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アメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう (アメリカどくりつせんそう、英 えい : American War of Independence )は、1775年 ねん 4月 がつ 19日 にち から1783年 ねん 9月3日 にち までのイギリス 本国 ほんごく (グレートブリテン王国 おうこく )と北 きた アメリカ東部 とうぶ 沿岸 えんがん のイギリス領 りょう の13植民 しょくみん 地 ち との戦争 せんそう 。
アメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう
左上 ひだりうえ から時計 とけい 周 まわ りに : バンカーヒルの戦 たたか い 、ケベックの戦 たたか い におけるリチャード・モントゴメリー 将軍 しょうぐん の死 し 、カウペンスの戦 たたか い 、サン・ビセンテ岬 みさき の月光 げっこう の海戦 かいせん
戦争 せんそう :アメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう
年月日 ねんがっぴ :1775年 ねん -1783年 ねん
場所 ばしょ :北 きた アメリカ東部 とうぶ (現 げん アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく とカナダ )、大西 おおにし 洋 ひろし 、地中海 ちちゅうかい 、カリブ海 かりぶかい
結果 けっか :アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく と支援 しえん 国 こく の勝利 しょうり
アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の独立 どくりつ
交戦 こうせん 勢力 せいりょく
アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく (1776年 ねん 7月 がつ 4日 にち 以前 いぜん は13植民 しょくみん 地 ち )
バーモント共和 きょうわ 国 こく
フランス王国 おうこく
スペイン帝国 ていこく
ネーデルラント連邦 れんぽう 共和 きょうわ 国 こく
オナイダ族 ぞく
タスカローラ族 ぞく
ポーランド 志願 しがん 兵 へい
プロイセン王国 おうこく 志願 しがん 兵 へい
ケベック 志願 しがん 兵 へい マイソール王国 おうこく
グレートブリテン王国 おうこく ハノーファー選 せん 帝 みかど 侯 ほう 領 りょう
ロイヤリスト
イロコイ連邦 れんぽう
ドイツ人 じん 傭兵 ようへい 隊 たい
指導 しどう 者 しゃ ・指揮 しき 官 かん
ジョージ・ワシントン
ホレイショ・ゲイツ
ジョン・ポール・ジョーンズ
ナサニエル・グリーン
ベネディクト・アーノルド
ベンジャミン・リンカーン
ジルベール・ド・ラ・ファイエット
ロシャンボー伯 はく
フランソワ・ド・グラス
ピエール・アンドレ・ド・シュフラン
ガルベス伯 はく
ルイス・コルドバ・イ・コルドバ
タデウシュ・コシチュシュコ
シュトイベン男爵 だんしゃく
ヨハン・ズートマン
ハイダル・アリー †
ティプー・スルターン
ジョージ3世 せい
ウィリアム・ハウ
ヘンリー・クリントン
チャールズ・コーンウォリス (捕虜 ほりょ )
ジョン・バーゴイン (捕虜 ほりょ )
バナスター・タールトン
ベネディクト・アーノルド
ジョセフ・ブラント
ヨハン・ラール
戦力 せんりょく
独立 どくりつ 派 は ・民兵 みんぺい 250,000名 めい フランス軍 ぐん 15,000名 めい スペイン軍 ぐん 8,000名 めい 総計 そうけい : 273,000名 めい
王 おう 党派 とうは 50,000名 めい イギリス軍 ぐん 12,000名 めい ドイツ人 じん 傭兵 ようへい 40,000名 めい インディアン (先住民 せんじゅうみん ) 5,000名 めい 総計 そうけい : 107,000名 めい
損害 そんがい
戦死 せんし または戦病死 せんびょうし 25,000名 めい 負傷 ふしょう 25,000名 めい
戦死 せんし または戦病死 せんびょうし 24,000名 めい 負傷 ふしょう 20,000名 めい
アメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう
現在 げんざい のアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく ではアメリカ革命 かくめい (アメリカかくめい、英 えい : American Revolution )、アメリカ独立 どくりつ 革命 かくめい (アメリカどくりつかくめい、英 えい : American Independence Revolution )もしくは革命 かくめい 戦争 せんそう (かくめいせんそう、英 えい : Revolutionary War )と呼 よ ばれる。一方 いっぽう 、主 おも にイギリスでは、「アメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう 」と呼 よ ばれている[注釈 ちゅうしゃく 1] 。
なお、日本 にっぽん の歴史 れきし 教科書 きょうかしょ では、イギリスと同 おな じく「アメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう 」と表記 ひょうき することもあれば[2] 、単 たん に「独立 どくりつ 戦争 せんそう 」と表記 ひょうき することもある[3] 。
この戦争 せんそう によって植民 しょくみん 地 ち の住民 じゅうみん はイギリスの支配 しはい を拒否 きょひ し、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく (United States)を政治 せいじ 的 てき 独立 どくりつ に導 みちび くことに成功 せいこう した。1775年 ねん 、革命 かくめい 派 は は13植民 しょくみん 地 ち 政府 せいふ の全 すべ てを掌握 しょうあく すると共 とも に、主 おも に政治 せいじ と立法 りっぽう を担当 たんとう する第 だい 二 に 次 じ 大陸 たいりく 会議 かいぎ と軍事 ぐんじ を担当 たんとう する大陸 たいりく 軍 ぐん を発足 ほっそく させた。
翌年 よくねん 、アメリカ独立 どくりつ 宣言 せんげん を発 はっ して、正式 せいしき にアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく という国家 こっか を形作 かたちづく った。戦争 せんそう の全 ぜん 期間 きかん を通 とお して、イギリスは優勢 ゆうせい な海軍 かいぐん 力 りょく によってアメリカ東海岸 ひがしかいがん 沿海 えんかい を制 せい し、海岸 かいがん に近 ちか い幾 いく つかの都市 とし を占領 せんりょう したが、陸軍 りくぐん の兵 へい 数 すう は比較的 ひかくてき 少 すく なく、支配 しはい 地域 ちいき は限定 げんてい 的 てき であった。
アメリカ大陸 あめりかたいりく 軍 ぐん がサラトガの戦 たたか い で勝利 しょうり して間 あいだ もない1778年 ねん には、フランス王国 おうこく がアメリカ側 がわ に付 つ いて参戦 さんせん した。 スペイン帝国 ていこく やネーデルラント連邦 れんぽう 共和 きょうわ 国 こく (オランダ)も、その後 ご の2年 ねん 以内 いない にアメリカ側 がわ に付 つ いた。1781年 ねん にフランス海軍 かいぐん がチェサピーク湾 わん の海戦 かいせん で勝利 しょうり したことをきっかけに、アメリカ大陸 あめりかたいりく 軍 ぐん とフランス王国 おうこく 派遣 はけん 軍 ぐん は1781年 ねん のヨークタウンの戦 たたか い でイギリス軍 ぐん を降伏 ごうぶく させ、実質 じっしつ 的 てき な戦闘 せんとう は終了 しゅうりょう した。
1783年 ねん のパリ条約 じょうやく で戦争 せんそう が終結 しゅうけつ し、イギリスはアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の独立 どくりつ を正式 せいしき に認 みと めた。
アメリカ植民 しょくみん 地 ち が独立 どくりつ への道 みち を歩 あゆ み始 はじ めたそもそものきっかけはイギリス本国 ほんごく による課税 かぜい の強化 きょうか にあり、それはフレンチ・インディアン戦争 せんそう (1754年 ねん - 1763年 ねん )による財政 ざいせい 危機 きき の解消 かいしょう を目的 もくてき としたものであった。イギリス政府 せいふ は1764年 ねん に砂糖 さとう 法 ほう 、1765年 ねん には印紙 いんし 法 ほう を成立 せいりつ させて植民 しょくみん 地 ち からの税収 ぜいしゅう 増 ぞう を図 はか ったが、特 とく に印紙 いんし 法 ほう はアメリカで広範 こうはん な反対 はんたい 運動 うんどう を呼 よ び起 お こし、撤廃 てっぱい に追 お い込 こ まれた。
1767年 ねん にイギリス本国 ほんごく 議会 ぎかい がタウンゼンド諸法 しょほう を制定 せいてい して植民 しょくみん 地 ち へ新 あら たに税 ぜい を課 か そうと試 こころ みると、またも反対 はんたい 運動 うんどう が盛 も り上 あ がり、1770年 ねん にタウンゼンド関税 かんぜい も撤廃 てっぱい させられた。だが、このとき茶 ちゃ に対 たい する課税 かぜい は廃止 はいし されず、本国 ほんごく の茶 ちゃ は植民 しょくみん 地 ち の不満 ふまん の象徴 しょうちょう となった。
1773年 ねん の茶 ちゃ 法 ほう によってイギリス東 ひがし インド会社 かいしゃ の茶 ちゃ が安 やす く植民 しょくみん 地 ち に流入 りゅうにゅう することになると植民 しょくみん 地 ち 商人 しょうにん の怒 いか りは頂点 ちょうてん に達 たっ し、1773年 ねん 12月にはボストン 港 みなと 停泊 ていはく 中 ちゅう の東 ひがし インド会社 かいしゃ 船 せん に暴徒 ぼうと が乱入 らんにゅう し、積載 せきさい されていた茶 ちゃ を海 うみ に投棄 とうき した(ボストン茶会 ちゃかい 事件 じけん )。
そうした中 なか で1774年 ねん に、イギリス議会 ぎかい は植民 しょくみん 地 ち に対 たい して次々 つぎつぎ と懲罰 ちょうばつ 的 てき な立法 りっぽう 措置 そち を実行 じっこう した。こうした危機 きき にチャタム伯 はく ウィリアム・ピット (大 だい ピット)は滞 とどこお 英 えい 中 ちゅう のベンジャミン・フランクリン と協力 きょうりょく して議会 ぎかい に植民 しょくみん 地 ち と和解 わかい するよう働 はたら きかけた。しかし、首相 しゅしょう フレデリック・ノース は国王 こくおう ジョージ3世 せい の強 つよ い意志 いし を背景 はいけい に、植民 しょくみん 地 ち に強硬 きょうこう な態度 たいど で臨 のぞ む決意 けつい だった。
