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アメリカ独立戦争 - Wikipedia

アメリカ独立どくりつ戦争せんそう

1775ねんから1783ねん戦争せんそう

アメリカ独立どくりつ戦争せんそう(アメリカどくりつせんそう、えい: American War of Independence)は、1775ねん4がつ19にちから1783ねん9月3にちまでのイギリス本国ほんごくグレートブリテン王国おうこく)ときたアメリカ東部とうぶ沿岸えんがんのイギリスりょう13植民しょくみんとの戦争せんそう

アメリカ独立どくりつ戦争せんそう

左上ひだりうえから時計とけいまわりに: バンカーヒルのたたかケベックのたたかにおけるリチャード・モントゴメリー将軍しょうぐんカウペンスのたたかサン・ビセンテみさき月光げっこう海戦かいせん
戦争せんそう:アメリカ独立どくりつ戦争せんそう
年月日ねんがっぴ:1775ねん-1783ねん
場所ばしょきたアメリカ東部とうぶげんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくカナダ)、大西おおにしひろし地中海ちちゅうかいカリブ海かりぶかい
結果けっかアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく支援しえんこく勝利しょうり
  • アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく独立どくりつ
交戦こうせん勢力せいりょく
アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく(1776ねん7がつ4にち以前いぜん13植民しょくみん

バーモント共和きょうわこく
フランス王国おうこく
スペイン帝国ていこく
ネーデルラント連邦れんぽう共和きょうわこく
オナイダぞく
タスカローラぞく
ポーランド志願しがんへい
プロイセン王国の旗 プロイセン王国おうこく志願しがんへい
ケベック志願しがんへい
マイソール王国おうこく

グレートブリテン王国の旗 グレートブリテン王国おうこく
ハノーファーせんみかどほうりょう

borrder ロイヤリスト
 イロコイ連邦れんぽう
ドイツじん傭兵ようへいたい

指導しどうしゃ指揮しきかん
アメリカ合衆国の旗 ジョージ・ワシントン

アメリカ合衆国の旗 ホレイショ・ゲイツ
アメリカ合衆国の旗 ジョン・ポール・ジョーンズ
アメリカ合衆国の旗 ナサニエル・グリーン
アメリカ合衆国の旗 ベネディクト・アーノルド
アメリカ合衆国の旗 ベンジャミン・リンカーン
ジルベール・ド・ラ・ファイエット
ロシャンボーはく
フランソワ・ド・グラス
ピエール・アンドレ・ド・シュフラン
ガルベスはく
ルイス・コルドバ・イ・コルドバ
タデウシュ・コシチュシュコ
シュトイベン男爵だんしゃく
ヨハン・ズートマン
ハイダル・アリー 
ティプー・スルターン

グレートブリテン王国の旗 ジョージ3せい

グレートブリテン王国の旗 ウィリアム・ハウ
グレートブリテン王国の旗 ヘンリー・クリントン
グレートブリテン王国の旗 チャールズ・コーンウォリス捕虜ほりょ
グレートブリテン王国の旗 ジョン・バーゴイン捕虜ほりょ
グレートブリテン王国の旗 バナスター・タールトン
ベネディクト・アーノルド
ジョセフ・ブラント
ヨハン・ラール

戦力せんりょく
独立どくりつ民兵みんぺい 250,000めい
フランスぐん 15,000めい
スペインぐん 8,000めい
総計そうけい: 273,000めい
おう党派とうは 50,000めい
イギリスぐん 12,000めい
ドイツじん傭兵ようへい 40,000めい
インディアン先住民せんじゅうみん) 5,000めい
総計そうけい: 107,000めい
損害そんがい
戦死せんしまたは戦病死せんびょうし 25,000めい
負傷ふしょう 25,000めい
戦死せんしまたは戦病死せんびょうし 24,000めい
負傷ふしょう 20,000めい
アメリカ独立どくりつ戦争せんそう

現在げんざいアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくではアメリカ革命かくめい(アメリカかくめい、えい: American Revolution)、アメリカ独立どくりつ革命かくめい(アメリカどくりつかくめい、えい: American Independence Revolution[1])もしくは革命かくめい戦争せんそう(かくめいせんそう、えい: Revolutionary War)とばれる。一方いっぽうおもにイギリスでは、「アメリカ独立どくりつ戦争せんそう」とばれている[注釈ちゅうしゃく 1]

なお、日本にっぽん歴史れきし教科書きょうかしょでは、イギリスとおなじく「アメリカ独立どくりつ戦争せんそう」と表記ひょうきすることもあれば[2]たんに「独立どくりつ戦争せんそう」と表記ひょうきすることもある[3]

この戦争せんそうによって植民しょくみん住民じゅうみんはイギリスの支配しはい拒否きょひし、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく(United States)を政治せいじてき独立どくりつみちびくことに成功せいこうした。1775ねん革命かくめいは13植民しょくみん政府せいふすべてを掌握しょうあくするとともに、おも政治せいじ立法りっぽう担当たんとうするだい大陸たいりく会議かいぎ軍事ぐんじ担当たんとうする大陸たいりくぐん発足ほっそくさせた。

翌年よくねんアメリカ独立どくりつ宣言せんげんはっして、正式せいしきアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくという国家こっか形作かたちづくった。戦争せんそうぜん期間きかんとおして、イギリスは優勢ゆうせい海軍かいぐんりょくによってアメリカ東海岸ひがしかいがん沿海えんかいせいし、海岸かいがんちかいくつかの都市とし占領せんりょうしたが、陸軍りくぐんへいすう比較的ひかくてきすくなく、支配しはい地域ちいき限定げんていてきであった。

アメリカ大陸あめりかたいりくぐんサラトガのたたか勝利しょうりしてあいだもない1778ねんには、フランス王国おうこくがアメリカがわいて参戦さんせんした。 スペイン帝国ていこくネーデルラント連邦れんぽう共和きょうわこく(オランダ)も、そのの2ねん以内いないにアメリカがわいた。1781ねんフランス海軍かいぐんチェサピークわん海戦かいせん勝利しょうりしたことをきっかけに、アメリカ大陸あめりかたいりくぐんとフランス王国おうこく派遣はけんぐん1781ねんヨークタウンのたたかイギリスぐん降伏ごうぶくさせ、実質じっしつてき戦闘せんとう終了しゅうりょうした。

1783ねんのパリ条約じょうやく戦争せんそう終結しゅうけつし、イギリスはアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく独立どくりつ正式せいしきみとめた。

植民しょくみん課税かぜい問題もんだい

編集へんしゅう

アメリカ植民しょくみん独立どくりつへのみちあゆはじめたそもそものきっかけはイギリス本国ほんごくによる課税かぜい強化きょうかにあり、それはフレンチ・インディアン戦争せんそう1754ねん - 1763ねん)による財政ざいせい危機きき解消かいしょう目的もくてきとしたものであった。イギリス政府せいふ1764ねん砂糖さとうほう1765ねんには印紙いんしほう成立せいりつさせて植民しょくみんからの税収ぜいしゅうぞうはかったが、とく印紙いんしほうはアメリカで広範こうはん反対はんたい運動うんどうこし、撤廃てっぱいまれた。

1767ねんイギリス本国ほんごく議会ぎかいタウンゼンド諸法しょほう制定せいていして植民しょくみんあらたにぜいそうとこころみると、またも反対はんたい運動うんどうがり、1770ねんにタウンゼンド関税かんぜい撤廃てっぱいさせられた。だが、このときちゃたいする課税かぜい廃止はいしされず、本国ほんごくちゃ植民しょくみん不満ふまん象徴しょうちょうとなった。

1773ねんちゃほうによってイギリスひがしインド会社かいしゃちゃやす植民しょくみん流入りゅうにゅうすることになると植民しょくみん商人しょうにんいかりは頂点ちょうてんたっし、1773ねん12月にはボストンみなと停泊ていはくちゅうひがしインド会社かいしゃせん暴徒ぼうと乱入らんにゅうし、積載せきさいされていたちゃうみ投棄とうきした(ボストン茶会ちゃかい事件じけん)。

そうしたなか1774ねんに、イギリス議会ぎかい植民しょくみんたいして次々つぎつぎ懲罰ちょうばつてき立法りっぽう措置そち実行じっこうした。こうした危機ききにチャタムはくウィリアム・ピットだいピット)はとどこおえいちゅうベンジャミン・フランクリン協力きょうりょくして議会ぎかい植民しょくみん和解わかいするようはたらきかけた。しかし、首相しゅしょうフレデリック・ノース国王こくおうジョージ3せいつよ意志いし背景はいけいに、植民しょくみん強硬きょうこう態度たいどのぞ決意けついだった。

一連いちれんイギリスがわ政策せいさくたいし、13植民しょくみん対策たいさく協議きょうぎのために大陸たいりく会議かいぎひらいてイギリス本国ほんごくとの和解わかいみちさぐったが、打開だかいできないままであった。

ノースカロライナでは1764ねんから1771ねんまで、世直よなおらが民衆みんしゅう支持しじてしばしば蜂起ほうきし、民兵みんぺいたいをもって反乱はんらん指導しどうしゃ処刑しょけいしようとする支配しはいしゃそうたいする世直よなおしの戦争せんそう突入とつにゅうした。

