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ポーランド - Wikipedia

ポーランド

ひがしヨーロッパのくに
ポーランド共和きょうわこく
Rzeczpospolita Polska
ポーランドの国旗 ポーランドの国章
国旗こっき くにあきら
くに標語ひょうご:なし1
国歌こっかMazurek Dąbrowskiego(ポーランド
ドンブロフスキのマズルカ
ポーランドの位置
公用こうよう ポーランド
首都しゅと ワルシャワ
最大さいだい都市とし ワルシャワ
政府せいふ
大統領だいとうりょう アンジェイ・ドゥダ
首相しゅしょう ドナルド・トゥスク
面積めんせき
総計そうけい 312,679km270
水面すいめんせきりつ 2.6%
人口じんこう
総計そうけい2020ねん 3784まん7000[1]ひと38
人口じんこう密度みつど 123.6[1]ひと/km2
GDP自国じこく通貨つうか表示ひょうじ
合計ごうけい2020ねん 2ちょう3238おく5900まん[2]ズウォティ
GDP(MER
合計ごうけい2020ねん5959おく1600まん[2]ドル(22
1人ひとりあたり 1まん5699.296[2]ドル
GDP(PPP
合計ごうけい2020ねん1ちょう2968おく4500まん[2]ドル(24
1人ひとりあたり 3まん4165.133[2]ドル
建国けんこく
ピャストあさ成立せいりつ960ねんころ
ポーランド王国おうこく成立せいりつ1025ねん
ポーランド・リトアニア共和きょうわこく成立せいりつ1569ねん
ポーランド分割ぶんかつ1795ねん10月24にち
ポーランド共和きょうわこくポーランドだい共和きょうわこく成立せいりつ1918ねん11月11にち
だいさん共和きょうわこく現在げんざい体制たいせい成立せいりつ1989ねん9月7にち
通貨つうか ズウォティPLN
時間じかんたい UTC+1 (DST:+2)
ISO 3166-1 PL / POL
ccTLD .pl
国際こくさい電話でんわ番号ばんごう 48
ちゅう1:ポーランドには公式こうしき標語ひょうご存在そんざいしないが、過去かこ国家こっかのシンボルに、Bóg, Honor, Ojczyznaかみ名誉めいよ祖国そこく)などの標語ひょうごかれたことがあった。

ポーランド共和きょうわこく(ポーランドきょうわこく、なみ: Rzeczpospolita Polska [ʐɛt͡ʂpɔˈspɔlita ˈpɔlska] ジェチュポスポリタ・ポルスカ )、通称つうしょうポーランドなみ: Polska、ポルスカ)は、中央ちゅうおうヨーロッパ位置いちする共和きょうわせい国家こっか欧州おうしゅう連合れんごう(EU)、北大西洋きたたいせいよう条約じょうやく機構きこう(NATO)の加盟かめいこく首都しゅとワルシャワ

きたバルト海ばるとかいめんし、北東ほくとうロシア飛地とびちカリーニングラードしゅうリトアニアひがしベラルーシウクライナみなみチェコスロバキア西にしドイツ国境こっきょうせっする。

概要がいよう 編集へんしゅう

同国どうこく該当がいとう地域ちいきが「分割ぶんかつ統合とうごう」を幾度いくどかえかたち歴史れきしつむいでた。10世紀せいき国家こっかとして認知にんちされ、16世紀せいきから17世紀せいきにかけポーランド・リトアニア共和きょうわこく形成けいせい、ヨーロッパで有数ゆうすう大国たいこくとなった。18世紀せいき、3にわたって他国たこく分割ぶんかつされたすえ消滅しょうめつポーランド分割ぶんかつ)、123年間ねんかんにわたり他国たこく支配しはいないし影響えいきょうかれつづけた[3]

だいいち世界せかい大戦たいせん、1918ねん独立どくりつ回復かいふくした。しかしだい世界せかい大戦たいせんときナチス・ドイツソビエト連邦れんぽうからの事前じぜん交渉こうしょう拒否きょひ両国りょうこく侵略しんりゃくされ、ふたた国土こくど分割ぶんかつされた(ポーランド侵攻しんこう)。

戦後せんご1952ねんポーランド人民じんみん共和きょうわこくとして国家こっか主権しゅけん復活ふっかつさせた。ただし、ポーランド統一とういつ労働ろうどうしゃとう共産党きょうさんとう)によるいちとう独裁どくさい体制たいせいであり、ソ連それん従属じゅうぞくする衛星えいせいこくであり、ワルシャワ条約じょうやく機構きこう加盟かめいこくでもあった。

1989ねんおこなわれた自由じゆう選挙せんきょ結果けっか共産党きょうさんとう政権せいけん成立せいりつ[3]現在げんざいポーランド共和きょうわこくとなった。また、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく主導しゅどう北大西洋きたたいせいよう条約じょうやく機構きこうにも加盟かめいし、事実じじつじょう西側にしがわ諸国しょこく一員いちいんである。

冷戦れいせん時代じだいは「東欧とうおう」に分類ぶんるいされ、現在げんざい国連こくれん同様どうよう分類ぶんるいである。国内こくないおよび東側ひがしがわ諸国しょこく民主みんしゅ東欧とうおう革命かくめい)とソ連それん崩壊ほうかいて、べいCIAなど一部いちぶ機関きかんは「ちゅうおう」または「ちゅう東欧とうおう」として分類ぶんるいしている。

国名こくめい 編集へんしゅう

 
ポーランド

正式せいしき名称めいしょうはポーランドRzeczpospolita Polskaジェチュポスポリタ・ポルスカ 発音はつおん [ʐɛt͡ʂpɔˈspɔʎit̪a ˈpɔlska] (  音声おんせいファイル)通称つうしょう   Polska英語えいご表記ひょうきはPoland、国民こくみんはPolish、形容詞けいようしはPolish。日本語にほんご正式せいしき表記ひょうきポーランド共和きょうわこく通称つうしょうポーランド。また、漢字かんじ表記ひょうきなみらんで、なみ略記りゃっきされる。

ポーランドの国名こくめいの「ポルスカ」[注釈ちゅうしゃく 1]野原のはら意味いみする「ポーレ」[注釈ちゅうしゃく 2]語源ごげんわれている。最初さいしょにポーランドを建国けんこくした部族ぶぞくは「レフぞく」「レックぞく[注釈ちゅうしゃく 3]Lechici)といい、また同時どうじに「ポランぞく[注釈ちゅうしゃく 4]ともしょうした。「レフ」「レック」[注釈ちゅうしゃく 5]古代こだいポランぞく伝説でんせつじょう最初さいしょ族長ぞくちょう名前なまえであるが、レックはポーレとおなじく「野原のはら」を原義げんぎとするともいわれる。日本語にほんご直訳ちょくやくすれば「ポラン」ぞくは「はらぞくとなる。すなわち、ポルスカはこの「ポランぞくくにというのが元来がんらい意味いみとなる。

共和きょうわこく」に相当そうとうする「ジェチュポスポリタ」は、「公共こうきょうのもの」を意味いみするラテン語らてんごの「レス・プブリカ」[注釈ちゅうしゃく 6]翻訳ほんやく借用しゃくようである。レスには「もの」や「財産ざいさん」という意味いみがあり、ポーランドではジェチュがこれにたる。プブリカは「公共こうきょうの」という意味いみで、ポーランドではポスポリタにたる。

歴史れきし 編集へんしゅう

ポーランドの歴史れきし
 
ピャストあさ
10世紀せいき - 1370ねん
 
プシェミスルあさ 1300ねん - 1306ねん
 
ポーランド・アンジューあさ 1370ねん - 1399ねん
ヤギェウォあさ 1399ねん - 1572ねん
ポーランド・リトアニア共和きょうわこくだい1共和きょうわせい) 1569ねん - 1795ねん
ポーランド分割ぶんかつ 1772ねん、1793ねん、1795ねん
ワルシャワ大公たいこうこく 1807ねん - 1813ねん
ポーランド立憲りっけん王国おうこく
1815ねん - 1867ねん
クラクフ共和きょうわこく
1815ねん - 1846ねん
ポズナン大公たいこうこく
1815ねん - 1848ねん
だいいち世界せかい大戦たいせん 1914ねん - 1918ねん
ポーランド摂政せっしょう王国おうこく 1916ねん - 1918ねん
ポーランド共和きょうわこくだい2共和きょうわせい) 1918ねん - 1939ねん
だい世界せかい大戦たいせん 1939ねん - 1945ねん ポーランド亡命ぼうめい政府せいふ
ポーランド総督そうとく 1939ねん - 1945ねん
ポーランド人民じんみん共和きょうわこく 1952ねん - 1989ねん
ポーランド共和きょうわこくだい3共和きょうわせい) 1989ねん - 現在げんざい
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ポーランド王国おうこく成立せいりつ以前いぜん 編集へんしゅう

 
プシェヴォルスク文化ぶんかみどり)とザルビンツィ文化ぶんかあか

ポーランドは西にし(ドイツ)と東南とうなん(ウクライナ)の2つの方向ほうこう平原へいげんとなっている地形ちけいのため先史せんし時代じだいから陸上りくじょうでのひと往来おうらいおおく、東西とうざい文化ぶんか出会であ融合ゆうごうする文化ぶんかてき刺激しげきおお土地とちだったようである。たとえば、7500ねんまえの「世界せかい最古さいこチーズ製造せいぞう痕跡こんせきがポーランドで発見はっけんされている[4][5]ことや、インド・ヨーロッパ語族ごぞく言語げんごやそのはなのヨーロッパにおける発展はってん非常ひじょう重要じゅうよう段階だんかいとみられる球状きゅうじょうアンフォラ文化ぶんかやそれを継承けいしょうした縄目なわめぶん土器どき文化ぶんかルサチア文化ぶんか(ラウジッツ文化ぶんかとも)の中心ちゅうしんがポーランドである事実じじつなどがげられる。

ポーランドじん基幹きかん部族ぶぞくとなったレフぞく・ポランぞくについては、古代こだいローマ時代じだい歴史れきしタキトゥスほんゲルマニア』のなか現在げんざいのポーランド南西なんせいんでいたとかれている「ルギイぞく英語えいごばん[注釈ちゅうしゃく 7]との関連かんれん指摘してきされている。かれらは「プシェヴォルスク文化ぶんか」とばれる、周辺しゅうへんゲルマンしょ部族ぶぞくとはことなる独特どくとく文化ぶんか集団しゅうだんで、ルギイぞくヴァンダルぞく別名べつめいか、あるいはヴァンダルぞくふくあい部族ぶぞくでルギイぞくはそのひとつではないかとされている。プシェヴォルスク文化ぶんかは、当時とうじゴートぞくのものと推定すいていされるヴィスワがわ東岸とうがん付近ふきん一帯いったいヴィェルバルク文化ぶんかはさんではるか東方とうほうにあったはらスラヴじんの「ザルビンツィ文化ぶんか」と似通にかよっていることが考古学こうこがく調査ちょうさ判明はんめいしているため、はらスラヴけい文化ぶんかのひとつといえる(くわしくは、プシェヴォルスク文化ぶんかザルビンツィ文化ぶんかヴィェルバルク文化ぶんか記事きじ参照さんしょう)。プシェヴォルスク文化ぶんかとザルビンツィ文化ぶんか共通きょうつうした文化ぶんかけんで、もとはひとつであり、ヴィスワがわ河口かわくち付近ふきんからゴートぞくはいあいだってはいってかわ遡上そじょうしながら南下なんかしていったため、この文化ぶんかけん西方せいほうのプシェヴォルスク文化ぶんか東方とうほうのザルビンツィ文化ぶんか分裂ぶんれつしたものとかんがえられる。インド・ヨーロッパ語族ごぞくイランけい民族みんぞくサルマタイじんスキタイひと定住ていじゅうしていた。バルトじんトルコじんもこの地域ちいきんでいた。

 
レフぞく(ポランぞく)のちょうピャスト

4世紀せいき、プシェヴォルスク文化ぶんかになは、西にしオドラがわ(オーデルがわ)とひがしヴィスワがわおおきく屈曲くっきょくしてつくった平野へいやの、当時とうじふかもりんだ湿原しつげん現在げんざいはかなり縮小しゅくしょうしたとはいえいまだ広大こうだい湿原しつげんのこっている)だった場所ばしょんでいた。その地理ちりてき理由りゆうからフンぞく侵入しんにゅうまぬかれ、ゲルマン民族みんぞくだい移動いどうのち東方とうほうからやってきてちゅうおう定住ていじゅうした「プラハ・コルチャク文化ぶんかPrague-Korchak culture)」をつほかのスラヴしょ部族ぶぞく混交こんこうして拡大かくだいしていったものが、中世ちゅうせいにレフぞく(Lechici)あるいはポランぞく(Polanie)としてヨーロッパの歴史れきししょさい登場とうじょうしたとされる。このせつではルギイはレフ、レックのラテン語らてんごにおける転訛てんかとなる。なお、ほかのスラヴ、たとえばロシアではいまでも「ルーク」[注釈ちゅうしゃく 8]と「ポーレ」[注釈ちゅうしゃく 9]はどちらも「野原のはら」を原義げんぎとする言葉ことばである。ロシアじんふくひがしスラヴじんはもともとポーランドじんをリャキ(Lyakhi)とんでいた(現在げんざいはパリャキ、Palyakhiとぶ)。リトアニアじんはポーランドじんをレンカイ(Lenkai)、ハンガリーじんはポーランドじんをレンジェレク(Lengyelek)とぶ。

6世紀せいきまでにはこの現在げんざいスラヴ民族みんぞく定住ていじゅうし、一種いっしゅかんほり集落しゅうらく多数たすう建設けんせつした。おそくとも8世紀せいきまでには現在げんざいのポーランドじんもととなる北西ほくせいスラヴけいしょ部族ぶぞく異教いきょうキリスト教きりすときょう)のしょ国家こっかきずいていた。

8世紀せいき、それまでレフぞく・ポランぞくとゴプランぞく(Goplanie)をおさめていた、のちに「ポピェリドあさ(Popielidzi)」とばれることになった族長ぞくちょう最後さいご当主とうしゅポピェリド(Popielid)がぼっし、「くるま大工だいくのピャスト(Piast Kołodziej)」とばれた、おそらく荷車にぐるま馬車ばしゃなどを製造せいぞうする原初げんしょてきマニュファクチュア経営けいえいしていた人物じんぶつ一説いっせつにはポピェリドのみやおさむだったともされる)がレフぞく/レックぞく族長ぞくちょう選出せんしゅつされ、「ピャストあさ(Piastowie)」を創始そうしした。

王国おうこく黎明れいめい 編集へんしゅう

 
いピンクは992ねんにボレスワフ1せい確定かくていしたポーランド公国こうこくりょうあか太線ふとせんは1025ねん確定かくていしたポーランド王国おうこく国境こっきょうせん
王国おうこく国境こっきょうせん外側そとがわにあるいピンク、黄色おうしょくあお地域ちいきはボレスワフ1せいおさめていた王国おうこくがい属領ぞくりょう
 
建国けんこくちちミェシュコ1せい
 
初代しょだい国王こくおうボレスワフ1せいのキエフ入城にゅうじょう
 
グニェズノだい聖堂せいどうとびら
 
10世紀せいき、レフぞく・レヒトじん・レヒじん

966ねんピャストあさレフぞく/レックぞく(ポランぞく/ポラニェぞく)の5代目だいめ族長ぞくちょうミェシュコ近隣きんりんのヴィスワしょ部族ぶぞく(Wiślanie)、ポモージェしょ部族ぶぞく(Pomorzanie)、マゾフシェしょ部族ぶぞく(Mazowszanie)などをレフぞく統合とうごうさせ、みずかキリスト教きりすときょう改宗かいしゅうしてミェシュコ1せいおおやけとなり、国家こっかポーランド公国こうこくとして西欧せいおうキリスト教きりすときょう世界せかい認知にんちされた。

992ねんにミェシュコ1せい息子むすこボレスワフ1せいぐと、このあたらしいポーランドこう西欧せいおうキリスト教きりすときょう世界せかいにおけるポーランド公国こうこく領土りょうど画定かくていし、中央ちゅうおう政府せいふ権力けんりょくつよめ、武力ぶりょくによって国家こっか統合とうごうした。かれ確定かくていしたポーランド公国こうこくりょう現在げんざいのポーランドりょうとほぼ一致いっちする。かれオットー3せいハインリヒ2せいかみきよしマ帝国まていこくクヌーズ2せいデンマーク積極せっきょくてき外交がいこうした。1000ねん、オットー3せいはポーランド公国こうこく首都しゅとポズナニ近郊きんこうグニェズノみずかおもむいてボレスワフ1せい会談かいだんし、そこに大司教だいしきょうくことに合意ごういした。ポーランド大司教だいしきょう以後いご現在げんざいいたるまでグニェズノにあり、グニェズノだい聖堂せいどうとびらはこの時代じだい製作せいさくされたものである。ボレスワフ1せいかならずしも神聖しんせいローマ皇帝こうてい権威けんいれたわけではなかった。かれ神聖しんせいマ帝国まていこくりょうであったみなみボヘミアぐんすすめて1004ねんみずからボヘミアこうとなり、1018ねんひがしぐんすすめてキエフ・ルーシ攻略こうりゃくした同年どうねん今度こんど西にし神聖しんせいマ帝国まていこく領内りょうない侵攻しんこうしバウツェン(ブジシン)の講和こうわen)によりマイセン(ポーランドでミシニャ)とラウジッツ(ポーランドでウジツェ)を獲得かくとく、その結果けっかちゅうおう広大こうだいしん領土りょうど確保かくほした。そのあいだ、1015ねんには、わかともであり、また同時どうじいもうと息子むすこすなわちおいでもあったデンマークおうクヌーズ2せいイングランド遠征えんせい援助えんじょをするため、みずからのぐん一部いちぶし、北海ほっかい帝国ていこく建設けんせつ援助えんじょした。1020ねんにはクラクフのヴァヴェルだい聖堂せいどう着工ちゃっこう開始かいしされたとされる。

1025ねん、ボレスワフ1せい直前ちょくぜんに、ローマ教皇きょうこうヨハネス19せいによってポーランド公国こうこく王国おうこくとして認知にんちされてポーランド王国おうこくとなり、国境こっきょう確定かくていした。王国おうこくりょう西にしポモージェ地方ちほうのぞ現在げんざいのポーランド、チェコモラヴィア地方ちほうスロヴァキアのほぼ全域ぜんいきオーストリア一部いちぶハンガリー一部いちぶ、ドイツのラウジッツ地方ちほうウクライナの「あかルーシ地方ちほうとなる。ボレスワフ1せいおさめた属領ぞくりょうふくめてすべてをわせると西にしポモージェ地方ちほうふくめた現在げんざいのポーランドのほぼ全域ぜんいき、チェコのほぼ全域ぜんいき、スロヴァキアのほぼ全域ぜんいき、オーストリアの一部いちぶ、ハンガリーの一部いちぶ、ウクライナ西部せいぶあかルーシ地方ちほうベラルーシしろルーシ)のブレスト地方ちほう、ドイツのラウジッツ地方ちほうマイセン地方ちほうとなる。

ポーランドが王国おうこく認知にんちされてまもなくボレスワフ1せいぼっしたため、最初さいしょ戴冠たいかんしきけたのは息子むすこミェシュコ2せいである。しかし、王国おうこくない各地かくち諸侯しょこう王権おうけんのこれ以上いじょう拡大かくだい危惧きぐいた。1034ねん、ミェシュコ2せいなぞげた。そのすう年間ねんかん政治せいじてき混乱こんらん時代じだいつづいた。

1038ねんときのポーランドこうカジミェシュ1せい政治せいじとどこおっていた首都しゅとポズナニをはなれ、クラクフへと事実じじつじょう遷都せんとをした。正式せいしき戴冠たいかんはしていなかったがポーランド王国おうこく事実じじつじょう君主くんしゅであったおおやけは、混乱こんらん収拾しゅうしゅうして王国おうこくふたたびまとめげた。また、おおやけヴァヴェルだい聖堂せいどうだい改築かいちくし、クラクフとヴロツワフ司教しきょういた。その長男ちょうなんで1058ねんおおやけいだボレスワフ2せい神聖しんせいローマ皇帝こうていとローマ教皇きょうこうとのあいだきていた叙任じょにんけん闘争とうそうをうまく利用りようし、1076ねんにポーランド王位おういいた。

なが分裂ぶんれつ時代じだい 編集へんしゅう

 
ボレスワフ3せいが4にん息子むすこきさき分割ぶんかつ相続そうぞくさせたポーランド:
  クラクフ大公たいこうりょう
  シロンスクおおやけりょう
  マゾフシェおおやけりょう
  ヴィエルコポルスカおおやけりょう
  サンドミェシュおおやけりょう
  きさき相続そうぞくりょう
  ポモージェにおけるポーランド王国おうこく直轄ちょっかつりょう

1138ねんボレスワフ3せい王国おうこく領土りょうどを7つに分割ぶんかつし、そのうち5つをきさきと4にん息子むすこたちにそれぞれ相続そうぞくさせた。そのうちの長男ちょうなんヴワディスワフ2せいにはさらにクラクフ大公たいこうりょうあたえてクラクフ大公たいこうとし、以後いごはクラクフ大公たいこういたものがポーランドの王権おうけんぐこととした。のこりのポモージェ地方ちほうはポーランド王国おうこく直轄ちょっかつりょうとし、現地げんち諸侯しょこう実質じっしつてき支配しはいまかせた。1079ねん大公たいこうについたヴワディスワフ2せい国家こっか統一とういつ画策かくさくし、大公たいこう権力けんりょく強化きょうか反対はんたいするグニェズノの大司教だいしきょう対立たいりつして大公たいこう支持しじ大司教だいしきょう支持しじあいだ内戦ないせんとなった。戦争せんそう長引ながびき、王国おうこくはどんどんちいさなりょうくに分裂ぶんれつしていった。

1146ねんとき大公たいこうヴワディスワフ3せいはフリードリヒ・バルバロッサ(のちの神聖しんせいローマ皇帝こうていフリードリヒ1せい)からの援助えんじょ見返みかえりに、当時とうじ神聖しんせいローマ皇帝こうていロタール3せい臣従しんじゅうし、これによってシロンスクおおやけりょう支配しはいけんた。「シロンスク・ピャストあさ」のはじまりである。これによってシロンスクおおやけりょう当地とうちピャスト支配しはいしたままポーランド王国おうこくからは独立どくりつした状態じょうたいとなった。グニェズノ大司教だいしきょうをないがしろにしたうえ、シロンスク地方ちほうをポーランド王国おうこくから独立どくりつさせたことがポーランド国内こくないだい問題もんだいとなり、ヴワディスワフ3せい大司教だいしきょうから破門はもんされ、かみきよしマ帝国まていこく亡命ぼうめいしてのちにフリードリヒ1せい居城きょじょう客死かくしした。シロンスク公国こうこく以後いごもシロンスク・ピャストものこういでいくことになり、そのうちの一族いちぞくは17世紀せいきまでつづいた(庶子しょし系統けいとう地方ちほう領主りょうしゅとして18世紀せいきまでつづいた)。以後いごもクラクフ大公たいこうくらい継続けいぞくしたが、その権威けんいち、ポーランド王国おうこく王位おういぐものがいないまま、各地かくちりょうくににどんどん分裂ぶんれつしていった。

