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フォークランド紛争 - Wikipedia

フォークランド紛争ふんそう

フォークランド諸島しょとう領有りょうゆうけんめぐったイギリスとアルゼンチンとの紛争ふんそう

フォークランド紛争ふんそう(フォークランドふんそう、英語えいご: Falklands Warスペイン: Guerra de las Malvinas)は、みなみ大西洋たいせいようイギリスりょうフォークランド諸島しょとうアルゼンチン:マルビナス諸島しょとう[ちゅう 1]領有りょうゆうめぐって1982ねん発生はっせいしたイギリスとアルゼンチンのあいだ紛争ふんそうである。

フォークランド紛争ふんそう

フォークランド諸島しょとう侵攻しんこうのアルゼンチンぐん戦闘せんとう同国どうこく海軍かいぐん所属しょぞくのシュペルエタンダール)。
戦争せんそう:フォークランド紛争ふんそう[1]
年月日ねんがっぴ1982ねん4がつ2にち同年どうねん6月16にち[1]
場所ばしょフォークランド諸島しょとう(マルビナス諸島しょとう[1]
結果けっか:イギリスがわ勝利しょうり。アルゼンチンがわ降伏ごうぶくしイギリスがわがフォークランド諸島しょとう奪還だっかん[1]
交戦こうせん勢力せいりょく
イギリスの旗 イギリス アルゼンチンの旗 アルゼンチン
指導しどうしゃ指揮しきかん
イギリスの旗 マーガレット・サッチャー
イギリスの旗 ジョン・ノット
イギリスの旗 テレンス・ルーウィン
イギリスの旗 エドウィン・ブラモール
イギリスの旗 ヘンリー・リーチ
イギリスの旗 マイケル・ビーサム
アルゼンチンの旗 レオポルド・ガルチェリ
アルゼンチンの旗 アマデオ・フルゴリ
アルゼンチンの旗 レオポルド・スアレス・デル・セロ
アルゼンチンの旗 ホルヘ・アナヤ
アルゼンチンの旗 バシリオ・ラミ・ドゾ
戦力せんりょく
陸軍りくぐん 10,001
海軍かいぐん 3,119
空軍くうぐん 1,069
艦艇かんてい 38せき
航空機こうくうき 216
陸軍りくぐん 10,700
海軍かいぐん 13,000
空軍くうぐん 6,000
艦艇かんてい 111せき
航空機こうくうき 117
損害そんがい
死者ししゃ 255
負傷ふしょうしゃ 775
捕虜ほりょ 115

撃沈げきちん 駆逐くちくかん2せき
フリゲート2せき
揚陸ようりくかん1せき
コンテナせん1せき
航空機こうくうき34
死者ししゃ 649
負傷ふしょうしゃ 1,657
捕虜ほりょ 11,313

撃沈げきちん けい巡洋艦じゅんようかん1せき
潜水せんすいかん1せき擱座かくざ
哨戒しょうかいてい2せき
航空機こうくうき100
フォークランド紛争ふんそう
フォークランド諸島しょとう位置いちアルゼンチンおき南米なんべい大陸たいりく南端なんたんから500kmおき位置いちする。
フォークランド諸島しょとうは、東西とうざい主要しゅよう2とう多数たすう小島こじまからなる。

同年どうねん3がつアルゼンチンぐんフォークランド諸島しょとうサウスジョージア侵攻しんこう成功せいこうさせたものの、これにたいしてイギリスぐん航空こうくう母艦ぼかん原子力げんしりょく潜水せんすいかんなどをふく機動きどう部隊ぶたい派遣はけんして反攻はんこうてんじ、欧州共同体おうしゅうきょうどうたい(EC)などの協力きょうりょくて6がつ勝利しょうりした。やぶれたアルゼンチンではレオポルド・ガルチェリ政権せいけん崩壊ほうかいし、民政みんせい移管いかんがねくこととなった。

冷戦れいせんした近代きんだいされた西側にしがわ諸国しょこく軍隊ぐんたい同士どうしによるはじめての紛争ふんそうであり、「兵器へいき実験じっけんじょう」ともしょうされた[2]

概要がいよう

編集へんしゅう

1982ねん3月19にちアルゼンチン海軍かいぐん艦艇かんていがフォークランド諸島しょとう東方とうほうのイギリスりょうサウスジョージアとうに2にわたって寄港きこうし、無断むだん民間みんかんじんよそおって海兵かいへい隊員たいいん上陸じょうりくさせた[3]

これにたいし、イギリスは氷海ひょうかい警備けいびせん海兵かいへい隊員たいいん派遣はけんするとともに、紛争ふんそう回避かいひのため、アルゼンチンぐん部隊ぶたい退去たいきょ条件じょうけんとして外交がいこう交渉こうしょう妥協だきょうする用意よういがあることをつたえたが、すでにアルゼンチンがわ強硬きょうこう姿勢しせい明確めいかくにしており、外交がいこう交渉こうしょうでの事態じたい打開だかい困難こんなんとなっていた[3]。イギリスの要請ようせいけてアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく仲介ちゅうかいし、首脳しゅのうあいだ電話でんわ会談かいだんおこなわれたが、説得せっとく失敗しっぱいであった[3]

4がつ1にち深夜しんやよりアルゼンチンぐんによるフォークランド諸島しょとう侵攻しんこう[4]、また4がつ3にちにはサウスジョージア侵攻しんこうおこなわれた[5]。これにたいし、イギリスぐん反攻はんこうのための部隊ぶたい派遣はけんし、フォークランド諸島しょとう近海きんかいでははげしいうみ空戦くうせんおこなわれた。アルゼンチン空軍くうぐんエグゾセそらたいかんミサイル航空こうくうばくだんによるたいかん攻撃こうげきでイギリス艦船かんせん次々つぎつぎ撃沈げきちんしたものの、本土ほんどからとおいためにちょう音速おんそく本来ほんらい性能せいのう発揮はっきすることができず、またイギリス空軍くうぐん長距離ちょうきょり爆撃ばくげきによる空爆くうばくブラック・バック作戦さくせん)をおこなうとさい有力ゆうりょく戦闘せんとう部隊ぶたい本土ほんど拘置こうちせざるをなくなり、航空こうくう優勢ゆうせいをほぼうしな結果けっかとなった[6]。またアルゼンチン海軍かいぐんも、さい有力ゆうりょく大型おおがた水上すいじょう戦闘せんとうかんヘネラル・ベルグラノ」が撃沈げきちんされると現存げんそん艦隊かんたい主義しゅぎてんじて、二度にど出撃しゅつげきしてくることはなかった[7]。イギリスは、アメリカの偵察ていさつ衛星えいせいからの情報じょうほうによって側面そくめん支援しえんけたほか[2]北大西洋きたたいせいよう条約じょうやく機構きこう(NATO)諸国しょこく欧州共同体おうしゅうきょうどうたい(EC)加盟かめいこく、さらにアルゼンチンと対立たいりつ関係かんけいにあるチリ支援しえんけて、情報じょうほうせん有利ゆうりすすめた。

イギリスぐん経験けいけん豊富ほうふ特殊とくしゅ空挺くうてい部隊ぶたい特殊とくしゅ舟艇しゅうてい部隊ぶたいによるコマンド作戦さくせんて、まず4がつ25にちにはサウスジョージアとうにイギリスぐん上陸じょうりくし、奪還だっかんした(パラケット作戦さくせん)。つづいて6月7にちにはフォークランド諸島しょとうにも地上ちじょう部隊ぶたい上陸じょうりくさせ、6月14にちにはアルゼンチンぐん正式せいしき降伏ごうぶくして戦闘せんとう終結しゅうけつした。

フォークランド紛争ふんそう当時とうじ、アルゼンチンは軍事ぐんじ政権せいけん国家こっかさい編成へんせいプロセス)であったが、この敗北はいぼくにより軍事ぐんじ政権せいけんへの国民こくみん不満ふまん爆発ばくはつし、大統領だいとうりょうつとめていたレオポルド・ガルチェリ陸軍りくぐんそう司令しれいかん辞任じにん余儀よぎなくされた。ガルチェリの後任こうにんレイナルド・ビニョーネ国民こくみん不満ふまんおさえきれずに1983ねん10がつ選挙せんきょ実施じっしし、ラウル・アルフォンシン大統領だいとうりょう当選とうせんして民政みんせい移管いかんおこなわれた。

フォークランド紛争ふんそうだい世界せかい大戦たいせん以降いこうでははじめてだい規模きぼうみ空戦くうせんともなった、西側にしがわ諸国しょこくせい兵器へいき装備そうびした近代きんだいされた軍隊ぐんたい同士どうしによる戦争せんそうであり、その軍事ぐんじ技術ぎじゅつ様々さまざま影響えいきょうおよぼした。りょうぐん使用しようされた兵器へいきのほとんどは、その時点じてんまで実戦じっせん経験けいけんしていなかったものの、どう紛争ふんそう定量ていりょうてき評価ひょうかけた。また、アルゼンチンはイギリスから一部いちぶ兵器へいき輸入ゆにゅうしていたうえりょうぐんともアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくフランスベルギーなどの兵器へいき体系たいけい多数たすう使用しようしており、同一どういつ兵器へいき使用しようした軍隊ぐんたい同士どうし戦闘せんとうという特徴とくちょうもあった。

両国りょうこく国交こっこう再開さいかいされて戦争せんそう状態じょうたい正式せいしき終結しゅうけつしたのは1990ねん2がつ5にちだった。それ以降いこうもアルゼンチンはフォークランド諸島しょとう領有りょうゆうけん主張しゅちょうしている。アルゼンチン外務省がいむしょうは2023ねん3がつ2にち、カフィエロ外相がいしょうG20外相がいしょう会合かいごうひらかれたインドニューデリーでイギリスのクレバリー外相がいしょう同日どうじつ会談かいだんし、領有りょうゆうけん交渉こうしょう再開さいかい提案ていあんしたと発表はっぴょうした[8]

名称めいしょうについて

編集へんしゅう

日本語にほんごでは「紛争ふんそう」とばれ、法的ほうてきには戦争せんそうではないとしているイギリスの政府せいふ機関きかんも「Falklands Conflict(フォークランド紛争ふんそう)」のかたりもちいている[9]はげしい陸戦りくせんのほかだい世界せかい大戦たいせん以来いらいとなるだい規模きぼうみそら戦闘せんとうおこなわれ、世界せかいてきには戦争せんそうなされることがおおい。英語えいごけんでも、イギリス政府せいふけいではない刊行かんこうぶつなどでは「Falklands War(フォークランド戦争せんそう)」または「Falkland Islands War(フォークランド諸島しょとう戦争せんそう)」とばれる[10]

アルゼンチンをふくスペインけんでは諸島しょとうのアルゼンチンめいもちいて「Guerra de las Malvinas (マルビナス戦争せんそう)」とばれる。

フォークランド問題もんだい起源きげん

編集へんしゅう

フォークランド諸島しょとう発見はっけんとイギリスの実効じっこう支配しはい

編集へんしゅう

最初さいしょにフォークランド諸島しょとう発見はっけんしたのはフエゴとう先住民せんじゅうみんヤーガンぞくともいわれる。だい航海こうかい時代じだいにおけるヨーロッパひとによる発見はっけんについても諸説しょせつあり、1520ねんポルトガルマゼラン船団せんだんエステバン・ゴメスふねによるとも、あるいは1592ねんのイギリスの探検たんけんジョン・デイヴィスによるともされている。アルゼンチン政府せいふ前者ぜんしゃを、イギリス政府せいふ後者こうしゃっている[11]。このほか1598ねんにはオランダじんのセバル・デ・ウェルト (Sebald de Weertがこのしまおとずれ、当時とうじオランダではこのしまをセバルとう名付なづけた。

同地どうち大西おおにしひろし太平洋たいへいようむすマゼラン海峡かいきょうビーグル水道すいどうおよびドレーク海峡かいきょうちかく、パナマ運河うんが開通かいつうまでは戦略せんりゃくじょう要衝ようしょうであったことから、18世紀せいきには領有りょうゆうけんあらそいの舞台ぶたいとなった。1764ねんにフランスはひがしフォークランドとう入植にゅうしょくし、サン・ルイこうづけた(現在げんざいのバークレーわん)。イギリスはよく1765ねんにジョン・バイロン艦長かんちょう西にしフォークランドにあるソーンダースとうみなとにエグモントこうづけた。スペイン・ブルボンあさは、1767ねんにフランスからフォークランド諸島しょとう売却ばいきゃくけ、1770ねんにはブエノスアイレスからエグモントこう侵攻しんこうした。当時とうじ北米ほくべい植民しょくみん情勢じょうせい急迫きゅうはく対処たいしょしなければいけなかったイギリスは全面ぜんめん戦争せんそう[ちゅう 2]1774ねんにはスペインの領有りょうゆうけん一時いちじてき確立かくりつした。しかし1833ねんにはイギリスが派遣はけんしたスループ「クレイオー」によって無血むけつ占領せんりょう成功せいこう (Reassertion of British sovereignty over the Falkland Islands (1833)以後いご実効じっこう支配しはいすすめたことでながらくイギリスの海外かいがい領土りょうど属領ぞくりょう)とされてきた[11]

アルゼンチンの独立どくりつ諸島しょとう返還へんかん交渉こうしょう開始かいし

編集へんしゅう

1810ねん五月ごがつ革命かくめい発端ほったんとする独立どくりつ戦争せんそうて、1816ねんにアルゼンチンが独立どくりつすると、スペイン領土りょうど継承けいしょうするものとして、どう諸島しょとう返還へんかんもとめるようになった。1820年代ねんだいには領有りょうゆう課税かぜい宣言せんげんやアメリカせん拿捕だほなどもおこなわれた。しかしまもなく1825ねんから1828ねんシスプラティーナ戦争せんそう忙殺ぼうさつされたほか、そのだいえい帝国ていこく非公式ひこうしき帝国ていこくとして経済けいざいてき繁栄はんえい享受きょうじゅしていたことから、返還へんかん要求ようきゅうつづけられていたとはいえ、実質じっしつてきには棚上たなあ状態じょうたいとなっていた[11]

その、1929ねん世界せかい恐慌きょうこうて、まわしきじゅう年間ねんかんにはナショナリズム台頭たいとうし、だい世界せかい大戦たいせん1946ねんには左翼さよく民族みんぞく主義しゅぎしゃフアン・ペロン大統領だいとうりょう就任しゅうにんしたが、そのわらず棚上たなあ状態じょうたいとなっていた。

このペロンが下野げやしたのちペロン都市としゲリラ軍部ぐんぶ政党せいとうとのあいだ衝突しょうとつつづき、1960年代ねんだいには内政ないせい混乱こんらんをもたらしていた。またペロン政権せいけん時代じだいから極度きょくどインフレーション見舞みまわれていたこともあって、政治せいじ闘争とうそうれる政権せいけんたい国民こくみん不満ふまん鬱積うっせきしていた[11]

この国民こくみん不満ふまんらすため、急遽きゅうきょフォークランド諸島しょとうというナショナリスティックな問題もんだいげられるようになり、1960年代ねんだいには「マルビナス記念きねん」の制定せいていをはじめとする様々さまざまなプロパガンダ工作こうさく推進すいしんされた。また1965ねん12月16にちには、国際こくさい連合れんごう総会そうかい決議けつぎだい2065ごうにより「いかなる形態けいたい植民しょくみん主義しゅぎ終結しゅうけつさせるため」アルゼンチン・イギリス双方そうほう平和へいわてき問題もんだい解決かいけつのため交渉こうしょう開始かいしするよう勧告かんこくしたことから、りょう政府せいふ交渉こうしょう開始かいしされることになった[11]

しかしイギリスにとって、フォークランド問題もんだいはごく一部いちぶ政治せいじ官僚かんりょうのみがるのみの問題もんだいであった。1960年代ねんだいはい英国えいこくびょうくるしむ状況じょうきょうでは、どう諸島しょとう維持いじそのものが負担ふたんとなっており、アルゼンチンがわへの売却ばいきゃくというあん検討けんとうされていた[11]保守党ほしゅとうマクミラン政権せいけんヒースおう璽尚しょ1961ねんにフォークランド諸島しょとう南米なんべい各国かっこくとの空路くうろ海路かいろひら通信つうしん交通こうつう協定きょうてい締結ていけつ成功せいこうしたが、アルゼンチンがわ主権しゅけん問題もんだいげたためそれ以上いじょう進展しんてんはなかった[12]

1967ねん3がつイギリス外務省がいむしょう作成さくせいしたメモランダムでは「島民とうみんのぞめば」との条件じょうけんで、フォークランド諸島しょとうにおける主権しゅけん委譲いじょうみとめることとなっており、アルゼンチンがわおおきな前進ぜんしんめた。しかし実際じっさいには、アルゼンチンへの帰属きぞくのぞ島民とうみん皆無かいむであり、またイギリスがわでも、議会ぎかいやマスコミは諸島しょとう返還へんかんには反対はんたい方針ほうしんつらぬいていた[11]

諸島しょとう返還へんかん交渉こうしょう停滞ていたい挑発ちょうはつ行為こうい

編集へんしゅう

1975ねんキャラハン外相がいしょう依頼いらいけて、リオ・ティントしゃ重役じゅうやくでもあるエドワード・シャクルトン貴族きぞくいん議員ぎいん団長だんちょうとして、諸島しょとう経済けいざい状況じょうきょうかんする調査ちょうさだん派遣はけんされた。その報告ほうこくしょは1976ねん6がつ提出ていしゅつされ、フォークランド諸島しょとう経済けいざい状況じょうきょう絶望ぜつぼうてきであることが確認かくにんされた。アルゼンチンへの過度かど経済けいざいてき依存いぞんはなく、自給自足じきゅうじそくちかかったものの、ぎゃくにいえば、植民しょくみん時代じだいからほとんど発展はってんしていないということでもあった。5年間ねんかんで1,400まんポンドという莫大ばくだい投資とうし必要ひつようであると見積みつもられたが、これはイギリス単独たんどくでは実現じつげん困難こんなんであった。イギリス政府せいふはこの報告ほうこくしょ公開こうかいし、アルゼンチンからの経済けいざいてき協力きょうりょくうながそうとしたが、アルゼンチン政府せいふはこれを諸島しょとう経済けいざいてき自立じりつすすめるものであると誤解ごかいして、危機ききかんつよめた。また島民とうみんは、この報告ほうこくしょによってイギリス本土ほんどからのさらなる投資とうしまれるものと期待きたいした[13]

シャクルトン議員ぎいん調査ちょうさすすめていた1976ねん2がつ4にちにイギリスの南極なんきょく調査ちょうさせん「シャクルトン」 (RRS Shackleton南緯なんい60せんちかくのアルゼンチンの排他はいたてき経済けいざい水域すいいきで、同国どうこく海軍かいぐんによる警告けいこく射撃しゃげきけて、すうはつ被弾ひだんするという事件じけん発生はっせいした。2月19にち国防省こくぼうしょう諸島しょとう防衛ぼうえいについて検討けんとうしたものの、当時とうじどう諸島しょとうにはけい武装ぶそう氷海ひょうかい警備けいびせん「エンデュアランス」 (HMS Enduranceイギリス海兵かいへいたい隊員たいいん36めいしか配備はいびされておらず、侵攻しんこう阻止そしはほぼ絶望ぜつぼうてきであると見積みつもられ、奪回だっかい作戦さくせん重点じゅうてんかれた[13]

同年どうねんクーデター英語えいごばん権力けんりょく掌握しょうあくしたホルヘ・ラファエル・ビデラ大統領だいとうりょうは、国民こくみん弾圧だんあつへのガスきのためにフォークランド問題もんだい解決かいけつへの糸口いとぐちさぐっており、交渉こうしょうすすめるための挑発ちょうはつ行動こうどうとして、12月には、50めいのアルゼンチンぐん部隊ぶたいがイギリスりょうサウスサンドウィッチ諸島しょとう南端なんたん無人島むじんとうであるみなみチューレに無断むだん上陸じょうりくし、アルゼンチンの国旗こっきかかげる事件じけん発生はっせいした。イギリスのインテリジェンス・コミュニティー統括とうかつする合同ごうどう情報じょうほう委員いいんかい(JIC)は、これをアルゼンチン軍事ぐんじ評議ひょうぎかいにおいて強硬きょうこう優勢ゆうせいになりつつある兆候ちょうこう分析ぶんせきした[13]

JICが1977ねん11月に作成さくせいした情報じょうほう見積みつもりによれば、アルゼンチンが軍事ぐんじ行動こうどうふくめたより強引ごういん手段しゅだんうったえてくる危険きけんせいがあると指摘してきされた。そのため、キャラハン首相しゅしょうは、11月21にち原子力げんしりょく潜水せんすいかんドレッドノート」とフリゲートアラクリティ」「フィービ」および支援しえん艦艇かんてい派遣はけんする (Operation Journeymanことを決定けっていした。キャラハンは機動きどう部隊ぶたい派遣はけんについて秘密ひみつ情報じょうほう長官ちょうかんはなし、これがアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく経由けいゆして非公式ひこうしきにアルゼンチンに通告つうこくされることを期待きたいした。アルゼンチンがこの艦隊かんたい派遣はけんりえていたかどうか、またそのことがアルゼンチンの行動こうどう影響えいきょうおよぼしたかどうかについては不明ふめいである。一方いっぽう、イギリスがわ交戦こうせん規定きてい策定さくていなど軍事ぐんじ行動こうどうのシミュレートをすすめるとともに、「エンデュアランス」も一時いちじてき本国ほんごくもどされて、レーダー探知たんち通信つうしん傍受ぼうじゅ装置そうちなどの装備そうびほどこされた[13][14]

リースあん検討けんとう拒絶きょぜつ

編集へんしゅう

1979ねん就任しゅうにんしたサッチャー首相しゅしょう外交がいこう経験けいけんかったことから、老練ろうれんピーター・キャリントン外務がいむ大臣だいじんむかえた。当時とうじ外務がいむえい連邦れんぽうしょうイギリス国防省こくぼうしょうでは、みなみチューレ上陸じょうりく事件じけんへの対応たいおうまえて任務にんむ部隊ぶたい諸島しょとう常駐じょうちゅうさせるという「フォークランド要塞ようさいあん検討けんとうしていたが、これにはかなりの財政ざいせいてき負担ふたんともなうことから、キャリントン外務がいむ大臣だいじんおよニコラス・リドリー外務がいむ閣外かくがい大臣だいじんは、名目めいもくじょう主権しゅけんをアルゼンチンがわ委譲いじょうしたうえで諸島しょとうをイギリスがける「リースあん」を腹案ふくあんとしていた。1980ねん8がつ25にちにはこのあんたずさえたリドリー外務がいむ閣外かくがい大臣だいじんがアルゼンチンのカヴァンドーリ外務がいむふく大臣だいじん会談かいだんし、おおむね好意こういてき反応はんのうけた[15]

しかしサッチャー首相しゅしょうは、国際こくさい連合れんごう憲章けんしょうだい1じょうだい2こう人民じんみん自決じけつ原則げんそくにもとづき、フォークランド諸島しょとう住民じゅうみん帰属きぞく選択せんたく絶対ぜったい条件じょうけんにしていたのにたい[16]島民とうみん自分じぶんたちが「イギリス国民こくみん」であることに固執こしつしており、リドリー外務がいむ閣外かくがい大臣だいじんは11月22にちスタンリー訪問ほうもんして400めい島民とうみん討論とうろんおこなったものの、惨憺さんたんたる結果けっかとなった。またイギリスがわ議会ぎかいへの通知つうち後回あとまわしにして交渉こうしょうすすめていたところ、マスコミにすっぱかれて周知しゅうち事実じじつとなってしまったことで、議会ぎかい態度たいど硬化こうかさせてこのあん拒絶きょぜつした[15]

アルゼンチンからの警告けいこく情勢じょうせい判断はんだん

編集へんしゅう

アルゼンチンがわはイギリスによるフォークランド占有せんゆうから150ねん節目ふしめたる1983ねんまでには、諸島しょとう問題もんだいを「いかなる手段しゅだん」を使つかっても解決かいけつすることを目標もくひょうとしていた。また、1981ねん12月8にちしん大統領だいとうりょう選出せんしゅつされた陸軍りくぐんそう司令しれいかんレオポルド・ガルチェリ中将ちゅうじょう翌年よくねんには陸軍りくぐんそう司令しれいかん退任たいにんすることになっていたため、退役たいえきまでに政治せいじてき功績こうせきのこ必要ひつようせまられていた[15]

