出典 しゅってん は列挙 れっきょ するだけでなく、脚注 きゃくちゅう などを用 もち いてどの記述 きじゅつ の情報 じょうほう 源 げん であるかを明記 めいき してください。記事 きじ の信頼 しんらい 性 せい 向上 こうじょう にご協力 きょうりょく をお願 ねが いいたします。(2022年 ねん 1月 がつ )
ポーランド王国 おうこく 成立 せいりつ 以前 いぜん
編集 へんしゅう
プシェヴォルスク文化 ぶんか (黄 き 緑 みどり )とザルビンツィ文化 ぶんか (赤 あか )
ポーランドは西 にし (ドイツ)と東南 とうなん (ウクライナ)の2つの方向 ほうこう が平原 へいげん となっている地形 ちけい のため先史 せんし 時代 じだい から陸上 りくじょう での人 ひと の往来 おうらい が多 おお く、東西 とうざい の文化 ぶんか が出会 であ い融合 ゆうごう する文化 ぶんか 的 てき 刺激 しげき の多 おお い土地 とち だったようである。たとえば、7500年 ねん 前 まえ の「世界 せかい 最古 さいこ のチーズ 」製造 せいぞう の痕跡 こんせき がポーランドで発見 はっけん されている[4] [5] ことや、インド・ヨーロッパ語族 ごぞく の言語 げんご やその話 はな し手 て のヨーロッパにおける発展 はってん の非常 ひじょう に重要 じゅうよう な段階 だんかい とみられる球状 きゅうじょう アンフォラ文化 ぶんか やそれを継承 けいしょう した縄目 なわめ 文 ぶん 土器 どき 文化 ぶんか 、ルサチア文化 ぶんか (ラウジッツ文化 ぶんか とも)の中心 ちゅうしん 地 ち がポーランドである事実 じじつ などが挙 あ げられる。
ポーランド人 じん の基幹 きかん 部族 ぶぞく となったレフ族 ぞく ・ポラン族 ぞく については、古代 こだい ローマ時代 じだい の歴史 れきし 家 か タキトゥス の本 ほん 『ゲルマニア 』の中 なか で現在 げんざい のポーランド南西 なんせい 部 ぶ に住 す んでいたと書 か かれている「ルギイ族 ぞく (英語 えいご 版 ばん ) 」[注釈 ちゅうしゃく 7] との関連 かんれん が指摘 してき されている。彼 かれ らは「プシェヴォルスク文化 ぶんか 」と呼 よ ばれる、周辺 しゅうへん のゲルマン 諸 しょ 部族 ぶぞく とは異 こと なる独特 どくとく の文化 ぶんか を持 も つ集団 しゅうだん で、ルギイ族 ぞく はヴァンダル族 ぞく の別名 べつめい か、あるいはヴァンダル族 ぞく は複 ふく 合 あい 部族 ぶぞく でルギイ族 ぞく はそのひとつではないかとされている。プシェヴォルスク文化 ぶんか は、当時 とうじ ゴート族 ぞく のものと推定 すいてい されるヴィスワ川 がわ 東岸 とうがん 付近 ふきん 一帯 いったい のヴィェルバルク文化 ぶんか を挟 はさ んではるか東方 とうほう にあった原 はら スラヴ人 じん の「ザルビンツィ文化 ぶんか 」と似通 にかよ っていることが考古学 こうこがく 調査 ちょうさ で判明 はんめい しているため、原 はら スラヴ系 けい の文化 ぶんか のひとつといえる(詳 くわ しくは、プシェヴォルスク文化 ぶんか 、ザルビンツィ文化 ぶんか 、ヴィェルバルク文化 ぶんか の記事 きじ を参照 さんしょう )。プシェヴォルスク文化 ぶんか とザルビンツィ文化 ぶんか は共通 きょうつう した文化 ぶんか 圏 けん で、元 もと はひとつであり、ヴィスワ川 がわ 河口 かわくち 付近 ふきん からゴート族 ぞく が入 はい り込 こ み間 あいだ に割 わ って入 はい って川 かわ を遡上 そじょう しながら南下 なんか していったため、この文化 ぶんか 圏 けん が西方 せいほう のプシェヴォルスク文化 ぶんか と東方 とうほう のザルビンツィ文化 ぶんか に分裂 ぶんれつ したものと考 かんが えられる。インド・ヨーロッパ語族 ごぞく のイラン系 けい 民族 みんぞく のサルマタイ人 じん やスキタイ 人 ひと が定住 ていじゅう していた。バルト人 じん 、トルコ人 じん もこの地域 ちいき に住 す んでいた。
レフ族 ぞく (ポラン族 ぞく )の長 ちょう ピャスト
4世紀 せいき 、プシェヴォルスク文化 ぶんか の担 にな い手 て は、西 にし のオドラ川 がわ (オーデル川 がわ )と東 ひがし のヴィスワ川 がわ が大 おお きく屈曲 くっきょく して作 つく った平野 へいや の、当時 とうじ は深 ふか い森 もり や入 い り組 く んだ湿原 しつげん (現在 げんざい はかなり縮小 しゅくしょう したとはいえいまだ広大 こうだい な湿原 しつげん が残 のこ っている)だった場所 ばしょ に住 す んでいた。その地理 ちり 的 てき な理由 りゆう からフン族 ぞく の侵入 しんにゅう を免 まぬか れ、ゲルマン民族 みんぞく の大 だい 移動 いどう の後 のち に東方 とうほう からやってきて中 ちゅう 欧 おう に定住 ていじゅう した「プラハ・コルチャク文化 ぶんか (Prague-Korchak culture )」を持 も つほかのスラヴ 諸 しょ 部族 ぶぞく と混交 こんこう して拡大 かくだい していったものが、中世 ちゅうせい にレフ族 ぞく (Lechici)あるいはポラン族 ぞく (Polanie)としてヨーロッパの歴史 れきし 書 しょ に再 さい 登場 とうじょう したとされる。この説 せつ ではルギイはレフ、レックのラテン語 らてんご における転訛 てんか となる。なお、ほかのスラヴ語 ご 、たとえばロシア語 ご では今 いま でも「ルーク」[注釈 ちゅうしゃく 8] と「ポーレ」[注釈 ちゅうしゃく 9] はどちらも「野原 のはら 」を原義 げんぎ とする言葉 ことば である。ロシア人 じん を含 ふく む東 ひがし スラヴ人 じん はもともとポーランド人 じん をリャキ(Lyakhi)と呼 よ んでいた(現在 げんざい はパリャキ、Palyakhiと呼 よ ぶ)。リトアニア人 じん はポーランド人 じん をレンカイ(Lenkai)、ハンガリー人 じん はポーランド人 じん をレンジェレク(Lengyelek)と呼 よ ぶ。
6世紀 せいき までにはこの地 ち に現在 げんざい のスラヴ民族 みんぞく が定住 ていじゅう し、一種 いっしゅ の環 かん 濠 ほり 集落 しゅうらく を多数 たすう 建設 けんせつ した。遅 おそ くとも8世紀 せいき までには現在 げんざい のポーランド人 じん の基 もと となる北西 ほくせい スラヴ系 けい 諸 しょ 部族 ぶぞく が異教 いきょう (非 ひ キリスト教 きりすときょう )の諸 しょ 国家 こっか を築 きず いていた。
8世紀 せいき 、それまでレフ族 ぞく ・ポラン族 ぞく とゴプラン族 ぞく (Goplanie)を治 おさ めていた、のちに「ポピェリド朝 あさ (Popielidzi)」と呼 よ ばれることになった族長 ぞくちょう 家 か の最後 さいご の当主 とうしゅ ポピェリド(Popielid)が没 ぼっ し、「車 くるま 大工 だいく のピャスト(Piast Kołodziej)」と呼 よ ばれた、おそらく荷車 にぐるま や馬車 ばしゃ などを製造 せいぞう する原初 げんしょ 的 てき マニュファクチュア を経営 けいえい していた人物 じんぶつ (一説 いっせつ にはポピェリドの宮 みや 宰 おさむ だったともされる)がレフ族 ぞく /レック族 ぞく の族長 ぞくちょう に選出 せんしゅつ され、「ピャスト朝 あさ (Piastowie)」を創始 そうし した。
王国 おうこく の黎明 れいめい 期 き
編集 へんしゅう
濃 こ いピンクは992年 ねん にボレスワフ1世 せい が確定 かくてい したポーランド公国 こうこく 領 りょう 、赤 あか 太線 ふとせん は1025年 ねん に確定 かくてい したポーランド王国 おうこく の国境 こっきょう 線 せん 。王国 おうこく の国境 こっきょう 線 せん の外側 そとがわ にある濃 こ いピンク、濃 こ い黄色 おうしょく 、青 あお の地域 ちいき はボレスワフ1世 せい が治 おさ めていた王国 おうこく 外 がい の属領 ぞくりょう
建国 けんこく の父 ちち ミェシュコ1世 せい
初代 しょだい 国王 こくおう ボレスワフ1世 せい のキエフ入城 にゅうじょう
グニェズノ大 だい 聖堂 せいどう の扉 とびら
10世紀 せいき 、レフ族 ぞく ・レヒト人 じん ・レヒ人 じん
966年 ねん 、ピャスト朝 あさ レフ族 ぞく /レック族 ぞく (ポラン族 ぞく /ポラニェ族 ぞく )の5代目 だいめ の族長 ぞくちょう ミェシュコ が近隣 きんりん のヴィスワ諸 しょ 部族 ぶぞく (Wiślanie)、ポモージェ諸 しょ 部族 ぶぞく (Pomorzanie)、マゾフシェ諸 しょ 部族 ぶぞく (Mazowszanie)などをレフ族 ぞく に統合 とうごう させ、自 みずか らキリスト教 きりすときょう に改宗 かいしゅう してミェシュコ1世 せい 公 おおやけ となり、国家 こっか はポーランド公国 こうこく として西欧 せいおう キリスト教 きりすときょう 世界 せかい に認知 にんち された。
992年 ねん にミェシュコ1世 せい の息子 むすこ ボレスワフ1世 せい が後 ご を継 つ ぐと、この新 あたら しいポーランド公 こう は西欧 せいおう キリスト教 きりすときょう 世界 せかい におけるポーランド公国 こうこく の領土 りょうど を画定 かくてい し、中央 ちゅうおう 政府 せいふ の権力 けんりょく を強 つよ め、武力 ぶりょく によって国家 こっか を統合 とうごう した。彼 かれ が確定 かくてい したポーランド公国 こうこく 領 りょう は現在 げんざい のポーランド領 りょう とほぼ一致 いっち する。彼 かれ はオットー3世 せい やハインリヒ2世 せい の神 かみ 聖 きよし ロ ろ ーマ帝国 まていこく 、クヌーズ2世 せい のデンマーク と積極 せっきょく 的 てき に外交 がいこう した。1000年 ねん 、オットー3世 せい はポーランド公国 こうこく の首都 しゅと ポズナニ 近郊 きんこう のグニェズノ へ自 みずか ら赴 おもむ いてボレスワフ1世 せい と会談 かいだん し、そこに大司教 だいしきょう 座 ざ を置 お くことに合意 ごうい した。ポーランド大司教 だいしきょう 座 ざ は以後 いご 現在 げんざい に至 いた るまでグニェズノにあり、グニェズノ大 だい 聖堂 せいどう の扉 とびら はこの時代 じだい に製作 せいさく されたものである。ボレスワフ1世 せい は必 かなら ずしも神聖 しんせい ローマ皇帝 こうてい の権威 けんい を受 う け入 い れたわけではなかった。彼 かれ は神聖 しんせい ロ ろ ーマ帝国 まていこく 領 りょう であった南 みなみ のボヘミア へ軍 ぐん を進 すす めて1004年 ねん に自 みずか らボヘミア公 こう となり、1018年 ねん に東 ひがし へ軍 ぐん を進 すす めてキエフ・ルーシ を攻略 こうりゃく した同年 どうねん 、今度 こんど は西 にし の神聖 しんせい ロ ろ ーマ帝国 まていこく 領内 りょうない に侵攻 しんこう しバウツェン(ブジシン)の講和 こうわ (en )によりマイセン (ポーランド語 ご でミシニャ)とラウジッツ (ポーランド語 ご でウジツェ)を獲得 かくとく 、その結果 けっか 中 ちゅう 欧 おう に広大 こうだい な新 しん 領土 りょうど を確保 かくほ した。その間 あいだ 、1015年 ねん には、若 わか い友 とも であり、また同時 どうじ に妹 いもうと の息子 むすこ すなわち甥 おい でもあったデンマーク王 おう クヌーズ2世 せい のイングランド 遠征 えんせい の援助 えんじょ をするため、自 みずか らの軍 ぐん の一部 いちぶ を貸 か し出 だ し、北海 ほっかい 帝国 ていこく の建設 けんせつ を援助 えんじょ した。1020年 ねん にはクラクフ のヴァヴェル大 だい 聖堂 せいどう の着工 ちゃっこう が開始 かいし されたとされる。
1025年 ねん 、ボレスワフ1世 せい の死 し の直前 ちょくぜん に、ローマ教皇 きょうこう ヨハネス19世 せい によってポーランド公国 こうこく は王国 おうこく として認知 にんち されてポーランド王国 おうこく となり、国境 こっきょう を確定 かくてい した。王国 おうこく 領 りょう は西 にし ポモージェ地方 ちほう を除 のぞ く現在 げんざい のポーランド、チェコ のモラヴィア 地方 ちほう 、スロヴァキア のほぼ全域 ぜんいき 、オーストリア の一部 いちぶ 、ハンガリー の一部 いちぶ 、ドイツのラウジッツ 地方 ちほう 、ウクライナ の「赤 あか ルーシ 」地方 ちほう となる。ボレスワフ1世 せい が治 おさ めた属領 ぞくりょう も含 ふく めてすべてを合 あ わせると西 にし ポモージェ地方 ちほう も含 ふく めた現在 げんざい のポーランドのほぼ全域 ぜんいき 、チェコのほぼ全域 ぜんいき 、スロヴァキアのほぼ全域 ぜんいき 、オーストリアの一部 いちぶ 、ハンガリーの一部 いちぶ 、ウクライナ西部 せいぶ の赤 あか ルーシ地方 ちほう 、ベラルーシ (白 しろ ルーシ)のブレスト 地方 ちほう 、ドイツのラウジッツ 地方 ちほう とマイセン 地方 ちほう となる。
ポーランドが王国 おうこく と認知 にんち されてまもなくボレスワフ1世 せい が没 ぼっ したため、最初 さいしょ の戴冠 たいかん 式 しき を受 う けたのは息子 むすこ のミェシュコ2世 せい である。しかし、王国 おうこく 内 ない の各地 かくち の諸侯 しょこう は王権 おうけん のこれ以上 いじょう の拡大 かくだい に危惧 きぐ を抱 だ いた。1034年 ねん 、ミェシュコ2世 せい は謎 なぞ の死 し を遂 と げた。その後 ご 数 すう 年間 ねんかん は政治 せいじ 的 てき な混乱 こんらん の時代 じだい が続 つづ いた。
1038年 ねん 、時 とき のポーランド公 こう カジミェシュ1世 せい は政治 せいじ が滞 とどこお っていた首都 しゅと ポズナニを離 はな れ、クラクフ へと事実 じじつ 上 じょう の遷都 せんと をした。正式 せいしき な戴冠 たいかん はしていなかったがポーランド王国 おうこく の事実 じじつ 上 じょう の君主 くんしゅ であった公 おおやけ は、混乱 こんらん を収拾 しゅうしゅう して王国 おうこく を再 ふたた びまとめ上 あ げた。また、公 おおやけ はヴァヴェル大 だい 聖堂 せいどう を大 だい 改築 かいちく し、クラクフとヴロツワフ に司教 しきょう 座 ざ を置 お いた。その長男 ちょうなん で1058年 ねん に公 おおやけ 位 い を継 つ いだボレスワフ2世 せい は神聖 しんせい ローマ皇帝 こうてい とローマ教皇 きょうこう との間 あいだ で起 お きていた叙任 じょにん 権 けん 闘争 とうそう をうまく利用 りよう し、1076年 ねん にポーランド王位 おうい に就 つ いた。
長 なが い分裂 ぶんれつ 時代 じだい
編集 へんしゅう
ボレスワフ3世 せい が4人 にん の息子 むすこ と后 きさき に分割 ぶんかつ 相続 そうぞく させたポーランド: クラクフ大公 たいこう 領 りょう
シロンスク公 おおやけ 領 りょう
マゾフシェ公 おおやけ 領 りょう
ヴィエルコポルスカ公 おおやけ 領 りょう
サンドミェシュ公 おおやけ 領 りょう
后 きさき の相続 そうぞく 領 りょう
ポモージェにおけるポーランド王国 おうこく の直轄 ちょっかつ 領 りょう
1138年 ねん 、ボレスワフ3世 せい は王国 おうこく の領土 りょうど を7つに分割 ぶんかつ し、そのうち5つを后 きさき と4人 にん の息子 むすこ たちにそれぞれ相続 そうぞく させた。そのうちの長男 ちょうなん ヴワディスワフ2世 せい にはさらにクラクフ大公 たいこう 領 りょう を与 あた えてクラクフ大公 たいこう とし、以後 いご はクラクフ大公 たいこう に就 つ いた者 もの がポーランドの王権 おうけん を継 つ ぐこととした。残 のこ りのポモージェ地方 ちほう はポーランド王国 おうこく の直轄 ちょっかつ 領 りょう とし、現地 げんち の諸侯 しょこう に実質 じっしつ 的 てき 支配 しはい を任 まか せた。1079年 ねん に大公 たいこう 位 い についたヴワディスワフ2世 せい は国家 こっか の統一 とういつ を画策 かくさく し、大公 たいこう の権力 けんりょく 強化 きょうか に反対 はんたい するグニェズノの大司教 だいしきょう と対立 たいりつ して大公 たいこう 支持 しじ 派 は と大司教 だいしきょう 支持 しじ 派 は の間 あいだ で内戦 ないせん となった。戦争 せんそう は長引 ながび き、王国 おうこく はどんどん小 ちい さな領 りょう 邦 くに に分裂 ぶんれつ していった。
1146年 ねん 、時 とき の大公 たいこう ヴワディスワフ3世 せい はフリードリヒ・バルバロッサ(のちの神聖 しんせい ローマ皇帝 こうてい フリードリヒ1世 せい )からの援助 えんじょ を得 え る見返 みかえ りに、当時 とうじ の神聖 しんせい ローマ皇帝 こうてい ロタール3世 せい に臣従 しんじゅう し、これによってシロンスク公 おおやけ 領 りょう の支配 しはい 権 けん を得 え た。「シロンスク・ピャスト朝 あさ 」の始 はじ まりである。これによってシロンスク公 おおやけ 領 りょう は当地 とうち のピャスト家 か が支配 しはい したままポーランド王国 おうこく からは独立 どくりつ した状態 じょうたい となった。グニェズノ大司教 だいしきょう をないがしろにしたうえ、シロンスク地方 ちほう をポーランド王国 おうこく から独立 どくりつ させたことがポーランド国内 こくない で大 だい 問題 もんだい となり、ヴワディスワフ3世 せい は大司教 だいしきょう から破門 はもん され、神 かみ 聖 きよし ロ ろ ーマ帝国 まていこく へ亡命 ぼうめい してのちにフリードリヒ1世 せい の居城 きょじょう で客死 かくし した。シロンスク公国 こうこく は以後 いご もシロンスク・ピャスト家 か の者 もの が後 こう を継 つ いでいくことになり、そのうちの一族 いちぞく は17世紀 せいき まで続 つづ いた(庶子 しょし の系統 けいとう は地方 ちほう 領主 りょうしゅ として18世紀 せいき まで続 つづ いた)。以後 いご もクラクフ大公 たいこう の位 くらい は継続 けいぞく したが、その権威 けんい は地 ち に墜 お ち、ポーランド王国 おうこく は王位 おうい を継 つ ぐものがいないまま、各地 かくち の領 りょう 邦 くに にどんどん分裂 ぶんれつ していった。
1226年 ねん 、ポーランドのコンラト1世 せい (マゾフシェ公 こう ) は隣国 りんごく の異教徒 いきょうと プルーセン人 じん に対 たい する征討 せいとう と教化 きょうか に手 て を焼 や いて[6] 、クルムラント領有 りょうゆう 権 けん と引 ひ き換 か えに当時 とうじ ハンガリーにいたドイツ騎士 きし 団 だん を招聘 しょうへい した。1228年 ねん 、皇帝 こうてい フリードリヒ2世 せい のリミニの金 かね 印 しるし 勅書 ちょくしょ により騎士 きし 団 だん のプロイセン 領有 りょうゆう が認 みと められ、1230年 ねん 、クルシュヴィッツ条約 じょうやく に基 もと づいてコンラート1世 せい は騎士 きし 団 だん にクルムラントおよびプロイセンのすべての権利 けんり を認 みと め、騎士 きし 団 だん はプロイセンの領有 りょうゆう 権 けん を得 え た。教皇 きょうこう の名 な の下 した 、騎士 きし 団 だん はプロイセンを東方 とうほう 殖民 しょくみん として統治 とうち し、近代 きんだい 化 か 、開拓 かいたく 、商業 しょうぎょう 的 てき 発展 はってん 、布教 ふきょう 、教育 きょういく などに従事 じゅうじ した。
