アヘン戦争 せんそう (アヘンせんそう、中 なか : 鴉片 あへん 戰爭 せんそう 、第 だい 一 いち 次 じ 鴉片 あへん 戰爭 せんそう 、英 えい : First Opium War )は、清 きよし とイギリス の間 あいだ で1840年 ねん から2年間 ねんかん にわたり行 おこな われた戦争 せんそう である。
イギリスは、インド で製造 せいぞう したアヘン を、清 きよし に輸出 ゆしゅつ して巨額 きょがく の利益 りえき を得 え ていた。アヘン販売 はんばい を禁止 きんし していた清 きよし は、アヘンの蔓延 まんえん に対 たい してその全面 ぜんめん 禁輸 きんゆ を断行 だんこう し、イギリス商人 しょうにん の保有 ほゆう するアヘンを没収 ぼっしゅう ・処分 しょぶん したため、反発 はんぱつ したイギリスとの間 あいだ で戦争 せんそう となった。イギリスの勝利 しょうり に終 お わり[2] 、1842年 ねん に南京 なんきん 条約 じょうやく が締結 ていけつ され、イギリスへの香港 ほんこん の割譲 かつじょう 他 た 、清 きよし にとって不平等 ふびょうどう 条約 じょうやく となった。
なお、アロー戦争 せんそう を第 だい 二 に 次 じ とみなして第 だい 一 いち 次 じ アヘン戦争 せんそう とも呼 よ ばれる。
もともと清 きよし は1757年 ねん 以来 いらい 広東 かんとん 港 こう でのみヨーロッパ 諸国 しょこく と交易 こうえき を行 おこな い、公 おおやけ 行 ぎょう という北京 ぺきん 政府 せいふ の特許 とっきょ を得 え た商人 しょうにん にしかヨーロッパ商人 しょうにん との交易 こうえき を認 みと めてこなかった(広東 かんとん 貿易 ぼうえき 制度 せいど )。
一方 いっぽう ヨーロッパ側 がわ で中国 ちゅうごく 貿易 ぼうえき の大半 たいはん を握 にぎ っているのはイギリス東 ひがし インド会社 かいしゃ であり、同社 どうしゃ は現地 げんち に「管 かん 貨人委員 いいん 会 かい 」(Select Committee of Supercargoes)という代表 だいひょう 機関 きかん を設置 せっち していた。しかし北京 ぺきん 政府 せいふ はヨーロッパとの交易 こうえき を一貫 いっかん して「朝貢 ちょうこう 」と認識 にんしき していたため、直接 ちょくせつ の貿易 ぼうえき 交渉 こうしょう には応 おう じようとしなかった。そのため管 かん 貨人委員 いいん 会 かい さえも公 おおやけ 行 ぎょう を通 つう じて「稟」という請願 せいがん 書 しょ を広東 かんとん 地方 ちほう 当局 とうきょく に提出 ていしゅつ できるだけであった。
このような広東 かんとん 貿易 ぼうえき 制度 せいど は中国 ちゅうごく 市場 いちば 開拓 かいたく を目指 めざ すイギリスにとっては満足 まんぞく のいくものではなかった。広東 かんとん 貿易 ぼうえき 制度 せいど の廃止 はいし 、すなわち北京 ぺきん 政府 せいふ による貿易 ぼうえき や居住 きょじゅう の制限 せいげん や北京 ぺきん 政府 せいふ の朝貢 ちょうこう 意識 いしき を是正 ぜせい することによって英 えい 中 ちゅう 自由 じゆう 貿易 ぼうえき を確立 かくりつ することが課題 かだい になっていった。
イギリス東 ひがし インド会社 かいしゃ は1773年 ねん にベンガル阿片 あへん の専売 せんばい 権 けん を獲得 かくとく しており、ついで1797年 ねん にはその製造 せいぞう 権 けん も獲得 かくとく しており、これ以降 いこう 同社 どうしゃ は中国 ちゅうごく への組織 そしき 的 てき な阿片 あへん 売 う り込 こ みを開始 かいし していた。北京 ぺきん 政府 せいふ は阿片 あへん 貿易 ぼうえき を禁止 きんし していたが、地方 ちほう の中国人 ちゅうごくじん アヘン商人 しょうにん が官憲 かんけん を買収 ばいしゅう して取 と り締 し まりを免 まぬか れつつ密 みつ 貿易 ぼうえき に応 おう じたため、阿片 あへん 貿易 ぼうえき は拡大 かくだい していく一方 いっぽう だった。1823年 ねん には阿片 あへん がインド綿花 めんか に代 か わって中国 ちゅうごく 向 む け輸出 ゆしゅつ の最大 さいだい の商品 しょうひん となり、収入 しゅうにゅう の20%が阿片 あへん になった。広東 かんとん 貿易 ぼうえき の枠外 わくがい での阿片 あへん 貿易 ぼうえき の拡大 かくだい は、広東 かんとん 貿易 ぼうえき 制度 せいど の崩壊 ほうかい につながることとなる。[7]
イギリス東 ひがし インド会社 かいしゃ の対 たい 中国 ちゅうごく 貿易 ぼうえき 特許 とっきょ は1834年 ねん に失効 しっこう し、独占 どくせん 体制 たいせい は終了 しゅうりょう して、これまで同社 どうしゃ の下請 したうけ 等 とう の形 かたち で貿易 ぼうえき 活動 かつどう を行 おこな っていた個人 こじん 貿易 ぼうえき 商 しょう に委 ゆだ ねられることとなった[8] [9] 。これに伴 ともな い、同年 どうねん 、イギリス政府 せいふ は、東 ひがし インド会社 かいしゃ の管 かん 貨人委員 いいん 会 かい に代 か わって現地 げんち で自国 じこく 商人 しょうにん の指導 しどう ・監督 かんとく を行 おこな う貿易 ぼうえき 監督 かんとく 官 かん を派遣 はけん することとした[10] [9] 。初代 しょだい 監督 かんとく 官 かん にはウィリアム・ジョン・ネイピア (英語 えいご 版 ばん ) が任命 にんめい され、ネイピアは清 きよし の両 りょう 広 こう 総督 そうとく との直接 ちょくせつ の接触 せっしょく を目指 めざ したが、性急 せいきゅう な実現 じつげん に固執 こしつ したため紛争 ふんそう 化 か し、武力 ぶりょく 衝突 しょうとつ を招 まね き、失敗 しっぱい した[11] [12] 。
