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鄧小平 - Wikipedia

鄧小ひらた

中国ちゅうごく指導しどうしゃ

鄧小ひらた(とう しょうへい、トン・シアオピン、簡体字かんたいじ邓小ひらた英語えいご: Deng Xiaoping1904ねん8がつ22にち1997ねん2がつ19にち)は、中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく政治せいじ1978ねん12月から1989ねん11月まで同国どうこく最高さいこう指導しどうしゃ改革かいかく開放かいほう一人ひとり政策せいさくなどで毛沢東もうたくとう時代じだい政策せいさく転換てんかんし、現代げんだい中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく路線ろせんきずいた。

鄧小ひらた
邓小ひらた
Deng Xiaoping

1979ねん1がつ

任期にんき 1982ねん9月12にち1987ねん11月2にち
とうそう書記しょき 胡耀邦こようほう
ちょうむらさき

任期にんき 1981ねん6月29にち1989ねん11月9にち
とうそう書記しょき 胡耀邦こようほう
ちょうむらさき

任期にんき 1983ねん6月6にち1990ねん3月19にち
国家こっか主席しゅせき さきねん
楊尚昆ようしょうこん

任期にんき 1978ねん3月8にち1983ねん6月17にち

任期にんき 1953ねん9月18にち1954ねん6月19にち
1956ねん9月28にち1968ねん10月31にち
1975ねん1がつ17にち1976ねん4がつ7にち
1977ねん7がつ16にち1980ねん9がつ10日とおか
内閣ないかく しゅう恩来おんらい内閣ないかく
華国鋒かこくほう内閣ないかく

任期にんき 1953ねん9月18にち1954ねん9月27にち

任期にんき 1954ねん9月27にち[注釈ちゅうしゃく 1]1968ねん10月31にち
1973ねん3がつ10日とおか1975ねん1がつ17にち

任期にんき 1973ねん12月12にち1976ねん4がつ7にち
1977ねん7がつ16にち1980ねん3月2にち

出生しゅっしょう (1904-08-22) 1904ねん8がつ22にち
清の旗 きよし 四川しせんしょう広安ひろやすけん現在げんざい広安ひろやす
死去しきょ 1997ねん2がつ19にち(1997-02-19)(92さいぼつ
中華人民共和国の旗 中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく 北京ぺきん 中国ちゅうごく人民じんみん解放かいほうぐんそう医院いいん
政党せいとう 中国共産党ちゅうごくきょうさんとう
出身しゅっしんこう モスクワ中山ちゅうざん大学だいがく
配偶はいぐうしゃ 张锡ひめ
(1928 – 1929)
きむ维映
(1931ねん7がつ[1] – 1933ねん5がつ[2]
たく
(1939ねん8がつ – 1997ねん2がつ
子女しじょ 長女ちょうじょ鄧林
長男ちょうなん鄧樸かたぜん国政こくせいきょうふく主席しゅせき
次女じじょ鄧楠
さんじょ鄧榕
次男じなん鄧質かた
宗教しゅうきょう かみろん
署名しょめい
鄧小ひらた
各種かくしゅ表記ひょうき
繁体字はんたいじ 鄧小ひらた
簡体字かんたいじ 邓小ひらた
拼音 Dèng Xiǎopíng
和名わみょう表記ひょうき とう しょうへい
発音はつおん転記てんき トン・シアオピン
英語えいごめい Deng Xiaoping
各種かくしゅ表記ひょうき本名ほんみょう
繁体字はんたいじ 鄧先きよし
簡体字かんたいじ 邓先圣
拼音 Dèng Xiānshèng
和名わみょう表記ひょうき とうせんせい
発音はつおん転記てんき トン・シエンション
英語えいごめい Deng Xiansheng
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生涯しょうがい

編集へんしゅう

1904ねん8がつ22にちきよし四川しせんしょう広安ひろやすけんにて裕福ゆうふくきゃくけい地主じぬし家庭かてい誕生たんじょうする。なおきゃくはもともときゅうあたりからあずますすむをそうくだらない時代じだいはまみたされた山間さんかんかん民族みんぞくであった。最初さいしょは鄧先ひじり名付なづけられ、おさなときには私塾しじゅくでの学名がくめいとして鄧まれけんきけんもちいていた[3]。鄧小たいらは16さいでフランス留学りゅうがくのため故郷こきょうのち、92さいぬまで、むかしなつかしんで帰郷ききょうすることはいちもなかった。

フランス留学りゅうがく時代じだい

編集へんしゅう

1920ねん10月にフランス留学りゅうがくだいいち世界せかい大戦たいせん労働ろうどう力不足ちからぶそくおうじた「つとむこう倹学」というかたち苦学くがくせいであった。鄧が留学りゅうがくした時代じだいのフランスはだいいち世界せかい大戦たいせん直後ちょくご不景気ふけいきだったため、パリからとおはなれた市立しりつ中等ちゅうとうこう入学にゅうがくして節約せつやくはげむが、生活せいかつかせぐために半年はんとし学校がっこうめ、工員こういん・ボーイ・清掃せいそうおっとなど、しょく転々てんてんえながらも堅実けんじつ貯金ちょきんして、1922ねん10がつふたた田舎町いなかまち市立しりつ中等ちゅうとう学校がっこう入学にゅうがくして3カ月かげつあいだまなんだのち、パリ近郊きんこうルノー自動車じどうしゃ工場こうじょう工員こういんとして勤務きんむする。フランス留学りゅうがくちゅうの1922ねん中国ちゅうごく少年しょうねん共産党きょうさんとう入党にゅうとうし、機関きかん作成さくせい担当たんとうした。「ガリ版がりばん博士はかせ」とあだされる。1925ねん中国共産党ちゅうごくきょうさんとうヨーロッパ支部しぶ指導しどうしゃとなったため、フランス政府せいふ危険きけん分子ぶんしなされる。これによってフランスでの居心地いごこちわるくなった鄧はパリをち、1926ねん1がつにフランスの警察けいさつが鄧小平こだいらのアパートを捜査そうさはいった。

ソ連それんへの留学りゅうがく帰国きこく

編集へんしゅう

1926ねん1がつにはソビエト連邦れんぽうモスクワわたり、東方とうほう勤労きんろうしゃ共産きょうさん大学だいがくモスクワ中山ちゅうざん大学だいがく共産きょうさん主義しゅぎまなぶ。モスクワ中山ちゅうざん大学だいがくでは当時とうじおなきょうあおだん所属しょぞくしていた蔣介せき長男ちょうなんのち中華民国ちゅうかみんこく総統そうとうである蔣経こくって友人ゆうじんとなった[4][5][6][7][8]

