ソビエト社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく 連邦 れんぽう
Союз Советских Социалистических Республик
国 くに の標語 ひょうご : Пролетарии всех стран, соединяйтесь! (万国 ばんこく の労働 ろうどう 者 しゃ よ、団結 だんけつ せよ! )国歌 こっか : Интернационал (ロシア語 ご ) インターナショナル (1922–1944) 3代目 だいめ ソビエト連邦 れんぽう 国歌 こっか (演奏 えんそう 版 ばん ) (1977–1991) 1945年 ねん 以後 いご のソビエト連邦 れんぽう 領 りょう (実効 じっこう 支配 しはい 地域 ちいき 含 ふく む)
公用 こうよう 語 ご
ロシア語 ご (事実 じじつ 上 じょう )
首都 しゅと
モスクワ
最高 さいこう 指導 しどう 者 しゃ [ 役職 やくしょく 2]
国家 こっか 元首 げんしゅ
首相 しゅしょう
面積 めんせき
1922年 ねん 19,553,129km²
1933年 ねん 21,352,572km²
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご 22,402,200km²
人口 じんこう
1933年 ねん 163,166,100人 にん
1970年 ねん 242,768,000人 にん
1991年 ねん 293,047,571人 にん
変遷 へんせん
通貨 つうか ソビエト連邦 れんぽう ・ルーブル
時間 じかん 帯 たい UTC +2 - +13(DST : なし)
ccTLD .su
国際 こくさい 電話 でんわ 番号 ばんごう +7
現在 げんざい ロシア ベラルーシ ウクライナ モルドバ (沿ドニエストル共和 きょうわ 国 こく を含 ふく む) ジョージア アルメニア アゼルバイジャン カザフスタン ウズベキスタン トルクメニスタン キルギス タジキスタン エストニア ラトビア リトアニア
ソビエト社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく 連邦 れんぽう (ソビエトしゃかいしゅぎきょうわこくれんぽう、ロシア語 ご : Союз Советских Социалистических Республик 発音 はつおん ⓘ 、頭字 かしらじ 語 ご : СССР [ 注釈 ちゅうしゃく 4] )は、1922年 ねん から1991年 ねん までユーラシア大陸 たいりく 北部 ほくぶ に存在 そんざい した社会 しゃかい 主義 しゅぎ 国家 こっか 。複数 ふくすう のソビエト社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく から構成 こうせい される連邦 れんぽう 国家 こっか であった。首都 しゅと はモスクワ 。
国土 こくど 面積 めんせき は約 やく 2,240万 まん km2 で、世界 せかい 最大 さいだい の面積 めんせき を有 ゆう していた。国土 こくど の南西 なんせい ではアジア とヨーロッパ の各国 かっこく と国境 こっきょう を接 せっ しており、一方 いっぽう の北東 ほくとう 部 ぶ では、海 うみ を挟 はさ んで北 きた アメリカ大陸 あめりかたいりく と向 む かい合 あ っていた。人口 じんこう は1991年 ねん 時点 じてん で2億 おく 9,010万 まん 人 にん に達 たっ し、当時 とうじ の世界 せかい において中国 ちゅうごく ・インド に次 つ ぐ第 だい 3位 い であった[ 1] 。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご 、解体 かいたい するまでの40年 ねん 以上 いじょう に渡 わた り、米国 べいこく と並 なら ぶ世界 せかい の超 ちょう 大国 たいこく の地位 ちい を維持 いじ していた。「ソビエト帝国 ていこく 」とも呼 よ ばれ、軍事 ぐんじ 力 りょく や経済 けいざい 力 りょく 、代理 だいり 戦争 せんそう 、発展 はってん 途上 とじょう 国 こく への影響 えいきょう 力 りょく 、宇宙 うちゅう 技術 ぎじゅつ や兵器 へいき を中心 ちゅうしん とした科学 かがく 研究 けんきゅう への資金 しきん 提供 ていきょう などで、東中 ひがしなか 欧 おう をはじめ世界 せかい 的 てき に覇権 はけん を行使 こうし していた[ 2] [ 3] 。
ソビエト(露 ろ : Совет )というロシア語 ご は「評議 ひょうぎ 会 かい 」の意味 いみ [ 注釈 ちゅうしゃく 5] をもち、スラヴ祖語 そご のvět-iti(「知 し らせる」)の動詞 どうし 語幹 ごかん から派生 はせい したものである。労働 ろうどう 者 しゃ の代表 だいひょう による評議 ひょうぎ 会 かい としての「ソビエト 」は、1905年 ねん のロシア第 だい 一 いち 革命 かくめい の中 なか で初 はじ めて出現 しゅつげん した。それらのソビエトは帝国 ていこく 政府 せいふ によって速 すみ やかに解散 かいさん させられたが、1917年 ねん の二 に 月 がつ 革命 かくめい による帝政 ていせい の崩壊 ほうかい 後 ご 、ロシア各地 かくち で労働 ろうどう 者 しゃ や兵士 へいし がソビエトを組織 そしき し、首都 しゅと ペトログラードの労働 ろうどう 者 しゃ ・兵士 へいし 代表 だいひょう ソビエトはロシア臨時 りんじ 政府 せいふ に対抗 たいこう し得 え る権力 けんりょく を有 ゆう した[ 5] 。この二 に 重 じゅう 権力 けんりょく 状態 じょうたい の中 なか で、ボリシェヴィキは「全 ぜん 権力 けんりょく をソビエトへ」のスローガンを掲 かか げて臨時 りんじ 政府 せいふ と対立 たいりつ し、1917年 ねん 10月 がつ (旧暦 きゅうれき )にはソビエトの名 な の下 した に武装 ぶそう 蜂起 ほうき を実行 じっこう して臨時 りんじ 政府 せいふ から権力 けんりょく を奪取 だっしゅ した(十 じゅう 月 がつ 革命 かくめい )[ 9] 。1918年 ねん 1月 がつ 、ボリシェヴィキは「ロシア社会 しゃかい 主義 しゅぎ 連邦 れんぽう ソビエト共和 きょうわ 国 こく 」の建国 けんこく を宣言 せんげん し、1922年 ねん 12月30日 にち には同国 どうこく と他 た のソビエト共和 きょうわ 国 こく を統合 とうごう する連邦 れんぽう 国家 こっか として「ソビエト社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく 連邦 れんぽう 」を成立 せいりつ させた[ 5] [ 10] 。ソビエト連邦 れんぽう の政治 せいじ 基盤 きばん は人民 じんみん の代表 だいひょう によるソビエトと憲法 けんぽう で定 さだ められていたが、実際 じっさい の政治 せいじ 的 てき 権力 けんりょく はボリシェヴィキの後継 こうけい である共産党 きょうさんとう によって掌握 しょうあく されていた[ 5] 。(ソビエト連邦 れんぽう #政治 せいじ も参照 さんしょう )
ロシア語 ご 表記 ひょうき の正式 せいしき 名称 めいしょう はСоюз Советских Социалистических Республик [ 注釈 ちゅうしゃく 6] 。通称 つうしょう はСоветский Союз [ 注釈 ちゅうしゃく 7] で、国歌 こっか の歌詞 かし にも使用 しよう されている。略称 りゃくしょう はСССР 、またはラテン文字 もじ でSSSRとなるが、これは正式 せいしき 名称 めいしょう を音訳 おんやく すると「Soyuz Sovietskikh Sotsialisticheskikh Respublik」となるためである。英語 えいご 表記 ひょうき の正式 せいしき 名称 めいしょう は、Union of Soviet Socialist Republics 、通称 つうしょう はSoviet Union 、略称 りゃくしょう はUSSR が用 もち いられる。
日本語 にほんご 表記 ひょうき では「ソビエト社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく 連邦 れんぽう 」が用 もち いられる。通称 つうしょう は、ソビエト連邦 れんぽう (「ソビエト」は「蘇 そ 維埃」「ソヴィエト」「ソヴィエット」「ソヴェト[ 12] 」「ソヴエト」「ソヴェート」「ソベート[ 13] 」「ソブイエト[ 14] 」「ソウエト[ 15] 」「ソウェート」「ソウエート[ 16] 」「ソウエット[ 17] 」「ソウエツト[ 17] 」「サウエト[ 18] 」「サウェート[ 19] 」「サウエート[ 20] 」「サウエット[ 21] 」「サウィエート[ 22] 」、より原語 げんご に近 ちか づけて「サヴィェート」とも)。略称 りゃくしょう はソ連邦 それんぽう 、ソ連 それん 、または単 たん にソビエト やソヴィエト ともする。漢字 かんじ では蘇 そ 聯邦 れんぽう 、蘇 そ 聯 れん などと表記 ひょうき され、蘇 そ と略 りゃく される。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご 、少 すく なくともヨシフ・スターリン が1953年 ねん に死去 しきょ するまでの日本 にっぽん ではソヴェト同盟 どうめい の表記 ひょうき が主流 しゅりゅう であり、ソビエト連邦 れんぽう の表記 ひょうき は前者 ぜんしゃ に比 くら べれば劣勢 れっせい であった。しかし、ソ連 それん 自体 じたい が「Союз とは Федерация (連邦 れんぽう )である」と説明 せつめい し、在日 ざいにち ソ連 それん 大使館 たいしかん も戦前 せんぜん から一貫 いっかん して「連邦 れんぽう 」の訳語 やくご を使用 しよう したことから[ 注釈 ちゅうしゃく 8] 、1950年代 ねんだい 後半 こうはん から現在 げんざい まで、「連邦 れんぽう 」が優勢 ゆうせい となっている。
構成 こうせい 共和 きょうわ 国 こく のロシア・ソビエト連邦 れんぽう 社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく とザカフカース社会 しゃかい 主義 しゅぎ 連邦 れんぽう ソビエト共和 きょうわ 国 こく の国名 こくめい にも「連邦 れんぽう 」の文字 もじ が含 ふく まれるが、こちらは Союз ではなく Федерация の訳 わけ である。旧 きゅう ソ連 それん 圏 けん の統合 とうごう を目指 めざ しているユーラシア連合 れんごう やユーラシア経済 けいざい 連合 れんごう の Союз は「連合 れんごう 」と訳 やく されている。日本語 にほんご 読 よ みでは Союз はソユーズ で知 し られる。ソ連 それん を構成 こうせい したロシア・ソビエト連邦 れんぽう 社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく と、その後継 こうけい 国家 こっか ロシア連邦 れんぽう は「Федерация (連邦 れんぽう )」である。
ソビエト連邦 れんぽう は、国名 こくめい に固有名詞 こゆうめいし (地名 ちめい )を含 ふく まない世界 せかい でも希有 けう な例 れい であるが、連邦 れんぽう を構成 こうせい する各 かく 共和 きょうわ 国 こく の国名 こくめい には「ロシア・ソビエト連邦 れんぽう 共和 きょうわ 国 こく 」など地名 ちめい が含 ふく まれている。
一部 いちぶ の西側 にしがわ 諸国 しょこく ではソビエト連邦 れんぽう 全体 ぜんたい を指 さ して「ロシア」(Russia)と呼 よ び続 つづ ける例 れい も多 おお かった。日本 にっぽん では労農 ろうのう ロシア[ 23] や赤 あか 露 ろ [ 24] などとも呼 よ ばれたが、「ソ連 それん 」「ソビエト」(NHK 等 ひとし )「ソビエト連邦 れんぽう 」が一般 いっぱん 化 か した。
ロシア・ニジニ・ノヴゴロド州 しゅう の州都 しゅうと ニジニ・ノヴゴロド のソルモフスキー地区 ちく (ロシア語 ご 版 ばん ) にあるレーニン記念 きねん 碑 ひ (英語 えいご 版 ばん ) の台座 だいざ に刻印 こくいん された連邦 れんぽう の徽章 きしょう 。
ソビエト連邦 れんぽう における国家 こっか の象徴 しょうちょう として用 もち いられたのは、赤 あか い星 ほし ならび鎌 かま と槌 づち をベースとした国 くに 章 あきら であった。これはソビエト国家 こっか ならびに十 じゅう 月 がつ 革命 かくめい を体現 たいげん する構成 こうせい 国家 こっか と共産 きょうさん 革命 かくめい における特徴 とくちょう 的 てき な記号 きごう として大 おお きな意味 いみ を持 も つものとなっていた。
十 じゅう 月 がつ 革命 かくめい 2周年 しゅうねん を祝 いわ うレーニン 、トロツキー 、カーメネフ (1919年 ねん )。
1917年 ねん 3月8日 にち (ロシア暦 れき 2月 がつ 23日 にち )に首都 しゅと ペトログラード で起 お こったデモ に端 はし を発 はっ する二 に 月 がつ 革命 かくめい により、ロシア帝国 ていこく は崩壊 ほうかい して漸進 ぜんしん 的 てき な改革 かいかく を志向 しこう するロシア臨時 りんじ 政府 せいふ が成立 せいりつ した。臨時 りんじ 政府 せいふ は第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん への参戦 さんせん 継続 けいぞく を決定 けってい したが、ドイツ軍 ぐん との戦線 せんせん はすでに破綻 はたん しており、国内 こくない の政治 せいじ 的 てき 混乱 こんらん にも収拾 しゅうしゅう のめどはついていなかった。他方 たほう 、二 に 月 がつ 革命 かくめい の中 なか で労働 ろうどう 者 しゃ ・兵士 へいし の代表 だいひょう によるソビエト (会議 かいぎ 、評議 ひょうぎ 会 かい )がロシア各地 かくち で組織 そしき され、中 なか でも最大 さいだい の影響 えいきょう 力 りょく を持 も つペトログラード労働 ろうどう 者 しゃ ・兵士 へいし 代表 だいひょう ソビエト (英語 えいご 版 ばん ) と臨時 りんじ 政府 せいふ の間 あいだ では「二 に 重 じゅう 権力 けんりょく 」状態 じょうたい が生 しょう じた[ 5] 。
1917年 ねん 8月 がつ 、ラーヴル・コルニーロフ 将軍 しょうぐん が臨時 りんじ 政府 せいふ に対 たい する反乱 はんらん を起 お こし、それがソビエトの力 ちから によって鎮圧 ちんあつ されると、ソビエト内 ない ではウラジーミル・レーニン 率 ひき いるボリシェヴィキ に対 たい する支持 しじ が高 たか まった[ 26] 。ボリシェヴィキは、かねてよりソビエトへの全 ぜん 権力 けんりょく の集中 しゅうちゅう を訴 うった え、戦争 せんそう 継続 けいぞく を主張 しゅちょう する臨時 りんじ 政府 せいふ との対決 たいけつ 姿勢 しせい を露 あら わにしていた[ 26] 。同年 どうねん 10月 がつ 、ボリシェヴィキは武装 ぶそう 蜂起 ほうき の方針 ほうしん を決 き め、11月7日 にち (ユリウス暦 れき 10月 がつ 25日 にち )に首都 しゅと ペトログラードのほぼ全域 ぜんいき を制圧 せいあつ し、臨時 りんじ 政府 せいふ から権力 けんりょく を奪取 だっしゅ した(十 じゅう 月 がつ 革命 かくめい )。この11月7日 にち が、ロシア革命 かくめい 記念 きねん 日 び である。同日 どうじつ に開催 かいさい された第 だい 2回 かい 全 ぜん ロシア・ソビエト大会 たいかい では、ソビエトによる体制 たいせい の成立 せいりつ と、新 しん 政府 せいふ である人民 じんみん 委員 いいん 会議 かいぎ の成立 せいりつ が宣言 せんげん された。首相 しゅしょう にあたる人民 じんみん 委員 いいん 会議 かいぎ 議長 ぎちょう にはレーニン、外務 がいむ 人民 じんみん 委員 いいん にはレフ・トロツキー 、民族 みんぞく 問題 もんだい 人民 じんみん 委員 いいん にヨシフ・スターリン が就任 しゅうにん している。ソビエト政権 せいけん はモスクワ 近郊 きんこう を制圧 せいあつ し、11月10日 にち には左派 さは 社会 しゃかい 革命 かくめい 党 とう を政権 せいけん に取 と り込 こ んだ。1918年 ねん 1月 がつ 10日 とおか からは第 だい 3回 かい 全 ぜん ロシア・ソビエト大会 たいかい が開催 かいさい され、ロシアが労働 ろうどう 者 しゃ ・兵士 へいし ・農民 のうみん のソビエトの共和 きょうわ 国 こく であると宣言 せんげん され、連邦 れんぽう 制 せい をとるとした宣言 せんげん が採択 さいたく された(ロシア社会 しゃかい 主義 しゅぎ 連邦 れんぽう ソビエト共和 きょうわ 国 こく )。
1918年 ねん 3月 がつ 、ボリシェヴィキはドイツ帝国 ていこく を含 ふく む中央 ちゅうおう 同盟 どうめい 国 こく とブレスト=リトフスク条約 じょうやく を締結 ていけつ し、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん から離脱 りだつ したが、以降 いこう は連合 れんごう 国 こく によるシベリア出兵 しゅっぺい の干渉 かんしょう 戦争 せんそう や、白 しろ 軍 ぐん など反 はん 革命 かくめい 勢力 せいりょく とのロシア内戦 ないせん (1917-22) に対処 たいしょ することになった[ 29] 。一方 いっぽう で、ウクライナ人民 じんみん 共和 きょうわ 国 こく やアゼルバイジャン のバクー・コミューン などボリシェヴィキ派 は のソビエト政権 せいけん も各地 かくち で次々 つぎつぎ に樹立 じゅりつ された。これらの各 かく 政権 せいけん は独立 どくりつ 国 こく であったが、ロシア・ソビエト政府 せいふ の一部 いちぶ であると自 みずか らを定義 ていぎ することもあった。
左 ひだり にウラジーミル・レーニンと右 みぎ にレフ・カーメネフ。