当時 とうじ のイギリスは、茶 ちゃ 、陶磁器 とうじき 、絹 きぬ を大量 たいりょう に清 きよ から輸入 ゆにゅう していた。一方 いっぽう 、イギリスから清 きよし へ輸出 ゆしゅつ されるものは時計 とけい や望遠鏡 ぼうえんきょう のような富裕 ふゆう 層 そう 向 む けの物品 ぶっぴん はあったものの、大量 たいりょう に輸出 ゆしゅつ 可能 かのう な製品 せいひん が存在 そんざい しなかったため[13] 、イギリスの大幅 おおはば な輸入 ゆにゅう 超過 ちょうか [14] であった。イギリスは産業 さんぎょう 革命 かくめい による資本 しほん 蓄積 ちくせき やアメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう の戦費 せんぴ 確保 かくほ のため、銀 ぎん の国外 こくがい 流出 りゅうしゅつ を抑制 よくせい する政策 せいさく をとった。そのためイギリスは植民 しょくみん 地 ち のインド で栽培 さいばい した麻薬 まやく であるアヘンを清 きよし に密 みつ 輸出 ゆしゅつ する事 こと で超 ちょう 過分 かぶん を相殺 そうさい し、三角 さんかく 貿易 ぼうえき を整 ととの えることとなった。
中国 ちゅうごく の明 あきら 代 だい 末期 まっき からアヘン吸引 きゅういん の習慣 しゅうかん が広 ひろ まり、清 しん 代 だい の1796年 ねん (嘉 よしみ 慶 けい 元年 がんねん )にアヘン輸入 ゆにゅう 禁止 きんし となる。以降 いこう 19世紀 せいき に入 はい ってからも何 なん 度 ど となく禁止 きんし 令 れい が発 はっ せられたが、アヘンの密輸入 みつゆにゅう は止 や まず、国内産 こくないさん アヘンの取 と り締 し まりも効果 こうか がなかったので、清 きよし 国内 こくない にアヘン吸引 きゅういん の悪弊 あくへい が広 ひろ まっていき、健康 けんこう を害 がい する者 もの が多 おお くなり、風紀 ふうき も退廃 たいはい していった。また、人口 じんこう が18世紀 せいき 以降 いこう 急増 きゅうぞう したことに伴 ともな い、治安 ちあん が低下 ていか し、自暴自棄 じぼうじき の下層 かそう 民 みん が増 ふ えたこともそれを助長 じょちょう させた[15] 。アヘンの代金 だいきん は銀 ぎん で決済 けっさい したことから、アヘンの輸入 ゆにゅう 量 りょう 増加 ぞうか により貿易 ぼうえき 収支 しゅうし が逆転 ぎゃくてん [16] 、清 きよし 国内 こくない の銀 ぎん 保有 ほゆう 量 りょう が激減 げきげん し後述 こうじゅつ のとおり銀 ぎん の高騰 こうとう を招 まね いた。
道 みち 光 こう 帝 みかど (左 ひだり )と林 はやし 則 のり 徐 じょ (右 みぎ )。
清 きよし では、この事態 じたい に至 いた って、官僚 かんりょう の許 もと 乃済 から『許 もと 太 ふと 常 つね 奏 そう 議 ぎ 』といわれる「弛 たゆ 禁 きん 論 ろん 」が上奏 じょうそう された[17] [18] 。概要 がいよう は「アヘンを取 と り締 し まる事 こと は無理 むり だから輸入 ゆにゅう を認 みと めて関税 かんぜい を徴収 ちょうしゅう したほうが良 よ い」というものである。しかしこの主張 しゅちょう に対 たい しては多 おお くの強 つよ い反論 はんろん が提出 ていしゅつ され論破 ろんぱ された[19] [20] 。その後 ご 、「アヘンを厳 きび しく禁止 きんし し吸引 きゅういん した者 もの は死刑 しけい に処 しょ すものとすることで、風紀 ふうき を粛正 しゅくせい しアヘンの需要 じゅよう も消滅 しょうめつ させ銀 ぎん の国外 こくがい 流出 りゅうしゅつ も絶 た つ」とする「厳禁 げんきん 論 ろん 」が黄 き 爵滋 から上奏 じょうそう され、道 みち 光 こう 帝 みかど はアヘン厳禁 げんきん 策 さく の採用 さいよう を決 き めた[21] [22] 。道 みち 光 こう 帝 みかど は黄 き 爵滋の上奏 じょうそう 文 ぶん を基 もと に各地 かくち の地方 ちほう 長官 ちょうかん に具体 ぐたい 策 さく を検討 けんとう させ、最 もっと も優 すぐ れた提案 ていあん を行 おこな った林 はやし 則 のり 徐 じょ を起用 きよう することとした[23] [24] 。林 はやし 則 のり 徐 じょ は1838年 ねん (道 みち 光 こう 18年 ねん )に欽差大臣 だいじん (特命 とくめい 全権 ぜんけん 大臣 だいじん のこと)に任命 にんめい され、広東 かんとん に赴任 ふにん し、アヘン密輸 みつゆ の取 と り締 し まりに当 あ たった[25] [26] 。
林 はやし 則 のり 徐 じょ はアヘンを扱 あつか う商人 しょうにん からの贈賄 ぞうわい にも応 おう じず、現地 げんち の総督 そうとく ・巡 めぐ 撫 なで や軍 ぐん 幹部 かんぶ らと協力 きょうりょく してアヘン密輸 みつゆ に対 たい する非常 ひじょう に厳 きび しい取 と り締 し まりを行 おこな った。1839年 ねん (道 みち 光 こう 19年 ねん )には、広州 こうしゅう の外国 がいこく 商人 しょうにん たちに、「今後 こんご 、一切 いっさい アヘンを清国 きよくに 国内 こくない に持 も ち込 こ まない。」という旨 むね の誓約 せいやく 書 しょ を同年 どうねん 3月 がつ 21日 にち までに提出 ていしゅつ した上 うえ 保有 ほゆう するアヘンも供出 きょうしゅつ するよう要求 ようきゅう し、「今後 こんご アヘンを持 も ち込 こ んだ場合 ばあい は死刑 しけい に処 しょ する」と通告 つうこく した[27] [28] 。これをイギリス商人 しょうにん や貿易 ぼうえき 監督 かんとく 官 かん チャールズ・エリオット が無視 むし し期限 きげん を経過 けいか したため、林 はやし 則 のり 徐 じょ は彼等 かれら の滞在 たいざい するイギリス商館 しょうかん に官 かん 兵 へい を差 さ し向 む けて包囲 ほうい し、保有 ほゆう するアヘンの供出 きょうしゅつ を約 やく させた[29] [30] 。
大量 たいりょう のアヘンの没収 ぼっしゅう ・収容 しゅうよう には同年 どうねん 4月 がつ 11日 にち から5月 がつ 18日 にち までを要 よう し、林 はやし 則 のり 徐 じょ らはこれを6月 がつ 3日 にち から6月 がつ 25日 にち までかかって現地 げんち で処分 しょぶん した[31] [32] 。焼却 しょうきゃく 処分 しょぶん では燃 も え残 のこ りが出 で るため、専用 せんよう の処分 しょぶん 池 ち を建設 けんせつ し、アヘン塊 かたまり を切断 せつだん して水 みず に浸 ひた した上 うえ で、塩 しお と石灰 せっかい を投入 とうにゅう して化学 かがく 反応 はんのう によって無害 むがい 化 か させ、海 うみ に放出 ほうしゅつ した[33] [32] [注釈 ちゅうしゃく 1] 。この時 とき に処分 しょぶん したアヘンの総量 そうりょう は1,400トンを超 こ えた[34] 。
