漢 かん 民族 みんぞく (かんみんぞく)は、主 おも に中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく および中華民国 ちゅうかみんこく (台湾 たいわん )にいる民族 みんぞく 。
漢 かん 民族 みんぞく 総 そう 人口 じんこう 14億 おく 人 にん 全 ぜん 人類 じんるい の17%居住 きょじゅう 地域 ちいき 中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく 1,349,585,838[1] -- 香港 ほんこん 7,182,724[2] -- マカオ 433,641[3] 中華民国 ちゅうかみんこく (台湾 たいわん )23,299,716[4] シンガポール 3,684,936 インドネシア 7,566,200 タイ 7,053,240 マレーシア 6,590,500[5] アメリカ 3,376,031[6] [リンク切 き れ ] カナダ 1,612,173[7] [リンク切 き れ ] ペルー 1,300,000[8] [リンク切 き れ ] ベトナム 1,263,570[9] [リンク切 き れ ] フィリピン 1,146,250[10] [リンク切 き れ ] ミャンマー 1,101,314[11] [リンク切 き れ ] ロシア 998,000[12] [リンク切 き れ ] オーストラリア 614,694[13] [リンク切 き れ ] 日本 にっぽん 519,561[14] [リンク切 き れ ] イギリス 500,000[15] [リンク切 き れ ] カンボジア 343,855[16] [リンク切 き れ ] フランス 230,515[17] [リンク切 き れ ] インド 189,470[18] [リンク切 き れ ] ラオス 185,765[19] [リンク切 き れ ] ブラジル 151,649[20] [リンク切 き れ ] イタリア 145,000[21] [リンク切 き れ ] オランダ 144,928[22] [リンク切 き れ ] 韓国 かんこく 137,790[23] [リンク切 き れ ] ニュージーランド 147,570[24] [リンク切 き れ ] パナマ 135,000[25] [リンク切 き れ ] セルビア 75,000 - 100,000[26] 言語 げんご 中国 ちゅうごく 語 ご 宗教 しゅうきょう 大乗 だいじょう 仏教 ぶっきょう と道教 どうきょう が支配 しはい 的 てき 。儒教 じゅきょう と民間 みんかん 信仰 しんこう を背景 はいけい とする[ 1] [ 2] [ 3] [ 4] [ 5] 。関連 かんれん する民族 みんぞく 回 かい 族 ぞく 、ドンガン人 じん
中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく の民族 みんぞく 識別 しきべつ 工作 こうさく では漢 かん 族 ぞく と呼 よ ばれ、中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく の人口 じんこう の90%以上 いじょう を占 し める。漢人 かんど ともいう。華僑 かきょう として華人 かじん ・唐人 とうじん と自称 じしょう することが多 おお い[ 6] 。清朝 せいちょう の時代 じだい 、人口 じんこう の80%以上 いじょう はどの族 ぞく にも含 ふく まれていない農奴 のうど だった。支配 しはい 者 しゃ である満州 まんしゅう 族 ぞく と被 ひ 支配 しはい 層 そう の漢 かん 族 ぞく のような族 ぞく 名 めい は貴族 きぞく と平民 へいみん に降 くだ 等 ひとし された人々 ひとびと だけ持 も つことが許 ゆる された呼称 こしょう で、百姓 ひゃくしょう は族 ぞく という呼称 こしょう を持 も つことができなかった。中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく が建国 けんこく されて、近代 きんだい 化 か の政策 せいさく が進 すす み、苗字 みょうじ と族 ぞく を持 も たなかった殆 ほとん どの人口 じんこう は苗字 みょうじ と漢 かん 族 ぞく という民族 みんぞく 名 めい をもらうことになった[ 7] 。
