エルサルバドルは中米 ちゅうべい で最 もっと も国土 こくど 面積 めんせき が小 ちい さく、且 か つ最 もっと も人口 じんこう 密度 みつど が高 たか い国 くに である[11] 。人口 じんこう の約 やく 9割 わり は、メスティーソ と呼 よ ばれるスペイン 系 けい などの白人 はくじん とインディオ の混血 こんけつ であり[11] 、残 のこ りは純粋 じゅんすい な白人 はくじん とインディオ で構成 こうせい されていた[11] 。山岳 さんがく 地帯 ちたい が連 つら なる狭 せま い国土 こくど に居住 きょじゅう しており、中米 ちゅうべい 地域 ちいき の中 なか で特 とく に工業 こうぎょう が発展 はってん していることから「中米 ちゅうべい の日本 にっぽん 」とも評 ひょう された[12] 。
その一方 いっぽう で19世紀 せいき 後半 こうはん 頃 ごろ から国内 こくない 経済 けいざい をコーヒー の生産 せいさん と輸出 ゆしゅつ に依存 いぞん していたが[13] 、これは政府 せいふ が自給自足 じきゅうじそく 農業 のうぎょう を行 おこな う先住民 せんじゅうみん の土地 とち 所有 しょゆう を法律 ほうりつ により禁止 きんし し[13] 、コーヒー生産 せいさん 者 しゃ には税制 ぜいせい 上 じょう の優遇 ゆうぐう 措置 そち を付与 ふよ するなどして、国 くに を挙 あ げてコーヒー生産 せいさん を奨励 しょうれい したことの影響 えいきょう によるものだった[13] 。国土 こくど の多 おお くは「14家族 かぞく 」(カトルセファミリア)と呼 よ ばれる一部 いちぶ の白人 はくじん 富裕 ふゆう 層 そう の所有 しょゆう する農場 のうじょう で占 し められ、土地 とち や財産 ざいさん を独占 どくせん していたのに対 たい し[12] [13] 、多 おお くの国民 こくみん は低 てい 所得 しょとく に抑 おさ えられ生活 せいかつ に困窮 こんきゅう していた[12] [13] 。
土地 とち を所有 しょゆう していないエルサルバドルの一部 いちぶ の国民 こくみん は、約 やく 6倍 ばい の国土 こくど を持 も ち人口 じんこう 比 ひ もエルサルバドルの2分 ぶん の1(250万 まん 人 にん )に満 み たない隣国 りんごく のホンジュラスへと移住 いじゅう し生活 せいかつ 基盤 きばん を置 お いたが、こうした移民 いみん は1960年代 ねんだい 当時 とうじ 、合法 ごうほう による者 もの と非合法 ひごうほう による者 もの を含 ふく めて30万 まん 人 にん [14] から50万 まん 人 にん に上 のぼ った[15] 。
ホンジュラスでは古 ふる くからエルサルバドルからの移民 いみん を受 う け入 い れ、1900年代 ねんだい には政府 せいふ が辺境 へんきょう 地 ち を開拓 かいたく する意思 いし を持 も つ移民 いみん に対 たい し無償 むしょう で土地 とち を提供 ていきょう し[16] 、1932年 ねん にエルサルバドルで恐慌 きょうこう が発生 はっせい した際 さい には、数 すう 千 せん 人 にん がホンジュラスへと移民 いみん し、農園 のうえん や鉱山 こうざん で働 はたら いた[16] 。一方 いっぽう 、ホンジュラスの国内 こくない 情勢 じょうせい の変化 へんか や、地元民 じもとみん と移民 いみん との間 あいだ での土地 とち と仕事 しごと を巡 めぐ る争 あらそ いごとが表面 ひょうめん 化 か すると[16] 、ホンジュラス政府 せいふ (スペイン語 ご 版 ばん ) も次第 しだい に態度 たいど を硬化 こうか させるようになった[16] 。
移民 いみん 問題 もんだい に対処 たいしょ するべく、両国 りょうこく 政府 せいふ は1962年 ねん と1965年 ねん に条約 じょうやく を締結 ていけつ し調整 ちょうせい を図 はか ってきたが[16] 、ホンジュラス国内 こくない の人口 じんこう 増加 ぞうか 、バナナ 農園 のうえん の近代 きんだい 化 か に伴 ともな う労働 ろうどう 需要 じゅよう の激減 げきげん 、牧畜 ぼくちく や綿花 めんか 農園 のうえん の拡大 かくだい による農地 のうち 不足 ふそく が問題 もんだい となり、野党 やとう や富裕 ふゆう 層 そう から農地 のうち 改革 かいかく への圧力 あつりょく が高 たか まっていた[7] [17] 。ホンジュラス政府 せいふ は1969年 ねん 1月 がつ [18] に条約 じょうやく の更新 こうしん を拒否 きょひ し[17] 、オスバルド・ロペス・アレジャーノ (スペイン語 ご 版 ばん ) 大統領 だいとうりょう は、1962年 ねん に制定 せいてい された農地 のうち 改革 かいかく 法 ほう の実施 じっし に踏 ふ み切 き ることになった[19] 。この改革 かいかく 法 ほう は土地 とち の所有 しょゆう 者 しゃ をホンジュラス国内 こくない で出生 しゅっしょう した者 もの に限定 げんてい したもので[19] 、それに該当 がいとう しないエルサルバドル移民 いみん に対 たい し30日 にち 以内 いない の国外 こくがい 退去 たいきょ を求 もと める内容 ないよう となった[19] 。ホンジュラス政府 せいふ による発表 はっぴょう は1969年 ねん 4月 がつ に行 おこな われ[18] 、同年 どうねん 5月 がつ 下旬 げじゅん までにエルサルバドル移民 いみん の帰還 きかん が始 はじ まった[18] 。
国 くに の産業 さんぎょう をコーヒー やバナナ などの農業 のうぎょう 生産 せいさん と輸出 ゆしゅつ に特 とく 化 か し、先進 せんしん 国 こく からは「近代 きんだい 化 か の遅 おく れた国々 くにぐに 」と見 み 做されていた[20] エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグア 、グアテマラ 、コスタリカ の5か国 こく は、中米 ちゅうべい 地域 ちいき の経済 けいざい 統合 とうごう を目指 めざ して1961年 ねん に中米 ちゅうべい 共同 きょうどう 市場 いちば を発足 ほっそく させた[20] 。中米 ちゅうべい 共同 きょうどう 市場 いちば の発足 ほっそく と、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の圧力 あつりょく による外資 がいし 系 けい 企業 きぎょう の参入 さんにゅう 自由 じゆう 化 か により、1960年代 ねんだい に5か国 こく での工業 こうぎょう 化 か が進展 しんてん した[20] 。工業 こうぎょう 立地 りっち に関 かん して当初 とうしょ は、各国 かっこく 間 あいだ で公平 こうへい に分配 ぶんぱい する取 と り決 き めとなっていたが[21] 、加盟 かめい 国 こく 間 あいだ の対立 たいりつ と外資 がいし 系 けい 企業 きぎょう の圧力 あつりょく もあって緩和 かんわ され、工業 こうぎょう 化 か の進 すす んでいたエルサルバドル、グアテマラ、コスタリカの3か国 こく に工業 こうぎょう 立地 りっち は集中 しゅうちゅう するようになった[21] 。