モンゴル帝国 ていこく の侵攻 しんこう 、ドイツ騎士 きし 団 だん (東方 とうほう 殖民 しょくみん )、ユダヤ人 じん 移民 いみん
編集 へんしゅう
レグニツァ/ワールシュタットの戦 たたか いに臨 のぞ むヘンリク2世 せい
1241年 ねん にはモンゴルのバトゥ の軍 ぐん の一部 いちぶ がポーランド南部 なんぶ に来襲 らいしゅう し、サンドミェシュ やクラクフ など南部 なんぶ の諸 しょ 都市 とし を襲 おそ ってシロンスクに侵攻 しんこう した。モンゴルのヨーロッパ侵攻 しんこう (英語 えいご 版 ばん ) は全 ぜん ヨーロッパを震撼 しんかん させた。グレゴリウス9世 せい 教皇 きょうこう は、全 ぜん キリスト教徒 きりすときょうと に対 たい し、ポーランドを救援 きゅうえん してこの異教徒 いきょうと 襲来 しゅうらい と戦 たたか うべしという詔書 しょうしょ を発 はっ している[7] 。教皇 きょうこう にプロイセン のドイツ騎士 きし 団 だん は、ポーランド諸王 しょおう 侯 こう と共同 きょうどう 防衛 ぼうえい をするよう命 めい じられる。主力 しゅりょく のドイツ騎士 きし 団 だん は前衛 ぜんえい と後詰 ごづ めに配 はい し抗戦 こうせん した。時 とき のシロンスク公 こう でクラクフ公 こう も兼 か ねていたヘンリク2世 せい はドイツ騎士 きし 団 だん とポーランド連合 れんごう 軍 ぐん に参加 さんか 、レグニツァ でモンゴル軍 ぐん を迎 むか え撃 う った(レグニツァの戦 たたか い )。装備 そうび ・物量 ぶつりょう で劣 おと っていた連合 れんごう 軍 ぐん は果敢 かかん に戦 たたか ったが敗北 はいぼく し、ヘンリク2世 せい は戦死 せんし した。モンゴル軍 ぐん が連合 れんごう 軍 ぐん を破 やぶ ったことは、東欧 とうおう 史上 しじょう の大 だい 事件 じけん であった。
まもなくモンゴル軍 ぐん はアジア へ引 ひ き返 かえ した[要 よう 校閲 こうえつ ] が、クラクフ公 おおやけ 領 りょう とシロンスク公 おおやけ 領 りょう の南部 なんぶ はモンゴル軍 ぐん に略奪 りゃくだつ され、逃 に げ遅 おく れた住民 じゅうみん は殺 ころ され、これらの地方 ちほう はほぼ無 む 人 ひと となり荒廃 こうはい してしまっていた。以後 いご 、モンゴル軍 ぐん に襲 おそ われた地方 ちほう の復興 ふっこう がこの地域 ちいき の諸侯 しょこう の最 さい 優先 ゆうせん 課題 かだい となった。モンゴル軍 ぐん のいる間 あいだ は疎開 そかい していたポーランド人 じん 住民 じゅうみん もやっと戻 もど ってきたが、それでは人手 ひとで がまったく足 た りなかった。国王 こくおう による都市 とし 化 か 促進 そくしん 政策 せいさく の一環 いっかん として、ユダヤ人 じん もドイツ人 じん と一緒 いっしょ に招聘 しょうへい された。ドイツ騎士 きし 団 だん 主導 しゅどう により近代 きんだい 化 か として都市 とし 建設 けんせつ とドイツ法 ほう のマクデブルク法 ほう 、習慣 しゅうかん 、制度 せいど 、文字 もじ を導入 どうにゅう した(ポーランドのマクテブルク法 ほう を用 もち いた法 ほう はドイツ法式 ほうしき とは異 こと なり、古代 こだい ローマの法 ほう を使用 しよう し、その土地 とち にドイツ定住 ていじゅう 者 しゃ がいない場合 ばあい はドイツ語 ご 記載 きさい の法 ほう を理解 りかい できなかった[8] 、ほかの事実 じじつ としてユダヤ人 じん などもポーランドでマクデブルク法 ほう により商業 しょうぎょう 的 てき に有利 ゆうり な優先 ゆうせん 的 てき 条件 じょうけん と権利 けんり を保護 ほご されていたためにユダヤ人 じん にとって魅力 みりょく があったため移民 いみん した[9] )。彼 かれ らは都市 とし を築 きず き、商業 しょうぎょう や銀行 ぎんこう 業 ぎょう を始 はじ め、彼 かれ らのビジネスや文学 ぶんがく や進 すす んだ技術 ぎじゅつ や高 たか い能力 のうりょく を認 みと められ大公 たいこう などの側近 そっきん を務 つと めポーランド経済 けいざい の柱 はしら となり、ポーランド初 はつ のヘブライ語 ご が印刻 いんこく された硬貨 こうか の発行 はっこう などに携 たずさ わった[10] )。この地域 ちいき における本格 ほんかく 的 てき なドイツの東方 とうほう 殖民 しょくみん (植民 しょくみん と近代 きんだい 化 か と発展 はってん )の始 はじ まりである。彼 かれ らは特 とく にシロンスクとその周辺 しゅうへん に定住 ていじゅう し、多 おお くの街 まち を作 つく った。これらの街 まち では従来 じゅうらい のポーランドの法律 ほうりつ でなくドイツの都市 とし 法 ほう であるマクデブルク法 ほう が使用 しよう された。当時 とうじ の領主 りょうしゅ たちが西方 せいほう からの植民 しょくみん 者 しゃ に与 あた えた(商業 しょうぎょう 的 てき )優先 ゆうせん 条例 じょうれい と権利 けんり であった。
ドイツ騎士 きし 団 だん の支配 しはい とともにドイツ都市 とし 法 ほう の適用 てきよう も盛 さか んに行 おこな われるようになり、都市 とし 法 ほう その他 た の特許 とっきょ 状 じょう は、ポーランドの伝統 でんとう 的 てき な慣習 かんしゅう 法 ほう よりもとても進 すす んでいた。新 しん 居住 きょじゅう 地 ち にはドイツ都市 とし 法 ほう を基盤 きばん とした新 あたら しい特許 とっきょ 状 じょう が与 あた えられた。また、多 おお くのポーランド人 じん の集落 しゅうらく もドイツ法 ほう の適用 てきよう を受 う けるようになった。西 にし からの移民 いみん 到来 とうらい のおかげでポーランドは農業 のうぎょう 生産 せいさん を回復 かいふく し、都市 とし や学校 がっこう も建設 けんせつ され、肥沃 ひよく な土壌 どじょう ともともと恵 めぐ まれていた地理 ちり 的 てき 条件 じょうけん の下 した で経済 けいざい 的 てき 繁栄 はんえい を回復 かいふく しつつあった。彼 かれ らはドイツ法 ほう に基 もと づいて自治 じち を行 おこな い、首長 しゅちょう と選 えら ばれた判事 はんじ が司法 しほう を掌 てのひら った。自治 じち 都市 とし の公文書 こうぶんしょ は時 とき にラテン文字 もじ のドイツ語 ご で記録 きろく され、ポーランドにおける法的 ほうてき 語彙 ごい はドイツ語 ご の影響 えいきょう で発達 はったつ した。ドイツ人 じん は宗教 しゅうきょう 学校 がっこう を建設 けんせつ し騎士 きし 団 だん はそこの教授 きょうじゅ となり、ポーランド人 じん 達 たち は聖職 せいしょく 者 しゃ になるために進学 しんがく でき、古典 こてん ラテン書物 しょもつ を学 まな べる機会 きかい を得 え 、のちにそれがポーランド文学 ぶんがく の発展 はってん に役立 やくだ った。ユダヤ人 じん は都市 とし を築 きず き、商業 しょうぎょう や銀行 ぎんこう 業 ぎょう を始 はじ め、彼 かれ らのビジネスノウハウや文学 ぶんがく や進 すす んだ技術 ぎじゅつ や高 たか い能力 のうりょく を認 みと められ大公 たいこう などの側近 そっきん を務 つと めポーランド経済 けいざい の柱 はしら となり、ポーランド初 はつ のヘブライ語 ご が印刻 いんこく された硬貨 こうか の発行 はっこう などに携 たずさ わった[10] 。
ヘンリク4世 せい (在位 ざいい 1289年 ねん - 1290年 ねん )は、ドイツ系 けい 住民 じゅうみん の支持 しじ を受 う けクラクフ公 こう になった。東方 とうほう 植民 しょくみん でドイツ人 じん の影響 えいきょう 力 りょく が強 つよ まっていった。クラクフでは住民 じゅうみん 税 ぜい と所得 しょとく 税 ぜい の完全 かんぜん 免除 めんじょ を求 もと めるポーランド人 じん 住民 じゅうみん たちによる暴動 ぼうどう が起 お こることもあった。こういったドイツ人 じん との分離 ぶんり 主義 しゅぎ 的 てき な運動 うんどう に強 つよ く対抗 たいこう する運動 うんどう も起 お き、次 つぎ の14世紀 せいき にはドイツ系 けい と非 ひ ドイツ系 けい の2勢力 せいりょく の反目 はんもく が、ポーランド史 し の基軸 きじく となった。この当時 とうじ のポーランド人 じん による文書 ぶんしょ には、「連中 れんちゅう (ドイツから来 き た人々 ひとびと のこと)はグダンスクを(訛 なま って)ダンチヒと呼 よ んでいる」などと書 か いてある。ドイツ人 じん 商工 しょうこう 業者 ぎょうしゃ たちが統治 とうち を行 おこな うドイツ人 じん 王侯 おうこう 貴族 きぞく (ドイツ騎士 きし 団 だん など)による支配 しはい よりも、もともとのポーランドの王侯 おうこう 貴族 きぞく による支配 しはい を選択 せんたく したからである。のちにポーランドのバルト海 ばるとかい 側 がわ におけるドイツ騎士 きし 団 だん の十字軍 じゅうじぐん 、そして南部 なんぶ におけるモンゴル襲来 しゅうらい 後 ご のドイツ入植 にゅうしょく 者 しゃ の受 う け入 い れはこれらの地域 ちいき の経済 けいざい や文化 ぶんか の発展 はってん をもたらした反面 はんめん 、19世紀 せいき から20世紀 せいき にかけてのポーランド人 じん とドイツ人 じん との間 あいだ の激 はげ しい民族 みんぞく 紛争 ふんそう の遠因 えんいん ともなった。
名君 めいくん カジミェシュ3世 せい 「大王 だいおう 」 グルンヴァルトの戦 たたか い ポーランド軍 ぐん の農民 のうみん 兵 へい がドイツ騎士 きし 団 だん 総長 そうちょう ウルリッヒ・フォン・ユンギンゲン (中央 ちゅうおう 左 ひだり の馬上 もうえ の白黒 しろくろ の衣装 いしょう の人物 じんぶつ )を討 う つ瞬間 しゅんかん
ルブリン合同 ごうどう ポーランド=リトアニア共和 きょうわ 国 こく の誕生 たんじょう
ポーランド王国 おうこく の最大 さいだい 版図 はんと
アルベルト・ブルゼフスキ 教授 きょうじゅ
14世紀 せいき にはヨーロッパ大陸 たいりく での反 はん ユダヤ主義 しゅぎ から、ポーランド国内 こくない 法 ほう の宗教 しゅうきょう 的 てき ・民族 みんぞく 的 てき 寛容 かんよう さから多数 たすう 移住 いじゅう してきた。14世紀 せいき 当時 とうじ は、ヴワディスワフ1世 せい の子 こ で、軍事 ぐんじ 、外交 がいこう 、内政 ないせい に巧 たく みな手腕 しゅわん を発揮 はっき したカジミェシュ3世 せい 「大王 だいおう 」がポーランド王国 おうこく を治 おさ めており、彼 かれ の治世 ちせい にポーランドは経済 けいざい 的 てき な大 だい 発展 はってん をした。1339年 ねん 、ドイツ騎士 きし 団 だん に対 たい し、かつてポーランドの領土 りょうど であったことを理由 りゆう に一部 いちぶ の土地 とち の返還 へんかん を求 もと め抗戦 こうせん した。ルーシ族 ぞく (ヴァリャーグ )のハールィチ・ヴォルィーニ大公 たいこう 国 こく (西部 せいぶ ウクライナ )を占領 せんりょう し領土 りょうど を広 ひろ めていった。また、のちに反 はん 王権 おうけん 的 てき 性格 せいかく を表 あらわ す重要 じゅうよう な意味合 いみあ いを持 も つ「ポーランド王国 おうこく の王冠 おうかん 」という言葉 ことば もこのころに土地 とち の主権 しゅけん を主張 しゅちょう する時 とき の言葉 ことば として出 で 始 はじ めた。1355年 ねん にはマゾフシェ公 こう ジェモヴィトが大王 だいおう に対 たい し臣従 しんじゅう した。1364年 ねん 、大王 だいおう はクラクフ大学 だいがく (ヤギェウォ大学 だいがく )を創立 そうりつ し、これ以後 いご ポーランドの学術 がくじゅつ 文化 ぶんか が華麗 かれい に開花 かいか していく。
王朝 おうちょう が変 か わり、ルートヴィクの時代 じだい に入 はい ると王 おう の権威 けんい は衰 おとろ えた。ルートヴィク死去 しきょ 後 ご の二 に 年間 ねんかん の空位 くうい や立場 たちば の弱 よわ い女王 じょおう がこれを更 さら に加速 かそく させる。1385年 ねん 、ポーランド女王 じょおう ヤドヴィガ とリトアニア大公 たいこう ヨガイラ (ポーランド語 ご 名 めい ヤギェウォ)が聖職 せいしょく 者 しゃ とバロン、シュラフタなどの意志 いし のもと結婚 けっこん し、ポーランド王国 おうこく とリトアニア大公 たいこう 国 こく は人的 じんてき 同君 どうくん 連合 れんごう をした。ポーランド=リトアニア連合 れんごう を形成 けいせい した(クレヴォの合同 ごうどう )。1399年 ねん にヤドヴィガ女王 じょおう が没 ぼっ するとヤギェウォがポーランド王 おう に即位 そくい し、以後 いご ポーランド、リトアニア、ボヘミア王国 おうこく およびハンガリー王国 おうこく の王朝 おうちょう であるヤギェウォ朝 あさ がポーランドを統治 とうち することになった。1410年 ねん 、ポーランド=リトアニア連合 れんごう はグルンヴァルトの戦 たたか い でドイツ騎士 きし 団 だん を討 う った。
1414年 ねん 、コンスタンツ公 こう 会議 かいぎ ではグルンヴァルトの戦 たたか いの戦後 せんご 処理 しょり について話 はな し合 あ われ、会議 かいぎ では当時 とうじ 異教徒 いきょうと の国 くに であったリトアニア とキリスト教徒 きりすときょうと の国 くに であるポーランド王国 おうこく が同盟 どうめい して、キリスト教徒 きりすときょうと のドイツ騎士 きし 団 だん と戦争 せんそう をした点 てん が大 だい 問題 もんだい となり、これについてポーランドに対 たい してドイツ騎士 きし 団 だん 側 がわ からの激 はげ しい非難 ひなん があった。ドイツ騎士 きし 団 だん は「異教徒 いきょうと と同盟 どうめい してキリスト教徒 きょうと のドイツ騎士 きし 団 だん を討伐 とうばつ したポーランドの行動 こうどう は罪 つみ であり、この罪 つみ によって、ポーランド人 じん は地上 ちじょう から絶滅 ぜつめつ されるべきである」と主張 しゅちょう した。ポーランド全権 ぜんけん でクラクフ大学 だいがく 校長 こうちょう であったパヴェウ・ヴウォトコヴィツ (ラテン語 らてんご 名 な :パウルス・ウラディミリ)は「リトアニア人 じん のような異教徒 いきょうと であっても我々 われわれ キリスト教徒 きりすときょうと とまったく同 おな じ人間 にんげん である。したがって彼 かれ らは自 みずか らの政府 せいふ を持 も つ権利 けんり (国家 こっか 主権 しゅけん )、平和 へいわ に暮 く らす権利 けんり (生存 せいぞん 権 けん )、自 みずか らの財産 ざいさん に対 たい する権利 けんり (財産 ざいさん 権 けん )を生 う まれながらに保有 ほゆう する。よってリトアニア人 じん がこの権利 けんり を行使 こうし し、自衛 じえい するの(自衛 じえい 権 けん )はまったく正当 せいとう である」と述 の べた。教皇 きょうこう マルティヌス5世 せい は異教徒 いきょうと の人権 じんけん についての決定 けってい はしなかった。
1430年 ねん にリトアニア大公 たいこう のヴィータウタス (ポーランド語 ご 名 めい :ヴィトルト)が没 ぼっ すると、ポーランド=リトアニア連合 れんごう 内 ない はよりポーランド王 おう の権威 けんい と権限 けんげん を強 つよ め、事実 じじつ 上 じょう ポーランド王国 おうこく の支配 しはい 下 か に入 はい り、すべてのリトアニア貴族 きぞく はポーランド語 ご とポーランドの習慣 しゅうかん を身 み につけてポーランド化 か していった。ただし宗教 しゅうきょう や宗派 しゅうは については、ある場所 ばしょ ではローマ・カトリック 、ある場所 ばしょ ではプロテスタント 、ある場所 ばしょ では正教会 せいきょうかい 、ある場所 ばしょ (リプカ・タタール人 じん の共同 きょうどう 体 たい )ではイスラム教 いすらむきょう 、といった具合 ぐあい にそれぞれの地方 ちほう 共同 きょうどう 体 たい の伝統 でんとう 的 てき な宗教 しゅうきょう や宗派 しゅうは を守 まも っていることが多 おお かったとされる。
巨大 きょだい 化 か した第 だい 1共和 きょうわ 国 こく ポーランド王国 おうこく (濃 こ いピンク)/リトアニア(薄紫 うすむらさき )/プロシア公 おおやけ 領 りょう (肌色 はだいろ )/リヴォニア(グレー)/クールラント(薄 うす いグレー)/エストニア(黄 き 緑 みどり )
1440年 ねん 、ドイツ騎士 きし 団 だん 領内 りょうない の諸 しょ 都市 とし で、ポーランド王 おう とプロイセン連合 れんごう を結成 けっせい し、ポーランド王国 おうこく とプロイセン連合 れんごう はドイツ騎士 きし 団 だん との間 あいだ で再 ふたた び戦争 せんそう となった。1466年 ねん 、第 だい 二 に 次 じ トルンの和 わ 約 やく によりドイツ騎士 きし 団 だん 領 りょう は敗戦 はいせん した。プロイセンはポーランド王国 おうこく の封土 ほうど となり、ポーランド=リトアニア連合 れんごう を宗主 そうしゅ 国 こく とする属国 ぞっこく となり、多 おお くの政治 せいじ 的 てき 権限 けんげん がポーランドに移 うつ された。ポーランドはこの第 だい 二 に 次 じ トルンの和 わ 約 やく に基 もと づき、ポーランド国会 こっかい (セイム )への代議員 だいぎいん を送 おく ってポーランドを構成 こうせい するすべての地域 ちいき を扱 あつか う政治 せいじ (いわゆる国政 こくせい )に直接 ちょくせつ 参加 さんか するようドイツ騎士 きし 団 だん に命 めい じたが、騎士 きし 団 だん は拒否 きょひ した。ヴァルミア 司教 しきょう の叙任 じょにん をめぐって、これをポーランドのグニェズノ の大司教 だいしきょう が裁可 さいか するが、ドイツ騎士 きし 団 だん は独自 どくじ の候補 こうほ を擁立 ようりつ して異議 いぎ を申 もう し立 た て騎士 きし 団 だん 側 がわ の候補者 こうほしゃ をヴァルミア司教 しきょう とし、今後 こんご グニェズノ大司教 だいしきょう が主権 しゅけん を握 にぎ ることで和解 わかい した。
名君 めいくん ジグムント2世 せい アウグスト 国王 こくおう ヘンリク・ヴァレジの逐電 ちくでん (ワルシャワ国立 こくりつ 博物館 はくぶつかん 蔵 ぞう )
名君 めいくん ステファン・バートリ
1543年 ねん 、トルン 出身 しゅっしん でクラクフ大学 だいがく 卒業生 そつぎょうせい のミコワイ・コペルニク(ラテン語 らてんご 名 な :ニコラウス・コペルニクス )は著書 ちょしょ 『天球 てんきゅう の回転 かいてん について (De revoltionibus orbium coelestium)』を出版 しゅっぱん 、地動説 ちどうせつ を提唱 ていしょう した。彼 かれ は父親 ちちおや がクラクフ公国 こうこく 出身 しゅっしん のポーランド人 じん で銅 どう の取引 とりひき 業 ぎょう を営 いとな み、母親 ははおや はドイツ人 じん であった。母 はは の実家 じっか のあるトルンで生 う まれ、父母 ちちはは を早 はや く亡 な くしたあとは母方 ははかた の叔父 おじ でヴァルミア 司教 しきょう のルーカス・ヴァッツェンローデ(前 まえ の段落 だんらく 参照 さんしょう )に育 そだ てられた。なお、クラクフ大学 だいがく におけるコペルニクスの恩師 おんし である人気 にんき 教授 きょうじゅ アルベルト・ブルゼフスキ は月 つき の軌道 きどう 計算 けいさん で世界 せかい 的 てき に名 な を挙 あ げ、月 つき が楕円 だえん 軌道 きどう を描 えが いていること、そして常 つね に同 おな じ面 めん を地球 ちきゅう に向 む けていることを指摘 してき している。