一連 いちれん のイギリス 側 がわ の政策 せいさく に対 たい し、13植民 しょくみん 地 ち は対策 たいさく 協議 きょうぎ のために大陸 たいりく 会議 かいぎ を開 ひら いてイギリス本国 ほんごく との和解 わかい の道 みち を探 さぐ ったが、打開 だかい できないままであった。
ノースカロライナ では1764年 ねん から1771年 ねん まで、世直 よなお し家 か らが民衆 みんしゅう の支持 しじ を得 え てしばしば蜂起 ほうき し、民兵 みんぺい 隊 たい をもって反乱 はんらん 指導 しどう 者 しゃ を処刑 しょけい しようとする支配 しはい 者 しゃ 層 そう に対 たい する世直 よなお しの戦争 せんそう に突入 とつにゅう した。
戦争 せんそう が始 はじ まった当初 とうしょ は、アメリカには職業 しょくぎょう 的 てき な陸軍 りくぐん も海軍 かいぐん も無 な く、各 かく 植民 しょくみん 地 ち には地元 じもと の民兵 みんぺい 部隊 ぶたい が存在 そんざい するのみで、これが自 みずか らの地域 ちいき 防衛 ぼうえい にあたっていた。独立 どくりつ 戦争 せんそう 前 まえ のアメリカでは、イギリス軍 ぐん が各 かく 植民 しょくみん 地 ち の民兵 みんぺい 隊 たい を補助 ほじょ 的 てき に用 もち いていた。開戦 かいせん 時 じ 、一部 いちぶ を除 のぞ いてこの民兵 みんぺい 隊 たい のほぼ全 すべ てがアメリカ大陸 あめりかたいりく 軍 ぐん に加 くわ わった。民兵 みんぺい の装備 そうび は簡単 かんたん なものであり、ほとんど訓練 くんれん されておらず、通常 つうじょう の制服 せいふく も無 な かった。当時 とうじ は、民兵 みんぺい の従軍 じゅうぐん 期間 きかん は数 すう 週間 しゅうかん から数 すう か月 げつ 間 あいだ に限 かぎ られており、家 いえ から遠 とお く離 はな れた所 ところ へは行 い きたがらなかったので、通常 つうじょう 、大 だい 規模 きぼ な作戦 さくせん には使 つか えなかった。民兵 みんぺい には正規 せいき 兵 へい のような訓練 くんれん や規律 きりつ が欠 か けていたが数 かず では勝 まさ り、レキシントン・コンコードの戦 たたか い 、ベニントンの戦 たたか い とサラトガ、さらにボストン包囲 ほうい 戦 せん では正規 せいき 兵 へい を打 う ち負 ま かすことができた。米 べい 英 えい 両 りょう 軍 ぐん 共 ども にゲリラ 戦 せん を用 もち いたが、大陸 たいりく 軍 ぐん はイギリス軍 ぐん 正規 せいき 兵 へい がいない地域 ちいき で効果 こうか 的 てき に王 おう 党派 とうは の活動 かつどう を抑 おさ えた[4] [5] [6] 。
イギリス軍 ぐん に従軍 じゅうぐん したドイツ人 じん 傭兵 ようへい 。ヘシアンと呼 よ ばれた。
1775年 ねん 6月 がつ 、組織 そしき だった作戦 さくせん 行動 こうどう をとるため、大陸 たいりく 会議 かいぎ は正規 せいき 軍 ぐん を(紙 かみ の上 うえ で)設立 せつりつ しジョージ・ワシントン を総 そう 司令 しれい 官 かん に任命 にんめい した。大陸 たいりく 軍 ぐん が成長 せいちょう を続 つづ ける中 なか で、ワシントンは正規 せいき 軍 ぐん と民兵 みんぺい の両方 りょうほう を使 つか い続 つづ けた。1775年 ねん 10月13日 にち 、大陸 たいりく 会議 かいぎ が大陸 たいりく 海軍 かいぐん のための艦船 かんせん 建造 けんぞう に承認 しょうにん を与 あた えられたことによりアメリカ海軍 かいぐん が発足 ほっそく し、この時 とき 4隻 せき の武装 ぶそう 船 せん の購入 こうにゅう および艤装 ぎそう が認 みと められた。アメリカ海兵 かいへい 隊 たい の前身 ぜんしん である大陸 たいりく 海兵 かいへい 隊 たい も1775年 ねん 11月10日 にち の大陸 たいりく 会議 かいぎ の決議 けつぎ により結成 けっせい され、フィラデルフィア のタン酒場 さかば を最初 さいしょ の本拠 ほんきょ にした。
1783年 ねん の終戦 しゅうせん 時 じ 、大陸 たいりく 海軍 かいぐん と大陸 たいりく 海兵 かいへい 隊 たい は解体 かいたい された。独立 どくりつ 戦争 せんそう を通 つう じ、延 の べ約 やく 25万 まん 人 にん の兵士 へいし が正規 せいき 兵 へい または民兵 みんぺい として従軍 じゅうぐん したが、どの期間 きかん においても武装 ぶそう した兵士 へいし は9万 まん 人 にん を越 こ える事 こと は無 な かった。大陸 たいりく 陸軍 りくぐん は当時 とうじ のヨーロッパの標準 ひょうじゅん 的 てき な軍隊 ぐんたい から考 かんが えれば小 ちい さなものだった。ワシントンが自 みずか ら戦場 せんじょう で指揮 しき した兵士 へいし の数 かず は一番 いちばん 多 おお い時 とき でも17,000名 めい 足 た らずであった。これは、戦術 せんじゅつ 的 てき 選択 せんたく の結果 けっか であったが、アメリカ軍 ぐん が弾薬 だんやく に不足 ふそく していたために多 おお くの兵士 へいし を一 いち 度 ど に使 つか えなかった側面 そくめん も存在 そんざい した[注釈 ちゅうしゃく 2] [注釈 ちゅうしゃく 3] 。
1775年 ねん の初期 しょき 、イギリス陸軍 りくぐん は世界 せかい で36,000名 めい ほどいたが、戦時 せんじ には徴募 ちょうぼ によって確実 かくじつ にこの数字 すうじ を増 ふ やしていた。さらに、アメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう のときは、ドイツ 諸侯 しょこう から約 やく 30,000名 めい の兵士 へいし を雇用 こよう した。この兵士 へいし の多 おお くはヘッセン=カッセル方 かた 伯 はく 領 りょう から来 き ていたので、「ヘシアン」すなわちヘッセン人 じん と呼 よ ばれた。この軍隊 ぐんたい は主君 しゅくん に雇 やと われた職業 しょくぎょう 軍人 ぐんじん という意味 いみ での傭兵 ようへい 軍 ぐん であった。ドイツ兵 へい は北 きた アメリカでのイギリス軍 ぐん 兵力 へいりょく の3分 ぶん の1を占 し めた。1779年 ねん までに北 きた アメリカに駐屯 ちゅうとん するイギリス兵 へい とドイツ兵 へい の総数 そうすう は6万 まん 名 めい を超 こ えた。ただし、兵力 へいりょく はカナダ からフロリダ まで分散 ぶんさん した形 かたち になっていた[7] [8] 。
アフリカ系 けい アメリカ人 じん および先住民 せんじゅうみん 族 ぞく
編集 へんしゅう
アフリカ系 けい アメリカ人 じん は、解放 かいほう された元 もと 奴隷 どれい も奴隷 どれい のままの者 もの も米 べい 英 えい 両 りょう 軍 ぐん ともに従軍 じゅうぐん した。
イギリス軍 ぐん は積極 せっきょく 的 てき に、愛国 あいこく 者 しゃ を主人 しゅじん に持 も つ奴隷 どれい を徴募 ちょうぼ した。
大 だい 陸軍 りくぐん 側 がわ においても、1776年 ねん 1月 がつ に、人員 じんいん 不足 ふそく 解消 かいしょう のため総 そう 司令 しれい 官 かん ジョージ・ワシントン は奴隷 どれい 徴募 ちょうぼ の禁止 きんし 令 れい を撤廃 てっぱい した。ロードアイランド とマサチューセッツ では、小 ちい さいながらも全 すべ て黒人 こくじん の部隊 ぶたい が編制 へんせい された。また、フランス軍 ぐん と共 とも にハイチ から全 すべ て黒人 こくじん の部隊 ぶたい が参戦 さんせん した。
少 すく なくとも5,000名 めい の黒人 こくじん が革命 かくめい 軍 ぐん 側 がわ で[9] 、2万 まん 人 にん 以上 いじょう がイギリス軍 ぐん に従軍 じゅうぐん した[10] 。
ミシシッピー川 がわ から東 ひがし にいた先住民 せんじゅうみん 族 ぞく の大半 たいはん が戦争 せんそう に巻 ま き込 こ まれた。多 おお くの部族 ぶぞく 社会 しゃかい は戦争 せんそう への関 かか わり方 かた を巡 めぐ って分裂 ぶんれつ することになったが、それまでアメリカの開拓 かいたく 者 しゃ からの侵略 しんりゃく に曝 さら されていたために、先住民 せんじゅうみん の多 おお くはアメリカと敵対 てきたい する道 みち を選択 せんたく した。およそ、13,000名 めい の戦士 せんし がイギリス側 がわ で戦闘 せんとう に従事 じゅうじ したと推定 すいてい されており、その中 なか ではイロコイ連邦 れんぽう の約 やく 1,500名 めい が最大 さいだい であった[11] [12] 。
北部 ほくぶ での戦 たたか い:1775年 ねん -1780年 ねん
編集 へんしゅう
開戦 かいせん 前 まえ のボストン では反抗 はんこう 的 てき な活動 かつどう が続 つづ き、1774年 ねん にイギリス政府 せいふ は懲罰 ちょうばつ のためマサチューセッツ統治 とうち 法 ほう を制定 せいてい して自治 じち を取 と り上 あ げた。しかし、この政策 せいさく は民衆 みんしゅう の間 あいだ に反発 はんぱつ を広 ひろ げる結果 けっか となり、新 あら たに本国 ほんごく から任命 にんめい された役人 やくにん は辞職 じしょく したり暴徒 ぼうと に追 お われてボストン市内 しない を逃 に げ惑 まど うことになった。イギリス軍 ぐん の北 きた アメリカ総 そう 司令 しれい 官 かん になったトマス・ゲイジ 中将 ちゅうじょう はボストン市内 しない の本部 ほんぶ からイギリス正規 せいき 兵 へい 4個 こ 連隊 れんたい を指揮 しき していたが、市内 しない を外 はず れれば革命 かくめい 勢力 せいりょく の手中 しゅちゅう にあった。
レキシントンの戦 たたか い