その中 なか で、1950年代 ねんだい から工業 こうぎょう 化 か が進 すす んだエルサルバドルは、国民 こくみん の多 おお くが貧困 ひんこん 層 そう であり国内 こくない 市場 いちば が狭 せま いという事情 じじょう が存在 そんざい したものの[22] 、一部 いちぶ の富裕 ふゆう 層 そう 向 む けの生産 せいさん と双務 そうむ 貿易 ぼうえき 協定 きょうてい に基 もと づいた中米 ちゅうべい 諸国 しょこく への輸出 ゆしゅつ 向 む け生産 せいさん により発展 はってん を遂 と げていた[22] 。同国 どうこく は中米 ちゅうべい 共同 きょうどう 市場 いちば の発足 ほっそく の際 さい には主導 しゅどう 的 てき 役割 やくわり を果 は たし、加盟 かめい 国内 こくない で最 もっと も多 おお くの恩恵 おんけい を受 う けていたが[22] 、一方 いっぽう でホンジュラスでは工業 こうぎょう 化 か に立 た ち遅 おく れ[22] 、エルサルバドル製品 せいひん により市場 いちば が圧迫 あっぱく を受 う けるなどの不 ふ 均衡 きんこう が生 しょう じたことから、ホンジュラス側 がわ は不満 ふまん を抱 いだ くようになった[22] 。
国境 こっきょう 線 せん 問題 もんだい
編集 へんしゅう
両国 りょうこく の国境 こっきょう 線 せん は植民 しょくみん 地 ち 時代 じだい 以来 いらい 、河川 かせん を基点 きてん とすることが多 おお かったが[15] 、雨季 うき と乾季 かんき で地形 ちけい が大 おお きく変動 へんどう することから国境 こっきょう 線 せん が未 み 確定 かくてい の部分 ぶぶん が存在 そんざい した[15] 。そのため、エルサルバドルのチャラテナンゴ やモラサン 北部 ほくぶ では、両国 りょうこく がたびたび衝突 しょうとつ を繰 く り返 かえ しており[16] 、1961年 ねん 、アルベルト・チャベスに率 ひき いられた部隊 ぶたい がホンジュラス領内 りょうない のドロレス (スペイン語 ご 版 ばん ) とラパス に侵入 しんにゅう して現地 げんち の市民 しみん 警備 けいび 隊 たい と交戦 こうせん し、指揮 しき 官 かん のチャベスが死亡 しぼう した[23] 。6年 ねん 後 ご の1967年 ねん 5月29日 にち 、エルサルバドル領内 りょうない のモンテカ (Monteca) をパトロール中 ちゅう の国境警備隊 こっきょうけいびたい が、ホンジュラス軍 ぐん 部隊 ぶたい の待 ま ち伏 ぶ せを受 う けて戦闘 せんとう となった[24] 。この戦闘 せんとう によりエルサルバドル側 がわ は3人 にん が死亡 しぼう 、2人 ふたり が捕虜 ほりょ となり、ホンジュラス側 がわ も2人 ふたり が死亡 しぼう したが、その後 ご しばらくは国境 こっきょう を挟 はさ んで両国 りょうこく の緊張 きんちょう が高 たか まった[24] 。
エルサルバドル移民 いみん の国外 こくがい 退去 たいきょ
編集 へんしゅう
ホンジュラスのアレジャーノ大統領 だいとうりょう により実施 じっし された農業 のうぎょう 改革 かいかく 法 ほう は、主 おも に国境 こっきょう 未 み 確定 かくてい 地帯 ちたい に居住 きょじゅう しているエルサルバドル人 じん を退去 たいきょ させ、ホンジュラス人 じん を入植 にゅうしょく させることを企図 きと するものだった[15] が、この政策 せいさく により土地 とち を失 うしな いエルサルバドルへと帰国 きこく した移民 いみん の数 かず は戦争 せんそう 開始 かいし 前 まえ の数 すう か月 げつ 間 あいだ に1万 まん 4千 せん 人 にん [14] とも、2万 まん 人 にん から5万 まん 人 にん にのぼったものと推測 すいそく されている[6] 。この政策 せいさく はワールドカップ予選 よせん とほぼ同 どう 時期 じき に執 と り行 おこな われたもので[15] 、偶然 ぐうぜん によるものなのか意図 いと 的 てき なものなのかは定 さだ かではないが[15] 、結果 けっか として両国 りょうこく 間 あいだ の国民 こくみん 感情 かんじょう を刺激 しげき し、戦争 せんそう へと発展 はってん する呼 よ び水 みず となった[15] 。
移民 いみん の国外 こくがい 退去 たいきょ は強制 きょうせい 的 てき なもので[14] 、ホンジュラスの「ラ・マンチャ・ブラバ」と呼 よ ばれる極右 きょくう 組織 そしき や準 じゅん 軍事 ぐんじ 組織 そしき が関与 かんよ し[25] 、残虐 ざんぎゃく 行為 こうい が行 おこな われた事例 じれい が報告 ほうこく された[5] [25] 。これに対 たい しエルサルバドルの新聞 しんぶん メディアは、ホンジュラスに対 たい して徹底的 てっていてき な報復 ほうふく を求 もと める様 よう に政府 せいふ に要求 ようきゅう した[25] 。
1970 FIFAワールドカップ の北 きた 中米 ちゅうべい カリブ海 かりぶかい 予選 よせん は、史上 しじょう 最多 さいた となる12チームがエントリーして行 おこな われた[26] 。同 どう 地域 ちいき ではメキシコ代表 だいひょう がワールドカップ本 ほん 大会 たいかい に連続 れんぞく 出場 しゅつじょう するなど優勢 ゆうせい を保 たも っていたが1970年 ねん 大会 たいかい は地元 じもと 開催 かいさい ということで予選 よせん を免除 めんじょ されていた[26] ため、それ以外 いがい のチームにとっては本 ほん 大会 たいかい 出場 しゅつじょう の機会 きかい となった[26] 。
エルサルバドル代表 だいひょう はスリナム代表 だいひょう とオランダ領 りょう アンティル代表 だいひょう を、ホンジュラス代表 だいひょう はコスタリカ代表 だいひょう とジャマイカ代表 だいひょう をそれぞれ下 くだ して1次 じ ラウンドを突破 とっぱ し、準決勝 じゅんけっしょう ラウンドで対戦 たいせん することになった[27] 。
第 だい 1戦 せん は1969年 ねん 6月8日 にち にホンジュラスの首都 しゅと テグシガルパ で行 おこな われホンジュラス代表 だいひょう が1-0と勝利 しょうり したが、エルサルバドル代表 だいひょう が宿泊 しゅくはく するホテルの周辺 しゅうへん を群集 ぐんしゅう が取 と り巻 ま き、昼夜 ちゅうや を問 と わず爆 ばく 竹 ちく やクラクションや鳴 な り物 もの を響 ひび かせ、相手 あいて を批難 ひなん する歓声 かんせい や口笛 くちぶえ を鳴 な らし、建造 けんぞう 物 ぶつ へ投石 とうせき をするなどして、同 どう チームを疲弊 ひへい させていた[28] 。なお、こうしたサポーターによる行為 こうい は両国 りょうこく 間 あいだ の関係 かんけい や国民 こくみん 感情 かんじょう に拠 よ るものだけではなく、ラテンアメリカ諸国 しょこく では常態 じょうたい 的 てき に行 おこな われている行為 こうい だった[28] 。一方 いっぽう 、エルサルバドルでは熱狂 ねっきょう 的 てき サッカーファンの18歳 さい の女性 じょせい が敗戦 はいせん を苦 く に拳銃 けんじゅう 自殺 じさつ を図 はか る事件 じけん が発生 はっせい [28] 。女性 じょせい の葬儀 そうぎ にはフィデル・サンチェス・へルナンデス (スペイン語 ご 版 ばん ) 大統領 だいとうりょう や大臣 だいじん といった政府 せいふ 要人 ようじん 、エルサルバドル代表 だいひょう 選手 せんしゅ らが参列 さんれつ し[29] 葬儀 そうぎ の模様 もよう がテレビ中継 ちゅうけい をされるなど[28] 、国家 こっか 的 てき イベントの様相 ようそう を呈 てい した[30] 。
1勝 しょう 1敗 はい の成績 せいせき で迎 むか えた第 だい 3戦 せん は、メキシコ の首都 しゅと メキシコシティ にあるエスタディオ・アステカ で行 おこな われ、延長 えんちょう 戦 せん の末 すえ にエルサルバドルが3-2と勝利 しょうり した。