1778ねんまでの戦闘せんとういん

編集へんしゅう

軍隊ぐんたい民兵みんぺい、および傭兵ようへい

編集へんしゅう

戦争せんそうはじまった当初とうしょは、アメリカには職業しょくぎょうてき陸軍りくぐん海軍かいぐんく、かく植民しょくみんには地元じもと民兵みんぺい部隊ぶたい存在そんざいするのみで、これがみずからの地域ちいき防衛ぼうえいにあたっていた。独立どくりつ戦争せんそうまえのアメリカでは、イギリスぐんかく植民しょくみん民兵みんぺいたい補助ほじょてきもちいていた。開戦かいせん一部いちぶのぞいてこの民兵みんぺいたいのほぼすべてがアメリカ大陸あめりかたいりくぐんくわわった。民兵みんぺい装備そうび簡単かんたんなものであり、ほとんど訓練くんれんされておらず、通常つうじょう制服せいふくかった。当時とうじは、民兵みんぺい従軍じゅうぐん期間きかんすう週間しゅうかんからすうげつあいだかぎられており、いえからとおはなれたところへはきたがらなかったので、通常つうじょうだい規模きぼ作戦さくせんには使つかえなかった。民兵みんぺいには正規せいきへいのような訓練くんれん規律きりつけていたがかずではまさり、レキシントン・コンコードのたたかベニントンのたたかとサラトガ、さらにボストン包囲ほういせんでは正規せいきへいかすことができた。べいえいりょうぐんどもゲリラせんもちいたが、大陸たいりくぐんはイギリスぐん正規せいきへいがいない地域ちいき効果こうかてきおう党派とうは活動かつどうおさえた[4][5][6]

 
イギリスぐん従軍じゅうぐんしたドイツじん傭兵ようへい。ヘシアンとばれた。

1775ねん6がつ組織そしきだった作戦さくせん行動こうどうをとるため、大陸たいりく会議かいぎ正規せいきぐんを(かみうえで)設立せつりつジョージ・ワシントンそう司令しれいかん任命にんめいした。大陸たいりくぐん成長せいちょうつづけるなかで、ワシントンは正規せいきぐん民兵みんぺい両方りょうほう使つかつづけた。1775ねん10月13にち大陸たいりく会議かいぎ大陸たいりく海軍かいぐんのための艦船かんせん建造けんぞう承認しょうにんあたえられたことによりアメリカ海軍かいぐん発足ほっそくし、このとき4せき武装ぶそうせん購入こうにゅうおよび艤装ぎそうみとめられた。アメリカ海兵かいへいたい前身ぜんしんである大陸たいりく海兵かいへいたい1775ねん11月10にち大陸たいりく会議かいぎ決議けつぎにより結成けっせいされ、フィラデルフィアのタン酒場さかば最初さいしょ本拠ほんきょにした。

1783ねん終戦しゅうせん大陸たいりく海軍かいぐん大陸たいりく海兵かいへいたい解体かいたいされた。独立どくりつ戦争せんそうつうじ、やく25まんにん兵士へいし正規せいきへいまたは民兵みんぺいとして従軍じゅうぐんしたが、どの期間きかんにおいても武装ぶそうした兵士へいしは9まんにんえることかった。大陸たいりく陸軍りくぐん当時とうじのヨーロッパの標準ひょうじゅんてき軍隊ぐんたいからかんがえればちいさなものだった。ワシントンがみずか戦場せんじょう指揮しきした兵士へいしかず一番いちばんおおときでも17,000めいらずであった。これは、戦術せんじゅつてき選択せんたく結果けっかであったが、アメリカぐん弾薬だんやく不足ふそくしていたためにおおくの兵士へいしいち使つかえなかった側面そくめん存在そんざいした[注釈ちゅうしゃく 2][注釈ちゅうしゃく 3]

1775ねん初期しょき、イギリス陸軍りくぐん世界せかいで36,000めいほどいたが、戦時せんじには徴募ちょうぼによって確実かくじつにこの数字すうじやしていた。さらに、アメリカ独立どくりつ戦争せんそうのときは、ドイツ諸侯しょこうからやく30,000めい兵士へいし雇用こようした。この兵士へいしおおくはヘッセン=カッセルかたはくりょうからていたので、「ヘシアン」すなわちヘッセンじんばれた。この軍隊ぐんたい主君しゅくんやとわれた職業しょくぎょう軍人ぐんじんという意味いみでの傭兵ようへいぐんであった。ドイツへいきたアメリカでのイギリスぐん兵力へいりょくの3ぶんの1をめた。1779ねんまでにきたアメリカに駐屯ちゅうとんするイギリスへいとドイツへい総数そうすうは6まんめいえた。ただし、兵力へいりょくカナダからフロリダまで分散ぶんさんしたかたちになっていた[7][8]

アフリカけいアメリカじんおよび先住民せんじゅうみんぞく

編集へんしゅう

アフリカけいアメリカじんは、解放かいほうされたもと奴隷どれい奴隷どれいのままのものべいえいりょうぐんともに従軍じゅうぐんした。

イギリスぐん積極せっきょくてきに、愛国あいこくしゃ主人しゅじん奴隷どれい徴募ちょうぼした。

だい陸軍りくぐんがわにおいても、1776ねん1がつに、人員じんいん不足ふそく解消かいしょうのためそう司令しれいかんジョージ・ワシントン奴隷どれい徴募ちょうぼ禁止きんしれい撤廃てっぱいした。ロードアイランドマサチューセッツでは、ちいさいながらもすべ黒人こくじん部隊ぶたい編制へんせいされた。また、フランスぐんともハイチからすべ黒人こくじん部隊ぶたい参戦さんせんした。

すくなくとも5,000めい黒人こくじん革命かくめいぐんがわ[9]、2まんにん以上いじょうがイギリスぐん従軍じゅうぐんした[10]

ミシシッピーがわからひがしにいた先住民せんじゅうみんぞく大半たいはん戦争せんそうまれた。おおくの部族ぶぞく社会しゃかい戦争せんそうへのかかわりかためぐって分裂ぶんれつすることになったが、それまでアメリカの開拓かいたくしゃからの侵略しんりゃくさらされていたために、先住民せんじゅうみんおおくはアメリカと敵対てきたいするみち選択せんたくした。およそ、13,000めい戦士せんしがイギリスがわ戦闘せんとう従事じゅうじしたと推定すいていされており、そのなかではイロコイ連邦れんぽうやく1,500めい最大さいだいであった[11][12]

北部ほくぶでのたたかい:1775ねん-1780ねん

編集へんしゅう

マサチューセッツ

編集へんしゅう

開戦かいせんまえボストンでは反抗はんこうてき活動かつどうつづき、1774ねんにイギリス政府せいふ懲罰ちょうばつのためマサチューセッツ統治とうちほう制定せいていして自治じちげた。しかし、この政策せいさく民衆みんしゅうあいだ反発はんぱつひろげる結果けっかとなり、あらたに本国ほんごくから任命にんめいされた役人やくにん辞職じしょくしたり暴徒ぼうとわれてボストン市内しないまどうことになった。イギリスぐんきたアメリカそう司令しれいかんになったトマス・ゲイジ中将ちゅうじょうはボストン市内しない本部ほんぶからイギリス正規せいきへい4連隊れんたい指揮しきしていたが、市内しないはずれれば革命かくめい勢力せいりょく手中しゅちゅうにあった。

 
レキシントンのたたか

1775ねん4がつ18にちよる、ゲイジ将軍しょうぐんはマサチューセッツしゅうコンコード植民しょくみん民兵みんぺい保管ほかんしている弾薬だんやく押収おうしゅうするために700めいほどの部隊ぶたい派遣はけんした。革命かくめい勢力せいりょくぞくするポール・リビアなどの伝令でんれい郊外こうがいまちまわり、イギリスぐん出動しゅつどうしたという警告けいこくつたえた。4がつ19にちあさ、イギリスぐんレキシントンむらはいると、77めい民兵みんぺいむら緑地りょくちかまえていた。銃火じゅうかわされ、すうにん民兵みんぺいころされた。「1はつ銃声じゅうせい世界せかいえた」[13] という出来事できごとであった。イギリスぐんはコンコードに移動いどうし、3中隊ちゅうたい分遣ぶんけんたいがノースブリッジで500めい民兵みんぺいぐんたたかったが成果せいかげられなかった。イギリスぐんがボストンにはじめると、すうせんおよ民兵みんぺいあつまってきて、道路どうろ沿いからイギリスぐん攻撃こうげきおおきな損失そんしつあたえたが、イギリスぐん援兵えんぺい到着とうちゃく壊滅かいめつまぬかれた。このレキシントン・コンコードのたたか独立どくりつ戦争せんそうはじまった。

民兵みんぺいたちはボストンに集結しゅうけつし、ボストン包囲ほういせんはじまった。やく4,500めいのイギリス援兵えんぺい本国ほんごくから大西洋たいせいようわたって到着とうちゃくし、1775ねん6月17にちウィリアム・ハウ将軍しょうぐん指揮しきするイギリスぐんバンカーヒルのたたかチャールズタウン半島はんとう占拠せんきょした。アメリカぐん後退こうたいしたが、イギリスぐん損失そんしつおおきくつぎ攻撃こうげきうつることが躊躇ちゅうちょされた。包囲ほういせんやぶられず、イギリスぐん指揮しきかんはゲイジからハウにえられた[14]

1775ねん7がつあたらしく指名しめいされたワシントン将軍しょうぐんがボストン郊外こうがい到着とうちゃくし、植民しょくみんぐん指揮しきり、大陸たいりくぐん組織そしきした。ワシントンは自軍じぐん弾薬だんやく不足ふそくしていることをみとめ、あたらしい入手にゅうしゅげんもとめた。武器ぶき襲撃しゅうげきしたりまた製造せいぞうこころみられた。1776ねんまつまでの軍需ぐんじゅ物資ぶっしの90%は輸入ゆにゅうたよった。その総額そうがくは200まんポンドにのぼり、輸入ゆにゅうもと大半たいはんはフランスからのものであった[15]

