『史 ふみ 通 どおり 』(しつう、拼音 : Shǐtōng )は、唐 とう 代 だい の劉 りゅう 知 とも 幾 いく によって著 あらわ された史 ふみ 評 ひょう の書 しょ 。全 ぜん 20巻 かん 。中国 ちゅうごく で出現 しゅつげん した最初 さいしょ の歴史 れきし 批判 ひはん ・史料 しりょう 批判 ひはん の専門 せんもん 書 しょ であり、「正 ただ しい歴史 れきし 書 しょ はいかにあるべきか」「歴史 れきし 家 か はいかなる態度 たいど ・方法 ほうほう で歴史 れきし 書 しょ の執筆 しっぴつ に臨 のぞ むべきか」というテーマを追求 ついきゅう した著作 ちょさく で、後世 こうせい に大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えた。
中国 ちゅうごく の歴史 れきし 書 しょ は、司馬 しば 遷 の『史記 しき 』以来 いらい 盛 さか んに書 か かれ、後 こう 漢 かん から唐 とう 代 だい にかけて非常 ひじょう に多 おお くの歴史 れきし 書 しょ が生 う まれた。特 とく に短命 たんめい の王朝 おうちょう が続 つづ く激動 げきどう の時代 じだい である魏 ぎ 晋 すすむ 南北 なんぼく 朝 あさ 時代 じだい においては、歴史 れきし 書 しょ 編纂 へんさん の専門 せんもん 官 かん である史官 しかん だけでなく、一般 いっぱん の人々 ひとびと までもが歴史 れきし 叙述 じょじゅつ に携 たずさ わり、晋 すすむ 代 だい の歴史 れきし 書 しょ だけで二 に 十 じゅう 種類 しゅるい 以上 いじょう 、南朝 なんちょう 梁 はり の歴史 れきし 書 しょ だけで十 じゅう 種類 しゅるい 前後 ぜんこう が生 う まれた。同時 どうじ に、短 みじか い政権 せいけん の記録 きろく や地方 ちほう 志 こころざし (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) 、個人 こじん の伝記 でんき を記 しる した別伝 べつでん の類 るい も大量 たいりょう に制作 せいさく された。また、唐 とう 代 だい に入 はい ると過去 かこ の歴史 れきし を清算 せいさん しようとする気風 きふう が生 う まれ、李 り 淵 ふかし のもとで『五 ご 代 だい 史 し 』や『晋 すすむ 書 しょ 』が完成 かんせい するなど、過去 かこ の歴史 れきし 書 しょ の再 さい 編纂 へんさん も盛 さか んに行 おこな われていた。
こうした状況 じょうきょう の中 なか で、中国 ちゅうごく において「史学 しがく 」という領域 りょういき が徐々 じょじょ に自覚 じかく されるようになった。たとえば、唐 とう 代 だい に編纂 へんさん された『隋 ずい 書 しょ 』経籍 けいせき 志 こころざし では、書籍 しょせき の分類 ぶんるい 法 ほう として「四 よん 部 ぶ 分類 ぶんるい 」が確立 かくりつ し、歴史 れきし 書 しょ を分類 ぶんるい する部門 ぶもん である「史 し 部 ぶ 」が独立 どくりつ した。書籍 しょせき の分類 ぶんるい はそれぞれのジャンルの自覚 じかく を反映 はんえい しているといえ、ここに中国 ちゅうごく における「史学 しがく 」分野 ぶんや の独立 どくりつ を見 み て取 と ることができる。
こうして数 すう 多 おお くの史書 ししょ の作成 さくせい 、それにともなう史学 しがく の自覚 じかく 過程 かてい を経 へ たのちに、中国 ちゅうごく において史書 ししょ に対 たい する総括 そうかつ や史学 しがく に対 たい する方法 ほうほう 論 ろん の精査 せいさ といった営 いとな みが生 う まれはじめた。『文 ぶん 心 こころ 雕龍 』の「史伝 しでん 」篇 へん がその一 ひと つであり、古来 こらい の史書 ししょ について評論 ひょうろん し、歴史 れきし を書 か くものの姿勢 しせい を論 ろん じている。こうした営 いとな みの専 せん 著 ちょ として、唐 とう 代 だい の劉 りゅう 知 とも 幾 いく の手 て によって『史 し 通 どおり 』が完成 かんせい し、過去 かこ の史書 ししょ の総括 そうかつ と史学 しがく の方法 ほうほう 論 ろん の精査 せいさ がなされ、中国 ちゅうごく において「史学 しがく 」という分野 ぶんや が確立 かくりつ するに至 いた った。
劉 りゅう 知 とも 幾 いく (字 じ は子 こ 玄 げん )は、龍 りゅう 朔 さく 元年 がんねん (661年 ねん )に劉 りゅう 蔵 ぞう 器 き の第 だい 五 ご 子 し として生 う まれた。11歳 さい の頃 ころ には『尚書 しょうしょ 』の学習 がくしゅう が身 み に入 はい らず、代 か わりに兄 あに たちが習 なら っていた『春秋 しゅんじゅう 左 ひだり 氏 し 伝 でん 』にのめり込 こ むなど早 はや くから歴史 れきし 書 しょ に興味 きょうみ を持 も ち、そのまま『史記 しき 』『漢書 かんしょ 』『三国志 さんごくし 』などの学習 がくしゅう に進 すす んだ。20歳 さい で科挙 かきょ に合格 ごうかく すると、河南 かなん の獲 え 嘉 よしみ 県 けん の主 おも 簿 ぼ になり、そのまま18年間 ねんかん 務 つと めた。聖 せい 暦 こよみ 2年 ねん (699年 ねん )に右 みぎ 補 ほ 闕・定 てい 王 おう 府 ふ 倉 くら 曹に転任 てんにん し『三 さん 教 きょう 珠 たま 英 えい (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) 』の編纂 へんさん に参加 さんか した。
則 のり 天武 てんむ 后 きさき の長安 ながやす 2年 ねん (702年 ねん )、劉 りゅう 知 とも 幾 いく 41歳 さい の時 とき に著作 ちょさく 左 ひだり 郎 ろう に転任 てんにん し、武 たけ 三思 さんし のもとで徐 じょ 堅 けん ・呉 ご 兢(中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) らとともに国史 こくし 編纂 へんさん に当 あ たった。中 ちゅう 宗 むね の神 かみ 龍 りゅう 年間 ねんかん には、『重 じゅう 修 おさむ 則 のり 天 てん 実録 じつろく 』の編修 へんしゅう に参加 さんか した。そして神 かみ 龍 りゅう 2年 ねん (706年 ねん )、東都 とうと の守司 もりじ となり、閑職 かんしょく であることを利用 りよう して『史 し 通 どおり 』の執筆 しっぴつ に当 あ たった。そのまま数 すう 年間 ねんかん 執筆 しっぴつ を続 つづ け、景 けい 龍 りゅう 4年 ねん (710年 ねん )に『史 し 通 どおり 』が完成 かんせい したとされる。
その後 ご も劉 りゅう 知 とも 幾 いく は玄 げん 宗 むね の先天 せんてん 元年 がんねん (711年 ねん )に柳 やなぎ 沖 おき (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) とともに『氏族 しぞく 志 こころざし 』の改修 かいしゅう に当 あ たり、翌年 よくねん の開 ひらき 元 もと 元年 がんねん には『氏族 しぞく 系 けい 録 ろく 』を完成 かんせい させる。さらに開 ひらけ 元 もと 4年 ねん には呉 ご 兢とともに『則 のり 天 てん 実録 じつろく 』『中 ちゅう 宗 むね 実録 じつろく 』『睿宗実録 じつろく 』を完成 かんせい させるなど、歴史 れきし 叙述 じょじゅつ に携 たずさ わり続 つづ けた。
劉 りゅう 知 とも 幾 いく は、幼 おさな いころからの学識 がくしき に加 くわ えて、初 はつ 唐 とう の『五 ご 代 だい 史 し 』や『晋 すすむ 書 しょ 』の編纂 へんさん 作業場 さぎょうば を実見 じっけん した経験 けいけん もあり、それらを再 さい 検証 けんしょう することで、歴史 れきし 書 しょ を執筆 しっぴつ する際 さい の記事 きじ の採録 さいろく 法 ほう の問題 もんだい 点 てん やさまざまな事実 じじつ 誤認 ごにん を発見 はっけん していた[注釈 ちゅうしゃく 1] 。しかし、劉 りゅう 知 とも 幾 いく が従事 じゅうじ した史 ふみ 館 かん の実情 じつじょう は、監修 かんしゅう 国史 こくし が矛盾 むじゅん する編集 へんしゅう 方針 ほうしん を求 もと める上 うえ に、無知 むち 無能 むのう な同僚 どうりょう に囲 かこ まれ、劉 りゅう 知 とも 幾 いく はさまざまな非難 ひなん を浴 あ びるなど散々 さんざん な状況 じょうきょう であった。
