パタゴニア の手 て の洞窟 どうくつ
アイマラ人 じん が15世紀 せいき に築 きず いた、アルゼンチン北西 ほくせい 部 ぶ フフイ州 しゅう ティルカラ (英語 えいご 版 ばん ) にあるティルカラのプカラ (英語 えいご 版 ばん ) (石壁 いしかべ )
アルゼンチンの最初 さいしょ の住民 じゅうみん は、紀元前 きげんぜん 11000年 ねん にベ べ ーリング海 りんぐかい 峡 かい を渡 わた ってアジア からやって来 き た人々 ひとびと だった。彼 かれ らは現在 げんざい パタゴニアに残 のこ る「手 て の洞窟 どうくつ 」を描 えが いた人々 ひとびと であった。
その後 ご 、15世紀 せいき 後半 こうはん に現 げん ペルー のクスコ を中心 ちゅうしん に発展 はってん したケチュア人 じん の国家 こっか クスコ王国 おうこく (1197年 ねん - 1438年 ねん )は、タワンティンスーユ (インカ帝国 ていこく 、1438年 ねん - 1533年 ねん )の皇帝 こうてい トゥパック・インカ・ユパンキ とワイナ・カパック によって征服 せいふく され、北西 ほくせい 部 ぶ のアンデス山脈 あんですさんみゃく 地域 ちいき はタワンティンスーユに編入 へんにゅう された。征服 せいふく された地域 ちいき はタワンティンスーユ内 ない の4州 しゅう の内 うち の1州 しゅう 、コジャ・スウユ (ケチュア語 ご : Colla Suyo 、「南 みなみ 州 しゅう 」)の辺境 へんきょう の地 ち となり、30万 まん 人 にん ほどのケチュア人 じん やアイマラ人 じん が住 す むようになった。アルゼンチンにおけるコジャ・スウユの領域 りょういき は北 きた は現在 げんざい のフフイ州 しゅう から南 みなみ はメンドーサ州 しゅう 、東 ひがし はサンティアゴ・デル・エステロ州 しゅう の北部 ほくぶ にまで広 ひろ がっていた。その一方 いっぽう でインカ帝国 ていこく の権威 けんい が及 およ ばなかったチャコ やパンパ やパタゴニア には、チャルーア人 じん のような狩猟 しゅりょう インディヘナ がおもに居住 きょじゅう しており、パンパやチャコにもグアラニー人 じん のような粗放 そほう な農耕 のうこう を営 いとな むインディヘナがいたが、全般 ぜんぱん 的 てき にこの地域 ちいき に住 す む人間 にんげん の数 かず は少 すく なかった。
スペイン植民 しょくみん 地 ち 時代 じだい
編集 へんしゅう
16世紀 せいき に入 はい ると、1516年 ねん にスペイン の探検 たんけん 家 か 、フアン・ディアス・デ・ソリス が最初 さいしょ のヨーロッパ 人 ひと としてこの地 ち を訪 おとず れたが、すぐに先住民 せんじゅうみん といさかいを起 お こし、まもなく殺害 さつがい された。その後 ご もスペインによってこの地域 ちいき の植民 しょくみん 地 ち 化 か は進 すす められた。1536年 ねん にラ・プラタ川 がわ の上流 じょうりゅう にあると思 おも われた「銀 ぎん の山 やま 」を攻 せ めるために、バスク人 じん 貴族 きぞく のペドロ・デ・メンドーサ (英語 えいご 版 ばん ) 率 ひき いる植民 しょくみん 団 だん によって、ラ・プラタ川 がわ の河口 かこう にヌエストラ・セニョーラ・サンタ・マリア・デル・ブエン・アイレ 市 し が建設 けんせつ されたが、まもなくインディヘナの激 はげ しい攻撃 こうげき に遭 あ って放棄 ほうき され、以後 いご 200年 ねん ほどラ・プラタ地域 ちいき の中心 ちゅうしん は、1559年 ねん にアウディエンシア の設置 せっち されたパラグアイ のアスンシオン となった。
植民 しょくみん 地 ち 政策 せいさく の伸展 しんてん に伴 ともな ってペルー副 ふく 王 おう 領 りょう の一部 いちぶ に組 く み込 こ まれたこの地 ち は、ペルー 方面 ほうめん からアンデス地域 ちいき を軸 じく に開拓 かいたく が進 すす み、1553年 ねん には現存 げんそん するアルゼンチン最古 さいこ の都市 とし サンティアゴ・デル・エステロ が建設 けんせつ された。アスンシオンからの内陸 ないりく 部 ぶ 開発 かいはつ も盛 さか んになり、1580年 ねん には放棄 ほうき されたブエノスアイレスが再建 さいけん されたが、それでもこの地域 ちいき はベネズエラ などと並 なら んでイスパノアメリカ ではもっとも開発 かいはつ の遅 おく れた地域 ちいき だった。また、1541年 ねん に放 はな された12頭 とう の馬 うま がパンパ の牧草 ぼくそう を食 た べて自然 しぜん に大 だい 繁殖 はんしょく したこともあり、いつしかガウチョ が現 あらわ れるようになっていった。同 おな じようにして繁殖 はんしょく した牛 うし は、19世紀 せいき の始 はじ めにはラ・プラタ地域 ちいき 全体 ぜんたい で2,000万 まん 頭 とう ほどいたといわれている(ちなみにこのころの人口 じんこう はアルゼンチン・ウルグアイ・パラグアイをあわせても100万 まん 人 にん を超 こ えないほどだった)。植民 しょくみん 地 ち 政策 せいさく の経過 けいか により、当初 とうしょ は大西洋 たいせいよう 岸 がん よりも内陸 ないりく 部 ぶ の発展 はってん が早 はや かった。1613年 ねん には内陸 ないりく のコルドバ にコルドバ大学 だいがく が建設 けんせつ され、以降 いこう 19世紀 せいき までコルドバは南米 なんべい 南部 なんぶ の学問 がくもん の中心 ちゅうしん となった。18世紀 せいき にはグアラニー戦争 せんそう (英語 えいご 版 ばん ) などに代表 だいひょう されるように、ポルトガル領 りょう ブラジル (英語 えいご 版 ばん ) 方面 ほうめん から攻撃 こうげき を続 つづ けるポルトガル との小競 こぜ り合 あ いが続 つづ き、スペイン当局 とうきょく がバンダ・オリエンタル (現在 げんざい のウルグアイ )を防衛 ぼうえい するためもあって、1776年 ねん にペルー副 ふく 王 おう 領 りょう からリオ・デ・ラ・プラタ副 ふく 王 おう 領 りょう が分離 ぶんり されると、ブエノスアイレスは副 ふく 王 おう 領 りょう の首府 しゅふ となって正式 せいしき に開港 かいこう され、イギリスをはじめとするヨーロッパ諸国 しょこく との密 みつ 貿易 ぼうえき により空前 くうぜん の繁栄 はんえい を遂 と げた。しかし、この時点 じてん においてアルゼンチンの産業 さんぎょう の中心 ちゅうしん は北西 ほくせい 部 ぶ のトゥクマン や中央 ちゅうおう 部 ぶ のコルドバであり、リトラル 地域 ちいき やブエノスアイレスには見 み るべき工業 こうぎょう はなかった。このブエノスアイレス港 こう の正式 せいしき 開港 かいこう は、のちに植民 しょくみん 地 ち 時代 じだい に繁栄 はんえい していた内陸 ないりく 部 ぶ 諸 もろ 州 しゅう に恐 おそ ろしい打撃 だげき をもたらすことになった。
独立 どくりつ 戦争 せんそう と内戦 ないせん
編集 へんしゅう
五月 ごがつ 革命 かくめい の実行 じっこう 者 しゃ の一人 ひとり となったブエノスアイレスの代表 だいひょう 者 しゃ マヌエル・ベルグラーノ 。アルゼンチンの国旗 こっき の制定 せいてい 者 しゃ でもある
1806年 ねん 、1807年 ねん の2度 ど にわたるイギリス軍 ぐん のラプラタ侵略 しんりゃく (英語 えいご 版 ばん ) を打 う ち破 やぶ ったあと、スペインからの解放 かいほう と自由 じゆう 貿易 ぼうえき を求 もと めたポルテーニョは1810年 ねん 5月 がつ 25日 にち に五月 ごがつ 革命 かくめい を起 お こし、ブエノスアイレスは自治 じち を宣言 せんげん した。しかしラ・プラタ副 ふく 王 おう 領 りょう のパラグアイ 、バンダ・オリエンタル 、アルト・ペルー 、コルドバ はブエノスアイレス主導 しゅどう の自治 じち に賛成 さんせい しなかった。ブエノスアイレス政府 せいふ は各地 かくち に軍 ぐん を送 おく り、コルドバを併合 へいごう することには成功 せいこう したものの、1811年 ねん のマヌエル・ベルグラーノ 将軍 しょうぐん のパラグアイ攻略 こうりゃく (スペイン語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) は失敗 しっぱい した。1813年 ねん のサンロレンソの戦 たたか い にも勝利 しょうり するとスペイン王 おう 党派 とうは 軍 ぐん との戦 たたか いは本格 ほんかく 化 か する。王 おう 党派 とうは の支配 しはい していたアルト・ペルー攻略 こうりゃく (第 だい 一 いち 次 じ アルト・ペルー攻略 こうりゃく (スペイン語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) 、第 だい 二 に 次 じ アルト・ペルー攻略 こうりゃく (スペイン語 ご 版 ばん ) )は失敗 しっぱい した。
シモン・ボリーバル と並 なら ぶラテンアメリカ の解放 かいほう 者 しゃ 、ホセ・デ・サン・マルティン
スペイン語 ご とケチュア語 ご で書 か かれた南 みなみ アメリカ連合 れんごう 州 しゅう の独立 どくりつ 宣言 せんげん
独立 どくりつ 戦争 せんそう が難航 なんこう する中 なか 、1816年 ねん 7月 がつ 9日 にち にはトゥクマンの議会 ぎかい (英語 えいご 版 ばん ) で南 みなみ アメリカ連合 れんごう 州 しゅう として正式 せいしき に独立 どくりつ を宣言 せんげん したが、まだこの時点 じてん では独立 どくりつ の方向 ほうこう も定 さだ まっておらず、インカ皇帝 こうてい を復活 ふっかつ させて立憲 りっけん 君主 くんしゅ 制 せい を導入 どうにゅう しようとしていたベルグラーノ将軍 しょうぐん のような人物 じんぶつ から、ホセ・アルティーガス (英語 えいご 版 ばん ) のようにアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく のような連邦 れんぽう 共和 きょうわ 制 せい を求 もと める勢力 せいりょく もあり、ブエノスアイレスは自由 じゆう 貿易 ぼうえき 、貿易 ぼうえき 独占 どくせん を求 もと めるなど、独立 どくりつ 諸派 しょは の意見 いけん はまったく一致 いっち していなかった。ベルグラーノ将軍 しょうぐん が第 だい 三 さん 次 じ アルト・ペルー攻略 こうりゃく (スペイン語 ご 版 ばん ) に失敗 しっぱい し、北部 ほくぶ 軍 ぐん (スペイン語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) 司令 しれい 官 かん を辞任 じにん すると、後 ご を継 つ いだアンデス軍 ぐん (英語 えいご 版 ばん ) 司令 しれい 官 かん のホセ・デ・サン・マルティン 将軍 しょうぐん がアンデス山脈 あんですさんみゃく 越 こ え(英語 えいご 版 ばん ) を行 おこな い、王 おう 党派 とうは の牙城 がじょう リマ を攻略 こうりゃく するために遠征 えんせい を重 かさ ね、王 おう 党派 とうは 軍 ぐん を破 やぶ ってチリ (チャカブコの戦 たたか い (英語 えいご 版 ばん ) 、マイプーの戦 たたか い (英語 えいご 版 ばん ) )、解放 かいほう 者 しゃ シモン・ボリーバル のコロンビア共和 きょうわ 国 こく 解放 かいほう 軍 ぐん から派遣 はけん されたアントニオ・ホセ・デ・スクレ がペルー (アヤクーチョの戦 たたか い (英語 えいご 版 ばん ) )を解放 かいほう していったが、本国 ほんごく ではブエノスアイレスの貿易 ぼうえき 独占 どくせん に反対 はんたい する東方 とうほう 州 しゅう やリトラル三 さん 州 しゅう のアルティーガス派 は (連邦 れんぽう 同盟 どうめい )とブエノスアイレス(トゥクマン議会 ぎかい 派 は )の対立 たいりつ が激 はげ しさを増 ま し、内戦 ないせん が続 つづ いた。内戦 ないせん の末 すえ 、1821年 ねん にプエイレドン (英語 えいご 版 ばん ) が失脚 しっきゃく すると中央 ちゅうおう 政府 せいふ は崩壊 ほうかい したが、中央 ちゅうおう 政府 せいふ が存在 そんざい しないことは外交 がいこう 上 じょう 不利 ふり であったため、各州 かくしゅう の妥協 だきょう により1825年 ねん にブエノスアイレス州 しゅう が連合 れんごう 州 しゅう の外交 がいこう 権 けん を持 も つことを認 みと められた。
その後 ご 、ブエノスイアレスと敵対 てきたい していた東方 とうほう 州 しゅう がポルトガル・ブラジル連合 れんごう 王国 おうこく に併合 へいごう されたことをブエノスアイレスが見過 みす ごしたことへの批判 ひはん が強 つよ まり、33人 にん の東方 とうほう 人 じん を率 ひき いて独立 どくりつ 運動 うんどう を開始 かいし したフアン・アントニオ・ラバジェハ (英語 えいご 版 ばん ) 将軍 しょうぐん のバンダ・オリエンタル潜入 せんにゅう から、かの地 ち をめぐって1825年 ねん にブラジル帝国 ていこく との間 あいだ にブラジル戦争 せんそう が始 はじ まった。この戦争 せんそう に際 さい して挙国一致 きょこくいっち が図 はか られ、ベルナルディーノ・リバダビア (英語 えいご 版 ばん ) を首班 しゅはん とした中央 ちゅうおう 政府 せいふ が一時 いちじ 的 てき に成立 せいりつ し、このときに国名 こくめい をリオ・デ・ラ・プラタ からアルヘンティーナ に改名 かいめい したが、戦争 せんそう の最中 さいちゅう に制定 せいてい された中央 ちゅうおう 集権 しゅうけん 憲法 けんぽう と、ブエノスアイレスを正式 せいしき に首都 しゅと と定 さだ める首都 しゅと 令 れい が国内 こくない のすべての層 そう の反発 はんぱつ を受 う けると、リバダビアは失脚 しっきゃく し、再 ふたた び中央 ちゅうおう 政府 せいふ は消滅 しょうめつ した。戦局 せんきょく はアルゼンチン有利 ゆうり に進 すす んだが、内政 ないせい の混乱 こんらん が災 わざわ いし、最終 さいしゅう 的 てき にはイギリスの介入 かいにゅう によってバンダ・オリエンタル を独立 どくりつ 国 こく とするモンテビデオ条約 じょうやく が結 むす ばれ、1828年 ねん にウルグアイ東方 とうほう 共和 きょうわ 国 こく が独立 どくりつ した。そしてこの地 ち を以後 いご 再 ふたた びアルゼンチンが奪回 だっかい することはなかった。
ブエノスアイレス州 しゅう 知事 ちじ にして「独裁 どくさい 王 おう 」フアン・マヌエル・デ・ロサス 。批判 ひはん されることが多 おお いが、パンパ を代表 だいひょう とするアルゼンチンのもうひとつの精神 せいしん を体現 たいげん していた人物 じんぶつ である。1835年 ねん から1852年 ねん まで鉄 てつ の統治 とうち を敷 し いた
ロサス時代 じだい の国旗 こっき
ブラジルに対 たい しての実質 じっしつ 的 てき な敗戦 はいせん の影響 えいきょう もあって連邦 れんぽう 派 は と統一 とういつ 派 は の戦 たたか いは激化 げきか する。1829年 ねん に統一 とういつ 派 は のブエノスアイレス州 しゅう 知事 ちじ フアン・ラバージェ (英語 えいご 版 ばん ) を打倒 だとう した連邦 れんぽう 派 は のフアン・マヌエル・デ・ロサス が州 しゅう 知事 ちじ になると、ロサスはリトラル3州 しゅう のカウディージョ と同盟 どうめい を結 むす んで1831年 ねん 11月に中央 ちゅうおう 集権 しゅうけん 同盟 どうめい を破 やぶ り、ほぼ全 ぜん アルゼンチンの指導 しどう 者 しゃ となった。この時期 じき には中央 ちゅうおう 政府 せいふ こそ作 つく られなかったもののアルゼンチン連合 れんごう が成立 せいりつ し、以降 いこう 内戦 ないせん はしばらくの小康 しょうこう 状態 じょうたい に入 はい った。ロサスは1832年 ねん に州 しゅう 知事 ちじ を辞 じ すると、「荒野 あらの の征服 せいふく 作戦 さくせん (英語 えいご 版 ばん ) 」で敵対 てきたい していたパンパ のインディヘナ を今日 きょう のブエノスアイレス州 しゅう の領域 りょういき から追 お い出 だ して征服 せいふく した土地 とち を部下 ぶか に分 わ け与 あた え、大 だい 土地 とち 所有 しょゆう 制 せい を強化 きょうか した。
1835年 ねん にラ・リオハ州 しゅう を中心 ちゅうしん とした内陸 ないりく 部 ぶ の連邦 れんぽう 派 は の指導 しどう 者 しゃ 、フアン・ファクンド・キロガ (英語 えいご 版 ばん ) が暗殺 あんさつ されると再 ふたた びアルゼンチン全土 ぜんど に内戦 ないせん の危機 きき が訪 おとず れた。この際 さい のロサスの妻 つま のドーニャ・エンカルナシオン (英語 えいご 版 ばん ) のクーデターもあり、最終 さいしゅう 的 てき にはブエノスアイレス州 しゅう 議会 ぎかい に請 こ われてロサスは1835年 ねん に再 ふたた びブエノスアイレス州 しゅう 知事 ちじ に返 かえ り咲 ざ いた。以降 いこう のロサスの政治 せいじ は恐怖 きょうふ 政治 せいじ を敷 し き、統一 とういつ 派 は だと見 み られた多 おお くの自由 じゆう 主義 しゅぎ 者 しゃ や知識 ちしき 人 じん が弾圧 だんあつ ・追放 ついほう され、2万 まん 5,000人 にん にも及 およ ぶ市民 しみん が粛清 しゅくせい された。その一方 いっぽう でロサスはパンパの伝統 でんとう を守 まも り、自由 じゆう 主義 しゅぎ 者 しゃ によって弾圧 だんあつ されていた黒人 こくじん やガウチョ を保護 ほご するなどの面 めん もあった。独裁 どくさい 制 せい はこうした政策 せいさく により、ブエノスアイレス州 しゅう の農民 のうみん や都市 とし 下層 かそう 民 みん をはじめとする上流 じょうりゅう 階級 かいきゅう 以外 いがい の各層 かくそう から支持 しじ を得 え た。外交 がいこう 面 めん では国粋 こくすい 主義 しゅぎ と大 だい アルゼンチン主義 しゅぎ を貫 つらぬ き、移民 いみん を禁止 きんし するなどの政策 せいさく をとった。1833年 ねん に マルビナス諸島 しょとう を売 う るように要求 ようきゅう したイギリス商人 しょうにん の申 もう し出 で を断 ことわ ったため、島 しま はイギリスに占領 せんりょう されてしまった。しかしながらロサスは、ラ・プラタ地域 ちいき に野心 やしん を持 も っていたイギリス 、フランス とのウルグアイをめぐっての大戦 たいせん 争 そう や、それに続 つづ くラ・プラタ川 がわ の封鎖 ふうさ 、さらにはパタゴニア を植民 しょくみん 地 ち 化 か するとのフランスから恫喝 どうかつ 、1845年 ねん から1846年 ねん の戦争 せんそう となって顕在 けんざい 化 か したカウディージョの支配 しはい するパラグアイとの対立 たいりつ 、これらの相次 あいつ ぐ国難 こくなん すべてからアルゼンチン連合 れんごう を守 まも り抜 ぬ いた。しかし戦争 せんそう によって貿易 ぼうえき が封鎖 ふうさ され、疲弊 ひへい したリトラル諸 もろ 州 しゅう の怒 いか りは激 はげ しく、まもなくブラジル帝国 ていこく と同盟 どうめい した腹心 ふくしん のフスト・ホセ・デ・ウルキーサ (英語 えいご 版 ばん ) がエントレ・リオス州 しゅう から反乱 はんらん を起 お こすと、1852年 ねん にカセーロスの戦 たたか い (英語 えいご 版 ばん ) でロサスは敗 やぶ れ、失脚 しっきゃく した。