1226ねん、ポーランドのコンラト1せい (マゾフシェこう)隣国りんごく異教徒いきょうとプルーセンじんたいする征討せいとう教化きょうかいて[6]、クルムラント領有りょうゆうけんえに当時とうじハンガリーにいたドイツ騎士きしだん招聘しょうへいした。1228ねん皇帝こうていフリードリヒ2せいのリミニのかねしるし勅書ちょくしょにより騎士きしだんプロイセン領有りょうゆうみとめられ、1230ねん、クルシュヴィッツ条約じょうやくもとづいてコンラート1せい騎士きしだんにクルムラントおよびプロイセンのすべての権利けんりみとめ、騎士きしだんはプロイセンの領有りょうゆうけんた。教皇きょうこうした騎士きしだんはプロイセンを東方とうほう殖民しょくみんとして統治とうちし、近代きんだい開拓かいたく商業しょうぎょうてき発展はってん布教ふきょう教育きょういくなどに従事じゅうじした。

モンゴル帝国ていこく侵攻しんこう、ドイツ騎士きしだん東方とうほう殖民しょくみん)、ユダヤじん移民いみん 編集へんしゅう

 
レグニツァ/ワールシュタットのたたかいにのぞむヘンリク2せい

1241ねんにはモンゴルのバトゥぐん一部いちぶポーランド南部なんぶ来襲らいしゅうし、サンドミェシュクラクフなど南部なんぶしょ都市としおそってシロンスクに侵攻しんこうした。モンゴルのヨーロッパ侵攻しんこう英語えいごばんぜんヨーロッパを震撼しんかんさせた。グレゴリウス9せい教皇きょうこうは、ぜんキリスト教徒きりすときょうとたいし、ポーランドを救援きゅうえんしてこの異教徒いきょうと襲来しゅうらいたたかうべしという詔書しょうしょはっしている[7]教皇きょうこうプロイセンのドイツ騎士きしだんは、ポーランド諸王しょおうこう共同きょうどう防衛ぼうえいをするようめいじられる。主力しゅりょくのドイツ騎士きしだん前衛ぜんえい後詰ごづめにはい抗戦こうせんした。ときのシロンスクこうでクラクフこうねていたヘンリク2せいはドイツ騎士きしだんとポーランド連合れんごうぐん参加さんかレグニツァでモンゴルぐんむかった(レグニツァのたたか)。装備そうび物量ぶつりょうおとっていた連合れんごうぐん果敢かかんたたかったが敗北はいぼくし、ヘンリク2せい戦死せんしした。モンゴルぐん連合れんごうぐんやぶったことは、東欧とうおう史上しじょうだい事件じけんであった。

まもなくモンゴルぐんアジアかえした[よう校閲こうえつ]が、クラクフおおやけりょうとシロンスクおおやけりょう南部なんぶはモンゴルぐん略奪りゃくだつされ、おくれた住民じゅうみんころされ、これらの地方ちほうはほぼひととなり荒廃こうはいしてしまっていた。以後いご、モンゴルぐんおそわれた地方ちほう復興ふっこうがこの地域ちいき諸侯しょこうさい優先ゆうせん課題かだいとなった。モンゴルぐんのいるあいだ疎開そかいしていたポーランドじん住民じゅうみんもやっともどってきたが、それでは人手ひとでがまったくりなかった。国王こくおうによる都市とし促進そくしん政策せいさく一環いっかんとして、ユダヤじんもドイツじん一緒いっしょ招聘しょうへいされた。ドイツ騎士きしだん主導しゅどうにより近代きんだいとして都市とし建設けんせつとドイツほうマクデブルクほう習慣しゅうかん制度せいど文字もじ導入どうにゅうした(ポーランドのマクテブルクほうもちいたほうはドイツ法式ほうしきとはことなり、古代こだいローマのほう使用しようし、その土地とちにドイツ定住ていじゅうしゃがいない場合ばあいはドイツ記載きさいほう理解りかいできなかった[8]、ほかの事実じじつとしてユダヤじんなどもポーランドでマクデブルクほうにより商業しょうぎょうてき有利ゆうり優先ゆうせんてき条件じょうけん権利けんり保護ほごされていたためにユダヤじんにとって魅力みりょくがあったため移民いみんした[9])。かれらは都市としきずき、商業しょうぎょう銀行ぎんこうぎょうはじめ、かれらのビジネスや文学ぶんがくすすんだ技術ぎじゅつたか能力のうりょくみとめられ大公たいこうなどの側近そっきんつとめポーランド経済けいざいはしらとなり、ポーランドはつのヘブライ印刻いんこくされた硬貨こうか発行はっこうなどにたずさわった[10])。この地域ちいきにおける本格ほんかくてきなドイツの東方とうほう殖民しょくみん植民しょくみん近代きんだい発展はってん)のはじまりである。かれらはとくにシロンスクとその周辺しゅうへん定住ていじゅうし、おおくのまちつくった。これらのまちでは従来じゅうらいのポーランドの法律ほうりつでなくドイツの都市としほうであるマクデブルクほう使用しようされた。当時とうじ領主りょうしゅたちが西方せいほうからの植民しょくみんしゃあたえた(商業しょうぎょうてき優先ゆうせん条例じょうれい権利けんりであった。

ドイツ騎士きしだん支配しはいとともにドイツ都市としほう適用てきようさかんにおこなわれるようになり、都市としほうその特許とっきょじょうは、ポーランドの伝統でんとうてき慣習かんしゅうほうよりもとてもすすんでいた。しん居住きょじゅうにはドイツ都市としほう基盤きばんとしたあたらしい特許とっきょじょうあたえられた。また、おおくのポーランドじん集落しゅうらくもドイツほう適用てきようけるようになった。西にしからの移民いみん到来とうらいのおかげでポーランドは農業のうぎょう生産せいさん回復かいふくし、都市とし学校がっこう建設けんせつされ、肥沃ひよく土壌どじょうともともとめぐまれていた地理ちりてき条件じょうけんした経済けいざいてき繁栄はんえい回復かいふくしつつあった。かれらはドイツほうもとづいて自治じちおこない、首長しゅちょうえらばれた判事はんじ司法しほうてのひらった。自治じち都市とし公文書こうぶんしょときにラテン文字もじのドイツ記録きろくされ、ポーランドにおける法的ほうてき語彙ごいはドイツ影響えいきょう発達はったつした。ドイツじん宗教しゅうきょう学校がっこう建設けんせつ騎士きしだんはそこの教授きょうじゅとなり、ポーランドじんたち聖職せいしょくしゃになるために進学しんがくでき、古典こてんラテン書物しょもつまなべる機会きかい、のちにそれがポーランド文学ぶんがく発展はってん役立やくだった。ユダヤじん都市としきずき、商業しょうぎょう銀行ぎんこうぎょうはじめ、かれらのビジネスノウハウや文学ぶんがくすすんだ技術ぎじゅつたか能力のうりょくみとめられ大公たいこうなどの側近そっきんつとめポーランド経済けいざいはしらとなり、ポーランドはつのヘブライ印刻いんこくされた硬貨こうか発行はっこうなどにたずさわった[10]

ヘンリク4せい在位ざいい1289ねん - 1290ねん)は、ドイツけい住民じゅうみん支持しじけクラクフこうになった。東方とうほう植民しょくみんでドイツじん影響えいきょうりょくつよまっていった。クラクフでは住民じゅうみんぜい所得しょとくぜい完全かんぜん免除めんじょもとめるポーランドじん住民じゅうみんたちによる暴動ぼうどうこることもあった。こういったドイツじんとの分離ぶんり主義しゅぎてき運動うんどうつよ対抗たいこうする運動うんどうき、つぎの14世紀せいきにはドイツけいドイツけいの2勢力せいりょく反目はんもくが、ポーランド基軸きじくとなった。この当時とうじのポーランドじんによる文書ぶんしょには、「連中れんちゅう(ドイツから人々ひとびとのこと)はグダンスクを(なまって)ダンチヒとんでいる」などといてある。ドイツじん商工しょうこう業者ぎょうしゃたちが統治とうちおこなうドイツじん王侯おうこう貴族きぞく(ドイツ騎士きしだんなど)による支配しはいよりも、もともとのポーランドの王侯おうこう貴族きぞくによる支配しはい選択せんたくしたからである。のちにポーランドのバルト海ばるとかいがわにおけるドイツ騎士きしだん十字軍じゅうじぐん、そして南部なんぶにおけるモンゴル襲来しゅうらいのドイツ入植にゅうしょくしゃれはこれらの地域ちいき経済けいざい文化ぶんか発展はってんをもたらした反面はんめん19世紀せいきから20世紀せいきにかけてのポーランドじんとドイツじんとのあいだはげしい民族みんぞく紛争ふんそう遠因えんいんともなった。

黄金おうごん時代じだい 編集へんしゅう

 
名君めいくんカジミェシュ3せい大王だいおう
 
グルンヴァルトのたたか
ポーランドぐん農民のうみんへいがドイツ騎士きしだん総長そうちょうウルリッヒ・フォン・ユンギンゲン中央ちゅうおうひだり馬上もうえ白黒しろくろ衣装いしょう人物じんぶつ)を瞬間しゅんかん
 
ルブリン合同ごうどう
ポーランド=リトアニア共和きょうわこく誕生たんじょう
 
ポーランド王国おうこく最大さいだい版図はんと
 
アルベルト・ブルゼフスキ教授きょうじゅ

14世紀せいきにはヨーロッパ大陸たいりくでのはんユダヤ主義しゅぎから、ポーランド国内こくないほう宗教しゅうきょうてき民族みんぞくてき寛容かんようさから多数たすう移住いじゅうしてきた。14世紀せいき当時とうじは、ヴワディスワフ1せいで、軍事ぐんじ外交がいこう内政ないせいたくみな手腕しゅわん発揮はっきしたカジミェシュ3せい大王だいおう」がポーランド王国おうこくおさめており、かれ治世ちせいにポーランドは経済けいざいてきだい発展はってんをした。1339ねん、ドイツ騎士きしだんたいし、かつてポーランドの領土りょうどであったことを理由りゆう一部いちぶ土地とち返還へんかんもと抗戦こうせんした。ルーシぞくヴァリャーグ)のハールィチ・ヴォルィーニ大公たいこうこく西部せいぶウクライナ)を占領せんりょう領土りょうどひろめていった。また、のちにはん王権おうけんてき性格せいかくあらわ重要じゅうよう意味合いみあいをつ「ポーランド王国おうこく王冠おうかん」という言葉ことばもこのころに土地とち主権しゅけん主張しゅちょうするとき言葉ことばとしてはじめた。1355ねんにはマゾフシェこうジェモヴィトが大王だいおうたい臣従しんじゅうした。1364ねん大王だいおうクラクフ大学だいがく(ヤギェウォ大学だいがく)を創立そうりつし、これ以後いごポーランドの学術がくじゅつ文化ぶんか華麗かれい開花かいかしていく。

ヤギェウォあさ 編集へんしゅう

王朝おうちょうわり、ルートヴィクの時代じだいはいるとおう権威けんいおとろえた。ルートヴィク死去しきょ年間ねんかん空位くうい立場たちばよわ女王じょおうがこれをさら加速かそくさせる。1385ねん、ポーランド女王じょおうヤドヴィガとリトアニア大公たいこうヨガイラ(ポーランドめいヤギェウォ)が聖職せいしょくしゃとバロン、シュラフタなどの意志いしのもと結婚けっこんし、ポーランド王国おうこくリトアニア大公たいこうこく人的じんてき同君どうくん連合れんごうをした。ポーランド=リトアニア連合れんごう形成けいせいした(クレヴォの合同ごうどう)。1399ねんにヤドヴィガ女王じょおうぼっするとヤギェウォがポーランドおう即位そくいし、以後いごポーランド、リトアニア、ボヘミア王国おうこくおよびハンガリー王国おうこく王朝おうちょうであるヤギェウォあさがポーランドを統治とうちすることになった。1410ねん、ポーランド=リトアニア連合れんごうグルンヴァルトのたたかドイツ騎士きしだんった。

1414ねんコンスタンツこう会議かいぎではグルンヴァルトのたたかいの戦後せんご処理しょりについてはなわれ、会議かいぎでは当時とうじ異教徒いきょうとくにであったリトアニアキリスト教徒きりすときょうとくにであるポーランド王国おうこく同盟どうめいして、キリスト教徒きりすときょうとのドイツ騎士きしだん戦争せんそうをしたてんだい問題もんだいとなり、これについてポーランドにたいしてドイツ騎士きしだんがわからのはげしい非難ひなんがあった。ドイツ騎士きしだんは「異教徒いきょうと同盟どうめいしてキリスト教徒きょうとのドイツ騎士きしだん討伐とうばつしたポーランドの行動こうどうつみであり、このつみによって、ポーランドじん地上ちじょうから絶滅ぜつめつされるべきである」と主張しゅちょうした。ポーランド全権ぜんけんクラクフ大学だいがく校長こうちょうであったパヴェウ・ヴウォトコヴィツラテン語らてんご:パウルス・ウラディミリ)は「リトアニアじんのような異教徒いきょうとであっても我々われわれキリスト教徒きりすときょうととまったくおな人間にんげんである。したがってかれらはみずからの政府せいふ権利けんり国家こっか主権しゅけん)、平和へいわらす権利けんり生存せいぞんけん)、みずからの財産ざいさんたいする権利けんり財産ざいさんけん)をまれながらに保有ほゆうする。よってリトアニアじんがこの権利けんり行使こうしし、自衛じえいするの(自衛じえいけん)はまったく正当せいとうである」とべた。教皇きょうこうマルティヌス5せい異教徒いきょうと人権じんけんについての決定けっていはしなかった。

1430ねんにリトアニア大公たいこうヴィータウタス(ポーランドめい:ヴィトルト)がぼっすると、ポーランド=リトアニア連合れんごうないはよりポーランドおう権威けんい権限けんげんつよめ、事実じじつじょうポーランド王国おうこく支配しはいはいり、すべてのリトアニア貴族きぞくはポーランドとポーランドの習慣しゅうかんにつけてポーランドしていった。ただし宗教しゅうきょう宗派しゅうはについては、ある場所ばしょではローマ・カトリック、ある場所ばしょではプロテスタント、ある場所ばしょでは正教会せいきょうかい、ある場所ばしょリプカ・タタールじん共同きょうどうたい)ではイスラム教いすらむきょう、といった具合ぐあいにそれぞれの地方ちほう共同きょうどうたい伝統でんとうてき宗教しゅうきょう宗派しゅうはまもっていることがおおかったとされる。

 
巨大きょだいしただい1共和きょうわこく
ポーランド王国おうこくいピンク)/リトアニア(薄紫うすむらさき)/プロシアおおやけりょう肌色はだいろ)/リヴォニア(グレー)/クールラント(うすいグレー)/エストニア(みどり

1440ねん、ドイツ騎士きしだん領内りょうないしょ都市としで、ポーランドおうプロイセン連合れんごう結成けっせいし、ポーランド王国おうこくとプロイセン連合れんごうはドイツ騎士きしだんとのあいだふたた戦争せんそうとなった。1466ねんだいトルンのやくによりドイツ騎士きしだんりょう敗戦はいせんした。プロイセンはポーランド王国おうこく封土ほうどとなり、ポーランド=リトアニア連合れんごう宗主そうしゅこくとする属国ぞっこくとなり、おおくの政治せいじてき権限けんげんがポーランドにうつされた。ポーランドはこのだいトルンのやくもとづき、ポーランド国会こっかいセイム)への代議員だいぎいんおくってポーランドを構成こうせいするすべての地域ちいきあつか政治せいじ(いわゆる国政こくせい)に直接ちょくせつ参加さんかするようドイツ騎士きしだんめいじたが、騎士きしだん拒否きょひした。ヴァルミア司教しきょう叙任じょにんをめぐって、これをポーランドのグニェズノ大司教だいしきょう裁可さいかするが、ドイツ騎士きしだん独自どくじ候補こうほ擁立ようりつして異議いぎもう騎士きしだんがわ候補者こうほしゃをヴァルミア司教しきょうとし、今後こんごグニェズノ大司教だいしきょう主権しゅけんにぎることで和解わかいした。

 
名君めいくんジグムント2せいアウグスト
 
国王こくおうヘンリク・ヴァレジの逐電ちくでん(ワルシャワ国立こくりつ博物館はくぶつかんぞう
 
名君めいくんステファン・バートリ

1543ねんトルン出身しゅっしんクラクフ大学だいがく卒業生そつぎょうせいのミコワイ・コペルニク(ラテン語らてんごニコラウス・コペルニクス)は著書ちょしょ天球てんきゅう回転かいてんについて(De revoltionibus orbium coelestium)』を出版しゅっぱん地動説ちどうせつ提唱ていしょうした。かれ父親ちちおやがクラクフ公国こうこく出身しゅっしんのポーランドじんどう取引とりひきぎょういとなみ、母親ははおやはドイツじんであった。はは実家じっかのあるトルンでまれ、父母ちちはははやくしたあとは母方ははかた叔父おじヴァルミア司教しきょうのルーカス・ヴァッツェンローデ(まえ段落だんらく参照さんしょう)にそだてられた。なお、クラクフ大学だいがくにおけるコペルニクスの恩師おんしである人気にんき教授きょうじゅアルベルト・ブルゼフスキつき軌道きどう計算けいさん世界せかいてきげ、つき楕円だえん軌道きどうえがいていること、そしてつねおなめん地球ちきゅうけていることを指摘してきしている。

1569ねん国王こくおうジグムント2せいアウグスト幅広はばひろ尽力じんりょくにより、ポーランドはリトアニアを併合へいごうルブリン合同ごうどう)してポーランドおう統一とういつ君主くんしゅとする物的ぶってき同君どうくん連合れんごう制限せいげんつきながらも議会ぎかいせい民主みんしゅ主義しゅぎる「ポーランド=リトアニア共和きょうわこく」(だい1共和きょうわこく)となり、欧州おうしゅう広大こうだいくにのひとつとして君臨くんりんした。

 
めい宰相さいしょうヤン・ザモイスキ

ジグムント2せいアウグストの死後しご、ポーランド=リトアニア連合れんごう王国おうこくはすべてのシュラフタ(ポーランド貴族きぞく)が参加さんかする選挙せんきょ国王こくおう自由じゆう選挙せんきょ)によって国王こくおう決定けっていする「選挙せんきょ王政おうせい」をとる貴族きぞく共和きょうわこくになった。ポーランド貴族きぞく人数にんずうつね人口じんこうの1わりえており、そのすべてに平等びょうどう選挙せんきょけん付与ふよされていた。アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくが18世紀せいきまつ独立どくりつしてからしばらくのあいだ選挙せんきょけんもの合衆国がっしゅうこくぜん人口じんこうの1わりたなかったことを考慮こうりょすると、当時とうじのポーランド=リトアニア連合れんごう王国おうこくではのちのアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくくら選挙せんきょけん国民こくみん割合わりあいおおきかったことになる。

1573ねん、すべてのシュラフタ1人ひとり1ひょうつというかなり民主みんしゅてき原則げんそくおこなわれることになったポーランドの国王こくおう自由じゆう選挙せんきょえらばれた最初さいしょのポーランド国王こくおうフランスおうアンリ2せいイタリアじん王妃おうひカトリーヌ・ド・メディシス息子むすこであるフランスじんヘンリク・ヴァレジ(アンリ、のちのフランスおうアンリ3せい)であった。しかし国王こくおう戴冠たいかん条件じょうけんとして署名しょめい余儀よぎなくされた「ヘンリク条項じょうこう」によりポーランドで事実じじつじょう立憲りっけん君主くんしゅせいシュラフタそう大幅おおはば権力けんりょく拡大かくだいおよび王権おうけん大幅おおはば制限せいげん)が成立せいりつしたため、バイセクシュアルであった自身じしんせい指向しこうがポーランドでは以前いぜんからずっとしろられていたことや、ジグムント2せいアウグストのいもうとですでに年老としおいていたアンナ女王じょおうでなく国王こくおうとした政略せいりゃく結婚けっこんもとめられたこともあり、ポーランドでの生活せいかつ窮屈きゅうくつかん嫌気いやけしたヘンリクは1574ねん6がつ18にち突然とつぜんフランスへと逐電ちくでんしてしまう。

ポーランド・リトアニア共和きょうわこく 編集へんしゅう

ヤン・ザモイスキは1578ねんだい法官ほうかん内閣ないかく総理そうり大臣だいじん)に就任しゅうにんし、1580ねんにはクラクフ城代しろだい兼任けんにん、そして1581ねんにはポーランド・リトアニア共和きょうわこくぜんぐん事実じじつじょう最高さいこう司令しれいかん名目めいもくじょう最高さいこう司令しれいかんはポーランド国王こくおうけんリトアニア大公たいこう)である王冠おうかんりょうだいヘトマン大元帥だいげんすい)を兼任けんにんし、現在げんざい立憲りっけん君主くんしゅせい国家こっか首相しゅしょう相当そうとうする強大きょうだい行政ぎょうせいけんち、そのすぐれた政治せいじてき見識けんしき実務じつむてき能力のうりょくで1605ねん6がつ3にち死去しきょするまでポーランドをひきいた。かれ穏健おんけん自由じゆう主義しゅぎ穏健おんけん主義しゅぎ)の政治せいじはよりおおくのひと教育きょういく政治せいじ参加さんか目指めざしたもので、国政こくせいおおくの支持しじあつめ、とくにインテリそう中小ちゅうしょう規模きぼシュラフタたちからは圧倒的あっとうてき支持しじていた。かれ同調どうちょうしゃは「ザモイスキたち(ザモイチュチ)」とばれ、ゆるやかな政治せいじグループを形成けいせいしており、かれ先生せんせい師匠ししょうおもしたっていた。また、ザモイスキは自分じぶん領地りょうちにおいては農奴のうどせい禁止きんしし、すべての住民じゅうみん基礎きそ教育きょういくほどこし、それぞれの住民じゅうみん立場たちばおうじてなんらかのかたち地方ちほう政治せいじ参加さんかさせた非常ひじょう開明かいめいてき領主りょうしゅでもあった。人間にんげん解放かいほうとなえるルネサンス思想しそうにも同調どうちょうし、イタリアから建築けんちくせて当時とうじ世界せかい最新さいしんデザインの都市としザモシチ」を建設けんせつし、周辺しゅうへん地方ちほう経済けいざい開明かいめいてき文化ぶんか中心ちゅうしんとしてこの都市とし発展はってんさせた。ジグムント2せいアウグストおうやステファン・バートリおうささえたこの宰相さいしょうヤン・ザモイスキこそ、この時代じだいのポーランドの政治せいじ経済けいざい軍事ぐんじのすべての成功せいこう実現じつげんした稀代きたいだい政治せいじであるとかんがえられている。「黄金おうごん自由じゆう」にかんするヤン・ザモイスキの開明かいめいてき思想しそう政治せいじ態度たいどは、そのもザモイスキをはじめとしたおおくの人々ひとびとがれ、かれ時代じだいから2世紀せいきのちにポーランドが存亡そんぼう危機ききめんしたさいヨーロッパはつ民主みんしゅ主義しゅぎ成文せいぶん憲法けんぽう5月3にち憲法けんぽう)を制定せいていした基礎きそとなっていった。