1981ねん当時とうじのイギリスでは国防こくぼう政策せいさく見直みなおしの作業さぎょうすすめられており (1981 Defence White PaperトライデントSLBM予算よさん捻出ねんしゅつするため、氷海ひょうかい警備けいびせん「エンデュアランス」や空母くうぼインヴィンシブル」の退役たいえき検討けんとうされていたが、アルゼンチン政府せいふは、これらの検討けんとう内容ないようについて、イギリスはフォークランド諸島しょとう安全あんぜん保障ほしょう問題もんだいよりも国内こくない財政ざいせい問題もんだい優先ゆうせんしたものと解釈かいしゃくしていた[17]。12月15にち海軍かいぐんそう司令しれいかんホルヘ・アナヤ大将たいしょう (Jorge Anayaは、海軍かいぐん作戦さくせん部長ぶちょうフアン・ロンバルド中将ちゅうじょう (Juan Lombardoたいし、フォークランド諸島しょとう侵攻しんこう作戦さくせん計画けいかく作成さくせいしたれいし、本格ほんかくてき武力ぶりょく行使こうし計画けいかく開始かいしされた[18]

 
アルゼンチン海軍かいぐんそう司令しれいかんホルヘ・アナヤ

1982ねん1がつ27にちにアルゼンチン外務省がいむしょうはイギリスにたいして主権しゅけん問題もんだい解決かいけつのための定期ていきてき交渉こうしょう開始かいし提案ていあんし、2がつ27にちにはアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくニューヨーク会談かいだんたれた。アルゼンチン外務省がいむしょうとしてはイギリスを交渉こうしょうつなめ、武力ぶりょく紛争ふんそう勃発ぼっぱつだけはけようとしていたが、イギリスがわはアルゼンチンがそこまで強硬きょうこう姿勢しせいかためつつあることを想定そうていしておらず、まずは島民とうみん意思いしえる時間じかんかせぐためのばしをはかっており、積極せっきょくてきはないをすすめる意図いとはなかった。アルゼンチン外務省がいむしょう落胆らくたんし、3月1にちに「イギリスがわ解決かいけつ意思いしがない場合ばあい交渉こうしょうあきら自国じこく利益りえきのため今後こんごあらゆる手段しゅだんる」との公式こうしき声明せいめい発表はっぴょうした[15]

これはアルゼンチンがわからの明確めいかく警告けいこくであったが、依然いぜんとしてイギリスがわ反応はんのうにぶく、3月9にち開催かいさいされたJICでは、外交がいこう交渉こうしょうつづいているかぎり、アルゼンチンが極端きょくたん行動こうどうにはることはない、という結論けつろんであり、もしアルゼンチンがわ武力ぶりょくうったえるとしても、同年どうねん10がつ以降いこうになるであろう、という推測すいそくであった。同日どうじつ、サッチャー首相しゅしょう国防省こくぼうしょうたいして非常時ひじょうじ対策たいさくっておくよう指示しじしていたが、その2週間しゅうかん具体ぐたいてき検討けんとうおこなわれなかった。ブエノスアイレス駐在ちゅうざいアンソニー・ウィリアムス英国えいこく大使たいしは「もしイギリスがアルゼンチンがわ要求ようきゅうれなければ、3がつちゅう武力ぶりょく行使こうしもありうる」との情報じょうほう入手にゅうしゅして本国ほんごく伝達でんたつしたが、おおかみ少年しょうねんなされてしまい、重視じゅうしされなかった[3]

サウスジョージアとう上陸じょうりく

編集へんしゅう

3月19にちにアルゼンチンのくずてつ回収かいしゅう業者ぎょうしゃコンスタンティノ・ダヴィドフ(Constantino Davidoff)はアルゼンチン海軍かいぐん輸送ゆそうかん「バイア・ブエン・スセソ」(ARA Bahaia Buen Suceso)によってサウスジョージアとうのクリトビケンに上陸じょうりくした[ちゅう 3]。これはきゅう捕鯨ほげい施設しせつ解体かいたいのためであり、この解体かいたい自体じたいはイギリス政府せいふとの契約けいやくもとづくものであったが、上陸じょうりくのための事前じぜん許可きょかをサウスジョージアみん政府せいふからていなかったうえに、作業さぎょういんのなかにアルゼンチン軍人ぐんじんまぎんでおり、上陸じょうりくすると、アルゼンチン国旗こっきかかげた施設しせつ設置せっちはじめた[3]

イギリス外務がいむえい連邦れんぽうしょうはアルゼンチン外務省がいむしょう抗議こうぎするとともに、氷海ひょうかい警備けいびせん「エンデュアランス」に海兵かいへい隊員たいいん22めい軍用ぐんようヘリ「ワスプ」2せて同島どうとう海域かいいき派遣はけんしたが[19]、これに対抗たいこうして、アルゼンチン海軍かいぐんコルベット2せき派遣はけんした。アルゼンチンがわ強硬きょうこう姿勢しせいおどろいたイギリスがわは、偶発ぐうはつてき衝突しょうとつけるため、「エンデュアランス」をサウスジョージアとうおき待機たいきさせ、状況じょうきょう監視かんしさせた。イギリスがわは、戦闘せんとう行為こういがフォークランド諸島しょとうにまですることをおそれており、問題もんだい範囲はんいをサウスジョージアとうめておきたいとかんがえていたが、アルゼンチンがわ抑止よくしするのか撃退げきたいするのかという根本こんぽんてき方針ほうしんさだめないまま「エンデュアランス」を派遣はけんしたために、対応たいおう中途半端ちゅうとはんぱとなり、かえって危機きき悪化あっかさせてしまった[3]

3月23にちにイギリスは危機きき収束しゅうそくのためには譲歩じょうほもやむなしとして、サウスジョージアとうからアルゼンチンぐん部隊ぶたいすみやかに退去たいきょすれば外交がいこう交渉こうしょう妥協だきょうする用意よういがあることを緊急きんきゅうつたえた。しかしこの譲歩じょうほすで手遅ておくれであった。同日どうじつ、アルゼンチンがわ軍事ぐんじ評議ひょうぎかいにおいて、サウスジョージアとうから部隊ぶたい撤収てっしゅうさせないということが決定けっていされてしまっており、そのうえ部隊ぶたい撤収てっしゅうさせた場合ばあいはイギリスがわ恫喝どうかつくっしたことになるため、強硬きょうこうのガルチェリ大統領だいとうりょうにとって、もはやれがたい選択せんたくとなっていた[3]

3月26にちにアルゼンチンのコスタ=メンデス外相がいしょうは、サウスジョージアとう上陸じょうりくしたアルゼンチンじん同胞どうほう保護ほごのために海軍かいぐん砕氷さいひょうかん「バイア・パライソ」(ARA Bahia Paraiso)を同地どうち派遣はけんしており、必要ひつようおうじてあらゆる措置そちこうずる用意よういがあるよし発表はっぴょうした。同艦どうかんから海兵かいへい隊員たいいんがサウスジョージアとうリースこう上陸じょうりくするにおよんで、イギリスがわも、外交がいこうてき手段しゅだんによる状況じょうきょう打開だかいきわめて困難こんなんになっているということを、ようやく理解りかいした[3]

開戦かいせん前夜ぜんやにおけるイギリスの情勢じょうせい誤認ごにん

編集へんしゅう

このように情勢じょうせい加速度かそくどてき悪化あっかしているにもかかわらず、依然いぜんとしてイギリスの対応たいおうにぶかった。イギリスの情報じょうほう機関きかん3月22にちになっても、あくまで問題もんだいはサウスジョージアとうであって、フォークランドにまで侵攻しんこうしてるなどとは想定そうていしていなかった。3月28にちには政府せいふ通信つうしん本部ほんぶ(GCHQ)により、アルゼンチン海軍かいぐん潜水せんすいかん「サンタ・フェ」がフォークランド諸島しょとう沿岸えんがん派遣はけんされていることが傍受ぼうじゅされたものの、同日どうじつ、アルゼンチン海軍かいぐんそう司令しれいかんアナヤ大将たいしょうが「サウスジョージアとうでアルゼンチンじん殺害さつがいされないかぎりフォークランドにはさない」と発言はつげんしたこともあって、この情報じょうほう重要じゅうようせい十分じゅうぶん認識にんしきされなかった[3]

3月31にち時点じてんにおいてすら、JICは「アルゼンチンはサウスジョージア問題もんだい逆手さかてにとって交渉こうしょう材料ざいりょうにしようとしている」として、サウスジョージアとう挑発ちょうはつしてイギリスの行動こうどうさそうことがアルゼンチンの目的もくてきであって、よもやさき仕掛しかけてることはないであろう、との判断はんだんであった。しかし同日どうじつ、GCHQは、アルゼンチンの海兵かいへい部隊ぶたいいち大隊だいたいが4がつ2にちにはフォークランドのスタンリーにたっするということ、そしてブエノスアイレスからざいえいアルゼンチン大使館たいしかんたいしてすべての機密きみつ書類しょるい焼却しょうきゃく命令めいれいがあったという決定的けっていてき情報じょうほう傍受ぼうじゅした[3]

ことここにいたり、イギリス政府せいふも、ついにアルゼンチンのねらいがフォークランド諸島しょとうにあり、情勢じょうせい想定そうていおおきくえて急迫きゅうはくしていることを理解りかいした。サッチャー首相しゅしょう米国べいこく事態じたい収拾しゅうしゅう仲介ちゅうかい要請ようせいしており、4がつ1にちレーガン大統領だいとうりょうはガルチェリ大統領だいとうりょうたいする説得せっとく工作こうさくおこなっていることと米国べいこく立場たちばがイギリスりであることをつたえたが、ガルチェリ大統領だいとうりょうとの連絡れんらく困難こんなんであった。ちゅうアルゼンチン米国べいこく大使たいしすでにガルチェリ大統領だいとうりょう面会めんかいしていたが、大統領だいとうりょうは「なにっているのかまったわけがわからない」状態じょうたいであった。4月1にち20時半じはんごろ米国べいこく東部とうぶ標準時ひょうじゅんじ)、レーガンはようやくガルチェリと電話でんわはなすことができたが、侵攻しんこうおもいとどまるよう説得せっとくするレーガン大統領だいとうりょうたいし、ガルチェリ大統領だいとうりょう自分じぶんたちの大義たいぎについて演説えんぜつはじめる始末しまつであり、説得せっとく失敗しっぱいであった[3]

このような外交がいこうてき手段しゅだん並行へいこうしてイギリスがわおもこしげて、軍事ぐんじてき対応たいおう着手ちゃくしゅしていた。3月29にちには、物資ぶっし海兵かいへい隊員たいいん200めい乗艦じょうかんさせたフォート・グランジきゅうきゅうかてかん「フォート・オースティン」が急派きゅうはされた。また4がつ1にちには原子力げんしりょく潜水せんすいかんスパルタン」と「スプレンディド」も派遣はけんされたほか、ジブラルタル寄港きこうしていたフリゲふりげト艦とかんブロードソード」と「ヤーマス」も追加ついかされることになった。海軍かいぐんは、今後こんご増派ぞうはつづけるのであればこのような五月雨さみだれしき派遣はけんつづけるべきではないとかんがえており、だいいち海軍かいぐんきょうリーチ提督ていとくは、空母くうぼ機動きどう部隊ぶたい編成へんせい上申じょうしんした。これをけて、3月31にち時点じてんで、サッチャー首相しゅしょう任務にんむ部隊ぶたい編成へんせいしたれいしていた。しかしこれら先遣せんけんたい到着とうちゃくは4がつ13にち前後ぜんこう、そして空母くうぼ機動きどう部隊ぶたい出港しゅっこうも4がつ5にち予定よていであった[3]

これにたいしてアルゼンチンにおいては、3月26にち時点じてん軍事ぐんじ評議ひょうぎかいによってフォークランド諸島しょとう侵攻しんこうかんする最終さいしゅうてき決断けつだんくだされていた。現地げんち時間じかん4がつ1にち19、アルゼンチンぐんはロサリオ作戦さくせん発動はつどうし、同日どうじつ23最初さいしょ部隊ぶたいがスタンリー付近ふきん上陸じょうりくして、本格ほんかく侵攻しんこう開始かいしした[3]

アルゼンチンぐん侵攻しんこう

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作戦さくせん計画けいかく立案りつあん前倒まえだおし (1981ねん12月-1982ねん3がつ)

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上記じょうきとおりフォークランド諸島しょとう侵攻しんこう作戦さくせん具体ぐたいてき計画けいかく作成さくせいは、1981ねん12月15にち海軍かいぐんそう司令しれいかんアナヤ大将たいしょうから海軍かいぐん作戦さくせん部長ぶちょうロンバルド中将ちゅうじょうへのしたれい端緒たんしょとする。このさい、アナヤ大将たいしょう指示しじは「マルビナス諸島しょとう奪回だっかいせよ。しかしそれらを確保かくほする必要ひつようはない」というものであり、イギリスの反撃はんげき予期よきされていなかった。1982ねん1がつ中旬ちゅうじゅんより陸軍りくぐん空軍くうぐんくわえて統合とうごう作戦さくせん計画けいかく作成さくせい着手ちゃくしゅされた[18]

この時点じてんでは作成さくせい完了かんりょう時期じきは9月15にちとされており、そのまえなんらかのうごきをることは考慮こうりょされなかった。南半球みなみはんきゅうにあるフォークランド諸島しょとうでは北半球きたはんきゅうとはぎゃくに、9月は真冬まふゆ過酷かこく天候てんこうわる時期じきであった。年初ねんしょ招集しょうしゅうされたアルゼンチン陸軍りくぐん徴集ちょうしゅうへい訓練くんれん進展しんてんしており、海軍かいぐん航空こうくうたいにはシュペルエタンダール攻撃こうげきとエグゾセそらたいかんミサイルの配備はいびすすみ、またフォークランド周辺しゅうへんにイギリス海軍かいぐんゆうする唯一ゆいいつ軍艦ぐんかんである氷海ひょうかい警備けいびかん「エンデュアランス」もかいやくされているはずであった。上陸じょうりく部隊ぶたいとしては海兵かいへいたいだい2歩兵ほへい大隊だいたい選定せんていされ、2がつから3がつにかけて、フォークランドに地形ちけいているバルデス半島はんとうすうかい上陸じょうりく演習えんしゅうおこなった。基本きほんてき上陸じょうりく計画けいかくは3がつ9にち軍事ぐんじ政権せいけん承認しょうにんけて、9がつまでかけて作戦さくせん計画けいかく準備じゅんびされるはずだった[18]

しかし3がつ下旬げじゅん廃材はいざい回収かいしゅう業者ぎょうしゃのサウスジョージアとう上陸じょうりくめぐり、情勢じょうせい急激きゅうげき緊迫きんぱくはじめていた。3月23にちにアルゼンチン政府せいふはイギリスによる業者ぎょうしゃ退去たいきょ阻止そしするためサウスジョージアとう兵力へいりょくおくるとともに、この危機きき口実こうじつにフォークランド諸島しょとう占領せんりょうすることを決心けっしんし、侵攻しんこう計画けいかく立案りつあんグループにたいして、計画けいかくをどの程度ていど前倒まえだおししうるかを諮問しもんした。3月25にち、ロンバルド中将ちゅうじょうは、同月どうげつ28にち出港しゅっこうしてフォークランド上陸じょうりくは4がつ1にちであると回答かいとうした。軍事ぐんじ政権せいけんはこの回答かいとう承認しょうにんし、ただちにフォークランド上陸じょうりく作戦さくせんとサウスジョージアへのさらなる兵力へいりょく増強ぞうきょう準備じゅんびりかかるよう命令めいれいした[18]

フォークランド諸島しょとう侵攻しんこう (3がつ28にち-4がつ1にち)

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ロザリオ作戦さくせん経過けいか

双方そうほう態勢たいせい

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アルゼンチンぐんにおいてフォークランド諸島しょとう占領せんりょう担当たんとうしたのは、カルロス・ブセル海兵かいへいたい少将しょうしょう指揮しきかんとするだい40.1任務にんむぐんであった。上記じょうきとお海兵かいへいたいだい2歩兵ほへい大隊だいたい基幹きかんとして、上陸じょうりく特殊とくしゅ作戦さくせん中隊ちゅうたいおよび水中すいちゅう障害しょうがい破壊はかい部隊ぶたい野戦やせん砲兵ほうへいなどを配属はいぞくされていた。しゅたる攻撃こうげき目標もくひょう総督そうとく公邸こうてい海兵かいへいたい兵舎へいしゃであり、多方面たほうめんから圧倒的あっとうてき優勢ゆうせい兵力へいりょく奇襲きしゅう攻撃こうげきすることで、できれば流血りゅうけつしに占領せんりょうすることを企図きとしていた[4]

イギリスがわでは丁度ちょうど同地どうち警備けいびたる海兵かいへいたい分遣ぶんけんたい交代こうたい時期じきむかえたタイミングで情勢じょうせい緊迫きんぱくし、大使館たいしかんづけ駐在ちゅうざい武官ぶかん助言じょげんれて交代こうたい中止ちゅうししたため、定数ていすうばいにあたる69めい海兵かいへい隊員たいいん駐在ちゅうざいしていた。また「エンデュアランス」から陸戦りくせんたい11めい派遣はけんされていたほか、同地どうちんでいた退役たいえき海兵かいへい隊員たいいん1めいさい志願しがんしてくわわっていた[ちゅう 4]海兵かいへいたい指揮しきかんマイク・ノーマン少佐しょうさは、侵攻しんこうけた場合ばあい緒戦しょせん可能かのうかぎはげしい打撃だげきくわえて交渉こうしょう時間じかんかせぐことを企図きとしていた[4]

特殊とくしゅ作戦さくせん上陸じょうりく中隊ちゅうたい錯誤さくご

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3月28にち、アルゼンチンぐん侵攻しんこう部隊ぶたい出航しゅっこうした。当初とうしょ計画けいかくでは3がつ31にちから4がつ1にち夜間やかん上陸じょうりくする予定よていであったが、荒天こうてんのため24あいだ延期えんきされた。4月1にち、フォークランド諸島しょとう総督そうとくレックス・ハントきょうは、アルゼンチンの侵攻しんこうせまっていることを本国ほんごくより通知つうちされて、これを島民とうみんけてラジオ放送ほうそうした。これにより、アルゼンチンがわは、すで戦術せんじゅつてき奇襲きしゅう成立せいりつしなくなっていることをさとった[4]

4がつ1にち2130ふん以下いか特記とっきかぎりタイムゾーンはUTC-4)、ミサイル駆逐くちくかん「サンティシマ・トリニダド」より、特殊とくしゅ作戦さくせん上陸じょうりく中隊ちゅうたい92めいがゴムボート21せき分乗ぶんじょうして発進はっしんした。これらの部隊ぶたいかれ、サバロツ少佐しょうさひきいられた76めいはイギリス海兵かいへいたい兵舎へいしゃを、またヒアチノ少佐しょうさひきいられた16めい総督そうとく公邸こうてい目指めざした。一方いっぽう、イギリスがわは、停泊ていはくちゅう民間みんかんせん航海こうかいようレーダーでみなと見張みはっており、2にち230ふんにはこれらのアルゼンチン艦艇かんていうごきを把握はあくしていた。また監視かんし哨からも報告ほうこく相次あいつぎ、430ふんにハント総督そうとく緊急きんきゅう事態じたい宣言せんげんした[4]

アルゼンチンがわ計画けいかくでは、イギリス海兵かいへいたい兵舎へいしゃ就寝しゅうしんちゅうのところを奇襲きしゅうし、死傷ししょうしゃさずに制圧せいあつすることになっており、サバロツ少佐しょうさはこれにしたがって催涙さいるいだんんだが、実際じっさいにはイギリス海兵かいへいたいすで全員ぜんいん戦闘せんとう配置はいちいており、兵舎へいしゃはもぬけのからであった。一方いっぽう、ヒアチノ少佐しょうさたいは、急遽きゅうきょこの目標もくひょうえられたため、総督そうとく公邸こうていかんする情報じょうほうなにっていなかった。ヒアチノ少佐しょうさは4めい部下ぶかれて降伏ごうぶく勧告かんこくおもむいたが、あやまって総督そうとく公邸こうていではなく執事しつじ住居じゅうきょはいってしまった。そして公邸こうていでは、海兵かいへい隊員たいいん31めい水兵すいへい11めい退役たいえき海兵かいへい隊員たいいん1めい自動じどう小銃しょうじゅうかまえていたうえに、総督そうとくづけ運転うんてんしゅ散弾さんだんじゅうを、そして総督そうとく自身じしん拳銃けんじゅうかまえていた。あやまりにづいててきたヒアチノ少佐しょうさたちに銃撃じゅうげきびせられ、ヒアチノ少佐しょうさ戦死せんし、1めい負傷ふしょうして、降伏ごうぶく勧告かんこくかった全員ぜんいんがイギリスの捕虜ほりょとなった。指揮しきかんうしなったアルゼンチンがわつぎうごきをめられず、事態じたい膠着こうちゃく状態じょうたいとなった[4]

本隊ほんたい上陸じょうりくとイギリスぐん降伏ごうぶく

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一方いっぽうアルゼンチンぐん本隊ほんたいでは、まず430ふん潜水せんすいかん「サンタ・フェ」より水中すいちゅう障害しょうがい破壊はかい部隊ぶたいのダイバーたちが出撃しゅつげきし、偵察ていさつおこなうととも水陸すいりく両用りょうようしゃのための誘導ゆうどうとう敷設ふせつした。つづいて6戦車せんしゃ揚陸ようりくかん「カボ・サン・アントニオ」よりLVTP-7装甲そうこう兵員へいいん輸送ゆそうしゃおよびLARC-5貨物かもつしゃ分乗ぶんじょうした海兵かいへいたいだい2歩兵ほへい大隊だいたい出撃しゅつげきし、母艦ぼかんからの誘導ゆうどうしたがって岩礁がんしょう迂回うかいしたのち、誘導ゆうどうとうしたがって無事ぶじ上陸じょうりくした。上陸じょうりくすると、まずスタンリー空港くうこう確保かくほし、イギリスがわ滑走かっそう設置せっちした障害しょうがいぶつ撤去てっきょしたのち、スタンリー市街しがいけて前進ぜんしんしていった[4]

715ふんにはイギリス海兵かいへいたいしょう部隊ぶたいによる妨害ぼうがい攻撃こうげきおこなわれたものの、双方そうほうとも戦死せんししゃはなく、8には市街しがい掌握しょうあくした。すで海兵かいへいたい砲兵ほうへい部隊ぶたい予備よびたい上陸じょうりくし、スタンリー空港くうこうには増援ぞうえん陸軍りくぐん部隊ぶたいせた航空機こうくうき着陸ちゃくりくはじめていた。イギリスがわ保持ほじしている施設しせつ総督そうとく公邸こうていのみとなっており、ハント総督そうとくは、島民とうみん軍人ぐんじん必要ひつよう生命せいめい損失そんしつあたえる徹底てってい抗戦こうせんけて交渉こうしょうすることにした。925ふん武装ぶそう解除かいじょ命令めいれいされて、フォークランド諸島しょとうにおける戦闘せんとうはいったん停止ていしした[4]

サウスジョージアとう侵攻しんこう (3がつ24にち-4がつ3にち)

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双方そうほう態勢たいせい

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アルゼンチンはサウスジョージアとう占領せんりょうのため、セサル・トロムベタ海軍かいぐん大佐たいさ指揮しきかんとするだい60任務にんむぐん派遣はけんした。これは極地きょくち輸送ゆそうかん「バイア・パライソ」とコルベット「ゲリコ」から構成こうせいされており、艦載かんさいヘリコプター2海兵かいへい隊員たいいん80めいんでいた[5]