国家 こっか 統一 とういつ と西欧 せいおう 化 か
編集 へんしゅう
もっとも代表 だいひょう 的 てき な自由 じゆう 主義 しゅぎ (欧化 おうか 主義 しゅぎ )者 しゃ 、ドミンゴ・ファウスティーノ・サルミエント (英語 えいご 版 ばん ) 。1868年 ねん から1874年 ねん まで大統領 だいとうりょう を務 つと めた
『我 わ が子 こ の遺体 いたい を前 まえ にするパラグアイ兵 へい 』(ホセ・イグナシオ・ガルメンディア 画 が )
カセーロスの戦 たたか い以後 いご のアルゼンチン連合 れんごう は、当時 とうじ の自由 じゆう 主義 しゅぎ 知識 ちしき 人 じん の意向 いこう により西欧 せいおう 化 か が進 すす み、土着 どちゃく のスペイン的 てき な伝統 でんとう や、ガウチョや黒人 こくじん やインディヘナは近代 きんだい 化 か の障害 しょうがい として大 だい 弾圧 だんあつ された。ウルキーサが設立 せつりつ したアルゼンチン連合 れんごう の1853年 ねん 憲法 けんぽう (英語 えいご 版 ばん ) は、事実 じじつ 上 じょう の起草 きそう 者 しゃ だったアルベルディ (英語 えいご 版 ばん ) の意向 いこう を反映 はんえい し、きわめて自由 じゆう 主義 しゅぎ 的 てき な憲法 けんぽう であった。ウルキーサがこの自由 じゆう 主義 しゅぎ 貿易 ぼうえき によって自由 じゆう 貿易 ぼうえき を導入 どうにゅう すると、安 やす い外国 がいこく 製品 せいひん との競争 きょうそう に耐 た えられなかった国内 こくない 産業 さんぎょう はほとんど壊滅 かいめつ してしまった。
その後 ご もブエノスアイレス国 こく (英語 えいご 版 ばん ) と周辺 しゅうへん 諸 しょ 州 しゅう との間 あいだ で内戦 ないせん が続 つづ いたが、1861年 ねん にブエノスアイレス国 こく がウルキーサを破 やぶ り、アルゼンチン連合 れんごう を併合 へいごう して国家 こっか 統一 とういつ が達成 たっせい された。このため、勝利 しょうり した元 もと ブエノスアイレス国 こく 知事 ちじ ミトレ (英語 えいご 版 ばん ) ら自由 じゆう 主義 しゅぎ 者 しゃ が完全 かんぜん な主導 しゅどう 権 けん を握 にぎ ることになり、国家 こっか の西 にし 欧化 おうか のためにヨーロッパ から移民 いみん が大量 たいりょう に導入 どうにゅう されることが決定 けってい した。ミトレは周辺 しゅうへん 国 こく への干渉 かんしょう と中央 ちゅうおう 集権 しゅうけん 政策 せいさく を進 すす め、アルゼンチン・ブラジル2大国 たいこく によるウルグアイへの内政 ないせい 干渉 かんしょう をきっかけにして1864年 ねん から始 はじ まったパラグアイとの三 さん 国 こく 同盟 どうめい 戦争 せんそう を境 さかい に、土着 どちゃく 勢力 せいりょく の抵抗 ていこう も整備 せいび された連邦 れんぽう 軍 ぐん の軍事 ぐんじ 力 りょく の前 まえ に徐々 じょじょ に終 お わりを迎 むか えて1880年 ねん には完全 かんぜん に鎮圧 ちんあつ され、国家 こっか の近代 きんだい 化 か 、中央 ちゅうおう 集権 しゅうけん 化 か が進 すす んだ。この時期 じき に極端 きょくたん な集権 しゅうけん 化 か に抵抗 ていこう した勢力 せいりょく には三 さん 国 こく 同盟 どうめい 戦争 せんそう への反対 はんたい を訴 うった え、ラテンアメリカの連合 れんごう を求 もと めたフェリペ・バレーラ (英語 えいご 版 ばん ) などが存在 そんざい する。1868年 ねん に大統領 だいとうりょう に就任 しゅうにん した自由 じゆう 主義 しゅぎ 者 しゃ のサルミエント (英語 えいご 版 ばん ) 政権 せいけん は、より自由 じゆう 主義 しゅぎ 的 てき な経済 けいざい 政策 せいさく や教育 きょういく 政策 せいさく を成功 せいこう に導 みちび き、ヨーロッパに倣 なら った経済 けいざい や社会 しゃかい の近代 きんだい 化 か が進 すす んだが、反面 はんめん 土着 どちゃく 文化 ぶんか の攻撃 こうげき は激 はげ しさを増 ま し、この時期 じき に多 おお くの黒人 こくじん が出国 しゅっこく してモンテビデオ に向 む かうことになる。一方 いっぽう 、パンパではいまだに敵対 てきたい 的 てき インディヘナとの対立 たいりつ が続 つづ いていたが、1878年 ねん にロカ (英語 えいご 版 ばん ) 将軍 しょうぐん の指揮 しき した砂漠 さばく の征服 せいふく 作戦 さくせん (英語 えいご 版 ばん ) によってパンパからインディヘナが追 お いやられると、征服 せいふく された土地 とち は軍人 ぐんじん や寡頭支配 しはい 層 そう の間 あいだ で再 さい 分配 ぶんぱい され、より一層 いっそう の大 だい 土地 とち 所有 しょゆう 制 せい 拡大 かくだい が進 すす んだ。
西欧 せいおう による搾取 さくしゅ から民主 みんしゅ 化 か へ
編集 へんしゅう
民主 みんしゅ 化 か に努 つと めた急進 きゅうしん 党 とう のイポリト・イリゴージェン (1916年 ねん - 1922年 ねん 、1928年 ねん - 1930年 ねん に大統領 だいとうりょう を務 つと めた)
1880年 ねん に正式 せいしき にブエノスアイレスが国家 こっか の首都 しゅと と定 さだ められ、首都 しゅと 問題 もんだい が最終 さいしゅう 的 てき に解決 かいけつ すると、このことが内政 ないせい の安定 あんてい につながり、外国 がいこく 資本 しほん と移民 いみん の流入 りゅうにゅう が一気 いっき に加速 かそく した。これにより、イギリスの「非公式 ひこうしき 帝国 ていこく 」の一部 いちぶ として経済 けいざい の従属 じゅうぞく 化 か は進 すす んだが、一方 いっぽう で農 のう 牧 まき 業 ぎょう を中心 ちゅうしん としたモノカルチャー による奇跡 きせき と呼 よ ばれるほどの経済 けいざい 発展 はってん も進 すす んだ。こうしてヨーロッパからの大量 たいりょう の移民 いみん が「洪水 こうずい 」のようにブエノスアイレスになだれ込 こ むと、それまではスペイン的 てき で「偉大 いだい な田舎 いなか 」に過 す ぎなかったブエノスアイレス市 し は、一挙 いっきょ にコスモポリタン な大都市 だいとし の「南米 なんべい のパリ」に転身 てんしん し、1914年 ねん には実 じつ に国民 こくみん の約 やく 30%が外国 がいこく 出身 しゅっしん 者 しゃ となるほどであった。同時 どうじ にこのころから、移民 いみん の流入 りゅうにゅう や都市 とし 化 か 以前 いぜん のアルゼンチンを懐 なつ かしむ風潮 ふうちょう が生 う まれ、1874年 ねん にはアルゼンチンの国民 こくみん 文学 ぶんがく であるガウチョの叙事詩 じょじし 『マルティン・フィエロ (英語 えいご 版 ばん ) 』が完成 かんせい した。
また、この時期 じき に生 う まれた中 なか 間 あいだ 層 そう を基盤 きばん に、寡頭支配 しはい 層 そう の大 だい 地主 じぬし の不正 ふせい 政治 せいじ を改 あらた めて政治 せいじ の民主 みんしゅ 化 か を求 もと める声 こえ も強 つよ くなり、1890年 ねん の反 はん 政府 せいふ 反乱 はんらん をきっかけに1891年 ねん には急進 きゅうしん 的 てき 人民 じんみん 同盟 どうめい が組織 そしき され、これはのちの急進 きゅうしん 市民 しみん 同盟 どうめい (急進 きゅうしん 党 とう )へと発展 はってん していった。また、1890年 ねん の反乱 はんらん は政府 せいふ 証券 しょうけん を保有 ほゆう していたベアリングス銀行 ぎんこう に損失 そんしつ を被 かぶ らせ、結局 けっきょく 1893年 ねん 恐慌 きょうこう に発展 はってん させた。急進 きゅうしん 党 とう は1905年 ねん の武装 ぶそう 蜂起 ほうき に失敗 しっぱい したが、この反乱 はんらん を恐 おそ れた保守 ほしゅ 派 は のロケ・サエンス・ペーニャ (英語 えいご 版 ばん ) 大統領 だいとうりょう は以降 いこう 行政 ぎょうせい による選挙 せんきょ 干渉 かんしょう をやめることを提案 ていあん し、司法 しほう が行政 ぎょうせい に優越 ゆうえつ する新 しん 選挙 せんきょ 法 ほう を成立 せいりつ させた。この選挙 せんきょ 法 ほう が適用 てきよう された1916年 ねん の選挙 せんきょ では急進 きゅうしん 党 とう からイポリト・イリゴージェン 大統領 だいとうりょう が選出 せんしゅつ され、寡頭支配 しはい が切 き り崩 くず された。国民 こくみん 主義 しゅぎ 的 てき な政策 せいさく をもって政治 せいじ に臨 のぞ んだイリゴージェンは、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん を中立 ちゅうりつ 国 こく として過 す ごした。
民主 みんしゅ 化 か の進展 しんてん によって戦 せん 間 あいだ 期 き には政治 せいじ も経済 けいざい も安定 あんてい に入 はい り、イリゴージェンは1928年 ねん に再選 さいせん され、アルゼンチンは1929年 ねん には世界 せかい 第 だい 5位 い の富裕 ふゆう 国 こく となった[3] 。しかし、1929年 ねん の世界 せかい 恐慌 きょうこう はアルゼンチンのモノカルチャー経済 けいざい を襲 おそ い、政治 せいじ は急速 きゅうそく に不安定 ふあんてい 化 か した。
世界 せかい 恐慌 きょうこう に対 たい する対策 たいさく を持 も たなかったイリゴージェンは、翌 よく 1930年 ねん に軍事 ぐんじ クーデター で追放 ついほう された。クーデターによって1930年 ねん に大統領 だいとうりょう に就任 しゅうにん したウリブル はアルゼンチンにファシズム 体制 たいせい を築 きず こうとしたが、この試 こころ みは失敗 しっぱい した。
忌 い まわしき10年間 ねんかん
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ファシズム体制 たいせい の失敗 しっぱい もあって1932年 ねん にフスト が大統領 だいとうりょう に就任 しゅうにん すると、伝統 でんとう 的 てき な寡頭支配 しはい 層 そう の政治 せいじ が復活 ふっかつ した。1930年代 ねんだい には19世紀 せいき の不正 ふせい 選挙 せんきょ の伝統 でんとう も復活 ふっかつ し、1930年代 ねんだい は「忌 い まわしき10年間 ねんかん (英語 えいご 版 ばん ) 」と形容 けいよう された。
国際 こくさい 協調 きょうちょう を旨 むね としたフスト政権 せいけん は1933年 ねん にイギリスとのロカ=ランシマン協定 きょうてい (英語 えいご 版 ばん ) で、アルゼンチンをイギリスのスターリング・ブロック (英語 えいご 版 ばん ) (Sterling bloc)に組 く み込 こ んでもらうことに成功 せいこう したが、見返 みかえ りに多 おお くの譲歩 じょうほ を強 し いられてアメリカ市場 いちば も失 うしな ってしまい、アルゼンチンはまるでイギリスの属国 ぞっこく のような様相 ようそう を呈 てい するようになった。
ペロニスタと軍部 ぐんぶ の戦 たたか い
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フアン・ペロン 。生涯 しょうがい に3回 かい 大統領 だいとうりょう を務 つと めた(1946年 ねん - 1952年 ねん 、1952年 ねん - 1955年 ねん 、1973年 ねん - 1974年 ねん )
このような潮流 ちょうりゅう から次第 しだい に国民 こくみん 主義 しゅぎ 的 てき な意識 いしき が国民 こくみん の間 あいだ に高 たか まり、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の最中 さいちゅう にイギリスと戦 たたか う枢軸 すうじく 国 こく への好意 こうい 的 てき な中立 ちゅうりつ を標榜 ひょうぼう した統一 とういつ 将校 しょうこう 団 だん (英語 えいご 版 ばん ) (GOU)のフアン・ペロン 大佐 たいさ は徐々 じょじょ に人気 にんき を集 あつ め、ペロンは戦後 せんご 1946年 ねん の選挙 せんきょ で大統領 だいとうりょう に就任 しゅうにん した。なお第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん はスペインやポルトガル などと同 おな じく中立 ちゅうりつ 国 こく として生 い き永 なが らえ、牛肉 ぎゅうにく などの輸出 ゆしゅつ で豊富 ほうふ な外貨 がいか を稼 かせ いだ。
大統領 だいとうりょう に就任 しゅうにん したフアン・ペロンは、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん で得 え た莫大 ばくだい な外貨 がいか を梃子 てこ に工業 こうぎょう 化 か 、鉄道 てつどう などの国有 こくゆう 化 か 、労働 ろうどう 者 しゃ 保護 ほご などの経済 けいざい 的 てき 積極 せっきょく 国家 こっか 政策 せいさく を推 お し進 すす めた。こうしたポプリスモ 的 てき な政策 せいさく は当初 とうしょ 成功 せいこう したが、すぐに外資 がいし を使 つか い果 は たしてしまい、さらにデスカミサードス (英語 えいご 版 ばん ) [注釈 ちゅうしゃく 2] から聖母 せいぼ のように崇 あが められていた妻 つま エバ・ペロン (エビータ)が死去 しきょ すると政策 せいさく は傾 かたむ きだしていった。
それまでもラ・プラタ市 し をエバ・ペロン市 し に改名 かいめい するなどの個人 こじん 崇拝 すうはい を強要 きょうよう するような行為 こうい は批判 ひはん を浴 あ びていたが、1954年 ねん に離婚 りこん 法 ほう を制定 せいてい したことからカトリック教会 きょうかい との関係 かんけい も破綻 はたん し、支持 しじ 基盤 きばん の労働 ろうどう 者 しゃ からの失望 しつぼう が広 ひろ まったこともあり、1955年 ねん の軍部 ぐんぶ 保守 ほしゅ 派 は によるクーデター(リベルタドーラ革命 かくめい (英語 えいご 版 ばん ) )でペロンは亡命 ぼうめい した。フアン・ペロンの失脚 しっきゃく 後 ご 、重工業 じゅうこうぎょう 化 か とモノカルチャー経済 けいざい の産業 さんぎょう 構造 こうぞう 転換 てんかん に失敗 しっぱい したアルゼンチンの経済 けいざい は下降 かこう 期 き に入 はい り、政治 せいじ 的 てき にもペロニスタ (ペロン主義 しゅぎ 者 しゃ )と軍部 ぐんぶ の対立 たいりつ が国家 こっか の混乱 こんらん に拍車 はくしゃ をかけた。1962年 ねん には急進 きゅうしん 党 とう のフロンディシ (英語 えいご 版 ばん ) 大統領 だいとうりょう が軍部 ぐんぶ のクーデターで失脚 しっきゃく させられ、軍部 ぐんぶ が実権 じっけん を握 にぎ ったが、このときの軍事 ぐんじ 政権 せいけん は長続 ながつづ きしなかった。
しかし、民政 みんせい 移管 いかん した急進 きゅうしん 党 とう のイリア (英語 えいご 版 ばん ) 大統領 だいとうりょう を追放 ついほう した1966年 ねん のクーデター (英語 えいご 版 ばん ) (アルゼンチン革命 かくめい )は様子 ようす が異 こと なり、フアン・カルロス・オンガニーア (英語 えいご 版 ばん ) 将軍 しょうぐん はブラジル型 がた の官僚 かんりょう 主義 しゅぎ 的 てき 権威 けんい 主義 しゅぎ 体制 たいせい をアルゼンチンにも導入 どうにゅう した。軍事 ぐんじ 政権 せいけん は外資 がいし 導入 どうにゅう を基盤 きばん に衰退 すいたい する経済 けいざい を成長 せいちょう させようとしたが、軍事 ぐんじ 政権 せいけん の厳 きび しい統制 とうせい に反対 はんたい するペロニスタと軍部 ぐんぶ の戦 たたか いは激 はげ しさを増 ま し、ペロニスタから生 う まれたモントネーロス やペロニスタ武装 ぶそう 軍団 ぐんだん をはじめとする都市 とし ゲリラ と軍部 ぐんぶ との抗 こう 争 そう で多 おお くの犠牲 ぎせい 者 しゃ が出 で るなど、さながら内戦 ないせん の様相 ようそう を呈 てい していった。しかし、1969年 ねん にコルドバで起 お きたコルドバ暴動 ぼうどう (英語 えいご 版 ばん ) (コルドバソ)を受 う けると軍事 ぐんじ 政権 せいけん は穏健 おんけん 政策 せいさく に転 てん じ、テロの応酬 おうしゅう を収 おさ めるためにペロニスタを議会 ぎかい に戻 もど すことを決断 けつだん した軍部 ぐんぶ は自由 じゆう 選挙 せんきょ を行 おこな った。
1973年 ねん のこの選挙 せんきょ では正義 せいぎ 党 とう (ペロン党 とう )が勝利 しょうり し、亡命 ぼうめい 先 さき からフアン・ペロンが帰国 きこく して三 さん たび大統領 だいとうりょう に就任 しゅうにん した。しかし、ペロンは翌 よく 1974年 ねん に病死 びょうし し、1974年 ねん に副 ふく 大統領 だいとうりょう から世界 せかい 初 はつ の女性 じょせい 大統領 だいとうりょう に昇格 しょうかく した妻 つま のイサベル・ペロン は困難 こんなん な政局 せいきょく を乗 の り切 き れないまま拙劣 せつれつ な政策 せいさく を積 つ み重 かさ ね、治安 ちあん 、経済 けいざい ともに悪化 あっか の一途 いっと を辿 たど った。
1976年 ねん 3月 がつ にホルヘ・ラファエル・ビデラ 将軍 しょうぐん がクーデター(アルゼンチン・クーデター (英語 えいご 版 ばん ) )を起 お こしイサベル・ペロンをスペインに追 お い払 はら い、再 ふたた び官僚 かんりょう 主義 しゅぎ 的 てき 権威 けんい 主義 しゅぎ 体制 たいせい (国家 こっか 再 さい 編成 へんせい プロセス )がアルゼンチンに生 う まれた。
ビデラ政権 せいけん は1966年 ねん の軍事 ぐんじ 政権 せいけん よりもさらに強 つよ い抑圧 よくあつ ・弾圧 だんあつ を進 すす め、周辺 しゅうへん の軍事 ぐんじ 政権 せいけん と協調 きょうちょう した「汚 きたな い戦争 せんそう 」、コンドル作戦 さくせん によりペロニスタ や左翼 さよく を大 だい 弾圧 だんあつ したことで治安 ちあん 回復 かいふく には成功 せいこう したものの、ブラジル風 ふう に外資 がいし を導入 どうにゅう して経済 けいざい 全体 ぜんたい を拡大 かくだい しようとした経済 けいざい 政策 せいさく には大 だい 失敗 しっぱい し、天文学 てんもんがく 的 てき なインフレーション を招 まね いた。