第 だい 2戦 せん は1週間 しゅうかん 後 ご の6月15日 にち にエルサルバドルの首都 しゅと サンサルバドル で行 おこな われたが、ホンジュラス代表 だいひょう が宿泊 しゅくはく したホテルの周辺 しゅうへん では第 だい 1戦 せん と同様 どうよう に群集 ぐんしゅう が周囲 しゅうい を取 と り巻 ま き[29] 、自殺 じさつ した女性 じょせい の肖像 しょうぞう を掲 かか げ、相手 あいて チームを批難 ひなん した[29] 。また、群集 ぐんしゅう はホテルの窓 まど ガラスを破壊 はかい し、腐敗 ふはい した卵 たまご や鼠 ねずみ の死骸 しがい などの汚物 おぶつ を建物 たてもの へと投 な げ入 い れた[29] 。ホンジュラス代表 だいひょう 選手 せんしゅ の輸送 ゆそう はエルサルバドル軍 ぐん の装甲車 そうこうしゃ によって行 おこな われていたため、暴徒 ぼうと による襲撃 しゅうげき を直接 ちょくせつ に受 う けることはなかったが[29] 、ホンジュラスから応援 おうえん に駆 か けつけたホンジュラス代表 だいひょう サポーターは暴徒 ぼうと から殴 なぐ る蹴 け るの暴行 ぼうこう を受 う けるなど2人 ふたり が死亡 しぼう し[31] 、彼 かれ らの乗車 じょうしゃ していた自動車 じどうしゃ 150台 だい が放火 ほうか される被害 ひがい を受 う けた[31] 。試合 しあい は3-0でエルサルバドルが勝利 しょうり し1勝 しょう 1敗 はい の成績 せいせき で並 なら び、プレーオフへと持 も ち込 こ まれることになった[27] 。
6月27日 にち にメキシコ の首都 しゅと メキシコシティ にあるエスタディオ・アステカ で行 おこな われた最終 さいしゅう 戦 せん は、会場 かいじょう となったエスタディオ・アステカの収容 しゅうよう 人数 にんずう を10万 まん 人 にん から2万 まん 人 にん に制限 せいげん [32] [33] 。試合 しあい の2日 にち 前 まえ から観戦 かんせん のために訪 おとず れていた両国 りょうこく のサポーターをメインスタンドとバックスタンドに分離 ぶんり して入場 にゅうじょう させ[33] 、緩衝 かんしょう 地帯 ちたい には催涙 さいるい ガス銃 じゅう を装備 そうび した機動 きどう 隊員 たいいん を配置 はいち させる、といった厳戒 げんかい 態勢 たいせい の中 なか で執 と り行 おこな われた[32] [33] 。試合 しあい は延長 えんちょう 戦 せん の末 すえ にエルサルバドル代表 だいひょう が3-2でホンジュラス代表 だいひょう を下 くだ し、ハイチ代表 だいひょう との最終 さいしゅう ラウンドへと進出 しんしゅつ した[32] 。
エルサルバドル政府 せいふ の発表 はっぴょう によると、6月15日 にち に行 おこな われたワールドカップ予選 よせん 後 ご にホンジュラスに在住 ざいじゅう するエルサルバドル移民 いみん が襲撃 しゅうげき を受 う け、身 み の危険 きけん を危 あや ぶんだ1万 まん 2千 せん 人 にん 近 ちか くの移民 いみん がエルサルバドル領内 りょうない へと避難 ひなん する事態 じたい となった[34] 。エルサルバドル国民 こくみん の間 あいだ でホンジュラスとの国交 こっこう 断絶 だんぜつ を求 もと める声 こえ が高 たか まると、エルサルバドル政府 せいふ は6月23日 にち に国家 こっか 非常 ひじょう 事態 じたい を宣言 せんげん して予備 よび 役 やく 軍人 ぐんじん を召集 しょうしゅう [34] 。3日 にち 後 ご の6月26日 にち 夜 よる に同 どう 政府 せいふ は「ホンジュラスは同国 どうこく に在住 ざいじゅう するエルサルバドル人 じん を迫害 はくがい しようとしている」との声明 せいめい を発表 はっぴょう し、国交 こっこう 断絶 だんぜつ を宣言 せんげん した[34] 。ホンジュラス政府 せいふ もこれを受 う けて6月27日 にち にエルサルバドルとの国交 こっこう を断絶 だんぜつ し、国防 こくぼう 上 じょう の対処 たいしょ を行 おこな うことを発表 はっぴょう した[35] [注 ちゅう 2] 。
エルサルバドル外務省 がいむしょう の発表 はっぴょう によると、7月 がつ 3日 にち 11時 じ 45分 ふん にホンジュラス空軍 くうぐん (英語 えいご 版 ばん ) の1機 き が、エルサルバドル北西 ほくせい 部 ぶ に位置 いち するエルポイ (El Poy) にある国境 こっきょう 監視 かんし 所 しょ を爆撃 ばくげき するなどして、同 どう 監視 かんし 所 しょ の守備 しゅび 隊 たい と交戦 こうせん [36] 。その後 ご 、先刻 せんこく の爆 ばく 撃 げき 機 き とは別 べつ のホンジュラス空軍 くうぐん の2機 き が同 どう 監視 かんし 所 しょ を襲撃 しゅうげき したが、エルサルバドル空軍 くうぐん 機 き が迎撃 げいげき してこれを退 しりぞ けた[36] 。また、両国 りょうこく 陸軍 りくぐん が国境 こっきょう を挟 はさ んで約 やく 20分間 ふんかん に渡 わた って銃撃 じゅうげき 戦 せん を行 おこな った[36] 。エルサルバドル外務省 がいむしょう は米州 べいしゅう 機構 きこう (OAS) に対 たい し、ホンジュラスの行為 こうい を非難 ひなん する書簡 しょかん を送 おく った。両国 りょうこく の衝突 しょうとつ を受 う けてOASは7月 がつ 4日 にち 、理事 りじ 会 かい を招集 しょうしゅう し今後 こんご の対応 たいおう を協議 きょうぎ した[37] 。
7月 がつ 9日 にち 、ホンジュラス政府 せいふ の発表 はっぴょう によると、エルサルバドル陸軍 りくぐん がホンジュラス領内 りょうない のインティブカ県 けん にある村 むら を襲撃 しゅうげき し、地元 じもと の警官 けいかん 隊 たい と衝突 しょうとつ 。12戸 こ の民家 みんか が焼 や き払 はら われたが、死傷 ししょう 者 しゃ はなかった[38] 。両 りょう 軍 ぐん による戦闘 せんとう は7月 がつ 3日 にち に続 つづ いて2度目 どめ 。
7月 がつ 12日 にち 、エルサルバドル陸軍 りくぐん の部隊 ぶたい がホンジュラス領内 りょうない に10km侵攻 しんこう した地点 ちてん でホンジュラス陸軍 りくぐん (英語 えいご 版 ばん ) と衝突 しょうとつ 。銃撃 じゅうげき 戦 せん となり、エルサルバドル兵 へい 14人 にん が戦死 せんし した[39] 。
7月 がつ 13日 にち 早朝 そうちょう 、エルサルバドル政府 せいふ の発表 はっぴょう によると両 りょう 軍 ぐん は国境 こっきょう 付近 ふきん にあるエル・ポイで3時 じ 間 あいだ に渡 わた って交戦 こうせん [40] 。ホンジュラス政府 せいふ の発表 はっぴょう によると、この戦闘 せんとう により一般 いっぱん 市民 しみん が負傷 ふしょう した[41] 。OAS理事 りじ 会 かい では両国 りょうこく 間 あいだ の本格 ほんかく 的 てき な軍事 ぐんじ 的 てき 衝突 しょうとつ を回避 かいひ するため、アルゼンチン 、エクアドル 、コスタリカ 、ドミニカ 、ニカラグア 、グアテマラ 、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の7か国 こく による平和 へいわ 維持 いじ 団 だん の派遣 はけん を決定 けってい した[1] [42] 。一方 いっぽう 、同 どう 理事 りじ 会 かい においてホンジュラス外相 がいしょう のフィデル・デュロンはエルサルバドル側 がわ の行為 こうい を非難 ひなん したが、エルサルバドル側 がわ は「非難 ひなん はエルサルバドル人 じん の大量 たいりょう 追放 ついほう を覆 おお い隠 かく す煙幕 えんまく に過 す ぎない」「われわれは動員 どういん 態勢 たいせい にあるが、これは追放 ついほう された同胞 どうほう を守 まも るためのものである」と応 おう じた[1] 。