対外たいがい戦争せんそう時代じだい 編集へんしゅう

 
ポーランド=リトアニア=スウェーデン同君どうくん連合れんごう
 
ジグムント3せい
ワルシャワ王宮おうきゅうまえおうはしら頂上ちょうじょう立像りつぞう
 
1619ねんのポーランド=リトアニア共和きょうわこく版図はんとあか太線ふとせんないの5しょく地方ちほう)と現在げんざい国々くにぐに国境こっきょうせん
 
ウイーン防衛ぼうえいたしローマ教皇きょうこう使者ししゃおくすヤン3せい

ドイツ騎士きしだん苦戦くせんつづき、トルコじんオスマン帝国ていこくクリミア・タタールじんクリミア・ハンこく領土りょうどをめぐりなん世紀せいきにもわたり抗戦こうせんとなり、そしてモスクワ大公たいこうこくなん対戦たいせんするリトアニアを援護えんごした。当時とうじヨーロッパにおいておおきな国家こっかのひとつであったリトアニア大公たいこうこくは、自国じこく防衛ぼうえいする必要ひつようせまられた。この時期じき戦争せんそう外交がいこう政策せいさくだい規模きぼ領土りょうど拡張かくちょうむことはなかったが、国家こっか深刻しんこく戦乱せんらんまなかった。くに封建ほうけんせいとなり農業のうぎょうこくとして発展はってんした。1533ねんにオスマン帝国ていこくとの「恒久こうきゅう平和へいわ」で侵略しんりゃく脅威きょういまぬかれることができた。この時期じきシュラフタ発展はってんした[11]。1592ねん、ポーランド=リトアニア共和きょうわこくスウェーデン王国おうこく同君どうくん連合れんごうとなった。とき国王こくおうジグムント3せい(スウェーデン国王こくおうとしてのはジギスムント)はスウェーデンまれであるが、ははがヤギェウォのポーランドじんだったこともあってわかいときからポーランドにみ、ポーランドの教育きょういくけていた。かれは、軍隊ぐんたいのようなたか規律きりつ意識いしき組織そしき行動こうどうによってぜん世界せかいにおける対抗たいこう宗教しゅうきょう改革かいかく尖峰せんぽうとなっていたイエズスかいによって教育きょういくされ、歴代れきだいおうのうちでもっとも熱狂ねっきょうてきローマ・カトリック闘士とうしとなった。戴冠たいかんした当初とうしょ当時とうじ首都しゅとであったクラクフきょかまえていたが、1596ねんには将来しょうらいスカンジナヴィア諸国しょこくバルト海ばるとかい沿岸えんがん地域ちいきルーシ諸国しょこくといったヨーロッパ北方ほっぽう全域ぜんいきのカトリック念頭ねんとういた最前線さいぜんせん基地きちとしてワルシャワ遷都せんとした。以後いご現在げんざいまでワルシャワがポーランドの首都しゅととなる。かれつねにイエズスかい代表だいひょうしゃてき立場たちばにあった。かれ同時どうじ王位おういいていたスウェーデンでは、かれ留守るすちゅう叔父おじ摂政せっしょうつとめていたプロテスタント教徒きょうとカールの反乱はんらんき、ジグムント3せい反乱はんらん鎮圧ちんあつとスウェーデンのカトリック目指めざしてスウェーデンにぐんすすめたが鎮圧ちんあつ失敗しっぱい、1599ねんにスウェーデン王位おういをカールに簒奪さんだつされ、ポーランド=スウェーデン同君どうくん連合れんごう解消かいしょうした。

1611ねん、ジグムント3せいモスクワ大公たいこうこく自由じゆう主義しゅぎてきだい公国こうこく貴族きぞくボヤーレ)たちのもとめにおうじて東方とうほうへと侵攻しんこうし、モスクワ占領せんりょうした(ロシア・ポーランド戦争せんそう)。ジグムント3せい占領せんりょうちゅうに「ロシア皇帝こうていくらいにはカトリック教徒きょうとのポーランド国王こくおうあるいはそのおう太子たいしのみがく」という布告ふこくしたことから、せい教徒きょうとであるロシアじんとのあいだ宗教しゅうきょうてき対立たいりつしょうじ、ロシア保守ほしゅ主義しゅぎしゃ一般いっぱん市民しみんんで住民じゅうみん蜂起ほうきこした。モスクワ市内しない占領せんりょうぐん孤立こりつし、籠城ろうじょうすえ玉砕ぎょくさい大公たいこうこくにいたのこりのポーランドぐんは1612ねんまでに撤退てったいした。度重たびかさなる戦争せんそうポーランド・スウェーデン戦争せんそうだい洪水こうずい時代じだい)によりポーランド=リトアニア連合れんごう王国おうこく政府せいふ財政ざいせい急速きゅうそく悪化あっかしていった。

1683ねんオスマン帝国ていこくによるだいウィーン包囲ほうい撃退げきたいし、ぜんヨーロッパの英雄えいゆうとなったヤン3せいソビエスキおう以後いごぎた地方ちほう分権ぶんけんによる政府せいふ状態じょうたい阻止そし目指めざし、中央ちゅうおう政府せいふ権力けんりょくつよめるため世襲せしゅう王政おうせい実現じつげんと、おうおよびセイム(国会こっかい)のそれぞれの権限けんげん明確めいかくによる立憲りっけん君主くんしゅせい確立かくりつ画策かくさくするなど王国おうこく再興さいこう目指めざして奔走ほんそうしたが、こころざしなかばでぼっした。その王国おうこく中央ちゅうおう政府せいふ権限けんげん急速きゅうそくよわまり、国庫こっこ逼迫ひっぱくし、国力こくりょく衰退すいたいしていった。

近代きんだい民主みんしゅ主義しゅぎ成文せいぶん憲法けんぽう成立せいりつとポーランド分割ぶんかつ 編集へんしゅう

 
プリンス・ユゼフ・ポニャトフスキ将軍しょうぐん
 
タデウシュ・コシチュシュコ将軍しょうぐん
 
五月ごがつさんにち憲法けんぽう時代じだいのポーランド
グダンスク(ダンツィヒ)がになっている
 
ポーランド分割ぶんかつ

18世紀せいきはいると国王こくおう選挙せんきょたいする外国がいこく干渉かんしょう深刻しんこくになり、だい北方ほっぽう戦争せんそうやポーランド継承けいしょう戦争せんそう(1733ねん - 1735ねん)をはじめとする戦争せんそう内戦ないせんかえされるようになった。ポーランドに隣接りんせつするロシア帝国ていこく、プロイセン王国おうこく、オーストリアのさん強国きょうこくは、1772ねん、1793ねん、1795ねん、1815ねんの4にわたってポーランド分割ぶんかつおこなった。

18世紀せいき後半こうはんにはポーランド=リトアニア共和きょうわこく国土こくど他国たこく分割ぶんかつ占領せんりょうポーランド分割ぶんかつ)された。1772ねんだいいちポーランド分割ぶんかつおこなわれたあと、スタニスワフ2せいおう支持しじしゃは、ポーランド=リトアニア連合れんごう王国おうこく衰退すいたいめようと国内こくない大改革だいかいかく断行だんこうしようとした。1791ねんおうはヨーロッパはつ成文せいぶん憲法けんぽうあん提出ていしゅつし、議会ぎかい(セイム)はこれを可決かけつした(「5月3にち憲法けんぽう」)。この憲法けんぽうによって王権おうけん世襲せしゅうせい選挙せんきょ王政おうせいではあるが以前いぜんのように個人こじん選出せんしゅつではなく王家おうけ一家いっか選出せんしゅつする)とともに立憲りっけん君主くんしゅせい成立せいりつし、それまでめい目的もくてきにはゆるやかな連邦れんぽうせいをとっていて行政ぎょうせい効率こうりつだったポーランド=リトアニア共和きょうわこく名実めいじつともに単一たんいつ国家こっかとなった。1793ねん議会ぎかいによりワルシャワに国民こくみん教育きょういく委員いいんかい(Komisja Edukacji Narodowej, KEN)が設立せつりつされた。

立憲りっけん君主くんしゅせい民主みんしゅ主義しゅぎ王政おうせい反対はんたい貴族きぞく既得きとく権益けんえき維持いじしようとする改革かいかく抵抗ていこう勢力せいりょくロシアエカチェリーナ2せい結託けったくした。ロシアぐんはポーランドに干渉かんしょう戦争せんそうこした(ポーランド・ロシア戦争せんそう)。この直後ちょくごの1793ねんだいポーランド分割ぶんかつおこなわれた。1793 - 94ねん、コシチューシュコが蜂起ほうきこしたが鎮圧ちんあつされた(コシチュシュコの蜂起ほうき)。1795ねんだいさんポーランド分割ぶんかつおこなわれ、ポーランド国家こっか消滅しょうめつした。その広大こうだい領地りょうちはそのほとんどがポーランド東部とうぶ集中しゅうちゅうしており、この地域ちいきロシア帝国ていこくまれた。マグナートの領地りょうちは、かく領主りょうしゅがロシア皇帝こうてい臣従しんじゅうちかうことを条件じょうけんまもられた。その、スタニスワフ2せいはロシアの首都しゅとサンクトペテルブルクに連行れんこうされ、妻子さいしとともになか軟禁なんきん生活せいかつおくった。ポニャトフスキとコシチュシコはフランスへ亡命ぼうめいし、再起さいきはかることにした。

ナポレオン戦争せんそうちゅうの1807ねんにはナポレオンによってワルシャワ公国こうこく建国けんこくされた。貴族きぞく共和きょうわせい復活ふっかつのぞ一部いちぶのポーランドじん公国こうこく支持しじしたが、実態じったいはフランス帝国ていこく衛星えいせいこくぎなかった。1815ねん、ウィーン議定ぎていしょもとづきワルシャワ公国こうこく解体かいたいされ、その4ぶんの3をロシア皇帝こうてい領土りょうどとしたうえで、ロシア皇帝こうてい国王こくおう兼務けんむするポーランド立憲りっけん王国おうこく成立せいりつさせた。南部なんぶ都市としクラクフとその周辺しゅうへんは、クラクフ共和きょうわこくとして一定いってい自治じち容認ようにんされた。西部せいぶはポズナン大公たいこうこくとしてプロイセンの支配しはいかれた。

つか再興さいこう 編集へんしゅう

ポーランド王位おうい継承けいしょうけんつポニャトフスキはナポレオン戦争せんそうにフランスぐん将軍しょうぐんとして参加さんか、1807ねんにポーランドはワルシャワ公国こうこくとしてふたた独立どくりつした。しかし、そのロシアに侵攻しんこうしたフランスぐん戦況せんきょう悪化あっかし、撤退てったいするフランスぐんがプロイセンのライプツィヒやぶれると、ポニャトフスキはフランスぐん殿軍でんぐんそう大将たいしょうとして果敢かかんたたかい、全身ぜんしんに5はつ銃弾じゅうだんけて華々はなばなしく戦死せんしした。ナポレオン失脚しっきゃくすると、1815ねんウィーン会議かいぎによって、ポーランドはロシア皇帝こうてい元首げんしゅとするポーランド立憲りっけん王国おうこく会議かいぎ王国おうこく)となった。おおくのポーランドじん国外こくがいとくフランス亡命ぼうめいした。

独立どくりつ運動うんどう時代じだい 編集へんしゅう

 
ワルシャワ、ワジェンキ水上すいじょう宮殿きゅうでん庭園ていえんにあるショパンぞう
 
英雄えいゆうエミリア・プラテル

十一月じゅういちがつ蜂起ほうき 編集へんしゅう

ポーランド立憲りっけん王国おうこくにおける憲法けんぽうは、ロシアによって無視むしされた。フランスベルギー革命かくめいにポーランドぐん派遣はけんして介入かいにゅうしようとしたことにポーランド全土ぜんど反対はんたい運動うんどうこり、1830ねんロシア帝国ていこくからの独立どくりつおよびきゅうポーランド・リトアニア共和きょうわこく復活ふっかつ目指めざして「十一月じゅういちがつ蜂起ほうき」がこったが翌年よくねん鎮圧ちんあつされ、とく貴族きぞくであり、女性じょせい革命かくめいでもあったエミリア・プラテルシュラフタ士族しぞく、ポーランド貴族きぞく)の国民こくみんてき英雄えいゆうとして後世こうせいにその物語ものがたっている。

いちがつ蜂起ほうき 編集へんしゅう

 
ロシアに鎮圧ちんあつされたいちがつ蜂起ほうき
擬人ぎじんされたポーランド(手前てまえ女性じょせい)とリトアニア(おく女性じょせい

1856ねんにロシア帝国ていこくクリミア戦争せんそうやぶれて国力こくりょく弱体じゃくたいすると、これをにポーランド・リトアニア連合れんごう王国おうこく復活ふっかつ目指めざ人々ひとびと結集けっしゅうし、1863ねんきゅうポーランド王国おうこくりょうと、きゅうリトアニア大公たいこうこくりょう同時どうじに「いちがつ蜂起ほうき」をこしたが、これもロシア帝国ていこくによって鎮圧ちんあつされた。かずひゃくにんのポーランド貴族きぞく絞首刑こうしゅけいにされ、じゅうすうまんにんシベリアイルクーツクなどに流刑りゅうけいとなった[12]

ビスマルクによるポーランドじん抑圧よくあつ政策せいさくまぼろしのポーランド王国おうこく 編集へんしゅう

プロイセン王国おうこくうちきゅうポーランド王国おうこくりょうであるポーゼンしゅうきゅうポズナン大公たいこうこく)では、1871ねんからはビスマルク文化ぶんか闘争とうそうにより、ポーランドじんたいする抑圧よくあつ政策せいさくおこなわれた。文化ぶんか闘争とうそうドイツじんふくめプロイセン王国おうこくないのすべてのカトリック教徒きょうと対象たいしょうとし、ポーランドじん圧倒的あっとうてき多数たすうがカトリック教徒きょうとであったため、とく抑圧よくあつ対象たいしょうになった。カトリック教徒きょうとたいする文化ぶんか闘争とうそうは1878ねん頓挫とんざしたが、ビスマルクはそのもポーランドじん抑圧よくあつ政策せいさくつづけた。

ポーランドじん抑圧よくあつたいしてポーランド文化ぶんかをもって徹底てってい抵抗ていこうした。抑圧よくあつ政策せいさくによってかえってポーランドじんの「連帯れんたい」とカトリック信仰しんこう確固かっこたるものになった。ポーランドじん抑圧よくあつ政策せいさくヴィルヘルム2せいがビスマルクを解任かいにんしたあともつづけられ、ドイツ帝国ていこくだいいち世界せかい大戦たいせん敗北はいぼくした1918ねん終了しゅうりょうした。

 
ポーランド王国おうこくの3にん摂政せっしょう衛兵えいへい

1916ねんだいいち世界せかい大戦たいせん最中さいちゅうドイツ帝国ていこくによってその衛星えいせいこくとしてのポーランド王国おうこく建国けんこくされた。国王こくおうまるまでのあいだとしてハンス・ハルトヴィヒ・フォン・ベセラーが総督そうとくとなり、3にんのポーランドじん摂政せっしょうつとめ、6にんのポーランドじん政治せいじ歴代れきだい首相しゅしょうとなった。

2人ふたりむすめがいずれもポーランドの名門めいもんだい貴族きぞくとついでおり、みずからもポーランドのジヴィエツ流暢りゅうちょうポーランドはなしたオーストリア=ハンガリー帝国ていこく皇族こうぞくカール・シュテファン大公たいこう(ポーランドめい:カロル・ステファン・ハプスブルク)がポーランド国王こくおうさい有力ゆうりょく候補こうほで、カール本人ほんにん積極せっきょくてきであった。しかしこのあんにはオーストリア皇帝こうていカール1せいでなく、結局けっきょく最後さいごまでポーランド王国おうこく国王こくおうとなる人物じんぶつはついにまらなかった。カール・シュテファンは1918ねんにポーランドが独立どくりつしたあともポーランドに帰化きかしてジヴィエツにつづけ、1933ねん当地とうち死去しきょした。子孫しそんはポーランドじんとしていまガリツィア地方ちほうんでいる[13]

独立どくりつだい共和きょうわこく 編集へんしゅう

1918ねん11月11にちだいいち世界せかい大戦たいせん終結しゅうけつすると、ヴェルサイユ条約じょうやく民族みんぞく自決じけつ原則げんそくにより、きゅうドイツ帝国ていこくソビエト連邦れんぽうから領土りょうど割譲かつじょうされ、ユゼフ・ピウスツキ国家こっか元首げんしゅとして共和きょうわせいのポーランド国家こっか再生さいせいした。

 
げんポーランドりょうにおけるドイツ帝国ていこくりょうだった地域ちいき
 
ユゼフ・ピウスツキ

1920ねんにはソビエト連邦れんぽうたいする干渉かんしょう戦争せんそう一環いっかんとしてソビエトへ侵攻しんこうし、ポーランド・ソビエト戦争せんそう発生はっせいした。緒戦しょせんには欧米おうべい、とりわけフランスからの援助えんじょけ、ウクライナのキエフ近郊きんこうまでせまったが、トゥハチェフスキーひきいる赤軍せきぐんもう反撃はんげき開始かいしし、ぎゃくにワルシャワ近郊きんこうまでまれた。しかし、ピウスツキ将軍しょうぐんのとったおもった機動きどう作戦さくせん成功せいこうしてポーランドぐん赤軍せきぐん背後はいごまわると、ワルシャワ近郊きんこうソ連それん大軍たいぐんぎゃくにポーランドぐん包囲ほうい殲滅せんめつされかねない状態じょうたいとなった。これにたじろいだトゥハチェフスキーはぜんぐん撤退てったい指示しじ結果けっかてきにポーランドぐん赤軍せきぐんかえすことに成功せいこうし、「ヴィスワがわ奇跡きせき」とばれた。この戦争せんそう翌年よくねん停戦ていせんした。

このたたかいでソ連それん各地かくちにいたポーランドじん迫害はくがい危機ききおちいり、どもたちだけは母国ぼこくもどしたいとウラジオストクのポーランドじんにより「ポーランド救済きゅうさい委員いいんかい」が設立せつりつされた。1919ねんにポーランドと国交こっこうむすんだばかりだった日本にっぽんは、人道的じんどうてき見地けんちから救済きゅうさいした[14]どう時期じきに、シベリアやソ連それんにいたユダヤけいポーランドじんにより「ユダヤじん児童じどう孤児こじ救済きゅうさい」はぜん世界せかいけて救援きゅうえん援護えんご発信はっしんしていた。ソ連それん占領せんりょうでは、100まんにん以上いじょうがシベリアや中央ちゅうおうアジアに強制きょうせい移住いじゅうさせられた。

1922ねん国家こっか元首げんしゅしょく引退いんたいしたピウスツキは、その政界せいかい腐敗ふはいうれい、1926ねんクーデターこして政権せいけん奪取だっしゅした。ピウスツキはポーランド国民こくみん圧倒的あっとうてき支持しじのもと、開発かいはつ独裁どくさい主導しゅどうした。この時期じきにポーランドの経済けいざい急速きゅうそく発展はってんし、国力こくりょく強化きょうかされた。国民こくみんカリスマであったピウスツキが1935ねん死亡しぼうすると、ユゼフ・ベック中心ちゅうしんとしたピウスツキの部下ぶかたちが集団しゅうだん指導しどう体制たいせい政権せいけん運営うんえいしたが、内政ないせい外交がいこう失敗しっぱいかえし、そのてんナチス・ドイツソビエト連邦れんぽうにつけまれるようになった。

だい世界せかい大戦たいせん 編集へんしゅう

 
ドイツぐん攻撃こうげきされるワルシャワ王宮おうきゅう

1939ねん8がつナチス・ドイツソビエト連邦れんぽう締結ていけつしたどく不可侵ふかしん条約じょうやく秘密ひみつ条項じょうこうによって、ポーランドの国土こくどはドイツとソ連それんの2かこく東西とうざい分割ぶんかつされ、ポーランドは消滅しょうめつすることになる。1939ねん9がつ1にちグダニスク近郊きんこうヴェステルプラッテのポーランドぐん陣地じんちへの砲撃ほうげき手始てはじめにドイツぐんスロヴァキアぐんが、9月17にちには赤軍せきぐん東部とうぶ国境こっきょうえてポーランド侵攻しんこう開始かいししてポーランドぐん撃破げきはし、ポーランド領土りょうどはナチスドイツ、スロヴァキア、ソビエト連邦れんぽう、そしてソビエト占領せんりょう域内いきないからヴィリニュス地域ちいきゆずられたリトアニアの4かこく分割ぶんかつ占領せんりょうされた。ポーランド亡命ぼうめい政府せいふ当初とうしょパリ、いでロンドンに拠点きょてんうつし、戦中せんちゅうのポーランドじん国内外こくないがいでさまざまなはんどく闘争とうそう展開てんかいした。

どくせんソ連それん反撃はんげきてんずると、ドイツ占領せんりょう地域ちいきソ連それんぐんによって解放かいほうされていった。1944ねん8がつソ連それんがわびかけによりレジスタンスポーランド国内こくないぐんやワルシャワ市民しみん蜂起ほうきするワルシャワ蜂起ほうきこったが、亡命ぼうめい政府せいふけい武装ぶそう蜂起ほうきであったために赤軍せきぐん故意こい救援きゅうえんおこなわず、やく20まんにん死亡しぼうして蜂起ほうき失敗しっぱいわった。

1945ねんにポーランドはソ連それん占領せんりょうかれた。ポツダム会談かいだん決定けっていによりポーランド人民じんみん共和きょうわこくさだめられた領土りょうどは、東部とうぶのウクライナ・ベラルーシ西部せいぶソ連それん割譲かつじょうし、わりにオドラかわ以西いせいのドイツりょうであるシロンスクなどをあたえられるというものであった。

ポーランド人民じんみん共和きょうわこく 編集へんしゅう

 
きゅう国境こっきょうしん国境こっきょう

1945ねん5がつ8にちから1989ねん9がつ7にちまでの44年間ねんかんは、マルクス・レーニン主義しゅぎポーランド統一とういつ労働ろうどうしゃとうPZPR)寡頭政治かとうせいじくポーランド人民じんみん共和きょうわこく社会しゃかい主義しゅぎ体制たいせい時代じだいであった。1945ねん5がつ8にちドイツ降伏ごうぶくによりポーランドは復活ふっかつ、そのくにかたちアメリカイギリスソ連それんヤルタ会談かいだんによってさだめられた。カティンのもり事件じけんポーランド亡命ぼうめい政府せいふは、ソ連それん発表はっぴょうれを拒否きょひスターリン亡命ぼうめい政府せいふ関係かんけい断絶だんぜつした。ソ連それん主導しゅどうルブリン政権せいけんあらたなポーランド国家こっかとなった。