軍事 ぐんじ 政権 せいけん は行 い き詰 づ まり、1982年 ねん に就任 しゅうにん したガルティエリ 大統領 だいとうりょう は、イギリスが1833年 ねん 以来 いらい 実効 じっこう 支配 しはい を続 つづ けているマルビナス諸島 しょとう (英 えい :フォークランド諸島 しょとう )を奪還 だっかん しようと軍 ぐん を派遣 はけん して占領 せんりょう したが、当初 とうしょ うまくいくと思 おも われたこの行動 こうどう はサッチャー首相 しゅしょう の決断 けつだん によりフォークランド紛争 ふんそう (マルビナス戦争 せんそう ) に発展 はってん し、イギリスの反撃 はんげき に遭 あ って失敗 しっぱい した。建国 けんこく 以来 いらい 初 はじ めての敗戦 はいせん によって高 たか まった国民 こくみん の不満 ふまん を受 う けたガルティエリ大統領 だいとうりょう は失脚 しっきゃく し、軍事 ぐんじ 政権 せいけん は崩壊 ほうかい した。しかし、この戦争 せんそう はアルゼンチンとほかのラテンアメリカ諸国 しょこく との絆 きずな を強 つよ め、ラテンアメリカの一員 いちいん としてのアルゼンチンのアイデンティティのあり方 かた に影響 えいきょう も与 あた えた。
1983年 ねん に、大統領 だいとうりょう 選挙 せんきょ と議会 ぎかい 選挙 せんきょ が行 おこな われ、急進 きゅうしん 党 とう が久々 ひさびさ に政権 せいけん に返 かえ り咲 ざ いた。大統領 だいとうりょう に就任 しゅうにん したラウル・アルフォンシン は、軍政 ぐんせい 期 き からのインフレや対外 たいがい 債務 さいむ 問題 もんだい 、マルビナス戦争 せんそう による国際 こくさい 的 てき 孤立 こりつ などの厳 きび しい政局 せいきょく の中 なか 、アウストラル計画 けいかく に失敗 しっぱい し、経済 けいざい 面 めん では成功 せいこう を収 おさ めることができなかったものの、長年 ながねん 敵対 てきたい 関係 かんけい が続 つづ いていたチリやブラジルとの関係 かんけい を大幅 おおはば に改善 かいぜん し、この融和 ゆうわ 路線 ろせん はのちのメルコスール 形成 けいせい につながった。
また、アルフォンシンは軍政 ぐんせい 時代 じだい に人権 じんけん 侵害 しんがい (投獄 とうごく 、拷問 ごうもん など)を行 おこな った軍人 ぐんじん を裁 さば き、軍 ぐん の予算 よさん や人員 じんいん 、政治 せいじ 力 りょく を削減 さくげん した。こうした政策 せいさく に対 たい して3度 ど にわたる軍部 ぐんぶ の反乱 はんらん もあったものの、アルフォンシンは結果 けっか として軍部 ぐんぶ を文民 ぶんみん の統制 とうせい 下 か に置 お くことに成功 せいこう した。アルフォンシンは任期 にんき を5か月 げつ 残 のこ して1989年 ねん に辞任 じにん した。
1989年 ねん に就任 しゅうにん した正義 まさよし 党 とう (ペロン党 とう )のカルロス・メネム は、1990年 ねん の湾岸 わんがん 戦争 せんそう に南 みなみ アメリカ で唯一 ゆいいつ 軍 ぐん を派遣 はけん し、1991年 ねん には非 ひ 同盟 どうめい 諸国 しょこく 首脳 しゅのう 会議 かいぎ から脱退 だったい するなど、先進 せんしん 国 こく との国際 こくさい 協調 きょうちょう 路線 ろせん を標榜 ひょうぼう し、孤立 こりつ していたアルゼンチンを国際 こくさい 社会 しゃかい に復帰 ふっき させた。軍事 ぐんじ 面 めん でもメネム時代 じだい には「汚 きたな い戦争 せんそう 」に携 たずさ わった軍人 ぐんじん の恩赦 おんしゃ が認 みと められた一方 いっぽう で、核軍縮 かくぐんしゅく や徴兵 ちょうへい 制 せい の廃止 はいし など、軍部 ぐんぶ の権力 けんりょく の制限 せいげん がさらに進 すす んだ。
2001年 ねん の債務 さいむ 不履行 ふりこう
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デモに参加 さんか する人々 ひとびと (2001年 ねん )
一方 いっぽう で経済 けいざい 面 めん では、当初 とうしょ 公約 こうやく で掲 かか げていたペロニスモ 路線 ろせん (社会 しゃかい 民主 みんしゅ 主義 しゅぎ )とは180度 ど 異 こと なる新 しん 自由 じゆう 主義 しゅぎ 政策 せいさく をとった。社会 しゃかい インフラや年金 ねんきん をも民営 みんえい 化 か した新 しん 自由 じゆう 主義 しゅぎ 政策 せいさく は成功 せいこう したかに見 み え、メネム特有 とくゆう のネオ・ポプリスモ政策 せいさく と対 たい ドルペッグ固定 こてい 相場 そうば 政策 せいさく で長年 ながねん の懸念 けねん だったインフレーション を抑制 よくせい し、アルゼンチン経済 けいざい を持 も ち直 なお したかに見 み えたが、1997年 ねん ごろにはこの政策 せいさく の無理 むり が徐々 じょじょ に明 あき らかになっていった。1999年 ねん の大統領 だいとうりょう 選挙 せんきょ では急進 きゅうしん 党 とう のフェルナンド・デ・ラ・ルア が勝利 しょうり したが、すでに経済 けいざい は危険 きけん な水準 すいじゅん に達 たっ しており、IMF からの援助 えんじょ や公務員 こうむいん 給与 きゅうよ の削減 さくげん なども効果 こうか はなく、最終 さいしゅう 的 てき にはドルペッグ制 せい の破綻 はたん をきっかけに、2001年 ねん にデ・ラ・ルアは債務 さいむ 不履行 ふりこう を決行 けっこう した。なお、アルゼンチンはそれまでに6回 かい の債務 さいむ 不履行 ふりこう (1827年 ねん 、1890年 ねん 、1951年 ねん 、1956年 ねん 、1982年 ねん 、1989年 ねん )を経験 けいけん しており、2001年 ねん の債務 さいむ 不履行 ふりこう は通算 つうさん 7回 かい 目 め となる[4] 。
アルゼンチン経済 けいざい の崩壊 ほうかい 後 ご 、アルゼンチンの世界 せかい 的 てき な評価 ひょうか は地 ち に落 お ちた。政治 せいじ 面 めん では大統領 だいとうりょう が次々 つぎつぎ と入 い れ替 か わる大 だい 混乱 こんらん に陥 おちい り、社会 しゃかい 的 てき にもデモや暴動 ぼうどう が多発 たはつ する異常 いじょう 事態 じたい に陥 おちい った。しかし2003年 ねん に正義 せいぎ 党 とう 左派 さは から就任 しゅうにん したネストル・キルチネル の下 もと で、政治 せいじ は安定 あんてい を取 と り戻 もど し、それまでの新 しん 自由 じゆう 主義 しゅぎ 、市場 いちば 原理 げんり 主義 しゅぎ と決別 けつべつ した。富裕 ふゆう 層 そう 優遇 ゆうぐう をやめ、国民 こくみん の大 だい 多数 たすう を占 し めている貧困 ひんこん 層 そう を減 へ らし、中間 なかま 層 そう へと移行 いこう させるなどより、公正 こうせい な社会 しゃかい を目指 めざ す政策 せいさく を実行 じっこう した。経済 けいざい 的 てき な再建 さいけん も進 すす んだ。
2014年 ねん の債務 さいむ 不履行 ふりこう
編集 へんしゅう
2007年 ねん 10月 がつ 、正義 まさよし 党 とう からキルチネルの妻 つま のクリスティーナ・フェルナンデス・デ・キルチネル が、同国 どうこく 史上 しじょう 初 はつ の「選挙 せんきょ による」女性 じょせい 大統領 だいとうりょう に就任 しゅうにん した。就任 しゅうにん 演説 えんぜつ で「雇用 こよう と工業 こうぎょう ・輸出 ゆしゅつ ・農業 のうぎょう を基礎 きそ とする新 あたら しい多様 たよう 化 か した経済 けいざい 基盤 きばん 」を構築 こうちく すると述 の べた。2007年 ねん の経済 けいざい 成長 せいちょう 率 りつ は8%を記録 きろく し、近年 きんねん のアルゼンチンはリーマンショック 以降 いこう の世界 せかい 的 てき 不況 ふきょう とは裏腹 うらはら に好調 こうちょう を維持 いじ していた。しかしアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく のヘッジファンド が、2001年 ねん におけるデフォルト時 じ に債務 さいむ 削減 さくげん に同意 どうい しなかった債権 さいけん 者 しゃ から返還 へんかん 凍結 とうけつ 中 ちゅう の債務 さいむ を買 か い取 と り、全額 ぜんがく 支払 しはら いを求 もと め2014年 ねん にアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく において訴訟 そしょう を提起 ていき した[5] 。連邦 れんぽう 最高 さいこう 裁判所 さいばんしょ はヘッジファンド側 がわ の訴 うった えを認 みと めた。アルゼンチン政府 せいふ はヘッジファンド側 がわ との交渉 こうしょう を続 つづ けたが和解 わかい に漕 こ ぎ着 つ けず、防衛 ぼうえい 的 てき 措置 そち として「計画 けいかく 的 てき 債務 さいむ 不履行 ふりこう 」を決行 けっこう した。
新 しん 自由 じゆう 主義 しゅぎ への回帰 かいき と経済 けいざい の破綻 はたん
編集 へんしゅう
2015年 ねん 11月の大統領 だいとうりょう 選挙 せんきょ では、親米 しんべい ・新 しん 自由 じゆう 主義 しゅぎ 政策 せいさく による経済 けいざい 復興 ふっこう を主張 しゅちょう した中道右派 ちゅうどううは のマウリシオ・マクリ が勝利 しょうり [6] した。ルネル時代 じだい 以前 いぜん にとられていた格差 かくさ 縮小 しゅくしょう や富 とみ の再 さい 分配 ぶんぱい の重視 じゅうし といった社会 しゃかい 主義 しゅぎ 的 てき な政策 せいさく よりも、国際 こくさい 金融 きんゆう 資本 しほん ・グローバル資本 しほん の利益 りえき を重視 じゅうし して経済 けいざい 成長 せいちょう を目指 めざ す新 しん 自由 じゆう 主義 しゅぎ を中心 ちゅうしん とした政策 せいさく へと回帰 かいき しつつあるとされた[7] 。しかしながら、緊縮 きんしゅく 財政 ざいせい により経済 けいざい は崩壊 ほうかい しデフォルト危機 きき になった。IMF の主導 しゅどう による社会 しゃかい 保障 ほしょう 削減 さくげん 策 さく で国民 こくみん への負担 ふたん が重 おも くのしかかる一方 いっぽう 、マクリ大統領 だいとうりょう のパナマ文書 ぶんしょ での租税 そぜい 回避 かいひ 行為 こうい が暴露 ばくろ されたことで反 はん 政府 せいふ デモが勃発 ぼっぱつ した。
反米 はんべい 左派 さは 政権 せいけん の復活 ふっかつ へ
編集 へんしゅう
2019年 ねん の大統領 だいとうりょう 選挙 せんきょ では左派 さは のアルベルト・フェルナンデス がマクリ大統領 だいとうりょう を破 やぶ って当選 とうせん [8] し、4年 ねん ぶりに左派 さは 政権 せいけん が復活 ふっかつ することになった。
2020年 ねん の債務 さいむ 不履行 ふりこう
編集 へんしゅう
新型 しんがた コロナウイルス の感染 かんせん 拡大 かくだい を理由 りゆう に債務 さいむ 返済 へんさい を停止 ていし 。2020年 ねん 5月22日 にち 、同日 どうじつ が期限 きげん だった約 やく 5億 おく ドル相当 そうとう の国債 こくさい 利払 りばら いが行 おこな われなかったことをもって、通算 つうさん 9回 かい 目 め のデフォルト(債務 さいむ 不履行 ふりこう )に陥 おちい った[9] 。
2023年 ねん 8月 がつ 25日 にち には、アルゼンチンがサウジアラビアなどと共 とも に2024年 ねん 1月 がつ 1日 にち からBRICS に正式 せいしき 加盟 かめい することが決定 けってい した[10] 。しかしアルゼンチンのBRICS加盟 かめい に否定 ひてい 的 てき なハビエル・ミレイ が2023年 ねん 12月 がつ 10日 とおか に大統領 だいとうりょう に就任 しゅうにん し方針 ほうしん を転換 てんかん 、同年 どうねん 中 ちゅう に加盟 かめい しない方針 ほうしん を文書 ぶんしょ で通知 つうち した[11] 。
アルゼンチン大統領 だいとうりょう 府 ふ 、カサ・ロサダ
国会 こっかい 議事堂 ぎじどう
大統領 だいとうりょう を元首 げんしゅ とする連邦 れんぽう 共和 きょうわ 制 せい 国家 こっか であり、内閣 ないかく 、上下 じょうげ 両院 りょういん 制 せい の複数 ふくすう 政党 せいとう 制 せい 議会 ぎかい を備 そな える。大統領 だいとうりょう ・副 ふく 大統領 だいとうりょう ともに直接 ちょくせつ 選挙 せんきょ で選 えら ばれ、その任期 にんき は4年 ねん (かつては6年 ねん )。現職 げんしょく 大統領 だいとうりょう の大統領 だいとうりょう 選挙 せんきょ への再 さい 出馬 しゅつば (当選 とうせん した場合 ばあい は再選 さいせん )は1回 かい のみ認 みと められている。
2007年 ねん 10月 がつ の大統領 だいとうりょう 選挙 せんきょ では、イサベル・ペロン に次 つ ぐ同国 どうこく 2人 にん 目 め (選挙 せんきょ によるものでは初 はつ )の女性 じょせい 大統領 だいとうりょう 、クリスティーナ・フェルナンデス・デ・キルチネル が誕生 たんじょう している。
2015年 ねん 10月 がつ 25日 にち の大統領 だいとうりょう 選挙 せんきょ (1回 かい 目 め の投票 とうひょう )では過半数 かはんすう の得票 とくひょう を獲得 かくとく した候補者 こうほしゃ が現 あらわ れず、翌 よく 11月 がつ 22日 にち に実施 じっし された上位 じょうい 2候補 こうほ による決選 けっせん 投票 とうひょう の結果 けっか 、「共和 きょうわ 国 こく の提案 ていあん 」「急進 きゅうしん 市民 しみん 同盟 どうめい 」(以下 いか 、急進 きゅうしん 党 とう )らが推 お す保守 ほしゅ 系 けい のマウリシオ・マクリが当選 とうせん した。ただし、大統領 だいとうりょう 選 せん (1回 かい 目 め )と同日 どうじつ に行 おこな われた議会 ぎかい 選挙 せんきょ (上院 じょういん の3分 ぶん の1と下院 かいん の約 やく 2分 ぶん の1を改選 かいせん )では正義 せいぎ 党 とう が引 ひ き続 つづ き比較 ひかく 第 だい 一 いち 党 とう の座 ざ を上下 じょうげ 両院 りょういん で維持 いじ したため、連立 れんりつ 3党 とう (急進 きゅうしん 党 とう 系 けい の地域 ちいき 政党 せいとう を含 ふく めると4党 とう )は議会 ぎかい 内 ない では少数 しょうすう 派 は となる。
大統領 だいとうりょう と内閣 ないかく は行政 ぎょうせい 権 けん を行使 こうし し、内閣 ないかく 首席 しゅせき 大臣 だいじん (Jefe de Gabinete de Ministros)を含 ふく む内閣 ないかく の大臣 だいじん は大統領 だいとうりょう によって任命 にんめい される。大統領 だいとうりょう による職務 しょくむ 執行 しっこう が一時 いちじ 的 てき (療養 りょうよう など)または永続 えいぞく 的 てき (弾劾 だんがい ・辞任 じにん ・死去 しきょ に伴 ともな う欠 かけ 位 い が発生 はっせい した場合 ばあい )に困難 こんなん となったときは副 ふく 大統領 だいとうりょう がそれを代行 だいこう 、もしくは大統領 だいとうりょう に昇格 しょうかく する。
内閣 ないかく 首席 しゅせき 大臣 だいじん (官房 かんぼう 長官 ちょうかん と和訳 わやく される場合 ばあい も)職 しょく は、閣 かく 内 ない の意見 いけん 集約 しゅうやく に加 くわ え、行政 ぎょうせい (中央 ちゅうおう 政府 せいふ )の代表 だいひょう 者 しゃ として立法 りっぽう (議会 ぎかい )および地方 ちほう 政府 せいふ (連邦 れんぽう 構成 こうせい 州 しゅう ・各種 かくしゅ 自治体 じちたい )との渉外 しょうがい ・調整 ちょうせい も担当 たんとう する。韓国 かんこく における国務 こくむ 総理 そうり (首相 しゅしょう )職 しょく に類似 るいじ しているが、アルゼンチンでは副 ふく 大統領 だいとうりょう が正 せい 職 しょく 欠 かけ 位 い 時 じ の代行 だいこう 者 しゃ であると憲法 けんぽう で既定 きてい されているため、その権限 けんげん はより限 かぎ られたものとなっている。
下院 かいん の与党 よとう 系 けい 会派 かいは から選出 せんしゅつ される場合 ばあい が多 おお いが、必須 ひっす 条件 じょうけん とはなっておらず、カピタニッチ(上院 じょういん 議員 ぎいん ・州 しゅう 知事 ちじ などを歴任 れきにん )や経済 けいざい 学者 がくしゃ のコロンボ(国立 こくりつ 銀行 ぎんこう 総裁 そうさい を経 へ てルア政権 せいけん 2人 にん 目 め の首席 しゅせき 大臣 だいじん に就任 しゅうにん )のように、非 ひ 下院 かいん 系 けい および民間 みんかん からの起用 きよう 事例 じれい も存在 そんざい する。
他 た の大臣 だいじん 職 しょく 同様 どうよう 、議会 ぎかい に対 たい しては責任 せきにん を負 お わないため、仮 かり に議会 ぎかい 内 ない で与党 よとう が少数 しょうすう 派 は に転落 てんらく しても野党 やとう 側 がわ から首相 しゅしょう を選 えら ぶ義務 ぎむ はなく、所属 しょぞく 勢力 せいりょく の異 こと なる大統領 だいとうりょう と首相 しゅしょう が併存 へいそん する、いわゆる「ねじれ現象 げんしょう 」は発生 はっせい しないが、逆転 ぎゃくてん の度合 どあ いによっては大統領 だいとうりょう の求心力 きゅうしんりょく が低下 ていか し、政情 せいじょう 流動 りゅうどう 化 か の原因 げんいん となる可能 かのう 性 せい はある。
急進 きゅうしん 党 とう のラウル・アルフォンシン が政権 せいけん を担当 たんとう していた80年代 ねんだい 後半 こうはん ごろより首相 しゅしょう 制 せい 導入 どうにゅう 論 ろん (権限 けんげん の一部 いちぶ を首相 しゅしょう に移譲 いじょう することで大統領 だいとうりょう を激務 げきむ から解放 かいほう するのがその趣旨 しゅし )は存在 そんざい していたが、構想 こうそう が具体 ぐたい 化 か したのは正義 せいぎ 党 とう (ペロン党 とう )出身 しゅっしん のカルロス・メネム に政権 せいけん が引 ひ き継 つ がれてからである。1994年 ねん に議会 ぎかい を通過 つうか 、大統領 だいとうりょう の署名 しょめい により成立 せいりつ した憲法 けんぽう 改正 かいせい 案 あん には、首相 しゅしょう ポストの追 つい 設 しつらえ のほか、大統領 だいとうりょう 任期 にんき の6年 ねん から4年 ねん への短縮 たんしゅく と再選 さいせん 禁止 きんし 条項 じょうこう の撤廃 てっぱい が含 ふく まれていた。施行 しこう 直後 ちょくご に実施 じっし された大統領 だいとうりょう 選挙 せんきょ (1995年 ねん 5月 がつ )ではメネムが再選 さいせん を果 は たし、翌々月 よくよくげつ の組閣 そかく でエドワルド・バウサを初代 しょだい 首相 しゅしょう に任命 にんめい した。