手詰てづまり状態じょうたいあきからふゆまでつづいた。1776ねん3月はやく、愛国あいこくしゃタイコンデロガとりで捕獲ほかくした大砲たいほうヘンリー・ノックス少佐しょうさによってドーチェスター高地こうちはこげられた。大砲たいほうがイギリスぐん見下みおろすかたちになったので、ハウ将軍しょうぐん防衛ぼうえいできないと判断はんだんし、3月17にちにボストンわたし、ふねノバスコシアハリファックス海軍かいぐん基地きちまで移動いどうした[16]。そのワシントンはニューヨークまもるために大陸たいりくぐん大半たいはん移動いどうさせた。

ボストン方面ほうめん膠着こうちゃく状態じょうたいおちいっているあいだ大陸たいりく会議かいぎ戦争せんそう主導しゅどうけんつかもうと方面ほうめん作戦さくせん行動こうどうこした。大陸たいりく会議かいぎ当初とうしょフランスけいカナダじん領土りょうどを14番目ばんめ植民しょくみんとしてくわえようとうごいていたが、これに失敗しっぱいするとカナダ侵攻しんこう作戦さくせん承認しょうにんした。その目的もくてきはフランスじんおおケベックからイギリスの支配しはいのぞくことであった。

カナダにけ2つの遠征えんせいたい派遣はけんされたが、そのうちの1つ、リチャード・モントゴメリーじゅんはたひきいる1,700めい民兵みんぺいたい1775ねん9月16にちタイコンデロガとりで発進はっしんし、11月13にちにはモントリオールとした。カナダの知事ちじガイ・カールトンはケベック撤退てったいした。2つ遠征えんせいたいベネディクト・アーノルド大佐たいさひきいられた部隊ぶたいで、ひがしからケベックせまったが、兵站へいたんくるしみまた天然痘てんねんとうたおれるものおおかった。11月はじめにアーノルドたいがケベック到着とうちゃくしたとき当初とうしょ1,100めいいた部隊ぶたいは600めいにまで減少げんしょうしていた。合流ごうりゅうしたモントゴメリーたいとアーノルドたい12月31にちにケベック攻撃こうげきする(ケベックのたたか)が、カールトンによって完璧かんぺきかされた。そのもアメリカぐん1776ねんはるまでケベック郊外こうがい駐屯ちゅうとんしていたが結局けっきょく退却たいきゃくした。カナダはアメリカがわよりもおおくの兵力へいりょくようし、戦線せんせん堅守けんしゅした。

アメリカぐんはもう一度いちどケベックまでかえそうとこころみたが、1776ねん6月8にちトロワリビエールのたたか敗北はいぼくした。カールトンは逆襲ぎゃくしゅうてんじ、10月にはバルカーとうたたかでアーノルドの水軍すいぐんやぶる。アーノルドはカナダ侵攻しんこう作戦さくせん出発しゅっぱつてんであったタイコンデロガとりでまで退却たいきゃくした。カナダ侵攻しんこう作戦さくせんはアメリカぐんにとって悲惨ひさん結果けっかわったが、アーノルドの工作こうさくでイギリスぐんによる全面ぜんめんてき反攻はんこうおくらせることができた。

このカナダ侵攻しんこうにより、アメリカはイギリス世論せろんにおける支持しじ基盤きばんうしなった。「だからアメリカにたいする武力ぶりょく行使こうしはこのくにのあらゆる階層かいそう職業しょくぎょう人々ひとびとこころよれられ支持しじされるのだ」[17]

ケベックのたたかいでジェイムズ・リビングストン大佐たいさだい1カナダ連隊れんたいが、またサンピエールのたたかモーゼス・ヘイズンだい2カナダ連隊れんたいがアメリカがわいた。

ニューヨークとニュージャージー

編集へんしゅう

1776ねん7がつ4にち大陸たいりく会議かいぎアメリカ独立どくりつ宣言せんげん採択さいたくした。

イギリスぐんのハウ将軍しょうぐんはボストンから撤退てったいしたのちでニューヨーク奪取だっしゅ焦点しょうてんしぼった。大陸たいりくぐんのワシントンはニューヨークの防衛ぼうえいのためにロングアイランドマンハッタンあいだに2まんめい軍隊ぐんたいけた。イギリスぐんスタテンとう集結しゅうけつするあいだに、ワシントンはあたらしく発行はっこうされたばかりのアメリカ独立どくりつ宣言せんげん兵士へいしたちかせた。もはや妥協だきょう余地よちくなっていた。1776ねん8がつ27にち、ロングアイランドに上陸じょうりくした22,000めいのイギリスぐんは、独立どくりつ戦争せんそうなかでも最大さいだい会戦かいせんとなったロングアイランドのたたか大陸たいりくぐん駆逐くちくし、ブルックリン・ハイツまで後退こうたいさせた。ハウはそこで包囲ほういせんおこなおうとしたが、ワシントンはぐんもろともマンハッタンに脱出だっしゅつできた。

9月15にち、ハウはやく12,000めい部隊ぶたいローワー・マンハッタン上陸じょうりくさせ、ぐにニューヨーク支配しはいした。大陸たいりくぐんはハーレム・ハイツまで退しりぞき、翌日よくじつハーレム・ハイツのたたかいがおこったが、なんとか陣地じんち確保かくほすることができた。ハウがワシントンぐんかこむようにうごいたとき、大陸たいりくぐんはさらに後方こうほう退しりぞいたうえで、10月28にちホワイトプレインズのたたかこった。ワシントンぐん後退こうたいかえしたので、ハウはマンハッタンにもどワシントンとりで占領せんりょうしてやく2,000めい捕虜ほりょにした。捕虜ほりょかずはロングアイランドのたたかいのときわせて3,000めいのぼった。こののち、ニューヨークで悪名あくめいたかい「監獄かんごくせん」がはじまり終戦しゅうせんまでつづいた。この監獄かんごくせん戦闘せんとうによるぜん死者ししゃすうよりもおおい11,500にんものアメリカの兵士へいし水夫すいふはなってかれたままんだ。

 
デラウェアがわわたるワシントン、エマヌエル・ロイツェ

チャールズ・コーンウォリス将軍しょうぐんがワシントンをってニュージャージーまで進軍しんぐんし、大陸たいりくぐんは12月はやくにデラウェアがわわたってペンシルベニアまで後退こうたいした。このニューヨークからニュージャージーとつづいたイギリスぐん方面ほうめん作戦さくせんふゆはいって一旦いったん停止ていしし、ニュージャージーでふゆ宿営しゅくえいはいった。ハウはなん消耗しょうもうかえ大陸たいりくぐんつぶ機会きかいがありながらしくじってはいたが、5,000めい以上いじょうのアメリカへいころすか捕虜ほりょにしていた。

大陸たいりくぐん前途ぜんと多難たなんであった。大陸たいりくぐんとも撤退てったいかえしていたトマス・ペインは「いま兵士へいししんためときだ」ときした。使つかえる兵力へいりょくは5,000めいらずになっていた。兵士へいしは1ねん就役しゅうえき期間きかんわるので12月まつがくれば、1,400めいまでることになっていた。大陸たいりく会議かいぎ絶望ぜつぼうのうちにフィラデルフィアをてた。ただしイギリスぐん占領せんりょうたいする大衆たいしゅう反抗はんこうつよくなっていた。

ワシントンはとしあらたまるまえ攻撃こうげきすることにめ、クリスマスのよるひそかにデラウェアがわわたって12月26にちトレントンのたたかで1,000めいちかいヘシアンを捕虜ほりょにした。コーンウォリスはトレントンを再度さいど奪取だっしゅしようと進軍しんぐんしてきたが、ワシントンはそのうらをかき、1777ねん1がつ3にちプリンストンのたたかでイギリスぐん後衛こうえい部隊ぶたいやぶった。ワシントンはアメリカがわ士気しきたかめることができたので、そのモリスタウンふゆ宿営しゅくえいはいった。ニュージャージーの民兵みんぺいふゆあいだもイギリスぐんやヘシアンにいやがらせをつづけ、イギリスぐんはニューヨーク周辺しゅうへんまで撤退てったいすることになった。

大陸たいりく会議かいぎとワシントンは、ボストン包囲ほういせんのころから情報じょうほう諜報ちょうほう戦略せんりゃく展開てんかいしており、占領せんりょうされたニューヨークを中心ちゅうしんとした情報じょうほう収集しゅうしゅう諜報ちょうほう活動かつどうでは、地域ちいき支援しえんすくないイギリスぐんよりも優位ゆういっていた。トレントンのたたかいの勝利しょうり諜報ちょうほう活動かつどう成果せいかおさめたいちれいである。ヨーロッパ諸国しょこくとの情報じょうほう通信つうしんはやくからおこなわれており、この情報じょうほう優位ゆうい終戦しゅうせんまでつづくことになった。

イギリスぐん戦略せんりゃくはいつの段階だんかいでも国王こくおうたいする忠誠ちゅうせいちかって結集けっしゅうしてくるおう党派とうはものたち支援しえん期待きたいしていた。1776ねん2がつヘンリー・クリントン将軍しょうぐんは2,000めい兵士へいし海軍かいぐん船隊せんたいノースカロライナ侵攻しんこうしたが、おう党派とうは部隊ぶたいがムーアズ・クリークきょうたたかいで殲滅せんめつされたことをってげた。6月にクリントンは南部なんぶしゅ要港ようこうであるサウスカロライナチャールストン占領せんりょうしようとしたが、このとき南部なんぶおう党派とうは決起けっき期待きたいしていた。これは戦争せんそう遂行すいこうするには手軽てがる方法ほうほうえたが、海軍かいぐんとりで攻撃こうげき失敗しっぱいし、おう党派とうはものまち背後はいごから攻撃こうげき仕掛しかけることもかったので、作戦さくせん失敗しっぱいした。南部なんぶおう党派とうは組織そしきりょくよわ効果こうかあらわせなかった。1781ねんまでロンドンの上級じょうきゅう官僚かんりょうは、南部なんぶからげてきたおう党派とうは言葉ことばしんじて、蜂起ほうきがあるものとおもっていた。

