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サッカー戦争 - Wikipedia

サッカー戦争せんそう(サッカーせんそう、スペイン: Guerra del Fútbol)は、1969ねん7がつ14にちから7がつ19にちにかけてエルサルバドルホンジュラスとのあいだおこなわれた戦争せんそうである。両国りょうこくあいだ国境こっきょうせん問題もんだい、ホンジュラス領内りょうない在住ざいじゅうするエルサルバドル移民いみん問題もんだい貿易ぼうえき摩擦まさつなどといった様々さまざま問題もんだいがねとなり戦争せんそう発展はってんした[5][6][7]。この戦争せんそう根本こんぽんてき原因げんいん両国りょうこく経済けいざい成長せいちょうモデルと農地のうち問題もんだい起因きいんした国内こくない矛盾むじゅんにあり、寡頭支配しはいそう国際こくさい紛争ふんそうこすことで政情せいじょう不安ふあんたかまりを一時いちじてき回避かいひしようとするねらいがあったとかんがえられている[8]一般いっぱんてきには同年どうねん6がつおこなわれた1970 FIFAワールドカップ・予選よせんにおける両国りょうこく対戦たいせん関連付かんれんづけた「サッカー戦争せんそう」の名称めいしょうられているが、この戦争せんそう性質せいしつ端的たんてきとらえたものではない[8]100あいだ戦争せんそう[6][9]エルサルバドル・ホンジュラス戦争せんそう[10]1969ねん戦争せんそう[7]ともばれる。

サッカー戦争せんそう

ホンジュラスの地図ちず
戦争せんそうサッカー戦争せんそう
年月日ねんがっぴ1969ねん7がつ14にち - 7がつ19にち
場所ばしょ:エルサルバドルとホンジュラスの国境こっきょう地帯ちたい
結果けっか米州べいしゅう機構きこう調停ちょうていにより停戦ていせん
交戦こうせん勢力せいりょく
エルサルバドルの旗 エルサルバドル ホンジュラス
戦力せんりょく
陸軍りくぐん6,000にん[1]
空軍くうぐん600にん[1]
海軍かいぐん400にん[1][ちゅう 1]
陸軍りくぐんおよび国家こっか警備けいびたい2,500にん[1][3][4]
空軍くうぐん1,200にん[3]
損害そんがい
諸説しょせつあり 諸説しょせつあり

背景はいけい 編集へんしゅう

移民いみん問題もんだい 編集へんしゅう

エルサルバドルは中米ちゅうべいもっと国土こくど面積めんせきちいさく、もっと人口じんこう密度みつどたかくにである[11]人口じんこうやく9わりは、メスティーソばれるスペインけいなどの白人はくじんインディオ混血こんけつであり[11]のこりは純粋じゅんすい白人はくじんインディオ構成こうせいされていた[11]山岳さんがく地帯ちたいつらなるせま国土こくど居住きょじゅうしており、中米ちゅうべい地域ちいきなかとく工業こうぎょう発展はってんしていることから「中米ちゅうべい日本にっぽん」ともひょうされた[12]

その一方いっぽう19世紀せいき後半こうはんごろから国内こくない経済けいざいコーヒー生産せいさん輸出ゆしゅつ依存いぞんしていたが[13]、これは政府せいふ自給自足じきゅうじそく農業のうぎょうおこな先住民せんじゅうみん土地とち所有しょゆう法律ほうりつにより禁止きんし[13]、コーヒー生産せいさんしゃには税制ぜいせいじょう優遇ゆうぐう措置そち付与ふよするなどして、くにげてコーヒー生産せいさん奨励しょうれいしたことの影響えいきょうによるものだった[13]国土こくどおおくは「14家族かぞく」(カトルセファミリア)とばれる一部いちぶ白人はくじん富裕ふゆうそう所有しょゆうする農場のうじょうめられ、土地とち財産ざいさん独占どくせんしていたのにたい[12][13]おおくの国民こくみんてい所得しょとくおさえられ生活せいかつ困窮こんきゅうしていた[12][13]

土地とち所有しょゆうしていないエルサルバドルの一部いちぶ国民こくみんは、やく6ばい国土こくど人口じんこうもエルサルバドルの2ぶんの1(250まんにん)にたない隣国りんごくのホンジュラスへと移住いじゅう生活せいかつ基盤きばんいたが、こうした移民いみんは1960年代ねんだい当時とうじ合法ごうほうによるもの非合法ひごうほうによるものふくめて30まんにん[14]から50まんにんのぼった[15]

ホンジュラスではふるくからエルサルバドルからの移民いみんれ、1900年代ねんだいには政府せいふ辺境へんきょう開拓かいたくする意思いし移民いみんたい無償むしょう土地とち提供ていきょう[16]1932ねんにエルサルバドルで恐慌きょうこう発生はっせいしたさいには、すうせんにんがホンジュラスへと移民いみんし、農園のうえん鉱山こうざんはたらいた[16]一方いっぽう、ホンジュラスの国内こくない情勢じょうせい変化へんかや、地元民じもとみん移民いみんとのあいだでの土地とち仕事しごとめぐあらそいごとが表面ひょうめんすると[16]ホンジュラス政府せいふスペインばん次第しだい態度たいど硬化こうかさせるようになった[16]移民いみん問題もんだい対処たいしょするべく、両国りょうこく政府せいふ1962ねん1965ねん条約じょうやく締結ていけつ調整ちょうせいはかってきたが[16]、ホンジュラス国内こくない人口じんこう増加ぞうかバナナ農園のうえん近代きんだいともな労働ろうどう需要じゅよう激減げきげん牧畜ぼくちく綿花めんか農園のうえん拡大かくだいによる農地のうち不足ふそく問題もんだいとなり、野党やとう富裕ふゆうそうから農地のうち改革かいかくへの圧力あつりょくたかまっていた[7][17]。ホンジュラス政府せいふは1969ねん1がつ[18]条約じょうやく更新こうしん拒否きょひ[17]オスバルド・ロペス・アレジャーノスペインばん大統領だいとうりょうは、1962ねん制定せいていされた農地のうち改革かいかくほう実施じっしることになった[19]。この改革かいかくほう土地とち所有しょゆうしゃをホンジュラス国内こくない出生しゅっしょうしたもの限定げんていしたもので[19]、それに該当がいとうしないエルサルバドル移民いみんたいし30にち以内いない国外こくがい退去たいきょもとめる内容ないようとなった[19]。ホンジュラス政府せいふによる発表はっぴょうは1969ねん4がつおこなわれ[18]同年どうねん5がつ下旬げじゅんまでにエルサルバドル移民いみん帰還きかんはじまった[18]