注意 ちゅうい すべきなのは、「漢 かん 民族 みんぞく 」という言葉 ことば が近代 きんだい になって現 あらわ れたことである。これまでは「漢人 かんど 」と呼 よ ばれていた。「漢 かん 民族 みんぞく 」は近代 きんだい に西洋 せいよう の概念 がいねん を導入 どうにゅう して定型 ていけい 化 か した名詞 めいし で、「漢人 かんど 」という言葉 ことば は古代 こだい 中国 ちゅうごく ではずっと文化 ぶんか 共同 きょうどう 体 たい の名称 めいしょう に似 に ていた。
漢 かん 民族 みんぞく の由来 ゆらい は中国 ちゅうごく の漢 かん の時代 じだい に遡 さかのぼ る。漢人 かんど の起源 きげん は劉邦 りゅうほう が項 こう 羽 わ によって、中国 ちゅうごく の西部 せいぶ にある漢 かん 中 ちゅう に左遷 させん され漢 かん 王 おう になった後 のち 、漢 かん 朝 ちょう を建国 けんこく したことが起源 きげん である。
シンガポール日本 にっぽん 文化 ぶんか 協会 きょうかい 会長 かいちょう 顔 がお 尚 なお 強 つよ によれば、「漢 かん 民族 みんぞく はその昔 むかし 、漢 かん 民族 みんぞく とは称 しょう されておらず、華 はな 夏 なつ 族 ぞく と称 しょう されていた。漢 かん 民族 みんぞく という名称 めいしょう は漢 かん 王朝 おうちょう (BC 206~AD 220)の時代 じだい から今日 きょう まで使 つか われてきてはいるが、今 いま でも本土 ほんど の中国人 ちゅうごくじん は中国 ちゅうごく のことを華 はな 夏 なつ 、中華 ちゅうか 文明 ぶんめい を華 はな 夏 なつ 文明 ふみあき と呼 よ ぶことがある。しかし、漢 かん 民族 みんぞく は鮮卑やモンゴルなどの異 い 民族 みんぞく や朝鮮 ちょうせん の王朝 おうちょう の高句麗 こうくり の侵略 しんりゃく と和人 わじん 海賊 かいぞく の侵略 しんりゃく などを長 なが い時間 じかん 受 う けて、漢 かん 民族 みんぞく は異 い 民族 みんぞく と混血 こんけつ されて形成 けいせい された。学者 がくしゃ によると、周 しゅう 王朝 おうちょう (紀元前 きげんぜん 1066年 ねん - 256年 ねん )の創立 そうりつ 者 しゃ である武 たけ 王 おう が殷 いん (商 しょう )王朝 おうちょう (紀元前 きげんぜん 16世紀 せいき - 紀元前 きげんぜん 1066年 ねん )の末代 まつだい の帝 みかど 辛 からし (紂王)を討 う ち取 と った後 のち 、中原 なかはら に定住 ていじゅう し、その一族 いちぞく を中国 ちゅうごく の伝説 でんせつ 上 じょう の先 さき 聖王 せいおう である神 かみ 農 みのり ・黄 き 帝 みかど ・堯 ・舜 しゅん に因 ちな んで「華族 かぞく 」と称 しょう した。また夏 なつ 王朝 おうちょう (紀元前 きげんぜん 21世紀 せいき - 紀元前 きげんぜん 16世紀 せいき )の創立 そうりつ 者 しゃ の大 だい 禹 の末裔 まつえい が「夏 なつ 族 ぞく 」と称 しょう されていたことから、中原 なかはら に居住 きょじゅう していた族 ぞく 群 ぐん を「華 はな 夏 なつ 族 ぞく 」と称 しょう するようになったと言 い われている。当時 とうじ の彼 かれ らの文化 ぶんか は華 はな 夏 なつ 文化 ぶんか あるいは華 はな 夏 なつ 文明 ぶんめい として近隣 きんりん の東夷 あずまえびす 族 ぞく や北狄 ほくてき 族 ぞく 、西戎 せいじゅう 族 ぞく 、南蛮 なんばん 族 ぞく に賞 しょう され、模倣 もほう され、ついに中国 ちゅうごく 大陸 たいりく の東西 とうざい 南北 なんぼく へと拡大 かくだい していった。このように数 すう 千 せん 年間 ねんかん に渡 わた るプロセスにより、華 はな 夏 なつ 系 けい は他 た の民族 みんぞく 系 けい を吸収 きゅうしゅう したり影響 えいきょう されたりしながら今日 きょう の漢 かん 民族 みんぞく を形成 けいせい してきたのである[ 8] 。