この林 はやし 則 そく 徐 じょ の処置 しょち にエリオットは反発 はんぱつ し、全 すべ てのイギリス商人 しょうにん に誓約 せいやく 書 しょ 提出 ていしゅつ を禁 きん じた上 うえ 、全員 ぜんいん を率 ひき いて広州 こうしゅう からマカオ に退去 たいきょ した[35] [36] 。抗議 こうぎ の意思 いし 表示 ひょうじ であったが、清国 きよくに 側 がわ には何 なん らダメージとはならなかった[37] [38] 。
林 はやし 則 のり 徐 じょ は、外国 がいこく 商人 しょうにん の来航 らいこう ・交易 こうえき 自体 じたい を禁止 きんし することは非 ひ 現実 げんじつ 的 てき で不可能 ふかのう であることを理解 りかい しており、目的 もくてき は外国 がいこく 商人 しょうにん の追放 ついほう ではなく、アヘン禁絶 きんぜつ を誓約 せいやく させ、合法 ごうほう 的 てき な商業 しょうぎょう 活動 かつどう に専念 せんねん させることにあった[39] [40] 。アメリカ商人 しょうにん をはじめとするイギリス以外 いがい の商人 しょうにん の多 おお くは、もともとアヘンとの関 かか わりが少 すく なく、清国 きよくに 当局 とうきょく に誓約 せいやく 書 しょ を提出 ていしゅつ して商業 しょうぎょう 活動 かつどう を続 つづ けた[41] [42] 。
北京 ぺきん の清政 きよまさ 府内 ふない で阿片 あへん 禁止 きんし 論 ろん が強 つよ まっていた1836年 ねん 、イギリス外相 がいしょう パーマストン子爵 ししゃく は現地 げんち イギリス人 じん の保護 ほご のため、植民 しょくみん 地 ち 勤務 きんむ 経験 けいけん が豊富 ほうふ な外交 がいこう 官 かん チャールズ・エリオット を清国 きよくに 貿易 ぼうえき 監督 かんとく 官 かん として広東 かんとん に派遣 はけん した[43] 。またパーマストン子爵 ししゃく は海軍 かいぐん 省 しょう を通 つう じて東 ひがし インド艦隊 かんたい に対 たい し、清 きよし に対 たい する軍事 ぐんじ 行動 こうどう の規制 きせい を大幅 おおはば に緩 ゆる めるのでエリオットに協力 きょうりょく するよう通達 つうたつ した[43] 。ただし、いまだ阿片 あへん 取 と り締 し まりが始 はじ まっていないこの段階 だんかい ではパーマストン子爵 ししゃく も直接 ちょくせつ の武力 ぶりょく 圧力 あつりょく をかけることは禁 きん じている[43] 。
1839年 ねん 3月 がつ に広東 かんとん に着任 ちゃくにん した林 はやし 則 のり 徐 じょ による一連 いちれん の阿片 あへん 取 と り締 し まりがはじまると、エリオットはイギリス商人 しょうにん の所持 しょじ する阿片 あへん の引 ひ き渡 わた しの要求 ようきゅう には応 おう じたが、誓約 せいやく 書 しょ の提出 ていしゅつ は拒否 きょひ し、5月24日 にち には広東 かんとん 在住 ざいじゅう の全 ぜん イギリス人 じん を連 つ れてマカオ に退去 たいきょ した[44] (前述 ぜんじゅつ )。急速 きゅうそく な事態 じたい の進展 しんてん に東 ひがし インド艦隊 かんたい も事態 じたい を掴 つか んでおらず、軍艦 ぐんかん を派遣 はけん してこなかったため、エリオットの元 もと には武力 ぶりょく がなかった。
この状況 じょうきょう 下 か で林 はやし 則 のり 徐 じょ は、イギリス側 がわ のアヘン禁絶 きんぜつ 誓約 せいやく に向 む けてさらに圧力 あつりょく を加 くわ えることとし、また九 きゅう 龍 りゅう 半島 はんとう で発生 はっせい したイギリス船員 せんいん による現地 げんち 住民 じゅうみん 殺害 さつがい 事件 じけん の捜査 そうさ をエリオットが拒否 きょひ したこともあり、8月 がつ 15日 にち に誓約 せいやく 書 しょ を提出 ていしゅつ しない在 ざい マカオイギリス人 じん への食料 しょくりょう 供給 きょうきゅう を禁 きん じ、商館 しょうかん の中国人 ちゅうごくじん 使用人 しようにん の退去 たいきょ を命 めい じた[45] [46] [注釈 ちゅうしゃく 2] 。エリオットは依然 いぜん としてアヘン禁絶 きんぜつ 誓約 せいやく に応 おう じず、エリオット以下 いか イギリス人 じん は8月 がつ 26日 にち にマカオも放棄 ほうき して船上 せんじょう へ避難 ひなん することになった[45] [47] [注釈 ちゅうしゃく 3] 。
ここに至 いた る一連 いちれん のエリオットの対応 たいおう の結果 けっか 、イギリス商人 しょうにん は広州 こうしゅう との直接 ちょくせつ 貿易 ぼうえき が完全 かんぜん に断 た たれ、アメリカ商人 しょうにん を介 かい さなければならなくなり、極 きわ めて高額 こうがく の中継 ちゅうけい 運賃 うんちん 負担 ふたん [注釈 ちゅうしゃく 4] 等 ひとし の不利益 ふりえき を強 し いられることとなった[39] [48] 。
ここでようやく東 ひがし インド艦隊 かんたい のフリゲート 艦 かん (「ボレージ」「ヒヤシンス」)が2隻 せき だけ到着 とうちゃく したが、エリオットと清国 きよくに の揉 も め事 ごと を察知 さっち したわけではなく、パーマストン子爵 ししゃく の方針 ほうしん にしたがってたまたま来 き ただけであり、しかも6等 とう 艦 かん というイギリス海軍 かいぐん の序列 じょれつ では最下 さいか 等 とう の軍艦 ぐんかん であった。だがエリオットはこの2隻 せき を使 つか って早速 さっそく に反撃 はんげき を試 こころ みた[49] 。9月4日 にち にエリオットは九 きゅう 龍 りゅう 沖 おき で清国 きよくに 兵船 へいせん に砲撃 ほうげき を行 おこな ったが、清国 きよくに 側 がわ はイギリス船 せん への食料 しょくりょう 密売 みつばい を一部 いちぶ 黙認 もくにん したのみで、アヘン禁絶 きんぜつ 誓約 せいやく を求 もと める方針 ほうしん を変 か えなかった[50] 。