貿易ぼうえき問題もんだい 編集へんしゅう

くに産業さんぎょうコーヒーバナナなどの農業のうぎょう生産せいさん輸出ゆしゅつとくし、先進せんしんこくからは「近代きんだいおくれた国々くにぐに」と做されていた[20]エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグアグアテマラコスタリカの5かこくは、中米ちゅうべい地域ちいき経済けいざい統合とうごう目指めざして1961ねん中米ちゅうべい共同きょうどう市場いちば発足ほっそくさせた[20]中米ちゅうべい共同きょうどう市場いちば発足ほっそくと、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく圧力あつりょくによる外資がいしけい企業きぎょう参入さんにゅう自由じゆうにより、1960年代ねんだいに5かこくでの工業こうぎょう進展しんてんした[20]工業こうぎょう立地りっちかんして当初とうしょは、各国かっこくあいだ公平こうへい分配ぶんぱいするめとなっていたが[21]加盟かめいこくあいだ対立たいりつ外資がいしけい企業きぎょう圧力あつりょくもあって緩和かんわされ、工業こうぎょうすすんでいたエルサルバドル、グアテマラ、コスタリカの3かこく工業こうぎょう立地りっち集中しゅうちゅうするようになった[21]

そのなかで、1950年代ねんだいから工業こうぎょうすすんだエルサルバドルは、国民こくみんおおくが貧困ひんこんそうであり国内こくない市場いちばせまいという事情じじょう存在そんざいしたものの[22]一部いちぶ富裕ふゆうそうけの生産せいさん双務そうむ貿易ぼうえき協定きょうていもとづいた中米ちゅうべい諸国しょこくへの輸出ゆしゅつ生産せいさんにより発展はってんげていた[22]同国どうこく中米ちゅうべい共同きょうどう市場いちば発足ほっそくさいには主導しゅどうてき役割やくわりたし、加盟かめい国内こくないもっとおおくの恩恵おんけいけていたが[22]一方いっぽうでホンジュラスでは工業こうぎょうおく[22]、エルサルバドル製品せいひんにより市場いちば圧迫あっぱくけるなどの均衡きんこうしょうじたことから、ホンジュラスがわ不満ふまんいだくようになった[22]

国境こっきょうせん問題もんだい 編集へんしゅう

両国りょうこく国境こっきょうせん植民しょくみん時代じだい以来いらい河川かせん基点きてんとすることがおおかったが[15]雨季うき乾季かんき地形ちけいおおきく変動へんどうすることから国境こっきょうせん確定かくてい部分ぶぶん存在そんざいした[15]。そのため、エルサルバドルのチャラテナンゴモラサン北部ほくぶでは、両国りょうこくがたびたび衝突しょうとつかえしており[16]1961ねん、アルベルト・チャベスにひきいられた部隊ぶたいがホンジュラス領内りょうないドロレススペインばんラパス侵入しんにゅうして現地げんち市民しみん警備けいびたい交戦こうせんし、指揮しきかんのチャベスが死亡しぼうした[23]。6ねん1967ねん5月29にち、エルサルバドル領内りょうないのモンテカ (Monteca) をパトロールちゅう国境警備隊こっきょうけいびたいが、ホンジュラスぐん部隊ぶたいせをけて戦闘せんとうとなった[24]。この戦闘せんとうによりエルサルバドルがわは3にん死亡しぼう2人ふたり捕虜ほりょとなり、ホンジュラスがわ2人ふたり死亡しぼうしたが、そのしばらくは国境こっきょうはさんで両国りょうこく緊張きんちょうたかまった[24]

経緯けいい 編集へんしゅう

エルサルバドル移民いみん国外こくがい退去たいきょ 編集へんしゅう

ホンジュラスのアレジャーノ大統領だいとうりょうにより実施じっしされた農業のうぎょう改革かいかくほうは、おも国境こっきょう確定かくてい地帯ちたい居住きょじゅうしているエルサルバドルじん退去たいきょさせ、ホンジュラスじん入植にゅうしょくさせることを企図きとするものだった[15]が、この政策せいさくにより土地とちうしないエルサルバドルへと帰国きこくした移民いみんかず戦争せんそう開始かいしまえすうげつあいだに1まん4せんにん[14]とも、2まんにんから5まんにんにのぼったものと推測すいそくされている[6]。この政策せいさくはワールドカップ予選よせんとほぼどう時期じきおこなわれたもので[15]偶然ぐうぜんによるものなのか意図いとてきなものなのかはさだかではないが[15]結果けっかとして両国りょうこくあいだ国民こくみん感情かんじょう刺激しげきし、戦争せんそうへと発展はってんするみずとなった[15]

移民いみん国外こくがい退去たいきょ強制きょうせいてきなもので[14]、ホンジュラスの「ラ・マンチャ・ブラバ」とばれる極右きょくう組織そしきじゅん軍事ぐんじ組織そしき関与かんよ[25]残虐ざんぎゃく行為こういおこなわれた事例じれい報告ほうこくされた[5][25]。これにたいしエルサルバドルの新聞しんぶんメディアは、ホンジュラスにたいして徹底的てっていてき報復ほうふくもとめるよう政府せいふ要求ようきゅうした[25]

ワールドカップ予選よせん 編集へんしゅう

FIFAワールドカップ出場しゅつじょうをかけた予選よせん両国りょうこく対戦たいせんだい1せんはホンジュラスのエスタディオ・ナシオナルひだり)、だい2せんはエルサルバドルのエスタディオ・フロル・ブランカ英語えいごばんみぎ)でおこなわれ、1しょう1はい成績せいせきかえした。

1970 FIFAワールドカップきた中米ちゅうべいカリブ海かりぶかい予選よせんは、史上しじょう最多さいたとなる12チームがエントリーしておこなわれた[26]どう地域ちいきではメキシコ代表だいひょうがワールドカップほん大会たいかい連続れんぞく出場しゅつじょうするなど優勢ゆうせいたもっていたが1970ねん大会たいかい地元じもと開催かいさいということで予選よせん免除めんじょされていた[26]ため、それ以外いがいのチームにとってはほん大会たいかい出場しゅつじょう機会きかいとなった[26]

