かんれんして、内藤ないとう (1937, p. 613)は、このろくいえ分類ぶんるいは、りゅうともいく理想りそうとする「漢書かんしょ」の体裁ていさい正統せいとう歴史れきしてき由来ゆらいち、過去かこ各種かくしゅ歴史れきししょ体裁ていさい根拠こんきょつことを強調きょうちょうするためにもうけた区分くぶんであるとする。そして、りゅうともいくが「漢書かんしょ」を最上さいじょうとみなした理由りゆうは、りゅうともいく自身じしん史官しかんとして史書ししょ編纂へんさん従事じゅうじする立場たちばにあったことと関連かんれんするとする。つまり、もともと個人こじん著作ちょさくとしてかれていた歴史れきししょも、とうだいには皇帝こうてい命令めいれいした多数たすう史官しかんによって編纂へんさんされるものにわっており、りゅうともいくもそうした史官しかん一人ひとりであった以上いじょう当時とうじかれ編纂へんさん従事じゅうじしていただんだい紀伝きでんからださい上位じょういかれるのはむをないことでもあった[28]

正史せいし構成こうせい

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りゅうともいくは、以上いじょう議論ぎろんまえ、史書ししょ正史せいし)はどのような構成こうせいるべきかということを「本紀ほんぎ」「列伝れつでん」「ひょうれき」「書志しょしへんなどで議論ぎろんする[29]

まず「本紀ほんぎ」は、天子てんし行事ぎょうじとき系列けいれつ記録きろくすることを原則げんそくとするが、同時どうじ記載きさいすべきくに大事だいじ年月としつききでむものとする[30]。ここでりゅうともいくは「本紀ほんぎ」を『春秋しゅんじゅう』の経文きょうもんになぞらえ、天子てんし系統けいとうあきらかにするためのものであるとする[29]つぎに「列伝れつでん」は、おなじグループで行動こうどうしたひと同様どうよう事跡じせきのこしたひとはまとめてひとつのつて記録きろくし、人物じんぶつ比較ひかく容易よういおこなえるようにする[30]りゅうともいくは「列伝れつでん」を『春秋しゅんじゅう』のつてぶんひだりでん)になぞらえ、「列伝れつでん」の見出みだし・目録もくろくとしての「本紀ほんぎ」という位置いちづけを設定せっていした[30]

こころざし」については、りゅうともいく都邑とゆうこころざし氏族しぞくこころざしぽうぶつこころざし新設しんせつし、ぎゃく天文てんもんこころざしはずすべきととなえた[29]たとえば氏族しぞくこころざしは、帝王ていおうおおやけこう氏族しぞくあきらかにし、その系統けいとう記録きろくするために必要ひつようであるとしたが、天文てんもんこころざしは「人事じんじ」を記載きさいするべき国史こくしにおいて、天文てんもん現象げんしょう記載きさいするべきではないため不要ふようであるとした[29]同時どうじに、人事じんじ自然しぜん災害さいがいをいたずらに関連かんれんさせて記載きさいすることを批判ひはんし、わざわい異説いせつ批判ひはんする立場たちばしめした[29]

なお、正史せいし始祖しそである司馬しばの『史記しき』には「」がもうけられ、諸侯しょこう歴史れきしえがかれているが、りゅうともいくかんとうといった統一とういつ王朝おうちょうにおいては諸侯しょこう存在そんざいしないから、現在げんざい正史せいしには「」は不要ふようであるとした[29]

正史せいし執筆しっぴつ材料ざいりょう

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りゅうともいくは、正史せいしについてろんじつくしたのちの「ざつじゅつへんにおいて、正史せいし執筆しっぴつするさい材料ざいりょうとしてもちいることのできる史料しりょうじゅう種類しゅるいけ、それぞれの長所ちょうしょ短所たんしょ以下いかのようにろんじている[31]