1927ねん帰国きこくしてゲリラ活動かつどう開始かいしした。べにななぐん政治せいじ委員いいんとして指揮しきするが、冒険ぼうけんてき無計画むけいかくたてさん路線ろせんまわされる。1931ねん8がつ蜂起ほうきしたものの根拠地こんきょちうしなった部隊ぶたいとも毛沢東もうたくとうひきいる江西えにしソビエト合流ごうりゅうし、みずきんけん書記しょきとなる。しかしコミンテルン指令しれい忠実ちゅうじつソ連それん留学りゅうがくぐみ多数たすうめるとう指導しどうは、農村のうそんでのゲリラせん重視じゅうしする毛沢東もうたくとう路線ろせんしたがう鄧小たいら失脚しっきゃくさせる。

1935ねん1がつにはしゅう恩来おんらい助力じょりょく中央ちゅうおう秘書ひしょちょう復帰ふっきし、ちょうただし参加さんかしてはちぐんいちきゅう政治せいじ委員いいんとなる。こののち華北かほく方面ほうめんでの抗日こうにちゲリラせんたたかう。1946ねん6がつ以降いこう国民党こくみんとうたたかった国共こっきょう内戦ないせんでは、淮海戦役せんえき揚子江ようすこう渡河とか作戦さくせんだい2野戦やせんぐん政治せいじ委員いいんなどをつとめ、おおきな戦果せんかおさめる。1949ねん10月の中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく成立せいりつ西南せいなんたたかいを指導しどうし、制圧せいあつ地域ちいき復興ふっこうつとめる。

1952ねん8がつ毛沢東もうたくとうによって政務せいむいんふく総理そうり任命にんめいされ、1953ねん9月に財政ざいせい部長ぶちょう大臣だいじん)を兼任けんにんする。1954ねん9月に政務せいむいん国務こくむいん改組かいそされると、つづふく総理そうりつとめる。1955ねん4がつだい7とう中央ちゅうおう委員いいんかいだい5かい全体ぜんたい会議かいぎだい75ちゅう全会ぜんかい)において中央ちゅうおう政治せいじきょく委員いいん選出せんしゅつされた。さらに1956ねん9月のだい81ちゅう全会ぜんかいとう中央ちゅうおう政治せいじきょく常務じょうむ委員いいん選出せんしゅつされて党内とうない序列じょれつだい6となり、中央ちゅうおう書記しょきしょそう書記しょきとしてとう日常にちじょう業務ぎょうむ統括とうかつすることとなる。

1957ねん6がつはじまったはん右派うは闘争とうそうではそう書記しょきとしてその指揮しきる。やく55まんにん迫害はくがいけ、毛沢東もうたくとう死後しごにその99パーセント以上いじょう冤罪えんざいであったとみとめられた事件じけんであった[9]。しかし鄧小たいら毛沢東もうたくとう指揮しきしただい躍進やくしん政策せいさく失敗しっぱい以降いこう次第しだいかれとの対立たいりつふかめていく。だい躍進やくしん政策せいさく失敗しっぱい責任せきにんって毛沢東もうたくとう政務せいむだい一線いっせん退しりぞいたのちそう書記しょきの鄧小たいら国家こっか主席しゅせき劉少奇りゅうしょうきとも経済けいざいなおしに従事じゅうじした。この時期じきには部分ぶぶんてき農家のうか自主じしゅてき生産せいさんみとめるなどの調整ちょうせい政策せいさくがとられ、一定いってい成果せいかげていったが、毛沢東もうたくとうはこれを「(共産きょうさん主義しゅぎ革命かくめい否定ひてい」ととらえた。その結果けっか1966ねん5がつ文化ぶんかだい革命かくめい勃発ぼっぱつ以降いこうは「劉少奇りゅうしょうき主席しゅせき党内とうないだい2の走資そうし」と資本しほん主義しゅぎりの政策せいさく批判ひはんされて失脚しっきゃく権力けんりょくうしなう。

1968ねん10月にぜん役職やくしょくわれ、翌年よくねん江西えにししょうみなみあきら追放ついほうされた。「走資そうしのトップ」とされた劉少奇りゅうしょうき文化ぶんかだい革命かくめいげるが、鄧小たいらは「あれはまだ使つかえる」という毛沢東もうたくとう意向いこう完全かんぜん抹殺まっさつにまではいたらず、党籍とうせきだけは剝奪されなかった。みなみあきらではトラクター工場こうじょう農場のうじょうでの労働ろうどう従事じゅうじするが、あたえられた住居じゅうきょには暖房だんぼう設備せつびもなく、強制きょうせい労働ろうどう過酷かこくなもので、鄧はなんたおれたが砂糖さとうすいんでしのぐことしかゆるされなかった。

1973ねん3がつしゅう恩来おんらい復活ふっかつ工作こうさくこうそうし、鄧小たいらとう活動かつどう国務こくむいんふく総理そうり職務しょくむ復活ふっかつし、病身びょうしんしゅう恩来おんらい補佐ほさして経済けいざいなおしに着手ちゃくしゅする。同年どうねん8がつだい10かいとう大会たいかい中央ちゅうおう委員いいんかえき、12月には毛沢東もうたくとう指示しじによってとう中央ちゅうおう委員いいんかいふく主席しゅせき中央ちゅうおう軍事ぐんじ委員いいんかいふく主席しゅせき中国ちゅうごく人民じんみん解放かいほうぐんそう参謀さんぼうちょうとなり、政治せいじきょく統括とうかつした。

1974ねん4がつ国際こくさい連合れんごう資源しげん総会そうかい中国ちゅうごく代表だいひょうだん団長だんちょうとして出席しゅっせきして演説えんぜつした[10]。そのさいおとずれたニューヨーク威容いよう驚嘆きょうたんし、国家こっか発展はってんのためには製鉄せいてつぎょう拡充かくじゅう急務きゅうむかんがえ、しん日本にっぽん製鐵せいてつ新日鉄しんにってつ)などから技術ぎじゅつ導入どうにゅうはかる。1975ねん1がつ国務こくむいん常務じょうむふく総理そうりだいいちふく首相しゅしょう)に昇格しょうかくし、しゅう恩来おんらい病気びょうきおもくなるととう政府せいふ日常にちじょう業務ぎょうむ主宰しゅさいするようになる。

着々ちゃくちゃく失脚しっきゃく以前いぜん地位ちいもどしていったかにえたが、1976ねん1がつ8にちしゅう恩来おんらいぼっすると、鄧小平こだいら運命うんめいふたた暗転あんてんする。前年ぜんねんからおこなわれていた「教育きょういく革命かくめいキャンペーン」は、あらためない走資そうしあんに鄧小たいらしめす)をねらったものだととう機関きかん人民日報じんみんにっぽうつたえると、北京ぺきん大学だいがくをはじめとしたかく大学だいがく壁新聞かべしんぶんは鄧小ひら批判ひはんであふれるようになった[11]。さらに清明せいめいぶしの4がつ4にちから5にち未明みめいにかけて、江青こうせいよん人組にんぐみひきいる武装ぶそう警察けいさつ民兵みんぺいが、天安門てんあんもん広場ひろばおこなわれていたしゅう恩来おんらい追悼ついとうデモを弾圧だんあつだいいち天安門てんあんもん事件じけん)するとデモははん革命かくめい動乱どうらん認定にんていされ、鄧小たいらはこのデモの首謀しゅぼうしゃとされてふたた失脚しっきゃくし、すべての職務しょくむを剝奪された。しかし党籍とうせきのみはとどめられ、広州こうしゅうぐん司令しれいいんもととも庇護ひごされる。同年どうねん9がつ毛沢東もうたくとう死去しきょすると、後継こうけいしゃ華国鋒かこくほう支持しじして職務しょくむ復帰ふっき希望きぼうし、よん人組にんぐみ逮捕たいほ1977ねん7がつに3度目どめ復活ふっかつたす。