その後 ご 10月 がつ 初 はじ め頃 ごろ までには、清国 きよくに 側 がわ は食料 しょくりょう 供給 きょうきゅう 禁止 きんし 等 とう を解除 かいじょ し、イギリス人 じん はマカオに復帰 ふっき した[51] [52] 。誓約 せいやく 書 しょ 問題 もんだい を一時 いちじ 棚上 たなあ げして広州 こうしゅう 港外 こうがい の虎 とら 門 もん で貿易 ぼうえき を再開 さいかい する提案 ていあん がなされたが、清国 きよくに 側 がわ は応 おう じなかった[51] [53] 。
エリオットは、全 すべ ての自国 じこく 商人 しょうにん に対 たい し、清国 きよくに 当局 とうきょく へのアヘン禁絶 きんぜつ 誓約 せいやく 書 しょ の提出 ていしゅつ を禁 きん じ続 つづ けていたが、林 はやし 則 のり 徐 じょ ら清国 きよくに 側 がわ は、むしろ誓約 せいやく 書 しょ 提出 ていしゅつ の上 うえ でアヘン以外 いがい の通常 つうじょう の商業 しょうぎょう 活動 かつどう を行 おこな うことを当初 とうしょ から勧奨 かんしょう しており、イギリス商人 しょうにん の中 なか でもアヘンに関 かか わっていない者 もの にはエリオットへの不満 ふまん が高 たか まっていた[39] [54] 。
10月に入 はい ってからは、正当 せいとう な貿易 ぼうえき 品 ひん であるインド綿花 めんか やジャワ米 まい を積 つ んで来航 らいこう したイギリス商船 しょうせん が、エリオットに従 したが わず清国 きよくに 当局 とうきょく に誓約 せいやく 書 しょ を提出 ていしゅつ したうえ、一部 いちぶ は広州 こうしゅう 入港 にゅうこう を果 は たすという事態 じたい が発生 はっせい した[55] [56] 。清国 きよくに 側 がわ は、イギリス側 がわ をさらにアヘン禁絶 きんぜつ 誓約 せいやく に動 うご かすことを狙 ねら い、未 み 誓約 せいやく 者 しゃ に解禁 かいきん したばかりの食料 しょくりょう 供給 きょうきゅう 等 とう を再 ふたた び禁止 きんし し、エリオットに対 たい して誓約 せいやく 書 しょ 提出 ていしゅつ の圧力 あつりょく を強 つよ めた[55] [56] 。
川 かわ 鼻 はな 海戦 かいせん (1839年 ねん 11月3日 にち )
エリオットは、1839年 ねん 10月 がつ 末 まつ に、2隻 せき のフリゲ ふりげ ート艦 とかん を率 ひき いて川 かわ 鼻 はな 沖 おき で誓約 せいやく 書 しょ 提出 ていしゅつ 済 ず みの自国 じこく 商船 しょうせん の広州 こうしゅう 入港 にゅうこう を妨害 ぼうがい し、さらに11月3日 にち には清国 きよくに 兵船 へいせん への攻撃 こうげき を開始 かいし した(川 かわ 鼻 はな 海戦 かいせん )[57] [58] 。清国 きよくに 側 がわ は広東 かんとん 水 みず 師 し 提督 ていとく 関 せき 天 たかし 培 つちかえ が督戦 とくせん し、ポルトガル製 せい の艦 かん 砲 ほう を搭載 とうさい した艦 かん を含 ふく む29隻 せき の兵船 へいせん が出動 しゅつどう したものの、ボレージ号 ごう に損傷 そんしょう を与 あた えたのみで、大半 たいはん の兵船 へいせん が自力 じりき 航行 こうこう 不能 ふのう の損害 そんがい を受 う けた[57] [58] 。
一方 いっぽう イギリス本国 ほんごく も外相 がいしょう パーマストン子爵 ししゃく の主導 しゅどう で対 たい 清 しん 開戦 かいせん に傾 かたむ いており、1839年 ねん 10月 がつ 1日 にち にメルバーン子爵 ししゃく 内閣 ないかく の閣議 かくぎ において遠征 えんせい 軍 ぐん 派遣 はけん が決定 けってい した[49] 。「阿片 あへん の密輸 みつゆ 」という開戦 かいせん 理由 りゆう に対 たい しては、清教徒 せいきょうと 的 てき な考 かんが え方 かた を持 も つ人々 ひとびと からの反発 はんぱつ が強 つよ く、イギリス本国 ほんごく の庶民 しょみん 院 いん でも、野党 やとう 保守党 ほしゅとう のウィリアム・グラッドストン (後 のち に自由党 じゆうとう 首相 しゅしょう )らを中心 ちゅうしん に「不義 ふぎ の戦争 せんそう 」とする批判 ひはん があったが[注釈 ちゅうしゃく 5] 、清 きよし に対 たい しての出兵 しゅっぺい に関 かん する予算 よさん 案 あん は賛成 さんせい 271票 ひょう 、反対 はんたい 262票 ひょう の僅差 きんさ で承認 しょうにん され、この議決 ぎけつ を受 う けたイギリス海軍 かいぐん は、イギリス東洋 とうよう 艦隊 かんたい を編成 へんせい して派遣 はけん した。総 そう 司令 しれい 官 かん 兼 けん 特命 とくめい 全権 ぜんけん 大使 たいし には、チャールズ・エリオットの従兄 じゅうけい のジョージ・エリオット (英語 えいご 版 ばん ) が任命 にんめい され、チャールズは副使 ふくし となった[61] [62] 。
1840年 ねん 8月 がつ までに軍艦 ぐんかん 16隻 せき 、輸送 ゆそう 船 せん 27隻 せき 、東 ひがし インド会社 かいしゃ 所有 しょゆう の武装 ぶそう 汽船 きせん 4隻 せき 、陸軍 りくぐん 兵士 へいし 4,000人 にん が中国 ちゅうごく に到着 とうちゃく した[63] 。イギリス艦隊 かんたい は林 はやし 則 のり 徐 じょ が大量 たいりょう の兵力 へいりょく を集 あつ めていた広州 こうしゅう ではなく、より北方 ほっぽう の防備 ぼうび が手薄 てうす な地域 ちいき に向 む かい、舟山 ふなやま 列島 れっとう を攻略 こうりゃく した後 のち 、長駆 ちょうく 首都 しゅと 北京 ぺきん に近 ちか い天津 てんしん 沖 おき へ入 はい った[64] [65] 。
天津 てんしん に軍艦 ぐんかん が現 あらわ れたことに驚 おどろ いた道 みち 光 こう 帝 みかど は、林 はやし 則 そく 徐 おもむろ に開戦 かいせん の責 せめ を負 お わせて新 しん 疆イリ へ左遷 させん し、和平 わへい 派 は のキシャン を後任 こうにん に任 にん じてイギリスに交渉 こうしょう を求 もと めた。イギリス軍 ぐん 側 がわ もモンスーン の接近 せっきん を警戒 けいかい しており、また舟山 ふなやま 列島 れっとう 占領 せんりょう 軍 ぐん の間 あいだ に病 やまい が流行 りゅうこう していたため、これに応 おう じて9月 がつ に一時 いちじ 撤収 てっしゅう した[66] 。