1775年 ねん 4月 がつ 18日 にち の夜 よる 、ゲイジ将軍 しょうぐん はマサチューセッツ州 しゅう コンコード に植民 しょくみん 地 ち 民兵 みんぺい が保管 ほかん している弾薬 だんやく を押収 おうしゅう するために700名 めい ほどの部隊 ぶたい を派遣 はけん した。革命 かくめい 勢力 せいりょく に属 ぞく するポール・リビア などの伝令 でんれい が郊外 こうがい の町 まち を駆 か け回 まわ り、イギリス軍 ぐん が出動 しゅつどう したという警告 けいこく を伝 つた えた。4月 がつ 19日 にち の朝 あさ 、イギリス軍 ぐん がレキシントン の村 むら に入 はい ると、77名 めい の民兵 みんぺい が村 むら の緑地 りょくち に待 ま ち構 かま えていた。銃火 じゅうか が交 か わされ、数 すう 人 にん の民兵 みんぺい が殺 ころ された。「1発 はつ の銃声 じゅうせい が世界 せかい を変 か えた」[13] という出来事 できごと であった。イギリス軍 ぐん はコンコードに移動 いどう し、3個 こ 中隊 ちゅうたい の分遣 ぶんけん 隊 たい がノースブリッジで500名 めい の民兵 みんぺい 軍 ぐん と戦 たたか ったが成果 せいか を上 あ げられなかった。イギリス軍 ぐん がボストンに引 ひ き揚 あ げ始 はじ めると、数 すう 千 せん に及 およ ぶ民兵 みんぺい が集 あつ まってきて、道路 どうろ 沿 ぞ いからイギリス軍 ぐん を攻撃 こうげき し大 おお きな損失 そんしつ を与 あた えたが、イギリス軍 ぐん は援兵 えんぺい が到着 とうちゃく し壊滅 かいめつ を免 まぬか れた。このレキシントン・コンコードの戦 たたか い で独立 どくりつ 戦争 せんそう が始 はじ まった。
民兵 みんぺい 達 たち はボストンに集結 しゅうけつ し、ボストン包囲 ほうい 戦 せん が始 はじ まった。約 やく 4,500名 めい のイギリス援兵 えんぺい が本国 ほんごく から大西洋 たいせいよう を渡 わた って到着 とうちゃく し、1775年 ねん 6月17日 にち 、ウィリアム・ハウ 将軍 しょうぐん の指揮 しき するイギリス軍 ぐん がバンカーヒルの戦 たたか い でチャールズタウン の半島 はんとう を占拠 せんきょ した。アメリカ軍 ぐん は後退 こうたい したが、イギリス軍 ぐん の損失 そんしつ が大 おお きく次 つぎ の攻撃 こうげき に移 うつ ることが躊躇 ちゅうちょ された。包囲 ほうい 戦 せん は破 やぶ られず、イギリス軍 ぐん の指揮 しき 官 かん はゲイジからハウに挿 す げ替 か えられた[14] 。
1775年 ねん 7月 がつ 、新 あたら しく指名 しめい されたワシントン将軍 しょうぐん がボストン郊外 こうがい に到着 とうちゃく し、植民 しょくみん 地 ち 軍 ぐん の指揮 しき を執 と り、大陸 たいりく 軍 ぐん を組織 そしき 化 か した。ワシントンは自軍 じぐん に弾薬 だんやく が不足 ふそく していることを認 みと め、新 あたら しい入手 にゅうしゅ 源 げん を求 もと めた。武器 ぶき 庫 こ を襲撃 しゅうげき したりまた製造 せいぞう も試 こころ みられた。1776年 ねん 末 まつ までの軍需 ぐんじゅ 物資 ぶっし の90%は輸入 ゆにゅう に頼 たよ った。その総額 そうがく は200万 まん ポンドに上 のぼ り、輸入 ゆにゅう 元 もと の大半 たいはん はフランスからのものであった[15] 。
手詰 てづ まり状態 じょうたい が秋 あき から冬 ふゆ まで続 つづ いた。1776年 ねん 3月早 はや く、愛国 あいこく 者 しゃ がタイコンデロガ砦 とりで で捕獲 ほかく した大砲 たいほう がヘンリー・ノックス 少佐 しょうさ によってドーチェスター高地 こうち に運 はこ び上 あ げられた。大砲 たいほう がイギリス軍 ぐん を見下 みお ろす形 かたち になったので、ハウ将軍 しょうぐん は防衛 ぼうえい できないと判断 はんだん し、3月17日 にち にボストン市 し を明 あ け渡 わた し、船 ふね でノバスコシア のハリファックス の海軍 かいぐん 基地 きち まで移動 いどう した[16] 。その後 ご ワシントンはニューヨーク 市 し を守 まも るために大陸 たいりく 軍 ぐん の大半 たいはん を移動 いどう させた。
ボストン方面 ほうめん で膠着 こうちゃく 状態 じょうたい に陥 おちい っている間 あいだ 、大陸 たいりく 会議 かいぎ は戦争 せんそう の主導 しゅどう 権 けん を掴 つか もうと他 た 方面 ほうめん で作戦 さくせん 行動 こうどう を起 お こした。大陸 たいりく 会議 かいぎ は当初 とうしょ 、フランス系 けい カナダ人 じん の領土 りょうど を14番目 ばんめ の植民 しょくみん 地 ち として加 くわ えようと動 うご いていたが、これに失敗 しっぱい するとカナダ侵攻 しんこう 作戦 さくせん を承認 しょうにん した。その目的 もくてき はフランス人 じん の多 おお いケベック からイギリスの支配 しはい を取 と り除 のぞ くことであった。
カナダに向 む け2つの遠征 えんせい 隊 たい が派遣 はけん されたが、そのうちの1つ、リチャード・モントゴメリー 准 じゅん 将 はた 率 ひき いる1,700名 めい の民兵 みんぺい 隊 たい は1775年 ねん 9月16日 にち にタイコンデロガ砦 とりで を発進 はっしん し、11月13日 にち にはモントリオール を落 お とした。カナダの知事 ちじ ガイ・カールトンはケベック市 し に撤退 てったい した。2つ目 め の遠征 えんせい 隊 たい はベネディクト・アーノルド 大佐 たいさ に率 ひき いられた部隊 ぶたい で、東 ひがし からケベック市 し に迫 せま ったが、兵站 へいたん に苦 くる しみまた天然痘 てんねんとう で倒 たお れる者 もの が多 おお かった。11月初 はじ めにアーノルド隊 たい がケベック市 し に到着 とうちゃく した時 とき 、当初 とうしょ 1,100名 めい いた部隊 ぶたい は600名 めい にまで減少 げんしょう していた。合流 ごうりゅう したモントゴメリー隊 たい とアーノルド隊 たい は12月31日 にち にケベック市 し を攻撃 こうげき する(ケベックの戦 たたか い )が、カールトンによって完璧 かんぺき に打 う ち負 ま かされた。その後 ご もアメリカ軍 ぐん は1776年 ねん 春 はる までケベック市 し の郊外 こうがい に駐屯 ちゅうとん していたが結局 けっきょく は退却 たいきゃく した。カナダはアメリカ側 がわ よりも多 おお くの兵力 へいりょく を擁 よう し、戦線 せんせん を堅守 けんしゅ した。
アメリカ軍 ぐん はもう一度 いちど ケベックまで押 お し返 かえ そうと試 こころ みたが、1776年 ねん 6月8日 にち のトロワリビエールの戦 たたか い で敗北 はいぼく した。カールトンは逆襲 ぎゃくしゅう に転 てん じ、10月にはバルカー島 とう の戦 たたか い でアーノルドの水軍 すいぐん を破 やぶ る。アーノルドはカナダ侵攻 しんこう 作戦 さくせん の出発 しゅっぱつ 点 てん であったタイコンデロガ砦 とりで まで退却 たいきゃく した。カナダ侵攻 しんこう 作戦 さくせん はアメリカ軍 ぐん にとって悲惨 ひさん な結果 けっか に終 お わったが、アーノルドの工作 こうさく でイギリス軍 ぐん による全面 ぜんめん 的 てき な反攻 はんこう を遅 おく らせることができた。
このカナダ侵攻 しんこう により、アメリカはイギリス世論 せろん における支持 しじ 基盤 きばん を失 うしな った。「だからアメリカに対 たい する武力 ぶりょく 行使 こうし はこの国 くに のあらゆる階層 かいそう と職業 しょくぎょう の人々 ひとびと に快 こころよ く受 う け入 い れられ支持 しじ されるのだ」[17]
ケベックの戦 たたか いでジェイムズ・リビングストン大佐 たいさ の第 だい 1カナダ連隊 れんたい が、またサンピエールの戦 たたか い でモーゼス・ヘイズン の第 だい 2カナダ連隊 れんたい がアメリカ側 がわ に付 つ いた。
1776年 ねん 7月 がつ 4日 にち 、大陸 たいりく 会議 かいぎ はアメリカ独立 どくりつ 宣言 せんげん を採択 さいたく した。
イギリス軍 ぐん のハウ将軍 しょうぐん はボストンから撤退 てったい した後 のち でニューヨーク市 し の奪取 だっしゅ に焦点 しょうてん を絞 しぼ った。大陸 たいりく 軍 ぐん のワシントンはニューヨークの防衛 ぼうえい のためにロングアイランド とマンハッタン の間 あいだ に2万 まん 名 めい の軍隊 ぐんたい を分 わ けた。イギリス軍 ぐん がスタテン島 とう に集結 しゅうけつ する間 あいだ に、ワシントンは新 あたら しく発行 はっこう されたばかりのアメリカ独立 どくりつ 宣言 せんげん を兵士 へいし 達 たち に読 よ み聞 き かせた。もはや妥協 だきょう の余地 よち は無 な くなっていた。1776年 ねん 8月 がつ 27日 にち 、ロングアイランドに上陸 じょうりく した22,000名 めい のイギリス軍 ぐん は、独立 どくりつ 戦争 せんそう の中 なか でも最大 さいだい の会戦 かいせん となったロングアイランドの戦 たたか い で大陸 たいりく 軍 ぐん を駆逐 くちく し、ブルックリン ・ハイツまで後退 こうたい させた。ハウはそこで包囲 ほうい 戦 せん を行 おこな おうとしたが、ワシントンは軍 ぐん もろともマンハッタンに脱出 だっしゅつ できた。
9月15日 にち 、ハウは約 やく 12,000名 めい の部隊 ぶたい をローワー・マンハッタン に上陸 じょうりく させ、直 す ぐにニューヨーク市 し を支配 しはい した。大陸 たいりく 軍 ぐん はハーレム・ハイツまで退 しりぞ き、翌日 よくじつ ハーレム・ハイツの戦 たたか いがおこったが、なんとか陣地 じんち を確保 かくほ することができた。ハウがワシントン軍 ぐん を囲 かこ むように動 うご いたとき、大陸 たいりく 軍 ぐん はさらに後方 こうほう に退 しりぞ いたうえで、10月28日 にち にホワイトプレインズの戦 たたか い が起 お こった。ワシントン軍 ぐん は後退 こうたい を繰 く り返 かえ したので、ハウはマンハッタンに戻 もど りワシントン砦 とりで を占領 せんりょう して約 やく 2,000名 めい を捕虜 ほりょ にした。捕虜 ほりょ の数 かず はロングアイランドの戦 たたか いの時 とき と合 あ わせて3,000名 めい に上 のぼ った。この後 のち 、ニューヨークで悪名 あくめい 高 たか い「監獄 かんごく 船 せん 」が始 はじ まり終戦 しゅうせん まで続 つづ いた。この監獄 かんごく 船 せん で戦闘 せんとう による全 ぜん 死者 ししゃ 数 すう よりも多 おお い11,500人 にん ものアメリカの兵士 へいし や水夫 すいふ が放 はな って置 お かれたまま死 し んだ。
デラウェア川 がわ を渡 わた るワシントン 、エマヌエル・ロイツェ画 が