十 じゅう 月 がつ 革命 かくめい の直後 ちょくご から始 はじ まったロシア内戦 ないせん は、1918年 ねん 5月 がつ のチェコ軍団 ぐんだん の反乱 はんらん を契機 けいき に本格 ほんかく 化 か した。ソビエト政府 せいふ は内戦 ないせん 中 ちゅう に経済 けいざい 政策 せいさく として戦時 せんじ 共産 きょうさん 主義 しゅぎ を導入 どうにゅう したが、これは農業 のうぎょう と工業 こうぎょう の崩壊 ほうかい を招 まね き、数 すう 百 ひゃく 万 まん 人 にん の餓死 がし 者 しゃ を出 だ した。土地 とち の国有 こくゆう 化 か によって地主 じぬし 階級 かいきゅう も自作農 じさくのう (フートル農 のう 、オートルプ農 のう )も消滅 しょうめつ し、三 さん 圃制 にもとづく農村 のうそん 共同 きょうどう 体 たい が復活 ふっかつ したが、農業 のうぎょう 生産 せいさん には重大 じゅうだい な打撃 だげき が生 しょう じた[ 34] 。1918年 ねん 5月 がつ の食料 しょくりょう 独裁 どくさい 令 れい で農産物 のうさんぶつ は国家 こっか 専売 せんばい とされ、自由 じゆう 取引 とりひき は禁止 きんし された[ 34] 。第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご 、経済 けいざい 復興 ふっこう のために農民 のうみん は、十分 じゅうぶん な食料 しょくりょう 供給 きょうきゅう と生産 せいさん が義務 ぎむ 化 か された[ 34] 。1920年 ねん は凶作 きょうさく となり、重 おも い負担 ふたん に不満 ふまん をもった農民 のうみん は西 にし シベリアやタンボフ県 けん で反乱 はんらん を起 お こした[ 35] 。1921-1922年 ねん にはロシア飢饉 ききん が発生 はっせい し、農民 のうみん 反乱 はんらん の拡大 かくだい が政権 せいけん を脅 おびや かすことを懸念 けねん したレーニンは、1921年 ねん より戦時 せんじ 共産 きょうさん 主義 しゅぎ に代 か わる新 しん 経済 けいざい 政策 せいさく (ネップ )を導入 どうにゅう し、穀物 こくもつ の強制 きょうせい 徴収 ちょうしゅう は廃止 はいし され、部分 ぶぶん 的 てき に市場 いちば 経済 けいざい が取 と り入 い れられた。
1920年 ねん 、ロシア内戦 ないせん におけるボリシェヴィキの勝利 しょうり は決定的 けっていてき となった[ 5] 。1921年 ねん までに、赤軍 せきぐん は十 じゅう 月 がつ 革命 かくめい 後 ご ロシアから分離 ぶんり 独立 どくりつ を果 は たしていたウクライナ 、ベラルーシ 、ザカフカース の民族 みんぞく 国家 こっか を侵攻 しんこう し、占領 せんりょう することに成功 せいこう した。同時 どうじ に、ボリシェヴィキはそれらの地域 ちいき (ウクライナ 、ベラルーシ 、アゼルバイジャン 、アルメニア 、グルジア など)でソビエト政権 せいけん を樹立 じゅりつ した。
1922年 ねん におけるソビエト連邦 れんぽう の一部 いちぶ としてのロシアSFSR ソ連邦 それんぽう の結成 けっせい を確定 かくてい させた全 ぜん 連合 れんごう 第 だい 一 いち 回 かい ソビエト大会 たいかい の開 ひら かれたボリショイ劇場 げきじょう には、このようなプレートが付 つ けられている。
ロシア内戦 ないせん が収束 しゅうそく に向 む かうと、各地 かくち のソビエト政権 せいけん の間 あいだ では統合 とうごう への動 うご きが強 つよ まった。ロシア共産党 きょうさんとう の手 て によって各地 かくち の革命 かくめい 政権 せいけん との統合 とうごう が進行 しんこう し、1920年 ねん にはロシア連邦 れんぽう 共和 きょうわ 国 こく とアゼルバイジャン社会 しゃかい 主義 しゅぎ ソビエト共和 きょうわ 国 こく の間 あいだ で、緊密 きんみつ な軍事 ぐんじ 的 てき ・政治 せいじ 的 てき な同盟 どうめい 条約 じょうやく が締結 ていけつ され、ウクライナ 、白 はく ロシア 、グルジア 、アルメニア とも同様 どうよう の条約 じょうやく が結 むす ばれた。これらの国々 くにぐに は憲法 けんぽう を持 も つ主権 しゅけん 国家 こっか ではあったが、最高 さいこう 機関 きかん は全 ぜん ロシア・ソビエト大会 たいかい と全 ぜん ロシア中央 ちゅうおう 執行 しっこう 委員 いいん 会 かい であり、ロシア連邦 れんぽう 共和 きょうわ 国 こく の主導 しゅどう 権 けん は明確 めいかく であった。
1921年 ねん 1月 がつ には、燃料 ねんりょう 危機 きき 、運輸 うんゆ 危機 きき 、食糧難 しょくりょうなん が連鎖 れんさ 的 てき に発生 はっせい し、3月にはクロンシュタットの反乱 はんらん も起 お き、党内 とうない でも党内 とうない の民主 みんしゅ 化 か を求 もと められた[ 35] 。党 とう 指導 しどう 部 ぶ は党員 とういん が過剰 かじょう であるとの理由 りゆう で「党 とう の総 そう 粛清 しゅくせい 」を開始 かいし 、党 とう 歴 れき の長 なが さに応 おう じてヒエラルヒーがつくられ、古参 こさん 党員 とういん による寡頭支配 しはい が成立 せいりつ していった[ 35] 。
1922年 ねん 5月にはレーニンが脳出血 のうしゅっけつ で倒 たお れ、一命 いちめい は取 と り留 と めたものの影響 えいきょう 力 りょく は急速 きゅうそく に低下 ていか した。4月にはスターリンがロシア共産党 きょうさんとう の書記 しょき 長 ちょう に就任 しゅうにん 、党 とう 組織 そしき を掌握 しょうあく し始 はじ めた。8月にはソビエト政権 せいけん の統合 とうごう のための委員 いいん 会 かい が設置 せっち され、スターリンが主導 しゅどう 者 しゃ の一人 ひとり となった。スターリンは9月に各 かく 政権 せいけん が自治 じち 共和 きょうわ 国 こく として、ロシア・ソビエト社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく 連邦 れんぽう に加入 かにゅう するという統合 とうごう 形式 けいしき を発表 はっぴょう した。この意見 いけん はグルジア以外 いがい のソビエト共和 きょうわ 国 こく の賛成 さんせい を得 え て採択 さいたく されたものの、各 かく 共和 きょうわ 国 こく にとっては不満 ふまん の残 のこ るものであり、レーニンの指導 しどう によって10月 がつ の中央 ちゅうおう 委員 いいん 会 かい では、各 かく 共和 きょうわ 国 こく が対等 たいとう な共和 きょうわ 国 こく として連邦 れんぽう に加入 かにゅう するという形式 けいしき が定 さだ められた。しかし、この修正 しゅうせい ではザカフカースの3共和 きょうわ 国 こく がいったん連邦 れんぽう となってから加入 かにゅう することが定 さだ められたため、グルジアでの猛 もう 反発 はんぱつ を招 まね いた(グルジア問題 もんだい )。反対 はんたい 派 は は次第 しだい に追 お い詰 つ められ、これによってザカフカース社会 しゃかい 主義 しゅぎ 連邦 れんぽう ソビエト共和 きょうわ 国 こく が成立 せいりつ している。
1922年 ねん 12月には第 だい 1回 かい ソビエト連邦 れんぽう 全 ぜん 連邦 れんぽう ソビエト大会 たいかい (ロシア語 ご 版 ばん ) が開催 かいさい され、12月30日 にち にロシア社会 しゃかい 主義 しゅぎ 連邦 れんぽう ソビエト共和 きょうわ 国 こく 、ウクライナ社会 しゃかい 主義 しゅぎ ソビエト共和 きょうわ 国 こく 、白 はく ロシア社会 しゃかい 主義 しゅぎ ソビエト共和 きょうわ 国 こく 、ザカフカース社会 しゃかい 主義 しゅぎ 連邦 れんぽう ソビエト共和 きょうわ 国 こく の4国 こく が平等 びょうどう な立場 たちば で加盟 かめい するとしたソビエト社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく 連邦 れんぽう の樹立 じゅりつ を宣言 せんげん する連邦 れんぽう 結成 けっせい 条約 じょうやく (英語 えいご 版 ばん 、ロシア語 ご 版 ばん ) が調印 ちょういん された。この連邦 れんぽう には各国 かっこく が自由 じゆう な意志 いし で参加 さんか ・脱退 だったい できると定 さだ められており、新 あら たな最高 さいこう 機関 きかん の設立 せつりつ も決定 けってい された。
1923年 ねん 、スターリンら党内 とうない 主流 しゅりゅう 派 は は、ソ連 それん 体制 たいせい の正当 せいとう 性 せい を工場 こうじょう 労働 ろうどう 者 しゃ からの支持 しじ に見出 みいだ し、労働 ろうどう 者 しゃ の入党 にゅうとう キャンペーンを展開 てんかい したが、さらに党内 とうない 対立 たいりつ を招 まね いた[ 43] 。工場 こうじょう 労働 ろうどう 者 しゃ を支持 しじ 母体 ぼたい とみなす一方 いっぽう で、農民 のうみん は潜在 せんざい 的 てき には「敵 てき 」(反 はん 革命 かくめい 分子 ぶんし )とみなされた[ 35] 。
1924年 ねん 1月 がつ 31日 にち には最初 さいしょ のソビエト連邦 れんぽう 憲法 けんぽう が成立 せいりつ した。
1924年 ねん にレーニンが死亡 しぼう したが、生前 せいぜん にはスターリンとトロツキー の対立 たいりつ を憂 うれ い、スターリンを警戒 けいかい するようになっていた。スターリンはまずトロツキーを孤立 こりつ させ、次 つ いでレーニンの側近 そっきん だったグリゴリー・ジノヴィエフ や、レフ・カーメネフ、カール・ラデック らを攻撃 こうげき した。1927年 ねん にはトロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフを党 とう から除名 じょめい したことで、明 あき らかな優越 ゆうえつ 者 しゃ としての地位 ちい を確保 かくほ し、スターリンは正式 せいしき に最高 さいこう 指導 しどう 者 しゃ になった。
外交 がいこう 面 めん では連合 れんごう 国 こく の直接 ちょくせつ 干渉 かんしょう 自体 じたい はなくなったものの、ソビエト政権 せいけん が旧 きゅう ロシア帝国 ていこく の債務 さいむ 支払 しはら いを拒否 きょひ したため、関係 かんけい 改善 かいぜん は進 すす まなかった。一方 いっぽう で国際 こくさい 的 てき に孤立 こりつ していたヴァイマル共和 きょうわ 政 せい 下 した のドイツはソ連 それん と接近 せっきん し、賠償 ばいしょう の相互 そうご 放棄 ほうき を定 さだ めたラパッロ条約 じょうやく の締結 ていけつ となった。ドイツ軍 ぐん はソビエト領内 りょうない で軍事 ぐんじ 開発 かいはつ を秘密裏 ひみつり に行 おこな い、ソ連 それん はそれによって情報 じょうほう を取得 しゅとく するという関係 かんけい も築 きず かれた。この後 のち 、中東 ちゅうとう 諸国 しょこく や中華民国 ちゅうかみんこく との国交 こっこう が成立 せいりつ したものの、1925年 ねん にはロカルノ条約 じょうやく の成立 せいりつ によってドイツが西欧 せいおう 諸国 しょこく 側 がわ になったと受 う け止 と められた。これに対 たい してソ連 それん は東欧 とうおう 諸国 しょこく やフランスと不可侵 ふかしん 条約 じょうやく を締結 ていけつ することで対抗 たいこう しようとした。
一 いち 国 こく 社会 しゃかい 主義 しゅぎ と五 ご カ年 かねん 計画 けいかく
編集 へんしゅう
一方 いっぽう でコミンテルン は各国 かっこく の共産 きょうさん 主義 しゅぎ 運動 うんどう を支援 しえん する世界 せかい 革命 かくめい を目指 めざ していたが、一 いち 国 こく 社会 しゃかい 主義 しゅぎ を唱 とな えるスターリンの勝利 しょうり によって、その運動 うんどう はソ連 それん を守 まも るためのものとなった。1925年 ねん 5月 がつ スターリンは「ロシアのような後進 こうしん 国 こく でも完全 かんぜん な社会 しゃかい 主義 しゅぎ を実現 じつげん できる」とする一 いち 国 こく 社会 しゃかい 主義 しゅぎ 論 ろん を唱 とな え、金属 きんぞく 工業 こうぎょう を重視 じゅうし した[ 43] 。しかし、1925年 ねん には「商品 しょうひん 飢饉 ききん 」が起 お きると、スターリン政権 せいけん は、穀物 こくもつ や木材 もくざい の輸出 ゆしゅつ による利益 りえき (差益 さえき )による解決 かいけつ を決定 けってい し、農民 のうみん から穀物 こくもつ を安 やす く買 か い上 あ げた[ 43] 。
ネップで農業 のうぎょう 生産 せいさん は拡大 かくだい したが、商品 しょうひん 価値 かち の高 たか い生産 せいさん に集中 しゅうちゅう するようになり、穀物 こくもつ の供給 きょうきゅう が滞 とどこお るようになった。スターリンはネップを終 お わらせ、計画 けいかく 経済 けいざい への転換 てんかん によるソ連 それん の工業 こうぎょう 化 か をはかった。1928年 ねん から第 だい 一 いち 次 じ 五 ご カ年 かねん 計画 けいかく が始 はじ まり、鉄鋼 てっこう 生産 せいさん の増強 ぞうきょう 、農業 のうぎょう の集団 しゅうだん 化 か 、電化 でんか や機械 きかい 化 か に重点 じゅうてん を置 お いた工業 こうぎょう 化 か が達成 たっせい された。1928年 ねん と1937年 ねん を比較 ひかく すると、石炭 せきたん は3倍 ばい 強 きょう 、粗鋼 そこう は4倍 ばい 強 きょう の生産 せいさん 高 だか に達 たっ しており、工業 こうぎょう 全体 ぜんたい では第 だい 一 いち 次 じ で2倍 ばい 、第 だい 二 に 次 じ 五 ご カ年 かねん 計画 けいかく で2.2倍 ばい に達 たっ したといわれる。同 どう 時期 じき に欧米 おうべい 諸国 しょこく が世界 せかい 恐慌 きょうこう によって多数 たすう の失業 しつぎょう 者 しゃ を出 だ し、経済 けいざい を縮小 しゅくしょう させたのと比較 ひかく して、ソ連 それん の経済 けいざい 成長 せいちょう 率 りつ は世界 せかい 最高 さいこう を記録 きろく した。
農業 のうぎょう 集団 しゅうだん 化 か とクラーク撲滅 ぼくめつ
編集 へんしゅう
1927年 ねん 秋 あき には、農産物 のうさんぶつ を安 やす く買 か い取 と る国 くに への販売 はんばい を農民 のうみん がしぶったため、穀物 こくもつ の調達 ちょうたつ 難 なん が起 お こり、都市 とし の食糧難 しょくりょうなん が発生 はっせい し、これはスターリンの構想 こうそう を崩壊 ほうかい させかねない危機 きき となった[ 50] 。スターリンは穀物 こくもつ 調達 ちょうたつ 難 なん の原因 げんいん を「クラーク(富農 ふのう ) 」にあると決 き めつけ弾圧 だんあつ を強 つよ め[ 50] [ 51] 、1929年 ねん 12月には「クラーク階級 かいきゅう の抹殺 まっさつ 」を宣言 せんげん した[ 52] 。また、農民 のうみん を集団 しゅうだん 農場 のうじょう コルホーズ へ編入 へんにゅう させ、強引 ごういん な農業 のうぎょう 集団 しゅうだん 化 か を推進 すいしん した[ 50] 。餓死 がし 者 しゃ の報告 ほうこく に対 たい して、スターリンは集団 しゅうだん 化 か による飢饉 ききん は「作 つく り話 ばなし 」で「悪意 あくい ある噂 うわさ 」であるとみなし[ 53] 、1932年 ねん 8月 がつ の社会 しゃかい 主義 しゅぎ 的 てき 財産 ざいさん 保護 ほご 法 ほう で穀物 こくもつ を「横領 おうりょう 」した者 もの には全 ぜん 財産 ざいさん の没収 ぼっしゅう をともなう死刑 しけい 、または10年 ねん の自由 じゆう 剥奪 はくだつ に処 しょ された[ 54] 。1932年 ねん 末 まつ から1933年 ねん 初 はじ めに国内 こくない パスポート が義務 ぎむ づけられたが、農民 のうみん には交付 こうふ されなかったため、農民 のうみん は仕事 しごと をもとめて都市 とし に行 い くこともできなくなった[ 54] 。1932年 ねん から1934年 ねん にかけてウクライナ 、北 きた カフカース、ヴォルガ流域 りゅういき 、カザフスタン で飢饉 ききん が発生 はっせい し、数 すう 百 ひゃく 万 まん 人 にん が犠牲 ぎせい となった[ 50] 。カザフスタンでは農業 のうぎょう 集団 しゅうだん 化 か による100万 まん 人 にん が死亡 しぼう し[ 55] 、30%の農民 のうみん が中国 ちゅうごく に逃亡 とうぼう した。ウクライナでは400万 まん から600万 まん 人 にん が飢饉 ききん の犠牲 ぎせい となった[ 51] (ホロドモール )[ 56] 。北 きた カフカース でも100万 まん 人 にん が犠牲 ぎせい になった[ 55] 。ソ連 それん 全体 ぜんたい の餓死 がし 者 しゃ は600万 まん 人 にん から700万 まん 人 にん ともいわれ、犠牲 ぎせい 者 しゃ 数 すう は諸説 しょせつ ある。さらに工業 こうぎょう 賃金 ちんぎん も上昇 じょうしょう せず、労働 ろうどう 者 しゃ の実質 じっしつ 賃金 ちんぎん も12%近 ちか く減少 げんしょう した。
クラーク(富農 ふのう ) と認定 にんてい された農民 のうみん は何 なん 百 ひゃく 万 まん 人 にん も極北 きょくほく やシベリアの強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ (グラグ )に強制 きょうせい 移住 いじゅう させられた[ 50] 。白 しろ 海 うみ ・バルト海 ばるとかい 運河 うんが 計画 けいかく などの大 だい 規模 きぼ インフラの建設 けんせつ には、クラークや弾圧 だんあつ された共産 きょうさん 党員 とういん ら囚人 しゅうじん 労働 ろうどう 者 しゃ が動員 どういん された。レーニンから「党 とう の寵児 ちょうじ 」と呼 よ ばれ、穏健 おんけん な計画 けいかく を唱 とな えたニコライ・ブハーリン はこの時期 じき に失脚 しっきゃく した。1930年代 ねんだい の富農 ふのう 撲滅 ぼくめつ 運動 うんどう では650万 まん 人 にん が犠牲 ぎせい となり、強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ では350万 まん 人 にん が死亡 しぼう した[ 55] 。