エルサルバドル
空軍 くうぐん の
主 おも な
攻撃 こうげき 地点 ちてん
7月 がつ 14日 にち 、OASを介 かい して両国 りょうこく による外交 がいこう 交渉 こうしょう が行 おこな われる中 なか 、エルサルバドル空軍 くうぐん はフィデル・サンチェス・エルナンデス大統領 だいとうりょう からホンジュラスの主要 しゅよう 都市 とし を攻撃 こうげき するための直接 ちょくせつ 命令 めいれい を受 う けた[43] 。本 ほん 作戦 さくせん は1961年 ねん 以来 いらい 、ホンジュラス侵攻 しんこう を目的 もくてき に進 すす められてきた「ヘラルド・バリオス大将 たいしょう 計画 けいかく 」を実行 じっこう に移 うつ したもので、戦略 せんりゃく 目標 もくひょう は「ホンジュラスに在住 ざいじゅう する自 じ 国民 こくみん の身分 みぶん 保証 ほしょう と、緩衝 かんしょう 地域 ちいき の占領 せんりょう 」にあった[23] 。
同日 どうじつ 18時 じ 10分 ふん 、エルサルバドル空軍 くうぐん のC-47 、F-51D 、FG-1D (F4U コルセア のライセンス生産 せいさん 機 き )[44] で構成 こうせい される少 すく なくとも6機 き [43] の編隊 へんたい が、テグシガルパ郊外 こうがい のトンコンティン国際 こくさい 空港 くうこう を爆撃 ばくげき 。同 どう 空軍 くうぐん はこれと同時 どうじ にホンジュラス領内 りょうない にあるサンタロサ・デ・コパン (スペイン語 ご 版 ばん ) 、アマパラ 、チョルテカ (スペイン語 ご 版 ばん ) など、ホンジュラスの主 おも だった飛行場 ひこうじょう 及 およ び軍事 ぐんじ 施設 しせつ 十 じゅう 数 すう か所 しょ への爆 ばく 撃 げき を行 おこな った[43] [44] 。なお、このエルサルバドル空軍 くうぐん による空爆 くうばく は、戦力 せんりょく で勝 まさ るホンジュラス空軍 くうぐん に対 たい して先制 せんせい 攻撃 こうげき を仕掛 しか けることで、従来 じゅうらい の軍事 ぐんじ 的 てき バランスを覆 くつがえ す目的 もくてき があったが[44] 、作戦 さくせん は失敗 しっぱい した[44] 。
エルサルバドル空軍 くうぐん による爆撃 ばくげき 後 ご 、エルサルバドル陸軍 りくぐん は西部 せいぶ 、チャラテナンゴ県 けん 、東部 とうぶ の3方面 ほうめん から国境 こっきょう を越 こ えてホンジュラス領内 りょうない へと侵攻 しんこう を開始 かいし した[45] 。これらの空 そら と陸 りく からの奇襲 きしゅう 作戦 さくせん は、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 時 どき のナチス・ドイツ や第三次中東戦争 だいさんじちゅうとうせんそう 時 どき のイスラエル の事例 じれい が示 しめ すように双方 そうほう の完璧 かんぺき な連携 れんけい が行 おこな われた場合 ばあい に効果 こうか を発揮 はっき するが[4] 、本 ほん 作戦 さくせん ではエルサルバドル側 がわ の望 のぞ むような効果 こうか を得 え ることが出来 でき ず、その代償 だいしょう としてホンジュラス側 がわ に注意 ちゅうい を喚起 かんき させる結果 けっか となった[4] 。
7月 がつ 15日 にち 朝 あさ 、ホンジュラス空軍 くうぐん のT-28 、F4U 、F-51Sなど数 すう 機 き がエルサルバドル領内 りょうない に侵入 しんにゅう し[44] 、サンサルバドル郊外 こうがい にあるイロパンゴ国際 こくさい 空港 くうこう (英語 えいご 版 ばん ) を爆撃 ばくげき [44] 。軍民 ぐんみん 共用 きょうよう 飛行場 ひこうじょう である同 どう 空港 くうこう の滑走 かっそう 路 ろ や格納庫 かくのうこ 、一般 いっぱん 利用 りよう 客 きゃく 用 よう の駐車 ちゅうしゃ 場 じょう などが損害 そんがい を受 う けた[44] 。
この他 ほか に、ホンジュラス空軍 くうぐん 機 き はエルサルバドルの主要 しゅよう な港湾 こうわん 都市 とし であるアカフトラ (スペイン語 ご 版 ばん ) にあるコンビナート を攻撃 こうげき 。石油 せきゆ 精製 せいせい 所 ところ は被害 ひがい を受 う けなかったものの、貯蔵 ちょぞう タンクが爆撃 ばくげき により損害 そんがい を受 う けた[44] 。また、ラ・ウニオン県 けん にあるラ・クトゥコ港 こう (スペイン語 ご 版 ばん ) も爆撃 ばくげき され、17の貯蔵 ちょぞう タンクのうち、5つが破壊 はかい されたが、港 みなと 自体 じたい の損害 そんがい はなかった[44] 。
航空 こうくう 戦力 せんりょく では2.5対 たい 1とホンジュラスが開戦 かいせん 前 まえ から優位 ゆうい に立 た ち、戦争 せんそう を通 つう じて制空権 せいくうけん を維持 いじ していたが[44] 、これに対 たい して地上 ちじょう 戦力 せんりょく の面 めん では両 りょう 国共 こっきょう におよそ5千 せん 人 にん 前後 ぜんこう の兵員 へいいん を有 ゆう し[44] 、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 陸軍 りくぐん が第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の際 さい に使用 しよう していた旧式 きゅうしき の装備 そうび を身 み に付 つ け[44] 、戦車 せんしゃ や重火器 じゅうかき といった大型 おおがた 装備 そうび を持 も ち合 あ わせるなど、表面 ひょうめん 上 じょう の明確 めいかく な差異 さい は存在 そんざい しなかった[44] 。一方 いっぽう で組織 そしき 力 りょく や戦闘 せんとう 能力 のうりょく といった面 めん でエルサルバドル陸軍 りくぐん が優位 ゆうい に立 た ち[44] 、戦争 せんそう 末期 まっき ではホンジュラス最強 さいきょう の部隊 ぶたい とされる大統領 だいとうりょう 防衛 ぼうえい 隊 たい を撃破 げきは したと報 ほう じられるなど[44] 、地上 ちじょう においてはエルサルバドル軍 ぐん が攻勢 こうせい を続 つづ けた[44] 。エルサルバドルの新聞 しんぶん は「エルサルバドル軍 ぐん の進撃 しんげき は誰 だれ にも止 と めることは出来 でき ない」「ラテンアメリカのイスラエル」などと大 だい 見出 みだ しで報 ほう じるなど[44] 、このまま進撃 しんげき を続 つづ けてホンジュラス領内 りょうない の都市 とし を陥落 かんらく させ首都 しゅと テグシガルパに迫 せま るものと考 かんが えられていた[44] [注 ちゅう 1] 。