チャールズ・コーンウォリス 将軍 しょうぐん がワシントンを追 お ってニュージャージー まで進軍 しんぐん し、大陸 たいりく 軍 ぐん は12月早 はや くにデラウェア川 がわ を渡 わた ってペンシルベニア まで後退 こうたい した。このニューヨークからニュージャージーと続 つづ いたイギリス軍 ぐん の方面 ほうめん 作戦 さくせん も冬 ふゆ に入 はい って一旦 いったん 停止 ていし し、ニュージャージーで冬 ふゆ の宿営 しゅくえい に入 はい った。ハウは何 なん 度 ど も消耗 しょうもう を繰 く り返 かえ す大陸 たいりく 軍 ぐん を潰 つぶ す機会 きかい がありながらしくじってはいたが、5,000名 めい 以上 いじょう のアメリカ兵 へい を殺 ころ すか捕虜 ほりょ にしていた。
大陸 たいりく 軍 ぐん の前途 ぜんと は多難 たなん であった。大陸 たいりく 軍 ぐん と共 とも に撤退 てったい を繰 く り返 かえ していたトマス・ペイン は「今 いま が兵士 へいし の心 しん を試 ため す時 とき だ」と書 か きした。使 つか える兵力 へいりょく は5,000名 めい 足 た らずになっていた。兵士 へいし は1年 ねん で就役 しゅうえき 期間 きかん が終 お わるので12月末 まつ がくれば、1,400名 めい まで減 へ ることになっていた。大陸 たいりく 会議 かいぎ は絶望 ぜつぼう のうちにフィラデルフィアを捨 す てた。ただしイギリス軍 ぐん の占領 せんりょう に対 たい する大衆 たいしゅう の反抗 はんこう は強 つよ くなっていた。
ワシントンは年 とし が改 あらた まる前 まえ に攻撃 こうげき することに決 き め、クリスマスの夜 よる に密 ひそ かにデラウェア川 がわ を渡 わた って12月26日 にち 、トレントンの戦 たたか い で1,000名 めい 近 ちか いヘシアンを捕虜 ほりょ にした。コーンウォリスはトレントンを再度 さいど 奪取 だっしゅ しようと進軍 しんぐん してきたが、ワシントンはその裏 うら をかき、1777年 ねん 1月 がつ 3日 にち のプリンストンの戦 たたか い でイギリス軍 ぐん の後衛 こうえい 部隊 ぶたい を打 う ち破 やぶ った。ワシントンはアメリカ側 がわ の士気 しき を高 たか めることができたので、その後 ご 、モリスタウン で冬 ふゆ の宿営 しゅくえい に入 はい った。ニュージャージーの民兵 みんぺい は冬 ふゆ の間 あいだ もイギリス軍 ぐん やヘシアンに嫌 いや がらせを続 つづ け、イギリス軍 ぐん はニューヨーク市 し 周辺 しゅうへん まで撤退 てったい することになった。
大陸 たいりく 会議 かいぎ とワシントンは、ボストン包囲 ほうい 戦 せん のころから情報 じょうほう ・諜報 ちょうほう 戦略 せんりゃく を展開 てんかい しており、占領 せんりょう されたニューヨークを中心 ちゅうしん とした情報 じょうほう 収集 しゅうしゅう 、諜報 ちょうほう 活動 かつどう では、地域 ちいき の支援 しえん の少 すく ないイギリス軍 ぐん よりも優位 ゆうい に立 た っていた。トレントンの戦 たたか いの勝利 しょうり は諜報 ちょうほう 活動 かつどう が成果 せいか を収 おさ めた一 いち 例 れい である。ヨーロッパ諸国 しょこく との情報 じょうほう 通信 つうしん は早 はや くから行 おこな われており、この情報 じょうほう 優位 ゆうい は終戦 しゅうせん まで続 つづ くことになった。
イギリス軍 ぐん の戦略 せんりゃく はいつの段階 だんかい でも国王 こくおう に対 たい する忠誠 ちゅうせい を誓 ちか って結集 けっしゅう してくる王 おう 党派 とうは の者 もの 達 たち の支援 しえん を期待 きたい していた。1776年 ねん 2月 がつ 、ヘンリー・クリントン 将軍 しょうぐん は2,000名 めい の兵士 へいし と海軍 かいぐん の船隊 せんたい でノースカロライナ に侵攻 しんこう したが、王 おう 党派 とうは の部隊 ぶたい がムーアズ・クリーク橋 きょう の戦 たたか いで殲滅 せんめつ されたことを知 し って引 ひ き上 あ げた。6月にクリントンは南部 なんぶ の主 しゅ 要港 ようこう であるサウスカロライナ のチャールストン を占領 せんりょう しようとしたが、この時 とき も南部 なんぶ の王 おう 党派 とうは の決起 けっき を期待 きたい していた。これは戦争 せんそう を遂行 すいこう するには手軽 てがる な方法 ほうほう に見 み えたが、海軍 かいぐん は砦 とりで の攻撃 こうげき に失敗 しっぱい し、王 おう 党派 とうは の者 もの が町 まち の背後 はいご から攻撃 こうげき を仕掛 しか けることも無 な かったので、作戦 さくせん は失敗 しっぱい した。南部 なんぶ の王 おう 党派 とうは は組織 そしき 力 りょく が弱 よわ く効果 こうか を表 あらわ せなかった。1781年 ねん までロンドンの上級 じょうきゅう 官僚 かんりょう は、南部 なんぶ から逃 に げてきた王 おう 党派 とうは の言葉 ことば を信 しん じて、蜂起 ほうき があるものと思 おも っていた。
イギリス軍 ぐん が1777年 ねん の作戦 さくせん 計画 けいかく を練 ね り始 はじ めた時 とき に、北 きた アメリカには2つの主力 しゅりょく 軍 ぐん があった。カナダのカールトン軍 ぐん とニューヨークのハウ軍 ぐん であった。ロンドン では、ジョージ・ジャーメイン がこれらの軍隊 ぐんたい の作戦 さくせん を承認 しょうにん したが、連絡 れんらく の不行 ふゆ き届 とど きと指揮 しき 官 かん のライバル意識 いしき のために連携 れんけい がうまく行 い かなかった。ハウはフィラデルフィアの占領 せんりょう に成功 せいこう したが、北部 ほくぶ の軍隊 ぐんたい はサラトガで降伏 ごうぶく して失 うしな われてしまった。1777年 ねん の作戦 さくせん 行動 こうどう の後 のち 、カールトンとハウの2人 ふたり 共 ども に辞職 じしょく した。
1777年 ねん に最初 さいしょ に動 うご いたのはジョン・バーゴイン 将軍 しょうぐん に率 ひき いられたカナダからの遠征 えんせい 隊 たい であった。その目的 もくてき はシャンプレーン湖 こ とハドソン川 がわ の回廊 かいろう を確保 かくほ し、アメリカ植民 しょくみん 地 ち 全体 ぜんたい から見 み てニューイングランド を孤立 こりつ させることであった。バーゴインの侵略 しんりゃく は2方面 ほうめん から行 おこな われた。バーゴイン自身 じしん は約 やく 1万 まん 名 めい の兵士 へいし を率 ひき いてシャンプレーン湖 みずうみ からオールバニ に向 む かうものとし、もう1隊 たい はバリー・セントリージャーに率 ひき いられる約 やく 2,000名 めい の部隊 ぶたい でモホーク川 がわ 渓谷 けいこく を下 くだ り、オールバニでバーゴインと合流 ごうりゅう するというものだった。
モホーク族 ぞく の指導 しどう 者 しゃ ジョセフ・ブラント 。インディアンだけでなく白人 はくじん 王 おう 党派 とうは の部隊 ぶたい も率 ひき いた。この肖像 しょうぞう 画 が は宮廷 きゅうてい 画家 がか ジョージ・ロムニーが1776年 ねん にロンドンで描 えが いた
バーゴインは6月 がつ に進発 しんぱつ し、7月 がつ 初 はじ めにはタイコンデロガ砦 とりで を占領 せんりょう した。その後 ご 、アメリカ軍 ぐん が木 き を切 き り倒 たお して道 みち を塞 せ いだためにバーゴイン軍 ぐん の歩 あゆ みは鈍 にぶ くなった。物資 ぶっし を確保 かくほ するために分遣 ぶんけん 隊 たい を派遣 はけん したが、8月 がつ にアメリカの民兵 みんぺい 隊 たい とベニントンの戦 たたか い を行 おこな い決定的 けっていてき に敗 やぶ れて1,000名 めい 近 ちか い兵力 へいりょく が失 うしな われた。
一方 いっぽう 、セントリージャーの部隊 ぶたい は、その半分 はんぶん をモホーク 族 ぞく の指導 しどう 者 しゃ ジョセフ・ブラント が率 ひき いていたが、スタンウィックス砦 とりで を包囲 ほうい した。アメリカの民兵 みんぺい 隊 たい と同盟 どうめい インディアンが包囲 ほうい されている味方 みかた を救出 きゅうしゅつ するために向 む かったが待 ま ち伏 ぶ せされて、オリスカニーの戦 たたか い で蹴 け 散 ち らされた。2回 かい 目 め の救援 きゅうえん 隊 たい はベネディクト・アーノルドが率 ひき いていたが、セントリージャーは包囲 ほうい を解 と いてカナダに退却 たいきゃく してしまった。
バーゴインの軍隊 ぐんたい は総勢 そうぜい 6,000名 めい まで減 へ った。このような痛手 いたで を受 う けたにも拘 かかわ らず、バーゴインはオールバニへの進軍 しんぐん を続 つづ けることを決 き めた。このことが後 のち に大 おお きなしっぺ返 がえ しを食 く うことになった。大陸 たいりく 軍 ぐん の将軍 しょうぐん ホレイショ・ゲイツ は8,000名 めい の部隊 ぶたい を率 ひき いて、サラトガ の南 みなみ 約 やく 10マイル (16 km)の地点 ちてん に陣地 じんち を築 きず いた。9月、バーゴインは大陸 たいりく 軍 ぐん の側面 そくめん を衝 つ こうとしたが、フリーマン農場 のうじょう の戦 たたか い で反撃 はんげき された。バーゴイン軍 ぐん の状態 じょうたい は絶望 ぜつぼう 的 てき なものに変 か わって行 い ったが、ニューヨークのハウ軍 ぐん がオールバニに向 む かっているという期待 きたい があった。しかし、そうはならず、ハウ軍 ぐん は船 ふね で回航 かいこう してフィラデルフィアの奪取 だっしゅ に向 む かっていた。大陸 たいりく 軍 ぐん には民兵 みんぺい が続々 ぞくぞく と集 あつ まり続 つづ けており、10月の初 はじ めには総勢 そうぜい 11,000名 めい に達 たっ していた。次 つぎ に挑 いど んだベミス高地 こうち の戦 たたか い でも撃退 げきたい されたバーゴインは10月17日 にち に降伏 ごうぶく した。
サラトガは戦争 せんそう の転換 てんかん 点 てん となった。ハウ軍 ぐん によってフィラデルフィアは奪 うば われたが、アメリカの革命 かくめい 勢力 せいりょく は自信 じしん と決意 けつい を取 と り戻 もど した。さらに重要 じゅうよう なことは、この勝利 しょうり によってフランスをアメリカ側 がわ に付 つ かせてイギリス軍 ぐん と対決 たいけつ できるようになったことであった。イギリス軍 ぐん にとってはこの戦争 せんそう がより複雑 ふくざつ なものに変 か わってきた[18] 。