サウスジョージアとうには、研究けんきゅうしゃとうのぞけば定住ていじゅうしゃはなく、通常つうじょう軍隊ぐんたい配備はいびもないが、廃材はいざい回収かいしゅう業者ぎょうしゃのサウスジョージアとう上陸じょうりくへの対応たいおう措置そちとして、3月24にちより、氷海ひょうかい警備けいびかん「エンデュアランス」と、ミルズ中尉ちゅうい (Keith Mills指揮しき海兵かいへい隊員たいいん22めい警戒けいかい活動かつどうにあたっていた。その海兵かいへいたいは3がつ31にち下船げせんし、グリトビケンのイギリス南極なんきょく探検たんけんたい (British Antarctic Survey基地きち駐屯ちゅうとんした。4月1にちには、ハント総督そうとくによるフォークランドしょ島民とうみんへのラジオ放送ほうそう受信じゅしんされたほか、4がつ2にちには、BBCワールド・ニュースによって、アルゼンチンによるフォークランド侵攻しんこうほうじられた。国防省こくぼうしょうからの指令しれいけて、「エンデュアランス」はアルゼンチンぐんつからないようにはなれつつ情報じょうほう収集しゅうしゅう母体ぼたいとして活動かつどうすることになり、ミルズ中尉ちゅういは、猛烈もうれつあらしのなかで防御ぼうぎょ陣地じんち構築こうちくし、また海岸かいがん桟橋さんばし鉄条てつじょうもう爆発ばくはつぶつ敷設ふせつさせた[5]

サウスジョージアとう占領せんりょう

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4がつ2にち1225ふんごろ、グリトビケンのあるカンバーランドわんに「バイア・パライソ」が侵入しんにゅうしてきた。本来ほんらい、このにサウスジョージアとうへの侵攻しんこう作戦さくせん実施じっしされる予定よていであったが、極度きょくど悪天候あくてんこうのために断念だんねんし、無線むせんで「明朝みょうちょうもう一度いちど通信つうしんする」と通告つうこくしてってった。4月3にち夜明よあけには天候てんこう回復かいふくしており、630ふんにはふたた来航らいこうした「バイア・パライソ」からのVHF通信つうしん降伏ごうぶく要求ようきゅうがなされた。このあいだ、アルゼンチンぐんは、まずピューマ・ヘリコプターのヘリボーンによって部隊ぶたい展開てんかいさせていたが、同地どうちにイギリスぐんはいないものと誤認ごにんしており、ピューマ・ヘリコプターは陣地じんちちかくを飛行ひこうしたため、ミルズ中尉ちゅういたちの一斉いっせい射撃しゃげきによってすうじゅうはつ命中めいちゅうし、2めい戦死せんしのこりは全員ぜんいん負傷ふしょうして、機体きたい不時着ふじちゃくした[5]

トロムベタ大佐たいさは「ゲリコ」へイギリスぐん陣地じんちへのかんほう射撃しゃげきめいじたが、目標もくひょうがあまりにちかくて俯角ふかくれず、射撃しゃげきできずにいるうちに、ぎゃくにミルズ中尉ちゅういたちのカールグスタフ反動はんどうほうM72 LAW対戦たいせんしゃロケットだん、そして機関きかんじゅうおよび自動じどう小銃しょうじゅう射撃しゃげきけて、水兵すいへい1めい戦死せんしし、ほう旋回せんかい機構きこう破壊はかいされた。しかしこのあいだに、アルエットIIIヘリコプターによって、不時着ふじちゃくしたピューマの負傷ふしょうしゃ収容しゅうようされ、また増援ぞうえん部隊ぶたい着陸ちゃくりくさせた。アルゼンチン海兵かいへいたいたくみに展開てんかいし、ミルズ中尉ちゅういたちを包囲ほういしていった。また「ゲリコ」も、いったんおき後退こうたいしたのちにかんほう射撃しゃげき再開さいかいしており、ほう旋回せんかい機構きこう破壊はかいされたためにたま誤差ごさおおきかったものの、徐々じょじょ陣地じんちちかづいていた[5]

ミルズ中尉ちゅういは、事前じぜんに「無益むえき人命じんめいうしなうおそれがしょうじるまえに、抵抗ていこうをやめる」と指令しれいされていたこともあって、この時点じてんでアルゼンチンぐんたい十分じゅうぶん損害そんがいあたえたとして、降伏ごうぶくした。イギリスがわ重傷じゅうしょうしゃ1めいしたものの、戦死せんししゃはなかった。これにたいし、アルゼンチンぐん圧倒的あっとうてき優勢ゆうせいであり、またミルズ中尉ちゅうい無線むせん海兵かいへいたい駐屯ちゅうとん宣言せんげんしていたにもかかわらず、イギリスぐんはいないだろうというおもみで不用意ふようい兵力へいりょく投入とうにゅうした結果けっか、フリゲート1せき損傷そんしょう、ヘリコプター1ぜんそん死者ししゃ3めいという損害そんがいこうむった[5]。ただし、後々あとあと外交がいこう交渉こうしょうのことをかんがえて、イギリスじんころさないように攻撃こうげき手控てびかえた結果けっかともわれる。

政治せいじ外交がいこうてき対応たいおう

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戦時せんじ内閣ないかく設置せっち

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3月31にち時点じてんで、サッチャー首相しゅしょうは、「ハーミーズ」「インヴィンシブル」の2せきけい空母くうぼ中核ちゅうかくとして、だい3コマンドー旅団りょだんともなった機動きどう部隊ぶたい編成へんせいしたれいしており、4がつ1にちよる閣議かくぎで、機動きどう部隊ぶたいをフォークランドに派遣はけんすることが決定けっていされた[3]。アルゼンチンの侵攻しんこうたいして、サッチャーがすで任務にんむ部隊ぶたい派遣はけん準備じゅんびととのっていることを表明ひょうめいすると、世論せろんはこれを熱狂ねっきょうてき支持しじしたが、アルゼンチンの侵攻しんこう未然みぜんふせげなかったことについて野党やとう追求ついきゅうゆるめず、責任せきにんって、キャリントン外相がいしょう、アトキンズ閣外かくがい大臣だいじんならびにルース次官じかん辞任じにん余儀よぎなくされた。そして4がつ6にちには、サッチャーはイギリスの伝統でんとうもとづいて戦時せんじ内閣ないかく設置せっちし、サッチャーとすうめい閣僚かくりょうによって意思いし決定けっていおこなえる制度せいどととのえた[20]

国連こくれんうごきと経済けいざい制裁せいさい

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このように部隊ぶたい派遣はけんしてはいたものの、イギリスにとって、武力ぶりょく行使こうしによる奪回だっかい最終さいしゅう手段しゅだん位置いちづけられており、できれば任務にんむ部隊ぶたい派遣はけん効果こうかたいアルゼンチン経済けいざい制裁せいさいによって、アルゼンチンが全面ぜんめんてき屈服くっぷくするか、あるいは国連こくれんやアメリカによる調停ちょうてい期待きたいしていた。サッチャーは、スエズ危機きき教訓きょうくんまえて、アメリカや国際こくさいほう無視むしした武力ぶりょく行使こうしはありえないとかんがえており、まずこれらの地固じがためを重視じゅうしした[20]

しかし国連こくれんはもともと平和へいわ主義しゅぎはん植民しょくみん主義しゅぎてき志向しこうつよく、イギリスりでの調停ちょうてい期待きたいがたかった。またイギリスとしては自衛じえいけん発動はつどう主張しゅちょうすることも困難こんなんであった。自衛じえいけんとは攻撃こうげきけてからしょうずるものであるのにたいし、フォークランド総督そうとくすで降伏ごうぶくし、戦闘せんとうはいったん終結しゅうけつしていたためである。4月3にちには、アルゼンチンとイギリスのあいだ開戦かいせんけてひらかれていた国連こくれん安全あんぜん保障ほしょう理事りじかいにおいて決議けつぎだい502ごうされ、アルゼンチンのフォークランド諸島しょとう一帯いったいからの撤退てったいもとめたが、これが精一杯せいいっぱいであった[20]

イギリスでは軍事ぐんじ作戦さくせん並行へいこうして経済けいざい制裁せいさいについても検討けんとうしており、4がつ2にちには国内こくないのアルゼンチン資産しさん凍結とうけつしそのがくは15おくドルにもおよんだ。ただし当時とうじのアルゼンチン経済けいざい食糧しょくりょう、エネルギー分野ぶんやにおいては自給じきゅうちかかったことから短期たんきてき影響えいきょうちいさく、長期ちょうきてき影響えいきょうあたえるためにはしょ外国がいこくとの連携れんけい必要ひつようであった。欧州おうしゅうコモンウエルス諸国しょこく、そして日本にっぽん外交がいこうてきにイギリスを支持しじし、たいアルゼンチン武器ぶき禁輸きんゆ、アルゼンチンからの輸入ゆにゅう部分ぶぶんてき停止ていしたいアルゼンチン新規しんき融資ゆうし禁止きんしなどをふくんだたいアルゼンチン経済けいざい制裁せいさい同意どういしたが、日本にっぽん経済けいざい制裁せいさいには追随ついずいしなかった[20]

調停ちょうていこころ

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これと並行へいこうして、アメリカのアレクサンダー・ヘイグ国務こくむ長官ちょうかんやイギリスのフランシス・ピム外相がいしょうシャトル外交がいこうにより、事態じたい打開だかい模索もさくされた。アメリカにとって、反共はんきょうという立場たちばでは共通きょうつうするイギリスとアルゼンチンが対立たいりつつづけることはのぞましくなかったこともあり、積極せっきょくてき調停ちょうていこころみた。ヘイグ国務こくむ長官ちょうかん基本きほんてき構想こうそうは、まずアルゼンチンが撤兵てっぺいし、それを確認かくにんしてイギリスも任務にんむ部隊ぶたい派遣はけんをやめるというものであった。4月12にちにはロンドンおとずれて、この構想こうそうもとづく提案ていあん提示ていじした。イギリスも一時いちじはそのあん受諾じゅだく方向ほうこうすすんでいたが、アルゼンチンは主権しゅけん移譲いじょう主張しゅちょうしてゆずらず、ヘイグを愕然がくぜんとさせた[20]

イギリスがわ諸島しょとう統治とうち島民とうみん意思いし尊重そんちょうする立場たちばであったのにたいし、アルゼンチンがわのいいぶんは、どう諸島しょとうでの現地げんち統治とうちおよび参政さんせいけんをアルゼンチン島民とうみんにもあたえるとした[21]。また、排他はいた海域かいいき設定せっていやイギリスぐん進軍しんぐん停止ていし撤退てったいなども協定きょうていあんとしてやりりがあったものの、イギリスの軍事ぐんじりょくがフォークランドへおよばないようさだめる文言もんごんが、4がつ24にちのアルゼンチンあんふくまれていたことから、イギリスがわはアルゼンチンの撤退てったい絶望ぜつぼうてきかんがえ、さらに外交がいこう交渉こうしょう時間じかんかせぎのために使つかわれていることを懸念けねんした[22]

ヘイグ長官ちょうかんはなおも調停ちょうていこころみたものの、4がつ25にちサウスジョージアとう奪還だっかんけて、27にちにはアルゼンチン軍事ぐんじ評議ひょうぎかいはヘイグの調停ちょうていあん拒絶きょぜつする決定けっていくだし、2にちにヘイグにそのことをつたえた。ヘイグは、もし戦闘せんとう勃発ぼっぱつすればアメリカはイギリスを支持しじすることを表明ひょうめいした[20]

戦争せんそうちゅうもイギリス政府せいふしょ外国がいこく政府せいふは、外交がいこうてき戦争せんそうとしどころをさぐっていた。ヘイグ国務こくむ長官ちょうかんはイギリス、アルゼンチン双方そうほうたいして48時間じかん以内いない即時そくじ停戦ていせんとフォークランド諸島しょとうからの撤退てったいもとめていた。またペルー政府せいふ仲介ちゅうかいやく積極せっきょくてきであり、即時そくじ停戦ていせん部隊ぶたい撤収てっしゅう第三国だいさんごくによるフォークランド諸島しょとう一時いちじてき統治とうち確立かくりつなどの調停ちょうていあんちかけていた。しかしこのときにイギリス原子力げんしりょく潜水せんすいかん「コンカラー」によってアルゼンチン巡洋艦じゅんようかん「ヘネラル・ベルグラーノ」が撃沈げきちんされ[23]、またイギリス駆逐くちくかん「シェフィールド」にエグゾセを命中めいちゅうさせたことで、アルゼンチンは態度たいど硬化こうかさせており、ペルーとアメリカの仲裁ちゅうさいには関心かんしんたず、国際こくさい連合れんごうでイギリスに国際こくさいてき圧力あつりょくをかけて譲歩じょうほそうとしていた[20]

アメリカにとっては、べいえい関係かんけい同時どうじにラテン・アメリカ諸国しょこくとの関係かんけい良好りょうこうたも必要ひつようがあった。そしてチリのぞラテンアメリカ諸国しょこくにとっては、アルゼンチンが完敗かんぱいしてふたた政変せいへんしょうじることはのぞましくなかった。5月31にち、レーガン大統領だいとうりょうブラジル大統領だいとうりょう協議きょうぎしたのち、サッチャー首相しゅしょう電話でんわして、ヘイグ国務こくむ長官ちょうかん即時そくじ停戦ていせんあんれるよう提案ていあんしたが、イギリスはグース・グリーンのたたかいで勝利しょうりおさめた直後ちょくごであり、到底とうていれられるものではなかった。サッチャー首相しゅしょうもう抗議こうぎし、しまいにはレーガンが「自分じぶんでも余計よけい指図さしずをしたことはわかっているが…」とれる有様ありさまであった[20]

6月2にちには、今度こんど国際こくさい連合れんごう安保理あんぽりにおいてスペインとパナマが独自どくじ即時そくじ停戦ていせんあん提出ていしゅつした。サッチャー首相しゅしょうおりからのヴェルサイユ・サミット各国かっこく首脳しゅのうへの根回ねまわしをおこなっていたが、日本にっぽん鈴木すずき善幸ぜんこう首相しゅしょうだけは問題もんだい平和へいわてき解決かいけつかかわって即時そくじ停戦ていせんあんへの賛成さんせい表明ひょうめいしており、サッチャー首相しゅしょう激高げっこうさせた。そして2にち安保理あんぽりでは、日本にっぽんソ連それんふくむ9かこく停戦ていせんあん賛成さんせいしたため、イギリスは拒否きょひけん発動はつどうして停戦ていせんあんふうめざるをなかった[20]

イギリスぐん反攻はんこう開始かいし

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イギリスぐん機動きどう部隊ぶたい進出しんしゅつ

だい317任務にんむ部隊ぶたい編成へんせい海上かいじょう封鎖ふうさ開始かいし (3がつ31にち-4がつ18にち)

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上記じょうきとおり、イギリスぐんは、当初とうしょ情勢じょうせい緊迫きんぱくするにつれて五月雨さみだれしき派遣はけん部隊ぶたいやしており、まず3がつ29にちフォート・グランジきゅうきゅうかてかん「フォート・オースティン」、4がつ1にち原子力げんしりょく潜水せんすいかん「スパルタン」と「スプレンディド」が派遣はけんされたほか、ジブラルタルに寄港きこうしていたフリゲート「ブロードソード」と「ヤーマス」も追加ついかされることになっていた。アルゼンチンぐん侵攻しんこう時点じてんで、「フォート・オースティン」と原子力げんしりょく潜水せんすいかん大西洋たいせいようみなみけて航行こうこうちゅうフリゲふりげト艦とかんたいはようやくジブラルタルの海軍かいぐん基地きち出港しゅっこうしたところであった[3]

そして3がつ31にち時点じてんで、サッチャー首相しゅしょうセントーきゅう航空こうくう母艦ぼかんハーミーズ」とインヴィンシブルきゅう航空こうくう母艦ぼかんインヴィンシブル」の2せきけい空母くうぼ中核ちゅうかくとして、だい3コマンドー旅団りょだんともなった機動きどう部隊ぶたい編成へんせいしたれいしており、4がつ1にちよる閣議かくぎで、機動きどう部隊ぶたいをフォークランドに派遣はけんすることが決定けっていされた[3]

当時とうじだい1艦隊かんたいカサブランカおきでNATOの演習えんしゅう「SPRINGTRAIN」に参加さんかしており、ここから下記かきの7せき抽出ちゅうしゅつされたほか、すで演習えんしゅう部隊ぶたいから分離ぶんりされて西にしインド方面ほうめんにおける長期ちょうき任務にんむへとかっていたロスシーきゅうフリゲート「プリマス」ももどされた[24]

4がつ3にち230ふんには、これら8せき補給ほきゅうかん「タイドスプリング」とともにフォークランド諸島しょとうかった[24]

4がつ5にちには、大々的だいだいてき見送みおくりとともに、ポーツマスより2せき空母くうぼ出撃しゅつげきした。同日どうじつ、ひっそりと21がたフリゲート「アラクリティ」「アンテロープ」、そして補給ほきゅうかん支援しえん給油きゅうゆかん「ピアリーフ」、艦隊かんたい補給ほきゅうかん「リソース」および補給ほきゅうかん「オルメダ」も出港しゅっこうした。また4がつ6にちには強襲きょうしゅう揚陸ようりくかん「フィアレス」が、また4がつ9にちにはだい3コマンドー旅団りょだん大半たいはんおよび増援ぞうえんされた陸軍りくぐんだい3空挺くうてい大隊だいたいせた徴用ちょうようせん「キャンベラ」も出港しゅっこうした。だい1艦隊かんたい司令しれいかんウッドワード海軍かいぐん少将しょうしょうは、ジブラルタルから「グラモーガン」に座乗ざじょうしてすで南下なんかしており、4がつ15にち空母くうぼ部隊ぶたい合流ごうりゅうした。搭載とうさいひんうつり会議かいぎて、4がつ18にち空母くうぼ機動きどう部隊ぶたいアセンションとう出港しゅっこうした[24]

また4がつ7にち時点じてんで、イギリス政府せいふは、12にち4UTC以降いこう、フォークランド諸島しょとう周辺しゅうへん200 マイルに海上かいじょう排除はいじょ区域くいき(Maritime Exclusion Zone: MEZ)を設定せっていすると宣言せんげんしていた。12にち原子力げんしりょく潜水せんすいかん「スパルタン」が排除はいじょ海域かいいき配備はいびはいり、予定よていどおりMEZが発効はっこうした。また15にちには「スプレンディド」も配備はいびはいった。「スパルタン」はひがしフォークランドとうちかくを、「スプレンディド」はアルゼンチン本土ほんど港湾こうわんとフォークランド諸島しょとう中間ちゅうかんになる海上かいじょう排除はいじょ区域くいき北方ほっぽう哨戒しょうかい水域すいいき担当たんとうした[24]

アルゼンチンぐん迎撃げいげき体制たいせい

編集へんしゅう
 
フォークランド(マルビナス)諸島しょとう訪問ほうもんしたガルチェリ(1982ねん4がつ22にち

一方いっぽう、フォークランド諸島しょとうではアルゼンチンぐんによる防衛ぼうえい準備じゅんびすすめられ、歩兵ほへい部隊ぶたい装甲そうこう車両しゃりょう、レーダー設備せつび野砲やほう対空たいくう機関きかんほう対空たいくうミサイル発射はっしゃなどの兵力へいりょく輸送ゆそうかん輸送ゆそうによりはこまれた。4月12にち以降いこうのイギリス海軍かいぐん海上かいじょう封鎖ふうさからだい規模きぼ揚陸ようりくはできなくなったものの、輸送ゆそうによる空輸くうゆ小規模しょうきぼ海上かいじょう輸送ゆそうつづけられ、同島どうとうのアルゼンチンぐん守備しゅびたいそう兵力へいりょくは9000めいえた。さらに制圧せいあつしたスタンリー、グース・グリーン、ペブルとうかく飛行場ひこうじょうにアルゼンチン空軍くうぐんだい1、だい3グループと海軍かいぐんだい1・だい4航空こうくうたい軍用ぐんようやく30陸軍りくぐん輸送ゆそうヘリ部隊ぶたい配備はいびされ、戦力せんりょく増強ぞうきょうはかられた。軍用ぐんようプカラ攻撃こうげきイタリアアレーニア・アエルマッキしゃせいけい攻撃こうげきMB-339MB-326、アメリカのビーチエアクラフトしゃせいT-34Cターボメンターけい攻撃こうげきとう編成へんせいされた。

また、アルゼンチン本国ほんごくではそら海軍かいぐん航空こうくうたいがフォークランド諸島しょとうちかいリオ・グランデ、リオ・ガジェゴス、サン・フリアン、トレリューなどの南部なんぶ基地きち展開てんかいし、イギリス海軍かいぐんへの要撃ようげき準備じゅんびすすめられた。さら当時とうじアルゼンチン海軍かいぐんフランスダッソーしゃから購入こうにゅうしたばかりのシュペルエタンダール攻撃こうげきに、おなじくフランスのMBDAしゃから購入こうにゅうしたそらたいかんミサイルエグゾセAM39が5はつ搭載とうさいされた。

サウスジョージアとう奪還だっかん (4がつ18にち-25にち)

編集へんしゅう

アルゼンチンぐんは、4がつ3にちサウスジョージアとう占領せんりょうののち、駐屯ちゅうとんぐんとして海兵かいへい隊員たいいん55めいをグリトビケンとリースに配置はいちした。また廃材はいざい回収かいしゅう業者ぎょうしゃ39めいつづきリースにのこっていた。しかし同地どうち地理ちりてき隔絶かくぜつしており、とくにイギリスぐん潜水せんすいかん哨戒しょうかいではアルゼンチン海軍かいぐんによる支援しえんけることも困難こんなんで、まもるにむずかしい状況じょうきょうであった。このため、イギリスぐんとしては、まず同地どうち奪還だっかんすることで、きたるべきフォークランド諸島しょとう奪還だっかんへとはずみをつける心算しんさんであった[25]

だい317.9任務にんむぐん編成へんせい事前じぜん偵察ていさつ

編集へんしゅう

4がつ7にちにはサウスジョージアとう奪回だっかいのための部隊ぶたいとして、フリゲート「プリマス」と駆逐くちくかん「アントリム」およびタイドがた給油きゅうゆかん「タイドスプリング」によってだい317.9任務にんむぐん編成へんせいされ、のちにサウスジョージアとう近海きんかい氷海ひょうかい警備けいびせん「エンデュアランス」が合流ごうりゅうさらに4がつ24にちにフリゲート「ブリリアント」が合流ごうりゅうした。上陸じょうりく部隊ぶたいだい42コマンドーのM中隊ちゅうたいてられ、のち陸軍りくぐん特殊とくしゅ空挺くうてい部隊ぶたい(SAS)のD中隊ちゅうたい海兵かいへいたい特殊とくしゅ舟艇しゅうてい部隊ぶたい(SBS)の1個いっこ分隊ぶんたい追加ついかされた。作戦さくせんは「パラケット作戦さくせん」(Operation Paraquet)と名付なづけられたが、作戦さくせん参加さんかしゃは、わざと文字もじを1だけえて「パラコート(Paraquat)作戦さくせん」とんだ[25]。これらの任務にんむぐん掩護えんごするため、4がつ20日はつかから25にちあいだ、サウスジョージアとうからアルゼンチン本土ほんど沿岸えんがんまでを、空軍くうぐんニムロッド哨戒しょうかい哨戒しょうかいしたほか、原子力げんしりょく潜水せんすいかん「コンカラー」もサウスジョージアとうおき哨戒しょうかいしていた[26]

本隊ほんたい上陸じょうりく先立さきだち、まずSASがリースを、SBSがグリトビケンを偵察ていさつすることになっていた。4月21にち12、リースを偵察ていさつするSAS分隊ぶんたいは、周囲しゅうい忠告ちゅうこくって「アントリム」と「タイドスプリング」の艦載かんさいヘリコプターによってフォーチュナ氷河ひょうが降下こうかしたが、おそるべきあくてん氷河ひょうが状態じょうたいのために5あいだじゃくをかけて500メートルしかすすめず、4がつ22にち10救出きゅうしゅつ要請ようせいした。ホワイトアウト状態じょうたいつづき、まず隊員たいいん発見はっけん難渋なんじゅうしたうえに、救出きゅうしゅつ作業さぎょうちゅうに2墜落ついらくしてしまった。さいわ死者ししゃ重傷じゅうしょうしゃもなく、のこる1いちかんもどって隊員たいいんろしたのち、のこされていた隊員たいいん乗員じょういん救出きゅうしゅつしようとしたが天候てんこう不良ふりょうかえし、さん度目どめ挑戦ちょうせんでようやく救助きゅうじょ成功せいこう、1トン以上いじょう荷重かじゅう状態じょうたい無事ぶじ帰還きかんした。またSBSのグリトビケン偵察ていさつも、強力きょうりょくかいかぜと、せられた氷山ひょうざんによってはばまれ、失敗しっぱいした[25]

