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アヘン戦争 - Wikipedia

アヘン戦争せんそう

きよしとイギリスのあいだで1840ねんから1842ねんにかけておこなわれた戦争せんそう
阿片あへん戦争せんそうから転送てんそう

アヘン戦争せんそう(アヘンせんそう、なか: 鴉片あへん戰爭せんそうだいいち鴉片あへん戰爭せんそうえい: First Opium War)は、きよしイギリスあいだ1840ねんから2年間ねんかんにわたりおこなわれた戦争せんそうである。

アヘン戦争せんそう

イギリスひがしインド会社かいしゃの汽走軍船ぐんせんネメシスごうばされるきよしぐんジャンク兵船へいせんえがいた
とき1840ねん6月28にち - 1842ねん8がつ29にち
場所ばしょきよし現在げんざい中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく沿岸えんがん地域ちいき
結果けっか イギリスの旗 イギリス勝利しょうり南京なんきん条約じょうやく締結ていけつ
衝突しょうとつした勢力せいりょく
イギリスの旗 イギリス帝国ていこく きよし
指揮しきかん
ヴィクトリア女王じょおう
イギリスの旗 メルバーン子爵ししゃく首相しゅしょう
イギリスの旗 パーマストン子爵ししゃく外相がいしょう
イギリスの旗 チャールズ・エリオット外交がいこうかん
ジョージ・エリオット英語えいごばん海軍かいぐん軍人ぐんじん
ジェームズ・ブレーマー英語えいごばん海軍かいぐん軍人ぐんじん
ヒュー・ゴフ陸軍りくぐん軍人ぐんじん
みちこうみかど皇帝こうてい
はやしのりじょ(欽差大臣だいじん
キシャン(琦善、欽差大臣だいじん
せきたかしつちかえ武将ぶしょう) 

ひね化成かせい武将ぶしょう) 
戦力せんりょく

19,000にん[1]

200,000にん
被害ひがいしゃすう
69にん戦死せんし[1]
451にん負傷ふしょう[1]
18,000にんから20,000にん死傷ししょう[1]

イギリスは、インド製造せいぞうしたアヘンを、きよし輸出ゆしゅつして巨額きょがく利益りえきていた。アヘン販売はんばい禁止きんししていたきよしは、アヘンの蔓延まんえんたいしてその全面ぜんめん禁輸きんゆ断行だんこうし、イギリス商人しょうにん保有ほゆうするアヘンを没収ぼっしゅう処分しょぶんしたため、反発はんぱつしたイギリスとのあいだ戦争せんそうとなった。イギリスの勝利しょうりわり[2]1842ねん南京なんきん条約じょうやく締結ていけつされ、イギリスへの香港ほんこん割譲かつじょうきよしにとって不平等ふびょうどう条約じょうやくとなった。

なお、アロー戦争せんそうだいとみなしてだいいちアヘン戦争せんそうともばれる。

戦争せんそういたった経緯けいい

編集へんしゅう

もともときよし1757ねん以来いらい広東かんとんこうでのみヨーロッパ諸国しょこく交易こうえきおこない、おおやけぎょうという北京ぺきん政府せいふ特許とっきょ商人しょうにんにしかヨーロッパ商人しょうにんとの交易こうえきみとめてこなかった(広東かんとん貿易ぼうえき制度せいど[3]

一方いっぽうヨーロッパがわ中国ちゅうごく貿易ぼうえき大半たいはんにぎっているのはイギリスひがしインド会社かいしゃであり、同社どうしゃ現地げんちに「かん貨人委員いいんかい」(Select Committee of Supercargoes)という代表だいひょう機関きかん設置せっちしていた[4]。しかし北京ぺきん政府せいふはヨーロッパとの交易こうえき一貫いっかんして「朝貢ちょうこう」と認識にんしきしていたため、直接ちょくせつ貿易ぼうえき交渉こうしょうにはおうじようとしなかった。そのためかん貨人委員いいんかいさえもおおやけぎょうつうじて「稟」という請願せいがんしょ広東かんとん地方ちほう当局とうきょく提出ていしゅつできるだけであった[4]

このような広東かんとん貿易ぼうえき制度せいど中国ちゅうごく市場いちば開拓かいたく目指めざすイギリスにとっては満足まんぞくのいくものではなかった。広東かんとん貿易ぼうえき制度せいど廃止はいし、すなわち北京ぺきん政府せいふによる貿易ぼうえき居住きょじゅう制限せいげん北京ぺきん政府せいふ朝貢ちょうこう意識いしき是正ぜせいすることによってえいちゅう自由じゆう貿易ぼうえき確立かくりつすることが課題かだいになっていった[5]

イギリスひがしインド会社かいしゃ1773ねんにベンガル阿片あへん専売せんばいけん獲得かくとくしており、ついで1797ねんにはその製造せいぞうけん獲得かくとくしており、これ以降いこう同社どうしゃ中国ちゅうごくへの組織そしきてき阿片あへんみを開始かいししていた。北京ぺきん政府せいふ阿片あへん貿易ぼうえき禁止きんししていたが、地方ちほう中国人ちゅうごくじんアヘン商人しょうにん官憲かんけん買収ばいしゅうしてまりをまぬかれつつみつ貿易ぼうえきおうじたため、阿片あへん貿易ぼうえき拡大かくだいしていく一方いっぽうだった。1823ねんには阿片あへんがインド綿花めんかわって中国ちゅうごく輸出ゆしゅつ最大さいだい商品しょうひんとなり、収入しゅうにゅうの20%が阿片あへんになった。広東かんとん貿易ぼうえき枠外わくがいでの阿片あへん貿易ぼうえき拡大かくだいは、広東かんとん貿易ぼうえき制度せいど崩壊ほうかいにつながることとなる。[6][7]