紀元前 きげんぜん 221年 ねん 、秦 はた の始皇帝 しこうてい が中国 ちゅうごく を統一 とういつ した。秦 はた の支配 しはい から楚 すわえ が独立 どくりつ し、その後 ご 、劉邦 りゅうほう が紀元前 きげんぜん 206年 ねん 西部 せいぶ 、漢 かん 中 ちゅう に左遷 させん され、漢 かん 王 おう になった。 その後 ご 、左遷 させん された漢 かん 中 ちゅう という単語 たんご を起源 きげん とし、漢 かん を建国 けんこく した。これは漢 かん 族 ぞく の由来 ゆらい である。[ 9]
林 はやし 惠 めぐみ 祥 さち は著書 ちょしょ 『中国 ちゅうごく 民族 みんぞく 史 し 』で漢 かん 民族 みんぞく は華 はな 夏 なつ 族 ぞく を中心 ちゅうしん として東夷 あずまえびす 系 けい 、荊呉系 けい 、百 ひゃく 越 えつ 系 けい 及 およ び東 ひがし 胡 えびす 系 けい 、匈奴 きょうど 系 けい などの民族 みんぞく を吸収 きゅうしゅう し形成 けいせい した民族 みんぞく であると論 ろん じている。黄河 こうが の上 うえ ・中流 ちゅうりゅう を中心 ちゅうしん に居住 きょじゅう していた華 はな 夏 なつ 系 けい は黄河 こうが の下流 かりゅう の東夷 あずまえびす 系 けい 、長江 ながえ の中流 ちゅうりゅう の荊呉系 けい 及 およ び珠江 たまえ を中心 ちゅうしん とした百 ひゃく 越 えつ 系 けい と融合 ゆうごう 及 およ び統合 とうごう のプロセスを通 とお して漢 かん 民族 みんぞく に生 う まれ変 か わったわけである[ 10] 。
漢 かん 族 ぞく は周辺 しゅうへん の異 い 民族 みんぞく の中国 ちゅうごく 征服 せいふく 王朝 おうちょう の支配 しはい を受 う け、混血 こんけつ され形成 けいせい された民族 みんぞく 概念 がいねん である[ 11] 。ゆえに、異 い 民族 みんぞく の出身 しゅっしん であっても漢 かん 族 ぞく の文化 ぶんか 伝統 でんとう を受 う け入 い れれば、漢 かん 族 ぞく とみなされる。[要 よう 出典 しゅってん ]
4世紀 せいき 頃 ころ から北方 ほっぽう の鮮卑 などの北方 ほっぽう 遊牧 ゆうぼく 民族 みんぞく に華北 かほく 平原 へいげん を支配 しはい され(→五 ご 胡 えびす 十 じゅう 六 ろく 国 こく 時代 じだい )、この結果 けっか 、中原 なかはら に居住 きょじゅう していた漢 かん 民族 みんぞく 部 ぶ は南方 なんぽう に移動 いどう (→客 きゃく 家 か )した。また、のちの遼 りょう や金 きむ 、元 もと や或 ある いは後金 あときん やその後 ご 身 み の清 きよし などといった征服 せいふく 王朝 おうちょう 期 き によって漢 かん 民族 みんぞく は非 ひ 支配 しはい 層 そう に転落 てんらく した。[ 12] 。
異 い 民族 みんぞく の拡張 かくちょう と異 い 民族 みんぞく による漢 かん 民族 みんぞく の支配 しはい
編集 へんしゅう
