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陸賈 - Wikipedia

りく(りく か、拼音:Lù Jiǎ、なま没年ぼつねんしょう)は、紀元前きげんぜん2世紀せいき中国ちゅうごく前漢ぜんかん時代じだい活躍かつやくした政治せいじ外交がいこうかんである。すわえひと南越なんごしへの使者ししゃとなり、かんへの臣従しんじゅう約束やくそくさせた。ふとなか大夫たいふ著書ちょしょに『新語しんご』12へん・2かん、『すわえかん春秋しゅんじゅう』9へんがあった。

りく
前漢ぜんかん
ふとなか大夫たいふ
出生しゅっしょう しょう
すわえ
死去しきょ しょう
拼音 Lù Jiǎ
主君しゅくん かん高祖こうそめぐみみかどりょきさきぶんみかど
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生涯しょうがい

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使者ししゃとして活躍かつやく

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りく賈の事績じせきは『史記しき』とそれをほぼ踏襲とうしゅうした『漢書かんしょ』をつうじてられる。すわえかん戦争せんそうのとききゃくとして劉邦りゅうほう陣営じんえいにあり、弁舌べんぜつられ、しばしば諸侯しょこうへの使者ししゃになった[1]。なおりく賈のなま没年ぼつねん史書ししょあきらかでないが、しんだいまれすわえかん戦争せんそうころじゅうだいになっていたとすると、生年せいねん紀元前きげんぜん235ねんはたはじめすめらぎ12ねん)からとおくないとされる[2]

はたせい皇帝こうてい2ねん紀元前きげんぜん207ねん)9がつあらたにったはたおうした𡸳せき[3]まもしょうを、酈食其とともに説得せっとくし、降伏ごうぶく受諾じゅだくさせた。もっとも、劉邦りゅうほうはこの降伏ごうぶくしんじず、迂回うかい攻撃こうげきしてしんぐん大敗たいはいさせた[4]

また、かんの4ねん紀元前きげんぜん202ねん)、項羽こうう項羽こうう)と劉邦りゅうほうこうというやま対戦たいせんちゅうに、項羽こううへの使者ししゃとなり、とりことなっていた劉邦りゅうほうちちつまわたしてもらうよういた[5]。しかしこのとき失敗しっぱいし、つづいて使者ししゃったほうこう和睦わぼくちちつまわたしに成功せいこうした[6]

かんの11ねん紀元前きげんぜん196ねん)に、南越なんごしおうじょうちょう)につかわされた[7]無礼ぶれい態度たいどをとったじょうたいし、おうにんじるしるしたずさえてきたことと、敵対てきたいすればかんほろぼされることをりく賈はげ、かんしたがうよういた。じょう態度たいどあらためてあやまった。じょうりく賈とはなしてり、せんにんになるいちふくろ真珠しんじゅと、またべつ千金せんきんおくった。りく賈はじょう南越なんごしおう任命にんめいし、かんへの臣従しんじゅう約束やくそくさせた[8]劉邦りゅうほうよろこんでりく賈をふとなか大夫たいふにした[9]

馬上もうえ天下てんかるも

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劉邦りゅうほう項羽こううやぶって天下てんか統一とういつしたのちりく賈は儒教じゅきょう教典きょうてんである『詩経しきょう』や『しょけい』をさかんに引用いんようし、となえた。劉邦りゅうほうが「おれは馬上まけ天下てんかったのだ。詩書ししょにかまっておられるか」とののしった。りく賈は「馬上まけ天下てんかっても、馬上まけ天下てんかおさめられましょうか」とった。さらに、くれおうおっとすすむさとしはくさとしよう)はたよったためにほろび、反逆はんぎゃく天下てんかいんしゅうおこしたおうたけおうれいからも文武ぶんぶなみよう長久ちょうきゅうみちであるといた。さらに「もしもはた天下てんか統一とういつしたあと、仁義じんぎのっと古代こだい聖王せいおう見習みならっていたら、陛下へいか天下てんかをおりになれたでしょうか」とった。劉邦りゅうほう不快ふかいになったが、りく賈のいいぶんただしさをみとめた[9]劉邦りゅうほうは、はた天下てんかうしない、自分じぶん天下てんかたわけ、また諸国しょこく成功せいこう失敗しっぱいについていてくれとりく賈にたのんだ。りく賈はくに存亡そんぼうかした12へんしょあらわし、1へんができるごとに奏上そうじょうした。劉邦りゅうほうはそのたびにほめ、左右さゆうものが「万歳ばんざい」とった。これが『新語しんご』である[10]