イギリスひがしインド会社かいしゃたい中国ちゅうごく貿易ぼうえき特許とっきょ1834ねん失効しっこうし、独占どくせん体制たいせい終了しゅうりょうして、これまで同社どうしゃ下請したうけとうかたち貿易ぼうえき活動かつどうおこなっていた個人こじん貿易ぼうえきしょうゆだねられることとなった[8][9]。これにともない、同年どうねん、イギリス政府せいふは、ひがしインド会社かいしゃかん貨人委員いいんかいわって現地げんち自国じこく商人しょうにん指導しどう監督かんとくおこな貿易ぼうえき監督かんとくかん派遣はけんすることとした[10][9]初代しょだい監督かんとくかんにはウィリアム・ジョン・ネイピア英語えいごばん任命にんめいされ、ネイピアはきよしりょうこう総督そうとくとの直接ちょくせつ接触せっしょく目指めざしたが、性急せいきゅう実現じつげん固執こしつしたため紛争ふんそうし、武力ぶりょく衝突しょうとつまねき、失敗しっぱいした[11][12]

アヘン貿易ぼうえき

編集へんしゅう

当時とうじのイギリスは、ちゃ陶磁器とうじききぬ大量たいりょうきよから輸入ゆにゅうしていた。一方いっぽう、イギリスからきよし輸出ゆしゅつされるものは時計とけい望遠鏡ぼうえんきょうのような富裕ふゆうそうけの物品ぶっぴんはあったものの、大量たいりょう輸出ゆしゅつ可能かのう製品せいひん存在そんざいしなかったため[13]、イギリスの大幅おおはば輸入ゆにゅう超過ちょうか[14]であった。イギリスは産業さんぎょう革命かくめいによる資本しほん蓄積ちくせきアメリカ独立どくりつ戦争せんそう戦費せんぴ確保かくほのため、ぎん国外こくがい流出りゅうしゅつ抑制よくせいする政策せいさくをとった。そのためイギリスは植民しょくみんインド栽培さいばいした麻薬まやくであるアヘンをきよしみつ輸出ゆしゅつすることちょう過分かぶん相殺そうさいし、三角さんかく貿易ぼうえきととのえることとなった。

中国ちゅうごくあきらだい末期まっきからアヘン吸引きゅういん習慣しゅうかんひろまり、しんだい1796ねんよしみけい元年がんねん)にアヘン輸入ゆにゅう禁止きんしとなる。以降いこう19世紀せいきはいってからもなんとなく禁止きんしれいはっせられたが、アヘンの密輸入みつゆにゅうまず、国内産こくないさんアヘンのまりも効果こうかがなかったので、きよし国内こくないにアヘン吸引きゅういん悪弊あくへいひろまっていき、健康けんこうがいするものおおくなり、風紀ふうき退廃たいはいしていった。また、人口じんこうが18世紀せいき以降いこう急増きゅうぞうしたことにともない、治安ちあん低下ていかし、自暴自棄じぼうじき下層かそうみんえたこともそれを助長じょちょうさせた[15]。アヘンの代金だいきんぎん決済けっさいしたことから、アヘンの輸入ゆにゅうりょう増加ぞうかにより貿易ぼうえき収支しゅうし逆転ぎゃくてん[16]きよし国内こくないぎん保有ほゆうりょう激減げきげん後述こうじゅつのとおりぎん高騰こうとうまねいた。

きよしのアヘン取締とりしまり

編集へんしゅう
みちこうみかどひだり)とはやしのりじょみぎ)。

きよしでは、この事態じたいいたって、官僚かんりょうもと乃済から『もとふとつねそう』といわれる「たゆきんろん」が上奏じょうそうされた[17][18]概要がいようは「アヘンをまること無理むりだから輸入ゆにゅうみとめて関税かんぜい徴収ちょうしゅうしたほうがい」というものである。しかしこの主張しゅちょうたいしてはおおくのつよ反論はんろん提出ていしゅつされ論破ろんぱされた[19][20]。その、「アヘンをきびしく禁止きんし吸引きゅういんしたもの死刑しけいしょすものとすることで、風紀ふうき粛正しゅくせいしアヘンの需要じゅよう消滅しょうめつさせぎん国外こくがい流出りゅうしゅつつ」とする「厳禁げんきんろん」が爵滋から上奏じょうそうされ、みちこうみかどはアヘン厳禁げんきんさく採用さいようめた[21][22]みちこうみかど爵滋の上奏じょうそうぶんもと各地かくち地方ちほう長官ちょうかん具体ぐたいさく検討けんとうさせ、もっとすぐれた提案ていあんおこなったはやしのりじょ起用きようすることとした[23][24]はやしのりじょ1838ねんみちこう18ねん)に欽差大臣だいじん特命とくめい全権ぜんけん大臣だいじんのこと)に任命にんめいされ、広東かんとん赴任ふにんし、アヘン密輸みつゆまりにたった[25][26]