エルサルバドル代表だいひょうスリナム代表だいひょうオランダりょうアンティル代表だいひょうを、ホンジュラス代表だいひょうコスタリカ代表だいひょうジャマイカ代表だいひょうをそれぞれくだして1ラウンドを突破とっぱし、準決勝じゅんけっしょうラウンドで対戦たいせんすることになった[27]だい1せんは1969ねん6月8にちにホンジュラスの首都しゅとテグシガルパおこなわれホンジュラス代表だいひょうが1-0と勝利しょうりしたが、エルサルバドル代表だいひょう宿泊しゅくはくするホテルの周辺しゅうへん群集ぐんしゅうき、昼夜ちゅうやわずばくちくやクラクションやものひびかせ、相手あいて批難ひなんする歓声かんせい口笛くちぶえらし、建造けんぞうぶつ投石とうせきをするなどして、どうチームを疲弊ひへいさせていた[28]。なお、こうしたサポーターによる行為こうい両国りょうこくあいだ関係かんけい国民こくみん感情かんじょうるものだけではなく、ラテンアメリカ諸国しょこくでは常態じょうたいてきおこなわれている行為こういだった[28]一方いっぽう、エルサルバドルでは熱狂ねっきょうてきサッカーファンの18さい女性じょせい敗戦はいせん拳銃けんじゅう自殺じさつはか事件じけん発生はっせい[28]女性じょせい葬儀そうぎにはフィデル・サンチェス・へルナンデススペインばん大統領だいとうりょう大臣だいじんといった政府せいふ要人ようじん、エルサルバドル代表だいひょう選手せんしゅらが参列さんれつ[29]葬儀そうぎ模様もようがテレビ中継ちゅうけいをされるなど[28]国家こっかてきイベントの様相ようそうていした[30]

 
1しょう1はい成績せいせきむかえただい3せんは、メキシコ首都しゅとメキシコシティにあるエスタディオ・アステカおこなわれ、延長えんちょうせんすえにエルサルバドルが3-2と勝利しょうりした。

だい2せんは1週間しゅうかん6月15にちにエルサルバドルの首都しゅとサンサルバドルおこなわれたが、ホンジュラス代表だいひょう宿泊しゅくはくしたホテルの周辺しゅうへんではだい1せん同様どうよう群集ぐんしゅう周囲しゅうい[29]自殺じさつした女性じょせい肖像しょうぞうかかげ、相手あいてチームを批難ひなんした[29]。また、群集ぐんしゅうはホテルのまどガラスを破壊はかいし、腐敗ふはいしたたまごねずみ死骸しがいなどの汚物おぶつ建物たてものへとれた[29]。ホンジュラス代表だいひょう選手せんしゅ輸送ゆそうはエルサルバドルぐん装甲車そうこうしゃによっておこなわれていたため、暴徒ぼうとによる襲撃しゅうげき直接ちょくせつけることはなかったが[29]、ホンジュラスから応援おうえんけつけたホンジュラス代表だいひょうサポーターは暴徒ぼうとからなぐるの暴行ぼうこうけるなど2人ふたり死亡しぼう[31]かれらの乗車じょうしゃしていた自動車じどうしゃ150だい放火ほうかされる被害ひがいけた[31]試合しあいは3-0でエルサルバドルが勝利しょうりし1しょう1はい成績せいせきならび、プレーオフへとまれることになった[27]

6月27にちメキシコ首都しゅとメキシコシティにあるエスタディオ・アステカおこなわれた最終さいしゅうせんは、会場かいじょうとなったエスタディオ・アステカの収容しゅうよう人数にんずうを10まんにんから2まんにん制限せいげん[32][33]試合しあいの2にちまえから観戦かんせんのためにおとずれていた両国りょうこくのサポーターをメインスタンドとバックスタンドに分離ぶんりして入場にゅうじょうさせ[33]緩衝かんしょう地帯ちたいには催涙さいるいガスじゅう装備そうびした機動きどう隊員たいいん配置はいちさせる、といった厳戒げんかい態勢たいせいなかおこなわれた[32][33]試合しあい延長えんちょうせんすえにエルサルバドル代表だいひょうが3-2でホンジュラス代表だいひょうくだし、ハイチ代表だいひょうとの最終さいしゅうラウンドへと進出しんしゅつした[32]

国交こっこう断絶だんぜつ 編集へんしゅう

エルサルバドル政府せいふ発表はっぴょうによると、6月15にちおこなわれたワールドカップ予選よせんにホンジュラスに在住ざいじゅうするエルサルバドル移民いみん襲撃しゅうげきけ、危険きけんあやぶんだ1まん2せんにんちかくの移民いみんがエルサルバドル領内りょうないへと避難ひなんする事態じたいとなった[34]。エルサルバドル国民こくみんあいだでホンジュラスとの国交こっこう断絶だんぜつもとめるこえたかまると、エルサルバドル政府せいふ6月23にち国家こっか非常ひじょう事態じたい宣言せんげんして予備よびやく軍人ぐんじん召集しょうしゅう[34]。3にち6月26にちよるどう政府せいふは「ホンジュラスは同国どうこく在住ざいじゅうするエルサルバドルじん迫害はくがいしようとしている」との声明せいめい発表はっぴょうし、国交こっこう断絶だんぜつ宣言せんげんした[34]。ホンジュラス政府せいふもこれをけて6月27にちにエルサルバドルとの国交こっこう断絶だんぜつし、国防こくぼうじょう対処たいしょおこなうことを発表はっぴょうした[35][ちゅう 2]

前哨ぜんしょうせん 編集へんしゅう

エルサルバドル外務省がいむしょう発表はっぴょうによると、7がつ3にち1145ふんホンジュラス空軍くうぐん英語えいごばんの1が、エルサルバドル北西ほくせい位置いちするエルポイ (El Poy) にある国境こっきょう監視かんししょ爆撃ばくげきするなどして、どう監視かんししょ守備しゅびたい交戦こうせん[36]。その先刻せんこくばくげきとはべつのホンジュラス空軍くうぐんの2どう監視かんししょ襲撃しゅうげきしたが、エルサルバドル空軍くうぐん迎撃げいげきしてこれを退しりぞけた[36]。また、両国りょうこく陸軍りくぐん国境こっきょうはさんでやく20分間ふんかんわたって銃撃じゅうげきせんおこなった[36]。エルサルバドル外務省がいむしょう米州べいしゅう機構きこう (OAS) にたいし、ホンジュラスの行為こうい非難ひなんする書簡しょかんおくった。両国りょうこく衝突しょうとつけてOASは7がつ4にち理事りじかい招集しょうしゅう今後こんご対応たいおう協議きょうぎした[37]