ホンジュラス領内 りょうない に侵攻 しんこう していたエルサルバドル陸軍 りくぐん は、北部 ほくぶ にあるエルポイから侵攻 しんこう した部隊 ぶたい が、同日 どうじつ 中 ちゅう にヌエバ・オコテペケ (英語 えいご 版 ばん ) を占領 せんりょう [18] 。この他 ほか 、東部 とうぶ から侵攻 しんこう した部隊 ぶたい が太平洋 たいへいよう 岸 がん にあるゴアスコラン (スペイン語 ご 版 ばん ) やカリダ やアラメシナ (スペイン語 ご 版 ばん ) を、チャラテナンゴ方面 ほうめん から侵攻 しんこう した部隊 ぶたい が北 きた 中部 ちゅうぶ の国境 こっきょう 線 せん に沿 そ ってサン・フアン・ガリタ (スペイン語 ご 版 ばん ) 、バリャドリード (スペイン語 ご 版 ばん ) 、ラ・ビルトゥド (スペイン語 ご 版 ばん ) といった町 まち を占領 せんりょう するなど[44] 、旧式 きゅうしき のH&K G3 自動 じどう 小銃 しょうじゅう を携帯 けいたい する歩兵 ほへい 部隊 ぶたい が、開戦 かいせん から1日 にち でホンジュラス領内 りょうない の40平方 へいほう キロメートルの地域 ちいき を占領 せんりょう した[45] 。一方 いっぽう で、エルサルバドルの司令 しれい 官 かん が兵站 へいたん 問題 もんだい に理解 りかい がなかったこと[44] 、ホンジュラス空軍 くうぐん により石油 せきゆ 貯蔵 ちょぞう タンクが攻撃 こうげき された影響 えいきょう により国内 こくない の石油 せきゆ 供給 きょうきゅう に支障 ししょう を来 き たしたためエルサルバドル陸軍 りくぐん でもガソリン 不足 ふそく に陥 おちい ったこと[44] により侵攻 しんこう の停止 ていし を余儀 よぎ なくされた[44] 。
7月 がつ 16日 にち - 7月 がつ 17日 にち
編集 へんしゅう
エルサルバドル
陸軍 りくぐん の
主 おも な
占領 せんりょう 地域 ちいき
7月 がつ 16日 にち 、OASが派遣 はけん した平和 へいわ 維持 いじ 委員 いいん 会 かい は、ホンジュラス側 がわ が「エルサルバドル軍 ぐん がホンジュラス領内 りょうない から撤退 てったい する」との条件 じょうけん 付 づけ でエルサルバドルとの停戦 ていせん に応 おう じることを承諾 しょうだく したと発表 はっぴょう した[46] 。一方 いっぽう 、エルサルバドル側 がわ は停戦 ていせん に応 おう じる様子 ようす はなく、ホンジュラス軍 ぐん に対 たい し「降伏 ごうぶく を選 えら ぶか死 し を選 えら ぶか」と要求 ようきゅう するなど強硬 きょうこう な姿勢 しせい を見 み せた[46] 。
同日 どうじつ 、ホンジュラス政府 せいふ はラジオ 放送 ほうそう を通 つう じて「我 わ が軍 ぐん はエルサルバドルの戦略 せんりゃく 拠点 きょてん に対 たい する空爆 くうばく を継続 けいぞく 中 ちゅう である」との声明 せいめい を発表 はっぴょう [46] 。また、国民 こくみん に対 たい して「老若男女 ろうにゃくなんにょ の区別 くべつ なく、侵略 しんりゃく 者 しゃ に対抗 たいこう するために戦地 せんち に赴 おもむ く準備 じゅんび をするように」と義勇 ぎゆう 兵 へい の参加 さんか を呼 よ びかけた[46] 。こうした両国 りょうこく 間 あいだ の情勢 じょうせい に対 たい し国際 こくさい 連合 れんごう のウ・タント 事務 じむ 総長 そうちょう は両国 りょうこく の外務 がいむ 大臣 だいじん に、戦闘 せんとう を中止 ちゅうし し相互 そうご 対話 たいわ に応 おう じるように要請 ようせい した[47] 。
7月 がつ 17日 にち 、エルサルバドル政府 せいふ は「ホンジュラスに在住 ざいじゅう するエルサルバドル人 じん に対 たい する迫害 はくがい 行為 こうい を即座 そくざ に停止 ていし させ、戦争 せんそう 前 まえ の原状 げんじょう に復帰 ふっき させる」という条件 じょうけん 付 づけ で停戦 ていせん に応 おう じることを承諾 しょうだく した[48] 。一方 いっぽう 、ホンジュラス政府 せいふ は同 どう 陸軍 りくぐん がエルサルバドルとの国境 こっきょう を越 こ えて領内 りょうない に侵攻 しんこう し、北部 ほくぶ にある都市 とし に迫 せま りつつある、と発表 はっぴょう [48] 。同時 どうじ に政府 せいふ は、エルサルバドル側 がわ の停戦 ていせん に向 む けた非 ひ 協力 きょうりょく 的 てき な姿勢 しせい を批難 ひなん する声明 せいめい を発表 はっぴょう した[48] 。これに応 おう じてエルサルバドル軍 ぐん もホンジュラス領内 りょうない の三 さん 方面 ほうめん からの攻撃 こうげき を再開 さいかい させた[49] 。
同日 どうじつ 、地上 ちじょう 目標 もくひょう に対 たい する機銃 きじゅう 掃射 そうしゃ の任務 にんむ に就 つ いていたホンジュラス空軍 くうぐん のフェルナンド・ソト・エンリケス 大尉 たいい が操縦 そうじゅう するF4U-5が、味方 みかた 機 き からの要請 ようせい を受 う けてエルサルバドル空軍 くうぐん 機 き と交戦 こうせん [50] 。エルサルバドル空軍 くうぐん のF-51D 1機 き とFG-1D 2機 き を撃墜 げきつい した[50] 。レシプロ 戦闘 せんとう 機 き 同士 どうし による世界 せかい 史上 しじょう 最後 さいご の戦 たたか い[51] と呼 よ ばれる戦闘 せんとう での戦果 せんか によりソト大尉 たいい は少佐 しょうさ に昇進 しょうしん し[50] 、ホンジュラスの国民 こくみん 的 てき 英雄 えいゆう として扱 あつか われただけでなく[50] 、世界 せかい 的 てき な知名度 ちめいど を獲得 かくとく した[51] 。
7月 がつ 18日 にち 朝 あさ 、OASのガロ・ブラサ事務 じむ 総長 そうちょう は両 りょう 政府 せいふ 関係 かんけい 者 しゃ とOAS平和 へいわ 維持 いじ 委員 いいん 会 かい との間 あいだ で約 やく 24時 じ 間 あいだ に渡 わた って行 おこな われた三 さん 者 しゃ 会談 かいだん により、戦争 せんそう を終結 しゅうけつ させるための4項目 こうもく からなる和平 わへい 案 あん について合意 ごうい が成立 せいりつ したと発表 はっぴょう した[52] 。この和平 わへい 案 あん は以下 いか の通 とお りとなっている。
両国 りょうこく の即時 そくじ 停戦 ていせん [52] 。
両 りょう 国軍 こくぐん が開戦 かいせん 前 まえ の地点 ちてん にまで撤退 てったい する[52] 。
両国 りょうこく に在住 ざいじゅう する相手 あいて 国民 こくみん の有 ゆう する財産 ざいさん と保護 ほご を保障 ほしょう する[52] 。
両国 りょうこく の停戦 ていせん を監視 かんし するため、OASが派遣 はけん する軍民 ぐんみん 合同 ごうどう 顧問 こもん 団 だん を受 う け入 い れる[52] 。
OASの発表 はっぴょう によると両国 りょうこく は、中米 ちゅうべい 時間 じかん の7月 がつ 18日 にち 22時 じ から停戦 ていせん に入 はい り[53] 、OASに加盟 かめい する3か国 こく で構成 こうせい される監視 かんし 団 だん の下 した で両 りょう 国軍 こくぐん を96時間 じかん 以内 いない に撤退 てったい させる予定 よてい となっていた[54] 。両国 りょうこく の停戦 ていせん 受託 じゅたく により、それぞれの戦線 せんせん では平穏 へいおん な情勢 じょうせい を取 と り戻 もど したが[54] 、一方 いっぽう でエルサルバドルのエルナンデス大統領 だいとうりょう は同日 どうじつ に国民 こくみん に向 む けた放送 ほうそう において、占領 せんりょう 地域 ちいき からの撤退 てったい を拒絶 きょぜつ する声明 せいめい を発表 はっぴょう した[53] 。