こうした状況 じょうきょう に絶望 ぜつぼう した劉 りゅう 知 とも 幾 いく は、景 けい 龍 りゅう 2年 ねん (708年 ねん )に辞表 じひょう を提出 ていしゅつ した。この辞表 じひょう は『史 し 通 どおり 』忤時篇 へん に収録 しゅうろく されており、そこで劉 りゅう 知 とも 幾 いく は史官 しかん を務 つと めながらも国史 こくし 編纂 へんさん を完成 かんせい させられない理由 りゆう として以下 いか の五 ご カ条 かじょう (五 ご 不可 ふか 論 ろん )を挙 あ げている。なお、この時 とき も含 ふく めて劉 りゅう 知 とも 幾 いく は何 なん 度 ど も辞職 じしょく しようとしたが、結局 けっきょく は許 ゆる されなかった。
史 ふみ 局 きょく にあまりに編纂 へんさん 官 かん が多 おお く、各自 かくじ が牽制 けんせい し合 あ って一言 ひとこと 一言 ひとこと を記述 きじゅつ するのにさえ決断 けつだん がつかず、編纂 へんさん 作業 さぎょう が進捗 しんちょく しない。
史 ふみ 局 きょく に資料 しりょう が集 あつ まらず、史官 しかん が自分 じぶん で資料 しりょう を集 あつ めなければならない上 うえ に、政府 せいふ 機関 きかん に制度 せいど の記録 きろく を訪 たず ねても失 うしな われている。
史官 しかん たちが中央 ちゅうおう の権力 けんりょく 者 しゃ と深 ふか いつながりを持 も っていて、事実 じじつ を直書 じきしょ しにくくなっている。
史 ふみ 局 きょく に高官 こうかん の監督 かんとく 官 かん が何人 なんにん も置 お かれ、しかも彼 かれ らの間 あいだ に統一 とういつ 見解 けんかい がなく、執筆 しっぴつ 者 しゃ は仕事 しごと にならない。
監督 かんとく 官 かん がはっきりと基準 きじゅん を立 た てる、各 かく 執筆 しっぴつ 者 しゃ の分担 ぶんたん を定 さだ めるといった仕事 しごと をせず、責任 せきにん を回避 かいひ するばかりで先 さき に進 すす まない。
劉 りゅう 知 とも 幾 いく は、こうした史 し 局 きょく の状況 じょうきょう 下 か で、長安 ながやす 年間 ねんかん の国史 こくし 編纂 へんさん や神 かみ 龍 りゅう 年間 ねんかん の『重 じゅう 修 おさむ 則 のり 天 てん 実録 じつろく 』編修 へんしゅう の際 さい に自分 じぶん の意見 いけん が取 と り入 い れられなかったことを残念 ざんねん に思 おも い、自分 じぶん の主張 しゅちょう を著述 ちょじゅつ の形 かたち で後世 こうせい に伝 つた えようと考 かんが えた。そこで劉 りゅう 知 とも 幾 いく が、公務 こうむ とは別 べつ に私撰 しせん として書 か いたのが『史 し 通 どおり 』で、その制作 せいさく の根底 こんてい には史官 しかん としての自分 じぶん の意見 いけん が取 と り入 い れられない彼 かれ の鬱憤 うっぷん や挫折 ざせつ 感 かん があった。
劉 りゅう 知 とも 幾 いく は『史 し 通 どおり 』において、歴史 れきし 記述 きじゅつ の方法 ほうほう (特 とく に正史 せいし の記述 きじゅつ 法 ほう )に対 たい する批判 ひはん を通 とお して、あるべき正史 せいし を作 つく るための方法 ほうほう を確立 かくりつ しようと試 こころ みた。それは後世 こうせい の史官 しかん のために、国史 こくし ・実録 じつろく 執筆 しっぴつ の際 さい に不可欠 ふかけつ な方法 ほうほう 論 ろん や心構 こころがま えを提示 ていじ するものであった。こうした史学 しがく 批評 ひひょう の専門 せんもん 著作 ちょさく は、中国 ちゅうごく のみならず、世界 せかい 的 てき に見 み ても『史 し 通 どおり 』が最古 さいこ 級 きゅう の著作 ちょさく であるとされる。
『史 し 通 どおり 』に影響 えいきょう を与 あた えた書籍 しょせき
編集 へんしゅう
劉 りゅう 知 とも 幾 いく は、『史 し 通 どおり 』自 じ 叙 じょ 篇 へん で、自分 じぶん の著作 ちょさく を劉 りゅう 安 やすし 『淮南 ワイナン 子 こ 』・揚 あげ 雄 ゆう 『法 ほう 言 げん 』・王 おう 充 たかし 『論 ろん 衡 』・応 おう 劭 『風俗 ふうぞく 通 どおり 』・劉 りゅう 劭 『人物 じんぶつ 志 こころざし 』・陸 りく 景 けい 『典 てん 語 ご 』・劉 りゅう 勰 『文 ぶん 心 こころ 雕龍 』といった古書 こしょ になぞらえて論 ろん じ、自分 じぶん の著書 ちょしょ がこれらの書籍 しょせき の精神 せいしん を受 う け継 つ ぎ、包括 ほうかつ するものであると述 の べている。劉 りゅう 知 とも 幾 いく は、このうち特 とく に揚 あげ 雄 ゆう に対 たい して傾斜 けいしゃ しており、揚 あげ 雄 ゆう と自身 じしん の境遇 きょうぐう が似 に ていることや、『法 ほう 言 げん 』が『史 し 通 どおり 』と同様 どうよう に発表 はっぴょう 後 ご に世間 せけん から非難 ひなん を浴 あ びたことなどを述 の べている。
また、福島 ふくしま (2003) は、このうち特 とく に『論 ろん 衡』と『史 し 通 どおり 』の関係 かんけい を研究 けんきゅう し、両者 りょうしゃ が経書 けいしょ をも批判 ひはん する批判 ひはん 精神 せいしん 、用語 ようご の使用 しよう 法 ほう 、歴史 れきし の考証 こうしょう 法 ほう などにおいて共通 きょうつう 性 せい が見 み られることを指摘 してき している。
中国語 ちゅうごくご 版 ばん ウィキソースに
本 ほん 記事 きじ に
関連 かんれん した
原文 げんぶん があります。
『史 し 通 どおり 』は「内 うち 篇 へん 」と「外篇 がいへん 」から構成 こうせい される。内 うち 篇 へん は一 ひと つの体系 たいけい 的 てき な構想 こうそう の下 した に書 か かれ、「序文 じょぶん 」から「自 じ 叙 じょ 」までで完結 かんけつ している。一方 いっぽう 外篇 がいへん は、「古今 ここん 正史 せいし 」「史官 しかん 建 けん 置 おけ 」が通史 つうし 的 てき 記述 きじゅつ であるほかは、著述 ちょじゅつ 目的 もくてき が異 こと なる雑多 ざった なものが収 おさ められている。内 うち 篇 へん ・外篇 がいへん の成立 せいりつ 順 じゅん については諸説 しょせつ あり、『四 よん 庫 こ 提要 ていよう 』では内 うち 篇 へん において外篇 がいへん に対 たい する言及 げんきゅう が現 あらわ れていることから、外篇 がいへん が先 さき に書 か かれてのちに内 うち 篇 へん が完成 かんせい したという説 せつ を立 た てている。一方 いっぽう 、稲葉 いなば (2006 , p. 272)は、逆 ぎゃく に外篇 がいへん にも内 うち 篇 へん に言及 げんきゅう する場合 ばあい があることから、外篇 がいへん は内 うち 篇 へん を前提 ぜんてい にして書 か かれた補完 ほかん 論文 ろんぶん であり、内 うち 篇 へん を短期間 たんきかん にまとめて書 か き上 あ げたのちに個々 ここ に書 か いた札 さつ 記 き を集成 しゅうせい したものが外篇 がいへん であろうと推測 すいそく している。
以下 いか 、川勝 かわかつ (1973 , pp. 160–163)をもとに、各 かく 篇 へん の概要 がいよう を示 しめ す。
内 うち 篇 へん (10巻 かん 39篇 へん )
自序 じじょ
巻一 けんいち
巻 まき 二 に
二 に 体 たい 第 だい 二 に : 編年体 へんねんたい ・紀伝 きでん 体 たい の比較 ひかく 論 ろん 。
載 の 言 げん 第 だい 三 さん : 詔勅 しょうちょく ・上奏 じょうそう ・議論 ぎろん といった長大 ちょうだい な言説 げんせつ を史書 ししょ の中 なか でいかに採録 さいろく するべきか論 ろん じる。
本紀 ほんぎ 第 だい 四 よん : 紀伝 きでん 体 たい の歴史 れきし 書 しょ のうち「本紀 ほんぎ 」の正 ただ しいあり方 かた を論 ろん じる。
世 よ 家 か 第 だい 五 ご : 同 おな じく、「世 よ 家 か 」の正 ただ しいあり方 かた を論 ろん じる。
列伝 れつでん 第 だい 六 ろく : 同 おな じく、「列伝 れつでん 」の正 ただ しいあり方 かた を論 ろん じる。