4がつ23にちには、SASの偵察ていさつ隊員たいいんが、今度こんどはボートによってストロームネスわん潜入せんにゅうしようとしたが、極寒ごっかん環境かんきょうふねがいがうまくうごかず、5せきちゅう目標もくひょうたっしたのは3せきのみで、1せき外海がいかいされてしまったところをヘリコプターで救出きゅうしゅつされ、もう1せきべつ場所ばしょせられたのち3にち救出きゅうしゅつされた。しかしのこ隊員たいいん偵察ていさつ活動かつどう完遂かんすいした[25]

グリトビケンとリースの奪還だっかん

編集へんしゅう

アルゼンチン海軍かいぐん最高さいこう司令しれいかんアナヤ大将たいしょうは、サウスジョージアとうについて、将来しょうらい科学かがく観測かんそく基地きちもうけてアルゼンチンの実効じっこう支配しはいしめそうとかんがえていた。その、イギリス艦艇かんていがこのしま近付ちかづいているという情報じょうほうはいると、いちはこのしまをあきらめ、部下ぶかには無抵抗むていこう降伏ごうぶくするようめいじた。しかしそのかんがえをえて、潜水せんすいかんサンタ・フェ」によって、増援ぞうえんとしてやく40めい海兵かいへい隊員たいいんおくむことにした。同艦どうかんは、4がつ21にちマル・デル・プラタ海軍かいぐん基地きち出発しゅっぱつし、24にち深夜しんやにカンバーランドわんくち到着とうちゃくし、25にちの2ごろからやく2あいだをかけて、海兵かいへい隊員たいいん補給ほきゅう物資ぶっしをグリトビケンに揚陸ようりくした。しかし帰路きろ、カンバーランド湾内わんないだい317.9任務にんむぐんのヘリコプターに攻撃こうげきされて行動こうどう不能ふのうになり、グリトビケンにもどって、キング・エドワードさきげた[25]

だい317.9任務にんむぐんでは、このいきおいにじょうじるべきであると衆議しゅうぎ一致いっちした。この時点じてんで、上陸じょうりく部隊ぶたい主力しゅりょく乗艦じょうかんする給油きゅうゆかん「タイドスプリング」は潜水艦せんすいかん脅威きょういけて退避たいひしており、上陸じょうりく作戦さくせんは、駆逐くちくかん・フリゲートに乗艦じょうかんしているM中隊ちゅうたい指揮しきはん迫撃はくげきほうへい、そしてSASとSBSの特殊とくしゅ作戦さくせん部隊ぶたいのみでおこなうことになった。まず13より、「アントリム」と「プリマス」によってグリトビケンへの上陸じょうりく準備じゅんび射撃しゃげき開始かいしされ、つづいて1330ふんよりあつ部隊ぶたい79めいのヘリボーン展開てんかい開始かいしされた。のところ、かんほう射撃しゃげきはじまるとすぐにアルゼンチンぐん白旗はっきげており、165ふんには接近せっきんした地上ちじょう部隊ぶたいがこれを確認かくにんし、1630ふんにはイギリス国旗こっきとイギリス海軍かいぐん掲揚けいようされた。この戦闘せんとうりょうぐん死者ししゃ負傷ふしょうしゃはでなかった[25]

つづきリース奪還だっかんのため、1715ふん、SASとSBSの隊員たいいんが「プリマス」と「エンデュアランス」に乗艦じょうかんしてリースのあるストロームネスわん派遣はけんされた。「エンデュアランス」艦長かんちょう無線むせん降伏ごうぶく説得せっとくしたところ、リースのアルゼンチンぐん指揮しきかんは、当初とうしょは「民間みんかんじん投降とうこうするが海兵かいへい隊員たいいんたたかう」と返答へんとうしていたものの、2145ふんには「決心けっしん海兵かいへい隊員たいいん降伏ごうぶく準備じゅんびしている、イギリスぐん指揮しきかん明日あしたリースのサッカーじょうへヘリコプターで飛来ひらいしてしい、そこで降伏ごうぶく指示しじける」と返答へんとうえた。イギリスがわはいったんそれをみとめたが、明朝みょうちょう予定よてい変更へんこうして、武装ぶそう解除かいじょしたのち、上陸じょうりくしていたSAS・SBSの隊員たいいんのところに出頭しゅっとうするようにめいじた。その、アルゼンチンがわよるのうちにサッカーじょうなどに地雷じらい敷設ふせつしていたことが判明はんめいし、イギリスがわ判断はんだんただしさが裏付うらづけられた[25]

航空こうくう海上かいじょう優勢ゆうせいめぐ戦闘せんとう

編集へんしゅう

TEZの設定せっていとスタンリー飛行場ひこうじょう攻撃こうげき (5がつ1にち)

編集へんしゅう
 
けい空母くうぼインヴィンシブル」(1981ねん撮影さつえい)。1980ねん就役しゅうえきしたばかりのとうかんは、フォークランド紛争ふんそうにおいてシーハリアーを搭載とうさいして活躍かつやくし、その有効ゆうこうせい証明しょうめいした。

4がつ12にちより原子力げんしりょく潜水せんすいかんによる海上かいじょう封鎖ふうさ開始かいしされ、フォークランド諸島しょとう周辺しゅうへんにMEZが設定せっていされていたが、空母くうぼ戦闘せんとうぐん到着とうちゃくともなって、4がつ28にちには、2にちの4がつ30にちをもって、MEZをアルゼンチン航空機こうくうきをも対象たいしょうとする完全かんぜん排除はいじょ水域すいいき(TEZ)に強化きょうかすることを宣言せんげんした[27]

紛争ふんそう勃発ぼっぱつ時点じてん海軍かいぐん保有ほゆうしていたシーハリアー艦上かんじょう戦闘せんとうは31だけで、しかも2わたしであった。艦隊かんたい派遣はけんにあたって、20機動きどう部隊ぶたい配属はいぞくして、8予備よび、4訓練くんれん機材きざい試験しけんよう保持ほじすることとなり、だい899飛行ひこうたい保有ほゆうだい800・801飛行ひこうたい分割ぶんかつされて配属はいぞくされ、下記かきのように配分はいぶんされた[28]

「ハーミーズ」のほうが大型おおがたであることからおおくの機体きたい搭載とうさいしており、のち空軍くうぐんハリアー派遣はけんされたさい同艦どうかん搭載とうさいされた[28]

5月1にち早暁そうぎょう空軍くうぐんのバルカン戦略せんりゃく爆撃ばくげきによるばくげき直後ちょくごより、「ハーミーズ」のだい800飛行ひこうたいのシーハリアーによる攻撃こうげきおこなわれた。「インヴィンシブル」は小型こがた搭載とうさいすうすくない一方いっぽうでレーダーが近代きんだいてきであったことから防空ぼうくうかん指定していされ、同艦どうかんだい801飛行ひこうたい艦隊かんたい防空ぼうくうのための戦闘せんとう空中くうちゅう哨戒しょうかい担当たんとうした[27]攻撃こうげきえたシーハリアーを収容しゅうようすると空母くうぼ戦闘せんとうぐん離脱りだつしていったが、駆逐くちくかん「グラモーガン」、フリゲート「アロー」および「アラクリティ」は分派ぶんぱされて、ポート・スタンリー周辺しゅうへんのアルゼンチンぐん守備しゅびたいたいかんほう射撃しゃげきおこなった。3せきは1325ふん射撃しゃげき終了しゅうりょうし、離脱りだつちゅうにアルゼンチン空軍くうぐんダガー攻撃こうげき3によるばくげきけ、「アロー」の乗員じょういん1めいうで負傷ふしょうし、3せきとも軽度けいど損傷そんしょうけたものの、重大じゅうだい損害そんがいはなかった[27][28]

一方いっぽう空戦くうせん本格ほんかくしたのは午後ごごおそくからであった。まず戦闘せんとう空中くうちゅう哨戒しょうかい(CAP)ちゅうのシーハリアー2がアルゼンチン空軍くうぐんミラージュIIIEA戦闘せんとう2交戦こうせんし、ミラージュ1撃墜げきついされ(パイロットは脱出だっしゅつ)、ちゅうやぶした1もスタンリー飛行場ひこうじょう不時着ふじちゃくしようとしたところを味方みかた対空たいくうほうあやまされて撃墜げきついされた(パイロットは戦死せんし)。またそのすうふんには、アルゼンチン空軍くうぐんのダガー攻撃こうげき2がシーハリアー2交戦こうせんし、ダガー1撃墜げきついされた。そのさらすうふんには、アルゼンチン空軍くうぐんのキャンベラばくげき3がシーハリアー2交戦こうせんし、キャンベラ1撃墜げきついされた。これらの撃墜げきついはいずれもサイドワインダーそら対空たいくうミサイルによるものであった[28][29]

だい79任務にんむ部隊ぶたい攻撃こうげきこころみと挫折ざせつ (4がつ30にち-5がつ2にち)

編集へんしゅう

4がつ5にちより、アルゼンチン海軍かいぐんはイギリス海軍かいぐんとの決戦けっせんそなえてだい規模きぼ艦隊かんたいさい編成へんせいおこない、主要しゅよう戦闘せんとう艦艇かんていおよび補助ほじょ艦艇かんていだい79任務にんむ部隊ぶたいとして再編さいへんされた。4月30にち、この任務にんむ部隊ぶたいは、下記かきの3つの任務にんむぐん分割ぶんかつされてそれぞれの作戦さくせん海域かいいき配備はいびされた。

  • だい79.1任務にんむぐん - 航空こうくう母艦ぼかんベインティシンコ・デ・マヨ」および駆逐くちくかん4せき
  • だい79.3任務にんむぐん - 巡洋艦じゅんようかんヘネラル・ベルグラーノ」、駆逐くちくかん2せきおよび給油きゅうゆせん
  • だい79.4任務にんむぐん - コルベット3せき

だい79任務にんむ部隊ぶたい指揮しきかんアララじゅんしょうは「ベインティシンコ・デ・マヨ」に乗艦じょうかんしており、5月1にち同艦どうかん搭載とうさいトラッカー哨戒しょうかいがイギリス空母くうぼ戦闘せんとうぐん発見はっけんしたことで、同日どうじつ237ふん(UTC)、攻撃こうげき作戦さくせん開始かいしめいじていた。作戦さくせんでは、だい79.1任務にんむぐんだい79.3任務にんむぐんによってイギリス空母くうぼ戦闘せんとうぐん挟撃きょうげきすることになっていた。しかし5がつ2にち1(UTC)以降いこうふうはどんどんよわくなっており、元々もともと機関きかん不調ふちょうなやまされ[ちゅう 5]航空機こうくうき運用うんよう必要ひつようなだけの速力そくりょく発揮はっきするのが困難こんなんだった「ベインティシンコ・デ・マヨ」の航空こうくう艤装ぎそうでは、スカイホーク攻撃こうげきはつかんさせることは困難こんなんになっていた。また同日どうじつ330ふん(UTC)、イギリスのシーハリアー艦上かんじょう戦闘せんとう飛来ひらいし、アララじゅんしょうは、みずからの位置いち曝露ばくろしたものとしんずるにいたった。445ふん(UTC)、アララじゅんしょう作戦さくせん続行ぞっこう断念だんねんし、かく任務にんむぐんは、イギリスの潜水せんすいかんけるため、浅海あさみいきもどることになった[23]

一方いっぽうのイギリスぐん実際じっさいにはだい79.1任務にんむぐん位置いち把握はあくしていなかったが、だい79.3任務にんむぐんは、5月1にち14(UTC)以降いこう原子力げんしりょく潜水せんすいかん「コンカラー」によって追尾ついびされていた。どうぐんはTEZにはいらず、その外縁がいえん沿うようにすすんでいた。すなわち、このとき「ヘネラル・ベルグラーノ」はTEZのそとにあったのである。一方いっぽうでこの巡洋艦じゅんようかん元々もともとブルックリンきゅうけい巡洋艦じゅんようかんフェニックス」としてだい大戦たいせんまえの1938ねんアメリカ海軍かいぐん就役しゅうえきした旧式きゅうしきかんであり、いかに旧式きゅうしきかんとはいえ強力きょうりょくかんほう装甲そうこうそなえていたため、通常つうじょう水上すいじょう戦闘せんとうかんの4.5インチほうやエグゾセかんたいかんミサイルでは対抗たいこうできず、対処たいしょには潜水せんすいかんちょう魚雷ぎょらいかシーハリアーの1,000ポンドばくだん必要ひつようとなるので、もし針路しんろ変更へんこうしてTEZに突入とつにゅうしてきた場合ばあい重大じゅうだい脅威きょういとなることが予想よそうされた。このため、イギリスぐんにとって、これを攻撃こうげきするべきかかは懸案けんあん事項じこうとなり、最終さいしゅうてきにサッチャー首相しゅしょう認可にんかけて交戦こうせん規定きてい(ROE)が変更へんこうされ、攻撃こうげき認可にんかされた[23]

「コンカラー」の通信つうしん装置そうち不調ふちょうのために命令めいれいぶん受領じゅりょうには時間じかんがかかったが、5月2にち1710ふん(UTC)までに攻撃こうげきする意思いししめ電報でんぽう送信そうしんし、1813ふん(UTC)、「コンカラー」は戦闘せんとう配置はいちについた。だい79.3任務にんむぐん同艦どうかん存在そんざい気付きづいていなかったものの、ゆるやかに蛇行だこうしながら前進ぜんしんしていた。1857ふん(UTC)までに、理想りそうてき位置いちである「ヘネラル・ベルグラーノ」のひだりかんくび1,400 ヤードうらないし、「コンカラー」は、Mk8魚雷ぎょらい3はつ斉射せいしゃした。このうち2はつかんくび左舷さげん後部こうぶ命中めいちゅうし、左舷さげん後部こうぶへの被弾ひだん致命傷ちめいしょうとなって「ヘネラル・ベルグラーノ」は撃沈げきちんされた。魚雷ぎょらい命中めいちゅうから20ふんに「へネラル・ベルグラーノ」のボンソ艦長かんちょう総員そういん退去たいきょ命令めいれいしたが、荒天こうてんのために救助きゅうじょ活動かつどう難航なんこうし、850めい救助きゅうじょされたものの、321めい戦死せんしした[23]。また、「ヘネラル・ベルグラーノ」にんでいた民間みんかんじん2めいがこの攻撃こうげきまれて死亡しぼうしている。

だい79任務にんむ部隊ぶたい大陸棚たいりくだな浅海せんかいもどって以降いこう紛争ふんそうわるまでのあいだ、アルゼンチン海軍かいぐん水上すいじょう戦闘せんとうかん現存げんそん艦隊かんたい主義しゅぎてっし、二度にど出撃しゅつげきしてくることはなかった。「ベインティシンコ・デ・マヨ」の艦載かんさい搭載とうさい解除かいじょされ、ほぼすべての航空機こうくうき陸上りくじょう基地きち配置はいちされ航空こうくう作戦さくせん全般ぜんぱん参加さんかすることになった[7]

イギリス駆逐くちくかん「シェフィールド」の沈没ちんぼつ (5がつ4にち)

編集へんしゅう
 
空中くうちゅう給油きゅうゆなかシュペルエタンダール(アルゼンチン海軍かいぐん所属しょぞく)。フォークランド紛争ふんそうにおいてはエグゾセそらたいかんミサイルを搭載とうさいしてイギリス海軍かいぐん艦艇かんてい損害そんがいあたえ、エグゾセミサイルととも世界せかいにそのらしめた。

5月4にち1115ふん(UTC)、アルゼンチンぐんP-2哨戒しょうかいが1せき駆逐くちくかんのレーダーぎゃく探知たんちし、「ハーミーズ」がフォークランド諸島しょとう東方とうほうにいるとかんがえられたことから、30ふん以内いないエグゾセAM39そらたいかんミサイルを1はつずつ搭載とうさいしたシュペルエタンダール攻撃こうげき2リオ・グランデ基地きち発進はっしんした。14(UTC)、この編隊へんたいは3せきの42がた駆逐くちくかん発見はっけんした[30]

このとき発見はっけんされた駆逐くちくかんは、おもたい西にし18海里かいり防空ぼうくう任務にんむにあたっていた「グラスゴー」「コヴェントリー」「シェフィールド」であった。5月1にちスタンリー飛行場ひこうじょう攻撃こうげき作戦さくせんさいにアルゼンチン空軍くうぐんおおきな損害そんがいしたことから、反撃はんげき予想よそうして、「グラスゴー」の艦長かんちょうにちちゅうのSCOT衛星えいせい通信つうしん装置そうち使用しよう禁止きんしするなど警戒けいかいつよめていた[ちゅう 6]。1356ふん(UTC)、「グラスゴー」の電波でんぱ探知たんち装置そうちは、シュペルエタンダールの機上きじょうレーダによる掃引そういん(レーダー)を探知たんちし、ただちに僚艦りょうかん急報きゅうほうした。しかしシュペルエタンダール(エグゾセ搭載とうさい可能かのう)とミラージュIII(エグゾセ搭載とうさい不能ふのう通常つうじょうばくだんのみ)の機上きじょうレーダの信号しんごうパターンはよくており、5月1にちにはちがえによるあやま警報けいほうなんかいかあったことから、「シェフィールド」や「インヴィンシブル」のたい空戦くうせん調整ちょうせいしつでは、今回こんかいもミラージュIIIであろうと判断はんだんしていた。また「シェフィールド」はSCOT衛星えいせい通信つうしん装置そうち作動さどうさせていたため、自身じしん電波でんぱ探知たんち装置そうち使つかえなくなっていた[30][ちゅう 6]

1358ふん(UTC)、「グラスゴー」は目標もくひょうさい探知たんちし、14(UTC)に対空たいくう戦闘せんとう配置はいちしたれいチャフ発射はっしゃした。このためにシュペルエタンダールはみぎはぐれて、「シェフィールド」を捕捉ほそくすることになった。シュペルエタンダールはけい2はつのエグゾセAM39ミサイルを発射はっしゃしたが、うち1はつ海面かいめん突入とつにゅうした。のこり1はつのミサイルは順調じゅんちょう飛行ひこうつづけ、143ふん(UTC)、「シェフィールド」に命中めいちゅうした。命中めいちゅうの15びょうまえ艦橋かんきょう当直とうちょく士官しかんが2つのけむり視認しにんしたが、最後さいごまでエグゾセAM39ミサイルの飛来ひらい理解りかいされず、ソフトキル・ハードキルのいずれもこころみられることはなかった。弾頭だんとう爆発ばくはつしなかったものの、固体こたい燃料ねんりょうロケット燃焼ねんしょうによってだい火災かさいしょうじ、電源でんげん喪失そうしつ消防しょうぼうポンプの機能きのう喪失そうしつによって消火しょうか活動かつどう遂行すいこう困難こんなんとなり[31]シーダートかん対空たいくうミサイル弾薬だんやく誘爆ゆうばくおそれがしょうじたことから、21(UTC)、総員そういん退去たいきょしたれいされた[30]乗員じょういん260めいちゅう死者ししゃ行方ゆくえ不明ふめいしゃ20めい負傷ふしょうしゃ24めいであった。その「シェフィールド」の火災かさいは2にち鎮火ちんかし、アセンションとうへの曳航えいこうおこなわれたが、途上とじょう荒天こうてん遭遇そうぐうして浸水しんすい拡大かくだいし、5がつ10日とおか沈没ちんぼつした。

ブラックバック作戦さくせん (5がつ1にち-6がつ12にち)

編集へんしゅう
 
だいいち作戦さくせんにおいて、バルカンばくげき攻撃こうげきさいし、往路おうろ7かい帰路きろ1かい給油きゅうゆおこな計画けいかくであった。実際じっさいには、ばくげき本務ほんむ故障こしょうしたため、予備よび任務にんむばくげき実施じっししている。

イギリス空軍くうぐんは、任務にんむ部隊ぶたいにハリアーやヘリコプターを提供ていきょうするとともに、なが航続力こうぞくりょく固定こていつばさアセンションとう進出しんしゅつさせ、掩護えんご哨戒しょうかいおこなっていた。このとき展開てんかいした航空機こうくうきには、アブロ バルカン戦略せんりゃく爆撃ばくげき4ふくまれていた。NATOの作戦さくせんでは空中くうちゅう給油きゅうゆ必要ひつようがほとんどなかったため、バルカン戦略せんりゃく爆撃ばくげき空中くうちゅう給油きゅうゆ装置そうちはずしていたが、この事態じたいけて、ただちにさい装備そうびしていた[26]

5月1にちだい1ブラック・バック作戦さくせんで、この空中くうちゅう給油きゅうゆ装置そうちかされることになった。バルカン戦略せんりゃく爆撃ばくげきハンドレページ ヴィクター空中くうちゅう給油きゅうゆともにアセンションとう発進はっしんしたのち、ヴィクター空中くうちゅう給油きゅうゆによる空中くうちゅう給油きゅうゆかさね、16あいだをかけてスタンリー飛行場ひこうじょう上空じょうくう進出しんしゅつして飛行場ひこうじょうばくげき実施じっしした。このばくげきでは21はつばくだん投下とうかされ、うち1はつ滑走かっそう命中めいちゅうしてクレーターをつくったほか、空港くうこう施設しせつちゅうしていた航空機こうくうきにも損害そんがいあたえた[32]

この5月1にちばくげき作戦さくせんは、直接的ちょくせつてき戦果せんかとぼしかったものの、アルゼンチンぐん意思いし決定けってい多大ただい影響えいきょうあたえたというてん意義いぎおおきかった。バルカン戦略せんりゃく爆撃ばくげきによるアルゼンチン本土ほんど攻撃こうげき可能かのうせいがにわかに注目ちゅうもくされることとなり、このときさかいに、アルゼンチン本土ほんど脅威きょういがアルゼンチンの計画けいかくにおける主題しゅだいの1つとなった[23]。これによって、アルゼンチン空軍くうぐんさい有力ゆうりょく戦闘せんとうであるミラージュIIIEAは本土ほんど防空ぼうくうのために拘置こうちされることになり、ミラージュIIIEAとシーハリアーの本格ほんかくてき空中くうちゅうせん5月1にち戦闘せんとう最初さいしょ最後さいご機会きかいとなったのであった[28]

またウッドワード提督ていとくは、シーハリアーのすう攻撃こうげき能力のうりょく不足ふそくから、つづきバルカン戦略せんりゃく爆撃ばくげきによるばくげき要望ようぼうしていた。「ヘネラル・ベルグラーノ」などの撃沈げきちんたいする反撃はんげきとして、スタンリー飛行場ひこうじょうにシュペルエタンダールを展開てんかいするのではないかという懸念けねんもあり、飛行場ひこうじょうたいする攻撃こうげき継続けいぞくすることになった[23]

フォークランド諸島しょとう奪還だっかん

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前段ぜんだん作戦さくせん

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「シェフィールド」の沈没ちんぼつ以降いこう、ウッドワード提督ていとくは、最終さいしゅうてき上陸じょうりくのための条件じょうけんづくりにつとめており、自己じこ裁量さいりょう範囲はんいない上陸じょうりく作戦さくせん不可欠ふかけつなフォークランド諸島しょとうない偵察ていさつおよび排除はいじょ水域すいいき実効じっこうせい確保かくほおこなった[33]

5月9にちには、イギリス空母くうぼ戦闘せんとうぐん捜索そうさくにあたっていたアルゼンチン海軍かいぐん情報じょうほう収集しゅうしゅうせん「ナルワル」 (ARA Narwal排除はいじょされた[34]。まずシーハリアーが機銃きじゅう掃射そうしゃしたのちに8めいのSBS隊員たいいんがヘリコプターからファストロープ降下こうかして突入とつにゅうし、機銃きじゅう掃射そうしゃにより死亡しぼうしていた船長せんちょうのぞいて、情報じょうほう士官しかんふくむ11めい生存せいぞんしゃ全員ぜんいん捕虜ほりょにした[35]

5がつ10日とおかには、フォークランド水道すいどうない機雷きらい敷設ふせつじょうきょう確認かくにんするため「アラクリティ」「アロー」が分派ぶんぱされた。機雷きらい敷設ふせつされていないことが確認かくにんされたほか、このつうかい途中とちゅう、「アラクリティ」はアルゼンチンの輸送ゆそうかんIsla De Los Estadosをレーダーでとらえ、かんほう射撃しゃげきによって撃沈げきちんした。またこのほか夜間やかん継続けいぞくしてかんほう射撃しゃげきばくげき照明しょうめいだん射撃しゃげきおこなうことで、アルゼンチンぐん守備しゅびたい睡眠すいみん妨害ぼうがいこころみていた[33]