7がつ9にち、ホンジュラス政府せいふ発表はっぴょうによると、エルサルバドル陸軍りくぐんがホンジュラス領内りょうないインティブカけんにあるむら襲撃しゅうげきし、地元じもと警官けいかんたい衝突しょうとつ。12民家みんかはらわれたが、死傷ししょうしゃはなかった[38]りょうぐんによる戦闘せんとうは7がつ3にちつづいて2度目どめ

7がつ12にち、エルサルバドル陸軍りくぐん部隊ぶたいがホンジュラス領内りょうないに10km侵攻しんこうした地点ちてんホンジュラス陸軍りくぐん英語えいごばん衝突しょうとつ銃撃じゅうげきせんとなり、エルサルバドルへい14にん戦死せんしした[39]

7がつ13にち早朝そうちょう、エルサルバドル政府せいふ発表はっぴょうによるとりょうぐん国境こっきょう付近ふきんにあるエル・ポイで3あいだわたって交戦こうせん[40]。ホンジュラス政府せいふ発表はっぴょうによると、この戦闘せんとうにより一般いっぱん市民しみん負傷ふしょうした[41]。OAS理事りじかいでは両国りょうこくあいだ本格ほんかくてき軍事ぐんじてき衝突しょうとつ回避かいひするため、アルゼンチンエクアドルコスタリカドミニカニカラグアグアテマラアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくの7かこくによる平和へいわ維持いじだん派遣はけん決定けっていした[1][42]一方いっぽうどう理事りじかいにおいてホンジュラス外相がいしょうのフィデル・デュロンはエルサルバドルがわ行為こうい非難ひなんしたが、エルサルバドルがわは「非難ひなんはエルサルバドルじん大量たいりょう追放ついほうおおかく煙幕えんまくぎない」「われわれは動員どういん態勢たいせいにあるが、これは追放ついほうされた同胞どうほうまもるためのものである」とおうじた[1]

戦闘せんとう 編集へんしゅう

7がつ14にち 編集へんしゅう

エルサルバドル空軍くうぐんおも攻撃こうげき地点ちてん

7がつ14にち、OASをかいして両国りょうこくによる外交がいこう交渉こうしょうおこなわれるなか、エルサルバドル空軍くうぐんはフィデル・サンチェス・エルナンデス大統領だいとうりょうからホンジュラスの主要しゅよう都市とし攻撃こうげきするための直接ちょくせつ命令めいれいけた[43]ほん作戦さくせん1961ねん以来いらい、ホンジュラス侵攻しんこう目的もくてきすすめられてきた「ヘラルド・バリオス大将たいしょう計画けいかく」を実行じっこううつしたもので、戦略せんりゃく目標もくひょうは「ホンジュラスに在住ざいじゅうする国民こくみん身分みぶん保証ほしょうと、緩衝かんしょう地域ちいき占領せんりょう」にあった[23]

同日どうじつ1810ふん、エルサルバドル空軍くうぐんC-47F-51DFG-1DF4U コルセアのライセンス生産せいさん[44]構成こうせいされるすくなくとも6[43]編隊へんたいが、テグシガルパ郊外こうがいトンコンティン国際こくさい空港くうこう爆撃ばくげきどう空軍くうぐんはこれと同時どうじにホンジュラス領内りょうないにあるサンタロサ・デ・コパンスペインばんアマパラチョルテカスペインばんなど、ホンジュラスのおもだった飛行場ひこうじょうおよ軍事ぐんじ施設しせつじゅうすうしょへのばくげきおこなった[43][44]。なお、このエルサルバドル空軍くうぐんによる空爆くうばくは、戦力せんりょくまさるホンジュラス空軍くうぐんたいして先制せんせい攻撃こうげき仕掛しかけることで、従来じゅうらい軍事ぐんじてきバランスをくつがえ目的もくてきがあったが[44]作戦さくせん失敗しっぱいした[44]

エルサルバドル空軍くうぐんによる爆撃ばくげき、エルサルバドル陸軍りくぐん西部せいぶ、チャラテナンゴけん東部とうぶの3方面ほうめんから国境こっきょうえてホンジュラス領内りょうないへと侵攻しんこう開始かいしした[45]。これらのそらりくからの奇襲きしゅう作戦さくせんは、だい世界せかい大戦たいせんどきナチス・ドイツ第三次中東戦争だいさんじちゅうとうせんそうどきイスラエル事例じれいしめすように双方そうほう完璧かんぺき連携れんけいおこなわれた場合ばあい効果こうか発揮はっきするが[4]ほん作戦さくせんではエルサルバドルがわのぞむような効果こうかることが出来できず、その代償だいしょうとしてホンジュラスがわ注意ちゅうい喚起かんきさせる結果けっかとなった[4]

7がつ15にち 編集へんしゅう

ホンジュラス空軍くうぐん攻撃こうげき地点ちてん

7がつ15にちあさ、ホンジュラス空軍くうぐんT-28F4U、F-51Sなどすうがエルサルバドル領内りょうない侵入しんにゅう[44]、サンサルバドル郊外こうがいにあるイロパンゴ国際こくさい空港くうこう英語えいごばん爆撃ばくげき[44]軍民ぐんみん共用きょうよう飛行場ひこうじょうであるどう空港くうこう滑走かっそう格納庫かくのうこ一般いっぱん利用りようきゃくよう駐車ちゅうしゃじょうなどが損害そんがいけた[44]

このほかに、ホンジュラス空軍くうぐんはエルサルバドルの主要しゅよう港湾こうわん都市としであるアカフトラスペインばんにあるコンビナート攻撃こうげき石油せきゆ精製せいせいところ被害ひがいけなかったものの、貯蔵ちょぞうタンクが爆撃ばくげきにより損害そんがいけた[44]。また、ラ・ウニオンけんにあるラ・クトゥコこうスペインばん爆撃ばくげきされ、17の貯蔵ちょぞうタンクのうち、5つが破壊はかいされたが、みなと自体じたい損害そんがいはなかった[44]

