(Translated by https://www.hiragana.jp/)
アルゼンチン - Wikipedia

アルゼンチン

みなみアメリカのくに
アルゼンチン共和きょうわこく
Republica Argentina
アルゼンチンの国旗 アルゼンチンの国章
国旗こっき くにあきら
くに標語ひょうごEn Unión y Libertad
(スペイン: 統一とういつ自由じゆうにおいて)
国歌こっかHimno Nacional Argentino(スペイン
アルゼンチンの国歌こっか
アルゼンチンの位置
公用こうよう スペイン[注記ちゅうき 1]
首都しゅと ブエノスアイレス
最大さいだい都市とし ブエノスアイレス
政府せいふ
大統領だいとうりょう ハビエル・ミレイ
ふく大統領だいとうりょう上院じょういん議長ぎちょう ビクトリア・ビヤルエル
内閣ないかく首席しゅせき大臣だいじんニコラス・ポッセ英語えいごばん
下院かいん議長ぎちょうマルティン・メネム英語えいごばん
最高さいこう裁判所さいばんしょ長官ちょうかんオラシオ・ロザッティ英語えいごばん
面積めんせき
総計そうけい 2,780,400km28
水面すいめんせきりつ 1.1%
人口じんこう
総計そうけい2020ねん 45,276,000[1]ひと31
人口じんこう密度みつど 16.5[1]ひと/km2
GDP自国じこく通貨つうか表示ひょうじ
合計ごうけい2019ねん 21ちょう8022おく5600まん[2]アルゼンチン・ペソ($)
GDP(MER
合計ごうけい2019ねん4518おく1500まん[2]ドル(30
1人ひとりあたり 1まん54.023[2]ドル
GDP(PPP
合計ごうけい2019ねん1ちょう333おく7100まん[2]ドル(26
1人ひとりあたり 2まん2995.111[2]ドル
独立どくりつ
 - だい一議いちぎかい
 - 独立どくりつ宣言せんげん
スペインより
1810ねん5月25にち
1816ねん7がつ9にち[注記ちゅうき 2]
通貨つうか アルゼンチン・ペソ($)(ARS
時間じかんたい UTC-3 (DST:なし)
ISO 3166-1 AR / ARG
ccTLD .ar
国際こくさい電話でんわ番号ばんごう 54
  1. ^ アルゼンチンのスペイン日常にちじょう会話かいわじょうにEspañol(エスパニョール)ではなく、おおくCastellano(カステジャーノ)とばれるが、憲法けんぽうにより公用こうよう名称めいしょう特記とっきされていない。コリエンテスしゅうのみグアラニーもまた公用こうようとなっている。
  2. ^ 連邦れんぽう同盟どうめい1815ねん6月29にち独立どくりつ宣言せんげんした。

アルゼンチン政府せいふ南極なんきょくの1,000,000 km2およびマルビナス諸島しょとう領有りょうゆう主張しゅちょうしている。

アルゼンチン共和きょうわこく[注釈ちゅうしゃく 1](アルゼンチンきょうわこく、スペイン: República Argentina)、通称つうしょうアルゼンチンは、みなみアメリカ南部なんぶ位置いちする連邦れんぽう共和きょうわせい国家こっか位置いち南米なんべい大陸たいりくからると南西なんせいがわ位置いちしており、西にしみなみチリきたボリビアパラグアイ北東ほくとうブラジルウルグアイ国境こっきょうせっし、ひがしみなみ大西おおにしひろしめんする。ラテンアメリカではブラジルにいで2番目ばんめ領土りょうどおおきく、世界せかい全体ぜんたいでもだい8領土りょうど面積めんせきようする。首都しゅとブエノスアイレス

チリとともにみなみアメリカ最南端さいなんたん位置いちし、国土こくど全域ぜんいきコーノ・スール域内いきないおさまる。国土こくど南端なんたんフエゴとうには世界せかい最南端さいなんたん都市としウシュアイア存在そんざいする。アルゼンチンはイギリス実効じっこう支配しはいするマルビナス諸島しょとう英語えいごではフォークランド諸島しょとう)の領有りょうゆうけん主張しゅちょうしている。また、チリ・イギリスと同様どうよう南極なんきょく一部いちぶたいして領有りょうゆうけん主張しゅちょうしており、アルゼンチンりょう南極なんきょくとしてられる。

国名こくめい 編集へんしゅう

 
マルティン・デル・バルコ・センテネラ英語えいごばん叙事詩じょじしアルヘンティーナとラ・プラタがわ征服せいふく

正式せいしき名称めいしょうは、República Argentina(レプブリカ・アルヘンティーナ)。通称つうしょうArgentina(アルヘンティーナ)。英語えいご表記ひょうき公式こうしきにはArgentine Republic(アージェンタイン・リパブリック)、通称つうしょうArgentina(アージェンティーナ)。

日本語にほんご表記ひょうきアルゼンチン共和きょうわこく通称つうしょうアルゼンチン。ほかにアルゼンティンとも表記ひょうきされ、原語げんごおんそくしたアルヘンティーナ表記ひょうきされることもある。漢字かんじ表記ひょうきでは、尓然ひのとなんじしかちょうおもね拼音: āgēntíng)など。

独立どくりつ当時とうじリオ・デ・ラ・プラタ連合れんごうしゅう(Provincias Unidas del Río de la Plata)とばれ、あるいはみなみアメリカ連合れんごうしゅう(Provincias Unidas de Sudamérica)とも名乗なのっていた。リオ・デ・ラ・プラタスペインで「ぎんかわ」を意味いみし、1516ねんフアン・ディアス・デ・ソリスひきいるスペインじん征服せいふくしゃいちぎょうがこのんださいぎんかざりをにつけたインディヘナチャルーアじん)に出会であい、上流じょうりゅうに「ぎん山脈さんみゃく(Sierra del Plata)」があるとかんがえたことからづけたとされる。これにちなみ、ぎんラテン語らてんご表記ひょうきArgentum(アルゲントゥム)」に地名ちめいあらわ女性じょせい縮小しゅくしょう(-tina)をえたものである。初出しょしゅつは、1602ねん出版しゅっぱんされたマルティン・デル・バルコ・センテネラスペインばん英語えいごばん叙事詩じょじしアルヘンティーナとラ・プラタがわ征服せいふく』とされる。その1825ねん正式せいしき国名こくめいとした。

国名こくめいラテン語らてんご由来ゆらいへとえたのは、スペインによる圧政あっせいわすれるためであり、フランスのスペインへの侵略しんりゃく契機けいきとして、フランス語ふらんすごみの「アルジャンティーヌ(Argentine)」にならったものでもあるとされる。しかしながら、現在げんざいでも「リオ・デ・ラ・プラタ連合れんごうしゅう」や「アルゼンチン連合れんごう(Confederación Argentina)」などの歴史れきしてき呼称こしょうは、アルゼンチン共和きょうわこくとともに正式せいしき国名こくめいとして憲法けんぽう明記めいきされている。

歴史れきし 編集へんしゅう

さきコロンブス 編集へんしゅう

 
パタゴニア洞窟どうくつ
 
アイマラじんが15世紀せいききずいた、アルゼンチン北西ほくせいフフイしゅうティルカラ英語えいごばんにあるティルカラのプカラ英語えいごばん石壁いしかべ

アルゼンチンの最初さいしょ住民じゅうみんは、紀元前きげんぜん11000ねんリング海りんぐかいかいわたってアジアからやって人々ひとびとだった。かれらは現在げんざいパタゴニアにのこる「洞窟どうくつ」をえがいた人々ひとびとであった。

その15世紀せいき後半こうはんげんペルークスコ中心ちゅうしん発展はってんしたケチュアじん国家こっかクスコ王国おうこく(1197ねん - 1438ねん)は、タワンティンスーユ(インカ帝国ていこく、1438ねん - 1533ねん)の皇帝こうていトゥパック・インカ・ユパンキワイナ・カパックによって征服せいふくされ、北西ほくせいアンデス山脈あんですさんみゃく地域ちいきはタワンティンスーユに編入へんにゅうされた。征服せいふくされた地域ちいきはタワンティンスーユないの4しゅううちの1しゅうコジャ・スウユケチュア: Colla Suyo、「みなみしゅう」)の辺境へんきょうとなり、30まんにんほどのケチュアじんアイマラじんむようになった。アルゼンチンにおけるコジャ・スウユの領域りょういききた現在げんざいフフイしゅうからみなみメンドーサしゅうひがしサンティアゴ・デル・エステロしゅう北部ほくぶにまでひろがっていた。その一方いっぽうでインカ帝国ていこく権威けんいおよばなかったチャコパンパパタゴニアには、チャルーアじんのような狩猟しゅりょうインディヘナがおもに居住きょじゅうしており、パンパやチャコにもグアラニーじんのような粗放そほう農耕のうこういとなむインディヘナがいたが、全般ぜんぱんてきにこの地域ちいき人間にんげんかずすくなかった。

スペイン植民しょくみん時代じだい 編集へんしゅう

16世紀せいきはいると、1516ねんスペイン探検たんけんフアン・ディアス・デ・ソリス最初さいしょヨーロッパひととしてこのおとずれたが、すぐに先住民せんじゅうみんといさかいをこし、まもなく殺害さつがいされた。そのもスペインによってこの地域ちいき植民しょくみんすすめられた。1536ねんにラ・プラタがわ上流じょうりゅうにあるとおもわれた「ぎんやま」をめるために、バスクじん貴族きぞくペドロ・デ・メンドーサ英語えいごばんひきいる植民しょくみんだんによって、ラ・プラタがわ河口かこうヌエストラ・セニョーラ・サンタ・マリア・デル・ブエン・アイレ建設けんせつされたが、まもなくインディヘナのはげしい攻撃こうげきって放棄ほうきされ、以後いご200ねんほどラ・プラタ地域ちいき中心ちゅうしんは、1559ねんアウディエンシア設置せっちされたパラグアイアスンシオンとなった。

植民しょくみん政策せいさく伸展しんてんともなってペルーふくおうりょう一部いちぶまれたこのは、ペルー方面ほうめんからアンデス地域ちいきじく開拓かいたくすすみ、1553ねんには現存げんそんするアルゼンチン最古さいこ都市としサンティアゴ・デル・エステロ建設けんせつされた。アスンシオンからの内陸ないりく開発かいはつさかんになり、1580ねんには放棄ほうきされたブエノスアイレスが再建さいけんされたが、それでもこの地域ちいきベネズエラなどとならんでイスパノアメリカではもっとも開発かいはつおくれた地域ちいきだった。また、1541ねんはなされた12とううまパンパ牧草ぼくそうべて自然しぜんだい繁殖はんしょくしたこともあり、いつしかガウチョあらわれるようになっていった。おなじようにして繁殖はんしょくしたうしは、19世紀せいきはじめにはラ・プラタ地域ちいき全体ぜんたいで2,000まんとうほどいたといわれている(ちなみにこのころの人口じんこうはアルゼンチン・ウルグアイ・パラグアイをあわせても100まんにんえないほどだった)。植民しょくみん政策せいさく経過けいかにより、当初とうしょ大西洋たいせいようがんよりも内陸ないりく発展はってんはやかった。1613ねんには内陸ないりくコルドバコルドバ大学だいがく建設けんせつされ、以降いこう19世紀せいきまでコルドバは南米なんべい南部なんぶ学問がくもん中心ちゅうしんとなった。18世紀せいきにはグアラニー戦争せんそう英語えいごばんなどに代表だいひょうされるように、ポルトガルりょうブラジル英語えいごばん方面ほうめんから攻撃こうげきつづけるポルトガルとの小競こぜいがつづき、スペイン当局とうきょくバンダ・オリエンタル現在げんざいウルグアイ)を防衛ぼうえいするためもあって、1776ねんにペルーふくおうりょうからリオ・デ・ラ・プラタふくおうりょう分離ぶんりされると、ブエノスアイレスはふくおうりょう首府しゅふとなって正式せいしき開港かいこうされ、イギリスをはじめとするヨーロッパ諸国しょこくとのみつ貿易ぼうえきにより空前くうぜん繁栄はんえいげた。しかし、この時点じてんにおいてアルゼンチンの産業さんぎょう中心ちゅうしん北西ほくせいトゥクマン中央ちゅうおうのコルドバであり、リトラル地域ちいきやブエノスアイレスにはるべき工業こうぎょうはなかった。このブエノスアイレスこう正式せいしき開港かいこうは、のちに植民しょくみん時代じだい繁栄はんえいしていた内陸ないりくもろしゅうおそろしい打撃だげきをもたらすことになった。

独立どくりつ戦争せんそう内戦ないせん 編集へんしゅう

 
五月ごがつ革命かくめい実行じっこうしゃ一人ひとりとなったブエノスアイレスの代表だいひょうしゃ マヌエル・ベルグラーノアルゼンチンの国旗こっき制定せいていしゃでもある

1806ねん、1807ねんの2にわたるイギリスぐんラプラタ侵略しんりゃく英語えいごばんやぶったあと、スペインからの解放かいほう自由じゆう貿易ぼうえきもとめたポルテーニョは1810ねん5がつ25にち五月ごがつ革命かくめいこし、ブエノスアイレスは自治じち宣言せんげんした。しかしラ・プラタふくおうりょうパラグアイバンダ・オリエンタルアルト・ペルーコルドバはブエノスアイレス主導しゅどう自治じち賛成さんせいしなかった。ブエノスアイレス政府せいふ各地かくちぐんおくり、コルドバを併合へいごうすることには成功せいこうしたものの、1811ねんマヌエル・ベルグラーノ将軍しょうぐんパラグアイ攻略こうりゃくスペインばん英語えいごばん失敗しっぱいした。1813ねんサンロレンソのたたかにも勝利しょうりするとスペインおう党派とうはぐんとのたたかいは本格ほんかくする。おう党派とうは支配しはいしていたアルト・ペルー攻略こうりゃくだいいちアルト・ペルー攻略こうりゃくスペインばん英語えいごばんだいアルト・ペルー攻略こうりゃくスペインばん)は失敗しっぱいした。

 
シモン・ボリーバルならラテンアメリカ解放かいほうしゃホセ・デ・サン・マルティン
 
スペインケチュアかれたみなみアメリカ連合れんごうしゅう独立どくりつ宣言せんげん

独立どくりつ戦争せんそう難航なんこうするなか、1816ねん7がつ9にちにはトゥクマンの議会ぎかい英語えいごばんみなみアメリカ連合れんごうしゅうとして正式せいしき独立どくりつ宣言せんげんしたが、まだこの時点じてんでは独立どくりつ方向ほうこうさだまっておらず、インカ皇帝こうてい復活ふっかつさせて立憲りっけん君主くんしゅせい導入どうにゅうしようとしていたベルグラーノ将軍しょうぐんのような人物じんぶつから、ホセ・アルティーガス英語えいごばんのようにアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくのような連邦れんぽう共和きょうわせいもとめる勢力せいりょくもあり、ブエノスアイレスは自由じゆう貿易ぼうえき貿易ぼうえき独占どくせんもとめるなど、独立どくりつ諸派しょは意見いけんはまったく一致いっちしていなかった。ベルグラーノ将軍しょうぐんだいさんアルト・ペルー攻略こうりゃくスペインばん失敗しっぱいし、北部ほくぶぐんスペインばん英語えいごばん司令しれいかん辞任じにんすると、いだアンデスぐん英語えいごばん司令しれいかんホセ・デ・サン・マルティン将軍しょうぐんアンデス山脈あんですさんみゃく英語えいごばんおこない、おう党派とうは牙城がじょうリマ攻略こうりゃくするために遠征えんせいかさね、おう党派とうはぐんやぶってチリチャカブコのたたか英語えいごばんマイプーのたたか英語えいごばん)、解放かいほうしゃシモン・ボリーバルコロンビア共和きょうわこく解放かいほうぐんから派遣はけんされたアントニオ・ホセ・デ・スクレペルーアヤクーチョのたたか英語えいごばん)を解放かいほうしていったが、本国ほんごくではブエノスアイレスの貿易ぼうえき独占どくせん反対はんたいする東方とうほうしゅうリトラルさんしゅうのアルティーガス連邦れんぽう同盟どうめい)とブエノスアイレス(トゥクマン議会ぎかい)の対立たいりつはげしさをし、内戦ないせんつづいた。内戦ないせんすえ、1821ねんプエイレドン英語えいごばん失脚しっきゃくすると中央ちゅうおう政府せいふ崩壊ほうかいしたが、中央ちゅうおう政府せいふ存在そんざいしないことは外交がいこうじょう不利ふりであったため、各州かくしゅう妥協だきょうにより1825ねんブエノスアイレスしゅう連合れんごうしゅう外交がいこうけんつことをみとめられた。

その、ブエノスイアレスと敵対てきたいしていた東方とうほうしゅうポルトガル・ブラジル連合れんごう王国おうこく併合へいごうされたことをブエノスアイレスが見過みすごしたことへの批判ひはんつよまり、33にん東方とうほうじんひきいて独立どくりつ運動うんどう開始かいししたフアン・アントニオ・ラバジェハ英語えいごばん将軍しょうぐんのバンダ・オリエンタル潜入せんにゅうから、かのをめぐって1825ねんブラジル帝国ていこくとのあいだブラジル戦争せんそうはじまった。この戦争せんそうさいして挙国一致きょこくいっちはかられ、ベルナルディーノ・リバダビア英語えいごばん首班しゅはんとした中央ちゅうおう政府せいふ一時いちじてき成立せいりつし、このときに国名こくめいリオ・デ・ラ・プラタからアルヘンティーナ改名かいめいしたが、戦争せんそう最中さいちゅう制定せいていされた中央ちゅうおう集権しゅうけん憲法けんぽうと、ブエノスアイレスを正式せいしき首都しゅとさだめる首都しゅとれい国内こくないのすべてのそう反発はんぱつけると、リバダビアは失脚しっきゃくし、ふたた中央ちゅうおう政府せいふ消滅しょうめつした。戦局せんきょくはアルゼンチン有利ゆうりすすんだが、内政ないせい混乱こんらんわざわいし、最終さいしゅうてきにはイギリスの介入かいにゅうによってバンダ・オリエンタル独立どくりつこくとするモンテビデオ条約じょうやくむすばれ、1828ねんウルグアイ東方とうほう共和きょうわこく独立どくりつした。そしてこの以後いごふたたびアルゼンチンが奪回だっかいすることはなかった。

ロサス時代じだい 編集へんしゅう

 
ブエノスアイレスしゅう知事ちじにして「独裁どくさいおうフアン・マヌエル・デ・ロサス批判ひはんされることがおおいが、パンパ代表だいひょうとするアルゼンチンのもうひとつの精神せいしん体現たいげんしていた人物じんぶつである。1835ねんから1852ねんまでてつ統治とうちいた
 
ロサス時代じだい国旗こっき

ブラジルにたいしての実質じっしつてき敗戦はいせん影響えいきょうもあって連邦れんぽう統一とういつたたかいは激化げきかする。1829ねん統一とういつブエノスアイレスしゅう知事ちじフアン・ラバージェ英語えいごばん打倒だとうした連邦れんぽうフアン・マヌエル・デ・ロサスしゅう知事ちじになると、ロサスはリトラル3しゅうカウディージョ同盟どうめいむすんで1831ねん11月に中央ちゅうおう集権しゅうけん同盟どうめいやぶり、ほぼぜんアルゼンチンの指導しどうしゃとなった。この時期じきには中央ちゅうおう政府せいふこそつくられなかったもののアルゼンチン連合れんごう成立せいりつし、以降いこう内戦ないせんはしばらくの小康しょうこう状態じょうたいはいった。ロサスは1832ねんしゅう知事ちじすると、「荒野あらの征服せいふく作戦さくせん英語えいごばん」で敵対てきたいしていたパンパインディヘナ今日きょうのブエノスアイレスしゅう領域りょういきからして征服せいふくした土地とち部下ぶかあたえ、だい土地とち所有しょゆうせい強化きょうかした。

1835ねんにラ・リオハしゅう中心ちゅうしんとした内陸ないりく連邦れんぽう指導しどうしゃフアン・ファクンド・キロガ英語えいごばん暗殺あんさつされるとふたたびアルゼンチン全土ぜんど内戦ないせん危機ききおとずれた。このさいのロサスのつまドーニャ・エンカルナシオン英語えいごばんのクーデターもあり、最終さいしゅうてきにはブエノスアイレスしゅう議会ぎかいわれてロサスは1835ねんふたたびブエノスアイレスしゅう知事ちじかえいた。以降いこうのロサスの政治せいじ恐怖きょうふ政治せいじき、統一とういつだとられたおおくの自由じゆう主義しゅぎしゃ知識ちしきじん弾圧だんあつ追放ついほうされ、2まん5,000にんにもおよ市民しみん粛清しゅくせいされた。その一方いっぽうでロサスはパンパの伝統でんとうまもり、自由じゆう主義しゅぎしゃによって弾圧だんあつされていた黒人こくじんガウチョ保護ほごするなどのめんもあった。独裁どくさいせいはこうした政策せいさくにより、ブエノスアイレスしゅう農民のうみん都市とし下層かそうみんをはじめとする上流じょうりゅう階級かいきゅう以外いがい各層かくそうから支持しじた。外交がいこうめんでは国粋こくすい主義しゅぎだいアルゼンチン主義しゅぎつらぬき、移民いみん禁止きんしするなどの政策せいさくをとった。1833ねんマルビナス諸島しょとうるように要求ようきゅうしたイギリス商人しょうにんもうことわったため、しまはイギリスに占領せんりょうされてしまった。しかしながらロサスは、ラ・プラタ地域ちいき野心やしんっていたイギリスフランスとのウルグアイをめぐっての大戦たいせんそうや、それにつづくラ・プラタがわ封鎖ふうさ、さらにはパタゴニア植民しょくみんするとのフランスから恫喝どうかつ、1845ねんから1846ねん戦争せんそうとなって顕在けんざいしたカウディージョの支配しはいするパラグアイとの対立たいりつ、これらの相次あいつ国難こくなんすべてからアルゼンチン連合れんごうまもいた。しかし戦争せんそうによって貿易ぼうえき封鎖ふうさされ、疲弊ひへいしたリトラルもろしゅういかりははげしく、まもなくブラジル帝国ていこく同盟どうめいした腹心ふくしんフスト・ホセ・デ・ウルキーサ英語えいごばんエントレ・リオスしゅうから反乱はんらんこすと、1852ねんカセーロスのたたか英語えいごばんでロサスはやぶれ、失脚しっきゃくした。