  1. へん - ひとつの政権せいけんについての記録きろくりくすわえかん春秋しゅんじゅう』など。
  2. しょうろく - 人物じんぶつのついてのみじか記録きろく戴逵竹林ちくりん名士めいし』など。
    以上いじょうふたつは即日そくじつ当時とうじ記録きろくであり、実録じつろくとして価値かちたかいものである。しかし言葉ことばづかいが素朴そぼくなものがおおいうえに、内容ないよう完備かんびしておらず、そのまま歴史れきししょ記述きじゅつとしてもちいて後世こうせいつたえることはできない[31]
  3. 逸事いつじ - 前史ぜんし遺漏いろうしたところを後人こうじんあつめた書籍しょせきかずらひろし西京にしぎょう雑記ざっき』など。
    異説いせつもとめるさい有益ゆうえきであるが、編纂へんさんしゃによっては真偽しんぎたしかめないままに伝聞でんぶんせており、真偽しんぎはいじっている。場合ばあいによっては、ひとおどろかせるためにつくられたまったくの虚構きょこうかれている[31]
  4. 瑣言 - 市井しせい流行りゅうこうしていた逸話いつわ記録きろくしたもの。『せつ新語しんご』など。
    当時とうじ権力けんりょくしゃ話題わだいせているてんでは有益ゆうえきだが、悪意あくいめられたはなし卑俗ひぞくはなしおおく、めいきょうきずつけるものもある[31]
  5. ぐんしょ - 郷土きょうど学者がくしゃによる地方ちほう列伝れつでんしゅうなんじみなみ先賢せんけんでん』など。
    詳細しょうさい該博がいはくなものもあるが、おおくは郷土きょうど人々ひとびとによって過度かど美化びかされており、本当ほんとうつたえるべきひとすくない[31]
  6. いえ - 一家いっか伝記でんきあげゆういえ牒』など。
    一族いちぞくなかつたえられるのはよいが、国史こくしせるのはむずかしい[31]
  7. 別伝べつでん - けん貞女ていじょ分類ぶんるいしてあつめたしょりゅうむかいれつおんなでん』など。
    前史ぜんしから採録さいろくしたものがほとんどだが、まれ異説いせつふくむものがある[31]
  8. 雑記ざっき - 怪物かいぶつ異聞いぶんもとめてあつめたしょたからさがせかみ』など。
    神仙しんせんみちろんじる場合ばあいには、養生ようじょうじゅつ勧善懲悪かんぜんちょうあくいており有益ゆうえきである。しかし、怪異かいいや妖邪をこのんでをあつめたものはるべきものがない[31]
  9. 地理ちりしょ - 地方ちほう土地とち山川やまかわ風俗ふうぞく物産ぶっさんしるしたしょつね華陽かようこくこころざし』など。
    良質りょうしつなものは記述きじゅつかたよりがなく、その文章ぶんしょう高雅こうがである。しかしそれ以外いがいのものは、自分じぶん場所ばしょ過度かどげるてんや、城跡じょうせき山水さんすい命名めいめい由来ゆらい根拠こんきょなき故実こじつもとめるてん短所たんしょがある[31]
  10. 都邑とゆう簿 - 制度せいど記録きろくはんたけしせきあたる』など。
    宮廷きゅうてい宗廟そうびょう都市とし規模きぼあきらかにするものはよいが、なんでもくわしくきすぎて煩雑はんざつぎるものもある[31]

なお、以上いじょうじゅうしゅのほかに、史書ししょ材料ざいりょうとしてもちいられるものに起居ききょちゅう皇帝こうてい言行げんこう記録きろく)・しょくかんしょ簿せき政府せいふ官庁かんちょう制度せいど記録きろく)などがあるが、うえ分類ぶんるいにはまれていない。かち (2010, pp. 231–232)は、起居ききょちゅう門下もんかしょうしょくかん吏部簿せき秘書ひしょしょうといったように整理せいり担当たんとうする部署ぶしょことなっており、うえじゅうしゅりゅうともいく実際じっさい史官しかんとしてふみかんつとめるさい整理せいり必要ひつようがあった史書ししょ範囲はんい反映はんえいしているとする。

また、以上いじょうじゅうしゅ史料しりょう特徴とくちょうまえたうえで、どのように史料しりょう選択せんたくするべきかということは「せんへんかれている[32]

りゅうともいく批判ひはん精神せいしん

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内山うちやま (1971, p. 56)は、りゅうともいく歴史れきし批判ひはんには客観きゃっかんてき合理ごうりてき事実じじつ判定はんていしようとする態度たいどうかがえるとし、稲葉いなば (2006, p. 299)も同様どうようりゅうともいく歴史れきし記録きろくたいして合理ごうりせい追求ついきゅう立場たちばから厳密げんみつ吟味ぎんみくわえていたことを強調きょうちょうしている。以下いか、こうしたりゅうともいく批判ひはん精神せいしんについてべる。