サラトガとフィラデルフィア

編集へんしゅう

イギリスぐんが1777ねん作戦さくせん計画けいかくはじめたときに、きたアメリカには2つの主力しゅりょくぐんがあった。カナダのカールトンぐんとニューヨークのハウぐんであった。ロンドンでは、ジョージ・ジャーメインがこれらの軍隊ぐんたい作戦さくせん承認しょうにんしたが、連絡れんらく不行ふゆとどきと指揮しきかんのライバル意識いしきのために連携れんけいがうまくかなかった。ハウはフィラデルフィアの占領せんりょう成功せいこうしたが、北部ほくぶ軍隊ぐんたいはサラトガで降伏ごうぶくしてうしなわれてしまった。1777ねん作戦さくせん行動こうどうのち、カールトンとハウの2人ふたりども辞職じしょくした。

サラトガ方面ほうめん作戦さくせん

編集へんしゅう

1777ねん最初さいしょうごいたのはジョン・バーゴイン将軍しょうぐんひきいられたカナダからの遠征えんせいたいであった。その目的もくてきシャンプレーンハドソンがわ回廊かいろう確保かくほし、アメリカ植民しょくみん全体ぜんたいからニューイングランド孤立こりつさせることであった。バーゴインの侵略しんりゃくは2方面ほうめんからおこなわれた。バーゴイン自身じしんやく1まんめい兵士へいしひきいてシャンプレーンみずうみからオールバニかうものとし、もう1たいはバリー・セントリージャーにひきいられるやく2,000めい部隊ぶたいでモホークがわ渓谷けいこくくだり、オールバニでバーゴインと合流ごうりゅうするというものだった。

 
モホークぞく指導しどうしゃジョセフ・ブラント。インディアンだけでなく白人はくじんおう党派とうは部隊ぶたいひきいた。この肖像しょうぞう宮廷きゅうてい画家がかジョージ・ロムニーが1776ねんにロンドンでえがいた

バーゴインは6がつ進発しんぱつし、7がつはじめにはタイコンデロガとりで占領せんりょうした。その、アメリカぐんたおしてみちいだためにバーゴインぐんあゆみはにぶくなった。物資ぶっし確保かくほするために分遣ぶんけんたい派遣はけんしたが、8がつにアメリカの民兵みんぺいたいベニントンのたたかおこな決定的けっていてきやぶれて1,000めいちか兵力へいりょくうしなわれた。

一方いっぽう、セントリージャーの部隊ぶたいは、その半分はんぶんモホークぞく指導しどうしゃジョセフ・ブラントひきいていたが、スタンウィックスとりで包囲ほういした。アメリカの民兵みんぺいたい同盟どうめいインディアンが包囲ほういされている味方みかた救出きゅうしゅつするためにかったがせされて、オリスカニーのたたからされた。2かい救援きゅうえんたいはベネディクト・アーノルドがひきいていたが、セントリージャーは包囲ほういいてカナダに退却たいきゃくしてしまった。

バーゴインの軍隊ぐんたい総勢そうぜい6,000めいまでった。このような痛手いたでけたにもかかわらず、バーゴインはオールバニへの進軍しんぐんつづけることをめた。このことがのちおおきなしっぺがえしをうことになった。大陸たいりくぐん将軍しょうぐんホレイショ・ゲイツは8,000めい部隊ぶたいひきいて、サラトガみなみやく10マイル (16 km)の地点ちてん陣地じんちきずいた。9月、バーゴインは大陸たいりくぐん側面そくめんこうとしたが、フリーマン農場のうじょうたたか反撃はんげきされた。バーゴインぐん状態じょうたい絶望ぜつぼうてきなものにわってったが、ニューヨークのハウぐんがオールバニにかっているという期待きたいがあった。しかし、そうはならず、ハウぐんふね回航かいこうしてフィラデルフィアの奪取だっしゅかっていた。大陸たいりくぐんには民兵みんぺい続々ぞくぞくあつまりつづけており、10月のはじめには総勢そうぜい11,000めいたっしていた。つぎいどんだベミス高地こうちたたかでも撃退げきたいされたバーゴインは10月17にち降伏ごうぶくした。

サラトガは戦争せんそう転換てんかんてんとなった。ハウぐんによってフィラデルフィアはうばわれたが、アメリカの革命かくめい勢力せいりょく自信じしん決意けついもどした。さらに重要じゅうようなことは、この勝利しょうりによってフランスをアメリカがわかせてイギリスぐん対決たいけつできるようになったことであった。イギリスぐんにとってはこの戦争せんそうがより複雑ふくざつなものにわってきた[18]

フィラデルフィア方面ほうめん作戦さくせん

編集へんしゅう

ハウ将軍しょうぐんは1776ねんにニューヨーク占領せんりょうして、当時とうじ革命かくめい勢力せいりょく首都しゅとであるフィラデルフィアの占領せんりょうけた。ハウはゆっくりとうごいて、チェサピークわん北端ほくたんに15,000めい部隊ぶたい上陸じょうりくさせた。ワシントンは11,000めい兵士へいしをハウぐんとフィラデルフィアのあいだ配置はいちしたが、1777ねん9月11にちブランディワインのたたか敗北はいぼくして後退こうたいした。9月26にち大陸たいりく会議かいぎふたたびフィラデルフィアをてた。ハウはさらにワシントンぐんやぶってフィラデルフィアを抵抗ていこうもなく占領せんりょうした。ワシントンは10がつはじめにジャーマンタウンのちかくに宿営しゅくえいしていたハウぐんジャーマンタウンのたたかを、さらに12月はじめにはホワイトマーシュのたたかおこなったが、どちらも決定的けっていてき勝敗しょうはいにはいたらず、退しりぞいてつことにした。

 
バレーフォージ巡回じゅんかいするワシントンラファイエット

ホワイトマーシュのたたかいののちで、ワシントンはバレーフォージふゆ宿営しゅくえいしょとした。そこはフィラデルフィアからやく20マイル (32 km)のところにあり、つぎの6かげつあいだごした。ふゆあいだに1まんめいいた軍隊ぐんたいの2,500めい病気びょうきさむさでんだ。1778ねんはるシュトイベン男爵だんしゃく訓練くんれん甲斐かいあって大陸たいりくぐんよみがえった。シュトイベンはプロイセンの近代きんだいてき戦法せんぽうおしえ、訓練くんれんされ規律きりつある軍隊ぐんたいをきずきあげた。

イギリスぐんそう司令しれいかんはハウからクリントンにわった。フランスが参戦さんせんしたことにより、イギリスぐん戦略せんりゃくえて、フランス海軍かいぐん脅威きょうい対象たいしょうとなったニューヨーク防衛ぼうえいするためにフィラデルフィアを放棄ほうきした。1778ねん6月28にち、ワシントンは撤退てったいするクリントンぐんってモンマスのたたかおこなった。このたたかいが北部ほくぶでは最後さいごおおきな戦闘せんとうになった。クリントンぐんは7がつにニューヨーク到着とうちゃくしたが、それはデスタン伯爵はくしゃくがフランス海軍かいぐんひきいてアメリカの海岸かいがんあらわれる直前ちょくぜんのことであった。ワシントンぐんはニューヨークきたにあるホワイト・プレインズもどった。りょうぐんともに2ねんまえ対峙たいじした地点ちてんもどったが、戦争せんそう様相ようそうわりはじめていた[19]

国際こくさいせん:1778ねん-1783ねん

編集へんしゅう

1778ねんきたアメリカの反乱はんらん国際こくさいてき戦争せんそうわった。アメリカのたたかいで大陸たいりくぐん勝利しょうりしたことをったフランスは1778ねん2がつ6にちアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく同盟どうめい条約じょうやくむすんだ。1779ねん6がつには、ブルボン盟約めいやく更新こうしんし、スペインがフランスの同盟どうめいこくとして参戦さんせんした。しかし、スペインは当初とうしょフランスとはことなり、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく承認しょうにんこばんだ。スペインはその植民しょくみん帝国ていこくなかおなじような反乱はんらん助長じょちょうするのではないかと神経しんけいとがらせていた。オランダ1780ねん参戦さんせんして、国共こっきょうにイギリスのちからぐことを期待きたいして戦争せんそうはじめからアメリカをひそかに財政ざいせいてき援助えんじょしていた。

さらにラファイエットコシューシコプワスキ欧州おうしゅう義勇軍ぎゆうぐん参加さんかした。1780ねんイギリスのたいアメリカ海上かいじょう封鎖ふうさたいし、ロシアのエカチェリーナ2せいびかけで武装ぶそう中立ちゅうりつ同盟どうめい結成けっせいされ、イギリスは国際こくさいてき孤立こりつした。