実権じっけん掌握しょうあく

編集へんしゅう
 
おう稼祥(ひだり毛沢東もうたくとう中央ちゅうおう)と(1959ねん

1977ねん7がつだい103ちゅう全会ぜんかいにおいて、とうふく主席しゅせき国務こくむいん常務じょうむふく総理そうり中央ちゅうおう軍事ぐんじ委員いいんかいふく主席しゅせきけん人民じんみん解放かいほうぐんそう参謀さんぼうちょう正式せいしき復帰ふっきした。よく8がつ開催かいさいされただい11かいとう大会たいかいにおいて、文化ぶんかだい革命かくめい終了しゅうりょう宣言せんげんされる。鄧小たいら文革ぶんかく混乱こんらんした人民じんみん解放かいほうぐん整理せいり着手ちゃくしゅするととも科学かがく技術ぎじゅつ教育きょういく再建さいけんみ、同年どうねん全国ぜんこく普通ふつう高等こうとう学校がっこう招生入学にゅうがく考試こうし復活ふっかつさせる。

1978ねん10月、にちちゅう平和へいわ友好ゆうこう条約じょうやく批准ひじゅんしょ交換こうかんのため、当時とうじふく総理そうりだったが事実じじつじょう中国ちゅうごく首脳しゅのうとしてはじめて訪日ほうにちして福田ふくだ赳夫たけお首相しゅしょうらに歓待かんたいされ、中国ちゅうごく指導しどうしゃとしてははじめて昭和しょうわ天皇てんのう会見かいけんした[12]

1976ねん2がつロッキード事件じけん渦中かちゅうにあった田中たなか角栄かくえい私邸してい田中たなかにちちゅう国交こっこう正常せいじょう功績こうせきたたえるべくおとずれたほか[13]日本にっぽん社会党しゃかいとう公明党こうめいとう民社党みんしゃとう新自由しんじゆうクラブ社会しゃかい民主みんしゅ連合れんごう日本にっぽん共産党きょうさんとうといった野党やとう6とう代表だいひょう会談かいだんし、みずからを不老不死ふろうふし霊薬れいやくもとめて来日らいにちしたじょぶくなぞらえた[14]千葉ちばけん君津きみつ新日鉄しんにってつ君津きみつ製鉄せいてつしょおとずれて上海しゃんはい宝山たからやま製鉄せいてつしょへの協力きょうりょくあおぎ、東海道新幹線とうかいどうしんかんせんったさいはそのはやさに驚嘆きょうたんし、松下電器産業まつしたでんきさんぎょうパナソニック)では工場こうじょう建設けんせつびかけ、日産自動車にっさんじどうしゃ整然せいぜん作業さぎょうする産業さんぎょうようロボット感銘かんめいけるなど先進せんしん技術ぎじゅつ施設しせつ視察しさつ精力せいりょくてきおこな[15]古都こと京都きょうと奈良ならおとずれた。この訪日ほうにちで鄧小へい日本にっぽん経済けいざいりょくとく科学かがく技術ぎじゅつ躍進やくしんぶりは、改革かいかく開放かいほう政策せいさく推進すいしん動機どうきになったとされる。

同年どうねん11がつ10日とおかから12月15にちにかけてひらかれたとう中央ちゅうおう工作こうさく会議かいぎと、その直後ちょくごの12月18にちから22にちにかけて開催かいさいされただい113ちゅう全会ぜんかいにおいて、文化ぶんかだい革命かくめい否定ひていされるとともに「社会しゃかい主義しゅぎ近代きんだい建設けんせつへの移行いこう」すなわち改革かいかく開放かいほう路線ろせん決定けってい歴史れきしてき政策せいさく転換てんかんはかられ、1976ねん4がつだいいち天安門てんあんもん事件じけんさい評価ひょうかおこなわれてしゅう恩来おんらい追悼ついとうデモはよん人組にんぐみ反対はんたいする「偉大いだい革命かくめいてき大衆たいしゅう運動うんどう」とされた。当時とうじ74さい老齢ろうれいになっていた鄧小たいらはこの会議かいぎ中心ちゅうしんてきなリーダーシップを発揮はっき[16]、このときに(国家こっか主席しゅせきなど最高さいこう役職やくしょくにはいていないものの)中国ちゅうごく事実じじつじょう最高さいこう指導しどうしゃとなり実権じっけん掌握しょうあくしたとされる。この会議かいぎ決議けつぎ内容ないよう発表はっぴょうされたときは全国ぜんこくてき歓喜かんきうずつつまれたという逸話いつわのこっている。

 
ジミー・カーターひだり)やリチャード・ニクソン中央ちゅうおう)と(1979ねんのアメリカ訪問ほうもんにて)

1979ねん1がつ1にちアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくとの国交こっこう正式せいしき樹立じゅりつされると、鄧小たいらどう28にちから2がつ5にちにかけてアメリカを訪問ほうもん英語えいごばんした。首都しゅとワシントンD.C.でアメリカのジミー・カーター大統領だいとうりょうとの会談かいだんのぞんだのちヒューストンシアトルアトランタなどの工業こうぎょう地帯ちたいおとずれ、ロケット・航空機こうくうき自動車じどうしゃ通信つうしん技術ぎじゅつ産業さんぎょう視察しさつした。前年ぜんねん日本にっぽん訪問ほうもんとこのアメリカ訪問ほうもん科学かがく技術ぎじゅつにおいておくれた中国ちゅうごくという現実げんじつ直視ちょくしした鄧は、改革かいかく開放かいほう強力きょうりょく推進すいしん決意けついした。同年どうねん7がつとう中央ちゅうおう香港ほんこん隣接りんせつする広東かんとんしょうふかをはじめとする経済けいざい特区とっく設置せっちした。この外資がいし導入どうにゅうによる輸出ゆしゅつ志向しこうがた工業こうぎょう政策せいさくはそのきわめておおきな成果せいかおさめた。このかれプラグマティズムは「しろねこであれくろねこであれ、ねずみるのがねこである」(なか: かんくろねこしろねこ,捉到ろうねずみ就是こうねこ)という「しろねこくろねころん[注釈ちゅうしゃく 2]あらわれている。しかし、この改革かいかく開放かいほうはかつてのちゅうからだ西にしよう同様どうよう政治せいじてきには体制たいせい改革かいかくけ、経済けいざいてきにはかつての広東かんとんシステムのように一部いちぶ地域ちいきかぎった管理かんり貿易ぼうえき全面ぜんめんてきなものではなく、そのめんせいは「まどけば、新鮮しんせん空気くうきとともにハエもはいってくる」(なか: 打開だかいまど新鮮しんせん空氣くうきあおはえ就會いちおこりしんらい)という発言はつげんにもあらわれている[17]