ハウ将軍 しょうぐん は1776年 ねん にニューヨーク市 し を占領 せんりょう して、当時 とうじ の革命 かくめい 勢力 せいりょく の首都 しゅと であるフィラデルフィアの占領 せんりょう に目 め を向 む けた。ハウはゆっくりと動 うご いて、チェサピーク湾 わん の北端 ほくたん に15,000名 めい の部隊 ぶたい を上陸 じょうりく させた。ワシントンは11,000名 めい の兵士 へいし をハウ軍 ぐん とフィラデルフィアの間 あいだ に配置 はいち したが、1777年 ねん 9月11日 にち のブランディワインの戦 たたか い で敗北 はいぼく して後退 こうたい した。9月26日 にち 、大陸 たいりく 会議 かいぎ は再 ふたた びフィラデルフィアを捨 す てた。ハウはさらにワシントン軍 ぐん を打 う ち破 やぶ ってフィラデルフィアを抵抗 ていこう もなく占領 せんりょう した。ワシントンは10月 がつ 初 はじ めにジャーマンタウンの近 ちか くに宿営 しゅくえい していたハウ軍 ぐん とジャーマンタウンの戦 たたか い を、さらに12月初 はじ めにはホワイトマーシュの戦 たたか い を行 おこな ったが、どちらも決定的 けっていてき な勝敗 しょうはい には至 いた らず、退 しりぞ いて待 ま つことにした。
バレーフォージ を巡回 じゅんかい するワシントン とラファイエット
ホワイトマーシュの戦 たたか いの後 のち で、ワシントンはバレーフォージ を冬 ふゆ の宿営 しゅくえい 所 しょ とした。そこはフィラデルフィアから約 やく 20マイル (32 km)の所 ところ にあり、次 つぎ の6か月 げつ 間 あいだ を過 す ごした。冬 ふゆ の間 あいだ に1万 まん 名 めい いた軍隊 ぐんたい の2,500名 めい が病気 びょうき と寒 さむ さで死 し んだ。1778年 ねん の春 はる 、シュトイベン男爵 だんしゃく の訓練 くんれん の甲斐 かい あって大陸 たいりく 軍 ぐん は蘇 よみがえ った。シュトイベンはプロイセンの近代 きんだい 的 てき な戦法 せんぽう を教 おし え、訓練 くんれん され規律 きりつ ある軍隊 ぐんたい をき上 ずきあ げた。
イギリス軍 ぐん の総 そう 司令 しれい 官 かん はハウからクリントンに代 か わった。フランスが参戦 さんせん したことにより、イギリス軍 ぐん は戦略 せんりゃく を変 か えて、フランス海軍 かいぐん の脅威 きょうい の対象 たいしょう となったニューヨーク市 し を防衛 ぼうえい するためにフィラデルフィアを放棄 ほうき した。1778年 ねん 6月28日 にち 、ワシントンは撤退 てったい するクリントン軍 ぐん を追 お ってモンマスの戦 たたか い を行 おこな った。この戦 たたか いが北部 ほくぶ では最後 さいご の大 おお きな戦闘 せんとう になった。クリントン軍 ぐん は7月 がつ にニューヨーク市 し に到着 とうちゃく したが、それはデスタン伯爵 はくしゃく がフランス海軍 かいぐん を率 ひき いてアメリカの海岸 かいがん に現 あらわ れる直前 ちょくぜん のことであった。ワシントン軍 ぐん はニューヨーク市 し の北 きた にあるホワイト・プレインズ に戻 もど った。両 りょう 軍 ぐん ともに2年 ねん 前 まえ に対峙 たいじ した地点 ちてん に戻 もど ったが、戦争 せんそう の様相 ようそう は変 か わり始 はじ めていた[19] 。
1778年 ねん 、北 きた アメリカの反乱 はんらん は国際 こくさい 的 てき な戦争 せんそう に変 か わった。アメリカの戦 たたか いで大陸 たいりく 軍 ぐん が勝利 しょうり したことを知 し ったフランスは1778年 ねん 2月 がつ 6日 にち にアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく と同盟 どうめい 条約 じょうやく を結 むす んだ。1779年 ねん 6月 がつ には、ブルボン家 か 盟約 めいやく を更新 こうしん し、スペイン がフランスの同盟 どうめい 国 こく として参戦 さんせん した。しかし、スペインは当初 とうしょ フランスとは異 こと なり、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の承認 しょうにん を拒 こば んだ。スペインはその植民 しょくみん 地 ち 帝国 ていこく の中 なか で同 おな じような反乱 はんらん を助長 じょちょう するのではないかと神経 しんけい を尖 とが らせていた。オランダ も1780年 ねん に参戦 さんせん して、国共 こっきょう にイギリスの力 ちから を削 そ ぐことを期待 きたい して戦争 せんそう の初 はじ めからアメリカを密 ひそ かに財政 ざいせい 的 てき に援助 えんじょ していた。
さらにラファイエット やコシューシコ 、プワスキ ら欧州 おうしゅう の義勇軍 ぎゆうぐん が参加 さんか した。1780年 ねん イギリスの対 たい アメリカ海上 かいじょう 封鎖 ふうさ に対 たい し、ロシアのエカチェリーナ2世 せい の呼 よ びかけで武装 ぶそう 中立 ちゅうりつ 同盟 どうめい が結成 けっせい され、イギリスは国際 こくさい 的 てき に孤立 こりつ した。
ロンドンでは、国王 こくおう ジョージ3世 せい がより多 おお くの軍隊 ぐんたい を送 おく ってアメリカを従 したが わせるという希望 きぼう を諦 あきら めていた。というのもイギリスはヨーロッパでの戦争 せんそう に捉われていたからである。「ペンシルベニアを保持 ほじ しておこうなどと考 かんが えるのは冗談 じょうだん だった」とジョージ3世 せい は言 い った。ニューイングランドを回復 かいふく する望 のぞ みも無 な くなっていた。しかし、国王 こくおう は「アメリカの独立 どくりつ は決 けっ して認 みと めない。永久 えいきゅう に続 つづ くように見 み える戦争 せんそう を無制限 むせいげん に引 ひ き伸 の ばして、命令 めいれい に従 したが わない者 もの を罰 ばっ してやろう」と決心 けっしん した[20] 。国王 こくおう の計画 けいかく は、ニューヨーク、ロードアイランド 、カナダおよびフロリダの3万 まん 名 めい の防衛 ぼうえい 軍 ぐん を維持 いじ し、他 た の部隊 ぶたい で西 にし インド諸島 しょとう にいるフランスとスペインを叩 たた くことだった。アメリカを罰 ばっ するために国王 こくおう が考 かんが えたことは、アメリカの海上 かいじょう 貿易 ぼうえき を破壊 はかい し、港 みなと を砲撃 ほうげき し、海岸 かいがん に近 ちか い町 まち (例 たと えばニューロンドン )を襲 おそ って燃 も やしてしまうことであり、アメリカの先住民 せんじゅうみん を送 おく って辺境 へんきょう の開拓 かいたく 地 ち にいる市民 しみん を襲 おそ わせることだった。これらの活動 かつどう でアメリカの王 おう 党派 とうは を刺激 しげき でき、大陸 たいりく 会議 かいぎ をばらばらにし、「反逆 はんぎゃく 者 しゃ を嫌 いや がらせ、気 き を揉 も ませ、貧 まず しいままにしておけば、自然 しぜん にかつ当然 とうぜん の帰結 きけつ として不満 ふまん と失望 しつぼう が後悔 こうかい と自責 じせき の念 ねん に変 か わった暁 あかつき には」国王 こくおう の権威 けんい の下 した に戻 もど ることを願 ねが うようになるとジョージ3世 せい は考 かんが えた[21] 。この計画 けいかく は王 おう 党派 とうは や忠実 ちゅうじつ なアメリカの先住民 せんじゅうみん 族 ぞく の破壊 はかい や金 かね のかかる戦争 せんそう を無制限 むせいげん に引 ひ き伸 の ばすことも意味 いみ しており、またフランスやスペインが艦隊 かんたい を集 あつ めてイギリス諸島 しょとう を侵略 しんりゃく しロンドンを占領 せんりょう する危険 きけん もあった。イギリスはヨーロッパの連合 れんごう 軍 ぐん を処理 しょり した後 のち で、反抗 はんこう している植民 しょくみん 地 ち を再度 さいど 従 したが わせる計画 けいかく にした。
独立 どくりつ 戦争 せんそう が始 はじ まった時 とき 、イギリスはアメリカ植民 しょくみん 地 ち に対 たい し圧倒的 あっとうてき な海軍 かいぐん 力 りょく を誇 ほこ っていた、帝国 ていこく 海軍 かいぐん には100隻 せき 以上 いじょう の戦列 せんれつ 艦 かん と多 おお くのフリゲート やその他 た 小 ちい さな艦船 かんせん があった。ただし、老朽 ろうきゅう 艦 かん が多 おお く、最初 さいしょ の海軍 かいぐん 大臣 だいじん サンドウィッチ伯爵 はくしゃく が非難 ひなん していたようにあまり整備 せいび が行 い き届 とど いているとは言 い えなかった。開戦 かいせん 後 ご の3年間 ねんかん 、海軍 かいぐん は主 おも に陸上 りくじょう 兵力 へいりょく の移送 いそう と商船 しょうせん の護衛 ごえい に使 つか われていた。アメリカ植民 しょくみん 地 ち 側 がわ には、戦列 せんれつ 艦 かん など1隻 せき も無 な く、イギリスの商船 しょうせん を襲 おそ う私 わたし 掠 かすめ 船 せん に頼 たよ るところが大 おお きかった。私 わたし 掠 かすめ 船 せん は、フランスが戦争 せんそう に加担 かたん する前 まえ からそしてその後 ご もフランスのイギリス海峡 かいきょう に面 めん した港 みなと を拠点 きょてん として活動 かつどう していたので、帝国 ていこく 海軍 かいぐん を困 こま らせ英 えい 仏 ふつ 関係 かんけい をこじれさせていたが、その物質 ぶっしつ 的 てき な戦果 せんか の割 わり には戦争 せんそう 全体 ぜんたい に与 あた える影響 えいきょう が小 ちい さかった。大陸 たいりく 会議 かいぎ は1775年 ねん 10月 がつ にアメリカ海軍 かいぐん の創設 そうせつ を承認 しょうにん したが、小 ちい さなものだったので主 おも に商船 しょうせん への襲撃 しゅうげき に用 もち いられていた。ジョン・ポール・ジョーンズ 船長 せんちょう が1778年 ねん 4月 がつ 24日 にち に英国 えいこく 艦 かん HMSドレークを鹵獲 ろかく し、アメリカ海軍 かいぐん では最初 さいしょ の英雄 えいゆう になった。このノース海峡 かいきょう の海戦 かいせん はイギリス海軍 かいぐん に対 たい する最初 さいしょ のアメリカ艦船 かんせん の勝利 しょうり でもあった[22] 。
ジブラルタル包囲 ほうい 戦 せん
フランスが戦争 せんそう に加担 かたん したことで、イギリス海軍 かいぐん の優越 ゆうえつ 性 せい はそれ程 ほど のものではなくなってきた。しかし、フランスとアメリカの連合 れんごう 軍 ぐん は1778年 ねん のロードアイランドの戦 たたか い や1779年 ねん のサバンナの戦 たたか いではうまく機能 きのう しなかった。その原因 げんいん の一 ひと つはフランスとアメリカの軍事 ぐんじ 的 てき な優先 ゆうせん 順位 じゅんい が異 こと なっていたことにあった。フランスは、アメリカの独立 どくりつ を確保 かくほ する前 まえ に、西 にし インド諸島 しょとう にあるイギリスの占領 せんりょう 地 ち を取 と りたかった。フランスからアメリカに対 たい する財政 ざいせい 的 てき な援助 えんじょ は既 すで に厳 きび しい段階 だんかい に来 き ていたので、1780年 ねん 7月 がつ にロシャンボー伯爵 はくしゃく が率 ひき いる大 だい 部隊 ぶたい が到着 とうちゃく するまでは、軍事 ぐんじ 的 てき にあまり有効 ゆうこう な結果 けっか に繋 つな がるまでには至 いた らなかった。