ロンドンでは、国王こくおうジョージ3せいがよりおおくの軍隊ぐんたいおくってアメリカをしたがわせるという希望きぼうあきらめていた。というのもイギリスはヨーロッパでの戦争せんそうに捉われていたからである。「ペンシルベニアを保持ほじしておこうなどとかんがえるのは冗談じょうだんだった」とジョージ3せいった。ニューイングランドを回復かいふくするのぞみもくなっていた。しかし、国王こくおうは「アメリカの独立どくりつけっしてみとめない。永久えいきゅうつづくようにえる戦争せんそう無制限むせいげんばして、命令めいれいしたがわないものばっしてやろう」と決心けっしんした[20]国王こくおう計画けいかくは、ニューヨーク、ロードアイランド、カナダおよびフロリダの3まんめい防衛ぼうえいぐん維持いじし、部隊ぶたい西にしインド諸島しょとうにいるフランスとスペインをたたくことだった。アメリカをばっするために国王こくおうかんがえたことは、アメリカの海上かいじょう貿易ぼうえき破壊はかいし、みなと砲撃ほうげきし、海岸かいがんちかまちたとえばニューロンドン)をおそってやしてしまうことであり、アメリカの先住民せんじゅうみんおくって辺境へんきょう開拓かいたくにいる市民しみんおそわせることだった。これらの活動かつどうでアメリカのおう党派とうは刺激しげきでき、大陸たいりく会議かいぎをばらばらにし、「反逆はんぎゃくしゃいやがらせ、ませ、まずしいままにしておけば、自然しぜんにかつ当然とうぜん帰結きけつとして不満ふまん失望しつぼう後悔こうかい自責じせきねんわったあかつきには」国王こくおう権威けんいしたもどることをねがうようになるとジョージ3せいかんがえた[21]。この計画けいかくおう党派とうは忠実ちゅうじつなアメリカの先住民せんじゅうみんぞく破壊はかいかねのかかる戦争せんそう無制限むせいげんばすことも意味いみしており、またフランスやスペインが艦隊かんたいあつめてイギリス諸島しょとう侵略しんりゃくしロンドンを占領せんりょうする危険きけんもあった。イギリスはヨーロッパの連合れんごうぐん処理しょりしたのちで、反抗はんこうしている植民しょくみん再度さいどしたがわせる計画けいかくにした。

海上かいじょう独立どくりつひろがり

編集へんしゅう

独立どくりつ戦争せんそうはじまったとき、イギリスはアメリカ植民しょくみんたい圧倒的あっとうてき海軍かいぐんりょくほこっていた、帝国ていこく海軍かいぐんには100せき以上いじょう戦列せんれつかんおおくのフリゲートやそのちいさな艦船かんせんがあった。ただし、老朽ろうきゅうかんおおく、最初さいしょ海軍かいぐん大臣だいじんサンドウィッチ伯爵はくしゃく非難ひなんしていたようにあまり整備せいびとどいているとはえなかった。開戦かいせんの3年間ねんかん海軍かいぐんおも陸上りくじょう兵力へいりょく移送いそう商船しょうせん護衛ごえい使つかわれていた。アメリカ植民しょくみんがわには、戦列せんれつかんなど1せきく、イギリスの商船しょうせんおそわたしかすめせんたよるところがおおきかった。わたしかすめせんは、フランスが戦争せんそう加担かたんするまえからそしてそのもフランスのイギリス海峡かいきょうめんしたみなと拠点きょてんとして活動かつどうしていたので、帝国ていこく海軍かいぐんこまらせえいふつ関係かんけいをこじれさせていたが、その物質ぶっしつてき戦果せんかわりには戦争せんそう全体ぜんたいあたえる影響えいきょうちいさかった。大陸たいりく会議かいぎは1775ねん10がつにアメリカ海軍かいぐん創設そうせつ承認しょうにんしたが、ちいさなものだったのでおも商船しょうせんへの襲撃しゅうげきもちいられていた。ジョン・ポール・ジョーンズ船長せんちょう1778ねん4がつ24にち英国えいこくかんHMSドレークを鹵獲ろかくし、アメリカ海軍かいぐんでは最初さいしょ英雄えいゆうになった。このノース海峡かいきょう海戦かいせんはイギリス海軍かいぐんたいする最初さいしょのアメリカ艦船かんせん勝利しょうりでもあった[22]

 
ジブラルタル包囲ほういせん

フランスが戦争せんそう加担かたんしたことで、イギリス海軍かいぐん優越ゆうえつせいはそれほどのものではなくなってきた。しかし、フランスとアメリカの連合れんごうぐん1778ねんロードアイランドのたたか1779ねんのサバンナのたたかいではうまく機能きのうしなかった。その原因げんいんひとつはフランスとアメリカの軍事ぐんじてき優先ゆうせん順位じゅんいことなっていたことにあった。フランスは、アメリカの独立どくりつ確保かくほするまえに、西にしインド諸島しょとうにあるイギリスの占領せんりょうりたかった。フランスからアメリカにたいする財政ざいせいてき援助えんじょすできびしい段階だんかいていたので、1780ねん7がつロシャンボー伯爵はくしゃくひきいるだい部隊ぶたい到着とうちゃくするまでは、軍事ぐんじてきにあまり有効ゆうこう結果けっかつながるまでにはいたらなかった。

スペインがアメリカがわ参戦さんせんした意図いとには、1705ねんにイギリスに占領せんりょうされたジブラルタルメノルカとううばかえすということもふくまれていた。3ねん以上いじょうにわたってジブラルタルの包囲ほういせんおこなったが、イギリスぐん守備しゅびたい頑強がんきょうまもき、1780ねんサン・ビセンテみさき月光げっこう海戦かいせんにおけるロドニー提督ていとく勝利しょうりのち補給ほきゅうかなって防衛ぼうえいできた。それでもフランスとスペインはなにとかジブラルタルをろうとしたが、失敗しっぱいわった。メノルカとうほう1782ねん2がつ5にちにフランスとスペインの連合れんごうぐん奪取だっしゅ成功せいこうし、スペインは独立どくりつ戦争せんそう正式せいしきにイギリスから領有りょうゆうみとめられた。

西にしインド諸島しょとうおよびメキシコ湾岸わんがん

編集へんしゅう

西にしインド諸島しょとうではおおくの戦闘せんとうおこなわれ、とくしょうアンティル諸島しょとうではなん支配しはいしゃわることがあった。1782ねん4がつセツインの海戦かいせんでイギリス海軍かいぐんのロドニー提督ていとくがフランス海軍かいぐんド・グラス伯爵はくしゃく艦隊かんたいやぶり、フランスとスペインの連合れんごうぐん目指めざしていたジャマイカなどイギリス植民しょくみん奪取だっしゅのぞみをった。1782ねん5月12にち、スペインりょうルイジアナ総督そうとくであったベルナルド・デ・ガルベス伯爵はくしゃくが、バハマニュープロビデンスとうにあったイギリス海軍かいぐん基地きち占領せんりょうした。このような結果けっかにもかかわらず、フランスが占領せんりょうしたトバゴとうちいさなしまのぞいて、1783ねん休戦きゅうせん西にしインド諸島しょとうでの支配しはい関係かんけい開戦かいせんまえ状態じょうたいもどすことで合意ごういされた。

メキシコわんきしでは、ガルベスが1779ねんにマンチャックのたたかい、バトンルージュのたたかいおよびナチェズのたたかいでミシシッピがわ沿いにあったイギリスの基地きち占領せんりょうした。ガルベスはつづいて1780ねんモービル占領せんりょうし、1781ねんにはペンサコーラのイギリスぐん基地きち降伏ごうぶくさせた。この結果けっか、スペインは1783ねん休戦きゅうせんみなみフロリダ西にしフロリダ獲得かくとくできた。

インドおよびオランダ

編集へんしゅう
 
ハイダル・アリー

きたアメリカの戦争せんそう余波よはインドでのえいふつあいだあらそいにもし、1780ねんだいマイソール戦争せんそうというかたちになった。マイソール王国おうこく支配しはいしゃでフランスとの同盟どうめい中心ちゅうしん人物じんぶつであったハイダル・アリーとその息子むすこティプー・スルターンマドラスのイギリス政府せいふ対抗たいこうした。

1782ねん戦争せんそう指揮しきしていたハイダル・アリーは戦争せんそうのさなかに死亡しぼうしたが、その戦争せんそうつづけられ、イギリスはマンガロール包囲ほういマンガロール包囲ほういせん)されるなどしたため、1784ねんだいマイソール戦争せんそうマンガロール条約じょうやく休戦きゅうせんとなった。これはインドの歴史れきしでも重要じゅうよう文書ぶんしょである。というのも、インドの民族みんぞくにとって、イギリスにこしひくくして休戦きゅうせんわせるように仕向しむけた最後さいご機会きかいだったからである。ウォーレン・ヘースティングスはこれを屈辱くつじょくてき講和こうわび、国王こくおう議会ぎかいに「イギリス国民こくみん信義しんぎ名誉めいよひとしく侵害しんがいされた」としてマドラス政府せいふばっするよううったえた。

1780ねんイギリスは武装ぶそう中立ちゅうりつ同盟どうめいかかわったネーデルラント連邦れんぽう共和きょうわこくたい先手せんてって攻撃こうげきした。武装ぶそう中立ちゅうりつ同盟どうめいはヨーロッパのすうカ国かこく中立ちゅうりつこく船舶せんぱく航行こうこう自由じゆう禁制きんせいひん以外いがい物資ぶっし輸送ゆそう自由じゆう宣言せんげんしたものであったが、その結果けっかはヨーロッパではイギリスが孤立こりつするかたちになった。

イギリスはネーデルラントが公然こうぜんとアメリカ反乱はんらんぐん援助えんじょするのをゆるしたくはなかった。アメリカ独立どくりつ戦争せんそうによって刺激しげきされたオランダ急進きゅうしん扇動せんどうとオランダ政府せいふのアメリカにたいする友好ゆうこうてき態度たいどは、イギリスの攻撃こうげきぶことになった。だいよんえいらん戦争せんそうは1784ねんまでつづき、オランダの商業しょうぎょう経済けいざい破壊はかいてき影響えいきょうをもたらした。