1979ねん2がつベトナム戦争せんそう時代じだい同盟どうめいこくであり、毛沢東もうたくとうおよびホー・チ・ミン死後しごえつ友好ゆうこう協力きょうりょく条約じょうやく締結ていけつしてソ連それん接近せっきんしたベトナムが、中国ちゅうごく友好ゆうこうてき民主みんしゅカンプチアポル・ポト政権せいけんベトナム・カンボジア戦争せんそう打倒だとうしたことにたいして懲罰ちょうばつとして中越なかごえ戦争せんそう開始かいしした。この戦争せんそう中国ちゅうごく人民じんみん解放かいほうぐん撤退てったいわったものの、1950ねん6がつ朝鮮ちょうせん戦争せんそう以来いらい中国ちゅうごくだい規模きぼ軍事ぐんじ作戦さくせんであり[18]、この戦争せんそう主導しゅどうしたことは中国ちゅうごく国内こくない権力けんりょく闘争とうそうで鄧小たいら有利ゆうりはたらいたともひょうされている[19]毛沢東もうたくとう後継こうけいしゃである華国鋒かこくほうは「ふたつのすべて」とばれる教条きょうじょう主義しゅぎてき毛沢東もうたくとう崇拝すうはい路線ろせんかかげていたが、これを批判ひはんする論文ろんぶんが、鄧小平こだいらもっと信頼しんらいする部下ぶかである胡耀邦こようほうらにより人民日報じんみんにっぽう解放軍報かいほうぐんぽう新華社通信しんかしゃつうしん掲載けいさいされたのをに、国家こっかてき論争ろんそう発展はってん北京ぺきんには「民主みんしゅかべ」とよばれる掲示板けいじばんあらわれ、人民じんみんによる自由じゆう発言はつげんまれた。そのおおくは華国鋒かこくほう体制たいせい批判ひはんし、鄧小たいら支持しじするものであった。華国鋒かこくほういつめられ、前述ぜんじゅつの1978ねん12月のとう中央ちゅうおう工作こうさく会議かいぎにおいて毛沢東もうたくとう路線ろせん自己じこ批判ひはんせざるをなくなり、党内とうないにおける指導しどうりょくうしなっていった。最終さいしゅうてき華国鋒かこくほう1981ねん6月のだい116ちゅう全会ぜんかいにおいてとう中央ちゅうおう委員いいんかい主席しゅせきけん中央ちゅうおう軍事ぐんじ委員いいんかい主席しゅせき解任かいにんされ、胡耀邦こようほうとう主席しゅせき[注釈ちゅうしゃく 3]就任しゅうにんし、鄧小へいとう中央ちゅうおう軍事ぐんじ委員いいんかい主席しゅせき就任しゅうにんした。前年ぜんねん1980ねん9月に鄧小平こだいら信頼しんらいあつちょうむらさき国務こくむいん総理そうり首相しゅしょう)に就任しゅうにんしており、ここに鄧小平体へいたいせい確立かくりつした。

1979ねんから、尖閣諸島せんかくしょとう問題もんだい南海なんかい問題もんだいなどでいわゆる「擱置争議そうぎ共同きょうどう開発かいはつ」の平和へいわ政策せいさく提唱ていしょうした。それは、領土りょうど主権しゅけん問題もんだい見送みおくって、自然しぜん資源しげんとも開発かいはつする[20]というものである。

1980ねん4がつ、鄧小平体へいたいせいソ連それんとの軍事ぐんじ同盟どうめいであるちゅう友好ゆうこう同盟どうめい相互そうご援助えんじょ条約じょうやく破棄はきさせ[21]、1979ねん12月のソ連それんのアフガニスタン侵攻しんこう抗議こうぎしてモスクワオリンピックをボイコットし、アフガニスタンソビエト連邦れんぽうぐんたたかっていたムジャヒディンへの支援しえんおこな[22]、アメリカの1984ねんロサンゼルスオリンピックへの参加さんか決定けってい[23]、カーターの後任こうにん保守ほしゅ右派うはロナルド・レーガン大統領だいとうりょうとも友好ゆうこう関係かんけいきずいてアメリカと中国ちゅうごく軍事ぐんじ協力きょうりょくなどをすすめた[24][25][26]。カンボジアからふたた中国ちゅうごく亡命ぼうめいしてきたノロドム・シハヌーク保護ほご[27]、鄧小たいらはシハヌークにクメール・ルージュと2度目どめ共同きょうどう戦線せんせんむことをせまって1981ねん9月4にちにポル・ポトとシアヌークおよ親米しんべい右派うはソン・サンはんベトナム3による民主みんしゅカンプチア連合れんごう政府せいふen:Coalition Government of Democratic Kampuchea創設そうせつさせてカンボジア内戦ないせん長期ちょうきさせた[28][29]。この内戦ないせんにより、民主みんしゅカンプチア連合れんごう政府せいふ支援しえんしたASEAN諸国しょこく中国ちゅうごく関係かんけい改善かいぜんさせることに鄧小たいら成功せいこうした[30]

1984ねん3月、中国ちゅうごく訪問ほうもんした当時とうじ中曽根なかそね康弘やすひろ首相しゅしょうは鄧小たい中国ちゅうごく指導しどう会談かいだんしてだいえん借款しゃっかん実施じっし中日ちゅうにち友好ゆうこう病院びょういんにちちゅう青年せいねん交流こうりゅうセンター設置せっちなどで一致いっちし、鄧小たいら経済けいざい協力きょうりょく拡大かくだいびかけ[31]沿海えんかい経済けいざい特区とっく指定していかさなり、これ以降いこう日本にっぽんたいちゅう直接ちょくせつ投資とうし本格ほんかくする。一方いっぽう当時とうじ胡耀邦こようほうそう書記しょき比較ひかくして鄧小たいら靖国神社やすくにじんじゃ問題もんだいなどで日本にっぽん批判ひはんてきであり、全国ぜんこく日本にっぽん中国ちゅうごく侵略しんりゃく記念きねんかん記念きねん建立こんりゅうして愛国あいこく主義しゅぎ教育きょういく推進すいしんするよう指示しじして南京なんきんだい虐殺ぎゃくさつねんかんつくらせた[32]