巻 まき 三 さん
表 ひょう 暦 れき 第 だい 七 なな : 正史 せいし の一部 いちぶ をなす「表 ひょう 」について論 ろん じる。
書志 しょし 第 だい 八 はち : 同 おな じく正史 せいし の一部 いちぶ をなす「書 しょ 」または「志 こころざし 」について論 ろん じる。
巻 まき 四 よん
論賛 ろんさん 第 だい 九 きゅう : 正史 せいし の各 かく 篇 へん の末尾 まつび に附 ふ す「論 ろん 」と「賛 さん 」について論 ろん じる。
序 じょ 例 れい 第 だい 十 じゅう : 正史 せいし の諸 しょ 篇 へん の冒頭 ぼうとう にときおり付 つ けられる「序 ついで 」について論 ろん じる。
題目 だいもく 第 だい 十 じゅう 一 いち : 書名 しょめい ・篇 へん 名 めい の命名 めいめい 方法 ほうほう を論 ろん じる。
断 だん 限 げん 第 だい 十 じゅう 二 に : 正史 せいし は一 ひと つの王朝 おうちょう を基準 きじゅん として、記述 きじゅつ の対象 たいしょう とする時代 じだい を明確 めいかく に限定 げんてい すべきことを説 と く。
編 へん 次第 しだい 十 じゅう 三 さん : 正史 せいし の各 かく 篇 へん の順序 じゅんじょ をいかに並 なら べるべきか考察 こうさつ する。
称 しょう 謂 いい 第 だい 十 じゅう 四 よん : 正史 せいし における尊称 そんしょう ・蔑称 べっしょう の使 つか い分 わ け方 かた を説 と く。
巻 まき 五 ご
採 と 撰 せん 第 だい 十 じゅう 五 ご : 史料 しりょう 収集 しゅうしゅう とその際 さい に必要 ひつよう とされる態度 たいど について論 ろん じる。
載 の 文 ぶん 第 だい 十 じゅう 六 ろく : 過去 かこ の名文 めいぶん を採用 さいよう する際 さい の態度 たいど について論 ろん じる。
補注 ほちゅう 第 だい 十 じゅう 七 なな : 前書 ぜんしょ の欠点 けってん を補 おぎな い、異説 いせつ を採録 さいろく する「補注 ほちゅう 」について論 ろん じる。。
因習 いんしゅう 第 だい 十 じゅう 八 はち : 時代 じだい の変化 へんか を考慮 こうりょ せずに、前代 ぜんだい の記事 きじ を孫引 まごび きすることの弊害 へいがい を述 の べる。
邑里第 だい 十 じゅう 九 きゅう : 人物 じんぶつ の本籍 ほんせき 地 ち が時代 じだい によって異 こと なることを無視 むし することの弊害 へいがい を述 の べる。
巻 まき 六 ろく
言語 げんご 第 だい 二 に 十 じゅう : 時代 じだい による言語 げんご の変化 へんか や方言 ほうげん の相違 そうい を考慮 こうりょ せず、むやみに古雅 こが な文章 ぶんしょう を用 もち いることの弊害 へいがい を述 の べる。
浮詞第 だい 二 に 十 じゅう 一 いち : 無用 むよう の粉飾 ふんしょく 的 てき 表現 ひょうげん を用 もち いることの弊害 へいがい を述 の べる。
叙事 じょじ 第 だい 二 に 十 じゅう 二 に : 古来 こらい の史書 ししょ の叙事 じょじ の優劣 ゆうれつ を論 ろん じるとともに、叙事 じょじ は完結 かんけつ を尊 とうと ぶべきことを説 と く。
巻 まき 七 なな
品 しな 藻 も 第 だい 二 に 十 じゅう 三 さん : 人物 じんぶつ の評価 ひょうか を厳正 げんせい に行 おこな うべきことを論 ろん じる。
直書 じきしょ 第 だい 二 に 十 じゅう 四 よん : 善悪 ぜんあく を直書 じきしょ して世 よ の戒 いまし めとすることが史官 しかん の任務 にんむ であることを論 ろん じる。
曲筆 きょくひつ 第 だい 二 に 十 じゅう 五 ご : 権力 けんりょく に阿 おもね ったり、私情 しじょう をさしはさんだりして筆 ふで を曲 ま げることの悪 あく について論 ろん じる。
鑑識 かんしき 第 だい 二 に 十 じゅう 六 ろく : 史書 ししょ の価値 かち を見分 みわ ける見識 けんしき のある人 ひと が少 すく ないことを論 ろん じる。
探 さがせ 賾第二 に 十 じゅう 七 なな : 史書 ししょ を作 つく った著者 ちょしゃ の真意 しんい を探 さぐ ることについて論 ろん じる。
巻 まき 八 はち
摸擬第 だい 二 に 十 じゅう 八 はち : 史書 ししょ を著 あらわ す際 さい に、古書 こしょ を模範 もはん とする場合 ばあい に取 と るべき態度 たいど を説 と く。
書 しょ 事 ごと 第 だい 二 に 十 じゅう 九 きゅう : 史官 しかん が書 か くべきことは何 なに か論 ろん じる。
人物 じんぶつ 第 だい 三 さん 十 じゅう : 史官 しかん が書 か くべき人物 じんぶつ について論 ろん じる。
巻 まき 九 きゅう
覈才第 だい 三 さん 十 じゅう 一 いち : 真 しん に歴史 れきし 家 か たる才能 さいのう が得難 えがた いものであることを論 ろん じる。
序 じょ 伝 でん 第 だい 三 さん 十 じゅう 二 に : 自序 じじょ の書 か き方 かた を論 ろん じる。
煩 はん 省 しょう 第 だい 三 さん 十 じゅう 三 さん : 歴史 れきし 記述 きじゅつ における煩雑 はんざつ さと簡略 かんりゃく さについて論 ろん じる。
巻 まき 十 じゅう
雜 ざつ 述 じゅつ 第 だい 三 さん 十 じゅう 四 よん : 以上 いじょう の篇 へん での議論 ぎろん が正史 せいし に関 かか わるものであったのに対 たい し、ここでは正史 せいし 以外 いがい の種々 しゅじゅ の歴史 れきし 書 しょ を論 ろん じる。
弁 べん 職 しょく 第 だい 三 さん 十 じゅう 五 ご : 史官 しかん の職 しょく にあるものの正 ただ しいあり方 かた を論 ろん じる。
自 じ 叙 じょ 第 だい 三 さん 十 じゅう 六 ろく : 本書 ほんしょ を書 か くに至 いた った経緯 けいい と、自身 じしん の真意 しんい を示 しめ す。
体 からだ 統 みつる ・紕繆・弛張 しちょう : この三 さん 篇 へん は失 うしな われて伝 つた わらない。
外篇 がいへん (10巻 かん 13篇 へん )
巻 まき 十一 といち
史官 しかん 建 けん 置 おけ 第 だい 一 いち : 古来 こらい の史官 しかん 制度 せいど の変遷 へんせん と、各 かく 代 だい の代表 だいひょう 的 てき な史官 しかん について論 ろん じる。
巻 まき 十 じゅう 二 に
古今 ここん 正史 せいし 第 だい 二 に : 古来 こらい の正史 せいし (編年体 へんねんたい の記述 きじゅつ を含 ふく む)について論 ろん じる。
巻 まき 十三 じゅうざ
疑 うたぐ 古 ふる 第 だい 三 さん : 『尚書 しょうしょ 』『論語 ろんご 』などに記 しる される、『春秋 しゅんじゅう 』以前 いぜん の記事 きじ に関 かん する疑問 ぎもん の10カ条 かじょう 。
巻 まき 十四 とし
巻 まき 十 じゅう 五 ご
点 てん 繁 しげ 第 だい 六 ろく : 古来 こらい の史書 ししょ に見 み られる無駄 むだ な文章 ぶんしょう を実際 じっさい に例示 れいじ しながら添削 てんさく する。
巻 まき 十 じゅう 六 ろく
雑 ざつ 説 せつ 上 じょう 第 だい 七 なな : 『春秋 しゅんじゅう 』以後 いご 、最近 さいきん に至 いた るまでの歴史 れきし 書 しょ 全般 ぜんぱん に関 かん する問題 もんだい 点 てん 。上 うえ ・中 なか ・下 した で合計 ごうけい 66カ条 かじょう 。
巻 まき 十 じゅう 七 なな
雑 ざつ 説 せつ 中 ちゅう 第 だい 八 はち : 同上 どうじょう 。
巻 まき 十 じゅう 八 はち
雑 ざつ 説 せつ 下 か 第 だい 九 きゅう : 同上 どうじょう 。
巻 まき 十 じゅう 九 きゅう
漢書 かんしょ 五 ご 行 ぎょう 志 こころざし 錯誤 さくご 第 だい 十 じゅう : 『漢書 かんしょ 』五 ご 行 ぎょう 志 こころざし の錯誤 さくご と問題 もんだい 点 てん 。
漢書 かんしょ 五 ご 行 ぎょう 志 こころざし 雑駁 ざっぱく 第 だい 十 じゅう 一 いち : 同上 どうじょう 。
巻 まき 二 に 十 じゅう
暗 くら 惑第十 じゅう 二 に : 『史記 しき 』以後 いご の正史 せいし の誤 あやま った記述 きじゅつ 14カ条 かじょう を引 ひ き、論難 ろんなん を加 くわ える。