この間 あいだ イギリス側 がわ は、清国 きよくに との交渉 こうしょう 方針 ほうしん を巡 めぐ って両 りょう エリオットの対立 たいりつ が激化 げきか し、特命 とくめい 全権 ぜんけん 大使 たいし のジョージ・エリオットは11月29日 にち に病気 びょうき と称 しょう して帰国 きこく してしまった[67] [68] 。
1841年 ねん 1月 がつ 20日 はつか にはキシャンとチャールズ・エリオットの間 あいだ で川 かわ 鼻 はな 条約 じょうやく (広東 かんとん 貿易 ぼうえき 早期 そうき 再開 さいかい 、香港 ほんこん 割譲 かつじょう 、賠償金 ばいしょうきん 600万 まん ドル支払 しはら い、公 おおやけ 行 ぎょう 廃止 はいし 、両国 りょうこく 官憲 かんけん の対等 たいとう 交渉 こうしょう 。後 ご の南京 なんきん 条約 じょうやく と比 くら べると比較的 ひかくてき 清 きよし に好意 こうい 的 てき だった)が締結 ていけつ された。ところがイギリス軍 ぐん が撤収 てっしゅう するや清政 きよまさ 府内 ふない で強硬 きょうこう 派 は が盛 も り返 かえ し、道 みち 光 こう 帝 みかど はキシャンを罷免 ひめん して川 かわ 鼻 はな 条約 じょうやく の正式 せいしき な締結 ていけつ も拒否 きょひ した[69] 。
チャールズ・エリオットも、本国 ほんごく に無断 むだん で舟山 ふなやま 列島 れっとう を返還 へんかん したため罷免 ひめん となり、後任 こうにん の特命 とくめい 全権 ぜんけん 大使 たいし にヘンリー・ポッティンジャー (英語 えいご 版 ばん ) が任命 にんめい され、1841年 ねん 8月 がつ 11日 にち に着任 ちゃくにん した[70] [71] 。
首脳 しゅのう 陣 じん が交代 こうたい したイギリス軍 ぐん は、本国 ほんごく の方針 ほうしん により軍事 ぐんじ 行動 こうどう を再開 さいかい した。イギリス艦隊 かんたい は廈門 、舟山 ふなやま 列島 れっとう 、寧 やすし 波 なみ など揚子江 ようすこう 以南 いなん の沿岸 えんがん 地域 ちいき を次々 つぎつぎ と制圧 せいあつ していった[72] 。三 さん 元 げん 里 さと 事件 じけん での現地 げんち 民間 みんかん 人 じん の奮戦 ふんせん や、虎 とら 門 もん の戦 たたか いでの関 せき 天 たかし 培 つちかえ らの奮戦 ふんせん もあったが、完全 かんぜん に制海権 せいかいけん を握 にぎ り、火力 かりょく にも優 まさ るイギリス側 がわ が自由 じゆう に上陸 じょうりく 地点 ちてん を選択 せんたく できる状況 じょうきょう 下 か 、戦争 せんそう は複数 ふくすう の拠点 きょてん を防御 ぼうぎょ しなければならない清 きよし 側 がわ 正規 せいき 軍 ぐん に対 たい する、一方 いっぽう 的 てき な各個 かっこ 撃破 げきは の様相 ようそう を呈 てい した。とくに「ネメシス」号 ごう をはじめとした東 ひがし インド会社 かいしゃ 汽走砲艦 ほうかん の活躍 かつやく は目覚 めざ ましく、水深 すいしん の浅 あさ い内陸 ないりく 水路 すいろ に容易 ようい に侵入 しんにゅう し、清 しん 軍 ぐん のジャンク 兵船 へいせん を次々 つぎつぎ と沈 しず めて、後続 こうぞく の艦隊 かんたい の進入 しんにゅう を成功 せいこう に導 みちび いた[73] 。
広州 こうしゅう では広 こう 東水 ひがしみず 師 し 提督 ていとく 関 せき 天 たかし 培 つちかえ が戦死 せんし し、鎮海 ・寧 やすし 波 なみ 陥落 かんらく 時 じ には浙江 せっこう 方面 ほうめん 防衛 ぼうえい 責任 せきにん 者 しゃ の両 りょう 江 こう 総督 そうとく 兼 けん 欽差大臣 だいじん 裕 ひろし 謙 けん (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) (ユキャン)[74] が自決 じけつ した[75] [76] 。浙江 せっこう 戦線 せんせん では清 しん 軍 ぐん は増援 ぞうえん を受 う けて反撃 はんげき を試 こころ みたが、失敗 しっぱい した[77] 。
イギリス艦隊 かんたい はモンスーン に備 そな えて1841年 ねん から1842年 ねん にかけての冬 ふゆ の間 あいだ は停止 ていし したが、1842年 ねん 春 はる にインドのセポイ 6,700人 にん 、本国 ほんごく からの援軍 えんぐん 2,000人 にん 、新 あら たな汽走砲艦 ほうかん などの増強 ぞうきょう を受 う けて北 きた 航 こう を再開 さいかい した。5月に対 たい 日 にち 貿易 ぼうえき 港 こう の乍浦 を、次 つ いで揚子江 ようすこう 口 くち の呉 ご 淞要塞 ようさい を陥落 かんらく させて揚子江 ようすこう へ進入 しんにゅう を開始 かいし し(ここでも汽走砲艦 ほうかん が活躍 かつやく )、7月 がつ には鎮江 を陥落 かんらく させた[78] [79] 。イギリス軍 ぐん が鎮江を抑 おさ えたことにより京 きょう 杭 くい 大 だい 運河 うんが は止 と められ、北京 ぺきん は補給 ほきゅう を断 た たれた[80] 。
呉 ご 淞では江南 こうなん 提督 ていとく の陳 ひね 化成 かせい (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) が戦死 せんし し、乍浦・鎮江では駐 ちゅう 防 ぼう 八 はち 旗 はた 兵 へい が玉砕 ぎょくさい した[78] [79] 。また乍浦や鎮江ではイギリス軍 ぐん による大 だい 規模 きぼ な住民 じゅうみん 虐殺 ぎゃくさつ ・婦女 ふじょ 暴行 ぼうこう ・略奪 りゃくだつ が発生 はっせい している[78] [79] 。
この破滅 はめつ 的 てき 状況 じょうきょう を前 まえ に道 みち 光 こう 帝 みかど ら北京 ぺきん 政府 せいふ の戦意 せんい は完全 かんぜん に失 うしな われた[80] 。
イギリス海軍 かいぐん の進撃 しんげき ルート