1984ねん12月、鄧小たいらとモスクワ中山ちゅうざん大学だいがく同窓生どうそうせいだった中華民国ちゅうかみんこく台湾たいわん)の蔣経こく提案ていあんしていた「いちこく制度せいど構想こうそうのもと、イギリス植民しょくみんであった香港ほんこん返還へんかんかんするえいちゅう共同きょうどう宣言せんげんに、マーガレット・サッチャー首相しゅしょう当時とうじ)ととも調印ちょういんしている。当時とうじイギリス政府せいふとともに香港ほんこん社会しゃかい影響えいきょうりょくっていたくろ社会しゃかいさんごうかい)は中国ちゅうごく本土ほんど同様どうようまり強化きょうか中国ちゅうごく刑法けいほう厳格げんかく死刑しけい適用てきようおこな可能かのうせい危惧きぐしたが、鄧小たいらは「くろ社会しゃかいくろではない、愛国あいこくしゃおお」(くろ社會しゃかいなみくろ愛國あいこくてきかえ很多)と香港ほんこん暗黒あんこくがい容認ようにんする姿勢しせいべて中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく公安こうあんもこれに追従ついしょうした[33][34]。蔣経こくとはシンガポール首相しゅしょうリー・クアンユー香港ほんこん商人しょうにん密使みっし沈誠らをつうじて交渉こうしょうおこな[35]1985ねん7がつには香港ほんこんなどをかいした大陸たいりくとの間接かんせつ貿易ぼうえき台湾たいわん事実じじつじょう解禁かいきんさせることに成功せいこう[注釈ちゅうしゃく 4]1987ねん11月にはさん親等しんとう以内いない大陸たいりく親族しんぞくへの訪問ほうもん容認ようにんした。

1988ねんに、西にしすな諸島しょとうに2,600メートルきゅう本格ほんかくてき滑走かっそうゆうする空港くうこう完成かんせいさせ、南シナ海みなみしなかい支配しはい戦略せんりゃく拠点きょてんとしたうえで、3月にベトナムとのあいだ領有りょうゆうけんあらそスプラトリー諸島しょとう海戦かいせん南沙なんさ諸島しょとう海戦かいせん)で中国ちゅうごく海軍かいぐん勝利しょうりした。南沙なんさ諸島しょとうはベトナムを植民しょくみんとしたフランスりょうから日本にっぽんりょう領有りょうゆうけん明確めいかくでなく、台湾たいわん、フィリピン、マレーシア、ブルネイが領有りょうゆうけん主張しゅちょうする海域かいいきである。

ちゅう和解わかいだい天安門てんあんもん事件じけん

編集へんしゅう

1986ねん12月、はん右派うは闘争とうそうなどで冤罪えんざいとなった人々ひとびと名誉めいよ回復かいふくそう書記しょき胡耀邦こようほう国務こくむいん総理そうりちょうむらさき(いずれも当時とうじ)らにたいする談話だんわで「自由じゆうしてとう指導しどう否定ひていされたら建設けんせつなどできない」「すくなくともあと20ねんはん自由じゆうをやらねばならない」とくぎした[36]。1987ねん1がつ政治せいじ体制たいせい改革かいかくをめぐって改革かいかく推進すいしん胡耀邦こようほう対立たいりつし、えびす失脚しっきゃくさせる。しかし、鄧は政治せいじ改革かいかくまった反対はんたいだというわけではかった。だいいち国共こっきょう内戦ないせんからとう在籍ざいせきし、「革命かくめいだいいち世代せだい」とばれたろう幹部かんぶたちを、自身じしんふくめてとう中央ちゅうおう顧問こもん委員いいんかいうつして政策せいさく決定けっていだい一線いっせんからはなすなどの措置そちをとった。ただし鄧自身じしん党内とうない序列じょれつ1にはけっしてならなかったものの、とう中央ちゅうおう軍事ぐんじ委員いいんかい主席しゅせきとして軍部ぐんぶ掌握しょうあくし、とう中央ちゅうおう委員いいん退しりぞいて表向おもてむきは一般いっぱん党員とういんとなっても、2ねん1989ねん11月までこの地位ちい保持ほじつづけた。1987ねん11月のだい131ちゅう全会ぜんかいでは「以後いご重要じゅうよう問題もんだいには鄧小平こだいら同志どうし指示しじあおぐ」との秘密ひみつ決議けつぎがなされたとされる。

 
戒厳かいげんれい布告ふこく決定けっていした鄧小ひらた

1989ねん5がつ訪中ほうちゅうしたソ連それんミハイル・ゴルバチョフ書記しょきちょう会談かいだんして関係かんけい正常せいじょう一致いっちし、ちゅう対立たいりつ終結しゅうけつさせた[37]。しかし生涯しょうがいに3失脚しっきゃく(くしくもうち2かい学生がくせいこした暴動ぼうどう一因いちいん)をあじわったためか、民主みんしゅすすめたゴルバチョフと対照たいしょうてきに鄧小たいら中国共産党ちゅうごくきょうさんとう指導しどうせいをゆるがすうごきにはきびしい態度たいどのぞみ、1989ねん6がつにはだい天安門てんあんもん事件じけん学生がくせい運動うんどう武力ぶりょく弾圧だんあつった。この事件じけんについてははじちょうむらさきそう書記しょきなどが学生がくせい運動うんどう理解りかいしめしたのにたいして、軍部ぐんぶ掌握しょうあくしていた鄧小へいちんくもさきねん長老ちょうろうほう国務こくむいん総理そうりらの強硬きょうこう路線ろせん支持しじし、最終さいしゅうてき中国人ちゅうごくじんみん解放かいほうぐんによる武力ぶりょく弾圧だんあつ決断けつだんしたといわれる。イギリスの機密きみつ文書ぶんしょによると「200にん中国ちゅうごくに20ねん安定あんていをもたらすだろう」とかたったと記録きろくされている[38]