また領土りょうど戦前せんぜんくらべておおきく西にし方向ほうこう平行へいこう移動いどうした。ソ連それんポーランド侵攻しんこう以来いらい占拠せんきょしていたポーランド東部とうぶ正式せいしき自国じこく併合へいごうしたわりに、ドイツ東部とうぶをポーランドにあたえた。これはスターリンが、992ねんボレスワフ1せい確定かくていしたポーランド公国こうこく国境こっきょう回復かいふく固執こしつした結果けっかで、あたらしい国境こっきょうせんはボレスワフ1せい時代じだい国境こっきょうせん位置いち非常ひじょうちかいものとなった。軍事ぐんじてき理由りゆうから、ドイツとの国境こっきょうせんはほぼ最短さいたんとなるように調整ちょうせいされた。これにより、敗戦はいせんこくドイツは戦前せんぜん領土りょうどの25%をうしなった。現在げんざい領土りょうど西側にしがわ3ぶんの1ちかくが戦前せんぜんのドイツりょうである。一方いっぽうソ連それん併合へいごうされたきゅうポーランド東部とうぶ地域ちいきでは、国境こっきょう変更へんこうにともないポーランドけい住民じゅうみん120まんにん退去たいきょしてポーランドに移住いじゅうしてきた(ポーランドじん人口じんこう移動いどう (1944-1946)英語えいごばん)。

1952ねんポーランド人民じんみん共和きょうわこくPZPRいちとう独裁どくさいせい政党せいとうとなり、ソ連それん最大さいだいでもっとも重要じゅうよう衛星えいせいこくとなった。冷戦れいせんなかワルシャワ条約じょうやく機構きこうや、1949ねん1がつ西側にしがわマーシャル=プラン対抗たいこうするものとして設立せつりつされたコメコン経済けいざい協力きょうりょく機構きこう)に参加さんかした。社会しゃかい主義しゅぎ体制たいせいへの移行いこうともない、密告みっこく監視かんし言論げんろん統制とうせいともなったポーランドのソ連それん執行しっこうされ、政治せいじ教育きょういく文化ぶんか一般いっぱん市民しみん生活せいかつなどソ連それんをモデルに構造こうぞう改革かいかくされた[15]ポーランド人民じんみん共和きょうわこく共産きょうさん主義しゅぎプロパガンダ英語えいごばん社会しゃかい主義しゅぎ政権せいけんにより、民族みんぞくわずポーランドに居住きょじゅうする住民じゅうみんすべてを対象たいしょう財産ざいさん国有こくゆうおこなわれ、これらドイツじんのこした不動産ふどうさん国有こくゆうされた。ソ連それんチェコスロバキアひがしドイツハンガリーなどのおな東側ひがしがわ諸国しょこくのように集団しゅうだん農場のうじょう個人こじん農地のうち国有こくゆうされた[16]

 
1950年代ねんだいから1980年代ねんだい典型てんけいてきなポーランドの様子ようす国営こくえい商店しょうてんなら市民しみん

ポーランド政府せいふはおもに西側にしがわ諸国しょこくからの借入かりいれをかえし、無計画むけいかく経済けいざい政策せいさく国家こっかものざいバランスにもとづいた計画けいかくによって配分はいぶんされる体制たいせい計画けいかく経済けいざいにより急激きゅうげきなインフレ急騰きゅうとうまねき、食料しょくりょう物資ぶっし不足ふそくながつづいた。1973 - 74ねんのオイルショックもかさなり、借入かりいれによる市場いちば拡大かくだい経済けいざい成長せいちょう短期間たんきかんわる。その国内こくない経済けいざいおぎなうため、さらなる借金しゃっきんをして、政府せいふは1980ねんまでに230おくドルの膨大ぼうだい負債ふさいかかえる。このような状況じょうきょうにより、闇市やみいちさかんになり欠乏けつぼう経済けいざい英語えいごばん発達はったつさせ、市民しみんによるデモ、ストライキ、暴動ぼうどうなどが頻繁ひんぱんこった[15]社会しゃかい退廃たいはいは、生物せいぶつがくてき環境かんきょう心身しんしん健康上けんこうじょうでひどい悪化あっかともな死亡しぼうりつ上昇じょうしょうした。PZPRは、こうインフレや貧困ひんこん生活せいかつ水準すいじゅん市民しみんいかりと不満ふまんによりふたた社会しゃかいてき爆発ばくはつ勃発ぼっぱつおそれた政権せいけんは、みずか統制とうせいできないシステムで困惑こんわくし、ちからのなさをかんじた[17]。1979ねん6がつにポーランドじんローマ教皇きょうこうヨハネ・パウロ2せい故国ここくポーランドをおとずれ、マルクス・レーニン主義しゅぎかみろん英語えいごばん政府せいふ宗教しゅうきょう弾圧だんあつされていた国民こくみん熱狂ねっきょうてきむかえた。1980ねん9がつ17にちには独立どくりつ自主じしゅ管理かんり労働ろうどう組合くみあい連帯れんたい結成けっせいされた。

 
ポーランドを訪問ほうもんする教皇きょうこうヨハネ・パウロ2せい

1981ねん - 1983ねんポーランドの戒厳かいげんれい期間きかん政府せいふはん政府せいふつぶすために戒厳かいげん導入どうにゅう市民しみん通常つうじょう生活せいかつ劇的げきてき制限せいげんされ[18]すうせんにんのジャーナリストや反対はんたい勢力せいりょく活動かつどう投獄とうごく、ほか100にん[18]ほどが抹殺まっさつされた。夜間やかん外出がいしゅつ禁止きんしれい国境こっきょう封鎖ふうさ空港くうこう閉鎖へいさ電話でんわ回線かいせん遮断しゃだん政府せいふによる郵便ゆうびんぶつ内容ないよう検査けんさなどが執行しっこうされた。ぐん裁判所さいばんしょは、偽造ぎぞう情報じょうほう発信はっしんしゃたち逮捕たいほした[19]戒厳かいげんれいも、市民しみん自由じゆうけんはひどく制限せいげんされた。

 
ワルシャワ大学前だいがくまえでの「連帯れんたい運動うんどう

軍事ぐんじ政権せいけんにより価格かかくげられ、深刻しんこく経済けいざい危機ききとなる。経済けいざい危機ききは、おもな食料しょくりょうにち用品ようひん生活せいかつ必需ひつじゅひん物資ぶっし配給はいきゅうせいとなり平均へいきん所得しょとくは40%下落げらくした[20]西洋せいよう娯楽ごらくひん入手にゅうしゅ非常ひじょういかめしかったが、それも一層いっそう困難こんなんした[21]ヤルゼルスキのもと、借金しゃっきんは1980ねんまでの230おくドルが400おくドルになった[22]行政ぎょうせいマネージメントの欠如けつじょ生産せいさん構造こうぞうわるさ、物資ぶっし欠乏けつぼう労働ろうどうしゃのモラルを低下ていかさせ、はたらざか年代ねんだいである64まんにんが1981ねん - 1989ねんあいだ難民なんみんとなり他国たこく移民いみんした[23]ソ連それん支配しはいする体制たいせいによる抑圧よくあつ抵抗ていこうする市民しみんによる民主みんしゅ運動うんどうはこの時期じき拡大かくだいしていった。

だいさん共和きょうわこく 編集へんしゅう

 
レフ・ヴァウェンサ(ワレサ)だいさん共和きょうわせい初代しょだい大統領だいとうりょう

1989ねん6がつ18にち円卓えんたく会議かいぎ実施じっしされたそう選挙せんきょ下院かいんの35%と上院じょういん自由じゆう選挙せんきょ実施じっし)により、ポーランド統一とういつ労働ろうどうしゃとうはほぼ潰滅かいめつ状態じょうたいおちいり、1989ねん9がつ7にちには共産党きょうさんとう政府せいふ成立せいりつによって民主みんしゅ実現じつげんし、ポーランド人民じんみん共和きょうわこく統一とういつ労働ろうどうしゃとう潰滅かいめつした。この1989ねん9がつ7にちから現在げんざいまでは「だいさん共和きょうわこく」とばれる国家こっかであり、民主みんしゅ共和きょうわ政体せいたい民主みんしゅ国家こっか時代じだいである。

共産きょうさん主義しゅぎ政権せいけんからの膨大ぼうだい借金しゃっきん経済けいざい危機ききがますます深刻しんこくし、政治せいじ不安定ふあんていさせた[24]西側にしがわ諸国しょこく機関きかんは、すでに破産はさんしているポーランド政府せいふには貸付かしつけ延長えんちょうしなかった。ポーランド政府せいふ西側にしがわ諸国しょこく日本にっぽんなどの先進せんしんこく食糧しょくりょう経済けいざい技術ぎじゅつ支援しえんつよ要請ようせい国民こくみん飢餓きがのがれた。

1990ねん11月14にちには統一とういつドイツとのあいだ国境こっきょうせん最終さいしゅう確認かくにんする条約じょうやくわされ(きゅう西にしドイツは、きゅうひがしドイツとポーランド人民じんみん共和きょうわこくが1950ねん7がつ6にちわした国境こっきょうせん画定かくてい条約じょうやく効力こうりょくみとめていなかった)、ドイツとの領土りょうど問題もんだい終了しゅうりょうした。1993ねんだい世界せかい大戦たいせんからポーランドに駐留ちゅうりゅうしていたロシア連邦れんぽうぐんきゅうソビエト連邦れんぽうぐん)が、ポーランドから全面ぜんめん撤退てったいした。1997ねんには憲法けんぽう大幅おおはば改正かいせいおこなわれ、行政ぎょうせいけん大統領だいとうりょうから首相しゅしょう大幅おおはば委譲いじょうされ、首相しゅしょう政治せいじ実権じっけんにぎることとなった。1999ねん北大西洋きたたいせいよう条約じょうやく機構きこう(NATO)に加盟かめいした。

2004ねん5がつ1にち、ポーランドは欧州おうしゅう連合れんごう(EU)に加盟かめいした。2007ねん12月21にちには国境こっきょう審査しんさ完全かんぜん撤廃てっぱいされるシェンゲン協定きょうてい加盟かめいし、のシェンゲン協定きょうてい加盟かめい諸国しょこくとポーランドのあいだでの陸路りくろでの国境こっきょう審査しんさ撤廃てっぱいされた。2008ねん3がつ30にちには空路くうろでの国境こっきょう審査しんさ撤廃てっぱいされ、これでほかのシェンゲン協定きょうてい加盟かめい諸国しょこくとポーランドのあいだでのすべての国境こっきょう審査しんさ撤廃てっぱいされたことになる。現在げんざいでは、ポーランドじんならばパスポートなしでシェンゲン協定きょうてい加盟かめいこく同士どうし往来おうらい可能かのうであり、シェンゲン協定きょうてい加盟かめいこくいち入国にゅうこくした旅行りょこうきゃくはどのシェンゲン協定きょうてい加盟かめいこくからでも国境こっきょう審査しんさなしでポーランドに自由じゆう出入国しゅつにゅうこくをすることができる。

 
レフ・カチンスキだいさん共和きょうわせいだい4だい大統領だいとうりょう

ここまで自由じゆう民主みんしゅ主義しゅぎ国家こっかとしてすすんできたが、2005ねん欧州おうしゅう連合れんごう(EU)の権限けんげん拡大かくだい懐疑かいぎてきで、経済けいざいにおける国民こくみん利益りえき擁護ようごと、共産きょうさん主義しゅぎ時代じだいからがれたシステムや人事じんじ完全かんぜん撤廃てっぱいかかげた、高齢こうれいしゃてい学歴がくれきそう小規模しょうきぼ農家のうか国営こくえいだい企業きぎょう経営けいえいしゃ従業じゅうぎょういんからの支持しじつよキリスト教きりすときょう民主みんしゅ主義しゅぎカトリックけい保守ほしゅ主義しゅぎ政党せいとうほう正義まさよし(PiS)」がそう選挙せんきょ勝利しょうりし、農村のうそんがた大衆たいしゅう主義しゅぎ政党せいとう自衛じえい」、カトリックのレデンプトールかいけい国民こくみん保守ほしゅ主義しゅぎしょう政党せいとうポーランド家族かぞく同盟どうめい」とともに保守ほしゅ大衆たいしゅう主義しゅぎ連立れんりつ政権せいけん発足ほっそくさせた。同時どうじおこなわれた大統領だいとうりょう選挙せんきょでは最大さいだいのライバルであるドナルド・トゥスク(「市民しみんプラットフォーム」)とのあいだ決選けっせん投票とうひょうおこなった、レフ・カチンスキ(「ほう正義まさよし」)が当選とうせんした。

ヤロスワフ・カチンスキひきいる連立れんりつ政権せいけん政治せいじ路線ろせんをめぐってなかなか足並あしなみがそろわず、政権せいけん運営うんえい難航なんこうするとともに、国際こくさい社会しゃかいにおいても欧州おうしゅう連合れんごうロシア軋轢あつれきこした。その連立れんりつ政党せいとう自衛じえい」の党首とうしゅアンジェイ・レッペルの収賄しゅうわい疑惑ぎわくがカチンスキ首相しゅしょうつたえられると、首相しゅしょう政権せいけん維持いじしまず2007ねん9がつ7にち議会ぎかい解散かいさんする。

この解散かいさんけて2007ねん10がつ21にちおこなわれたそう選挙せんきょでは、欧州おうしゅう連合れんごう(EU)との関係かんけい強化きょうか、ユーロ導入どうにゅう積極せっきょくてき若者わかもの高学歴こうがくれきそう商工しょうこうみん新興しんこう企業きぎょう経営けいえいしゃ従業じゅうぎょういんからの支持しじつよ都市としかた中道右派ちゅうどううは政党せいとう市民しみんプラットフォーム」が勝利しょうりおさめる。一方いっぽうで、おおきく議席ぎせきすう変化へんかすることがすくないといわれるドント方式ほうしき比例ひれい代表だいひょうせい選挙せんきょにもかかわらず、それまでの政権せいけん運営うんえい失望しつぼうした有権者ゆうけんしゃによって「ほう正義まさよし」は大幅おおはば議席ぎせきうしなう。また、連立れんりつ政権せいけん参加さんかすると急速きゅうそく有権者ゆうけんしゃ支持しじうしなっていった「自衛じえい」と「ポーランド家族かぞく同盟どうめい」といった国民こくみん保守ほしゅ主義しゅぎ大衆たいしゅう主義しゅぎてきしょう政党せいとうは、この2007ねん選挙せんきょ議会ぎかいにおけるすべての議席ぎせき喪失そうしつした。

最大さいだい政党せいとうの「市民しみんプラットフォーム」の議席ぎせき過半数かはんすう(231議席ぎせき)にたなかったため、中規模ちゅうきぼ専業せんぎょう農家のうか支持しじする農村のうそんかた中道右派ちゅうどううは政党せいとうポーランド農民のうみんとう」と連立れんりつ政権せいけん発足ほっそく首相しゅしょうに「市民しみんプラットフォーム」のわか党首とうしゅドナルド・トゥスク就任しゅうにんした。トゥスクは中道右派ちゅうどううはとして中小ちゅうしょう企業きぎょう保護ほご政策せいさくなどを一方いっぽう対外たいがいてきには宥和ゆうわ政策せいさくり、長年ながねん遺恨いこんのあるドイツやロシアとも一定いっていあゆりもせた[25]

2009ねん11月27にち、「かまづち」や「あかほし」など共産きょうさん主義しゅぎのマークを禁止きんしする法律ほうりつ可決かけつ[26][27]。しかしこれは公的こうてき機関きかんにおける使用しよう禁止きんし措置そちであり民間みんかんでは自由じゆう使用しようできるため観光かんこう都市としクラクフでは共産きょうさん主義しゅぎてき雰囲気ふんいきのこっており、共産きょうさん主義しゅぎのマークを問題もんだいなく使用しようしている[28]

12月1にちに、民主みんしゅ以来いらいはつ首相しゅしょう再選さいせんたしたトゥスクがEU大統領だいとうりょう就任しゅうにんされ、首相しゅしょう辞任じにんすることとなった。

2014ねん3がつロシアによるクリミアの併合へいごうきると民族みんぞく主義しゅぎたかまり、ロシアだけでなく、ロシアにエネルギー資源しげん依存いぞんするドイツも批判ひはんした(ただし、ポーランドもロシアに依存いぞんしている)[29]

2015ねん選挙せんきょでは「ほう正義まさよし(PiS)」が勝利しょうり、、憲法けんぽう違反いはんうたがいのある法律ほうりつ次々つぎつぎ制定せいていし、違憲いけん審査しんさけん行使こうしする憲法けんぽう法廷ほうてい憲法けんぽう裁判所さいばんしょ)の掌握しょうあくすす[30]、EUとの対立たいりつふかまった[31][32][33]

2022ねん11月16にちロシアによるウクライナ侵攻しんこうちゅう、ポーランドにロシアせいのミサイルが着弾ちゃくだんし、市民しみんにん死亡しぼうした。ミサイルによる被害ひがいはNATOの歴史れきし加盟かめいこくにとってはつ事例じれいとなった(詳細しょうさい2022ねんポーランドでのミサイル爆発ばくはつ[34]

政治せいじ 編集へんしゅう

基本きほん制度せいど 編集へんしゅう

 
大統領だいとうりょう宮殿きゅうでんルボミルスキラジヴィウきゅうやしき
 
ポーランド下院かいん(セイム)

政治せいじ体制たいせい共和きょうわせい国家こっか元首げんしゅ大統領だいとうりょう任期にんき5ねん)である。かつてはおおきな政治せいじ権力けんりょくたくされていたが、1997ねん憲法けんぽう改正かいせいにより政治せいじ実権じっけん首相しゅしょううつり、現在げんざい儀礼ぎれいてき権限けんげんしかたない。下院かいん可決かけつした法案ほうあん拒否きょひけんがあるが、下院かいん再度さいど可決かけつした場合ばあいにはその法案ほうあん成立せいりつする。ぐん最高さいこう司令しれいかんでもあるが、これも象徴しょうちょうてきなものであり、実際じっさい指揮しきけん首相しゅしょうつ。

行政ぎょうせい 編集へんしゅう

行政ぎょうせいは、1997ねん制定せいてい憲法けんぽうでは閣僚かくりょう評議ひょうぎかい内閣ないかく)が「ポーランド共和きょうわこく内政ないせいおよ外交がいこう政策せいさく実施じっしする」(だい146じょう1こう)、「政府せいふ行政ぎょうせい指揮しきする」(だい146じょう3こう)となっているため[35]閣僚かくりょう評議ひょうぎかい議長ぎちょう首相しゅしょう正式せいしき名称めいしょう)が強大きょうだい政治せいじてき権力けんりょくゆうして実際じっさい国政こくせいおこな議院ぎいんないかくせいになっている。首相しゅしょう大統領だいとうりょう任命にんめいするが、14にち以内いない議会ぎかい下院かいんたるセイム(sejm)の信任しんにんける必要ひつようがあるため(憲法けんぽうだい154じょう2こう)、実際じっさいには議会ぎかい多数たすうからえらばれる。閣僚かくりょう議会ぎかい多数たすうから、首相しゅしょう提案ていあんもとづき大統領だいとうりょう指名しめいする。現在げんざい首相しゅしょうマテウシュ・モラヴィエツキ

議会ぎかい 編集へんしゅう

立法りっぽうはセイム(議会ぎかい)とセナト(元老げんろういん)の二院にいんせい議会ぎかい(Zgromadzenie Narodowe)によっておこなわれる。

下院かいん(セイム、Sejm)
議会ぎかい」の定数ていすう460めい下院かいん立法りっぽう役割やくわり主体しゅたいであり、政党せいとう資質ししつ能力のうりょく大事だいじであるとのかんがえからドント方式ほうしき拘束こうそく名簿めいぼしき比例ひれい代表だいひょうせい議席ぎせき獲得かくとくには全国ぜんこく投票とうひょう合計ごうけい政党せいとうが5%以上いじょう選挙せんきょ委員いいんかい政党せいとう連合れんごう)は8%以上いじょう得票とくひょう必要ひつようシングルイシュー政党せいとう全体ぜんたい政策せいさく理念りねんでなく特定とくてい政策せいさくのみであつまった人々ひとびと政党せいとう)の出現しゅつげん少数しょうすう政党せいとう乱立らんりつといった事態じたい未然みぜん防止ぼうしするためである。少数しょうすう民族みんぞく大半たいはんめるドイツけい住民じゅうみん民族みんぞく優先ゆうせんわくとして、ドイツ民族みんぞく政党せいとう最高さいこう2議席ぎせきまではこの最低さいてい得票とくひょうりつルールから除外じょがいされる(ドイツ民族みんぞく政党せいとう前回ぜんかいそう選挙せんきょ獲得かくとく票数ひょうすうすくなかったため、現在げんざいは1議席ぎせきのみ確保かくほしている)。立法府りっぽうふとして、セイムは日本にっぽん衆議院しゅうぎいん相当そうとうし、上院じょういんより優先ゆうせんされる。
各党かくとう議席ぎせきすう定数ていすう460)[36]
上院じょういん(セナト、Senat)
元老げんろういん」の定数ていすう100めい上院じょういん立法りっぽう行政ぎょうせい監査かんさ役割やくわり主体しゅたいであり、政党せいとうよりも議員ぎいん個人こじん資質ししつ能力のうりょく重要じゅうようであるとのかんがえから、完全かんぜんしょう選挙せんきょせい
各党かくとう議席ぎせきすう定数ていすう100)[37]

政党せいとう 編集へんしゅう

司法しほう 編集へんしゅう

ポーランドのほう制度せいどは、1,000ねん以上いじょうまえ同国どうこく地域ちいきにおける歴史れきし最初さいしょすう世紀せいきから発展はってんしてた。ポーランドの公法こうほうおよび私法しほう成文せいぶんされている。かたわら、ポーランドにおける最高さいこうほうポーランド憲法けんぽう英語えいごばんもとづいたものとなっている。

なお、ポーランドは民法みんぽう法的ほうてき管轄かんかつけんゆうしており、ポーランド民法みんぽうてんという民法みんぽうてんさだめられている。

国際こくさい関係かんけい 編集へんしゅう

国際こくさい連合れんごう(UN)、欧州おうしゅう連合れんごう(EU)、シェンゲン協定きょうていシェンゲン情報じょうほうシステム(SIS)、北大西洋きたたいせいよう条約じょうやく機構きこう(NATO)、経済けいざい協力きょうりょく開発かいはつ機構きこう(OECD)、世界せかい貿易ぼうえき機関きかん(WTO)、欧州おうしゅう安全あんぜん保障ほしょう協力きょうりょく機構きこう(OSCE)、欧州おうしゅう電気でんき標準ひょうじゅん委員いいんかい(CENELEC)に加盟かめいしている。