航空こうくう戦力せんりょくでは2.5たい1とホンジュラスが開戦かいせんまえから優位ゆういち、戦争せんそうつうじて制空権せいくうけん維持いじしていたが[44]、これにたいして地上ちじょう戦力せんりょくめんではりょう国共こっきょうにおよそ5せんにん前後ぜんこう兵員へいいんゆう[44]アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく陸軍りくぐんだい世界せかい大戦たいせんさい使用しようしていた旧式きゅうしき装備そうび[44]戦車せんしゃ重火器じゅうかきといった大型おおがた装備そうびわせるなど、表面ひょうめんじょう明確めいかく差異さい存在そんざいしなかった[44]一方いっぽう組織そしきりょく戦闘せんとう能力のうりょくといっためんでエルサルバドル陸軍りくぐん優位ゆうい[44]戦争せんそう末期まっきではホンジュラス最強さいきょう部隊ぶたいとされる大統領だいとうりょう防衛ぼうえいたい撃破げきはしたとほうじられるなど[44]地上ちじょうにおいてはエルサルバドルぐん攻勢こうせいつづけた[44]。エルサルバドルの新聞しんぶんは「エルサルバドルぐん進撃しんげきだれにもめることは出来できない」「ラテンアメリカのイスラエル」などとだい見出みだしでほうじるなど[44]、このまま進撃しんげきつづけてホンジュラス領内りょうない都市とし陥落かんらくさせ首都しゅとテグシガルパにせまるものとかんがえられていた[44][ちゅう 1]

ホンジュラス領内りょうない侵攻しんこうしていたエルサルバドル陸軍りくぐんは、北部ほくぶにあるエルポイから侵攻しんこうした部隊ぶたいが、同日どうじつちゅうヌエバ・オコテペケ英語えいごばん占領せんりょう[18]。このほか東部とうぶから侵攻しんこうした部隊ぶたい太平洋たいへいようがんにあるゴアスコランスペインばんカリダアラメシナスペインばんを、チャラテナンゴ方面ほうめんから侵攻しんこうした部隊ぶたいきた中部ちゅうぶ国境こっきょうせん沿ってサン・フアン・ガリタスペインばんバリャドリードスペインばんラ・ビルトゥドスペインばんといったまち占領せんりょうするなど[44]旧式きゅうしきH&K G3自動じどう小銃しょうじゅう携帯けいたいする歩兵ほへい部隊ぶたいが、開戦かいせんから1にちでホンジュラス領内りょうないの40平方へいほうキロメートルの地域ちいき占領せんりょうした[45]一方いっぽうで、エルサルバドルの司令しれいかん兵站へいたん問題もんだい理解りかいがなかったこと[44]、ホンジュラス空軍くうぐんにより石油せきゆ貯蔵ちょぞうタンクが攻撃こうげきされた影響えいきょうにより国内こくない石油せきゆ供給きょうきゅう支障ししょうたしたためエルサルバドル陸軍りくぐんでもガソリン不足ふそくおちいったこと[44]により侵攻しんこう停止ていし余儀よぎなくされた[44]

7がつ16にち - 7がつ17にち 編集へんしゅう

エルサルバドル陸軍りくぐんおも占領せんりょう地域ちいき

7がつ16にち、OASが派遣はけんした平和へいわ維持いじ委員いいんかいは、ホンジュラスがわが「エルサルバドルぐんがホンジュラス領内りょうないから撤退てったいする」との条件じょうけんづけでエルサルバドルとの停戦ていせんおうじることを承諾しょうだくしたと発表はっぴょうした[46]一方いっぽう、エルサルバドルがわ停戦ていせんおうじる様子ようすはなく、ホンジュラスぐんたいし「降伏ごうぶくえらぶかえらぶか」と要求ようきゅうするなど強硬きょうこう姿勢しせいせた[46]

同日どうじつ、ホンジュラス政府せいふラジオ放送ほうそうつうじて「ぐんはエルサルバドルの戦略せんりゃく拠点きょてんたいする空爆くうばく継続けいぞくちゅうである」との声明せいめい発表はっぴょう[46]。また、国民こくみんたいして「老若男女ろうにゃくなんにょ区別くべつなく、侵略しんりゃくしゃ対抗たいこうするために戦地せんちおもむ準備じゅんびをするように」と義勇ぎゆうへい参加さんかびかけた[46]。こうした両国りょうこくあいだ情勢じょうせいたい国際こくさい連合れんごうウ・タント事務じむ総長そうちょう両国りょうこく外務がいむ大臣だいじんに、戦闘せんとう中止ちゅうし相互そうご対話たいわおうじるように要請ようせいした[47]

7がつ17にち、エルサルバドル政府せいふは「ホンジュラスに在住ざいじゅうするエルサルバドルじんたいする迫害はくがい行為こうい即座そくざ停止ていしさせ、戦争せんそうまえ原状げんじょう復帰ふっきさせる」という条件じょうけんづけ停戦ていせんおうじることを承諾しょうだくした[48]一方いっぽう、ホンジュラス政府せいふどう陸軍りくぐんがエルサルバドルとの国境こっきょうえて領内りょうない侵攻しんこうし、北部ほくぶにある都市としせまりつつある、と発表はっぴょう[48]同時どうじ政府せいふは、エルサルバドルがわ停戦ていせんけた協力きょうりょくてき姿勢しせい批難ひなんする声明せいめい発表はっぴょうした[48]。これにおうじてエルサルバドルぐんもホンジュラス領内りょうないさん方面ほうめんからの攻撃こうげき再開さいかいさせた[49]

同日どうじつ地上ちじょう目標もくひょうたいする機銃きじゅう掃射そうしゃ任務にんむいていたホンジュラス空軍くうぐんフェルナンド・ソト・エンリケス大尉たいい操縦そうじゅうするF4U-5が、味方みかたからの要請ようせいけてエルサルバドル空軍くうぐん交戦こうせん[50]。エルサルバドル空軍くうぐんのF-51D 1とFG-1D 2撃墜げきついした[50]レシプロ戦闘せんとう同士どうしによる世界せかい史上しじょう最後さいごたたか[51]ばれる戦闘せんとうでの戦果せんかによりソト大尉たいい少佐しょうさ昇進しょうしん[50]、ホンジュラスの国民こくみんてき英雄えいゆうとしてあつかわれただけでなく[50]世界せかいてき知名度ちめいど獲得かくとくした[51]

停戦ていせん 編集へんしゅう

7がつ18にちあさ、OASのガロ・ブラサ事務じむ総長そうちょうりょう政府せいふ関係かんけいしゃとOAS平和へいわ維持いじ委員いいんかいとのあいだやく24あいだわたっておこなわれたさんしゃ会談かいだんにより、戦争せんそう終結しゅうけつさせるための4項目こうもくからなる和平わへいあんについて合意ごうい成立せいりつしたと発表はっぴょうした[52]。この和平わへいあん以下いかとおりとなっている。