1569年 ねん 、国王 こくおう ジグムント2世 せい アウグスト の幅広 はばひろ い尽力 じんりょく により、ポーランドはリトアニアを併合 へいごう (ルブリン合同 ごうどう )してポーランド王 おう を統一 とういつ 君主 くんしゅ とする物的 ぶってき 同君 どうくん 連合 れんごう で制限 せいげん つきながらも議会 ぎかい 制 せい 民主 みんしゅ 主義 しゅぎ を採 と る「ポーランド=リトアニア共和 きょうわ 国 こく 」(第 だい 1共和 きょうわ 国 こく )となり、欧州 おうしゅう の広大 こうだい な国 くに のひとつとして君臨 くんりん した。
名 めい 宰相 さいしょう ヤン・ザモイスキ
ジグムント2世 せい アウグストの死後 しご 、ポーランド=リトアニア連合 れんごう 王国 おうこく はすべてのシュラフタ (ポーランド貴族 きぞく )が参加 さんか する選挙 せんきょ (国王 こくおう 自由 じゆう 選挙 せんきょ )によって国王 こくおう を決定 けってい する「選挙 せんきょ 王政 おうせい 」をとる貴族 きぞく 共和 きょうわ 国 こく になった。ポーランド貴族 きぞく の人数 にんずう は常 つね に人口 じんこう の1割 わり を超 こ えており、そのすべてに平等 びょうどう に選挙 せんきょ 権 けん が付与 ふよ されていた。アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく が18世紀 せいき 末 まつ に独立 どくりつ してからしばらくの間 あいだ 、選挙 せんきょ 権 けん を持 も つ者 もの が合衆国 がっしゅうこく 全 ぜん 人口 じんこう の1割 わり に満 み たなかったことを考慮 こうりょ すると、当時 とうじ のポーランド=リトアニア連合 れんごう 王国 おうこく ではのちのアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく に比 くら べ選挙 せんきょ 権 けん を持 も つ国民 こくみん の割合 わりあい が大 おお きかったことになる。
1573年 ねん 、すべてのシュラフタ が1人 ひとり 1票 ひょう を持 も つというかなり民主 みんしゅ 的 てき な原則 げんそく で行 おこな われることになったポーランドの国王 こくおう 自由 じゆう 選挙 せんきょ で選 えら ばれた最初 さいしょ のポーランド国王 こくおう はフランス王 おう アンリ2世 せい とイタリア人 じん の王妃 おうひ カトリーヌ・ド・メディシス の息子 むすこ であるフランス人 じん ヘンリク・ヴァレジ(アンリ、のちのフランス王 おう アンリ3世 せい )であった。しかし国王 こくおう 戴冠 たいかん の条件 じょうけん として署名 しょめい を余儀 よぎ なくされた「ヘンリク条項 じょうこう 」によりポーランドで事実 じじつ 上 じょう の立憲 りっけん 君主 くんしゅ 制 せい (シュラフタ 層 そう の大幅 おおはば な権力 けんりょく 拡大 かくだい および王権 おうけん の大幅 おおはば な制限 せいげん )が成立 せいりつ したため、バイセクシュアル であった自身 じしん の性 せい 指向 しこう がポーランドでは以前 いぜん からずっと白 しろ い目 め で見 み られていたことや、ジグムント2世 せい アウグストの妹 いもうと ですでに年老 としお いていたアンナ を女王 じょおう でなく国王 こくおう とした政略 せいりゃく 結婚 けっこん が求 もと められたこともあり、ポーランドでの生活 せいかつ を窮屈 きゅうくつ と感 かん じ嫌気 いやけ が差 さ したヘンリクは1574年 ねん 6月 がつ 18日 にち 、突然 とつぜん フランスへと逐電 ちくでん してしまう。
ポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく
編集 へんしゅう
ヤン・ザモイスキ は1578年 ねん に大 だい 法官 ほうかん (内閣 ないかく 総理 そうり 大臣 だいじん )に就任 しゅうにん し、1580年 ねん にはクラクフ城代 しろだい を兼任 けんにん 、そして1581年 ねん にはポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく 全 ぜん 軍 ぐん の事実 じじつ 上 じょう の最高 さいこう 司令 しれい 官 かん (名目 めいもく 上 じょう の最高 さいこう 司令 しれい 官 かん はポーランド国王 こくおう 兼 けん リトアニア大公 たいこう )である王冠 おうかん 領 りょう 大 だい ヘトマン (大元帥 だいげんすい )を兼任 けんにん し、現在 げんざい の立憲 りっけん 君主 くんしゅ 制 せい の国家 こっか の首相 しゅしょう に相当 そうとう する強大 きょうだい な行政 ぎょうせい 権 けん を持 も ち、その優 すぐ れた政治 せいじ 的 てき 見識 けんしき と実務 じつむ 的 てき 能力 のうりょく で1605年 ねん 6月 がつ 3日 にち に死去 しきょ するまでポーランドを率 ひき いた。彼 かれ の穏健 おんけん な自由 じゆう 主義 しゅぎ (穏健 おんけん 主義 しゅぎ )の政治 せいじ はより多 おお くの人 ひと の教育 きょういく と政治 せいじ 参加 さんか を目指 めざ したもので、国政 こくせい の場 ば で多 おお くの支持 しじ を集 あつ め、特 とく にインテリ層 そう や中小 ちゅうしょう 規模 きぼ のシュラフタ たちからは圧倒的 あっとうてき な支持 しじ を得 え ていた。彼 かれ の同調 どうちょう 者 しゃ は「ザモイスキたち(ザモイチュチ)」と呼 よ ばれ、緩 ゆる やかな政治 せいじ グループを形成 けいせい しており、彼 かれ を先生 せんせい ・師匠 ししょう と思 おも い慕 した っていた。また、ザモイスキは自分 じぶん の領地 りょうち においては農奴 のうど 制 せい を禁止 きんし し、すべての住民 じゅうみん に基礎 きそ 教育 きょういく を施 ほどこ し、それぞれの住民 じゅうみん の立場 たちば に応 おう じて何 なん らかの形 かたち で地方 ちほう 政治 せいじ に参加 さんか させた非常 ひじょう に開明 かいめい 的 てき な領主 りょうしゅ でもあった。人間 にんげん の解放 かいほう を唱 とな えるルネサンス 思想 しそう にも同調 どうちょう し、イタリア から建築 けんちく 家 か を呼 よ び寄 よ せて当時 とうじ の世界 せかい の最新 さいしん デザインの都市 とし 「ザモシチ 」を建設 けんせつ し、周辺 しゅうへん の地方 ちほう の経済 けいざい や開明 かいめい 的 てき 文化 ぶんか の中心 ちゅうしん 地 ち としてこの都市 とし を発展 はってん させた。ジグムント2世 せい アウグスト王 おう やステファン・バートリ王 おう を支 ささ えたこの宰相 さいしょう ヤン・ザモイスキこそ、この時代 じだい のポーランドの政治 せいじ ・経済 けいざい ・軍事 ぐんじ のすべての成功 せいこう を実現 じつげん した稀代 きたい の大 だい 政治 せいじ 家 か であると考 かんが えられている。「黄金 おうごん の自由 じゆう 」に関 かん するヤン・ザモイスキの開明 かいめい 的 てき 思想 しそう や政治 せいじ 態度 たいど は、その後 ご もザモイスキ家 か をはじめとした多 おお くの人々 ひとびと に受 う け継 つ がれ、彼 かれ の時代 じだい から2世紀 せいき の後 のち にポーランドが存亡 そんぼう の危機 きき に面 めん した際 さい ヨーロッパ初 はつ の民主 みんしゅ 主義 しゅぎ 成文 せいぶん 憲法 けんぽう (5月3日 にち 憲法 けんぽう )を制定 せいてい した基礎 きそ となっていった。
対外 たいがい 戦争 せんそう の時代 じだい
編集 へんしゅう
ポーランド=リトアニア=スウェーデン同君 どうくん 連合 れんごう
ジグムント3世 せい ワルシャワ王宮 おうきゅう 前 まえ の王 おう 柱 はしら 頂上 ちょうじょう の立像 りつぞう
1619年 ねん のポーランド=リトアニア共和 きょうわ 国 こく の版図 はんと (赤 あか い太線 ふとせん 内 ない の5色 しょく の地方 ちほう )と現在 げんざい の国々 くにぐに の国境 こっきょう 線 せん
ウイーン防衛 ぼうえい を果 は たしローマ教皇 きょうこう に使者 ししゃ を送 おく り出 だ すヤン3世 せい
ドイツ騎士 きし 団 だん と苦戦 くせん が続 つづ き、トルコ人 じん のオスマン帝国 ていこく とクリミア・タタール人 じん のクリミア・ハン国 こく と領土 りょうど をめぐり何 なん 世紀 せいき にもわたり抗戦 こうせん となり、そしてモスクワ大公 たいこう 国 こく と何 なん 度 ど も対戦 たいせん するリトアニアを援護 えんご した。当時 とうじ ヨーロッパにおいて大 おお きな国家 こっか のひとつであったリトアニア大公 たいこう 国 こく は、自国 じこく を防衛 ぼうえい する必要 ひつよう に迫 せま られた。この時期 じき の戦争 せんそう と外交 がいこう 政策 せいさく は大 だい 規模 きぼ な領土 りょうど 拡張 かくちょう を生 う むことはなかったが、国家 こっか を深刻 しんこく な戦乱 せんらん に巻 ま き込 こ まなかった。国 くに は封建 ほうけん 制 せい となり農業 のうぎょう 国 こく として発展 はってん した。1533年 ねん にオスマン帝国 ていこく との「恒久 こうきゅう 平和 へいわ 」で侵略 しんりゃく の脅威 きょうい を免 まぬか れることができた。この時期 じき にシュラフタ が発展 はってん した[11] 。1592年 ねん 、ポーランド=リトアニア共和 きょうわ 国 こく はスウェーデン王国 おうこく と同君 どうくん 連合 れんごう となった。時 とき の国王 こくおう ジグムント3世 せい (スウェーデン国王 こくおう としての名 な はジギスムント)はスウェーデン生 う まれであるが、母 はは がヤギェウォ家 か のポーランド人 じん だったこともあって若 わか いときからポーランドに住 す み、ポーランドの教育 きょういく を受 う けていた。彼 かれ は、軍隊 ぐんたい のような高 たか い規律 きりつ 意識 いしき を持 も つ組織 そしき 行動 こうどう によって全 ぜん 世界 せかい における対抗 たいこう 宗教 しゅうきょう 改革 かいかく の尖峰 せんぽう となっていたイエズス会 かい によって教育 きょういく され、歴代 れきだい の王 おう のうちでもっとも熱狂 ねっきょう 的 てき なローマ・カトリック の闘士 とうし となった。戴冠 たいかん した当初 とうしょ は当時 とうじ の首都 しゅと であったクラクフ に居 きょ を構 かま えていたが、1596年 ねん には将来 しょうらい のスカンジナヴィア諸国 しょこく 、バルト海 ばるとかい 沿岸 えんがん 地域 ちいき 、ルーシ諸国 しょこく といったヨーロッパ北方 ほっぽう 全域 ぜんいき のカトリック化 か を念頭 ねんとう に置 お いた最前線 さいぜんせん 基地 きち としてワルシャワ に遷都 せんと した。以後 いご 、現在 げんざい までワルシャワがポーランドの首都 しゅと となる。彼 かれ は常 つね にイエズス会 かい の代表 だいひょう 者 しゃ 的 てき な立場 たちば にあった。彼 かれ が同時 どうじ に王位 おうい に就 つ いていたスウェーデンでは、彼 かれ の留守 るす 中 ちゅう に叔父 おじ で摂政 せっしょう を務 つと めていたプロテスタント 教徒 きょうと のカールの反乱 はんらん が起 お き、ジグムント3世 せい は反乱 はんらん 鎮圧 ちんあつ とスウェーデンのカトリック化 か を目指 めざ してスウェーデンに軍 ぐん を進 すす めたが鎮圧 ちんあつ に失敗 しっぱい 、1599年 ねん にスウェーデン王位 おうい をカールに簒奪 さんだつ され、ポーランド=スウェーデン同君 どうくん 連合 れんごう は解消 かいしょう した。
1611年 ねん 、ジグムント3世 せい はモスクワ大公 たいこう 国 こく の自由 じゆう 主義 しゅぎ 的 てき な大 だい 公国 こうこく 貴族 きぞく (ボヤーレ )たちの求 もと めに応 おう じて東方 とうほう へと侵攻 しんこう し、モスクワ市 し を占領 せんりょう した(ロシア・ポーランド戦争 せんそう )。ジグムント3世 せい が占領 せんりょう 中 ちゅう に「ロシア皇帝 こうてい 位 くらい にはカトリック教徒 きょうと のポーランド国王 こくおう あるいはその王 おう 太子 たいし のみが就 つ く」という布告 ふこく を出 だ したことから、正 せい 教徒 きょうと であるロシア人 じん との間 あいだ で宗教 しゅうきょう 的 てき 対立 たいりつ を生 しょう じ、ロシア保守 ほしゅ 主義 しゅぎ 者 しゃ が一般 いっぱん 市民 しみん を巻 ま き込 こ んで住民 じゅうみん 蜂起 ほうき を起 お こした。モスクワ市内 しない の占領 せんりょう 軍 ぐん は孤立 こりつ し、籠城 ろうじょう の末 すえ に玉砕 ぎょくさい し大公 たいこう 国 こく にいた残 のこ りのポーランド軍 ぐん は1612年 ねん までに撤退 てったい した。度重 たびかさ なる戦争 せんそう (ポーランド・スウェーデン戦争 せんそう 、大 だい 洪水 こうずい 時代 じだい )によりポーランド=リトアニア連合 れんごう 王国 おうこく の政府 せいふ 財政 ざいせい は急速 きゅうそく に悪化 あっか していった。
1683年 ねん にオスマン帝国 ていこく による第 だい 二 に 次 じ ウィーン包囲 ほうい を撃退 げきたい し、全 ぜん ヨーロッパの英雄 えいゆう となったヤン3世 せい ソビエスキ 王 おう は以後 いご 、行 い き過 す ぎた地方 ちほう 分権 ぶんけん による無 む 政府 せいふ 状態 じょうたい 化 か の阻止 そし を目指 めざ し、中央 ちゅうおう 政府 せいふ の権力 けんりょく を強 つよ めるため世襲 せしゅう 王政 おうせい の実現 じつげん と、王 おう およびセイム(国会 こっかい )のそれぞれの権限 けんげん の明確 めいかく 化 か による立憲 りっけん 君主 くんしゅ 制 せい の確立 かくりつ を画策 かくさく するなど王国 おうこく 再興 さいこう を目指 めざ して奔走 ほんそう したが、志 こころざし 半 なか ばで没 ぼっ した。その後 ご 、王国 おうこく の中央 ちゅうおう 政府 せいふ の権限 けんげん は急速 きゅうそく に弱 よわ まり、国庫 こっこ は逼迫 ひっぱく し、国力 こくりょく は衰退 すいたい していった。
近代 きんだい 民主 みんしゅ 主義 しゅぎ 成文 せいぶん 憲法 けんぽう の成立 せいりつ とポーランド分割 ぶんかつ
編集 へんしゅう
プリンス・ユゼフ・ポニャトフスキ将軍 しょうぐん
タデウシュ・コシチュシュコ将軍 しょうぐん
五月 ごがつ 三 さん 日 にち 憲法 けんぽう 時代 じだい のポーランドグダンスク (ダンツィヒ)が飛 と び地 ち になっている
ポーランド分割 ぶんかつ
18世紀 せいき に入 はい ると国王 こくおう 選挙 せんきょ に対 たい する外国 がいこく の干渉 かんしょう が深刻 しんこく になり、大 だい 北方 ほっぽう 戦争 せんそう やポーランド継承 けいしょう 戦争 せんそう (1733年 ねん - 1735年 ねん )をはじめとする戦争 せんそう や内戦 ないせん が繰 く り返 かえ されるようになった。ポーランドに隣接 りんせつ するロシア帝国 ていこく 、プロイセン王国 おうこく 、オーストリアの三 さん 強国 きょうこく は、1772年 ねん 、1793年 ねん 、1795年 ねん 、1815年 ねん の4度 ど にわたってポーランド分割 ぶんかつ を行 おこな った。
18世紀 せいき 後半 こうはん にはポーランド=リトアニア共和 きょうわ 国 こく の国土 こくど が他国 たこく に分割 ぶんかつ 占領 せんりょう (ポーランド分割 ぶんかつ )された。1772年 ねん に第 だい 一 いち 次 じ ポーランド分割 ぶんかつ が行 おこな われたあと、スタニスワフ2世 せい 王 おう と支持 しじ 者 しゃ は、ポーランド=リトアニア連合 れんごう 王国 おうこく の衰退 すいたい を止 と めようと国内 こくない の大改革 だいかいかく を断行 だんこう しようとした。1791年 ねん 、王 おう はヨーロッパ初 はつ の成文 せいぶん 憲法 けんぽう 案 あん を提出 ていしゅつ し、議会 ぎかい (セイム)はこれを可決 かけつ した(「5月3日 にち 憲法 けんぽう 」)。この憲法 けんぽう によって王権 おうけん の世襲 せしゅう 制 せい (選挙 せんきょ 王政 おうせい ではあるが以前 いぜん のように個人 こじん 選出 せんしゅつ ではなく王家 おうけ の一家 いっか を選出 せんしゅつ する)とともに立憲 りっけん 君主 くんしゅ 制 せい が成立 せいりつ し、それまで名 めい 目的 もくてき には緩 ゆる やかな連邦 れんぽう 制 せい をとっていて行政 ぎょうせい が非 ひ 効率 こうりつ だったポーランド=リトアニア共和 きょうわ 国 こく は名実 めいじつ ともに単一 たんいつ 国家 こっか となった。1793年 ねん 、議会 ぎかい によりワルシャワに国民 こくみん 教育 きょういく 委員 いいん 会 かい (Komisja Edukacji Narodowej, KEN)が設立 せつりつ された。
立憲 りっけん 君主 くんしゅ 制 せい 、民主 みんしゅ 主義 しゅぎ の王政 おうせい に反対 はんたい し貴族 きぞく の既得 きとく 権益 けんえき を維持 いじ しようとする改革 かいかく 抵抗 ていこう 勢力 せいりょく はロシア のエカチェリーナ2世 せい と結託 けったく した。ロシア軍 ぐん はポーランドに干渉 かんしょう 戦争 せんそう を起 お こした(ポーランド・ロシア戦争 せんそう )。この直後 ちょくご の1793年 ねん 、第 だい 二 に 次 じ ポーランド分割 ぶんかつ が行 おこな われた。1793 - 94年 ねん 、コシチューシュコが蜂起 ほうき を起 お こしたが鎮圧 ちんあつ された(コシチュシュコの蜂起 ほうき )。1795年 ねん 、第 だい 三 さん 次 じ ポーランド分割 ぶんかつ が行 おこな われ、ポーランド国家 こっか は消滅 しょうめつ した。その広大 こうだい な領地 りょうち はそのほとんどがポーランド東部 とうぶ に集中 しゅうちゅう しており、この地域 ちいき はロシア帝国 ていこく に組 く み込 こ まれた。マグナートの領地 りょうち は、各 かく 領主 りょうしゅ がロシア皇帝 こうてい に臣従 しんじゅう を誓 ちか うことを条件 じょうけん に守 まも られた。その後 ご 、スタニスワフ2世 せい はロシアの首都 しゅと サンクトペテルブルクに連行 れんこう され、妻子 さいし とともに半 なか ば軟禁 なんきん 生活 せいかつ を送 おく った。ポニャトフスキとコシチュシコはフランスへ亡命 ぼうめい し、再起 さいき を図 はか ることにした。