国家こっか統一とういつ西欧せいおう 編集へんしゅう

 
もっとも代表だいひょうてき自由じゆう主義しゅぎ欧化おうか主義しゅぎしゃドミンゴ・ファウスティーノ・サルミエント英語えいごばん。1868ねんから1874ねんまで大統領だいとうりょうつとめた
 
遺体いたいまえにするパラグアイへい』(ホセ・イグナシオ・ガルメンディア

カセーロスのたたか以後いごのアルゼンチン連合れんごうは、当時とうじ自由じゆう主義しゅぎ知識ちしきじん意向いこうにより西欧せいおうすすみ、土着どちゃくのスペインてき伝統でんとうや、ガウチョや黒人こくじんやインディヘナは近代きんだい障害しょうがいとしてだい弾圧だんあつされた。ウルキーサが設立せつりつしたアルゼンチン連合れんごう1853ねん憲法けんぽう英語えいごばんは、事実じじつじょう起草きそうしゃだったアルベルディ英語えいごばん意向いこう反映はんえいし、きわめて自由じゆう主義しゅぎてき憲法けんぽうであった。ウルキーサがこの自由じゆう主義しゅぎ貿易ぼうえきによって自由じゆう貿易ぼうえき導入どうにゅうすると、やす外国がいこく製品せいひんとの競争きょうそうえられなかった国内こくない産業さんぎょうはほとんど壊滅かいめつしてしまった。

そのブエノスアイレスこく英語えいごばん周辺しゅうへんしょしゅうとのあいだ内戦ないせんつづいたが、1861ねんにブエノスアイレスこくがウルキーサをやぶり、アルゼンチン連合れんごう併合へいごうして国家こっか統一とういつ達成たっせいされた。このため、勝利しょうりしたもとブエノスアイレスこく知事ちじミトレ英語えいごばん自由じゆう主義しゅぎしゃ完全かんぜん主導しゅどうけんにぎることになり、国家こっか西にし欧化おうかのためにヨーロッパから移民いみん大量たいりょう導入どうにゅうされることが決定けっていした。ミトレは周辺しゅうへんこくへの干渉かんしょう中央ちゅうおう集権しゅうけん政策せいさくすすめ、アルゼンチン・ブラジル2大国たいこくによるウルグアイへの内政ないせい干渉かんしょうをきっかけにして1864ねんからはじまったパラグアイとのさんこく同盟どうめい戦争せんそうさかいに、土着どちゃく勢力せいりょく抵抗ていこう整備せいびされた連邦れんぽうぐん軍事ぐんじりょくまえ徐々じょじょわりをむかえて1880ねんには完全かんぜん鎮圧ちんあつされ、国家こっか近代きんだい中央ちゅうおう集権しゅうけんすすんだ。この時期じき極端きょくたん集権しゅうけん抵抗ていこうした勢力せいりょくにはさんこく同盟どうめい戦争せんそうへの反対はんたいうったえ、ラテンアメリカの連合れんごうもとめたフェリペ・バレーラ英語えいごばんなどが存在そんざいする。1868ねん大統領だいとうりょう就任しゅうにんした自由じゆう主義しゅぎしゃサルミエント英語えいごばん政権せいけんは、より自由じゆう主義しゅぎてき経済けいざい政策せいさく教育きょういく政策せいさく成功せいこうみちびき、ヨーロッパにならった経済けいざい社会しゃかい近代きんだいすすんだが、反面はんめん土着どちゃく文化ぶんか攻撃こうげきはげしさをし、この時期じきおおくの黒人こくじん出国しゅっこくしてモンテビデオかうことになる。一方いっぽう、パンパではいまだに敵対てきたいてきインディヘナとの対立たいりつつづいていたが、1878ねんロカ英語えいごばん将軍しょうぐん指揮しきした砂漠さばく征服せいふく作戦さくせん英語えいごばんによってパンパからインディヘナがいやられると、征服せいふくされた土地とち軍人ぐんじんや寡頭支配しはいそうあいださい分配ぶんぱいされ、より一層いっそうだい土地とち所有しょゆうせい拡大かくだいすすんだ。

西欧せいおうによる搾取さくしゅから民主みんしゅ 編集へんしゅう

 
民主みんしゅつとめた急進きゅうしんとうイポリト・イリゴージェン(1916ねん - 1922ねん、1928ねん - 1930ねん大統領だいとうりょうつとめた)

1880ねん正式せいしきにブエノスアイレスが国家こっか首都しゅとさだめられ、首都しゅと問題もんだい最終さいしゅうてき解決かいけつすると、このことが内政ないせい安定あんていにつながり、外国がいこく資本しほん移民いみん流入りゅうにゅう一気いっき加速かそくした。これにより、イギリスの「非公式ひこうしき帝国ていこく」の一部いちぶとして経済けいざい従属じゅうぞくすすんだが、一方いっぽうのうまきぎょう中心ちゅうしんとしたモノカルチャーによる奇跡きせきばれるほどの経済けいざい発展はってんすすんだ。こうしてヨーロッパからの大量たいりょう移民いみんが「洪水こうずい」のようにブエノスアイレスになだれむと、それまではスペインてきで「偉大いだい田舎いなか」にぎなかったブエノスアイレスは、一挙いっきょコスモポリタン大都市だいとしの「南米なんべいのパリ」に転身てんしんし、1914ねんにはじつ国民こくみんやく30%が外国がいこく出身しゅっしんしゃとなるほどであった。同時どうじにこのころから、移民いみん流入りゅうにゅう都市とし以前いぜんのアルゼンチンをなつかしむ風潮ふうちょうまれ、1874ねんにはアルゼンチンの国民こくみん文学ぶんがくであるガウチョの叙事詩じょじしマルティン・フィエロ英語えいごばん』が完成かんせいした。

また、この時期じきまれたなかあいだそう基盤きばんに、寡頭支配しはいそうだい地主じぬし不正ふせい政治せいじあらためて政治せいじ民主みんしゅもとめるこえつよくなり、1890ねんはん政府せいふ反乱はんらんをきっかけに1891ねんには急進きゅうしんてき人民じんみん同盟どうめい組織そしきされ、これはのちの急進きゅうしん市民しみん同盟どうめい急進きゅうしんとう)へと発展はってんしていった。また、1890ねん反乱はんらん政府せいふ証券しょうけん保有ほゆうしていたベアリングス銀行ぎんこう損失そんしつかぶらせ、結局けっきょく1893ねん恐慌きょうこう発展はってんさせた。急進きゅうしんとうは1905ねん武装ぶそう蜂起ほうき失敗しっぱいしたが、この反乱はんらんおそれた保守ほしゅロケ・サエンス・ペーニャ英語えいごばん大統領だいとうりょう以降いこう行政ぎょうせいによる選挙せんきょ干渉かんしょうをやめることを提案ていあんし、司法しほう行政ぎょうせい優越ゆうえつするしん選挙せんきょほう成立せいりつさせた。この選挙せんきょほう適用てきようされた1916ねん選挙せんきょでは急進きゅうしんとうからイポリト・イリゴージェン大統領だいとうりょう選出せんしゅつされ、寡頭支配しはいくずされた。国民こくみん主義しゅぎてき政策せいさくをもって政治せいじのぞんだイリゴージェンは、だいいち世界せかい大戦たいせん中立ちゅうりつこくとしてごした。

せんあいだ 編集へんしゅう

民主みんしゅ進展しんてんによってせんあいだには政治せいじ経済けいざい安定あんていはいり、イリゴージェンは1928ねん再選さいせんされ、アルゼンチンは1929ねんには世界せかいだい5富裕ふゆうこくとなった[3]。しかし、1929ねん世界せかい恐慌きょうこうはアルゼンチンのモノカルチャー経済けいざいおそい、政治せいじ急速きゅうそく不安定ふあんていした。

世界せかい恐慌きょうこうたいする対策たいさくたなかったイリゴージェンは、よく1930ねん軍事ぐんじクーデター追放ついほうされた。クーデターによって1930ねん大統領だいとうりょう就任しゅうにんしたウリブルはアルゼンチンにファシズム体制たいせいきずこうとしたが、このこころみは失敗しっぱいした。

まわしき10年間ねんかん 編集へんしゅう

ファシズム体制たいせい失敗しっぱいもあって1932ねんフスト大統領だいとうりょう就任しゅうにんすると、伝統でんとうてきな寡頭支配しはいそう政治せいじ復活ふっかつした。1930年代ねんだいには19世紀せいき不正ふせい選挙せんきょ伝統でんとう復活ふっかつし、1930年代ねんだいは「まわしき10年間ねんかん英語えいごばん」と形容けいようされた。

国際こくさい協調きょうちょうむねとしたフスト政権せいけんは1933ねんにイギリスとのロカ=ランシマン協定きょうてい英語えいごばんで、アルゼンチンをイギリスのスターリング・ブロック英語えいごばん(Sterling bloc)にんでもらうことに成功せいこうしたが、見返みかえりにおおくの譲歩じょうほいられてアメリカ市場いちばうしなってしまい、アルゼンチンはまるでイギリスの属国ぞっこくのような様相ようそうていするようになった。

ペロニスタと軍部ぐんぶたたか 編集へんしゅう

 
フアン・ペロン生涯しょうがいに3かい大統領だいとうりょうつとめた(1946ねん - 1952ねん、1952ねん - 1955ねん、1973ねん - 1974ねん

このような潮流ちょうりゅうから次第しだい国民こくみん主義しゅぎてき意識いしき国民こくみんあいだたかまり、だい世界せかい大戦たいせん最中さいちゅうにイギリスとたたか枢軸すうじくこくへの好意こういてき中立ちゅうりつ標榜ひょうぼうした統一とういつ将校しょうこうだん英語えいごばん(GOU)のフアン・ペロン大佐たいさ徐々じょじょ人気にんきあつめ、ペロンは戦後せんご1946ねん選挙せんきょ大統領だいとうりょう就任しゅうにんした。なおだい世界せかい大戦たいせんはスペインやポルトガルなどとおなじく中立ちゅうりつこくとしてながらえ、牛肉ぎゅうにくなどの輸出ゆしゅつ豊富ほうふ外貨がいかかせいだ。

大統領だいとうりょう就任しゅうにんしたフアン・ペロンは、だい世界せかい大戦たいせん莫大ばくだい外貨がいか梃子てこ工業こうぎょう鉄道てつどうなどの国有こくゆう労働ろうどうしゃ保護ほごなどの経済けいざいてき積極せっきょく国家こっか政策せいさくすすめた。こうしたポプリスモてき政策せいさく当初とうしょ成功せいこうしたが、すぐに外資がいし使つかたしてしまい、さらにデスカミサードス英語えいごばん[注釈ちゅうしゃく 2]から聖母せいぼのようにあがめられていたつまエバ・ペロン(エビータ)が死去しきょすると政策せいさくかたむきだしていった。

それまでもラ・プラタをエバ・ペロン改名かいめいするなどの個人こじん崇拝すうはい強要きょうようするような行為こうい批判ひはんびていたが、1954ねん離婚りこんほう制定せいていしたことからカトリック教会きょうかいとの関係かんけい破綻はたんし、支持しじ基盤きばん労働ろうどうしゃからの失望しつぼうひろまったこともあり、1955ねん軍部ぐんぶ保守ほしゅによるクーデター(リベルタドーラ革命かくめい英語えいごばん)でペロンは亡命ぼうめいした。フアン・ペロンの失脚しっきゃく重工業じゅうこうぎょうとモノカルチャー経済けいざい産業さんぎょう構造こうぞう転換てんかん失敗しっぱいしたアルゼンチンの経済けいざい下降かこうはいり、政治せいじてきにもペロニスタ(ペロン主義しゅぎしゃ)と軍部ぐんぶ対立たいりつ国家こっか混乱こんらん拍車はくしゃをかけた。1962ねんには急進きゅうしんとうフロンディシ英語えいごばん大統領だいとうりょう軍部ぐんぶのクーデターで失脚しっきゃくさせられ、軍部ぐんぶ実権じっけんにぎったが、このときの軍事ぐんじ政権せいけん長続ながつづきしなかった。

しかし、民政みんせい移管いかんした急進きゅうしんとうイリア英語えいごばん大統領だいとうりょう追放ついほうした1966ねんのクーデター英語えいごばん(アルゼンチン革命かくめい)は様子ようすことなり、フアン・カルロス・オンガニーア英語えいごばん将軍しょうぐんはブラジルがた官僚かんりょう主義しゅぎてき権威けんい主義しゅぎ体制たいせいをアルゼンチンにも導入どうにゅうした。軍事ぐんじ政権せいけん外資がいし導入どうにゅう基盤きばん衰退すいたいする経済けいざい成長せいちょうさせようとしたが、軍事ぐんじ政権せいけんきびしい統制とうせい反対はんたいするペロニスタと軍部ぐんぶたたかいははげしさをし、ペロニスタからまれたモントネーロスペロニスタ武装ぶそう軍団ぐんだんをはじめとする都市としゲリラ軍部ぐんぶとのこうそうおおくの犠牲ぎせいしゃるなど、さながら内戦ないせん様相ようそうていしていった。しかし、1969ねんにコルドバできたコルドバ暴動ぼうどう英語えいごばん(コルドバソ)をけると軍事ぐんじ政権せいけん穏健おんけん政策せいさくてんじ、テロの応酬おうしゅうおさめるためにペロニスタを議会ぎかいもどすことを決断けつだんした軍部ぐんぶ自由じゆう選挙せんきょおこなった。

1973ねんのこの選挙せんきょでは正義せいぎとう(ペロンとう)が勝利しょうりし、亡命ぼうめいさきからフアン・ペロンが帰国きこくしてさんたび大統領だいとうりょう就任しゅうにんした。しかし、ペロンはよく1974ねん病死びょうしし、1974ねんふく大統領だいとうりょうから世界せかいはつ女性じょせい大統領だいとうりょう昇格しょうかくしたつまイサベル・ペロン困難こんなん政局せいきょくれないまま拙劣せつれつ政策せいさくかさね、治安ちあん経済けいざいともに悪化あっか一途いっと辿たどった。

きたな戦争せんそう 編集へんしゅう

1976ねん3がつホルヘ・ラファエル・ビデラ将軍しょうぐんがクーデター(アルゼンチン・クーデター英語えいごばん)をこしイサベル・ペロンをスペインにはらい、ふたた官僚かんりょう主義しゅぎてき権威けんい主義しゅぎ体制たいせい国家こっかさい編成へんせいプロセス)がアルゼンチンにまれた。

ビデラ政権せいけんは1966ねん軍事ぐんじ政権せいけんよりもさらにつよ抑圧よくあつ弾圧だんあつすすめ、周辺しゅうへん軍事ぐんじ政権せいけん協調きょうちょうした「きたな戦争せんそう」、コンドル作戦さくせんによりペロニスタ左翼さよくだい弾圧だんあつしたことで治安ちあん回復かいふくには成功せいこうしたものの、ブラジルふう外資がいし導入どうにゅうして経済けいざい全体ぜんたい拡大かくだいしようとした経済けいざい政策せいさくにはだい失敗しっぱいし、天文学てんもんがくてきインフレーションまねいた。

軍事ぐんじ政権せいけんまり、1982ねん就任しゅうにんしたガルティエリ大統領だいとうりょうは、イギリスが1833ねん以来いらい実効じっこう支配しはいつづけているマルビナス諸島しょとうえい:フォークランド諸島しょとう)を奪還だっかんしようとぐん派遣はけんして占領せんりょうしたが、当初とうしょうまくいくとおもわれたこの行動こうどうサッチャー首相しゅしょう決断けつだんによりフォークランド紛争ふんそう(マルビナス戦争せんそう発展はってんし、イギリスの反撃はんげきって失敗しっぱいした。建国けんこく以来いらいはじめての敗戦はいせんによってたかまった国民こくみん不満ふまんけたガルティエリ大統領だいとうりょう失脚しっきゃくし、軍事ぐんじ政権せいけん崩壊ほうかいした。しかし、この戦争せんそうはアルゼンチンとほかのラテンアメリカ諸国しょこくとのきずなつよめ、ラテンアメリカの一員いちいんとしてのアルゼンチンのアイデンティティのありかた影響えいきょうあたえた。

民政みんせい移管いかん 編集へんしゅう

1983ねんに、大統領だいとうりょう選挙せんきょ議会ぎかい選挙せんきょおこなわれ、急進きゅうしんとう久々ひさびさ政権せいけんかえいた。大統領だいとうりょう就任しゅうにんしたラウル・アルフォンシンは、軍政ぐんせいからのインフレや対外たいがい債務さいむ問題もんだい、マルビナス戦争せんそうによる国際こくさいてき孤立こりつなどのきびしい政局せいきょくなか、アウストラル計画けいかく失敗しっぱいし、経済けいざいめんでは成功せいこうおさめることができなかったものの、長年ながねん敵対てきたい関係かんけいつづいていたチリやブラジルとの関係かんけい大幅おおはば改善かいぜんし、この融和ゆうわ路線ろせんはのちのメルコスール形成けいせいにつながった。

また、アルフォンシンは軍政ぐんせい時代じだい人権じんけん侵害しんがい投獄とうごく拷問ごうもんなど)をおこなった軍人ぐんじんさばき、ぐん予算よさん人員じんいん政治せいじりょく削減さくげんした。こうした政策せいさくたいして3にわたる軍部ぐんぶ反乱はんらんもあったものの、アルフォンシンは結果けっかとして軍部ぐんぶ文民ぶんみん統制とうせいくことに成功せいこうした。アルフォンシンは任期にんきを5かげつのこして1989ねん辞任じにんした。

1989ねん就任しゅうにんした正義まさよしとう(ペロンとう)のカルロス・メネムは、1990ねん湾岸わんがん戦争せんそうみなみアメリカ唯一ゆいいつぐん派遣はけんし、1991ねんには同盟どうめい諸国しょこく首脳しゅのう会議かいぎから脱退だったいするなど、先進せんしんこくとの国際こくさい協調きょうちょう路線ろせん標榜ひょうぼうし、孤立こりつしていたアルゼンチンを国際こくさい社会しゃかい復帰ふっきさせた。軍事ぐんじめんでもメネム時代じだいには「きたな戦争せんそう」にたずさわった軍人ぐんじん恩赦おんしゃみとめられた一方いっぽうで、核軍縮かくぐんしゅく徴兵ちょうへいせい廃止はいしなど、軍部ぐんぶ権力けんりょく制限せいげんがさらにすすんだ。

2001ねん債務さいむ不履行ふりこう 編集へんしゅう

 
デモに参加さんかする人々ひとびと(2001ねん

一方いっぽう経済けいざいめんでは、当初とうしょ公約こうやくかかげていたペロニスモ路線ろせん社会しゃかい民主みんしゅ主義しゅぎ)とは180ことなるしん自由じゆう主義しゅぎ政策せいさくをとった。社会しゃかいインフラや年金ねんきんをも民営みんえいしたしん自由じゆう主義しゅぎ政策せいさく成功せいこうしたかにえ、メネム特有とくゆうのネオ・ポプリスモ政策せいさくたいドルペッグ固定こてい相場そうば政策せいさく長年ながねん懸念けねんだったインフレーション抑制よくせいし、アルゼンチン経済けいざいなおしたかにえたが、1997ねんごろにはこの政策せいさく無理むり徐々じょじょあきらかになっていった。1999ねん大統領だいとうりょう選挙せんきょでは急進きゅうしんとうフェルナンド・デ・ラ・ルア勝利しょうりしたが、すでに経済けいざい危険きけん水準すいじゅんたっしており、IMFからの援助えんじょ公務員こうむいん給与きゅうよ削減さくげんなども効果こうかはなく、最終さいしゅうてきにはドルペッグせい破綻はたんをきっかけに、2001ねんにデ・ラ・ルアは債務さいむ不履行ふりこう決行けっこうした。なお、アルゼンチンはそれまでに6かい債務さいむ不履行ふりこう(1827ねん、1890ねん、1951ねん、1956ねん、1982ねん、1989ねん)を経験けいけんしており、2001ねん債務さいむ不履行ふりこう通算つうさん7かいとなる[4]