鄧小たいら武力ぶりょく弾圧だんあつ反対はんたいしたちょうむらさき解任かいにん決定けっていした。武力ぶりょく弾圧だんあつ理解りかいしめし、上海しゃんはいにおける学生がくせいデモの処理しょり評価ひょうかされた江沢民こうたくみん当時とうじ上海しゃんはいとう委員いいんかい書記しょき)をとうそう書記しょき抜擢ばってきし、同年どうねん11がつにはだい135ちゅう全会ぜんかいとう中央ちゅうおう軍事ぐんじ委員いいんかい主席しゅせきしょくこうゆずった。だい天安門てんあんもん事件じけんには一切いっさい役職やくしょく退しりぞくが、以後いごカリスマてき影響えいきょうりょくった。影響えいきょうりょくいま維持いじしていた鄧小たいらは、1992ねん春節しゅんせつころ1がつ18にちから2がつ21にちにかけて、ふか上海しゃんはいなどを視察しさつし、みなみじゅん講話こうわ発表はっぴょうした。経済けいざい発展はってん重要じゅうようせい主張しゅちょうするのみならず、ペレストロイカによるソビエト連邦れんぽう解体かいたいなどをれいにとって「経済けいざい改革かいかく和平わへいえんじへんをもたらす政治せいじ改革かいかくにつながる」と主張しゅちょうする党内とうない保守ほしゅたいして、これをきびしく批判ひはんしたみなみじゅん講話こうわは、天安門てんあんもん事件じけんきた党内とうない路線ろせん対立たいりつ収束しゅうそくし、改革かいかく開放かいほう路線ろせん推進すいしんするのに決定的けっていてき役割やくわりたした。またみなみじゅん講話こうわでは「中東ちゅうとうには石油せきゆがあるが、中国ちゅうごくにはレアアースがある。中国ちゅうごくはレアアースで優位ゆういせい発揮はっきできるだろう」(中東ちゅうとうゆう石油せきゆ中國ちゅうごくゆうまれ、一定把我國稀土的優勢發揮出來)ともべてハイテク産業さんぎょう軍需ぐんじゅ産業さんぎょう重要じゅうようなレアアースの戦略せんりゃくてき価値かち重視じゅうし[39][40]当時とうじ世界せかい埋蔵まいぞうりょうの8わり中国ちゅうごく存在そんざいしていたとされるレアアースのだい規模きぼ生産せいさんおこなってのち世界せかいの9わり独占どくせんてき供給きょうきゅうすることになる路線ろせん決定けっていづけたとされる[41][42]以後いご中国ちゅうごく急速きゅうそく経済けいざい発展はってんすすめることになった。

鄧小たいら香港ほんこん返還へんかんることなく、パーキンソンびょうはい感染かんせん併発へいはつ呼吸こきゅう不全ふぜんおちいり、1997ねん2がつ19にち218ふんくなった[43][44]本人ほんにん自身じしん遺体いたい献体けんたいのぞんだが、これは鄧楠希望きぼう実施じっしされなかった。同年どうねん3月2にち1125ふんのこはい親族しんぞくによって中国ちゅうごく領海りょうかいかれた。

中国ちゅうごく中央ちゅうおうでんだいは鄧のをトップニュースとして報道ほうどう[45]江沢民こうたくみんそう書記しょき弔意ちょういあらわし、天安門てんあんもんには半旗はんきかかげられた。死後しご翌日よくじつの2がつ20日はつか、ニューヨークの国連こくれん本部ほんぶでも追悼ついとうあらわすために半旗はんきかかげられた。しかし中国ちゅうごく各地かくち市民しみん生活せいかつ平常へいじょうどおいとなまれていた[46][47]。これは毛沢東もうたくとう死去しきょしたとき盛大せいだい国葬こくそういとなまれたのと対照たいしょうをなす。

小平こだいら死後しごに鄧がとなえた社会しゃかい主義しゅぎ市場いちば経済けいざいとう正当せいとうなどの理論りろんは、小平こだいら理論りろんとしてとう指導しどう思想しそうのこされた。

名前なまえ小平こだいら(シアオピン)の発音はつおん小瓶こびんおなじことから、しばしば「小瓶こびん」と渾名あだなされている。また身長しんちょう150センチメートルと小柄こがらながらあたま回転かいてんはやく、眼光がんこうじんごとするどかったことから「唐辛子とうがらし風味ふうみナポレオン」、「鄧蝟(ハリネズミの鄧)」、「鄧矮(チビの鄧)」とばれたりもした。毛沢東もうたくとうは鄧小平こだいらひととなりを「綿めんちゅうはりぞうす」とひょうした。

なん失脚しっきゃくして政治せいじ生命せいめいわったかとおもわれたがそのたび復活ふっかつたし、ついには70だい老齢ろうれい中国ちゅうごく事実じじつじょう最高さいこう権力けんりょくしゃになったことから、「不倒翁ふとうおう」とも渾名あだなされた。