ちゅうおう大国たいこくであり、ヨーロッパの東西とうざい南北なんぼく双方そうほう中央ちゅうおう位置いちし、バルト海ばるとかい南岸なんがんという要衝ようしょうにあることから、ヴァイマールさんかく連合れんごう(Weimar Triangle)、ヴィシェグラード・グループ(V4)、かんバルト海ばるとかい諸国しょこく評議ひょうぎかい(CBSS)、ちゅうおうイニシアティヴ(CEI)といった地域ちいき国際こくさい機関きかんにも加盟かめいし、国連こくれんではひがしヨーロッパグループ(EEG)にぞくしている。

ロシアとの関係かんけい 編集へんしゅう

ふるくから争乱そうらんかえ関係かんけいで、幾度いくどポーランド・ロシア戦争せんそうこった。そのため、現在げんざいでもポーランドじんつよはん感情かんじょういているとされる。

だい世界せかい大戦たいせんちゅうには、ソ連それんはドイツととも分割ぶんかつ占領せんりょうし、カティンのもり事件じけんなどの虐殺ぎゃくさつ事件じけんをおこした。戦後せんごポーランド人民じんみん共和きょうわこくとして衛星えいせいこくとなっていたが、民主みんしゅとくに2014ねんのウクライナ危機きき以降いこう、ロシアの軍事ぐんじりょくたいする警戒けいかいかんたかまっている[38]。2017ねん1がつには、アメリカぐんがポーランドへの駐屯ちゅうとん開始かいしし、西部せいぶジャガン歓迎かんげい式典しきてんひらかれた。ざいポーランドアメリカぐん最終さいしゅうてき兵員へいいんやく3,500にん戦車せんしゃ87りょう規模きぼになる見通みとおしである。

ロシアの大統領だいとうりょう報道ほうどうかんは「わたしたち安全あんぜんたいする脅威きょうい」と反対はんたい表明ひょうめいをした[39]

2021ねん11月、ベラルーシとの国境こっきょう付近ふきん西にしアジアからの移民いみんすうせんにん集結しゅうけつ、ポーランドはぐん動員どういんして移動いどう阻止そしした。同月どうげつ9にち、モラウィエツキ首相しゅしょう国会こっかいで、ロシアがうしたてとなっているとしてプーチン大統領だいとうりょう批判ひはんした[40]。2022ねん2がつに、ロシアによるウクライナ侵攻しんこうきると、くにをあげてウォロディミル・ゼレンスキー政権せいけん支援しえんまわり、もっとおおくの避難ひなんみんれや武器ぶき支援しえんなどをおこなった[41]。ただし直接ちょくせつ加勢かせいはせず、武器ぶき売却ばいきゃくぶんもある[42]。また、ロシアとのガス供給きょうきゅう契約けいやくったが、実際じっさいはロシアさんガスをドイツをかいして輸入ゆにゅうすることになる[43]

2022ねん11月、前年ぜんねん発生はっせいした不法ふほう移民いみん流入りゅうにゅうがロシアのであるカリーニングラードしゅうからしょうじるおそれがあるとして、ポーランド国防こくぼうしょうあらたにカリーニングラードしゅうとの国境こっきょう沿いにフェンス構築こうちくすることを発表はっぴょうした[44]

ドイツとの関係かんけい 編集へんしゅう

1953ねん、ポーランドとひがしドイツとのあいだ大戦たいせんちゅう補償ほしょう請求せいきゅうけん放棄ほうきおこなわれたが、これはソ連それん意向いこうつよはたらいたものとわれる。1990ねん、ドイツのさい統一とういつけてポーランドとドイツは国境こっきょう条約じょうやく調印ちょういん。1991ねんには善隣ぜんりん友好ゆうこう条約じょうやくむすばれた。2015ねん右派うは政党せいとうほう正義まさよし」が与党よとうになると、1953ねん請求せいきゅうけん放棄ほうきソ連それん圧力あつりょくでなされたものとして、ドイツにたいして戦後せんご補償ほしょうもとめる議論ぎろん惹起じゃっきはじめている[45]

きん現代げんだいにおける日本にっぽんとの関係かんけい 編集へんしゅう

日本にっぽんがく 編集へんしゅう

1919ねんワルシャワ大学だいがく日本語にほんご講座こうざひらかれた。以来いらいどう大学だいがく東洋とうよう学部がくぶの「日本にっぽん韓国かんこく学科がっか」は、中国ちゅうごく研究けんきゅう中国ちゅうごく学科がっかいち分野ぶんやとして、韓国かんこく学科がっかとともに学科がっか維持いじされ、日本語にほんごおしえられている。

2002ねんには、どう学科がっか天皇てんのう皇后こうごう行幸ぎょうこうけいけたほか、2008ねんには日本テレビ放送網にほんてれびほうそうもうの「1おくにんだい質問しつもん!?わらってコラえて!」の「世界せかい日本語にほんご学校がっこうたび」でポズナン大学だいがく日本語にほんご学科がっかとともに、日本語にほんごまな大学生だいがくせいたちが紹介しょうかいされた。

さらに、ポーランドじんによる浮世絵うきよえのコレクションはしつりょうともに世界せかい屈指くっしのもので、クラクフ日本にっぽん美術びじゅつ技術ぎじゅつ博物館はくぶつかん“マンガ”かんには浮世絵うきよえふく日本にっぽん文化財ぶんかざいのコレクションがひろ公開こうかいされている。

ポーランドだい共和きょうわこく初代しょだい国家こっか元首げんしゅユゼフ・ピウツスキのあにブロニスワフ・ピウスツキは、樺太からふと流刑りゅうけいになったことを契機けいきに、樺太からふとから北海道ほっかいどうわたり、おおくの日本にっぽん文化ぶんかじん政治せいじ交流こうりゅうしつつ、アイヌ研究けんきゅう業績ぎょうせきのこした。

日本にっぽんによるせんあいだのポーランドじん孤児こじ救出きゅうしゅつ 編集へんしゅう

日本にっぽんせんあいだ、765にんのポーランドじん孤児こじをシベリアからたすけたことがある[46]当時とうじおおくのユダヤけいポーランドじん孤児こじらもシベリアに搬送はんそうされていた。

ポーランドじん聖職せいしょくしゃ訪日ほうにち 編集へんしゅう

カトリック教会きょうかい聖職せいしょくしゃで、のちホロコースト犠牲ぎせいとなったマキシミリアノ・コルベ戦前せんぜん日本にっぽん布教ふきょう活動かつどうおこない、「けがれなき聖母せいぼ騎士きしかい」を日本にっぽん導入どうにゅうした。どうかい出版しゅっぱんしゃ聖母せいぼ騎士きししゃ」や、コルベにつづいて布教ふきょう訪日ほうにちしたポーランドじん宣教師せんきょうしによって創設そうせつされた仁川にがわ学院がくいん聖母せいぼ騎士きし高等こうとう学校がっこうは21世紀せいきむかえた現在げんざい存続そんぞくしている。

コルベとともに布教ふきょうのために訪日ほうにちしたゼノ・ゼブロフスキー修道しゅうどうは、長崎ながさき原爆げんばく被爆ひばくしたのちも日本にっぽんまり、戦災せんさい孤児こじなど貧民ひんみん救済きゅうさい尽力じんりょくした。

おなポーランドじん教皇きょうこうヨハネ・パウロ2せいは1981ねん訪日ほうにちしたさい病床びょうしょうのゼノに面会めんかいし、功績こうせき称賛しょうさんした。はじめて訪日ほうにちしたローマ教皇きょうこうヨハネ・パウロ2せいは、東京とうきょうでは「世界せかい最初さいしょ原子げんしばくだん傷跡きずあとがいまだにはっきりのこるこのくにで、『あなたがたに平和へいわ』というキリストの言葉ことばは、特別とくべつ力強ちからづよひびきます。この言葉ことばわたしたちはこたえなければなりません」と日本語にほんご挨拶あいさつ[47]広島ひろしま長崎ながさき訪問ほうもん広島ひろしまにおいては「戦争せんそうです。生命せいめい破壊はかいです」と世界せかい平和へいわ構築こうちくうったえた。

国家こっか安全あんぜん保障ほしょう 編集へんしゅう

 
ポーランド空軍くうぐん主力しゅりょくせいそら戦闘せんとう
F-16「ヤシュチュションプ」たか

ポーランドぐん

 
ポーランド陸軍りくぐん主力しゅりょく戦車せんしゃ
レオパルト2A5

ぐんしゅ憲兵けんぺいたい合計ごうけい6グループから構成こうせいされ、5ぐんしゅでは常時じょうじやく14まんにん活動かつどうし、予備よびやくやく24まんにん国防省こくぼうしょう統括とうかつし、憲法けんぽう規定きていされた最高さいこう司令しれいかんポーランド大統領だいとうりょうである。

このうちポーランド特別とくべつぐん機動きどうてき活動かつどう主要しゅよう任務にんむとするぐんで、作戦さくせん機動きどう部隊ぶたいGROM)、だい1奇襲きしゅう部隊ぶたい1 PSK)、海兵かいへいたいFormoza)、特別とくべつ兵站へいたん部隊ぶたいの4つから構成こうせいされる。

徴兵ちょうへいせい廃止はいしされ、志願しがんせい導入どうにゅうされている。これによってコンパクトながら高度こうど専門せんもん知識ちしき技術ぎじゅつ国軍こくぐんつくげることを目指めざしている。

2009ねん予算よさんは118おくドルで、これは世界せかいだい19国内こくないそう生産せいさん(GDP)の2%じゃくめる。1989ねん民主みんしゅこうソ連それんから購入こうにゅうしていた装備そうびいだが、自国じこくふく北大西洋きたたいせいよう条約じょうやく機構きこう(NATO)同盟どうめいこく製造せいぞうされる最新さいしん装備そうびへの完全かんぜん転換てんかんいそいでいる。

2023ねんマテウシュ・モラヴィエツキ首相しゅしょうロシアによるウクライナ侵攻しんこうけ、軍備ぐんび拡大かくだいをさらに加速かそくさせてGDPの4%をポーランドぐんてると表明ひょうめいした。[48]

地理ちり 編集へんしゅう

 
タトラ山脈さんみゃく
 
マズールィ湖水こすい地方ちほう
 
ヴィエブジャだい湿地しっちたい風景ふうけい
 
ポーランドはコウノトリくに
ぜん世界せかいのコウノトリの4ぶんの1がポーランド国内こくない繁殖はんしょくする
 
世界せかいでもビャウォヴィエジャのもりにのみ生息せいそくする野生やせいヨーロッパバイソン

西にしドイツみなみチェコスロバキアひがしウクライナベラルーシリトアニアせっしており、北東ほくとうではロシアカリーニングラード)とも国境こっきょうせっしている。きたバルト海ばるとかい(Morze Bałtyckie)にめんしている。

南部なんぶのぞ国土こくどのほとんどがきたヨーロッパ平野へいやであり、全体ぜんたい非常ひじょうゆるやかな丘陵きゅうりょう地帯ちたいとなっていて独特どくとく景観けいかんゆうする。平均へいきん高度こうどは173メートルである。南部なんぶ山岳さんがく地帯ちたいで、タトラ山脈さんみゃくにはポーランドでもっともたかリシさん標高ひょうこう2,499メートル)がある。南部なんぶ国境こっきょうちかくにはカルパティア山脈さんみゃくタトラ山脈さんみゃくベスキディ山脈さんみゃく英語えいごばんふくむ)やスデート山地さんち(ポーランドおよびチェコでスデーティ(Sudety)がある。ふかもりおおく、国立こくりつ公園こうえん県立けんりつ公園こうえんとして維持いじ管理かんりされている。東北とうほくからベラルーシにかけてひろがる「ビャウォヴィエジャのもり」は「ヨーロッパ最後さいご原生げんせいりん」とされる、北部ほくぶヨーロッパにはめずらしく全体ぜんたい広葉樹こうようじゅなましげ巨大きょだいもりで、ヨーロッパバイソン(ポーランドで「ジュブル」)やヘラジカ(ポーランドで「ウォシ」)をはじめとした多数たすう大型おおがた野生やせい動物どうぶつ生息せいそくする。ポーランドにある9,300ものみずうみのうち、おおきなもののほとんどは北部ほくぶ中西部ちゅうせいぶ集中しゅうちゅうしている。北東ほくとう北西ほくせい中東ちゅうとう中西部ちゅうせいぶ南西なんせいにはとくみずうみ集中しゅうちゅうする湖水こすい地方ちほうがあり、うつくしい景観けいかんゆうする。また湿原しつげんとくおおく、そのうち最大さいだいのものは「ヴィェブジャだい湿原しつげん」で、釧路くしろ湿原しつげんの10ばい以上いじょう面積めんせきがある。これらの湿原しつげん国立こくりつ公園こうえん県立けんりつ公園こうえんとして維持いじ管理かんりされている。おおくの水鳥みずとり生息せいそくする。

西南せいなんにはヨーロッパ最大さいだい砂漠さばくがある。

河川かせん以下いかとおり。

  • ヴィスワがわ(Wisła)
  • オドラがわ(Odra)(オーデルがわ
  • ヴァルタがわ(Warta)
  • ブクがわ(Bug)
  • ナレフがわ(Narew)
  • サンがわ(San)
  • ノテチがわ(Noteć)
  • ピリツァがわ(Pilica)
  • ヴィェプシュがわ(Wieprz)
  • ブブルがわ(Bóbr)
  • ウィナがわ(Łyna)
  • ヌィサ・ウジツカがわ/ナイセがわ(Nysa Łużycka)
  • フクラがわ(Wkra)
  • ドゥナイェツがわ(Dunajec)
  • ブルダがわ(Brda)
  • プロスナがわ(Prosna)
  • ドゥルフェンツァがわ(Drwęca)
  • ヴィスウォクがわ(Wisłok)
  • フタ/チャルナ・フタがわ(Wda/Czarna Wda)
  • ドラヴァがわ(Drawa)
  • ヌィサ・クウォヅカがわ(Nysa Kłodzka)
  • ポプラトがわ(Poprad)
  • パスウェンカがわ(Pasłęka)
  • レガがわ(Rega)
  • ブズラがわ(Bzura)
  • ヴィスウォカがわ(Wisłoka)
  • ビェブジャがわ(Biebrza)
  • ニーダがわ(Nida)

地質ちしつ 編集へんしゅう

 
クラクフ=チェンストホヴァ高原こうげんのオイツフ国立こくりつ公園こうえん

ポーランドの地質ちしつ構造こうぞうは、6000まんねんまえきたヨーロッパ大陸たいりくとアフリカ大陸たいりく衝突しょうとつと、きたヨーロッパのだいよんこおりによって形成けいせいされた。このときスデート山地さんちカルパティア山脈さんみゃく形作かたちづくられている。北部ほくぶポーランドのモレーン景観けいかんおもすなロームからなる土壌どじょうによるものである。こおり形成けいせいされた南部なんぶ河川かせんたに黄土おうどふくんでいる。クラクフ=チェンストホヴァ高原こうげんピェニヌィ山地さんち西にしタトラ山地さんち石灰岩せっかいがん構成こうせいされる。こうタトラ山地さんちベスキド山地さんちカルコノシェ山地さんち花崗岩かこうがん玄武岩げんぶがん構成こうせいされる。南部なんぶのクラクフ=チェンストホヴァ高原こうげんジュラ紀じゅらき石灰岩せっかいがんからなる。

気候きこう 編集へんしゅう

バルト海ばるとかいめんした北西ほくせい温帯おんたい気候きこうであるが、東部とうぶ南部なんぶ山岳さんがく地帯ちたいでは、冬季とうきあいだ河川かせん凍結とうけつする亜寒帯あかんたい気候きこうとなる。降水こうすいりょう平均へいきんしており、ぶしによる変動へんどうすくない。

地方ちほう行政ぎょうせい区分くぶん 編集へんしゅう

著名ちょめい経済けいざい学者がくしゃイェジ・レグルスキ構想こうそうのもと、1999ねんイェジ・ブゼク政権せいけんおこなった地方ちほう自治じち大改革だいかいかくにおいてけん(województwo)が整理せいりされ、ポーランドではそれまであった49けんが16けんにまで一気いっきにまとめられて穏健おんけん地方ちほう分権ぶんけん成立せいりつした。けん下位かい自治体じちたいとしてぐん(powiat)が合計ごうけい373、グミナとばれる地方自治体ちほうじちたい基礎きそ組織そしき(gmina)が合計ごうけい2,489ある。

 
ポーランドのけん区分くぶん

(アルファベットじゅん

主要しゅよう都市とし 編集へんしゅう

 
人口じんこうじゅん 都市とし けん 人口じんこう
1 ワルシャワ マゾフシェけん 1,710,055
2 クラクフ マウォポルスカけん 754,624
3 ウッチ ウッチけん 747,152
4 ヴロツワフ ドルヌィ・シロンスクけん 633,000
5 ポズナン ヴィエルコポルスカけん 556,022

経済けいざい 編集へんしゅう

 
ふる街並まちなみのこうに高層こうそうビルがなら首都しゅとワルシャワ
 
ヴロツワフ
 
シュチェチン

ポーランド経済けいざいは、2004ねんEU加盟かめい、EUない先進せんしん地域ちいきまずしい地域ちいき格差かくさちぢめる目的もくてきであるEU構造こうぞうファンド(EU Structural Funds)の融資ゆうし獲得かくとくにより経済けいざい成長せいちょうげている。失業しつぎょうりつはEU平均へいきんえながら、経済けいざいゆたかさを比較ひかくする指標しひょうとされる1人ひとりあたりの国内こくないそう生産せいさんがくのGDPは、いちじるしくEU平均へいきん以下いかのままとなっている[49]

世界せかい金融きんゆう危機きき余波よは 編集へんしゅう

若年じゃくねん人口じんこうおおささえられて、近年きんねん[いつ?]毎年まいとし4 - 6%前後ぜんごこう成長せいちょうせていたが、世界せかいてき金融きんゆう危機きき余波よはけたため、2009ねん成長せいちょうりつは、欧州おうしゅう委員いいんかい(EC)の予測よそくでは-1.4%、国際こくさい通貨つうか基金ききん(IMF)の予測よそくでは-0.7%、欧州おうしゅう復興ふっこう開発かいはつ銀行ぎんこう(EBRD)の予測よそくでは0%、ロイタろいた通信つうしん調査ちょうさのポーランド国内外こくないがい民間みんかん金融きんゆう機関きかん平均へいきんてき予測よそくでは+0.8%、ポーランド財務省ざいむしょう予測よそくでは+1%前後ぜんごとされていた。

ヨーロッパ域内いきない各国かっこくについては軒並のきな大幅おおはばなマイナス成長せいちょう見込みこまれているが、GDPにたいする対外たいがい債務さいむ残高ざんだか短期たんき対外たいがい債務さいむ残高ざんだか金融きんゆう機関きかん不良ふりょう債権さいけん個人こじん外貨がいかてローン残高ざんだかすくなく(家計かけいけローンにめる外貨がいかけんのシェアはやく40%、家計かけい外貨がいかてローンは名目めいもくGDPの15%未満みまん[50])、国内こくない人口じんこうおおきいため輸出ゆしゅつ依存いぞん比較的ひかくてきひく国内こくない需要じゅようおおきいという特徴とくちょうがあるポーランドは、通貨つうかズウォティの急落きゅうらくによって輸出ゆしゅつ競争きょうそうりょく回復かいふくしてこの景気けいき後退こうたいをうまくけると予想よそうされており、ヨーロッパの国々くにぐにのうちではもっともたか数値すうち成長せいちょうりつ予測よそくをあらゆる調査ちょうさているくにのひとつであった。

2009ねん結果けっか 編集へんしゅう

その、ポーランドの2009ねん成長せいちょうりつについては、経済けいざい協力きょうりょく開発かいはつ機構きこう(OECD)の発表はっぴょうによると、大方おおかた予想よそうをはるかに上回うわまわる1.7%と判明はんめい(のちに1.8%へ上方かみがた修正しゅうせい)し、このとし欧州おうしゅう連合れんごう(EU)加盟かめいこくでプラス成長せいちょうりつ達成たっせいした唯一ゆいいつくにであることがあきらかになった。OECD加盟かめい34かこくにおいても、ポーランドのほかにプラス成長せいちょうりつ達成たっせいしたのは韓国かんこく(0.2%)とオーストラリア(1.3%)の2かこくのみであり、2009ねんのポーランドはOECD加盟かめいこく最高さいこう成長せいちょうりつたたしたことになる。中央ちゅうおう銀行ぎんこうであるポーランド国立こくりつ銀行ぎんこう世界せかい金融きんゆう危機ききまえ世界せかい金融きんゆうバブルの時代じだい非常ひじょうはや時期じき(2001ねんごろ)にはすでにバブルの到来とうらい察知さっちし、それ以来いらい市中しちゅう銀行ぎんこうたいしてさまざまな規制きせいさく導入どうにゅうしていた[51]

2009ねん、ポーランド政府せいふおおきく被害ひがいけた国内こくない経済けいざいのために、IMFから205おくドルをれた[52]。ポーランド・ウクライナ開催かいさいのUEFAユーロカップ2012では、関連かんれん施設しせつ・インフラ建設けんせつ準備じゅんび住宅じゅうたくバブルにけ、西欧せいおうしょ外国がいこくからおおきな投資とうしけた、このインフラ投資とうし事業じぎょうにより世界せかい金融きんゆう危機ききおおきな被害ひがいまぬかれた[53]。しかし世界せかいてき金融きんゆう危機きき反映はんえいし、住宅じゅうたく投資とうしバブルは不発ふはつとなり投資とうし予測よそくはんする結果けっかわった。

2010ねん世界中せかいじゅうおこなわれている景気けいき対策たいさく目的もくてきとしただい規模きぼ金融きんゆう緩和かんわのため、ポーランドのだい四半期しはんき成長せいちょうりつは+3.5%を記録きろくした。ポーランド政府せいふとポーランド国立こくりつ銀行ぎんこう景気けいき過熱かねつ資産しさん価格かかく上昇じょうしょう可能かのうせいやそれにともなたかいインフレの可能かのうせい懸念けねんはじめ、公的こうてき部門ぶもん財政ざいせい再建さいけん路線ろせん強化きょうか金融きんゆう政策せいさく貸出かしだし規制きせい強化きょうかといった対応たいおうさく考慮こうりょしている。2014ねん、GDP成長せいちょうは1.3%。

展望てんぼう 編集へんしゅう

2004ねんEU加盟かめい、ポーランド国民こくみんはEUないでも西欧せいおう諸国しょこくよりひく賃金ちんぎん水準すいじゅんつために、支持しじ政党せいとう急激きゅうげき右寄みぎよりになった。