  1. 両国りょうこく即時そくじ停戦ていせん[52]
  2. りょう国軍こくぐん開戦かいせんまえ地点ちてんにまで撤退てったいする[52]
  3. 両国りょうこく在住ざいじゅうする相手あいて国民こくみんゆうする財産ざいさん保護ほご保障ほしょうする[52]
  4. 両国りょうこく停戦ていせん監視かんしするため、OASが派遣はけんする軍民ぐんみん合同ごうどう顧問こもんだんれる[52]

OASの発表はっぴょうによると両国りょうこくは、中米ちゅうべい時間じかん7がつ18にち22から停戦ていせんはい[53]、OASに加盟かめいする3かこく構成こうせいされる監視かんしだんしたりょう国軍こくぐんを96時間じかん以内いない撤退てったいさせる予定よていとなっていた[54]両国りょうこく停戦ていせん受託じゅたくにより、それぞれの戦線せんせんでは平穏へいおん情勢じょうせいもどしたが[54]一方いっぽうでエルサルバドルのエルナンデス大統領だいとうりょう同日どうじつ国民こくみんけた放送ほうそうにおいて、占領せんりょう地域ちいきからの撤退てったい拒絶きょぜつする声明せいめい発表はっぴょうした[53]

エルサルバドルぐん撤退てったい拒否きょひ 編集へんしゅう

7がつ19にち、エルサルバドルぐん広報こうほうかん発表はっぴょうによると、同国どうこくのエルナンデス大統領だいとうりょうがホンジュラス領内りょうないに17kmはいった前線ぜんせん地域ちいき視察しさつちゅうにホンジュラスぐんから狙撃そげきされる事件じけん発生はっせいした[55]。エルナンデス大統領だいとうりょう怪我けがはなかったものの、どう広報こうほうかんはOASの停戦ていせん命令めいれいはんするものだとしてホンジュラスがわ批難ひなんした[55]。また、OASの公式こうしき報告ほうこくによりエルサルバドルぐん停戦ていせん命令めいれいも、ホンジュラス領内りょうないからの撤退てったい開始かいしせず、どう領内りょうない陣地じんちをさらに前進ぜんしんさせていることがあきらかとなった[56]

7がつ21にちあさ、エルサルバドルぐんによる停戦ていせん命令めいれい違反いはん報告ほうこくけてOASは緊急きんきゅう会議かいぎ招集しょうしゅう[56]。OASから現地げんち派遣はけんされたニカラグアのセビラ・サカサ監視かんし団長だんちょうは「エルサルバドルぐんがこのまま撤退てったいこばんでホンジュラス領内りょうないとどまった場合ばあい、OASの規定きていもとづき同国どうこくたいする軍事ぐんじてきおよび経済けいざいてき制裁せいさい措置そちることもさない」と警告けいこくした[57]

一方いっぽう、エルサルバドル陸軍りくぐん同日どうじつよるまでにホンジュラス南部なんぶにあるバジェけんけんナカオメ包囲ほういし、首都しゅとテグシカルパと同地どうちむす幹線かんせん道路どうろ封鎖ふうさした[58]

7がつ23にち、OASのさだめた96あいだ撤退てったい期限きげん失効しっこうしたことをけ、ホンジュラス空軍くうぐんの2ばくげきがエルサルバドル領内りょうない侵入しんにゅうし、サンサルバドルにあるイロパンゴ国際こくさい空港くうこうと、同地どうち北方ほっぽう16kmに位置いちするネハバ (nejaba) というむら爆撃ばくげき[59]。エルサルバドルぐん発表はっぴょうによるとばくげきによる被害ひがい確認かくにんされなかった[59]

終結しゅうけつ 編集へんしゅう

7がつ29にち、OAS外相がいしょう会議かいぎ席上せきじょうにおいてエルサルバドルの外務がいむ大臣だいじんは、紛争ふんそうにより占領せんりょうした地域ちいきから撤兵てっぺいすることを発表はっぴょう[60]。これをけてOASは、エルサルバドルぐん撤退てったい期限きげん8がつ3にち18までとさだめた[61]

8がつ3にち1315ふん、OAS顧問こもんだん監視かんしした、ホンジュラス南部なんぶレンピーラけんにあるラ・ビルトゥドで最後さいご撤兵てっぺい確認かくにんされ、撤退てったい完了かんりょうした[61]。この戦争せんそうにより両国りょうこくあわせて2せんにん死亡しぼう[18][62][63][64](2せんから3せんにん[2]、3せんにん[3]、6せんにん[65][66]とする資料しりょうもある)、4せんにん[63]または1まん2せんにん[65][66]負傷ふしょうした。犠牲ぎせいしゃおおくはホンジュラスの農民のうみんであり[18][64]国境こっきょう沿いに在住ざいじゅうする農民のうみんおおくがいえ土地とちうしなった[18]

影響えいきょう 編集へんしゅう

エルサルバドル 編集へんしゅう

 
じゅうかまえるファラブンド・マルティ民族みんぞく解放かいほう戦線せんせん (FMLN) の兵士へいし

戦場せんじょうから帰還きかんしたエルサルバドルぐん兵士へいしたちは国民こくみんから歓迎かんげいけ、エルナンデス大統領だいとうりょう国民こくみんてき英雄えいゆうたたえられた[63]一方いっぽう、ホンジュラスから10まんにん[64]とも、6まんにんから13まんにん[18]にのぼる移民いみん1969ねん時点じてん労働ろうどう人口じんこうの20%が失業しつぎょう状態じょうたいにあるというエルサルバドル国内こくないげたことで都市とし失業しつぎょうしゃあふれかえり[19]戦争せんそう相手あいてこくとなったホンジュラスとの関係かんけい悪化あっかによりエルサルバドルせい工業こうぎょう製品せいひん市場いちばうしなうなど[67]、それまでかかえていた問題もんだいてん表面ひょうめんした[67]。また、「14家族かぞく」とばれる富裕ふゆうそうとみ権力けんりょく集中しゅうちゅうし、国民こくみんの6わりてい所得しょとくおさえられているといった社会しゃかい構造こうぞうへの不満ふまんから、待遇たいぐう改善かいぜんもとめる左翼さよくけい労働ろうどうしゃによるストライキ頻発ひんぱつした[12]