外交 がいこう 面 めん では、コミンテルンは当初 とうしょ 社会 しゃかい ファシズム論 ろん を唱 とな え、社会 しゃかい 民主 みんしゅ 主義 しゅぎ 勢力 せいりょく への批判 ひはん を強 つよ めていたが、ファシズム やナチズム についてはむしろ容認 ようにん していた。しかし、ヒトラー内閣 ないかく 成立 せいりつ 後 ご 、1933年 ねん 11月にアメリカと国交 こっこう を樹立 じゅりつ 。1934年 ねん 9月 がつ には国際 こくさい 連盟 れんめい に加盟 かめい し、常任 じょうにん 理事 りじ 国 こく となった。折 お りしもドイツではナチ党 とう 政権 せいけん が成立 せいりつ し(ナチス・ドイツ )、1935年 ねん には再 さい 軍備 ぐんび を宣言 せんげん した。ソ連 それん はこれに対抗 たいこう するために、フランスと手 て を結 むす ぶ東方 とうほう ロカルノ政策 せいさく で対抗 たいこう しようとし、1935年 ねん に仏 ふつ ソ相互 そうご 援助 えんじょ 条約 じょうやく が締結 ていけつ された[ 59] 。コミンテルン第 だい 7回 かい 大会 たいかい においても反 はん ファシズム統一 とういつ 戦線 せんせん の方針 ほうしん が確認 かくにん され、人民戦線 じんみんせんせん 戦術 せんじゅつ がとられるようになった。赤軍 せきぐん は1934年 ねん には60万 まん 人 にん から94万 まん 人 にん 、1935年 ねん には130万 まん 人 にん に拡大 かくだい され、1937年 ねん にソビエト連邦 れんぽう 海軍 かいぐん の設置 せっち が行 おこな われるなど急速 きゅうそく な拡大 かくだい が続 つづ けられた。
しかしながら、イギリス・アメリカ・フランスなど資本 しほん 主義 しゅぎ 陣営 じんえい の中 なか で、ファシズムより共産 きょうさん 主義 しゅぎ に対 たい する懸念 けねん は依然 いぜん として強 つよ く、むしろファシズムを共産 きょうさん 主義 しゅぎ に対 たい する防波堤 ぼうはてい として利用 りよう しようとする向 む きもあった。特 とく にそのソ連 それん 敵視 てきし が如実 にょじつ に表 あらわ れたのが1936年 ねん の第 だい 二 に 次 じ エチオピア戦争 せんそう であり、ファシズムのイタリアによるエチオピア侵攻 しんこう という事態 じたい に対 たい して、ソ連 それん はイタリア に対 たい する非難 ひなん を行 おこな うも、イギリス・フランスはイタリアとの戦争 せんそう を懸念 けねん して何 なん ら制裁 せいさい を課 か すことはしなかった。英 えい 仏 ふつ の態度 たいど に失望 しつぼう したスターリンは、さらにミュンヘン会談 かいだん における両国 りょうこく のナチスに対 たい する譲歩 じょうほ がソ連 それん への侵攻 しんこう を容認 ようにん しているのではないかという疑惑 ぎわく を深 ふか めていく[要 よう 出典 しゅってん ] 。
急進 きゅうしん する集団 しゅうだん 化 か と工業 こうぎょう 化 か については、党内 とうない のセルゲイ・キーロフ やグリゴリー・オルジョニキーゼ らといった勢力 せいりょく が穏健 おんけん 化 か を求 もと めるようになった。その最中 さいちゅう に起 お こった1934年 ねん のキーロフ暗殺 あんさつ 事件 じけん 以降 いこう 、スターリン により党内 とうない の粛清 しゅくせい が激化 げきか し、ブハーリン、ゲオルギー・ピャタコフ 、レーニンの後継 こうけい 人民 じんみん 会議 かいぎ 議長 ぎちょう であったアレクセイ・ルイコフ 、ジノヴィエフ、カーメネフらといった有力 ゆうりょく 党員 とういん 、ミハイル・トゥハチェフスキー らといった軍人 ぐんじん が次々 つぎつぎ と処刑 しょけい された。その他 た 多 おお くの党員 とういん や軍人 ぐんじん 、一般 いっぱん 国民 こくみん が死刑 しけい もしくは流罪 るざい などにより粛清 しゅくせい された。この粛清 しゅくせい はスターリンの配下 はいか である粛清 しゅくせい の実行 じっこう 者 しゃ ですらその対象 たいしょう となり、ゲンリフ・ヤゴーダ 、ニコライ・エジョフ らもその犠牲 ぎせい となっている。
流罪 るざい の受 う け入 い れ先 さき として大 だい 規模 きぼ な強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ (シベリア のコルィマ鉱山 こうざん など)が整備 せいび された。大 だい 粛清 しゅくせい による犠牲 ぎせい 者 しゃ 数 すう には諸説 しょせつ があるが、当時 とうじ 行 おこな われた正式 せいしき な報告 ほうこく によると、1930年代 ねんだい に「反 はん 革命 かくめい 罪 ざい 」で死刑 しけい 判決 はんけつ を受 う けたものは約 やく 72万 まん 人 にん とされる。この粛清 しゅくせい によりスターリンの体制 たいせい はより強固 きょうこ なものとなった。1938年 ねん 以降 いこう 、スターリンが1953年 ねん に死去 しきょ するまで党 とう 大会 たいかい は1回 かい 、中央 ちゅうおう 委員 いいん 会 かい は数 すう 回 かい しか開 ひら かれず、重要 じゅうよう 決定 けってい は全 すべ てスターリン によって行 おこな われた。
1938年 ねん のアンシュルス 後 ご 、ソ連 それん は「明日 あした ではもう遅 おそ すぎるかも知 し れない」と、英 えい 仏 ふつ に対 たい してファシスト勢力 せいりょく への具体 ぐたい 的 てき な集団 しゅうだん 的 てき 行動 こうどう による対応 たいおう を求 もと めた。しかしミュンヘン会談 かいだん によるドイツへの宥和 ゆうわ 政策 せいさく は、英 えい 仏 ふつ がドイツの矛先 ほこさき をソ連 それん に向 む けようとしているというソ連 それん 側 がわ の疑念 ぎねん を強 つよ めさせた。
ソ連 それん は軍事 ぐんじ の拡大 かくだい を急 いそ ぎ、世界 せかい 最初 さいしょ の機甲 きこう 部隊 ぶたい の整備 せいび を行 おこな うなどしていたが、大 だい 粛清 しゅくせい で赤軍 せきぐん の幹部 かんぶ を失 うしな ったことでそのスピードは明 あき らかに低下 ていか していた。このため当時 とうじ のソ連 それん 首脳 しゅのう はこの時期 じき のソ連 それん は経済 けいざい 建設 けんせつ 期 き にあり、深刻 しんこく な戦争 せんそう には耐 た えられないと考 かんが えており、大戦 たいせん 争 そう の先 さき 延 の ばしを基本 きほん 政策 せいさく としていた。1939年 ねん 、外相 がいしょう がヴャチェスラフ・モロトフ に交代 こうたい した。ポーランド危機 きき が切迫 せっぱく する中 なか 、英 えい 仏 ふつ と同時 どうじ 進行 しんこう してドイツとも提携 ていけい 交渉 こうしょう を行 おこな い、8月 がつ 23日 にち には独 どく ソ不可侵 ふかしん 条約 じょうやく を締結 ていけつ した。この条約 じょうやく にはポーランドとバルト3国 こく の分割 ぶんかつ が付属 ふぞく 秘密 ひみつ 議定 ぎてい 書 しょ において取 と り決 き められていた[ 68] 。
9月ドイツ軍 ぐん のポーランド侵攻 しんこう の際 さい にはソ連 それん ・ポーランド不可侵 ふかしん 条約 じょうやく を一方 いっぽう 的 てき に破棄 はき するとともに侵攻 しんこう し、ポーランドの東 ひがし 半分 はんぶん を占領 せんりょう した。ソ連 それん 側 がわ はカーゾン線 せん に沿 そ った範囲 はんい であり、ウクライナ人 じん ・ベラルーシ人 じん が多数 たすう 居住 きょじゅう する地方 ちほう であると主張 しゅちょう している。
ドイツ軍 ぐん の爆 ばく 撃 げき を受 う けるレニングラード(1942年 ねん )
1943年 ねん のテヘラン会談 かいだん にて、左 ひだり から、ヨシフ・スターリン・ソ連 それん 議長 ぎちょう 、フランクリン・ルーズベルト 米 べい 大統領 だいとうりょう 、ウィンストン・チャーチル 英 えい 首相 しゅしょう
バルト三 さん 国 こく に圧力 あつりょく をかけ、赤軍 せきぐん の通過 つうか と親 おや ソ政権 せいけん の樹立 じゅりつ を要求 ようきゅう し、その回答 かいとう を待 ま たずに侵攻 しんこう 、傀儡 かいらい 政権 せいけん を成立 せいりつ させて併合 へいごう した 。同時 どうじ にソ連 それん はルーマニア にベッサラビア を割譲 かつじょう するように圧力 あつりょく をかけ、1940年 ねん 6月 がつ にはソ連 それん 軍 ぐん がベッサラビアと北 きた ブコビナ に進駐 しんちゅう し、割譲 かつじょう させた。さらに隣国 りんごく のフィンランド を冬 ふゆ 戦争 せんそう により侵略 しんりゃく してカレリア 地方 ちほう を併合 へいごう した。しかしフィンランドの抵抗 ていこう で思 おも わぬ損害 そんがい を招 まね き、国際 こくさい 連盟 れんめい からも追放 ついほう された。
ドイツとの関係 かんけい は一定 いってい の協調 きょうちょう 関係 かんけい となっていたが、細部 さいぶ ではきしみが生 しょう じていた。ソ連 それん 側 がわ はドイツ側 がわ を刺激 しげき しないよう対応 たいおう し、ドイツ側 がわ の侵攻 しんこう を警戒 けいかい する情報 じょうほう は放擲 ほうてき された。1941年 ねん 6月 がつ にドイツはバルバロッサ作戦 さくせん を発動 はつどう し、独 どく ソ戦 せん が勃発 ぼっぱつ した。これをまったく予期 よき していなかったスターリンはきわめて動転 どうてん した。英 えい ソはドイツ打倒 だとう のために接近 せっきん し、7月 がつ 12日 にち に英 えい ソ両国 りょうこく の代表 だいひょう はモスクワに集 あつ まって英 えい ソ軍事 ぐんじ 同盟 どうめい を締結 ていけつ した。8月25日 にち にはペルシア回廊 かいろう といわれる補給 ほきゅう 線 せん を確保 かくほ するためイランに侵攻 しんこう 、その後 ご 占領 せんりょう 下 か に置 お いた 。
ドイツ軍 ぐん の猛攻 もうこう で首都 しゅと モスクワに数 すう 十 じゅう キロメートル にまで迫 せま られ、レニングラード攻防 こうぼう 戦 せん やクルスクの戦 たたか い などにより軍民 ぐんみん あわせて数 すう 百 ひゃく 万 まん 人 にん の死傷 ししょう 者 しゃ を出 だ したが、スターリンは戦争 せんそう を「大 だい 祖国 そこく 戦争 せんそう 」と位置 いち づけて国民 こくみん の愛国心 あいこくしん に訴 うった え、ドイツの占領 せんりょう 地 ち で民衆 みんしゅう を中心 ちゅうしん としたパルチザン を組織 そしき し敵 てき の補給 ほきゅう 線 せん を攪乱 かくらん した。味方 みかた が撤退 てったい する際 さい には焦土 しょうど 作戦 さくせん と呼 よ ばれる住民 じゅうみん を強制 きょうせい 疎開 そかい させたうえで家屋 かおく 、畑 はたけ などを破壊 はかい して焼却 しょうきゃく する作戦 さくせん を行 おこな い、ドイツ軍 ぐん の手 て には何 なに も渡 わた らないようにさせた。連合 れんごう 国 こく 側 がわ であり西部 せいぶ 戦線 せんせん でドイツ軍 ぐん と戦 たたか うアメリカやイギリスによる膨大 ぼうだい な軍事 ぐんじ 支援 しえん (レンドリース法 ほう )、また極東 きょくとう における日本 にっぽん による参戦 さんせん がなかったこともあり、対 たい ドイツ戦 せん に専念 せんねん できたソ連 それん 軍 ぐん は気候 きこう や補給 ほきゅう 難 なん に苦 くる しむドイツ軍 ぐん を押 お し返 かえ していった。熾烈 しれつ な攻防 こうぼう 戦 せん の末 すえ 、1943年 ねん 2月 がつ にスターリングラードの戦 たたか い に勝利 しょうり すると、これを契機 けいき にしてソ連 それん は次第 しだい に戦局 せんきょく を有利 ゆうり に進 すす めるようになる。1943年 ねん 5月 がつ にはコミンテルン を解散 かいさん した。
やがてドイツ軍 ぐん の後退 こうたい とともにソ連 それん 軍 ぐん は東欧 とうおう 各国 かっこく を「解放 かいほう 」した。東欧 とうおう 各国 かっこく の民衆 みんしゅう は、ドイツ軍 ぐん の占領 せんりょう に対 たい して抵抗 ていこう の最前線 さいぜんせん に立 た った共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ たちを支持 しじ した。東欧 とうおう 各国 かっこく の共産党 きょうさんとう は、赤軍 せきぐん の圧力 あつりょく と民衆 みんしゅう の支持 しじ を背景 はいけい に、ソ連 それん 型 がた 社会 しゃかい 主義 しゅぎ をモデルにした社会 しゃかい 主義 しゅぎ 政権 せいけん を各地 かくち で樹立 じゅりつ した。1945年 ねん 5月 がつ 、ソ連 それん 軍 ぐん はドイツの首都 しゅと であるベルリン を陥落 かんらく させ、ドイツ軍 ぐん を降伏 ごうぶく に追 お い込 こ んだ。
1945年 ねん 8月 がつ 8日 にち 、ソ連 それん は日 にち ソ中立 ちゅうりつ 条約 じょうやく を一方 いっぽう 的 てき に破棄 はき して日本 にっぽん に宣戦 せんせん 布告 ふこく した。これは連合 れんごう 国 こく 首脳 しゅのう によるヤルタ会議 かいぎ における密約 みつやく (ヤルタ協定 きょうてい )に基 もと づくものであったが、ソ連 それん 軍 ぐん は日本 にっぽん の千島 ちしま 列島 れっとう や南 みなみ 樺太 からふと 、朝鮮半島 ちょうせんはんとう 北部 ほくぶ 、そして日本 にっぽん の同盟 どうめい 国 こく の満 まん 洲 しゅう 国 こく に対 たい し侵攻 しんこう した。この際 さい のソ連 それん 軍 ぐん の行動 こうどう は、中立 ちゅうりつ 条約 じょうやく の破棄 はき や日本 にっぽん の民間 みんかん 人 じん に対 たい する暴虐 ぼうぎゃく 、そして戦後 せんご の捕虜 ほりょ のシベリア抑留 よくりゅう や北方領土 ほっぽうりょうど 問題 もんだい など、戦後 せんご の日 ひ ソ関係 かんけい に大 おお きなしこりを生 う む原因 げんいん となった。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の期間 きかん 中 ちゅう に2700万 まん 以上 いじょう のソ連 それん 国民 こくみん が死亡 しぼう するなど大 おお きな犠牲 ぎせい を出 だ した。一方 いっぽう でその勝利 しょうり に大 おお きく貢献 こうけん したことで国家 こっか の威信 いしん を高 たか め、世界 せかい における超 ちょう 大国 たいこく の地位 ちい を確立 かくりつ した。大戦 たいせん 期間 きかん 中 ちゅう にはヤルタ会談 かいだん などの戦後 せんご 秩序 ちつじょ 構築 こうちく にあたっての会議 かいぎ にも深 ふか く関与 かんよ している。国際 こくさい 連合 れんごう 創設 そうせつ にも大 おお きく関与 かんよ し、安全 あんぜん 保障 ほしょう 理事 りじ 会 かい の常任 じょうにん 理事 りじ 国 こく となっている。さらに占領 せんりょう 地域 ちいき であった東欧 とうおう 諸国 しょこく への影響 えいきょう を強 つよ め、衛星 えいせい 国 こく 化 か していった。その一方 いっぽう 、ドイツ、ポーランド、チェコスロバキアからそれぞれ領土 りょうど を獲得 かくとく し、西方 せいほう へ大 おお きく領土 りょうど を拡大 かくだい した。 開戦 かいせん 前 まえ に併合 へいごう したエストニア 、ラトビア 、リトアニア のバルト三 さん 国 こく の併合 へいごう 、ルーマニアから獲得 かくとく したベッサラビア(現在 げんざい のモルドバ )の領有 りょうゆう を承認 しょうにん させ、これらの新 しん 領土 りょうど から多 おお くの住民 じゅうみん を追放 ついほう あるいはシベリアなどに強制 きょうせい 移住 いじゅう させ、代 か わりにロシア人 じん を移住 いじゅう させた。
極東 きょくとう では日本 にっぽん の領土 りょうど であった南 みなみ 樺太 からふと および千島 ちしま 列島 れっとう を占領 せんりょう し、領有 りょうゆう を宣言 せんげん した。さらに、1945年 ねん 8月 がつ 14日 にち に連合 れんごう 国 こく の一 いち 国 こく にあたる中華民国 ちゅうかみんこく との間 あいだ に中 ちゅう ソ友好 ゆうこう 同盟 どうめい 条約 じょうやく を締結 ていけつ し、日本 にっぽん が旧 きゅう 満 まん 洲 しゅう に持 も っていた各種 かくしゅ 権益 けんえき のうち、関東 かんとう 州 しゅう の旅順 りょじゅん ・大連 たいれん の両 りょう 港 みなと の租借 そしゃく 権 けん や旧 きゅう 東 あずま 清 きよし 鉄道 てつどう (南 みなみ 満 まん 洲 しゅう 鉄道 てつどう の一部 いちぶ )の管理 かんり 権 けん の継承 けいしょう を中華民国 ちゅうかみんこく に認 みと めさせた(中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく 建国 けんこく 後 ご に返還 へんかん )。
1959年 ねん のキューバ革命 かくめい 以後 いご および1961年 ねん の中 ちゅう ソ対立 たいりつ 以前 いぜん における、ソ連 それん およびソ連 それん をモデルとした政府 せいふ 下 か のその他 た 国 こく 々
戦後 せんご ソ連 それん はドイツの支配 しはい からソ連 それん の支配 しはい 圏 けん とした東 ひがし ヨーロッパ諸国 しょこく の反対 はんたい 派 は を粛清 しゅくせい し、スターリン主義 しゅぎ 的 てき な社会 しゃかい 主義 しゅぎ 政権 せいけん を導入 どうにゅう しこれらをソ連 それん の衛星 えいせい 国 こく とした。ワルシャワ条約 じょうやく 機構 きこう などにおける東側 ひがしがわ 諸国 しょこく のリーダーとして、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく をリーダーとする資本 しほん 主義 しゅぎ (西側 にしがわ 諸国 しょこく )陣営 じんえい に対抗 たいこう した。スターリン政権 せいけん 下 か ではベルリン封鎖 ふうさ などの行動 こうどう や朝鮮 ちょうせん 戦争 せんそう などの世界 せかい 各地 かくち での代理 だいり 戦争 せんそう という形 かたち で冷戦 れいせん と呼 よ ばれる対立 たいりつ 関係 かんけい が形成 けいせい された。