りょきさきけ、りょ討滅を工作こうさく

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高祖こうそ劉邦りゅうほう)ののち紀元前きげんぜん195ねんめぐみみかど即位そくいすると、高祖こうそきさきめぐみみかどははりょきさきりょ)の権力けんりょくおおきくなった。そのころりく賈がしたしくしていたしゅけんははんだ。まずしいしゅけんはは葬儀そうぎ費用ひよう難渋なんじゅうした。それをったりく賈は、りょきさきのおりで羽振はぶりがよかったしんしょくいえおとずれ、しゅけんのために手厚てあつくするよう助言じょげんした[11]しんしょく其がかつてしゅけんとの交際こうさいもとめ、ことわられていたことをっていたからである。しんしょく其はしゅけんははのためにひゃくきんほうじ、立派りっぱ葬儀そうぎせるようにした[12]

そのりょきさき専横せんおうはじまるとやまいしょうして引退いんたいし、長安ながやすから北西ほくせいすうじゅうキロはなれたこう居宅きょたくをかまえた[13]南越なんごしおうからおくられた真珠しんじゅり、代金だいきんを5にん息子むすこあた独立どくりつさせた。息子むすこたちには、従者じゅうしゃれてとしに2、3おとずれるから、そのとき10日間にちかんもてなすようにと約束やくそくさせた。だれかのいえんだら、そのいえおもであるに、りく賈がつねにつけている宝剣ほうけん車馬しゃば従者じゅうしゃあたえる、というめである[14]

みぎ丞相じょうしょう陳平ちんぺいいえたずね、かんがんでいた陳平ちんぺいなやごとが、りょ一族いちぞく幼主ようしゅのことだ、といいあててみせた。そして、りく賈がしたしくしているふとしじょうしゅう結束けっそくかためるべきだと助言じょげんし、たがいをまねいて親交しんこうふかめるようにした[15]陳平ちんぺいりく賈に奴婢ぬひ100にん車馬しゃば50じょうぜに500まんおくり、朝廷ちょうてい公卿くぎょう交際こうさいさせた。りょぶんみかど擁立ようりつするクーデター(りょらん)の準備じゅんびには、りく賈のちからおおきかった[16]

ふたた南越なんごしへの使者ししゃ

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以前いぜんりく賈が説得せっとくした南越なんごしおうちょう佗は、りょきさき時代じだいかんはんして皇帝こうていしょうした[17]ぶんみかど即位そくい元年がんねん紀元前きげんぜん179ねん)に南越なんごしおう使つかいをやることをめ、丞相じょうしょう陳平ちんぺい使者ししゃえらばせた[18]陳平ちんぺいまえ成功せいこうしたりく賈をした。ぶんみかどりく賈をまたふとなか大夫たいふ任命にんめいし、南越なんごしかせた[19]りく賈が到着とうちゃくすると、ちょう謝罪しゃざい書状しょじょうおくり、皇帝こうていのようにうことをめると約束やくそくした[20]

天寿てんじゅをまっとうしてくなった[21]

著書ちょしょ

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著作ちょさくとして『新語しんご』と『すわえかん春秋しゅんじゅう』があった。『すわえかん春秋しゅんじゅう』については、『漢書かんしょ』がりく賈の著作ちょさくとしてしる[22]司馬しばが『史記しき』をくときに参照さんしょうしたことをつたえる[23]。『漢書かんしょ』の目録もくろくでは『すわえかん春秋しゅんじゅう』が春秋しゅんじゅう歴史れきししょ)、りく賈23へん儒家じゅかりく賈賦3へん詩賦しふ分類ぶんるいされているが、『新語しんご』はない[24]りく賈23へんについては、このなかに『新語しんご』12へんふくまれていたというせつがある。『新語しんごぜん12へんいまつたわるが偽作ぎさくせつがある[25]3へんはまったくうしなわれた。