旧 きゅう 正義 せいぎ 党 とう 政権 せいけん (左派 さは )を率 ひき いたキルチネル夫妻 ふさい からの信任 しんにん が厚 あつ く、ネストル・キルチネル 政権 せいけん ではネストルの大統領 だいとうりょう 就任 しゅうにん から退任 たいにん まで、クリスティーナ・キルチネル 政権 せいけん でも再任 さいにん (成立 せいりつ を目指 めざ していた輸出 ゆしゅつ 税 ぜい 関連 かんれん の法案 ほうあん が上院 じょういん で否決 ひけつ されたことなどを理由 りゆう に中途 ちゅうと 辞任 じにん )されているアルベルト・フェルナンデス元 もと 内閣 ないかく 首席 しゅせき 大臣 だいじん の約 やく 5年 ねん 2か月 げつ (2003年 ねん 5月 がつ - 2007年 ねん 12月、2007年 ねん 12月 - 2008年 ねん 7月 がつ )を除 のぞ くと、内閣 ないかく 首席 しゅせき 大臣 だいじん の平均 へいきん 的 てき な在任 ざいにん 期間 きかん は現在 げんざい 2年 ねん 前後 ぜんこう となっているが、経済 けいざい が混乱 こんらん を極 きわ めていた2000年代 ねんだい の初頭 しょとう には短命 たんめい の内閣 ないかく が続 つづ き、現 げん 政権 せいけん 党 とう (共和 きょうわ 国 こく の提案 ていあん )の総裁 そうさい ・ウンベルト・チャボニの首相 しゅしょう 在任 ざいにん 期間 きかん はわずか4日 にち となっている。11年 ねん ぶりに内閣 ないかく 首席 しゅせき 大臣 だいじん 職 しょく に復帰 ふっき したホルヘ・カピタニッチ元 もと 首相 しゅしょう (2013年 ねん 11月 - )も、1度目 どめ (エドワルド・ドゥアルデを大統領 だいとうりょう 代理 だいり とする暫定 ざんてい 政権 せいけん )の在任 ざいにん 期間 きかん は約 やく 4か月 げつ (2002年 ねん 1月 がつ - 2002年 ねん 5月 がつ )であった。
2015年 ねん 12月に発足 ほっそく した現 げん 連立 れんりつ 内 ない 閣 かく では、内閣 ないかく 首席 しゅせき 大臣 だいじん を含 ふく む全 ぜん 21の大臣 だいじん ポスト中 ちゅう 、政権 せいけん 党 とう の「共和 きょうわ 国 こく の提案 ていあん 」に首相 しゅしょう ・外相 がいしょう など10ポスト、与党 よとう 第 だい 一 いち 党 とう の「急進 きゅうしん 党 とう 」(国会 こっかい の議席 ぎせき 数 すう では政権 せいけん 党 とう を上回 うわまわ るため)に防衛 ぼうえい ・通信 つうしん など4ポスト、「市民 しみん 連合 れんごう 」には蔵相 ぞうしょう ・公安 こうあん の2ポストがそれぞれ割 わ り当 あ てられ、残 のこ りの5名 めい は民間 みんかん などからの起用 きよう となった。
立法 りっぽう 権 けん は代議 だいぎ 院 いん (下院 かいん )と元老 げんろう 院 いん (上院 じょういん )に属 ぞく し、国民 こくみん 議会 ぎかい は定数 ていすう 257人 にん (任期 にんき 4年 ねん )、元老 げんろう 院 いん は定数 ていすう 72人 にん (任期 にんき 6年 ねん )である。下院 かいん では2年 ねん ごとに約 やく 半数 はんすう の議席 ぎせき が、上院 じょういん も同 おな じく2年 ねん ごとに3分 ぶん の1の議席 ぎせき がそれぞれ改選 かいせん される。
下院 かいん の議席 ぎせき がドント方式 ほうしき によって比例 ひれい 配分 はいぶん (各州 かくしゅう および首都 しゅと 圏 けん を1選挙 せんきょ 区 く とみなし、定数 ていすう は選挙 せんきょ 区 く ごとに異 こと なる)されているのに対 たい し、上院 じょういん では、各州 かくしゅう および首都 しゅと 圏 けん にそれぞれ一 いち 律 りつ で3つの議席 ぎせき が割 わ り当 あ てられており、最大 さいだい の得票 とくひょう を獲得 かくとく した政党 せいとう に3分 ぶん の2(2議席 ぎせき )が、次点 じてん の政党 せいとう に3分 ぶん の1(1議席 ぎせき )がそれぞれ付与 ふよ される仕組 しく みになっている。
下院 かいん の議員 ぎいん 総数 そうすう (各 かく 選挙 せんきょ 区 く の定数 ていすう )は、10年 ねん ごとに行 おこな われる国勢調査 こくせいちょうさ の結果 けっか に応 おう じて見直 みなお される。
2年 ねん 周期 しゅうき で勢力 せいりょく 図 ず が更新 こうしん されるたびに両院 りょういん の正 せい 副 ふく 議長 ぎちょう ポストの顔 かお ぶれも変 か わる。下院 かいん の議長 ぎちょう は政権 せいけん 党 とう 会派 かいは から選出 せんしゅつ され、3名 めい の副 ふく 議長 ぎちょう は政権 せいけん 党 とう を除 のぞ く上位 じょうい 3会派 かいは に割 わ り当 あ てられる。上院 じょういん では、現職 げんしょく の副 ふく 大統領 だいとうりょう が議長 ぎちょう 職 しょく を兼任 けんにん し、上院 じょういん 仮 かり 議長 ぎちょう 及 およ び3名 めい の副 ふく 議長 ぎちょう は下院 かいん 同様 どうよう 、政権 せいけん 党 とう 以外 いがい の上位 じょうい 3会派 かいは からの選出 せんしゅつ となる。
司法 しほう 権 けん は国家 こっか 最高 さいこう 司法 しほう 裁判所 さいばんしょ に属 ぞく し、行政 ぎょうせい 、立法 りっぽう から独立 どくりつ している。
議会 ぎかい における比較 ひかく 第 だい 一 いち 党 とう である野党 やとう 「正義 まさよし 党 とう 」(統一 とういつ 会派 かいは 「勝利 しょうり 戦線 せんせん 」の基軸 きじく 政党 せいとう )のほか、連立 れんりつ 関係 かんけい にある「急進 きゅうしん 党 とう 」(比較 ひかく 第 だい 二 に 党 とう ・与党 よとう 第 だい 一 いち 党 とう )と「共和 きょうわ 国 こく の提案 ていあん 」(現 げん 政権 せいけん で正副 せいふく 大統領 だいとうりょう ・首席 しゅせき 大臣 だいじん ・上下 じょうげ 両院 りょういん の議長 ぎちょう を輩出 はいしゅつ している保守 ほしゅ 政党 せいとう )、「市民 しみん 連合 れんごう 」、正義 まさよし 党 とう より分派 ぶんぱ した保守 ほしゅ 系 けい の「新 あら たなる選択 せんたく のための連合 れんごう 」、穏健 おんけん 左派 さは の「拡大 かくだい 進歩 しんぽ 戦線 せんせん 」(社会党 しゃかいとう 系 けい の連合体 れんごうたい )、「統一 とういつ 」(急進 きゅうしん 党 とう の分派 ぶんぱ を含 ふく むリベラル勢力 せいりょく )、「左翼 さよく 労働 ろうどう 戦線 せんせん 」(トロツキズム 的 てき な極左 きょくさ 政党 せいとう )、5議席 ぎせき 未満 みまん の地域 ちいき 政党 せいとう らが国会 こっかい に議席 ぎせき を有 ゆう している。
正義 まさよし ・急進 きゅうしん 両 りょう 党 とう によって政界 せいかい の勢力 せいりょく 図 ず が二分 にぶん されていた時期 じき には、首都 しゅと 圏 けん を中心 ちゅうしん に「中道 ちゅうどう 民主 みんしゅ 連合 れんごう 」(1982年 ねん に故 こ アルバロ・アルソガライが結成 けっせい した穏健 おんけん 的 てき な保守 ほしゅ 政党 せいとう 。以下 いか 、中 ちゅう 民 みん 連 れん )が一定 いってい の存在 そんざい 感 かん を有 ゆう していたが、事実 じじつ 上 じょう の与党 よとう として旧 きゅう メネム政権 せいけん (正義 まさよし 党 とう )と協力 きょうりょく 関係 かんけい に入 はい った90年代 ねんだい より党勢 とうせい が徐々 じょじょ に低迷 ていめい した。2009年 ねん 1月 がつ 、過去 かこ 2回 かい の選挙 せんきょ で2%以上 いじょう の得票 とくひょう 率 りつ を獲得 かくとく することができなかった同 どう 党 とう は、司法 しほう 判断 はんだん によりブエノスアイレス州 しゅう での政党 せいとう 資格 しかく が剥奪 はくだつ され、同年 どうねん 3月 がつ には、党 とう の2007年度 ねんど 版 ばん 収支 しゅうし 報告 ほうこく 書 しょ に不備 ふび があったことを理由 りゆう に、政党 せいとう 助成 じょせい 金 きん の給付 きゅうふ も停止 ていし された。なお、前 ぜん 政権 せいけん で副 ふく 大統領 だいとうりょう を務 つと めていたアマド・ボウドウは国政 こくせい レベルの現役 げんえき 政治 せいじ 家 か では唯一 ゆいいつ の中 なか 民 みん 連 れん 出身 しゅっしん 者 しゃ である。
相次 あいつ ぐ国軍 こくぐん の反乱 はんらん などや度重 たびかさ なるデフォルトなどに見 み られるように、歴史 れきし 上 じょう 「中 なか 進 すすむ 国 こく 」とされてきた国々 くにぐに の中 なか ではもっとも政情 せいじょう の安定 あんてい していない国 くに のひとつであり、この政情 せいじょう 不安定 ふあんてい さは1983年 ねん の民政 みんせい 移管 いかん 後 ご の失政 しっせい や、2001年 ねん 11月の経済 けいざい 破綻 はたん など、一連 いちれん の経済 けいざい 不安 ふあん や現在 げんざい の極度 きょくど に拡大 かくだい した貧富 ひんぷ 格差 かくさ の元凶 げんきょう とされている。この不安定 ふあんてい さを国民 こくみん 統合 とうごう が成功 せいこう していない(国民 こくみん 全体 ぜんたい に受 う け入 い れられる国民 こくみん 文化 ぶんか が成立 せいりつ していない)ことに求 もと める言説 げんせつ は多 おお い。
2009年 ねん 3月 がつ 26日 にち 、上院 じょういん は10月 がつ に予定 よてい されていた上 うえ ・下 しも 両院 りょういん の中 なか 間 あいだ 選挙 せんきょ を6月 がつ 28日 にち に行 おこな う法案 ほうあん を可決 かけつ した。クリスティーナ・キルチネル前 ぜん 大統領 だいとうりょう は国際 こくさい 金融 きんゆう 危機 きき に対応 たいおう する必要 ひつよう から議会 ぎかい 選挙 せんきょ の前倒 まえだお しを提案 ていあん していた。
2012年 ねん 4月 がつ 16日 にち 、政府 せいふ はレプソル 傘下 さんか のアルゼンチン最大 さいだい の石油 せきゆ 会社 かいしゃ YPFの株式 かぶしき の過半数 かはんすう にあたる51%を取得 しゅとく し、同社 どうしゃ の経営 けいえい 権 けん を取得 しゅとく する方針 ほうしん を明 あき らかにした[12] 。
2023年 ねん 11月19日 にち (日本 にっぽん 時間 じかん 11月 がつ 20日 はつか )行 おこな われた大統領 だいとうりょう 選 せん 決選 けっせん 投票 とうひょう にて、ハビエル・ミレイ 候補 こうほ の当選 とうせん が発表 はっぴょう された[13] 。
国家 こっか 安全 あんぜん 保障 ほしょう
編集 へんしゅう
ブエノスアイレスのサン・マルティン公園 こうえん を閲兵 えっぺい する、独立 どくりつ 戦争 せんそう 時 じ にサン=マルティン 将軍 しょうぐん が創設 そうせつ した擲弾騎兵 きへい 連隊 れんたい
アルゼンチン軍 ぐん は国防 こくぼう 大臣 だいじん によって指揮 しき され、大統領 だいとうりょう が最高 さいこう 指揮 しき 官 かん を兼 か ねる。兵制 へいせい は志願 しがん 兵制 へいせい を採用 さいよう している。軍隊 ぐんたい は陸海空 りくかいくう の三軍 さんぐん のほかに国家 こっか 憲兵 けんぺい 隊 たい から構成 こうせい される。歴史 れきし 的 てき にアルゼンチン軍 ぐん はチリやブラジルとの軍拡 ぐんかく 競争 きょうそう の結果 けっか もあり、ラテンアメリカでもっともよく整備 せいび された軍隊 ぐんたい だった。
アルゼンチンはブラジルと同 おな じように建国 けんこく 以来 いらい 軍部 ぐんぶ の力 ちから が強 つよ く、クーデターが日常 にちじょう 的 てき に起 お きる不安定 ふあんてい な国 くに だった。1970年代 ねんだい のクーデター以降 いこう 、アルゼンチン軍 ぐん は都市 とし ゲリラ排除 はいじょ のために国内 こくない で『汚 きたな い戦争 せんそう 』に従事 じゅうじ し、8,000人 にん とも3万 まん 人 にん ともいわれる市民 しみん の犠牲 ぎせい 者 しゃ を出 だ しており、これは現在 げんざい でも五月 ごがつ 広場 ひろば の母 はは の会 かい などの訴 うった えにより問題 もんだい となっている。しかし、建国 けんこく 以来 いらい 初 はつ の敗戦 はいせん となったマルビナス戦争 せんそう により軍 ぐん の威信 いしん は落 お ち、民政 みんせい 移管 いかん 後 ご の1983年 ねん に長 なが らく第 だい 一 いち の仮想 かそう 敵国 てきこく だったチリとも国境 こっきょう 線 せん が確定 かくてい され、核 かく 計画 けいかく やアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の肝煎 きもい りで進 すす められていたミサイル 計画 けいかく が放棄 ほうき されると軍 ぐん は大幅 おおはば に削減 さくげん され、その後 ご のいくつかの反乱 はんらん 計画 けいかく も未然 みぜん に終 お わるなど現在 げんざい は政治 せいじ 力 りょく を減 へ らしている。敗戦 はいせん の結果 けっか から徴兵 ちょうへい 制 せい を敷 し いていない国 くに でもあるが、一部 いちぶ で復活 ふっかつ を求 もと める意見 いけん もある。
国防 こくぼう 予算 よさん : 38億 おく ドル(2000年 ねん )
兵員 へいいん : 7万 まん 1,100人 にん (2000年 ねん )
アルゼンチン陸軍 りくぐん (Ejército Argentino )は兵員 へいいん 4万 まん 1,400人 にん からなる。軍団 ぐんだん 3。空挺 くうてい 旅団 りょだん 1、機械 きかい 化 か 旅団 りょだん 1などを擁 よう し、装備 そうび 品 ひん はTAM 200両 りょう 、軽 けい 戦車 せんしゃ 150両 りょう 。地 ち 対空 たいくう ミサイル はタイガーキャット など。
アルゼンチン陸軍 りくぐん は現在 げんざい PKO のため、ハイチ とキプロス に派遣 はけん されている。
アルゼンチン海軍 かいぐん (Armada de la República Argentina (ARA)) は兵員 へいいん 1万 まん 7,200人 にん からなる。8基地 きち 。潜水 せんすい 艦 かん 3隻 せき 、駆逐 くちく 艦 かん 6隻 せき 、フリゲート 7隻 せき 、航空 こうくう 隊 たい 作戦 さくせん 機 き 21機 き 、武装 ぶそう ヘリ14機 き 、フランス製 せい シュペルエタンダール 11機 き 、エグゾセ 空 そら 対 たい 艦 かん ミサイル など。艦艇 かんてい についてはアルゼンチン海軍 かいぐん 艦艇 かんてい 一覧 いちらん を参照 さんしょう のこと。20世紀 せいき 初頭 しょとう に起 お きた日 にち 露 ろ 戦争 せんそう の際 さい には、編入 へんにゅう される予定 よてい だったイタリア製 いたりあせい 装甲 そうこう 巡洋艦 じゅんようかん 二 に 隻 せき (日進 にっしん (装甲 そうこう 巡洋艦 じゅんようかん ) 、春日 しゅんじつ (装甲 そうこう 巡洋艦 じゅんようかん ) )を日本 にっぽん 海軍 かいぐん に売却 ばいきゃく 譲渡 じょうと し、日 にち 露 ろ 戦争 せんそう の勝利 しょうり に貢献 こうけん したという歴史 れきし 的 てき 関 かか わりを持 も つ。
アルゼンチン空軍 くうぐん (Fuerza Aérea Argentina )は兵員 へいいん 1万 まん 2,500人 にん からなる。航空 こうくう 旅団 りょだん 8など。作戦 さくせん 機 き 133機 き 、武装 ぶそう ヘリ 27機 き 、戦闘 せんとう 機 き はA-4 スカイホークなど。
アルゼンチンが外交 がいこう 使節 しせつ を派遣 はけん している諸国 しょこく の一覧 いちらん 図 ず (2019年 ねん )
2001年 ねん の債務 さいむ 不履行 ふりこう 以来 いらい 、アルゼンチンは諸 しょ 外国 がいこく に大 おお きく不信 ふしん 感 かん を持 も たれ、1982年 ねん のマルビナス戦争 せんそう 以来 いらい の国際 こくさい 的 てき な孤立 こりつ に陥 おちい ったが、現在 げんざい は債務 さいむ の返済 へんさい などを軸 じく に国際 こくさい 社会 しゃかい への復帰 ふっき が進 すす められている。アルゼンチンは南極 なんきょく 条約 じょうやく 締結 ていけつ 国 こく であるが、南極 なんきょく の領有 りょうゆう 権 けん を主張 しゅちょう している(アルゼンチン領 りょう 南極 なんきょく )。またアルゼンチンは、フォークランド紛争 ふんそう に敗北 はいぼく したのちもなおイギリスが実効 じっこう 支配 しはい するマルビナス諸島 しょとう の領有 りょうゆう 権 けん も主張 しゅちょう している。2007年 ねん 12月、クリスティーナ・フェルナンデス・デ・キルチネル 大統領 だいとうりょう は、多国 たこく 間 あいだ 主義 しゅぎ とテロ根絶 こんぜつ を強調 きょうちょう した。
戦前 せんぜん はイギリスに周辺 しゅうへん 国 こく 化 か され半 なか ば属国 ぞっこく のような様相 ようそう を呈 てい していながらも、輸出 ゆしゅつ で蓄 たくわ えた経済 けいざい 力 りょく を背景 はいけい に、スペイン語 ご 圏 けん を代表 だいひょう する国家 こっか として旧 きゅう 宗主 そうしゅ 国 こく スペインをしのぐ勢 いきお いで権勢 けんせい を誇 ほこ っていた。北米 ほくべい において似 に たような立場 たちば にあったアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく をライバル視 し し、同国 どうこく がモンロー主義 しゅぎ のもとで中南米 ちゅうなんべい を勢力 せいりょく 圏 けん に入 い れようとしていたのに対 たい し、ヨーロッパ諸国 しょこく を重視 じゅうし する独自 どくじ 外交 がいこう のもとでアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく とは距離 きょり を置 お き、常 つね にほかのラテンアメリカ諸国 しょこく とは一線 いっせん を画 かく していた。
ビーグル水道 すいどう で領土 りょうど 問題 もんだい を抱 かか えていたチリとは伝統 でんとう 的 てき に関係 かんけい が悪 わる く、第 だい 二 に 次 じ 大戦 たいせん 後 ご は何 なん 度 ど か戦争 せんそう 直前 ちょくぜん にまで陥 おちい ったこともあった。1984年 ねん にローマ教皇 きょうこう ヨハネ・パウロ2世 せい (フアン・パブロ2世 せい )の仲介 ちゅうかい により、アルゼンチンが係争 けいそう 地 ち のピクトン島 とう ・レノックス島 とう ・ヌエバ島 とう のチリ帰属 きぞく を認 みと め、領土 りょうど 問題 もんだい において妥協 だきょう することにより友好 ゆうこう 関係 かんけい が確立 かくりつ された。しかしその後 ご 、2004年 ねん に事前 じぜん に連絡 れんらく なくチリへの天然 てんねん ガスの輸送 ゆそう を停止 ていし してしまったことが大 おお きな外交 がいこう 問題 もんだい となった。