 
ふか圳につ鄧小平こだいらぞう
 
はちぐん時代じだい(1938ねん
  • フランスへの留学りゅうがくなど、青年せいねんに7ねんちかいヨーロッパでの生活せいかつおくり、ワインチーズだい好物こうぶつヨーロッパ文化ぶんかへの嫌悪けんおかんたなかった鄧小たいらは、いくつかの趣味しゅみっていた。とく有名ゆうめいなのはコントラクトブリッジであった。政府せいふ共産党きょうさんとう公職こうしょくから退しりぞいたのちも、中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくブリッジ協会きょうかい名誉めいよ主席しゅせきつとめ、国際こくさいてきにも有名ゆうめいとなった。
  • フランス留学りゅうがくちゅう夢中むちゅうになったものが2つあり、ひとつは共産党きょうさんとうでもうひとつはクロワッサンであった。これは無関係むかんけいというわけではなく、フランスで一番いちばんおいしいクロワッサンのみせおしえてくれたのは、のちきたベトナム指導しどうしゃになるホー・チ・ミンであった。
  • サッカーきでもられていた。FIFAワールドカップときには、ビデオなどを使つかってほとんどの試合しあいていたといわれている。
  • びなかったのは、フランス滞在たいざいちゅう満足まんぞく食事しょくじれなかった栄養えいよう不足ふそくからだと後年こうねんかたっていた。
  • 小平こだいら言葉ことばとして「くろねこでもしろねこでもねずみるのがねこ」という「しろねこくろねころん」が有名ゆうめいであるが、これは四川しせんしょうふるくからのことわざである。実際じっさいかれったのは「しろねこ」ではなく「黄色きいろねこ」である。これはもっとも鄧がこのんだ言葉ことばであり、毛沢東もうたくとうが鄧を弾劾だんがいするさいにその理由りゆうひとつとしている。
  • 実子じっしである鄧樸かたは、北京ぺきん大学だいがく在学ざいがくちゅう文化ぶんかだい革命かくめいまれ、紅衛兵こうえいへい調しらべられている最中さいちゅうまどから「転落てんらく」(紅衛兵こうえいへいによりとされたとするせつもある)、脊髄せきずい損傷そんしょうして身体しんたい障害しょうがいしゃになった。事実じじつ紅衛兵こうえいへいによるこういったはげしい暴行ぼうこうによる傷害しょうがい殺人さつじんおおくあり、鄧小平こだいら自身じしん暴行ぼうこうけている。鄧小たいら午前ごぜん工場こうじょう労働ろうどうをし、午後ごご息子むすこ介護かいごをした。この経験けいけんからか、中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくない障害しょうがいしゃ団体だんたいかかわっていたことがある。
  • 1974ねん4がつ国際こくさい連合れんごう資源しげん総会そうかい出席しゅっせきしたさい中国ちゅうごく過去かこも、現在げんざい覇権はけんもとめておらず、将来しょうらい強大きょうだいになっても覇権はけんもとめないと演説えんぜつした[48]
  • 1978ねん8がつにちちゅう平和へいわ友好ゆうこう条約じょうやく交渉こうしょうにおいて、鄧小へいソ連それん覇権はけん主義しゅぎ批判ひはんし、中国ちゅうごくはん覇権はけん条約じょうやく明記めいきするように主張しゅちょうしていた、と当時とうじ日本にっぽんこく外務省がいむしょう中国ちゅうごく課長かちょうつとめた田島たじま高志たかしもとカナダ大使たいし)はかたる。そのさいに鄧小へい園田そのだただし外相がいしょうたいし、「中国ちゅうごくは、将来しょうらい巨大きょだいになってもだいさん世界せかいぞくし、覇権はけんもとめない。もし中国ちゅうごく覇権はけんもとめるなら、世界せかい人民じんみん中国人ちゅうごくじんみんとともに中国ちゅうごく反対はんたいすべきであり、近代きんだい実現じつげんしたときには、社会しゃかい主義しゅぎ維持いじするかかの問題もんだい確実かくじつてこよう。他国たこく侵略しんりゃく圧迫あっぱく搾取さくしゅなどすれば、中国ちゅうごく変質へんしつであり、社会しゃかい主義しゅぎではない」とべたという[49]どう条約じょうやく調印ちょういんしきさい日米にちべい安全あんぜん保障ほしょう条約じょうやく自衛隊じえいたい軍事ぐんじりょく増強ぞうきょう歓迎かんげいすると表明ひょうめいした[50]
  • 1977ねん中国ちゅうごく訪問ほうもんしたもとりくすすむ陸上りくじょう自衛隊じえいたいだい9師団しだんちょう三岡みつおか健次郎けんじろうたいして鄧小たいらは「毛沢東もうたくとう主席しゅせき常々つねづね過去かこのことはみずながそう』とわれた。しかも実際じっさい日本にっぽん中国ちゅうごくたすけた。日本にっぽん蔣介せき重慶たーちんまでいやったから我々われわれ日本にっぽんぐん占領せんりょう地域ちいき後方こうほう展開てんかいできた。そして8年間ねんかんに3まんから120まんにまでえたし、さらにすうひゃくまん民兵みんぺいまでつくり、120まん我々われわれは3ねんで蔣介せきぐん撃破げきはできた。だからみなさんだけをめるのは不公平ふこうへいだとおもう」と[51]、鄧小平こだいら要請ようせい三岡みつおか健次郎けんじろう設立せつりつした中国ちゅうごく政経せいけい懇談こんだんかいはじめた自衛隊じえいたいOBによるにちちゅう交流こうりゅう中断ちゅうだんなく今日きょうまでつづいている[52]
  • 1978ねん10月の訪日ほうにちにはさまざまな談話だんわのこした。「これからは日本にっぽん見習みならわなくてはならない」という言葉ことばは、工業こうぎょう痛感つうかんしたもので、2カ月かげつだい113ちゅう全会ぜんかい決議けつぎつうじるものであった。また日本にっぽんを「おくれたくに」となしてきた中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく首脳しゅのうとしてもおおきな認識にんしき転換てんかんであった。新幹線しんかんせんったさいには「むちてられているようだ」「なんというはやさだ。まるでふうっているようだ」という感想かんそうらしている。日産自動車にっさんじどうしゃ工場こうじょうおとずれたさいは「ロボットはおかねのことをわないし、かれらがストライキするのを心配しんぱいする必要ひつようもない」と[15]日本にっぽんしゃうつくしさもとなえ、日産自動車にっさんじどうしゃからさい高級こうきゅう乗用車じょうようしゃ日産にっさん・プレジデント特別とくべつおくられた[53]。そのに「日本にっぽん中国ちゅうごくめばなにでもできる」という解釈かいしゃくによってはきわどい発言はつげんのこしてもいる。事実じじつ訪中ほうちゅうした鈴木すずき善幸ぜんこう自民党じみんとう総務そうむ会長かいちょうたいし、にちちゅう共同きょうどう兵器へいき工場こうじょう中国ちゅうごく建設けんせつする計画けいかく鈴木すずき本人ほんにんによれば真剣しんけん提案ていあんしてきたという[54]訪日ほうにち昭和しょうわ天皇てんのうとの会見かいけんで「あなたのくに迷惑めいわくをかけてもうわけない」という謝罪しゃざいげんいた鄧小たいらちつくしたと、入江いりえしょうせいっている[55]。鄧小たいら1984ねん昭和しょうわ天皇てんのう中国ちゅうごく訪問ほうもん要請ようせいして昭和しょうわ天皇てんのう前向まえむきだったものの、日本にっぽん政府せいふ沖縄おきなわ訪問ほうもん優先ゆうせんしたので見送みおくられた[56][57]天皇てんのう中国ちゅうごく訪問ほうもん明仁あきひと天皇てんのうとなってから1992ねん10月に実現じつげんする。
  • 毛沢東もうたくとう時代じだいには教室きょうしつ職場しょくばではかなら毛沢東もうたくとう肖像しょうぞうかかげられ、華国鋒かこくほう時代じだいになると毛沢東もうたくとう華国鋒かこくほう肖像しょうぞうべてかかげられた。しかし鄧小へい実権じっけん掌握しょうあくしたのちはそれにならわず、天安門てんあんもんなどに毛沢東もうたくとう肖像しょうぞうだけがかかげられるにとどまるようになった。
  • 1979ねん中国ちゅうごく訪問ほうもんした松下まつした幸之助こうのすけたいしてまご悟空ごくう寓話ぐうわして日本にっぽん電子でんし産業さんぎょう全体ぜんたい中国ちゅうごく電子でんし産業さんぎょう支援しえんさせるという「君子くんし約束やくそく」をわし[58][59]松下まつした訪中ほうちゅうさいは鄧小たいら構想こうそうおくれをわびていた[60]
  • 1980ねん5月、中国ちゅうごく訪問ほうもんしたきし信介しんすけ個人こじん特使とくしである一夫かずお会談かいだんして台湾たいわん蔣経こく総統そうとうとの仲介ちゅうかい依頼いらいした[61]
  • 1989ねん、鄧小たいら訪中ほうちゅうした王永慶おうえいけい中華民国ちゅうかみんこくで「台湾たいわん松下まつした幸之助こうのすけ」とばれる)と会談かいだんし、巨大きょだいプロジェクト「うみ計画けいかく」がされるも台湾たいわん政府せいふ中止ちゅうしされた[62]
  • 蔣介せきとの世界せかい反共はんきょう連盟れんめい設立せつりつぶん鮮明せんめいとの国際こくさいかちども連合れんごう創設そうせつなどの活動かつどうから日本にっぽん反共はんきょう主義しゅぎもの代表だいひょうかく児玉こだまほまれおっとしたがえる「右翼うよくのドン」とされてきた笹川ささかわ良一りょういちとはにちちゅう国交こっこう正常せいじょうから親交しんこうむすんだ[63]
  • 天安門てんあんもん事件じけん当時とうじ「20まんにんぐらいの犠牲ぎせいはかまわない。中国ちゅうごくでは100まんにんといえどもちいさなかずにすぎない」「中国ちゅうごく西欧せいおうてき民主みんしゅ主義しゅぎめば、国内こくない混乱こんらんし、難民なんみん周辺しゅうへん地域ちいきなんおくにん流出りゅうしゅつするだろう」とべたとつたえられている[64]
  • 韓国かんこくぼく正煕せいき大統領だいとうりょうとは三菱商事みつびししょうじ当時とうじ藤野ふじの忠次郎ちゅうじろう社長しゃちょう後押あとおしで経済けいざい協力きょうりょくホットライン開設かいせつ目的もくてき接触せっしょくしていた[65][66]ぼく正煕せいき暗殺あんさつえとなったちゅうかんのホットラインは2015ねんむすめほお槿むくげめぐみ大統領だいとうりょう開設かいせつするまで実現じつげんされなかった[67]
  • 北朝鮮きたちょうせん最高さいこう指導しどうしゃきむ日成いるそん長年ながねんいから「親密しんみつ同志どうし戦友せんゆう」と評価ひょうかしていたが[68]、その後継こうけいしゃきむ正日じょんいる後継こうけいしゃ内定ないていはつ外遊がいゆうである1983ねん6月の中国ちゅうごく訪問ほうもんから帰国きこくしたさい中国ちゅうごく改革かいかく開放かいほうを「社会しゃかい主義しゅぎ共産きょうさん主義しゅぎてた」「修正しゅうせい主義しゅぎ」と批判ひはんしたことで鄧小たいらは「なんてばかなやつだ」「世間せけんらずの小童こわっぱ」と唾棄だきし、あせったきむ日成いるそん謝罪しゃざい約束やくそくしてそれをこばきむ正日じょんいる口論こうろんになっている[69]ちょうによれば、きむ日成いるそん中国ちゅうごくしき改革かいかく開放かいほう肯定こうていてきであり[70]きむ日成いるそん生涯しょうがい最後さいご外遊がいゆうである1991ねん10月の中国ちゅうごく訪問ほうもんで鄧小ひらたから改革かいかく開放かいほうせまられて帰国きこく会議かいぎ先鋒せんぽう経済けいざい貿易ぼうえき地帯ちたい設置せっち決定けっていするも[68]、そのあといだきむ正日じょんいる計画けいかく経済けいざい固執こしつして苦難くなん行軍こうぐんというだい飢饉ききんこし、犬猿けんえんなかとなった鄧小ひらた死後しご21世紀せいきはいってから17ねんぶりに中国ちゅうごく訪問ほうもんして中国ちゅうごく経済けいざい支援しえんあおぐこととなった。
  • 歴史れきし認識にんしきでは「にちちゅうせんねん歴史れきしくらべれば両国りょうこくあいだ不幸ふこう時期じきなどまぶたいちまばたき(ひとまばたき)にすぎない」と日本にっぽん首脳しゅのうべたという[71]。ただし、奥野おくのまことあきら大臣だいじん発言はつげん閣僚かくりょう靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱいについては「にちちゅう友好ゆうこうこのましいとおもわないひとがいる」と批判ひはんしている。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ このだい1全国ぜんこく人民じんみん代表だいひょう大会たいかいだい1かい会議かいぎにおいて政務せいむいん総理そうりしゅう恩来おんらい国務こくむいん総理そうり就任しゅうにんして国務こくむいん成立せいりつだい1全人代ぜんじんだいだい1かい会議かいぎ最終さいしゅうである翌日よくじつ国務こくむいんふく総理そうり秘書ひしょちょう選出せんしゅつおこなわれた。ふく総理そうり閣僚かくりょう秘書ひしょちょうらが正式せいしき任命にんめいされたのは9月29にち
  2. ^ 実際じっさい発言はつげんは「しろねこ」ではなく「ねこ」である(矢吹やぶきすすむ『鄧小平こだいら』、講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょばん71-72ページ)。
  3. ^ 1982ねん9がつ以降いこうとう中央ちゅうおう委員いいんかいそう書記しょきとなった。ちなみにこのとしの9がつ開催かいさいされただい12かいとう大会たいかいにおける党規とうきやく改正かいせいとう主席しゅせきせい廃止はいしされ、とう最高さいこうポストとして中央ちゅうおう委員いいんかいそう書記しょき設置せっちされた。
  4. ^ 公式こうしきには1990ねん10月からで、たいちゅう直接ちょくせつ投資とうし1992ねん9月に解禁かいきんされた。