はやしのりじょはアヘンをあつか商人しょうにんからの贈賄ぞうわいにもおうじず、現地げんち総督そうとくめぐなでぐん幹部かんぶらと協力きょうりょくしてアヘン密輸みつゆたいする非常ひじょうきびしいまりをおこなった。1839ねんみちこう19ねん)には、広州こうしゅう外国がいこく商人しょうにんたちに、「今後こんご一切いっさいアヘンを清国きよくに国内こくないまない。」というむね誓約せいやくしょ同年どうねん3がつ21にちまでに提出ていしゅつしたうえ保有ほゆうするアヘンも供出きょうしゅつするよう要求ようきゅうし、「今後こんごアヘンをんだ場合ばあい死刑しけいしょする」と通告つうこくした[27][28]。これをイギリス商人しょうにん貿易ぼうえき監督かんとくかんチャールズ・エリオット無視むし期限きげん経過けいかしたため、はやしのりじょ彼等かれら滞在たいざいするイギリス商館しょうかんかんへいけて包囲ほういし、保有ほゆうするアヘンの供出きょうしゅつやくさせた[29][30]

大量たいりょうのアヘンの没収ぼっしゅう収容しゅうようには同年どうねん4がつ11にちから5がつ18にちまでをようし、はやしのりじょらはこれを6がつ3にちから6がつ25にちまでかかって現地げんち処分しょぶんした[31][32]焼却しょうきゃく処分しょぶんではのこりがるため、専用せんよう処分しょぶん建設けんせつし、アヘンかたまり切断せつだんしてみずひたしたうえで、しお石灰せっかい投入とうにゅうして化学かがく反応はんのうによって無害むがいさせ、うみ放出ほうしゅつした[33][32][注釈ちゅうしゃく 1]。このとき処分しょぶんしたアヘンの総量そうりょうは1,400トンをえた[34]

このはやしそくじょ処置しょちにエリオットは反発はんぱつし、すべてのイギリス商人しょうにん誓約せいやくしょ提出ていしゅつきんじたうえ全員ぜんいんひきいて広州こうしゅうからマカオ退去たいきょした[35][36]抗議こうぎ意思いし表示ひょうじであったが、清国きよくにがわにはなんらダメージとはならなかった[37][38]

はやしのりじょは、外国がいこく商人しょうにん来航らいこう交易こうえき自体じたい禁止きんしすることは現実げんじつてき不可能ふかのうであることを理解りかいしており、目的もくてき外国がいこく商人しょうにん追放ついほうではなく、アヘン禁絶きんぜつ誓約せいやくさせ、合法ごうほうてき商業しょうぎょう活動かつどう専念せんねんさせることにあった[39][40]。アメリカ商人しょうにんをはじめとするイギリス以外いがい商人しょうにんおおくは、もともとアヘンとのかかわりがすくなく、清国きよくに当局とうきょく誓約せいやくしょ提出ていしゅつして商業しょうぎょう活動かつどうつづけた[41][42]

イギリスの対応たいおう紛糾ふんきゅう

編集へんしゅう

北京ぺきん清政きよまさ府内ふない阿片あへん禁止きんしろんつよまっていた1836ねんイギリス外相がいしょうパーマストン子爵ししゃく現地げんちイギリスじん保護ほごのため、植民しょくみん勤務きんむ経験けいけん豊富ほうふ外交がいこうかんチャールズ・エリオット清国きよくに貿易ぼうえき監督かんとくかんとして広東かんとん派遣はけんした[43]。またパーマストン子爵ししゃく海軍かいぐんしょうつうじてひがしインド艦隊かんたいたいし、きよしたいする軍事ぐんじ行動こうどう規制きせい大幅おおはばゆるめるのでエリオットに協力きょうりょくするよう通達つうたつした[43]。ただし、いまだ阿片あへんまりがはじまっていないこの段階だんかいではパーマストン子爵ししゃく直接ちょくせつ武力ぶりょく圧力あつりょくをかけることはきんじている[43]

1839ねん3がつ広東かんとん着任ちゃくにんしたはやしのりじょによる一連いちれん阿片あへんまりがはじまると、エリオットはイギリス商人しょうにん所持しょじする阿片あへんわたしの要求ようきゅうにはおうじたが、誓約せいやくしょ提出ていしゅつ拒否きょひし、5月24にちには広東かんとん在住ざいじゅうぜんイギリスじんれてマカオ退去たいきょした[44]前述ぜんじゅつ)。急速きゅうそく事態じたい進展しんてんひがしインド艦隊かんたい事態じたいつかんでおらず、軍艦ぐんかん派遣はけんしてこなかったため、エリオットのもとには武力ぶりょくがなかった。

この状況じょうきょうはやしのりじょは、イギリスがわのアヘン禁絶きんぜつ誓約せいやくけてさらに圧力あつりょくくわえることとし、またきゅうりゅう半島はんとう発生はっせいしたイギリス船員せんいんによる現地げんち住民じゅうみん殺害さつがい事件じけん捜査そうさをエリオットが拒否きょひしたこともあり、8がつ15にち誓約せいやくしょ提出ていしゅつしないざいマカオイギリスじんへの食料しょくりょう供給きょうきゅうきんじ、商館しょうかん中国人ちゅうごくじん使用人しようにん退去たいきょめいじた[45][46][注釈ちゅうしゃく 2]。エリオットは依然いぜんとしてアヘン禁絶きんぜつ誓約せいやくおうじず、エリオット以下いかイギリスじんは8がつ26にちにマカオも放棄ほうきして船上せんじょう避難ひなんすることになった[45][47][注釈ちゅうしゃく 3]