エルサルバドル軍 ぐん の撤退 てったい 拒否 きょひ
編集 へんしゅう
7月 がつ 19日 にち 、エルサルバドル軍 ぐん の広報 こうほう 官 かん の発表 はっぴょう によると、同国 どうこく のエルナンデス大統領 だいとうりょう がホンジュラス領内 りょうない に17km入 はい った前線 ぜんせん 地域 ちいき を視察 しさつ 中 ちゅう にホンジュラス軍 ぐん から狙撃 そげき される事件 じけん が発生 はっせい した[55] 。エルナンデス大統領 だいとうりょう に怪我 けが はなかったものの、同 どう 広報 こうほう 官 かん はOASの停戦 ていせん 命令 めいれい に反 はん するものだとしてホンジュラス側 がわ を批難 ひなん した[55] 。また、OASの公式 こうしき 報告 ほうこく によりエルサルバドル軍 ぐん が停戦 ていせん 命令 めいれい 後 ご も、ホンジュラス領内 りょうない からの撤退 てったい を開始 かいし せず、同 どう 領内 りょうない の陣地 じんち をさらに前進 ぜんしん させていることが明 あき らかとなった[56] 。
7月 がつ 21日 にち 朝 あさ 、エルサルバドル軍 ぐん による停戦 ていせん 命令 めいれい 違反 いはん の報告 ほうこく を受 う けてOASは緊急 きんきゅう 会議 かいぎ を招集 しょうしゅう [56] 。OASから現地 げんち に派遣 はけん されたニカラグアのセビラ・サカサ監視 かんし 団長 だんちょう は「エルサルバドル軍 ぐん がこのまま撤退 てったい を拒 こば んでホンジュラス領内 りょうない に留 とど まった場合 ばあい 、OASの規定 きてい に基 もと づき同国 どうこく に対 たい する軍事 ぐんじ 的 てき および経済 けいざい 的 てき な制裁 せいさい 措置 そち を採 と ることも辞 じ さない」と警告 けいこく した[57] 。
一方 いっぽう 、エルサルバドル陸軍 りくぐん は同日 どうじつ 夜 よる までにホンジュラス南部 なんぶ にあるバジェ県 けん の県 けん 都 と ナカオメ を包囲 ほうい し、首都 しゅと テグシカルパと同地 どうち を結 むす ぶ幹線 かんせん 道路 どうろ を封鎖 ふうさ した[58] 。
7月 がつ 23日 にち 、OASの定 さだ めた96時 じ 間 あいだ の撤退 てったい 期限 きげん が失効 しっこう したことを受 う け、ホンジュラス空軍 くうぐん の2機 き の爆 ばく 撃 げき 機 き がエルサルバドル領内 りょうない に侵入 しんにゅう し、サンサルバドルにあるイロパンゴ国際 こくさい 空港 くうこう と、同地 どうち の北方 ほっぽう 16kmに位置 いち するネハバ (nejaba) という村 むら を爆撃 ばくげき [59] 。エルサルバドル軍 ぐん の発表 はっぴょう によると爆 ばく 撃 げき による被害 ひがい は確認 かくにん されなかった[59] 。
7月 がつ 29日 にち 、OAS外相 がいしょう 会議 かいぎ の席上 せきじょう においてエルサルバドルの外務 がいむ 大臣 だいじん は、紛争 ふんそう により占領 せんりょう した地域 ちいき から撤兵 てっぺい することを発表 はっぴょう [60] 。これを受 う けてOASは、エルサルバドル軍 ぐん の撤退 てったい 期限 きげん を8月 がつ 3日 にち 18時 じ までと定 さだ めた[61] 。
8月 がつ 3日 にち 13時 じ 15分 ふん 、OAS顧問 こもん 団 だん の監視 かんし の下 した 、ホンジュラス南部 なんぶ のレンピーラ県 けん にあるラ・ビルトゥドで最後 さいご の撤兵 てっぺい が確認 かくにん され、撤退 てったい が完了 かんりょう した[61] 。この戦争 せんそう により両国 りょうこく あわせて2千 せん 人 にん が死亡 しぼう し[18] [62] [63] [64] (2千 せん から3千 せん 人 にん [2] 、3千 せん 人 にん [3] 、6千 せん 人 にん [65] [66] とする資料 しりょう もある)、4千 せん 人 にん [63] または1万 まん 2千 せん 人 にん [65] [66] が負傷 ふしょう した。犠牲 ぎせい 者 しゃ の多 おお くはホンジュラスの農民 のうみん であり[18] [64] 、国境 こっきょう 沿 ぞ いに在住 ざいじゅう する農民 のうみん の多 おお くが家 いえ や土地 とち を失 うしな った[18] 。
銃 じゅう を構 かま えるファラブンド・マルティ民族 みんぞく 解放 かいほう 戦線 せんせん (FMLN) の兵士 へいし 。
戦場 せんじょう から帰還 きかん したエルサルバドル軍 ぐん の兵士 へいし たちは国民 こくみん から歓迎 かんげい を受 う け、エルナンデス大統領 だいとうりょう は国民 こくみん 的 てき 英雄 えいゆう と讃 たた えられた[63] 。一方 いっぽう 、ホンジュラスから10万 まん 人 にん [64] とも、6万 まん 人 にん から13万 まん 人 にん [18] にのぼる移民 いみん が1969年 ねん の時点 じてん で労働 ろうどう 人口 じんこう の20%が失業 しつぎょう 状態 じょうたい にあるというエルサルバドル国内 こくない に引 ひ き揚 あ げたことで都市 とし は失業 しつぎょう 者 しゃ で溢 あふ れかえり[19] 、戦争 せんそう の相手 あいて 国 こく となったホンジュラスとの関係 かんけい 悪化 あっか によりエルサルバドル製 せい の工業 こうぎょう 製品 せいひん は市場 いちば を失 うしな うなど[67] 、それまで抱 かか えていた問題 もんだい 点 てん が表面 ひょうめん 化 か した[67] 。また、「14家族 かぞく 」と呼 よ ばれる富裕 ふゆう 層 そう に富 とみ と権力 けんりょく が集中 しゅうちゅう し、国民 こくみん の6割 わり が低 てい 所得 しょとく に抑 おさ えられているといった社会 しゃかい 構造 こうぞう への不満 ふまん から、待遇 たいぐう 改善 かいぜん を求 もと める左翼 さよく 系 けい 労働 ろうどう 者 しゃ によるストライキ が頻発 ひんぱつ した[12] 。
1972年 ねん に行 おこな われた大統領 だいとうりょう 選挙 せんきょ での現 げん 政権 せいけん 側 がわ の不正 ふせい 行為 こうい がきっかけとなり反 はん 政府 せいふ 運動 うんどう が活発 かっぱつ 化 か し[67] 、左翼 さよく ゲリラ による政府 せいふ 軍 ぐん 兵舎 へいしゃ への襲撃 しゅうげき や[12] 、外国 がいこく 系 けい 企業 きぎょう を対象 たいしょう とした身代金 みのしろきん 目的 もくてき の誘拐 ゆうかい 事件 じけん が多発 たはつ した[12] 。これに対 たい し軍部 ぐんぶ と右翼 うよく 勢力 せいりょく が結 むす びついた「死 し の部隊 ぶたい 」[12] によって左翼 さよく 運動 うんどう 家 か への弾圧 だんあつ や暗殺 あんさつ が行 おこな われるなど、国内 こくない の治安 ちあん 状態 じょうたい は急速 きゅうそく に悪化 あっか した[12] [67] 。