ナポレオン戦争 せんそう 中 ちゅう の1807年 ねん にはナポレオンによってワルシャワ公国 こうこく が建国 けんこく された。貴族 きぞく 共和 きょうわ 制 せい の復活 ふっかつ を望 のぞ む一部 いちぶ のポーランド人 じん は公国 こうこく を支持 しじ したが、実態 じったい はフランス帝国 ていこく の衛星 えいせい 国 こく に過 す ぎなかった。1815年 ねん 、ウィーン議定 ぎてい 書 しょ に基 もと づきワルシャワ公国 こうこく は解体 かいたい され、その4分 ぶん の3をロシア皇帝 こうてい の領土 りょうど としたうえで、ロシア皇帝 こうてい が国王 こくおう を兼務 けんむ するポーランド立憲 りっけん 王国 おうこく を成立 せいりつ させた。南部 なんぶ の都市 とし クラクフとその周辺 しゅうへん は、クラクフ共和 きょうわ 国 こく として一定 いってい の自治 じち が容認 ようにん された。西部 せいぶ はポズナン大公 たいこう 国 こく としてプロイセンの支配 しはい 下 か に置 お かれた。
ポーランド王位 おうい 継承 けいしょう 権 けん を持 も つポニャトフスキはナポレオン戦争 せんそう にフランス軍 ぐん の将軍 しょうぐん として参加 さんか 、1807年 ねん にポーランドはワルシャワ公国 こうこく として再 ふたた び独立 どくりつ した。しかし、その後 ご ロシアに侵攻 しんこう したフランス軍 ぐん の戦況 せんきょう は悪化 あっか し、撤退 てったい するフランス軍 ぐん がプロイセンのライプツィヒ で敗 やぶ れると、ポニャトフスキはフランス軍 ぐん の殿軍 でんぐん の総 そう 大将 たいしょう として果敢 かかん に戦 たたか い、全身 ぜんしん に5発 はつ の銃弾 じゅうだん を受 う けて華々 はなばな しく戦死 せんし した。ナポレオン が失脚 しっきゃく すると、1815年 ねん のウィーン会議 かいぎ によって、ポーランドはロシア皇帝 こうてい を元首 げんしゅ とするポーランド立憲 りっけん 王国 おうこく (会議 かいぎ 王国 おうこく )となった。多 おお くのポーランド人 じん が国外 こくがい 、特 とく にフランス に亡命 ぼうめい した。
独立 どくりつ 運動 うんどう の時代 じだい
編集 へんしゅう
ワルシャワ、ワジェンキ水上 すいじょう 宮殿 きゅうでん の庭園 ていえん にあるショパン像 ぞう
英雄 えいゆう エミリア・プラテル
十一月 じゅういちがつ 蜂起 ほうき
編集 へんしゅう
ポーランド立憲 りっけん 王国 おうこく における憲法 けんぽう は、ロシアによって無視 むし された。フランス やベルギー の革命 かくめい にポーランド軍 ぐん を派遣 はけん して介入 かいにゅう しようとしたことにポーランド全土 ぜんど で反対 はんたい 運動 うんどう が起 お こり、1830年 ねん ロシア帝国 ていこく からの独立 どくりつ および旧 きゅう ポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく の復活 ふっかつ を目指 めざ して「十一月 じゅういちがつ 蜂起 ほうき 」が起 お こったが翌年 よくねん に鎮圧 ちんあつ され、特 とく に貴族 きぞく であり、女性 じょせい 革命 かくめい 家 か でもあったエミリア・プラテル はシュラフタ (士族 しぞく 、ポーランド貴族 きぞく )の国民 こくみん 的 てき 英雄 えいゆう として後世 こうせい にその名 な を物語 ものがた っている。
ロシアに鎮圧 ちんあつ された一 いち 月 がつ 蜂起 ほうき 擬人 ぎじん 化 か されたポーランド(手前 てまえ の女性 じょせい )とリトアニア(奥 おく の女性 じょせい )
1856年 ねん にロシア帝国 ていこく がクリミア戦争 せんそう に敗 やぶ れて国力 こくりょく が弱体 じゃくたい 化 か すると、これを機 き にポーランド・リトアニア連合 れんごう 王国 おうこく の復活 ふっかつ を目指 めざ す人々 ひとびと が結集 けっしゅう し、1863年 ねん 、旧 きゅう ポーランド王国 おうこく 領 りょう と、旧 きゅう リトアニア大公 たいこう 国 こく 領 りょう で同時 どうじ に「一 いち 月 がつ 蜂起 ほうき 」を起 お こしたが、これもロシア帝国 ていこく によって鎮圧 ちんあつ された。数 かず 百 ひゃく 人 にん のポーランド貴族 きぞく が絞首刑 こうしゅけい にされ、十 じゅう 数 すう 万 まん 人 にん がシベリア のイルクーツク などに流刑 りゅうけい となった[12] 。
ビスマルクによるポーランド人 じん 抑圧 よくあつ 政策 せいさく と幻 まぼろし のポーランド王国 おうこく
編集 へんしゅう
プロイセン王国 おうこく 内 うち の旧 きゅう ポーランド王国 おうこく 領 りょう であるポーゼン州 しゅう (旧 きゅう ポズナン大公 たいこう 国 こく )では、1871年 ねん からはビスマルク の文化 ぶんか 闘争 とうそう により、ポーランド人 じん に対 たい する抑圧 よくあつ 政策 せいさく が行 おこな われた。文化 ぶんか 闘争 とうそう はドイツ人 じん も含 ふく めプロイセン王国 おうこく 内 ない のすべてのカトリック教徒 きょうと を対象 たいしょう とし、ポーランド人 じん は圧倒的 あっとうてき 多数 たすう がカトリック教徒 きょうと であったため、特 とく に抑圧 よくあつ の対象 たいしょう になった。カトリック教徒 きょうと に対 たい する文化 ぶんか 闘争 とうそう は1878年 ねん に頓挫 とんざ したが、ビスマルクはその後 ご もポーランド人 じん 抑圧 よくあつ 政策 せいさく を続 つづ けた。
ポーランド人 じん は抑圧 よくあつ に対 たい してポーランド文化 ぶんか をもって徹底 てってい 抵抗 ていこう した。抑圧 よくあつ 政策 せいさく によってかえってポーランド人 じん の「連帯 れんたい 」とカトリック信仰 しんこう は確固 かっこ たるものになった。ポーランド人 じん 抑圧 よくあつ 政策 せいさく はヴィルヘルム2世 せい がビスマルクを解任 かいにん したあとも続 つづ けられ、ドイツ帝国 ていこく が第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん で敗北 はいぼく した1918年 ねん に終了 しゅうりょう した。
ポーランド王国 おうこく の3人 にん の摂政 せっしょう と衛兵 えいへい
1916年 ねん 、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の最中 さいちゅう にドイツ帝国 ていこく によってその衛星 えいせい 国 こく としてのポーランド王国 おうこく が建国 けんこく された。国王 こくおう が決 き まるまでの間 あいだ としてハンス・ハルトヴィヒ・フォン・ベセラーが総督 そうとく となり、3人 にん のポーランド人 じん が摂政 せっしょう を務 つと め、6人 にん のポーランド人 じん 政治 せいじ 家 か が歴代 れきだい 首相 しゅしょう となった。
2人 ふたり の娘 むすめ がいずれもポーランドの名門 めいもん 大 だい 貴族 きぞく に嫁 とつ いでおり、自 みずか らもポーランドのジヴィエツ に住 す み流暢 りゅうちょう なポーランド語 ご を話 はな したオーストリア=ハンガリー帝国 ていこく の皇族 こうぞく カール・シュテファン大公 たいこう (ポーランド名 めい :カロル・ステファン・ハプスブルク)がポーランド国王 こくおう の最 さい 有力 ゆうりょく 候補 こうほ で、カール本人 ほんにん も積極 せっきょく 的 てき であった。しかしこの案 あん にはオーストリア皇帝 こうてい カール1世 せい が乗 の り気 き でなく、結局 けっきょく 最後 さいご までポーランド王国 おうこく の国王 こくおう となる人物 じんぶつ はついに決 き まらなかった。カール・シュテファンは1918年 ねん にポーランドが独立 どくりつ したあともポーランドに帰化 きか してジヴィエツに住 す み続 つづ け、1933年 ねん に当地 とうち で死去 しきょ した。子孫 しそん はポーランド人 じん として今 いま もガリツィア 地方 ちほう に住 す んでいる[13] 。
独立 どくりつ と第 だい 二 に 共和 きょうわ 国 こく
編集 へんしゅう
1918年 ねん 11月11日 にち に第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん が終結 しゅうけつ すると、ヴェルサイユ条約 じょうやく の民族 みんぞく 自決 じけつ の原則 げんそく により、旧 きゅう ドイツ帝国 ていこく とソビエト連邦 れんぽう から領土 りょうど が割譲 かつじょう され、ユゼフ・ピウスツキ を国家 こっか 元首 げんしゅ として共和 きょうわ 制 せい のポーランド国家 こっか が再生 さいせい した。
現 げん ポーランド領 りょう におけるドイツ帝国 ていこく 領 りょう だった地域 ちいき
ユゼフ・ピウスツキ
1920年 ねん にはソビエト連邦 れんぽう に対 たい する干渉 かんしょう 戦争 せんそう の一環 いっかん としてソビエトへ侵攻 しんこう し、ポーランド・ソビエト戦争 せんそう が発生 はっせい した。緒戦 しょせん には欧米 おうべい 、とりわけフランスからの援助 えんじょ を受 う け、ウクライナのキエフ近郊 きんこう まで迫 せま ったが、トゥハチェフスキー 率 ひき いる赤軍 せきぐん が猛 もう 反撃 はんげき を開始 かいし し、逆 ぎゃく にワルシャワ近郊 きんこう まで攻 せ め込 こ まれた。しかし、ピウスツキ将軍 しょうぐん のとった思 おも い切 き った機動 きどう 作戦 さくせん が成功 せいこう してポーランド軍 ぐん が赤軍 せきぐん の背後 はいご に回 まわ ると、ワルシャワ近郊 きんこう のソ連 それん の大軍 たいぐん は逆 ぎゃく にポーランド軍 ぐん に包囲 ほうい 殲滅 せんめつ されかねない状態 じょうたい となった。これにたじろいだトゥハチェフスキーは全 ぜん 軍 ぐん に撤退 てったい を指示 しじ 。結果 けっか 的 てき にポーランド軍 ぐん は赤軍 せきぐん を押 お し返 かえ すことに成功 せいこう し、「ヴィスワ川 がわ の奇跡 きせき 」と呼 よ ばれた。この戦争 せんそう は翌年 よくねん に停戦 ていせん した。
この戦 たたか いでソ連 それん 各地 かくち にいたポーランド人 じん が迫害 はくがい の危機 きき に陥 おちい り、子 こ どもたちだけは母国 ぼこく へ戻 もど したいとウラジオストク のポーランド人 じん により「ポーランド救済 きゅうさい 委員 いいん 会 かい 」が設立 せつりつ された。1919年 ねん にポーランドと国交 こっこう を結 むす んだばかりだった日本 にっぽん は、人道的 じんどうてき な見地 けんち から救済 きゅうさい に乗 の り出 だ した[14] 。同 どう 時期 じき に、シベリアやソ連 それん にいたユダヤ系 けい ポーランド人 じん により「ユダヤ人 じん 児童 じどう ・孤児 こじ の救済 きゅうさい 」は全 ぜん 世界 せかい に向 む けて救援 きゅうえん 援護 えんご を発信 はっしん していた。ソ連 それん の占領 せんりょう 下 か では、100万 まん 人 にん 以上 いじょう がシベリアや中央 ちゅうおう アジアに強制 きょうせい 移住 いじゅう させられた。
1922年 ねん に国家 こっか 元首 げんしゅ 職 しょく を引退 いんたい したピウスツキは、その後 ご の政界 せいかい の腐敗 ふはい を憂 うれ い、1926年 ねん にクーデター を起 お こして政権 せいけん を奪取 だっしゅ した。ピウスツキはポーランド国民 こくみん の圧倒的 あっとうてき 支持 しじ のもと、開発 かいはつ 独裁 どくさい を主導 しゅどう した。この時期 じき にポーランドの経済 けいざい は急速 きゅうそく に発展 はってん し、国力 こくりょく が強化 きょうか された。国民 こくみん のカリスマ であったピウスツキが1935年 ねん に死亡 しぼう すると、ユゼフ・ベック を中心 ちゅうしん としたピウスツキの部下 ぶか たちが集団 しゅうだん 指導 しどう 体制 たいせい で政権 せいけん を運営 うんえい したが、内政 ないせい ・外交 がいこう で失敗 しっぱい を繰 く り返 かえ し、その点 てん をナチス・ドイツ とソビエト連邦 れんぽう につけ込 こ まれるようになった。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん
編集 へんしゅう
ドイツ軍 ぐん に攻撃 こうげき されるワルシャワ王宮 おうきゅう
1939年 ねん 8月 がつ 、ナチス・ドイツ とソビエト連邦 れんぽう が締結 ていけつ した独 どく ソ不可侵 ふかしん 条約 じょうやく の秘密 ひみつ 条項 じょうこう によって、ポーランドの国土 こくど はドイツとソ連 それん の2か国 こく に東西 とうざい 分割 ぶんかつ され、ポーランドは消滅 しょうめつ することになる。1939年 ねん 9月 がつ 1日 にち 、グダニスク 近郊 きんこう のヴェステルプラッテ のポーランド軍 ぐん 陣地 じんち への砲撃 ほうげき を手始 てはじ めにドイツ軍 ぐん とスロヴァキア 軍 ぐん が、9月17日 にち には赤軍 せきぐん が東部 とうぶ 国境 こっきょう を越 こ えてポーランド侵攻 しんこう を開始 かいし してポーランド軍 ぐん を撃破 げきは し、ポーランド領土 りょうど はナチスドイツ、スロヴァキア、ソビエト連邦 れんぽう 、そしてソビエト占領 せんりょう 域内 いきない からヴィリニュス 地域 ちいき を譲 ゆず られたリトアニア の4か国 こく で分割 ぶんかつ 占領 せんりょう された。ポーランド亡命 ぼうめい 政府 せいふ は当初 とうしょ パリ、次 つ いでロンドンに拠点 きょてん を移 うつ し、戦中 せんちゅう のポーランド人 じん は国内外 こくないがい でさまざまな反 はん 独 どく 闘争 とうそう を展開 てんかい した。
独 どく ソ戦 せん でソ連 それん が反撃 はんげき に転 てん ずると、ドイツ占領 せんりょう 地域 ちいき はソ連 それん 軍 ぐん によって解放 かいほう されていった。1944年 ねん 8月 がつ 、ソ連 それん 側 がわ の呼 よ びかけによりレジスタンスポーランド国内 こくない 軍 ぐん やワルシャワ市民 しみん が蜂起 ほうき するワルシャワ蜂起 ほうき が起 お こったが、亡命 ぼうめい 政府 せいふ 系 けい の武装 ぶそう 蜂起 ほうき であったために赤軍 せきぐん は故意 こい に救援 きゅうえん を行 おこな わず、約 やく 20万 まん 人 にん が死亡 しぼう して蜂起 ほうき は失敗 しっぱい に終 お わった。
1945年 ねん にポーランドはソ連 それん の占領 せんりょう 下 か に置 お かれた。ポツダム会談 かいだん の決定 けってい によりポーランド人民 じんみん 共和 きょうわ 国 こく に定 さだ められた領土 りょうど は、東部 とうぶ のウクライナ・ベラルーシ西部 せいぶ をソ連 それん に割譲 かつじょう し、代 か わりにオドラ川 かわ 以西 いせい のドイツ領 りょう であるシロンスクなどを与 あた えられるというものであった。
ポーランド人民 じんみん 共和 きょうわ 国 こく
編集 へんしゅう
旧 きゅう 国境 こっきょう と新 しん 国境 こっきょう
1945年 ねん 5月 がつ 8日 にち から1989年 ねん 9月 がつ 7日 にち までの44年間 ねんかん は、マルクス・レーニン主義 しゅぎ のポーランド統一 とういつ 労働 ろうどう 者 しゃ 党 とう (PZPR ) が寡頭政治 かとうせいじ を敷 し くポーランド人民 じんみん 共和 きょうわ 国 こく の社会 しゃかい 主義 しゅぎ 体制 たいせい 時代 じだい であった。1945年 ねん 5月 がつ 8日 にち 、ドイツ降伏 ごうぶく によりポーランドは復活 ふっかつ 、その国 くに の形 かたち はアメリカ ・イギリス ・ソ連 それん のヤルタ会談 かいだん によって定 さだ められた。カティンの森 もり 事件 じけん でポーランド亡命 ぼうめい 政府 せいふ は、ソ連 それん の発表 はっぴょう の受 う け入 い れを拒否 きょひ 。スターリン は亡命 ぼうめい 政府 せいふ と関係 かんけい を断絶 だんぜつ した。ソ連 それん 主導 しゅどう のルブリン政権 せいけん が新 あら たなポーランド国家 こっか となった。
また領土 りょうど が戦前 せんぜん と比 くら べて大 おお きく西 にし 方向 ほうこう に平行 へいこう 移動 いどう した。ソ連 それん はポーランド侵攻 しんこう 以来 いらい 占拠 せんきょ していたポーランド東部 とうぶ を正式 せいしき に自国 じこく へ併合 へいごう した代 か わりに、ドイツ東部 とうぶ をポーランドに与 あた えた。これはスターリンが、992年 ねん にボレスワフ1世 せい が確定 かくてい したポーランド公国 こうこく 国境 こっきょう の回復 かいふく に固執 こしつ した結果 けっか で、新 あたら しい国境 こっきょう 線 せん はボレスワフ1世 せい 時代 じだい の国境 こっきょう 線 せん の位置 いち に非常 ひじょう に近 ちか いものとなった。軍事 ぐんじ 的 てき 理由 りゆう から、ドイツとの国境 こっきょう 線 せん はほぼ最短 さいたん となるように調整 ちょうせい された。これにより、敗戦 はいせん 国 こく ドイツは戦前 せんぜん の領土 りょうど の25%を失 うしな った。現在 げんざい の領土 りょうど の西側 にしがわ 3分 ぶん の1近 ちか くが戦前 せんぜん のドイツ領 りょう である。一方 いっぽう 、ソ連 それん に併合 へいごう された旧 きゅう ポーランド東部 とうぶ 地域 ちいき では、国境 こっきょう 変更 へんこう にともないポーランド系 けい 住民 じゅうみん 120万 まん 人 にん が退去 たいきょ してポーランドに移住 いじゅう してきた(ポーランド人 じん 人口 じんこう の移動 いどう (1944-1946) (英語 えいご 版 ばん ) )。
1952年 ねん 、ポーランド人民 じんみん 共和 きょうわ 国 こく はPZPR の一 いち 党 とう 独裁 どくさい 制 せい の政党 せいとう となり、ソ連 それん の最大 さいだい でもっとも重要 じゅうよう な衛星 えいせい 国 こく となった。冷戦 れいせん 中 なか 、ワルシャワ条約 じょうやく 機構 きこう や、1949年 ねん 1月 がつ 、西側 にしがわ のマーシャル=プラン に対抗 たいこう するものとして設立 せつりつ されたコメコン (経済 けいざい 協力 きょうりょく 機構 きこう )に参加 さんか した。社会 しゃかい 主義 しゅぎ 体制 たいせい への移行 いこう に伴 ともな い、密告 みっこく 、監視 かんし 、言論 げんろん 統制 とうせい を伴 ともな ったポーランドのソ連 それん 化 か が執行 しっこう され、政治 せいじ 、教育 きょういく 、文化 ぶんか 、一般 いっぱん 市民 しみん の生活 せいかつ などソ連 それん をモデルに構造 こうぞう 改革 かいかく された[15] 。ポーランド人民 じんみん 共和 きょうわ 国 こく の共産 きょうさん 主義 しゅぎ プロパガンダ (英語 えいご 版 ばん ) 。社会 しゃかい 主義 しゅぎ 政権 せいけん により、民族 みんぞく を問 と わずポーランドに居住 きょじゅう する住民 じゅうみん すべてを対象 たいしょう に財産 ざいさん の国有 こくゆう 化 か が行 おこな われ、これらドイツ人 じん が残 のこ した不動産 ふどうさん も国有 こくゆう 化 か された。ソ連 それん 、チェコスロバキア 、東 ひがし ドイツ 、ハンガリー などの同 おな じ東側 ひがしがわ 諸国 しょこく のように集団 しゅうだん 農場 のうじょう と個人 こじん 農地 のうち は国有 こくゆう 化 か された[16] 。
1950年代 ねんだい から1980年代 ねんだい の典型 てんけい 的 てき なポーランドの様子 ようす 、国営 こくえい 商店 しょうてん に並 なら ぶ市民 しみん