終戦しゅうせんへのみち

編集へんしゅう

南部なんぶ戦線せんせん:1778ねん-1781ねん

編集へんしゅう

独立どくりつ戦争せんそう最初さいしょの3年間ねんかんは、主戦しゅせんじょうがアメリカの北部ほくぶかぎられていた。フランスが参戦さんせんしてからのイギリスは、おう党派とうはおおいとおもわれた南部なんぶけて、おう党派とうは支援しえんられればそこを支配しはいできると目論もくろんだ。南部なんぶ注力ちゅうりょくすることはイギリス海軍かいぐんカリブ海かりぶかいちか配置はいちすることができ、フランスとスペインの連合れんごうぐん脅威きょういけているカリブ海かりぶかい植民しょくみんまもりやすくするという利点りてんもあった。

 
イギリスぐんバナスター・タールトン中佐ちゅうさ

1778ねん12月29にちに、ニューヨークから転進てんしんしたクリントン遠征えんせいたいジョージアサバンナ占領せんりょうした。クリントンはつづいてサウスカロライナチャールストン包囲ほういし、1780ねん5月2にち陥落かんらくさせた。クリントンは比較的ひかくてきすくない損失そんしつ南部なんぶ最大さいだい都市とし港湾こうわん確保かくほし、南部なんぶ制圧せいあつへのみちひらいた。

南部なんぶ大陸たいりくぐんはチャールストンで5,000めいほどにおよぶ戦力せんりょく降伏ごうぶくしたために崩壊ほうかい状態じょうたいとなり、のこった兵力へいりょくバナスター・タールトン中佐ちゅうさ追撃ついげきをうけ、1780ねん5月29にちワックスホーの虐殺ぎゃくさつでまたあらたな損失そんしつけた。そうした状況じょうきょう大陸たいりくぐん組織そしきだった作戦さくせん行動こうどうをできなくなったが、それでもフランシス・マリオンなどのパルチザンによって抗戦こうせんつづけられた。コーンウォリスがイギリスぐん指揮しきかんとなり、一方いっぽう大陸たいりくぐん北部ほくぶからホレイショ・ゲイツおくって南部なんぶ方面ほうめんぐん指揮しきかんとした。しかし1780ねん8がつ16にち、ゲイツはキャムデンのたたか大陸たいりくぐんはじまって以来いらい大敗たいはいきっし、コーンウォリスにノースカロライナ進軍しんぐんするみちあたえてしまった。

しかし、コーンウォリスがわ事態じたいわりはじめた。10月7にちキングスマウンテンのたたかかれ一翼いちよくになっていた部隊ぶたい完敗かんぱいした。このたたかいはおう党派とうは民兵みんぺい愛国あいこく民兵みんぺいたたかいだった。タールトンの部隊ぶたい1781ねん1がつ17にち大陸たいりくぐんダニエル・モーガン将軍しょうぐんとのカウペンスのたたか決定的けっていてき敗北はいぼくきっした。

ゲイツののちいだナサニエル・グリーン将軍しょうぐん一連いちれんたたかいでイギリスぐん消耗しょうもうさせる戦略せんりゃくた。それぞれのたたかいはイギリスぐん戦術せんじゅつてき勝利しょうりになったが、戦略せんりゃくてきにはものがほとんどかった。グリーンはのち有名ゆうめいとなるモットー「たたかい、たれ、がり、またたたかう(We fight, get beat, rise, and fight again.)」で部隊ぶたい鼓舞こぶした。コーンウォリスはグリーンの軍隊ぐんたいやぶることもできないままに、きたバージニアへの進軍しんぐんめた。

1781ねん3月、ワシントン将軍しょうぐんラファイエットをバージニア防衛ぼうえいのために派遣はけんした。フランスのわか将校しょうこうは3,200めいほどの部隊ぶたい指揮しきしていたが、こののコーンウォリスが指揮しきするイギリスぐん補強ほきょうされて7,200めいほどになっていた。ラファイエットはコーンウォリスと小競こぜいをえんじたが、援軍えんぐんあいだ決戦けっせんけていた。コーンウォリスはラファイエットを捕捉ほそくすることができず、結局けっきょくは7がつにイギリス海軍かいぐん連携れんけいってニューヨークへもどみちひらくためヨークタウンぐんすすめた。

北部ほくぶ西部せいぶ戦線せんせん

編集へんしゅう
 
ジョージ・ロジャース・クラークふゆに290kmを行軍こうぐんしてカナダふく総督そうとくヘンリー・ハミルトンをつかまえた

アパラチア山脈さんみゃく西にしとカナダ国境こっきょうあたりではアメリカ独立どくりつ戦争せんそうインディアン戦争せんそうしていた。先住民せんじゅうみんぞく大半たいはんがイギリスがわいた。イロコイ連邦れんぽうおなじようにチェロキーぞくショーニーぞく部族ぶぞくによって態度たいどえたものもいた。

イギリスぐん同盟どうめいした先住民せんじゅうみんぞく武器ぶき弾薬だんやくあたえ、ニューヨーク、ケンタッキーおよびペンシルベニアなどの開拓かいたくしゃ集落しゅうらくおそうことを奨励しょうれいした。そうして1778ねんこった「ワイオミング渓谷けいこく虐殺ぎゃくさつ」や「チェリー渓谷けいこく虐殺ぎゃくさつ」に刺激しげきされたワシントンは、1779ねんなつサリバン将軍しょうぐんへいあたえてニューヨーク西部せいぶ遠征えんせいさせた。サリバンはおおきな戦闘せんとうもないままに機械きかいてき先住民せんじゅうみんぞくむら破壊はかい食糧しょくりょういたので、先住民せんじゅうみんぞくはカナダやナイアガラフォールズ地域ちいき逃亡とうぼうふたたもどってくることはかった。

オハイオイリノイでは、バージニアの開拓かいたくしゃジョージ・ロジャース・クラーク1778ねんカスカスキアとビンセンズのイギリスぐん基地きちうばい、この地域ちいき先住民せんじゅうみんぞくたいするイギリスぐん影響えいきょうりょくごうとした。デトロイト本拠ほんきょにしていたイギリスぐん指揮しきかんヘンリー・ハミルトンがビンセンズのとりでうばかえしたのちで、1779ねん2がつにクラークはハミルトンを急襲きゅうしゅうとりでとハミルトンを捕獲ほかくした(イリノイ方面ほうめん作戦さくせん)。

1782ねんに、「グナデンハッテンの虐殺ぎゃくさつ」がこり、ペンシルベニアの民兵みんぺい中立ちゅうりつであった先住民せんじゅうみんぞくやく100めいころした。1782ねん8がつに、独立どくりつ戦争せんそうでは最後さいご会戦かいせんとなったブルーリックスのたたかやく200めいのケンタッキー民兵みんぺいたいやぶれた。

ヨークタウン

編集へんしゅう
 
ヨークタウンのコーンウォリス将軍しょうぐん降伏ごうぶく

北部ほくぶ南部なんぶおよび海上かいじょうたたかいは1781ねんヨークタウンのたたかの1てん収束しゅうそくした。9月はやく、フランス海軍かいぐんチェサピークわん海戦かいせんでイギリス艦隊かんたいやぶり、コーンウォリス脱出だっしゅつみちざした。ワシントンはニューヨークから急遽きゅうきょ大陸たいりくぐんとフランスぐん南部なんぶ移動いどうさせ、17,000めいほどのだい部隊ぶたいで10がつはじめにヨークタウンを包囲ほういした。コーンウォリスぐん立場たちば急速きゅうそくがたいものになり、1781ねん10月19にちに、やく7,000めい軍隊ぐんたい全員ぜんいん降伏ごうぶくした。

ヨークタウンでの降伏ごうぶくによって、イギリス国王こくおうジョージ3せい休戦きゅうせん方向ほうこうすす議会ぎかいへの支配しはいりょくうしない、こののち陸上りくじょうでのおおきな戦闘せんとうくなった。しかし、この時点じてんでイギリスぐんはニューヨーク、チャールストンおよびサバンナにまだわせて3まんめい戦力せんりょく保有ほゆうしていた[23]西にしインド諸島しょとうにおけるえいふつあいだあらそいはつづいていた。アメリカのおおくの艦船かんせんがイギリスのふねおそっていなければ、イギリスはアメリカにさら増援ぞうえんおくることも可能かのうであった。

ロンドンではヨークタウンのたたか以後いご戦争せんそう維持いじ世論せろん急速きゅうそくいきおいをくし、フレデリック・ノース首相しゅしょう1782ねん3がつ辞任じにんした。そしてよく4がつ、イギリス下院かいんはアメリカとの休戦きゅうせん法案ほうあんとおした。1782ねん11月には休戦きゅうせんため予備よび協定きょうていがパリでむすばれたが、正式せいしき休戦きゅうせん1783ねん9月3にちパリ条約じょうやく締結ていけつであった。アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく議会ぎかい当時とうじ連合れんごう会議かいぎ)は1784ねん1がつ14にちにパリ条約じょうやく批准ひじゅんした。最後さいごまでのこっていたニューヨークのイギリスぐん撤退てったいしたのは1783ねん11月25にちであった。

イギリスは同盟どうめいしていた先住民せんじゅうみんぞくなん相談そうだんいままアメリカと休戦きゅうせんためのパリ条約じょうやく交渉こうしょうおこない、アパラチア山脈さんみゃくからミシシッピーがわまでの先住民せんじゅうみんぞく土地とちをアメリカに割譲かつじょうした。先住民せんじゅうみんぞく不満ふまんいたまま、いくつかの条約じょうやくでアメリカにこれらの土地とち割譲かつじょう渋々しぶしぶみとめたが、これに同意どういしない種族しゅぞくとの紛争ふんそうつづき、その最大さいだいのものは北西ほくせいインディアン戦争せんそう1785ねん-1795ねん)となった。