1953年 ねん 、スターリンが死去 しきょ し、ゲオルギー・マレンコフとニキータ・フルシチョフによる共同 きょうどう 指導 しどう 体制 たいせい が始 はじ まった。スターリン体制 たいせい 下 か で恐怖 きょうふ 政治 せいじ の主導 しゅどう 者 しゃ となったラヴレンチー・ベリヤ は処刑 しょけい され、スターリン路線 ろせん の行 い き過 す ぎた独裁 どくさい 政策 せいさく が大幅 おおはば に緩和 かんわ された。1955年 ねん にはマレンコフが失脚 しっきゃく し、フルシチョフによる指導 しどう 体制 たいせい が確立 かくりつ した。1956年 ねん にはスターリン批判 ひはん を行 おこな い、大 だい 粛清 しゅくせい への告発 こくはつ と、スターリン体制 たいせい からの決別 けつべつ が表明 ひょうめい された。これは東欧 とうおう 諸国 しょこく にも強 つよ い衝撃 しょうげき を与 あた え、各国 かっこく では政治 せいじ 改革 かいかく の動 うご きや反 はん 体制 たいせい 運動 うんどう (ポズナン暴動 ぼうどう など)が発生 はっせい したが、ハンガリー動乱 どうらん には武力 ぶりょく 介入 かいにゅう してこれを鎮圧 ちんあつ した。反対 はんたい 派 は を殺害 さつがい ・処刑 しょけい ・投獄 とうごく し、各国 かっこく 政権 せいけん に圧力 あつりょく をかけ収拾 しゅうしゅう させた。一方 いっぽう で、スターリン批判 ひはん は中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく の反発 はんぱつ を招 まね き、中 ちゅう ソ対立 たいりつ が進行 しんこう することになった。アルバニア のエンヴェル・ホッジャ もスターリン批判 ひはん を行 おこな ったソ連 それん を非難 ひなん し、ワルシャワ条約 じょうやく 機構 きこう を脱退 だったい することに至 いた る。朝鮮民主主義人民共和国 ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく ではソ連 それん 型 がた の社会 しゃかい 主義 しゅぎ 体制 たいせい を目指 めざ すソ連 それん 派 は が金 きむ 日成 いるそん 排除 はいじょ のクーデターを画策 かくさく するが、失敗 しっぱい し、勢力 せいりょく が一掃 いっそう された。
フルシチョフ時代 じだい にも軍拡 ぐんかく は推 お し進 すす められており、核兵器 かくへいき とミサイル兵器 へいき の配備 はいび が進 すす んでいた。1962年 ねん のキューバ危機 きき は核 かく 戦争 せんそう の危機 きき を世界 せかい に知 し らしめることになり、その後 ご はアメリカとの関係 かんけい は改善 かいぜん が進 すす んだ(雪解 ゆきど け(英語 えいご 版 ばん ) )。しかしベトナム戦争 せんそう やアフリカ ・南 みなみ アメリカ での、代理 だいり 戦争 せんそう と呼 よ ばれる紛争 ふんそう は継続 けいぞく していた。
フルシチョフは食料 しょくりょう 生産 せいさん に力 ちから を注 そそ ぎ一時 いちじ 的 てき には大 おお きな成功 せいこう を収 おさ めるものの、あまりにも急 きゅう な農業 のうぎょう 生産 せいさん の拡大 かくだい により農地 のうち の非 ひ 栄養 えいよう 化 か 、砂漠 さばく 化 か が進 すす んだ結果 けっか 、ソ連 それん は食料 しょくりょう を国外 こくがい から輸入 ゆにゅう しなければならない事態 じたい に追 お い込 こ まれた。
1979年 ねん 6月 がつ 18日 にち 、第 だい 二 に 次 じ 戦略 せんりゃく 兵器 へいき 制限 せいげん 交渉 こうしょう (SALT II) の調印 ちょういん を行 おこな うレオニード・ブレジネフ・ソ連 れん 書記 しょき 長 ちょう およびジミー・カーター 米 べい 大統領 だいとうりょう
1964年 ねん に、フルシチョフは農業 のうぎょう 政策 せいさく の失敗 しっぱい と西側 にしがわ 諸国 しょこく に対 たい して寛容 かんよう な政策 せいさく をとったことを理由 りゆう に失脚 しっきゃく させられた。代 か わってレオニード・ブレジネフが指導 しどう 者 しゃ となった。しかし中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく とは、中 ちゅう ソ対立 たいりつ が激化 げきか したことによって、両国 りょうこく の関係 かんけい はほぼ断絶 だんぜつ 状態 じょうたい に近 ちか くなり、1970年代 ねんだい には米 べい 中 ちゅう 国交 こっこう 正常 せいじょう 化 か による中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく の西側 にしがわ への接近 せっきん を許 ゆる すことになった。ソ連 それん は東欧 とうおう 諸国 しょこく を勢力 せいりょく 圏 けん 下 か に置 お き続 つづ けるため、1968年 ねん には「制限 せいげん 主権 しゅけん 論 ろん (いわゆるブレジネフ・ドクトリン)」の名 な の下 した にチェコスロバキア社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく の民主 みんしゅ 的 てき 改革 かいかく (プラハの春 はる )に対 たい して介入 かいにゅう し、ソ連 それん は強 つよ い国際 こくさい 社会 しゃかい の批判 ひはん を浴 あ びるようになった。この状況 じょうきょう でソ連 それん は西側 にしがわ 諸国 しょこく との協調 きょうちょう を図 はか るようになり(デタント )、戦略 せんりゃく 兵器 へいき 制限 せいげん 交渉 こうしょう などが行 おこな われた。
プラハの春 はる を武力 ぶりょく で弾圧 だんあつ した事実 じじつ は、同 おな じ共産 きょうさん 主義 しゅぎ 陣営 じんえい の中 なか にも動揺 どうよう を生 う んだ。中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく はソ連 それん を「社会 しゃかい 帝国 ていこく 主義 しゅぎ 」と批判 ひはん し、ルーマニア社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく のニコラエ・チャウシェスク も同様 どうよう にソ連 それん を批判 ひはん して西側 にしがわ 諸国 しょこく に接近 せっきん し、独自 どくじ 外交 がいこう を展開 てんかい 。1973年 ねん のチリ・クーデター 後 のち に誕生 たんじょう したアウグスト・ピノチェト 政権 せいけん に対 たい してソ連 それん を中心 ちゅうしん とした東側 ひがしがわ 諸国 しょこく が国交 こっこう 断絶 だんぜつ を行 おこな う中 なか で、中国 ちゅうごく とルーマニアは関係 かんけい を維持 いじ し続 つづ けた。西側 にしがわ 諸国 しょこく の共産党 きょうさんとう においてもイタリア共産党 きょうさんとう やスペイン共産党 きょうさんとう がソ連 それん 型 がた 社会 しゃかい 主義 しゅぎ と決別 けつべつ するユーロコミュニズム を採択 さいたく するなど、国際 こくさい 共産 きょうさん 主義 しゅぎ 運動 うんどう は分裂 ぶんれつ 状態 じょうたい に陥 おちい った。
1963年 ねん 2月 がつ 、仏 ふつ ソ通商 つうしょう 条約 じょうやく 。1965年 ねん 、仏 ふつ ソ原子力 げんしりょく 平和 へいわ 利用 りよう 協定 きょうてい 。そしてベトナム戦争 せんそう でホー・チ・ミン 率 ひき いる北 きた ベトナム を支援 しえん した(旧 きゅう フランス領 りょう インドシナ )。1969年 ねん にはかねて対立 たいりつ していた中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく と珍宝 ちんぽう 島 とう /ダマンスキー島 とう をめぐって中 ちゅう ソ国境 こっきょう 紛争 ふんそう を戦 たたか った。1970年 ねん 1月 がつ にイタリア と、2月 がつ には西 にし ドイツ と貿易 ぼうえき 協定 きょうてい 。1971年 ねん 3月 がつ 、仏 ふつ ソウラン 協定 きょうてい 。10月、仏 ふつ ソ共同 きょうどう 宣言 せんげん ・仏 ふつ ソ新 しん 経済 けいざい 協力 きょうりょく 協定 きょうてい 。1972年 ねん 、ソ連 それん は凶作 きょうさく のため穀物 こくもつ メジャー を頼 たよ った。1974年 ねん 5月 がつ 、英 えい ソ経済 けいざい 協力 きょうりょく 協定 きょうてい 。12月、仏 ふつ ソ首脳 しゅのう 会談 かいだん で経済 けいざい 協力 きょうりょく 5カ年 かねん 協定 きょうてい 。1975年 ねん 1月 がつ 、米 べい ソ通商 つうしょう 協定 きょうてい 破棄 はき を通告 つうこく 。10月、米 べい ソ穀物 こくもつ 協定 きょうてい 。1976年 ねん 3月 がつ 、日米 にちべい ソ3か国 こく がヤクート 天然 てんねん ガス探査 たんさ 協定 きょうてい 。11月、米 べい ソ漁業 ぎょぎょう 協定 きょうてい 。1977年 ねん 3月 がつ 、排他 はいた 的 てき 経済 けいざい 水域 すいいき を実施 じっし [ 74] 。
1979年 ねん 12月、ソ連 それん はアフガニスタン の共産 きょうさん 主義 しゅぎ 政権 せいけん がソ連 それん と距離 きょり を取 と ろうとしていると見 み なして、アフガニスタンへの侵攻 しんこう を行 おこな った。これはパキスタン 、サウジアラビア 、イラン などといった一部 いちぶ のイスラム諸国 しょこく および西側 にしがわ 諸国 しょこく 、中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく による猛 もう 反発 はんぱつ を受 う け、翌年 よくねん に行 おこな われたモスクワオリンピック の大量 たいりょう ボイコットを招 まね き、デタントの流 なが れは終焉 しゅうえん した。アメリカはチャーリー・ウィルソン らCIA の支援 しえん の下 した でイスラム・ゲリラに対 たい して支援 しえん を行 おこな い、アフガニスタンでの戦闘 せんとう は泥沼 どろぬま 化 か して1989年 ねん まで続 つづ き、国際 こくさい 社会 しゃかい からの孤立 こりつ を招 まね いただけでなく、多大 ただい な人命 じんめい と戦費 せんぴ の損失 そんしつ を招 まね いた。さらにソ連 それん を「悪 あく の帝国 ていこく 」と名指 なざ しで批判 ひはん するロナルド・レーガン 大統領 だいとうりょう 政権 せいけん 下 か のアメリカとの軍拡 ぐんかく 競争 きょうそう がさらに激化 げきか するようになった。1983年 ねん 9月 がつ には大韓航空 だいかんこうくう 機 き 撃墜 げきつい 事件 じけん が発生 はっせい したことで西側 にしがわ 諸国 しょこく との緊張 きんちょう はさらに増 ま した。
ブレジネフ政権 せいけん は18年 ねん にわたった長期 ちょうき 政権 せいけん だった。停滞 ていたい しつつも安定 あんてい し、ソ連 それん の歴史 れきし 上 じょう 、初 はじ めて飢餓 きが も騒擾 そうじょう 事件 じけん も粛清 しゅくせい もなくなった。その代 か わり、改革 かいかく はまるで行 おこな われず官僚 かんりょう 主義 しゅぎ による党 とう 官僚 かんりょう の特権 とっけん 階級 かいきゅう 化 か (ノーメンクラトゥーラ )、ブレジネフ一族 いちぞく の縁故 えんこ 主義 しゅぎ など体制 たいせい の腐敗 ふはい が進 すす んだ。経済 けいざい 面 めん でも、1960年代 ねんだい ごろまで10%を誇 ほこ った成長 せいちょう 率 りつ は次第 しだい に鈍化 どんか していった。そのツケは国民 こくみん 生活 せいかつ に回 まわ り、食料 しょくりょう や燃料 ねんりょう 、生活 せいかつ 必需 ひつじゅ 品 ひん の配給 はいきゅう や販売 はんばい が滞 とどこお るようになった。改革 かいかく 開放 かいほう を始 はじ めた中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく を除 のぞ き、東側 ひがしがわ 諸国 しょこく 全体 ぜんたい の経済 けいざい も1970年代 ねんだい 後半 こうはん から停滞 ていたい していく事 こと になる。1980年代 ねんだい に入 はい り西側 にしがわ 諸国 しょこく の豊 ゆた かな生活 せいかつ の情報 じょうほう がソ連 それん 国内 こくない で入手 にゅうしゅ できるようになると、国民 こくみん は体制 たいせい への不満 ふまん と自由 じゆう な西側 にしがわ への憧 あこが れを強 つよ めていくことになる。小麦 こむぎ の生産 せいさん 量 りょう は世界一 せかいいち だった農業 のうぎょう も慢性 まんせい 的 てき な不振 ふしん となり、小麦 こむぎ をアメリカから輸入 ゆにゅう することが恒常 こうじょう 化 か した。しかしデタントの終焉 しゅうえん 後 ご は穀物 こくもつ 輸入 ゆにゅう も逼迫 ひっぱく し、さらに経済 けいざい の悪化 あっか を招 まね いた。技術 ぎじゅつ 競争 きょうそう でもアメリカや日本 にっぽん に大 おお きな遅 おく れをとるようになり、ソ連 それん 崩壊 ほうかい の直前 ちょくぜん はGNP も日本 にっぽん に抜 ぬ かれて3位 い となる。
ロナルド・レーガン 米 べい 大統領 だいとうりょう と1対 たい 1で会談 かいだん を行 おこな うミハイル・ゴルバチョフ 書記 しょき 長 ちょう
1982年 ねん に死去 しきょ したブレジネフの後継 こうけい 者 しゃ となったユーリ・アンドロポフ 、コンスタンティン・チェルネンコ と老齢 ろうれい の指導 しどう 者 しゃ が相次 あいつ いで政権 せいけん の座 ざ に就 つ いた。しかし、共 とも に就任 しゅうにん 後 ご 間 あいだ もなく闘病 とうびょう 生活 せいかつ に入 はい りそのまま病死 びょうし したため、経済 けいざい 問題 もんだい を中心 ちゅうしん とした内政 ないせい のみならず、外交 がいこう やアフガニスタン問題 もんだい についてさえも具体 ぐたい 的 てき な政策 せいさく をほとんど実行 じっこう に移 うつ せず、ブレジネフ体制 たいせい 以来 いらい の長老 ちょうろう 支配 しはい を内外 ないがい に印象 いんしょう づけることになった。
その後 ご 、この両 りょう 名 な の時代 じだい においてますます深刻 しんこく 化 か した経済 けいざい 的 てき 危機 きき を打開 だかい すべく、1985年 ねん 3月 がつ に誕生 たんじょう したミハイル・ゴルバチョフ 政権 せいけん は社会 しゃかい 主義 しゅぎ 体制 たいせい の改革 かいかく ・刷新 さっしん を掲 かか げ、ペレストロイカ (改革 かいかく )を推 お し進 すす めた。ゴルバチョフの選出 せんしゅつ は一 いち 晩 ばん かけての会議 かいぎ で決定 けってい された。
これにより長 ちょう きにわたった一 いち 党 とう 独裁 どくさい 体制 たいせい 下 か で腐敗 ふはい した政治 せいじ 体制 たいせい の改革 かいかく が進 すす められた。1988年 ねん にはそれまでのソ連 それん 最高 さいこう 会議 かいぎ に代 か わり人民 じんみん 代議員 だいぎいん 大会 たいかい 創設 そうせつ が決定 けってい され、翌年 よくねん 3月 がつ 26日 にち にはソ連 それん 初 はつ の民主 みんしゅ 的 てき 選挙 せんきょ である第 だい 1回 かい 人民 じんみん 代議員 だいぎいん 大会 たいかい 選挙 せんきょ が実施 じっし された。ゴルバチョフは人民 じんみん 代議員 だいぎいん を国民 こくみん の直接 ちょくせつ 選挙 せんきょ で選 えら ばせることによって、改革 かいかく の支障 ししょう となっていた保守 ほしゅ 官僚 かんりょう (アパラチキ)を一掃 いっそう しようと試 こころ みた。1986年 ねん 4月 がつ に発生 はっせい したチェルノブイリ原子力 げんしりょく 発電 はつでん 所 しょ 事故 じこ の対応 たいおう の遅 おく れと隠蔽 いんぺい によってソ連 それん の深刻 しんこく な官僚 かんりょう 主義 しゅぎ 体質 たいしつ が露呈 ろてい すると、ゴルバチョフはグラスノスチを本格 ほんかく 化 か させ、情報 じょうほう 統制 とうせい の緩和 かんわ を進 すす めた。これを受 う けて、ソ連 それん 国民 こくみん の間 あいだ では歴史 れきし の見直 みなお しや、活発 かっぱつ な政治 せいじ 討論 とうろん などが行 おこな われるようになった。
グラスノスチの進展 しんてん にともない国民 こくみん の間 あいだ では民主 みんしゅ 化 か 要求 ようきゅう が拡大 かくだい 、それを受 う けてソ連 それん 共産党 きょうさんとう の指導 しどう 的 てき 役割 やくわり を定 さだ めたソ連 それん 憲法 けんぽう 第 だい 6条 じょう は削除 さくじょ され、1990年 ねん にはソ連 それん 共産党 きょうさんとう による一 いち 党 とう 独裁 どくさい 制 せい の放棄 ほうき 、そして複数 ふくすう 政党 せいとう 制 せい と大統領 だいとうりょう 制 せい の導入 どうにゅう が決定 けってい された。同年 どうねん 3月 がつ 15日 にち 、人民 じんみん 代議員 だいぎいん による間接 かんせつ 選挙 せんきょ によって、ゴルバチョフが初代 しょだい ソ連 それん 大統領 だいとうりょう に選出 せんしゅつ された。同 どう 時期 じき に当局 とうきょく の検閲 けんえつ を廃止 はいし した新聞 しんぶん 法 ほう が制定 せいてい された。
しかし、これらの一連 いちれん の政治 せいじ 経済 けいざい 改革 かいかく は一定 いってい の成果 せいか を上 あ げた反面 はんめん 、改革 かいかく の範囲 はんい やスピードをめぐってソ連 それん 共産党 きょうさんとう 内 ない の内部 ないぶ 抗 こう 争 そう を激化 げきか させた。特 とく に保守 ほしゅ 派 は は、改革 かいかく の進展 しんてん により軍 ぐん 産 さん 複 ふく 合体 がったい など自 みずか らの既得 きとく 権益 けんえき が失 うしな われることに強 つよ く反発 はんぱつ した。そして、共産党 きょうさんとう はエリツィンら急進 きゅうしん 改革 かいかく 派 は とゴルバチョフら穏健 おんけん 改革 かいかく 派 は 、そして保守 ほしゅ 派 は のグループに分裂 ぶんれつ した。党内 とうない の分裂 ぶんれつ もあって国内 こくない の経済 けいざい 改革 かいかく は遅々 ちち としたものとなり、経済 けいざい 危機 きき を一層 いっそう 深刻 しんこく 化 か させた。こうした状況 じょうきょう の中 なか でエリツィン は保守 ほしゅ 派 は が幅 はば を利 き かせる共産党 きょうさんとう に見切 みき りをつけ、1990年 ねん 7月 がつ のソ連 それん 共産党 きょうさんとう 第 だい 28回 かい 大会 たいかい を機 き に離党 りとう し、ポポフ 、サプチャーク 、アファナーシェフ 、サハロフ らとともに非 ひ 共産党 きょうさんとう 系 けい の政治 せいじ 組織 そしき である地域 ちいき 間 あいだ 代議員 だいぎいん グループ を結成 けっせい 、共産党 きょうさんとう に対抗 たいこう した。一方 いっぽう 、穏健 おんけん 改革 かいかく 派 は のゴルバチョフは保守 ほしゅ 派 は と急進 きゅうしん 改革 かいかく 派 は の板挟 いたばさ みになり、抜本 ばっぽん 的 てき な改革 かいかく を推進 すいしん できなかった。