アルゼンチンの最大 さいだい のライバルは隣 となり の大国 たいこく ブラジルであり、オリンピック やサッカーの大会 たいかい があるたび互 たが いに強烈 きょうれつ な対抗 たいこう 意識 いしき を持 も って争 あらそ っていたが、ラウル・アルフォンシンの融和 ゆうわ 政策 せいさく が功 こう を奏 そう して両者 りょうしゃ ともメルコスール に加盟 かめい するなどの経済 けいざい 統合 とうごう が進 すす んでいる。以上 いじょう のような事情 じじょう により、現在 げんざい のアルゼンチンはブラジルを軸 じく としたラテンアメリカ統合 とうごう を受容 じゅよう し、その主要 しゅよう 国 こく として影響 えいきょう 力 りょく を保 たも っている。また対外 たいがい 政策 せいさく では一線 いっせん を画 かく しながらも、石油 せきゆ や天然 てんねん ガスなどの資源 しげん を背景 はいけい にベネズエラ の歴代 れきだい 政権 せいけん との友好 ゆうこう 関係 かんけい が続 つづ いている。
ヨーロッパとの関係 かんけい も重要 じゅうよう であり、もっとも関係 かんけい のよい国家 こっか はスペイン である。言語 げんご が共通 きょうつう するために多 おお くのラテンアメリカ人 じん がスペインに出稼 でかせ ぎ、移民 いみん として居住 きょじゅう しているが、アルゼンチンもその例外 れいがい ではなく多 おお くのアルゼンチン人 じん が移住 いじゅう している。
日本 にっぽん との関係 かんけい
編集 へんしゅう
地方 ちほう 行政 ぎょうせい 区分 くぶん
編集 へんしゅう
アルゼンチンの州 しゅう の一覧 いちらん (数字 すうじ はABC順 じゅん )。黒点 こくてん は州都 しゅうと
アルゼンチンの政治 せいじ 的 てき な地域 ちいき 区分 くぶん (スペイン語 ご 版 ばん ) 。この区分 くぶん では5つの地方 ちほう に分 わ けられる。後述 こうじゅつ の地理 ちり 的 てき な区分 くぶん とは違 ちが うことに注意 ちゅうい (Ⅰ)Norte Grande Argentino (Ⅱ)Nuevo Cuyo (Ⅲ)Centro (Ⅳ)Patagonia (Ⅴ)ブエノスアイレス州 しゅう
アルゼンチンは23の州 しゅう (provincia)と1つの自治 じち 市 し (Ciudad Autónoma)*からなる。
ブエノスアイレス自治 じち 市 し * (Buenos Aires City)
ブエノスアイレス州 しゅう (Buenos Aires)
カタマルカ州 しゅう (Catamarca)
チャコ州 しゅう (Chaco)
チュブ州 しゅう (Chubut)
コルドバ州 しゅう (Córdoba)
コリエンテス州 しゅう (Corrientes)
エントレ・リオス州 しゅう (Entre Ríos)
フォルモサ州 しゅう (Formosa)
フフイ州 しゅう (Jujuy)
ラ・パンパ州 しゅう (La Pampa)
ラ・リオハ州 しゅう (La Rioja)
メンドーサ州 しゅう (Mendoza)
ミシオネス州 しゅう (Misiones)
ネウケン州 しゅう (Neuquén)
リオネグロ州 しゅう (Río Negro)
サルタ州 しゅう (Salta)
サンフアン州 しゅう (San Juan)
サンルイス州 しゅう (San Luis)
サンタクルス州 しゅう (Santa Cruz)
サンタフェ州 しゅう (Santa Fe)
サンティアゴ・デル・エステロ州 しゅう (Santiago del Estero)
ティエラ・デル・フエゴ、アンタルティダ・エ・イスラス・デル・アトランティコ・スール州 しゅう (フエゴ島 とう 、南極 なんきょく および南 みなみ 大西洋 たいせいよう 諸島 しょとう 、Tierra del Fuego, Antártida e Islas del Atlántico Sur)
トゥクマン州 しゅう (Tucumán)
ほかにイギリス領 りょう のマルビナス諸島 しょとう の領有 りょうゆう 権 けん を主張 しゅちょう している。国土 こくど 統一 とういつ 直後 ちょくご の1853年 ねん に首都 しゅと 令 れい があったものの、ブエノスアイレスは1880年 ねん までは正式 せいしき な首都 しゅと ではなかった。
各州 かくしゅう は州 しゅう 内 ない でさらに小 ちい さな行政 ぎょうせい 単位 たんい に分割 ぶんかつ され、県 けん (departomentos)は合計 ごうけい 376県 けん にもなる。ブエノスアイレス州 しゅう は県 けん に類似 るいじ した134ものpartidosに分割 ぶんかつ される。departomentos・partidosともに市町村 しちょうそん や地域 ちいき の中 なか から分割 ぶんかつ された区分 くぶん である。
アルゼンチンは北西 ほくせい 部 ぶ のアンデス山脈 あんですさんみゃく 周辺 しゅうへん から開発 かいはつ が進 すす められたが、独立 どくりつ 後 ご は歴史 れきし 的 てき に外港 がいこう がブエノスアイレスしか存在 そんざい しなかったことを反映 はんえい して、19世紀 せいき 、20世紀 せいき を通 とお して内陸 ないりく 部 ぶ の開発 かいはつ は進 すす まず、現在 げんざい も極端 きょくたん なブエノスアイレス一 いち 極 きょく 集中 しゅうちゅう である。1980年代 ねんだい のアルフォンシン時代 じだい に、パタゴニアのリオ・ネグロ州 しゅう 州都 しゅうと ビエドマ への遷都 せんと 計画 けいかく もあったが、結局 けっきょく 実行 じっこう されないまま計画 けいかく は凍結 とうけつ された。
2005年 ねん におけるアルゼンチンの14の大都市 だいとし 圏 けん
順位 じゅんい
都市 とし
州 しゅう
人口 じんこう
地域 ちいき
1
ブエノスアイレス
市域 しいき + ブエノスアイレス州 しゅう の24の管区 かんく
11,453,725
パンパ
2
コルドバ
コルドバ州 しゅう
1,513,200
パンパ
3
ロサリオ
サンタフェ州 しゅう
1,295,100
パンパ
4
ラ・プラタ
ブエノスアイレス州 しゅう
857,800
パンパ
5
サン・ミゲル・デ・トゥクマン
トゥクマン州 しゅう
833,100
北西 ほくせい 部 ぶ
6
マル・デル・プラタ
ブエノスアイレス州 しゅう
699,600
パンパ
7
サルタ
サルタ州 しゅう
531,400
北西 ほくせい 部 ぶ
8
サンタフェ
サンタフェ州 しゅう
524,300
パンパ
9
サン・フアン
サン・フアン州 しゅう
456,400
クージョ
10
レシステンシア
チャコ州 しゅう
399,800
グラン・チャコ
11
ネウケン
ネウケン州 しゅう
391,600
パタゴニア
12
サンティアゴ・デル・エステロ
サンティアゴ・デル・エステロ州 しゅう
389,200
グラン・チャコ
13
コリエンテス
コリエンテス州 しゅう
332,400
メソポタミア
14
バイア・ブランカ
ブエノスアイレス州 しゅう
310,200
パンパ
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サルタ州 しゅう
パタゴニア
パタゴニアの氷 こおり 湖 みずうみ
ペリート・モレノ氷河 ひょうが
サルタ州 しゅう のカルチャキ渓谷 けいこく
プルママルカの七 なな 色 しょく の丘 おか
バリローチェ から見 み たナウエル・ウアピ湖 こ の光景 こうけい
アルゼンチン最高峰 さいこうほう アコンカグア (6,962メートル)。南北 なんぼく アメリカ、および西半球 にしはんきゅう 最高峰 さいこうほう でもある
アルゼンチンの国土 こくど は、南北 なんぼく に3,500キロ以上 いじょう の長 なが さに及 およ ぶ、ブラジルについで南米 なんべい で2番目 ばんめ に大 おお きい国 くに で、面積 めんせき は全体 ぜんたい で276万 まん 6,890km²になり、陸地 りくち のみでは273万 まん 6,690km²に、水域 すいいき のみでは3万 まん 200km²に及 およ ぶ。
アルゼンチンでもっとも標高 ひょうこう が高 たか いのはメンドーサ州 しゅう のアコンカグア山 さん (6,962メートル)であり、これは米州 べいしゅう と西半球 にしはんきゅう 全体 ぜんたい でもっとも高 たか い山 やま でもある。反対 はんたい にもっとも標高 ひょうこう が低 ひく いのはサンタ・クルス州 しゅう のカルボン湖 こ であり、海抜 かいばつ マイナス105メートルは南 みなみ アメリカ大陸 あめりかたいりく 全体 ぜんたい でももっとも低 ひく い。国土 こくど の中心 ちゅうしん はラ・パンパ州 しゅう の南西 なんせい である。
アルゼンチンは、中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく と、北部 ほくぶ の一部 いちぶ は中華民国 ちゅうかみんこく (台湾 たいわん )、南部 なんぶ の一部 いちぶ はモンゴル国 こく やロシア (シベリア )の対蹠 たいしょ 地 ち である。
アルゼンチンは1904年 ねん から南極 なんきょく 大陸 たいりく の領有 りょうゆう 権 けん を主張 しゅちょう している。イギリスが実効 じっこう 支配 しはい しているマルビナス諸島 しょとう の領有 りょうゆう 権 けん も主張 しゅちょう している。
アルゼンチンは伝統 でんとう 的 てき にいくつかの地理 ちり 的 てき な区分 くぶん に分 わ けられる。北 きた は亜熱帯 あねったい に属 ぞく し、熱帯 ねったい 雨林 うりん が形成 けいせい されている。西 にし にアンデス山脈 あんですさんみゃく 、東 ひがし にはパンパ と呼 よ ばれる大 だい 草原 そうげん が広 ひろ がる。パンパは国土 こくど の約 やく 25%を占 し める。ウルグアイ川 がわ とパラナ川 がわ に挟 はさ まれた地方 ちほう は、メソポタミア地方 ちほう でパンパと同 おな じく草原 そうげん 地帯 ちたい である。南緯 なんい 40度 ど 付近 ふきん に位置 いち するコロラド川 がわ 以南 いなん をパタゴニア 地方 ちほう と呼 よ び、荒涼 こうりょう たる砂漠 さばく が広 ひろ がっている。
パンパ は国土 こくど の約 やく 25%を占 し め、アルゼンチンの富 とみ の多 おお くを生 う み出 だ している。ブエノスアイレスの西 にし と南 みなみ に広 ひろ がる草原 そうげん は湿潤 しつじゅん パンパ(スペイン語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) と呼 よ ばれ、ブエノスアイレス州 しゅう とコルドバ州 しゅう のほぼすべてと、サンタフェ州 しゅう とラ・パンパ州 しゅう の大 だい 部分 ぶぶん を占 し める。ラ・パンパ州 しゅう の西部 せいぶ は半 はん 乾燥 かんそう パンパ(スペイン語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) になっている。
湿潤 しつじゅん パンパ(スペイン語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) は年間 ねんかん 降水 こうすい 量 りょう が750ミリ以上 いじょう で、アルファルファ (マメ科 か ・栄養 えいよう があり、土地 とち を豊 ゆた かにする牧草 ぼくそう )・トウモロコシなどを栽培 さいばい し、牧牛 ぼくぎゅう をしている。半 はん 乾燥 かんそう パンパ(スペイン語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) は年間 ねんかん 降水 こうすい 量 りょう が550ミリ以下 いか で乾燥 かんそう に強 つよ い牧羊 ぼくよう をしている。移行 いこう 地帯 ちたい では小麦 こむぎ (年間 ねんかん 降水 こうすい 量 りょう が550 - 750ミリが適当 てきとう )の栽培 さいばい をしている。
コルドバ州 しゅう 西部 せいぶ のコルドバ山脈 さんみゃく はサン・ルイス州 しゅう まで延 の び、パンパの中 なか ではもっとも重要 じゅうよう な地域 ちいき となっている。パンパとパタゴニアの境界 きょうかい 線 せん は、かつてはコロラド川 がわ だったが、現在 げんざい はネグロ川 がわ となっている。
グラン・チャコ 地方 ちほう はアルゼンチン北部 ほくぶ に位置 いち し、雨季 うき と乾季 かんき がはっきりと分 わ かれ、おもに綿花 めんか の栽培 さいばい や家畜 かちく の飼育 しいく が盛 さか んである。こうした地域 ちいき はチャコ州 しゅう とフォルモサ州 しゅう の大 だい 部分 ぶぶん を占 し める。植生 しょくせい としては亜熱帯 あねったい 雨林 うりん や低木 ていぼく 林地 りんち や湿地 しっち 帯 おび が点在 てんざい し、多 おお くの動植物 どうしょくぶつ が生息 せいそく する。サンティアゴ・デル・エステロ州 しゅう はグラン・チャコの中 なか でもっとも乾燥 かんそう した地域 ちいき である。
パラナ川 がわ とウルグアイ川 がわ に囲 かこ まれた地域 ちいき はメソポタミア地方 ちほう と呼 よ ばれ、ミシオネス州 しゅう 、コリエンテス州 しゅう とエントレ・リオス州 しゅう が属 ぞく する。かつてはグアラニー人 じん が多 おお く住 す んでいた土地 とち で、文化 ぶんか 的 てき にはパラグアイやウルグアイに近 ちか く、牧草 ぼくそう 地 ち や植物 しょくぶつ の育 そだ ちやすい平坦 へいたん な土地 とち が特徴 とくちょう であり、コリエンテス州 しゅう 中部 ちゅうぶ にイベラ湿地 しっち (英語 えいご 版 ばん ) が存在 そんざい する。ミシオネス州 しゅう はより熱帯 ねったい に近 ちか く地理 ちり 的 てき にはブラジル高原 こうげん に属 ぞく し、イグアスの滝 たき と亜熱帯 あねったい 雨林 うりん が特徴 とくちょう である。
ネウケン州 しゅう 、リオ・ネグロ州 しゅう 、チュブ州 しゅう 、サンタ・クルス州 しゅう にまたがるパタゴニア のステップ は先住民 せんじゅうみん の地域 ちいき である。多 おお くの地域 ちいき では雨 あめ が少 すく なく、北 きた は寒 さむ くて南 みなみ は不毛 ふもう の地 ち であるが、西部 せいぶ の周辺 しゅうへん には森林 しんりん があり、後述 こうじゅつ するようにいくつかの大 おお きい湖 みずうみ も点在 てんざい する。ティエラ・デル・フエゴ州 しゅう は寒 さむ く湿 しめ っており、大西洋 たいせいよう からの海流 かいりゅう の影響 えいきょう で多少 たしょう は過 す ごしやすい。パタゴニア北部 ほくぶ (ネグロ川 かわ 以南 いなん のリオ・ネグロ州 しゅう とネウケン州 しゅう )はコマウエ地域 ちいき と呼 よ ばれることがある。
アルゼンチン中西部 ちゅうせいぶ はそびえるアンデス山脈 あんですさんみゃく に支配 しはい されている。同 どう 地域 ちいき の東部 とうぶ は乾燥 かんそう したクージョ 地域 ちいき として知 し られており、クージョ(Cuyo)という名前 なまえ もマプーチェ語 ご で「砂地 すなじ 」という意味 いみ の言葉 ことば からきているとされている。高山 こうざん から溶 と けてきた水 みず は低地 ていち のオアシス の灌漑 かんがい 用水 ようすい となり、メンドーサ州 しゅう とサン・フアン州 しゅう を豊 ゆた かな果実 かじつ とワイン の生産 せいさん の中心 ちゅうしん としている。さらに北 きた の地域 ちいき 、ラ・リオハ州 しゅう などは地理 ちり 的 てき な理由 りゆう でより暑 あつ く、乾燥 かんそう した地域 ちいき になる。
北西 ほくせい 部 ぶ 地域 ちいき はアルゼンチンでもっとも海抜 かいばつ の高 たか い地域 ちいき であり、6,000メートルを超 こ えるいくつかの平行 へいこう なアンデス山脈 あんですさんみゃく が領域 りょういき を貫 つらぬ いている。これらの山脈 さんみゃく は北方 ほっぽう に向 む かって延 の びており、それらは肥沃 ひよく な流域 りゅういき によって分断 ぶんだん され、その中 なか でももっとも重要 じゅうよう な渓谷 けいこく はカタマルカ州 しゅう 、トゥクマン州 しゅう 、サルタ州 しゅう に広 ひろ がるカルチャキ渓谷 けいこく (スペイン語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) である。フフイ州 しゅう 北部 ほくぶ のボリビア 国境 こっきょう 付近 ふきん からは、中央 ちゅうおう アンデスのアルティプラーノ 高原 こうげん が広 ひろ がる。
国土 こくど 西部 せいぶ を南北 なんぼく にアンデス山脈 あんですさんみゃく が貫 つらぬ き、アルゼンチンの山地 さんち や国内 こくない 最高峰 さいこうほう のアコンカグア をはじめとする高山 こうざん の多 おお くはこの地域 ちいき に集中 しゅうちゅう する。コルドバ州 しゅう の西部 せいぶ にもコルドバ山脈 さんみゃく が存在 そんざい するが、標高 ひょうこう はあまり高 たか くない。
アルゼンチンの主要 しゅよう な河川 かせん はピルコマジョ川 がわ 、パラグアイ川 がわ 、ベルメホ川 がわ 、 コロラド川 がわ 、ネグロ川 がわ 、サラド川 がわ 、ウルグアイ川 がわ などであり、国内 こくない 最長 さいちょう の河川 かせん はブラジルから流 なが れるパラナ川 がわ である。ウルグアイ川 がわ とパラナ川 がわ は大西 おおにし 洋 ひろし に流 なが れ出 で る前 まえ に合流 ごうりゅう し、ラ・プラタ川 がわ の河口 かこう を形成 けいせい する。各 かく 地域 ちいき ごとに重要 じゅうよう な河川 かせん としてはアトゥエル川 がわ (スペイン語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) 、メンドーサ州 しゅう と同名 どうめい のメンドーサ川 がわ 、パタゴニアのチュブ川 がわ 、フフイ州 しゅう のリオ・グランデ川 がわ (スペイン語 ご 版 ばん ) 、サルタ州 しゅう のサン・フランシスコ川 がわ (スペイン語 ご 版 ばん ) などがある。
パタゴニアを中心 ちゅうしん にいくつかの大 おお きな湖 みずうみ が存在 そんざい する。アルヘンティーノ湖 こ とビエドマ湖 こ がサンタ・クルス州 しゅう に、ナウエル・ウアピ湖 こ がリオ・ネグロ州 しゅう に、ファグナーノ湖 こ がティエラ・デル・フエゴ州 しゅう に、コルウエ・ウアピ湖 こ とムステル湖 こ がチュブ州 しゅう に、ブエノスアイレス湖 こ とサン・マルティン湖 こ はチリとの国境 こっきょう を形成 けいせい している。国内 こくない でもっとも大 おお きい塩 しお 湖 みずうみ はマール・チキータ である。アルゼンチンの多数 たすう の貯水池 ちょすいち がダム によって作 つく られている。エントレ・リオス州 しゅう にはテルマス・デ・リオ・オンド など、水温 すいおん は30℃から65℃の温泉 おんせん があり、川 かわ を挟 はさ んで対岸 たいがん のウルグアイ北部 ほくぶ にも温泉 おんせん がある。
アルゼンチンは4,665キロの海岸 かいがん 線 せん を有 ゆう している。大陸 たいりく の上陸 じょうりく 可能 かのう 地点 ちてん は非常 ひじょう に広 ひろ く、アルゼンチンではこの広大 こうだい な大西洋 たいせいよう の浅瀬 あさせ はアルゼンチン海 うみ と呼 よ ばれる。海中 かいちゅう には多 おお くの魚 さかな が住 す み、炭化 たんか 水素 すいそ エネルギー資源 しげん を保有 ほゆう していると予想 よそう されている。アルゼンチンの沿岸 えんがん は砂丘 さきゅう と崖 がけ に挟 はさ まれている。沿岸 えんがん に影響 えいきょう を及 およ ぼしている2つの海流 かいりゅう のうち、暖流 だんりゅう はブラジル海流 かいりゅう であり、寒流 かんりゅう はフォークランド海流 かいりゅう (スペイン語 ご では大西洋 たいせいよう 海流 かいりゅう 、もしくはマルビナス海流 かいりゅう )である。沿岸 えんがん の大地 だいち では不規則 ふきそく な形状 けいじょう のため、2つの海流 かいりゅう は気候 きこう に対 たい して相互 そうご に影響 えいきょう し、高緯度 こういど 地方 ちほう においても気温 きおん を下 さ げさせない。ティエラ・デル・フエゴ の南端 なんたん はドレーク海峡 かいきょう の北岸 ほくがん を構成 こうせい している。