サン・カルロス上陸じょうりく (5がつ10日とおか-5がつ21にち)

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イギリスぐん上陸じょうりく準備じゅんび

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4がつ30にちより、SAS・SBSのけい10チームがフォークランド諸島しょとう各所かくしょ潜入せんにゅうし、上陸じょうりく候補こうほ地点ちてん地理ちりてき情報じょうほう収集しゅうしゅうにあたっていた。まただい3コマンドー旅団りょだん参謀さんぼうのサウスビー=テルユア少佐しょうさは、以前いぜんにフォークランド海兵かいへいたい分遣ぶんけんたい隊長たいちょうだったとき、余暇よか利用りようして海岸かいがんせんをくまなくヨットで調査ちょうさしてレポートを作成さくせいしており、おおいに参考さんこうになった[36]

5がつ10日とおか、これらの情報じょうほうまえて、上陸じょうりく地点ちてんはサン・カルロスと決定けっていされた。同日どうじつだい317任務にんむ部隊ぶたい指揮しきかんフィールドハウス大将たいしょうは、その上陸じょうりく部隊ぶたいであるだい317.1任務にんむぐん指揮しきかんトンプソンじゅんはただい3コマンドー旅団りょだんちょう)にたいし、フォークランドへの上陸じょうりく準備じゅんびするよう指示しじした。そして5がつ12にち隷下れいか部隊ぶたいたいし、「作戦さくせん命令めいれい3/82」として、水陸すいりく両用りょうよう作戦さくせんである「サットン作戦さくせん」を発令はつれいした[36]

なおだい317.1任務にんむぐんだい3コマンドー旅団りょだんから編成へんせいされていたが、どう旅団りょだんのみでは兵力へいりょく不安ふあんがあるとして、陸軍りくぐんだい5歩兵ほへい旅団りょだん旅団りょだんちょう:ウィルソンじゅんしょう)からだい2・3空挺くうてい大隊だいたい抽出ちゅうしゅつされて増援ぞうえんされていたほか、5月3にちには旅団りょだんそのものが派遣はけんされることになっていた。これら2旅団りょだん統一とういつ指揮しきする組織そしきとしてフォークランド諸島しょとう陸上りくじょうぐん(LFFI)がもうけられ、その指揮しきかんとしてはムーア海兵かいへいたい少将しょうしょう任命にんめいされて、指揮しきけんは5がつ20日はつか発動はつどうされた。サットン作戦さくせんにおいては、ムーア少将しょうしょうだい5歩兵ほへい旅団りょだん到着とうちゃくまえに、だい3コマンドー旅団りょだんによって橋頭堡きょうとうほ確保かくほし、ここにだい5歩兵ほへい旅団りょだん投入とうにゅうして戦果せんか拡大かくだいすることとなっていた[36]

シーハリアーは空中くうちゅうせんでの損害そんがいはなかったものの、5月4にちにグースグリーンを攻撃こうげきちゅう機体きたい対空たいくう砲火ほうか撃墜げきついされ、また6にちにはレーダーコンタクトの捜索そうさくかった2消息しょうそくって、一挙いっきょに17げんぜいしてしまった。しかし5がつ18にちには、シーハリアーFRS.1の予備よびによるだい809飛行ひこうたいと、空軍くうぐんハリアーGR.3攻撃こうげきによるだい1飛行ひこうたい到着とうちゃくした。「ハーミーズ」には、6のハリアーGR.3と4のシーハリアーFRS.1が追加ついかされてけい21となり、「インヴィンシブル」には4のシーハリアーFRS.1が追加ついか搭載とうさいされてけい10となり、空母くうぼ戦闘せんとうぐんとしての艦上かんじょう戦闘せんとう攻撃こうげきは31増勢ぞうせいした。これによって、近接きんせつ航空こうくう支援しえん航空こうくう阻止そしはハリアーGR.3の担当たんとうとなり、シーハリアーFRS.1はCAPに注力ちゅうりょくできるようになった[37]

ペブルとう襲撃しゅうげき

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アルゼンチン海軍かいぐんは、4がつ24にちに、西にしフォークランドとうのすぐきたにあるペブルとう飛行場ひこうじょうにT-34Cけい攻撃こうげき4配置はいちしていた。また空軍くうぐんも、5月1にちのシーハリアーの攻撃こうげきけて、グースグリーンに配置はいちしていたプカラ攻撃こうげき12同地どうち移動いどうさせていた[36]

上陸じょうりく地点ちてんがサン・カルロスにけっしたのち、イギリスぐんにとって、同地どうちからやく40キロメートルしかはなれていないペブルとうに(貧弱ひんじゃくなターボプロップのけい攻撃こうげきとはいえ)てき存在そんざいすることは看過かんかできない問題もんだいとなった。5月10にち作戦さくせん会議かいぎで、ウッドワード少将しょうしょうは、SASにたいしてこの飛行場ひこうじょう攻撃こうげきめいじた。SASはまず偵察ていさつすることをかんがえており、3週間しゅうかんはかかるとかんがえていたが、ウッドワード少将しょうしょうは15にちまでに実行じっこうするようもとめたことから、SASはそのよるのうちに偵察ていさつ部隊ぶたい出発しゅっぱつさせた[36]

あくてんのため、実際じっさい偵察ていさつは13にちから14にちにかけてとなり、この結果けっかまえて、14・15にちよる本隊ほんたい進入しんにゅうして航空機こうくうきばくだん仕掛しかけ、駆逐くちくかん「グラモーガン」もかんほう射撃しゃげきおこなった。これにより同島どうとう配置はいちされていた航空機こうくうきすべ破壊はかいされ、燃料ねんりょう弾薬だんやく炎上えんじょうし、以後いごこの飛行場ひこうじょうがアルゼンチンぐん使用しようされることはなかった。SASは2めい負傷ふしょうしただけで、全員ぜんいん帰還きかんした[36]

イギリスぐん上陸じょうりく開始かいし

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21にち未明みめい上陸じょうりく開始かいし先駆さきがけて、まず「アントリム」のかんほう射撃しゃげきとSBSの地上ちじょう攻撃こうげきにより、ファニング・ヘッドにいるアルゼンチンぐんわし分遣ぶんけんたい」の監視かんし哨が駆逐くちくされた。またこれと並行へいこうして、330ふんごろ上陸じょうりく部隊ぶたい本隊ほんたいだい1として、海兵かいへいたいだい40コマンドーと陸軍りくぐんだい2空挺くうてい大隊だいたいがLCUによって上陸じょうりく開始かいしした[38]

わし分遣ぶんけんたい本隊ほんたいはポート・サン・カルロスに所在しょざいしており、ファニング・ヘッドでのかんほう射撃しゃげきおとこえていたが、監視かんし哨は通信つうしんおくあいだもなく壊滅かいめつしたため、具体ぐたいてきなにきているかを把握はあくすることはできなかった。夜明よあけをって斥候せっこうおくり、810ふんごろ、イギリスぐん揚陸ようりく作戦さくせん実施じっしされていることが判明はんめいした。分遣ぶんけんたいはこれらの情報じょうほうすべてグース・グリーンのだい12歩兵ほへい連隊れんたい無線むせん報告ほうこくし、航空機こうくうきによる対地たいち攻撃こうげき要請ようせいしたのち、東方とうほう離脱りだつした。このあいだあやまって上空じょうくう飛行ひこうしたイギリスぐんのシーキングおよびガゼル・ヘリコプターかく1撃墜げきつい、ガゼル1損害そんがいあたえた。この損害そんがいけて、イギリスだい3空挺くうてい大隊だいたいわし分遣ぶんけんたい掃討そうとうしようとしたが、そのために投入とうにゅうされた中隊ちゅうたい同士どうし同士討どうしうちしてしまい、分遣ぶんけんたい捕捉ほそくには失敗しっぱいした[38]

アルゼンチン航空こうくう戦力せんりょく反撃はんげき

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5月4にち駆逐くちくかん「シェフィールド」の被弾ひだんけて、エクゾセの脅威きょういけるため、2せきのイギリス空母くうぼ後方こうほうへと配置はいちされた。かりに2せき空母くうぼのいずれかをうしなった場合ばあい、イギリスぐん作戦さくせん全体ぜんたいりたなくなることから、この措置そちはやむをないものではあったが、航空こうくう母艦ぼかん後方こうほう配置はいちしたため、ハリアーの上陸じょうりく区域くいきにおける作戦さくせん時間じかんやく30ふんまで低下ていかしていた。そして、水陸すいりく両用りょうようせん部隊ぶたいともにサン・カルロスわんはいったフリゲートに兵力へいりょく防衛ぼうえい依存いぞんすることとなった[37]

アルゼンチンの航空こうくう攻撃こうげき予期よきされたため、艦艇かんてい最高さいこう警戒けいかい状態じょうたい維持いじしていた。この予想よそうどおり、5月21にち 1325ふん(UTC)より航空こうくう攻撃こうげき開始かいしされ、じつに45ソーティおよ出撃しゅつげきおこなわれた。水陸すいりく両用りょうよう艦艇かんてい護衛ごえいのために7せき艦艇かんていがフォークランド水道すいどうおよびサン・カルロスわんはいったが、「アーデント」が沈没ちんぼつし、「プリマス」と「ヤーマス」の2せきのぞほかのすべてのかん損害そんがいけた[37]

しかしこのようにイギリスぐん損害そんがいあたえつつも、アルゼンチンぐんおおきな失敗しっぱいおかしていた。すなわち、これらの護衛ごえい艦艇かんてい攻撃こうげきしゅ目標もくひょうとされ、ろしているふねや、陸揚りくあげされみになっている武器ぶき弾薬だんやく資材しざいとう見逃みのがされていたのである。上陸じょうりく部隊ぶたい自身じしんレイピア対空たいくうミサイル揚陸ようりくおくれ、防空ぼうくうもう完成かんせいされていない時期じきであったことから、だい3コマンドー旅団りょだんにとっては幸運こううんだった[38]。またアルゼンチン軍機ぐんき損害そんがいすくなくなく、10(ダガー5、A-4Q 3、A-4C 2)をうしない、これ以外いがいのアルゼンチン軍機ぐんきしょう火器かきにより被害ひがいけ、修理しゅうりをせずに作戦さくせんおこなうことは出来できない状態じょうたいであった[37]

5月23・25にち

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5月23にちには、アルゼンチンぐんA-4攻撃こうげきが「アーデント」と交代こうたいした21がたフリゲート「アンテロープ」を攻撃こうげきし、500kgばくだん2はつ命中めいちゅうさせた。これは不発ふはつだんであったが信管しんかん除去じょきょ作業さぎょうちゅう爆発ばくはつし、「アンテロープ」はよく24にち沈没ちんぼつした[39]

5月25にちにはアルゼンチン空軍くうぐんだい5グループのA-4Bが42がた駆逐くちくかんコヴェントリー」と22がたフリゲート「ブロードソード」を攻撃こうげきし、「コヴェントリー」にばくだん3はつ命中めいちゅうさせ撃沈げきちん成功せいこうした[40]

その直後ちょくごアルゼンチン海軍かいぐんだい2航空こうくうたいのシュペルエタンダールがイギリス空母くうぼ機動きどう部隊ぶたい攻撃こうげきし、そらたいかんミサイルエグゾセAM39の2はつ発射はっしゃした。イギリス海軍かいぐん艦艇かんていはエグゾセの探知たんちには成功せいこうし、かく艦艇かんていのチャフロケットとデコイを搭載とうさいしたリンクスヘリコプターによりエグゾセに対抗たいこうした。しかしチャフにより目標もくひょうはぐれたエグゾセ1はつがイギリス海軍かいぐん徴用ちょうようされていたコンテナせんアトランティック・コンベアー」に命中めいちゅう同船どうせん大破たいは炎上えんじょうして沈没ちんぼつした[41]

同船どうせん航空機こうくうき輸送ゆそうもちいられており、シーハリアーとハリアーはすで空母くうぼ移動いどうして無事ぶじだったものの、ヘリコプター多数たすう(チヌーク3、ウェセックス6、リンクス1)がうしなわれ[41]同日どうじつ予定よていされていたヘリボーン作戦さくせん断念だんねんせざるをなかった[42]とく空軍くうぐんのチヌーク輸送ゆそうヘリコプター4編成へんせいされただい18飛行ひこうたいは、撃沈げきちんまえはつかんしていた1のぞく3整備せいび機材きざい備品びひんのほとんどをうしない、地上ちじょう部隊ぶたい落胆らくたんさせた。被害ひがいまぬかれた1 (Bravo November孤軍こぐん奮闘ふんとうし、戦争せんそう終結しゅうけつまで弾薬だんやく野砲やほう輸送ゆそう、イギリスぐん兵士へいしやアルゼンチン捕虜ほりょ輸送ゆそうなどで活躍かつやくした[26]

5月30にち午後ごごにはアルゼンチンぐん最後さいごそらたいかんエグゾセAM39の1はつ使つかってイギリス機動きどう艦隊かんたいへの攻撃こうげき敢行かんこうした。海軍かいぐんだい2航空こうくうたいシュペルエタンダール攻撃こうげき2[ちゅう 7]空軍くうぐんだい4グループのA-4スカイホーク攻撃こうげき4編成へんせいされた攻撃こうげきたいはイギリス艦隊かんたい接近せっきんし、イギリス艦隊かんたいがわはこれをレーダーにらえた。レーダーにとらえられたシュペルエタンダール攻撃こうげきぜんそく艦隊かんたい接近せっきんするとレーダーでロックオンしてミサイルを発射はっしゃ、2とも退避たいひ。ミサイルにつづかたちで4のスカイホーク攻撃こうげき突撃とつげきをかけた。このとき攻撃こうげき対象たいしょうとされたのは実際じっさいには空母くうぼハーミーズとインヴィンシブルではなく、かんほう射撃しゃげき特殊とくしゅ部隊ぶたい上陸じょうりくのために主力しゅりょく艦隊かんたいからはなれて航行こうこうしていた42がた駆逐くちくかんエクゼターと21がたフリゲートアヴェンジャーだった。りょうかん攻撃こうげきたいのレーダー探知たんち、チャフロケットを即座そくざ発射はっしゃし、対空たいくう砲火ほうかによる防空ぼうくうおこなった。飛来ひらいしたエグゾセはこのさい空中くうちゅう撃破げきはされた[ちゅう 8]。さらにエクゼターは突撃とつげきしてくるスカイホーク部隊ぶたいたいしてシーダート対空たいくうミサイルによる迎撃げいげきおこない、2撃墜げきついした。のこった2のスカイホークはりょうかんばくだん攻撃こうげきしたが命中めいちゅうさせることは出来できなかった。

結局けっきょく、この攻撃こうげきによるイギリスがわ損害そんがいはなかったが、攻撃こうげき参加さんかしたアルゼンチンがわパイロットは空母くうぼにミサイルを命中めいちゅうさせたと主張しゅちょう[ちゅう 9]、シュペルエタンダール攻撃こうげきにはインヴィンシブルのキルマークがえがかれた。アルゼンチン政府せいふ新聞しんぶんけむりげる空母くうぼ写真しゃしんすら掲載けいさいして損害そんがいあたえたと主張しゅちょうしたものの、あきらかな合成ごうせい写真しゃしんであったため、イギリス政府せいふから失笑しっしょうったという。

グース・グリーンのたたかい (5がつ27・28にち)

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グース・グリーンのたたかいの関係かんけい

双方そうほう態勢たいせい

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5月21にちにイギリスぐんがサン・カルロスに上陸じょうりくして以降いこう、アルゼンチンぐん抵抗ていこう航空こうくう攻撃こうげきかぎられていた。一方いっぽう、イギリスぐんがわは、上陸じょうりく以降いこう作戦さくせんについては事前じぜん計画けいかくとぼしかったが、これらの情勢じょうせいから、任務にんむ部隊ぶたい司令しれいではアルゼンチンぐん積極せっきょくせいについて楽観らっかんてき見方みかたひろがっていた。だい3コマンドー旅団りょだんちょうトンプソンじゅんしょうは、25にちにはケントやまからチャレンジャーやまにかけての地域ちいきだい規模きぼなヘリボーン作戦さくせんおこなってスタンリー攻略こうりゃく地歩ちほかためることを企図きとしていたが、同日どうじつの「アトランティック・コンベアー」の喪失そうしつによって多数たすうのヘリコプターがうしなわれ、この作戦さくせん実行じっこう不能ふのうとなった[42]

スタンリーに進出しんしゅつするまえに、まずグース・グリーンとダーウィンに駐屯ちゅうとんするアルゼンチンぐん攻撃こうげきする必要ひつようがあった。トンプソンじゅんしょうはもともと、グース・グリーンにたいする(占領せんりょう前提ぜんていとしない)襲撃しゅうげき作戦さくせん計画けいかくしており、22にちにはだい2空挺くうてい大隊だいたいちょうハーバート・ジョーンズ中佐ちゅうさ作戦さくせん立案りつあんしたれいしていたが、「アトランティック・コンベアー」の喪失そうしつけて、この作戦さくせんだい5歩兵ほへい旅団りょだんとヘリコプターの増援ぞうえんっておこな方針ほうしんとしていた。しかしぎゃくに、ロンドンの任務にんむ部隊ぶたい司令しれい政治せいじは、この喪失そうしつおぎなうためにもなんらかの行動こうどうしめすべきであるとかんがえるようになっていた。結局けっきょく、26にちにトンプソンじゅんしょう任務にんむ部隊ぶたい司令しれい衛星えいせい通信つうしん直接ちょくせつはない、グース・グリーンへの攻撃こうげきとスタンリーへの進撃しんげきにむけた機動きどうはじめるよう命令めいれいをうけた[42]

一方いっぽう、アルゼンチンぐんにおいて、グース・グリーン防衛ぼうえい主力しゅりょく部隊ぶたいとなっていたのはだい12連隊れんたいであり、連隊れんたいちょうはイタロ・ピアッヒ中佐ちゅうさであった。連隊れんたい兵士へいし半分はんぶん以上いじょうは2がつ徴兵ちょうへいされたばかりで訓練くんれんはほとんど完了かんりょうしておらず、舶送される予定よていじゅう装備そうび到着とうちゃくしておらず、人員じんいん装備そうびともに不十分ふじゅうぶん状態じょうたいであった。部隊ぶたい抽出ちゅうしゅつ配属はいぞくがあり、28にち時点じてんでグース・グリーンに配備はいびされていた部隊ぶたいそう兵力へいりょく1,007めい歩兵ほへい3中隊ちゅうたい基幹きかんとして105mm榴弾りゅうだんほう3もん、120mmじゅう迫撃はくげきほう状態じょうたい不良ふりょう)1もん、81mm迫撃はくげきほう3もん、35mm対空たいくう機関きかんほう2もんなどを保有ほゆうしており、メルセデス任務にんむ部隊ぶたいしょうされた[42]

だい2空挺くうてい大隊だいたい攻撃こうげき準備じゅんび

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イギリスがわでは、SASによる最初さいしょ偵察ていさつ結果けっかでは士気しき薄弱はくじゃく1個いっこ中隊ちゅうたい程度ていど見積みつもられていたが、22にち午後ごごだい3空挺くうてい大隊だいたいがアルゼンチンぐん下士官かしかん捕虜ほりょにするなど情報じょうほう収集しゅうしゅうすすめた結果けっか、26にちには、ほぼ上記じょうきのような部隊ぶたい全容ぜんよう把握はあくしていた。一方いっぽうだい2空挺くうてい大隊だいたいは、上陸じょうりく以降いこう橋頭堡きょうとうほ南側みなみがわ防御ぼうぎょするためサセックスやま布陣ふじんしていたが、つめたいふう湿しめった土地とち、そして防水ぼうすいせいける軍靴ぐんかのために、塹壕ざんごうあしをはじめとする病気びょうき負傷ふしょうによって、すで兵力へいりょくやく4%に相当そうとうする27めい兵士へいし後送こうそうされていた[42]

27にち10、BBCはぜん世界せかいたいして「空挺くうてい大隊だいたいはまさにグース・グリーンとダーウィンを攻撃こうげきする準備じゅんびができている」と放送ほうそうした。これをき、だい隊長たいちょうジョーンズ中佐ちゅうさ激怒げきどし、奇襲きしゅう効果こうかうしなわれたとしんじた。また上記じょうきのようにアルゼンチンぐん当初とうしょ予想よそうよりも強力きょうりょくだったこともあり、だい2空挺くうてい大隊だいたい固有こゆう部隊ぶたいくわえて、L118 105mm榴弾りゅうだんほう3もん配属はいぞくけるとともにかんほう射撃しゃげき支援しえんけることになった。一方いっぽうだい12連隊れんたいちょうピアッヒ中佐ちゅうさは、まさかBBCが自国じこくぐん正確せいかく情報じょうほう放送ほうそうするとはおもわず、欺瞞ぎまん情報じょうほうかんがえたが、その予兆よちょうから、イギリスぐん攻撃こうげきせまっていることは察知さっちしていた[42]

同日どうじつだい2空挺くうてい大隊だいたいはカミラ・クリーク・ハウスに移動いどうし、15よりジョーンズ中佐ちゅうさ命令めいれい下達かたつした。当初とうしょ作戦さくせん計画けいかくは、イギリス空挺くうてい部隊ぶたい練度れんどかして夜間やかんのうちに攻撃こうげき完了かんりょうするもので、6つの段階だんかいかれた複雑ふくざつ計画けいかくであった。中佐ちゅうさのせっかちな性格せいかくのためにいそいで下達かたつされたこともあり、中隊ちゅうたいちょう以下いかだれ命令めいれい理解りかいできなかった。また上記じょうきとおり、トンプソンじゅんしょうはあくまで襲撃しゅうげき作戦さくせんとしてしたれいしたが、ジョーンズ中佐ちゅうさはこれを拡大かくだい解釈かいしゃくし、占領せんりょう作戦さくせん変更へんこうしていた[42]

大隊だいたいちょう攻撃こうげき戦死せんし

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18より、だい2空挺くうてい大隊だいたいかく部隊ぶたい順次じゅんじ前進ぜんしんして攻撃こうげき位置いち進入しんにゅうした。攻撃こうげき開始かいし予定よていは28にち2であったが、かんほう射撃しゃげき担当たんとうするフリゲート「アロー」は昼間ひるまべつ任務にんむてられており、430ふんにはかんほう射撃しゃげき終了しゅうりょうしなければならなかった。このため、大隊だいたい攻撃こうげき開始かいしまえの22から3あいだわたって射撃しゃげきすることで十分じゅうぶんならしをすることになったが、これにより、ジョーンズ中佐ちゅうさ企図きとした「はじめはしずかに接近せっきん」という要領ようりょう最初さいしょから挫折ざせつした[42]

イギリスがわは、アルゼンチンの戦力せんりょくはほぼ正確せいかく見積みつもっていたが、その配置はいち把握はあくしておらず、ジョーンズ中佐ちゅうさった作戦さくせんは、戦闘せんとう開始かいしされるとすぐに齟齬そごきたしはじめた。たとえば最初さいしょ攻撃こうげき開始かいししたA中隊ちゅうたいは、無抵抗むていこうのうちに当初とうしょ目標もくひょうすみやかに占領せんりょうしたあと、部隊ぶたい戦闘せんとう横目よこめにしばらく停止ていしさせられた。その攻撃こうげきしたつぎ目標もくひょうもやはり無抵抗むていこうであったため、中隊ちゅうたいちょうはそのままさらつぎ目標もくひょう前進ぜんしんしようとしたが、ジョーンズ中佐ちゅうさは、A中隊ちゅうたいみずか確認かくにんしたいとしてこれを却下きゃっかした。そして中佐ちゅうさ到着とうちゃくつ1あいだあいだよるはじめており、つぎ目標もくひょうであるダーウィンたかしにおいて、A中隊ちゅうたい激烈げきれつ抵抗ていこう遭遇そうぐうした。またこれとほぼどう時刻じこく、B中隊ちゅうたいも、その西側にしがわにおいて、50口径こうけい機銃きじゅうなどの強力きょうりょく火力かりょくそなえた陣地じんち遭遇そうぐうし、前進ぜんしん阻止そしされた[42]