1841
年 ねん 8
月 がつ 26
日 にち 、
厦門 あもい で
清 しん 軍 ぐん を
圧倒 あっとう する
第 だい 18
近衛 このえ アイルランド 連隊 れんたい 。
清 しん 軍 ぐん ジャンク 兵船 へいせん を
沈 しず めていくイギリス
軍艦 ぐんかん
イギリス軍艦 ぐんかん 「HMSコーンウォリス 」号 ごう 内 ない で締結 ていけつ された南京 なんきん 条約 じょうやく 。
1842年 ねん 8月 がつ 29日 にち 、両国 りょうこく は南京 なんきん 条約 じょうやく に調印 ちょういん し、アヘン戦争 せんそう (第 だい 一 いち 次 じ アヘン戦争 せんそう )は終結 しゅうけつ した。
アヘン戦争 せんそう 以前 いぜん 、清国 きよくに は広東 かんとん (広州 こうしゅう )、福建 ふっけん (厦門 あもい )、浙江 せっこう (寧 やすし 波 なみ )に海 うみ 関 せき を置 お き、外国 がいこく との海上 かいじょう 貿易 ぼうえき の拠点 きょてん として管理 かんり 貿易 ぼうえき (公 おおやけ 行 ぎょう 制度 せいど )を実施 じっし していた。南京 なんきん 条約 じょうやく では公 おおやけ 行 ぎょう 制度 せいど (一部 いちぶ の貿易 ぼうえき 商 しょう による独占 どくせん 貿易 ぼうえき )を廃止 はいし し自由 じゆう 貿易 ぼうえき 制 せい に改 あらた め、従来 じゅうらい の3港 こう に福 ふく 州 しゅう 、上海 しゃんはい を加 くわ えた5港 こう を自由 じゆう 貿易 ぼうえき 港 こう と定 さだ めた。加 くわ えて本 ほん 条約 じょうやく ではイギリスへの賠償金 ばいしょうきん の支払 しはらい 及 およ び香港 ほんこん (香港 ほんこん 島 とう )の割譲 かつじょう が定 さだ められた。また、翌年 よくねん の虎 とら 門 もん 寨追加 ついか 条約 じょうやく では治外法権 ちがいほうけん 、関税 かんぜい 自主権 じしゅけん 放棄 ほうき 、最恵国 さいけいこく 待遇 たいぐう 条項 じょうこう 承認 しょうにん などが定 さだ められた。
このイギリスと清国 きよくに との不平等 ふびょうどう 条約 じょうやく の他 ほか に、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく との望 もち 厦条約 じょうやく 、フランス との黄 き 埔条約 じょうやく などが結 むす ばれている。
この戦争 せんそう をイギリスが引 ひ き起 お こした目的 もくてき は大 おお きく言 い って2つある。それは、東 ひがし アジア で支配 しはい 的 てき 存在 そんざい であった中国 ちゅうごく を中心 ちゅうしん とする朝貢 ちょうこう 体制 たいせい の打破 だは と、厳 きび しい貿易 ぼうえき 制限 せいげん を撤廃 てっぱい して自国 じこく の商品 しょうひん をもっと中国 ちゅうごく 側 がわ に買 か わせることである。しかし、結果 けっか として清国 きよくに ・イギリス間 あいだ における外交 がいこう 体制 たいせい に大 おお きな風穴 かざあな を開 あ けることには成功 せいこう したものの、もう一 ひと つの経済 けいざい 的 てき 目的 もくてき は達成 たっせい されなかった。中国 ちゅうごく 製 せい の綿 めん 製品 せいひん がイギリス製品 せいひん の輸入 ゆにゅう を阻害 そがい したからである。これを良 い しとしなかったイギリスは次 つぎ の機会 きかい をうかがうようになり、これが第 だい 二 に 次 じ アヘン戦争 せんそう とも言 い われるアロー戦争 せんそう へとつながっていくことになった。
なお、この戦争 せんそう の結果 けっか として締結 ていけつ された南京 なんきん 条約 じょうやく には、阿片 あへん についてひと言 こと も言及 げんきゅう しなかったため、終戦 しゅうせん 後 ご も外国 がいこく からの阿片 あへん の流入 りゅうにゅう と銀 ぎん の流出 りゅうしゅつ が止 と まらなかった。清国 きよくに の政府 せいふ はこれに対抗 たいこう するために、主 おも に西北 せいほく 部 ぶ と西南 せいなん 部 ぶ でのケシの種 たね 植 うえ と阿片 あへん の生産 せいさん を奨励 しょうれい した政策 せいさく を打 う ち出 だ した。国内 こくない での阿片 あへん の生産 せいさん 増加 ぞうか により銀 ぎん の流出 りゅうしゅつ が止 と まらなかった状況 じょうきょう はだいぶ改善 かいぜん され、外国 がいこく 産 さん 阿片 あへん の相場 そうば も総崩 そうくず れとなったが、国内 こくない の阿片 あへん 利用 りよう 者 しゃ が爆発 ばくはつ 的 てき に増加 ぞうか したという大 おお きな弊害 へいがい が招 まね かれた[81] 。中国 ちゅうごく が何 なに 世紀 せいき も続 つづ いたアヘン貿易 ぼうえき を一時 いちじ 的 てき ながら根絶 こんぜつ するのは毛沢東 もうたくとう 時代 じだい の1950年代 ねんだい 初 はじ めであった[82] 。
清 きよし ・中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく への影響 えいきょう
編集 へんしゅう
海国 かいこく 図 ず 志 こころざし の第 だい 3巻 かん に描 えが かれた東半球 ひがしはんきゅう の地図 ちず
アヘン戦争 せんそう は清 しん 側 がわ の敗戦 はいせん であったが、これについて深刻 しんこく な衝撃 しょうげき を受 う けた人 ひと は限 かぎ られていた。北京 ぺきん から遠 とお く離 はな れた広東 かんとん が主戦 しゅせん 場 じょう であったことや、中華 ちゅうか が異 い 民族 みんぞく に敗 やぶ れることはまま歴史 れきし 上 じょう に見 み られたことがその原因 げんいん である。広東 かんとん システム に基 もと づく管理 かんり 貿易 ぼうえき は廃止 はいし させられたものの、清 きよし は、依然 いぜん として中華 ちゅうか 思想 しそう を捨 す てておらず、イギリスをその後 ご も「英 えい 夷 えびす 」と呼 よ び続 つづ けた。