アメリカ13くに(しゅう)は1787ねん憲法けんぽう制定せいてい会議かいぎ統一とういつ国家こっかとしての枠組わくぐみをアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく憲法けんぽう制定せいていし、翌年よくねん発効はっこうした。1789ねんしん憲法けんぽう規定きていしたがって初代しょだい大統領だいとうりょう選出せんしゅつされたのは、絶望ぜつぼうかともおもわれた困難こんなん時期じきくっすることなく大陸たいりくぐんひきい、圧倒的あっとうてきなイギリスぐんとの戦争せんそうそよいたワシントンであった。

戦争せんそうのコスト

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人的じんてき損失そんしつ

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アメリカ独立どくりつ戦争せんそうによってうしなわれた人命じんめい総数そうすう正確せいかくなところがかっていない。当時とうじ戦争せんそうつねとして、病気びょうきによる死者ししゃ戦闘せんとうによる死者ししゃかず上回うわまわっていた。歴史れきしのジョセフ・エリスは、ワシントンがその軍隊ぐんたい兵士へいし天然痘てんねんとう予防よぼう接種せっしゅけさせたことは、そのもっと重大じゅうだい決断けつだんひとつだったと示唆しさしている[24]

推計すいけいではアメリカ大陸あめりかたいりくぐんがわ従軍じゅうぐんちゅう死者ししゃは25,000めいほどとされている。このうち8,000めいほどが戦死せんしで、のこりの17,000めいほどが戦病死せんびょうしであった。戦病死せんびょうしなかには捕虜ほりょとして収容しゅうようされているあいだんだしゃ8,000めいほどがふくまれていた。重傷じゅうしょうったもの、あるいは障害しょうがいしゃとなったものは8,500めいから25,000めいほどと推計すいけいされている。つまりアメリカがわ損失そんしつ高々たかだか50,000めいということになる[25]

イギリス海軍かいぐんにはやく171,000めい水夫すいふ従軍じゅうぐんしたが、そのうち25ないし50%は強制きょうせい徴募ちょうぼによるものだった。やく1,240めい戦死せんしし、やく18,500めい病気びょうきんだ。一番いちばんおお死因しいん壊血病かいけつびょうであった。当時とうじこの病気びょうきけるための一番いちばん簡単かんたん方法ほうほうは、水夫すいふレモンジュースをあたえることだった。やく42,000めい水夫すいふ脱走だっそうした[26]

およそ1,200めいのドイツじん傭兵ようへい戦死せんしし、6,354めい病死びょうしした。ドイツじん傭兵ようへいのこやく16,000めいはドイツにもどったが、やく5,500めい様々さまざま理由りゆうでアメリカにのこり、結果けっかてきにアメリカ市民しみんとなった。集団しゅうだん、つまりアメリカやカナダのおう党派とうは、イギリス正規せいき陸軍りくぐん、アメリカの先住民せんじゅうみん、フランスおよびスペインぐん、さらに市民しみん損失そんしつについては信頼しんらい統計とうけいデータがい。

財政ざいせいてきコスト

編集へんしゅう

イギリスはやく8000まんポンドをついやし、最終さいしゅうてきくに負債ふさいやく2おく5せんまんポンドとなった。このための利息りそく返済へんさいだけでも年間ねんかんやく950まんポンドとなった。

フランスはやく13おくリーブル(やく5600まんポンド)を消費しょうひした。フランスのくに負債ふさいは1おく8700まんポンドほどとなり、1780ねん時点じてんでの歳入さいにゅう半分はんぶん以上いじょうがこうした負債ふさい返済へんさいえていった。この負債ふさいによる危機ききのために政府せいふ大衆たいしゅう承認しょうにんもなく税率ぜいりつげることができなくなり、フランス革命かくめいおおきな要因よういんとなっていった[27]

アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく連邦れんぽうやく3700まんドル、かくくに(しゅう)の合計ごうけいやく1おく1400まんドルを使つかった。これは援助えんじょこくのフランスやオランダからの借金しゃっきん国民こくみんからの借金しゃっきん、および紙幣しへい多額たがく発行はっこうおぎなわれた。最終さいしゅうてきには、アメリカは1790年代ねんだいまでかかって負債ふさい解決かいけつした[28]

イギリスが敗北はいぼくした要因よういん

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アメリカ独立どくりつ戦争せんそう対立たいりつしたりょう勢力せいりょく元々もともとおな国民こくみんであったため、外国がいこくたたかわれた内乱ないらんという見方みかたもある。ただし、イギリスは軍事ぐんじりょくではアメリカよりもはるかに優勢ゆうせいで、アメリカはフランスの援助えんじょければたたかとおすことができなかった。あきらかに不利ふりなアメリカが勝利しょうりできた理由りゆうひとつとして、アメリカとイギリス本国ほんごくとの距離きょりはなれていたことげられる。イギリスは援軍えんぐん物資ぶっし本国ほんごくから大西洋たいせいようえてはこばねばならず、イギリスには港湾こうわん都市としからいちはなれれば兵站へいたん問題もんだいつねいてまわることとなった。一方いっぽうのアメリカは地方ちほうけばへい食糧しょくりょう補充ほじゅうでき、その環境かんきょう順応じゅんのうできた。また、イギリス本国ほんごく戦争せんそう情報じょうほうるには大西洋たいせいようえなくてはならず、そのあいだ情報じょうほうが2かげつほどおくれてしまうのでアメリカにいるイギリスぐん将軍しょうぐん首都しゅとロンドンからの指令しれいときには、軍事ぐんじてき情勢じょうせいわってしまっていたことが多々たたあった[29]

また、イギリスがアメリカの反乱はんらんおさえようとしたことあらたな問題もんだい誘発ゆうはつされた。植民しょくみん広大こうだい範囲はんいひろがっており、戦前せんぜんはそれらは一体いったいではなかったので戦略せんりゃくてき重要じゅうよう地点ちてんひとつではなかった。ヨーロッパでは首都しゅと制圧せいあつ戦争せんそうわりを意味いみしていたのにたいし、アメリカではイギリスがニューヨークやフィラデルフィアなどの都市とし占領せんりょうしたのにもかかわらず、戦争せんそうわらせることができなかった。また、領土りょうどひろいということは、イギリスぐんちから制圧せいあつしようとしても広範囲こうはんいおさえられるだけの兵力へいりょく必要ひつようとなる。これはイギリスぐんがある地域ちいき占領せんりょうしたとしても、そこを占領せんりょうするためのへいかないとアメリカの革命かくめいぐんうばかえされることを意味いみし、イギリスが占領せんりょう維持いじしようとすれば、つぎ作戦さくせん行動こうどうにはうつれないことを意味いみしていた。イギリスぐん戦場せんじょうでアメリカぐんたたくには十分じゅうぶん兵力へいりょく保持ほじしていても、その地域ちいき占領せんりょうつづけるには兵力へいりょくりていなかった。この兵力へいりょく不足ふそくはフランスとスペインが参戦さんせんしたのちは、兵力へいりょくをいくつかの戦線せんせん分散ぶんさんさせざるをなくなり、さらおおきな問題もんだいとなった[30]

さらに、イギリスはおう党派とうはとの連携れんけいたもちながら戦争せんそう遂行すいこうしなければならなかった。おう党派とうは支持しじ植民しょくみんをイギリス帝国ていこくなかめておくという目的もくてきのために不可欠ふかけつだったが、これにより軍事ぐんじてき制限せいげんこった。戦争せんそう初期しょきハウ兄弟きょうだい戦争せんそう遂行すいこうしながら和平わへいのための交渉こうしょうつづけていたので、戦闘せんとうさい効果こうかいでいた可能かのうせいがあった。そしてイギリスは奴隷どれいやアメリカ先住民せんじゅうみんぞく戦争せんそうてたが、これはおう党派とうはとの関係かんけい疎遠そえんにし、賛否さんぴ両論りょうろんのあったドイツじん傭兵ようへい採用さいようよりもさらにその傾向けいこうつよめたとかんがえられている。おう党派とうはつなぎとめるために、イギリスぐんは、かつてアイルランドスコットランドおさむためにもちいた過酷かこく手段しゅだん使つかえなかった。これらの制限せいげんがあっても、それでも潜在せんざいてき中立ちゅうりつであった植民しょくみん人間にんげん革命かくめいなかはいっていくことふせことはできず、これらの要因よういんによりアメリカにおけるイギリスの支配しはいわり、革命かくめいみずからのくにとして、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくてた[31]

なお、武器ぶき性能せいのうにも決定的けっていてきちがいがあった。物量ぶつりょうではっていたイギリスぐんだったが、使用しようしていたライフル射程しゃてい距離きょりおとっていたため、てきへいへのある程度ていど接近せっきんによっておおきな犠牲ぎせいともなった。当時とうじのアメリカでは野牛やぎゅうへの遭遇そうぐうそなえて銃身じゅうしん内部ないぶ螺旋らせんみぞほどこしたことで、イギリスぐん使用しようするライフルよりも射程しゃてい距離きょりなが命中めいちゅう精度せいど威力いりょくたかいライフルの開発かいはつ成功せいこうしていた。

独立どくりつ宣言せんげん署名しょめいしたしゅう

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ニューハンプシャーしゅうマサチューセッツしゅうロードアイランドしゅうコネティカットしゅう以上いじょうニューイングランド)、ニューヨークしゅうペンシルベニアしゅうデラウェアしゅうメリーランドしゅうヴァージニアしゅうノースカロライナしゅうサウスカロライナしゅうジョージアしゅうニュージャージーしゅうの13しゅう