アルゼンチン経済けいざい崩壊ほうかい、アルゼンチンの世界せかいてき評価ひょうかちた。政治せいじめんでは大統領だいとうりょう次々つぎつぎわるだい混乱こんらんおちいり、社会しゃかいてきにもデモや暴動ぼうどう多発たはつする異常いじょう事態じたいおちいった。しかし2003ねん正義せいぎとう左派さはから就任しゅうにんしたネストル・キルチネルもとで、政治せいじ安定あんていもどし、それまでのしん自由じゆう主義しゅぎ市場いちば原理げんり主義しゅぎ決別けつべつした。富裕ふゆうそう優遇ゆうぐうをやめ、国民こくみんだい多数たすうめている貧困ひんこんそうらし、中間なかまそうへと移行いこうさせるなどより、公正こうせい社会しゃかい目指めざ政策せいさく実行じっこうした。経済けいざいてき再建さいけんすすんだ。

2014ねん債務さいむ不履行ふりこう 編集へんしゅう

2007ねん10がつ正義まさよしとうからキルチネルのつまクリスティーナ・フェルナンデス・デ・キルチネルが、同国どうこく史上しじょうはつの「選挙せんきょによる」女性じょせい大統領だいとうりょう就任しゅうにんした。就任しゅうにん演説えんぜつで「雇用こよう工業こうぎょう輸出ゆしゅつ農業のうぎょう基礎きそとするあたらしい多様たようした経済けいざい基盤きばん」を構築こうちくするとべた。2007ねん経済けいざい成長せいちょうりつは8%を記録きろくし、近年きんねんのアルゼンチンはリーマンショック以降いこう世界せかいてき不況ふきょうとは裏腹うらはら好調こうちょう維持いじしていた。しかしアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくヘッジファンドが、2001ねんにおけるデフォルト債務さいむ削減さくげん同意どういしなかった債権さいけんしゃから返還へんかん凍結とうけつちゅう債務さいむり、全額ぜんがく支払しはらいをもとめ2014ねんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくにおいて訴訟そしょう提起ていきした[5]連邦れんぽう最高さいこう裁判所さいばんしょはヘッジファンドがわうったえをみとめた。アルゼンチン政府せいふはヘッジファンドがわとの交渉こうしょうつづけたが和解わかいけず、防衛ぼうえいてき措置そちとして「計画けいかくてき債務さいむ不履行ふりこう」を決行けっこうした。

しん自由じゆう主義しゅぎへの回帰かいき経済けいざい破綻はたん 編集へんしゅう

2015ねん11月の大統領だいとうりょう選挙せんきょでは、親米しんべいしん自由じゆう主義しゅぎ政策せいさくによる経済けいざい復興ふっこう主張しゅちょうした中道右派ちゅうどううはマウリシオ・マクリ勝利しょうり[6]した。ルネル時代じだい以前いぜんにとられていた格差かくさ縮小しゅくしょうとみさい分配ぶんぱい重視じゅうしといった社会しゃかい主義しゅぎてき政策せいさくよりも、国際こくさい金融きんゆう資本しほん・グローバル資本しほん利益りえき重視じゅうしして経済けいざい成長せいちょう目指めざしん自由じゆう主義しゅぎ中心ちゅうしんとした政策せいさくへと回帰かいきしつつあるとされた[7]。しかしながら、緊縮きんしゅく財政ざいせいにより経済けいざい崩壊ほうかいしデフォルト危機ききになった。IMF主導しゅどうによる社会しゃかい保障ほしょう削減さくげんさく国民こくみんへの負担ふたんおもくのしかかる一方いっぽう、マクリ大統領だいとうりょうパナマ文書ぶんしょでの租税そぜい回避かいひ行為こうい暴露ばくろされたことではん政府せいふデモが勃発ぼっぱつした。

反米はんべい左派さは政権せいけん復活ふっかつ 編集へんしゅう

2019ねん大統領だいとうりょう選挙せんきょでは左派さはアルベルト・フェルナンデスがマクリ大統領だいとうりょうやぶって当選とうせん[8]し、4ねんぶりに左派さは政権せいけん復活ふっかつすることになった。

2020ねん債務さいむ不履行ふりこう 編集へんしゅう

新型しんがたコロナウイルス感染かんせん拡大かくだい理由りゆう債務さいむ返済へんさい停止ていし2020ねん5月22にち同日どうじつ期限きげんだったやく5おくドル相当そうとう国債こくさい利払りばらいがおこなわれなかったことをもって、通算つうさん9かいのデフォルト(債務さいむ不履行ふりこう)におちいった[9]

BRICSへの加盟かめい 編集へんしゅう

2023ねん8がつ25にちには、アルゼンチンがサウジアラビアなどととも2024ねん1がつ1にちからBRICS正式せいしき加盟かめいすることが決定けっていした[10]。しかしアルゼンチンのBRICS加盟かめい否定ひていてきハビエル・ミレイが2023ねん12がつ10日とおか大統領だいとうりょう就任しゅうにん方針ほうしん転換てんかん同年どうねんちゅう加盟かめいしない方針ほうしん文書ぶんしょ通知つうちした[11]

政治せいじ 編集へんしゅう

 
アルゼンチン大統領だいとうりょうカサ・ロサダ
 
国会こっかい議事堂ぎじどう

大統領だいとうりょう元首げんしゅとする連邦れんぽう共和きょうわせい国家こっかであり、内閣ないかく上下じょうげ両院りょういんせい複数ふくすう政党せいとうせい議会ぎかいそなえる。大統領だいとうりょうふく大統領だいとうりょうともに直接ちょくせつ選挙せんきょえらばれ、その任期にんきは4ねん(かつては6ねん)。現職げんしょく大統領だいとうりょう大統領だいとうりょう選挙せんきょへのさい出馬しゅつば当選とうせんした場合ばあい再選さいせん)は1かいのみみとめられている。

2007ねん10がつ大統領だいとうりょう選挙せんきょでは、イサベル・ペロン同国どうこく2にん選挙せんきょによるものでははつ)の女性じょせい大統領だいとうりょうクリスティーナ・フェルナンデス・デ・キルチネル誕生たんじょうしている。

2015ねん10がつ25にち大統領だいとうりょう選挙せんきょ(1かい投票とうひょう)では過半数かはんすう得票とくひょう獲得かくとくした候補者こうほしゃあらわれず、よく11がつ22にち実施じっしされた上位じょうい2候補こうほによる決選けっせん投票とうひょう結果けっか、「共和きょうわこく提案ていあん」「急進きゅうしん市民しみん同盟どうめい」(以下いか急進きゅうしんとう)らが保守ほしゅけいのマウリシオ・マクリが当選とうせんした。ただし、大統領だいとうりょうせん(1かい)と同日どうじつおこなわれた議会ぎかい選挙せんきょ上院じょういんの3ぶんの1と下院かいんやく2ぶんの1を改選かいせん)では正義せいぎとうつづ比較ひかくだいいちとう上下じょうげ両院りょういん維持いじしたため、連立れんりつ3とう急進きゅうしんとうけい地域ちいき政党せいとうふくめると4とう)は議会ぎかいないでは少数しょうすうとなる。

大統領だいとうりょう内閣ないかく行政ぎょうせいけん行使こうしし、内閣ないかく首席しゅせき大臣だいじん(Jefe de Gabinete de Ministros)をふく内閣ないかく大臣だいじん大統領だいとうりょうによって任命にんめいされる。大統領だいとうりょうによる職務しょくむ執行しっこう一時いちじてき療養りょうようなど)または永続えいぞくてき弾劾だんがい辞任じにん死去しきょともなかけ発生はっせいした場合ばあい)に困難こんなんとなったときはふく大統領だいとうりょうがそれを代行だいこう、もしくは大統領だいとうりょう昇格しょうかくする。

内閣ないかく首席しゅせき大臣だいじん官房かんぼう長官ちょうかん和訳わやくされる場合ばあいも)しょくは、かくない意見いけん集約しゅうやくくわえ、行政ぎょうせい中央ちゅうおう政府せいふ)の代表だいひょうしゃとして立法りっぽう議会ぎかい)および地方ちほう政府せいふ連邦れんぽう構成こうせいしゅう各種かくしゅ自治体じちたい)との渉外しょうがい調整ちょうせい担当たんとうする。韓国かんこくにおける国務こくむ総理そうり首相しゅしょうしょく類似るいじしているが、アルゼンチンではふく大統領だいとうりょうせいしょくかけ代行だいこうしゃであると憲法けんぽう既定きていされているため、その権限けんげんはよりかぎられたものとなっている。

下院かいん与党よとうけい会派かいはから選出せんしゅつされる場合ばあいおおいが、必須ひっす条件じょうけんとはなっておらず、カピタニッチ(上院じょういん議員ぎいんしゅう知事ちじなどを歴任れきにん)や経済けいざい学者がくしゃのコロンボ(国立こくりつ銀行ぎんこう総裁そうさいてルア政権せいけん2にん首席しゅせき大臣だいじん就任しゅうにん)のように、下院かいんけいおよび民間みんかんからの起用きよう事例じれい存在そんざいする。

大臣だいじんしょく同様どうよう議会ぎかいたいしては責任せきにんわないため、かり議会ぎかいない与党よとう少数しょうすう転落てんらくしても野党やとうがわから首相しゅしょうえら義務ぎむはなく、所属しょぞく勢力せいりょくことなる大統領だいとうりょう首相しゅしょう併存へいそんする、いわゆる「ねじれ現象げんしょう」は発生はっせいしないが、逆転ぎゃくてん度合どあいによっては大統領だいとうりょう求心力きゅうしんりょく低下ていかし、政情せいじょう流動りゅうどう原因げんいんとなる可能かのうせいはある。

急進きゅうしんとうラウル・アルフォンシン政権せいけん担当たんとうしていた80年代ねんだい後半こうはんごろより首相しゅしょうせい導入どうにゅうろん権限けんげん一部いちぶ首相しゅしょう移譲いじょうすることで大統領だいとうりょう激務げきむから解放かいほうするのがその趣旨しゅし)は存在そんざいしていたが、構想こうそう具体ぐたいしたのは正義せいぎとう(ペロンとう出身しゅっしんカルロス・メネム政権せいけんがれてからである。1994ねん議会ぎかい通過つうか大統領だいとうりょう署名しょめいにより成立せいりつした憲法けんぽう改正かいせいあんには、首相しゅしょうポストのついしつらえのほか、大統領だいとうりょう任期にんきの6ねんから4ねんへの短縮たんしゅく再選さいせん禁止きんし条項じょうこう撤廃てっぱいふくまれていた。施行しこう直後ちょくご実施じっしされた大統領だいとうりょう選挙せんきょ(1995ねん5がつ)ではメネムが再選さいせんたし、翌々月よくよくげつ組閣そかくでエドワルド・バウサを初代しょだい首相しゅしょう任命にんめいした。

きゅう正義せいぎとう政権せいけん左派さは)をひきいたキルチネル夫妻ふさいからの信任しんにんあつく、ネストル・キルチネル政権せいけんではネストルの大統領だいとうりょう就任しゅうにんから退任たいにんまで、クリスティーナ・キルチネル政権せいけんでも再任さいにん成立せいりつ目指めざしていた輸出ゆしゅつぜい関連かんれん法案ほうあん上院じょういん否決ひけつされたことなどを理由りゆう中途ちゅうと辞任じにん)されているアルベルト・フェルナンデスもと内閣ないかく首席しゅせき大臣だいじんやく5ねん2かげつ(2003ねん5がつ - 2007ねん12月、2007ねん12月 - 2008ねん7がつ)をのぞくと、内閣ないかく首席しゅせき大臣だいじん平均へいきんてき在任ざいにん期間きかん現在げんざい2ねん前後ぜんこうとなっているが、経済けいざい混乱こんらんきわめていた2000年代ねんだい初頭しょとうには短命たんめい内閣ないかくつづき、げん政権せいけんとう共和きょうわこく提案ていあん)の総裁そうさい・ウンベルト・チャボニの首相しゅしょう在任ざいにん期間きかんはわずか4にちとなっている。11ねんぶりに内閣ないかく首席しゅせき大臣だいじんしょく復帰ふっきしたホルヘ・カピタニッチもと首相しゅしょう(2013ねん11月 - )も、1度目どめ(エドワルド・ドゥアルデを大統領だいとうりょう代理だいりとする暫定ざんてい政権せいけん)の在任ざいにん期間きかんやく4かげつ(2002ねん1がつ - 2002ねん5がつ)であった。

2015ねん12月に発足ほっそくしたげん連立れんりつないかくでは、内閣ないかく首席しゅせき大臣だいじんふくぜん21の大臣だいじんポストちゅう政権せいけんとうの「共和きょうわこく提案ていあん」に首相しゅしょう外相がいしょうなど10ポスト、与党よとうだいいちとうの「急進きゅうしんとう」(国会こっかい議席ぎせきすうでは政権せいけんとう上回うわまわるため)に防衛ぼうえい通信つうしんなど4ポスト、「市民しみん連合れんごう」には蔵相ぞうしょう公安こうあんの2ポストがそれぞれてられ、のこりの5めい民間みんかんなどからの起用きようとなった。

立法りっぽうけん代議だいぎいん下院かいん)と元老げんろういん上院じょういん)にぞくし、国民こくみん議会ぎかい定数ていすう257にん任期にんき4ねん)、元老げんろういん定数ていすう72にん任期にんき6ねん)である。下院かいんでは2ねんごとにやく半数はんすう議席ぎせきが、上院じょういんおなじく2ねんごとに3ぶんの1の議席ぎせきがそれぞれ改選かいせんされる。

下院かいん議席ぎせきドント方式ほうしきによって比例ひれい配分はいぶん各州かくしゅうおよび首都しゅとけんを1選挙せんきょとみなし、定数ていすう選挙せんきょごとにことなる)されているのにたいし、上院じょういんでは、各州かくしゅうおよび首都しゅとけんにそれぞれいちりつで3つの議席ぎせきてられており、最大さいだい得票とくひょう獲得かくとくした政党せいとうに3ぶんの2(2議席ぎせき)が、次点じてん政党せいとうに3ぶんの1(1議席ぎせき)がそれぞれ付与ふよされる仕組しくみになっている。

下院かいん議員ぎいん総数そうすうかく選挙せんきょ定数ていすう)は、10ねんごとにおこなわれる国勢調査こくせいちょうさ結果けっかおうじて見直みなおされる。

2ねん周期しゅうき勢力せいりょく更新こうしんされるたびに両院りょういんせいふく議長ぎちょうポストのかおぶれもわる。下院かいん議長ぎちょう政権せいけんとう会派かいはから選出せんしゅつされ、3めいふく議長ぎちょう政権せいけんとうのぞ上位じょうい3会派かいはてられる。上院じょういんでは、現職げんしょくふく大統領だいとうりょう議長ぎちょうしょく兼任けんにんし、上院じょういんかり議長ぎちょうおよび3めいふく議長ぎちょう下院かいん同様どうよう政権せいけんとう以外いがい上位じょうい3会派かいはからの選出せんしゅつとなる。

司法しほうけん国家こっか最高さいこう司法しほう裁判所さいばんしょぞくし、行政ぎょうせい立法りっぽうから独立どくりつしている。

議会ぎかいにおける比較ひかくだいいちとうである野党やとう正義まさよしとう」(統一とういつ会派かいは勝利しょうり戦線せんせん」の基軸きじく政党せいとう)のほか、連立れんりつ関係かんけいにある「急進きゅうしんとう」(比較ひかくだいとう与党よとうだいいちとう)と「共和きょうわこく提案ていあん」(げん政権せいけん正副せいふく大統領だいとうりょう首席しゅせき大臣だいじん上下じょうげ両院りょういん議長ぎちょう輩出はいしゅつしている保守ほしゅ政党せいとう)、「市民しみん連合れんごう」、正義まさよしとうより分派ぶんぱした保守ほしゅけいの「あらたなる選択せんたくのための連合れんごう」、穏健おんけん左派さはの「拡大かくだい進歩しんぽ戦線せんせん」(社会党しゃかいとうけい連合体れんごうたい)、「統一とういつ」(急進きゅうしんとう分派ぶんぱふくむリベラル勢力せいりょく)、「左翼さよく労働ろうどう戦線せんせん」(トロツキズムてき極左きょくさ政党せいとう)、5議席ぎせき未満みまん地域ちいき政党せいとうらが国会こっかい議席ぎせきゆうしている。

正義まさよし急進きゅうしんりょうとうによって政界せいかい勢力せいりょく二分にぶんされていた時期じきには、首都しゅとけん中心ちゅうしんに「中道ちゅうどう民主みんしゅ連合れんごう」(1982ねんアルバロ・アルソガライが結成けっせいした穏健おんけんてき保守ほしゅ政党せいとう以下いかちゅうみんれん)が一定いってい存在そんざいかんゆうしていたが、事実じじつじょう与党よとうとしてきゅうメネム政権せいけん正義まさよしとう)と協力きょうりょく関係かんけいはいった90年代ねんだいより党勢とうせい徐々じょじょ低迷ていめいした。2009ねん1がつ過去かこ2かい選挙せんきょで2%以上いじょう得票とくひょうりつ獲得かくとくすることができなかったどうとうは、司法しほう判断はんだんによりブエノスアイレスしゅうでの政党せいとう資格しかく剥奪はくだつされ、同年どうねん3がつには、とうの2007年度ねんどばん収支しゅうし報告ほうこくしょ不備ふびがあったことを理由りゆうに、政党せいとう助成じょせいきん給付きゅうふ停止ていしされた。なお、ぜん政権せいけんふく大統領だいとうりょうつとめていたアマド・ボウドウは国政こくせいレベルの現役げんえき政治せいじでは唯一ゆいいつなかみんれん出身しゅっしんしゃである。

相次あいつ国軍こくぐん反乱はんらんなどや度重たびかさなるデフォルトなどにられるように、歴史れきしじょうなかすすむこく」とされてきた国々くにぐになかではもっとも政情せいじょう安定あんていしていないくにのひとつであり、この政情せいじょう不安定ふあんていさは1983ねん民政みんせい移管いかん失政しっせいや、2001ねん11月の経済けいざい破綻はたんなど、一連いちれん経済けいざい不安ふあん現在げんざい極度きょくど拡大かくだいした貧富ひんぷ格差かくさ元凶げんきょうとされている。この不安定ふあんていさを国民こくみん統合とうごう成功せいこうしていない(国民こくみん全体ぜんたいれられる国民こくみん文化ぶんか成立せいりつしていない)ことにもとめる言説げんせつおおい。

2009ねん3がつ26にち上院じょういんは10がつ予定よていされていたうえしも両院りょういんなかあいだ選挙せんきょを6がつ28にちおこな法案ほうあん可決かけつした。クリスティーナ・キルチネルぜん大統領だいとうりょう国際こくさい金融きんゆう危機きき対応たいおうする必要ひつようから議会ぎかい選挙せんきょ前倒まえだおしを提案ていあんしていた。

2012ねん4がつ16にち政府せいふレプソル傘下さんかのアルゼンチン最大さいだい石油せきゆ会社かいしゃYPFの株式かぶしき過半数かはんすうにあたる51%を取得しゅとくし、同社どうしゃ経営けいえいけん取得しゅとくする方針ほうしんあきらかにした[12]

2023ねん11月19にち日本にっぽん時間じかん11がつ20日はつかおこなわれた大統領だいとうりょうせん決選けっせん投票とうひょうにて、ハビエル・ミレイ候補こうほ当選とうせん発表はっぴょうされた[13]

国家こっか安全あんぜん保障ほしょう 編集へんしゅう

 
ブエノスアイレスのサン・マルティン公園こうえん閲兵えっぺいする、独立どくりつ戦争せんそうサン=マルティン将軍しょうぐん創設そうせつした擲弾騎兵きへい連隊れんたい

アルゼンチンぐん国防こくぼう大臣だいじんによって指揮しきされ、大統領だいとうりょう最高さいこう指揮しきかんねる。兵制へいせい志願しがん兵制へいせい採用さいようしている。軍隊ぐんたい陸海空りくかいくう三軍さんぐんのほかに国家こっか憲兵けんぺいたいから構成こうせいされる。歴史れきしてきにアルゼンチンぐんはチリやブラジルとの軍拡ぐんかく競争きょうそう結果けっかもあり、ラテンアメリカでもっともよく整備せいびされた軍隊ぐんたいだった。

アルゼンチンはブラジルとおなじように建国けんこく以来いらい軍部ぐんぶちからつよく、クーデターが日常にちじょうてききる不安定ふあんていくにだった。1970年代ねんだいのクーデター以降いこう、アルゼンチンぐん都市としゲリラ排除はいじょのために国内こくないで『きたな戦争せんそう』に従事じゅうじし、8,000にんとも3まんにんともいわれる市民しみん犠牲ぎせいしゃしており、これは現在げんざいでも五月ごがつ広場ひろばははかいなどのうったえにより問題もんだいとなっている。しかし、建国けんこく以来いらいはつ敗戦はいせんとなったマルビナス戦争せんそうによりぐん威信いしんち、民政みんせい移管いかんの1983ねんながらくだいいち仮想かそう敵国てきこくだったチリとも国境こっきょうせん確定かくていされ、かく計画けいかくアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく肝煎きもいりですすめられていたミサイル計画けいかく放棄ほうきされるとぐん大幅おおはば削減さくげんされ、そののいくつかの反乱はんらん計画けいかく未然みぜんわるなど現在げんざい政治せいじりょくらしている。敗戦はいせん結果けっかから徴兵ちょうへいせいいていないくにでもあるが、一部いちぶ復活ふっかつもとめる意見いけんもある。