北 きた 魏 たかし の鮮卑族 ぞく の拓 つぶせ 跋 ばつ 氏 し によって中国 ちゅうごく 北部 ほくぶ が征服 せいふく され北 きた 魏 ぎ 以降 いこう からは漢 かん 民族 みんぞく は被 ひ 支配 しはい 民族 みんぞく へと転落 てんらく した。五 ご 胡 えびす 十 じゅう 六 ろく 国 こく 時代 じだい から始 はじ まった異 い 民族 みんぞく の大 だい 移動 いどう と拡張 かくちょう によって、征服 せいふく された漢 かん 民族 みんぞく は抵抗 ていこう をやめ異 い 民族 みんぞく に忠誠 ちゅうせい を誓 ちか うか華南 かなん に逃 に げるかの選択肢 せんたくし に迫 せま られた。五 ご 胡 えびす 十 じゅう 六 ろく 国 こく 時代 じだい には異 い 民族 みんぞく による漢 かん 民族 みんぞく 男性 だんせい の虐殺 ぎゃくさつ も頻繁 ひんぱん にあった。鮮卑族 ぞく の支配 しはい 層 そう が建国 けんこく した隋 ずい と唐 とう に非 ひ 支配 しはい 層 そう であった漢 かん 民族 みんぞく は登用 とうよう される場合 ばあい はあった。以降 いこう 、女 おんな 真 しん 族 ぞく と契 ちぎり 丹 に 族 ぞく が中国 ちゅうごく を征服 せいふく し、漢 かん 民族 みんぞく を支配 しはい した。異 い 民族 みんぞく の奴隷 どれい になった漢 かん 民族 みんぞく は多 おお く、異 い 民族 みんぞく に忠誠 ちゅうせい を誓 ちか った漢 かん 民族 みんぞく は登用 とうよう されたまた蒙 こうむ 古 こ 族 ぞく が漢 かん 民族 みんぞく を征服 せいふく し元 もと を建国 けんこく して、最後 さいご は満州 まんしゅう 族 ぞく (女 おんな 真 しん 族 ぞく )が漢 かん 民族 みんぞく 最後 さいご の王朝 おうちょう である明朝 みんちょう を滅 ほろ ぼし数 すう 百 ひゃく 年 ねん の間 あいだ 、漢 かん 民族 みんぞく を支配 しはい した。異 い 民族 みんぞく の支配 しはい によって華北 かほく と華南 かなん の漢 かん 民族 みんぞく の遺伝子 いでんし には非常 ひじょう に大 おお きい違 ちが いが見 み られる。満州 まんしゅう 族 ぞく と異 い 民族 みんぞく の支配 しはい によって現在 げんざい の漢 かん 民族 みんぞく は混血 こんけつ 化 か されている。[ 13]
ところが、清 しん 代 だい 中期 ちゅうき 以降 いこう 状況 じょうきょう が大 おお きく変化 へんか する。領域 りょういき 内 ない の平穏 へいおん と安定 あんてい した経済 けいざい 、トウモロコシやサツマイモ等 とう の新 あら たな農業 のうぎょう 作物 さくもつ によって増 ふ え続 つづ けていた人口 じんこう だったが(18世紀 せいき 前半 ぜんはん には推定 すいてい 2億 おく 人 にん だった人口 じんこう はわずか100年 ねん 後 ご の19世紀 せいき 前半 ぜんはん にはその2倍 ばい 、推定 すいてい 4億 おく 人 にん を突破 とっぱ したとされる)、イギリス などの政策 せいさく 転換 てんかん による銀 ぎん の流入 りゅうにゅう の減少 げんしょう (阿片 あへん 戦争 せんそう 参照 さんしょう )、18世紀 せいき 後半 こうはん 以降 いこう の全 ぜん 地球 ちきゅう 単位 たんい の寒冷 かんれい 化 か (異説 いせつ もある)に伴 ともな う生産 せいさん 力 りょく の低下 ていか 、さらに、太平 たいへい 天国 てんごく の乱 らん などの清末 きよすえ の一連 いちれん の反乱 はんらん により支 ささ えきれなくなった。ついに、19世紀 せいき 後半 こうはん には人口 じんこう 爆発 ばくはつ とも呼 よ べる事態 じたい が発生 はっせい 、大量 たいりょう の漢 かん 民族 みんぞく の周辺 しゅうへん 地域 ちいき への拡散 かくさん 移動 いどう が始 はじ まった。