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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伝記でんき文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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  中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく
先代せんだい
華国鋒かこくほう
中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく最高さいこう指導しどうしゃ
だい2だい:1978ねん12月22にち – 1989ねん11月9にち
次代じだい
江沢民こうたくみん
先代せんだい
設置せっち
国家こっか中央ちゅうおう軍事ぐんじ委員いいんかい主席しゅせき
1983ねん6がつ6にち – 1990ねん3がつ19にち
次代じだい
江沢民こうたくみん
先代せんだい
しゅう恩来おんらい
全国ぜんこく政治せいじ協商きょうしょう会議かいぎ主席しゅせき
だい3だい:1978ねん3がつ8にち – 1983ねん6がつ17にち
次代じだい
鄧穎ちょう
先代せんだい
はやしぴょう
国務こくむいん常務じょうむふく総理そうり
1975ねん1がつ17にち - 1976ねん4がつ7にち
1977ねん7がつ16にち – 1980ねん9がつ10日とおか
次代じだい
万里ばんり
先代せんだい
うすいち
財政ざいせい部長ぶちょう
だい2だい:1952ねん8がつ7にち – 1954ねん9がつ27にち
次代じだい
さきねん
   中国共産党ちゅうごくきょうさんとう
先代せんだい
華国鋒かこくほう
中央ちゅうおう軍事ぐんじ委員いいんかい主席しゅせき
だい3だい:1981ねん6がつ29にち – 1989ねん11月9にち
次代じだい
江沢民こうたくみん
先代せんだい
設置せっち
中央ちゅうおう顧問こもん委員いいんかい主任しゅにん
初代しょだい:1982ねん9がつ12にち – 1987ねん11月2にち
次代じだい
ちんくも
先代せんだい
ちょう聞天
中央ちゅうおう書記しょきしょそう書記しょき
1956ねん9がつ - 1967ねん3がつ
次代じだい
胡耀邦こようほう
   中国ちゅうごく人民じんみん解放かいほうぐん
先代せんだい
えいまさる
そう参謀さんぼうちょう(1
1975ねん1がつ5にち - 1976ねん4がつ7にち
次代じだい
小平こだいら(2
先代せんだい
小平こだいら(1
そう参謀さんぼうちょう(2
1977ねん7がつ16にち – 1980ねん3がつ2にち
次代じだい
楊得こころざし