  • 国防こくぼう予算よさん : 38おくドル(2000ねん
  • 兵員へいいん : 7まん1,100にん(2000ねん

陸軍りくぐん 編集へんしゅう

アルゼンチン陸軍りくぐんEjército Argentino)は兵員へいいん4まん1,400にんからなる。軍団ぐんだん3。空挺くうてい旅団りょだん1、機械きかい旅団りょだん1などをようし、装備そうびひんTAM200りょうけい戦車せんしゃ150りょう対空たいくうミサイルタイガーキャットなど。

アルゼンチン陸軍りくぐん現在げんざいPKOのため、ハイチキプロス派遣はけんされている。

海軍かいぐん 編集へんしゅう

アルゼンチン海軍かいぐんArmada de la República Argentina (ARA)) は兵員へいいん1まん7,200にんからなる。8基地きち潜水せんすいかん3せき駆逐くちくかん6せきフリゲート7せき航空こうくうたい作戦さくせん21武装ぶそうヘリ14、フランスせいシュペルエタンダール11エグゾセそらたいかんミサイルなど。艦艇かんていについてはアルゼンチン海軍かいぐん艦艇かんてい一覧いちらん参照さんしょうのこと。20世紀せいき初頭しょとうきたにち戦争せんそうさいには、編入へんにゅうされる予定よていだったイタリア製いたりあせい装甲そうこう巡洋艦じゅんようかんせき日進にっしん (装甲そうこう巡洋艦じゅんようかん)春日しゅんじつ (装甲そうこう巡洋艦じゅんようかん))を日本にっぽん海軍かいぐん売却ばいきゃく譲渡じょうとし、にち戦争せんそう勝利しょうり貢献こうけんしたという歴史れきしてきかかわりをつ。

空軍くうぐん 編集へんしゅう

アルゼンチン空軍くうぐんFuerza Aérea Argentina)は兵員へいいん1まん2,500にんからなる。航空こうくう旅団りょだん8など。作戦さくせん133武装ぶそうヘリ27戦闘せんとうA-4スカイホークなど。

国際こくさい関係かんけい 編集へんしゅう

 
アルゼンチンが外交がいこう使節しせつ派遣はけんしている諸国しょこく一覧いちらん(2019ねん

2001ねん債務さいむ不履行ふりこう以来いらい、アルゼンチンはしょ外国がいこくおおきく不信ふしんかんたれ、1982ねんのマルビナス戦争せんそう以来いらい国際こくさいてき孤立こりつおちいったが、現在げんざい債務さいむ返済へんさいなどをじく国際こくさい社会しゃかいへの復帰ふっきすすめられている。アルゼンチンは南極なんきょく条約じょうやく締結ていけつこくであるが、南極なんきょく領有りょうゆうけん主張しゅちょうしている(アルゼンチンりょう南極なんきょく)。またアルゼンチンは、フォークランド紛争ふんそう敗北はいぼくしたのちもなおイギリスが実効じっこう支配しはいするマルビナス諸島しょとう領有りょうゆうけん主張しゅちょうしている。2007ねん12月、クリスティーナ・フェルナンデス・デ・キルチネル大統領だいとうりょうは、多国たこくあいだ主義しゅぎとテロ根絶こんぜつ強調きょうちょうした。

戦前せんぜんはイギリスに周辺しゅうへんこくされなか属国ぞっこくのような様相ようそうていしていながらも、輸出ゆしゅつたくわえた経済けいざいりょく背景はいけいに、スペインけん代表だいひょうする国家こっかとしてきゅう宗主そうしゅこくスペインをしのぐいきおいで権勢けんせいほこっていた。北米ほくべいにおいてたような立場たちばにあったアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくをライバルし、同国どうこくモンロー主義しゅぎのもとで中南米ちゅうなんべい勢力せいりょくけんれようとしていたのにたいし、ヨーロッパ諸国しょこく重視じゅうしする独自どくじ外交がいこうのもとでアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくとは距離きょりき、つねにほかのラテンアメリカ諸国しょこくとは一線いっせんかくしていた。

ビーグル水道すいどう領土りょうど問題もんだいかかえていたチリとは伝統でんとうてき関係かんけいわるく、だい大戦たいせんなん戦争せんそう直前ちょくぜんにまでおちいったこともあった。1984ねんローマ教皇きょうこうヨハネ・パウロ2せい(フアン・パブロ2せい)の仲介ちゅうかいにより、アルゼンチンが係争けいそうピクトンとう・レノックスとう・ヌエバとうのチリ帰属きぞくみとめ、領土りょうど問題もんだいにおいて妥協だきょうすることにより友好ゆうこう関係かんけい確立かくりつされた。しかしその、2004ねん事前じぜん連絡れんらくなくチリへの天然てんねんガスの輸送ゆそう停止ていししてしまったことがおおきな外交がいこう問題もんだいとなった。

アルゼンチンの最大さいだいのライバルはとなり大国たいこくブラジルであり、オリンピックやサッカーの大会たいかいがあるたびたがいに強烈きょうれつ対抗たいこう意識いしきってあらそっていたが、ラウル・アルフォンシンの融和ゆうわ政策せいさくこうそうして両者りょうしゃともメルコスール加盟かめいするなどの経済けいざい統合とうごうすすんでいる。以上いじょうのような事情じじょうにより、現在げんざいのアルゼンチンはブラジルをじくとしたラテンアメリカ統合とうごう受容じゅようし、その主要しゅようこくとして影響えいきょうりょくたもっている。また対外たいがい政策せいさくでは一線いっせんかくしながらも、石油せきゆ天然てんねんガスなどの資源しげん背景はいけいベネズエラ歴代れきだい政権せいけんとの友好ゆうこう関係かんけいつづいている。

ヨーロッパとの関係かんけい重要じゅうようであり、もっとも関係かんけいのよい国家こっかスペインである。言語げんご共通きょうつうするためにおおくのラテンアメリカじんがスペインに出稼でかせぎ、移民いみんとして居住きょじゅうしているが、アルゼンチンもその例外れいがいではなくおおくのアルゼンチンじん移住いじゅうしている。

日本にっぽんとの関係かんけい 編集へんしゅう

地方ちほう行政ぎょうせい区分くぶん 編集へんしゅう

 
アルゼンチンのしゅう一覧いちらん数字すうじはABCじゅん)。黒点こくてん州都しゅうと
 
アルゼンチンの政治せいじてき地域ちいき区分くぶんスペインばん。この区分くぶんでは5つの地方ちほうけられる。後述こうじゅつ地理ちりてき区分くぶんとはちがうことに注意ちゅうい
(Ⅰ)Norte Grande Argentino
(Ⅱ)Nuevo Cuyo
(Ⅲ)Centro
(Ⅳ)Patagonia
(Ⅴ)ブエノスアイレスしゅう

アルゼンチンは23のしゅう(provincia)と1つの自治じち(Ciudad Autónoma)*からなる。

  1.   ブエノスアイレス自治じち* (Buenos Aires City)
  2.   ブエノスアイレスしゅう (Buenos Aires)
  3.   カタマルカしゅう (Catamarca)
  4.   チャコしゅう (Chaco)
  5.   チュブしゅう (Chubut)
  6.   コルドバしゅう (Córdoba)
  7.   コリエンテスしゅう (Corrientes)
  8.   エントレ・リオスしゅう (Entre Ríos)
  9.   フォルモサしゅう (Formosa)
  10.   フフイしゅう (Jujuy)
  11.   ラ・パンパしゅう (La Pampa)
  12.   ラ・リオハしゅう (La Rioja)
  13.   メンドーサしゅう (Mendoza)
  14.   ミシオネスしゅう (Misiones)
  15.   ネウケンしゅう (Neuquén)
  16.   リオネグロしゅう (Río Negro)
  17.   サルタしゅう (Salta)
  18.   サンフアンしゅう (San Juan)
  19.   サンルイスしゅう (San Luis)
  20.   サンタクルスしゅう (Santa Cruz)
  21.   サンタフェしゅう (Santa Fe)
  22.   サンティアゴ・デル・エステロしゅう (Santiago del Estero)
  23.   ティエラ・デル・フエゴ、アンタルティダ・エ・イスラス・デル・アトランティコ・スールしゅうフエゴとう南極なんきょくおよびみなみ大西洋たいせいよう諸島しょとう、Tierra del Fuego, Antártida e Islas del Atlántico Sur)
  24.   トゥクマンしゅう (Tucumán)

ほかにイギリスりょうのマルビナス諸島しょとう領有りょうゆうけん主張しゅちょうしている。国土こくど統一とういつ直後ちょくごの1853ねん首都しゅとれいがあったものの、ブエノスアイレスは1880ねんまでは正式せいしき首都しゅとではなかった。

各州かくしゅうしゅうないでさらにちいさな行政ぎょうせい単位たんい分割ぶんかつされ、けん(departomentos)は合計ごうけい376けんにもなる。ブエノスアイレスしゅうけん類似るいじした134ものpartidosに分割ぶんかつされる。departomentos・partidosともに市町村しちょうそん地域ちいきなかから分割ぶんかつされた区分くぶんである。

主要しゅよう都市とし 編集へんしゅう

アルゼンチンは北西ほくせいアンデス山脈あんですさんみゃく周辺しゅうへんから開発かいはつすすめられたが、独立どくりつ歴史れきしてき外港がいこうがブエノスアイレスしか存在そんざいしなかったことを反映はんえいして、19世紀せいき、20世紀せいきとおして内陸ないりく開発かいはつすすまず、現在げんざい極端きょくたんなブエノスアイレスいちきょく集中しゅうちゅうである。1980年代ねんだいのアルフォンシン時代じだいに、パタゴニアのリオ・ネグロしゅう州都しゅうとビエドマへの遷都せんと計画けいかくもあったが、結局けっきょく実行じっこうされないまま計画けいかく凍結とうけつされた。

都市とし都市としけん 編集へんしゅう

2005ねんにおけるアルゼンチンの14の大都市だいとしけん

順位じゅんい 都市とし しゅう 人口じんこう 地域ちいき
1 ブエノスアイレス 市域しいき + ブエノスアイレスしゅう の24の管区かんく 11,453,725 パンパ
2 コルドバ コルドバしゅう 1,513,200 パンパ
3 ロサリオ サンタフェしゅう 1,295,100 パンパ
4 ラ・プラタ ブエノスアイレスしゅう 857,800 パンパ
5 サン・ミゲル・デ・トゥクマン  トゥクマンしゅう 833,100 北西ほくせい
6 マル・デル・プラタ ブエノスアイレスしゅう 699,600 パンパ
7 サルタ サルタしゅう 531,400 北西ほくせい
8 サンタフェ サンタフェしゅう 524,300 パンパ
9 サン・フアン サン・フアンしゅう 456,400 クージョ
10 レシステンシア チャコしゅう 399,800 グラン・チャコ
11 ネウケン ネウケンしゅう 391,600 パタゴニア
12 サンティアゴ・デル・エステロ サンティアゴ・デル・エステロしゅう  389,200 グラン・チャコ
13 コリエンテス コリエンテスしゅう 332,400 メソポタミア
14 バイア・ブランカ ブエノスアイレスしゅう 310,200 パンパ

地理ちり 編集へんしゅう

 
サルタしゅう
 
パタゴニア
 
パタゴニアのこおりみずうみ
 
ペリート・モレノ氷河ひょうが
 
サルタしゅうのカルチャキ渓谷けいこく
 
プルママルカのななしょくおか
 
バリローチェからナウエル・ウアピ光景こうけい
 
アルゼンチン最高峰さいこうほうアコンカグア (6,962メートル)。南北なんぼくアメリカ、および西半球にしはんきゅう最高峰さいこうほうでもある

アルゼンチンの国土こくどは、南北なんぼくに3,500キロ以上いじょうながさにおよぶ、ブラジルについで南米なんべいで2番目ばんめおおきいくにで、面積めんせき全体ぜんたいで276まん6,890km²になり、陸地りくちのみでは273まん6,690km²に、水域すいいきのみでは3まん200km²におよぶ。

アルゼンチンでもっとも標高ひょうこうたかいのはメンドーサしゅうアコンカグアさん(6,962メートル)であり、これは米州べいしゅう西半球にしはんきゅう全体ぜんたいでもっともたかやまでもある。反対はんたいにもっとも標高ひょうこうひくいのはサンタ・クルスしゅうカルボンであり、海抜かいばつマイナス105メートルはみなみアメリカ大陸あめりかたいりく全体ぜんたいでももっともひくい。国土こくど中心ちゅうしんはラ・パンパしゅう南西なんせいである。

アルゼンチンは、中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくと、北部ほくぶ一部いちぶ中華民国ちゅうかみんこく台湾たいわん)、南部なんぶ一部いちぶモンゴルこくロシアシベリア)の対蹠たいしょである。

アルゼンチンは1904ねんから南極なんきょく大陸たいりく領有りょうゆうけん主張しゅちょうしている。イギリスが実効じっこう支配しはいしているマルビナス諸島しょとう領有りょうゆうけん主張しゅちょうしている。

地理ちりてき国土こくど 編集へんしゅう

アルゼンチンは伝統でんとうてきにいくつかの地理ちりてき区分くぶんけられる。きた亜熱帯あねったいぞくし、熱帯ねったい雨林うりん形成けいせいされている。西にしアンデス山脈あんですさんみゃくひがしにはパンパばれるだい草原そうげんひろがる。パンパは国土こくどやく25%をめる。ウルグアイがわパラナがわはさまれた地方ちほうは、メソポタミア地方ちほうでパンパとおなじく草原そうげん地帯ちたいである。南緯なんい40付近ふきん位置いちするコロラドがわ以南いなんパタゴニア地方ちほうび、荒涼こうりょうたる砂漠さばくひろがっている。

パンパ 編集へんしゅう

パンパ国土こくどやく25%をめ、アルゼンチンのとみおおくをしている。ブエノスアイレスの西にしみなみひろがる草原そうげん湿潤しつじゅんパンパスペインばん英語えいごばんばれ、ブエノスアイレスしゅうとコルドバしゅうのほぼすべてと、サンタフェしゅうとラ・パンパしゅうだい部分ぶぶんめる。ラ・パンパしゅう西部せいぶはん乾燥かんそうパンパスペインばん英語えいごばんになっている。

湿潤しつじゅんパンパスペインばん英語えいごばん年間ねんかん降水こうすいりょうが750ミリ以上いじょうで、アルファルファ(マメ栄養えいようがあり、土地とちゆたかにする牧草ぼくそう)・トウモロコシなどを栽培さいばいし、牧牛ぼくぎゅうをしている。はん乾燥かんそうパンパスペインばん英語えいごばん年間ねんかん降水こうすいりょうが550ミリ以下いか乾燥かんそうつよ牧羊ぼくようをしている。移行いこう地帯ちたいでは小麦こむぎ年間ねんかん降水こうすいりょうが550 - 750ミリが適当てきとう)の栽培さいばいをしている。

コルドバしゅう西部せいぶコルドバ山脈さんみゃくはサン・ルイスしゅうまでび、パンパのなかではもっとも重要じゅうよう地域ちいきとなっている。パンパとパタゴニアの境界きょうかいせんは、かつてはコロラドがわだったが、現在げんざいネグロがわとなっている。

グラン・チャコ 編集へんしゅう

グラン・チャコ地方ちほうはアルゼンチン北部ほくぶ位置いちし、雨季うき乾季かんきがはっきりとかれ、おもに綿花めんか栽培さいばい家畜かちく飼育しいくさかんである。こうした地域ちいきはチャコしゅうとフォルモサしゅうだい部分ぶぶんめる。植生しょくせいとしては亜熱帯あねったい雨林うりん低木ていぼく林地りんち湿地しっちおび点在てんざいし、おおくの動植物どうしょくぶつ生息せいそくする。サンティアゴ・デル・エステロしゅうはグラン・チャコのなかでもっとも乾燥かんそうした地域ちいきである。

メソポタミア 編集へんしゅう

パラナがわとウルグアイがわかこまれた地域ちいきメソポタミア地方ちほうばれ、ミシオネスしゅう、コリエンテスしゅうとエントレ・リオスしゅうぞくする。かつてはグアラニーじんおおんでいた土地とちで、文化ぶんかてきにはパラグアイやウルグアイにちかく、牧草ぼくそう植物しょくぶつそだちやすい平坦へいたん土地とち特徴とくちょうであり、コリエンテスしゅう中部ちゅうぶイベラ湿地しっち英語えいごばん存在そんざいする。ミシオネスしゅうはより熱帯ねったいちか地理ちりてきにはブラジル高原こうげんぞくし、イグアスのたき亜熱帯あねったい雨林うりん特徴とくちょうである。

パタゴニア 編集へんしゅう

ネウケンしゅう、リオ・ネグロしゅう、チュブしゅう、サンタ・クルスしゅうにまたがるパタゴニアステップ先住民せんじゅうみん地域ちいきである。おおくの地域ちいきではあめすくなく、きたさむくてみなみ不毛ふもうであるが、西部せいぶ周辺しゅうへんには森林しんりんがあり、後述こうじゅつするようにいくつかのおおきいみずうみ点在てんざいする。ティエラ・デル・フエゴしゅうさむ湿しめっており、大西洋たいせいようからの海流かいりゅう影響えいきょう多少たしょうごしやすい。パタゴニア北部ほくぶ(ネグロかわ以南いなんのリオ・ネグロしゅうとネウケンしゅう)はコマウエ地域ちいきばれることがある。

クージョ 編集へんしゅう

アルゼンチン中西部ちゅうせいぶはそびえるアンデス山脈あんですさんみゃく支配しはいされている。どう地域ちいき東部とうぶ乾燥かんそうしたクージョ地域ちいきとしてられており、クージョ(Cuyo)という名前なまえマプーチェで「砂地すなじ」という意味いみ言葉ことばからきているとされている。高山こうざんからけてきたみず低地ていちオアシス灌漑かんがい用水ようすいとなり、メンドーサしゅうとサン・フアンしゅうゆたかな果実かじつワイン生産せいさん中心ちゅうしんとしている。さらにきた地域ちいき、ラ・リオハしゅうなどは地理ちりてき理由りゆうでよりあつく、乾燥かんそうした地域ちいきになる。

北西ほくせい 編集へんしゅう

北西ほくせい地域ちいきはアルゼンチンでもっとも海抜かいばつたか地域ちいきであり、6,000メートルをえるいくつかの平行へいこうアンデス山脈あんですさんみゃく領域りょういきつらぬいている。これらの山脈さんみゃく北方ほっぽうかってびており、それらは肥沃ひよく流域りゅういきによって分断ぶんだんされ、そのなかでももっとも重要じゅうよう渓谷けいこくはカタマルカしゅう、トゥクマンしゅう、サルタしゅうひろがるカルチャキ渓谷けいこくスペインばん英語えいごばんである。フフイしゅう北部ほくぶボリビア国境こっきょう付近ふきんからは、中央ちゅうおうアンデスのアルティプラーノ高原こうげんひろがる。

やま 編集へんしゅう

国土こくど西部せいぶ南北なんぼくアンデス山脈あんですさんみゃくつらぬき、アルゼンチンの山地さんち国内こくない最高峰さいこうほうアコンカグアをはじめとする高山こうざんおおくはこの地域ちいき集中しゅうちゅうする。コルドバしゅう西部せいぶにもコルドバ山脈さんみゃく存在そんざいするが、標高ひょうこうはあまりたかくない。

河川かせんみずうみ 編集へんしゅう

アルゼンチンの主要しゅよう河川かせんピルコマジョがわパラグアイがわベルメホがわコロラドがわネグロがわサラドがわウルグアイがわなどであり、国内こくない最長さいちょう河川かせんはブラジルからながれるパラナがわである。ウルグアイがわとパラナがわ大西おおにしひろしながまえ合流ごうりゅうし、ラ・プラタがわ河口かこう形成けいせいする。かく地域ちいきごとに重要じゅうよう河川かせんとしてはアトゥエルがわスペインばん英語えいごばん、メンドーサしゅう同名どうめいメンドーサがわ、パタゴニアのチュブがわ、フフイしゅうリオ・グランデがわスペインばん、サルタしゅうサン・フランシスコがわスペインばんなどがある。

パタゴニアを中心ちゅうしんにいくつかのおおきなみずうみ存在そんざいする。アルヘンティーノビエドマがサンタ・クルスしゅうに、ナウエル・ウアピがリオ・ネグロしゅうに、ファグナーノがティエラ・デル・フエゴしゅうに、コルウエ・ウアピとムステルがチュブしゅうに、ブエノスアイレスサン・マルティンはチリとの国境こっきょう形成けいせいしている。国内こくないでもっともおおきいしおみずうみマール・チキータである。アルゼンチンの多数たすう貯水池ちょすいちダムによってつくられている。エントレ・リオスしゅうにはテルマス・デ・リオ・オンドなど、水温すいおんは30℃から65℃の温泉おんせんがあり、かわはさんで対岸たいがんのウルグアイ北部ほくぶにも温泉おんせんがある。