1972ねんおこなわれた大統領だいとうりょう選挙せんきょでのげん政権せいけんがわ不正ふせい行為こういがきっかけとなりはん政府せいふ運動うんどう活発かっぱつ[67]左翼さよくゲリラによる政府せいふぐん兵舎へいしゃへの襲撃しゅうげき[12]外国がいこくけい企業きぎょう対象たいしょうとした身代金みのしろきん目的もくてき誘拐ゆうかい事件じけん多発たはつした[12]。これにたい軍部ぐんぶ右翼うよく勢力せいりょくむすびついた「部隊ぶたい[12]によって左翼さよく運動うんどうへの弾圧だんあつ暗殺あんさつおこなわれるなど、国内こくない治安ちあん状態じょうたい急速きゅうそく悪化あっかした[12][67]

1980ねん3月24にち国民こくみんあいだ人気にんきたかかったオスカル・ロメロ大司教だいしきょう極右きょくう組織そしきにより暗殺あんさつされたことにより[12]平和へいわてき解決かいけつ可能かのうせいせばまり[68]左翼さよくゲリラはファラブンド・マルティ民族みんぞく解放かいほう戦線せんせん (FMLN) を結成けっせいし、政府せいふぐんとの本格ほんかくてき内戦ないせんへと突入とつにゅうしていった[12][68]

中米ちゅうべいもっと工業こうぎょう発展はってんし、政情せいじょう不安定ふあんてい中米ちゅうべい諸国しょこくなかもっと安定あんていした民主みんしゅ国家こっかばれたエルサルバドルは内戦ないせん激化げきかにより衰退すいたいした[69]やく12年間ねんかんわたってつづいた内戦ないせんによる犠牲ぎせいしゃは7まん5せんにんたっ[70]経済けいざいてき損失そんしつやく50おくドルにのぼると推測すいそくされている[70]

ホンジュラス 編集へんしゅう

ホンジュラスでは戦後せんごナショナリズムくにたいするほこりといったあたらしい価値かちかんまれた[18]かずまんにん労働ろうどうしゃ農民のうみん国家こっかまもるため、武器ぶきれるために政府せいふおとず[18]などで武装ぶそうしたすうせんにん一般いっぱん市民しみん地方ちほうでの警備けいび業務ぎょうむ従事じゅうじした[18]

1970年代ねんだい後半こうはんはいると中米ちゅうべい諸国しょこくではだい規模きぼ内戦ないせん相次あいつ[70]はん共産きょうさん主義しゅぎアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく軍事ぐんじてき支援しえんもあり対立たいりつふかまったが、ホンジュラスでは政治せいじてき安定あんていした状態じょうたいつづいたこともあり紛争ふんそうまれることはなかった[70]1980年代ねんだいはいるとアメリカの中米ちゅうべい介入かいにゅうのための軍事ぐんじ拠点きょてんとしての役割やくわりになうようになり、ニカラグアはん革命かくめい勢力せいりょくコントラ根拠地こんきょちとなった[71]。また、隣国りんごくエルサルバドルで内戦ないせんつづなか、アメリカがちゅうべい諸国しょこくあいだ軍事ぐんじバランスを理解りかいすることなくエルサルバドル政府せいふぐん増強ぞうきょうかかわったことからはんエルサルバドル感情かんじょう反米はんべい感情かんじょうたかまった[72]

こくあいだ関係かんけい 編集へんしゅう

戦争せんそう影響えいきょうにより両国りょうこくあいだ貿易ぼうえき完全かんぜん暗礁あんしょう[18]両国りょうこくあいだ境界きょうかいせん閉鎖へいさされたことにより交通こうつうもう遮断しゃだんされるなど、両国りょうこく経済けいざい深刻しんこく影響えいきょうあたえた[18]。また、両国りょうこく加盟かめいしていた中米ちゅうべい共同きょうどう市場いちばは、こうした問題もんだいやもともと存在そんざいした加盟かめいこくあいだ経済けいざい格差かくさ問題もんだいなどもあり[73]1970年代ねんだいはいるとその役割やくわりおおきく後退こうたいさせた[73]

一方いっぽう米州べいしゅう機構きこう (OAS) の調停ちょうていによる停戦ていせん散発さんぱつてき戦闘せんとうおこなわれた[74]1976ねん7がつ、エルサルバドルぐんがホンジュラス領内りょうない侵攻しんこうしたため、両国りょうこくふたたびOASに調停ちょうてい依頼いらいした[75]同年どうねん8がつりょう政府せいふ武装ぶそう地帯ちたい設置せっち合意ごういすると、同年どうねん10がつ仲裁ちゅうさい協定きょうてい調印ちょういんよく1977ねん8がつ和解わかい成立せいりつした[75]

サッカー 編集へんしゅう

1969ねん7がつ、ワールドカップ予選よせんにおいてやぶれたがわホンジュラスサッカー連盟れんめいは、だい3せん出場しゅつじょうしたエルサルバドル代表だいひょうの2選手せんしゅが1ねんまえ出場しゅつじょう停止ていし処分しょぶんけ、処分しょぶんちゅうであるにもかかわらず試合しあい出場しゅつじょうしたとして、国際こくさいサッカー連盟れんめい (FIFA) にたいだい3せん試合しあい結果けっか無効むこうとするように提訴ていそした[76]。なお、この提訴ていそについてのFIFAの裁定さいてい結果けっかさだかではない。

エルサルバドル代表だいひょうとハイチ代表だいひょうとのワールドカップ予選よせん最終さいしゅうラウンドは1しょう1はい成績せいせきでプレーオフへとまれた[77]同年どうねん10月8にちジャマイカ首都しゅとキングストンおこなわれたプレーオフは、りょうチーム無得点むとくてんのまま延長えんちょうせんまれたが、エルサルバドル代表だいひょうフアン・ラモン・マルティネス英語えいごばん決勝けっしょうてんめ、1-0でハイチ代表だいひょうくだし、ワールドカップはつ出場しゅつじょうたした[77]。エルサルバドル代表だいひょうは、よく1970ねん6がつおこなわれたほん大会たいかいのグループリーグでは、ベルギー代表だいひょう、メキシコ代表だいひょうソビエト連邦れんぽう代表だいひょうおなわせとなったが、3せん全敗ぜんぱい敗退はいたいした[77]

エルサルバドル代表だいひょうとホンジュラス代表だいひょうは、同年どうねんおこなわれた1969 CONCACAF選手権せんしゅけん予選よせん英語えいごばん参加さんかし、前者ぜんしゃトリニダード・トバゴ代表だいひょうと、後者こうしゃはオランダりょうアンティル代表だいひょう対戦たいせんする予定よていとなっていたが[78]戦争せんそう影響えいきょうにより失格しっかくとなった[78]。2ねん1971ねんおこなわれた1971 CONCACAF選手権せんしゅけん予選よせん英語えいごばんでは、両国りょうこくは2予選よせん対戦たいせんする予定よていとなっていたが、エルサルバドル代表だいひょうがサッカー戦争せんそう理由りゆう試合しあい辞退じたいしたため[79]、ホンジュラス代表だいひょうほん大会たいかい進出しんしゅつした[79]