経書けいしょ批判ひはん

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りゅうともいくが「うたぐいにしえ」「惑経」へん儒教じゅきょうてき禅譲ぜんじょうせつといった経書けいしょ記事きじたいして批判ひはんおこなっていることはふるくから注目ちゅうもくされている[33]。たとえば、りゅうともいく西にしすすむころ発見はっけんされた出土しゅつど文献ぶんけんである汲冢しょ根拠こんきょに、しゅん禅譲ぜんじょううたがわしく、実際じっさいにはだつだったのではないかと指摘してきしている[33]。ここでりゅうともいくは、経書けいしょとそれ以外いがい史料しりょう同等どうとうあつかい、合理ごうりてき判断はんだんから結論けつろんみちびいているとえる[33]。また、りゅうともいく自身じしんたっとんでいる『春秋しゅんじゅう』にたいしても、その内容ないよう事実じじつわないものがあるてんや、毀誉きよ褒貶ほうへんあやまりがあるてんなどを指摘してきしている[33]

稲葉いなば (2006, pp. 361–365)は、こうしたりゅうともいく経書けいしょ批判ひはんは、『五経ごきょう正義まさよし』を中心ちゅうしんとする従来じゅうらい経学けいがくたいして批判ひはんくわえたおうはじめかん影響えいきょうけるとともに、ちゅうとう以後いご啖助中国語ちゅうごくごばんちょうただしりくあつし中国語ちゅうごくごばんによるあらたな春秋しゅんじゅうがく勃興ぼっこう、そしてそうまなぶ展開てんかいへと接続せつぞくしてゆくとべている。ただし、りゅうともいく経書けいしょ批判ひはんは、従来じゅうらい絶対ぜったいてき価値かちあたえられてきた経書けいしょ相対そうたいする方向ほうこうわせつつも、最終さいしゅうてき目標もくひょうはあくまで自身じしんべた経書けいしょ批判ひはんえうるようなより高次こうじ経書けいしょ解釈かいしゃくおこなうことであって、経書けいしょ価値かち否定ひていにあったわけではないことも指摘してきしている[34]

史料しりょう批判ひはん

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りゅうともいくは、歴史れきししょ編纂へんさんするさい全体ぜんたい方針ほうしんとして、ふみかんおくられてくる文書ぶんしょ史料しりょう記録きろくについて史官しかん以下いか観点かんてんからその内容ないよう吟味ぎんみするべきであるとべている(鑑識かんしきへん[8]

  1. 文書ぶんしょ記録きろく執筆しっぴつしゃ学識がくしき精神せいしん状態じょうたいによって左右さゆうされるものであり、中庸ちゅうよう記述きじゅつまれである。史官しかん様々さまざま史料しりょうて、そこから事実じじつさが必要ひつようがある。
  2. 史料しりょうには執筆しっぴつしゃによる故意こい歪曲わいきょく曲筆きょくひつ)がくわえられ、悪意あくい恣意しいてき推測すいそくがある場合ばあいもある。

そこでりゅうともいくは、史料しりょう記録きろくせいをその執筆しっぴつしゃ伝承でんしょうしゃによってもうけて理解りかいし、信頼しんらいできる記録きろくしゃ直接ちょくせつ記録きろくだいいち重視じゅうしする[35]。そのため、りゅうともいく公式こうしき機関きかんによって記録きろくされた史料しりょうもっと重視じゅうしするが、そうした史料しりょうがない場合ばあいは、民間みんかん史料しりょう個々ここ史料しりょう性格せいかく見抜みぬきながらもちいる。たとえば、地方ちほう歴史れきししょにおいては郷土きょうど人物じんぶつ過大かだい評価ひょうかされる傾向けいこうにあること、また民間みんかん流布るふする伝説でんせつ虚偽きょぎおおいことなどをべ、その虚偽きょぎ複数ふくすう史料しりょうあいだでの齟齬そご見出みいだすことで見抜みぬくことができるという[36]