河北 かわきた ・山東 さんとう など華北 かほく の人口 じんこう は内 うち モンゴル ・満州 まんしゅう へ移動 いどう し、華南 かなん の人口 じんこう は東南 とうなん アジア各地 かくち を中心 ちゅうしん に、一部 いちぶ は日本 にっぽん ・朝鮮 ちょうせん 、さらにはアメリカ ・オーストラリア などに移住 いじゅう した。このうち、満州 まんしゅう (現在 げんざい の中国 ちゅうごく 東北 とうほく 部 ぶ )は中国 ちゅうごく 内地 ないち との隣接 りんせつ 区域 くいき であり、圧倒的 あっとうてき な漢 かん 民族 みんぞく の人口 じんこう 圧 あつ によって事実 じじつ 上 じょう 内地 ないち 化 か した。例外 れいがい 的 てき に、地理 ちり 的 てき に中国 ちゅうごく 本土 ほんど と最 もっと も地理 ちり 的 てき ・文化 ぶんか 的 てき に近接 きんせつ しているはずの韓国 かんこく のチャイナタウン については、20世紀 せいき 半 なか ばから後半 こうはん 期 き にかけて衰退 すいたい し、ついには消滅 しょうめつ してしまった。理由 りゆう として、朴 ぼく 正煕 せいき 時代 じだい などの強 つよ い民族 みんぞく 主義 しゅぎ ・反共 はんきょう 主義 しゅぎ 政策 せいさく などが挙 あ げられるが、極 きわ めて特異 とくい な例 れい として注目 ちゅうもく される。
東南 とうなん アジア などでは華僑 かきょう ・華人 かじん となり、自 みずか らの居住 きょじゅう 区 く として各地 かくち にチャイナタウン を作 つく り上 あ げている。シンガポール では華人 かじん が最多 さいた 数 すう 派 は である。マレーシア ・インドネシア では、かつて経済 けいざい の主導 しゅどう 権 けん を握 にぎ っており、そのため現地 げんち で多数 たすう 派 は を占 し めるマレー人 じん など在来 ざいらい 民族 みんぞく との摩擦 まさつ があった。
タイの華人 かじん はタイ人 じん に同化 どうか する傾向 けいこう が強 つよ く、また、タイ人 じん の中 なか にも中国 ちゅうごく 由来 ゆらい の文化 ぶんか が取 と り入 い れられ、経済 けいざい 的 てき にも政治 せいじ 的 てき にも完全 かんぜん にタイ人 じん と一体化 いったいか している。政府 せいふ の要職 ようしょく を占 し める華人 かじん も少 すく なくない。
フィリピン でも華人 かじん はフィリピン人 じん に同化 どうか する傾向 けいこう にある。明 あきら ・清 きよし 時代 じだい からの古 ふる い華人 かじん が多 おお く、現地 げんち 化 か や混血 こんけつ が進 すす んでいる。現在 げんざい でも中国 ちゅうごく 語 ご を話 はな し、中国 ちゅうごく の習慣 しゅうかん を残 のこ している者 もの は60万 まん 人 にん から100万 まん 人 にん 程度 ていど と推定 すいてい される。コラソン・アキノ やロドリゴ・ドゥテルテ など、大統領 だいとうりょう 経験 けいけん 者 しゃ にも華人 かじん の血 ち が流 なが れている。
ミャンマー (ビルマ)では、おもに国共 こっきょう 内戦 ないせん 期 き 以降 いこう のKMT 残党 ざんとう の逃避行 とうひこう に始 はじ まる雲南 うんなん 省 しょう からの華人 かじん の流入 りゅうにゅう が今 いま でも続 つづ いている一方 いっぽう で、前 ぜん 近代 きんだい から移住 いじゅう してきた土着 どちゃく の華人 かじん のグループもある。彼 かれ らはミャンマー中央 ちゅうおう 政府 せいふ から先住 せんじゅう 少数 しょうすう 民族 みんぞく と認 みと められ、「コーカン族 ぞく 」と称 しょう されている。コーカン族 ぞく の主 おも な居住 きょじゅう 地 ち はシャン州 しゅう 北部 ほくぶ の雲南 うんなん 省 しょう との国境 こっきょう 地帯 ちたい であり、コーカン地区 ちく と称 しょう される。
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