しかし、一部 いちぶ の人々 ひとびと は、イギリスがそれまでの中国 ちゅうごく の歴史 れきし 上 じょう に度々 どど 登場 とうじょう した「夷狄 いてき 」とは異 こと なる存在 そんざい であることを見抜 みぬ いていた。たとえば林 はやし 則 そく 徐 じょ と親交 しんこう のあった魏 ぎ 源 げん は、林 はやし 則 のり 徐 じょ が収集 しゅうしゅう していたイギリスやアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の情報 じょうほう を託 たく され、それを元 もと に『海国 かいこく 図 ず 志 こころざし (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) 』 を著 あらわ した[83] [84] 。「夷 えびす の長 ちょう 技 わざ を師 し とし以 もっ て夷 えびす を制 せい す」という一節 いっせつ は、これ以後 いご の中国 ちゅうごく 近代 きんだい 史 し がたどった西欧 せいおう 諸国 しょこく の技術 ぎじゅつ ・思想 しそう を受容 じゅよう して改革 かいかく を図 はか るというスタイルを端的 たんてき にい表 いあらわ したことばである。この書 しょ は東 ひがし アジアにおける初 はじ めての本格 ほんかく 的 てき な世界 せかい 紹介 しょうかい 書 しょ であった。それまでにも地誌 ちし はあったが、西 にし ヨーロッパ諸国 しょこく については極 きわ めて粗略 そりゃく で誤解 ごかい に満 み ちたものであったため、詳 くわ しい情報 じょうほう を記 しる した魏 ぎ 源 げん の『海国 かいこく 図 ず 志 こころざし 』は画期的 かっきてき であったといえよう。ただし、この試 こころ みはあくまでも魏 ぎ 源 げん による個人 こじん 的 てき な作業 さぎょう であって、政府 せいふ 機関 きかん 主導 しゅどう による体系 たいけい 的 てき な事業 じぎょう (例 たと えば日本 にっぽん の江戸 えど 幕府 ばくふ が長崎 ながさき を拠点 きょてん に行 い ったようなそれ)ではなかったので、魏 ぎ 源 げん による折角 せっかく の努力 どりょく も後継 こうけい 者 しゃ 不在 ふざい の為 ため 発展 はってん せず、中国 ちゅうごく 社会 しゃかい 全体 ぜんたい には大 たい して影響 えいきょう を及 およ ぼさなかった。
その後 ご 、太平 たいへい 天国 てんごく の乱 らん などが起 お きる一方 いっぽう 、1860年代 ねんだい から洋 よう 務 つとむ 運動 うんどう による近代 きんだい 化 か が図 はか られた。
阿片 あへん 戦争 せんそう の影響 えいきょう は、清 きよし が存在 そんざい した中国 ちゅうごく 大陸 たいりく を現在 げんざい 支配 しはい している中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく にも及 およ んでいるという指摘 してき もある。同国 どうこく では1kg以上 いじょう の阿片 あへん を密輸 みつゆ 、販売 はんばい 、運搬 うんぱん 、製造 せいぞう すると、薬物 やくぶつ 密輸 みつゆ 販売 はんばい 運搬 うんぱん 製造 せいぞう 罪 ざい (刑法 けいほう 第 だい 347条 じょう )となり、15年 ねん 以上 いじょう の懲役 ちょうえき 、無期 むき 徒刑 とけい 又 また は死刑 しけい に処 しょ された上 うえ 、財産 ざいさん を没収 ぼっしゅう される。これについて、韓国 かんこく の中央日報 ちゅうおうにっぽう は「アヘン戦争 せんそう のトラウマによるもの」と指摘 してき している[86] 。天安門 てんあんもん 広場 ひろば にある人民 じんみん 英雄 えいゆう 紀 き 念 ねん 碑 ひ には阿片 あへん 戦争 せんそう の屈辱 くつじょく から中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう による大陸 たいりく 制覇 せいは までの歴史 れきし を掲 かか げている。
アヘンの輸入 ゆにゅう 量 りょう は1800〜01年 ねん の約 やく 4,500箱 はこ (一 いち 箱 はこ 約 やく 60kg)から1830〜31年 ねん には2万 まん 箱 はこ 、阿片 あへん 戦争 せんそう 前夜 ぜんや の1838〜39年 ねん には約 やく 4万 まん 箱 はこ に達 たっ した。このため1830年代 ねんだい 末 まつ にはアヘンの代価 だいか として清朝 せいちょう 国家 こっか 歳入 さいにゅう の80%に相当 そうとう する銀 ぎん が国外 こくがい に流出 りゅうしゅつ し、国内 こくない の銀流 ぎんながし 通 どおり 量 りょう を著 いちじる しく減少 げんしょう させて銀貨 ぎんか の高騰 こうとう をもたらした。当時 とうじ の清 きよし は銀本位 ぎんほんい 制 せい であり、銀貨 ぎんか と銅銭 どうせん が併用 へいよう され、その交換 こうかん 比率 ひりつ は相場 そうば と連動 れんどう していた。乾 いぬい 隆 たかし 時代 じだい には銀 ぎん 1両 りょう (約 やく 37g)は銅銭 どうせん 700〜800文 ぶん と交換 こうかん されていたが、1830年 ねん には1,200文 ぶん となり30年代 ねんだい 末 まつ には最大 さいだい で2,000文 ぶん に達 たっ した。
地 ち 丁 ひのと 銀 ぎん の税額 ぜいがく は銀 ぎん 何 なん 両 りょう という形 かたち で指定 してい されるが、農民 のうみん が実際 じっさい に手 て にするのは銅銭 どうせん であり、納税 のうぜい の際 さい には銅銭 どうせん を銀 ぎん に換算 かんさん しなければならなかった。つまり、銀貨 ぎんか が倍 ばい に高騰 こうとう することは納税 のうぜい 額 がく が倍 ばい に増 ふ えることを意味 いみ した。