とうだい司馬しばさだ引用いんようするすすむだいこうちょうの『ひねとめ風俗ふうぞくでん』では春秋しゅんじゅう時代じだいりく中国語ちゅうごくごばん、おなじく『しんとうしょ宰相さいしょうけいひょうだいじゅうさんによると、ひとしせんおう年少ねんしょう公子こうし末裔まつえいとされ、『りく』と『元和がんわせい』によると、りくへりくだは、その後裔こうえいしるされているが、いずれも真偽しんぎほどしょうである。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 史記しき』酈生りく賈列でんだい37、岩波いわなみ文庫ぶんこばん史記しき列伝れつでんだい3かん110ぺーじ。『漢書かんしょ』酈陸しゅりゅう叔孫でんだい13、ちくま学芸がくげい文庫ぶんこばん漢書かんしょだい4かん403ぺーじ
  2. ^ 宮崎みやざき (1965),p.135
  3. ^ 史記しき』にたけせき、『漢書かんしょ』に𡸳せき。『史記しき』のあやまりか(新釈しんしゃく漢文かんぶん体系たいけい史記しきだい2かん530ぺーじ訳注やくちゅう
  4. ^ 史記しき高祖こうそ本紀ほんぎだい8、新釈しんしゃく漢文かんぶん体系たいけい史記しきだい2かん529ぺーじ。『漢書かんしょ高祖こうそ本紀ほんぎだい1じょう、ちくま学芸がくげい文庫ぶんこばん漢書かんしょだい1かん22ぺーじ
  5. ^ 漢書かんしょ高祖こうそ本紀ほんぎだい1じょう、ちくま学芸がくげい文庫ぶんこばん漢書かんしょだい1かん42ぺーじ
  6. ^ 史記しき項羽こうう本紀ほんぎだい7、新釈しんしゃく漢文かんぶん体系たいけい史記しきだい2かん490ぺーじ。『漢書かんしょ高祖こうそ本紀ほんぎだい1じょう、ちくま学芸がくげい文庫ぶんこばん漢書かんしょだい1かん42 - 43ぺーじ
  7. ^ 史記しき南越なんごし列伝れつでんだい53、岩波いわなみ文庫ぶんこばん史記しき列伝れつでんだい4かん119ぺーじ。『漢書かんしょ西南せいなんえびすりょう朝鮮ちょうせんでんだい65、ちくま学芸がくげい文庫ぶんこばん漢書かんしょだい8かん20ぺーじ
  8. ^ 史記しき』酈生りく賈列でんだい37、岩波いわなみ文庫ぶんこばん史記しき列伝れつでんだい3かん、110 - 113ぺーじ。『漢書かんしょ』酈陸しゅりゅう叔孫でんだい13、ちくま学芸がくげい文庫ぶんこばん漢書かんしょだい4かん403 - 405ぺーじ
  9. ^ a b 史記しき』酈生りく賈列でんだい37、岩波いわなみ文庫ぶんこばん史記しき列伝れつでんだい3かん113ぺーじ。『漢書かんしょ』酈陸しゅりゅう叔孫でんだい13、ちくま学芸がくげい文庫ぶんこばん漢書かんしょだい4かん406ぺーじ
  10. ^ 史記しき』酈生りく賈列でんだい37、岩波いわなみ文庫ぶんこばん史記しき列伝れつでんだい3かん113 - 114ぺーじ。『漢書かんしょ』酈陸しゅりゅう叔孫でんだい13、ちくま学芸がくげい文庫ぶんこばん漢書かんしょだい4かん406ぺーじ
  11. ^ 史記しき』酈生りく賈列でんだい37、岩波いわなみ文庫ぶんこばん史記しき列伝れつでんだい3かん117ぺーじ。『漢書かんしょ』酈陸しゅりゅう叔孫でんだい13、ちくま学芸がくげい文庫ぶんこばん漢書かんしょだい4かん409ぺーじ
  12. ^ 史記しき』酈生りく賈列でんだい37、岩波いわなみ文庫ぶんこばん史記しき列伝れつでんだい3かん117ぺーじ。『漢書かんしょ』酈陸しゅりゅう叔孫でんだい13、ちくま学芸がくげい文庫ぶんこばん漢書かんしょだい4かん410ぺーじ
  13. ^ 史記しき』酈陸しゅりゅう叔孫でんだい37、岩波いわなみ文庫ぶんこばん史記しき列伝れつでんだい3かん114ぺーじ。『漢書かんしょ』酈陸しゅりゅう叔孫でんだい13、ちくま学芸がくげい文庫ぶんこばん漢書かんしょだい4かん406 - 407ぺーじ
  14. ^ 史記しき』酈生りく賈列でんだい37、岩波いわなみ文庫ぶんこばん史記しき列伝れつでんだい3かん114ぺーじ。『漢書かんしょ』酈陸しゅりゅう叔孫でんだい13、ちくま学芸がくげい文庫ぶんこばん漢書かんしょだい4かん407ぺーじ
  15. ^ 史記しき』酈生りく賈列でんだい37、岩波いわなみ文庫ぶんこばん史記しき列伝れつでんだい3かん114 - 116ぺーじ。『漢書かんしょ』酈陸しゅりゅう叔孫でんだい13、ちくま学芸がくげい文庫ぶんこばん漢書かんしょだい4かん407 - 408ぺーじ
  16. ^ 史記しき』酈生りく賈列でんだい37、岩波いわなみ文庫ぶんこばん史記しき列伝れつでんだい3かん116ぺーじ。『漢書かんしょ』酈陸しゅりゅう叔孫でんだい13、ちくま学芸がくげい文庫ぶんこばん漢書かんしょだい4かん408ぺーじ
  17. ^ 史記しき南越なんごし列伝れつでんだい53、岩波いわなみ文庫ぶんこばん史記しき列伝れつでんだい4かん120ぺーじ。『漢書かんしょ西南せいなんえびすりょう朝鮮ちょうせんでんだい65、ちくま学芸がくげい文庫ぶんこばん漢書かんしょだい8かん20ぺーじ
  18. ^ 史記しき南越なんごし列伝れつでんだい53、岩波いわなみ文庫ぶんこばん史記しき列伝れつでんだい4かん120 - 121ぺーじ。『漢書かんしょ西南せいなんえびすりょう朝鮮ちょうせんでんだい65、ちくま学芸がくげい文庫ぶんこばん漢書かんしょだい8かん20 - 21ぺーじ
  19. ^ 史記しき南越なんごし列伝れつでんだい53、岩波いわなみ文庫ぶんこばん史記しき列伝れつでんだい4かん121ぺーじ。『漢書かんしょ西南せいなんえびすりょう朝鮮ちょうせんでんだい65、ちくま学芸がくげい文庫ぶんこばん漢書かんしょだい8かん21ぺーじ
  20. ^ 史記しき南越なんごし列伝れつでんだい53、岩波いわなみ文庫ぶんこばん史記しき列伝れつでんだい4かん121 - 122ぺーじ。『漢書かんしょ西南せいなんえびすりょう朝鮮ちょうせんでんだい65、ちくま学芸がくげい文庫ぶんこばん漢書かんしょだい8かん23ぺーじ謝罪しゃざいぶんは、『史記しき』と『漢書かんしょ』でことなるところがおおい。
  21. ^ 史記しき』酈生りく賈列でんだい37、岩波いわなみ文庫ぶんこばん史記しき列伝れつでんだい3かん116ぺーじ。『漢書かんしょ』酈陸しゅりゅう叔孫でんだい13、ちくま学芸がくげい文庫ぶんこばん漢書かんしょだい4かん409ぺーじ
  22. ^ 漢書かんしょ芸文げいぶんこころざしだい10、ちくま学芸がくげい文庫ぶんこばん漢書かんしょだい3かん525ぺーじ
  23. ^ 漢書かんしょ司馬しば遷伝だい32、ちくま学芸がくげい文庫ぶんこばん漢書かんしょだい5かん521ぺーじ
  24. ^ 漢書かんしょ芸文げいぶんこころざしだい10、ちくま学芸がくげい文庫ぶんこばん漢書かんしょだい3かん554ぺーじ
  25. ^ 福井ふくいしげるみやびりく賈「新語しんご」の研究けんきゅう』、だい1せつだい2せつ

