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趙佗 - Wikipedia

ちょう(ちょう だ)は、南越なんごし初代しょだいおうはたもと官僚かんりょう[1]漢人かんど[2]

たけおう ちょう
南越なんごし
初代しょだいおう
王朝おうちょう 南越なんごし
在位ざいい期間きかん ぜん203ねん - ぜん137ねん
都城みやこのじょう ばん
せいいみな ちょう
諡号しごう たけおうたけみかど
ひらき天体てんたいどうせい武神ぶしんあきら皇帝こうていひねあさによる)
生年せいねん ぜん257ねん
没年ぼつねん ぜん137ねん
陵墓りょうぼ 南越なんごしおうはか
ちょう佗像(せいてい県南けんなん城門じょうもん
ちょう佗像(かわげん駅前えきまえ広場ひろば

生涯しょうがい

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青年せいねん

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常山つねやまぐんていけん現在げんざい河北かほくしょういししょうせいていけん)のひと。『史記しき』「南越なんごし列伝れつでん」・『漢書かんしょ』「南蛮なんばんでん」によると、別称べっしょうは「じょう」。元々もともとはた官吏かんりであったほふにん部下ぶかであった。紀元前きげんぜん221ねん始皇帝しこうてい天下てんか統一とういつげると、勅命ちょくめいほふ南海なんがいぐん現在げんざい広東かんとんしょう)のこおりまもるに、にん囂はぐんじょうに、ちょう佗は龍川りゅうがわけん県令けんれいにんじられ、とも謀反むほんこしたひゃくえつなどの南方なんぽう蛮族ばんぞく統治とうちめいじられた。かれらの任務にんむひゃくえつ鎮圧ちんあつと、北方ほっぽうかんぞく移住いじゅうさせることであった。現地げんちには原住民げんじゅうみん越人えつじんがいた。しかし、この鎮圧ちんあつちゅうほふえつじんによって殺害さつがいされたという。

もなくにん囂はやまいかかり、信頼しんらいあつ部下ぶかちょう佗を後任こうにんとして「ここははたから独立どくりつするのにてきした地域ちいきだ。くんならできるだろう」といいのこして死去しきょした。ちょう佗はにん囂の遺志いしいで、南海なんがいぐんじょう代行だいこう兼任けんにんした。早速さっそく付近ふきんうらやま・湟谿せきなどに布令ふれいして、広東かんとん周辺しゅうへん厳格げんかく法律ほうりついた。やがて、ちょう佗は朝廷ちょうていから派遣はけんされた高官こうかん不正ふせい摘発てきはつして、これを果敢かかん処刑しょけいし、自分じぶん部下ぶかにその代理だいりゆだねたという。

おうしょうする

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紀元前きげんぜん206ねんはた項羽こううこうせきほろぼされると、にん囂の遺志いしどおちょう佗は隣接りんせつするかつらりんぐんぞうぐん軍勢ぐんぜいひきいてこれを併呑へいどんした。やがて紀元前きげんぜん203ねん国号こくごうを「南越なんごし」としてみずかたけおうしょうした。紀元前きげんぜん202ねん劉邦りゅうほう項羽こううって天下てんか統一とういつ前漢ぜんかんおこすが、項羽こううとの長年ながねんたたかいで軍隊ぐんたい疲労ひろうしていたために、えて南越なんごしへの遠征えんせいはしなかったという。

紀元前きげんぜん196ねん劉邦りゅうほうすわえ出身しゅっしんりく和睦わぼく使節しせつとして派遣はけんした。りく賈を出迎でむかえたちょう佗は正式せいしき南越なんごしおうとして印綬いんじゅり、国境こっきょうちょうすなこくとすることで、はなしはまとまった。そのさいりく賈にたい宝玉ほうぎょくおくった。のちりく賈はその宝玉ほうぎょくわたして、息子むすこ5にんあた自立じりつ資金しきんとさせた。