スペインがアメリカ側 がわ で参戦 さんせん した意図 いと には、1705年 ねん にイギリスに占領 せんりょう されたジブラルタル とメノルカ島 とう を奪 うば い返 かえ すということも含 ふく まれていた。3年 ねん 以上 いじょう にわたってジブラルタルの包囲 ほうい 戦 せん を行 おこな ったが、イギリス軍 ぐん 守備 しゅび 隊 たい は頑強 がんきょう に守 まも り抜 ぬ き、1780年 ねん のサン・ビセンテ岬 みさき の月光 げっこう の海戦 かいせん におけるロドニー提督 ていとく の勝利 しょうり の後 のち は補給 ほきゅう も適 かな って防衛 ぼうえい できた。それでもフランスとスペインは何 なに とかジブラルタルを取 と ろうとしたが、失敗 しっぱい に終 お わった。メノルカ島 とう の方 ほう は1782年 ねん 2月 がつ 5日 にち にフランスとスペインの連合 れんごう 軍 ぐん で奪取 だっしゅ に成功 せいこう し、スペインは独立 どくりつ 戦争 せんそう 後 ご も正式 せいしき にイギリスから領有 りょうゆう を認 みと められた。
西 にし インド諸島 しょとう では多 おお くの戦闘 せんとう が行 おこな われ、特 とく に小 しょう アンティル諸島 しょとう では何 なん 度 ど も支配 しはい 者 しゃ が入 い れ替 か わることがあった。1782年 ねん 4月 がつ のセツインの海戦 かいせん でイギリス海軍 かいぐん のロドニー提督 ていとく がフランス海軍 かいぐん のド・グラス伯爵 はくしゃく の艦隊 かんたい を打 う ち破 やぶ り、フランスとスペインの連合 れんごう 軍 ぐん が目指 めざ していたジャマイカ などイギリス植民 しょくみん 地 ち 奪取 だっしゅ の望 のぞ みを絶 た った。1782年 ねん 5月12日 にち 、スペイン領 りょう ルイジアナ総督 そうとく であったベルナルド・デ・ガルベス伯爵 はくしゃく が、バハマ のニュープロビデンス島 とう にあったイギリス海軍 かいぐん 基地 きち を占領 せんりょう した。このような結果 けっか にも拘 かかわ らず、フランスが占領 せんりょう したトバゴ島 とう の小 ちい さな島 しま を除 のぞ いて、1783年 ねん の休戦 きゅうせん 後 ご は西 にし インド諸島 しょとう での支配 しはい 関係 かんけい を開戦 かいせん 前 まえ の状態 じょうたい に戻 もど すことで合意 ごうい された。
メキシコ湾 わん 岸 きし では、ガルベスが1779年 ねん にマンチャックの戦 たたか い、バトンルージュの戦 たたか いおよびナチェズの戦 たたか いでミシシッピ川 がわ 沿 ぞ いにあったイギリスの基地 きち を占領 せんりょう した。ガルベスは続 つづ いて1780年 ねん にモービル を占領 せんりょう し、1781年 ねん にはペンサコーラ のイギリス軍 ぐん 基地 きち を降伏 ごうぶく させた。この結果 けっか 、スペインは1783年 ねん の休戦 きゅうせん 時 じ に南 みなみ フロリダ と西 にし フロリダ を獲得 かくとく できた。
ハイダル・アリー
北 きた アメリカの戦争 せんそう の余波 よは はインド での英 えい 仏 ふつ 間 あいだ の争 あらそ いにも飛 と び火 ひ し、1780年 ねん の第 だい 二 に 次 じ マイソール戦争 せんそう という形 かたち になった。マイソール王国 おうこく の支配 しはい 者 しゃ でフランスとの同盟 どうめい の中心 ちゅうしん 人物 じんぶつ であったハイダル・アリー とその息子 むすこ ティプー・スルターン がマドラス のイギリス政府 せいふ に対抗 たいこう した。
1782年 ねん 、戦争 せんそう を指揮 しき していたハイダル・アリーは戦争 せんそう のさなかに死亡 しぼう したが、その後 ご も戦争 せんそう は続 つづ けられ、イギリスはマンガロール に包囲 ほうい (マンガロール包囲 ほうい 戦 せん )されるなどしたため、1784年 ねん に第 だい 二 に 次 じ マイソール戦争 せんそう はマンガロール条約 じょうやく で休戦 きゅうせん となった。これはインドの歴史 れきし でも重要 じゅうよう な文書 ぶんしょ である。というのも、インドの民族 みんぞく にとって、イギリスに腰 こし を低 ひく くして休戦 きゅうせん を請 こ わせるように仕向 しむ けた最後 さいご の機会 きかい だったからである。ウォーレン・ヘースティングス はこれを屈辱 くつじょく 的 てき な講和 こうわ と呼 よ び、国王 こくおう と議会 ぎかい に「イギリス国民 こくみん の信義 しんぎ と名誉 めいよ が等 ひと しく侵害 しんがい された」としてマドラス政府 せいふ を罰 ばっ するよう訴 うった えた。
1780年 ねん イギリスは武装 ぶそう 中立 ちゅうりつ 同盟 どうめい に関 かか わったネーデルラント連邦 れんぽう 共和 きょうわ 国 こく に対 たい し先手 せんて を打 う って攻撃 こうげき した。武装 ぶそう 中立 ちゅうりつ 同盟 どうめい はヨーロッパの数 すう カ国 かこく が中立 ちゅうりつ 国 こく 船舶 せんぱく の航行 こうこう の自由 じゆう と禁制 きんせい 品 ひん 以外 いがい の物資 ぶっし 輸送 ゆそう の自由 じゆう を宣言 せんげん したものであったが、その結果 けっか はヨーロッパではイギリスが孤立 こりつ する形 かたち になった。
イギリスはネーデルラントが公然 こうぜん とアメリカ反乱 はんらん 軍 ぐん を援助 えんじょ するのを許 ゆる したくはなかった。アメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう によって刺激 しげき されたオランダ急進 きゅうしん 派 は の扇動 せんどう とオランダ政府 せいふ のアメリカに対 たい する友好 ゆうこう 的 てき な態度 たいど は、イギリスの攻撃 こうげき を呼 よ ぶことになった。第 だい 四 よん 次 じ 英 えい 蘭 らん 戦争 せんそう は1784年 ねん まで続 つづ き、オランダの商業 しょうぎょう 経済 けいざい に破壊 はかい 的 てき な影響 えいきょう をもたらした。
南部 なんぶ 戦線 せんせん :1778年 ねん -1781年 ねん
編集 へんしゅう
独立 どくりつ 戦争 せんそう の最初 さいしょ の3年間 ねんかん は、主戦 しゅせん 場 じょう がアメリカの北部 ほくぶ に限 かぎ られていた。フランスが参戦 さんせん してからのイギリスは、王 おう 党派 とうは が多 おお いと思 おも われた南部 なんぶ に目 め を向 む けて、王 おう 党派 とうは の支援 しえん を得 え られればそこを支配 しはい できると目論 もくろ んだ。南部 なんぶ に注力 ちゅうりょく することはイギリス海軍 かいぐん をカリブ海 かりぶかい に近 ちか く配置 はいち することができ、フランスとスペインの連合 れんごう 軍 ぐん の脅威 きょうい を受 う けているカリブ海 かりぶかい 植民 しょくみん 地 ち を守 まも りやすくするという利点 りてん もあった。
イギリス軍 ぐん のバナスター・タールトン 中佐 ちゅうさ 。
1778年 ねん 12月29日 にち に、ニューヨークから転進 てんしん したクリントン の遠征 えんせい 隊 たい がジョージア のサバンナ を占領 せんりょう した。クリントンは続 つづ いてサウスカロライナ のチャールストン を包囲 ほうい し、1780年 ねん 5月2日 にち に陥落 かんらく させた。クリントンは比較的 ひかくてき 少 すく ない損失 そんしつ で南部 なんぶ 最大 さいだい の都市 とし と港湾 こうわん を確保 かくほ し、南部 なんぶ 制圧 せいあつ への道 みち を切 き り開 ひら いた。
南部 なんぶ の大陸 たいりく 軍 ぐん はチャールストンで5,000名 めい ほどにおよぶ戦力 せんりょく が降伏 ごうぶく したために崩壊 ほうかい 状態 じょうたい となり、残 のこ った兵力 へいりょく はバナスター・タールトン 中佐 ちゅうさ の追撃 ついげき をうけ、1780年 ねん 5月29日 にち のワックスホーの虐殺 ぎゃくさつ でまた新 あら たな損失 そんしつ を受 う けた。そうした状況 じょうきょう で大陸 たいりく 軍 ぐん は組織 そしき だった作戦 さくせん 行動 こうどう をできなくなったが、それでもフランシス・マリオン などのパルチザン によって抗戦 こうせん が続 つづ けられた。コーンウォリス がイギリス軍 ぐん の指揮 しき 官 かん となり、一方 いっぽう 大陸 たいりく 軍 ぐん は北部 ほくぶ からホレイショ・ゲイツ を送 おく って南部 なんぶ 方面 ほうめん 軍 ぐん の指揮 しき 官 かん とした。しかし1780年 ねん 8月 がつ 16日 にち 、ゲイツはキャムデンの戦 たたか い で大陸 たいりく 軍 ぐん 始 はじ まって以来 いらい の大敗 たいはい を喫 きっ し、コーンウォリスにノースカロライナ に進軍 しんぐん する道 みち を与 あた えてしまった。
しかし、コーンウォリス側 がわ も事態 じたい が変 か わり始 はじ めた。10月7日 にち 、キングスマウンテンの戦 たたか い で彼 かれ の一翼 いちよく を担 にな っていた部隊 ぶたい が完敗 かんぱい した。この戦 たたか いは王 おう 党派 とうは 民兵 みんぺい と愛国 あいこく 派 は 民兵 みんぺい の戦 たたか いだった。タールトンの部隊 ぶたい も1781年 ねん 1月 がつ 17日 にち 、大陸 たいりく 軍 ぐん のダニエル・モーガン 将軍 しょうぐん とのカウペンスの戦 たたか い で決定的 けっていてき な敗北 はいぼく を喫 きっ した。
ゲイツの後 のち を継 つ いだナサニエル・グリーン 将軍 しょうぐん は一連 いちれん の戦 たたか いでイギリス軍 ぐん を消耗 しょうもう させる戦略 せんりゃく に出 で た。それぞれの戦 たたか いはイギリス軍 ぐん の戦術 せんじゅつ 的 てき 勝利 しょうり になったが、戦略 せんりゃく 的 てき には得 え る物 もの がほとんど無 な かった。グリーンは後 のち に有名 ゆうめい となるモットー「戦 たたか い、撃 う たれ、立 た ち上 あ がり、また戦 たたか う(We fight, get beat, rise, and fight again.)」で部隊 ぶたい を鼓舞 こぶ した。コーンウォリスはグリーンの軍隊 ぐんたい を打 う ち破 やぶ ることもできないままに、北 きた のバージニア への進軍 しんぐん を決 き めた。