ここにいた一連いちれんのエリオットの対応たいおう結果けっか、イギリス商人しょうにん広州こうしゅうとの直接ちょくせつ貿易ぼうえき完全かんぜんたれ、アメリカ商人しょうにんかいさなければならなくなり、きわめて高額こうがく中継ちゅうけい運賃うんちん負担ふたん[注釈ちゅうしゃく 4]ひとし不利益ふりえきいられることとなった[39][48]

ここでようやくひがしインド艦隊かんたいフリゲートかん(「ボレージ」「ヒヤシンス」)が2せきだけ到着とうちゃくしたが、エリオットと清国きよくにごと察知さっちしたわけではなく、パーマストン子爵ししゃく方針ほうしんにしたがってたまたまただけであり、しかも6とうかんというイギリス海軍かいぐん序列じょれつでは最下さいかとう軍艦ぐんかんであった。だがエリオットはこの2せき使つかって早速さっそく反撃はんげきこころみた[49]。9月4にちにエリオットはきゅうりゅうおき清国きよくに兵船へいせん砲撃ほうげきおこなったが、清国きよくにがわはイギリスせんへの食料しょくりょう密売みつばい一部いちぶ黙認もくにんしたのみで、アヘン禁絶きんぜつ誓約せいやくもとめる方針ほうしんえなかった[50]

その10がつはじごろまでには、清国きよくにがわ食料しょくりょう供給きょうきゅう禁止きんしとう解除かいじょし、イギリスじんはマカオに復帰ふっきした[51][52]誓約せいやくしょ問題もんだい一時いちじ棚上たなあげして広州こうしゅう港外こうがいとらもん貿易ぼうえき再開さいかいする提案ていあんがなされたが、清国きよくにがわおうじなかった[51][53]

エリオットは、すべての自国じこく商人しょうにんたいし、清国きよくに当局とうきょくへのアヘン禁絶きんぜつ誓約せいやくしょ提出ていしゅつきんつづけていたが、はやしのりじょ清国きよくにがわは、むしろ誓約せいやくしょ提出ていしゅつうえでアヘン以外いがい通常つうじょう商業しょうぎょう活動かつどうおこなうことを当初とうしょから勧奨かんしょうしており、イギリス商人しょうにんなかでもアヘンにかかわっていないものにはエリオットへの不満ふまんたかまっていた[39][54]

10月にはいってからは、正当せいとう貿易ぼうえきひんであるインド綿花めんかやジャワまいんで来航らいこうしたイギリス商船しょうせんが、エリオットにしたがわず清国きよくに当局とうきょく誓約せいやくしょ提出ていしゅつしたうえ、一部いちぶ広州こうしゅう入港にゅうこうたすという事態じたい発生はっせいした[55][56]清国きよくにがわは、イギリスがわをさらにアヘン禁絶きんぜつ誓約せいやくうごかすことをねらい、誓約せいやくしゃ解禁かいきんしたばかりの食料しょくりょう供給きょうきゅうとうふたた禁止きんしし、エリオットにたいして誓約せいやくしょ提出ていしゅつ圧力あつりょくつよめた[55][56]

戦争せんそう勃発ぼっぱつ

編集へんしゅう
 
かわはな海戦かいせん(1839ねん11月3にち

エリオットは、1839ねん10がつまつに、2せきフリゲふりげト艦とかんひきいてかわはなおき誓約せいやくしょ提出ていしゅつみの自国じこく商船しょうせん広州こうしゅう入港にゅうこう妨害ぼうがいし、さらに11月3にちには清国きよくに兵船へいせんへの攻撃こうげき開始かいしした(かわはな海戦かいせん[57][58]清国きよくにがわ広東かんとんみず提督ていとくせきたかしつちかえ督戦とくせんし、ポルトガルせいかんほう搭載とうさいしたかんふくむ29せき兵船へいせん出動しゅつどうしたものの、ボレージごう損傷そんしょうあたえたのみで、大半たいはん兵船へいせん自力じりき航行こうこう不能ふのう損害そんがいけた[57][58]

一方いっぽうイギリス本国ほんごく外相がいしょうパーマストン子爵ししゃく主導しゅどうたいしん開戦かいせんかたむいており、1839ねん10がつ1にちメルバーン子爵ししゃく内閣ないかく閣議かくぎにおいて遠征えんせいぐん派遣はけん決定けっていした[49]。「阿片あへん密輸みつゆ」という開戦かいせん理由りゆうたいしては、清教徒せいきょうとてきかんがかた人々ひとびとからの反発はんぱつつよく、イギリス本国ほんごく庶民しょみんいんでも、野党やとう保守党ほしゅとうウィリアム・グラッドストンのち自由党じゆうとう首相しゅしょう)らを中心ちゅうしんに「不義ふぎ戦争せんそう」とする批判ひはんがあったが[注釈ちゅうしゃく 5]きよしたいしての出兵しゅっぺいかんする予算よさんあん賛成さんせい271ひょう反対はんたい262ひょう僅差きんさ承認しょうにんされ、この議決ぎけつけたイギリス海軍かいぐんは、イギリス東洋とうよう艦隊かんたい編成へんせいして派遣はけんした。そう司令しれいかんけん特命とくめい全権ぜんけん大使たいしには、チャールズ・エリオットの従兄じゅうけいジョージ・エリオット英語えいごばん任命にんめいされ、チャールズは副使ふくしとなった[61][62]