A・B中隊ちゅうたい攻撃こうげき頓挫とんざしているのをみて、730ふんごろ、D中隊ちゅうたいしゅ防衛ぼうえいせん迂回うかいしてじょおさむおこなうことを、またC中隊ちゅうたい機関きかんじゅうにより火力かりょく支援しえんおこなうことを、それぞれ上申じょうしんしたが、ジョーンズ中佐ちゅうさはいずれも却下きゃっかし、無線むせん混乱こんらんさせるなと叱責しっせきした。またこのほかにも、支援しえん中隊ちゅうたいちょう砲兵ほうへい指揮しきかんからも多数たすう有益ゆうえき示唆しさ提案ていあんされたが、中佐ちゅうさはこれらをすべ拒絶きょぜつし、830ふんごろよりA中隊ちゅうたい合流ごうりゅうして、どう中隊ちゅうたいのみで攻撃こうげき継続けいぞくさせた。しかしそれでも攻撃こうげき停滞ていたいしており、あせった中佐ちゅうさ手近てぢか人員じんいんあつめて、みずか陣頭じんとうにたって突撃とつげきした。この突撃とつげき参加さんかした人員じんいんは20めい程度ていどぎず、また将校しょうこう無線むせんしゅおおかったこともあって、たちまち阻止そしされた。ひとりジョーンズ中佐ちゅうさのみ前進ぜんしんできたが、結局けっきょく930ふんごろ戦死せんしした。しかし突撃とつげき隊員たいいんが、中佐ちゅうさ狙撃そげきした塹壕ざんごうを66mmロケットだん撃破げきはすることに成功せいこうすると、その破壊はかいりょくおそれた周囲しゅうい塹壕ざんごう降伏ごうぶくし、勝利しょうりをもたらした[42]

スタンリー攻撃こうげき準備じゅんび

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ケントやまたたか

編集へんしゅう

ケントやまは、スタンリーを見下みおろす位置いちにあるにもかかわらず、アルゼンチンぐん同地どうち有力ゆうりょく部隊ぶたい配備はいびできずにいた。5月24にちのSASの偵察ていさつによってイギリスぐんもこのことをり、ただちにここにだい兵力へいりょく投入とうにゅうしようとしたが、25にち航空こうくう攻撃こうげきによってヘリコプターが多数たすううしなわれたために断念だんねんされ、SASのD中隊ちゅうたいのみが山頂さんちょうかためた[43]

29にちには海兵かいへいたいだい42コマンドーがこれを増強ぞうきょうする予定よていだったが、悪天候あくてんこうのために順延じゅんえんされた。その直後ちょくごより、アルゼンチンぐんコマンド部隊ぶたいによる攻撃こうげき開始かいしされた。アルゼンチンだい602特殊とくしゅ作戦さくせん中隊ちゅうたいだい3突撃とつげき分隊ぶんたいはケントやまひだり斜面しゃめん降着こうちゃくし、ただちにはげしい近接きんせつ戦闘せんとう展開てんかいされた。かれらは吹雪ふぶきまぎれてSASの防衛ぼうえいせん浸透しんとうし、SASは後退こうたい検討けんとうしたが、同地どうち重要じゅうようせいかんがみ、トンプソンじゅんしょうはぜひとも同地どうち保持ほじするようめいじた[43]

30にち夜明よあけにはSASが優勢ゆうせいとなっており、またアルゼンチンぐんだい2突撃とつげき分隊ぶんたい兆候ちょうこうがないことから、だい3突撃とつげき分隊ぶんたい攻撃こうげき断念だんねんして後退こうたいした。だい2突撃とつげき分隊ぶんたいったヘリコプターは悪天候あくてんこうのために同地どうち到達とうたつできず、はなれたところに降着こうちゃくしたのち徒歩とほ行軍こうぐん同地どうちかったため、結局けっきょくだい3突撃とつげき分隊ぶんたい戦闘せんとうわず、30にちよる戦闘せんとう開始かいしすることになった。またこの戦闘せんとうちゅう、やっとイギリス海兵かいへいたいだい42コマンドーが同地どうち到着とうちゃくし、イギリスがわ優位ゆうい確立かくりつされたことから、どう分隊ぶんたい戦闘せんとう継続けいぞく断念だんねんして後退こうたいした[43]

フィッツロイ占領せんりょう

編集へんしゅう

フォークランド諸島しょとう地上ちじょうぐん(LFFI)司令しれいかんのムーア少将しょうしょうは、5月29にち揚陸ようりくかん「フィアレス」へ移乗いじょうして司令しれい開設かいせつ、30にちより全面ぜんめんてき指揮しき開始かいしした[43]

ケントやま占領せんりょう成功せいこうけて、イギリスぐん地上ちじょう部隊ぶたいはそちらにけて兵力へいりょく集中しゅうちゅうはかったが、ヘリコプターの不足ふそく酷寒こっかん気候きこう湿しめった土地とちのために、その行軍こうぐん困難こんなんなものとなった。ちょうどこのころ本国ほんごくから増援ぞうえんされてきただい5歩兵ほへい旅団りょだんがフォークランド諸島しょとう到着とうちゃくし、ヘリコプターはその揚陸ようりくのために使つかわれていた。だい3コマンドー旅団りょだんかくたいは、しばしば地元じもと住民じゅうみんがトラクターで支援しえんしてくれたとはいえ、基本きほんてきには徒歩とほ行軍こうぐんにより前進ぜんしんせざるをえなかった[43]

だい2空挺くうてい大隊だいたいは、グース・グリーンを占領せんりょうしたのち、まず6がつ2にちにはその東北東とうほくとう25キロメートルの入植にゅうしょく攻撃こうげきし、同地どうち無人ぶにんであったため容易ようい占領せんりょうした。ここでフィッツロイの入植にゅうしょく住民じゅうみんとの電話でんわ連絡れんらく成功せいこうし、同地どうちにもアルゼンチンぐん駐屯ちゅうとんしていないことをると、同日どうじつ午後ごごのうちに、イギリスぐん唯一ゆいいつのチヌークをって、同地どうちへの進出しんしゅつ成功せいこうした。この大胆だいたん前進ぜんしんにより、きたるべきスタンリー攻撃こうげき作戦さくせんさい右翼うよく援護えんご確保かくほされた。しかし悪天候あくてんこうのためにアルゼンチンぐんはこのうごきを察知さっちできず、大隊だいたい攻撃こうげきけずにんだとはいえ、てきちゅうふか突出とっしゅつし、補給ほきゅうせんからもはなされた脆弱ぜいじゃく状態じょうたいとなった[43]

だい5歩兵ほへい旅団りょだん海上かいじょう輸送ゆそう

編集へんしゅう

だい2空挺くうてい大隊だいたい援護えんごするためにも迅速じんそく前進ぜんしんのぞまれたことから、6月3にち、ムーア少将しょうしょうは、だい5歩兵ほへい旅団りょだん海上かいじょう輸送ゆそうによってフィッツロイに前進ぜんしんさせることを決心けっしんした。しかしフィッツロイには揚陸ようりく可能かのう砂浜すなはまとぼしく、また本国ほんごくのフィールドハウス大将たいしょう損害そんがい神経質しんけいしつになっていたこともあり、計画けいかく度々どど変更へんこうされて、実施じっし部隊ぶたい憤激ふんげきさせた。まず5にちから6にち夜間やかんに「イントレピッド」をもちいてだい1かい海上かいじょう輸送ゆそうおこなわれた。おおくの困難こんなん経験けいけんされたとはいえ、スコットランド近衛このえ大隊だいたいは、無事ぶじにフィッツロイ対岸たいがんのブラフ・コーヴに到着とうちゃくした。しかしこのとき、どう大隊だいたい交代こうたいしただい2空挺くうてい大隊だいたいが、フィッツロイに移動いどうするために、どう大隊だいたいってきた舟艇しゅうてい勝手かって借用しゃくようしたことで、海上かいじょう輸送ゆそうおおきな障害しょうがいしょうじた[43]

つづいて6にちから7にち夜間やかんに、「イントレピッド」と「サー・トリストラム」をもちいてだい2かい海上かいじょう輸送ゆそうおこなわれた。しかしこの輸送ゆそうさい現地げんちでの荷役にやく使つか予定よていだった舟艇しゅうていだい2空挺くうてい大隊だいたい借用しゃくようされて所在しょざい不明ふめいとなっていたため、「イントレピッド」に乗艦じょうかんしてきたウェールズ近衛このえ大隊だいたいなどの部隊ぶたいすべ上陸じょうりくさせることができなかった。この部隊ぶたい輸送ゆそうするため、7にちよる、「サー・ガラハド」をもちいてだい3かい輸送ゆそうおこなわれた。しかしこのとき、フィッツロイではまだ「サー・トリストラム」による擱座かくざ揚陸ようりく途中とちゅうであり、「サー・ガラハド」が着岸ちゃくがんする余地よちはなかった。またウェールズ近衛このえ大隊だいたいは、本隊ほんたいがいるブラフ・コーヴまで乗船じょうせんするつもりでおり、航空こうくう攻撃こうげき警戒けいかいして下船げせん勧告かんこくにきた海兵かいへいたいのサウスビー=テルユア少佐しょうさ助言じょげん無視むしした[43]

アルゼンチンの航空こうくう攻撃こうげき

編集へんしゅう

イギリスぐんは、航空こうくう母艦ぼかん後方こうほうはいしたことによる哨戒しょうかい時間じかん短縮たんしゅくおぎなうため、サン・カルロスにアルミニウムばんをしきつめたながさ850フィート(やく260 メートル)の滑走かっそう完成かんせいさせて、6月2にちより運用うんよう開始かいしした。これによってハリアー・シーハリアーのCAP時間じかん大幅おおはば延長えんちょうされることになった[43]

6月4にちには、ケントやまたいし、ダガー6とプカラ4による航空こうくう攻撃こうげきおこなわれた。いずれも、イギリスぐんにはまった損害そんがいあたえなかったが、部隊ぶたい防空ぼうくう体制たいせい不十分ふじゅうぶんさがりとなった[43]

そして6がつ6にちにはイギリスがわ海上かいじょう輸送ゆそうおこなっていることも察知さっちしており、8にち1115ふん、アルゼンチンぐん観測かんそくしょよりイギリス輸送ゆそうせんのフィッツロイ入港にゅうこう報告ほうこくされた。1250ふん空軍くうぐんのA-4Q 5攻撃こうげきをかけ、「サー・ガラハド」は大破たいはして48めい戦死せんし、「サー・トリストラム」もなかやぶして2めい戦死せんししょうじた[43]。また、ダガー攻撃こうげき部隊ぶたい投下とうかした500kgばくだん4はつがフォークランド海峡かいきょうにいたフリゲふりげト艦とかん「プリマス」を直撃ちょくげきした。しかしいずれも不発ふはつで「プリマス」はたいせん爆雷ばくらい炎上えんじょう火災かさい発生はっせいしたが沈没ちんぼつまぬかれた。

これは、この戦争せんそうにおけるアルゼンチン空軍くうぐん最後さいごだい戦果せんかであったが、結果けっかとして、イギリスぐんのスタンリー進攻しんこうやく2にちおくらせただけであった[43]。なおこのさいにアルゼンチン軍機ぐんき3がシーハリアーに撃墜げきついされた。また6がつ8にち11には、エンジンが故障こしょうしたハリアーが上記じょうき滑走かっそうへクラッシュ・ランディングをおこない、アルミニウムばんおおくをばしてしまったため、このいっぱいこの臨時りんじ滑走かっそう使つかえなくなった[43]

スタンリー外郭がいかく防衛ぼうえいせんへの攻撃こうげき (6がつ11・12にち)

編集へんしゅう
 
スタンリー外郭がいかく防衛ぼうえいせんたたかいの関係かんけい

スタンリーの西側にしがわには、きたからロングドンさん、ハリエットさん、ツー・シスターズさんという3つのやまつらなっており、アルゼンチンぐん外郭がいかく防衛ぼうえいせんとなっていた。このため、イギリスぐんはまずこれらの攻略こうりゃく志向しこうすることになった[6]

双方そうほう態勢たいせい

編集へんしゅう
 
マルビナス諸島しょとうそうぐん司令しれいかんマリオ・メネンデス

アルゼンチンぐんは6がつ8にち航空こうくう攻撃こうげき戦果せんか過大かだい評価ひょうかしており、500~900めい戦死せんししゃしたものと評価ひょうかされた。これをけてアルゼンチン本国ほんごく高揚こうようし、さっそくマルビナス諸島しょとうそうぐん司令しれいかんメネンデス少将しょうしょうたいしてフィッツロイの攻撃こうげき要求ようきゅうしたが、メネンデス少将しょうしょうは、部隊ぶたい機動きどうりょく欠如けつじょ航空こうくう海上かいじょう優勢ゆうせい喪失そうしつ、そしてイギリスぐん攻撃こうげき先行せんこうするであろうことから不可能ふかのうであると結論けつろんし、本国ほんごくからの支援しえんもとめるため参謀さんぼうちょうダエル少将しょうしょうをブエノスアイレスに派遣はけんした。しかしガルチェリ大統領だいとうりょうは、すでにマルビナス諸島しょとうにはイギリスぐん撃退げきたいできるだけの十分じゅうぶん兵力へいりょくはいしているとして、死守ししゅ命令めいれいくだした[6]

6月7にちにはだい3コマンドー旅団りょだんはケントやま斜面しゃめん移動いどうしており、11にちには、イギリスの地上ちじょう部隊ぶたい攻撃こうげき開始かいし準備じゅんびができていた。双方そうほう地上ちじょう戦力せんりょくはほぼどう程度ていどであったが、アルゼンチンがわ航空こうくう優勢ゆうせいは「ほぼ」、海上かいじょう優勢ゆうせいは「完全かんぜんに」うしなった状態じょうたいであった。またアルゼンチンがわ防衛ぼうえいがわでありすう週間しゅうかんまえから陣地じんち準備じゅんびできるというつよみはあったが、イギリスがスタンリーに直接ちょくせつ上陸じょうりくしてくると想定そうていしていたため、防御ぼうぎょ方向ほうこううみがわ西側にしがわ)を指向しこうしていた。5月26にちには、アルゼンチンぐんも、イギリスぐんがサン・カルロスから陸路りくろ進撃しんげきしてくる公算こうさんたかいことを認識にんしきしたものの、依然いぜんとして、イギリスぐん再度さいど今度こんどはスタンリーにちかいところに上陸じょうりく作戦さくせんおこな可能かのうせいたかいとかんがえていたため、サン・カルロスからの進攻しんこう対応たいおうできるよう南側みなみがわ部隊ぶたいさい配置はいちすることはなかった[6]

イギリスぐんにおいては、だい2空挺くうてい大隊だいたいとウェールズ近衛このえ大隊だいたいだい5旅団りょだんからだい3コマンドー旅団りょだん指揮しきうつされて、体制たいせい強化きょうかされた。だい5旅団りょだんちょうウィルソンじゅんしょうはこの措置そちについて、海兵かいへい隊員たいいんであるムーア少将しょうしょう海兵かいへいたい贔屓ひいきしたのではないかとかんがえたが、これは6がつ8にち航空こうくう攻撃こうげきだい5歩兵ほへい旅団りょだん損害そんがいをうけたことと、そしてムーア少将しょうしょうがウィルソンじゅんしょう能力のうりょく疑問ぎもんいたためであった。ロンドンの任務にんむ部隊ぶたい司令しれいはもともとウィルソンじゅんしょう能力のうりょく不安ふあんしており、ムーア少将しょうしょう最初さいしょはこれに同意どういしていなかったが、この時点じてんでは、トンプソンじゅんしょうであれば3大隊だいたい戦闘せんとう指揮しきできるのにたいし、ウィルソンじゅんしょうは2以上いじょう大隊だいたい戦闘せんとう指揮しきすべきでないとかんがえていた[6]

ロングドンさんたたか

編集へんしゅう

6月11にち1959ふんより、スタンリー西側にしがわ外郭がいかく防衛ぼうえいせんたいするかんほう射撃しゃげき開始かいしされた。「アロー」「ヤーマス」「アヴェンジャー」「グラモーガン」が合計ごうけい788はつ射撃しゃげきし、この戦争せんそうでの最大さいだいかんほう射撃しゃげきとなった。ロングドンさんにおいて、イギリス陸軍りくぐんだい3空挺くうてい大隊だいたいすで前進ぜんしん開始かいししており、2016ふん攻撃こうげき開始かいしせん通過つうかした。しばらくはイギリスぐん前進ぜんしんするのみでうごきがなかったが、2130ふんごろ一人ひとり伍長ごちょう地雷じらいんで片足かたあしばされたのをけに、アルゼンチンぐん射撃しゃげき開始かいしした。イギリスぐん砲兵ほうへい支援しえん要請ようせいしたが、陣地じんちたいしてはかぎられた効果こうかしか発揮はっきできなかった[6]

同山どうさん配備はいびされていたアルゼンチンぐん部隊ぶたいは、だい7歩兵ほへい連隊れんたいB中隊ちゅうたい中隊ちゅうたいちょうカルロス・カリソ=サルバドレス少佐しょうさ)を基幹きかんとするやく220めい程度ていどであり、陣地じんち位置いちつくりもわるく、鉄条てつじょうもう土嚢どのうもなく、地雷じらい敷設ふせつ適切てきせつでなかったが、同山どうさんはもともと天然てんねん要害ようがいであり、イギリスぐん攻略こうりゃく難渋なんじゅうした。とく暗視装置あんしそうちそなえた狙撃そげきへいおよび50口径こうけいじゅう機関きかんじゅうたいして苦戦くせんいられ、手榴弾しゅりゅうだん銃剣じゅうけんによる近接きんせつ戦闘せんとう、また対戦たいせんしゃ兵器へいき投入とうにゅうして、犠牲ぎせいしつつ陣地じんち掃討そうとうしていった。カリソ=サルバドレス少佐しょうさは3ごろ1個いっこ小隊しょうたい増援ぞうえんて、イギリスぐん攻撃こうげきなんしのいだものの、5には限界げんかいちかづいていることがかった。B中隊ちゅうたい整然せいぜん退却たいきゃくしたが、287めい人員じんいんのうち、撤退てったい成功せいこうしたのは78めいであり、50めい捕虜ほりょとなり、戦死せんし31めい負傷ふしょうしゃすくなくとも120めいであった。一方いっぽう、イギリスがわは18めい戦死せんししゃやく40めい負傷ふしょうしゃした[6]

ツー・シスターズさんたたか

編集へんしゅう

ツー・シスターズさん攻略こうりゃく担当たんとうしたのはイギリス海兵かいへいたいだい45コマンドー(指揮しきかんアンドリュー・ホワイトヘッド少佐しょうさ)であった。このやまは、名前なまえとおり、東西とうざいに2つのいただきをもつやまであり、ホワイトヘッド少佐しょうさ当初とうしょ計画けいかくでは、まず西側にしがわいただき確保かくほしたのち、そこからの支援しえんけて東側ひがしがわ確保かくほすることになっていた。しかし地形ちけい関係かんけいで、西側にしがわいただき確保かくほする中隊ちゅうたい行軍こうぐんおくれたため、12にち016ふん、まず東側ひがしがわいただき担当たんとうする2中隊ちゅうたい攻撃こうげき開始かいしし、まもなく西側にしがわいただきへの攻撃こうげき開始かいしされた。この結果けっか、3中隊ちゅうたいがほぼ同時どうじ攻撃こうげきおこなうことになり、とく西側にしがわいただきでは前後ぜんごてきるかたちになった。この結果けっか、まず西側にしがわいただき確保かくほされた[6]

東側ひがしがわいただき攻撃こうげきもおおむね順調じゅんちょう進展しんてんしたが、アルゼンチンぐん機銃きじゅう迫撃はくげきほう野砲やほうはげしい射撃しゃげきけて、1あいだにわたって攻撃こうげき停滞ていたいする状況じょうきょうもあった。しかしそのとき、1人ひとりしょう隊長たいちょう (Clive Dytorがって「総員そういん前進ぜんしん!」とさけび、中隊ちゅうたいめい意味いみする「ズールー!ズールー!ズールー!」とさけびながら突撃とつげきしはじめた。部下ぶか最初さいしょそれをいさめたり罵声ばせいばしたりしていたが、すぐに中隊ちゅうたい全員ぜんいんがこれにつづき、銃撃じゅうげきしながらがった。この突撃とつげきによって東側ひがしがわいただき確保かくほされ、418ふんまでに陣地じんち掃討そうとう完了かんりょうした[6]

ハリエットさんたたか

編集へんしゅう
 
ハリエットさんたたかいの関係かんけい

ハリエットさん攻略こうりゃく担当たんとうしたのはイギリス海兵かいへいたいだい42コマンドー(指揮しきかんニック・ヴォークス少佐しょうさ)であった。同山どうさんのアルゼンチンぐん陣地じんち非常ひじょう堅固けんごであるようにみとめられたことから、ヴォークス少佐しょうさ正面しょうめん攻撃こうげきけて迂回うかい攻撃こうげきおこなうことにした。すなわち、1個いっこ中隊ちゅうたい西側にしがわから陽動ようどう攻撃こうげきおこな一方いっぽう、2中隊ちゅうたい南側みなみがわ進出しんしゅつさせて後方こうほうから奇襲きしゅう攻撃こうげきするという作戦さくせんであった[6]

まず偵察ていさつ小隊しょうたい先行せんこうしたのち、1615ふんより迂回うかい行動こうどう開始かいしされた。このあいだだい7コマンド砲兵ほうへい中隊ちゅうたいかんほうによる射撃しゃげきおこなわれていたこともあって、迂回うかい行動こうどう成功せいこうし、22より予定よていどお攻撃こうげき開始かいしした。この迂回うかい攻撃こうげきはアルゼンチンぐん予備よび兵力へいりょく直撃ちょくげきし、不慣ふなれな夜間やかん戦闘せんとうだったこともあり、経験けいけんのない徴集ちょうしゅうへい降伏ごうぶくしはじめた。ロングドンさん同様どうようじゅう機関きかん銃座じゅうざ暗視装置あんしそうちそなえた狙撃そげきへい陣地じんち頑強がんきょう抵抗ていこうしめし、一部いちぶでは600メートル前進ぜんしんするために数時間すうじかんかかる状況じょうきょうもあったが、夜明よあけまでにはイギリスぐん勝利しょうりとなり、イギリスぐん2めい戦死せんし・13めい負傷ふしょうという比較的ひかくてき軽微けいび損害そんがいで、アルゼンチンぐんたいして、10めい戦死せんし・53めい負傷ふしょう・300めい以上いじょう捕虜ほりょになるという戦果せんかをあげた。これはヴォークス少佐しょうさ独創どくそうてき作戦さくせんによってアルゼンチンがわ戦意せんい喪失そうしつしたところがおおきく、また降伏ごうぶくしようとする兵士へいしたいしてアルゼンチンぐん将校しょうこう下士官かしかん銃撃じゅうげきするのをみたイギリス海兵かいへいたいが、これらの将校しょうこうとう積極せっきょくてき攻撃こうげき目標もくひょうとしたのも理由りゆうのひとつであった[6]

スタンリーへのそう攻撃こうげき (6がつ13・14にち)

編集へんしゅう
 
スタンリー内郭ないかく防衛ぼうえいせんたたかいの関係かんけい

6月12にちあさにアルゼンチンぐん首脳しゅのうは、ロングドンさんからハリエットさんにかけてやく4,500にんのイギリスへい集結しゅうけつしていると報告ほうこくけたが、この情報じょうほうはマルビナス駐留ちゅうりゅう部隊ぶたいにはつたえられなかった。6月13にちには、マルビナス諸島しょとうそうぐん司令しれいかんメネンデス少将しょうしょうとガルチェリ大統領だいとうりょう交信こうしんし、メネンデスは、「イギリスぐんしめした行動こうどうからかんがえて、まさに今晩こんばんかれらは最終さいしゅうてき攻撃こうげきをかけてくるだろう。必然ひつぜんてき今日きょうから明日あしたにかけてスタンリーの運命うんめい風前ふうぜんのともしびにある」と警告けいこくしたが、ガルチェリ大統領だいとうりょうは、あくまでスタンリーを死守ししゅするようめいじた[44]。6月12にちにはスタンリーに設置せっちされていたトレーラー改造かいぞうのミサイル発射はっしゃだいから輸送ゆそう空輸くうゆしていたエグゾセMM38かんたいかんミサイルを発射はっしゃし、駆逐くちくかん「グラモーガン」に命中めいちゅうさせてちゅうやぶんだ[41]