忤時第 だい 十 じゅう 三 さん : 国史 こくし 編纂 へんさん の監修 かんしゅう 官 かん に対 たい して提出 ていしゅつ した劉 りゅう 知 とも 幾 いく 自身 じしん の辞職 じしょく 願 ねがい と、その前後 ぜんご の事情 じじょう について。
劉 りゅう 知 とも 幾 いく は『史 し 通 どおり 』において、正史 せいし はどのように書 か かれるべきかというテーマを追求 ついきゅう したのであり、まずこの点 てん について以下 いか に述 の べる。
まず劉 りゅう 知 とも 幾 いく は、冒頭 ぼうとう の「六 ろく 家 いえ 」篇 へん や「古今 ここん 正史 せいし 」篇 へん で、過去 かこ の歴史 れきし 書 しょ を以下 いか の六 ろく 家 いえ に分類 ぶんるい し、それぞれの特徴 とくちょう とその源流 げんりゅう を論 ろん じている。
尚 なお 書家 しょか
『尚書 しょうしょ 』に始 はじ まる歴史 れきし 書 しょ の体裁 ていさい 。記 き 言 ごと の書 しょ (発言 はつげん を記 しる した書 しょ )であり、上古 じょうこ の王者 おうじゃ の言葉 ことば を史官 しかん が記録 きろく したもの。王道 おうどう の正義 せいぎ を号令 ごうれい としての語 かたり 言 ごと に託 たく し、これを臣下 しんか に布告 ふこく した。孔子 こうし の編纂 へんさん にかかる歴史 れきし 叙述 じょじゅつ の始祖 しそ で、疎通 そつう 知道 ともみち を旨 むね とする。書物 しょもつ の少 すく ない過去 かこ においては価値 かち があるが、現代 げんだい の史書 ししょ としては不完全 ふかんぜん である。この類 るい の書 しょ に『逸 いっ 周 しゅう 書 しょ 』や孔 あな 衍(中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) 『漢 かん 尚書 しょうしょ 』、王 おう 劭 『隋 ずい 書 しょ 』などがある。
春秋 しゅんじゅう 家 か
『春秋 しゅんじゅう 』に始 はじ まる歴史 れきし 書 しょ の体裁 ていさい 。記事 きじ の書 しょ (出来事 できごと を記 しる した書 しょ )で、実際 じっさい の行事 ぎょうじ によって実証 じっしょう 的 てき に規範 きはん を説 と く。元来 がんらい は魯国 という一 いち 国 こく の歴史 れきし 書 しょ に過 す ぎなかったが、孔子 こうし の編纂 へんさん を経 へ たことで規範 きはん 的 てき な歴史 れきし 記述 きじゅつ となったとする。『尚書 しょうしょ 』が一般 いっぱん 法則 ほうそく を説 と くのに対 たい して、『春秋 しゅんじゅう 』は個別 こべつ の判例 はんれい を提示 ていじ し、孔子 こうし の編纂 へんさん にかかる属 ぞく 辞 じ 比 ひ 事 ごと を旨 むね とする。これにより時間 じかん 系列 けいれつ による叙事 じょじ 形式 けいしき (編年体 へんねんたい )が提供 ていきょう された。
左 ひだり 伝家 でんか
『春秋 しゅんじゅう 左 ひだり 氏 し 伝 でん 』に始 はじ まる歴史 れきし 書 しょ の体裁 ていさい 。記 き 言 ごと の書 しょ である『尚書 しょうしょ 』と記事 きじ の書 しょ である『春秋 しゅんじゅう 』の体裁 ていさい を組 く み合 あ わせ、より充実 じゅうじつ した史 ふみ 体 たい に改良 かいりょう した。編年体 へんねんたい の形式 けいしき を基本 きほん としながら、一貫 いっかん した体 からだ 例 れい と個別 こべつ の事象 じしょう に対 たい する評論 ひょうろん を備 そな える。劉 りゅう 知 とも 幾 いく はこれをもって「史 し 道 どう 」が成立 せいりつ したとする。この類 るい の書 しょ に荀悦 『漢 かん 紀 き 』、孫 まご 盛 もり 『魏 たかし 氏 し 春秋 しゅんじゅう 』、干 ひ 宝 たから 『晋 すすむ 紀 き 』、王 おう 劭『北 きた 斉 ひとし 志 こころざし 』などがある。
国語 こくご 家 か
『国語 こくご 』に始 はじ まる歴史 れきし 書 しょ の体裁 ていさい 。左 ひだり 伝家 でんか によって記事 きじ ・記 き 言 ごと を合 あ わせた形式 けいしき が成立 せいりつ したが、編年体 へんねんたい の叙述 じょじゅつ には記述 きじゅつ しきれない歴史 れきし 事象 じしょう はあまりにも多 おお く、その欠点 けってん を補 おぎな うために現 あらわ れた形 かたち 。劉 りゅう 知 とも 幾 いく は、左 ひだり 丘 おか 明 あきら が『左 ひだり 伝 でん 』を編纂 へんさん した際 さい に収録 しゅうろく しきれなかった情報 じょうほう が『国語 こくご 』に記 しる されているとし、各国 かっこく の史書 ししょ の記載 きさい を網羅 もうら し選別 せんべつ したものが『国語 こくご 』であると位置 いち づけた。同時 どうじ に、『国語 こくご 』はのちの「世 よ 家 か 」の起源 きげん であるともされた。この類 るい の書 しょ に『戦国 せんごく 策 さく 』、孔 あな 衍『春秋 しゅんじゅう 時 じ 国語 こくご 』、司馬 しば 彪 ぴょう 『九州 きゅうしゅう 春秋 しゅんじゅう 』などがあり、劉 りゅう 知 とも 幾 いく は五 ご 胡 えびす 十 じゅう 六 ろく 国 こく の歴史 れきし の記述 きじゅつ にはこの体裁 ていさい を多 おお く用 もち いるべきだったとしている。
史記 しき 家 か
『史記 しき 』に始 はじ まる歴史 れきし 書 しょ の体裁 ていさい 。『史記 しき 』は黄 き 帝 みかど から漢 かん の武 たけ 帝 みかど までの事跡 じせき を記載 きさい し、紀伝 きでん 体 たい を取 と り、本紀 ほんぎ ・表 ひょう ・書 しょ ・世 よ 家 か ・列伝 れつでん から成 な る。『史記 しき 』の成立 せいりつ によってあらゆる歴史 れきし 叙述 じょじゅつ の形式 けいしき が組 く み込 こ まれ、歴史 れきし 事象 じしょう も幅広 はばひろ く体系 たいけい 的 てき に記述 きじゅつ された。一方 いっぽう 、同 おな じ事象 じしょう の記述 きじゅつ があちこちに分 わ かれて書 か かれている点 てん 、同 おな じ事件 じけん が重複 じゅうふく して記述 きじゅつ されている点 てん などに欠点 けってん がある。この類 るい の書 しょ に梁 りょう 武 たけし 帝 みかど 勅撰 ちょくせん の『通史 つうし 』、李 り 延寿 えんじゅ 『南 みなみ 史 し 』『北 きた 史 し 』などがある。
漢書 かんしょ 家 か
『漢書 かんしょ 』に始 はじ まる歴史 れきし 書 しょ の体裁 ていさい 。『史記 しき 』は紀伝 きでん 体 たい として最初 さいしょ の試 こころ みであり、不備 ふび な点 てん も多 おお かった。その一 ひと つが紀伝 きでん 体 たい という性質 せいしつ 上 じょう 、長期間 ちょうきかん の叙述 じょじゅつ が難 むずか しいということであり、この点 てん を改善 かいぜん し一 いち 王朝 おうちょう の断 だん 代 だい 史 し として作 つく られたのが『漢書 かんしょ 』であるとする。劉 りゅう 知 とも 幾 いく は、『漢書 かんしょ 』は一 いち 王朝 おうちょう の興亡 こうぼう を明 あき らかにし、内容 ないよう は精密 せいみつ で、倫理 りんり の大筋 おおすじ を備 そな えていると最 もっと も高 たか く評価 ひょうか している。この類 るい の書 しょ に『東 ひがし 観 かん 漢 かん 記 き 』『三国志 さんごくし 』などがある。
以上 いじょう の分類 ぶんるい は、劉 りゅう 知 とも 幾 いく の「史書 ししょ の体 からだ 例 れい や文章 ぶんしょう は時代 じだい によって変化 へんか せねばならない」とする考 かんが え方 かた から、過去 かこ の歴史 れきし 書 しょ を歴史 れきし 的 てき に位置 いち づけ、その変遷 へんせん を考察 こうさつ しようとしたものである。劉 りゅう 知 とも 幾 いく は、経書 けいしょ である『尚書 しょうしょ 』『春秋 しゅんじゅう 』の精神 せいしん は、史書 ししょ に分類 ぶんるい される『史記 しき 』『漢書 かんしょ 』にも継承 けいしょう されているとし、こうした歴史 れきし 叙述 じょじゅつ の精神 せいしん は聖人 せいじん から引 ひ き継 つ がれたものであると考 かんが えていた。