前漢ぜんかんりょきさきのとき、中央ちゅうおうから派遣はけんされた官吏かんりちょう佗にかって鉄製てつせい器具きぐ交易こうえき廃止はいし申請しんせいした。ちょう佗はこれを南越なんごしほろぼそうとするちょうすなおう陰謀いんぼうかんがえた。ちょう佗はたけみかど自称じしょうし、ちょうすなこく攻撃こうげきして、そのすうけん蹂躙じゅうりんし、財宝ざいほう人民じんみんうばって凱旋がいせんした。りょきさき紀元前きげんぜん182ねんころたかしおもんばかこうしゅうかまど南越なんごし遠征えんせいめいじた。しかし、暑気しょき疫病えきびょうのために士気しき喪失そうしつし、りょきさき死去しきょすると、しゅうかまどいち年余ねんよ広東かんとんから全面ぜんめんてき撤退てったいした。

強国きょうこく南越なんごし

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これを機会きかいとらえたちょう佗はいきおいにじょうじて、閩越甌越西にし甌)方面ほうめん北進ほくしんした。さらに西北せいほく方面ほうめん駱越にも遠征えんせいし、かれらに財産ざいさんあたえて(また、甌越は浙江せっこうしょうにいた越部こしべぞくである「ひがし」または「ひがしこし」のこともした)これを支配しはいいた。やがてちょう佗は華南かなん全域ぜんいき華中かちゅう南部なんぶ一部いちぶなどの広大こうだい地域ちいき南越なんごし領土りょうどとした。ついにちょう佗はみかどしょうして「南越なんごしこくたけみかど」とごうした。

紀元前きげんぜん179ねん前漢ぜんかんではりょ誅滅ちゅうめつされてぶんみかど即位そくいした。するとぶんみかどちょう佗の一族いちぞく懐柔かいじゅうし、さらにちょう佗と面識めんしきがあるふとなか太夫たゆうりく賈をふたた使節しせつとして派遣はけんした。それ以来いらいちょう佗は「はんおう」として、毎年まいとし貢物みつぎものおくったという。それはけいみかどだいになってもがれた。しかし、南越なんごし国内こくないでは依然いぜんたけみかど」ととなえたようである。

たてはじめ4ねんぜん137ねん)、高齢こうれいとなったたけみかどひゃくさい(『大越おおこし史記しき全書ぜんしょ』では121さい)で薨去こうきょした。たけみかど嗣子しし諸子しょしすでちちよりも先立さきだっていたので、嫡孫ちゃくそんちょう祖父そふのちいだ。

息子むすこは『大越おおごえ史記しき全書ぜんしょ』にちょうはじめちょうなかはじめ)のえる。まごにはちょう眜(ちょうえびす)をはじめとして、曾孫そうそんちょう嬰斉明王みょうおう)、玄孫げんそんちょうきょうあいおう生母せいぼ邯鄲かんたん出身しゅっしんの樛氏)、その庶兄のちょうえつ、その末弟ばっていちょうつぎこう最後さいごおうであるじゅつおうちょう建徳けんとくちょうえつ嗣子しし)がいる。またちょう佗のぞくまご蒼梧そうごぐんしんおうちょうひかりもいる。ちょう佗のろくせいまごちょう建徳けんとく前漢ぜんかんたけみかどいのちけたみち博徳ひろのり楊僕はいられ捕虜ほりょとなったが、その詳細しょうさい不明ふめいである。

ちょう佗は漢人かんど出自しゅつじである「外国がいこくおう」であったが、ちょう佗の一族いちぞくは、ちょう佗がれてきたはた兵士へいし子孫しそんとともに、やがて南越なんごし同化どうかした[3]

宗族そうぞく

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脚注きゃくちゅう

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先代せんだい
南越なんごし初代しょだいおう
ぜん203ねん - ぜん137ねん
次代じだい
ぶんおう