1840ねん8がつまでに軍艦ぐんかん16せき輸送ゆそうせん27せきひがしインド会社かいしゃ所有しょゆう武装ぶそう汽船きせん4せき陸軍りくぐん兵士へいし4,000にん中国ちゅうごく到着とうちゃくした[63]。イギリス艦隊かんたいはやしのりじょ大量たいりょう兵力へいりょくあつめていた広州こうしゅうではなく、より北方ほっぽう防備ぼうび手薄てうす地域ちいきかい、舟山ふなやま列島れっとう攻略こうりゃくしたのち長駆ちょうく首都しゅと北京ぺきんちか天津てんしんおきはいった[64][65]

天津てんしん軍艦ぐんかんあらわれたことにおどろいたみちこうみかどは、はやしそくおもむろ開戦かいせんせめわせてしんイリ左遷させんし、和平わへいキシャン後任こうにんにんじてイギリスに交渉こうしょうもとめた。イギリスぐんがわモンスーン接近せっきん警戒けいかいしており、また舟山ふなやま列島れっとう占領せんりょうぐんあいだやまい流行りゅうこうしていたため、これにおうじて9がつ一時いちじ撤収てっしゅうした[66]

このあいだイギリスがわは、清国きよくにとの交渉こうしょう方針ほうしんめぐってりょうエリオットの対立たいりつ激化げきかし、特命とくめい全権ぜんけん大使たいしのジョージ・エリオットは11月29にち病気びょうきしょうして帰国きこくしてしまった[67][68]

1841ねん1がつ20日はつかにはキシャンとチャールズ・エリオットのあいだかわはな条約じょうやく広東かんとん貿易ぼうえき早期そうき再開さいかい香港ほんこん割譲かつじょう賠償金ばいしょうきん600まんドル支払しはらい、おおやけぎょう廃止はいし両国りょうこく官憲かんけん対等たいとう交渉こうしょう南京なんきん条約じょうやくくらべると比較的ひかくてききよし好意こういてきだった)が締結ていけつされた。ところがイギリスぐん撤収てっしゅうするや清政きよまさ府内ふない強硬きょうこうかえし、みちこうみかどはキシャンを罷免ひめんしてかわはな条約じょうやく正式せいしき締結ていけつ拒否きょひした[69]

チャールズ・エリオットも、本国ほんごく無断むだん舟山ふなやま列島れっとう返還へんかんしたため罷免ひめんとなり、後任こうにん特命とくめい全権ぜんけん大使たいしヘンリー・ポッティンジャー英語えいごばん任命にんめいされ、1841ねん8がつ11にち着任ちゃくにんした[70][71]

首脳しゅのうじん交代こうたいしたイギリスぐんは、本国ほんごく方針ほうしんにより軍事ぐんじ行動こうどう再開さいかいした。イギリス艦隊かんたい廈門舟山ふなやま列島れっとうやすしなみなど揚子江ようすこう以南いなん沿岸えんがん地域ちいき次々つぎつぎ制圧せいあつしていった[72]さんげんさと事件じけんでの現地げんち民間みんかんじん奮戦ふんせんや、とらもんたたかいでのせきたかしつちかえらの奮戦ふんせんもあったが、完全かんぜん制海権せいかいけんにぎり、火力かりょくにもまさるイギリスがわ自由じゆう上陸じょうりく地点ちてん選択せんたくできる状況じょうきょう戦争せんそう複数ふくすう拠点きょてん防御ぼうぎょしなければならないきよしがわ正規せいきぐんたいする、一方いっぽうてき各個かっこ撃破げきは様相ようそうていした。とくに「ネメシス」ごうをはじめとしたひがしインド会社かいしゃ汽走砲艦ほうかん活躍かつやく目覚めざましく、水深すいしんあさ内陸ないりく水路すいろ容易ようい侵入しんにゅうし、しんぐんジャンク兵船へいせん次々つぎつぎしずめて、後続こうぞく艦隊かんたい進入しんにゅう成功せいこうみちびいた[73]

広州こうしゅうではこう東水ひがしみず提督ていとくせきたかしつちかえ戦死せんしし、鎮海やすしなみ陥落かんらくには浙江せっこう方面ほうめん防衛ぼうえい責任せきにんしゃりょうこう総督そうとくけん欽差大臣だいじんひろしけん中国語ちゅうごくごばん(ユキャン)[74]自決じけつした[75][76]浙江せっこう戦線せんせんではしんぐん増援ぞうえんけて反撃はんげきこころみたが、失敗しっぱいした[77]