劉 りゅう 知 とも 幾 いく は、以上 いじょう の歴史 れきし 叙述 じょじゅつ の六 ろく 家 いえ のうち、現在 げんざい 手本 てほん とすべきなのは「左 ひだり 伝家 でんか 」と「漢書 かんしょ 家 か 」であるとする。「左 ひだり 伝家 でんか 」について劉 りゅう 知 とも 幾 いく は、「春秋 しゅんじゅう 三 さん 伝 つて 」の中 なか で『左 ひだり 伝 でん 』が最 もっと も優 すぐ れていることを「申 さる 左 ひだり 」篇 へん で強調 きょうちょう し、その理由 りゆう として著者 ちょしゃ の左 ひだり 丘 おか 明 あきら が幅広 はばひろ い資料 しりょう を見 み ていることと、『左 ひだり 伝 でん 』が左 ひだり 丘 おか 明 あきら の直接 ちょくせつ の見聞 けんぶん に基 もと づくことを挙 あ げる。劉 りゅう 知 とも 幾 いく にとって、『左 ひだり 伝 でん 』は歴史 れきし 事実 じじつ に忠実 ちゅうじつ である上 うえ に、高 たか い倫理 りんり 性 せい ・道徳 どうとく 性 せい を備 そな えた歴史 れきし 書 しょ であった。
そしてもう一 ひと つの「漢書 かんしょ 家 か 」が、劉 りゅう 知 とも 幾 いく が最 もっと も重視 じゅうし した史 ふみ 体 たい である。古来 こらい 、史官 しかん は王朝 おうちょう に仕 つか えて事実 じじつ を記録 きろく していく人々 ひとびと であり、乱世 らんせい でなければ、歴史 れきし を書 か くという行為 こうい は王朝 おうちょう 秩序 ちつじょ を支 ささ えるためという意識 いしき のもとにあった。劉 りゅう 知 とも 幾 いく の仕 つか えた唐 から 王朝 おうちょう は、漢 かん を理想 りそう とし、漢 かん に並 なら び立 た とうという意識 いしき を持 も った王朝 おうちょう であって、その史官 しかん の課題 かだい は「唐 とう の歴史 れきし をいかに正確 せいかく に記述 きじゅつ するか」ということにある。劉 りゅう 知 とも 幾 いく にとって、歴史 れきし 記述 きじゅつ の範囲 はんい はあくまで一 ひと つの王朝 おうちょう であり、そこで断 だん 代 だい 史 し である『漢書 かんしょ 』を高 たか く評価 ひょうか した。
これに関連 かんれん して、内藤 ないとう (1937 , p. 613)は、この六 ろく 家 いえ の分類 ぶんるい は、劉 りゅう 知 とも 幾 いく が理想 りそう とする「漢書 かんしょ 家 か 」の体裁 ていさい が正統 せいとう な歴史 れきし 的 てき 由来 ゆらい を持 も ち、過去 かこ の各種 かくしゅ の歴史 れきし 書 しょ の体裁 ていさい を根拠 こんきょ に持 も つことを強調 きょうちょう するために設 もう けた区分 くぶん であるとする。そして、劉 りゅう 知 とも 幾 いく が「漢書 かんしょ 家 か 」を最上 さいじょう とみなした理由 りゆう は、劉 りゅう 知 とも 幾 いく 自身 じしん が史官 しかん として史書 ししょ 編纂 へんさん に従事 じゅうじ する立場 たちば にあったことと関連 かんれん するとする。つまり、もともと個人 こじん 著作 ちょさく として書 か かれていた歴史 れきし 書 しょ も、唐 とう 代 だい には皇帝 こうてい の命令 めいれい の下 した で多数 たすう の史官 しかん によって編纂 へんさん されるものに変 か わっており、劉 りゅう 知 とも 幾 いく もそうした史官 しかん の一人 ひとり であった以上 いじょう 、当時 とうじ 彼 かれ が編纂 へんさん に従事 じゅうじ していた断 だん 代 だい の紀伝 きでん 体 からだ 史 し が最 さい 上位 じょうい に置 お かれるのは止 や むを得 え ないことでもあった。
劉 りゅう 知 とも 幾 いく は、以上 いじょう の議論 ぎろん を踏 ふ まえ、史書 ししょ (正史 せいし )はどのような構成 こうせい を取 と るべきかということを「本紀 ほんぎ 」「列伝 れつでん 」「表 ひょう 暦 れき 」「書志 しょし 」篇 へん などで議論 ぎろん する。
まず「本紀 ほんぎ 」は、天子 てんし の行事 ぎょうじ を時 とき 系列 けいれつ で記録 きろく することを原則 げんそく とするが、同時 どうじ に記載 きさい すべき国 くに の大事 だいじ も年月 としつき 付 つ きで書 か き込 こ むものとする。ここで劉 りゅう 知 とも 幾 いく は「本紀 ほんぎ 」を『春秋 しゅんじゅう 』の経文 きょうもん になぞらえ、天子 てんし の系統 けいとう を明 あき らかにするためのものであるとする。次 つぎ に「列伝 れつでん 」は、同 おな じグループで行動 こうどう した人 ひと や同様 どうよう の事跡 じせき を残 のこ した人 ひと はまとめて一 ひと つの伝 つて に記録 きろく し、人物 じんぶつ の比較 ひかく を容易 ようい に行 おこな えるようにする。劉 りゅう 知 とも 幾 いく は「列伝 れつでん 」を『春秋 しゅんじゅう 』の伝 つて 文 ぶん (左 ひだり 氏 し 伝 でん )になぞらえ、「列伝 れつでん 」の見出 みだ し・目録 もくろく としての「本紀 ほんぎ 」という位置 いち づけを設定 せってい した。
「志 こころざし 」については、劉 りゅう 知 とも 幾 いく は都邑 とゆう 志 こころざし ・氏族 しぞく 志 こころざし ・方 ぽう 物 ぶつ 志 こころざし を新設 しんせつ し、逆 ぎゃく に天文 てんもん 志 こころざし を外 はず すべきと唱 とな えた。例 たと えば氏族 しぞく 志 こころざし は、帝王 ていおう ・公 おおやけ 侯 こう の氏族 しぞく を明 あき らかにし、その系統 けいとう を記録 きろく するために必要 ひつよう であるとしたが、天文 てんもん 志 こころざし は「人事 じんじ 」を記載 きさい するべき国史 こくし において、天文 てんもん 現象 げんしょう は記載 きさい するべきではないため不要 ふよう であるとした。同時 どうじ に、人事 じんじ と自然 しぜん 災害 さいがい をいたずらに関連 かんれん させて記載 きさい することを批判 ひはん し、災 わざわい 異説 いせつ を批判 ひはん する立場 たちば を示 しめ した。
なお、正史 せいし の始祖 しそ である司馬 しば 遷 の『史記 しき 』には「世 よ 家 か 」が設 もう けられ、諸侯 しょこう の歴史 れきし が描 えが かれているが、劉 りゅう 知 とも 幾 いく は漢 かん や唐 とう といった統一 とういつ 王朝 おうちょう においては諸侯 しょこう は存在 そんざい しないから、現在 げんざい の正史 せいし には「世 よ 家 か 」は不要 ふよう であるとした。
劉 りゅう 知 とも 幾 いく は、正史 せいし について論 ろん じつくした後 のち の「雑 ざつ 述 じゅつ 」篇 へん において、正史 せいし を執筆 しっぴつ する際 さい の材料 ざいりょう として用 もち いることのできる史料 しりょう を十 じゅう 種類 しゅるい に分 わ け、それぞれの長所 ちょうしょ ・短所 たんしょ を以下 いか のように論 ろん じている。
偏 へん 記 き - 一 ひと つの政権 せいけん についての記録 きろく 。陸 りく 賈 『楚 すわえ 漢 かん 春秋 しゅんじゅう 』など。
小 しょう 録 ろく - 人物 じんぶつ のついての短 みじか い記録 きろく 。戴逵 『竹林 ちくりん 名士 めいし 』など。
以上 いじょう の二 ふた つは即日 そくじつ 当時 とうじ の記録 きろく であり、実録 じつろく として価値 かち の高 たか いものである。しかし言葉 ことば 遣 づか いが素朴 そぼく なものが多 おお いうえに、内容 ないよう も完備 かんび しておらず、そのまま歴史 れきし 書 しょ の記述 きじゅつ として用 もち いて後世 こうせい に伝 つた えることはできない。
逸事 いつじ - 前史 ぜんし の遺漏 いろう したところを後人 こうじん が集 あつ めた書籍 しょせき 。葛 かずら 洪 ひろし 『西京 にしぎょう 雑記 ざっき 』など。
異説 いせつ を求 もと める際 さい に有益 ゆうえき であるが、編纂 へんさん 者 しゃ によっては真偽 しんぎ を確 たし かめないままに伝聞 でんぶん を載 の せており、真偽 しんぎ が入 はい り混 ま じっている。場合 ばあい によっては、人 ひと を驚 おどろ かせるために作 つく られた全 まった くの虚構 きょこう が書 か かれている。
瑣言 - 市井 しせい で流行 りゅうこう していた逸話 いつわ を記録 きろく したもの。『世 よ 説 せつ 新語 しんご 』など。