内郭ないかく防衛ぼうえいせんへの攻撃こうげき

編集へんしゅう

6月13にちより、イギリスぐんはスタンリーの内郭ないかく防衛ぼうえいせんへの攻撃こうげき開始かいしした。これに先立さきだって、12にちよるには「アクティブ」と「アロー」が186はつを、そして13にち23には「アヴェンジャー」、「ヤーマス」、「アクティブ」、「アムバスケード」が4あいだわたって856はつんだ。また砲兵ほうへいたい合計ごうけいで7,120はつ射撃しゃげきした。しかしかんほう砲兵ほうへいざんだん不足ふそくなやんでおり、かんほうはこの規模きぼ砲撃ほうげきをもう1かいおこな程度ていどで、砲兵ほうへいたいもあと2にちぶん弾薬だんやくしかのこっていなかった[44]

まずスコットランド近衛このえ大隊だいたいがタンブルダウンやま攻撃こうげきした。同山どうさん内郭ないかく防衛ぼうえいせんもっとたか場所ばしょであり、アルゼンチン海兵かいへいたいだい5歩兵ほへい大隊だいたい大隊だいたいちょうカルロス・ロバシオー中佐ちゅうさ)が守備しゅびしていた。この大隊だいたい比較的ひかくてき経験けいけんんだ兵士へいしによって編成へんせいされていたうえ平時へいじ駐屯ちゅうとんみなみアメリカ最南端さいなんたんのフエゴとうであり、耐寒たいかんせい考慮こうりょした装備そうび保有ほゆうしていた。また4がつ上旬じょうじゅんからフォークランド諸島しょとう派遣はけんされていたため、陣地じんちもよく準備じゅんびされたものであった。スコットランド近衛このえ大隊だいたいは、まず17より、あらたに揚陸ようりくしたスコーピオンけい戦車せんしゃくわえて陽動ようどう攻撃こうげきおこなったのち、21よりおもおさむ開始かいしした。イギリスがわ期待きたいはんしてアルゼンチンぐん頑強がんきょう抵抗ていこうし、攻撃こうげきはなかなか進捗しんちょくしなかったが、3ごろよりイギリスぐん戦闘せんとう調整ちょうせいなおして野砲やほう射撃しゃげき近接きんせつ戦闘せんとう連携れんけいさせるようになると、陣地じんち徐々じょじょ突破とっぱされていった。8には同山どうさんでの戦闘せんとう終了しゅうりょうし、イギリスがわ死者ししゃ8めい負傷ふしょうしゃ35めいであったのにたいし、アルゼンチンがわ死者ししゃ20めい以上いじょう負傷ふしょうしゃ多数たすうであった[44]

その南方なんぽうのウィリアムさんは、当初とうしょ計画けいかくではスコットランド近衛このえ大隊だいたいがタンブルダウンやま占領せんりょうしたのちにグルカ小銃しょうじゅう大隊だいたいによって攻略こうりゃくする予定よていであったが、タンブルダウンさん攻略こうりゃく意外いがい難航なんこうしたことから、グルカ小銃しょうじゅう大隊だいたいは、これをたずに235ふんより前進ぜんしん開始かいしすることになった。タンブルダウンさん陥落かんらくとともにウィリアムさんのアルゼンチンぐん後退こうたいしたため、実質じっしつてき反撃はんげきはほとんどなかったが、砲撃ほうげき地雷じらい、また友軍ゆうぐんあやまもあり、グルカ小銃しょうじゅう大隊だいたいによる占領せんりょうは135ふんとなった[44]

ロングドン山東さんとうかたのワイヤレス・リッジの攻撃こうげき担当たんとうしたのはだい2空挺くうてい大隊だいたいであった。どう大隊だいたいグース・グリーンでの苦戦くせんせんくんまえて、攻撃こうげき先立さきだ砲兵ほうへいたい・フリゲート「アンバスケード」・だい2およだい3空挺くうてい大隊だいたい迫撃はくげきほう機関きかんじゅう小隊しょうたいおよ配属はいぞくされたけい戦車せんしゃによってだい規模きぼ準備じゅんび砲撃ほうげきおこなったのち前進ぜんしんすることにした。この結果けっかアルゼンチンぐん反撃はんげきはほとんどく、次々つぎつぎ陣地じんち放棄ほうきして後退こうたいしていった。アルゼンチン砲兵ほうへい放棄ほうきした陣地じんちたいして正確せいかく射撃しゃげきくわえてきたために若干じゃっかん損害そんがいたが、これもかんほう射撃しゃげき砲兵ほうへい陣地じんち撃破げきはすることで解決かいけつした。最終さいしゅうてきに、だい2空挺くうてい大隊だいたいは2めい戦死せんししゃしただけでワイヤレス・リッジの占領せんりょう達成たっせいした[44]

スタンリーの陥落かんらく

編集へんしゅう
 
投降とうこうするアルゼンチンへい

ワイヤレス・リッジの喪失そうしつにより、もはやスタンリーを防御ぼうぎょしうる自然しぜん障害しょうがいぶつ消滅しょうめつした。多数たすうのアルゼンチンへいがこれらの陥落かんらくした陣地じんちからスタンリーへともどはじめており、イギリスぐんのムーア少将しょうしょうは、これらのアルゼンチンぐん兵士へいし攻撃こうげきしないように自軍じぐん兵士へいし命令めいれいした[44]

アルゼンチンぐんにおいては、マルビナス諸島しょとうそうぐん司令しれいかんメネンデス少将しょうしょうは「14にち早朝そうちょうにはのこっている防衛ぼうえいせんちこたえられない」と結論けつろんけた。10ごろにガルチェリ大統領だいとうりょう電話でんわをかけて、スタンリーをよるまで保持ほじできるとはおもえないことと、戦闘せんとうつづけるならおおくのアルゼンチンぐん兵士へいし戦死せんしし、降伏ごうぶくよりわる事態じたいとなることを指摘してきしたが、ガルチェリ大統領だいとうりょう実情じつじょう理解りかいできず、メネンデス少将しょうしょう自己じこ責任せきにんにおいて降伏ごうぶくすることとなった。12から13時半じはんごろにはすで戦場せんじょうでは実質じっしつてき戦闘せんとう停止ていし自然しぜん形成けいせいされていた。そして14にち1959ふんにメネンデスが降伏ごうぶく文書ぶんしょ署名しょめいし、正式せいしき戦闘せんとう停止ていし降伏ごうぶく発効はっこうした[44]

終結しゅうけつ

編集へんしゅう

スタンリーの陥落かんらくけてよく15にちにはガルチェリ大統領だいとうりょうが「戦闘せんとう終結しゅうけつ宣言せんげん」をしたが、敗戦はいせんによってアルゼンチン国民こくみん軍事ぐんじ政権せいけんたいする不満ふまん爆発ばくはつした。15にちひるごろから夜半やはんにかけてブエノスアイレスでガルチェリ大統領だいとうりょう退陣たいじん要求ようきゅうするはん政府せいふ暴動ぼうどうき、くわえてガルチェリに大統領だいとうりょうわれたロベルト・エドゥアルド・ビオラはじめとしてぐん内部ないぶからも責任せきにん追及ついきゅううごきがきるなど求心力きゅうしんりょくうしない、17にちには大統領だいとうりょう解任かいにんされ、よく18にちには陸軍りくぐん司令しれいかんうしなった。比較的ひかくてき戦果せんかげた空軍くうぐんそう司令しれいかんのバシリオ・ラミ=ドーゾじゅんしょうも8がつ17にち退任たいにんし、海軍かいぐんそう司令しれいかんのアナヤ提督ていとく戦争せんそう打撃だげきけたにもかかわらず地位ちい維持いじしていたが、10月1にちけで辞任じにんした。

6がつ20日はつかにイギリスぐんサウスサンドイッチとうさい占領せんりょうし、イギリス政府せいふ停戦ていせん宣言せんげんした。こうして72にちにもおよび、両国りょうこく多大ただい犠牲ぎせいした戦争せんそう終結しゅうけつした。

両国りょうこく参加さんか兵力へいりょく

編集へんしゅう

アルゼンチンぐん

編集へんしゅう
参加さんか艦艇かんてい
航空機こうくうき

イギリス機動きどう部隊ぶたい編成へんせい出撃しゅつげきほうけ、アルゼンチン空軍くうぐんは、航続こうぞく距離きょりながボーイング707輸送ゆそうによる洋上ようじょう哨戒しょうかい索敵さくてき活動かつどう実施じっしし、4がつ21にち・23にちにはイギリス機動きどう部隊ぶたいへの触接しょくせつ成功せいこうしたが、いずれも母艦ぼかん発進はっしんしたシーハリアーによる退去たいきょ措置そちがなされたことから、アルゼンチン空軍くうぐんはボーイング707による索敵さくてき活動かつどう中止ちゅうしした[45]

また、LADELineas Aereas Del Estado、「国営こくえい航空こうくう)のかく空軍くうぐんした輸送ゆそう任務にんむについた。フェニックス・エスカドロン(徴用ちょうようビジネス部隊ぶたい)はおも後方こうほう支援しえんたったが、リアジェットのような高性能こうせいのう通信つうしん中継ちゅうけい偽装ぎそう攻撃こうげきおこなった。アルゼンチン航空こうくうなどのエアラインも支援しえん体制たいせいにあった。

イギリスぐん

編集へんしゅう
参加さんか艦艇かんてい
  • だい317任務にんむ部隊ぶたい指揮しき:ウッドワード少将しょうしょう) - 機動きどう部隊ぶたい
  • だい324.3任務にんむぐん指揮しき:ハーバート少将しょうしょう) - 潜水せんすい艦隊かんたい
  • 補給ほきゅう部隊ぶたい指揮しき:ダンロップじゅんしょう
 
HMS インヴィンシブル
 
HMS アンドロメダとキャンベラ
 
徴用ちょうようされ輸送ゆそうせんとして使用しようされていたクイーン・エリザベス2ごう
徴用ちょうよう船団せんだん軍艦ぐんかんではないが、兵員へいいん資材しざい輸送ゆそう投入とうにゅうされた船舶せんぱく
  • こうようタグボート - タイフーン、カウアイサ、アイリッシュマン、サルベージマン、ヨークシャーマン
  • 客船きゃくせんクイーン・エリザベス2(ヘリパッド装備そうびだい5歩兵ほへい旅団りょだんの3,200めい兵士へいし輸送ゆそうだい2大隊だいたいスコッツガーズ、だい1大隊だいたいウェルシュガーズ、1/7グルカライフルの兵士へいし輸送ゆそう)
  • 客船きゃくせん:キャンベラ(ヘリパッドを装備そうびし、だい3コマンドー旅団りょだん要員よういん輸送ゆそう)
  • 客船きゃくせん:ウガンダ(ヘリパッドを装備そうびし、病院びょういんせんとして使用しよう)
  • トロール漁船ぎょせん(掃海そうかいていとして使用しよう):コーデラ、オデッセイエクスプローラー、ジュネラ、ピクト、ノーセラ、ノーランド、ランガディア
  • コンテナせん:ブラヴォー・ノヴェンバー(ヘリパッドとエリコン20㎜機関きかんほう装備そうび、13のヘリコプターを輸送ゆそう)
  • コンテナせん:アトランティック・コーズウェイ(ヘリパッドを装備そうびし、8のASWシーキングを8、ウェストランドウェセックスを20輸送ゆそう)
  • コンテナせん:アトランティック・コンベアー(だい809海軍かいぐん航空こうくうたいのBAeシーハリアーFRS.1を8のち空母くうぼ移動いどう)、ハリアー6、ウェセックス6だい18飛行ひこうたいのCH-47を4輸送ゆそう)
  • コンテナせん:ミュルミドーン(テントきの宿泊しゅくはく施設しせつとエリコン20㎜機関きかんほう輸送ゆそう)
  • RO-ROせん:エルク(ボフォース40mm機関きかんほう2装備そうびしシーキングヘリコプターを3搭載とうさい船内せんないにボフォース L/70 40mm機関きかんほうを8、FV101けい戦車せんしゃ4りょうとFV107けい戦車せんしゃ4りょう搭載とうさい)
  • RO-ROせん:バルチックフェリー(陸軍りくぐんヘリコプター3、105めい兵士へいし、1,874トンの食糧しょくりょう弾薬だんやく搭載とうさい)
  • RO-ROせん:ユーロピックフェリー(656飛行ひこうたい陸軍りくぐん航空こうくうたい車両しゃりょう弾薬だんやく燃料ねんりょう、および4のスカウトヘリコプターを搭載とうさい。ヘリパッドを装備そうび)
  • RO-ROせん:ノルディックフェリー(兵士へいし食糧しょくりょう弾薬だんやく輸送ゆそう、ヘリパッド装備そうび)
  • RO-ROせん:ノーランド(落下傘らっかさん連隊れんたい兵士へいし800にんだい848海軍かいぐん航空こうくうたい兵士へいし輸送ゆそう、ヘリパッド装備そうび)
  • RO-ROせん:ランガディラ(ヘリコプターパッドとエリコン20 mm機関きかんほう装備そうび、1,000にんのエンジニアと車両しゃりょう装備そうび輸送ゆそう)
  • RO-ROせん:セント・エドマンド(ヘリパッドを装備そうびし、空軍くうぐんだい18飛行ひこうたい乗組のりくみいん軍隊ぐんたい車両しゃりょう輸送ゆそう)
  • RO-ROせん:トーア・カレドニア(ヘリパッドを装備そうびし、車両しゃりょうおよび装備そうび輸送ゆそう)
  • RO-ROせん:コンテンダー・ベサント(ヘリパッドを装備そうびし、ワスプ9、ハリアー4、チヌーク3輸送ゆそう)
  • コンテナせん:アヴェロナ・スター(ヘリパッドを装備そうび食糧しょくりょう輸送ゆそう)
  • コンテナせん:ゲースト・ポート(ヘリパッドを装備そうび食糧しょくりょう資材しざい輸送ゆそう)
  • コンテナせん:レアティーズ(装甲そうこうケーブルを内蔵ないぞうし、物資ぶっし輸送ゆそう)
  • コンテナせん:リカオン(装甲そうこうケーブルを内蔵ないぞうし、弾薬だんやく燃料ねんりょう輸送ゆそう)
  • コンテナせん:サクソニア(資材しざい輸送ゆそう)
  • コンテナせん:ストラトヘーベ(上陸じょうりくよう舟艇しゅうてい輸送ゆそう)
  • コンテナせん:セントヘレナ(ヘリパッドとエリコン20㎜機関きかんほう装備そうび)
  • 33,000トンきゅうタンカー:アルベガ、スコットランド・イーグル
  • 20,000トンきゅうタンカー:アンコ・チャージャー、フォート・トロント
  • 19,000トンきゅうタンカー:バルドル・ロンドン、エバーナ 
  • 18,000トンきゅうタンカー:GAウォーカー
  • 16,000トンきゅうタンカー:ブリティッシュ・テスト 
  • 15,000トンきゅうタンカー:ブリティッシュ・エイボン、ブリティッシュ・エスク、ブリティッシュ・タマール、ブリティッシュ・テイ、ブリティッシュ・トレント、ブリティッシュ・ワイ
  • 潜水せんすい支援しえんせん:ブリティッシュ・エンタープライズⅢ 
  • ケーブル敷設ふせつせん:アイリス(ヘリパッドを20㎜機関きかんほう2装備そうび) 
  • 油田ゆでん補給ほきゅうせん:ウィンペイ・シーホース
  • 工作こうさくせん:ステナ・インスペクター(ヘリパッドを装備そうび)
  • 工作こうさくせん:ステナ・シースプレード(ヘリパッドを装備そうび)

りょうぐん損害そんがい一覧いちらん

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イギリスぐん

戦没せんぼつ

  • 駆逐くちくかん:シェフィールド、コヴェントリー
  • フリゲート:アンテロープ、アーデント
  • 揚陸ようりくかん:サー・ガラハト
  • コンテナせん:アトランティック・コンベアー

アルゼンチンぐん

戦没せんぼつ

  • けい巡洋艦じゅんようかん:ヘネラル・ベルグラノ

戦後せんご影響えいきょう

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アルゼンチン

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アルゼンチンではガルチェリ大統領だいとうりょう建国けんこく以来いらいはじめて敗戦はいせん責任せきにんわれ、大統領だいとうりょうおよ陸軍りくぐんそう司令しれいかん解任かいにんされ失脚しっきゃくした。後任こうにんには退役たいえき陸軍りくぐん中将ちゅうじょうレイナルド・ビニョーネ就任しゅうにんしたが、緒戦しょせんぐんとペロニスタが挙国一致きょこくいっちした和解わかいし、「海賊かいぞく英国えいこく」、「ガルチェリまんさい」を連呼れんこしていたアルゼンチン国民こくみんも、この敗戦はいせんにかつてないほどの反軍はんぐん感情かんじょうたかまらせ、すぐに急進きゅうしんとうきゅう急進きゅうしんとう人民じんみんながれをむ)のラウル・アルフォンシン政権せいけん交代こうたいおこなわれ、民政みんせい移管いかん完了かんりょうした。ガルチェリは「銃殺じゅうさつけいあたいする」とまでわれたが、結果けっかてきには懲役ちょうえき12ねんみ、ビデラなどのほか軍人ぐんじんとも1990ねんぐんきした大統領だいとうりょうカルロス・メネム特別とくべつ恩赦おんしゃによって釈放しゃくほうされた。アルゼンチンぐん司令しれいかんで「きたな戦争せんそう」を指導しどうしておおくの市民しみん秘密裏ひみつり殺害さつがいしたマリオ・メネンデス英語えいごばんは「敬虔けいけんなカトリック教徒きょうとなので自殺じさつ出来できない」とべ、最終さいしゅうてき責任せきにんのがれた。なお降伏ごうぶくした1まんにん以上いじょうのアルゼンチンぐん兵士へいしウルグアイ経由けいゆ送還そうかんされた。

この戦争せんそうあいだにアルゼンチンは国際こくさいてき評価ひょうかおおきくとし、この回復かいふく文民ぶんみん政権せいけん課題かだいとなったが、文民ぶんみん政権せいけんしたで20世紀せいきはじめからつづいていたチリおよブラジルとの軍事ぐんじ対立たいりつ急速きゅうそくおさまっていった。一方いっぽうぐん政治せいじりょくよわめて大幅おおはば人員じんいん削減さくげんされ、開戦かいせんまえには3ぐんで15まん5000にんほどだったアルゼンチンぐんは2000ねんには3ぐんで7まん1000にん半分はんぶん以下いかにまで縮小しゅくしょうした。

また、イギリスがヨーロッパ共同きょうどうたい一員いちいんとしてほか加盟かめいこく協力きょうりょく依頼いらいし、これをけて白人はくじんけいアルゼンチンじんのルーツであるイタリア西にしドイツスペインなどのヨーロッパ共同きょうどうたい加盟かめいこくは、アルゼンチンへの経済けいざい制裁せいさい発動はつどうした。このことはそれまでヨーロッパナショナルアイデンティティーいていたアルゼンチン国民こくみん意識いしきえ、自分じぶんたちをラテンアメリカ一員いちいんとして見直みなおけになったといわれる。他方たほう、ヨーロッパ共同きょうどうたい加盟かめいこくすべてが制裁せいさい積極せっきょくてきだったわけではなく、西にしドイツは当時とうじひがしドイツ領内りょうないりく孤島ことうになっている西にしベルリンをイギリスにまもってもらっていた関係かんけいで、アルゼンチンへの制裁せいさいくわわるようつよ圧力あつりょくけていたとされる[46]

おおくの艦艇かんていうしなって255にん戦死せんししゃしたものの勝利しょうりしたイギリスでは、戦前せんぜん人気にんき低迷ていめいしていたサッチャー首相しゅしょう人気にんき急上昇きゅうじょうしょうした。これによっていきおいたサッチャー首相しゅしょう翌年よくねんそう選挙せんきょ圧勝あっしょうし、しん自由じゆう主義しゅぎてき改革かいかくをさらにすすめ、イギリスびょうくるしんでいたイギリス経済けいざい復活ふっかつさせた。

 
自国じこく領有りょうゆうけん主張しゅちょうするアルゼンチン、エントレ・リオスしゅう看板かんばん

また、それまで「2とう市民しみんあつかいされていたフォークランド島民とうみんもイギリス本土ほんど政府せいふから丁寧ていねいあつかわれるようになり、イギリスとチリからの投資とうししま経済けいざいやインフラストラクチャーは発展はってんした。紛争ふんそうまえには少数しょうすう部隊ぶたいしか駐留ちゅうりゅうしていなかったが、紛争ふんそうには最小限さいしょうげん防空ぼうくう部隊ぶたい配備はいびしなければならず、F-4M装備そうびだい23飛行ひこうたい派遣はけんした穴埋あなうめのためアメリカ海軍かいぐん余剰よじょうになったF-4Jの中古ちゅうこ購入こうにゅうしている(のちトーネードF.3交代こうたい)。

戦後せんご両国りょうこく関係かんけい

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その両国りょうこく国交こっこう断絶だんぜつ状態じょうたいつづいたが、1986ねん6月22にちおこなわれたFIFAワールドカップ・メキシコ大会たいかい準々じゅんじゅん決勝けっしょうサッカーアルゼンチン代表だいひょうディエゴ・マラドーナらの活躍かつやくによりイングランド代表だいひょうに2たい1で勝利しょうりし、敗戦はいせん屈辱くつじょくのこるアルゼンチン国民こくみん熱狂ねっきょうさせた(1986 FIFAワールドカップ準々じゅんじゅん決勝けっしょう アルゼンチンたいイングランド項目こうもく参照さんしょう。)。

1989ねん10月にアルゼンチンとイギリスは開戦かいせん以来いらい敵対てきたい関係かんけい終結しゅうけつ宣言せんげんし、よく1990ねん2がつ5にち両国りょうこく外交がいこう関係かんけい正式せいしき回復かいふくした。しかし現在げんざいたがいに自国じこく領有りょうゆうけん主張しゅちょうつづけている。

戦後せんご、イギリスは戦死せんししたアルゼンチンへい遺骨いこつ返還へんかんもうたが、アルゼンチン政府せいふ諸島しょとうへのイギリスの主権しゅけん追認ついにんすることになるとして拒否きょひしている。フォークランドのダーウィン墓地ぼちには、アルゼンチンへいはかが237あり、うち123身元みもと不明ふめいである。戦友せんゆう墓参ぼさんしまおとずれた帰還きかんへいびかけをきっかけに、両国りょうこく政府せいふは2016ねん12月に身元みもと確認かくにん合意ごういした。赤十字せきじゅうじ国際こくさい委員いいんかい遺骨いこつ発掘はっくつDNAがた鑑定かんていを2017ねんちゅうえて最終さいしゅう報告ほうこくしょをまとめる予定よていであるが、アルゼンチン国内こくないでは遺骨いこつ返還へんかんへの反対はんたい意見いけん依然いぜん根強ねづよ状態じょうたいとなっている[47]

評価ひょうかせんくん

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陸戦りくせん

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じゅう機関きかんじゅう復権ふっけん

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フォークランド諸島しょとう奪還だっかんにおいて、アルゼンチンぐんはしばしばブローニングM2じゅう機関きかんじゅう陣地じんち防衛ぼうえいもちいたが、イギリスぐん地上ちじょう部隊ぶたいどうクラスの機関きかんじゅう配備はいびしておらず、汎用はんよう機関きかんじゅう支援しえんされた偵察ていさつへい遮蔽しゃへいぶつ沿って1にんずつ前進ぜんしんさせ、てんをあぶりだすとミラン対戦たいせんしゃミサイル[48][49][50]しゅりゅうだん銃剣じゅうけん突撃とつげきによる直接ちょくせつ攻撃こうげき敢行かんこうするという対応たいおう余儀無よぎなくされた[6][51]

上記じょうきじゅう機関きかんじゅう運用うんよう通常つうじょう射撃しゃげきではなく「単発たんぱつ狙撃そげき」であったとする記述きじゅつが、一部いちぶ和文わぶん文献ぶんけん見受みうけられる[52][53][54]。しかしフォークランド紛争ふんそう狙撃そげきじゅう狙撃そげきしゅなどにかんする英文えいぶん文献ぶんけんやその和訳わやくしょ[48][49][50][55][56]には、そうした言及げんきゅう見当みあたらない。また「フォークランド紛争ふんそうでのじゅう機関きかんじゅう運用うんようせんくんがきっかけとなって対物たいぶつライフル開発かいはつされた」とするせつも、一部いちぶ和文わぶん文献ぶんけん[52][54]にのみ見受みうけられ、英文えいぶん文献ぶんけんやその和訳わやくしょ[49][50][55][56][57]では言及げんきゅうされていない。