正閏せいじゅんろん批判ひはん

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中国ちゅうごくおおくの歴史れきししょでは、たとえばさんこく時代じだいにおいてしょく君主くんしゅみかどごうはらうなど、正統せいとういだ王朝おうちょうひとつにさだめている。一方いっぽうりゅうともいく統一とういつ王朝おうちょうであるからあさ史官しかんであり、どの王朝おうちょう正統せいとうとみなすかという正閏せいじゅんろん拘泥こうでいする必要ひつようはそれほどなかった。よって、りゅうともいく存在そんざいした政権せいけんをありのままに記述きじゅつすることを重視じゅうしし、さんこく南北なんぼくあさ王朝おうちょうのうちいずれかを正統せいとうとしてあつかうことはない[37]

これと同時どうじに、りゅうともいく王朝おうちょう興亡こうぼう天命てんめいむすびつける天人てんにん相関そうかんかんがかた批判ひはんした。たとえば、かつて司馬しば遷は、しんりょうくん追放ついほうしたためにたかしはたほろぼされたという意見いけんたいし、天命てんめいなかったのだから賢人けんじん補佐ほさたところで結局けっきょくほろぼされただろうとべている。これにたいしてりゅうともいくは、くに興亡こうぼう天命てんめいではなく人事じんじにかかるものであり、そしてその人事じんじ記録きろくするのが歴史れきし叙述じょじゅつであるとかんがえ、司馬しば遷説を批判ひはんした[38]

伝来でんらい

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とうだいそうだい

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初期しょきの『どおり』の受容じゅようれいとしては、とうだいもりたすくつうてん』に『どおり』を引用いんようしたとおぼしき箇所かしょがあることがげられる[39]そうだいはいると、りゅうともいくの「ふみざいさんちょうせつ」と「不可ふかろん」はひろ人口じんこう膾炙かいしゃしており、きたそうの韋驤の「えい唐詩とうし」、りゅう弇のさくとえりくゆういん諸事しょじ」、おう珌による史官しかん辞退じたいぶんなどにもちいられている[40]。また、『どおり』の記述きじゅつ考証こうしょうもちいたれいとして、みなみそうおうおうこまがく』がげられる[41]

どおり』が実際じっさい歴史れきししょ編纂へんさん影響えいきょうあたえたれいとしては、清朝せいちょう考証こうしょう学者がくしゃぜにだい指摘してきする『しんとうしょ』のれいがあり、『しんとうしょ』では『どおり書志しょしへん・邑里へん論賛ろんさんへんにおけるりゅうともいく主張しゅちょうれられている[42]。また、みなみそうていきこりつうこころざし』は、だんだいである『漢書かんしょ』を尊重そんちょうするりゅうともいく批判ひはんしながらも、『つうこころざしじゅうりゃく部門ぶもんに「氏族しぞく」「都邑とゆう」「昆虫こんちゅう草木くさき」のさんりゃくてており、これは『どおり書志しょしへん議論ぎろん参考さんこうにしている[43]福島ふくしま (1995, p. 30)は、『どおり』と『どおりかん』の共通きょうつうてん指摘してきし、司馬しばひかりが『どおり』を参考さんこうにした可能かのうせいたかいことを指摘してきしている。

明代あきよしんだい

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明代あきよはいると、りくふかしどおりかいよう』といった『どおり』そのものにたいする研究けんきゅうしょ登場とうじょうした[44]。なお、現在げんざい確認かくにんできる『どおり』の最古さいこ版本はんぽんは、りくふかしが「しょくほんどおり」を校訂こうていして重刻じゅうこく出版しゅっぱんしたものである[45]明代あきよには、ほかにも維禎・かくあなのべどおり評釈ひょうしゃく』やおうおもんみ中国語ちゅうごくごばんどおりくんゆえ』などがつくられた[44]

しんだいはいると、叔琳中国語ちゅうごくごばんどおりくん』やうらおこりりゅう中国語ちゅうごくごばんどおりどおりしゃく』、きのどおりそぎしげる』などがつくられた[44]。このうち、とくうらおこりりゅうどおりどおりしゃく』(1752ねん)によって『どおり』がひろまれるようになった[46]。ほか、あきらがくまことぶん通義みちよし』の「読史どくしどおり」は『どおり』にたいするせんろんであり、あきらがくまことが『どおり』におおきな影響えいきょうけていることが指摘してきされている[44]以上いじょう注釈ちゅうしゃくなかでは、うらおこりりゅうどおりどおりしゃく』がもっとひろ普及ふきゅうし、おおくはこれにってまれてきたが、その解釈かいしゃくには妥当だとうではない部分ぶぶんがあることが内藤ないとうつちのえさるによって指摘してきされている[47]