EU加盟かめい、さらにポーランドからおおくの労働ろうどうしゃがおもにEUの先進せんしん諸国しょこく出稼でかせぎにっている。ほかのEUのちゅう東欧とうおうこく同様どうよう、おもに単純たんじゅん労働ろうどうしゃとしての雇用こよう先行せんこうしている。一部いちぶではホワイトカラーとしての雇用こようもみられ、ざいすものもあらわれた。これまで本国ほんごく経済けいざい堅調けんちょうささえられてポーランドへ帰国きこくするもの徐々じょじょ増加ぞうかしていたが、昨今さっこん世界せかいてき金融きんゆう危機きき余波よは国内外こくないがい経済けいざい情勢じょうせい激変げきへんしているため、ポーランド本国ほんごくでも就職しゅうしょく機会きかいすくないのではないか、しょくても収入しゅうにゅうひくいのではないか、あるいはポーランド国内こくないであっても自分じぶん出身しゅっしんとははなれた地方ちほうでないと求人きゅうじんしていないのではないかとかんがえ、帰国きこくをためらううごきもてきた[54]。しかし、ポーランド政府せいふ国内こくない産業さんぎょう長期ちょうきてき発展はってん確実かくじつにするため道路どうろ通信つうしんなどといったインフラ整備せいびきゅうピッチですすめているため[55]外国がいこくている出稼でかせぎのうち熟練じゅくれん労働ろうどうしゃ祖国そこくへのUターンを積極せっきょくてき奨励しょうれいしている。ポーランドにおけるインフラ整備せいび教育きょういくなど経済けいざい発展はってん基礎きそづく事業じぎょうは、規模きぼ巨大きょだいであるにもかかわらず資金しきんリスクがないのが特徴とくちょうである。これは政府せいふ民間みんかんからの資金しきん調達ちょうたつくわえて、EUからインフラ整備せいび教育きょういくなどポーランド事業じぎょう支援しえんするために膨大ぼうだい補助ほじょきん(EU構造こうぞうファンド、えい:EU structural funds)がりているためである。政府せいふは2010年度ねんどより緊縮きんしゅく財政ざいせいおこなっているが、これはおもに国営こくえい企業きぎょう民営みんえいによる新規しんき株式かぶしき公開こうかい(IPO)でおおくをまかなうことになっており、歳出さいしゅつ規模きぼ削減さくげんするというわけではない。また、インフラ整備せいびプロジェクトはおもにEUなどから資金しきん確定かくていして拠出きょしゅつされている。これまで国内こくないで9まんのプロジェクトに86おくユーロの支援しえんおこなわれ、1まん3,000もの一般いっぱん企業きぎょうすうせんキロの道路どうろ建設けんせつ鉄道てつどう路線ろせん各地かくち主要しゅようえき改修かいしゅうえ、無数むすう歴史れきしてき建造けんぞうぶつ遺跡いせき整備せいびといった事業じぎょうがEUから潤沢じゅんたく資金しきん援助えんじょけている。また、61まんにんのポーランドじん学生がくせい、260まんにん一般いっぱんのポーランドじんがEU資金しきん恩恵おんけいけている。2007ねんから2013ねんにかけてのあいだでポーランドがEUから補助ほじょきん事業じぎょう総数そうすうは、ドイツにいでヨーロッパだい2である[56]。このほかにEUからは農業のうぎょう補助ほじょきん行政ぎょうせい補助ほじょきんなどがポーランドへわたされている。ポーランド政府せいふが、「ポーランドへかえろう!」キャンペーンをって国外こくがいにいるポーランドじん帰国きこく熱心ねっしんうながしているのは、これらのだい事業じぎょうのために膨大ぼうだい人手ひとでがいるためである[57]

評価ひょうか順位じゅんい 編集へんしゅう

2010ねん、ECER-Banque Populaireが18かこく37都市としの4,500にんのCEOをふくむ17まんにん企業きぎょう対象たいしょうった調査ちょうさでは、欧州おうしゅうでもっともビジネスにてきした都市としだい3ワルシャワがランクインした(1フランクフルト、2マルメ、4ロンドン、5ブリュッセル)。この調査ちょうさではかく都市とし企業きぎょう精神せいしん育成いくせい起業きぎょう支援しえん経営けいえい支援しえん私的してき金融きんゆう体制たいせい公的こうてき金融きんゆう体制たいせい助成じょせいきん不動産ふどうさん生活せいかつしつ道路どうろ通信つうしんインフラなどの項目こうもく調査ちょうさされた。ワルシャワは全般ぜんぱんてきこう得点とくてんげたが、とく起業きぎょうへの支援しえん体制たいせいすぐれていると評価ひょうかされ、企業きぎょう精神せいしん育成いくせい部門ぶもん経営けいえい相談そうだん経営けいえいしゃ組織そしき、ウェブ、メディア)で6起業きぎょうした経営けいえいしゃたいする支援しえん部門ぶもん法律ほうりつ相談そうだん税務ぜいむ相談そうだん業務ぎょうむ支援しえん)で4となった。評価ひょうかがもっともひくかったのは環境かんきょう部門ぶもんで、評価ひょうか対象たいしょうとなったぜん37都市としのうち16であった。ポーランドでは現在げんざいドナルド・トゥスク政権せいけん与党よとう市民しみんプラットフォーム」の方針ほうしんとして、くにげてとく起業きぎょう支援しえん中小ちゅうしょう企業きぎょう育成いくせいちからそそいでおり、そのかず国内こくないぜん企業きぎょう半分はんぶんで、ぜん就労しゅうろうしゃの3ぶんの2を雇用こようし、GDPの80%をめている[58][59]

2015年版ねんばんフォーブスの「ビジネスに理想りそうてきくにランキング」、世界せかい146のくに地域ちいき対象たいしょうに、財産ざいさんけん保証ほしょうイノベーション多寡たか税率ぜいりつテクノロジー発展はってん具合ぐあい汚職おしょく有無うむ個人こじんてき自由じゆう通商つうしょう自由じゆう通貨つうか自由じゆう官僚かんりょう主義しゅぎ度合どあい、投資とうし保護ほご株価かぶか実績じっせきからなるぜん11の分野ぶんや評価ひょうかした結果けっか、ポーランドは40となった[60]

2018ねん国際こくさい連合れんごうは、平均へいきん余命よめい識字しきじりつ就学しゅうがくりつ国内こくないそう生産せいさんにより評価ひょうかする人間にんげん開発かいはつ指数しすう (HDI)加盟かめい193かこくのうちで0.87につけた[61]

税制ぜいせい 編集へんしゅう

法人ほうじんぜいは19%である。所得しょとくぜい非常ひじょう簡単かんたんな2段階だんかい累進るいしん課税かぜい方式ほうしきで、課税かぜい所得しょとくおうじて18%あるいは32%となっている。国内こくない経済けいざい悪化あっかのため税率ぜいりつ改正かいせいされ、付加ふか価値かちぜいは2011ねん1がつ1にちより23%を基本きほん税率ぜいりつとした複数ふくすう税率ぜいりつで、ほかに食品しょくひん農産物のうさんぶつ医薬品いやくひん建築けんちく資材しざい観光かんこうサービス、書籍しょせきなどにかかる8%、7%、5%の3つの税率ぜいりつがあり、対象たいしょう品目ひんもくによって税率ぜいりつことなる。

工業こうぎょう 編集へんしゅう

 
PESA(ペサ)しゃせいED-161がた
インターシティーよう大型おおがた旅客りょかく電車でんしゃ

EUないの「工場こうじょう」として、非常ひじょう多岐たきにわたるだい産業さんぎょうおこなわれている。とくパーソナルコンピュータテレビなどの情報じょうほう家電かでん生産せいさんさかんで、ヨーロッパのテレビ生産せいさんの3わりをポーランドがめている。乗用車じょうようしゃトラックバス路面ろめん電車でんしゃ鉄道てつどう車両しゃりょうなどの生産せいさんさかんで、ソラリスPESANewagなどといったポーランド地場じば企業きぎょう積極せっきょくてき外国がいこく進出しんしゅつしている。

小規模しょうきぼ手工業しゅこうぎょうにおいては、琥珀こはく製品せいひんクリスマスツリーのガラスのかざもの[62]生産せいさん世界一せかいいちで、日本にっぽんもこれらの製品せいひん多量たりょう輸入ゆにゅうしている。

農業のうぎょう 編集へんしゅう

付加ふか価値かちたか品目ひんもく生産せいさん 編集へんしゅう

国土こくど面積めんせきのうち、農地のうちめる面積めんせきは42.1%である。ポーランドの農業のうぎょう伝統でんとうてきだい規模きぼされておらず、やく90%が個人こじん農家のうかである。共産きょうさん主義しゅぎ時代じだいには集団しゅうだん農場のうじょう農地のうち国有こくゆうおこなわれた[16]

特筆とくひつすべき農産のうさん品目ひんもく 編集へんしゅう

ヨーロッパのじつに90%をめるヤマドリタケほんポルチーニだけ)、327まんトン(2010ねん)で世界せかいだい1生産せいさんりょうほこライ麦らいむぎ[63]、それぞれたかいシェアをつフランスエスカルゴ日本にっぽん馬肉ばにくおよび羽毛うもう、ポーランドが世界せかい収穫しゅうかくこう半分はんぶん同時どうじ世界せかい最大さいだい輸出ゆしゅつくにとなっているカシス(ブラックカラント、クロスグリ)や世界せかい最大さいだい輸出ゆしゅつだかげるイチゴといったベリーるい(ほかにラズベリー世界せかい4ビルベリー欧州おうしゅう2、そのセイヨウスグリクランベリーブラックベリーブルーベリーなどで世界せかいトップクラスの生産せいさんだか)などがある。

鉱業こうぎょう 編集へんしゅう

ポーランドは鉱物こうぶつ資源しげん豊富ほうふであり、石炭せきたん中心ちゅうしんとして多種たしゅ多様たよう非鉄ひてつ金属きんぞくめぐまれている。石炭せきたん生産せいさんりょう世界せかいだい8である。ポーランドのバルト海ばるとかい沿岸えんがん琥珀こはく世界せかい最大さいだい産地さんちで、グダンスクには世界せかい琥珀こはく製品せいひん製造せいぞうぎょうの85%が集中しゅうちゅうしている。

ヨーロッパではロシアにいで豊富ほうふ石炭せきたんや、自国じこく消費しょうひりょうの3ぶんの2をまかなう天然てんねんガスなどをゆうする。ほかにも重要じゅうよう鉱物こうぶつ資源しげんにおいて世界せかいシェアをゆうしている。また、国内こくない豊富ほうふ存在そんざいする石炭せきたんのガス技術ぎじゅつ石炭せきたんガス)の研究けんきゅう開発かいはつにも熱心ねっしんんでいる。

西南せいなんドルヌィ・シロンスクけんのクレトノ鉱山こうざんなどではウラン豊富ほうふ埋蔵まいぞうしており国内こくない原子力げんしりょく利用りよう長期ちょうきてきまかなえる。ポーランド国内こくないではこれまで原子力げんしりょく発電はつでんおこなわれていなかったが、近年きんねん原子力げんしりょく発電はつでん計画けいかく具体ぐたいしつつあり、2020ねんまでに最初さいしょ原子力げんしりょく発電はつでんしょ稼働かどうする見込みこみとなっている。

近年きんねんポーランドで巨大きょだいシェールガス埋蔵まいぞうりょう確認かくにんされている。そのりょうすくなく見積みつもってポーランドにおける天然てんねんガス消費しょうひりょうの300ねんぶん相当そうとうする5.3ちょうm3のぼるとられている。現在げんざい国内外こくないがい複数ふくすうのエネルギー企業きぎょう試掘しくつ申請しんせいしている。ポーランドのシェールガスは経済けいざいだけでなく国際こくさい政治せいじにおける勢力せいりょく地図ちず根底こんていからえる可能かのうせいがある。

日系にっけい企業きぎょう現地げんち進出しんしゅつじょうきょう 編集へんしゅう

2014ねん、ポーランドに進出しんしゅつしている日系にっけい企業きぎょうトヨタブリヂストンあじもとシャープ東芝とうしばなどやく261しゃ。そのほかのEUちゅう東欧とうおうくにへの進出しんしゅつは、チェコやく186しゃハンガリーやく140しゃルーマニアやく100しゃ[64]

ポーランドへの移民いみん労働ろうどうしゃ 編集へんしゅう

ウクライナじん 編集へんしゅう

公式こうしき統計とうけいでは、2009ねんには12まんにんウクライナじんがポーランドで就業しゅうぎょう登録とうろくしている。しかしこれは氷山ひょうざん一角いっかくぎず、後述こうじゅつのように正規せいきであっても未登録みとうろくだという場合ばあいもあるため正確せいかく規模きぼからない。ワルシャワ大学だいがく調査ちょうさによるとポーランド国内こくない最大さいだい移民いみんグループはウクライナじん女性じょせいで、彼女かのじょたちに家計かけいのすべてをたよ家庭かていがウクライナにはおおいという。彼女かのじょたちのほとんどは家政かせい清掃せいそう農産物のうさんぶつ収穫しゅうかくなどの単純たんじゅん労働ろうどういている。2007ねんにはポーランドの家庭かていの15%がウクライナ女性じょせい正規せいきメイドとしてやとったという。ウクライナロシアベラルーシモルドバの4かこく国民こくみんは6かげつ上限じょうげんとして、ポーランド政府せいふからの労働ろうどう許可きょかがなくてもポーランド国内こくないにおいて無条件むじょうけん登録とうろく就業しゅうぎょうすることがゆるされている[65]。2013ねんには、17まんにんのウクライナじん就労しゅうろう目的もくてきで1ねん未満みまん滞在たいざいし、永住えいじゅうは633にん[66]

ポーランドが近々ちかぢかロシアのカリーニングラードしゅうから、ロシアじん入国にゅうこくたいビザなし渡航とこう許可きょかすることをEUが懸念けねんしている。イギリスのテレグラフ新聞しんぶんによると、EU条例じょうれいはんし、ロシアじんをビザなしで入国にゅうこく許可きょかすることで、国境こっきょう検査けんさ撤廃てっぱいされたシェンゲン協定きょうてい他国たこく地域ちいきへもロシアじん不法ふほう入国にゅうこく不法ふほう移民いみん不法ふほう就労しゅうろう増加ぞうかし、そしてロシアなどからの格安かくやすタバコ密輸みつゆにより、EUは税金ぜいきんやく85おくポンドを損失そんしつする。一方いっぽうポーランドは、以前いぜんからウクライナにたい全面ぜんめんてきなビザなし渡航とこう許可きょかをしている。ポーランド政府せいふは「これによってウクライナからの密輸みつゆやウクライナじんによる犯罪はんざい行為こうい違法いほう就労しゅうろうがポーランド国内こくない増加ぞうかしたのは小規模しょうきぼでローカルだ。ビザなし渡航とこう許可きょかしただけで犯罪はんざいえることはない。かれらがおこな犯罪はんざいはせいぜいズボンにロシアのウォッカかくって密輸みつゆするぐらいのことであり、ましてやこのビザなし渡航とこう実施じっしによるロンドンパリへの悪影響あくえいきょうなど微々びびたるものだ」と主張しゅちょうした[67]

観光かんこう 編集へんしゅう

交通こうつう 編集へんしゅう

道路どうろ 編集へんしゅう

鉄道てつどう 編集へんしゅう

航空こうくう 編集へんしゅう

国民こくみん 編集へんしゅう

 
ポーランドの人口じんこうピラミッド
民族みんぞく構成こうせい(ポーランド)
ポーランドじん
  
94%
シレジアじん
  
6%
 
ポルカおど女性じょせい
 
伝統でんとう衣装いしょうまつわった人々ひとびと
 
マズル英語えいごばん(Mazur)をおど男女だんじょ

民族みんぞく 編集へんしゅう

2022ねん時点じてん人口じんこうやく3,801まんにん、97%がポーランドじんカシュープじんグラルじんふくむ)[68]少数しょうすう民族みんぞくは、1ばん人口じんこうおおシレジアじん、おもに東部とうぶ在住ざいじゅうするルーシじんウクライナじんベラルーシじんルシンじん)、リトアニアじんリプカ・タタールじんなどがいる。

中世ちゅうせいヤギェウォあさポーランド・リトアニア共和きょうわこくなどの東欧とうおう諸国しょこく連合れんごうこく時代じだいには民族みんぞく国家こっかであった。

ユダヤじん本格ほんかくてきなポーランド移住いじゅうだい1かい十字軍じゅうじぐんおこなわれた11世紀せいき初頭しょとうはじまった。都市とし促進そくしん政策せいさく一環いっかんとして、ユダヤじんもドイツじん一緒いっしょ招聘しょうへいされた。

ヨーロッパ各国かっこく中東ちゅうとうキリスト教徒きりすときょうとであるためにはげしく迫害はくがいされ、13世紀せいき布告ふこくされた「カリシュの法令ほうれい」と、東方とうほう植民しょくみんによるドイツ都市としほうマクデブルクほうによりユダヤじん権利けんり安全あんぜん保障ほしょうされていたため移住いじゅうした。

ホロコーストまでは、ポーランドには世界せかいの70%のユダヤじんがポーランドにみポーランド文化ぶんか影響えいきょうあたえたが、20世紀せいきはいってもユダヤきょう古来こらいおしえを実践じっせんしながら生活せいかつしていた伝統でんとうてきなユダヤじんたちのおおくはホロコーストにより虐殺ぎゃくさつされた。

おおくはホロコーストや共産きょうさん主義しゅぎはんユダヤ主義しゅぎけてアメリカ大陸あめりかたいりくイスラエルなどに移住いじゅうした。2010ねん国内こくないユダヤじん在住ざいじゅうしゃすうは3,200にんとなる[69]。ポーランドじんおおくは先祖せんぞサルマタイじんがいる[70]

国民こくみんのほぼすべてが母語ぼごポーランドとしている(ポーランド)、併合へいごうしたくに国民こくみんおおくの移民いみん政治せいじ難民なんみんれた過去かこのポーランド王国おうこく政策せいさく反映はんえいして、かれらの先祖せんぞ西にしスラブじんけいはらポーランドじん(レフじん)、シレジアじんリトアニアじんロシアじんルーシじんウクライナじんベラルーシじんルシンじん)、ルーシぞくヴァリャーグ)、ユダヤじんサルマタイじんタタールじんラトビアじんバルトじんスウェーデンじんチェコじんスロバキアじんドイツじんハンガリーじんロマじんアルメニアじんモンゴルけい民族みんぞくトルコけい民族みんぞくなど。家系かけいてきにもそれら民族みんぞくつうこんし、くに歴史れきし地理ちり文化ぶんかてきにも民族みんぞく伝統でんとう融合ゆうごうしていたり、たがいに同化どうか他国たこくにはない独特どくとくの「ポーランド文化ぶんか」とその国民こくみん心理しんり形成けいせいしている。

やく40まん種類しゅるいあるといわれるポーランドじんせいは、その語源ごげん先祖せんぞとなったこれらかく民族みんぞく出自しゅつじ名残なごりがられる。

そのため単一たんいつ民族みんぞく実際じっさいひがしちゅうおうでは民族みんぞくのるつぼでポーランドじんおおくはスラヴけいであると同時どうじに、民族みんぞく混血こんけつしている。

言語げんご 編集へんしゅう

 
「クロシニツァまち/クロシュニッツまちへようこそ!」の看板かんばん
ポーランドとドイツ併記へいきオポーレ近郊きんこう

ポーランド印欧語いんおうごスラヴ西にしスラヴぐんぞくする言語げんごで、チェコスロヴァキアうえソルブしもソルブなどと共通きょうつうのグループにぞくし、そのうち、カシューブなどとともにレヒト諸語しょご(レフ諸語しょご)を構成こうせいする。

表記ひょうきはロシアなどでもちいられるギリシャからつくられたキリル文字もじではなく、12世紀せいき導入どうにゅうしたラテン文字もじのアルファベットである。

少数しょうすう民族みんぞく語源ごげんには、イディッシュヘブライシレジアカライムルシンロマタタールがある。

かつてのポーランドでひろはなされていたルーシじんルーシぞくヴァリャーグ)のルーシだい世界せかい大戦たいせんホロコーストヴィスワ作戦さくせん国内こくないではほぼ消滅しょうめつしたとみられている。

外国がいこくは、英語えいご小学校しょうがっこう1ねんからの履修りしゅう科目かもくとなっていて、だい外国がいこくとしてドイツフランス語ふらんすご、ロシアなどがある。

歴史れきしてきドイツ語どいつごけんとの貿易ぼうえきその経済けいざい関係かんけいがあるため、標準ひょうじゅんドイツ履修りしゅうしゃ安定あんていしておおい。

きゅうドイツ領土りょうどなど南部なんぶオポーレ地方ちほうではドイツ地方ちほう公用こうようとしてみとめられ、交通こうつう標識ひょうしきなどはポーランドりょうかたり表記ひょうきされているが、住民じゅうみんのドイツはドイツ本土ほんど標準ひょうじゅんドイツとはかなりことなる方言ほうげんで、普段ふだん社会しゃかい生活せいかつでポーランド使つかう。

冷戦れいせん時代じだい、ロシアの支配しはいでのソ連それん義務ぎむ教育きょういくにより、1960年代ねんだい中期ちゅうき以前いぜんまれた世代せだいのポーランドじんはロシアするひとおおい。

1989ねん東欧とうおう革命かくめい共産きょうさん主義しゅぎ破壊はかいし、その1990年代ねんだいにロシア習得しゅうとくしゃすう激減げきげんした。

ロシアひがしスラヴぐん)はポーランド西にしスラヴぐん)とおなじくスラヴぞくし、ポーランド話者わしゃがロシア修得しゅうとくするのは比較的ひかくてき容易よういとされる。

リプカ・タタールじんは、ポーランドタタールはなさなくなっている。タタールじん家系かけいノーベル文学ぶんがくしょう受賞じゅしょうした小説しょうせつ叙事詩じょじしじんヘンリク・シェンキェヴィチはポーランド小説しょうせついた。

人工じんこう言語げんごエスペラントワルシャワ発祥はっしょうした。

婚姻こんいん 編集へんしゅう

一般いっぱんてきには結婚けっこん申請しんせいのち宣誓せんせいしきおこない、挙式きょしき決定けってい挙式きょしきとなる。

国際こくさい結婚けっこん場合ばあい民事みんじこん宗教しゅうきょうこんの2種類しゅるいがあり、民事みんじこん戸籍こせききょくおこなうが、宗教しゅうきょうこん教会きょうかいでの挙式きょしき戸籍こせききょく登録とうろくおこなっている。ポーランドでは、同性どうせいカップルは結婚けっこんできない。

ポーランドじん苗字みょうじ 編集へんしゅう

ポーランドじん苗字みょうじ非常ひじょうおおく、総数そうすう40まん以上いじょうのぼ[71]。ポーランドの人口じんこうは3,800まんにん程度ていどであることから、おな苗字みょうじひとかず平均へいきんすると100にん下回したまわることになる。NowakやKowalski(女性じょせいはKowalska)といった苗字みょうじひとがもっともおおいとされるが、それでも絶対ぜったいすう非常ひじょうすくなく、これらの苗字みょうじひと出会であうことはまれである。