1980年 ねん 3月24日 にち 、国民 こくみん の間 あいだ で人気 にんき の高 たか かったオスカル・ロメロ 大司教 だいしきょう が極右 きょくう 組織 そしき により暗殺 あんさつ されたことにより[12] 平和 へいわ 的 てき 解決 かいけつ の可能 かのう 性 せい は狭 せば まり[68] 、左翼 さよく ゲリラはファラブンド・マルティ民族 みんぞく 解放 かいほう 戦線 せんせん (FMLN) を結成 けっせい し、政府 せいふ 軍 ぐん との本格 ほんかく 的 てき な内戦 ないせん へと突入 とつにゅう していった[12] [68] 。
中米 ちゅうべい で最 もっと も工業 こうぎょう が発展 はってん し、政情 せいじょう が不安定 ふあんてい な中米 ちゅうべい 諸国 しょこく の中 なか で最 もっと も安定 あんてい した民主 みんしゅ 国家 こっか と呼 よ ばれたエルサルバドルは内戦 ないせん の激化 げきか により衰退 すいたい した[69] 。約 やく 12年間 ねんかん に渡 わた って続 つづ いた内戦 ないせん による犠牲 ぎせい 者 しゃ は7万 まん 5千 せん 人 にん に達 たっ し[70] 、経済 けいざい 的 てき 損失 そんしつ は約 やく 50億 おく ドルに上 のぼ ると推測 すいそく されている[70] 。
ホンジュラスでは戦後 せんご 、ナショナリズム や国 くに に対 たい する誇 ほこ りといった新 あたら しい価値 かち 観 かん が生 う まれた[18] 。数 かず 万 まん 人 にん の労働 ろうどう 者 しゃ や農民 のうみん が国家 こっか を守 まも るため、武器 ぶき を手 て に入 い れるために政府 せいふ を訪 おとず れ[18] 、鉈 などで武装 ぶそう した数 すう 千 せん 人 にん の一般 いっぱん 市民 しみん が地方 ちほう での警備 けいび 業務 ぎょうむ に従事 じゅうじ した[18] 。
1970年代 ねんだい 後半 こうはん に入 はい ると中米 ちゅうべい 諸国 しょこく では大 だい 規模 きぼ な内戦 ないせん が相次 あいつ ぎ[70] 、反 はん 共産 きょうさん 主義 しゅぎ を執 と るアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の軍事 ぐんじ 的 てき 支援 しえん もあり対立 たいりつ が深 ふか まったが、ホンジュラスでは政治 せいじ 的 てき に安定 あんてい した状態 じょうたい が続 つづ いたこともあり紛争 ふんそう に巻 ま き込 こ まれることはなかった[70] 。1980年代 ねんだい に入 はい るとアメリカの中米 ちゅうべい 介入 かいにゅう のための軍事 ぐんじ 拠点 きょてん としての役割 やくわり を担 にな うようになり、ニカラグア の反 はん 革命 かくめい 勢力 せいりょく ・コントラ の根拠地 こんきょち となった[71] 。また、隣国 りんごく エルサルバドルで内戦 ないせん が続 つづ く中 なか 、アメリカが中 ちゅう 米 べい 諸国 しょこく 間 あいだ の軍事 ぐんじ バランスを理解 りかい することなくエルサルバドル政府 せいふ 軍 ぐん の増強 ぞうきょう に関 かか わったことから反 はん エルサルバドル感情 かんじょう や反米 はんべい 感情 かんじょう が高 たか まった[72] 。
二 に 国 こく 間 あいだ 関係 かんけい
編集 へんしゅう
戦争 せんそう の影響 えいきょう により両国 りょうこく 間 あいだ の貿易 ぼうえき は完全 かんぜん に暗礁 あんしょう に乗 の り上 あ げ[18] 、両国 りょうこく 間 あいだ の境界 きょうかい 線 せん が閉鎖 へいさ されたことにより交通 こうつう 網 もう が遮断 しゃだん されるなど、両国 りょうこく の経済 けいざい に深刻 しんこく な影響 えいきょう を与 あた えた[18] 。また、両国 りょうこく が加盟 かめい していた中米 ちゅうべい 共同 きょうどう 市場 いちば は、こうした問題 もんだい やもともと存在 そんざい した加盟 かめい 国 こく 間 あいだ の経済 けいざい 格差 かくさ の問題 もんだい などもあり[73] 、1970年代 ねんだい に入 はい るとその役割 やくわり を大 おお きく後退 こうたい させた[73] 。
一方 いっぽう 、米州 べいしゅう 機構 きこう (OAS) の調停 ちょうてい による停戦 ていせん 後 ご も散発 さんぱつ 的 てき な戦闘 せんとう が行 おこな われた[74] 。1976年 ねん 7月 がつ 、エルサルバドル軍 ぐん がホンジュラス領内 りょうない に侵攻 しんこう したため、両国 りょうこく は再 ふたた びOASに調停 ちょうてい を依頼 いらい した[75] 。同年 どうねん 8月 がつ に両 りょう 政府 せいふ は非 ひ 武装 ぶそう 地帯 ちたい の設置 せっち に合意 ごうい すると、同年 どうねん 10月 がつ に仲裁 ちゅうさい 協定 きょうてい に調印 ちょういん 、翌 よく 1977年 ねん 8月 がつ に和解 わかい が成立 せいりつ した[75] 。
1969年 ねん 7月 がつ 、ワールドカップ予選 よせん において敗 やぶ れた側 がわ のホンジュラスサッカー連盟 れんめい は、第 だい 3戦 せん に出場 しゅつじょう したエルサルバドル代表 だいひょう の2選手 せんしゅ が1年 ねん 前 まえ に出場 しゅつじょう 停止 ていし 処分 しょぶん を受 う け、処分 しょぶん 中 ちゅう であるにもかかわらず試合 しあい に出場 しゅつじょう したとして、国際 こくさい サッカー連盟 れんめい (FIFA) に対 たい し第 だい 3戦 せん の試合 しあい 結果 けっか を無効 むこう とするように提訴 ていそ した[76] 。なお、この提訴 ていそ についてのFIFAの裁定 さいてい の結果 けっか は定 さだ かではない。
エルサルバドル代表 だいひょう とハイチ代表 だいひょう とのワールドカップ予選 よせん 最終 さいしゅう ラウンドは1勝 しょう 1敗 はい の成績 せいせき でプレーオフへと持 も ち込 こ まれた[77] 。同年 どうねん 10月8日 にち にジャマイカ の首都 しゅと キングストン で行 おこな われたプレーオフは、両 りょう チーム無得点 むとくてん のまま延長 えんちょう 戦 せん に持 も ち込 こ まれたが、エルサルバドル代表 だいひょう のフアン・ラモン・マルティネス (英語 えいご 版 ばん ) が決勝 けっしょう 点 てん を決 き め、1-0でハイチ代表 だいひょう を下 くだ し、ワールドカップ初 はつ 出場 しゅつじょう を果 は たした[77] 。エルサルバドル代表 だいひょう は、翌 よく 1970年 ねん 6月 がつ に行 おこな われた本 ほん 大会 たいかい のグループリーグでは、ベルギー代表 だいひょう 、メキシコ代表 だいひょう 、ソビエト連邦 れんぽう 代表 だいひょう と同 おな じ組 く み合 あ わせとなったが、3戦 せん 全敗 ぜんぱい で敗退 はいたい した[77] 。
エルサルバドル代表 だいひょう とホンジュラス代表 だいひょう は、同年 どうねん に行 おこな われた1969 CONCACAF選手権 せんしゅけん ・予選 よせん (英語 えいご 版 ばん ) に参加 さんか し、前者 ぜんしゃ はトリニダード・トバゴ代表 だいひょう と、後者 こうしゃ はオランダ領 りょう アンティル代表 だいひょう と対戦 たいせん する予定 よてい となっていたが[78] 、戦争 せんそう の影響 えいきょう により失格 しっかく となった[78] 。2年 ねん 後 ご の1971年 ねん に行 おこな われた1971 CONCACAF選手権 せんしゅけん ・予選 よせん (英語 えいご 版 ばん ) では、両国 りょうこく は2次 じ 予選 よせん で対戦 たいせん する予定 よてい となっていたが、エルサルバドル代表 だいひょう がサッカー戦争 せんそう を理由 りゆう に試合 しあい を辞退 じたい したため[79] 、ホンジュラス代表 だいひょう が本 ほん 大会 たいかい へ進出 しんしゅつ した[79] 。