アルゼンチンにはマルティン・ガルシア島 とう という飛地 とびち がある。パラナ川 がわ とウルグアイ川 がわ の合流 ごうりゅう 点 てん 付近 ふきん に存在 そんざい し、約 やく 1キロほどウルグアイの水域 すいいき に入 はい っており、3.5キロほど離 はな れたウルグアイの沿岸 えんがん にはマルティン・チコ (ヌエバ・パルミラ とコロニア・デル・サクラメント の中 なか 間 あいだ )が存在 そんざい する。
一 いち 世紀 せいき にわたる両国 りょうこく 紛糾 ふんきゅう の末 すえ に、アルゼンチンとウルグアイは1973年 ねん に島 しま の管理 かんり 権 けん について合意 ごうい に達 たっ した。協定 きょうてい に従 したが って、マルティン・ガルシアは排他 はいた 的 てき 自然 しぜん 保護 ほご 区 く として用 もち いられることとなった。面積 めんせき は約 やく 2km2 であり、住民 じゅうみん は約 やく 200人 にん である。
地域 ちいき によって大 おお きく異 こと なるが、亜熱帯 あねったい 、温帯 おんたい 、乾燥 かんそう 帯 たい 、寒帯 かんたい の4つに大別 たいべつ される。北部 ほくぶ は非常 ひじょう に蒸 む し暑 あつ い夏 なつ と、穏 おだ やかで乾 かわ いた冬 ふゆ があり、周期 しゅうき 的 てき に旱魃 かんばつ に見舞 みま われる。アルゼンチン中部 ちゅうぶ では雷 かみなり を伴 ともな う大嵐 おおあらし (西部 せいぶ では世界 せかい でもっとも多 おお くの雹が降 ふ る)のある暑 あつ い夏 なつ と、涼 すず しい冬 ふゆ がある。南部 なんぶ は暖 あたた かい夏 なつ と、特 とく に山岳 さんがく 地帯 ちたい では豪雪 ごうせつ に見舞 みま われる寒 さむ い冬 ふゆ がある。すべての緯度 いど の地域 ちいき において、標高 ひょうこう の高 たか い地点 ちてん では冷 つめ たい気候 きこう となる。
南米 なんべい における観測 かんそく 史上 しじょう での最高 さいこう 気温 きおん と最低 さいてい 気温 きおん はともにアルゼンチンで観測 かんそく された。最高 さいこう 気温 きおん の49.1℃は1920年 ねん 1月 がつ 20日 はつか にコルドバ州 しゅう のビジャ・デ・マリアで記録 きろく された。最低 さいてい 気温 きおん の-39℃は1972年 ねん 7月 がつ 17日 にち にサン・フアン州 しゅう のビジャ・デ・ロス・パトース・スペリオールで記録 きろく された。
ブエノスアイレスの中心 ちゅうしん にある、世界 せかい でもっとも幅 はば が広 ひろ い道路 どうろ である7月 がつ 9日 にち 大通 おおどお り 。中央 ちゅうおう に見 み えるのはオベリスコ
IMF の統計 とうけい によると、2018年 ねん のアルゼンチンのGDP は約 やく 5,194億 おく ドルと世界 せかい 21位 い であり、南米 なんべい ではブラジル に次 つ ぐ2位 い である。一人 ひとり 当 あ たりのGDP は1万 まん 1658ドルで、こちらはウルグアイ 、チリ に次 つ いで南米 なんべい 3位 い である。アルゼンチンはメルコスール 、南米 なんべい 共同 きょうどう 体 たい の加盟 かめい 国 こく である。
アルゼンチンでは幅広 はばひろ い産業 さんぎょう が行 おこな われている。農産物 のうさんぶつ は、主要 しゅよう 輸出 ゆしゅつ 品目 ひんもく は小麦 こむぎ 、トウモロコシ 、牛肉 ぎゅうにく 、ワイン などに加 くわ え、2000年代 ねんだい 以降 いこう は大豆 だいず の生産 せいさん も盛 さか んになっている[14] 。2019/2020年度 ねんど 時点 じてん で大豆 だいず の生産 せいさん 量 りょう がブラジル、アメリカに次 つ いで3位 い の約 やく 13%を占 し めており、大豆 だいず 輸出 ゆしゅつ 量 りょう 世界 せかい 第 だい 4位 い である[15] 。トウモロコシの生産 せいさん 量 りょう はアメリカ、中国 ちゅうごく 、ブラジルに次 つ いで4位 い [16] 。その他 た にも小麦 こむぎ 、ヒマワリ油 ゆ 、グレーンソルガム[17] [18] などがある。アルゼンチンは牛肉 ぎゅうにく の生産 せいさん 量 りょう が2020年度 ねんど 世界 せかい 4位 い [19] で、国内 こくない 消費 しょうひ も肉類 にくるい の中 なか では最多 さいた である。ただし、同年 どうねん 、豚肉 ぶたにく や鶏肉 とりにく の消費 しょうひ 量 りょう も増加 ぞうか 傾向 けいこう にある。2020年 ねん の1人 ひとり 当 あ たり年 どし 間 あいだ 豚肉 ぶたにく 消費 しょうひ 量 りょう は10年 ねん 前 まえ と比較 ひかく して77%増 ぞう であった[20] 。アルゼンチンは世界 せかい 第 だい 8位 い の国土 こくど 面積 めんせき を持 も つ[21] 。その広大 こうだい な土地 とち を活 い かし、チリ近郊 きんこう では鉱業 こうぎょう が盛 さか んである。鉱業 こうぎょう 生産 せいさん は、パタゴニアの石油 せきゆ と、近年 きんねん は天然 てんねん ガス も有望 ゆうぼう 視 し されている。また、2010年代 ねんだい 以降 いこう 、カタマルカ州 しゅう やフフイ州 しゅう の塩 しお 湖 みずうみ がリチウム の生産 せいさん 源 げん として注目 ちゅうもく されている[22] 。しかし、水質 すいしつ 汚染 おせん 、先住民 せんじゅうみん の人権 じんけん 侵害 しんがい 、開発 かいはつ に関 かん する事前 じぜん 協議 きょうぎ がないことなどの環境 かんきょう 保護 ほご 活動 かつどう が活発 かっぱつ なため、開発 かいはつ が不十分 ふじゅうぶん である[23] 。アルゼンチン国内 こくない にフォード、GM、トヨタなど完成 かんせい 車 しゃ メーカー10社 しゃ が自動車 じどうしゃ を生産 せいさん している[24] 。主 おも に国内 こくない 農業 のうぎょう で使用 しよう されるピックアップトラックや多目的 たもくてき 車 しゃ が製造 せいぞう されている。2020年 ねん に新型 しんがた コロナウイルスの影響 えいきょう でバス・トラックを除 のぞ く自動車 じどうしゃ 生産 せいさん 台数 だいすう は2004年 ねん 以降 いこう 初 はじ めての30万 まん 台 だい を下回 したまわ った[25] 。
2度 ど の世界 せかい 大戦 たいせん にいずれも直接 ちょくせつ 関与 かんよ せず、各国 かっこく への農 のう 畜産 ちくさん 品 ひん の輸出 ゆしゅつ により大 おお きな利益 りえき を得 え た20世紀 せいき 半 なか ばまでは、世界 せかい 有数 ゆうすう の富裕 ふゆう 国 こく であった。第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご 、国民 こくみん 主義 しゅぎ 志向 しこう のフアン・ペロン 政権 せいけん は、保護 ほご 主義 しゅぎ 的 てき な工業 こうぎょう 化 か 偏重 へんちょう 政策 せいさく をとるが、産業 さんぎょう 構造 こうぞう の転換 てんかん に成功 せいこう せず、次第 しだい に経済 けいざい が低迷 ていめい した。ペロン以降 いこう 顕著 けんちょ になった、福祉 ふくし のための放漫 ほうまん 財政 ざいせい や、彼 かれ の残 のこ した労働 ろうどう 組合 くみあい (CGT)の強 つよ さにより、投資 とうし のしづらい国 くに となり、1960年代 ねんだい 以降 いこう に頻発 ひんぱつ した政変 せいへん に加 くわ え、1982年 ねん のフォークランド紛争 ふんそう とその敗北 はいぼく 、民政 みんせい 移管 いかん 後 ご も長年 ながねん の放漫 ほうまん 財政 ざいせい のツケや敗戦 はいせん のショックの影響 えいきょう で混迷 こんめい する経済 けいざい 状況 じょうきょう に安易 あんい なポプリスモ で対処 たいしょ したため、累積 るいせき 債務 さいむ は雪 ゆき だるま式 しき に増 ふ えていった。特 とく に1988年 ねん から1989年 ねん の間 あいだ には5,000%というハイパーインフレーション を記録 きろく 、物品 ぶっぴん の価値 かち は1年間 ねんかん で50倍 ばい に跳 は ね上 あ がり、ペソは紙屑 かみくず 同然 どうぜん と化 か し、経済 けいざい は崩壊 ほうかい 状態 じょうたい となった。結局 けっきょく 、アルゼンチンは1989年 ねん に対外 たいがい 債務 さいむ のデフォルト を宣言 せんげん した。この間 あいだ の混迷 こんめい による富裕 ふゆう 層 そう の没落 ぼつらく 、中産 ちゅうさん 階級 かいきゅう の海外 かいがい 流出 りゅうしゅつ が続 つづ くなど、経済 けいざい は混迷 こんめい の度 たび を深 ふか めた。
その後 ご 、1988年 ねん から親米 しんべい ・親 おや IMF路線 ろせん を掲 かか げたカルロス・メネム 政権 せいけん の新 しん 自由 じゆう 主義 しゅぎ 路線 ろせん により、1990年代 ねんだい には年率 ねんりつ 9%にも達 たっ する経済 けいざい 成長 せいちょう を遂 と げるなど、一時 いちじ 的 てき に回復 かいふく した。しかし、1999年 ねん に起 お きたブラジルのレアル 切 き り下 さ げ でペソが相対 そうたい 的 てき に高 たか くなり、輸出 ゆしゅつ 競争 きょうそう 力 りょく を喪失 そうしつ 、国際 こくさい 収支 しゅうし は悪化 あっか した。結果 けっか 的 てき に通貨 つうか 危機 きき (ペソの対 たい 米 べい ドルペッグ制 せい 崩壊 ほうかい )により完全 かんぜん に暗転 あんてん 、2001年 ねん 11月14日 にち には国債 こくさい をはじめとした債務 さいむ のデフォルトを宣言 せんげん する事態 じたい に陥 おちい り、経済 けいざい が再 ふたた び破綻 はたん 。国際 こくさい 的 てき な信用 しんよう や評価 ひょうか は地 ち に落 お ちた(アルゼンチン通貨 つうか 危機 きき )。
2度目 どめ のデフォルトにより国内 こくない の貧困 ひんこん も拡大 かくだい し、1980年代 ねんだい に国民 こくみん の約 やく 60%を占 し めていた中 なか 間 あいだ 層 そう は、2005年 ねん には国民 こくみん の約 やく 20%となり[26] 、他方 たほう 貧困 ひんこん 率 りつ は2002年 ねん には53%に達 たっ し[27] 、イタリア やスペイン に職 しょく を求 もと め大量 たいりょう の国民 こくみん が流出 りゅうしゅつ 、その中 なか には医者 いしゃ ・弁護士 べんごし などの知識 ちしき 層 そう も少 すく なくなかった。かつてラテンアメリカで比類 ひるい なき中流 ちゅうりゅう 層 そう の国 くに であり、「南米 なんべい の指導 しどう 者 しゃ 」としての影響 えいきょう 力 りょく も備 そな えていたアルゼンチンは没落 ぼつらく し、政経 せいけい 両面 りょうめん でチリやブラジルに抜 ぬ かれる形 かたち となった。
このようにペロン政権 せいけん 以来 いらい 、一貫 いっかん した経済 けいざい 政策 せいさく がとられなかったツケが回 まわ り、21世紀 せいき に入 はい って早々 そうそう に経済 けいざい が破綻 はたん してしまったものの、2002年 ねん に変動 へんどう 相場 そうば 制 せい を導入 どうにゅう し、通貨 つうか 安 やす のために輸出 ゆしゅつ が拡大 かくだい してからは持 も ち直 なお し始 はじ め、2003年 ねん に就任 しゅうにん したネストル・キルチネル 政権 せいけん は、IMFの干渉 かんしょう を排除 はいじょ するため、100億 おく ドル近 ちか い債務 さいむ を完済 かんさい し、2000年 ねん 末 まつ の経済 けいざい 破綻 はたん 直後 ちょくご の失業 しつぎょう 率 りつ 24%を、2006年 ねん 5月 がつ には11.4%にまで改善 かいぜん した。さらに、2003年 ねん から2007年 ねん まで平均 へいきん 約 やく 8%の高 こう 成長 せいちょう を続 つづ け、2006年 ねん 7月 がつ 9日 にち の独立 どくりつ 190年 ねん 記念 きねん 式典 しきてん でキルチネルは「われわれはIMFにチャオ(さよなら)を告 つ げた」と演説 えんぜつ するなど、経済 けいざい 危機 きき から立 た ち直 なお りつつあった。しかし、再 ふたた び対外 たいがい 債務 さいむ 率 りつ が上昇 じょうしょう 、2010年 ねん には債務 さいむ 額 がく を大幅 おおはば にカットする形 かたち で債務 さいむ 交換 こうかん を強行 きょうこう して9割 わり 以上 いじょう の債務 さいむ を再編 さいへん 、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく との国際 こくさい 問題 もんだい に発展 はってん した。
現在 げんざい はメルコスール加盟 かめい 国 こく であることにより、南米 なんべい 諸国 しょこく との経済 けいざい 交流 こうりゅう の活発 かっぱつ 化 か による諸 しょ 外国 がいこく からの投資 とうし の増大 ぞうだい に、経済 けいざい の復活 ふっかつ を賭 か けている。特 とく にブラジル、ベネズエラ とは政治 せいじ 面 めん でも関係 かんけい を深 ふか め、ベネズエラからの南米 なんべい 大陸 たいりく 縦断 じゅうだん 天然 てんねん ガス輸送 ゆそう 管 かん の設立 せつりつ も計画 けいかく している。アルゼンチンは一向 いっこう に回復 かいふく しない内需 ないじゅ 、および内需 ないじゅ 不振 ふしん の主要 しゅよう な一因 いちいん である人口 じんこう の3〜4割 わり に達 たっ する貧困 ひんこん 層 そう の存在 そんざい など課題 かだい が山積 さんせき している中 なか で、これらを解消 かいしょう しつつ、どのようにして競争 きょうそう 力 りょく のある新 あたら しい産業 さんぎょう を育 そだ てるか、あるいは国内 こくない の法 ほう 制度 せいど 、政治 せいじ 文化 ぶんか などの歪 ゆが みからくる投資 とうし リスクをいかに下 さ げるかなどにかかっている。
2020年 ねん 12月3日 にち 、アルゼンチン・カトリック大学 だいがく の社会 しゃかい 負債 ふさい 調査 ちょうさ 研究所 けんきゅうじょ が調査 ちょうさ 結果 けっか を公表 こうひょう し、貧困 ひんこん 層 そう が人口 じんこう 全体 ぜんたい の44.2%(前年 ぜんねん 同期 どうき は40.8%で3.4ポイント増 ぞう )に達 たっ していること、失業 しつぎょう 率 りつ は14.2%(前年 ぜんねん 同期 どうき は10.6%で3.6ポイント増 ぞう )に悪化 あっか していることが示 しめ され、景気 けいき 低迷 ていめい に加 くわ えて新型 しんがた コロナウイルス感染 かんせん 症 しょう の世界 せかい 的 てき 流行 りゅうこう の影響 えいきょう が指摘 してき されている[28] 。2022年 ねん 10月 がつ には、世界 せかい 的 てき な物価 ぶっか 高騰 こうとう の影響 えいきょう を受 う け、物価 ぶっか 上昇 じょうしょう 率 りつ は前年 ぜんねん 同月 どうげつ 比 ひ +88.0%になっており[29] 、年末 ねんまつ には100%に達 たっ するとの予測 よそく が出 だ されている[30] 。貧困 ひんこん 率 りつ は、2022年 ねん 上半期 かみはんき には36.5%に達 たっ した[31] 。
近年 きんねん の経済 けいざい 指標 しひょう
編集 へんしゅう
アルゼンチンの2021年 ねん の名目 めいもく GDP(国内 こくない 総 そう 生産 せいさん )は4,867億 おく ドル[32] 、実質 じっしつ GDP(国内 こくない 総 そう 生産 せいさん )は5,681億 おく ドルである[33] 。これは、2021年 ねん 世界 せかい の名目 めいもく GDPランキングの29位 い である[34] 。2021年 ねん のGDP成長 せいちょう 率 りつ は、前年 ぜんねん 比 ひ 10.4%と2017年 ねん 以来 いらい 4年 ねん ぶりのプラス成長 せいちょう となった[35] 。
2021年 ねん の貿易 ぼうえき 収支 しゅうし は黒字 くろじ で、輸出 ゆしゅつ 額 がく は前年 ぜんねん 比 ひ 42.0%増 ぞう の779億 おく 3,400万 まん ドル、輸入 ゆにゅう 額 がく は49.2%増 ぞう の631億 おく 8,400万 まん ドルである[36] 。
アルゼンチンの主要 しゅよう な輸出 ゆしゅつ 相手 あいて 地域 ちいき ・国 くに は、ブラジル (15.1%)、EU27 (12.7%)、中国 ちゅうごく (8.1%) である。一方 いっぽう 、アルゼンチンの主要 しゅよう な輸入 ゆにゅう 相手 あいて 国 こく は、中国 ちゅうごく (21.4%) 、ブラジル (19.6%) 、米国 べいこく (9.3%) であり、自動車 じどうしゃ 及 およ び同 どう 部品 ぶひん 、燃料 ねんりょう (ガス、軽油 けいゆ など)を主 おも に輸入 ゆにゅう している[35] 。
2021年度 ねんど 全期 ぜんき の日本 にっぽん からアルゼンチンへの輸出 ゆしゅつ 額 がく は、前年度 ぜんねんど 比 ひ 54.6%増 ぞう の988億 おく 円 えん で、自動車 じどうしゃ 及 およ び部品 ぶひん を主 おも に輸出 ゆしゅつ している。日本 にっぽん のアルゼンチンからの輸入 ゆにゅう 額 がく は、前年度 ぜんねんど 全期 ぜんき 額 がく の約 やく 2.3倍 ばい の1,157億 おく 円 えん で[37] 、トウモロコシ、大豆 だいず などの穀物 こくもつ 、大豆 だいず 油 あぶら かすなどの食品 しょくひん 加工 かこう 品 ひん を輸入 ゆにゅう している。(前年度 ぜんねんど は新型 しんがた コロナウイルスの感染 かんせん 拡大 かくだい で経済 けいざい が停滞 ていたい した。)
日本 にっぽん は、アルゼンチンの輸出 ゆしゅつ 相手 あいて 国 こく として28位 い 、輸入 ゆにゅう 相手 あいて 国 こく としては11位 い である[35] 。
ロサリオ のビクトリア橋 きょう を通 とお る貨物 かもつ 船 せん
アルゼンチンのインフラは他 た のラテンアメリカ諸国 しょこく に比 くら べると良好 りょうこう である[38] 。約 やく 21万 まん 5,471キロ[39] の道路 どうろ 網 もう と734キロの高速 こうそく 道路 どうろ [40] があり、その多 おお くが民営 みんえい 化 か された。多 た 車線 しゃせん の幹線 かんせん 道路 どうろ は現在 げんざい いくつかの主要 しゅよう 都市 とし を結 むす び、さらに現在 げんざい 工事 こうじ 中 ちゅう である[41] 。