後世こうせい評価ひょうか

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りゅうともいく友人ゆうじんおなじく史官しかんつとめていたじょけんは、本書ほんしょたか評価ひょうかして、ふみしょくにあるものが座右ざゆうくべきしょであるとしょうした[46]一方いっぽうりゅうともいく古来こらい名声めいせいのあった『史記しき』『漢書かんしょ』だけでなく、儒教じゅきょう経典きょうてんである経書けいしょたいしてさえも懐疑かいぎげかけたことから、りゅうともいくは「古人こじん非難ひなんする」しゃとして指弾しだんけることもあった[46]。たとえば、とうまつやなぎ中国語ちゅうごくごばんは『どおり析疑』をあらわりゅうともいく経書けいしょ批判ひはん不当ふとうさを指摘してきし、どう時代じだいみさご中国語ちゅうごくごばんも『どおりうたぐへん禅譲ぜんじょう否定ひていしたことを非難ひなんしている[48]

そうはつ史官しかんつとめたまごなにも、おなじく『どおり』が聖賢せいけん非難ひなん経書けいしょ批判ひはんおこなうことに反駁はんばくする。ただし、まごなには『どおり』の功績こうせきみとめたうえ批判ひはん展開てんかいしており、またかれ自身じしんすくなからぬ読者どくしゃ想定そうていして書物しょもつあらわしたのであり、『どおり』が史官しかん人物じんぶつにはひろまれていたこともかる[49]実際じっさいかれどう時期じきおう禹偁の「うえかんりょしょうおおやけしょ」(『しょう畜集』所収しょしゅう)は、りゅうともいくの「ふみざいさんちょうせつ」を利用りようしながら史官しかん採用さいよう方法ほうほうろんじたものであり、その影響えいきょうのほどがうかがえる[50]。また、詩人しじんとして著名ちょめい黄庭堅おうていけんは『かみはじめ実録じつろく編纂へんさん参与さんよするなど史学しがくにもあかるく、『ぶんこころ雕龍』と『どおり』を必読ひつどくしょとしてすすめている[51]

しんだい学者がくしゃであるあきらがくまことは、自身じしん史学しがくりゅうともいく史学しがく比較ひかく以下いかのようにべた[46][52]

りゅうともいくほうい、わたしあきらがくまこと)はう。りゅうかんきょくかん)の纂修を議論ぎろんし、わたし一家いっか著述ちょじゅつ議論ぎろんする。 — しょうがくまこと、『ぶん通義みちよしいえしょ

ここにべられているとおり、『どおり』の内容ないようは、「歴史れきしとはなにか」という歴史れきし哲学てつがくてき関心かんしんよりも、「歴史れきししょはいかにあるべきか」「歴史れきししょはいかにくべきか」という実際じっさいてき方法ほうほうろん技術ぎじゅつろんかたむいている側面そくめんがある[46]。そしてあきらがくまことは、『どおり』の長所ちょうしょ短所たんしょ理解りかいしながら、あらたに独自どくじ史学しがく体系たいけいてた[53]

近年きんねん研究けんきゅう

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経書けいしょ批判ひはんられたことから消極しょうきょくてき評価ひょうかあたえられることがおおかった『どおり』も、みんこく時代じだいに「うたぐふる」の風潮ふうちょうたかまったことで、さい評価ひょうかされるようになった[54]たとえば、清末きよすえみんはつりょうあきらちょうは、『中国ちゅうごく歴史れきし研究けんきゅうほう』で以下いかのようにべている。

ひだりおかあきら司馬しばはんかた荀悦もりたすく司馬しばひかり袁枢以来いらい中国ちゅうごくに「ふみ」がまれた。りゅうともいくていきこりあきらがくまこと以来いらい中国ちゅうごくに「史学しがく」がまれた[53] — りょうあきらちょう、『中国ちゅうごく歴史れきし研究けんきゅうほう