イギリス艦隊かんたいモンスーンそなえて1841ねんから1842ねんにかけてのふゆあいだ停止ていししたが、1842ねんはるにインドのセポイ6,700にん本国ほんごくからの援軍えんぐん2,000にんあらたな汽走砲艦ほうかんなどの増強ぞうきょうけてきたこう再開さいかいした。5月にたいにち貿易ぼうえきこう乍浦を、いで揚子江ようすこうくち要塞ようさい陥落かんらくさせて揚子江ようすこう進入しんにゅう開始かいしし(ここでも汽走砲艦ほうかん活躍かつやく)、7がつには鎮江陥落かんらくさせた[78][79]。イギリスぐんが鎮江をおさえたことによりきょうくいだい運河うんがめられ、北京ぺきん補給ほきゅうたれた[80]

淞では江南こうなん提督ていとくひね化成かせい中国語ちゅうごくごばん戦死せんしし、乍浦・鎮江ではちゅうぼうはちはたへい玉砕ぎょくさいした[78][79]。また乍浦や鎮江ではイギリスぐんによるだい規模きぼ住民じゅうみん虐殺ぎゃくさつ婦女ふじょ暴行ぼうこう略奪りゃくだつ発生はっせいしている[78][79]

この破滅はめつてき状況じょうきょうまえみちこうみかど北京ぺきん政府せいふ戦意せんい完全かんぜんうしなわれた[80]

終戦しゅうせん推移すいい

編集へんしゅう
 
イギリス軍艦ぐんかんHMSコーンウォリスごうない締結ていけつされた南京なんきん条約じょうやく

1842ねん8がつ29にち両国りょうこく南京なんきん条約じょうやく調印ちょういんし、アヘン戦争せんそうだいいちアヘン戦争せんそう)は終結しゅうけつした。

アヘン戦争せんそう以前いぜん清国きよくに広東かんとん広州こうしゅう)、福建ふっけん厦門あもい)、浙江せっこうやすしなみ)にうみせきき、外国がいこくとの海上かいじょう貿易ぼうえき拠点きょてんとして管理かんり貿易ぼうえきおおやけぎょう制度せいど)を実施じっししていた。南京なんきん条約じょうやくではおおやけぎょう制度せいど一部いちぶ貿易ぼうえきしょうによる独占どくせん貿易ぼうえき)を廃止はいし自由じゆう貿易ぼうえきせいあらため、従来じゅうらいの3こうふくしゅう上海しゃんはいくわえた5こう自由じゆう貿易ぼうえきこうさだめた。くわえてほん条約じょうやくではイギリスへの賠償金ばいしょうきん支払しはらいおよ香港ほんこん香港ほんこんとう)の割譲かつじょうさだめられた。また、翌年よくねんとらもん追加ついか条約じょうやくでは治外法権ちがいほうけん関税かんぜい自主権じしゅけん放棄ほうき最恵国さいけいこく待遇たいぐう条項じょうこう承認しょうにんなどがさだめられた。

このイギリスと清国きよくにとの不平等ふびょうどう条約じょうやくほかに、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくとのもち条約じょうやくフランスとの条約じょうやくなどがむすばれている。

この戦争せんそうをイギリスがこした目的もくてきおおきくって2つある。それは、ひがしアジア支配しはいてき存在そんざいであった中国ちゅうごく中心ちゅうしんとする朝貢ちょうこう体制たいせい打破だはと、きびしい貿易ぼうえき制限せいげん撤廃てっぱいして自国じこく商品しょうひんをもっと中国ちゅうごくがわわせることである。しかし、結果けっかとして清国きよくに・イギリスあいだにおける外交がいこう体制たいせいおおきな風穴かざあなけることには成功せいこうしたものの、もうひとつの経済けいざいてき目的もくてき達成たっせいされなかった。中国ちゅうごくせい綿めん製品せいひんがイギリス製品せいひん輸入ゆにゅう阻害そがいしたからである。これをしとしなかったイギリスはつぎ機会きかいをうかがうようになり、これがだいアヘン戦争せんそうともわれるアロー戦争せんそうへとつながっていくことになった。

なお、この戦争せんそう結果けっかとして締結ていけつされた南京なんきん条約じょうやくには、阿片あへんについてひとこと言及げんきゅうしなかったため、終戦しゅうせん外国がいこくからの阿片あへん流入りゅうにゅうぎん流出りゅうしゅつまらなかった。清国きよくに政府せいふはこれに対抗たいこうするために、おも西北せいほく西南せいなんでのケシのたねうえ阿片あへん生産せいさん奨励しょうれいした政策せいさくした。国内こくないでの阿片あへん生産せいさん増加ぞうかによりぎん流出りゅうしゅつまらなかった状況じょうきょうはだいぶ改善かいぜんされ、外国がいこくさん阿片あへん相場そうば総崩そうくずれとなったが、国内こくない阿片あへん利用りようしゃ爆発ばくはつてき増加ぞうかしたというおおきな弊害へいがいまねかれた[81]中国ちゅうごくなに世紀せいきつづいたアヘン貿易ぼうえき一時いちじてきながら根絶こんぜつするのは毛沢東もうたくとう時代じだいの1950年代ねんだいはじめであった[82]

戦争せんそう余波よは

編集へんしゅう

きよし中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくへの影響えいきょう

編集へんしゅう
 
海国かいこくこころざしだい3かんえがかれた東半球ひがしはんきゅう地図ちず

アヘン戦争せんそうしんがわ敗戦はいせんであったが、これについて深刻しんこく衝撃しょうげきけたひとかぎられていた。北京ぺきんからとおはなれた広東かんとん主戦しゅせんじょうであったことや、中華ちゅうか民族みんぞくやぶれることはまま歴史れきしじょうられたことがその原因げんいんである。広東かんとんシステムもとづく管理かんり貿易ぼうえき廃止はいしさせられたものの、きよしは、依然いぜんとして中華ちゅうか思想しそうてておらず、イギリスをそのも「えいえびす」とつづけた。