アルゼンチンの鉄道 てつどう 網 もう は総 そう 延長 えんちょう 3万 まん 1,000キロ以上 いじょう である。ブエノスアイレスの地下鉄 ちかてつ (Subte、スブテ)はスペイン語 ご 圏 けん 、ラテンアメリカ、南半球 みなみはんきゅう 全域 ぜんいき の中 なか でもっとも早 はや く建設 けんせつ された[42] 。
アルゼンチンには約 やく 3,000キロに及 およ ぶ水路 すいろ があり、多 おお くはラ・プラタ川 がわ 、パラナ川 がわ 、ウルグアイ川 がわ 、ネグロ川 がわ 、パラグアイ川 がわ を通行 つうこう する。
アルゼンチンの国民 こくみん はヨーロッパ系 けい が85%、メスティーソ およびインディヘナ などが15%である。もっともヨーロッパ系 けい アルゼンチン人 じん の占 し める比率 ひりつ は89.7%[43] から97%[44] と資料 しりょう によって大 おお きな差 さ があり、近年 きんねん の研究 けんきゅう では実 じつ はアルゼンチン国民 こくみん の56%に先住民 せんじゅうみん の血 ち が流 なが れていることが明 あき らかになっており[45] 、自 みずか らを白人 はくじん だと認識 にんしき しているアルゼンチン人 じん の過半数 かはんすう に、実 じつ は先住民 せんじゅうみん の血 ち が流 なが れていることになる。
ヨーロッパ系 けい アルゼンチン人 じん にはイタリア系 けい 、スペイン系 けい 、ドイツ系 けい の住民 じゅうみん が多 おお く、中 なか でもイタリア系 けい が一番 いちばん 多 おお い。このイタリア系統 けいとう の荒 あら い言葉 ことば 遣 づか いが現在 げんざい のアルゼンチン人 じん 全体 ぜんたい の性格 せいかく に受 う け継 つ がれているため[要 よう 出典 しゅってん ] 、アルゼンチンのスペイン語 ご にはイタリア語 ご のナポリ方言 ほうげん の影響 えいきょう が強 つよ く見 み られる。イタリア移民 いみん が多 おお いので第 だい 二 に のイタリアと認識 にんしき されることもあった[要 よう 出典 しゅってん ] 。
アルゼンチン人 じん はしばしば「燃 も えたぎるような愛国 あいこく 者 しゃ 」と形容 けいよう され、自国 じこく への批判 ひはん に異常 いじょう に敏感 びんかん であるが[46] 、その一方 いっぽう で概 がい して国 くに を批判 ひはん する傾向 けいこう がある。強烈 きょうれつ な個人 こじん 主義 しゅぎ 者 しゃ としても知 し られ、「ビベサ・クリオージャ」と呼 よ ばれるクリオージョ 的 てき な人 ひと を出 だ し抜 ぬ く抜 ぬ け目 め のなさと[47] 、アミーゴと家族 かぞく 以外 いがい の非 ひ 人間 にんげん 的 てき な政府 せいふ や社会 しゃかい といった組織 そしき は信用 しんよう できないという心性 しんせい からくる、人 ひと を出 だ し抜 ぬ くような行為 こうい によって不快 ふかい な思 おも いをさせられ[46] 、アルゼンチン人 じん はアミーゴ以外 いがい には不親切 ふしんせつ であるという人間 にんげん も出 で るのである。これはアルゼンチン人 じん が国家 こっか に代表 だいひょう される抽象 ちゅうしょう 的 てき なものよりも、友情 ゆうじょう といった具体 ぐたい 的 てき な対象 たいしょう への強 つよ く忠誠 ちゅうせい を抱 いだ くことの裏返 うらがえ しでもある[46] 。
ペルー の文学 ぶんがく 者 しゃ 、マリオ・バルガス・リョサ は「アルゼンチンの誇 ほこ り高 たか さは病癖 びょうへき であり、ほかのラテンアメリカ諸国 しょこく から批判 ひはん されても仕方 しかた がない」と述 の べた[46] 。アルゼンチン人 じん は自国 じこく を選良 せんりょう であると思 おも ってきたが[46] 、こうした優越 ゆうえつ 感 かん と劣等 れっとう 感 かん はその選良 せんりょう 意識 いしき の裏返 うらがえ しであり[46] 、強 つよ い愛国心 あいこくしん の称揚 しょうよう の一方 いっぽう で行 おこな われる自国 じこく への強烈 きょうれつ な批判 ひはん は、国家 こっか が自分 じぶん に十分 じゅうぶん な誇 ほこ りをもたせてくれるには足 た りない存在 そんざい であることの裏返 うらがえ しである[46] 。こうしたことの起 お きる原因 げんいん としては、19世紀 せいき 半 なか ば以来 いらい の自由 じゆう 主義 しゅぎ 化 か 、ヨーロッパ化 か がアルゼンチン国民 こくみん 全体 ぜんたい に受 う け入 い れられるような国民 こくみん 文化 ぶんか を育 そだ てることができなかったためだといわれている[46] 。ただしガウチョ のような例外 れいがい もあり、アルゼンチン人 じん はガウチョであることを誇 ほこ る[46] 。
INDECによる1950年 ねん から2015年 ねん までのアルゼンチンの人口 じんこう の推移 すいい グラフ
五月 ごがつ 革命 かくめい が起 お きた1810年 ねん に70万 まん 人 にん だった人口 じんこう は、ウルキーサがロサスを打倒 だとう した直後 ちょくご の1853年 ねん には90万 まん 人 にん となり、その時点 じてん では純粋 じゅんすい な白人 はくじん は6万 まん 人 にん ほどで残 のこ りはメスティーソや黒人 こくじん やインディヘナだった。
カセーロス以降 いこう 自由 じゆう 主義 しゅぎ 者 しゃ の政権 せいけん はヨーロッパから移民 いみん を大量 たいりょう 導入 どうにゅう すると、アルゼンチンの人口 じんこう は増加 ぞうか し、1869年 ねん の初 はつ の公的 こうてき な人口 じんこう 調査 ちょうさ では約 やく 175万 まん 7,000人 にん だった。その後 ご 、1900年 ねん には454万 まん 3,000人 にん 、1930年 ねん には1,200万 まん 5,000人 にん 、1940年 ねん には1,416万 まん 9,000人 にん 、1950年 ねん には約 やく 1,709万 まん 人 にん 、1960年 ねん センサスでは2,006万 まん 5,691人 にん 、1975年 ねん には約 やく 2,538万 まん 人 にん 、1983年 ねん 年央 ねんおう 推計 すいけい では約 やく 2,963万 まん 人 にん となった。2005年 ねん の見積 みつ もりによると、人口 じんこう は3,874万 まん 7,000人 にん と推測 すいそく され、これは南米 なんべい 大陸 たいりく の国家 こっか で3番目 ばんめ に多 おお い。
2005年度 ねんど の人口 じんこう 密度 みつど は1km²あたり14人 にん になるが、人口 じんこう は均衡 きんこう を持 も って配分 はいぶん されているわけではなく、特 とく にブエノスアイレス 市 し 周辺 しゅうへん に集中 しゅうちゅう しており、ブエノスアイレス市 し では人口 じんこう 密度 みつど が1万 まん 4,000人 にん /km²になるのに対 たい して、パタゴニアの最 さい 南部 なんぶ のサンタ・クルス州 しゅう では1人 ひとり /km²以下 いか となる。アルゼンチンは南米 なんべい で唯一 ゆいいつ 純粋 じゅんすい な移民 いみん の増加 ぞうか 率 りつ が0.4%を超 こ える国 くに である[48] 。
2021年 ねん 現在 げんざい では4527.7万 まん 人 にん になっている。
19世紀 せいき 半 なか ばの国家 こっか の西欧 せいおう 化 か =白人 はくじん 化 か を望 のぞ んだ自由 じゆう 主義 しゅぎ 者 しゃ が勝利 しょうり し、1853年 ねん 憲法 けんぽう の第 だい 25条 じょう や、1876年 ねん の移民 いみん 法 ほう の制定 せいてい によってヨーロッパ移民 いみん が大量 たいりょう 導入 どうにゅう されると、次第 しだい に都市 とし からは黒人 こくじん が、パンパからはインディヘナやガウチョが姿 すがた を消 け し、以降 いこう アルゼンチンは白人 はくじん 国家 こっか であることを誇 ほこ り、アイデンティティにするようになった。
20世紀 せいき に入 はい ってからマイノリティが特 とく にブエノスアイレスで目立 めだ たない存在 そんざい になると、自 みずか らをヨーロッパになぞらえて、(ヨーロッパから見 み れば)「文化 ぶんか のない」アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく や、人種 じんしゅ 的 てき 優越 ゆうえつ 感 かん やラテンアメリカ一 いち の経済 けいざい 大国 たいこく であったことによる自信 じしん により、ラテンアメリカ諸国 しょこく を見下 みくだ す傾向 けいこう と、ラテンアメリカとの連帯 れんたい よりもヨーロッパとのつながりを重視 じゅうし する傾向 けいこう があり[46] [49] 、折 おり からのアルゼンチンの経済 けいざい 的 てき な発展 はってん への羨望 せんぼう とあいまって、同国 どうこく がラテンアメリカ諸国 しょこく から嫌 きら われる大 おお きな原因 げんいん となった。
純粋 じゅんすい な南欧 なんおう 系 けい と比較 ひかく すると小柄 こがら で、風貌 ふうぼう も若干 じゃっかん 異 こと なる人 ひと が少 すく なくないことから、先住民 せんじゅうみん 系 けい の血 ち も少 すく なからず受 う け継 つ がれていることがわかるが、それでも現在 げんざい のところアルゼンチン人 じん の主要 しゅよう 意識 いしき は白人 はくじん 国家 こっか 、南米 なんべい のヨーロッパであることに変 か わりはない。ただし、マルビナス戦争 せんそう でヨーロッパ(EC )と敵対 てきたい し、反対 はんたい にラテンアメリカ諸国 しょこく の支援 しえん を受 う けたことから、状況 じょうきょう は多少 たしょう 変 か わってきている[46] 。
1837年 ねん の世代 せだい や1880年 ねん の世代 せだい に代表 だいひょう される19世紀 せいき の自由 じゆう 主義 しゅぎ 者 しゃ はアングロ・サクソン 移民 いみん を多 おお く招 まね いてアルゼンチンを非 ひ ラテン化 か したかったようだが、現実 げんじつ 的 てき に1871年 ねん から1913年 ねん までに定着 ていちゃく した317万 まん 人 にん のヨーロッパ移民 いみん としてはイタリア人 じん (イタリア系 けい アルゼンチン人 じん )、スペイン人 じん が特 とく に多 おお かった。その他 た にはフランス人 じん 、ロシア人 じん 、ドイツ人 じん 、オーストリア人 じん 、イングランド人 じん 、ウェールズ人 じん 、クロアチア人 じん 、ポーランド人 じん 、ポルトガル人 じん 、スイス人 じん 、ベルギー人 じん 、アイルランド人 じん などが続 つづ き、ロシア系 けい はほとんどがアシュケナジム だった。そのほかにはレバノン 、シリア から移民 いみん したアラブ人 じん (アラブ系 けい アルゼンチン人 じん )やブラジル などから再 さい 移住 いじゅう した日本人 にっぽんじん (日系 にっけい アルゼンチン人 じん )、スペイン内戦 ないせん の共和 きょうわ 派 は の亡命 ぼうめい 者 しゃ や、第 だい 二 に 次 じ 大戦 たいせん 前 まえ にナチス に追 お われて逃 に げてきたドイツからのユダヤ人 じん 、そして戦後 せんご ナチスの残党 ざんとう として亡命 ぼうめい してきたドイツ人 じん などがいる[50] [51] 。
この節 ふし は検証 けんしょう 可能 かのう な参考 さんこう 文献 ぶんけん や出典 しゅってん が全 まった く示 しめ されていないか、不十分 ふじゅうぶん です。 出典 しゅってん を追加 ついか して記事 きじ の信頼 しんらい 性 せい 向上 こうじょう にご協力 きょうりょく ください。(このテンプレートの使 つか い方 かた ) 出典 しゅってん 検索 けんさく ? : "アルゼンチン" – ニュース · 書籍 しょせき · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2022年 ねん 12月 )
テウエルチェ 人 ひと の一 いち 群 ぐん (1832年 ねん )
おもなマイノリティ としてパラグアイ、ボリビア、ペルーなどから出稼 でかせ ぎにきた移民 いみん がいるほか、メスティーソ 、ユダヤ人 じん 、アフリカ系 けい アルゼンチン人 じん 、アジア系 けい アルゼンチン人 じん がおり、先住民 せんじゅうみん としてアンデスにケチュア人 じん とアイマラ人 じん 、パタゴニアにマプーチェ人 じん やテウエルチェ人 じん などがいる。19世紀 せいき 後半 こうはん までネグロ川北 かわきた 部 ぶ に20万 まん 人 にん ほどいたパンパの狩猟 しゅりょう 遊牧 ゆうぼく インディヘナは、1878年 ねん に開始 かいし されたフリオ・アルヘンティーノ・ロカ (英語 えいご 版 ばん ) 将軍 しょうぐん の砂漠 さばく の征服 せいふく 作戦 さくせん (英語 えいご 版 ばん ) により2万 まん 人 にん にまで減少 げんしょう し、以後 いご パンパからはほとんどいなくなった。現在 げんざい のインディヘナの総 そう 人口 じんこう は42万 まん 人 にん になっている。
アラブ系 けい のコミュニティもあり、コミュニティからはカルロス・メネム大統領 だいとうりょう を出 だ している。大 だい 部分 ぶぶん のアラブ系 けい アルゼンチン人 じん はカトリック教会 きょうかい か正教 せいきょう 、東方 とうほう 典礼 てんれい カトリック教会 きょうかい などを信仰 しんこう している。アジア系 けい アルゼンチン人 じん は日系 にっけい 、中国 ちゅうごく 系 けい 、韓国 かんこく 系 けい 、ベトナム 系 けい などを合 あ わせて13万 まん 人 にん を超 こ える。
ユダヤ人 じん はヨーロッパからのアシュケナジムがほとんどだが、シリア からのセファルディム も15 - 20%ほどいる(詳細 しょうさい はユダヤ系 けい アルゼンチン人 じん を参照 さんしょう )。経済 けいざい 的 てき にユダヤ系 けい の力 ちから が強 つよ いため、アルゼンチン社会 しゃかい 、特 とく に軍部 ぐんぶ の反 はん ユダヤ主義 しゅぎ は根強 ねづよ く、軍事 ぐんじ 政権 せいけん 下 か では「汚 きたな い戦争 せんそう 」の中 なか で、ユダヤ人 じん がイスラエル の兵器 へいき で弾圧 だんあつ されるという矛盾 むじゅん も起 お きた[50] 。アルゼンチンへのユダヤ人 じん 移民 いみん は、モーリス・ヒルシュ男爵 だんしゃく (英語 えいご 版 ばん ) の基金 ききん がスポンサーであった。
アルゼンチンの不法 ふほう 移民 いみん は大 だい 多数 たすう が国境 こっきょう を接 せっ するボリビア、パラグアイから来 き ており、少数 しょうすう はペルー、エクアドル 、ルーマニア などからもやってきている。アルゼンチン政府 せいふ はこうした不法 ふほう 移民 いみん の数 かず を75万 まん 人 にん と見積 みつ もっている。
アルゼンチンの都市 とし 人口 じんこう 率 りつ は昔 むかし から非常 ひじょう に高 たか く、それは現在 げんざい まで変 か わっていない。353万 まん 人 にん がブエノスアイレス 市 し に、1,240万 まん 人 にん が大 だい ブエノスアイレス都市 とし 圏 けん に住 す んでいる。第 だい 2、第 だい 3の都市 とし 圏 けん はコルドバ とロサリオ であり、それぞれ130万 まん 人 にん と110万 まん 人 にん の都市 とし 圏 けん を構成 こうせい している[要 よう 出典 しゅってん ] 。
19世紀 せいき 以降 いこう に移民 いみん したほとんどのヨーロッパ移民 いみん は、大 だい 土地 とち 所有 しょゆう 制 せい が崩 くず れずに入植 にゅうしょく 地 ち の所有 しょゆう 権 けん が手 て に入 はい らなかったため、最終 さいしゅう 的 てき に都市 とし に落 お ち着 つ き、仕事 しごと や教育 きょういく などさまざまな機会 きかい を得 え て中 ちゅう 間 あいだ 層 そう となっていった。多 おお くは鉄道 てつどう 網 もう に沿 そ って成長 せいちょう していた小 しょう 都市 とし に住 す み着 つ いたが、1930年代 ねんだい に入 はい ると小 しょう 都市 とし から大都市 だいとし への国内 こくない 移民 いみん が行 おこな われた。
1990年代 ねんだい に入 はい り国営 こくえい 鉄道 てつどう 民営 みんえい 化 か が行 おこな われた結果 けっか 、旅客 りょかく 列車 れっしゃ の運行 うんこう が中止 ちゅうし された路線 ろせん が増 ふ え、小規模 しょうきぼ 工業 こうぎょう が外国 がいこく 製 せい の安 やす い製品 せいひん との競争 きょうそう に敗 やぶ れて消 き えていくと、田舎町 いなかまち にはゴースト・タウン になるものも現 あらわ れた。また、"Villa Miseria "と呼 よ ばれる不法 ふほう 占拠 せんきょ の建物 たてもの 密集 みっしゅう 地 ち (いわゆるスラム )が大都市 だいとし の空 あ き地 ち に見 み られるようになり、鉄道 てつどう 民営 みんえい 化 か 以降 いこう 増加 ぞうか した。国営 こくえい 企業 きぎょう 民営 みんえい 化 か および民間 みんかん 企業 きぎょう 破綻 はたん で失業 しつぎょう した下層 かそう 労働 ろうどう 者 しゃ と北西 ほくせい 部 ぶ の小 ちい さな町 まち からの移住 いじゅう 者 しゃ が最初 さいしょ にそこに家 いえ を建 た て、次 つぎ にさらに大 おお きな数 かず の近隣 きんりん 諸国 しょこく からの移民 いみん (移民 いみん の人々 ひとびと が住民 じゅうみん の半数 はんすう 以上 いじょう を占 し めるといわれる)がそこに新 あら たに家 いえ を建 た てるか、増築 ぞうちく するなどをしながら住 す んでいる。これらの家 いえ の中 なか には電気 でんき がひかれ、エア・コンディショナー や冷蔵庫 れいぞうこ も存在 そんざい し、営業 えいぎょう 店舗 てんぽ にもなっている建物 たてもの もある。ただし、沼地 ぬまち のような場所 ばしょ の上 うえ に存在 そんざい する建物 たてもの は衛生 えいせい 上 じょう に問題 もんだい があり、密集 みっしゅう した環境 かんきょう が犯罪 はんざい 組織 そしき の温床 おんしょう になりかねないとして、政府 せいふ はアパートを建設 けんせつ し、そこに不法 ふほう 占拠 せんきょ の住民 じゅうみん を移住 いじゅう させる政策 せいさく を行 おこな っているが、資金 しきん 不足 ふそく によりなかなか進 すす んでいない。
アルゼンチンの都市 とし はヨーロッパ移民 いみん の影響 えいきょう が反映 はんえい されているため、非常 ひじょう にヨーロッパ的 てき である。多 おお くの都市 とし はスペイン風 ふう に広場 ひろば を中心 ちゅうしん に建設 けんせつ され、カテドラル と重要 じゅうよう な役所 やくしょ (カビルド )は広場 ひろば に面 めん して建 た てられる(ただし、ブエノスアイレス は1850年代 ねんだい 以降 いこう フランス のパリ を忠実 ちゅうじつ にモデルにして改造 かいぞう された)。一般 いっぱん 的 てき に都市 とし の配置 はいち はダメロと呼 よ ばれる碁盤 ごばん 目 め 上 じょう であるが、19世紀 せいき 末 まつ にワシントンD.C. をモデルに建設 けんせつ されたラ・プラタ市 し など近代 きんだい 的 てき な計画 けいかく 都市 とし はこの様式 ようしき からかけ離 はな れていることもある。