おなせいでも男性だんせいがた女性じょせいがた活用かつよう語尾ごびことなることがある。婚姻こんいんさい男性だんせい自己じこせいもちつづけることがおおいが、法律ほうりつでは男性だんせい女性じょせいどちらでもせいえることができる。婚姻こんいんせいはどちらかのせい統一とういつしてもよいし(夫婦ふうふ同姓どうせい)、えなくてもよい(夫婦ふうふ別姓べっせい)し、婚姻こんいんまえ自分じぶんせいのち結婚けっこん相手あいてせいつなげてもよい(別姓べっせいふくあいせい[72]。ただしふくあいせいにする場合ばあい、3つ以上いじょうせいをつなげてはいけない[73](1964ねん)。

ポーランドせいには-ski(/〜スキ、女性じょせいは-ska/〜スカ)という語尾ごびおおい。この-skiというのは名詞めいし形容詞けいようしのように「〜の」という意味いみ使つか場合ばあい接尾せつびである。英語えいごの-ish(PolandにたいするPolish)やドイツの-isch(JapanにたいするJapanisch)などと同様どうようインド・ヨーロッパ語族ごぞく言語げんごがもともと共有きょうゆうする用法ようほうである。

たとえばWiśnia(意味いみは「さくら」)からWiśniowoあるいはWiśniow(意味いみは「さくらむら」)というむらめい派生はせいし、そこからWiśniewski(意味いみは「さくらむらの〜」)という意味いみせいまれる。Jan Wiśniewskiならば、意味いみは「さくらむらのジョンさん(Janは英語えいごのJohn)」となる。-skiの使つかかたはドイツのvon-やフランス語ふらんすごのde-などの使つかかたおなじであるため、中世ちゅうせいには外国がいこくじんけの人名じんめい紹介しょうかいでは、たとえばWiśniewskiの場合ばあいvon Wiśniowoやde Wiśniowoなどのような表記ひょうきられた(アルベルト・ブルゼフスキ記事きじ参照さんしょう)。

また、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくなど英語えいごけん国家こっか移住いじゅうすると、しばしば苗字みょうじをそのまま英語えいご翻訳ほんやくしたものを登録とうろくして使つかうようになる(NowakをNewman、KrawczykをTaylorに改名かいめいなど)。その結果けっか現地げんち社会しゃかい同化どうかしていく。

ポーランド国内こくない苗字みょうじ人口じんこう上位じょうい25(2018ねん)は以下いかとおり(男女だんじょべつ[74]

順位じゅんい 女性じょせい 人数にんずう
1 Nowak 90488
2 Kowalska 63003
3 Wiśniewska 49968
4 Wójcik 45041
5 Kowalczyk 44756
6 Kamińska 43032
7 Lewandowska 42678
8 Zielińska 41143
9 Szymańska 40438
10 Woźniak 40269
11 Dąbrowska 39357
12 Kozłowska 34082
13 Jankowska 31234
14 Wojciechowska 30420
15 Kwiatkowska 30382
16 Mazur 30179
17 Krawczyk 28818
18 Kaczmarek 28205
19 Piotrowska 27894
20 Grabowska 26305
21 Pawłowska 25009
22 Michalska 24891
23 Zając 24731
24 Król 24540
25 Jabłońska 22997
順位じゅんい 男性だんせい 人数にんずう
1 Nowak 92867
2 Kowalski 63635
3 Wiśniewski 50346
4 Wójcik 46052
5 Kowalczyk 45503
6 Kamiński 43473
7 Lewandowski 42170
8 Zieliński 41504
9 Woźniak 41101
10 Szymański 40648
11 Dąbrowski 39352
12 Kozłowski 34520
13 Jankowski 31405
14 Mazur 31271
15 Wojciechowski 30188
16 Kwiatkowski 30120
17 Krawczyk 29109
18 Kaczmarek 28620
19 Piotrowski 28035
20 Grabowski 26695
21 Zając 25955
22 Król 25395
23 Pawłowski 25315
24 Michalski 24790
25 Wróbel 23527

宗教しゅうきょう 編集へんしゅう

 
せいマリア教会きょうかいぬし祭壇さいだんクラクフ)、1489ねん完成かんせい
 
リーヘンだい聖堂せいどう(2004ねん完成かんせい)、世界せかい最大さいだいきゅう教会きょうかい建築けんちくとなっている

2020ねん推計すいけいによるとカトリック85%、正教会せいきょうかい1.3%、プロテスタント0.4%、その宗教しゅうきょう0.3%、不明ふめい12.9%となっている[75]

教育きょういく 編集へんしゅう

 
ワルシャワ大学だいがくしん図書館としょかん
 
クラクフ大学だいがくコレギウム・マイウス(ラテン語らてんご:「だいカレッジ」)、現在げんざい使用しようされている15世紀せいき建築けんちくぶつである

1999ねん9がつ1にちより、従来じゅうらいソ連それん方式ほうしきの8・4せいあらため、6・3・3せい移行いこうした。

教育きょういく水準すいじゅん 編集へんしゅう

ポーランドの特徴とくちょうのひとつはその教育きょういく水準すいじゅんにある。先進せんしんこくほどの所得しょとく水準すいじゅんでないにもかかわらず、2012ねん経済けいざい協力きょうりょく開発かいはつ機構きこうOECD生徒せいと学習がくしゅう到達とうたつ調査ちょうさ(PISA)の成績せいせきそうじてたかい。また国際こくさい数学すうがくコンペティション総合そうごう優勝ゆうしょう[76]たしたこともあった。

大学だいがく進学しんがくりつ 編集へんしゅう

2017ねんには、就職しゅうしょくなんのために若者わかものの68%がよんねんせい大学だいがく進学しんがくしていた(当時とうじ日本にっぽんは49%)[77]。この数字すうじはOECD加盟かめいこくでは8日本にっぽんは23)である。近年きんねんでは、若者わかものの95%が高校こうこう卒業そつぎょうしたのちにも、短大たんだいふくめた大学だいがくがた高等こうとう教育きょういくけることをのぞ希望きぼうしゃおおいという調査ちょうさ結果けっかもあり、教育きょういくねつ日本にっぽん韓国かんこく受験じゅけん戦争せんそう時代じだい以前いぜんから伝統でんとうてき非常ひじょうたか[78]。ポーランドの階級かいきゅう社会しゃかいでは、高卒こうそつ原則げんそくホワイトカラーしょくけない。これは、大学だいがく入試にゅうし倍率ばいりつきわめてたかいからである。しかし、2020年代ねんだいのポーランドは大学だいがく卒業そつぎょうしたところでおおくは就職しゅうしょくさきがなく、西欧せいおう先進せんしんこくなどへ労働ろうどう移民いみんしゃとし移住いじゅうしているのが現状げんじょうである[66]国立こくりつ大学だいがく授業じゅぎょうりょう無料むりょうでも、少子化しょうしか進行しんこうちゅうである。

IT教育きょういく熱心ねっしんくにのひとつで、2014ねん開催かいさいされただい1かいコーディング世界せかい大会たいかいではポーランドのチームが優勝ゆうしょうした[79][80]

 
ポーランドのまちども

保健ほけん 編集へんしゅう

平均へいきん寿命じゅみょうは77.1さい[81]。かつてはユニバーサルヘルスケア実現じつげんされていたが、ほう改正かいせいにより保険ほけんりょう不払ふばらしゃ資格しかく喪失そうしつするようになり、2013ねんには加入かにゅうりつ91.6%に転落てんらくした[81]

医療いりょう 編集へんしゅう

社会しゃかい 編集へんしゅう

隣国りんごくたいする感情かんじょう 編集へんしゅう

世論せろん調査ちょうさ会社かいしゃHomo Hominiが2010ねん12月にった調査ちょうさによると、ポーランドと陸続りくつづきで国境こっきょうせっする7かこくドイツチェコスロバキアウクライナベラルーシリトアニアロシア)すべての人々ひとびとのうち、ポーランドじんがもっとも親近しんきんかんつのは、じゅん以下いかのようであることがかった(複数ふくすう回答かいとう[82]

  1. チェコじん(39%)
  2. スロバキアじん(32%)
  3. ドイツじん(23%)
  4. リトアニアじん(21%)
  5. ロシアじん(15%)
  6. ウクライナじん(14%)
  7. ベラルーシじん(10%)

治安ちあん 編集へんしゅう

2013ねんにおける経済けいざい協力きょうりょく開発かいはつ機構きこう(OECD)加盟かめいこく治安ちあんランキングによると、ポーランドの治安ちあん安全あんぜんせいは、36かこくちゅう日本にっぽんいで2、3はイギリス[83]

OECD加盟かめい国内こくない人口じんこう10まんにんあたりの殺人さつじん発生はっせいりつ比較ひかくは、ポーランド(2010ねん)17、1.3けん日本にっぽん、0.5けん[84]

国連こくれんUNODCによる人口じんこう10まんにんあたりの発生はっせいりつでは、強盗ごうとうりつ(2012ねん)70かこくちゅう37、43.67けん日本にっぽんは64、2.87けん[85]

暴力ぼうりょく行為こうい発生はっせいりつひくく、OECD加盟かめいこくちゅうでもっともすくないほうから3[86]

観光かんこうガイドブックや外務省がいむしょう海外かいがい渡航とこう情報じょうほうのウェブサイトではポーランドの治安ちあんわるいような印象いんしょう読者どくしゃあたえるような記述きじゅつがされていることがおおいが、実際じっさいのところは上記じょうきのようにポーランドの犯罪はんざい被害ひがいまれで、アイルランドイギリスアイスランドエストニアオランダデンマークスイスベルギースウェーデンノルウェーといった、一般いっぱんに「治安ちあんがいい」とかんがえられている国々くにぐによりも犯罪はんざい被害ひがいりつひくいことは2000年代ねんだい前半ぜんはんからの事実じじつである[87]

このすでにひく犯罪はんざい被害ひがいりつでさえも年々ねんねんさらに急速きゅうそく低下ていかしており(2004ねんから2010ねんにかけての7年間ねんかんで25%の減少げんしょう)、ポーランドの警察けいさつへの国民こくみん信頼しんらい非常ひじょうたか[88]犯罪はんざい被害ひがいりつは2013ねんから2014ねんにかけての1年間ねんかんでもマイナス14%と劇的げきてき低下ていかられ、とく暴行ぼうこう器物きぶつ損壊そんかい強盗ごうとうはいずれも1年間ねんかんでマイナスやく20%の大幅おおはば低下ていかつづけている[89]

ポーランドじんにはヨーロッパじんのうち犯罪はんざい被害ひがいうのをもっともおそれる用心深ようじんぶか気質きしつがあるとされており[90]刑法けいほうでは、他人たにん大声おおごえののしったり侮蔑ぶべつてき言葉ことばげかけただけでも暴行ぼうこうざい成立せいりつする[91]

ヨーロッパじんあいだ定着ていちゃくした偏見へんけんデマるいとして、「ポーランドでは自動車じどうしゃ盗難とうなんおおい」とわれるが、実際じっさいのところポーランドの自動車じどうしゃ盗難とうなんりつイギリスデンマークアイルランドスペインポルトガルオランダアイスランドイタリアノルウェーなどといった国々くにぐによりひく[87]

ほう執行しっこう機関きかん 編集へんしゅう

警察けいさつ 編集へんしゅう

人権じんけん 編集へんしゅう

カトリックの影響えいきょうもあり、ヨーロッパでもっときびしい中絶ちゅうぜつ制限せいげんおこなっておりレイプ、近親きんしんかん母体ぼたい生命せいめい危機ききのぞいて禁止きんしされている[92]

国内こくない24の地方ちほううち20が与党よとうけい企業きぎょう支配しはいにあり、国会こっかいでの取材しゅざい制限せいげん[93]はん政府せいふてきなメディアへの攻撃こうげき[94]販売はんばいてん資本しほん制限せいげんなどをつうじた外国がいこくメディアへの圧力あつりょくなどがこっている[95]報道ほうどう自由じゆうは2013ねんの22から2020ねんには62低下ていかした[96]

マスコミ 編集へんしゅう

インターネット 編集へんしゅう

ポーランドはSNSの利用りようぜん世代せだいにわたって定着ていちゃくしている。世界せかいてき比較ひかくしてても、18 - 49さいにまでわたる世代せだいでポーランドよりもSNS利用りよう定着ていちゃくしているくにはイギリスしかなく、ポーランドは世界せかいだい2で、もちろんアメリカよりもたかい。ポーランドのSNS利用りようりつぜん世代せだいにわたってたかく、世界せかいてき高齢こうれいそう利用りようりつ世界せかい4たかいが、若年じゃくねんそう利用りようりつがそれ以上いじょうたかいため統計とうけいじょう世代せだいあいだおおきい結果けっかになるという特異とくい現象げんしょうきている[97]

ネットじょうのメディア 編集へんしゅう

既存きそん新聞しんぶんのインターネットばん充実じゅうじつしている。とく新聞しんぶん投稿とうこう歓迎かんげいしており、ほとんどの記事きじには投稿とうこうらんがついている。投稿とうこうらん文字数もじすう制限せいげんはないか、あるいは許容きょよう文字数もじすう非常ひじょうおおいため、読者どくしゃによる討論とうろん、あるいは記者きしゃまじえた討論とうろんさかんに、かつかなり真剣しんけんおこなわれている。ポーランドのぞいては英語えいごによる記事きじ討論とうろんおおい。この読者どくしゃたちが記者きしゃんで、真剣しんけんかつ誠実せいじつ討論とうろんをする傾向けいこうはポーランドではとく顕著けんちょられる。

インターネットじょうのメディアで英語えいごばんがもっとも充実じゅうじつしているのはポーランド国営こくえいラジオきょくのニュースサイト「Thenews.pl」である。

文化ぶんか 編集へんしゅう

しょく文化ぶんか 編集へんしゅう

ポーランド料理りょうりは、基本きほんてきには家庭かてい料理りょうりおもで、宴会えんかい料理りょうり狩猟しゅりょう料理りょうり(ビゴスなど)などがある。歴史れきしてきおおくの民族みんぞくからの影響えいきょうがあり、類似るいじする料理りょうりはおもに東欧とうおう、そのほかドイツ、オーストリアとユダヤ料理りょうりとなる[98]周辺しゅうへんのさまざまな民族みんぞくしょく習慣しゅうかんがポーランド文化ぶんかまじわる。一般いっぱんてきには、味付あじつけは質素しっそでも料理りょうりりょうおおく、ほぼすべてが農耕のうこうこくであったひがしヨーロッパ伝統でんとう逸脱いつだつしていない。ローストした大量たいりょうにくかたまりばかりではなく、キャベツ野菜やさい主食しゅしょくイモおお使つかう。基本きほんの4種類しゅるいのハーブやスパイスを使つかった料理りょうりもよくあるが、おもにクリームじょう濃厚のうこうなソースを頻繁ひんぱん使つかう。寒冷かんれい地方ちほう特有とくゆうこう塩分えんぶんしょくで、脂身あぶらみ、ラードやバターをおお使用しようする料理りょうりである。

文学ぶんがく 編集へんしゅう

「ポーランド文学ぶんがく」といえば一般いっぱんポーランド文学ぶんがくすが、ポーランドの文学ぶんがく伝統でんとうはかつてのポーランド=リトアニア共和きょうわこくにおける民族みんぞく社会しゃかい反映はんえいし、ポーランドだけでなく、ラテン語らてんごイディッシュリトアニアウクライナベラルーシドイツエスペラントといった、おおくの言語げんごによる多様たようせい特徴とくちょうとしている。ここではおもにポーランド文学ぶんがくについてべる。 中世ちゅうせいポーランドにおいては当初とうしょラテン語らてんごによる記述きじゅつ主流しゅりゅうであった。ポーランドじんによってラテン語らてんごかれたほんで、現存げんそんするもののうちもっともふるいものは、13世紀せいき歴史れきしクラクフ司教しきょうでもあったヴィンツェンティ・カドゥウベックによる年代ねんだいである。ポーランドによる記述きじゅつ現存げんそんするもののうちもっともふるいものは、13世紀せいきなかばにドイツじん修道院しゅうどういんちょうによってかれたラテン語らてんご年代ねんだいあらわれる、12世紀せいきヴロツワフおおやけボレスワフ1せいきさきにかけたという「ぼくがこなくから、きみはやすみなさい("Day ut ia pobrusa, a ti poziwai")」というろうわりの言葉ことばである。このころからふるいポーランドによる記述きじゅつおおあらわれるようになった。

15世紀せいきはいると、カトリック司祭しさい年代ねんだい作者さくしゃでもあるヤン・ドゥウゴシュ文筆ぶんぴつ活動かつどうがポーランドにおける文学ぶんがく発展はってんおおきく寄与きよした。1470ねんごろにはポーランドでもっとも初期しょき複数ふくすう印刷いんさつ工場こうじょう業務ぎょうむはじめている。これにつづいてルネサンス時代じだいがポーランドでもはじまり、以後いご言葉ことばとしてもポーランドがポーランドにおける主流しゅりゅうとなった。この時代じだいにポーランド文学ぶんがく発展はってんにもっとも貢献こうけんしたのは詩人しじんヤン・コハノフスキで、かれつくったおおくのがポーランド標準ひょうじゅんてき語法ごほう認識にんしきされるようになった。コハノフスキは19世紀せいき以前いぜんスラヴじん世界せかいにおけるもっとも偉大いだいなる詩人しじんであると評価ひょうかされている[99]つづバロック時代じだい啓蒙けいもう時代じだいつうじてポーランド文学ぶんがく発展はってんしたが、ポーランド分割ぶんかつによってポーランド=リトアニア共和きょうわこく消滅しょうめつしたあとは、他国たこく支配しはいたいするポーランド独立どくりつ運動うんどう意識いしきむすびついて非常ひじょう独特どくとくロマン文学ぶんがく発展はってんることになる。この「ポーランド・ロマン」の代表だいひょうとされるのがアダム・ミツキェヴィチである。ポーランドの国民こくみんてき叙事詩じょじし『パン・タデウシュ』はきん現代げんだいポーランドの苦難くなん時代じだいにもつね愛読あいどくされ、1999ねんアンジェイ・ワイダによって『パン・タデウシュ物語ものがたり』(日本語にほんごだい)として映画えいがされた。ポーランド立憲りっけん王国おうこくふるリトアニア大公たいこうこくかく地域ちいきおこなわれた、きゅうポーランド=リトアニア共和きょうわこく復活ふっかつ運動うんどうであるたいロシア帝国ていこく1がつ蜂起ほうきが1864ねんにロシアぐんによって残酷ざんこく鎮圧ちんあつされるとポーランドにおけるロマンながれは衰退すいたいし、実証じっしょう主義しゅぎ時代じだいとなる。ポーランド実証じっしょう主義しゅぎ文学ぶんがくしゃのうちもっともひろられているのは『クオ・ヴァディス』(のちにマーヴィン・ルロイ監督かんとくによってアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくハリウッド同名どうめい映画えいが)の作者さくしゃヘンリク・シェンキェヴィチと、『農民のうみん』の作者さくしゃヴワディスワフ・レイモントという、2人ふたりノーベル文学ぶんがくしょう受賞じゅしょうしゃである。またこの時代じだいは、当時とうじのポーランド社会しゃかいおお存在そんざいしたユダヤじんコミュニティーを中心ちゅうしんイディッシュ文学ぶんがくおお発表はっぴょうされるようになり、ブルーノ・シュルツイツホク・レイブシュ・ペレツなどはおおくの人気にんき作品さくひんのこした。 一方いっぽう、このポーランドの苦難くなん時代じだいおおくのポーランドじん海外かいがい生活せいかつするようになったが、没落ぼつらくシュラフタ(ポーランド貴族きぞく)のテオドル・ユゼフ=コンラート・コジェニョフスキは船乗ふなのりとしての生活せいかつのあとイギリス定住ていじゅうして英語えいご小説しょうせついて次々つぎつぎ発表はっぴょうし、現代げんだい英国えいこく文学ぶんがく代表だいひょうてき文豪ぶんごう1人ひとりとして、ジョセフ・コンラッド筆名ひつめいによって世界中せかいじゅうあいされている。コンラッドの作品さくひんおおくはアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくやイギリスで映画えいがされているが、たとえば『やみおく』と『決闘けっとうしゃたち』は、それぞれフランシス・コッポラ監督かんとく映画えいが地獄じごく黙示録もくしろく』、リドリー・スコット監督かんとくの『デュエリスト/決闘けっとうしゃ』の原作げんさくである。

だい世界せかい大戦たいせんて、共産きょうさん主義しゅぎ時代じだいから民主みんしゅまでの抑圧よくあつ時代じだい文学ぶんがくはん体制たいせい運動うんどう主流しゅりゅうとなる。体制たいせいがわ体裁ていさいをとった「わかきポーランド」とばれる文学ぶんがく運動うんどう巧妙こうみょうはん体制たいせい活動かつどう側面そくめんがあった。この時代じだい代表だいひょう詩人しじんチェスワフ・ミウォシュと、おなじく詩人しじん日本にっぽん歌川うたがわ広重ひろしげ浮世絵うきよえ触発しょくはつされた詩作しさく世界せかいてき有名ゆうめいとなったヴィスワヴァ・シンボルスカという2人ふたりノーベル文学ぶんがくしょう受賞じゅしょうしゃ、さらに小説しょうせつはいとダイヤモンド』(アンジェイ・ワイダによって同名どうめい映画えいが)の作者さくしゃとして有名ゆうめいイェジ・アンジェイェフスキ、『尼僧にそうヨアンナ』 (イェジー・カヴァレロヴィチ監督かんとくによって同名どうめい映画えいが)の作者さくしゃとしてられるヤロスワフ・イヴァシュキェヴィッチなどがいる。また空想くうそう科学かがく文学ぶんがく(サイエンス・フィクション)の分野ぶんやではスタニスワフ・レムしん地平ちへいひらき、代表だいひょうさくソラリスののもとに』は『惑星わくせいソラリス』としてソ連それんアンドレイ・タルコフスキーよって、さらに『ソラリス』としてアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくスティーヴン・ソダーバーグによってそれぞれ映画えいがされたことで世界せかいてきられている。

この時代じだい共産きょうさん主義しゅぎ体制たいせいきら外国がいこく亡命ぼうめいするひと続出ぞくしゅつしたが、こういった人々ひとびとなかには、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく移住いじゅうしそこで英語えいご小説しょうせつおおいて現代げんだいアメリカ文学ぶんがく前衛ぜんえいてき存在そんざいとなり、『異境いきょう原題げんだい:Steps)』や『庭師にわし ただそこにいるだけのひと原題げんだい:Being There)』(ハル・アシュビー監督かんとくピーター・セラーズ主演しゅえんで『チャンス』として映画えいが)など、現在げんざいでもその作品さくひん若者わかもの中心ちゅうしんカルトてき人気にんき獲得かくとくしている、ユダヤけいポーランドじんジャージ・コジンスキーとしてられるイェジ・コシンスキなどがいる。