沿岸えんがんうみ 編集へんしゅう

アルゼンチンは4,665キロの海岸かいがんせんゆうしている。大陸たいりく上陸じょうりく可能かのう地点ちてん非常ひじょうひろく、アルゼンチンではこの広大こうだい大西洋たいせいよう浅瀬あさせアルゼンチンうみばれる。海中かいちゅうにはおおくのさかなみ、炭化たんか水素すいそエネルギー資源しげん保有ほゆうしていると予想よそうされている。アルゼンチンの沿岸えんがん砂丘さきゅうがけはさまれている。沿岸えんがん影響えいきょうおよぼしている2つの海流かいりゅうのうち、暖流だんりゅうブラジル海流かいりゅうであり、寒流かんりゅうフォークランド海流かいりゅう(スペインでは大西洋たいせいよう海流かいりゅう、もしくはマルビナス海流かいりゅう)である。沿岸えんがん大地だいちでは不規則ふきそく形状けいじょうのため、2つの海流かいりゅう気候きこうたいして相互そうご影響えいきょうし、高緯度こういど地方ちほうにおいても気温きおんげさせない。ティエラ・デル・フエゴ南端なんたんドレーク海峡かいきょう北岸ほくがん構成こうせいしている。

飛地とびち 編集へんしゅう

アルゼンチンにはマルティン・ガルシアとうという飛地とびちがある。パラナがわとウルグアイがわ合流ごうりゅうてん付近ふきん存在そんざいし、やく1キロほどウルグアイの水域すいいきはいっており、3.5キロほどはなれたウルグアイの沿岸えんがんにはマルティン・チコヌエバ・パルミラコロニア・デル・サクラメントなかあいだ)が存在そんざいする。

いち世紀せいきにわたる両国りょうこく紛糾ふんきゅうすえに、アルゼンチンとウルグアイは1973ねんしま管理かんりけんについて合意ごういたっした。協定きょうていしたがって、マルティン・ガルシアは排他はいたてき自然しぜん保護ほごとしてもちいられることとなった。面積めんせきやく2km2であり、住民じゅうみんやく200にんである。

気候きこう 編集へんしゅう

地域ちいきによっておおきくことなるが、亜熱帯あねったい温帯おんたい乾燥かんそうたい寒帯かんたいの4つに大別たいべつされる。北部ほくぶ非常ひじょうあつなつと、おだやかでかわいたふゆがあり、周期しゅうきてき旱魃かんばつ見舞みまわれる。アルゼンチン中部ちゅうぶではかみなりともな大嵐おおあらし西部せいぶでは世界せかいでもっともおおくの雹がる)のあるあつなつと、すずしいふゆがある。南部なんぶあたたかいなつと、とく山岳さんがく地帯ちたいでは豪雪ごうせつ見舞みまわれるさむふゆがある。すべての緯度いど地域ちいきにおいて、標高ひょうこうたか地点ちてんではつめたい気候きこうとなる。

南米なんべいにおける観測かんそく史上しじょうでの最高さいこう気温きおん最低さいてい気温きおんはともにアルゼンチンで観測かんそくされた。最高さいこう気温きおんの49.1℃は1920ねん1がつ20日はつかにコルドバしゅうのビジャ・デ・マリアで記録きろくされた。最低さいてい気温きおんの-39℃は1972ねん7がつ17にちにサン・フアンしゅうのビジャ・デ・ロス・パトース・スペリオールで記録きろくされた。

経済けいざい 編集へんしゅう

 
ブエノスアイレスの中心ちゅうしんにある、世界せかいでもっともはばひろ道路どうろである7がつ9にち大通おおどお中央ちゅうおうえるのはオベリスコ

IMF統計とうけいによると、2018ねんのアルゼンチンのGDPやく5,194おくドルと世界せかい21であり、南米なんべいではブラジルぐ2である。一人ひとりたりのGDPは1まん1658ドルで、こちらはウルグアイチリいで南米なんべい3である。アルゼンチンはメルコスール南米なんべい共同きょうどうたい加盟かめいこくである。

アルゼンチンでは幅広はばひろ産業さんぎょうおこなわれている。農産物のうさんぶつは、主要しゅよう輸出ゆしゅつ品目ひんもく小麦こむぎトウモロコシ牛肉ぎゅうにくワインなどにくわえ、2000年代ねんだい以降いこう大豆だいず生産せいさんさかんになっている[14]。2019/2020年度ねんど時点じてん大豆だいず生産せいさんりょうがブラジル、アメリカにいで3やく13%をめており、大豆だいず輸出ゆしゅつりょう世界せかいだい4である[15]。トウモロコシの生産せいさんりょうはアメリカ、中国ちゅうごく、ブラジルにいで4[16]。そのにも小麦こむぎ、ヒマワリ、グレーンソルガム[17][18]などがある。アルゼンチンは牛肉ぎゅうにく生産せいさんりょうが2020年度ねんど世界せかい4[19]で、国内こくない消費しょうひ肉類にくるいなかでは最多さいたである。ただし、同年どうねん豚肉ぶたにく鶏肉とりにく消費しょうひりょう増加ぞうか傾向けいこうにある。2020ねん1人ひとりたりどしあいだ豚肉ぶたにく消費しょうひりょうは10ねんまえ比較ひかくして77%ぞうであった[20]。アルゼンチンは世界せかいだい8国土こくど面積めんせき[21]。その広大こうだい土地とちかし、チリ近郊きんこうでは鉱業こうぎょうさかんである。鉱業こうぎょう生産せいさんは、パタゴニアの石油せきゆと、近年きんねん天然てんねんガス有望ゆうぼうされている。また、2010年代ねんだい以降いこうカタマルカしゅうフフイしゅうしおみずうみリチウム生産せいさんげんとして注目ちゅうもくされている[22]。しかし、水質すいしつ汚染おせん先住民せんじゅうみん人権じんけん侵害しんがい開発かいはつかんする事前じぜん協議きょうぎがないことなどの環境かんきょう保護ほご活動かつどう活発かっぱつなため、開発かいはつ不十分ふじゅうぶんである[23]。アルゼンチン国内こくないにフォード、GM、トヨタなど完成かんせいしゃメーカー10しゃ自動車じどうしゃ生産せいさんしている[24]おも国内こくない農業のうぎょう使用しようされるピックアップトラックや多目的たもくてきしゃ製造せいぞうされている。2020ねん新型しんがたコロナウイルスの影響えいきょうでバス・トラックをのぞ自動車じどうしゃ生産せいさん台数だいすうは2004ねん以降いこうはじめての30まんだい下回したまわった[25]

2世界せかい大戦たいせんにいずれも直接ちょくせつ関与かんよせず、各国かっこくへののう畜産ちくさんひん輸出ゆしゅつによりおおきな利益りえきた20世紀せいきなかばまでは、世界せかい有数ゆうすう富裕ふゆうこくであった。だい世界せかい大戦たいせん国民こくみん主義しゅぎ志向しこうフアン・ペロン政権せいけんは、保護ほご主義しゅぎてき工業こうぎょう偏重へんちょう政策せいさくをとるが、産業さんぎょう構造こうぞう転換てんかん成功せいこうせず、次第しだい経済けいざい低迷ていめいした。ペロン以降いこう顕著けんちょになった、福祉ふくしのための放漫ほうまん財政ざいせいや、かれのこした労働ろうどう組合くみあい(CGT)のつよさにより、投資とうしのしづらいくにとなり、1960年代ねんだい以降いこう頻発ひんぱつした政変せいへんくわえ、1982ねんのフォークランド紛争ふんそうとその敗北はいぼく民政みんせい移管いかん長年ながねん放漫ほうまん財政ざいせいのツケや敗戦はいせんのショックの影響えいきょう混迷こんめいする経済けいざい状況じょうきょう安易あんいポプリスモ対処たいしょしたため、累積るいせき債務さいむゆきだるましきえていった。とく1988ねんから1989ねんあいだには5,000%というハイパーインフレーション記録きろく物品ぶっぴん価値かちは1年間ねんかんで50ばいがり、ペソは紙屑かみくず同然どうぜんし、経済けいざい崩壊ほうかい状態じょうたいとなった。結局けっきょく、アルゼンチンは1989ねん対外たいがい債務さいむデフォルト宣言せんげんした。このあいだ混迷こんめいによる富裕ふゆうそう没落ぼつらく中産ちゅうさん階級かいきゅう海外かいがい流出りゅうしゅつつづくなど、経済けいざい混迷こんめいたびふかめた。

その、1988ねんから親米しんべいおやIMF路線ろせんかかげたカルロス・メネム政権せいけんしん自由じゆう主義しゅぎ路線ろせんにより、1990年代ねんだいには年率ねんりつ9%にもたっする経済けいざい成長せいちょうげるなど、一時いちじてき回復かいふくした。しかし、1999ねんきたブラジルのレアルでペソが相対そうたいてきたかくなり、輸出ゆしゅつ競争きょうそうりょく喪失そうしつ国際こくさい収支しゅうし悪化あっかした。結果けっかてき通貨つうか危機きき(ペソのたいべいドルペッグせい崩壊ほうかい)により完全かんぜん暗転あんてん2001ねん11月14にちには国債こくさいをはじめとした債務さいむのデフォルトを宣言せんげんする事態じたいおちいり、経済けいざいふたた破綻はたん国際こくさいてき信用しんよう評価ひょうかちた(アルゼンチン通貨つうか危機きき)。

2度目どめのデフォルトにより国内こくない貧困ひんこん拡大かくだいし、1980年代ねんだい国民こくみんやく60%をめていたなかあいだそうは、2005ねんには国民こくみんやく20%となり[26]他方たほう貧困ひんこんりつ2002ねんには53%にたっ[27]イタリアスペインしょくもと大量たいりょう国民こくみん流出りゅうしゅつ、そのなかには医者いしゃ弁護士べんごしなどの知識ちしきそうすくなくなかった。かつてラテンアメリカで比類ひるいなき中流ちゅうりゅうそうくにであり、「南米なんべい指導しどうしゃ」としての影響えいきょうりょくそなえていたアルゼンチンは没落ぼつらくし、政経せいけい両面りょうめんでチリやブラジルにかれるかたちとなった。

このようにペロン政権せいけん以来いらい一貫いっかんした経済けいざい政策せいさくがとられなかったツケがまわり、21世紀せいきはいって早々そうそう経済けいざい破綻はたんしてしまったものの、2002ねん変動へんどう相場そうばせい導入どうにゅうし、通貨つうかやすのために輸出ゆしゅつ拡大かくだいしてからはなおはじめ、2003ねん就任しゅうにんしたネストル・キルチネル政権せいけんは、IMFの干渉かんしょう排除はいじょするため、100おくドルちか債務さいむ完済かんさいし、2000ねんまつ経済けいざい破綻はたん直後ちょくご失業しつぎょうりつ24%を、2006ねん5がつには11.4%にまで改善かいぜんした。さらに、2003ねんから2007ねんまで平均へいきんやく8%のこう成長せいちょうつづけ、2006ねん7がつ9にち独立どくりつ190ねん記念きねん式典しきてんでキルチネルは「われわれはIMFにチャオ(さよなら)をげた」と演説えんぜつするなど、経済けいざい危機ききからなおりつつあった。しかし、ふたた対外たいがい債務さいむりつ上昇じょうしょう2010ねんには債務さいむがく大幅おおはばにカットするかたち債務さいむ交換こうかん強行きょうこうして9わり以上いじょう債務さいむ再編さいへんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくとの国際こくさい問題もんだい発展はってんした。

現在げんざいはメルコスール加盟かめいこくであることにより、南米なんべい諸国しょこくとの経済けいざい交流こうりゅう活発かっぱつによるしょ外国がいこくからの投資とうし増大ぞうだいに、経済けいざい復活ふっかつけている。とくにブラジル、ベネズエラとは政治せいじめんでも関係かんけいふかめ、ベネズエラからの南米なんべい大陸たいりく縦断じゅうだん天然てんねんガス輸送ゆそうかん設立せつりつ計画けいかくしている。アルゼンチンは一向いっこう回復かいふくしない内需ないじゅ、および内需ないじゅ不振ふしん主要しゅよう一因いちいんである人口じんこうの3〜4わりたっする貧困ひんこんそう存在そんざいなど課題かだい山積さんせきしているなかで、これらを解消かいしょうしつつ、どのようにして競争きょうそうりょくのあるあたらしい産業さんぎょうそだてるか、あるいは国内こくないほう制度せいど政治せいじ文化ぶんかなどのゆがみからくる投資とうしリスクをいかにげるかなどにかかっている。

2020ねん12月3にち、アルゼンチン・カトリック大学だいがく社会しゃかい負債ふさい調査ちょうさ研究所けんきゅうじょ調査ちょうさ結果けっか公表こうひょうし、貧困ひんこんそう人口じんこう全体ぜんたいの44.2%(前年ぜんねん同期どうきは40.8%で3.4ポイントぞう)にたっしていること、失業しつぎょうりつは14.2%(前年ぜんねん同期どうきは10.6%で3.6ポイントぞう)に悪化あっかしていることがしめされ、景気けいき低迷ていめいくわえて新型しんがたコロナウイルス感染かんせんしょう世界せかいてき流行りゅうこう影響えいきょう指摘してきされている[28]。2022ねん10がつには、世界せかいてき物価ぶっか高騰こうとう影響えいきょうけ、物価ぶっか上昇じょうしょうりつ前年ぜんねん同月どうげつ+88.0%になっており[29]年末ねんまつには100%にたっするとの予測よそくされている[30]貧困ひんこんりつは、2022ねん上半期かみはんきには36.5%にたっした[31]

近年きんねん経済けいざい指標しひょう 編集へんしゅう

アルゼンチンの2021ねん名目めいもくGDP(国内こくないそう生産せいさん)は4,867おくドル[32]実質じっしつGDP(国内こくないそう生産せいさん)は5,681おくドルである[33]。これは、2021ねん世界せかい名目めいもくGDPランキングの29である[34]。2021ねんのGDP成長せいちょうりつは、前年ぜんねん10.4%と2017ねん以来いらい4ねんぶりのプラス成長せいちょうとなった[35]

貿易ぼうえき 編集へんしゅう

2021ねん貿易ぼうえき収支しゅうし黒字くろじで、輸出ゆしゅつがく前年ぜんねん42.0%ぞうの779おく3,400まんドル、輸入ゆにゅうがくは49.2%ぞうの631おく8,400まんドルである[36]

アルゼンチンの主要しゅよう輸出ゆしゅつ相手あいて地域ちいきくには、ブラジル (15.1%)、EU27 (12.7%)、中国ちゅうごく (8.1%) である。一方いっぽう、アルゼンチンの主要しゅよう輸入ゆにゅう相手あいてこくは、中国ちゅうごく (21.4%) 、ブラジル (19.6%) 、米国べいこく (9.3%) であり、自動車じどうしゃおよどう部品ぶひん燃料ねんりょう(ガス、軽油けいゆなど)をおも輸入ゆにゅうしている[35]

日本にっぽん 編集へんしゅう

2021年度ねんど全期ぜんき日本にっぽんからアルゼンチンへの輸出ゆしゅつがくは、前年度ぜんねんど54.6%ぞうの988おくえんで、自動車じどうしゃおよ部品ぶひんおも輸出ゆしゅつしている。日本にっぽんのアルゼンチンからの輸入ゆにゅうがくは、前年度ぜんねんど全期ぜんきがくやく2.3ばいの1,157おくえん[37]、トウモロコシ、大豆だいずなどの穀物こくもつ大豆だいずあぶらかすなどの食品しょくひん加工かこうひん輸入ゆにゅうしている。(前年度ぜんねんど新型しんがたコロナウイルスの感染かんせん拡大かくだい経済けいざい停滞ていたいした。)

日本にっぽんは、アルゼンチンの輸出ゆしゅつ相手あいてこくとして28輸入ゆにゅう相手あいてこくとしては11である[35]

交通こうつう 編集へんしゅう

 
ロサリオのビクトリアきょうとお貨物かもつせん

アルゼンチンのインフラはのラテンアメリカ諸国しょこくくらべると良好りょうこうである[38]やく21まん5,471キロ[39]道路どうろもうと734キロの高速こうそく道路どうろ[40]があり、そのおおくが民営みんえいされた。車線しゃせん幹線かんせん道路どうろ現在げんざいいくつかの主要しゅよう都市としむすび、さらに現在げんざい工事こうじちゅうである[41]

アルゼンチンの鉄道てつどうもうそう延長えんちょう3まん1,000キロ以上いじょうである。ブエノスアイレスの地下鉄ちかてつ(Subte、スブテ)はスペインけん、ラテンアメリカ、南半球みなみはんきゅう全域ぜんいきなかでもっともはや建設けんせつされた[42]

アルゼンチンにはやく3,000キロにおよ水路すいろがあり、おおくはラ・プラタがわ、パラナがわ、ウルグアイがわ、ネグロがわ、パラグアイがわ通行つうこうする。

国民こくみん 編集へんしゅう

アルゼンチンの国民こくみんヨーロッパけいが85%、メスティーソおよびインディヘナなどが15%である。もっともヨーロッパけいアルゼンチンじんめる比率ひりつは89.7%[43]から97%[44]資料しりょうによっておおきながあり、近年きんねん研究けんきゅうではじつはアルゼンチン国民こくみんの56%に先住民せんじゅうみんながれていることがあきらかになっており[45]みずからを白人はくじんだと認識にんしきしているアルゼンチンじん過半数かはんすうに、じつ先住民せんじゅうみんながれていることになる。

ヨーロッパけいアルゼンチンじんにはイタリアけい、スペインけい、ドイツけい住民じゅうみんおおく、なかでもイタリアけい一番いちばんおおい。このイタリア系統けいとうあら言葉ことばづかいが現在げんざいアルゼンチンじん全体ぜんたい性格せいかくがれているため[よう出典しゅってん]、アルゼンチンのスペインにはイタリアナポリ方言ほうげん影響えいきょうつよられる。イタリア移民いみんおおいのでだいのイタリアと認識にんしきされることもあった[よう出典しゅってん]

アルゼンチンじんはしばしば「えたぎるような愛国あいこくしゃ」と形容けいようされ、自国じこくへの批判ひはん異常いじょう敏感びんかんであるが[46]、その一方いっぽうがいしてくに批判ひはんする傾向けいこうがある。強烈きょうれつ個人こじん主義しゅぎしゃとしてもられ、「ビベサ・クリオージャ」とばれるクリオージョてきひとのなさと[47]、アミーゴと家族かぞく以外いがい人間にんげんてき政府せいふ社会しゃかいといった組織そしき信用しんようできないという心性しんせいからくる、ひとくような行為こういによって不快ふかいおもいをさせられ[46]、アルゼンチンじんはアミーゴ以外いがいには不親切ふしんせつであるという人間にんげんるのである。これはアルゼンチンじん国家こっか代表だいひょうされる抽象ちゅうしょうてきなものよりも、友情ゆうじょうといった具体ぐたいてき対象たいしょうへのつよ忠誠ちゅうせいいだくことの裏返うらがえしでもある[46]

ペルー文学ぶんがくしゃマリオ・バルガス・リョサは「アルゼンチンのほこたかさは病癖びょうへきであり、ほかのラテンアメリカ諸国しょこくから批判ひはんされても仕方しかたがない」とべた[46]。アルゼンチンじん自国じこく選良せんりょうであるとおもってきたが[46]、こうした優越ゆうえつかん劣等れっとうかんはその選良せんりょう意識いしき裏返うらがえしであり[46]つよ愛国心あいこくしん称揚しょうよう一方いっぽうおこなわれる自国じこくへの強烈きょうれつ批判ひはんは、国家こっか自分じぶん十分じゅうぶんほこりをもたせてくれるにはりない存在そんざいであることの裏返うらがえしである[46]。こうしたことのきる原因げんいんとしては、19世紀せいきなか以来いらい自由じゆう主義しゅぎ、ヨーロッパがアルゼンチン国民こくみん全体ぜんたいれられるような国民こくみん文化ぶんかそだてることができなかったためだといわれている[46]。ただしガウチョのような例外れいがいもあり、アルゼンチンじんはガウチョであることをほこ[46]

人口じんこう 編集へんしゅう

 
INDECによる1950ねんから2015ねんまでのアルゼンチンの人口じんこう推移すいいグラフ

五月ごがつ革命かくめいきた1810ねんに70まんにんだった人口じんこうは、ウルキーサがロサスを打倒だとうした直後ちょくごの1853ねんには90まんにんとなり、その時点じてんでは純粋じゅんすい白人はくじんは6まんにんほどでのこりはメスティーソや黒人こくじんやインディヘナだった。

カセーロス以降いこう自由じゆう主義しゅぎしゃ政権せいけんはヨーロッパから移民いみん大量たいりょう導入どうにゅうすると、アルゼンチンの人口じんこう増加ぞうかし、1869ねんはつ公的こうてき人口じんこう調査ちょうさではやく175まん7,000にんだった。その、1900ねんには454まん3,000にん、1930ねんには1,200まん5,000にん、1940ねんには1,416まん9,000にん、1950ねんにはやく1,709まんにん、1960ねんセンサスでは2,006まん5,691にん、1975ねんにはやく2,538まんにん、1983ねん年央ねんおう推計すいけいではやく2,963まんにんとなった。2005ねん見積みつもりによると、人口じんこうは3,874まん7,000にん推測すいそくされ、これは南米なんべい大陸たいりく国家こっかで3番目ばんめおおい。