ポーランド政府 せいふ はおもに西側 にしがわ 諸国 しょこく からの借入 かりい れを繰 く り返 かえ し、無計画 むけいかく な経済 けいざい 政策 せいさく と国家 こっか の物 もの 財 ざい バランスに基 もと づいた計画 けいかく によって配分 はいぶん される体制 たいせい の計画 けいかく 経済 けいざい により急激 きゅうげき なインフレ急騰 きゅうとう を招 まね き、食料 しょくりょう ・物資 ぶっし 不足 ふそく が長 なが く続 つづ いた。1973 - 74年 ねん のオイルショックも重 かさ なり、借入 かりい れによる市場 いちば 拡大 かくだい や経済 けいざい 成長 せいちょう は短期間 たんきかん で終 お わる。その国内 こくない 経済 けいざい を補 おぎな うため、さらなる借金 しゃっきん をして、政府 せいふ は1980年 ねん までに230億 おく ドルの膨大 ぼうだい な負債 ふさい を抱 かか える。このような状況 じょうきょう により、闇市 やみいち が盛 さか んになり欠乏 けつぼう 経済 けいざい (英語 えいご 版 ばん ) を発達 はったつ させ、市民 しみん によるデモ、ストライキ、暴動 ぼうどう などが頻繁 ひんぱん に起 お こった[15] 。社会 しゃかい 退廃 たいはい は、生物 せいぶつ 学 がく 的 てき 環境 かんきょう と心身 しんしん の健康上 けんこうじょう でひどい悪化 あっか を伴 ともな い死亡 しぼう 率 りつ は上昇 じょうしょう した。PZPRは、高 こう インフレや貧困 ひんこん な生活 せいかつ 水準 すいじゅん 、市民 しみん の怒 いか りと不満 ふまん により再 ふたた び社会 しゃかい 的 てき 爆発 ばくはつ の勃発 ぼっぱつ を恐 おそ れた政権 せいけん は、自 みずか ら統制 とうせい できないシステムで困惑 こんわく し、力 ちから のなさを感 かん じた[17] 。1979年 ねん 6月 がつ にポーランド人 じん ローマ教皇 きょうこう ヨハネ・パウロ2世 せい が故国 ここく ポーランドを訪 おとず れ、マルクス・レーニン主義 しゅぎ 無 む 神 かみ 論 ろん (英語 えいご 版 ばん ) の政府 せいふ に宗教 しゅうきょう を弾圧 だんあつ されていた国民 こくみん は熱狂 ねっきょう 的 てき に迎 むか えた。1980年 ねん 9月 がつ 17日 にち には独立 どくりつ 自主 じしゅ 管理 かんり 労働 ろうどう 組合 くみあい 「連帯 れんたい 」 が結成 けっせい された。
ポーランドを訪問 ほうもん する教皇 きょうこう ヨハネ・パウロ2世 せい
1981年 ねん - 1983年 ねん 、ポーランドの戒厳 かいげん 令 れい の期間 きかん に政府 せいふ は反 はん 政府 せいふ を潰 つぶ すために戒厳 かいげん を導入 どうにゅう 、市民 しみん の通常 つうじょう の生活 せいかつ は劇的 げきてき に制限 せいげん され[18] 、数 すう 千 せん 人 にん のジャーナリストや反対 はんたい 勢力 せいりょく 活動 かつどう 家 か は投獄 とうごく 、ほか100人 にん [18] ほどが抹殺 まっさつ された。夜間 やかん 外出 がいしゅつ 禁止 きんし 令 れい 、国境 こっきょう 封鎖 ふうさ 、空港 くうこう 閉鎖 へいさ 、電話 でんわ 回線 かいせん の遮断 しゃだん 、政府 せいふ による郵便 ゆうびん 物 ぶつ 内容 ないよう 検査 けんさ などが執行 しっこう された。軍 ぐん 裁判所 さいばんしょ は、偽造 ぎぞう 情報 じょうほう 発信 はっしん 者 しゃ 達 たち を逮捕 たいほ した[19] 。戒厳 かいげん 令 れい 後 ご も、市民 しみん の自由 じゆう 権 けん はひどく制限 せいげん された。
ワルシャワ大学前 だいがくまえ での「連帯 れんたい 」運動 うんどう
軍事 ぐんじ 政権 せいけん により価格 かかく は引 ひ き上 あ げられ、深刻 しんこく な経済 けいざい 危機 きき となる。経済 けいざい 危機 きき は、おもな食料 しょくりょう ・日 にち 用品 ようひん ・生活 せいかつ 必需 ひつじゅ 品 ひん ・物資 ぶっし の配給 はいきゅう 制 せい となり平均 へいきん 所得 しょとく は40%下落 げらく した[20] 。西洋 せいよう の娯楽 ごらく 品 ひん の入手 にゅうしゅ は非常 ひじょう に厳 いかめ しかったが、それも一層 いっそう 困難 こんなん 化 か した[21] 。ヤルゼルスキ のもと、借金 しゃっきん は1980年 ねん までの230億 おく ドルが400億 おく ドルになった[22] 。行政 ぎょうせい マネージメントの欠如 けつじょ 、生産 せいさん 構造 こうぞう の悪 わる さ、物資 ぶっし の欠乏 けつぼう は労働 ろうどう 者 しゃ のモラルを低下 ていか させ、働 はたら き盛 ざか り年代 ねんだい である64万 まん 人 にん が1981年 ねん - 1989年 ねん の間 あいだ に難民 なんみん となり他国 たこく へ移民 いみん した[23] 。ソ連 それん の支配 しはい する体制 たいせい による抑圧 よくあつ に抵抗 ていこう する市民 しみん による民主 みんしゅ 化 か 運動 うんどう はこの時期 じき に拡大 かくだい していった。
第 だい 三 さん 共和 きょうわ 国 こく
編集 へんしゅう
レフ・ヴァウェンサ(ワレサ) 第 だい 三 さん 共和 きょうわ 制 せい 初代 しょだい 大統領 だいとうりょう
1989年 ねん 6月 がつ 18日 にち 、円卓 えんたく 会議 かいぎ を経 へ て実施 じっし された総 そう 選挙 せんきょ (下院 かいん の35%と上院 じょういん で自由 じゆう 選挙 せんきょ 実施 じっし )により、ポーランド統一 とういつ 労働 ろうどう 者 しゃ 党 とう はほぼ潰滅 かいめつ 状態 じょうたい に陥 おちい り、1989年 ねん 9月 がつ 7日 にち には非 ひ 共産党 きょうさんとう 政府 せいふ の成立 せいりつ によって民主 みんしゅ 化 か が実現 じつげん し、ポーランド人民 じんみん 共和 きょうわ 国 こく と統一 とういつ 労働 ろうどう 者 しゃ 党 とう は潰滅 かいめつ した。この1989年 ねん 9月 がつ 7日 にち から現在 げんざい までは「第 だい 三 さん 共和 きょうわ 国 こく 」と呼 よ ばれる国家 こっか であり、民主 みんしゅ 共和 きょうわ 政体 せいたい を敷 し く民主 みんしゅ 国家 こっか 時代 じだい である。
共産 きょうさん 主義 しゅぎ 政権 せいけん からの膨大 ぼうだい な借金 しゃっきん と経済 けいざい 危機 きき がますます深刻 しんこく 化 か し、政治 せいじ を不安定 ふあんてい 化 か させた[24] 。西側 にしがわ 諸国 しょこく の機関 きかん は、すでに破産 はさん しているポーランド政府 せいふ には貸付 かしつけ を延長 えんちょう しなかった。ポーランド政府 せいふ は西側 にしがわ 諸国 しょこく や日本 にっぽん などの先進 せんしん 国 こく に食糧 しょくりょう や経済 けいざい ・技術 ぎじゅつ 支援 しえん を強 つよ く要請 ようせい し国民 こくみん の飢餓 きが を逃 のが れた。
1990年 ねん 11月14日 にち には統一 とういつ ドイツ との間 あいだ で国境 こっきょう 線 せん を最終 さいしゅう 確認 かくにん する条約 じょうやく が交 か わされ(旧 きゅう 西 にし ドイツ は、旧 きゅう 東 ひがし ドイツ とポーランド人民 じんみん 共和 きょうわ 国 こく が1950年 ねん 7月 がつ 6日 にち に交 か わした国境 こっきょう 線 せん 画定 かくてい 条約 じょうやく の効力 こうりょく を認 みと めていなかった)、ドイツとの領土 りょうど 問題 もんだい は終了 しゅうりょう した。1993年 ねん 、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん からポーランドに駐留 ちゅうりゅう していたロシア連邦 れんぽう 軍 ぐん (旧 きゅう ソビエト連邦 れんぽう 軍 ぐん )が、ポーランドから全面 ぜんめん 撤退 てったい した。1997年 ねん には憲法 けんぽう の大幅 おおはば な改正 かいせい が行 おこな われ、行政 ぎょうせい 権 けん が大統領 だいとうりょう から首相 しゅしょう へ大幅 おおはば に委譲 いじょう され、首相 しゅしょう が政治 せいじ の実権 じっけん を握 にぎ ることとなった。1999年 ねん 、北大西洋 きたたいせいよう 条約 じょうやく 機構 きこう (NATO)に加盟 かめい した。
2004年 ねん 5月 がつ 1日 にち 、ポーランドは欧州 おうしゅう 連合 れんごう (EU)に加盟 かめい した。2007年 ねん 12月21日 にち には国境 こっきょう 審査 しんさ が完全 かんぜん に撤廃 てっぱい されるシェンゲン協定 きょうてい に加盟 かめい し、他 た のシェンゲン協定 きょうてい 加盟 かめい 諸国 しょこく とポーランドの間 あいだ での陸路 りくろ での国境 こっきょう 審査 しんさ が撤廃 てっぱい された。2008年 ねん 3月 がつ 30日 にち には空路 くうろ での国境 こっきょう 審査 しんさ が撤廃 てっぱい され、これでほかのシェンゲン協定 きょうてい 加盟 かめい 諸国 しょこく とポーランドの間 あいだ でのすべての国境 こっきょう 審査 しんさ が撤廃 てっぱい されたことになる。現在 げんざい では、ポーランド人 じん ならばパスポート なしでシェンゲン協定 きょうてい 加盟 かめい 国 こく 同士 どうし の往来 おうらい が可能 かのう であり、シェンゲン協定 きょうてい 加盟 かめい 国 こく に一 いち 度 ど 入国 にゅうこく した旅行 りょこう 客 きゃく はどのシェンゲン協定 きょうてい 加盟 かめい 国 こく からでも国境 こっきょう 審査 しんさ なしでポーランドに自由 じゆう に出入国 しゅつにゅうこく をすることができる。
レフ・カチンスキ 第 だい 三 さん 共和 きょうわ 制 せい 第 だい 4代 だい 大統領 だいとうりょう
ここまで自由 じゆう 民主 みんしゅ 主義 しゅぎ 国家 こっか として進 すす んできたが、2005年 ねん 、欧州 おうしゅう 連合 れんごう (EU)の権限 けんげん 拡大 かくだい に懐疑 かいぎ 的 てき で、経済 けいざい における自 じ 国民 こくみん の利益 りえき 擁護 ようご と、共産 きょうさん 主義 しゅぎ 時代 じだい から引 ひ き継 つ がれたシステムや人事 じんじ の完全 かんぜん 撤廃 てっぱい を掲 かか げた、高齢 こうれい 者 しゃ 、低 てい 学歴 がくれき 層 そう 、小規模 しょうきぼ 農家 のうか 、国営 こくえい 大 だい 企業 きぎょう の経営 けいえい 者 しゃ や従業 じゅうぎょう 員 いん からの支持 しじ の強 つよ いキリスト教 きりすときょう 民主 みんしゅ 主義 しゅぎ のカトリック 系 けい 保守 ほしゅ 主義 しゅぎ 政党 せいとう 「法 ほう と正義 まさよし (PiS)」が総 そう 選挙 せんきょ で勝利 しょうり し、農村 のうそん 型 がた の大衆 たいしゅう 主義 しゅぎ 政党 せいとう 「自衛 じえい 」、カトリックのレデンプトール会 かい 系 けい の国民 こくみん 保守 ほしゅ 主義 しゅぎ の小 しょう 政党 せいとう 「ポーランド家族 かぞく 同盟 どうめい 」とともに保守 ほしゅ ・大衆 たいしゅう 主義 しゅぎ 連立 れんりつ 政権 せいけん を発足 ほっそく させた。同時 どうじ に行 おこな われた大統領 だいとうりょう 選挙 せんきょ では最大 さいだい のライバルであるドナルド・トゥスク (「市民 しみん プラットフォーム 」)との間 あいだ で決選 けっせん 投票 とうひょう を行 おこな った、レフ・カチンスキ (「法 ほう と正義 まさよし 」)が当選 とうせん した。
ヤロスワフ・カチンスキ 率 ひき いる連立 れんりつ 政権 せいけん は政治 せいじ 路線 ろせん をめぐってなかなか足並 あしな みがそろわず、政権 せいけん 運営 うんえい が難航 なんこう するとともに、国際 こくさい 社会 しゃかい においても欧州 おうしゅう 連合 れんごう やロシア と軋轢 あつれき を起 お こした。その後 ご 、連立 れんりつ 政党 せいとう 「自衛 じえい 」の党首 とうしゅ アンジェイ・レッペルの収賄 しゅうわい 疑惑 ぎわく がカチンスキ首相 しゅしょう に伝 つた えられると、首相 しゅしょう は政権 せいけん 維持 いじ を惜 お しまず2007年 ねん 9月 がつ 7日 にち に議会 ぎかい を解散 かいさん する。
この解散 かいさん を受 う けて2007年 ねん 10月 がつ 21日 にち に行 おこな われた総 そう 選挙 せんきょ では、欧州 おうしゅう 連合 れんごう (EU)との関係 かんけい 強化 きょうか 、ユーロ導入 どうにゅう に積極 せっきょく 的 てき で若者 わかもの 、高学歴 こうがくれき 層 そう 、商工 しょうこう 民 みん 、新興 しんこう 企業 きぎょう の経営 けいえい 者 しゃ や従業 じゅうぎょう 員 いん からの支持 しじ が強 つよ い都市 とし 型 かた 中道右派 ちゅうどううは 政党 せいとう 「市民 しみん プラットフォーム 」が勝利 しょうり を収 おさ める。一方 いっぽう で、大 おお きく議席 ぎせき 数 すう が変化 へんか することが少 すく ないといわれるドント方式 ほうしき の比例 ひれい 代表 だいひょう 制 せい の選挙 せんきょ にもかかわらず、それまでの政権 せいけん 運営 うんえい に失望 しつぼう した有権者 ゆうけんしゃ によって「法 ほう と正義 まさよし 」は大幅 おおはば に議席 ぎせき を失 うしな う。また、連立 れんりつ 政権 せいけん に参加 さんか すると急速 きゅうそく に有権者 ゆうけんしゃ の支持 しじ を失 うしな っていった「自衛 じえい 」と「ポーランド家族 かぞく 同盟 どうめい 」といった国民 こくみん 保守 ほしゅ 主義 しゅぎ ・大衆 たいしゅう 主義 しゅぎ 的 てき な小 しょう 政党 せいとう は、この2007年 ねん 選挙 せんきょ で議会 ぎかい におけるすべての議席 ぎせき を喪失 そうしつ した。
最大 さいだい 政党 せいとう の「市民 しみん プラットフォーム」の議席 ぎせき は過半数 かはんすう (231議席 ぎせき )に満 み たなかったため、中規模 ちゅうきぼ 専業 せんぎょう 農家 のうか の支持 しじ する農村 のうそん 型 かた 中道右派 ちゅうどううは 政党 せいとう 「ポーランド農民 のうみん 党 とう 」と連立 れんりつ 政権 せいけん を発足 ほっそく 。首相 しゅしょう に「市民 しみん プラットフォーム」の若 わか い党首 とうしゅ ドナルド・トゥスク が就任 しゅうにん した。トゥスクは中道右派 ちゅうどううは として中小 ちゅうしょう 企業 きぎょう 保護 ほご 政策 せいさく などを打 う ち出 だ す一方 いっぽう 、対外 たいがい 的 てき には宥和 ゆうわ 政策 せいさく を採 と り、長年 ながねん 遺恨 いこん のあるドイツやロシアとも一定 いってい の歩 あゆ み寄 よ りも見 み せた[25] 。
2009年 ねん 11月27日 にち 、「鎌 かま と槌 づち 」や「赤 あか い星 ほし 」など共産 きょうさん 主義 しゅぎ のマークを禁止 きんし する法律 ほうりつ が可決 かけつ [26] [27] 。しかしこれは公的 こうてき 機関 きかん における使用 しよう 禁止 きんし 措置 そち であり民間 みんかん では自由 じゆう に使用 しよう できるため観光 かんこう 都市 とし クラクフ では共産 きょうさん 主義 しゅぎ 的 てき な雰囲気 ふんいき が残 のこ っており、共産 きょうさん 主義 しゅぎ のマークを問題 もんだい なく使用 しよう している[28] 。
12月1日 にち に、民主 みんしゅ 化 か 以来 いらい 初 はつ の首相 しゅしょう 再選 さいせん も果 は たしたトゥスクがEU大統領 だいとうりょう に就任 しゅうにん され、首相 しゅしょう は辞任 じにん することとなった。
2014年 ねん 3月 がつ にロシアによるクリミアの併合 へいごう が起 お きると民族 みんぞく 主義 しゅぎ が高 たか まり、ロシアだけでなく、ロシアにエネルギー資源 しげん を依存 いぞん するドイツも批判 ひはん した(ただし、ポーランドもロシアに依存 いぞん している)[29] 。
2015年 ねん の選挙 せんきょ では「法 ほう と正義 まさよし (PiS)」が勝利 しょうり 、、憲法 けんぽう 違反 いはん の疑 うたが いのある法律 ほうりつ を次々 つぎつぎ に制定 せいてい し、違憲 いけん 審査 しんさ 権 けん を行使 こうし する憲法 けんぽう 法廷 ほうてい (憲法 けんぽう 裁判所 さいばんしょ )の掌握 しょうあく を進 すす め[30] 、EUとの対立 たいりつ が深 ふか まった[31] [32] [33] 。
2022年 ねん 11月16日 にち 、ロシアによるウクライナ侵攻 しんこう 中 ちゅう 、ポーランドにロシア製 せい のミサイルが着弾 ちゃくだん し、市民 しみん 二 に 人 にん が死亡 しぼう した。ミサイルによる被害 ひがい はNATOの歴史 れきし 、加盟 かめい 国 こく にとって初 はつ の事例 じれい となった(詳細 しょうさい は2022年 ねん ポーランドでのミサイル爆発 ばくはつ )[34] 。
出典 しゅってん は列挙 れっきょ するだけでなく、脚注 きゃくちゅう などを用 もち いてどの記述 きじゅつ の情報 じょうほう 源 げん であるかを明記 めいき してください。記事 きじ の信頼 しんらい 性 せい 向上 こうじょう にご協力 きょうりょく をお願 ねが いいたします。(2022年 ねん 1月 がつ )
大統領 だいとうりょう 宮殿 きゅうでん (ルボミルスキ ・ラジヴィウ家 か 旧 きゅう 邸 やしき )
ポーランド下院 かいん (セイム)
政治 せいじ 体制 たいせい は共和 きょうわ 制 せい 。国家 こっか 元首 げんしゅ は大統領 だいとうりょう (任期 にんき 5年 ねん )である。かつては大 おお きな政治 せいじ 権力 けんりょく を託 たく されていたが、1997年 ねん の憲法 けんぽう 改正 かいせい により政治 せいじ の実権 じっけん は首相 しゅしょう に移 うつ り、現在 げんざい は儀礼 ぎれい 的 てき な権限 けんげん しか持 も たない。下院 かいん で可決 かけつ した法案 ほうあん の拒否 きょひ 権 けん があるが、下院 かいん が再度 さいど 可決 かけつ した場合 ばあい にはその法案 ほうあん は成立 せいりつ する。軍 ぐん の最高 さいこう 司令 しれい 官 かん でもあるが、これも象徴 しょうちょう 的 てき なものであり、実際 じっさい の指揮 しき 権 けん は首相 しゅしょう が持 も つ。
行政 ぎょうせい は、1997年 ねん 制定 せいてい の憲法 けんぽう では閣僚 かくりょう 評議 ひょうぎ 会 かい (内閣 ないかく )が「ポーランド共和 きょうわ 国 こく の内政 ないせい 及 およ び外交 がいこう 政策 せいさく を実施 じっし する」(第 だい 146条 じょう 1項 こう )、「政府 せいふ 行政 ぎょうせい を指揮 しき する」(第 だい 146条 じょう 3項 こう )となっているため[35] 、閣僚 かくりょう 評議 ひょうぎ 会 かい 議長 ぎちょう (首相 しゅしょう の正式 せいしき 名称 めいしょう )が強大 きょうだい な政治 せいじ 的 てき 権力 けんりょく を有 ゆう して実際 じっさい の国政 こくせい を行 おこな う議院 ぎいん 内 ない 閣 かく 制 せい になっている。首相 しゅしょう は大統領 だいとうりょう が任命 にんめい するが、14日 にち 以内 いない に議会 ぎかい の下院 かいん に当 あ たるセイム (sejm)の信任 しんにん を受 う ける必要 ひつよう があるため(憲法 けんぽう 第 だい 154条 じょう 2項 こう )、実際 じっさい には議会 ぎかい の多数 たすう 派 は から選 えら ばれる。閣僚 かくりょう は議会 ぎかい の多数 たすう 派 は から、首相 しゅしょう の提案 ていあん に基 もと づき大統領 だいとうりょう が指名 しめい する。現在 げんざい の首相 しゅしょう はマテウシュ・モラヴィエツキ 。