またこの時代じだいよりポーランド現代げんだい文学ぶんがく特色とくしょくであるノンフィクション文学ぶんがく勃興ぼっこうした。その代表だいひょうとしては、日本にっぽんでも『サッカー戦争せんそう』や『帝国ていこく』などの著作ちょさくられ、世界中せかいじゅうで「20世紀せいきのもっとも偉大いだいなジャーナリスト」(えいガーディアンかみ[100][101]、「世界せかいでもっとも偉大いだい報道ほうどう記者きしゃ」(どくシュピーゲルかみ)、「現代げんだいヘロドトス」(どくフランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥングかみ[102]などと評価ひょうかされる、リシャルト・カプシチンスキがいる。

音楽おんがく 編集へんしゅう

ポーランド音楽おんがく理論りろんてき発展はってんのもっとも初期しょき13世紀せいきノートルダムらく影響えいきょうけ、この時代じだい楽譜がくふがポーランド南部なんぶまち発見はっけんされる。宗教しゅうきょう音楽おんがくは『ボグロジツァ英語えいごばんかみはは)』の歌曲かきょくがこの時代じだいつくられたものと推定すいていされている。このきょくポーランド王国おうこくリトアニア大公たいこうこくプロイセン連合れんごう同盟どうめいしてドイツ騎士きしだんった1410ねんグルンヴァルトのたたかでも合戦かっせんさいうたわれたとつたえられる。『ブーク・シェン・ロージ英語えいごばんかみまれる)』は歴代れきだいポーランドおう戴冠たいかんするとき演奏えんそうされたポロネーズきょくで、1792ねんにはフランチシェク・カルピンスキ英語えいごばんによってポーランドのクリスマス・キャロルとしての歌詞かしつくられた。

16世紀せいきになるとポーランド音楽おんがく急速きゅうそく発展はってんした。クラクフ王宮おうきゅうであるヴァヴェルじょう宮廷きゅうてい音楽家おんがくかたちが活躍かつやくした。5さい家族かぞくとともにイタリアからポーランド王国おうこく移住いじゅうしてポーランドに帰化きかしたディオメデス・カトー英語えいごばんは、親戚しんせきとおしてイタリアの最新さいしん音楽おんがく情報じょうほう、これをポーランド音楽おんがく応用おうようしていった。王国おうこく首都しゅとワルシャワうつされた16世紀せいきわりごろより多数たすうのイタリアじん音楽家おんがくかがポーランドに長期ちょうき滞在たいざいするあいだ社交しゃこう参加さんかし、演奏えんそうかい講義こうぎをした。ポーランドの音楽家おんがくかたちはバロック音楽おんがくのスタイル、最新さいしん楽器がっきつうそう低音ていおんといった技法ぎほうなどの情報じょうほうおおいに刺激しげきされた。17世紀せいき初頭しょとうからはイタリアの影響えいきょうけてオペラさかんに製作せいさくされるようになり、ワルシャワは音楽おんがく文化ぶんか舞台ぶたい文化ぶんか一大いちだい中心ちゅうしんとして発展はってんしていった。しかし、ポーランド王国おうこく国力こくりょく急速きゅうそく衰退すいたいしていった17世紀せいきわりごろよりポーランド音楽おんがくおおくの部分ぶぶん停滞ていたいした。 ポーランドの民俗みんぞく音楽おんがくについては19世紀せいきよりきょく収集しゅうしゅう整理せいりおこなわれた。オスカル・コルベルク英語えいごばんはポーランド文化ぶんか復興ふっこう目指めざして熱心ねっしん各地かくちしゅうってきょく収集しゅうしゅう20世紀せいきなかばにポーランドが共産きょうさん主義しゅぎ体制たいせいとなると民俗みんぞく音楽おんがくかんしても国営こくえい音楽おんがく舞踊団ぶようだん数多かずおお結成けっせいされた。マゾフシェ音楽おんがく舞踊団ぶようだんシロンスク音楽おんがく舞踊団ぶようだん共産きょうさん主義しゅぎ過去かこのものとなった現在げんざいにおいても活動かつどうしている。これらの団体だんたいかく地方ちほう民俗みんぞく音楽おんがくをまとめてあつかうため、地方ちほうせいうす側面そくめんがあるといわれるが、外国がいこくじんにとってはコンサートホールでポーランドの伝統でんとう音楽おんがくれる機会きかい提供ていきょうしている。現在げんざいのポーランド各地かくちにはかくコミュニティー自発じはつてき音楽おんがく舞踊団ぶようだん存在そんざいしており、国営こくえい音楽おんがく舞踊団ぶようだんほどだい規模きぼ演奏えんそうではないものの、地方ちほうしょくゆたかな音楽おんがく文化ぶんかせてくれる。ポーランド国内こくない各地かくち民俗みんぞく音楽おんがくさい頻繁ひんぱん開催かいさいされ、そのようなかれ小規模しょうきぼ音楽おんがく舞踊団ぶようだん活躍かつやくしている。

フレデリック・ショパンは、マズルカポロネーズ在住ざいじゅうこくフランスで作曲さっきょくした。3拍子ひょうしのダンスはおもに北東ほくとうで、2拍子ひょうしのダンスは南部なんぶでよくられる。ポロネーズはもともとポーランド貴族きぞく舞踏ぶとうかい演奏えんそうされるもので、フランス語ふらんすごで「ポーランドふう(のダンス音楽おんがく)」で、ポーランドでは「ホゾーニ(Chodzony)」とばれるゆったりとしたリズムの絢爛けんらんなダンス音楽おんがくである。ポーランド貴族きぞくたちの舞踏ぶとうかい宴会えんかい参加さんかしゃ入場にゅうじょうするさい演奏えんそうされ、このリズムにって貴族きぞくたちがそれぞれ男女だんじょペアとなりうでんで、ひかしつから会場かいじょうへとゆったりおどりながら入場にゅうじょう着席ちゃくせきするのである。その、ポロネーズはポーランドにおいてもくにちゅうひろまった。 ポーランド南部なんぶまちザコパネ中心ちゅうしんとする山岳さんがく地方ちほう一帯いったいは「ポトハレ地方ちほう」とばれ、ここでは19世紀せいきよりポーランドの芸術げいじゅつ中心ちゅうしんのひとつとなった。民俗みんぞく芸術げいじゅつだけでなく、現代げんだい音楽おんがく作曲さっきょくカロル・シマノフスキはこの地方ちほう住民じゅうみんである「グラルじん(「やまひと」という意味いみ)」の民俗みんぞく音楽おんがく収集しゅうしゅうや、それをモチーフとした作曲さっきょくおこなっている。かれらは弦楽器げんがっきバグパイプもちいてさかんに音楽おんがく演奏えんそうする習慣しゅうかんがあり、現代げんだいではヴァイオリンチェロ多用たようする。またかれらはリディアンモードの音階おんかいもちい、うたうときにはこれによく独特どくとく歌唱かしょうほうであるリディゾヴァニェを使つかう。ダンス音楽おんがくのクシェサニィ(krzesany)ははやうごきを必要ひつようとするもので、また「山賊さんぞくおどり」という意味いみのズブイニツキ(zbójnicki)はこの地方ちほう独特どくとくのダンスである。

19世紀せいき初頭しょとうになるとポーランドのクラシック音楽おんがくのスタイルが確立かくりつされた。ユゼフ・エルスネルフレデリック・ショパンイグナツィ・ドブジンスキ英語えいごばんそだてた。カロル・クルピンスキ英語えいごばんスタニスワフ・モニューシュコはポーランドのオペラ音楽おんがく発展はってんさせた。また、1833ねん2がつには当時とうじ世界せかい最大さいだい音楽おんがく施設しせつであるワルシャワだい劇場げきじょう完成かんせいし、こけらとしとしてジョアキーノ・ロッシーニのオペラ『セビリアの理髪りはつ』がえんじられた。ヘンリク・ヴィエニャフスキユリウシュ・ザレンプスキがおもな作曲さっきょくげられ、テクラ・バダジェフスカはアマチュアで17さいで『乙女おとめいのり』がフランスでられたとされる。

  "乙女おとめいのり"[ヘルプ/ファイル],
MIDI, 3:05 minutes, 13 KB

19世紀せいきまつから20世紀せいき初頭しょとうにはヴワディスワフ・ジェレンスキミェチスワフ・カルウォーヴィチカロル・シマノフスキ伝説でんせつのピアニストイグナツィ・パデレフスキだいいち大戦たいせんのち独立どくりつ回復かいふくしたポーランド共和きょうわこく首相しゅしょうとなった。ヨーゼフ・コフラーじゅうおと技法ぎほう開拓かいたくした。

だいいち大戦たいせん時代じだいわか音楽家おんがくかたちが芸術げいじゅつ運動うんどう開始かいしし、グラジナ・バツェヴィチジグムント・ミチェルスキ英語えいごばんミハウ・スピサックポーランドばんタデウシュ・シェリゴフスキなどが活躍かつやくした。イグナツィ・パデレフスキは政治せいじとしての活動かつどうとうじた。映画えいが戦場せんじょうのピアニスト』の主人公しゅじんこうとして有名ゆうめいウワディスワフ・シュピルマン大衆たいしゅう音楽おんがく作曲さっきょくジャズ調しらべ歌謡かようきょく『ワルシャワのあかいバス(Czerwony Autobus)』がある。

だい大戦たいせん社会しゃかい主義しゅぎ時代じだいタデウシュ・バイルトボグスワフ・シェッフェルヴウォジミェシュ・コトンスキ英語えいごばんヴィトルト・シャロネック英語えいごばんクシシュトフ・ペンデレツキヴィトルト・ルトスワフスキヴォイチェフ・キラールカジミェシュ・セロツキヘンリク=ミコワイ・グレツキクシシュトフ・メイエルパヴェウ・シマンスキクシェシミール・デンプスキ英語えいごばんハンナ・クルエンティ英語えいごばんエウゲニウシュ・クナピック英語えいごばんパヴェウ・ミキェティン英語えいごばんなどが活躍かつやくした。ジャズではクシシュトフ・コメダ同国どうこく出身しゅっしんのユダヤけいロマン・ポランスキー監督かんとく映画えいがローズマリーのあかちゃん』の映画えいが音楽おんがく担当たんとうした。 5ねんいちひらかれるワルシャワのショパンコンクールソポト国際こくさい音楽おんがくさいはもっともよくられたポーランド音楽おんがくれいである。 また、プシスタネック・ウッドストック英語えいごばん(Przystanek Woodstock -「ウッドストック・バスストップ」の)はヨーロッパの屋外おくがい音楽おんがくイベントである。2010ねん8がつ1にちにはポーランドをふくむヨーロッパやアメリカなどからあつまった615にんのミュージシャンたちがリサイクルしなつくった楽器がっき同時どうじ演奏えんそうし、これが記録きろくとしてギネスブックることになった[103][104]ヴロツワフジミ・フェスティバル(Jimi Festival)[105]では毎年まいとし世界中せかいじゅうからすうせんにんジミー・ヘンドリックスのファンがあつまり、ヴロツワフのきゅう市街しがい広場ひろばで「Hey Joe」を演奏えんそうする。2009ねんには6300にん参加さんか世界せかいでもっともおお人数にんずうによるギターの合奏がっそうとしてギネスブック登録とうろくされたジミ・フェスティバルが、その毎年まいとしこのまつりはギネス記録きろく更新こうしんつづけ、2014ねん5がつ大会たいかいでは7,344にんが「Hey Joe」を演奏えんそうし、自分じぶんたちが昨年さくねんてたギネス記録きろく(7,273にん)をえている。オポーレ国民こくみん音楽おんがくさい英語えいごばんはおもにポーランド国内こくない各地かくちからすうおおくの民俗みんぞく音楽おんがくだんオポーレあつまる、まだ共産きょうさん主義しゅぎであった1980年代ねんだいのうちにすでに民俗みんぞく音楽おんがく部門ぶもんのほかにロック部門ぶもんヒップホップ部門ぶもんがある。

現在げんざいも、ポーランドのわか作曲さっきょく創作そうさくりょくおとろえておらず、アガタ・ズベルマーチン・スタンチックドミニク・カルスキアルトゥール・ザガイェフスキらは国際こくさいてき認知にんちがある[106][107][108]

美術びじゅつ 編集へんしゅう

ポーランドの芸術げいじゅつは、その独自どくじ特徴とくちょう保持ほじしながら、屡々しばしばヨーロッパの傾向けいこう反映はんえいして歴史れきしつ。ヤン・マテイコによってされたクラクフ学派がくは歴史れきし絵画かいがは、ポーランドの歴史れきし全体ぜんたいわた重要じゅうよう出来事できごと当時とうじ習慣しゅうかんなどの記述きじゅつてき描写びょうしゃしている。

漫画まんが 編集へんしゅう

映画えいが 編集へんしゅう

被服ひふく服飾ふくしょく 編集へんしゅう

建築けんちく住居じゅうきょ 編集へんしゅう

ポーランド国内こくない都市とし中心ちゅうしん中世ちゅうせい街並まちなみが保存ほぞん維持いじされているが、外縁がいえん風景ふうけい共通きょうつうするのはきゅう共産きょうさんけんによくられる四角しかく灰色はいいろのアパートぐんおおい。これはきゅう体制たいせい時代じだい建設けんせつされたもので、戦後せんご人口じんこう増加ぞうか対策たいさくとしてわせにつくられたものである。こじんまりして、各戸かっこおおくが前面ぜんめんこうめん両方りょうほうまどがある、欧州おうしゅうさむ地方ちほうによくある防寒ぼうかんのためじゅうまどであったり、セントラルヒーティングシステムがついている。物資ぶっし不足ふそく共産きょうさん主義しゅぎ反映はんえいし、かべうす建物たてものもあり、近代きんだいてきではなく、使つか勝手がってはあまり機能きのうてきではない。ちかくにはなんけんかのみせ酒屋さかや大衆たいしゅう食堂しょくどう、バスやトラムの停留所ていりゅうじょ公園こうえん・カトリック教会きょうかいがあるように設計せっけいされている。しかし一方いっぽう、そういった近代きんだいアパートの存在そんざいがポーランドのよき文化ぶんかてき伝統でんとうたいする脅威きょういとなっているとの社会しゃかいがくてき非難ひなんがある。地区ちくカトリック教会きょうかいがある程度ていど人々ひとびとむすびつけている。

首都しゅとワルシャワかんしては、いま共産きょうさんけん時代じだい灰色はいいろのビルが中心ちゅうしんがい数多かずおおのこっている。高度こうど成長せいちょう背景はいけいに、一部いちぶでは複数ふくすう不動産ふどうさん開発かいはつ業者ぎょうしゃがビジネスがい富裕ふゆうそうマンションオフィスホテルふくあい施設しせつ建設けんせつすることになっており、今後こんごすうねんあいだ多数たすう高層こうそうビルあらたに出現しゅつげんすることになっている[109]

世界せかい遺産いさん 編集へんしゅう

ポーランド国内こくないには、ユネスコ世界せかい遺産いさんリストに登録とうろくされた文化ぶんか遺産いさんが12けんある(そのうちドイツとにまたがっているものが1けん)。ベラルーシとにまたがって1けん自然しぜん遺産いさん登録とうろくされている。

史上しじょうだい1ごう世界せかい文化ぶんか遺産いさんリスト登録とうろくぜん8けんのうち2けんクラクフ歴史れきし地区ちくヴィエリチカ岩塩がんえんあな)がポーランドにある。

現在げんざい世界せかい遺産いさん暫定ざんていリストに4けん登録とうろくされている(そのうち1けん現在げんざい登録とうろくされている自然しぜん遺産いさん拡張かくちょうである)。

祝祭日しゅくさいじつ年間ねんかん行事ぎょうじ 編集へんしゅう

日付ひづけ 日本語にほんご表記ひょうき 現地げんち表記ひょうき 備考びこう
1がつ1にち 元日がんじつ Nowy Rok 新年しんねん。ニューイヤーパーティーなどが盛大せいだいおこなわれる。(きゅう
1がつ6にち 3にん博士はかせ Trzech Króli さんにん博士はかせがイエス・キリストにいにたのを記念きねんする
1がつ21にち・1がつ22にち おばあちゃんの・おじいちゃんの Dzień Babci・Dzień Dziadka 21にちがおばあちゃんので22にちがおじいちゃんの
移動いどう祝祭日しゅくさいじつ あぶら木曜日もくようび Tłusty Czwartek あぶらっこいものをべる。2がつ中旬ちゅうじゅん謝肉祭しゃにくさい直前ちょくぜん木曜もくよう
移動いどう祝祭日しゅくさいじつ 復活ふっかつさい Wielkanoc はる満月まんげつ最初さいしょ日曜日にちようび翌日よくじつ月曜日げつようびキリスト復活ふっかついわ。クリスマスとならおおきな祭日さいじつ。2007ねんは4がつ8にちと9にち。(きゅう
5月1にち メーデー Święto Pracy きゅう
5月3にち 5月3にち憲法けんぽう記念きねん Rocznica Konstytucji 3 maja 1791ねん制定せいていされた憲法けんぽう記念きねんする。※ヨーロッパではじめての憲法けんぽうきゅう
5月26にち はは Dzień Matki
移動いどう祝祭日しゅくさいじつ 聖霊せいれい降臨こうりん祝日しゅくじつ Zielone Świątki 復活ふっかつさいの7かい日曜日にちようび聖霊せいれい使徒しとたちのうえくだったことを記念きねん。2007ねんは5月27にちきゅう
6月1にち 子供こども Dzień Dziecka
移動いどう祝祭日しゅくさいじつ 聖体せいたい祝日しゅくじつ Boże Ciało 聖霊せいれい降臨こうりんぶし10日とおか木曜日もくようび最後さいご晩餐ばんさん記念きねんする。2009ねんは6がつ11にちきゅう
6月23にち ちち Dzień Ojca
8がつ15にち 聖母せいぼ昇天しょうてん祝日しゅくじつ Wniebowzięcie Najświętszej Marii Panny チェンストホーヴァ (Częstochowa) にあるヤスナ・グラ寺院じいん (Jasna Góra) へ、ポーランド各地かくちからだい規模きぼ巡礼じゅんれいおこなわれる。(きゅう
11月1にち しょ聖人せいじん Wszystkich Świętych しょ聖人せいじんまつ墓地ぼち家族かぞく親類しんるいはかにろうそくをく(日本にっぽんうおぼん)。 (きゅう
11月2にち 死者ししゃ Zaduszki 祖先そせんれい供養くようする
11月11にち 独立記念日どくりつきねんび Narodowe Święto Niepodległości ロシアドイツオーストリアからの独立どくりつ記念きねんする。(きゅう
12月6にち サンタクロース Mikołajki Mikołaj(Nicolaus=サンタクロース)のとされ、子供こどもたちにプレゼントがあたえられる。
12月24にち キリスト降誕祭こうたんさい前夜ぜんやクリスマス・イヴ Wigilia Bożego Narodzenia 教会きょうかいミサおこなう。基本きほんてき日本にっぽんのクリスマス・イヴとはちが家族かぞくごす(日本にっぽんのお正月しょうがつのような雰囲気ふんいき)。このにくべてはいけないというならわしがあり、伝統でんとうてきこいべる。
12月25にち〜12月26にち キリスト降誕祭こうたんさいクリスマス Boże Narodzenie クリスマスの親戚しんせき家族かぞくあつまる。(きゅう
12月31にち シルヴェスターのよる Sylwester 大晦日おおみそかたるが、日本にっぽんのものとはことなる。家族かぞく親戚しんせき友人ゆうじんでパーティーをもよおしたり、夜中よなかの12花火はなびばしたりする。

※(きゅう)は休日きゅうじつ

スポーツ 編集へんしゅう

 
UEFA EURO 2012ポーランドたいチェコ

ポーランドでもヨーロッパ諸国しょこく同様どうようサッカーもっと人気にんきスポーツとなっており、2012ねんにはウクライナとの共催きょうさいによってUEFA EURO 2012開催かいさいされた。

さらに近年きんねんでは、自国じこく総合そうごう格闘技かくとうぎ団体だんたいKSW影響えいきょうMMA人気にんきたかまっており、UFCではもとライトヘビーきゅう王者おうじゃであるヤン・ブラホヴィッチもとストローきゅう王者おうじゃヨアナ・イェンジェイチック輩出はいしゅつしている。

他方たほうで、アダム・マリシュカミル・ストッフなどの活躍かつやくにより、スキージャンプがりをみせている。

サッカー 編集へんしゅう

 
ロベルト・レヴァンドフスキ (2018ねん)

ポーランドでは、1926ねんにプロサッカーリーグのエクストラクラサ創設そうせつされた。ポーランドサッカー協会きょうかい(PZPN)によって構成こうせいされるサッカーポーランド代表だいひょうは、FIFAワールドカップには9出場しゅつじょうれきがあり、1974ねん大会たいかい1982ねん大会たいかいでは3かがやいている。UEFA欧州おうしゅう選手権せんしゅけんには4出場しゅつじょうれきがあり、2016ねん大会たいかいではベスト8の成績せいせきおさめた。

ポーランドにおけるもっと著名ちょめいなアスリートとして、ロベルト・レヴァンドフスキげられる。レヴァンドフスキは、これまでドイツブンデスリーガ得点とくてんおうを7受賞じゅしょうゲルト・ミュラーえ、どうリーグにおける1シーズンでの最多さいた得点とくてん記録きろく(41てん保持ほじしゃである[110]UEFAチャンピオンズリーグにおいても、2019-20シーズン自身じしんはつ得点とくてんおうかがやいている[111]

バレーボール 編集へんしゅう

ポーランドではサッカーのほかバレーボール人気にんきのあるスポーツとなっており、なかでも男子だんし代表だいひょう東欧とうおう古豪こごうとしてられ、[1976ねんモントリオールオリンピック]できんメダル、世界せかい選手権せんしゅけんでは3かい優勝ゆうしょう欧州おうしゅう選手権せんしゅけんでは1かい優勝ゆうしょうほこり、強豪きょうごうこく一角いっかくをなしている。

著名ちょめい出身しゅっしんしゃ 編集へんしゅう

参考さんこう文献ぶんけん 編集へんしゅう

  • 小谷おたにけん日本にっぽんぐんのインテリジェンス - なぜ情報じょうほうかされないのか』講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃ選書せんしょメチエ 386〉、2007ねん4がつISBN 978-4-06-258386-2 

関連かんれん項目こうもく 編集へんしゅう

外部がいぶリンク 編集へんしゅう

映像えいぞう外部がいぶリンク
on PlatigeImage Official YouTube Channel(英語えいご)
  ポーランドの歴史れきし - 建国けんこくから2010ねんまで - YouTube[112]
政府せいふ
日本にっぽん政府せいふ
大使館たいしかん
観光かんこうその

脚注きゃくちゅう 編集へんしゅう

注釈ちゅうしゃく 編集へんしゅう

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  111. ^ レバンドフスキが“得点とくてんおう3かん”。決勝けっしょうではゴールならずも圧倒的あっとうてき得点とくてんりょく発揮はっき”. F.Chan TV (2020ねん8がつ24にち). 2020ねん8がつ24にち閲覧えつらん
  112. ^ “2010ねん上海しゃんはい万博ばんぱく”にて上映じょうえい(ポーランド共和きょうわこく・3Dアニメーション専門せんもんスタジオ『Platige Image S.A.』製作せいさく)