従来 じゅうらい の中央 ちゅうおう 集権 しゅうけん 型 がた の指令 しれい 経済 けいざい を破棄 はき し、市場 いちば メカニズムを導入 どうにゅう することが図 はか られたが、保守 ほしゅ 派 は の抵抗 ていこう などで経済 けいざい 改革 かいかく は遅 おく れ、国内 こくない ではインフレ と物 もの 不足 ふそく が深刻 しんこく 化 か した。市民 しみん の間 あいだ では、事態 じたい を打開 だかい できないゴルバチョフらソ連 それん 共産党 きょうさんとう に対 たい する批判 ひはん が高 たか まった。こうした国民 こくみん の不満 ふまん を吸収 きゅうしゅう したのがエリツィンら急進 きゅうしん 改革 かいかく 派 は である。1991年 ねん 6月 がつ 12日 にち にはロシア共和 きょうわ 国 こく 大統領 だいとうりょう 選挙 せんきょ が実施 じっし されてエリツィン・ロシア共和 きょうわ 国 こく 最高 さいこう 会議 かいぎ (ロシア語 ご 版 ばん ) 議長 ぎちょう が当選 とうせん し、7月 がつ 10日 とおか に就任 しゅうにん した。ロシア共和 きょうわ 国 こく 大統領 だいとうりょう 選挙 せんきょ と同日 どうじつ にモスクワ市長 しちょう 選挙 せんきょ 、レニングラード 市長 しちょう 選挙 せんきょ がそれぞれ実施 じっし され、ポポフがモスクワ市長 しちょう に、サプチャークがレニングラード市長 しちょう に当選 とうせん した。こうした急進 きゅうしん 改革 かいかく 派 は の躍進 やくしん は保守 ほしゅ 派 は を焦 じ らせ、のちの8月 がつ クーデター へと駆 か り立 た てる要因 よういん の一 ひと つとなった。
民族 みんぞく 問題 もんだい の再燃 さいねん と連邦 れんぽう 制 せい の動揺 どうよう
編集 へんしゅう
ペレストロイカは東西 とうざい の緊張 きんちょう 緩和 かんわ や東欧 とうおう 民主 みんしゅ 化 か 、そしてソ連 それん 国内 こくない の政治 せいじ 改革 かいかく において大 おお きな成果 せいか を上 あ げたものの、改革 かいかく が進 すす むにつれて共産党 きょうさんとう 権力 けんりょく の弱体 じゃくたい 化 か と、連邦 れんぽう 政府 せいふ の各 かく 共和 きょうわ 国 こく に対 たい する統制 とうせい 力 りょく の低下 ていか という事態 じたい を招 まね いた。こうした中 なか で、国内 こくない では封印 ふういん されていた民族 みんぞく 問題 もんだい の先鋭 せんえい 化 か と各 かく 共和 きょうわ 国 こく の主権 しゅけん 拡大 かくだい を要求 ようきゅう する動 うご きが生 う まれた。
1986年 ねん 12月にはペレストロイカ開始 かいし 後 ご 初 はじ めての民族 みんぞく 暴動 ぼうどう であるアルマアタ事件 じけん がカザフ共和 きょうわ 国 こく で発生 はっせい した。1988年 ねん からはナゴルノ・カラバフ自治 じち 州 しゅう の帰属 きぞく をめぐってアルメニア共和 きょうわ 国 こく とアゼルバイジャン共和 きょうわ 国 こく との間 あいだ に大 だい 規模 きぼ な紛争 ふんそう が発生 はっせい 、グルジア やモルダヴィア共和 きょうわ 国 こく でも民族 みんぞく 間 あいだ の衝突 しょうとつ が起 お きた。
1990年 ねん 3月 がつ 11日 にち には反 はん ソ連 それん の急先鋒 きゅうせんぽう と見 み られていたバルト3国 こく のリトアニア共和 きょうわ 国 こく が連邦 れんぽう からの独立 どくりつ を宣言 せんげん 、ゴルバチョフ政権 せいけん は経済 けいざい 制裁 せいさい を実施 じっし し、宣言 せんげん を撤回 てっかい させたものの、同年 どうねん 3月 がつ 30日 にち にはエストニア共和 きょうわ 国 こく が、5月4日 にち にはラトビア共和 きょうわ 国 こく が独立 どくりつ を宣言 せんげん した。1990年 ねん 5月 がつ 29日 にち にはロシア連邦 れんぽう 共和 きょうわ 国 こく 最高 さいこう 会議 かいぎ 議長 ぎちょう に急進 きゅうしん 改革 かいかく 派 は のエリツィンが当選 とうせん 、同年 どうねん 6月 がつ 12日 にち にはロシア連邦 れんぽう 共和 きょうわ 国 こく が、7月 がつ 16日 にち にはウクライナ共和 きょうわ 国 こく が共和 きょうわ 国 こく の主権 しゅけん は連邦 れんぽう の主権 しゅけん に優越 ゆうえつ するという国家 こっか 主権 しゅけん 宣言 せんげん を行 おこな い、各 かく 共和 きょうわ 国 こく もこれに続 つづ いた。こうした民族 みんぞく 運動 うんどう の高揚 こうよう と連邦 れんぽう からの自立 じりつ を求 もと める各 かく 共和 きょうわ 国 こく の動 うご きは、ゴルバチョフ自身 じしん が推進 すいしん したペレストロイカとグラスノスチによって引 ひ き起 お こされたと言 い える半面 はんめん 、連邦 れんぽう 最高 さいこう 会議 かいぎ で保守 ほしゅ 派 は との抗 こう 争 そう に敗 やぶ れた急進 きゅうしん 改革 かいかく 派 は が各 かく 共和 きょうわ 国 こく の最高 さいこう 会議 かいぎ に移 うつ り、そこでそれらの運動 うんどう を指揮 しき しているという側面 そくめん もあった。特 とく にソ連 それん の全 ぜん 面積 めんせき の76%、全 ぜん 人口 じんこう の51%、そして他 た の共和 きょうわ 国 こく と比較 ひかく して圧倒的 あっとうてき な経済 けいざい 力 りょく を擁 よう するロシア共和 きょうわ 国 こく の元首 げんしゅ に急進 きゅうしん 改革 かいかく 派 は のエリツィンが就任 しゅうにん したことは大 おお きな意味 いみ を持 も っていた。
従来 じゅうらい の中央 ちゅうおう 集権 しゅうけん 型 がた の連邦 れんぽう 制 せい が動揺 どうよう する中 なか でゴルバチョフは連邦 れんぽう が有 ゆう していた権限 けんげん を各 かく 共和 きょうわ 国 こく へ大幅 おおはば に移譲 いじょう し、主権 しゅけん 国家 こっか の連合 れんごう として連邦 れんぽう を再編 さいへん するという新 しん 構想 こうそう を明 あき らかにした。その上 うえ でまず枠組 わくぐ みとなる新 しん 連邦 れんぽう 条約 じょうやく を締結 ていけつ するため各 かく 共和 きょうわ 国 こく との調整 ちょうせい を進 すす めた。1991年 ねん 3月 がつ 17日 にち には新 しん 連邦 れんぽう 条約 じょうやく 締結 ていけつ の布石 ふせき として連邦 れんぽう 制 せい 維持 いじ の賛否 さんぴ を問 と う国民 こくみん 投票 とうひょう が各 かく 共和 きょうわ 国 こく で行 おこな われ、投票 とうひょう 者 しゃ の76.4%が連邦 れんぽう 制 せい 維持 いじ に賛成 さんせい 票 ひょう を投 とう じることとなった[ 注釈 ちゅうしゃく 9] 。この国民 こくみん 投票 とうひょう の結果 けっか を受 う け4月 がつ 23日 にち 、ゴルバチョフ・ソ連 それん 大統領 だいとうりょう と国民 こくみん 投票 とうひょう に参加 さんか した9共和 きょうわ 国 こく の元首 げんしゅ が集 あつ まり、その後 ご 、各 かく 共和 きょうわ 国 こく との間 あいだ に新 しん 連邦 れんぽう 条約 じょうやく を締結 ていけつ し、連邦 れんぽう を構成 こうせい する各 かく 共和 きょうわ 国 こく への大幅 おおはば な権限 けんげん 委譲 いじょう と連邦 れんぽう の再編 さいへん を行 おこな うことで合意 ごうい した。その際 さい 、国名 こくめい をそれまでの「ソビエト社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく 連邦 れんぽう 」から社会 しゃかい 主義 しゅぎ の文字 もじ を廃止 はいし し、「ソビエト主権 しゅけん 共和 きょうわ 国 こく 連邦 れんぽう 」に変更 へんこう することも決定 けってい された。
冷戦 れいせん 終結 しゅうけつ 後 ご の国境 こっきょう の変化 へんか
1987年 ねん 12月にはアメリカとの間 あいだ で中距離 ちゅうきょり 核 かく 戦力 せんりょく 全廃 ぜんぱい 条約 じょうやく が締結 ていけつ され、翌 よく 1988年 ねん 5月 がつ からはソ連 それん 軍 ぐん がアフガニスタンから撤退 てったい を開始 かいし した。同時 どうじ に東欧 とうおう 各国 かっこく に駐留 ちゅうりゅう していたソ連 それん 軍 ぐん の一部 いちぶ も、本国 ほんごく への引 ひ き上 あ げを行 おこな った。
ゴルバチョフは1988年 ねん 3月 がつ の新 しん ベオグラード宣言 せんげん の中 なか でブレジネフ・ドクトリン の否定 ひてい 、東欧 とうおう 諸国 しょこく へのソ連 それん の内政 ないせい 不干渉 ふかんしょう を表明 ひょうめい していたが、これを受 う け1989年 ねん から1990年 ねん にかけてドイツ民主 みんしゅ 共和 きょうわ 国 こく (東 ひがし ドイツ)やハンガリー人民 じんみん 共和 きょうわ 国 こく 、ポーランド人民 じんみん 共和 きょうわ 国 こく やチェコスロバキアなどの衛星 えいせい 国 こく が相次 あいつ いで民主 みんしゅ 化 か を達成 たっせい した。そのほとんどは事実 じじつ 上 じょう の無血 むけつ 革命 かくめい であったが、ルーマニアでは一時 いちじ 的 てき に体制 たいせい 派 は と改革 かいかく 派 は の間 あいだ で戦闘 せんとう 状態 じょうたい となり、長年 ながねん 独裁 どくさい 体制 たいせい を強 し いてきたニコラエ・チャウシェスク 大統領 だいとうりょう が処刑 しょけい され、流血 りゅうけつ の革命 かくめい となった。ソビエト連邦 れんぽう はかつてのハンガリー動乱 どうらん やプラハの春 はる の時 とき とは異 こと なり、これらの衛星 えいせい 国 こく における改革 かいかく に対 たい して不 ふ 介入 かいにゅう を表明 ひょうめい し、これらの政府 せいふ による国民 こくみん に対 たい する武力 ぶりょく 行使 こうし に対 たい しては明確 めいかく に嫌悪 けんお 感 かん を示 しめ した。
このような流 なが れの中 なか で、ソビエト連邦 れんぽう を含 ふく む東側 ひがしがわ 諸国 しょこく の相次 あいつ ぐ民主 みんしゅ 化 か により東西 とうざい の冷戦 れいせん 構造 こうぞう は事実 じじつ 上 じょう 崩壊 ほうかい し、これらの動 うご きを受 う けて1989年 ねん 12月2日 にち から12月3日 にち にかけて地中海 ちちゅうかい のマルタ でゴルバチョフとアメリカ大統領 だいとうりょう のジョージ・H・W・ブッシュ が会談 かいだん し、正式 せいしき に冷戦 れいせん の終結 しゅうけつ を宣言 せんげん した(マルタ会談 かいだん )。
国内 こくない では1991年 ねん 8月 がつ 20日 はつか の新 しん 連邦 れんぽう 条約 じょうやく 締結 ていけつ に向 む けて準備 じゅんび が進 すす められていた。しかし、新 しん 連邦 れんぽう 条約 じょうやく 締結 ていけつ が各 かく 共和 きょうわ 国 こく の独立 どくりつ と自 みずか らの権力 けんりょく 基盤 きばん の喪失 そうしつ に結 むす びつくことを危惧 きぐ したゲンナジー・ヤナーエフ 副 ふく 大統領 だいとうりょう 、ウラジーミル・クリュチコフ KGB議長 ぎちょう 、ドミトリー・ヤゾフ 国防 こくぼう 相 しょう ら8人 にん のソ連 それん 共産党 きょうさんとう 中央 ちゅうおう 委員 いいん 会 かい メンバーらによって条約 じょうやく 締結 ていけつ を目前 もくぜん に控 ひか えた8月 がつ 19日 にち にクーデターが発生 はっせい 、ゴルバチョフを軟禁 なんきん して条約 じょうやく 締結 ていけつ 阻止 そし を試 こころ みたものの、ボリス・エリツィンら改革 かいかく 派 は がこれに抵抗 ていこう し、さらに軍 ぐん や国民 こくみん の多 おお く、加 くわ えてアメリカやフランス、日本 にっぽん やイギリスなどの西側 にしがわ 諸国 しょこく の大半 たいはん もクーデターを支持 しじ しなかったことから完全 かんぜん に失敗 しっぱい に終 お わった。
クーデターの失敗 しっぱい によって新 しん 連邦 れんぽう 条約 じょうやく 締結 ていけつ は挫折 ざせつ 、クーデターを起 お こしたソ連 それん 共産党 きょうさんとう 中央 ちゅうおう 委員 いいん 会 かい メンバーらは逮捕 たいほ された。クーデターを起 お こしたメンバーはいずれも共産党 きょうさんとう の主要 しゅよう 幹部 かんぶ でゴルバチョフの直属 ちょくぞく の部下 ぶか だったこともあり、共産党 きょうさんとう とゴルバチョフの権威 けんい は失墜 しっつい した。8月24日 にち 、ゴルバチョフは共産党 きょうさんとう 書記 しょき 長 ちょう を辞任 じにん し、同時 どうじ に共産党 きょうさんとう 中央 ちゅうおう 委員 いいん 会 かい の解散 かいさん を勧告 かんこく 、8月 がつ 28日 にち 、ソ連 それん 最高 さいこう 会議 かいぎ はソ連 それん 共産党 きょうさんとう の活動 かつどう を全面 ぜんめん 的 てき に禁止 きんし する決議 けつぎ を採択 さいたく し、同 どう 党 とう は事実 じじつ 上 じょう の解体 かいたい に追 お い込 こ まれた。
連邦 れんぽう 政府 せいふ の中核 ちゅうかく を担 にな い、そして連邦 れんぽう を一 ひと つにまとめ上 あ げてきたソ連 それん 共産党 きょうさんとう が解体 かいたい されたことにより、各 かく 共和 きょうわ 国 こく を統制 とうせい することができる政府 せいふ 組織 そしき は存在 そんざい しなくなり、各 かく 共和 きょうわ 国 こく の元首 げんしゅ が独自 どくじ に権力 けんりょく を持 も つようになった。そしてこれ以後 いご 、実権 じっけん は各 かく 共和 きょうわ 国 こく の元首 げんしゅ から構成 こうせい される国家 こっか 評議 ひょうぎ 会 かい に移 うつ っていくことになる。
9月6日 にち 、国家 こっか 評議 ひょうぎ 会 かい はバルト三 さん 国 こく の独立 どくりつ を承認 しょうにん した。新 しん 連邦 れんぽう 条約 じょうやく 締結 ていけつ に失敗 しっぱい したゴルバチョフ・ソ連 それん 大統領 だいとうりょう はこの間 あいだ も連邦 れんぽう 制 せい 維持 いじ に奔走 ほんそう し、11月14日 にち 、ロシア共和 きょうわ 国 こく とベラルーシ共和 きょうわ 国 こく 、そして中央 ちゅうおう アジア の五 いつ つの共和 きょうわ 国 こく の元首 げんしゅ との間 あいだ で主権 しゅけん 国家 こっか 連邦 れんぽう を創設 そうせつ することで合意 ごうい 、また連邦 れんぽう への加盟 かめい を拒 こば んでいる残 のこ りの共和 きょうわ 国 こく への説得 せっとく を続 つづ けた。しかし12月1日 にち にはウクライナ共和 きょうわ 国 こく で独立 どくりつ の是非 ぜひ を問 と う国民 こくみん 投票 とうひょう が実施 じっし され、投票 とうひょう 者 しゃ の90.3%が独立 どくりつ を支持 しじ 、当初 とうしょ は連邦 れんぽう 制 せい 維持 いじ に賛成 さんせい していたエリツィン・ロシア連邦 れんぽう 共和 きょうわ 国 こく 大統領 だいとうりょう も、5000万 まん の人口 じんこう を擁 よう しソ連 それん 第 だい 2位 い の工業 こうぎょう 国 こく であるウクライナが加盟 かめい しない主権 しゅけん 国家 こっか 連邦 れんぽう に、ロシア共和 きょうわ 国 こく が加入 かにゅう することは利益 りえき にならないとして、12月3日 にち にウクライナ独立 どくりつ を承認 しょうにん しソ連 それん 崩壊 ほうかい の流 なが れを決定 けってい づけた。
同年 どうねん 12月 がつ 8日 にち のベロヴェーシ合意 ごうい において、ロシア、ウクライナ 、白 はく ロシア(ベラルーシ )が連邦 れんぽう を離脱 りだつ して、新 あら たに独立 どくりつ 国家 こっか 共同 きょうどう 体 たい (CIS)を創設 そうせつ し、残 のこ る諸国 しょこく もそれにならってCISに加入 かにゅう した。12月17日 にち 、ゴルバチョフ大統領 だいとうりょう は1991年 ねん 中 ちゅう に連邦 れんぽう 政府 せいふ が活動 かつどう を停止 ていし することを宣言 せんげん 。12月21日 にち 、グルジアとすでに独立 どくりつ したバルト三 さん 国 こく を除 のぞ く11のソ連 それん 構成 こうせい 共和 きょうわ 国 こく 元首 げんしゅ がCIS発足 ほっそく やソ連 それん 解体 かいたい を決議 けつぎ したアルマアタ宣言 せんげん を採択 さいたく 、これを受 う けて12月25日 にち にゴルバチョフはソ連 それん 大統領 だいとうりょう を辞任 じにん し、翌日 よくじつ には最高 さいこう 会議 かいぎ も連邦 れんぽう の解体 かいたい を宣言 せんげん 、ソビエト連邦 れんぽう は崩壊 ほうかい した。
ソビエト連邦 れんぽう は、ソビエト社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく (Советская Социалистическая Республика 通称 つうしょう ССР )の連合体 れんごうたい として成立 せいりつ したという特異 とくい な事情 じじょう が存在 そんざい し、そのためソ連邦 それんぽう の領土 りょうど というのはソ連邦 それんぽう の領土 りょうど であると同時 どうじ にソビエト社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく (以下 いか 「構成 こうせい 国 こく 」)の領土 りょうど でもあった。
当初 とうしょ のソビエト連邦 れんぽう は、ロシア、ウクライナ、白 はく ロシア、そしてカフカース に位置 いち したザカフカース連邦 れんぽう 共和 きょうわ 国 こく の4共和 きょうわ 国 こく で構成 こうせい されており[ 注釈 ちゅうしゃく 13] 、その後 ご の中央 ちゅうおう アジア民族 みんぞく 境界 きょうかい 策定 さくてい 作業 さぎょう や、1936年 ねん のザカフカース連邦 れんぽう 共和 きょうわ 国 こく 廃止 はいし 、また第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 前後 ぜんこう のバルト三 さん 国 こく 併合 へいごう とモルダヴィア共和 きょうわ 国 こく の置 お かれるベッサラビア地域 ちいき の再 さい 領有 りょうゆう 、冬 ふゆ 戦争 せんそう でのカレリア 獲得 かくとく は十 じゅう 数 すう 以上 いじょう の構成 こうせい 国 こく を擁 よう する要因 よういん となった。しかし、ザカフカースの解体 かいたい によって共和 きょうわ 国 こく になったアゼルバイジャン、アルメニア、グルジアの3カ国 かこく と対照 たいしょう 的 てき に、共和 きょうわ 国 こく から自治 じち 共和 きょうわ 国 こく へと降 お ろされたカレリアの例 れい もある。