このように、『どおり』は史学しがく評論ひょうろんという理論りろん方法ほうほうをもとに、中国ちゅうごくにおける史学しがく確立かくりつ重大じゅうだい役割やくわりたしたほんであるという評価ひょうかあたえられており[53]20世紀せいき初頭しょとう以来いらいあきらがくまことぶん通義みちよし』とともに中国ちゅうごく史学しがく研究けんきゅうにおいておおきな注目ちゅうもくけている[55]

初期しょき研究けんきゅうとしては、田中たなか萃一郎すいいちろう内藤ないとう湖南こなんによるものがげられる[44]どう時期じきには、りゅうとら如や曹聚じんによって全文ぜんぶん注釈ちゅうしゃくつくられたほか、りょおもえつとむほど千帆ちほひろしぎょうらによって部分ぶぶんてき注釈ちゅうしゃくつくられた。1950年代ねんだいになって、『どおり』の版本はんぽん伝来でんらい研究けんきゅう増井ますい経夫つねおでんりんによっておこなわれた[56]1980年代ねんだい以降いこうちょう珮やぜにやす琪・ほう昌吉しょうきちなどによって注釈ちゅうしゃく翻訳ほんやくつくられたほか、日本にっぽんでは、増井ますい経夫つねお西脇にしわきつねによる全文ぜんぶんやく川勝かわかつ義雄よしおによる「自序じじょ」「べんしょくへん翻訳ほんやくつくられた[57]りゅうともいく思想しそうや『どおり』の受容じゅようについては、とくりゅうともいくていきこりあきらがくまことさんしゃ史学しがく比較ひかく研究けんきゅうさかんであり、1920年代ねんだいから現在げんざいいたるまで非常ひじょうおおくの研究けんきゅう蓄積ちくせきがある[58]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ その実例じつれいは「ざつせつへんうえなかしたや「くら惑」へんげられている[8]

出典しゅってん

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  3. ^ 稲葉いなば (2006), pp. 261–263.
  4. ^ 川勝かわかつ (1973), p. 201.
  5. ^ 稲葉いなば (2006), pp. 264–265.
  6. ^ 稲葉いなば (2006), pp. 265–266.
  7. ^ a b c d e f 稲葉いなば (2006), p. 266.
  8. ^ a b 稲葉いなば (2006), pp. 287–289.
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  15. ^ 楊 (2018), p. 19.
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  19. ^ a b 稲葉いなば (2006), pp. 268–271.
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  57. ^ 楊 (2018), p. 22.
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参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん文献ぶんけん

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翻訳ほんやく

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  • 西脇にしわきつねどおり外篇がいへん東海大学とうかいだいがく出版しゅっぱんかい、2002ねん 
  • 増井ますい経夫つねおりゅうともいく どおり とうだい歴史れきしかん平凡社へいぼんしゃ、1966ねん 
    • けんぶん出版しゅっぱん1981ねん再版さいはん1985ねん
  • もとかんむりさんりゅうともいくてき実録じつろく史学しがくちゅうぶん大学だいがく出版しゅっぱんしゃ、1983ねんISBN 9622012760 
  • もと凌雲りょううんりゅうともいく評伝ひょうでん南京なんきん大学だいがく出版しゅっぱんしゃ、1994ねんISBN 7305023558 
  • 鈴木すずき孝明たかあきりゅうともいくと『どおり』」『徳島大学とくしまだいがく国語こくご国文學こくぶんがくだい10かん、1997ねんNAID 110000950030 
  • 田中たなか萃一郎すいいちろうりゅうともいく歴史れきし研究けんきゅうほう」『田中たなか萃一郎すいいちろう史学しがくろん文集ぶんしゅう三田みた学会がっかい、1932ねん 
  • 内藤ないとう湖南こなんささえ史学しがく平凡社へいぼんしゃ東洋文庫とうようぶんこ〉、1992ねんISBN 4582805574 
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  • 増井ますい経夫つねおきよしだい通学つうがく」『東方とうほうがく論集ろんしゅう』、東方とうほう学会がっかい、1962ねん 
  • はやしみんりゅうともいくどおり研究けんきゅうぶんあきら出版しゅっぱんしゃ、1987ねんNCID BA59099669 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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