海戦かいせん

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潜水せんすいかんによるせいうみ

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イギリス海軍かいぐん原子力げんしりょく潜水せんすいかんコンカラー」の雷撃らいげきによるアルゼンチン海軍かいぐん巡洋艦じゅんようかんヘネラル・ベルグラーノ」の撃沈げきちんはアルゼンチン海軍かいぐん戦意せんいみずびせることになり、空母くうぼベインティシンコ・デ・マヨ」をはじめとしたアルゼンチン海軍かいぐん水上すいじょう戦闘せんとうかん現存げんそん艦隊かんたい主義しゅぎてんじて、二度にど出撃しゅつげきしてくることはなかった[7]

一方いっぽう、アルゼンチン海軍かいぐん209がた潜水せんすいかん「サンルイス」(ARA San Luis) はフォークランド諸島しょとう北方ほっぽう海域かいいき哨戒しょうかい活動かつどうおこない、なんかいかの魚雷ぎょらいによる攻撃こうげきおこなった。このうち5がつ1にちには「ブリリアント」と「ヤーマス」を雷撃らいげきしたが命中めいちゅうせず、ぎゃくに20あいだにわたって追跡ついせき攻撃こうげきけたが無事ぶじげることに成功せいこうした。5月8にちには潜水艦せんすいかん目標もくひょうたいし、また5がつ10日とおかには「アロー」と「アラクリティ」にたいして雷撃らいげきおこなったが失敗しっぱいした。これらの失敗しっぱい魚雷ぎょらい調整ちょうせい失敗しっぱいなどによるとされる。このように実際じっさい戦果せんかげることはできなかったにもかかわらず、イギリス海軍かいぐんは「サンルイス」の存在そんざいおおくの注意ちゅういはらつづけねばらず、その行動こうどうおおきく制限せいげんされることになった[58]

イギリス艦船かんせんこうこらえせい

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21がたフリゲート8せきのうち2せき本戦ほんせんそう撃沈げきちんされたことについて、同型どうけい元々もともと商船しょうせん規格きかく設計せっけいされたことや、アルミニウム合金ごうきん多用たようしたこととの関連かんれんうたがわれた。しかし1977ねんに「アマゾン」が火災かさい事故じこ大破たいはしたことについてはアルミニウム合金ごうきん脆弱ぜいじゃくせい被害ひがい増大ぞうだいにつながったと指摘してきされているのにたいし、本戦ほんせんそうでの喪失そうしつかんについては、あまり関係かんけいがなかった。アーデントも水線すいせん付近ふきん多数たすう命中めいちゅうだんけてずたずたになっており、また「アンテロープ」も艦内かんないふかくまで突入とつにゅうしたばくだん爆発ばくはつによって沈没ちんぼつしたが、いずれも、この規模きぼかんにとっては船体せんたい構造こうぞう関係かんけいなく十分じゅうぶん致命傷ちめいしょうとなる損傷そんしょうであった[59][ちゅう 10]

なお、エグゾセを被弾ひだんした「シェフィールド」の喪失そうしつについてもアルミニウム合金ごうきん脆弱ぜいじゃくせい原因げんいんもとめる意見いけんおおかったが、実際じっさいには船体せんたい上部じょうぶ構造こうぞうぶつともぜんはがねせいであった[60]。しかし通風つうふうトランクや仕切じきりべんはアルミニウム合金ごうきんせいであり、これらは火災かさいによって溶解ようかいしてしまい、電纜でんらんかいした延焼えんしょうもあって火災かさい区画くかく拡大かくだいした。とく消火しょうか活動かつどうにとって致命ちめいてきであったのが、消火しょうか主管しゅかん機能きのう喪失そうしつであった。これは消防しょうぼうポンプの起動きどう失敗しっぱい搬式ポンプの能力のうりょく不足ふそくによるものだったが、この結果けっか火災かさい範囲はんい艦内かんないやく2/3にたっした。電纜でんらんるい被覆ひふくなどの燃焼ねんしょうによって有毒ゆうどくガスが発生はっせいし、また被弾ひだんやく30ふん電源でんげんうしなわれたこともあって、かん自身じしん消火しょうか活動かつどうはほとんど遂行すいこう不能ふのうとなってしまった[61]かん放棄ほうきされ、数日すうじつ曳航えいこうちゅう荒天こうてん遭遇そうぐう沈没ちんぼつしている。この事件じけんについて、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく著名ちょめい海軍かいぐん史家しかであるノーマン・フリードマンは、「現代げんだい精緻せいち軍艦ぐんかんたいかんミサイルにえられないという誤解ごかい蔓延まんえんしたが、20ねんにわたる冒険ぼうけんてきなコスト削減さくげんのツケがとうとうまわってきたというのが実態じったいである」とひょうしている[62]

空戦くうせん

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シーハリアーとけい空母くうぼ

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イギリス海軍かいぐんのシーハリアーFRS.1艦上かんじょう戦闘せんとうは遷音そく程度ていどしか発揮はっきできず、しかも編成へんせい当初とうしょだい317任務にんむ部隊ぶたいには20しか配備はいびされていなかった。しかしアルゼンチンがわ制約せいやくのために、実際じっさいには速度そくど当初とうしょ予想よそうされたほどではなくなっていた。またすうてき不利ふりについても、アルゼンチンがわよりも基地きち母艦ぼかん)がちかくに配置はいちされていたうえに稼働かどうりつたかく、すくない機体きたいでも最大限さいだいげん活用かつようできた[28]

結果けっかてきにシーハリアーはけい6事故じこ4)を喪失そうしつしたとはいえ、空戦くうせんでの損失そんしつく、アルゼンチンとの空戦くうせんでは23撃破げきはしている。戦前せんぜんには、飛行ひこうちゅう推力すいりょく偏向へんこう(VIFF)の空中くうちゅう戦闘せんとう機動きどうへの応用おうよう注目ちゅうもくされていたが、実際じっさい戦闘せんとうではもちいられなかった[ちゅう 11]。ハードウェアめんおおきな優位ゆういをもたらしたのがしん世代せだいのサイドワインダーであるAIM-9Lであった。従来じゅうらいのサイドワインダーは目標もくひょう後方こうほうまわまなければ使用しようできなかったのにたいし、AIM-9Lは新型しんがた赤外線せきがいせんセンサ採用さいようしてほぼ正面しょうめんからでも交戦こうせん可能かのうとなり、また旋回せんかい性能せいのう弾頭だんとう威力いりょく向上こうじょうしていた。実戦じっせんでも、正面しょうめんからの射撃しゃげきこそ記録きろくされていないが、26~27はつ発射はっしゃで17撃墜げきついした[28]

なおイギリスがわ課題かだいの1つが早期そうき警戒けいかい(AEW)の欠如けつじょであった。イギリス海軍かいぐんは1978ねん最後さいご正規せいき空母くうぼであるオーディシャスきゅう空母くうぼアーク・ロイヤル」を退役たいえきさせると同時どうじフェアリー ガネットAEW.3を退役たいえきさせて以降いこう艦上かんじょうとしてのAEWを保有ほゆうしておらず、対空たいくう捜索そうさく能力のうりょく不足ふそくにつながった。これをおぎなうため、ウェストランドしゃ独自どくじ開発かいはつしていたウェストランド シーキングのAEWばん派生はせいがた採択さいたくされ、既存きそんのシーキングHAS.2を改装かいそうして突貫とっかん工事こうじでシーキングAEW.2の試作しさく2製作せいさくされたものの、初号しょごうはつ飛行ひこうは7がつ23にちとなり、紛争ふんそうにはわなかった[64][65]

アルゼンチンがわ制約せいやく

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アルゼンチン空軍くうぐんミラージュIIIダガーといったマッハ2きゅうのジェット戦闘せんとう保有ほゆうしており、この2機種きしゅをあわせただけでもイギリス海軍かいぐんのシーハリアーFRS.1のやく2ばいかずがあったうえに、より低速ていそく攻撃こうげきもあわせればさらひらくことから、当初とうしょはアルゼンチンがわ有利ゆうり予測よそくされていた[28]

ただし実際じっさいにはアルゼンチンがわ作戦さくせんはその高速こうそく性能せいのう十分じゅうぶん発揮はっきすることができなかった。フォークランド諸島しょとう航空こうくう設備せつび貧弱ひんじゃくで、ちょう音速おんそく配備はいび困難こんなんであったため、これらの機体きたい本土ほんど基地きちからはるばる飛来ひらいしなければならなかった。ミラージュやダガーには空中くうちゅう給油きゅうゆ能力のうりょくがないために戦場せんじょうでの滞空たいくう時間じかんかぎられたうえに、ぞうそうつるしくだせねばならず、そのへいそう重量じゅうりょうあいまって、実際じっさいにはシーハリアーをわずかに上回うわまわ程度ていど速力そくりょくしか発揮はっきできなくなっていた。またミラージュ以外いがい機体きたいはいずれも攻撃こうげきとして運用うんようされたため、対空たいくうだけでなく対地たいちたいかんようへいそう搭載とうさいしなければならず、機動きどうせい速度そくど低下ていかまねいたうえに、戦闘せんとうしゅとしててい高度こうどいきになり、シーハリアーはすぐれた運動うんどう性能せいのう発揮はっきできた一方いっぽう、アルゼンチン高速こうそく性能せいのうさら減殺げんさいされた[66]

また用兵ようへいめん理由りゆうとして、根本こんぽんてきにアルゼンチンぐん空戦くうせんによる戦闘せんとう空域くういき制圧せいあつ積極せっきょくてきではかったというものがある。5月1にち戦闘せんとうでこそ、ミラージュIIIEA戦闘せんとう投入とうにゅうしてせいそら戦闘せんとういどんだものの、同日どうじつ、イギリス空軍くうぐんバルカン戦略せんりゃく爆撃ばくげきによってスタンリー飛行場ひこうじょう爆撃ばくげきしたことから、アルゼンチン本土ほんどへのばくげき警戒けいかいしてミラージュIIIEAは本土ほんど防空ぼうくうのために拘置こうちされ[23]、アルゼンチン護衛ごえい戦闘せんとうしでイギリス艦隊かんたい上陸じょうりく部隊ぶたいへのばくげき投入とうにゅうされることになった[28]

この結果けっかミラージュIIIEAがげられて以降いこう、アルゼンチンはシーハリアーに襲撃しゅうげきされても反撃はんげきせずにげの一手いってとなり、航空こうくうせん一方いっぽうてき様相ようそうとなった[28]。イギリスがわ航空こうくう優勢ゆうせい確立かくりつまでは達成たっせいできなかったものの[23]、アルゼンチンがわからすれば、航空こうくう優勢ゆうせいは「ほぼ」うしなった状態じょうたいとなっていた[6]

統合とうごう作戦さくせん

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冷戦れいせん終結しゅうけつまでのイギリスぐんにおいて複数ふくすうぐんしゅによる協同きょうどうのための恒常こうじょうてき組織そしき設置せっちされておらず、必要ひつようしょうじるつどそのかぎりで3ぐんいずれかの司令しれいかん協同きょうどう作戦さくせん司令しれいかんつとめる体制たいせいであった[67]。フォークランド紛争ふんそうもその例外れいがいではく、さらに当時とうじのイギリスにはフォークランド諸島しょとうでの不測ふそく事態じたいへのそなえが存在そんざいしていなかった。3ぐん協同きょうどう作戦さくせん司令しれいかん任命にんめいされた海軍かいぐん艦隊かんたい司令しれいかんは、急遽きゅうきょ地中海ちちゅうかい実施じっしされる演習えんしゅうへの派遣はけん部隊ぶたい指揮しきしていた海軍かいぐん少将しょうしょう戦域せんいきにおけるぜん兵力へいりょく前線ぜんせん指揮しきかんてた。しかし海軍かいぐん少将しょうしょう過大かだい兵力へいりょく指揮しきする負荷ふかになわされることになった[68]戦場せんじょうから1まんキロメートル以上いじょうはなれたイギリス本国ほんごく前線ぜんせんたいして広範こうはん政治せいじ統制とうせい作戦さくせん指導しどうくわだてた。この過程かてい前線ぜんせん指揮しきかん本国ほんごくとの調整ちょうせいおおくの労力ろうりょくくことをいられ、かたや本国ほんごく政府せいふ国防省こくぼうしょう議会ぎかいおよ報道ほうどう機関きかん状況じょうきょうらせるために詳細しょうさい状況じょうきょう報告ほうこくもとめたことで、前線ぜんせん本国ほんごくあいだだい容量ようりょうかつ長時間ちょうじかん通信つうしん必要ひつようとされ、意思いし決定けってい遅延ちえんまねいた[69]おおくの協同きょうどう作戦さくせん紛争ふんそうちゅう実施じっしされたが、そのさい協同きょうどう作戦さくせん能力のうりょく不足ふそく起因きいんするあやま事件じけんさえ発生はっせいした。

こうしたフォークランド紛争ふんそう教訓きょうくんかされるようになったのは、ようやく冷戦れいせん終結しゅうけついたってのことであった。冷戦れいせん終結しゅうけつ平和へいわ配当はいとうへの要求ようきゅう財政難ざいせいなんまえて、イギリスぐんたいしても経費けいひ削減さくげんする一方いっぽう一層いっそう効率こうりつせいもとめられるようになった。その過程かていしめされるようになった方向ほうこうせいは、政策せいさく運用うんよう分離ぶんりによる作戦さくせん効率こうりつせい追求ついきゅうであり、国防省こくぼうしょう本部ほんぶ役割やくわり前者ぜんしゃ限定げんていされるようになった。この方向ほうこうせいのもと、政策せいさくおよ軍事ぐんじ戦略せんりゃく軍事ぐんじ作戦さくせんとのあいだ明確めいかく責任せきにん範囲はんい関係かんけい形成けいせいもとめられた。また、3ぐん恒常こうじょうてき統合とうごう作戦さくせんへのそなえとして、計画けいかく準備じゅんび段階だんかいから危機ききさいしての作戦さくせん遂行すいこう戦力せんりょく回復かいふく事後じごせんくん蓄積ちくせきまでを一貫いっかんしてになわせる組織そしき設立せつりつ支持しじされた[70]。こうした協同きょうどうから統合とうごうへの方向ほうこうせい情報じょうほう通信つうしん技術ぎじゅつ革新かくしん統合とうごうによる効率こうりつせい追求ついきゅう・3ぐん固定こていてき区分くぶん由来ゆらいする国防こくぼう能力のうりょく発揮はっきへの障害しょうがい認識にんしきされたことといった社会しゃかい変革へんかくによって促進そくしんされ[71]常設じょうせつ統合とうごう司令しれい設置せっちによる恒久こうきゅうてき統合とうごう作戦さくせんのための体制たいせいがとられるようになった。

現代げんだいへの影響えいきょう

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中国ちゅうごくとアルゼンチンの軍事ぐんじてき接近せっきん

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中国ちゅうごくはクーデターをこしたビデラの中国ちゅうごく訪問ほうもんれるなど、当時とうじのアルゼンチンの軍事ぐんじ政権せいけん外交がいこう関係かんけいっていた数少かずすくない共産きょうさん主義しゅぎくにで、アルゼンチンの主張しゅちょう国際こくさい連合れんごう総会そうかいなどで支持しじしており[72]、1982ねん9がつイギリスりょう香港ほんこんをめぐる交渉こうしょうでは、フォークランド紛争ふんそう勝利しょうりしたばかりで自信じしんふかめていたサッチャー首相しゅしょうたいして鄧小ひらたは「香港ほんこんはフォークランドではないし、中国ちゅうごくはアルゼンチンではない」とはげしく応酬おうしゅうしたことで香港ほんこん返還へんかん決定けっていした[73]

2010ねん7がつ中国ちゅうごく同年どうねん4がつきていた2010ねんマルビナス(フォークランド)諸島しょとう外交がいこう危機ききスペインばんでアルゼンチンの主張しゅちょう支持しじすることを共同きょうどう声明せいめい表明ひょうめいした[74]。2011ねん12月・2012ねん6がつにも中国ちゅうごくはアルゼンチンを支持しじし、アルゼンチンのクリスティーナ・フェルナンデス大統領だいとうりょう感謝かんしゃ表明ひょうめいした[75]

2012ねん7がつにアルゼンチンのブリチェリ国防こくぼうしょう中国ちゅうごく訪問ほうもんし、中国ちゅうごく人民じんみん解放かいほうぐん主力しゅりょく戦闘せんとうとして開発かいはつちゅうだい5世代せだいステルス戦闘せんとうの「殲-20」の購入こうにゅうにも言及げんきゅうした[75]。また、アルゼンチンは中国ちゅうごくベトナムフィリピンあいだ問題もんだいになっている南シナ海みなみしなかいにおける領有りょうゆうけんについて中国ちゅうごく支持しじすると表明ひょうめいした[75]

2015ねん2がつにフェルナンデス大統領だいとうりょう中国ちゅうごく訪問ほうもんし、056がたコルベット購入こうにゅうしてマルビナスきゅう命名めいめいする計画けいかく発表はっぴょうされ[76][77]FC-1戦闘せんとうVN-1歩兵ほへい戦闘せんとうしゃなども購入こうにゅうする契約けいやく調印ちょういんした[78][79][80]。また、このさいにアルゼンチン議会ぎかい承認しょうにんされたパタゴニアのネウケンしゅう建設けんせつされた人工じんこう衛星えいせい追跡ついせき基地きちであるふか宇宙うちゅうステーションスペインばん中国ちゅうごく人民じんみん解放かいほうぐん管轄かんかつかれ[81]秘密ひみつ条項じょうこうれた50ねん契約けいやく敷地しきちげていることから中国ちゅうごくへの主権しゅけん譲渡じょうと中国ちゅうごくによる軍事ぐんじ利用りよう懸念けねん野党やとうなどがしめして物議ぶつぎかもした[82][83][84]。この基地きちはアルゼンチンがフォークランド諸島しょとう占領せんりょうするさい衛星えいせい情報じょうほう提供ていきょうする可能かのうせい米国べいこくげられた[85]。これらの合意ごういはフェルナンデス大統領だいとうりょうから交代こうたいしたマウリシオ・マクリ政権せいけん修正しゅうせいもしくは中止ちゅうしされたが、中国ちゅうごく目的もくてきだいフォークランド紛争ふんそうきたさいにアルゼンチンを支援しえんすることだったともされる[86]

このような中国ちゅうごくとアルゼンチンの協力きょうりょく関係かんけい背景はいけいにしたイギリスがわ報告ほうこくしょでは、「イギリスの軍事ぐんじ予算よさん削減さくげんによってフォークランド防衛ぼうえい弱体じゃくたいし、中国ちゅうごくからの軍事ぐんじてきおよ財政ざいせいてき支援しえんけたアルゼンチンぐんうばわれた場合ばあい奪還だっかんきわめてむずかしい」と発表はっぴょうしている[75]

尖閣諸島せんかくしょとう問題もんだいとの関係かんけい

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近年きんねん日本にっぽん中国ちゅうごくとのあいだ発生はっせいしている尖閣諸島せんかくしょとう問題もんだいにおいて、りょう国共こっきょうにこのフォークランド紛争ふんそう先行せんこう事例じれいとして研究けんきゅうしている[75]

教皇きょうこうフランシスコとの関係かんけい

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2013ねん3月15にちにイギリスはバチカンこく元首げんしゅにアルゼンチンじん就任しゅうにんしたことに警戒けいかいかんしめし、イギリスのキャメロン首相しゅしょうは「フランシスコ教皇きょうこうひじりには、先頃さきごろおこなわれたフォークランド諸島しょとう帰属きぞくかんする住民じゅうみん投票とうひょう結果けっか尊重そんちょうするように」とくぎした[87]

関連かんれん作品さくひん

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映画えいが
マンガ
  • MASTERキートン - かち鹿北かほくぼし原作げんさく長崎ながさき尚志ひさし脚本きゃくほん浦沢うらさわ直樹なおき作画さくが主人公しゅじんこうがSASに所属しょぞくれきがあり、名誉めいよ除隊じょたいほん紛争ふんそう予備よびやくとして招集しょうしゅううえ活躍かつやくしたとおぼしき記述きじゅつがある。また作中さくちゅうだい7かん「デビッド・ボビッドのもり」・「デビッド・ボビッドの帰還きかん」でフォークランド紛争ふんそうげたエピソードが存在そんざいする。
  • Cat Shit One - 小林こばやしはじめぶんさく。『Cat Shit One '80』Vol.2はフォークランド紛争ふんそう題材だいざいにしており、開戦かいせんから終結しゅうけついたるまで描写びょうしゃされている。なお、アルゼンチンじんはウシで表現ひょうげんされている。
ウォーゲーム
  • コマンドマガジン だい105ごう『フォークランド・ショウダウン』[88] - もと海外かいがいのウォーゲーム雑誌ざっし掲載けいさいされたウォーゲーム。日本語にほんごライセンスにあたり、ハリアーユニットとう追加ついか・シュペールエタンダールによるエグゾセ攻撃こうげきなどの追加ついかルールをまとめた日本にっぽんばんヴァリアントを掲載けいさいしている。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 以下いかはフォークランド諸島しょとう記載きさい統一とういつ
  2. ^ その1773ねんボストン茶会ちゃかい事件じけん発生はっせいし、1775ねんレキシントン・コンコードのたたかによりアメリカ独立どくりつ戦争せんそう勃発ぼっぱつした。
  3. ^ ダヴィドフは、すでに1981ねん12月にいち同島どうとう上陸じょうりくしていたが、このさいも、上陸じょうりくのための事前じぜん許可きょかていなかった[17]
  4. ^ このほか島民とうみん志願しがんしゃからなるフォークランド諸島しょとう防衛ぼうえいたい23めい組織そしきされていたが、こちらは海兵かいへいたい補助ほじょ限定げんていされ、戦闘せんとうにはくわえられなかった。
  5. ^ ベインティシンコ・デ・マヨは元々もともとオランダ海軍かいぐん空母くうぼの「カレル・ドールマンきゅうえい海軍かいぐんコロッサスきゅう空母くうぼヴェネラブル」)」で、アルゼンチンが購入こうにゅうしたさいには火災かさい事故じこによって機関きかん損傷そんしょうした状態じょうたいだった。そのため、コロッサスきゅうじゅん同型どうけいかん建造けんぞう中止ちゅうしされていたえい海軍かいぐんマジェスティックきゅう空母くうぼレヴァイアサン」から機関きかん流用りゅうようして修復しゅうふくしたのち就役しゅうえきしたのだが、この機関きかんはベインティシンコ・デ・マヨに流用りゅうようされた当初とうしょから不調ふちょうだったとわれている。
  6. ^ a b 当時とうじえい海軍かいぐん採用さいようしていたSCOT衛星えいせい通信つうしん装置そうちは、電波でんぱ探知たんち装置そうちによる探知たんち阻害そがいする危険きけんがあった[30]
  7. ^ 1にエグゾセを搭載とうさいし、もう1はレーダー故障こしょう誘導ゆうどう担当たんとうするための補助ほじょ
  8. ^ イギリスがわはエグゾセの撃破げきはをアヴェンジャーの114mmたんそうほうによる撃墜げきつい主張しゅちょうしているがチャフによる誤作動ごさどうだった可能かのうせいもあるなど詳細しょうさい不明ふめいである。
  9. ^ チャフロケットなどの発射はっしゃけむり誤認ごにんしたとられている
  10. ^ ただし、みなみ大西おおにしひろし過酷かこくうみきょうのために船体せんたい亀裂きれつしょうじ、のち補強ほきょう工事こうじ必要ひつようになった[59]
  11. ^ ただし、部分ぶぶんてきにノズルを偏向へんこうして旋回せんかい能力のうりょく向上こうじょうさせ、てき後方こうほうまわむという運用うんよう実績じっせき記録きろくされている。またのち増援ぞうえんとして派遣はけんされた空軍くうぐんのハリアーGR.3攻撃こうげきは、レーダーをたないなど空戦くうせん能力のうりょくひくいことから、空中くうちゅうせんまれた場合ばあいにはVIFFを活用かつようして脱出だっしゅつするように推奨すいしょうされていたが、実際じっさいにはハリアーGR.3が空中くうちゅうせん遭遇そうぐうすること自体じたいがなかったため、このような機会きかいはなかった[63]

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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