構成 こうせい 国 こく という存在 そんざい は、憲法 けんぽう で明記 めいき されており、例 たと えば1936年 ねん の連邦 れんぽう 憲法 けんぽう では、構成 こうせい 国 こく をこのように明記 めいき している。
...第 だい 13条 じょう ソビエト社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく 連邦 れんぽう は、平等 びょうどう の権利 けんり をもつ下記 かき のソビエト社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく の自由 じゆう 意志 いし による結合 けつごう に基 もと づいて形成 けいせい された同盟 どうめい 国家 こっか である。
...第 だい 15条 じょう 連邦 れんぽう 構成 こうせい 諸 しょ 共和 きょうわ 国 こく は、それぞれ共和 きょうわ 国 こく の特殊 とくしゅ 性 せい を考慮 こうりょ し、かつ連邦 れんぽう 憲法 けんぽう の適合 てきごう する範疇 はんちゅう において固有 こゆう の憲法 けんぽう を有 ゆう する
...第 だい 17条 じょう すべての連邦 れんぽう 構成 こうせい 共和 きょうわ 国 こく に対 たい して、連邦 れんぽう からの脱退 だったい の権利 けんり が留保 りゅうほ される。
これらの規定 きてい は、およそ40年 ねん 後 ご の1977年 ねん に制定 せいてい されたブレジネフ憲法 けんぽう においても明記 めいき される。しかし、構成 こうせい 国 こく に保障 ほしょう された権利 けんり の大 だい 部分 ぶぶん は終始 しゅうし 形骸 けいがい 化 か しており、特 とく に連邦 れんぽう からの脱退 だったい を明記 めいき した第 だい 17条 じょう では、脱退 だったい に向 む けた詳細 しょうさい な手続 てつづ きが定 さだ まっていないなど、共和 きょうわ 国 こく の平等 びょうどう というものはもはや存在 そんざい しないようなものであった。
国際 こくさい 社会 しゃかい では、ウクライナ共和 きょうわ 国 こく と白 はく ロシア共和 きょうわ 国 こく が一 いち 国 こく として国際 こくさい 連合 れんごう に加盟 かめい するなど、構成 こうせい 国 こく としての外交 がいこう もごく一部 いちぶ で行 おこな われていた。
自治 じち ソビエト社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく
編集 へんしゅう
構成 こうせい 国内 こくない には、自治 じち ソビエト社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく (Автономная Советская Социалистическая Республика 通称 つうしょう АССР )が存在 そんざい する場合 ばあい があり、こちらはソビエト連邦 れんぽう を直接 ちょくせつ に構成 こうせい するものではないものの、ソ連邦 それんぽう 中央 ちゅうおう と現地 げんち との協議 きょうぎ によって成立 せいりつ した。
1977年 ねん 憲法 けんぽう では、第 だい 10章 しょう でこれが定 さだ められ、独自 どくじ の憲法 けんぽう を制定 せいてい する権利 けんり などが明記 めいき された。
ソビエト連邦 れんぽう の都市 とし の起源 きげん は、中央 ちゅうおう アジアやカフカース地方 ちほう では紀元前 きげんぜん からの歴史 れきし をもつが、ルーシの歴史 れきし においては早 はや くとも6世紀 せいき ごろからとなっている。しかし、ソ連 それん 時代 じだい に直結 ちょっけつ する都市 とし の発展 はってん は帝政 ていせい 時代 じだい の19世紀 せいき 、特 とく に19世紀 せいき 後半 こうはん の改革 かいかく によって成長 せいちょう を遂 と げたと言 い える。都市 とし の年 とし 平均 へいきん 人口 じんこう 増加 ぞうか 率 りつ は、1811年 ねん から1867年 ねん の56年間 ねんかん で1.5パーセントであったのに対 たい し、1868年 ねん から1913年 ねん の45年間 ねんかん では2.3パーセントと増加 ぞうか [ 80] 、その結果 けっか 、1811年 ねん 時点 じてん での都市 とし 人口 じんこう 277万 まん 人 にん (全 ぜん 人口 じんこう の7%)から、1867年 ねん で740万 まん 人 にん (全 ぜん 人口 じんこう の10%)、1914年 ねん になると2,328万 まん 人 にん (12.5%)へと上昇 じょうしょう した[ 80] 。都市 とし の規模 きぼ に注目 ちゅうもく するなら、1811年 ねん 時点 じてん で人口 じんこう 10万 まん 人 にん 以上 いじょう の都市 とし がペテルブルクとモスクワの2都市 とし 、1万 まん 人 にん 以上 いじょう の人口 じんこう を擁 よう する都市 とし が77[ 80] だけであったのが、1897年 ねん には人口 じんこう 10万 まん 都市 とし が17、1万 まん 都市 とし は356にも増 ふ えたことが明確 めいかく にしてくれる。この凄 すさ まじい発展 はってん には帝政 ていせい 当時 とうじ の鉄道 てつどう 建設 けんせつ 、穀物 こくもつ 移出 いしゅつ 、炭鉱 たんこう 、採油 さいゆ 、繊維 せんい 業 ぎょう などの全体 ぜんたい 的 てき な産業 さんぎょう の発展 はってん によるところが大 おお きい。
これらの都市 とし も、二 に 度 ど の革命 かくめい と国内 こくない 戦 せん を経 へ て荒廃 こうはい し、1917年 ねん から1920年 ねん にはマイナス5.7パーセントの人口 じんこう 減 げん を記録 きろく した。この数値 すうち は都市 とし 人口 じんこう がおよそ500万 まん 人 にん 減少 げんしょう したことを示 しめ す[ 81] 。しかし、ネップが功 こう を収 おさ めたことにより1920年 ねん から1926年 ねん の都市 とし 人口 じんこう 増加 ぞうか 率 りつ は年間 ねんかん 3.7パーセントと、若干 じゃっかん でありながらも回復 かいふく 傾向 けいこう にあった[ 注釈 ちゅうしゃく 14] 。1926年 ねん から1939年 ねん のソ連 それん は国内 こくない 戦 せん の復興 ふっこう からも脱却 だっきゃく し、ソビエト国家 こっか の発展 はってん に全力 ぜんりょく を注 そそ げた。この間 あいだ に都市 とし 人口 じんこう は倍 ばい 近 ちか くに増加 ぞうか し、都市 とし 人口 じんこう 比率 ひりつ は30パーセントとなる[ 注釈 ちゅうしゃく 15] 。この急速 きゅうそく な発展 はってん が成功 せいこう した理由 りゆう としては、都市 とし 化 か 自体 じたい に未 み 発達 はったつ が存在 そんざい していたという面 めん も存在 そんざい するが、同 どう 時期 じき の工業 こうぎょう 化 か 政策 せいさく によるところが大 おお きいとされる。
ここで列挙 れっきょ する都市 とし は、主 おも に構成 こうせい 国 こく の首都 しゅと であったり、革命 かくめい 期 き のゴエルロ計画 けいかく で地域 ちいき 都市 とし と定 さだ められたり、あるいは第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん (特 とく に独 どく ソ戦 せん )において英雄 えいゆう 都市 とし に指定 してい されたりした都市 とし である。構成 こうせい 国 こく だと、ロシア共和 きょうわ 国 こく が大 だい 多数 たすう を占 し め、その次 つぎ にウクライナ共和 きょうわ 国 こく となる。構成 こうせい 国 こく の首都 しゅと である6都市 とし (モスクワ、キエフ、タシケント、トビリシ、エレバン、バクー)、また、英雄 えいゆう 都市 とし に指定 してい された4都市 とし (モスクワ、レニングラード、キエフ、オデッサ)すべてがロシア共和 きょうわ 国 こく とウクライナ共和 きょうわ 国 こく に点在 てんざい する。
名称 めいしょう
構成 こうせい 共和 きょうわ 国 こく
人口 じんこう (1981年 ねん )
名称 めいしょう
行政 ぎょうせい 区分 くぶん
人口 じんこう (人 ひと )
1
モスクワ
ロシア連邦 れんぽう 共和 きょうわ 国 こく
8,015,000人 にん
11
トビリシ
グルジア共和 きょうわ 国 こく
1,095,000
2
レニングラード
ロシア連邦 れんぽう 共和 きょうわ 国 こく
4,156,000人 にん
12
オデッサ
ウクライナ共和 きょうわ 国 こく
1,072,000
3
キエフ
ウクライナ共和 きょうわ 国 こく
2,248,000人 にん
13
チェリャビンスク
ロシア連邦 れんぽう 共和 きょうわ 国 こく
1,055,000
4
タシケント
ウズベク共和 きょうわ 国 こく
1,858,000人 にん
14
エレバン
アルメニア共和 きょうわ 国 こく
1,055,000
5
ハリコフ
ウクライナ共和 きょうわ 国 こく
1,485,000人 にん
15
バクー
アゼルバイジャン共和 きょうわ 国 こく
1,046,000
6
ゴーリキー
ロシア連邦 れんぽう 共和 きょうわ 国 こく
1,367,000人 にん
16
オムスク
ロシア連邦 れんぽう 共和 きょうわ 国 こく
1,044,000
7
ノヴォシビルスク
ロシア連邦 れんぽう 共和 きょうわ 国 こく
1,343,000人 にん
17
ドネツク
ウクライナ共和 きょうわ 国 こく
1,040,000
8
スベルドロフスク
ロシア連邦 れんぽう 共和 きょうわ 国 こく
1,239,000人 にん
18
ペルミ
ロシア連邦 れんぽう 共和 きょうわ 国 こく
1,018,000
9
クイビシェフ
ロシア連邦 れんぽう 共和 きょうわ 国 こく
1,238,000人 にん
10
ドネプロペトロフスク
ウクライナ共和 きょうわ 国 こく
1,100,000人 にん
1982年 ねん 、ソビエト連邦 れんぽう 最高 さいこう 会議 かいぎ 議事堂 ぎじどう の大 だい クレムリン宮殿 きゅうでん
ソビエト連邦 れんぽう は複数 ふくすう のソビエト共和 きょうわ 国 こく から成立 せいりつ する連邦 れんぽう 国家 こっか として誕生 たんじょう した国家 こっか 連邦 れんぽう であったが、実態 じったい として中央 ちゅうおう 集権 しゅうけん の様相 ようそう を呈 てい することとなり、一連 いちれん の改革 かいかく の終盤 しゅうばん の1990年 ねん まではソビエト連邦 れんぽう 共産党 きょうさんとう による一 いち 党 とう 独裁 どくさい 国家 こっか であった。
間接 かんせつ 代表 だいひょう 制 せい を拒否 きょひ し、労働 ろうどう 者 しゃ の組織 そしき 「ソビエト 」(協議 きょうぎ 会 かい 、評議 ひょうぎ 会 かい )が各 かく 職場 しょくば の最下位 さいかい 単位 たんい から最高 さいこう 議決 ぎけつ 単位 たんい (最高 さいこう 会議 かいぎ )まで組織 そしき されることで国家 こっか が構成 こうせい されていた。
ただし、こうしたソビエト制度 せいど が有効 ゆうこう に機能 きのう した期間 きかん はほとんどないに等 ひと しく、実際 じっさい にはソビエトの最小 さいしょう 単位 たんい から最高 さいこう 単位 たんい まですべてに浸透 しんとう した私的 してき 組織 そしき (非 ひ ・国家 こっか 組織 そしき )であるソビエト連邦 れんぽう 共産党 きょうさんとう がすべてのソビエトを支配 しはい しており、事実 じじつ 上 じょう 、一 いち 党 とう 独裁 どくさい 制 せい の国家 こっか となっていた(ただし、ロシア革命 かくめい 直後 ちょくご のレーニン時代 じだい 初期 しょき とゴルバチョフ時代 じだい は複数 ふくすう 政党 せいとう 制 せい であった)。こうした党 とう による国家 こっか の各 かく 単位 たんい 把握 はあく およびその二 に 重 じゅう 権力 けんりょく 体制 たいせい はしばしば「党 とう -国家 こっか 体制 たいせい 」と呼 よ ばれている。
この細胞 さいぼう を張 は り巡 めぐ らせる民主 みんしゅ 集中 しゅうちゅう 制 せい と計画 けいかく 経済 けいざい を基礎 きそ とするいわゆるソ連 それん 型 がた 社会 しゃかい 主義 しゅぎ と呼 よ ばれる体制 たいせい は、アパラチキ(「器官 きかん 」の意 い )による抑圧 よくあつ 的 てき な体制 たいせい であり、言論 げんろん などの表現 ひょうげん や集会 しゅうかい 、結社 けっしゃ の自由 じゆう は事実 じじつ 上 じょう 、存在 そんざい しなかった。指導 しどう 者 しゃ 選出 せんしゅつ のためのノーメンクラトゥーラ 制度 せいど は縁故 えんこ 主義 しゅぎ の温床 おんしょう となり、新 あら たな階級 かいきゅう を生 う み出 だ した。一般 いっぱん の労働 ろうどう 者 しゃ や農民 のうみん にとっては支配 しはい 者 しゃ がロマノフ朝 あさ の皇帝 こうてい から共産党 きょうさんとう に代 か わっただけで、政治 せいじ 的 てき には何 なん の解放 かいほう もされておらず、むしろロマノフ朝 あさ 時代 じだい より抑圧 よくあつ 的 てき で非 ひ 民主 みんしゅ 的 てき な一 いち 党 とう 独裁 どくさい 体制 たいせい であった。そのため実質 じっしつ 的 てき に最高 さいこう 指導 しどう 者 しゃ であるソビエト連邦 れんぽう 共産党 きょうさんとう 書記 しょき 長 ちょう は「赤色 あかいろ 皇帝 こうてい 」(赤 あか は共産 きょうさん 主義 しゅぎ を表 あらわ す色 いろ )とも呼 よ ばれる。
スターリン時代 じだい からゴルバチョフが大統領 だいとうりょう 制 せい を導入 どうにゅう するまで、名目 めいもく 上 じょう の国家 こっか 元首 げんしゅ は最高 さいこう 会議 かいぎ 幹部 かんぶ 会 かい 議長 ぎちょう であったが、実権 じっけん はソビエト連邦 れんぽう 共産党 きょうさんとう 書記 しょき 長 ちょう が握 にぎ っていた。
ブレジネフ 以降 いこう は共産党 きょうさんとう 書記 しょき 長 ちょう が最高 さいこう 会議 かいぎ 幹部 かんぶ 会 かい 議長 ぎちょう を兼務 けんむ するようになったが、最高 さいこう 会議 かいぎ 幹部 かんぶ 会 かい 議長 ぎちょう の権限 けんげん は儀礼 ぎれい 的 てき ・名誉 めいよ 的 てき なものであり、彼 かれ らの権力 けんりょく の源泉 げんせん は支配 しはい 政党 せいとう である共産党 きょうさんとう の書記 しょき 長 ちょう 職 しょく であった。
ソビエト連邦 れんぽう の指導 しどう 者 しゃ というのは、その政権 せいけん 当時 とうじ のソ連 それん 内政 ないせい 、そしてその政権 せいけん の特異 とくい を象徴 しょうちょう するように、その地位 ちい も名称 めいしょう も幾多 いくた となく変更 へんこう された。1922年 ねん の結成 けっせい から解体 かいたい までの1991年 ねん までの69年間 ねんかん 、一貫 いっかん して存続 そんぞく した最高 さいこう 職 しょく というのは存在 そんざい せず、ソ連 それん 最高 さいこう 指導 しどう 者 しゃ の代名詞 だいめいし に相応 ふさわ しい書記 しょき 長 ちょう というのも、初代 しょだい 最高 さいこう 指導 しどう 者 しゃ であるレーニンはこの書記 しょき 長 ちょう 職 しょく に就 つ いたことが名実 めいじつ ともになく、ましてやこの書記 しょき 長 ちょう という役職 やくしょく は、ソビエト連邦 れんぽう という国家 こっか における職 しょく ではなく共産党 きょうさんとう という一 いち 政党 せいとう の役職 やくしょく に過 す ぎなかったのである。このように、ソビエト連邦 れんぽう の歴史 れきし では一貫 いっかん して明確 めいかく に最高 さいこう 指導 しどう 者 しゃ といえる役職 やくしょく が存在 そんざい せず、その区別 くべつ というのは様々 さまざま な論争 ろんそう を呼 よ ぶが、本 ほん 記事 きじ では一般 いっぱん に通用 つうよう される指導 しどう 者 しゃ のみを列挙 れっきょ していく。
ウラジミール・レーニン
ロシア革命 かくめい を指導 しどう し、一般 いっぱん 的 てき にソビエト連邦 れんぽう の建国 けんこく 者 しゃ として知 し られるウラジーミル・レーニンは、1870年 ねん 4月 がつ 22日 にち に誕生 たんじょう した。本名 ほんみょう はウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフ (Влади́мир Ильи́ч Улья́нов )であり、レーニン(Ленин )という名 な は150を超 こ えるペンネームの一 ひと つに過 す ぎない。なお、レーニンの名 な の由来 ゆらい は定 さだ かではく、レナ川 がわ から由来 ゆらい するという説 せつ や、ロシア語 ご で「怠 なま け者 もの 」を意味 いみ するレニーヴィ(Ленивцын )からという説 せつ などがある[ 87] 。そんなレーニンは、カルムイク系 けい の父 ちち イリヤ に、ドイツ とスウェーデン の血 ち が入 はい る母 はは マリアとの間 あいだ に生 う まれた。
皇帝 こうてい 暗殺 あんさつ 計画 けいかく へ関与 かんよ した兄 あに アレクサンドルが処刑 しょけい されたことを契機 けいき に革命 かくめい 思想 しそう に傾倒 けいとう し、学生 がくせい 運動 うんどう への参加 さんか など、積極 せっきょく 的 てき な活動 かつどう を行 おこ なった。レーニンが在学 ざいがく していたカザン大学 だいがく からは放校 ほうこう され、1897年 ねん には扇動 せんどう 罪 ざい で逮捕 たいほ される。逮捕 たいほ 後 ご 、レーニンはシベリアに送 おく られるが、のちにレーニンの妻 つま となるナデジダ・クルプスカヤ とはここで出会 であ う。刑期 けいき を終 お えたのちにレーニンは西欧 せいおう に拠点 きょてん を置 お き、ロシア社会民主労働党 しゃかいみんしゅろうどうとう の幹部 かんぶ として頭角 とうかく を現 あらわ し始 はじ める[ 注釈 ちゅうしゃく 20] 。