2022年度 ねんど の都市 とし 人口 じんこう 率 りつ は92.23%である。[52]
アルゼンチン人 じん 移民 いみん
編集 へんしゅう
20世紀 せいき 半 なか ばまでは移民 いみん 受 う け入 い れ国 こく だったアルゼンチンも、20世紀 せいき 中盤 ちゅうばん 以降 いこう の社会 しゃかい 、経済 けいざい 、政治 せいじ の混乱 こんらん により、多 おお くのアルゼンチン人 じん が祖国 そこく を離 はな れて海外 かいがい に移住 いじゅう した。特 とく に国連 こくれん ラテンアメリカ 委員 いいん 会 かい の報告 ほうこく によると、アルゼンチンからの海外 かいがい 移住 いじゅう 者 しゃ の1,000人 にん のうち191人 にん が大学 だいがく 卒業 そつぎょう 者 しゃ であるなど[53] 、留学生 りゅうがくせい がそのまま海外 かいがい 移民 いみん になってしまうことや、大学 だいがく 卒業 そつぎょう 者 しゃ に見合 みあ った職業 しょくぎょう の不足 ふそく などを原因 げんいん とした、高学歴 こうがくれき 者 しゃ の移民 いみん による社会 しゃかい の空洞 くうどう 化 か が懸念 けねん されている。アルゼンチンからの移民 いみん 先 さき はおもにスペイン、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 、カナダ、ブラジル、ポルトガル、オーストラリアなどである。
エルネスト・ゲバラ はチェ・ゲバラ と呼 よ ばれることが多 おお いが、このチェ とはアルゼンチンのスペイン語 ご 特有 とくゆう の表現 ひょうげん のひとつである
言語 げんご はスペイン語 ご (リオプラテンセ・スペイン語 ご )が公用 こうよう 語 ご であり、アルゼンチンではエスパニョールではなくカステジャーノと呼 よ ばれる。ポルテーニョ (ブエノスアイレス市民 しみん )のアクセントはイタリア語 ご のナポリ 方言 ほうげん の影響 えいきょう が強 つよ く、ヨーロッパ移民 いみん 、特 とく にイタリア移民 いみん の影響 えいきょう により、ラ・プラタ地域 ちいき で話 はな されるルンファルド と呼 よ ばれる独特 どくとく の俗語 ぞくご が形成 けいせい されてきた。アルゼンチンはスペイン語 ご 圏 けん でも二人称 ににんしょう 単数 たんすう においてボセオ (Voseo)のみが全土 ぜんど で使用 しよう されている数少 かずすく ない国 くに であり、ボセオはアルゼンチンのアイデンティティとなっている。
スペイン語 ご のほかには英語 えいご 、イタリア語 ご 、ドイツ語 ご 、フランス語 ふらんすご 、および多少 たしょう の先住民 せんじゅうみん 言語 げんご なども使用 しよう されている。
標準 ひょうじゅん ドイツ語 ご は140万 まん 人 にん から150万 まん 人 にん のドイツ系 けい アルゼンチン人 じん によって話 はな されているが、180万 まん 人 にん 以上 いじょう が話 はな しているともいわれている。ドイツ語 ご は今日 きょう のアルゼンチンで第 だい 3か第 だい 4に多 おお くの人々 ひとびと に話 はな されている言葉 ことば である。そのほかにも、調査 ちょうさ によると、150万 まん 人 にん がイタリア語 ご を話 はな し、100万 まん 人 にん がシリア・レバノンのアラビア語 ご を話 はな している。ガリシア語 ご 、イディッシュ語 ご 、日本語 にほんご なども話 はな されているが、これらの言語 げんご は現在 げんざい では話 はな されることは少 すく なくなってきている。パタゴニアのトレレウ やガイマン といった町 まち にはウェールズ語 ご を話 はな すコミュニティがある。近年 きんねん のアジア系 けい 移民 いみん は中国 ちゅうごく 語 ご と韓国 かんこく 語 ご をブエノスアイレスに持 も ち込 こ んだ。
先住民 せんじゅうみん 言語 げんご はコリエンテス州 しゅう 、ミシオネス州 しゅう でグアラニー語 ご が話 はな され、コリエンテス州 しゅう では公用 こうよう 語 ご となっている。ケチュア語 ご は北西 ほくせい 部 ぶ のサンティアゴ・デル・エステロ州 しゅう で話 はな され、アイマラ語 ご はボリビアからの移民 いみん のコミュニティなどで話 はな されている。パタゴニアではマプーチェ語 ご などが話 はな されている。
英語 えいご 、ブラジル・ポルトガル語 ご 、フランス語 ふらんすご はあまり大 おお きな存在 そんざい 感 かん を持 も たない。英語 えいご は学校 がっこう 教育 きょういく で教 おし えられ、ポルトガル語 ご とフランス語 ふらんすご が後 のち に続 つづ く。
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266代 だい ローマ教皇 きょうこう フランシスコ (右 みぎ )とキルチネル大統領 だいとうりょう (左 ひだり )。アルゼンチンは新大陸 しんたいりく でローマ教皇 きょうこう を出 だ した最初 さいしょ の国 くに となった
国民 こくみん の多数 たすう の93%がカトリック教徒 きょうと だと申告 しんこく しているが、教会 きょうかい はより正確 せいかく には70%ぐらいだと見積 みつ もっている。現行 げんこう 憲法 けんぽう 第 だい 二 に 条 じょう によると、アルゼンチン共和 きょうわ 国 こく はカトリックを保護 ほご すべきであるとなっているが、これはアルゼンチンの国教 こっきょう がカトリックであるということではなく、圧倒的 あっとうてき に信徒 しんと 数 すう が多 おお いカトリックに国家 こっか の優先 ゆうせん 権 けん があることを認 みと めるのみとなっている[54] 。2013年 ねん に行 おこな われたコンクラーベ では、アルゼンチン人 じん のブエノスアイレス大司教 だいしきょう ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿 すうききょう がローマ教皇 きょうこう に選出 せんしゅつ されて第 だい 266代 だい 教皇 きょうこう フランシスコ となり、アルゼンチンが初 はつ のアメリカ大陸 あめりかたいりく 出身 しゅっしん のローマ教皇 きょうこう を出 だ した国 くに となった。アルゼンチンでは、日曜日 にちようび に、必 かなら ずミサに出向 でむ くことが習慣 しゅうかん となっており、結婚式 けっこんしき なども教会 きょうかい で行 おこな うしきたりになっている。[55]
公務員 こうむいん は必 かなら ずしもカトリックを信仰 しんこう しなければならないわけではないが、大統領 だいとうりょう はキリスト教徒 きりすときょうと しかなれない法律 ほうりつ がある。この法律 ほうりつ により、アラブ系 けい だったカルロス・メネム はイスラーム教 きょう を棄教しなければならなかった。
1980年代 ねんだい からプロテスタントの福音 ふくいん 派 は が足場 あしば を築 きず き、現在 げんざい 総 そう 人口 じんこう の約 やく 10%の330万 まん 人 にん が信者 しんじゃ である。
33万 まん 人 にん 以上 いじょう がキリスト教 きりすときょう 系 けい 新 しん 宗教 しゅうきょう の末日 まつじつ 聖徒 せいと イエス・キリスト教会 きょうかい (モルモン教 きょう )に所属 しょぞく しており、アルゼンチンは世界 せかい で7番目 ばんめ に末日 まつじつ 聖徒 せいと イエス・キリスト教会 きょうかい の信者 しんじゃ が多 おお い国 くに となっている。。
ラテンアメリカでもっとも多 おお いユダヤ人 じん 人口 じんこう を抱 かか え、人口 じんこう の約 やく 2%がユダヤ人 じん である。
イスラーム 教徒 きょうと は総 そう 人口 じんこう の1.5%を占 し め、50万 まん 人 にん から80万 まん 人 にん がいると推測 すいそく されている(93%はスンナ派 は )。現在 げんざい アルゼンチンはラテンアメリカでもっともモスク の多 おお い国 くに のひとつとなっている。
おおよそ12%が無 む 宗教 しゅうきょう 、もしくは世俗 せぞく 派 は とみなされている。
婚姻 こんいん の際 さい には夫婦 ふうふ 別姓 べっせい であるが、女性 じょせい は、自己 じこ の姓 せい の後 のち に「de+夫 おっと の姓 せい 」を追加 ついか することができる。
2010年 ねん から、同性 どうせい 同士 どうし の結婚 けっこん (同性 どうせい 結婚 けっこん )が認 みと められるようになった。
街 まち のいたるところで見 み られる子 こ どもたちの白 しろ い制服 せいふく は、アルゼンチンの学校 がっこう 教育 きょういく の象徴 しょうちょう である
独立 どくりつ 後 ご 、自由 じゆう 主義 しゅぎ 者 しゃ が勝利 しょうり した1860年代 ねんだい 以降 いこう のアルゼンチンはドミンゴ・ファウスティーノ・サルミエント 政権 せいけん のもとで、ほかのラテンアメリカ諸国 しょこく とは対照 たいしょう 的 てき に公 おおやけ 教育 きょういく の整備 せいび に力 ちから を注 そそ いだ。2001年 ねん のセンサスでは、15歳 さい 以上 いじょう の国民 こくみん の識字 しきじ 率 りつ は97.2%[56] に達 たっ している。これはウルグアイやキューバ 、チリとともにラテンアメリカでもっとも高 たか い水準 すいじゅん である。ただし、近年 きんねん は機能 きのう 的 てき 非 ひ 識字 しきじ の増加 ぞうか が問題 もんだい となっている[57] 。
幼稚園 ようちえん から初等 しょとう 教育 きょういく が始 はじ まり、5歳 さい から14歳 さい までの10年間 ねんかん の無償 むしょう の初等 しょとう 教育 きょういく ・前期 ぜんき 中等 ちゅうとう 教育 きょういく が義務 ぎむ 教育 きょういく 期間 きかん となり、その後 ご 3年間 ねんかん の後期 こうき 中等 ちゅうとう 教育 きょういく を経 へ て高等 こうとう 教育 きょういく への道 みち が開 あ ける。初等 しょとう 、中等 ちゅうとう 教育 きょういく の問題 もんだい としては落第 らくだい 率 りつ の高 たか さや、待遇 たいぐう の劣悪 れつあく さから起 お きる教員 きょういん のストライキと予算 よさん 不足 ふそく からくる十分 じゅうぶん な授業 じゅぎょう 日数 にっすう 確保 かくほ の不備 ふび 、学級 がっきゅう 崩壊 ほうかい などが挙 あ げられる[58] 。
2005年 ねん 現在 げんざい で、アルゼンチンには41校 こう の国公立 こっこうりつ の大学 だいがく と48校 こう の私立 しりつ 大学 だいがく があり、代表 だいひょう 的 てき な高等 こうとう 教育 きょういく 機関 きかん としてはブエノスアイレス大学 だいがく (1821年 ねん )、コルドバ大学 だいがく (1613年 ねん )、ラ・プラタ大学 だいがく (1905年 ねん )、国立 こくりつ 工科 こうか 大学 だいがく (英語 えいご 版 ばん ) (1959年 ねん )、ロサリオ大学 だいがく (1968年 ねん )、教皇 きょうこう 庁 ちょう 立 たて アルゼンチンカトリック大学 だいがく (1958年 ねん )、トルクァト・ディ・テラ大学 だいがく (1991年 ねん )などが挙 あ げられる。国公立 こっこうりつ の大学 だいがく はアルフォンシン政権 せいけん 時 じ に入試 にゅうし を廃止 はいし したため、学生 がくせい 数 すう の増加 ぞうか による過密 かみつ や、非 ひ 効率 こうりつ な制度 せいど による学校 がっこう 運営 うんえい の混乱 こんらん が大 おお きな問題 もんだい となっている[59] 。大学 だいがく 進学 しんがく 率 りつ はチリ と並 なら び南米 なんべい としてはきわめて高率 こうりつ である。
ルイス・フェデリコ・レロイル
化学 かがく 部門 ぶもん で3人 にん のノーベル賞 しょう 受賞 じゅしょう 者 しゃ を出 だ している。ルイス・フェデリコ・レロイル (ルイ・ルロワール)はノーベル化学 かがく 賞 しょう 受賞 じゅしょう 者 しゃ であり、この化学 かがく 賞 しょう はラテンアメリカ全体 ぜんたい でも初 はじ めてのものだった。
ベルナルド・ウサイ のような優 すぐ れた研究 けんきゅう 者 しゃ の残 のこ した業績 ぎょうせき の伝統 でんとう もあって、現在 げんざい でも医療 いりょう の研究 けんきゅう や、その他 た には原子力 げんしりょく の研究 けんきゅう なども進 すす んでいる。ほかにも、素粒子 そりゅうし 物理 ぶつり 学 がく の指導 しどう 的 てき 存在 そんざい であるフアン・マルダセナ がいる。
現在 げんざい の問題 もんだい は、大学 だいがく の整備 せいび の遅 おく れによる研究 けんきゅう 環境 かんきょう の不備 ふび や、海外 かいがい への高学歴 こうがくれき 者 しゃ の流出 りゅうしゅつ による基礎 きそ 研究 けんきゅう 、応用 おうよう 研究 けんきゅう の進展 しんてん が遅 おく れていることなどである。
クラリン紙 し に報 ほう じられたエバ・ペロン大統領 だいとうりょう 夫人 ふじん の葬儀 そうぎ の様子 ようす 。今日 きょう クラリンはスペイン語 ご 圏 けん でもっとも多 おお く流通 りゅうつう している新聞 しんぶん となっている
アルゼンチンの印刷 いんさつ メディアは高度 こうど に発達 はったつ し、独立 どくりつ している。200以上 いじょう の新聞 しんぶん が存在 そんざい し、地元 じもと の町 まち や地域 ちいき に影響 えいきょう を与 あた えている。最 さい 主要 しゅよう 紙 し はブエノスアイレスの中道 ちゅうどう 紙 し 「クラリン 」であり、スペイン語 ご 圏 けん でもっとも流通 りゅうつう している新聞 しんぶん のうちのひとつとなっている。[要 よう 出典 しゅってん ] そのほかの新聞 しんぶん としては1870年 ねん 創設 そうせつ の「ラ・ナシオン 」(中道右派 ちゅうどううは )、Página/12 (左派 さは )、アンビト・フィナンシエロ (保守 ほしゅ ビジネス紙 し ), ドイツ語 ご 新聞 しんぶん のArgentinisches Tageblatt 、スペイン語 ご とフランス語 ふらんすご で発行 はっこう されるLe Monde Diplomatique 、クロニカ (ポピュリズム)。地方 ちほう 紙 し として重要 じゅうよう なのは「ラ・カピタル」(ロサリオ)、「ロス・アンデス」(メンドーサ)、「内陸 ないりく 部 ぶ の声 こえ 」(コルドバ)、「エル・トリブノ」(サルタ)など。ブエノス・アイレス・ヘラルドは主要 しゅよう 日刊 にっかん 英字 えいじ 新聞 しんぶん である。
アルゼンチンの出版 しゅっぱん 業 ぎょう はスペイン・メキシコ といったスペイン語 ご 圏 けん の主要 しゅよう 国 こく の出版 しゅっぱん 業 ぎょう とともにある。アルゼンチンには、エル・アテネオやジェニーといった、独立 どくりつ し、豊富 ほうふ な在庫 ざいこ を抱 かか えたラテンアメリカ最大 さいだい 級 きゅう の書店 しょてん のチェーンがある。英語 えいご やその他 た の言語 げんご による書籍 しょせき も多 おお く流通 りゅうつう している。雑多 ざった な趣味 しゅみ の領域 りょういき をカバーした100を超 こ える雑誌 ざっし が出版 しゅっぱん され、書店 しょてん や街頭 がいとう のキオスクで販売 はんばい されている。
ブエノスアイレスの公共 こうきょう 放送 ほうそう 局 きょく カナル7 。アルゼンチンのテレビ放映 ほうえい 開始 かいし は1951年 ねん で、ラテンアメリカ初 はつ だった
アルゼンチンはラジオ 放送 ほうそう を始 はじ めた国家 こっか のパイオニアだった。1920年 ねん 8月 がつ 27日 にち 、Sociedad Radio Argentina は「われわれは今 いま 、ブエノスアイレスの下町 したまち のコリセオ劇場 げきじょう からのリヒャルト・ワーグナーのパルジファルオペラの実演 じつえん をあなたの家 いえ に送 おく っています」と発表 はっぴょう した。もっとも市内 しない の20家庭 かてい しかラジオ受信 じゅしん 機 き を所持 しょじ していなかった。世界 せかい 初 はつ の放送 ほうそう 局 きょく はそのときからRadio Culturaが放送 ほうそう されるようになる1922年 ねん まで、アルゼンチン唯一 ゆいいつ のラジオ局 きょく だった。その後 ご 、1925年 ねん までに12局 きょく がブエノスアイレスに、10局 きょく がそのほかの都市 とし に開設 かいせつ された。1930年代 ねんだい はバラエティ、ニュース、ソープオペラ、スポーツなどアルゼンチンのラジオにとって「黄金 おうごん 時代 じだい 」だった[68] 。
現在 げんざい アルゼンチンでは1,500以上 いじょう のラジオ局 きょく が認可 にんか されている。260局 きょく がAM局 きょく であり、1150局 きょく がFM局 きょく である。[要 よう 出典 しゅってん ] ラジオはアルゼンチンでは重要 じゅうよう なメディアとなっている。音楽 おんがく と若者 わかもの 文化 ぶんか 番組 ばんぐみ がFM放送 ほうそう を支配 しはい しており、ニュース・討論 とうろん ・スポーツはAM放送 ほうそう の内容 ないよう として第 だい 一 いち に来 く る。ラジオはいまだに情報 じょうほう 、エンターテインメント、さらに最 さい 遠隔 えんかく 地 ち のコミュニティーにおける人命 じんめい 救助 きゅうじょ にさえ重要 じゅうよう なサービスとして役立 やくだ っている。
アルゼンチンのテレビ 業界 ぎょうかい は大 おお きく多様 たよう であり、ラテンアメリカで広 ひろ く見 み られていると同時 どうじ に世界中 せかいじゅう で見 み ることができる。多 おお くのローカル番組 ばんぐみ が他国 たこく で放送 ほうそう され、そのほかは外国 がいこく 人 じん のプロデューサーが市場 いちば で権利 けんり を買 か っている。アルゼンチンには5つの主要 しゅよう ネットワークがある。すべての地方 ちほう 主要 しゅよう 都市 とし と大都市 だいとし には、少 すく なくとも1つの地方 ちほう 局 きょく がある。アルゼンチンでは北 きた アメリカとほぼ同 おな じぐらいのパーセンテージでケーブルテレビと衛星 えいせい 放送 ほうそう が浸透 しんとう している[69] 。ケーブルネットワークはアルゼンチンとほかのスペイン語 ご 圏 けん からもたらされ、ウルティマ・サテリタル、TyCスポーツ、スペイン語 ご Foxスポーツ(合衆国 がっしゅうこく 、メキシコも同様 どうよう )、MTVアルヘンティーナ、コスモポリタンTV、およびニュースネットワークのトド・ノティシアスなどがある。
著名 ちょめい な出身 しゅっしん 者 しゃ
編集 へんしゅう
^ 現行 げんこう 憲法 けんぽう 第 だい 35条 じょう によると、リオ・デ・ラ・プラタ連合 れんごう 州 しゅう 、アルゼンチン連合 れんごう といった歴史 れきし 的 てき な国名 こくめい もまた正式 せいしき な国名 こくめい とされている。
^ 貧民 ひんみん を指 さ す。直訳 ちょくやく すれば「シャツなし」だが、ここでは「上着 うわぎ なし」の意 い
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