当時 とうじ の権力 けんりょく 者 しゃ を話題 わだい に載 の せている点 てん では有益 ゆうえき だが、悪意 あくい が込 こ められた話 はなし や卑俗 ひぞく な話 はなし も多 おお く、名 めい 教 きょう を傷 きず つけるものもある。
郡 ぐん 書 しょ - 郷土 きょうど 学者 がくしゃ による地方 ちほう の列伝 れつでん 。周 しゅう 斐 『汝 なんじ 南 みなみ 先賢 せんけん 伝 でん 』など。
詳細 しょうさい ・該博 がいはく なものもあるが、多 おお くは郷土 きょうど の人々 ひとびと によって過度 かど に美化 びか されており、本当 ほんとう に世 よ に伝 つた えるべき人 ひと は少 すく ない。
家 いえ 史 し - 一家 いっか の伝記 でんき 。揚 あげ 雄 ゆう 『家 いえ 牒』など。
一族 いちぞく の中 なか で伝 つた えられるのはよいが、国史 こくし に載 の せるのは難 むずか しい。
別伝 べつでん - 賢 けん 士 し ・貞女 ていじょ を分類 ぶんるい して集 あつ めた書 しょ 。劉 りゅう 向 むかい 『列 れつ 女 おんな 伝 でん 』など。
前史 ぜんし から採録 さいろく したものがほとんどだが、稀 まれ に異説 いせつ を含 ふく むものがある。
雑記 ざっき - 怪物 かいぶつ ・異聞 いぶん を求 もと めて集 あつ めた書 しょ 。干 ひ 宝 たから 『捜 さがせ 神 かみ 記 き 』など。
神仙 しんせん の道 みち を論 ろん じる場合 ばあい には、養生 ようじょう 術 じゅつ や勧善懲悪 かんぜんちょうあく を説 と いており有益 ゆうえき である。しかし、怪異 かいい や妖邪を好 この んでを集 あつ めたものは見 み るべきものがない。
地理 ちり 書 しょ - 地方 ちほう の土地 とち ・山川 やまかわ ・風俗 ふうぞく ・物産 ぶっさん を記 しる した書 しょ 。常 つね 璩 『華陽 かよう 国 こく 志 こころざし 』など。
良質 りょうしつ なものは記述 きじゅつ に偏 かたよ りがなく、その文章 ぶんしょう も高雅 こうが である。しかしそれ以外 いがい のものは、自分 じぶん の住 す む場所 ばしょ を過度 かど に持 も ち上 あ げる点 てん や、城跡 じょうせき ・山水 さんすい の命名 めいめい の由来 ゆらい を根拠 こんきょ なき故実 こじつ に求 もと める点 てん に短所 たんしょ がある。
都邑 とゆう 簿 ぼ - 制度 せいど の記録 きろく 。潘 はん 岳 たけし 『関 せき 中 あたる 』など。
宮廷 きゅうてい や宗廟 そうびょう 、都市 とし の規模 きぼ を明 あき らかにするものはよいが、何 なん でも詳 くわ しく書 か きすぎて煩雑 はんざつ に過 す ぎるものもある。
なお、以上 いじょう の十 じゅう 種 しゅ のほかに、史書 ししょ の材料 ざいりょう として用 もち いられるものに起居 ききょ 注 ちゅう (皇帝 こうてい の言行 げんこう 記録 きろく )・職 しょく 官 かん 書 しょ ・簿 ぼ 籍 せき (政府 せいふ 官庁 かんちょう の制度 せいど の記録 きろく )などがあるが、上 うえ の分類 ぶんるい には組 く み込 こ まれていない。古 こ 勝 かち (2010 , pp. 231–232)は、起居 ききょ 注 ちゅう は門下 もんか 省 しょう 、職 しょく 官 かん は吏部 、簿 ぼ 籍 せき は秘書 ひしょ 省 しょう といったように整理 せいり を担当 たんとう する部署 ぶしょ が異 こと なっており、上 うえ の十 じゅう 種 しゅ は劉 りゅう 知 とも 幾 いく が実際 じっさい に史官 しかん として史 ふみ 館 かん で務 つと める際 さい に整理 せいり の必要 ひつよう があった史書 ししょ の範囲 はんい を反映 はんえい しているとする。
また、以上 いじょう の十 じゅう 種 しゅ の史料 しりょう の特徴 とくちょう を踏 ふ まえた上 うえ で、どのように史料 しりょう を選択 せんたく するべきかということは「採 と 撰 せん 」篇 へん に書 か かれている。
内山 うちやま (1971 , p. 56)は、劉 りゅう 知 とも 幾 いく の歴史 れきし 批判 ひはん には客観 きゃっかん 的 てき ・合理 ごうり 的 てき に事実 じじつ を判定 はんてい しようとする態度 たいど が窺 うかが えるとし、稲葉 いなば (2006 , p. 299)も同様 どうよう に劉 りゅう 知 とも 幾 いく が歴史 れきし 記録 きろく に対 たい して合理 ごうり 性 せい 追求 ついきゅう の立場 たちば から厳密 げんみつ な吟味 ぎんみ を加 くわ えていたことを強調 きょうちょう している。以下 いか 、こうした劉 りゅう 知 とも 幾 いく の批判 ひはん 精神 せいしん について述 の べる。
劉 りゅう 知 とも 幾 いく が「疑 うたぐ 古 いにしえ 」「惑経」篇 へん で儒教 じゅきょう 的 てき な禅譲 ぜんじょう 説 せつ といった経書 けいしょ の記事 きじ に対 たい して批判 ひはん を行 おこな っていることは古 ふる くから注目 ちゅうもく されている。たとえば、劉 りゅう 知 とも 幾 いく は西 にし 晋 すすむ の頃 ころ に発見 はっけん された出土 しゅつど 文献 ぶんけん である汲冢書 しょ を根拠 こんきょ に、堯 と舜 しゅん や桀 と湯 ゆ の禅譲 ぜんじょう は疑 うたが わしく、実際 じっさい には奪 だつ 位 い だったのではないかと指摘 してき している。ここで劉 りゅう 知 とも 幾 いく は、経書 けいしょ とそれ以外 いがい の史料 しりょう を同等 どうとう に扱 あつか い、合理 ごうり 的 てき 判断 はんだん から結論 けつろん を導 みちび いていると言 い える。また、劉 りゅう 知 とも 幾 いく は自身 じしん が尊 たっと んでいる『春秋 しゅんじゅう 』に対 たい しても、その内容 ないよう が事実 じじつ と合 あ わないものがある点 てん や、毀誉 きよ 褒貶 ほうへん に誤 あやま りがある点 てん などを指摘 してき している。
稲葉 いなば (2006 , pp. 361–365)は、こうした劉 りゅう 知 とも 幾 いく の経書 けいしょ 批判 ひはん は、『五経 ごきょう 正義 まさよし 』を中心 ちゅうしん とする従来 じゅうらい の経学 けいがく に対 たい して批判 ひはん を加 くわ えた王 おう 元 はじめ 感 かん に影響 えいきょう を受 う けるとともに、中 ちゅう 唐 とう 以後 いご の啖助 (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) ・趙 ちょう 匡 ただし ・陸 りく 淳 あつし (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) による新 あら たな春秋 しゅんじゅう 学 がく の勃興 ぼっこう 、そして宋 そう 学 まなぶ の展開 てんかい へと接続 せつぞく してゆくと述 の べている。但 ただ し、劉 りゅう 知 とも 幾 いく の経書 けいしょ 批判 ひはん は、従来 じゅうらい 絶対 ぜったい 的 てき な価値 かち を与 あた えられてきた経書 けいしょ を相対 そうたい 化 か する方向 ほうこう を持 も ち合 あ わせつつも、最終 さいしゅう 的 てき な目標 もくひょう はあくまで自身 じしん の述 の べた経書 けいしょ 批判 ひはん に耐 た えうるようなより高次 こうじ の経書 けいしょ 解釈 かいしゃく を行 おこな うことであって、経書 けいしょ の価値 かち の否定 ひてい にあったわけではないことも指摘 してき している。
劉 りゅう 知 とも 幾 いく は、歴史 れきし 書 しょ を編纂 へんさん する際 さい の全体 ぜんたい の方針 ほうしん として、史 ふみ 館 かん に送 おく られてくる文書 ぶんしょ ・史料 しりょう ・記録 きろく について史官 しかん は以下 いか の観点 かんてん からその内容 ないよう を吟味 ぎんみ するべきであると述 の べている(鑑識 かんしき 篇 へん )。
文書 ぶんしょ ・記録 きろく は執筆 しっぴつ 者 しゃ の学識 がくしき や精神 せいしん 状態 じょうたい によって左右 さゆう されるものであり、中庸 ちゅうよう を得 え た記述 きじゅつ は稀 まれ である。史官 しかん は様々 さまざま な史料 しりょう を見 み て、そこから事実 じじつ を探 さが し出 だ す必要 ひつよう がある。