清朝 せいちょう の敗戦 はいせん は、長崎 ながさき に入港 にゅうこう していたオランダ や清 きよし の商船 しょうせん 員 いん を通 つう じて幕末 ばくまつ の日本 にっぽん にも伝 つた えられた。西洋 せいよう 諸国 しょこく の軍事 ぐんじ 力 りょく が東洋 とうよう に比 ひ して、圧倒的 あっとうてき に優勢 ゆうせい であることがいよいよ明白 めいはく になったため、大 おお きな衝撃 しょうげき をもって迎 むか えられた[87] 。かつて強国 きょうこく であったはずの清 きよし の敗北 はいぼく は、さらにその先 さき の東 ひがし アジア へ進出 しんしゅつ するための西洋 せいよう の旗印 はたじるし となる危機 きき 的 てき な懸念 けねん があり、速 すみ やかな国体 こくたい の変革 へんかく が急務 きゅうむ であることを日本 にっぽん に悟 さと らせた。中国 ちゅうごく 国内 こくない では重要 じゅうよう 視 し されなかった魏 ぎ 源 げん の『海国 かいこく 図 ず 志 こころざし 』[88] もすぐに日本 にっぽん に伝 つた えられ、吉田 よしだ 松陰 しょういん や佐久間 さくま 象山 ぞうさん ら、幕末 ばくまつ における重要 じゅうよう 人物 じんぶつ に影響 えいきょう を与 あた え、改革 かいかく の機運 きうん を盛 も り上 あ げる一翼 いちよく を担 にな った。林 はやし 則 のり 徐 じょ の抱 だ いた西洋 せいよう 列強 れっきょう への危惧 きぐ は、中国 ちゅうごく ではなく日本 にっぽん において活 い かされることになったのである。天保 てんぽう 14年 ねん (1843年 ねん )には、昌平 しょうへい 坂 ざか 学問 がくもん 所 しょ にいた斎藤 さいとう 竹 たけ 堂 どう が『鴉片 あへん 始末 しまつ 』[89] という小 しょう 冊子 さっし を書 か き、清国 きよくに の備 そな えのなさと西洋 せいよう 諸国 しょこく の兵力 へいりょく の恐 おそれ るべきことを憂 うれ えている。
それまで、異国 いこく の船 ふね は見 み つけ次第 しだい 砲撃 ほうげき するという異国 いこく 船 せん 打 だ 払 はらい 令 れい を出 だ すなど、強硬 きょうこう な態度 たいど を取 と っていた江戸 えど 幕府 ばくふ も、この戦争 せんそう 結果 けっか に驚愕 きょうがく した。同 どう 時期 じき に、日本人 にっぽんじん 漂流 ひょうりゅう 民 みん を送 おく り届 とど けてくれた船 ふね を追 お い返 かえ すというモリソン号 ごう 事件 じけん が発生 はっせい したこともあり、天保 てんぽう 13年 ねん (1842年 ねん )には、方針 ほうしん を転換 てんかん して、異国 いこく 船 せん に薪 たきぎ や水 みず の便宜 べんぎ を図 はか る薪水 しんすい 給与 きゅうよ 令 れい を新 あら たに打 う ち出 だ すなど、欧米 おうべい 列強 れっきょう への態度 たいど を軟化 なんか させる[87] 。この幕府 ばくふ の対外 たいがい 軟化 なんか が、やがて開国 かいこく の大 おお きな要因 よういん となり、ペリー来航 らいこう 、明治維新 めいじいしん を経 へ て、日本 にっぽん の近代 きんだい 化 か へとつながることになった[90] 。
^ 処分 しょぶん 中 ちゅう 、石灰 せっかい との反応 はんのう により処分 しょぶん 池 ち の塩水 えんすい は煙 けむり を上 あ げた[33] [32] 。処分 しょぶん は公開 こうかい で行 おこな われ、煙 けむり を上 あ げる光景 こうけい は絵 え にも描 えが かれた[32] 。この煙 けむり を上 あ げる絵 え などから、後年 こうねん 、この処分 しょぶん について、「焼却 しょうきゃく 」と誤 あやま り伝 つた えられることもあった[32] 。
^ この当時 とうじ マカオは清国 きよくに 領 りょう であり、ポルトガルは公式 こうしき にはマカオに関 かん する権利 けんり を一切 いっさい 有 ゆう しておらず、居住 きょじゅう を事実 じじつ 上 じょう 黙認 もくにん されているに過 す ぎなかった[45] [46] 。そのためポルトガルのマカオ総督 そうとく は清国 きよくに 側 がわ の行政 ぎょうせい 権 けん 行使 こうし を拒否 きょひ することはできなかった[45] [46] 。
^ イギリス側 がわ には「このとき林 はやし 則 そく 徐 じょ はイギリス人 じん の殺害 さつがい を図 はか り、井戸 いど に毒 どく を入 い れた」とする風説 ふうせつ があり、イギリス側 がわ による文献 ぶんけん には事実 じじつ のように書 か かれていることがあるが、実際 じっさい には林 はやし 則 のり 徐 じょ は食料 しょくりょう 供給 きょうきゅう の禁止 きんし と使用人 しようにん 退去 たいきょ を命 めい じたに過 す ぎない[45] [47] 。イギリス人 じん 退去 たいきょ 後 ご もマカオにはポルトガル人 じん が従前 じゅうぜん 同様 どうよう に居住 きょじゅう しているが、井戸 いど の毒 どく による健康 けんこう 被害 ひがい などは発生 はっせい していない。また、林 はやし 則 のり 徐 じょ が求 もと めたのはアヘン禁絶 きんぜつ の誓約 せいやく と住民 じゅうみん 殺害 さつがい 事件 じけん の捜査 そうさ ・犯人 はんにん 引 ひ き渡 わた しであるにもかかわらず、それを拒否 きょひ して全員 ぜんいん の船上 せんじょう への退去 たいきょ を決 き めたのはエリオットである[45] [47] 。
^ この頃 ころ アメリカ商人 しょうにん がイギリス商人 しょうにん に要求 ようきゅう した香港 ほんこん 沖 おき 泊地 はくち -広州 こうしゅう 間 あいだ の中継 ちゅうけい 運賃 うんちん 単価 たんか は、サンフランシスコ-広州 こうしゅう 間 あいだ の運賃 うんちん 単価 たんか をも上回 うわまわ る著 いちじる しく高額 こうがく のものだった[39] [48] 。
^ グラッドストン は議会 ぎかい で「確 たし かに中国人 ちゅうごくじん には愚 おろ かしい大言壮語 たいげんそうご と高慢 こうまん の習癖 しゅうへき があり、それも度 ど を越 こ すほどである。しかし、正義 せいぎ は異教徒 いきょうと にして半 はん 文明 ぶんめい な野蛮 やばん 人 じん たる中国人 ちゅうごくじん 側 がわ にある」と演説 えんぜつ してアヘン戦争 せんそう に反対 はんたい した[59] 。他方 たほう グラッドストンは「中国人 ちゅうごくじん は井戸 いど に毒 どく を撒 ま いてもよい」という過激 かげき 発言 はつげん も行 おこな い、答弁 とうべん に立 た ったパーマストン子爵 ししゃく はこの失言 しつげん を見逃 みのが さず、「グラッドストン議員 ぎいん は野蛮 やばん な戦闘 せんとう 方法 ほうほう を支持 しじ する者 もの である」と逆 ぎゃく に追及 ついきゅう して彼 かれ をやり込 こ めた[60] 。