その 編集へんしゅう

国交こっこう回復かいふく 編集へんしゅう

 
ホセ・ルイス・ブスタマンテ

両国りょうこく関係かんけい修復しゅうふくには10ねん以上いじょう歳月さいげつようした。もとペルー大統領だいとうりょう国際司法裁判所こくさいしほうさいばんしょ長官ちょうかんつとめたホセ・ルイス・ブスタマンテ・イ・リベロスペインばん仲介ちゅうかいにより両国りょうこく接近せっきんはかられ[80]1980ねん10月30にちにペルー首都しゅとリマでプスタマンテもと長官ちょうかん立会たちあいのした両国りょうこく外務がいむ大臣だいじん出席しゅっせき平和へいわ条約じょうやく調印ちょういんしきおこなわれ、11ねんぶりに国交こっこう回復かいふくした[80]。この平和へいわ条約じょうやく調印ちょういん背景はいけいには、エルサルバドル内戦ないせんにおける左翼さよくゲリラの根拠地こんきょちそう面積めんせき420平方へいほうキロメートルにのぼる国境こっきょう画定かくてい地域ちいき存在そんざいするため[81]、エルサルバドル政府せいふ左翼さよくゲリラ掃討そうとうのためにホンジュラス政府せいふ協力きょうりょく必要ひつようとしていたとも[80]国境こっきょう地域ちいき左翼さよくゲリラの根拠地こんきょちとなっていたことを憂慮ゆうりょしたアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく政府せいふ双方そうほう圧力あつりょくけたためだともわれる[6]

エルサルバドル内戦ないせん 編集へんしゅう

内戦ないせん激化げきかにより、エルサルバドルからホンジュラスへと流入りゅうにゅうした難民なんみんかずは2まんにんのぼった[75]1989ねんにエルサルバドルのアルフレッド・クリスティアニ英語えいごばん大統領だいとうりょう就任しゅうにんすると両国りょうこくあいだ難民なんみん帰国きこく交渉こうしょうはじまり[75]同年どうねんまつまでの段階だんかいてき難民なんみん帰国きこく計画けいかく決定けっていした[75]

1992ねん1がつ2にち、7まん5せんにんにおよぶ死者ししゃと100まんにんとも推測すいそくされる亡命ぼうめいしゃしたエルサルバドル内戦ないせん国際こくさい連合れんごう仲介ちゅうかいにより和平わへい合意ごういたっ[82]同年どうねん2がつ1にち公式こうしき停戦ていせんした。合意ごうい文書ぶんしょ内容ないようは「2がつ1にちから10がつまつにかけて政府せいふぐんとFMLNの双方そうほう段階だんかいてき武装ぶそう解除かいじょおこなう」「政府せいふぐん現有げんゆう兵力へいりょくの5まん3せんにん半数はんすうにまで削減さくげんし、過去かこ人権じんけん侵害しんがいかかわった人物じんぶつ追放ついほうする」「たいゲリラ急襲きゅうしゅう部隊ぶたい国家こっか警察けいさつなどを解体かいたいし、文民ぶんみん監視かんしによる市民しみん警察けいさつ設立せつりつ治安ちあん維持いじ従事じゅうじする」などの内容ないようとなっている[82]

国境こっきょう問題もんだい 編集へんしゅう

サッカー戦争せんそう主因しゅいんの1つである国境こっきょう問題もんだいかんしては、1980ねん調印ちょういんされた平和へいわ条約じょうやくにおいて60%の国境こっきょうせんかんしては合意ごういたっし、のこりの国境こっきょうせんかんしては両国りょうこくによる合同ごうどう委員いいんかい設立せつりつし5ねんをめどに結論けつろんすことになった[80]

1986ねん国境こっきょう問題もんだいはペルーのフアン・ベラスコ・アルバラード大統領だいとうりょう立会たちあいのしたオランダハーグにある国際司法裁判所こくさいしほうさいばんしょ委託いたくされた[75]国際司法裁判所こくさいしほうさいばんしょは、1992ねん9月11にちあらたな国境こっきょうせんあん提示ていじし、両国りょうこくはこれをれることを表明ひょうめいしたが[75]画定かくてい作業さぎょう難航なんこうした[83]

2006ねん4がつ18にち両国りょうこく国境こっきょう地帯ちたい位置いちするまち式典しきてん開催かいさいされ、出席しゅっせきしたエルサルバドル大統領だいとうりょうアントニオ・サカとホンジュラス大統領だいとうりょうマヌエル・セラヤは、国境こっきょうせん375キロメートルを画定かくていする文書ぶんしょ署名しょめいした[83]。これにより、国境こっきょう問題もんだい終結しゅうけつした[83]

サッカー 編集へんしゅう

1980ねん11月におこなわれた1982 FIFAワールドカップ予選よせん1981 CONCACAF選手権せんしゅけん)で、両国りょうこくの12ねんぶりの国際こくさい試合しあい実現じつげんし、試合しあいは2-1でエルサルバドルが勝利しょうりした[84]両国りょうこくはともに地区ちく予選よせん[84][85]、2ねん1982ねん中米ちゅうべい諸国しょこくんだ中米ちゅうべい紛争ふんそう最中さいちゅうそろってワールドカップに出場しゅつじょうした。

脚注きゃくちゅう 編集へんしゅう

注釈ちゅうしゃく 編集へんしゅう

  1. ^ a b エルサルバドルぐん戦力せんりょくかんしては資料しりょうによってことなり、「陸軍りくぐんやく1まん2せんにん[2]空軍くうぐんは3せんにん[3]」とするものや、「陸軍りくぐんは8せんにん」とするものもある[4]
  2. ^ 当時とうじのラテンアメリカ諸国しょこくでは国民こくみんあいだ人気にんきたかいサッカーを政権せいけん維持いじ利用りようしていた側面そくめんがあり[31]代表だいひょうチームの不振ふしんにより政権せいけん崩壊ほうかいすることもあった[31]1930年代ねんだいアルゼンチンウルグアイがサッカーの試合しあい契機けいきとなり国交こっこう断絶だんぜついたった事例じれいがある[34]

出典しゅってん 編集へんしゅう

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参考さんこう文献ぶんけん 編集へんしゅう

外部がいぶリンク 編集へんしゅう