史料 しりょう には執筆 しっぴつ 者 しゃ による故意 こい の歪曲 わいきょく (曲筆 きょくひつ )が加 くわ えられ、悪意 あくい や恣意 しい 的 てき な推測 すいそく がある場合 ばあい もある。
そこで劉 りゅう 知 とも 幾 いく は、史料 しりょう の記録 きろく 性 せい をその執筆 しっぴつ 者 しゃ ・伝承 でんしょう 者 しゃ によって差 さ を設 もう けて理解 りかい し、信頼 しんらい できる記録 きろく 者 しゃ の直接 ちょくせつ の記録 きろく を第 だい 一 いち に重視 じゅうし する。そのため、劉 りゅう 知 とも 幾 いく は公式 こうしき 機関 きかん によって記録 きろく された史料 しりょう を最 もっと も重視 じゅうし するが、そうした史料 しりょう がない場合 ばあい は、民間 みんかん の史料 しりょう を個々 ここ の史料 しりょう の性格 せいかく を見抜 みぬ きながら用 もち いる。例 たと えば、地方 ちほう の歴史 れきし 書 しょ においては郷土 きょうど の人物 じんぶつ が過大 かだい 評価 ひょうか される傾向 けいこう にあること、また民間 みんかん で流布 るふ する伝説 でんせつ に虚偽 きょぎ が多 おお いことなどを述 の べ、その虚偽 きょぎ は複数 ふくすう の史料 しりょう の間 あいだ での齟齬 そご を見出 みいだ すことで見抜 みぬ くことができるという。
中国 ちゅうごく の多 おお くの歴史 れきし 書 しょ では、例 たと えば三 さん 国 こく 時代 じだい において呉 ご や蜀 しょく の君主 くんしゅ の帝 みかど 号 ごう を取 と り払 はら うなど、正統 せいとう を継 つ いだ王朝 おうちょう を一 ひと つに定 さだ めている。一方 いっぽう 、劉 りゅう 知 とも 幾 いく は統一 とういつ 王朝 おうちょう である唐 から 朝 あさ の史官 しかん であり、どの王朝 おうちょう を正統 せいとう とみなすかという正閏 せいじゅん 論 ろん に拘泥 こうでい する必要 ひつよう はそれほどなかった。よって、劉 りゅう 知 とも 幾 いく は存在 そんざい した政権 せいけん をありのままに記述 きじゅつ することを重視 じゅうし し、三 さん 国 こく や南北 なんぼく 朝 あさ の王朝 おうちょう のうちいずれかを正統 せいとう として扱 あつか うことはない。
これと同時 どうじ に、劉 りゅう 知 とも 幾 いく は王朝 おうちょう の興亡 こうぼう と天命 てんめい を結 むす びつける天人 てんにん 相関 そうかん の考 かんが え方 かた を批判 ひはん した。例 たと えば、かつて司馬 しば 遷は、信 しん 陵 りょう 君 くん を追放 ついほう したために魏 たかし は秦 はた に滅 ほろ ぼされたという意見 いけん に対 たい し、魏 ぎ は天命 てんめい を得 え なかったのだから賢人 けんじん の補佐 ほさ を得 え たところで結局 けっきょく 滅 ほろ ぼされただろうと述 の べている。これに対 たい して劉 りゅう 知 とも 幾 いく は、国 くに の興亡 こうぼう は天命 てんめい ではなく人事 じんじ にかかるものであり、そしてその人事 じんじ を記録 きろく するのが歴史 れきし 叙述 じょじゅつ であると考 かんが え、司馬 しば 遷説を批判 ひはん した。
初期 しょき の『史 し 通 どおり 』の受容 じゅよう 例 れい としては、唐 とう 代 だい の杜 もり 佑 たすく 『通 つう 典 てん 』に『史 し 通 どおり 』を引用 いんよう したと思 おぼ しき箇所 かしょ があることが挙 あ げられる。宋 そう 代 だい に入 はい ると、劉 りゅう 知 とも 幾 いく の「史 ふみ 才 ざい 三 さん 長 ちょう 説 せつ 」と「五 ご 不可 ふか 論 ろん 」は広 ひろ く人口 じんこう に膾炙 かいしゃ しており、北 きた 宋 そう の韋驤の「詠 えい 唐詩 とうし 」、劉 りゅう 弇の策 さく 問 とえ 、陸 りく 游 ゆう 「史 し 院 いん 諸事 しょじ 」、王 おう 珌による史官 しかん の辞退 じたい 文 ぶん などに用 もち いられている。また、『史 し 通 どおり 』の記述 きじゅつ を考証 こうしょう に用 もち いた例 れい として、南 みなみ 宋 そう の王 おう 応 おう 麟 『困 こま 学 がく 紀 き 聞 』が挙 あ げられる。
『史 し 通 どおり 』が実際 じっさい の歴史 れきし 書 しょ の編纂 へんさん に影響 えいきょう を与 あた えた例 れい としては、清朝 せいちょう 考証 こうしょう 学者 がくしゃ の銭 ぜに 大 だい 昕 が指摘 してき する『新 しん 唐 とう 書 しょ 』の例 れい があり、『新 しん 唐 とう 書 しょ 』では『史 し 通 どおり 』書志 しょし 篇 へん ・邑里篇 へん ・論賛 ろんさん 篇 へん における劉 りゅう 知 とも 幾 いく の主張 しゅちょう が取 と り入 い れられている。また、南 みなみ 宋 そう の鄭 てい 樵 きこり 『通 つう 志 こころざし 』は、断 だん 代 だい 史 し である『漢書 かんしょ 』を尊重 そんちょう する劉 りゅう 知 とも 幾 いく を批判 ひはん しながらも、『通 つう 志 こころざし 』二 に 十 じゅう 略 りゃく の部門 ぶもん に「氏族 しぞく 」「都邑 とゆう 」「昆虫 こんちゅう 草木 くさき 」の三 さん 略 りゃく を立 た てており、これは『史 し 通 どおり 』書志 しょし 篇 へん の議論 ぎろん を参考 さんこう にしている。福島 ふくしま (1995 , p. 30)は、『史 し 通 どおり 』と『資 し 治 ち 通 どおり 鑑 かん 』の共通 きょうつう 点 てん を指摘 してき し、司馬 しば 光 ひかり が『史 し 通 どおり 』を参考 さんこう にした可能 かのう 性 せい が高 たか いことを指摘 してき している。
明代 あきよ に入 はい ると、陸 りく 深 ふかし 『史 し 通 どおり 会 かい 要 よう 』といった『史 し 通 どおり 』そのものに対 たい する研究 けんきゅう 書 しょ が登場 とうじょう した。なお、現在 げんざい 確認 かくにん できる『史 し 通 どおり 』の最古 さいこ の版本 はんぽん は、陸 りく 深 ふかし が「蜀 しょく 本 ほん 史 し 通 どおり 」を校訂 こうてい して重刻 じゅうこく 出版 しゅっぱん したものである。明代 あきよ には、他 ほか にも李 り 維禎・郭 かく 孔 あな 延 のべ 『史 し 通 どおり 評釈 ひょうしゃく 』や王 おう 惟 おもんみ 儉(中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) 『史 し 通 どおり 訓 くん 故 ゆえ 』などが作 つく られた。
清 しん 代 だい に入 はい ると、黄 き 叔琳(中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) 『史 し 通 どおり 訓 くん 故 こ 補 ほ 』や浦 うら 起 おこり 龍 りゅう (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) 『史 し 通 どおり 通 どおり 釈 しゃく 』、紀 きの 昀 『史 し 通 どおり 削 そぎ 繁 しげる 』などが作 つく られた。このうち、特 とく に浦 うら 起 おこり 龍 りゅう 『史 し 通 どおり 通 どおり 釈 しゃく 』(1752年 ねん )によって『史 し 通 どおり 』が広 ひろ く読 よ まれるようになった。ほか、章 あきら 学 がく 誠 まこと 『文 ぶん 史 し 通義 みちよし 』の「読史 どくし 通 どおり 」は『史 し 通 どおり 』に対 たい する専 せん 論 ろん であり、章 あきら 学 がく 誠 まこと が『史 し 通 どおり 』に大 おお きな影響 えいきょう を受 う けていることが指摘 してき されている。以上 いじょう の注釈 ちゅうしゃく の中 なか では、浦 うら 起 おこり 龍 りゅう 『史 し 通 どおり 通 どおり 釋 しゃく 』が最 もっと も広 ひろ く普及 ふきゅう し、多 おお くはこれに拠 よ って読 よ まれてきたが、その解釈 かいしゃく には妥当 だとう ではない部分 ぶぶん があることが内藤 ないとう 戊 つちのえ 申 さる によって指摘 してき されている。