立法 りっぽう はセイム(議会 ぎかい )とセナト(元老 げんろう 院 いん )の二院 にいん 制 せい 議会 ぎかい (Zgromadzenie Narodowe)によって行 おこな われる。
下院 かいん (セイム、Sejm)
「議会 ぎかい 」の意 い 。定数 ていすう 460名 めい 。下院 かいん は立法 りっぽう の役割 やくわり が主体 しゅたい であり、政党 せいとう の資質 ししつ や能力 のうりょく が大事 だいじ であるとの考 かんが えからドント方式 ほうしき の非 ひ 拘束 こうそく 名簿 めいぼ 式 しき 比例 ひれい 代表 だいひょう 制 せい 。議席 ぎせき 獲得 かくとく には全国 ぜんこく 投票 とうひょう の合計 ごうけい で政党 せいとう が5%以上 いじょう 、選挙 せんきょ 委員 いいん 会 かい (政党 せいとう 連合 れんごう )は8%以上 いじょう の得票 とくひょう が必要 ひつよう 。シングルイシュー政党 せいとう (全体 ぜんたい の政策 せいさく や理念 りねん でなく特定 とくてい の政策 せいさく のみで集 あつ まった人々 ひとびと の政党 せいとう )の出現 しゅつげん や少数 しょうすう 政党 せいとう の乱立 らんりつ といった事態 じたい を未然 みぜん に防止 ぼうし するためである。少数 しょうすう 民族 みんぞく の大半 たいはん を占 し めるドイツ系 けい 住民 じゅうみん の民族 みんぞく 優先 ゆうせん 枠 わく として、ドイツ民族 みんぞく 政党 せいとう は最高 さいこう 2議席 ぎせき まではこの最低 さいてい 得票 とくひょう 率 りつ ルールから除外 じょがい される(ドイツ民族 みんぞく 政党 せいとう は前回 ぜんかい の総 そう 選挙 せんきょ で獲得 かくとく 票数 ひょうすう が少 すく なかったため、現在 げんざい は1議席 ぎせき のみ確保 かくほ している)。立法府 りっぽうふ として、セイムは日本 にっぽん の衆議院 しゅうぎいん に相当 そうとう し、上院 じょういん より優先 ゆうせん される。
各党 かくとう の議席 ぎせき 数 すう (定数 ていすう 460)[36]
上院 じょういん (セナト、Senat)
「元老 げんろう 院 いん 」の意 い 。定数 ていすう 100名 めい 。上院 じょういん は立法 りっぽう や行政 ぎょうせい の監査 かんさ の役割 やくわり が主体 しゅたい であり、政党 せいとう よりも議員 ぎいん 個人 こじん の資質 ししつ や能力 のうりょく が重要 じゅうよう であるとの考 かんが えから、完全 かんぜん 小 しょう 選挙 せんきょ 区 く 制 せい 。
各党 かくとう の議席 ぎせき 数 すう (定数 ていすう 100)[37]
ポーランドの法 ほう 制度 せいど は、1,000年 ねん 以上 いじょう 前 まえ の同国 どうこく 地域 ちいき における歴史 れきし の最初 さいしょ の数 すう 世紀 せいき から発展 はってん して来 き た。ポーランドの公法 こうほう および私法 しほう は成文 せいぶん 化 か されている。傍 かたわ ら、ポーランドにおける最高 さいこう 法 ほう はポーランド憲法 けんぽう (英語 えいご 版 ばん ) に基 もと づいたものとなっている。
なお、ポーランドは民法 みんぽう の法的 ほうてき 管轄 かんかつ 権 けん を有 ゆう しており、ポーランド民法 みんぽう 典 てん という民法 みんぽう 典 てん が定 さだ められている。
国家 こっか 安全 あんぜん 保障 ほしょう
編集 へんしゅう
地方 ちほう 行政 ぎょうせい 区分 くぶん
編集 へんしゅう
古 ふる い街並 まちな みの向 む こうに高層 こうそう ビルが並 なら ぶ首都 しゅと ワルシャワ
ヴロツワフ
シュチェチン
ポーランド経済 けいざい は、2004年 ねん EU加盟 かめい 後 ご 、EU内 ない の先進 せんしん 地域 ちいき と貧 まず しい地域 ちいき の格差 かくさ を縮 ちぢ める目的 もくてき であるEU構造 こうぞう ファンド(EU Structural Funds)の融資 ゆうし 獲得 かくとく により経済 けいざい 成長 せいちょう を遂 と げている。失業 しつぎょう 率 りつ はEU平均 へいきん を超 こ えながら、経済 けいざい の豊 ゆた かさを比較 ひかく する指標 しひょう とされる1人 ひとり あたりの国内 こくない 総 そう 生産 せいさん 額 がく のGDPは、著 いちじる しくEU平均 へいきん 以下 いか のままとなっている[49] 。
世界 せかい 金融 きんゆう 危機 きき の余波 よは
編集 へんしゅう
若年 じゃくねん 人口 じんこう の多 おお さ に支 ささ えられて、近年 きんねん [いつ? ] は毎年 まいとし 4 - 6%前後 ぜんご の高 こう 成長 せいちょう を見 み せていたが、世界 せかい 的 てき な金融 きんゆう 危機 きき の余波 よは を受 う けたため、2009年 ねん の成長 せいちょう 率 りつ は、欧州 おうしゅう 委員 いいん 会 かい (EC)の予測 よそく では-1.4%、国際 こくさい 通貨 つうか 基金 ききん (IMF)の予測 よそく では-0.7%、欧州 おうしゅう 復興 ふっこう 開発 かいはつ 銀行 ぎんこう (EBRD)の予測 よそく では0%、ロイタ ろいた ー通信 つうしん 調査 ちょうさ のポーランド国内外 こくないがい の民間 みんかん 金融 きんゆう 機関 きかん の平均 へいきん 的 てき な予測 よそく では+0.8%、ポーランド財務省 ざいむしょう の予測 よそく では+1%前後 ぜんご とされていた。
ヨーロッパ域内 いきない 各国 かっこく については軒並 のきな み大幅 おおはば なマイナス成長 せいちょう が見込 みこ まれているが、GDPに対 たい する対外 たいがい 債務 さいむ 残高 ざんだか や短期 たんき 対外 たいがい 債務 さいむ 残高 ざんだか 、金融 きんゆう 機関 きかん の不良 ふりょう 債権 さいけん 、個人 こじん の外貨 がいか 建 だ てローン残高 ざんだか が少 すく なく(家計 かけい 向 む けローンに占 し める外貨 がいか 建 けん のシェアは約 やく 40%、家計 かけい 向 む け外貨 がいか 建 だ てローンは名目 めいもく GDPの15%未満 みまん [50] )、国内 こくない 人口 じんこう が大 おお きいため輸出 ゆしゅつ 依存 いぞん 度 ど が比較的 ひかくてき 低 ひく く国内 こくない 需要 じゅよう が大 おお きいという特徴 とくちょう があるポーランドは、通貨 つうか ズウォティの急落 きゅうらく によって輸出 ゆしゅつ 競争 きょうそう 力 りょく も回復 かいふく してこの景気 けいき 後退 こうたい をうまく切 き り抜 ぬ けると予想 よそう されており、ヨーロッパの国々 くにぐに のうちではもっとも高 たか い数値 すうち の成長 せいちょう 率 りつ 予測 よそく をあらゆる調査 ちょうさ で得 え ている国 くに のひとつであった。
その後 ご 、ポーランドの2009年 ねん 成長 せいちょう 率 りつ については、経済 けいざい 協力 きょうりょく 開発 かいはつ 機構 きこう (OECD)の発表 はっぴょう によると、大方 おおかた の予想 よそう をはるかに上回 うわまわ る1.7%と判明 はんめい (のちに1.8%へ上方 かみがた 修正 しゅうせい )し、この年 とし の欧州 おうしゅう 連合 れんごう (EU)加盟 かめい 国 こく でプラス成長 せいちょう 率 りつ を達成 たっせい した唯一 ゆいいつ の国 くに であることが明 あき らかになった。OECD加盟 かめい 34か国 こく においても、ポーランドのほかにプラス成長 せいちょう 率 りつ を達成 たっせい したのは韓国 かんこく (0.2%)とオーストラリア(1.3%)の2か国 こく のみであり、2009年 ねん のポーランドはOECD加盟 かめい 国 こく 最高 さいこう の成長 せいちょう 率 りつ を叩 たた き出 だ したことになる。中央 ちゅうおう 銀行 ぎんこう であるポーランド国立 こくりつ 銀行 ぎんこう が世界 せかい 金融 きんゆう 危機 きき の前 まえ の世界 せかい 金融 きんゆう バブルの時代 じだい の非常 ひじょう に早 はや い時期 じき (2001年 ねん ごろ)にはすでにバブルの到来 とうらい を察知 さっち し、それ以来 いらい 市中 しちゅう 銀行 ぎんこう に対 たい してさまざまな貸 か し出 だ し規制 きせい 策 さく を導入 どうにゅう していた[51] 。
2009年 ねん 、ポーランド政府 せいふ は大 おお きく被害 ひがい を受 う けた国内 こくない 経済 けいざい のために、IMFから205億 おく ドルを借 か り入 い れた[52] 。ポーランド・ウクライナ開催 かいさい のUEFAユーロカップ 2012では、関連 かんれん 施設 しせつ ・インフラ建設 けんせつ 準備 じゅんび や住宅 じゅうたく バブルに向 む け、西欧 せいおう や諸 しょ 外国 がいこく から大 おお きな投資 とうし を受 う けた、このインフラ投資 とうし 事業 じぎょう により世界 せかい 金融 きんゆう 危機 きき の大 おお きな被害 ひがい を免 まぬか れた[53] 。しかし世界 せかい 的 てき な金融 きんゆう 危機 きき も反映 はんえい し、住宅 じゅうたく 投資 とうし バブルは不発 ふはつ となり投資 とうし 家 か の予測 よそく に反 はん する結果 けっか に終 お わった。
2010年 ねん は世界中 せかいじゅう で行 おこな われている景気 けいき 対策 たいさく を目的 もくてき とした大 だい 規模 きぼ な金融 きんゆう 緩和 かんわ のため、ポーランドの第 だい 二 に 四半期 しはんき 成長 せいちょう 率 りつ は+3.5%を記録 きろく した。ポーランド政府 せいふ とポーランド国立 こくりつ 銀行 ぎんこう は景気 けいき の過熱 かねつ と資産 しさん 価格 かかく 上昇 じょうしょう の可能 かのう 性 せい やそれに伴 ともな う高 たか いインフレの可能 かのう 性 せい を懸念 けねん し始 はじ め、公的 こうてき 部門 ぶもん の財政 ざいせい 再建 さいけん 路線 ろせん の強化 きょうか 、金融 きんゆう 引 ひ き締 し め政策 せいさく 、貸出 かしだし 規制 きせい の強化 きょうか といった対応 たいおう 策 さく を考慮 こうりょ している。2014年 ねん 、GDP成長 せいちょう は1.3%。
2004年 ねん のEU 加盟 かめい 後 ご 、ポーランド国民 こくみん はEU内 ない でも西欧 せいおう 諸国 しょこく より低 ひく い賃金 ちんぎん 水準 すいじゅん を持 も つために、支持 しじ 政党 せいとう も急激 きゅうげき に右寄 みぎよ りになった。
EU加盟 かめい 後 ご 、さらにポーランドから多 おお くの労働 ろうどう 者 しゃ がおもにEUの先進 せんしん 諸国 しょこく に出稼 でかせ ぎに行 い っている。ほかのEUの中 ちゅう 東欧 とうおう 国 こく 同様 どうよう 、おもに単純 たんじゅん 労働 ろうどう 者 しゃ としての雇用 こよう が先行 せんこう している。一部 いちぶ ではホワイトカラー としての雇用 こよう もみられ、財 ざい を成 な すものも現 あらわ れた。これまで本国 ほんごく 経済 けいざい の堅調 けんちょう に支 ささ えられてポーランドへ帰国 きこく する者 もの が徐々 じょじょ に増加 ぞうか していたが、昨今 さっこん の世界 せかい 的 てき な金融 きんゆう 危機 きき の余波 よは で国内外 こくないがい の経済 けいざい 情勢 じょうせい が激変 げきへん しているため、ポーランド本国 ほんごく でも就職 しゅうしょく の機会 きかい が少 すく ないのではないか、職 しょく を得 え ても収入 しゅうにゅう が低 ひく いのではないか、あるいはポーランド国内 こくない であっても自分 じぶん の出身 しゅっしん 地 ち とは離 はな れた地方 ちほう でないと求人 きゅうじん していないのではないかと考 かんが え、帰国 きこく をためらう動 うご きも出 で てきた[54] 。しかし、ポーランド政府 せいふ は国内 こくない 産業 さんぎょう の長期 ちょうき 的 てき な発展 はってん を確実 かくじつ にするため道路 どうろ や通信 つうしん などといったインフラ の整備 せいび を急 きゅう ピッチで進 すす めているため[55] 、外国 がいこく へ出 で ている出稼 でかせ ぎのうち未 み 熟練 じゅくれん 労働 ろうどう 者 しゃ の祖国 そこく へのUターンを積極 せっきょく 的 てき に奨励 しょうれい している。ポーランドにおけるインフラ整備 せいび や教育 きょういく など経済 けいざい 発展 はってん の基礎 きそ 作 づく り事業 じぎょう は、規模 きぼ が巨大 きょだい であるにもかかわらず資金 しきん リスクがないのが特徴 とくちょう である。これは政府 せいふ や民間 みんかん からの資金 しきん 調達 ちょうたつ に加 くわ えて、EUからインフラ整備 せいび や教育 きょういく などポーランド事業 じぎょう を支援 しえん するために膨大 ぼうだい な補助 ほじょ 金 きん (EU構造 こうぞう ファンド、英 えい :EU structural funds)が下 お りているためである。政府 せいふ は2010年度 ねんど より緊縮 きんしゅく 財政 ざいせい を行 おこな っているが、これはおもに国営 こくえい 企業 きぎょう の民営 みんえい 化 か による新規 しんき 株式 かぶしき 公開 こうかい (IPO)で多 おお くを賄 まかな うことになっており、歳出 さいしゅつ 規模 きぼ を削減 さくげん するというわけではない。また、インフラ整備 せいび プロジェクトはおもにEUなどから資金 しきん が確定 かくてい して拠出 きょしゅつ されている。これまで国内 こくない で9万 まん のプロジェクトに86億 おく ユーロの支援 しえん が行 おこな われ、1万 まん 3,000もの一般 いっぱん 企業 きぎょう 、数 すう 千 せん キロの道路 どうろ 建設 けんせつ 、鉄道 てつどう 路線 ろせん や各地 かくち の主要 しゅよう 駅 えき の改修 かいしゅう や建 た て替 か え、無数 むすう の歴史 れきし 的 てき 建造 けんぞう 物 ぶつ や遺跡 いせき の整備 せいび といった事業 じぎょう がEUから潤沢 じゅんたく な資金 しきん 援助 えんじょ を受 う けている。また、61万 まん 人 にん のポーランド人 じん 学生 がくせい 、260万 まん 人 にん の一般 いっぱん のポーランド人 じん がEU資金 しきん の恩恵 おんけい を受 う けている。2007年 ねん から2013年 ねん にかけての間 あいだ でポーランドがEUから補助 ほじょ 金 きん を受 う け取 と る事業 じぎょう の総数 そうすう は、ドイツに次 つ いでヨーロッパ第 だい 2位 い である[56] 。このほかにEUからは農業 のうぎょう 補助 ほじょ 金 きん や行政 ぎょうせい 補助 ほじょ 金 きん などがポーランドへ渡 わた されている。ポーランド政府 せいふ が、「ポーランドへ帰 かえ ろう!」キャンペーンを張 は って国外 こくがい にいるポーランド人 じん の帰国 きこく を熱心 ねっしん に促 うなが しているのは、これらの大 だい 事業 じぎょう のために膨大 ぼうだい な人手 ひとで がいるためである[57] 。
2010年 ねん 、ECER-Banque Populaireが18か国 こく 37都市 とし の4,500人 にん のCEOを含 ふく む17万 まん 人 にん の企業 きぎょう 家 か を対象 たいしょう に行 い った調査 ちょうさ では、欧州 おうしゅう でもっともビジネスに適 てき した都市 とし の第 だい 3位 い にワルシャワ がランクインした(1位 い はフランクフルト 、2位 い はマルメ 、4位 い はロンドン 、5位 い はブリュッセル )。この調査 ちょうさ では各 かく 都市 とし の企業 きぎょう 家 か 精神 せいしん 育成 いくせい 、起業 きぎょう 支援 しえん 、経営 けいえい 支援 しえん 、私的 してき な金融 きんゆう 体制 たいせい 、公的 こうてき な金融 きんゆう 体制 たいせい 、助成 じょせい 金 きん 、不動産 ふどうさん 、生活 せいかつ の質 しつ 、道路 どうろ 、通信 つうしん インフラなどの項目 こうもく で調査 ちょうさ された。ワルシャワは全般 ぜんぱん 的 てき に高 こう 得点 とくてん を挙 あ げたが、特 とく に起業 きぎょう 家 か への支援 しえん 体制 たいせい が優 すぐ れていると評価 ひょうか され、企業 きぎょう 家 か 精神 せいしん 育成 いくせい 部門 ぶもん (経営 けいえい 相談 そうだん 、経営 けいえい 者 しゃ 組織 そしき 、ウェブ、メディア)で6位 い 、起業 きぎょう した経営 けいえい 者 しゃ に対 たい する支援 しえん 部門 ぶもん (法律 ほうりつ 相談 そうだん 、税務 ぜいむ 相談 そうだん 、業務 ぎょうむ 支援 しえん )で4位 い となった。評価 ひょうか がもっとも低 ひく かったのは環境 かんきょう 部門 ぶもん で、評価 ひょうか の対象 たいしょう となった全 ぜん 37都市 とし のうち16位 い であった。ポーランドでは現在 げんざい のドナルド・トゥスク 政権 せいけん と与党 よとう 「市民 しみん プラットフォーム 」の方針 ほうしん として、国 くに を挙 あ げて特 とく に起業 きぎょう 支援 しえん と中小 ちゅうしょう 企業 きぎょう の育成 いくせい に力 ちから を注 そそ いでおり、その数 かず は国内 こくない 全 ぜん 企業 きぎょう の半分 はんぶん で、全 ぜん 就労 しゅうろう 者 しゃ の3分 ぶん の2を雇用 こよう し、GDPの80%を占 し めている[58] [59] 。
2015年版 ねんばん 、フォーブス の「ビジネスに理想 りそう 的 てき な国 くに ランキング」、世界 せかい 146の国 くに と地域 ちいき を対象 たいしょう に、財産 ざいさん 権 けん の保証 ほしょう 、イノベーション の多寡 たか 、税率 ぜいりつ 、テクノロジー の発展 はってん 具合 ぐあい 、汚職 おしょく の有無 うむ 、個人 こじん 的 てき 自由 じゆう 、通商 つうしょう の自由 じゆう 、通貨 つうか の自由 じゆう 、官僚 かんりょう 主義 しゅぎ の度合 どあ い、投資 とうし 家 か の保護 ほご 、株価 かぶか 実績 じっせき からなる全 ぜん 11の分野 ぶんや で評価 ひょうか した結果 けっか 、ポーランドは40位 い となった[60] 。
2018年 ねん 、国際 こくさい 連合 れんごう は、平均 へいきん 余命 よめい 、識字 しきじ 率 りつ 、就学 しゅうがく 率 りつ 、国内 こくない 総 そう 生産 せいさん により評価 ひょうか する人間 にんげん 開発 かいはつ 指数 しすう (HDI) 、加盟 かめい 193か国 こく のうちで0.87につけた[61] 。
出典 しゅってん は列挙 れっきょ するだけでなく、脚注 きゃくちゅう などを用 もち いてどの記述 きじゅつ の情報 じょうほう 源 げん であるかを明記 めいき してください。記事 きじ の信頼 しんらい 性 せい 向上 こうじょう にご協力 きょうりょく をお願 ねが いいたします。(2022年 ねん 1月 がつ )