1781年 ねん 3月、ワシントン将軍 しょうぐん はラファイエット をバージニア防衛 ぼうえい のために派遣 はけん した。フランスの若 わか き将校 しょうこう は3,200名 めい ほどの部隊 ぶたい を指揮 しき していたが、この地 ち のコーンウォリスが指揮 しき するイギリス軍 ぐん は補強 ほきょう されて7,200名 めい ほどになっていた。ラファイエットはコーンウォリスと小競 こぜ り合 あ いを演 えん じたが、援軍 えんぐん を待 ま つ間 あいだ は決戦 けっせん を避 さ けていた。コーンウォリスはラファイエットを捕捉 ほそく することができず、結局 けっきょく は7月 がつ にイギリス海軍 かいぐん と連携 れんけい を取 と ってニューヨークへ戻 もど る道 みち を切 き り開 ひら くためヨークタウン に軍 ぐん を進 すす めた。
ジョージ・ロジャース・クラーク は冬 ふゆ に290kmを行軍 こうぐん してカナダ副 ふく 総督 そうとく ヘンリー・ハミルトンを捕 つか まえた
アパラチア山脈 さんみゃく の西 にし とカナダ国境 こっきょう 辺 あた りではアメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう がインディアン戦争 せんそう と化 か していた。先住民 せんじゅうみん 族 ぞく の大半 たいはん がイギリス側 がわ に付 つ いた。イロコイ連邦 れんぽう と同 おな じようにチェロキー 族 ぞく やショーニー族 ぞく は部族 ぶぞく によって態度 たいど を変 か えたものもいた。
イギリス軍 ぐん は同盟 どうめい した先住民 せんじゅうみん 族 ぞく に武器 ぶき と弾薬 だんやく を与 あた え、ニューヨーク、ケンタッキー およびペンシルベニア などの開拓 かいたく 者 しゃ の集落 しゅうらく を襲 おそ うことを奨励 しょうれい した。そうして1778年 ねん に起 お こった「ワイオミング渓谷 けいこく の虐殺 ぎゃくさつ 」や「チェリー渓谷 けいこく の虐殺 ぎゃくさつ 」に刺激 しげき されたワシントンは、1779年 ねん の夏 なつ にサリバン 将軍 しょうぐん に兵 へい を与 あた えてニューヨーク西部 せいぶ に遠征 えんせい させた。サリバンは大 おお きな戦闘 せんとう もないままに機械 きかい 的 てき に先住民 せんじゅうみん 族 ぞく の村 むら を破壊 はかい し食糧 しょくりょう を焼 や いたので、先住民 せんじゅうみん 族 ぞく はカナダやナイアガラフォールズ 地域 ちいき に逃亡 とうぼう し再 ふたた び戻 もど ってくることは無 な かった。
オハイオ やイリノイ では、バージニアの開拓 かいたく 者 しゃ ジョージ・ロジャース・クラーク が1778年 ねん にカスカスキア とビンセンズのイギリス軍 ぐん 基地 きち を奪 うば い、この地域 ちいき の先住民 せんじゅうみん 族 ぞく に対 たい するイギリス軍 ぐん の影響 えいきょう 力 りょく を殺 そ ごうとした。デトロイト を本拠 ほんきょ にしていたイギリス軍 ぐん の指揮 しき 官 かん ヘンリー・ハミルトンがビンセンズの砦 とりで を奪 うば い返 かえ した後 のち で、1779年 ねん 2月 がつ にクラークはハミルトンを急襲 きゅうしゅう し砦 とりで とハミルトンを捕獲 ほかく した(イリノイ方面 ほうめん 作戦 さくせん )。
1782年 ねん に、「グナデンハッテンの虐殺 ぎゃくさつ 」が起 お こり、ペンシルベニアの民兵 みんぺい が中立 ちゅうりつ であった先住民 せんじゅうみん 族 ぞく 約 やく 100名 めい を殺 ころ した。1782年 ねん 8月 がつ に、独立 どくりつ 戦争 せんそう では最後 さいご の会戦 かいせん となったブルーリックスの戦 たたか い で約 やく 200名 めい のケンタッキー民兵 みんぺい 隊 たい が敗 やぶ れた。
ヨークタウンのコーンウォリス将軍 しょうぐん 降伏 ごうぶく
北部 ほくぶ 、南部 なんぶ および海上 かいじょう の戦 たたか いは1781年 ねん のヨークタウンの戦 たたか い の1点 てん に収束 しゅうそく した。9月早 はや く、フランス海軍 かいぐん はチェサピーク湾 わん の海戦 かいせん でイギリス艦隊 かんたい を打 う ち破 やぶ り、コーンウォリス の脱出 だっしゅつ の道 みち を閉 と ざした。ワシントンはニューヨークから急遽 きゅうきょ 、大陸 たいりく 軍 ぐん とフランス軍 ぐん を南部 なんぶ に移動 いどう させ、17,000名 めい ほどの大 だい 部隊 ぶたい で10月 がつ 初 はじ めにヨークタウンを包囲 ほうい した。コーンウォリス軍 ぐん の立場 たちば は急速 きゅうそく に耐 た え難 がた いものになり、1781年 ねん 10月19日 にち に、約 やく 7,000名 めい の軍隊 ぐんたい 全員 ぜんいん が降伏 ごうぶく した。
ヨークタウンでの降伏 ごうぶく によって、イギリス国王 こくおう ジョージ3世 せい は休戦 きゅうせん の方向 ほうこう に進 すす む議会 ぎかい への支配 しはい 力 りょく を失 うしな い、この後 のち は陸上 りくじょう での大 おお きな戦闘 せんとう が無 な くなった。しかし、この時点 じてん でイギリス軍 ぐん はニューヨーク、チャールストンおよびサバンナにまだ合 あ わせて3万 まん 名 めい の戦力 せんりょく を保有 ほゆう していた[23] 。西 にし インド諸島 しょとう における英 えい 仏 ふつ 間 あいだ の争 あらそ いは続 つづ いていた。アメリカの多 おお くの艦船 かんせん がイギリスの船 ふね を襲 おそ っていなければ、イギリスはアメリカに更 さら に増援 ぞうえん を送 おく ることも可能 かのう であった。
ロンドンではヨークタウンの戦 たたか い以後 いご に戦争 せんそう 維持 いじ 派 は の世論 せろん が急速 きゅうそく に勢 いきお いを無 な くし、フレデリック・ノース 首相 しゅしょう は1782年 ねん 3月 がつ に辞任 じにん した。そして翌 よく 4月 がつ 、イギリス下院 かいん はアメリカとの休戦 きゅうせん 法案 ほうあん を通 とお した。1782年 ねん 11月には休戦 きゅうせん の為 ため の予備 よび 協定 きょうてい がパリで結 むす ばれたが、正式 せいしき の休戦 きゅうせん は1783年 ねん 9月3日 にち のパリ条約 じょうやく 締結 ていけつ 後 ご であった。アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 議会 ぎかい (当時 とうじ は連合 れんごう 会議 かいぎ )は1784年 ねん 1月 がつ 14日 にち にパリ条約 じょうやく を批准 ひじゅん した。最後 さいご まで残 のこ っていたニューヨークのイギリス軍 ぐん が撤退 てったい したのは1783年 ねん 11月25日 にち であった。
イギリスは同盟 どうめい していた先住民 せんじゅうみん 族 ぞく と何 なん の相談 そうだん も無 な いままアメリカと休戦 きゅうせん の為 ため のパリ条約 じょうやく の交渉 こうしょう を行 おこな い、アパラチア山脈 さんみゃく からミシシッピー川 がわ までの先住民 せんじゅうみん 族 ぞく の土地 とち をアメリカに割譲 かつじょう した。先住民 せんじゅうみん 族 ぞく は不満 ふまん を抱 だ いたまま、幾 いく つかの条約 じょうやく でアメリカにこれらの土地 とち の割譲 かつじょう を渋々 しぶしぶ 認 みと めたが、これに同意 どうい しない種族 しゅぞく との紛争 ふんそう が続 つづ き、その最大 さいだい のものは北西 ほくせい インディアン戦争 せんそう (1785年 ねん -1795年 ねん )となった。
アメリカ13邦 くに (州 しゅう )は1787年 ねん の憲法 けんぽう 制定 せいてい 会議 かいぎ で統一 とういつ 国家 こっか としての枠組 わくぐ みを成 な すアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 憲法 けんぽう を制定 せいてい し、翌年 よくねん に発効 はっこう した。1789年 ねん 、新 しん 憲法 けんぽう の規定 きてい に従 したが って初代 しょだい 大統領 だいとうりょう に選出 せんしゅつ されたのは、絶望 ぜつぼう かとも思 おも われた困難 こんなん な時期 じき に屈 くっ することなく大陸 たいりく 軍 ぐん を率 ひき い、圧倒的 あっとうてき なイギリス軍 ぐん との戦争 せんそう を戦 そよ い抜 ぬ いたワシントン であった。
アメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう によって失 うしな われた人命 じんめい の総数 そうすう は正確 せいかく なところが分 わ かっていない。当時 とうじ の戦争 せんそう の常 つね として、病気 びょうき による死者 ししゃ が戦闘 せんとう による死者 ししゃ の数 かず を上回 うわまわ っていた。歴史 れきし 家 か のジョセフ・エリスは、ワシントン がその軍隊 ぐんたい の兵士 へいし に天然痘 てんねんとう の予防 よぼう 接種 せっしゅ を受 う けさせたことは、その最 もっと も重大 じゅうだい な決断 けつだん の一 ひと つだったと示唆 しさ している[24] 。
推計 すいけい ではアメリカ大陸 あめりかたいりく 軍 ぐん 側 がわ の従軍 じゅうぐん 中 ちゅう の死者 ししゃ は25,000名 めい ほどとされている。このうち8,000名 めい ほどが戦死 せんし で、残 のこ りの17,000名 めい ほどが戦病死 せんびょうし であった。戦病死 せんびょうし の中 なか には捕虜 ほりょ として収容 しゅうよう されている間 あいだ に死 し んだ者 しゃ 8,000名 めい ほどが含 ふく まれていた。重傷 じゅうしょう を負 お った者 もの 、あるいは障害 しょうがい 者 しゃ となった者 もの は8,500名 めい から25,000名 めい ほどと推計 すいけい されている。つまりアメリカ側 がわ の損失 そんしつ は高々 たかだか 50,000名 めい ということになる[25] 。
イギリス海軍 かいぐん には約 やく 171,000名 めい の水夫 すいふ が従軍 じゅうぐん したが、そのうち25ないし50%は強制 きょうせい 徴募 ちょうぼ によるものだった。約 やく 1,240名 めい が戦死 せんし し、約 やく 18,500名 めい が病気 びょうき で死 し んだ。一番 いちばん 多 おお い死因 しいん は壊血病 かいけつびょう であった。当時 とうじ この病気 びょうき を避 さ けるための一番 いちばん 簡単 かんたん な方法 ほうほう は、水夫 すいふ にレモン ジュースを与 あた えることだった。約 やく 42,000名 めい の水夫 すいふ は脱走 だっそう した[26] 。