しかし、一部いちぶ人々ひとびとは、イギリスがそれまでの中国ちゅうごく歴史れきしじょう度々どど登場とうじょうした「夷狄いてき」とはことなる存在そんざいであることを見抜みぬいていた。たとえばはやしそくじょ親交しんこうのあったげんは、はやしのりじょ収集しゅうしゅうしていたイギリスやアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく情報じょうほうたくされ、それをもと海国かいこくこころざし中国語ちゅうごくごばんあらわした[83][84]。「えびすちょうわざとしもっえびすせいす」という一節いっせつは、これ以後いご中国ちゅうごく近代きんだいがたどった西欧せいおう諸国しょこく技術ぎじゅつ思想しそう受容じゅようして改革かいかくはかるというスタイルを端的たんてきにいいあらわしたことばである。このしょひがしアジアにおけるはじめての本格ほんかくてき世界せかい紹介しょうかいしょであった。それまでにも地誌ちしはあったが、西にしヨーロッパ諸国しょこくについてはきわめて粗略そりゃく誤解ごかいちたものであったため、くわしい情報じょうほうしるしたげんの『海国かいこくこころざし』は画期的かっきてきであったといえよう。ただし、このこころみはあくまでもげんによる個人こじんてき作業さぎょうであって、政府せいふ機関きかん主導しゅどうによる体系たいけいてき事業じぎょうたとえば日本にっぽん江戸えど幕府ばくふ長崎ながさき拠点きょてんったようなそれ)ではなかったので、げんによる折角せっかく努力どりょく後継こうけいしゃ不在ふざいため発展はってんせず、中国ちゅうごく社会しゃかい全体ぜんたいにはたいして影響えいきょうおよぼさなかった。

その太平たいへい天国てんごくらんなどがきる一方いっぽう1860年代ねんだいからようつとむ運動うんどうによる近代きんだいはかられた[85]

阿片あへん戦争せんそう影響えいきょうは、きよし存在そんざいした中国ちゅうごく大陸たいりく現在げんざい支配しはいしている中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくにもおよんでいるという指摘してきもある。同国どうこくでは1kg以上いじょう阿片あへん密輸みつゆ販売はんばい運搬うんぱん製造せいぞうすると、薬物やくぶつ密輸みつゆ販売はんばい運搬うんぱん製造せいぞうざい刑法けいほうだい347じょう)となり、15ねん以上いじょう懲役ちょうえき無期むき徒刑とけいまた死刑しけいしょされたうえ財産ざいさん没収ぼっしゅうされる。これについて、韓国かんこく中央日報ちゅうおうにっぽうは「アヘン戦争せんそうのトラウマによるもの」と指摘してきしている[86]天安門てんあんもん広場ひろばにある人民じんみん英雄えいゆうねんには阿片あへん戦争せんそう屈辱くつじょくから中国共産党ちゅうごくきょうさんとうによる大陸たいりく制覇せいはまでの歴史れきしかかげている。

ぎん高騰こうとう

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アヘンの輸入ゆにゅうりょうは1800〜01ねんやく4,500はこいちはこやく60kg)から1830〜31ねんには2まんはこ阿片あへん戦争せんそう前夜ぜんやの1838〜39ねんにはやく4まんはこたっした。このため1830年代ねんだいまつにはアヘンの代価だいかとして清朝せいちょう国家こっか歳入さいにゅうの80%に相当そうとうするぎん国外こくがい流出りゅうしゅつし、国内こくない銀流ぎんながしどおりりょういちじるしく減少げんしょうさせて銀貨ぎんか高騰こうとうをもたらした。当時とうじきよし銀本位ぎんほんいせいであり、銀貨ぎんか銅銭どうせん併用へいようされ、その交換こうかん比率ひりつ相場そうば連動れんどうしていた。いぬいたかし時代じだいにはぎん1りょうやく37g)は銅銭どうせん700〜800ぶん交換こうかんされていたが、1830ねんには1,200ぶんとなり30年代ねんだいまつには最大さいだいで2,000ぶんたっした。

ひのとぎん税額ぜいがくぎんなんりょうというかたち指定していされるが、農民のうみん実際じっさいにするのは銅銭どうせんであり、納税のうぜいさいには銅銭どうせんぎん換算かんさんしなければならなかった。つまり、銀貨ぎんかばい高騰こうとうすることは納税のうぜいがくばいえることを意味いみした。