2005年度ねんど人口じんこう密度みつどは1km²あたり14にんになるが、人口じんこう均衡きんこうって配分はいぶんされているわけではなく、とくブエノスアイレス周辺しゅうへん集中しゅうちゅうしており、ブエノスアイレスでは人口じんこう密度みつどが1まん4,000にん/km²になるのにたいして、パタゴニアのさい南部なんぶのサンタ・クルスしゅうでは1人ひとり/km²以下いかとなる。アルゼンチンは南米なんべい唯一ゆいいつ純粋じゅんすい移民いみん増加ぞうかりつが0.4%をえるくにである[48]

2021ねん現在げんざいでは4527.7まんにんになっている。

移民いみん 編集へんしゅう

19世紀せいきなかばの国家こっか西欧せいおう白人はくじんのぞんだ自由じゆう主義しゅぎしゃ勝利しょうりし、1853ねん憲法けんぽうだい25じょうや、1876ねん移民いみんほう制定せいていによってヨーロッパ移民いみん大量たいりょう導入どうにゅうされると、次第しだい都市としからは黒人こくじんが、パンパからはインディヘナやガウチョが姿すがたし、以降いこうアルゼンチンは白人はくじん国家こっかであることをほこり、アイデンティティにするようになった。

20世紀せいきはいってからマイノリティがとくにブエノスアイレスで目立めだたない存在そんざいになると、みずからをヨーロッパになぞらえて、(ヨーロッパかられば)「文化ぶんかのない」アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくや、人種じんしゅてき優越ゆうえつかんやラテンアメリカいち経済けいざい大国たいこくであったことによる自信じしんにより、ラテンアメリカ諸国しょこく見下みくだ傾向けいこうと、ラテンアメリカとの連帯れんたいよりもヨーロッパとのつながりを重視じゅうしする傾向けいこうがあり[46][49]おりからのアルゼンチンの経済けいざいてき発展はってんへの羨望せんぼうとあいまって、同国どうこくがラテンアメリカ諸国しょこくからきらわれるおおきな原因げんいんとなった。 純粋じゅんすい南欧なんおうけい比較ひかくすると小柄こがらで、風貌ふうぼう若干じゃっかんことなるひとすくなくないことから、先住民せんじゅうみんけいすくなからずがれていることがわかるが、それでも現在げんざいのところアルゼンチンじん主要しゅよう意識いしき白人はくじん国家こっか南米なんべいのヨーロッパであることにわりはない。ただし、マルビナス戦争せんそうでヨーロッパ(EC)と敵対てきたいし、反対はんたいにラテンアメリカ諸国しょこく支援しえんけたことから、状況じょうきょう多少たしょうわってきている[46]

1837ねん世代せだいや1880ねん世代せだい代表だいひょうされる19世紀せいき自由じゆう主義しゅぎしゃアングロ・サクソン移民いみんおおまねいてアルゼンチンをラテンしたかったようだが、現実げんじつてきに1871ねんから1913ねんまでに定着ていちゃくした317まんにんのヨーロッパ移民いみんとしてはイタリアじんイタリアけいアルゼンチンじん)、スペインじんとくおおかった。そのにはフランスじんロシアじんドイツじんオーストリアじんイングランドじんウェールズじんクロアチアじんポーランドじんポルトガルじんスイスじんベルギーじんアイルランドじんなどがつづき、ロシアけいはほとんどがアシュケナジムだった。そのほかにはレバノンシリアから移民いみんしたアラブじんアラブけいアルゼンチンじん)やブラジルなどからさい移住いじゅうした日本人にっぽんじん日系にっけいアルゼンチンじん)、スペイン内戦ないせん共和きょうわ亡命ぼうめいしゃや、だい大戦たいせんまえナチスわれてげてきたドイツからのユダヤじん、そして戦後せんごナチスの残党ざんとうとして亡命ぼうめいしてきたドイツじんなどがいる[50][51]

マイノリティ 編集へんしゅう

 
テウエルチェひといちぐん (1832ねん

おもなマイノリティとしてパラグアイ、ボリビア、ペルーなどから出稼でかせぎにきた移民いみんがいるほか、メスティーソユダヤじんアフリカけいアルゼンチンじんアジアけいアルゼンチンじんがおり、先住民せんじゅうみんとしてアンデスにケチュアじんアイマラじん、パタゴニアにマプーチェじんテウエルチェじんなどがいる。19世紀せいき後半こうはんまでネグロ川北かわきたに20まんにんほどいたパンパの狩猟しゅりょう遊牧ゆうぼくインディヘナは、1878ねん開始かいしされたフリオ・アルヘンティーノ・ロカ英語えいごばん将軍しょうぐん砂漠さばく征服せいふく作戦さくせん英語えいごばんにより2まんにんにまで減少げんしょうし、以後いごパンパからはほとんどいなくなった。現在げんざいのインディヘナのそう人口じんこうは42まんにんになっている。

アラブけいのコミュニティもあり、コミュニティからはカルロス・メネム大統領だいとうりょうしている。だい部分ぶぶんアラブけいアルゼンチンじんカトリック教会きょうかい正教せいきょう東方とうほう典礼てんれいカトリック教会きょうかいなどを信仰しんこうしている。アジアけいアルゼンチンじん日系にっけい中国ちゅうごくけい韓国かんこくけいベトナムけいなどをわせて13まんにんえる。

ユダヤじんはヨーロッパからのアシュケナジムがほとんどだが、シリアからのセファルディムも15 - 20%ほどいる(詳細しょうさいユダヤけいアルゼンチンじん参照さんしょう)。経済けいざいてきにユダヤけいちからつよいため、アルゼンチン社会しゃかいとく軍部ぐんぶはんユダヤ主義しゅぎ根強ねづよく、軍事ぐんじ政権せいけんでは「きたな戦争せんそう」のなかで、ユダヤじんイスラエル兵器へいき弾圧だんあつされるという矛盾むじゅんきた[50]。アルゼンチンへのユダヤじん移民いみんは、モーリス・ヒルシュ男爵だんしゃく英語えいごばん基金ききんがスポンサーであった。

不法ふほう移民いみん 編集へんしゅう

アルゼンチンの不法ふほう移民いみんだい多数たすう国境こっきょうせっするボリビア、パラグアイからており、少数しょうすうはペルー、エクアドルルーマニアなどからもやってきている。アルゼンチン政府せいふはこうした不法ふほう移民いみんかずを75まんにん見積みつもっている。

都市とし 編集へんしゅう

アルゼンチンの都市とし人口じんこうりつむかしから非常ひじょうたかく、それは現在げんざいまでわっていない。353まんにんブエノスアイレスに、1,240まんにんだいブエノスアイレス都市としけんんでいる。だい2、だい3の都市としけんコルドバロサリオであり、それぞれ130まんにんと110まんにん都市としけん構成こうせいしている[よう出典しゅってん]

19世紀せいき以降いこう移民いみんしたほとんどのヨーロッパ移民いみんは、だい土地とち所有しょゆうせいくずれずに入植にゅうしょく所有しょゆうけんはいらなかったため、最終さいしゅうてき都市としき、仕事しごと教育きょういくなどさまざまな機会きかいちゅうあいだそうとなっていった。おおくは鉄道てつどうもう沿って成長せいちょうしていたしょう都市としいたが、1930年代ねんだいはいるとしょう都市としから大都市だいとしへの国内こくない移民いみんおこなわれた。

1990年代ねんだいはい国営こくえい鉄道てつどう民営みんえいおこなわれた結果けっか旅客りょかく列車れっしゃ運行うんこう中止ちゅうしされた路線ろせんえ、小規模しょうきぼ工業こうぎょう外国がいこくせいやす製品せいひんとの競争きょうそうやぶれてえていくと、田舎町いなかまちにはゴースト・タウンになるものもあらわれた。また、"Villa Miseria"とばれる不法ふほう占拠せんきょ建物たてもの密集みっしゅう(いわゆるスラム)が大都市だいとしられるようになり、鉄道てつどう民営みんえい以降いこう増加ぞうかした。国営こくえい企業きぎょう民営みんえいおよび民間みんかん企業きぎょう破綻はたん失業しつぎょうした下層かそう労働ろうどうしゃ北西ほくせいちいさなまちからの移住いじゅうしゃ最初さいしょにそこにいえて、つぎにさらにおおきなかず近隣きんりん諸国しょこくからの移民いみん移民いみん人々ひとびと住民じゅうみん半数はんすう以上いじょうめるといわれる)がそこにあらたにいえてるか、増築ぞうちくするなどをしながらんでいる。これらのいえなかには電気でんきがひかれ、エア・コンディショナー冷蔵庫れいぞうこ存在そんざいし、営業えいぎょう店舗てんぽにもなっている建物たてものもある。ただし、沼地ぬまちのような場所ばしょうえ存在そんざいする建物たてもの衛生えいせいじょう問題もんだいがあり、密集みっしゅうした環境かんきょう犯罪はんざい組織そしき温床おんしょうになりかねないとして、政府せいふはアパートを建設けんせつし、そこに不法ふほう占拠せんきょ住民じゅうみん移住いじゅうさせる政策せいさくおこなっているが、資金しきん不足ふそくによりなかなかすすんでいない。

アルゼンチンの都市としはヨーロッパ移民いみん影響えいきょう反映はんえいされているため、非常ひじょうにヨーロッパてきである。おおくの都市としはスペインふう広場ひろば中心ちゅうしん建設けんせつされ、カテドラル重要じゅうよう役所やくしょカビルド)は広場ひろばめんしててられる(ただし、ブエノスアイレスは1850年代ねんだい以降いこうフランスパリ忠実ちゅうじつにモデルにして改造かいぞうされた)。一般いっぱんてき都市とし配置はいちはダメロとばれる碁盤ごばんじょうであるが、19世紀せいきまつワシントンD.C.をモデルに建設けんせつされたラ・プラタなど近代きんだいてき計画けいかく都市としはこの様式ようしきからかけはなれていることもある。

2022年度ねんど都市とし人口じんこうりつは92.23%である。[52]

アルゼンチンじん移民いみん 編集へんしゅう

20世紀せいきなかばまでは移民いみんこくだったアルゼンチンも、20世紀せいき中盤ちゅうばん以降いこう社会しゃかい経済けいざい政治せいじ混乱こんらんにより、おおくのアルゼンチンじん祖国そこくはなれて海外かいがい移住いじゅうした。とく国連こくれんラテンアメリカ委員いいんかい報告ほうこくによると、アルゼンチンからの海外かいがい移住いじゅうしゃの1,000にんのうち191にん大学だいがく卒業そつぎょうしゃであるなど[53]留学生りゅうがくせいがそのまま海外かいがい移民いみんになってしまうことや、大学だいがく卒業そつぎょうしゃ見合みあった職業しょくぎょう不足ふそくなどを原因げんいんとした、高学歴こうがくれきしゃ移民いみんによる社会しゃかい空洞くうどう懸念けねんされている。アルゼンチンからの移民いみんさきはおもにスペイン、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく、カナダ、ブラジル、ポルトガル、オーストラリアなどである。

言語げんご 編集へんしゅう

 
エルネスト・ゲバラチェ・ゲバラばれることがおおいが、このチェとはアルゼンチンのスペイン特有とくゆう表現ひょうげんのひとつである

言語げんごスペインリオプラテンセ・スペイン)が公用こうようであり、アルゼンチンではエスパニョールではなくカステジャーノとばれる。ポルテーニョ(ブエノスアイレス市民しみん)のアクセントはイタリアナポリ方言ほうげん影響えいきょうつよく、ヨーロッパ移民いみんとくにイタリア移民いみん影響えいきょうにより、ラ・プラタ地域ちいきはなされるルンファルドばれる独特どくとく俗語ぞくご形成けいせいされてきた。アルゼンチンはスペインけんでも二人称ににんしょう単数たんすうにおいてボセオ(Voseo)のみが全土ぜんど使用しようされている数少かずすくないくにであり、ボセオはアルゼンチンのアイデンティティとなっている。

スペインのほかには英語えいごイタリアドイツフランス語ふらんすご、および多少たしょう先住民せんじゅうみん言語げんごなども使用しようされている。

標準ひょうじゅんドイツは140まんにんから150まんにんのドイツけいアルゼンチンじんによってはなされているが、180まんにん以上いじょうはなしているともいわれている。ドイツ今日きょうのアルゼンチンでだい3かだい4におおくの人々ひとびとはなされている言葉ことばである。そのほかにも、調査ちょうさによると、150まんにんがイタリアはなし、100まんにんがシリア・レバノンのアラビアはなしている。ガリシアイディッシュ日本語にほんごなどもはなされているが、これらの言語げんご現在げんざいでははなされることはすくなくなってきている。パタゴニアのトレレウガイマンといったまちにはウェールズはなすコミュニティがある。近年きんねんのアジアけい移民いみん中国ちゅうごく韓国かんこくをブエノスアイレスにんだ。

先住民せんじゅうみん言語げんごはコリエンテスしゅう、ミシオネスしゅうグアラニーはなされ、コリエンテスしゅうでは公用こうようとなっている。ケチュア北西ほくせいのサンティアゴ・デル・エステロしゅうはなされ、アイマラはボリビアからの移民いみんのコミュニティなどではなされている。パタゴニアではマプーチェなどがはなされている。

英語えいごブラジル・ポルトガルフランス語ふらんすごはあまりおおきな存在そんざいかんたない。英語えいご学校がっこう教育きょういくおしえられ、ポルトガルフランス語ふらんすごのちつづく。

宗教しゅうきょう 編集へんしゅう

 
266だいローマ教皇きょうこうフランシスコみぎ)とキルチネル大統領だいとうりょうひだり)。アルゼンチンは新大陸しんたいりくでローマ教皇きょうこうした最初さいしょくにとなった

国民こくみん多数たすうの93%がカトリック教徒きょうとだと申告しんこくしているが、教会きょうかいはより正確せいかくには70%ぐらいだと見積みつもっている。現行げんこう憲法けんぽうだいじょうによると、アルゼンチン共和きょうわこくはカトリックを保護ほごすべきであるとなっているが、これはアルゼンチンの国教こっきょうがカトリックであるということではなく、圧倒的あっとうてき信徒しんとすうおおいカトリックに国家こっか優先ゆうせんけんがあることをみとめるのみとなっている[54]。2013ねんおこなわれたコンクラーベでは、アルゼンチンじんブエノスアイレス大司教だいしきょうホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿すうききょうローマ教皇きょうこう選出せんしゅつされてだい266だい教皇きょうこうフランシスコとなり、アルゼンチンがはつアメリカ大陸あめりかたいりく出身しゅっしんのローマ教皇きょうこうしたくにとなった。アルゼンチンでは、日曜日にちようびに、かならずミサに出向でむくことが習慣しゅうかんとなっており、結婚式けっこんしきなども教会きょうかいおこなうしきたりになっている。[55]

公務員こうむいんかならずしもカトリックを信仰しんこうしなければならないわけではないが、大統領だいとうりょうキリスト教徒きりすときょうとしかなれない法律ほうりつがある。この法律ほうりつにより、アラブけいだったカルロス・メネムはイスラームきょうを棄教しなければならなかった。

1980年代ねんだいからプロテスタントの福音ふくいん足場あしばきずき、現在げんざいそう人口じんこうやく10%の330まんにん信者しんじゃである。

33まんにん以上いじょうキリスト教きりすときょうけいしん宗教しゅうきょう末日まつじつ聖徒せいとイエス・キリスト教会きょうかいモルモンきょう)に所属しょぞくしており、アルゼンチンは世界せかいで7番目ばんめ末日まつじつ聖徒せいとイエス・キリスト教会きょうかい信者しんじゃおおくにとなっている。。

ラテンアメリカでもっともおおいユダヤじん人口じんこうかかえ、人口じんこうやく2%がユダヤじんである。

イスラーム教徒きょうとそう人口じんこうの1.5%をめ、50まんにんから80まんにんがいると推測すいそくされている(93%はスンナ)。現在げんざいアルゼンチンはラテンアメリカでもっともモスクおおくにのひとつとなっている。

おおよそ12%が宗教しゅうきょう、もしくは世俗せぞくとみなされている。

婚姻こんいん 編集へんしゅう

婚姻こんいんさいには夫婦ふうふ別姓べっせいであるが、女性じょせいは、自己じこせいのちに「de+おっとせい」を追加ついかすることができる。

2010ねんから、同性どうせい同士どうし結婚けっこん同性どうせい結婚けっこん)がみとめられるようになった。

教育きょういく 編集へんしゅう

 
まちのいたるところでられるどもたちのしろ制服せいふくは、アルゼンチンの学校がっこう教育きょういく象徴しょうちょうである

独立どくりつ自由じゆう主義しゅぎしゃ勝利しょうりした1860年代ねんだい以降いこうのアルゼンチンはドミンゴ・ファウスティーノ・サルミエント政権せいけんのもとで、ほかのラテンアメリカ諸国しょこくとは対照たいしょうてきおおやけ教育きょういく整備せいびちからそそいだ。2001ねんのセンサスでは、15さい以上いじょう国民こくみん識字しきじりつは97.2%[56]たっしている。これはウルグアイやキューバ、チリとともにラテンアメリカでもっともたか水準すいじゅんである。ただし、近年きんねん機能きのうてき識字しきじ増加ぞうか問題もんだいとなっている[57]

幼稚園ようちえんから初等しょとう教育きょういくはじまり、5さいから14さいまでの10年間ねんかん無償むしょう初等しょとう教育きょういく前期ぜんき中等ちゅうとう教育きょういく義務ぎむ教育きょういく期間きかんとなり、その3年間ねんかん後期こうき中等ちゅうとう教育きょういく高等こうとう教育きょういくへのみちける。初等しょとう中等ちゅうとう教育きょういく問題もんだいとしては落第らくだいりつたかさや、待遇たいぐう劣悪れつあくさからきる教員きょういんのストライキと予算よさん不足ふそくからくる十分じゅうぶん授業じゅぎょう日数にっすう確保かくほ不備ふび学級がっきゅう崩壊ほうかいなどがげられる[58]

2005ねん現在げんざいで、アルゼンチンには41こう国公立こっこうりつ大学だいがくと48こう私立しりつ大学だいがくがあり、代表だいひょうてき高等こうとう教育きょういく機関きかんとしてはブエノスアイレス大学だいがく(1821ねん)、コルドバ大学だいがく(1613ねん)、ラ・プラタ大学だいがく(1905ねん)、国立こくりつ工科こうか大学だいがく英語えいごばん(1959ねん)、ロサリオ大学だいがく(1968ねん)、教皇きょうこうちょうたてアルゼンチンカトリック大学だいがく(1958ねん)、トルクァト・ディ・テラ大学だいがく(1991ねん)などがげられる。国公立こっこうりつ大学だいがくはアルフォンシン政権せいけん入試にゅうし廃止はいししたため、学生がくせいすう増加ぞうかによる過密かみつや、効率こうりつ制度せいどによる学校がっこう運営うんえい混乱こんらんおおきな問題もんだいとなっている[59]大学だいがく進学しんがくりつチリなら南米なんべいとしてはきわめて高率こうりつである。

文化ぶんか 編集へんしゅう

 
ブエノスアイレスは南米なんべいでもっともヨーロッパてき都市としである

アルゼンチンの文化ぶんかは、まずだいいちおおくのアルゼンチンじんのルーツであるヨーロッパから導入どうにゅうされ、ヨーロッパからおおきな影響えいきょうけている。ブエノスアイレスはヨーロッパの家系かけいつらなる人々ひとびとと、ヨーロッパのスタイルを模倣もほうした建造けんぞうぶつによって構成こうせいされた結果けっかとして、しばしば南米なんべいでもっともヨーロッパてき都市としだといわれてきた。もうひとつのおおきな影響えいきょうガウチョインカ帝国ていこく文化ぶんか代表だいひょうされる、パンパ北西ほくせいアンデスでの伝統でんとうてき田園でんえん生活せいかつによるものである。最終さいしゅうてきにインディヘナの伝統でんとうてき文化ぶんか(マテちゃまわみなど)はこの文化ぶんかてき領域りょういき吸収きゅうしゅうされた。

この2つのアルゼンチンはたがいに相克そうこくしながらアルゼンチンの文化ぶんか形成けいせいしてきた。どちらがしんのアルゼンチンであるかというものではなく、どちらも本質ほんしつてきことなる2つのアルゼンチンの精神せいしんあらわしているものである。

文学ぶんがく 編集へんしゅう

 
ホルヘ・ルイス・ボルヘス
 
『マルティン・フィエロ』(1874)の作者さくしゃホセ・エルナンデス

アルゼンチン文学ぶんがくは1850年代ねんだいからラテンアメリカ文学ぶんがくのリーダーであった。国家こっか形成けいせい時代じだい連邦れんぽう統一とういつあらそいが、当時とうじのアルゼンチン文学ぶんがくロマン主義しゅぎ文学ぶんがくのトーンを印象いんしょうけた。アルゼンチンにロマン主義しゅぎ導入どうにゅうした自由じゆう主義しゅぎしゃエステバン・エチェベリーアの『エル・マタデーロ』(1840)ではロサスの圧政あっせい寓意ぐういてきえがき、おなじく欧化おうか主義しゅぎしゃドミンゴ・ファウスティーノ・サルミエントによって亡命ぼうめいさきあらわされた『ファクンド』(1845)は、統一とういつ視点してんでラ・リオハしゅう連邦れんぽうカウディージョ、フアン・ファクンド・キロガ野蛮やばん象徴しょうちょうとしてえがき、ガウチョやインディオは近代きんだいのための巨大きょだい障害しょうがいぶつなされた。それにたいしてガウチョ文学ぶんがく英語えいごばん傑作けっさくとなったホセ・エルナンデス叙事詩じょじしマルティン・フィエロ英語えいごばん』(1874)は、連邦れんぽう視点してんでガウチョをアルゼンチンの精神せいしん体現たいげんする象徴しょうちょうとしてえがき、現在げんざい後者こうしゃの『マルティン・フィエロ』はアルゼンチンの聖書せいしょばれ、国民こくみん文学ぶんがく基礎きそだと位置いちづけられている。