およそ1,200名 めい のドイツ人 じん 傭兵 ようへい が戦死 せんし し、6,354名 めい は病死 びょうし した。ドイツ人 じん 傭兵 ようへい の残 のこ り約 やく 16,000名 めい はドイツに戻 もど ったが、約 やく 5,500名 めい は様々 さまざま な理由 りゆう でアメリカに残 のこ り、結果 けっか 的 てき にアメリカ市民 しみん となった。他 た の集団 しゅうだん 、つまりアメリカやカナダの王 おう 党派 とうは 、イギリス正規 せいき 陸軍 りくぐん 、アメリカの先住民 せんじゅうみん 、フランスおよびスペイン軍 ぐん 、さらに市民 しみん の損失 そんしつ については信頼 しんらい に足 た る統計 とうけい データが無 な い。
イギリスは約 やく 8000万 まん ポンドを費 つい やし、最終 さいしゅう 的 てき な国 くに の負債 ふさい は約 やく 2億 おく 5千 せん 万 まん ポンドとなった。このための利息 りそく 返済 へんさい だけでも年間 ねんかん 約 やく 950万 まん ポンドとなった。
フランスは約 やく 13億 おく リーブル(約 やく 5600万 まん ポンド)を消費 しょうひ した。フランスの国 くに の負債 ふさい は1億 おく 8700万 まん ポンドほどとなり、1780年 ねん 時点 じてん での歳入 さいにゅう の半分 はんぶん 以上 いじょう がこうした負債 ふさい の返済 へんさい に消 き えていった。この負債 ふさい による危機 きき のために政府 せいふ は大衆 たいしゅう の承認 しょうにん もなく税率 ぜいりつ を上 あ げることができなくなり、後 ご のフランス革命 かくめい の大 おお きな要因 よういん となっていった[27] 。
アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく は連邦 れんぽう で約 やく 3700万 まん ドル、各 かく 邦 くに (州 しゅう )の合計 ごうけい で約 やく 1億 おく 1400万 まん ドルを使 つか った。これは援助 えんじょ 国 こく のフランスやオランダからの借金 しゃっきん 、国民 こくみん からの借金 しゃっきん 、および紙幣 しへい の多額 たがく の発行 はっこう で補 おぎな われた。最終 さいしゅう 的 てき には、アメリカは1790年代 ねんだい までかかって負債 ふさい を解決 かいけつ した[28] 。
アメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう で対立 たいりつ した両 りょう 勢力 せいりょく が元々 もともと は同 おな じ国民 こくみん であったため、外国 がいこく の地 ち で戦 たたか われた内乱 ないらん という見方 みかた もある。ただし、イギリスは軍事 ぐんじ 力 りょく ではアメリカよりも遥 はる かに優勢 ゆうせい で、アメリカはフランスの援助 えんじょ が無 な ければ戦 たたか い通 とお すことができなかった。明 あき らかに不利 ふり なアメリカが勝利 しょうり できた理由 りゆう の一 ひと つとして、アメリカとイギリス本国 ほんごく との距離 きょり が離 はな れていた事 こと が上 あ げられる。イギリスは援軍 えんぐん や物資 ぶっし を本国 ほんごく から大西洋 たいせいよう を越 こ えて運 はこ ばねばならず、イギリスには港湾 こうわん 都市 とし から一 いち 歩 ほ 離 はな れれば兵站 へいたん の問題 もんだい が常 つね に付 つ いて回 まわ ることとなった。一方 いっぽう のアメリカは地方 ちほう に行 い けば兵 へい や食糧 しょくりょう を補充 ほじゅう でき、その環境 かんきょう に順応 じゅんのう できた。また、イギリス本国 ほんごく が戦争 せんそう の情報 じょうほう を受 う け取 と るには大西洋 たいせいよう を越 こ えなくてはならず、その間 あいだ に情報 じょうほう が2か月 げつ ほど遅 おく れてしまうのでアメリカにいるイギリス軍 ぐん の将軍 しょうぐん が首都 しゅと ロンドンからの指令 しれい を受 う け取 と る時 とき には、軍事 ぐんじ 的 てき な情勢 じょうせい が変 か わってしまっていたことが多々 たた あった[29] 。
また、イギリスがアメリカの反乱 はんらん を抑 おさ えようとした事 こと で新 あら たな問題 もんだい が誘発 ゆうはつ された。植民 しょくみん 地 ち は広大 こうだい な範囲 はんい に広 ひろ がっており、戦前 せんぜん はそれらは一体 いったい ではなかったので戦略 せんりゃく 的 てき に重要 じゅうよう な地点 ちてん は一 ひと つではなかった。ヨーロッパでは首都 しゅと 制圧 せいあつ が戦争 せんそう の終 お わりを意味 いみ していたのに対 たい し、アメリカではイギリスがニューヨークやフィラデルフィアなどの都市 とし を占領 せんりょう したのにもかかわらず、戦争 せんそう を終 お わらせる事 こと ができなかった。また、領土 りょうど が広 ひろ いということは、イギリス軍 ぐん が力 ちから で制圧 せいあつ しようとしても広範囲 こうはんい を抑 おさ えられるだけの兵力 へいりょく が必要 ひつよう となる。これはイギリス軍 ぐん がある地域 ちいき を占領 せんりょう したとしても、そこを占領 せんりょう するための兵 へい を置 お かないとアメリカの革命 かくめい 軍 ぐん に奪 うば い返 かえ されることを意味 いみ し、イギリスが占領 せんりょう を維持 いじ しようとすれば、次 つぎ の作戦 さくせん 行動 こうどう には移 うつ れないことを意味 いみ していた。イギリス軍 ぐん は戦場 せんじょう でアメリカ軍 ぐん を叩 たた くには十分 じゅうぶん な兵力 へいりょく を保持 ほじ していても、その地域 ちいき の占領 せんりょう を続 つづ けるには兵力 へいりょく が足 た りていなかった。この兵力 へいりょく の不足 ふそく はフランスとスペインが参戦 さんせん した後 のち は、兵力 へいりょく をいくつかの戦線 せんせん に分散 ぶんさん させざるを得 え なくなり、更 さら に大 おお きな問題 もんだい となった[30] 。
さらに、イギリスは王 おう 党派 とうは との連携 れんけい を保 たも ちながら戦争 せんそう を遂行 すいこう しなければならなかった。王 おう 党派 とうは の支持 しじ は植民 しょくみん 地 ち をイギリス帝国 ていこく の中 なか に留 と めておくという目的 もくてき のために不可欠 ふかけつ だったが、これにより軍事 ぐんじ 的 てき な制限 せいげん も起 お こった。戦争 せんそう 初期 しょき 、ハウ兄弟 きょうだい は戦争 せんそう を遂行 すいこう しながら和平 わへい のための交渉 こうしょう も続 つづ けていたので、戦闘 せんとう の際 さい の効果 こうか を削 そ いでいた可能 かのう 性 せい があった。そしてイギリスは奴隷 どれい やアメリカ先住民 せんじゅうみん 族 ぞく を戦争 せんそう に駆 か り立 た てたが、これは王 おう 党派 とうは との関係 かんけい を疎遠 そえん にし、賛否 さんぴ 両論 りょうろん のあったドイツ人 じん 傭兵 ようへい の採用 さいよう よりもさらにその傾向 けいこう を強 つよ めたと考 かんが えられている。王 おう 党派 とうは を繋 つな ぎとめるために、イギリス軍 ぐん は、かつてアイルランド やスコットランド を抑 おさ え込 こ むために用 もち いた過酷 かこく な手段 しゅだん を使 つか えなかった。これらの制限 せいげん があっても、それでも潜在 せんざい 的 てき に中立 ちゅうりつ であった植民 しょくみん 地 ち の人間 にんげん が革命 かくめい 派 は の中 なか に入 はい っていく事 こと を防 ふせ ぐ事 こと はできず、これらの要因 よういん によりアメリカにおけるイギリスの支配 しはい は終 お わり、革命 かくめい 派 は は自 みずか らの国 くに として、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく を打 う ち立 た てた[31] 。
なお、武器 ぶき の性能 せいのう にも決定的 けっていてき な違 ちが いがあった。物量 ぶつりょう では勝 か っていたイギリス軍 ぐん だったが、使用 しよう していたライフル は射程 しゃてい 距離 きょり で劣 おと っていたため、敵 てき 兵 へい へのある程度 ていど の接近 せっきん によって大 おお きな犠牲 ぎせい を伴 ともな った。当時 とうじ のアメリカでは野牛 やぎゅう への遭遇 そうぐう に備 そな えて銃身 じゅうしん 内部 ないぶ に螺旋 らせん の溝 みぞ を施 ほどこ したことで、イギリス軍 ぐん の使用 しよう するライフルよりも射程 しゃてい 距離 きょり が長 なが く命中 めいちゅう 精度 せいど や威力 いりょく の高 たか いライフルの開発 かいはつ に成功 せいこう していた。
アメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう を題材 だいざい にした作品 さくひん
編集 へんしゅう
文学 ぶんがく
サム兄 にい さんは死 し んだ(1975年 ねん 、ぬぷん児童 じどう 図書 としょ 出版 しゅっぱん )
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^ 1996年 ねん 『中学 ちゅうがく 社会 しゃかい 歴史 れきし 』(教育 きょういく 出版 しゅっぱん 。平成 へいせい 8年 ねん 2月 がつ 29日 にち 文部省 もんぶしょう 検定 けんてい 済 ずみ 。教科書 きょうかしょ 番号 ばんごう :17教 きょう 出 で 歴史 れきし 762)p 154の本文 ほんぶん 、2005年 ねん 『社会 しゃかい 科 か 中学生 ちゅうがくせい の歴史 れきし 日本 にっぽん の歩 あゆ みと世界 せかい の動 うご き〈初 はつ 訂 てい 版 ばん 〉』(帝国 ていこく 書院 しょいん 。平成 へいせい 17年 ねん 3月 がつ 30日 にち 文部 もんぶ 科学 かがく 省 しょう 検定 けんてい 済 ずみ 。教科書 きょうかしょ 番号 ばんごう :46帝国 ていこく 歴史 れきし -713)p 137の本文 ほんぶん 、1997年 ねん 『詳説 しょうせつ 世界 せかい 史 し 』(山川 やまかわ 出版 しゅっぱん 社 しゃ 。平成 へいせい 9年 ねん 3月 がつ 31日 にち 文部省 もんぶしょう 検定 けんてい 済 ずみ 。教科書 きょうかしょ 番号 ばんごう :81山川 やまかわ 世 よ B575)p 206のタイトル。
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