日本にっぽんへの影響えいきょう

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清朝せいちょう敗戦はいせんは、長崎ながさき入港にゅうこうしていたオランダきよし商船しょうせんいんつうじて幕末ばくまつ日本にっぽんにもつたえられた。西洋せいよう諸国しょこく軍事ぐんじりょく東洋とうようして、圧倒的あっとうてき優勢ゆうせいであることがいよいよ明白めいはくになったため、おおきな衝撃しょうげきをもってむかえられた[87]。かつて強国きょうこくであったはずのきよし敗北はいぼくは、さらにそのさきひがしアジア進出しんしゅつするための西洋せいよう旗印はたじるしとなる危機ききてき懸念けねんがあり、すみやかな国体こくたい変革へんかく急務きゅうむであることを日本にっぽんさとらせた。中国ちゅうごく国内こくないでは重要じゅうようされなかったげんの『海国かいこくこころざし[88]もすぐに日本にっぽんつたえられ、吉田よしだ松陰しょういん佐久間さくま象山ぞうさんら、幕末ばくまつにおける重要じゅうよう人物じんぶつ影響えいきょうあたえ、改革かいかく機運きうんげる一翼いちよくになった。はやしのりじょいた西洋せいよう列強れっきょうへの危惧きぐは、中国ちゅうごくではなく日本にっぽんにおいてかされることになったのである。天保てんぽう14ねん1843ねん)には、昌平しょうへいざか学問がくもんしょにいた斎藤さいとうたけどうが『鴉片あへん始末しまつ[89]というしょう冊子さっしき、清国きよくにそなえのなさと西洋せいよう諸国しょこく兵力へいりょくおそれるべきことをうれえている。

それまで、異国いこくふねつけ次第しだい砲撃ほうげきするという異国いこくせんはらいれいすなど、強硬きょうこう態度たいどっていた江戸えど幕府ばくふも、この戦争せんそう結果けっか驚愕きょうがくした。どう時期じきに、日本人にっぽんじん漂流ひょうりゅうみんおくとどけてくれたふねかえすというモリソンごう事件じけん発生はっせいしたこともあり、天保てんぽう13ねん(1842ねん)には、方針ほうしん転換てんかんして、異国いこくせんたきぎみず便宜べんぎはか薪水しんすい給与きゅうよれいあらたにすなど、欧米おうべい列強れっきょうへの態度たいど軟化なんかさせる[87]。この幕府ばくふ対外たいがい軟化なんかが、やがて開国かいこくおおきな要因よういんとなり、ペリー来航らいこう明治維新めいじいしんて、日本にっぽん近代きんだいへとつながることになった[90]

アヘン戦争せんそうあつかった作品さくひん

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小説しょうせつ

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 処分しょぶんちゅう石灰せっかいとの反応はんのうにより処分しょぶん塩水えんすいけむりげた[33][32]処分しょぶん公開こうかいおこなわれ、けむりげる光景こうけいにもえがかれた[32]。このけむりげるなどから、後年こうねん、この処分しょぶんについて、「焼却しょうきゃく」とあやまつたえられることもあった[32]
  2. ^ この当時とうじマカオは清国きよくにりょうであり、ポルトガルは公式こうしきにはマカオにかんする権利けんり一切いっさいゆうしておらず、居住きょじゅう事実じじつじょう黙認もくにんされているにぎなかった[45][46]。そのためポルトガルのマカオ総督そうとく清国きよくにがわ行政ぎょうせいけん行使こうし拒否きょひすることはできなかった[45][46]
  3. ^ イギリスがわには「このときはやしそくじょはイギリスじん殺害さつがいはかり、井戸いどどくれた」とする風説ふうせつがあり、イギリスがわによる文献ぶんけんには事実じじつのようにかれていることがあるが、実際じっさいにははやしのりじょ食料しょくりょう供給きょうきゅう禁止きんし使用人しようにん退去たいきょめいじたにぎない[45][47]。イギリスじん退去たいきょもマカオにはポルトガルじん従前じゅうぜん同様どうよう居住きょじゅうしているが、井戸いどどくによる健康けんこう被害ひがいなどは発生はっせいしていない。また、はやしのりじょもとめたのはアヘン禁絶きんぜつ誓約せいやく住民じゅうみん殺害さつがい事件じけん捜査そうさ犯人はんにんわたしであるにもかかわらず、それを拒否きょひして全員ぜんいん船上せんじょうへの退去たいきょめたのはエリオットである[45][47]
  4. ^ このころアメリカ商人しょうにんがイギリス商人しょうにん要求ようきゅうした香港ほんこんおき泊地はくち-広州こうしゅうあいだ中継ちゅうけい運賃うんちん単価たんかは、サンフランシスコ-広州こうしゅうあいだ運賃うんちん単価たんかをも上回うわまわいちじるしく高額こうがくのものだった[39][48]
  5. ^ グラッドストン議会ぎかいで「たしかに中国人ちゅうごくじんにはおろかしい大言壮語たいげんそうご高慢こうまん習癖しゅうへきがあり、それもすほどである。しかし、正義せいぎ異教徒いきょうとにしてはん文明ぶんめい野蛮やばんじんたる中国人ちゅうごくじんがわにある」と演説えんぜつしてアヘン戦争せんそう反対はんたいした[59]他方たほうグラッドストンは「中国人ちゅうごくじん井戸いどどくいてもよい」という過激かげき発言はつげんおこない、答弁とうべんったパーマストン子爵ししゃくはこの失言しつげん見逃みのがさず、「グラッドストン議員ぎいん野蛮やばん戦闘せんとう方法ほうほう支持しじするものである」とぎゃく追及ついきゅうしてかれをやりめた[60]

出典しゅってん

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  14. ^ 近代きんだい誕生たんじょう だいIIIまき』p.113 清国きよくには1810ねん - 1820ねんには2600まんドルの貿易ぼうえき黒字くろじ計上けいじょうしている。
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参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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