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 司馬しばしる吉田よしだけんこうわけ、『史記しきだい2かん新釈しんしゃく漢文かんぶん体系たいけい)、明治めいじ書院しょいん、1973ねん
  • 司馬しば遷著、小川おがわ環樹たまきこんたかしん福島ふくしま吉彦よしひこわけ、『史記しき列伝れつでんだい3、だい4かん岩波いわなみ文庫ぶんこ)、岩波書店いわなみしょてん、1975ねん
  • はんかたしる小竹こだけ武夫たけおわけ漢書かんしょだい1、だい3、だい4、だい5、だい8かん(ちくま学芸がくげい文庫ぶんこ)、筑摩書房ちくましょぼう、1997ねんから1998ねん
  • 中央ちゅうおう研究けんきゅういん漢籍かんせき電子でんし文献ぶんけん資料しりょう」。
  • 福井ふくいしげるみやびりく賈「新語しんご」の研究けんきゅう』、汲古書院しょいん、2002ねん
  • 宮崎みやざきじょうりく賈「新語しんご」の研究けんきゅう」『京都きょうと大學だいがく文學部ぶんがくぶ研究けんきゅう紀要きようだい9かん京都きょうと大學だいがく文學部ぶんがくぶ、1965ねん3がつ20日はつか、85-136ぺーじNAID 110000056900 

りく賈を題材だいざいとした作品さくひん

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