そのにもフアン・バウティスタ・アルベルディロベルト・アルルトエンリケ・バンチスアドルフォ・ビオイ・カサレスエウヘニオ・カンバセレスレオポルド・ルゴネスエドゥアルド・マジェーアエセキエル・マルティネス・エストラーダトマス・エロイ・マルティネスビクトリア・オカンポエルネスト・サバトオスバルド・ソリアーノアルフォンシナ・ストルニマリア・エレーナ・ワルシュホルヘ・ルイス・ボルヘスフリオ・コルタサルマヌエル・プイグのように、アルゼンチンは国際こくさいてき特筆とくひつされる作家さっか詩人しじん知識ちしきじんしている。 キノ(ホアキン・サルバドール・ラバード)は世界中せかいじゅうおおくの読者どくしゃたのしませている。文学ぶんがくにおいてもブエノスアイレスかそれ以外いがいかという対立たいりつは、のちのモデルニスモ文学ぶんがく20世紀せいき文学ぶんがくにおいてもつづいた。

正統せいとう文学ぶんがくしゃではないが、キューバ革命かくめい指導しどうしゃ1人ひとりであり、ラテンアメリカにおける社会しゃかい主義しゅぎ理論りろんとしてられ、文学ぶんがくでも『モーターサイクル・ダイアリーズ』や、革命かくめいちゅうのゲリラせん経験けいけんをまとめた『ゲリラ戦争せんそう』(1961)、『ゲバラ日記にっき』(1968)などをのこし、キューバ閣僚かくりょうつとめたこともあるエルネスト・チェ・ゲバラもアルゼンチン出身しゅっしん文筆ぶんぴつとして名高なだかい。

映画えいが 編集へんしゅう

世界せかいはつアニメ映画えいがは1917ねん漫画まんがキリーノ・クリスティアーニによってアルゼンチンで製作せいさくされた。アルゼンチン映画えいがは1930年代ねんだいから1950年代ねんだいにかけて黄金おうごん時代じだいむかえ、映画えいが産業さんぎょうはアルゼンチン映画えいがはつのスターとなり、タンゴの歌手かしゅでもある、リベルタ・ラマルケや、フローレン・デルベーネティト・ルシアルドティタ・メレージョロベルト・エスカラーダウーゴ・デル・カリールのような俳優はいゆう輩出はいしゅつした。

そのも『ロス・インダドス』(1955)によりブラジルのネルソン・ペレイラ・ドス・サントスやキューバのフリオ・ガルシア・エスピノーサとともにしんラテンアメリカ映画えいが運動うんどう牽引けんいんしゃとなったフェルナンド・ビッリや、アレハンドロ・アグリステエクトル・オリベラ、『スール/そのさきは……あい』(1988)のフェルナンド・E・ソラーナス、『ブエノスアイレスのよる』(2001)のフィト・パエスといった映画えいが監督かんとく活躍かつやくしている。ラ・プラタとマル・デル・プラタで例年れいねん映画えいがさいもよおされている。

絵画かいが彫刻ちょうこく 編集へんしゅう

 
フェルナンド・フェデール

ブエノスアイレスの都市としてき様子ようすとは対照たいしょうてきなもうひとつのアルゼンチンをえがいた画家がかとしては、はじめて本格ほんかくてきにガウチョをえがいたプリリディアーノ・プエイレドンや、アンデス地方ちほう牧場ぼくじょうや、ガウチョを題材だいざいえがいたフェルナンド・フェデールなどのげられる。さんこく同盟どうめい戦争せんそうなどを題材だいざいにした歴史れきし絵画かいがではホセ・イグナシオ・ガルメンディアや、カンディード・ロペス素朴そぼく)などのげられる。ロペス、アントニオ・ペリーニen:neo figurative)、エミリオ・ペットルーティキュビスム)、フェデール、ギジェルモ・クイトカ作品さくひん国際こくさいてき認知にんちされている。そのほかにも「ボカ共和きょうわこく」こと、ブエノスアイレスのラ・ボカ(La Boca、河口かこう地区ちく出身しゅっしんキンケラ・マルティンはラ・ボカ地区ちく労働ろうどうしゃえがいた画家がかとして名高なだかい。

ルシオ・フォンタナレオン・フェラーリ彫刻ちょうこくかつコンセプチュアル・アーティストとして喝采かっさいされた。シルエロ・カブラル世界せかいてき有名ゆうめい幻想げんそう芸術げいじゅつかつ彫刻ちょうこくであり、エドゥアルド・マクリンティーレ幾何きかがくてきなデザインは1970年代ねんだい以降いこう世界中せかいじゅう広告こうこく影響えいきょうあたえた。

しょく文化ぶんか 編集へんしゅう

 
アサード
 
マテちゃ

あまり日本にっぽんではられていないが、冷凍れいとうせん発明はつめい普及ふきゅうとともに世界せかいてきだい畜産ちくさんくにとして発展はってん基礎きそきずいただけあって、にく料理りょうりなどを中心ちゅうしん充実じゅうじつしたしょく文化ぶんか歴史れきしがある。そのいちれいとして、おおくのイタリア移民いみんんだパスタるいや、ドゥルセ・デ・レチェなどの菓子かしるいなどもバラエティにんでいる。ブエノスアイレスと地域ちいきとをわずエンパナーダひろべられている。さかなは、おおきなスーパーや中国人ちゅうごくじんがい以外いがいではメルルーサ(タラ)かサケくらいしかっていないが、イグアスのたきちか北部ほくぶ亜熱帯あねったい地方ちほうではスルビ(ナマズ一種いっしゅ)、クージョのアンデス山脈あんですさんみゃく付近ふきんではトゥルーチャ(マス)など、かわぎょべる地方ちほうもある。

アルゼンチンの主菜しゅさいであるにく料理りょうりじつ多彩たさいであり、とくアサード、ビフェ・デ・チョリソ(サーロインステーキ)、チョリソ臓物ぞうもつふくんだ焼肉やきにくわせであるパリージャ(Parrilla)が有名ゆうめいである。

アルゼンチンは世界せかい有数ゆうすうワイン生産せいさんこくである一方いっぽう、ほとんどを国内こくない消費しょうひするため海外かいがいにはあまりられていない。アルゼンチンにはにく料理りょうりおおいことから、それと相性あいしょうがよいとされるあかワインがとくおおく、品質ひんしつすぐれている。アルゼンチンのワインの6わりメンドーサ生産せいさんされ、のこりのほとんどがカファヤテ(Kafajatė)で生産せいさんされる。ヨーロッパではほとんどブレンドにしかもちいないマルベック(Malbec)という品種ひんしゅは、アルゼンチンでもっともあじがいいとされている。近隣きんりん諸国しょこく同様どうようグアラニーじん由来ゆらいマテちゃ習慣しゅうかんもある。食後しょくごむマテちゃは、モチノキ常緑樹じょうりょくじゅゼルバマテ[60]というをすりつぶしてこなにし、専用せんよう容器ようき(マテ)にれておくわえ、ストローでむ。[55]アルゼンチンでは砂糖さとうれてむことがおおいという。

ファストフードとしては、チョリソパンはさんだチョリパンという料理りょうりがあり、チミチュリ野菜やさいなどのトッピングもなされる。アルゼンチンのソウルフードともひょうされる[61]

音楽おんがく 編集へんしゅう

 
タンゴ
 
アストル・ピアソラ
 
メルセデス・ソーサ

アルゼンチンはブラジル、コロンビアとともに南米なんべい音楽おんがく大国たいこく一角いっかくめる。

世界せかいてきにウルグアイのモンテビデオとともに、ブエノスアイレス、とくラ・ボカとサン・テルモはタンゴ・リオプラテンセ(ラ・プラタがわふうタンゴ。日本にっぽんかぎらず世界せかいではアルゼンチン・タンゴばれることがおおい)の中心ちゅうしんとしてられるが、1850年代ねんだいからカンドンベ下敷したじきにして、ハバネラミロンガなどの影響えいきょうけてボカでそだったこのリズムは、1920年代ねんだい以降いこうカルロス・ガルデルのフランス公演こうえんだい成功せいこうするとヨーロッパでもだい流行りゅうこうし、コンチネンタル・タンゴにもなった。1930年代ねんだい最盛さいせいぎるとこの流行りゅうこうながくはつづかずに1950年代ねんだいごろには下火したびになり、そのタンゴはアルゼンチンでも衰退すいたいをたどるが、アストル・ピアソラ登場とうじょうによりなおした。

このように、アルゼンチンといえばブエノスアイレスのヨーロッパふうのイメージとともに、まずだいいちにタンゴが連想れんそうされるが、しかしタンゴはやはりラ・プラタがわ流域りゅういき音楽おんがくであり、内陸ないりくではサンバパジャドールチャカレーラチャマメカルナバリート実質じっしつワイニョ)などのさまざまなフォルクローレ民謡みんよう)が存在そんざいする。こうしたフォルクローレはいくつか隣国りんごくのウルグアイとも共通きょうつうしており、タンゴのもとになった黒人こくじん音楽おんがくカンドンベも、もともとはアルゼンチン・ウルグアイに共通きょうつうする音楽おんがくだったが、アルゼンチンでの黒人こくじん人口じんこう減少げんしょうとともにアルゼンチンではすたれていき、現在げんざいカンドンベはウルグアイの国民こくみん音楽おんがくになっている。

アンデスのフォルクローレの代表だいひょうきょくである花祭はなまつり (ウマウアカのおとこウマウアカカルナバルうたったものだが、とくにアンデス地方ちほうのフォルクローレではアルゼンチンのものが日本にっぽんにもっともはや紹介しょうかいされたこともあり、世界せかい人々ひとびとにとってフォルクローレとえば本場ほんばのボリビアとならんでアルゼンチンのものが連想れんそうされる要因よういんともなっている。アルゼンチンでの海外かいがいこえ代表だいひょう自認じにんしたアタウアルパ・ユパンキや、メルセデス・ソーサウニャ・ラモスらは世界せかいてき有名ゆうめいであり、日本にっぽんではグラシェラ・スサーナ有名ゆうめいである。チャランゴ奏者そうしゃハイメ・トーレスのように伝統でんとうてきなフォルクローレを展開てんかいする表現ひょうげんしゃ以外いがいにも、近年きんねんしん世代せだいのミュージシャンが、欧米おうべいシンガー・ソングライタージャズエレクトロニカなどに影響えいきょうけたあたらしいフォルクローレを続々ぞくぞくしている。代表だいひょうてきなアーティストは、リリアナ・エレーロアカ・セカ・トリオマリアナ・バラフカルロス・アギーレなど。日本にっぽんでも徐々じょじょ注目ちゅうもくされており、『オーガニック・ブエノスアイレス』というコンピレーション・アルバム発表はっぴょうされた。

そしてそれだけがこのくに音楽おんがくのすべてではなく、クラシックジャズやポップスの分野ぶんやでも、作曲さっきょくアルベルト・ヒナステラピアニストマルタ・アルゲリッチラロ・シフリンなど、時折ときおり注目ちゅうもくすべき人物じんぶつ輩出はいしゅつすることもある。そのほかに特筆とくひつされるべき音楽家おんがくかとしては、扇情せんじょうてきサクソフォーンフリージャズ構成こうせいするガトー・バルビエリ存在そんざいする。

ポップス分野ぶんやではとくロックさかんなくにであり、国外こくがいにもアルゼンチン・ロック愛好あいこうおおい。1960年代ねんだい初頭しょとうにはアルゼンチン・ロックはウルグアイぜい進出しんしゅつにより、ブエノスアイレスの音楽おんがくシーンはロス・シェイカーズロス・モッカーズなどのウルグアイのロックバンドの草刈くさかじょうとなったが(ウルグアヤン・インベイジョン)、ウルグアイじん攻勢こうせいわったあとも、ロス・ガトースなどのアルゼンチンじんのロックバンドが主導しゅどうてき役割やくわりたしながらも、ラ・プラタがわえておおくのウルグアイのミュージシャンがブエノスアイレスで活躍かつやくする状況じょうきょうわっていない。

2000年代ねんだいはいってからは、アルゼンチン音響おんきょうがまるでかつてのブラジルにおけるトロピカリズモ運動うんどうのようなあらたなムーブメントとなっている。ファナ・モリーナサンティアゴ・バスケスフェルナンド・カブサッキアレハンドロ・フラノフなどは日本にっぽんでも人気にんきはくしており、山本やまもと精一せいいち勝井かつい祐二ゆうじなど日本人にっぽんじんミュージシャンとの交流こうりゅうがある。クラブシーンにおいてはコロンビアまれのクンビアがブエノスアイレス近郊きんこう発達はったつげ、デジタル・クンビアまれた。

アルゼンチンが発祥はっしょうとなった音楽おんがくではないが、2002ねんには日本にっぽんロックバンドTHE BOOMの「しまうた」が俳優はいゆうアルフレッド・カセーロ日本語にほんごのままカバーされだいヒットした。かれうたしまうたはそのとし開催かいさいされたにちかんワールドカップアルゼンチン代表だいひょう応援おうえんとしても採用さいようされた。

世界せかい遺産いさん 編集へんしゅう

アルゼンチン国内こくないには、ユネスコ世界せかい遺産いさんリストに登録とうろくされた文化ぶんか遺産いさんが5けん自然しぜん遺産いさんが4けん存在そんざいする。

祝祭日しゅくさいじつ 編集へんしゅう

このくに祝祭日しゅくさいじつ一覧いちらん以下いかひょうしめ
日付ひづけ 日本語にほんご表記ひょうき 現地げんち表記ひょうき 備考びこう
1がつ1にち 元日がんじつ Año Nuevo
移動いどう祝日しゅくじつ せい金曜日きんようび Viernes Santo
4がつ2にち1 退役たいえき軍人ぐんじんおよびマルビナス戦争せんそう戦没せんぼつしゃ追悼ついとう Día del Veterano de Guerra y de los Caídos en la Guerra de las Malvinas マルビナス戦争せんそうでの死者ししゃ追悼ついとうする
5月1にち メーデー Día del Trabajador
5月25にち 最初さいしょ政府せいふ記念きねんする五月ごがつ革命かくめい記念きねん Primer Gobierno Nacional (Revolución de Mayo)
6がつだい3月曜日げつようび 国旗こっき Día de la Bandera
7がつ9にち 独立記念日どくりつきねんび Día de la Independencia
8がつだい3月曜日げつようび(8がつ17にち サン=マルティン将軍しょうぐん命日めいにち Muerte del general José de San Martín
10月12にち1 民族みんぞく Día de la Raza
12月8にち 原罪げんざい聖母せいぼ Inmaculada Concepción de María
12月25にち クリスマス Navidad

註1: もし該当がいとう火曜日かようび水曜日すいようびならばその直前ちょくぜん月曜日げつようび木曜日もくようび金曜日きんようびならばその直後ちょくご月曜日げつようび移動いどうする。

スポーツ 編集へんしゅう

サッカー 編集へんしゅう

 
ディエゴ・マラドーナ1986ねんメキシコWはい

アルゼンチン国内こくないではサッカー圧倒的あっとうてきに1ばん人気にんきスポーツとして君臨くんりんしており、世界せかいだたるサッカー大国たいこくとしてディエゴ・マラドーナリオネル・メッシ両雄りょうゆう筆頭ひっとう[62]サッカー史上しじょうのこめい選手せんしゅ数多かずおお輩出はいしゅつしている[63]。マラドーナやメッシ以外いがいにも著名ちょめい選手せんしゅとしてガブリエル・バティストゥータディエゴ・シメオネハビエル・サネッティワルテル・サムエルフアン・ロマン・リケルメセルヒオ・アグエロゴンサロ・イグアインアンヘル・ディ・マリアなどすうおおくのアルゼンチンじんヨーロッパビッグクラブ活躍かつやく歴史れきしいろどって[64][65]

 
サッカーアルゼンチン代表だいひょう2022ねんカタールWはい

アルゼンチンサッカー協会きょうかい(AFA)によって構成こうせいされるサッカーアルゼンチン代表だいひょうは、FIFAワールドカップ出場しゅつじょう常連じょうれんこくであり優勝ゆうしょう3かいじゅん優勝ゆうしょう3かいほこり、ブラジル代表だいひょうなら南米なんべい強豪きょうごうとして世界中せかいじゅうわたっている。アルゼンチンは、はつ自国じこく開催かいさいとなった1978ねんワールドカップ大会たいかいはつ優勝ゆうしょうたしている。コパ・アメリカにおいては、ウルグアイ代表だいひょうならんで大会たいかい最多さいた15優勝ゆうしょうかがやいている[66]。さらにU-23アルゼンチン代表だいひょうオリンピック出場しゅつじょう常連じょうれんこくであり、2004ねんアテネ五輪ごりんつづ2008ねん北京ぺきん五輪ごりんで「6せん全勝ぜんしょうでの連覇れんぱ」を達成たっせいしている[67]

1891ねんには国内こくないリーグのプリメーラ・ディビシオン創設そうせつされ、1986ねんには下部かぶリーグのプリメーラB・ナシオナル開始かいしされた。おもなクラブとしては、リーベル・プレートボカ・ジュニアーズラシン・クルブエストゥディアンテスサン・ロレンソなどがげられる。さらに南米なんべい大陸たいりくのクラブ王者おうじゃめるコパ・リベルタドーレスでは、インデペンディエンテ大会たいかい最多さいたとなる7優勝ゆうしょうげている。

テニス 編集へんしゅう

サッカーのつぎにはテニスさかんであり、テニスを国技こくぎしょうするスウェーデンならんで、1970年代ねんだいから現在げんざいいたるまで世界せかいのテニスかいをリードする存在そんざいである。1970年代ねんだい後半こうはんのギジェルモ・ビラスをはじめ、男女だんじょわず数多すうためい選手せんしゅ輩出はいしゅつしており、2004ねんぜんふつオープンにおいて、史上しじょうはつのアルゼンチンぜい同士どうし決勝けっしょうせんおこなわれている。最近さいきんもアルゼンチンぜいのテニスの躍進やくしん目覚めざましく、クレーコート以外いがいでも好成績こうせいせきのこ選手せんしゅ続出ぞくしゅつしている。

ラグビー 編集へんしゅう

ラグビーはロス・プーマス(Los Pumas)の愛称あいしょうしたしまれているアルゼンチン代表だいひょうが、強豪きょうごうこくやぶ実力じつりょくをつけてきている。伝統でんとうてき屈強くっきょうフォワードと、意外いがいせいのあるバックス選手せんしゅ輩出はいしゅつしている。1999ねんワールドカップではベスト8に進出しんしゅつしている。大会たいかいではスタンドオフのゴンサロ・ケサダが、安定あんていしたキックで得点とくてんおうにもかがやいた。2007ねんワールドカップでは開催かいさいこくフランス代表だいひょうを2くだし、3かがやいている。

ボクシング 編集へんしゅう

ボクシングにおいても、アルゼンチンはつ世界せかい王者おうじゃフライきゅうパスカル・ペレス1960年代ねんだいWBAWBC世界せかいフライきゅう王者おうじゃオラシオ・アカバリョジュニア・ウェルターきゅう世界せかい王者おうじゃニコリノ・ローチェ、1970年代ねんだいWBAWBC世界せかいミドルきゅう統一とういつ王者おうじゃカルロス・モンソンらを輩出はいしゅつしている。さらに、2000年代ねんだいにもフライきゅうオマール・ナルバエス長期ちょうき政権せいけんきずいている。女子じょしボクシングさかんであり、ジェシカ・ボップのような女子じょし王者おうじゃ輩出はいしゅつしている。

バスケットボール 編集へんしゅう

アルゼンチンではバスケットボールも、だい1かい世界せかい選手権せんしゅけん開催かいさいこくということもあって人気にんきたかく、マヌ・ジノビリファブリシオ・オベルトアンドレス・ノシオーニなどのNBAプレイヤーも輩出はいしゅつしている。さらに2004ねんアテネオリンピックでは、アルゼンチン代表だいひょう悲願ひがんきんメダルを獲得かくとくしている。FIBAアメリカップでは、これまでに2001ねん大会たいかい・2011ねん大会たいかい・2022ねん大会たいかいと、3優勝ゆうしょう達成たっせいしている。

科学かがく技術ぎじゅつ 編集へんしゅう

 
ルイス・フェデリコ・レロイル

化学かがく部門ぶもんで3にんノーベルしょう受賞じゅしょうしゃしている。ルイス・フェデリコ・レロイル(ルイ・ルロワール)はノーベル化学かがくしょう受賞じゅしょうしゃであり、この化学かがくしょうはラテンアメリカ全体ぜんたいでもはじめてのものだった。