ロシア革命 かくめい の報 ほう を聞 き きつけロシアに帰国 きこく したレーニンはボリシェヴィキを指導 しどう し、ブレスト=リトフスク条約 じょうやく の締結 ていけつ 、反対 はんたい 派 は の排除 はいじょ のための赤色 あかいろ テロ 、国際 こくさい 的 てき 共産 きょうさん 主義 しゅぎ 枠組 わくぐ みであるコミンテルン の創設 そうせつ など、後 ご の世界 せかい を左右 さゆう する出来事 できごと に関与 かんよ した。ロシア内戦 ないせん で赤軍 せきぐん が勝利 しょうり したのち、レーニンは西欧 せいおう への革命 かくめい の波及 はきゅう を試 こころ みたが、失敗 しっぱい に終 お わり、また、同 どう 時期 じき のロシアで発生 はっせい した大 だい 飢饉 ききん からの反発 はんぱつ への妥協 だきょう として新 しん 経済 けいざい 政策 せいさく (ネップ)への転換 てんかん を進 すす め、経済 けいざい は戦前 せんぜん の水準 すいじゅん までに回復 かいふく することとなった。
1920年代 ねんだい に入 はい ると、レーニンの身体 しんたい はあらゆる部分 ぶぶん で悪化 あっか しはじめ、療養 りょうよう のために職務 しょくむ から離 はな れることが増 ふ えたが、病状 びょうじょう が悪化 あっか する中 なか でもレーニンはソビエト連邦 れんぽう (ソ連 それん )の構想 こうそう への意見 いけん 交換 こうかん など、政治 せいじ への関与 かんよ を弱 よわ めることはなく、グルジア問題 もんだい を巡 めぐ ってはスターリン と公論 こうろん までに発展 はってん するなど、とても病人 びょうにん とは思 おも わせないような振 ふ る舞 ま いを側近 そっきん にみせた。1923年 ねん に3度目 どめ の脳卒中 のうそっちゅう を起 お こすと、もはやまともな意思 いし 疎通 そつう は不可能 ふかのう となり、1924年 ねん 1月 がつ 21日 にち 、54歳 さい で死去 しきょ 。遺体 いたい は防腐 ぼうふ 処理 しょり を施 ほどこ した上 うえ 、レーニン廟 びょう に安置 あんち される。
ヨシフ・スターリン
本名 ほんみょう ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ 。1878年 ねん 12月18日 にち 、グルジア(ジョージア) のゴリ に生 う まれる。父 ちち ヴィッサリオン・ジュガシヴィリ はゴリに工房 こうぼう を構 かま えるグルジア靴 くつ 職人 しょくにん 、母 はは ケテワン・ゲラーゼ は、レンガ職人 しょくにん の娘 むすめ であり、共 とも に農奴 のうど の家系 かけい の出身 しゅっしん であった。生 う まれ故郷 こきょう ゴリは、周辺 しゅうへん の他 ほか の都市 とし と比 くら べて治安 ちあん の悪 わる い地域 ちいき であったが[ 90] 、父 ちち ヴィッサリオンは靴 くつ 職人 しょくにん として成功 せいこう を収 おさ めており、一時 いちじ は十 じゅう 数 すう 人 にん の従業 じゅうぎょう 員 いん を雇 やと うほどの経済 けいざい 的 てき 余裕 よゆう があった。しかし事業 じぎょう は行 い き詰 づま りを見 み せ始 はじ め、次第 しだい に酒 さけ に心身 しんしん を支配 しはい されるようになった父 ちち ヴィッサリオンは、妻 つま や幼 おさな い息子 むすこ (スターリン)への暴力 ぼうりょく を日常 にちじょう 的 てき に振 ふ るうようになる[ 93] 。
母 はは ケテワンはスターリンを引 ひ き連 つ れ、1886年 ねん 、ある司祭 しさい の家 いえ に居候 いそうろう を始 はじ める。また、母 はは ケテワンは、息子 むすこ スターリンに学校 がっこう 教育 きょういく を受 う けさせることを強 つよ く熱望 ねつぼう していたという。その司祭 しさい の計 はか らいによりゴリの教会 きょうかい 付属 ふぞく 学校 がっこう に入学 にゅうがく を許 ゆる されたスターリンは、同級生 どうきゅうせい たちと頻繁 ひんぱん に争 あらそ いながらも学業 がくぎょう の面 めん では極 きわ めて優秀 ゆうしゅう な成績 せいせき を残 のこ した。一方 いっぽう で、幼少 ようしょう 期 き のスターリンは病気 びょうき や怪我 けが に苦 くる しめられ1884年 ねん には天然痘 てんねんとう に罹患 りかん し、命 いのち は助 たす かったものの顔面 がんめん の皮膚 ひふ には一生 いっしょう の目立 めだ つ痘痕 いも を残 のこ した。
首都 しゅと トビリシ の神学校 しんがっこう に入学 にゅうがく したスターリンは、ここでも優秀 ゆうしゅう な成績 せいせき を収 おさ めたが、いつしか神学 しんがく に対 たい する興味 きょうみ は失 うしな い、成績 せいせき も下 さ がっていった。この頃 ころ にはカール・マルクス の著作 ちょさく である『資本 しほん 論 ろん 』に影響 えいきょう され、熱心 ねっしん なマルクス主義 まるくすしゅぎ 者 もの となったとされており、スターリンが自 みずか らを無 む 神 かみ 論 ろん 者 しゃ だと宣言 せんげん していた時期 じき と重 かさ なることから、ここでの生活 せいかつ が彼 かれ に何 なん らしらの影響 えいきょう を及 およ ぼし、活動 かつどう 家 か の道 みち を志 こころざ すようになったと思 おも われる。結局 けっきょく スターリンは、トビリシ神学校 しんがっこう を去 さ り、戻 もど ることはなかった。
ニキータ・フルシチョフ
1894年 ねん 4月 がつ 17日 にち 、生 う まれる。炭鉱 たんこう 労働 ろうどう 者 しゃ と農民 のうみん との子 こ であったフルシチョフは、幼少 ようしょう 期 き より十分 じゅうぶん な教育 きょういく を受 う けることができなかった。ロシア革命 かくめい 以前 いぜん より労働 ろうどう 運動 うんどう に参加 さんか したことが切 き っ掛 か けとなり、1918年 ねん にロシア共産党 きょうさんとう に入党 にゅうとう 。内戦 ないせん 中 ちゅう 、赤軍 せきぐん 政治 せいじ 委員 いいん として参加 さんか し、1921年 ねん に帰郷 ききょう 。
1925年 ねん 、ユゾフカのペトロフスコ・マリインスク地区 ちく 党 とう 書記 しょき に就任 しゅうにん して以後 いご は党 とう 活動 かつどう に専従 せんじゅう することとなる。現地 げんち で得 え た広範 こうはん な知識 ちしき で台頭 たいとう し、ヨシフ・スターリン の側近 そっきん であったカガノーヴィチ に注目 ちゅうもく されることになる。1931年 ねん にモスクワ党 とう 専従 せんじゅう となり、モスクワ地下鉄 ちかてつ の建設 けんせつ を指揮 しき する。この功績 こうせき がスターリンの目 め に留 と まり、1934年 ねん 1月 がつ の第 だい 17回 かい ソ連 それん 共産党 きょうさんとう 大会 たいかい で中央 ちゅうおう 委員 いいん に選出 せんしゅつ され、翌年 よくねん の1935年 ねん 3月 がつ にはモスクワ党 とう 第 だい 一 いち 書記 しょき となる。1938年 ねん 4月 がつ に政治 せいじ 局員 きょくいん 候補 こうほ となり、粛清 しゅくせい されたスタニスラフ・コシオール の後任 こうにん として、ウクライナ共産党 きょうさんとう 第 だい 一 いち 書記 しょき となった。1939年 ねん 3月 がつ 、第 だい 18回 かい 党 とう 大会 たいかい で政治 せいじ 局員 きょくいん に昇格 しょうかく する。
スターリンの死後 しご 、共産党 きょうさんとう 内 ない ではスターリンの後任 こうにん としてフルシチョフ、マレンコフ 、ベリヤ が注目 ちゅうもく されることになった。ただ、マレンコフはあまりにも人気 にんき があまりなく、フルシチョフとの協力 きょうりょく 関係 かんけい をき上 ずきあ げる。党内 とうない でベリヤ への攻勢 こうせい を仕掛 しか け、処刑 しょけい までに追 お い込 こ むと、9月に第 だい 一 いち 書記 しょき へと就任 しゅうにん 。1957年 ねん には中央 ちゅうおう 委員 いいん 会 かい 幹部 かんぶ 会 かい にて一 いち 度 ど は解任 かいにん が決 き まるも 、中央 ちゅうおう 委員 いいん 会 かい 総会 そうかい によって見送 みおく りとなった。
しかし、7年 ねん 後 ご の1964年 ねん 、レオニード・ブレジネフ らはフルシチョフの確実 かくじつ な解任 かいにん を目途 もくと み、これはフルシチョフの自発 じはつ 的 てき な辞任 じにん によって功 こう を収 おさ める。第 だい 一 いち 書記 しょき の就任 しゅうにん 中 ちゅう 、スターリン批判 ひはん を皮切 かわき りとした内政 ないせい 改革 かいかく の推進 すいしん 、外交 がいこう でのキューバ危機 きき を引 ひ き起 お こすなど、とても感情 かんじょう 的 てき な人物 じんぶつ であったとされる。また、フルシチョフの時期 じき にはスプートニク1号 ごう の打 う ち上 あ げを成功 せいこう させるなど、まさにソビエト連邦 れんぽう の黄金 おうごん 期 き であった。
引退 いんたい 後 ご のフルシチョフはダーチャ (別荘 べっそう )での生活 せいかつ を半 なか ば強 し いられた。ダーチャの至 いた るところに盗聴 とうちょう 器 き が仕掛 しか けられており、生活 せいかつ はKGBが把握 はあく 下 くだ していたため、実質 じっしつ 上 じょう の軟禁 なんきん 状態 じょうたい にあり、回想 かいそう 録 ろく の出版 しゅっぱん では、当局 とうきょく の妨害 ぼうがい を受 う けつつもこれを実現 じつげん させた。7年間 ねんかん の年金 ねんきん 生活 せいかつ の後 のち 、1971年 ねん 9月 がつ 11日 にち にモスクワ の病院 びょういん で死去 しきょ した。
レオニード・ブレジネフ
1906年 ねん 12月19日 にち 、ロシア帝国 ていこく のエカテリノスラフ県 けん カメンスコエ (現在 げんざい のウクライナ のカーミヤンシケ 市 し )で生 う まれた。父 ちち イリヤは祖父 そふ の代 だい 以来 いらい の金属 きんぞく 工場 こうじょう の労働 ろうどう 者 しゃ であり、レオニードも15歳 さい で製鉄 せいてつ 所 しょ に勤務 きんむ する。1921年 ねん 、一家 いっか でクルスク に転居 てんきょ 。1923年 ねん にはコムソモール に加 くわ わる。1924年 ねん から1927年 ねん までクルスクの職業 しょくぎょう 技術 ぎじゅつ 学校 がっこう に学 まな び、初級 しょきゅう 農業 のうぎょう 技師 ぎし となって土壌 どじょう 改良 かいりょう 業務 ぎょうむ に就 つ く。1930年 ねん に生 う まれ故郷 こきょう カメンスコエに戻 もど り、1931年 ねん 10月 がつ に共産党 きょうさんとう に入党 にゅうとう した。入党 にゅうとう 後 ご 、冶金 やきん 大学 だいがく に在学 ざいがく し、1935年 ねん 5月に卒業 そつぎょう して東 ひがし ウクライナの製鉄 せいてつ 所 しょ 技師 ぎし になった。
同年 どうねん 10月 がつ 、赤軍 せきぐん に入隊 にゅうたい し、戦車 せんしゃ 訓練 くんれん 校 こう を修了 しゅうりょう すると戦車 せんしゃ 部隊 ぶたい の政治 せいじ 委員 いいん となった。1936年 ねん 末 すえ にはドニエプロジェルジンスク冶金 やきん 大学 だいがく の校長 こうちょう になった。1937年 ねん にウクライナ共産党 きょうさんとう 幹部 かんぶ 、モルダヴィア(後 ご のモルダヴィア・ソビエト社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく 、現 げん ・モルドバ )党 とう 委員 いいん 会 かい 第 だい 一 いち 書記 しょき 、1939年 ねん 5月にドニエプロペトロフスク州 しゅう 党 とう 委員 いいん 会 かい 書記 しょき になり、防衛 ぼうえい 産業 さんぎょう の組織 そしき を行 おこな った。
大 だい 祖国 そこく 戦争 せんそう では、ブレジネフのドニエプロペトロフスクは8月 がつ 26日 にち にドイツ軍 ぐん の手 て に落 お ちるも、ブレジネフらの努力 どりょく によって市 し の産業 さんぎょう を疎開 そかい させたことにより壊滅 かいめつ の惨状 さんじょう は免 まぬか れた。1943年 ねん 4月 がつ に第 だい 18軍 ぐん 政治 せいじ 部長 ぶちょう 、1945年 ねん 5月 がつ の時点 じてん で第 だい 4ウクライナ方面 ほうめん 軍 ぐん 政治 せいじ 指導 しどう 部 ぶ 部長 ぶちょう としてプラハ 入城 にゅうじょう 。1946年 ねん 8月 がつ 、ブレジネフは少将 しょうしょう の階級 かいきゅう で赤軍 せきぐん を退役 たいえき 。
1950年 ねん 3月 がつ に最高 さいこう 会議 かいぎ 代議員 だいぎいん に選出 せんしゅつ され、6月 がつ 、モルダヴィア共産党 きょうさんとう 中央 ちゅうおう 委員 いいん 会 かい 第 だい 一 いち 書記 しょき に就任 しゅうにん し、1952年 ねん 10月に共産党 きょうさんとう 中央 ちゅうおう 委員 いいん 会 かい 及 およ び最高 さいこう 会議 かいぎ 幹部 かんぶ 会議 かいぎ 員 いん となった。1953年 ねん 3月 がつ に党 とう 幹部 かんぶ 会 かい が廃止 はいし され、より小 ちい さな政治 せいじ 局 きょく が再 さい 構成 こうせい されると、政治 せいじ 局員 きょくいん にこそならなかったが、その代 か わりに中将 ちゅうじょう の階級 かいきゅう と共 とも にソ連 それん 軍 ぐん 政治 せいじ 総 そう 局長 きょくちょう 第 だい 一 いち 代理 だいり に任命 にんめい された。1954年 ねん にカザフ共産党 きょうさんとう 中央 ちゅうおう 委員 いいん 会 かい 第 だい 二 に 書記 しょき となり、1955年 ねん 5月にカザフ共産党 きょうさんとう 中央 ちゅうおう 委員 いいん 会 かい 第 だい 一 いち 書記 しょき として、カザフ・ソビエト共和 きょうわ 国 こく の開拓 かいたく 事業 じぎょう を指導 しどう した。1956年 ねん 2月 がつ 、モスクワ へ呼 よ び戻 もど され、共産党 きょうさんとう 中央 ちゅうおう 委員 いいん 会 かい 政治 せいじ 局員 きょくいん 候補 こうほ 兼 けん 書記 しょき として防衛 ぼうえい 産業 さんぎょう ・宇宙 うちゅう 画 が ・重工業 じゅうこうぎょう 及 およ び首都 しゅと 建設 けんせつ を指揮 しき する。
1960年 ねん 5月には最高 さいこう 会議 かいぎ 幹部 かんぶ 会 かい 議長 ぎちょう に就任 しゅうにん し、名目 めいもく としての国家 こっか 元首 げんしゅ となった。そして1964年 ねん 10月 がつ 、フルシチョフの失脚 しっきゃく によって第 だい 一 いち 書記 しょき へ就任 しゅうにん 。1966年 ねん 4月 がつ には第 だい 一 いち 書記 しょき をスターリンの肩書 かたが きであった書記 しょき 長 ちょう へと改称 かいしょう し、フルシチョフとは逆 ぎゃく の道 みち を進 すす む。1970年代 ねんだい の経済 けいざい 停滞 ていたい に書記 しょき 長 ちょう であったブレジネフの国内 こくない 的 てき な権力 けんりょく は、次第 しだい に虚栄 きょえい を表 あらわ す。1982年 ねん 11月死去 しきょ 。
ユーリ・アンドロポフ
1914年 ねん 6月 がつ 15日 にち 、スタヴロポリ州 しゅう に生 う まれる。鉄道 てつどう 職員 しょくいん の父 ちち をもち、16歳 さい よりコムソモール に参加 さんか [ 102] [ 103] 。その後 ご 、職 しょく を転々 てんてん とし、1932年 ねん 、ルイビンスク 水上 すいじょう 輸送 ゆそう 技術 ぎじゅつ 専門 せんもん 学校 がっこう に入学 にゅうがく 。卒業 そつぎょう 後 ご の1936年 ねん には同 どう 都市 とし におかれた造船 ぞうせん 所内 しょない のコムソモール専従 せんじゅう 書記 しょき となり、この頃 ころ 、KGB に所属 しょぞく した。1938年 ねん までにヤロスラヴリ州 しゅう の党 とう 委員 いいん 会 かい のコムソモール第 だい 一 いち 書記 しょき に昇進 しょうしん し、1939年 ねん ソ連 それん 共産党 きょうさんとう に入党 にゅうとう 。1940年 ねん には、カレロ=フィン・ソビエト社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく の第 だい 一 いち 書記 しょき となる。なぜここまでの出世 しゅっせ を成 な し遂 と げたかについては、当時 とうじ の大 だい 粛清 しゅくせい が影響 えいきょう されていると考 かんが えられており、戦後 せんご には第 だい 二 に 書記 しょき へ降格 こうかく となった。しかし、同地 どうち のソ連 それん 化 か を推 お し進 すす めたことが評価 ひょうか され、1951年 ねん 、党 とう 中央 ちゅうおう 委員 いいん 会 かい に転属 てんぞく する。1953年 ねん に駐 ちゅう ハンガリー 参事官 さんじかん 、翌年 よくねん アンドロポフは同国 どうこく 大使 たいし に昇進 しょうしん する。一見 いっけん 順調 じゅんちょう に見 み えるアンドロポフのキャリアであるが、中央 ちゅうおう 委員 いいん 会 かい に在 ざい 属 ぞく した者 もの の大使館 たいしかん 配属 はいぞく というのは、ほとんどの場合 ばあい 、出世 しゅっせ の道 みち を閉 と ざされることを意味 いみ した。しかしアンドロポフがハンガリー に赴任 ふにん することになったのは、当時 とうじ のニキータ・フルシチョフ 第 だい 一 いち 書記 しょき (書記 しょき 長 ちょう )が脱 だつ スターリン政策 せいさく の一環 いっかん として党員 とういん 配置 はいち 転換 てんかん を行 おこ なっており、それに巻 ま き添 ぞ えを受 う けたためである。