法人 ほうじん 税 ぜい は19%である。所得 しょとく 税 ぜい は非常 ひじょう に簡単 かんたん な2段階 だんかい の累進 るいしん 課税 かぜい 方式 ほうしき で、課税 かぜい 所得 しょとく に応 おう じて18%あるいは32%となっている。国内 こくない 経済 けいざい 悪化 あっか のため税率 ぜいりつ 改正 かいせい され、付加 ふか 価値 かち 税 ぜい は2011年 ねん 1月 がつ 1日 にち より23%を基本 きほん 税率 ぜいりつ とした複数 ふくすう 税率 ぜいりつ で、ほかに食品 しょくひん 、農産物 のうさんぶつ 、医薬品 いやくひん 、建築 けんちく 資材 しざい 、観光 かんこう サービス、書籍 しょせき などにかかる8%、7%、5%の3つの税率 ぜいりつ があり、対象 たいしょう の品目 ひんもく によって税率 ぜいりつ が異 こと なる。
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PESA(ペサ)社 しゃ 製 せい ED-161型 がた インターシティー 用 よう の大型 おおがた 旅客 りょかく 電車 でんしゃ
EU内 ない の「工場 こうじょう 」として、非常 ひじょう に多岐 たき にわたる第 だい 二 に 次 じ 産業 さんぎょう が行 おこな われている。特 とく にパーソナルコンピュータ やテレビ などの情報 じょうほう 家電 かでん の生産 せいさん は盛 さか んで、ヨーロッパのテレビ生産 せいさん の3割 わり をポーランドが占 し めている。乗用車 じょうようしゃ 、トラック 、バス 、路面 ろめん 電車 でんしゃ 、鉄道 てつどう 車両 しゃりょう などの生産 せいさん も盛 さか んで、ソラリス 、PESA 、Newag などといったポーランド地場 じば 企業 きぎょう が積極 せっきょく 的 てき に外国 がいこく へ進出 しんしゅつ している。
小規模 しょうきぼ の手工業 しゅこうぎょう においては、琥珀 こはく 製品 せいひん やクリスマスツリー のガラスの飾 かざ り物 もの [62] の生産 せいさん は世界一 せかいいち で、日本 にっぽん もこれらの製品 せいひん を多量 たりょう に輸入 ゆにゅう している。
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付加 ふか 価値 かち の高 たか い品目 ひんもく の生産 せいさん
編集 へんしゅう
国土 こくど 面積 めんせき のうち、農地 のうち の占 し める面積 めんせき は42.1%である。ポーランドの農業 のうぎょう は伝統 でんとう 的 てき に大 だい 規模 きぼ 化 か されておらず、約 やく 90%が個人 こじん 農家 のうか である。共産 きょうさん 主義 しゅぎ 時代 じだい には集団 しゅうだん 農場 のうじょう 化 か と農地 のうち の国有 こくゆう 化 か が行 おこな われた[16] 。
特筆 とくひつ すべき農産 のうさん 品目 ひんもく
編集 へんしゅう
ヨーロッパの実 じつ に90%を占 し めるヤマドリタケ (本 ほん ポルチーニ茸 だけ )、327万 まん トン(2010年 ねん )で世界 せかい 第 だい 1位 い の生産 せいさん 量 りょう を誇 ほこ るライ麦 らいむぎ [63] 、それぞれ高 たか いシェアを持 も つフランス向 む けエスカルゴ や日本 にっぽん 向 む け馬肉 ばにく および羽毛 うもう 、ポーランドが世界 せかい の収穫 しゅうかく 高 こう の半分 はんぶん を占 し め同時 どうじ に世界 せかい 最大 さいだい の輸出 ゆしゅつ 国 くに となっているカシス (ブラックカラント、クロスグリ)や世界 せかい 最大 さいだい の輸出 ゆしゅつ 高 だか を挙 あ げるイチゴ といったベリー 類 るい (ほかにラズベリー は世界 せかい 4位 い 、ビルベリー は欧州 おうしゅう 2位 い 、その他 た セイヨウスグリ 、クランベリー 、ブラックベリー 、ブルーベリー などで世界 せかい トップクラスの生産 せいさん 高 だか )などがある。
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ポーランドは鉱物 こうぶつ 資源 しげん が豊富 ほうふ であり、石炭 せきたん を中心 ちゅうしん として多種 たしゅ 多様 たよう の非鉄 ひてつ 金属 きんぞく に恵 めぐ まれている。石炭 せきたん の生産 せいさん 量 りょう は世界 せかい 第 だい 8位 い である。ポーランドのバルト海 ばるとかい 沿岸 えんがん は琥珀 こはく の世界 せかい 最大 さいだい の産地 さんち で、グダンスク には世界 せかい の琥珀 こはく 製品 せいひん 製造 せいぞう 業 ぎょう の85%が集中 しゅうちゅう している。
ヨーロッパではロシアに次 つ いで豊富 ほうふ な石炭 せきたん や、自国 じこく の消費 しょうひ 量 りょう の3分 ぶん の2をまかなう天然 てんねん ガス などを有 ゆう する。ほかにも重要 じゅうよう な鉱物 こうぶつ 資源 しげん において世界 せかい シェアを有 ゆう している。また、国内 こくない に豊富 ほうふ に存在 そんざい する石炭 せきたん のガス化 か 技術 ぎじゅつ (石炭 せきたん ガス )の研究 けんきゅう 開発 かいはつ にも熱心 ねっしん に取 と り組 く んでいる。
西南 せいなん 部 ぶ ドルヌィ・シロンスク県 けん のクレトノ鉱山 こうざん などではウラン を豊富 ほうふ に埋蔵 まいぞう しており国内 こくない の原子力 げんしりょく 利用 りよう を長期 ちょうき 的 てき に賄 まかな える。ポーランド国内 こくない ではこれまで原子力 げんしりょく 発電 はつでん は行 おこな われていなかったが、近年 きんねん は原子力 げんしりょく 発電 はつでん 計画 けいかく が具体 ぐたい 化 か しつつあり、2020年 ねん までに最初 さいしょ の原子力 げんしりょく 発電 はつでん 所 しょ が稼働 かどう する見込 みこ みとなっている。
近年 きんねん ポーランドで巨大 きょだい なシェールガス 埋蔵 まいぞう 量 りょう が確認 かくにん されている。その量 りょう は少 すく なく見積 みつ もってポーランドにおける天然 てんねん ガス消費 しょうひ 量 りょう の300年 ねん 分 ぶん に相当 そうとう する5.3兆 ちょう m3 に上 のぼ ると見 み られている。現在 げんざい 、国内外 こくないがい の複数 ふくすう のエネルギー企業 きぎょう が試掘 しくつ を申請 しんせい している。ポーランドのシェールガスは経済 けいざい だけでなく国際 こくさい 政治 せいじ における勢力 せいりょく 地図 ちず を根底 こんてい から塗 ぬ り替 か える可能 かのう 性 せい がある。
日系 にっけい 企業 きぎょう の現地 げんち 進出 しんしゅつ 状 じょう 況 きょう
編集 へんしゅう
2014年 ねん 、ポーランドに進出 しんしゅつ している日系 にっけい 企業 きぎょう はトヨタ 、ブリヂストン 、味 あじ の素 もと 、シャープ 、東芝 とうしば など約 やく 261社 しゃ 。そのほかのEU中 ちゅう 東欧 とうおう 国 くに への進出 しんしゅつ は、チェコ 約 やく 186社 しゃ 、ハンガリー 約 やく 140社 しゃ 、ルーマニア 約 やく 100社 しゃ [64] 。
ポーランドへの移民 いみん 労働 ろうどう 者 しゃ
編集 へんしゅう
公式 こうしき な統計 とうけい では、2009年 ねん には12万 まん 人 にん のウクライナ人 じん がポーランドで就業 しゅうぎょう 登録 とうろく している。しかしこれは氷山 ひょうざん の一角 いっかく に過 す ぎず、後述 こうじゅつ のように正規 せいき であっても未登録 みとうろく だという場合 ばあい もあるため正確 せいかく な規模 きぼ は分 わ からない。ワルシャワ大学 だいがく の調査 ちょうさ によるとポーランド国内 こくない 最大 さいだい の移民 いみん グループはウクライナ人 じん 女性 じょせい で、彼女 かのじょ たちに家計 かけい のすべてを頼 たよ る家庭 かてい がウクライナには多 おお いという。彼女 かのじょ たちのほとんどは家政 かせい 婦 ふ や清掃 せいそう 婦 ふ 、農産物 のうさんぶつ の収穫 しゅうかく などの単純 たんじゅん 労働 ろうどう に就 つ いている。2007年 ねん にはポーランドの家庭 かてい の15%がウクライナ女性 じょせい を正規 せいき のメイド として雇 やと ったという。ウクライナ 、ロシア 、ベラルーシ 、モルドバ の4か国 こく の国民 こくみん は6か月 げつ を上限 じょうげん として、ポーランド政府 せいふ からの労働 ろうどう 許可 きょか がなくてもポーランド国内 こくない において無条件 むじょうけん ・無 む 登録 とうろく で就業 しゅうぎょう することが許 ゆる されている[65] 。2013年 ねん には、17万 まん 人 にん のウクライナ人 じん が就労 しゅうろう 目的 もくてき で1年 ねん 未満 みまん 滞在 たいざい し、永住 えいじゅう は633人 にん [66] 。
ポーランドが近々 ちかぢか ロシアのカリーニングラード州 しゅう から、ロシア人 じん の入国 にゅうこく に対 たい しビザ なし渡航 とこう を許可 きょか することをEUが懸念 けねん している。イギリスのテレグラフ新聞 しんぶん によると、EU条例 じょうれい に反 はん し、ロシア人 じん をビザなしで入国 にゅうこく 許可 きょか することで、国境 こっきょう 検査 けんさ が撤廃 てっぱい されたシェンゲン協定 きょうてい 他国 たこく 地域 ちいき へもロシア人 じん の不法 ふほう 入国 にゅうこく や不法 ふほう 移民 いみん 、不法 ふほう 就労 しゅうろう が増加 ぞうか し、そしてロシアなどからの格安 かくやす タバコ の密輸 みつゆ により、EUは税金 ぜいきん 約 やく 85億 おく ポンドを損失 そんしつ する。一方 いっぽう ポーランドは、以前 いぜん からウクライナに対 たい し全面 ぜんめん 的 てき なビザなし渡航 とこう 許可 きょか をしている。ポーランド政府 せいふ は「これによってウクライナからの密輸 みつゆ やウクライナ人 じん による犯罪 はんざい 行為 こうい や違法 いほう 就労 しゅうろう がポーランド国内 こくない で増加 ぞうか したのは小規模 しょうきぼ でローカルだ。ビザなし渡航 とこう を許可 きょか しただけで犯罪 はんざい が増 ふ えることはない。彼 かれ らが行 おこな う犯罪 はんざい はせいぜいズボンにロシアのウォッカ を隠 かく し持 も って密輸 みつゆ するぐらいのことであり、ましてやこのビザなし渡航 とこう 実施 じっし によるロンドン やパリ への悪影響 あくえいきょう など微々 びび たるものだ」と主張 しゅちょう した[67] 。
ポーランドの人口 じんこう ピラミッド
ポルカ を踊 おど る女性 じょせい
伝統 でんとう 衣装 いしょう を纏 まつわ った人々 ひとびと
マズル (英語 えいご 版 ばん ) (Mazur)を踊 おど る男女 だんじょ
出典 しゅってん は列挙 れっきょ するだけでなく、脚注 きゃくちゅう などを用 もち いてどの記述 きじゅつ の情報 じょうほう 源 げん であるかを明記 めいき してください。記事 きじ の信頼 しんらい 性 せい 向上 こうじょう にご協力 きょうりょく をお願 ねが いいたします。(2022年 ねん 1月 がつ )
2022年 ねん 時点 じてん で人口 じんこう 約 やく 3,801万 まん 人 にん 、97%がポーランド人 じん (カシュープ人 じん やグラル人 じん を含 ふく む)[68] 。少数 しょうすう 民族 みんぞく は、1番 ばん 人口 じんこう の多 おお いシレジア人 じん 、おもに東部 とうぶ に在住 ざいじゅう するルーシ人 じん (ウクライナ人 じん 、ベラルーシ人 じん 、ルシン人 じん )、リトアニア人 じん 、リプカ・タタール人 じん などがいる。
中世 ちゅうせい 、ヤギェウォ朝 あさ やポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく などの東欧 とうおう 諸国 しょこく の連合 れんごう 国 こく 時代 じだい には多 た 民族 みんぞく 国家 こっか であった。
ユダヤ人 じん の本格 ほんかく 的 てき なポーランド移住 いじゅう は第 だい 1回 かい 十字軍 じゅうじぐん の行 おこな われた11世紀 せいき 初頭 しょとう に始 はじ まった。都市 とし 化 か 促進 そくしん 政策 せいさく の一環 いっかん として、ユダヤ人 じん もドイツ人 じん と一緒 いっしょ に招聘 しょうへい された。
ヨーロッパ各国 かっこく や中東 ちゅうとう で非 ひ キリスト教徒 きりすときょうと であるために激 はげ しく迫害 はくがい され、13世紀 せいき に布告 ふこく された「カリシュの法令 ほうれい 」と、東方 とうほう 植民 しょくみん によるドイツ都市 とし 法 ほう のマクデブルク法 ほう によりユダヤ人 じん の権利 けんり と安全 あんぜん が保障 ほしょう されていたため移住 いじゅう した。
ホロコースト までは、ポーランドには世界 せかい の70%のユダヤ人 じん がポーランドに住 す みポーランド文化 ぶんか に影響 えいきょう を与 あた えたが、20世紀 せいき に入 はい ってもユダヤ教 きょう の古来 こらい の教 おし えを実践 じっせん しながら生活 せいかつ していた伝統 でんとう 的 てき なユダヤ人 じん たちの多 おお くはホロコースト により虐殺 ぎゃくさつ された。
多 おお くはホロコーストや共産 きょうさん 主義 しゅぎ 、反 はん ユダヤ主義 しゅぎ を避 さ けてアメリカ大陸 あめりかたいりく やイスラエル などに移住 いじゅう した。2010年 ねん の国内 こくない ユダヤ人 じん 在住 ざいじゅう 者 しゃ 数 すう は3,200人 にん となる[69] 。ポーランド人 じん の多 おお くは先祖 せんぞ にサルマタイ人 じん がいる[70] 。
国民 こくみん のほぼすべてが母語 ぼご をポーランド語 ご としている(ポーランド化 か )、併合 へいごう した国 くに の国民 こくみん や多 おお くの移民 いみん や政治 せいじ 難民 なんみん を受 う け入 い れた過去 かこ のポーランド王国 おうこく の政策 せいさく を反映 はんえい して、彼 かれ らの先祖 せんぞ は西 にし スラブ人 じん 系 けい 原 はら ポーランド人 じん (レフ人 じん )、シレジア人 じん 、リトアニア人 じん 、ロシア人 じん 、ルーシ人 じん (ウクライナ人 じん 、ベラルーシ人 じん 、ルシン人 じん )、ルーシ族 ぞく (ヴァリャーグ )、ユダヤ人 じん 、サルマタイ人 じん 、タタール人 じん 、ラトビア人 じん 、バルト人 じん 、スウェーデン人 じん 、チェコ人 じん 、スロバキア人 じん 、ドイツ人 じん 、ハンガリー人 じん 、ロマ人 じん 、アルメニア人 じん 、モンゴル系 けい 民族 みんぞく やトルコ系 けい 民族 みんぞく など。家系 かけい 的 てき にもそれら多 た 民族 みんぞく が通 つう 婚 こん し、国 くに の歴史 れきし ・地理 ちり ・文化 ぶんか 的 てき にも多 た 民族 みんぞく の伝統 でんとう が融合 ゆうごう していたり、互 たが いに同化 どうか し他国 たこく にはない独特 どくとく の「ポーランド文化 ぶんか 」とその国民 こくみん 心理 しんり を形成 けいせい している。
約 やく 40万 まん 種類 しゅるい あるといわれるポーランド人 じん の姓 せい は、その語源 ごげん に先祖 せんぞ となったこれら各 かく 民族 みんぞく の出自 しゅつじ の名残 なご りが見 み られる。
そのため単一 たんいつ 民族 みんぞく 、実際 じっさい は東 ひがし ・中 ちゅう 欧 おう では民族 みんぞく のるつぼ でポーランド人 じん の多 おお くはスラヴ系 けい であると同時 どうじ に、多 た 民族 みんぞく と混血 こんけつ している。
出典 しゅってん は列挙 れっきょ するだけでなく、脚注 きゃくちゅう などを用 もち いてどの記述 きじゅつ の情報 じょうほう 源 げん であるかを明記 めいき してください。記事 きじ の信頼 しんらい 性 せい 向上 こうじょう にご協力 きょうりょく をお願 ねが いいたします。(2022年 ねん 1月 がつ )
「クロシニツァ町 まち /クロシュニッツ町 まち へようこそ!」の看板 かんばん ポーランド語 ご とドイツ語 ご の併記 へいき 、オポーレ 市 し 近郊 きんこう
ポーランド語 ご は印欧語 いんおうご のスラヴ語 ご 派 は 西 にし スラヴ語 ご 群 ぐん に属 ぞく する言語 げんご で、チェコ語 ご 、スロヴァキア語 ご 、上 うえ ソルブ語 ご 、下 しも ソルブ語 ご などと共通 きょうつう のグループに属 ぞく し、そのうち、カシューブ語 ご などとともにレヒト諸語 しょご (レフ諸語 しょご )を構成 こうせい する。
表記 ひょうき はロシア語 ご などで用 もち いられるギリシャ語 ご から作 つく られたキリル文字 もじ ではなく、12世紀 せいき に導入 どうにゅう したラテン文字 もじ のアルファベットである。
少数 しょうすう 民族 みんぞく の語源 ごげん には、イディッシュ語 ご 、ヘブライ語 ご やシレジア語 ご 、カライム語 ご 、ルシン語 ご 、ロマ語 ご 、タタール語 ご がある。
かつてのポーランドで広 ひろ く話 はな されていたルーシ人 じん ・ルーシ族 ぞく (ヴァリャーグ )のルーシ語 ご は第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん やホロコースト とヴィスワ作戦 さくせん を経 へ て国内 こくない ではほぼ消滅 しょうめつ したとみられている。
外国 がいこく 語 ご は、英語 えいご は小学校 しょうがっこう 1年 ねん からの履修 りしゅう 科目 かもく となっていて、第 だい 二 に 外国 がいこく 語 ご としてドイツ語 ご やフランス語 ふらんすご 、ロシア語 ご などがある。
歴史 れきし 的 てき にドイツ語 どいつご 圏 けん との貿易 ぼうえき その他 た の経済 けいざい 関係 かんけい があるため、標準 ひょうじゅん ドイツ語 ご の履修 りしゅう 者 しゃ は安定 あんてい して多 おお い。
旧 きゅう ドイツ領土 りょうど など南部 なんぶ オポーレ 地方 ちほう ではドイツ語 ご が地方 ちほう 公用 こうよう 語 ご として認 みと められ、交通 こうつう 標識 ひょうしき などはポーランド語 ご と両 りょう 語 かたり 表記 ひょうき されているが、住民 じゅうみん のドイツ語 ご はドイツ本土 ほんど の標準 ひょうじゅん ドイツ語 ご とはかなり異 こと なる方言 ほうげん で、普段 ふだん の社会 しゃかい 生活 せいかつ でポーランド語 ご を使 つか う。
冷戦 れいせん 時代 じだい 、ロシアの支配 しはい 下 か でのソ連 それん 化 か の義務 ぎむ 教育 きょういく により、1960年代 ねんだい 中期 ちゅうき 以前 いぜん に生 う まれた世代 せだい のポーランド人 じん はロシア語 ご を解 げ する人 ひと が多 おお い。
1989年 ねん に東欧 とうおう 革命 かくめい で共産 きょうさん 主義 しゅぎ が破壊 はかい し、その後 ご 1990年代 ねんだい にロシア語 ご の習得 しゅうとく 者 しゃ 数 すう は激減 げきげん した。
ロシア語 ご (東 ひがし スラヴ語 ご 群 ぐん )はポーランド語 ご (西 にし スラヴ語 ご 群 ぐん )と同 おな じくスラヴ語 ご に属 ぞく し、ポーランド語 ご 話者 わしゃ がロシア語 ご を修得 しゅうとく するのは比較的 ひかくてき 容易 ようい とされる。