劉 りゅう 知 とも 幾 いく の友人 ゆうじん で同 おな じく史官 しかん を務 つと めていた徐 じょ 堅 けん は、本書 ほんしょ を高 たか く評価 ひょうか して、史 ふみ 職 しょく にあるものが座右 ざゆう に置 お くべき書 しょ であると称 しょう した。一方 いっぽう 。劉 りゅう 知 とも 幾 いく が古来 こらい 名声 めいせい のあった『史記 しき 』『漢書 かんしょ 』だけでなく、儒教 じゅきょう の経典 きょうてん である経書 けいしょ に対 たい してさえも懐疑 かいぎ を投 な げかけたことから、劉 りゅう 知 とも 幾 いく は「古人 こじん を非難 ひなん する」者 しゃ として指弾 しだん を受 う けることもあった。たとえば、唐 とう 末 まつ の柳 やなぎ 璨(中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) は『史 し 通 どおり 析疑』を著 あらわ し劉 りゅう 知 とも 幾 いく の経書 けいしょ 批判 ひはん の不当 ふとう さを指摘 してき し、同 どう 時代 じだい の蘇 そ 鶚 みさご (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) も『史 し 通 どおり 』疑 うたぐ 古 こ 篇 へん で禅譲 ぜんじょう を否定 ひてい したことを非難 ひなん している。
宋 そう 初 はつ に史官 しかん を務 つと めた孫 まご 何 なに も、同 おな じく『史 し 通 どおり 』が聖賢 せいけん 非難 ひなん ・経書 けいしょ 批判 ひはん を行 おこな うことに反駁 はんばく する。但 ただ し、孫 まご 何 なに は『史 し 通 どおり 』の功績 こうせき を認 みと めた上 うえ で批判 ひはん を展開 てんかい しており、また彼 かれ 自身 じしん 少 すく なからぬ読者 どくしゃ を想定 そうてい して書物 しょもつ を著 あらわ したのであり、『史 し 通 どおり 』が史官 しかん に身 み を置 お く人物 じんぶつ には広 ひろ く読 よ まれていたことも分 わ かる。実際 じっさい 、彼 かれ と同 どう 時期 じき の王 おう 禹偁 の「上 うえ 史 し 館 かん 呂 りょ 相 しょう 公 おおやけ 書 しょ 」(『小 しょう 畜集』所収 しょしゅう )は、劉 りゅう 知 とも 幾 いく の「史 ふみ 才 ざい 三 さん 長 ちょう 説 せつ 」を利用 りよう しながら史官 しかん の採用 さいよう 方法 ほうほう を論 ろん じたものであり、その影響 えいきょう のほどが窺 うかが える。また、詩人 しじん として著名 ちょめい な黄庭堅 おうていけん は『神 かみ 宗 はじめ 実録 じつろく 』編纂 へんさん に参与 さんよ するなど史学 しがく にも明 あか るく、『文 ぶん 心 こころ 雕龍 』と『史 し 通 どおり 』を必読 ひつどく の書 しょ として進 すす めている。
清 しん 代 だい の学者 がくしゃ である章 あきら 学 がく 誠 まこと は、自身 じしん の史学 しがく と劉 りゅう 知 とも 幾 いく の史学 しがく を比較 ひかく し以下 いか のように述 の べた。
劉 りゅう 知 とも 幾 いく は史 し の法 ほう を言 い い、私 わたし (章 あきら 学 がく 誠 まこと )は史 し の意 い を言 い う。劉 りゅう 氏 し は館 かん 局 きょく (史 し 館 かん )の纂修を議論 ぎろん し、私 わたし は一家 いっか の著述 ちょじゅつ を議論 ぎろん する。 — 章 しょう 学 がく 誠 まこと 、『文 ぶん 史 し 通義 みちよし 』家 いえ 書 しょ 二 に
ここに述 の べられている通 とお り、『史 し 通 どおり 』の内容 ないよう は、「歴史 れきし とは何 なに か」という歴史 れきし 哲学 てつがく 的 てき 関心 かんしん よりも、「歴史 れきし 書 しょ はいかにあるべきか」「歴史 れきし 書 しょ はいかに書 か くべきか」という実際 じっさい 的 てき な方法 ほうほう 論 ろん ・技術 ぎじゅつ 論 ろん に傾 かたむ いている側面 そくめん がある。そして章 あきら 学 がく 誠 まこと は、『史 し 通 どおり 』の長所 ちょうしょ と短所 たんしょ を理解 りかい しながら、新 あら たに独自 どくじ の史学 しがく 体系 たいけい を打 う ち立 た てた。
経書 けいしょ 批判 ひはん が見 み られたことから消極 しょうきょく 的 てき な評価 ひょうか を与 あた えられることが多 おお かった『史 し 通 どおり 』も、民 みん 国 こく 時代 じだい に「疑 うたぐ 古 ふる 」の風潮 ふうちょう が高 たか まったことで、再 さい 評価 ひょうか されるようになった。例 たと えば、清末 きよすえ 民 みん 初 はつ の梁 りょう 啓 あきら 超 ちょう は、『中国 ちゅうごく 歴史 れきし 研究 けんきゅう 法 ほう 』で以下 いか のように述 の べている。
このように、『史 し 通 どおり 』は史学 しがく 評論 ひょうろん という理論 りろん ・方法 ほうほう をもとに、中国 ちゅうごく における史学 しがく の確立 かくりつ に重大 じゅうだい な役割 やくわり を果 は たした本 ほん であるという評価 ひょうか を与 あた えられており、20世紀 せいき 初頭 しょとう 以来 いらい 、章 あきら 学 がく 誠 まこと 『文 ぶん 史 し 通義 みちよし 』とともに中国 ちゅうごく 史学 しがく 研究 けんきゅう において大 おお きな注目 ちゅうもく を受 う けている。
初期 しょき の研究 けんきゅう としては、田中 たなか 萃一郎 すいいちろう や内藤 ないとう 湖南 こなん によるものが挙 あ げられる。同 どう 時期 じき には、劉 りゅう 虎 とら 如や曹聚仁 じん によって全文 ぜんぶん の注釈 ちゅうしゃく が作 つく られたほか、呂 りょ 思 おもえ 勉 つとむ や程 ほど 千帆 ちほ 、洪 ひろし 業 ぎょう らによって部分 ぶぶん 的 てき な注釈 ちゅうしゃく も作 つく られた。1950年代 ねんだい になって、『史 し 通 どおり 』の版本 はんぽん ・伝来 でんらい の研究 けんきゅう が増井 ますい 経夫 つねお や傅 でん 振 ふ 倫 りん によって行 おこな われた。1980年代 ねんだい 以降 いこう 、張 ちょう 振 ふ 珮や銭 ぜに 安 やす 琪・侯 ほう 昌吉 しょうきち などによって注釈 ちゅうしゃく ・翻訳 ほんやく が作 つく られたほか、日本 にっぽん では、増井 ますい 経夫 つねお ・西脇 にしわき 常 つね 記 き による全文 ぜんぶん 訳 やく 、川勝 かわかつ 義雄 よしお による「自序 じじょ 」「弁 べん 職 しょく 」篇 へん の翻訳 ほんやく が作 つく られた。劉 りゅう 知 とも 幾 いく の思想 しそう や『史 し 通 どおり 』の受容 じゅよう 史 し については、特 とく に劉 りゅう 知 とも 幾 いく ・鄭 てい 樵 きこり ・章 あきら 学 がく 誠 まこと の三 さん 者 しゃ の史学 しがく の比較 ひかく 研究 けんきゅう が盛 さか んであり、1920年代 ねんだい から現在 げんざい に至 いた るまで非常 ひじょう に多 おお くの研究 けんきゅう の蓄積 ちくせき がある。
^ その実例 じつれい は「雑 ざつ 説 せつ 」篇 へん の上 うえ ・中 なか ・下 した や「暗 くら 惑」篇 へん に挙 あ げられている。
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研 けん 文 ぶん 出版 しゅっぱん 1981年 ねん 、再版 さいはん 1985年 ねん
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傅 でん 振 ふ 倫 りん 『劉 りゅう 知 とも 幾 いく 年譜 ねんぷ 』商務 しょうむ 印 しるし 書 しょ 館 かん 、1934年 ねん 。 NCID BN13327279 。
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増井 ますい 経夫 つねお 「明代 あきよ 史 し 通学 つうがく 」『東方 とうほう 学 がく 』第 だい 15巻 かん 、東方 とうほう 学会 がっかい 、1958年 ねん 。
増井 ますい 経夫 つねお 「清 きよし 代 だい 史 し 通学 つうがく 」『東方 とうほう 学 がく 論集 ろんしゅう 』、東方 とうほう 学会 がっかい 、1962年 ねん 。
林 はやし 時 じ 民 みん 『劉 りゅう 知 とも 幾 いく 史 し 通 どおり 之 の 研究 けんきゅう 』文 ぶん 史 し 哲 あきら 出版 しゅっぱん 社 しゃ 、1987年 ねん 。 NCID BA59099669 。