ニューイングランド6しゅうのうち、バーモントしゅうメインしゅうはこれにふくまれていない。バーモントしゅうがイギリスから独立どくりつしたのは1777ねんであったが、ニューヨークしゅうとの領土りょうど問題もんだいかかえており、連邦れんぽうへの加盟かめいは1791ねんおくれた。バーモントしゅうは14番目ばんめしゅうになる。また、メインしゅう独立どくりつ宣言せんげん時点じてんではマサチューセッツしゅうであり、そもそも独立どくりつしたしゅうではなかった。同様どうように、15番目ばんめしゅうであるケンタッキーしゅうや、南北戦争なんぼくせんそうなか成立せいりつしたウェストバージニアしゅうヴァージニアしゅう一部いちぶであった。

ヨーロッパへの影響えいきょう

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勝利しょうりよろこんだのはアメリカだけではなく、フランス王国おうこくもそうだった。

熱烈ねつれつ青年せいねん貴族きぞくラファイエット参戦さんせんしたブルボンあさにおいては、勝利しょうりのちしばらく貴婦人きふじんあいだあたまふね模型もけいせた一風いっぷうわった髪形かみがた流行りゅうこうした。だが、アメリカ独立どくりつ戦争せんそうにおける対外たいがい援助えんじょは、すでおおきくかたむきかけていたフランスの財政ざいせい破綻はたんさせ、フランス革命かくめいこす要因よういんとなった。

またアメリカ独立どくりつ宣言せんげんフランス革命かくめい影響えいきょうあたえ、ラファイエット起草きそうフランス人権じんけん宣言せんげんとなって結実けつじつした。また独立どくりつ戦争せんそう参加さんかしたポーランドじんタデウシュ・コシチュシュコは、故国ここくポーランドにおけるポーランド分割ぶんかつ対抗たいこうして反乱はんらんこした。

なお、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく独立どくりつ最初さいしょ承認しょうにんしたのは、スウェーデンであった。1783ねんには、アメリカ・スウェーデン友好ゆうこう通商つうしょう条約じょうやくむすんだ。

西暦せいれき 月日つきひ
内容ないよう
1754ねん - 1763ねん フレンチ・インディアン戦争せんそう
1764ねん 砂糖さとうほう
1765ねん 印紙いんしほう
1767ねん タウンゼンド諸法しょほう
1773ねん 12月16にち ボストン茶会ちゃかい事件じけん
1774ねん だい1かい大陸たいりく会議かいぎひらかれる
1775ねん 4がつ19にち レキシントン・コンコードのたたか独立どくりつ戦争せんそうはじまる
5がつ10日とおか だい2かい大陸たいりく会議かいぎひらかれる。1781ねん3月1にちまで。
6月17にち バンカーヒルのたたかでイギリスぐんからくもつ。
1776ねん 3月17にち 大陸たいりくぐんによりボストン解放かいほうされる。
7がつ4にち 独立どくりつ宣言せんげんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく誕生たんじょうする。
8がつ27にち ロングアイランドのたたかでイギリスぐんニューヨーク占領せんりょうする。
12月26にち トレントンのたたか合衆国がっしゅうこくぐんがイギリスぐんのドイツ傭兵ようへい部隊ぶたいやぶる。
1777ねん 1がつ3にち プリンストンのたたか合衆国がっしゅうこくぐんつ。
9月11にち ブランディワインのたたかでイギリスぐん勝利しょうりフィラデルフィア占領せんりょうする。
9月19にち だいいちサラトガのたたか
10月7にち だいサラトガのたたか イギリスぐんバーゴイン将軍しょうぐん降伏ごうぶくする。
1778ねん 2がつ6にち フランスアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく同盟どうめいし、参戦さんせんする。
6月28にち モンマスのたたか 北部ほくぶでの最後さいごたたか
12月29にち イギリスぐんジョージアしゅうサバンナ占領せんりょうする。
1779ねん 6がつ スペインフランス同盟どうめいむすんでいることを理由りゆう参戦さんせんする。
1780ねん 5月12にち イギリスぐんチャールストン占領せんりょうする。
8がつ16にち キャムデンのたたか合衆国がっしゅうこくぐん大敗たいはいする。
10月7にち キングスマウンテンのたたか合衆国がっしゅうこくぐん王政おうせいぐんやぶる。
1781ねん 9月5にち チェサピークわん海戦かいせんでフランス艦隊かんたいがイギリス艦隊かんたいやぶる。
10月17にち ヨークタウンのたたかでイギリスぐんチャールズ・コーンウォリス将軍しょうぐん降伏ごうぶくする。
1782ねん 4がつ イギリス議会ぎかい停戦ていせん決議けつぎする。
1783ねん 9月3にち パリ講和こうわ条約じょうやく締結ていけつされる。
11月19にち イギリスぐんがアメリカから撤退てったいする。

人物じんぶつ

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アメリカ独立どくりつ戦争せんそう題材だいざいにした作品さくひん

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文学ぶんがく

  • サムにいさんはんだ(1975ねん、ぬぷん児童じどう図書としょ出版しゅっぱん

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ イギリスの著述ちょじゅつ一般いっぱんAmerican War of IndependenceまたはWar of American Independenceこのむ。戦争せんそうめい使つかかたについてはOmohundro Institute of Early American History and Culture, Bibliography” (2003ねん7がつ16にち). 2010ねん12月16にち閲覧えつらん参照さんしょうした。
  2. ^ Boatner 1974, p. 264では最大さいだいのワシントンぐんは「17,000めい以下いか」だったとしている。
  3. ^ Duffy 1988, p. 17 ではワシントンぐん最大さいだいすうは「13,000めいぎなかった」と推定すいていしている。比較ひかくのために、フリードリヒ2せい戦場せんじょう通常つうじょう1,000めいから2,000めいほどの兵士へいし指揮しきしていたと Duffy はしるしている。

出典しゅってん

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  1. ^ Googleスカラー 2022, p. "American Independence Revolution".
  2. ^ 2005ねん社会しゃかい 中学生ちゅうがくせい歴史れきし 日本にっぽんあゆみと世界せかいうごき〈はつていばん〉』(帝国ていこく書院しょいん平成へいせい17ねん3がつ30にち 文部もんぶ科学かがくしょう検定けんていずみ教科書きょうかしょ番号ばんごう:46帝国ていこく 歴史れきし-713)p 137の「③ 革命かくめいひろがりと西洋せいよう思想しそう伝播でんぱ」というタイトルがついた地図ちずに「アメリカ独立どくりつ戦争せんそう(1775~83ねん)」と記載きさいされている。
  3. ^ 1996ねん中学ちゅうがく社会しゃかい 歴史れきし』(教育きょういく出版しゅっぱん平成へいせい8ねん2がつ29にち 文部省もんぶしょう検定けんていずみ教科書きょうかしょ番号ばんごう:17きょう 歴史れきし762)p 154の本文ほんぶん、2005ねん社会しゃかい 中学生ちゅうがくせい歴史れきし 日本にっぽんあゆみと世界せかいうごき〈はつていばん〉』(帝国ていこく書院しょいん平成へいせい17ねん3がつ30にち 文部もんぶ科学かがくしょう検定けんていずみ教科書きょうかしょ番号ばんごう:46帝国ていこく 歴史れきし-713)p 137の本文ほんぶん、1997ねん詳説しょうせつ世界せかい』(山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ平成へいせい9ねん3がつ31にち 文部省もんぶしょう検定けんていずみ教科書きょうかしょ番号ばんごう:81山川やまかわ B575)p 206のタイトル。
  4. ^ Black 2001, p.59
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  8. ^ Boatner 1974, pp. 424-426
  9. ^ Kaplan 1974, pp. 64-69
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  12. ^ Boatner 1974, p. 545
  13. ^ "shot heard 'round the world"
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  19. ^ George Athan Billias. George Washington's Generals and Opponents: Their Exploits and Leadership (1994); Higginbotham pp 175-188
  20. ^ George Otto Trevelyan, George the Third and Charles Fox: The Concluding Part of the American Revolution. (1912) vol 1 p. 4
  21. ^ Trevelyan, George the Third and Charles Fox vol 1 p. 5
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  24. ^ Smallpox epidemic: Elizabeth Anne Fenn, Pox Americana: The Great Smallpox Epidemic of 1775-82, p. 275. A great number of these smallpox deaths occurred outside the theater of war?in Mexico or among Native Americans west of the Mississippi River. Washington and inoculation: Ellis, His Excellency: George Washington, p. 87.
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  28. ^ Merrill Jensen, The New Nation (1950) p 379
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  30. ^ Higginbotham, p. 298, 306; Black, p. 29, 42.
  31. ^ Harsh methods: Black, pp. 14–16; slaves and Indians: Black, p. 35, 38. Neutrals into Revolutionaries: Black, p. 16.

参考さんこう文献ぶんけん

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  • Fenn, Elizabeth Anne (2001), Pox Americana: The Great Smallpox Epidemic of 1775-82, Hill & Wang Pub, ISBN 0809078201 
  • Greene, Jack P.; Pole, J.R. (1992), Blackwell Encyclopedia of the American Revolution, Wiley;, ISBN 1557862443  Collection of essays focused on political and social history.
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  • Kaplan, Sidney (1974), Black Presence in the Era of the American Revolution, New York Graphic Society, ISBN 0821205412  Amherst, Massachusetts: The University of Massachusetts Press, 1989. ISBN 0-87023-663-6.
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  • 友清ともきよ『アメリカ独立どくりつ戦争せんそううえ〉』学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃ学研がっけんM文庫ぶんこ〉、2001ねんISBN 9784059010623 
  • 友清ともきよ『アメリカ独立どくりつ戦争せんそうした〉』学習がくしゅう研究けんきゅうしゃ学研がっけんM文庫ぶんこ〉、2001ねんISBN 9784059010630 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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