ベルナルド・ウサイのようなすぐれた研究けんきゅうしゃのこした業績ぎょうせき伝統でんとうもあって、現在げんざいでも医療いりょう研究けんきゅうや、そのには原子力げんしりょく研究けんきゅうなどもすすんでいる。ほかにも、素粒子そりゅうし物理ぶつりがく指導しどうてき存在そんざいであるフアン・マルダセナがいる。

現在げんざい問題もんだいは、大学だいがく整備せいびおくれによる研究けんきゅう環境かんきょう不備ふびや、海外かいがいへの高学歴こうがくれきしゃ流出りゅうしゅつによる基礎きそ研究けんきゅう応用おうよう研究けんきゅう進展しんてんおくれていることなどである。

通信つうしんとメディア 編集へんしゅう

出版しゅっぱん 編集へんしゅう

 
クラリンほうじられたエバ・ペロン大統領だいとうりょう夫人ふじん葬儀そうぎ様子ようす今日きょうクラリンはスペインけんでもっともおお流通りゅうつうしている新聞しんぶんとなっている

アルゼンチンの印刷いんさつメディアは高度こうど発達はったつし、独立どくりつしている。200以上いじょう新聞しんぶん存在そんざいし、地元じもとまち地域ちいき影響えいきょうあたえている。さい主要しゅようはブエノスアイレスの中道ちゅうどうクラリン」であり、スペインけんでもっとも流通りゅうつうしている新聞しんぶんのうちのひとつとなっている。[よう出典しゅってん]そのほかの新聞しんぶんとしては1870ねん創設そうせつの「ラ・ナシオン」(中道右派ちゅうどううは)、Página/12左派さは)、アンビト・フィナンシエロ保守ほしゅビジネス), ドイツ新聞しんぶんArgentinisches Tageblatt 、スペインフランス語ふらんすご発行はっこうされるLe Monde Diplomatiqueクロニカ (ポピュリズム)。地方ちほうとして重要じゅうようなのは「ラ・カピタル」(ロサリオ)、「ロス・アンデス」(メンドーサ)、「内陸ないりくこえ」(コルドバ)、「エル・トリブノ」(サルタ)など。ブエノス・アイレス・ヘラルドは主要しゅよう日刊にっかん英字えいじ新聞しんぶんである。

アルゼンチンの出版しゅっぱんぎょうはスペイン・メキシコといったスペインけん主要しゅようこく出版しゅっぱんぎょうとともにある。アルゼンチンには、エル・アテネオやジェニーといった、独立どくりつし、豊富ほうふ在庫ざいこかかえたラテンアメリカ最大さいだいきゅう書店しょてんのチェーンがある。英語えいごやその言語げんごによる書籍しょせきおお流通りゅうつうしている。雑多ざった趣味しゅみ領域りょういきをカバーした100をえる雑誌ざっし出版しゅっぱんされ、書店しょてん街頭がいとうのキオスクで販売はんばいされている。

ラジオとテレビ 編集へんしゅう

 
ブエノスアイレスの公共こうきょう放送ほうそうきょくカナル7。アルゼンチンのテレビ放映ほうえい開始かいしは1951ねんで、ラテンアメリカはつだった

アルゼンチンはラジオ放送ほうそうはじめた国家こっかのパイオニアだった。1920ねん8がつ27にちSociedad Radio Argentinaは「われわれはいま、ブエノスアイレスの下町したまちのコリセオ劇場げきじょうからのリヒャルト・ワーグナーのパルジファルオペラの実演じつえんをあなたのいえおくっています」と発表はっぴょうした。もっとも市内しないの20家庭かていしかラジオ受信じゅしん所持しょじしていなかった。世界せかいはつ放送ほうそうきょくはそのときからRadio Culturaが放送ほうそうされるようになる1922ねんまで、アルゼンチン唯一ゆいいつのラジオきょくだった。その、1925ねんまでに12きょくがブエノスアイレスに、10きょくがそのほかの都市とし開設かいせつされた。1930年代ねんだいはバラエティ、ニュース、ソープオペラ、スポーツなどアルゼンチンのラジオにとって「黄金おうごん時代じだい」だった[68]

現在げんざいアルゼンチンでは1,500以上いじょうのラジオきょく認可にんかされている。260きょくがAMきょくであり、1150きょくがFMきょくである。[よう出典しゅってん] ラジオはアルゼンチンでは重要じゅうようなメディアとなっている。音楽おんがく若者わかもの文化ぶんか番組ばんぐみがFM放送ほうそう支配しはいしており、ニュース・討論とうろん・スポーツはAM放送ほうそう内容ないようとしてだいいちる。ラジオはいまだに情報じょうほう、エンターテインメント、さらにさい遠隔えんかくのコミュニティーにおける人命じんめい救助きゅうじょにさえ重要じゅうようなサービスとして役立やくだっている。

アルゼンチンのテレビ業界ぎょうかいおおきく多様たようであり、ラテンアメリカでひろられていると同時どうじ世界中せかいじゅうることができる。おおくのローカル番組ばんぐみ他国たこく放送ほうそうされ、そのほかは外国がいこくじんのプロデューサーが市場いちば権利けんりっている。アルゼンチンには5つの主要しゅようネットワークがある。すべての地方ちほう主要しゅよう都市とし大都市だいとしには、すくなくとも1つの地方ちほうきょくがある。アルゼンチンではきたアメリカとほぼおなじぐらいのパーセンテージでケーブルテレビと衛星えいせい放送ほうそう浸透しんとうしている[69]。ケーブルネットワークはアルゼンチンとほかのスペインけんからもたらされ、ウルティマ・サテリタル、TyCスポーツ、スペインFoxスポーツ(合衆国がっしゅうこく、メキシコも同様どうよう)、MTVアルヘンティーナ、コスモポリタンTV、およびニュースネットワークのトド・ノティシアスなどがある。

くに象徴しょうちょう 編集へんしゅう

 
アメリカデイゴはな
 
アルゼンチンの帽章ぼうしょう

アルゼンチン共和きょうわこく象徴しょうちょうとなっているものを列挙れっきょする。

著名ちょめい出身しゅっしんしゃ 編集へんしゅう

脚注きゃくちゅう 編集へんしゅう

注釈ちゅうしゃく 編集へんしゅう

  1. ^ 現行げんこう憲法けんぽうだい35じょうによると、リオ・デ・ラ・プラタ連合れんごうしゅうアルゼンチン連合れんごうといった歴史れきしてき国名こくめいもまた正式せいしき国名こくめいとされている。
  2. ^ 貧民ひんみんす。直訳ちょくやくすれば「シャツなし」だが、ここでは「上着うわぎなし」の

出典しゅってん 編集へんしゅう

  1. ^ a b UNdata”. 国連こくれん. 2021ねん10がつ11にち閲覧えつらん
  2. ^ a b c d e World Economic Outlook Database” (英語えいご). IMF. 2021ねん10がつ16にち閲覧えつらん
  3. ^ 増田ますだ義郎よしお略奪りゃくだつうみ カリブ』岩波いわなみ文庫ぶんこ岩波いわなみ新書しんしょしんあかばん75)、1989ねん6がつ p.214
  4. ^ アルゼンチン、「デフォルト危機きき」の顛末てんまつ」。2014ねん8がつ23にち東洋経済新報社とうようけいざいしんぽうしゃ。2014ねん8がつ26にち閲覧えつらん
  5. ^ アルゼンチン、デフォルトした場合ばあい影響えいきょうは? 2014ねん7がつ30にち 9:25 AFP BBニュース
  6. ^ アルゼンチン大統領だいとうりょうせん右派うは野党やとうマクリ勝利しょうり 経済けいざい自由じゆううった」『Reuters』、2015ねん11月23にち2022ねん7がつ20日はつか閲覧えつらん
  7. ^ “アルゼンチンからいてきた中南米ちゅうなんべい左派さは政権せいけん終焉しゅうえんふう. ニューズウィーク. (2015ねん12月10にち). http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2015/12/post-4230.php 2015ねん12月11にち閲覧えつらん 
  8. ^ “アルゼンチン大統領だいとうりょうせん、フェルナンデス圧勝あっしょう 左派さは政権せいけん復活ふっかつへ”. ロイタろいた通信つうしん. (2019ねん10がつ28にち). https://jp.reuters.com/article/argentina-election-idJPKBN1X60U2 2019ねん10がつ29にち閲覧えつらん 
  9. ^ アルゼンチン、9かいのデフォルト-債権さいけんしゃとの交渉こうしょう継続けいぞく”. ブルームバーグ (2020ねん5がつ23にち). 2020ねん5がつ22にち閲覧えつらん
  10. ^ BRICS、サウジやイランが加盟かめいへ-24ねんから11カ国かこく体制たいせい”. bloomberg (2023ねん8がつ24にち). 2023ねん10がつ28にち閲覧えつらん
  11. ^ “BRICS「加盟かめい」を決定けってい アルゼンチン、書簡しょかん伝達でんたつ. 47NEWS. 共同通信社きょうどうつうしんしゃ. (2023ねん12月30にち). https://www.47news.jp/10330726.html 2023ねん12月30にち閲覧えつらん 
  12. ^ AFP BB NEWS アルゼンチン、スペイン石油せきゆ大手おおて傘下さんかYPFを実質じっしつ国営こくえい 2014ねん閲覧えつらん
  13. ^ 外務省がいむしょう 岸田きしだ総理そうり大臣だいじんはつミレイ・アルゼンチン共和きょうわこく次期じき大統領だいとうりょうあて祝辞しゅくじ発出はっしゅつ”. 2023ねん11月21にち閲覧えつらん
  14. ^ アルゼンチンの農林のうりん水産すいさんぎょう概況がいきょう”. 農林水産省のうりんすいさんしょう (2017ねん7がつ3にち). 2018ねん4がつ8にち閲覧えつらん
  15. ^ 世界せかい大豆だいず需給じゅきゅう予測よそく(2021ねん9がつ)|のう畜産ちくさんぎょう振興しんこう機構きこう”. のう畜産ちくさんぎょう振興しんこう機構きこう. 2022ねん12月13にち閲覧えつらん
  16. ^ 2021/22年度ねんど世界せかいのトウモロコシ生産せいさんりょう前年度ぜんねんどからかなりの程度ていど増加ぞうかする見込みこみ|のう畜産ちくさんぎょう振興しんこう機構きこう”. のう畜産ちくさんぎょう振興しんこう機構きこう. 2022ねん12月13にち閲覧えつらん
  17. ^ アルゼンチンの主要しゅよう産業さんぎょう(2021ねん7がつ”. JETRO. 2021ねん11月29にち閲覧えつらん
  18. ^ 2009ねん以降いこう動物どうぶつ飼料しりょう・ヘルシー雑穀ざっこくとして生産せいさんされている。こう酸化さんか作用さよう研究けんきゅうにも活用かつようされている。
  19. ^ アルゼンチンの家畜かちく畜産ちくさんぶつ生産せいさんりょう 統計とうけいデータ”. GLOBAL NOTE. 2022ねん12月13にち閲覧えつらん
  20. ^ アルゼンチンの主要しゅよう産業さんぎょう(2021ねん7がつ”. JETRO. 2022ねん11月29にち閲覧えつらん
  21. ^ (キッズ外務省がいむしょう面積めんせきおおきいくに外務省がいむしょう”. www.mofa.go.jp. 2022ねん12月13にち閲覧えつらん
  22. ^ 資源しげん投資とうし誘致ゆうち改革かいかく路線ろせん拡張かくちょう/”. 日本にっぽんアルゼンチン協会きょうかい (2018ねん). 2019ねん9がつ4にち閲覧えつらん
  23. ^ アルゼンチンの主要しゅよう産業さんぎょう(2021ねん7がつ”. JETRO ブエノスアイレス事務所じむしょ. 2022ねん11月29にち閲覧えつらん
  24. ^ アルゼンチンの主要しゅよう産業さんぎょう(2021ねん7がつ”. JETRO ブエノスアイレス事務所じむしょ. 2022ねん11月29にち閲覧えつらん
  25. ^ 2020ねん自動車じどうしゃ生産せいさん販売はんばい輸出ゆしゅつともに減少げんしょう(アルゼンチン) | 地域ちいき分析ぶんせきレポート - 海外かいがいビジネス情報じょうほう”. ジェトロ. 2022ねん12月13にち閲覧えつらん
  26. ^ アルベルト松本まつもと『アルゼンチンをるための54しょう明石書店あかししょてん、2005ねん p.202
  27. ^ アルベルト松本まつもと『アルゼンチンをるための54しょう明石書店あかししょてん、2005ねん p.199
  28. ^ アルゼンチンの貧困ひんこんりつは44.2%、さらなる悪化あっか懸念けねん”. JETRO (2020ねん12月14にち). 2020ねん12月30にち閲覧えつらん
  29. ^ 山木やまきシルビア: “10月はインフレさい加速かそく年率ねんりつ88.0%ぞうあらたな価格かかく凍結とうけつ制度せいど導入どうにゅう(アルゼンチン) | ビジネス短信たんしん ―ジェトロの海外かいがいニュース”. ジェトロ (2022ねん11月28にち). 2022ねん11月28にち閲覧えつらん
  30. ^ 山木やまきシルビア: “8がつのインフレりつ年率ねんりつ78.5%に、年末ねんまつには100%えの予測よそくも(アルゼンチン) | ビジネス短信たんしん ―ジェトロの海外かいがいニュース”. ジェトロ (2022ねん9がつ21にち). 2022ねん11月28にち閲覧えつらん
  31. ^ 山木やまきシルビア: “こうインフレによる実質じっしつ所得しょとく低下ていかで2022ねん上半期かみはんき極貧ごくひんりつ悪化あっか(アルゼンチン) | ビジネス短信たんしん ―ジェトロの海外かいがいニュース”. ジェトロ (2022ねん10がつ11にち). 2022ねん11月28にち閲覧えつらん
  32. ^ アルゼンチンの統計とうけいデータ”. GLOBAL NOTE. 2023ねん1がつ12にち閲覧えつらん
  33. ^ GDP (constant 2015 US$)”. THE WORLD BANK. 2023ねん1がつ12にち閲覧えつらん
  34. ^ 世界せかい名目めいもくGDP こくべつランキング・推移すいい(IMF)”. GLOBAL NOTE. 2023ねん1がつ12にち閲覧えつらん
  35. ^ a b c 海外かいがい調査ちょうさ・ブエノスアイレス事務所じむしょ (2022ねん8がつ30にち). “世界せかい貿易ぼうえき投資とうし動向どうこうシリーズ アルゼンチン”. JETRO. 2023ねん1がつ12にち閲覧えつらん
  36. ^ 山木やまきシルビア (2022ねん2がつ1にち). “2021ねん輸出ゆしゅつ大幅おおはばぞうで147おくドルちょう貿易ぼうえき黒字くろじに(アルゼンチン)”. JETRO. 2023ねん1がつ12にち閲覧えつらん
  37. ^ 財務省ざいむしょう貿易ぼうえき統計とうけい検索けんさくページ) :財務省ざいむしょう貿易ぼうえき統計とうけい Trade Statistics of Japan”. www.customs.go.jp. 2023ねん1がつ12にち閲覧えつらん
  38. ^ Infrasturcture. Argentina. National Economies Encyclopedia
  39. ^ Argentina - MSN Encarta
  40. ^ The World Factbook — Central Intelligence Agency” (英語えいご). cia.gov (2017ねん1がつ1にち). 2017ねん1がつ1にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2024ねん3がつ22にち閲覧えつらん
  41. ^ La república digital. “Se dará inicio a las obras de la Autopista Mesopotámica”. 2008ねん6がつ3にち閲覧えつらん
  42. ^ Buenos Aires Transport Subway
  43. ^ Argentina
  44. ^ CIA - The World Factbook - Argentina
  45. ^ Henguy, Silvina. “El 56% de los argentinos tiene antepasados indígenas” (Spanish). Clarin.com. http://www.clarin.com/diario/2005/01/16/sociedad/s-03415.htm 2007ねん11月7にち閲覧えつらん 
  46. ^ a b c d e f g h i j k 松下まつしたマルタ「アルゼンチン文化ぶんか諸相しょそう」『ラテンアメリカじん社会しゃかい中川なかがわ文雄ふみお三田みた千代子ちよこへんしん評論ひょうろん、1995ねん10がつ
  47. ^ アルベルト松本まつもと『アルゼンチンをるための54しょう明石書店あかししょてん、2005ねん pp.106-111
  48. ^ [1]
  49. ^ 津田つだ正夫まさお 『ボカ共和きょうわこく見聞けんぶん られざるアルゼンチン』(中公ちゅうこう文庫ぶんこ、1984ねん
  50. ^ a b 浩子ひろこ「ラテンアメリカのユダヤじん」『ラテンアメリカじん社会しゃかい中川なかがわ文雄ふみお三田みた千代子ちよこへんしん評論ひょうろん、1995ねん10がつ
  51. ^ 国本くにもと伊代いよ近代きんだいヨーロッパ移民いみんとラテンアメリカ」『ラテンアメリカじん社会しゃかい中川なかがわ文雄ふみお三田みた千代子ちよこへんしん評論ひょうろん、1995ねん10がつ
  52. ^ グラフでるアルゼンチンの都市とし人口じんこうおおい?すくない?”. GraphToChart. 2022ねん12がつ20日はつか閲覧えつらん
  53. ^ アルベルト松本まつもと『アルゼンチンをるための54しょう明石書店あかししょてん、2005ねん p.175
  54. ^ 奥山おくやま恭子きょうこ家族かぞく国家こっか-ほう制度せいどからみたラテンアメリカの家族かぞく」『ラテンアメリカ家族かぞく社会しゃかい』(しん評論ひょうろん、1992ねん
  55. ^ a b Kokusai jōhō daijiten : Pasupo = Paspo.. Gakushū Kenkyūsha, 学習がくしゅう研究けんきゅうしゃ. (Shohan ed.). Tōkyō: Gakken. (1992). ISBN 4-05-106027-6. OCLC 31669709. https://www.worldcat.org/oclc/31669709 
  56. ^ https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/ar.html 2009ねん3がつ30にち閲覧えつらん
  57. ^ 『アルゼンチン、全面ぜんめんてき危機きき突入とつにゅう』ル・モンド・ディプロマティーク日本語にほんごばん2002ねん1がつごう カルロス・ガベッタ(Carlos Gabetta) ル・モンド・ディプロマティーク南米なんべい南部なんぶばん編集へんしゅうちょう/北浦きたうら春香はるかやく 2009ねん3がつ30にち閲覧えつらん
  58. ^ アルベルト松本まつもと『アルゼンチンをるための54しょう明石書店あかししょてん、2005ねん pp.158-164
  59. ^ アルベルト松本まつもと『アルゼンチンをるための54しょう明石書店あかししょてん、2005ねん pp.165-170
  60. ^ マテちゃ | 成分せいぶん情報じょうほう”. わかさの秘密ひみつ. 2022ねん12がつ20日はつか閲覧えつらん
  61. ^ Hanakoだい1040ごうマガジンハウス、126ぺーじ、2013ねん 
  62. ^ メッシが最多さいた記録きろく更新こうしん、7度目どめのバロンドール受賞じゅしょう! レヴァンドフスキやジョルジーニョらおさえる サッカーキング 2022ねん10がつ3にち閲覧えつらん
  63. ^ えい『ワールド・サッカー』史上しじょうグレーテストゴール:トップ10”. World Cup's World. http://members.jcom.home.ne.jp/wcup/WORLDSOCCERGreatest.htm 2010ねん11月4にち閲覧えつらん 
  64. ^ アグエロ、プレミアしん記録きろく通算つうさん124ゴールに! 欧州おうしゅう圏外けんがい選手せんしゅ最多さいた得点とくてん更新こうしん” (2017ねん9がつ10日とおか). 2017ねん11月12にち閲覧えつらん
  65. ^ “シアラー&アンリの記録きろく更新こうしん!アグエロ「これからもゴールをうばつづけたい」”. フットボールゾーンウェブ. (2019ねん2がつ4にち). https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200113-00010010-goal-socc 2020ねん1がつ13にち閲覧えつらん 
  66. ^ メッシ、5度目どめ決勝けっしょうせん悲願ひがん代表だいひょうはつタイトル…!アルゼンチンがブラジルおろし28ねんぶりコパ・アメリカ制覇せいは”. ゴールコム (2021ねん7がつ11にち). 2021ねん7がつ11にち閲覧えつらん
  67. ^ アルゼンチン男子だんし ナイジェリアおろ五輪ごりん2連覇れんぱ AFP BB News、2008ねん8がつ23にち
  68. ^ Radio With a Past in Argentina Don Moore
  69. ^ Homes with Cable TV in Latin America Trends in Latin American networking

参考さんこう文献ぶんけん 編集へんしゅう

学術がくじゅつ
歴史れきし
政治せいじ
地理ちり
経済けいざい
社会しゃかい
文化ぶんか
ジャーナリズム
総合そうごう
紀行きこう

関連かんれん項目こうもく 編集へんしゅう

外部がいぶリンク 編集へんしゅう

政府せいふ

日本にっぽん政府せいふ

観光かんこう

その

座標ざひょう: 南緯なんい3436ふん 西経せいけい5823ふん / 南緯なんい34.600 西経せいけい58.383 / -34.600; -58.383