リプカ・タタール人 じん は、ポーランド化 か しタタール語 ご を話 はな さなくなっている。タタール人 じん の家系 かけい でノーベル文学 ぶんがく 賞 しょう を受賞 じゅしょう した小説 しょうせつ 家 か ・叙事詩 じょじし 人 じん のヘンリク・シェンキェヴィチ はポーランド語 ご の小説 しょうせつ を書 か いた。
人工 じんこう 言語 げんご のエスペラント語 ご はワルシャワ で発祥 はっしょう した。
出典 しゅってん は列挙 れっきょ するだけでなく、脚注 きゃくちゅう などを用 もち いてどの記述 きじゅつ の情報 じょうほう 源 げん であるかを明記 めいき してください。記事 きじ の信頼 しんらい 性 せい 向上 こうじょう にご協力 きょうりょく をお願 ねが いいたします。(2022年 ねん 1月 がつ )
一般 いっぱん 的 てき には結婚 けっこん 申請 しんせい の後 のち 、宣誓 せんせい 式 しき を行 おこ ない、挙式 きょしき 日 び の決定 けってい 後 ご に挙式 きょしき となる。
国際 こくさい 結婚 けっこん の場合 ばあい は民事 みんじ 婚 こん と宗教 しゅうきょう 婚 こん の2種類 しゅるい があり、民事 みんじ 婚 こん は戸籍 こせき 局 きょく で行 おこな うが、宗教 しゅうきょう 婚 こん は教会 きょうかい での挙式 きょしき 後 ご に戸籍 こせき 局 きょく で登録 とうろく を行 おこ なっている。ポーランドでは、同性 どうせい カップルは結婚 けっこん できない。
ポーランド人 じん の苗字 みょうじ
編集 へんしゅう
ポーランド人 じん の苗字 みょうじ は非常 ひじょう に多 おお く、総数 そうすう 40万 まん 以上 いじょう に上 のぼ る[71] 。ポーランドの人口 じんこう は3,800万 まん 人 にん 程度 ていど であることから、同 おな じ苗字 みょうじ を持 も つ人 ひと の数 かず は平均 へいきん すると100人 にん を下回 したまわ ることになる。NowakやKowalski(女性 じょせい はKowalska)といった苗字 みょうじ を持 も つ人 ひと がもっとも多 おお いとされるが、それでも絶対 ぜったい 数 すう は非常 ひじょう に少 すく なく、これらの苗字 みょうじ を持 も つ人 ひと に出会 であ うことは稀 まれ である。
同 おな じ姓 せい でも男性 だんせい 形 がた と女性 じょせい 形 がた で活用 かつよう 語尾 ごび が異 こと なることがある。婚姻 こんいん の際 さい 、男性 だんせい は自己 じこ の姓 せい を用 もち い続 つづ けることが多 おお いが、法律 ほうりつ では男性 だんせい 女性 じょせい どちらでも姓 せい を変 か えることができる。婚姻 こんいん 後 ご の姓 せい はどちらかの姓 せい に統一 とういつ してもよいし(夫婦 ふうふ 同姓 どうせい )、変 か えなくてもよい(夫婦 ふうふ 別姓 べっせい )し、婚姻 こんいん 前 まえ の自分 じぶん の姓 せい の後 のち に結婚 けっこん 相手 あいて の姓 せい を繋 つな げてもよい(別姓 べっせい 、複 ふく 合 あい 姓 せい )[72] 。ただし複 ふく 合 あい 姓 せい にする場合 ばあい 、3つ以上 いじょう の姓 せい をつなげてはいけない[73] (1964年 ねん )。
ポーランド語 ご の姓 せい には-ski(/〜スキ、女性 じょせい は-ska/〜スカ)という語尾 ごび が多 おお い。この-skiというのは名詞 めいし を形容詞 けいようし のように「〜の」という意味 いみ で使 つか う場合 ばあい に付 つ く接尾 せつび 辞 じ である。英語 えいご の-ish(Polandに対 たい するPolish)やドイツ語 ご の-isch(Japanに対 たい するJapanisch)などと同様 どうよう 、インド・ヨーロッパ語族 ごぞく の言語 げんご がもともと共有 きょうゆう する用法 ようほう である。
たとえばWiśnia(意味 いみ は「桜 さくら 」)からWiśniowoあるいはWiśniow(意味 いみ は「桜 さくら 村 むら 」)という村 むら 名 めい が派生 はせい し、そこからWiśniewski(意味 いみ は「桜 さくら 村 むら の〜」)という意味 いみ の姓 せい が生 う まれる。Jan Wiśniewskiならば、意味 いみ は「桜 さくら 村 むら のジョンさん(Janは英語 えいご のJohn)」となる。-skiの使 つか い方 かた はドイツ語 ご のvon-やフランス語 ふらんすご のde-などの使 つか い方 かた と同 おな じであるため、中世 ちゅうせい には外国 がいこく 人 じん 向 む けの人名 じんめい 紹介 しょうかい では、たとえばWiśniewskiの場合 ばあい von Wiśniowoやde Wiśniowoなどのような表記 ひょうき も見 み られた(アルベルト・ブルゼフスキ の記事 きじ を参照 さんしょう )。
また、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく など英語 えいご 圏 けん の国家 こっか に移住 いじゅう すると、しばしば苗字 みょうじ をそのまま英語 えいご に翻訳 ほんやく したものを登録 とうろく して使 つか うようになる(NowakをNewman、KrawczykをTaylorに改名 かいめい など)。その結果 けっか 、現地 げんち の社会 しゃかい に同化 どうか していく。
ポーランド国内 こくない の苗字 みょうじ 人口 じんこう 上位 じょうい 25(2018年 ねん )は以下 いか の通 とお り(男女 だんじょ 別 べつ )[74] 。
順位 じゅんい
女性 じょせい
人数 にんずう
1
Nowak
90488
2
Kowalska
63003
3
Wiśniewska
49968
4
Wójcik
45041
5
Kowalczyk
44756
6
Kamińska
43032
7
Lewandowska
42678
8
Zielińska
41143
9
Szymańska
40438
10
Woźniak
40269
11
Dąbrowska
39357
12
Kozłowska
34082
13
Jankowska
31234
14
Wojciechowska
30420
15
Kwiatkowska
30382
16
Mazur
30179
17
Krawczyk
28818
18
Kaczmarek
28205
19
Piotrowska
27894
20
Grabowska
26305
21
Pawłowska
25009
22
Michalska
24891
23
Zając
24731
24
Król
24540
25
Jabłońska
22997
順位 じゅんい
男性 だんせい
人数 にんずう
1
Nowak
92867
2
Kowalski
63635
3
Wiśniewski
50346
4
Wójcik
46052
5
Kowalczyk
45503
6
Kamiński
43473
7
Lewandowski
42170
8
Zieliński
41504
9
Woźniak
41101
10
Szymański
40648
11
Dąbrowski
39352
12
Kozłowski
34520
13
Jankowski
31405
14
Mazur
31271
15
Wojciechowski
30188
16
Kwiatkowski
30120
17
Krawczyk
29109
18
Kaczmarek
28620
19
Piotrowski
28035
20
Grabowski
26695
21
Zając
25955
22
Król
25395
23
Pawłowski
25315
24
Michalski
24790
25
Wróbel
23527
出典 しゅってん は列挙 れっきょ するだけでなく、脚注 きゃくちゅう などを用 もち いてどの記述 きじゅつ の情報 じょうほう 源 げん であるかを明記 めいき してください。記事 きじ の信頼 しんらい 性 せい 向上 こうじょう にご協力 きょうりょく をお願 ねが いいたします。(2022年 ねん 1月 がつ )
聖 せい マリア教会 きょうかい 主 ぬし 祭壇 さいだん (クラクフ )、1489年 ねん 完成 かんせい
リーヘン大 だい 聖堂 せいどう (2004年 ねん 完成 かんせい )、世界 せかい 最大 さいだい 級 きゅう の教会 きょうかい 建築 けんちく となっている
2020年 ねん の推計 すいけい によるとカトリック 85%、正教会 せいきょうかい 1.3%、プロテスタント0.4%、その他 た の宗教 しゅうきょう 0.3%、不明 ふめい 12.9%となっている[75] 。
ワルシャワ大学 だいがく 新 しん 図書館 としょかん
クラクフ大学 だいがく コレギウム・マイウス(ラテン語 らてんご :「大 だい カレッジ」)、現在 げんざい も使用 しよう されている15世紀 せいき の建築 けんちく 物 ぶつ である
1999年 ねん 9月 がつ 1日 にち より、従来 じゅうらい のソ連 それん 方式 ほうしき の8・4制 せい を改 あらた め、6・3・3制 せい に移行 いこう した。
教育 きょういく 水準 すいじゅん
編集 へんしゅう
ポーランドの特徴 とくちょう のひとつはその教育 きょういく 水準 すいじゅん にある。先進 せんしん 国 こく ほどの所得 しょとく 水準 すいじゅん でないにもかかわらず、2012年 ねん の経済 けいざい 協力 きょうりょく 開発 かいはつ 機構 きこう OECD生徒 せいと の学習 がくしゅう 到達 とうたつ 度 ど 調査 ちょうさ (PISA)の成績 せいせき は総 そう じて高 たか い。また国際 こくさい 数学 すうがく コンペティション で総合 そうごう 優勝 ゆうしょう [76] を果 は たしたこともあった。
大学 だいがく 進学 しんがく 率 りつ
編集 へんしゅう
2017年 ねん には、就職 しゅうしょく 難 なん のために若者 わかもの の68%が四 よん 年 ねん 制 せい 大学 だいがく へ進学 しんがく していた(当時 とうじ の日本 にっぽん は49%)[77] 。この数字 すうじ はOECD加盟 かめい 国 こく では8位 い (日本 にっぽん は23位 い )である。近年 きんねん では、若者 わかもの の95%が高校 こうこう を卒業 そつぎょう した後 のち にも、短大 たんだい を含 ふく めた大学 だいがく 型 がた 高等 こうとう 教育 きょういく を受 う けることを望 のぞ む希望 きぼう 者 しゃ が多 おお いという調査 ちょうさ 結果 けっか もあり、教育 きょういく 熱 ねつ が日本 にっぽん や韓国 かんこく の受験 じゅけん 戦争 せんそう 時代 じだい 以前 いぜん から伝統 でんとう 的 てき に非常 ひじょう に高 たか い[78] 。ポーランドの階級 かいきゅう 社会 しゃかい では、高卒 こうそつ は原則 げんそく ホワイトカラー職 しょく に就 つ けない。これは、大学 だいがく の入試 にゅうし 倍率 ばいりつ が極 きわ めて高 たか いからである。しかし、2020年代 ねんだい のポーランドは大学 だいがく を卒業 そつぎょう したところで多 おお くは就職 しゅうしょく 先 さき がなく、西欧 せいおう 先進 せんしん 国 こく などへ労働 ろうどう 移民 いみん 者 しゃ とし移住 いじゅう しているのが現状 げんじょう である[66] 。国立 こくりつ 大学 だいがく の授業 じゅぎょう 料 りょう は無料 むりょう でも、少子化 しょうしか は進行 しんこう 中 ちゅう である。
IT教育 きょういく に熱心 ねっしん な国 くに のひとつで、2014年 ねん に開催 かいさい された第 だい 1回 かい コーディング世界 せかい 大会 たいかい ではポーランドのチームが優勝 ゆうしょう した[79] [80] 。
ポーランドの街 まち と子 こ ども
平均 へいきん 寿命 じゅみょう は77.1歳 さい [81] 。かつてはユニバーサルヘルスケア が実現 じつげん されていたが、法 ほう 改正 かいせい により保険 ほけん 料 りょう 不払 ふばら い者 しゃ が資格 しかく を喪失 そうしつ するようになり、2013年 ねん には加入 かにゅう 率 りつ 91.6%に転落 てんらく した[81] 。
2013年 ねん における経済 けいざい 協力 きょうりょく 開発 かいはつ 機構 きこう (OECD)加盟 かめい 国 こく の治安 ちあん ランキングによると、ポーランドの治安 ちあん の安全 あんぜん 性 せい は、36か国 こく 中 ちゅう 日本 にっぽん に次 つ いで2位 い 、3位 い はイギリス[83] 。
OECD加盟 かめい 国内 こくない 、人口 じんこう 10万 まん 人 にん あたりの殺人 さつじん 発生 はっせい 率 りつ の比較 ひかく は、ポーランド(2010年 ねん )17位 い 、1.3件 けん (日本 にっぽん 、0.5件 けん )[84] 。
国連 こくれん 、UNODC による人口 じんこう 10万 まん 人 にん あたりの発生 はっせい 率 りつ では、強盗 ごうとう 率 りつ (2012年 ねん )70か国 こく 中 ちゅう 37位 い 、43.67件 けん (日本 にっぽん は64位 い 、2.87件 けん )[85] 。
暴力 ぼうりょく 行為 こうい の発生 はっせい 率 りつ も低 ひく く、OECD加盟 かめい 国 こく 中 ちゅう でもっとも少 すく ないほうから3位 い [86] 。
観光 かんこう ガイドブックや外務省 がいむしょう の海外 かいがい 渡航 とこう 情報 じょうほう のウェブサイトではポーランドの治安 ちあん が悪 わる いような印象 いんしょう を読者 どくしゃ に与 あた えるような記述 きじゅつ がされていることが多 おお いが、実際 じっさい のところは上記 じょうき のようにポーランドの犯罪 はんざい 被害 ひがい は稀 まれ で、アイルランド 、イギリス 、アイスランド 、エストニア 、オランダ 、デンマーク 、スイス 、ベルギー 、スウェーデン 、ノルウェー といった、一般 いっぱん に「治安 ちあん がいい」と考 かんが えられている国々 くにぐに よりも犯罪 はんざい 被害 ひがい 率 りつ が低 ひく いことは2000年代 ねんだい 前半 ぜんはん からの事実 じじつ である[87] 。
このすでに低 ひく い犯罪 はんざい 被害 ひがい 率 りつ でさえも年々 ねんねん さらに急速 きゅうそく に低下 ていか しており(2004年 ねん から2010年 ねん にかけての7年間 ねんかん で25%の減少 げんしょう )、ポーランドの警察 けいさつ への国民 こくみん の信頼 しんらい 度 ど は非常 ひじょう に高 たか い[88] 。犯罪 はんざい 被害 ひがい 率 りつ は2013年 ねん から2014年 ねん にかけての1年間 ねんかん でもマイナス14%と劇的 げきてき な低下 ていか が見 み られ、特 とく に暴行 ぼうこう 、器物 きぶつ 損壊 そんかい 、強盗 ごうとう はいずれも1年間 ねんかん でマイナス約 やく 20%の大幅 おおはば な低下 ていか を続 つづ けている[89] 。
ポーランド人 じん にはヨーロッパ人 じん のうち犯罪 はんざい 被害 ひがい に遭 あ うのをもっとも恐 おそ れる用心深 ようじんぶか い気質 きしつ があるとされており[90] 、刑法 けいほう では、他人 たにん を大声 おおごえ で罵 ののし ったり侮蔑 ぶべつ 的 てき な言葉 ことば を投 な げかけただけでも暴行 ぼうこう 罪 ざい が成立 せいりつ する[91] 。
ヨーロッパ人 じん の間 あいだ に定着 ていちゃく した偏見 へんけん やデマ の類 るい として、「ポーランドでは自動車 じどうしゃ の盗難 とうなん が多 おお い」と言 い われるが、実際 じっさい のところポーランドの自動車 じどうしゃ の盗難 とうなん 率 りつ はイギリス 、デンマーク 、アイルランド 、スペイン 、ポルトガル 、オランダ 、アイスランド 、イタリア 、ノルウェー などといった国々 くにぐに より低 ひく い[87] 。
法 ほう 執行 しっこう 機関 きかん
編集 へんしゅう
カトリックの影響 えいきょう もあり、ヨーロッパで最 もっと も厳 きび しい中絶 ちゅうぜつ 制限 せいげん を行 おこな っておりレイプ、近親 きんしん 姦 かん 、母体 ぼたい の生命 せいめい 危機 きき を除 のぞ いて禁止 きんし されている[92] 。
国内 こくない 24の地方 ちほう 紙 し の内 うち 20が与党 よとう 系 けい の企業 きぎょう の支配 しはい 下 か にあり、国会 こっかい での取材 しゅざい 制限 せいげん [93] 、反 はん 政府 せいふ 的 てき なメディアへの攻撃 こうげき [94] 、販売 はんばい 店 てん の資本 しほん 制限 せいげん などを通 つう じた外国 がいこく メディアへの圧力 あつりょく などが起 お こっている[95] 。報道 ほうどう の自由 じゆう は2013年 ねん の22位 い から2020年 ねん には62位 い と低下 ていか した[96] 。
出典 しゅってん は列挙 れっきょ するだけでなく、脚注 きゃくちゅう などを用 もち いてどの記述 きじゅつ の情報 じょうほう 源 げん であるかを明記 めいき してください。記事 きじ の信頼 しんらい 性 せい 向上 こうじょう にご協力 きょうりょく をお願 ねが いいたします。(2022年 ねん 1月 がつ )
ポーランドはSNSの利用 りよう が全 ぜん 世代 せだい にわたって定着 ていちゃく している。世界 せかい 的 てき に比較 ひかく して見 み ても、18 - 49歳 さい にまでわたる世代 せだい でポーランドよりもSNS利用 りよう が定着 ていちゃく している国 くに はイギリスしかなく、ポーランドは世界 せかい 第 だい 2位 い で、もちろんアメリカよりも高 たか い。ポーランドのSNS利用 りよう 率 りつ は全 ぜん 世代 せだい にわたって高 たか く、世界 せかい 的 てき に見 み て高齢 こうれい 層 そう の利用 りよう 率 りつ が世界 せかい 4位 い と高 たか いが、若年 じゃくねん 層 そう の利用 りよう 率 りつ がそれ以上 いじょう に高 たか いため統計 とうけい 上 じょう は世代 せだい 間 あいだ の差 さ が大 おお きい結果 けっか になるという特異 とくい な現象 げんしょう が起 お きている[97] 。
既存 きそん の新聞 しんぶん のインターネット版 ばん も充実 じゅうじつ している。特 とく に新聞 しんぶん は投稿 とうこう を歓迎 かんげい しており、ほとんどの記事 きじ には投稿 とうこう 欄 らん がついている。投稿 とうこう 欄 らん の文字数 もじすう の制限 せいげん はないか、あるいは許容 きょよう 文字数 もじすう が非常 ひじょう に多 おお いため、読者 どくしゃ による討論 とうろん 、あるいは記者 きしゃ を交 まじ えた討論 とうろん が盛 さか んに、かつかなり真剣 しんけん に行 おこな われている。ポーランド語 ご を除 のぞ いては英語 えいご による記事 きじ や討論 とうろん が多 おお い。この読者 どくしゃ たちが記者 きしゃ を巻 ま き込 こ んで、真剣 しんけん かつ誠実 せいじつ に討論 とうろん をする傾向 けいこう はポーランドでは特 とく に顕著 けんちょ に見 み られる。
インターネット上 じょう のメディアで英語 えいご 版 ばん がもっとも充実 じゅうじつ しているのはポーランド国営 こくえい ラジオ局 きょく のニュースサイト「Thenews.pl」である。
著名 ちょめい な出身 しゅっしん 者 しゃ
編集 へんしゅう
政府 せいふ
日本 にっぽん 政府 せいふ
大使館 たいしかん
観光 かんこう その他 た
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