ホセ・ルイス・ブスタマンテ
両国 りょうこく 関係 かんけい の修復 しゅうふく には10年 ねん 以上 いじょう の歳月 さいげつ を要 よう した。元 もと ペルー 大統領 だいとうりょう で国際司法裁判所 こくさいしほうさいばんしょ 長官 ちょうかん も務 つと めたホセ・ルイス・ブスタマンテ・イ・リベロ (スペイン語 ご 版 ばん ) の仲介 ちゅうかい により両国 りょうこく の接近 せっきん が図 はか られ[80] 、1980年 ねん 10月30日 にち にペルー首都 しゅと リマ でプスタマンテ元 もと 長官 ちょうかん の立会 たちあ いの下 した で両国 りょうこく の外務 がいむ 大臣 だいじん が出席 しゅっせき し平和 へいわ 条約 じょうやく の調印 ちょういん 式 しき が行 おこな われ、11年 ねん ぶりに国交 こっこう を回復 かいふく した[80] 。この平和 へいわ 条約 じょうやく 調印 ちょういん の背景 はいけい には、エルサルバドル内戦 ないせん における左翼 さよく ゲリラの根拠地 こんきょち が総 そう 面積 めんせき 420平方 へいほう キロメートルにのぼる国境 こっきょう 未 み 画定 かくてい 地域 ちいき に存在 そんざい するため[81] 、エルサルバドル政府 せいふ が左翼 さよく ゲリラ掃討 そうとう のためにホンジュラス政府 せいふ の協力 きょうりょく を必要 ひつよう としていたとも[80] 、国境 こっきょう 地域 ちいき が左翼 さよく ゲリラの根拠地 こんきょち となっていたことを憂慮 ゆうりょ したアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 政府 せいふ が双方 そうほう に圧力 あつりょく を掛 か けたためだとも言 い われる[6] 。
内戦 ないせん の激化 げきか により、エルサルバドルからホンジュラスへと流入 りゅうにゅう した難民 なんみん の数 かず は2万 まん 人 にん に上 のぼ った[75] 。1989年 ねん にエルサルバドルのアルフレッド・クリスティアニ (英語 えいご 版 ばん ) が大統領 だいとうりょう に就任 しゅうにん すると両国 りょうこく 間 あいだ で難民 なんみん の帰国 きこく 交渉 こうしょう が始 はじ まり[75] 、同年 どうねん 末 まつ までの段階 だんかい 的 てき な難民 なんみん 帰国 きこく 計画 けいかく が決定 けってい した[75] 。
1992年 ねん 1月 がつ 2日 にち 、7万 まん 5千 せん 人 にん におよぶ死者 ししゃ と100万 まん 人 にん とも推測 すいそく される亡命 ぼうめい 者 しゃ を出 だ したエルサルバドル内戦 ないせん は国際 こくさい 連合 れんごう の仲介 ちゅうかい により和平 わへい の合意 ごうい に達 たっ し[82] 、同年 どうねん 2月 がつ 1日 にち に公式 こうしき に停戦 ていせん した。合意 ごうい 文書 ぶんしょ の内容 ないよう は「2月 がつ 1日 にち から10月 がつ 末 まつ にかけて政府 せいふ 軍 ぐん とFMLNの双方 そうほう が段階 だんかい 的 てき に武装 ぶそう 解除 かいじょ を行 おこな う」「政府 せいふ 軍 ぐん は現有 げんゆう 兵力 へいりょく の5万 まん 3千 せん 人 にん を半数 はんすう にまで削減 さくげん し、過去 かこ に人権 じんけん 侵害 しんがい に関 かか わった人物 じんぶつ を追放 ついほう する」「対 たい ゲリラ急襲 きゅうしゅう 部隊 ぶたい 、国家 こっか 警察 けいさつ などを解体 かいたい し、文民 ぶんみん 監視 かんし による市民 しみん 警察 けいさつ を設立 せつりつ し治安 ちあん 維持 いじ に従事 じゅうじ する」などの内容 ないよう となっている[82] 。
サッカー戦争 せんそう の主因 しゅいん の1つである国境 こっきょう 問題 もんだい に関 かん しては、1980年 ねん に調印 ちょういん された平和 へいわ 条約 じょうやく において60%の国境 こっきょう 線 せん に関 かん しては合意 ごうい に達 たっ し、残 のこ りの国境 こっきょう 線 せん に関 かん しては両国 りょうこく による合同 ごうどう 委員 いいん 会 かい を設立 せつりつ し5年 ねん をめどに結論 けつろん を出 だ すことになった[80] 。
1986年 ねん 、国境 こっきょう 問題 もんだい はペルーのフアン・ベラスコ・アルバラード 大統領 だいとうりょう の立会 たちあ いの下 した でオランダ ・ハーグ にある国際司法裁判所 こくさいしほうさいばんしょ に委託 いたく された[75] 。国際司法裁判所 こくさいしほうさいばんしょ は、1992年 ねん 9月11日 にち に新 あら たな国境 こっきょう 線 せん の案 あん を提示 ていじ し、両国 りょうこく はこれを受 う け入 い れることを表明 ひょうめい したが[75] 、画定 かくてい 作業 さぎょう は難航 なんこう した[83] 。
2006年 ねん 4月 がつ 18日 にち 、両国 りょうこく の国境 こっきょう 地帯 ちたい に位置 いち する街 まち で式典 しきてん が開催 かいさい され、出席 しゅっせき したエルサルバドル大統領 だいとうりょう アントニオ・サカ とホンジュラス大統領 だいとうりょう マヌエル・セラヤ は、国境 こっきょう 線 せん 375キロメートルを画定 かくてい する文書 ぶんしょ に署名 しょめい した[83] 。これにより、国境 こっきょう 問題 もんだい は終結 しゅうけつ した[83] 。
1980年 ねん 11月に行 おこな われた1982 FIFAワールドカップ 予選 よせん (1981 CONCACAF選手権 せんしゅけん )で、両国 りょうこく の12年 ねん ぶりの国際 こくさい 試合 しあい が実現 じつげん し、試合 しあい は2-1でエルサルバドルが勝利 しょうり した[84] 。両国 りょうこく はともに地区 ちく 予選 よせん を勝 か ち抜 ぬ き[84] [85] 、2年 ねん 後 ご の1982年 ねん 、中米 ちゅうべい 諸国 しょこく を巻 ま き込 こ んだ中米 ちゅうべい 紛争 ふんそう の最中 さいちゅう に揃 そろ ってワールドカップに出場 しゅつじょう した。
^ a b エルサルバドル軍 ぐん の戦力 せんりょく に関 かん しては資料 しりょう によって異 こと なり、「陸軍 りくぐん は約 やく 1万 まん 2千 せん 人 にん [2] 、空軍 くうぐん は3千 せん 人 にん [3] 」とするものや、「陸軍 りくぐん は8千 せん 人 にん 」とするものもある[4] 。
^ 当時 とうじ のラテンアメリカ諸国 しょこく では国民 こくみん の間 あいだ で人気 にんき の高 たか いサッカーを政権 せいけん 維持 いじ に利用 りよう していた側面 そくめん があり[31] 、代表 だいひょう チームの不振 ふしん により政権 せいけん が崩壊 ほうかい することもあった[31] 。1930年代 ねんだい にアルゼンチン とウルグアイ がサッカーの試合 しあい が契機 けいき となり国交 こっこう 断絶 だんぜつ に至 いた った事例 じれい がある[34] 。
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