1967年 ねん 5月 がつ 、KGB 議長 ぎちょう に就任 しゅうにん 、同 どう 時期 じき に政治 せいじ 局員 きょくいん 候補 こうほ へと選出 せんしゅつ される。秘密 ひみつ 警察 けいさつ 組織 そしき であるKGBの長 ちょう が政治 せいじ 局員 きょくいん 候補 こうほ へ選出 せんしゅつ されるのは、スターリン政権 せいけん に手腕 しゅわん を振 ふ るったラヴレンチー・ベリヤ 以来 いらい となり、これには西側 にしがわ には激震 げきしん が走 はし った。KGB議長 ぎちょう というのは軍人 ぐんじん という名目 めいもく に置 お かれるため、その階級 かいきゅう は上級 じょうきゅう 大将 たいしょう であったが、書記 しょき 長 ちょう になることを見据 みす えたアンドロポフは必要 ひつよう 以外 いがい に軍服 ぐんぷく を着用 ちゃくよう することは滅多 めった になく、精力 せいりょく 的 てき に活動 かつどう した。就任 しゅうにん 後 ご は数 すう 百 ひゃく 人 にん もの外国 がいこく 人 じん をKGBのネットワークに組 く み込 こ み、1万 まん 件 けん 以上 いじょう の技術 ぎじゅつ 情報 じょうほう をソ連 それん 中央 ちゅうおう に提供 ていきょう するなどの成果 せいか を上 あ げ、また、この頃 ころ のソ連 それん で横行 おうこう していた汚職 おしょく や賄賂 わいろ を徹底的 てっていてき に対処 たいしょ することを決意 けつい し、1969年 ねん 、ブレジネフの意向 いこう を汲 く まずKGB職員 しょくいん のヘイダル・アリエフ をアゼルバイジャン共産党 きょうさんとう 中央 ちゅうおう 委員 いいん 会 かい 第 だい 一 いち 書記 しょき に任命 にんめい する。その後 ご もアンドロポフは、KGBという脈 みゃく をあらゆる手段 しゅだん で駆使 くし し、レニングラード州 しゅう 第 だい 一 いち 書記 しょき 、グルジア第 だい 一 いち 書記 しょき を解任 かいにん に追 お いやり、ブレジネフの周辺 しゅうへん にも手加減 てかげん をかけなかった。このソ連 それん 全土 ぜんど での汚職 おしょく 摘発 てきはつ にはゴルバチョフ すらも関与 かんよ しており、クラスノダール地区 ちく 書記 しょき でありブレジネフの旧友 きゅうゆう であったメドノフは、このゴルバチョフの手柄 てがら によって処分 しょぶん された。
1982年 ねん 11月には、ブレジネフの死去 しきょ に伴 ともな い書記 しょき 長 ちょう に就任 しゅうにん 。今後 こんご の改革 かいかく を約束 やくそく し、内政 ないせい 面 めん では労働 ろうどう 規律 きりつ の強化 きょうか 、汚職 おしょく 摘発 てきはつ など、多種 たしゅ にわたってブレジネフ時代 じだい の弊害 へいがい を取 と り除 のぞ こうと躍起 やっき になった。しかし外交 がいこう 面 めん では、デタント 崩壊 ほうかい 、大韓航空 だいかんこうくう 機 き 撃墜 げきつい 事件 じけん など、ブレジネフ政権 せいけん 以上 いじょう の緊張 きんちょう を深 ふか めさせた。かねて健康 けんこう がすぐれなかったアンドロポフだが、書記 しょき 長 ちょう に就任 しゅうにん してからはより一層 いっそう の多忙 たぼう によって悪化 あっか を極 きわ めた。フィンランド大統領 だいとうりょう マウノ・コイヴィスト との接見 せっけん では、通常 つうじょう の接見 せっけん 会場 かいじょう である空港 くうこう では行 おこな われずクレムリンで行 おこな われ、この時 とき のアンドロポフはボディーガードに両 りょう 腕 うで を支 ささ えられている様 よう であった。こうして、アンドロポフは姿 すがた を見 み せないまま、腎不全 じんふぜん により1984年 ねん 2月 がつ 9日 にち 死去 しきょ 。
コンスタンティン・チェルネンコ
1911年 ねん 9月24日 にち 、クラスノヤルスク にて生 う まれる。鉱山 こうざん 労働 ろうどう に従事 じゅうじ する父 ちち と農作業 のうさぎょう で働 はたら く母 はは とのあいだに生 う まれた[ 104] チェルネンコは、幼少 ようしょう 時 じ より積極 せっきょく 的 てき に働 はたら き、1930年 ねん には赤軍 せきぐん に入隊 にゅうたい 。ソ連 それん と中華民国 ちゅうかみんこく の国境警備隊 こっきょうけいびたい に配属 はいぞく される。
1931年 ねん 、ソビエト連邦 れんぽう 共産党 きょうさんとう への入党 にゅうとう を果 は たし、軍 ぐん を除隊 じょたい した後 のち はクラスノヤルスク地方 ちほう 党 とう 宣伝 せんでん 部 ぶ 副 ふく 部長 ぶちょう となる。第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 なか にクラスノヤルスク地方 ちほう 党 とう 書記 しょき を務 つと め、それと同時 どうじ にモルドバのキシニョフ 教育 きょういく 大学 だいがく を卒業 そつぎょう 。1945年 ねん にペンザ州 しゅう 党 とう 委員 いいん 会 かい 書記 しょき を経 へ て、1948年 ねん にモルダビア共産党 きょうさんとう 中央 ちゅうおう 委員 いいん 会 かい 宣伝 せんでん 扇動 せんどう 部長 ぶちょう となる。当時 とうじ モルダビア第 だい 一 いち 書記 しょき を務 つと めていたレオニード・ブレジネフ とは、この頃 ころ に親交 しんこう を深 ふか めたとされる。
モスクワへの階段 かいだん を駆 か け上 あ がるブレジネフと並列 へいれつ して、チェルネンコもまたブレジネフの右腕 うわん として昇進 しょうしん し続 つづ けた。1960年 ねん にブレジネフはチェルネンコを首席 しゅせき 補佐 ほさ 官 かん に任命 にんめい し、ブレジネフが第 だい 一 いち 書記 しょき へ就任 しゅうにん した翌年 よくねん の1965年 ねん には、ソ連 それん 共産党 きょうさんとう 総務 そうむ 部長 ぶちょう への就任 しゅうにん が決 き まり、その後 ご もチェルネンコは、1971年 ねん に中央 ちゅうおう 委員 いいん 会 かい 委員 いいん 、1976年 ねん の中央 ちゅうおう 委員 いいん 会 かい 書記 しょき 、1977年 ねん の政治 せいじ 局員 きょくいん 候補 こうほ に就任 しゅうにん し、1978年 ねん には政治 せいじ 局員 きょくいん へ抜擢 ばってき される。チェルネンコはブレジネフの右腕 うわん として振 ふ る舞 ま い、1982年 ねん にブレジネフが死去 しきょ するまで、彼 かれ のすべてを庇 かば い続 つづ けた。ブレジネフ逝去 せいきょ の報 ほう が伝 つた わってすぐに開会 かいかい された中央 ちゅうおう 委員 いいん 会 かい でチェルネンコは、アンドロポフに対 たい し、チェルネンコがアンドロポフを書記 しょき 長 ちょう に推薦 すいせん することを引 ひ き換 か えに、アンドロポフはチェルネンコを第 だい 二 に 書記 しょき に任命 にんめい することを持 も ちかけ、見事 みごと チェルネンコは第 だい 二 に 書記 しょき としてアンドロポフ政権 せいけん の始動 しどう を見守 みまも った。
1984年 ねん 2月 がつ にアンドロポフが死去 しきょ するにあたり新 あら たに書記 しょき 長 ちょう に就任 しゅうにん したチェルネンコは、病 やまい に侵 おか され、書記 しょき 長 ちょう 就任 しゅうにん からの数ヶ月 すうかげつ を最後 さいご に書記 しょき 長 ちょう の職務 しょくむ を満足 まんぞく できずにいた。そして1985年 ねん 3月 がつ 、チェルネンコは長 なが い闘病 とうびょう の末 すえ 、73歳 さい で死去 しきょ するのであった。書記 しょき 長 ちょう に在任 ざいにん した期間 きかん はおよそ1年 ねん であり、最 もっと も短命 たんめい なソ連 それん の政権 せいけん であった。しかしチェルネンコの1年 ねん は、冷戦 れいせん の激化 げきか による軍事 ぐんじ 費 ひ の増大 ぞうだい 、西側 にしがわ 諸国 しょこく に向 む けた1984年 ねん ロサンゼルスオリンピック への報復 ほうふく 的 てき ボイコットなど、今日 きょう も知 し られる事象 じしょう が行 おこな われた時期 じき でもあった。
ミハイル・ゴルバチョフ
最後 さいご のソ連 それん 最高 さいこう 指導 しどう 者 しゃ として名 な を誇 ほこ るミハイル・ゴルバチョフは1931年 ねん 3月2日 にち 、スタヴロポリ地方 ちほう の貧 まず しい家庭 かてい に生 せい を受 う けた[ 105] 。ヨシフ・スターリン の大 だい 粛清 しゅくせい の旋風 せんぷう が吹 ふ き荒 あ れる幼少 ようしょう 時代 じだい を過 す ごし、少年 しょうねん 期 き には集団 しゅうだん 農場 のうじょう においてその功績 こうせき が当局 とうきょく によって評価 ひょうか され、1950年 ねん には当局 とうきょく の推薦 すいせん のもとソ連 それん 学術 がくじゅつ 界 かい の権威 けんい 、モスクワ大学 だいがく へと入学 にゅうがく した。在学 ざいがく 中 ちゅう の1952年 ねん にはソビエト連邦 れんぽう 共産党 きょうさんとう へ入党 にゅうとう し、1970年 ねん 、スタヴロポリ地方 ちほう 党 とう 委員 いいん 会 かい の第 だい 一 いち 書記 しょき に就任 しゅうにん する。
第 だい 一 いち 書記 しょき 時代 じだい のゴルバチョフは、スタヴロポリ大 だい 運河 うんが の建設 けんせつ を指揮 しき するなど、後年 こうねん の指導 しどう 者 しゃ 時代 じだい を彷彿 ほうふつ とさせる積極 せっきょく ぶりを発揮 はっき した。1978年 ねん 、チェルネンコによって農業 のうぎょう 担当 たんとう として党 とう 中央 ちゅうおう 委員 いいん 会 かい 書記 しょき に抜擢 ばってき され、2年 ねん 後 ご の1980年 ねん には党 とう 政治 せいじ 局員 きょくいん となる。18年 ねん の長期 ちょうき 政権 せいけん をき上 ずきあ げたレオニード・ブレジネフ の亡 な き後 あと 、ユーリ・アンドロポフ とコンスタンティン・チェルネンコ の時代 じだい を経 へ て、1985年 ねん 、ついに共産党 きょうさんとう 書記 しょき 長 ちょう へと上 のぼ り詰 つ めた。このとき55歳 さい のゴルバチョフは、前任 ぜんにん の3人 にん とはまるで対照 たいしょう 的 てき に活動 かつどう することとなる。
1986年 ねん 11月に開 ひら かれたソ連 それん 共産党 きょうさんとう 大会 たいかい を境 さかい に、ゴルバチョフはソ連 それん のその閉鎖 へいさ 的 てき な体制 たいせい を根本 こんぽん から見直 みなお しに動 うご き始 はじ め、それぞれ「立 た て直 なお し」「情報 じょうほう 公開 こうかい 」を意味 いみ するペレストロイカ とグラスノスチ を提唱 ていしょう した。また外交 がいこう では新 しん 冷戦 れいせん 以降 いこう に悪化 あっか した西側 にしがわ 諸国 しょこく との関係 かんけい 改善 かいぜん 、中 ちゅう ソ対立 たいりつ の解消 かいしょう 、日本 にっぽん との領土 りょうど 問題 もんだい の協議 きょうぎ を進 すす め、その成果 せいか としてベルリンの壁 かべ 崩壊 ほうかい 、冷戦 れいせん 終結 しゅうけつ の宣言 せんげん [ 注釈 ちゅうしゃく 21] があげられる。
1990年 ねん に新設 しんせつ のソビエト連邦 れんぽう 大統領 だいとうりょう に就任 しゅうにん し、低下 ていか しつつあった求心力 きゅうしんりょく を取 と り戻 もど そうと試 こころ みるが、当時 とうじ のソ連 それん 各地 かくち の混乱 こんらん を抑 おさ えることは失敗 しっぱい に終 お わり、保守 ほしゅ 派 は らの引 ひ き起 お こした1991年 ねん の8月 がつ クーデター の失敗 しっぱい 後 ご 、ゴルバチョフの権威 けんい はもはや存在 そんざい しないようなもだった。1991年 ねん 12月の独立 どくりつ 国家 こっか 共同 きょうどう 体 たい の創設 そうせつ と同時 どうじ にソ連邦 それんぽう 大統領 だいとうりょう を辞任 じにん 、これと同時 どうじ にソビエト連邦 れんぽう は消滅 しょうめつ した。
大統領 だいとうりょう 辞任 じにん 後 ご はそのままロシアに住 す み、政治 せいじ 活動 かつどう に専念 せんねん した時期 じき はあるものの、全体 ぜんたい として熱心 ねっしん な政治 せいじ 活動 かつどう を行 おこな うことはなかった。その代 か わり、超 ちょう 大国 たいこく 最後 さいご の指導 しどう 者 しゃ として世界 せかい 各国 かっこく 、とりわけ西側 にしがわ 諸国 しょこく での講演 こうえん やインタビューなどに応 おう じ、緊迫 きんぱく する国際 こくさい 情勢 じょうせい や、長期 ちょうき 的 てき な政権 せいけん と化 か すプーチン政権 せいけん への意見 いけん を求 もと められた。2022年 ねん 8月 がつ 30日 にち モスクワにて死去 しきょ 、歴代 れきだい ソ連 それん 最高 さいこう 指導 しどう 者 しゃ の中 なか では最 さい 長寿 ちょうじゅ の91歳 さい であった。
建国 けんこく 者 しゃ のレーニンは秘密 ひみつ 警察 けいさつ のチェーカー を設立 せつりつ し、即座 そくざ に容疑 ようぎ 者 しゃ の逮捕 たいほ 、投獄 とうごく 、処刑 しょけい などを行 おこな う権限 けんげん を与 あた えられ、これが粛清 しゅくせい の引 ひ き金 がね となった。チェーカーは建前 たてまえ 上 じょう 、党 とう に所属 しょぞく するものとされていたが、実際 じっさい にはレーニン個人 こじん の直属 ちょくぞく であったといっても過言 かごん ではない。チェーカーの無差別 むさべつ な処刑 しょけい は、反 はん 体制 たいせい 派 は はともかく無関係 むかんけい の者 もの までも日常 にちじょう 的 てき に処刑 しょけい しており、時 とき には罪状 ざいじょう をでっち上 あ げてまで処刑 しょけい していた。レーニンは「ニコライ の手 て は血 ち に塗 ぬ れているのだから裁判 さいばん は必要 ひつよう ない」という理由 りゆう で皇帝 こうてい 一家 いっか ともども処刑 しょけい を行 おこな うなど法 ほう に対 たい する姿勢 しせい がずさんであったために、歴史 れきし 家 か ドミトリー・ヴォルコゴーノフ は「ボリシェビキが法 ほう を守 まも るふりさえしなくなった」契機 けいき だと批判 ひはん した。
スターリン時代 じだい には密告 みっこく が奨励 しょうれい されるなど、警察 けいさつ 国家 こっか ・全体 ぜんたい 主義 しゅぎ 国家 こっか としての色合 いろあ いが強 つよ くなった。モスクワ裁判 さいばん など形式 けいしき 的 てき な裁判 さいばん により多 おお くの人々 ひとびと が有罪 ゆうざい の判決 はんけつ をい渡 いわた され、処刑 しょけい されるか各地 かくち の強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ へ送 おく られることになった。スターリンは、トロツキー やキーロフ などの政敵 せいてき たちや党内 とうない 反対 はんたい 派 は を殺 ころ すためにチェーカーを改名 かいめい したGPU (ゲーペーウー)を用 もち いた。
スターリン批判 ひはん 後 ご には、このような抑圧 よくあつ 的 てき なシステムは幾 いく 分 ふん か緩和 かんわ されることになったが、秘密 ひみつ 警察 けいさつ のGPUが改編 かいへん されたKGB として存続 そんぞく し国民 こくみん 生活 せいかつ を強 つよ く監 かん 視 し する体制 たいせい は残 のこ った。
赤 あか は社会 しゃかい 主義 しゅぎ 国 こく 、薄 うす い赤 あか はその影響 えいきょう 下 か にある国 くに
外交 がいこう 関係 かんけい では、東側 ひがしがわ の社会 しゃかい 主義 しゅぎ 陣営 じんえい (ワルシャワ条約 じょうやく 機構 きこう )の盟主 めいしゅ として、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく を筆頭 ひっとう とする西側 にしがわ の資本 しほん 主義 しゅぎ 陣営 じんえい (北大西洋 きたたいせいよう 条約 じょうやく 機構 きこう )と対決 たいけつ していた(いわゆる冷戦 れいせん )。
成立 せいりつ 当初 とうしょ はフランス やイギリス 、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく など大国 たいこく の承認 しょうにん を得 え られず孤立 こりつ したうえ、シベリア出兵 しゅっぺい 等 ひとし も行 おこな われ、またソビエト政府 せいふ はバルト三 さん 国 こく を攻撃 こうげき した。 その後 ご 、モンゴル や東 ひがし トルキスタン を衛星 えいせい 国 こく とした。この頃 ころ からソ連 それん は各国 かっこく に承認 しょうにん されていく。特 とく にアメリカはソ連 それん 経済 けいざい への介入 かいにゅう をはかりいち早 はや く承認 しょうにん した。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 始 はじ めにはバルト三 さん 国 こく やフィンランドにも侵攻 しんこう した。独 どく ソ戦 せん で侵攻 しんこう してきたドイツを撃退 げきたい ・打倒 だとう した第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご に、東 ひがし ドイツやチェコスロバキア、ブルガリア などの東 ひがし ヨーロッパ諸国 しょこく を衛星 えいせい 国 こく 化 か させた。さらにユーゴスラビア が主導 しゅどう する非 ひ 同盟 どうめい 諸国 しょこく と呼 よ ばれる中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく ・インド ・キューバ ・エチオピア ・エジプト ・イラク ・シリア などのいわゆる第 だい 三 さん 世界 せかい と友好 ゆうこう 協力 きょうりょく 条約 じょうやく を結 むす び、関係 かんけい を持 も つ。
経済 けいざい 相互 そうご 援助 えんじょ 会議 かいぎ (コメコン)ではメキシコ 、モザンビーク 、フィンランドといった非 ひ 社会 しゃかい 主義 しゅぎ 協力 きょうりょく 国 こく もあった。東 ひがし アジア (ベトナム 、ラオス 、北朝鮮 きたちょうせん など)、中南米 ちゅうなんべい (チリ 、ニカラグア など)、アフリカ (アンゴラ 、リビア 、コンゴ など)などでも「民族 みんぞく 解放 かいほう 」「反 たん 帝国 ていこく 主義 しゅぎ 」「植民 しょくみん 地 ち 独立 どくりつ 」を唱 とな える共産 きょうさん 主義 しゅぎ 政権 せいけん (専制 せんせい 政治 せいじ が行 おこな われた政権 せいけん もある)の成立 せいりつ に協力 きょうりょく し、アメリカや西 にし ドイツ 、イギリスやフランスなどの西 にし ヨーロッパ諸国 しょこく 、日本 にっぽん などの資本 しほん 主義 しゅぎ 国 こく と対峙 たいじ した。
対 たい 社会 しゃかい 主義 しゅぎ 陣営 じんえい (東側 ひがしがわ )
編集 へんしゅう
ソビエト連邦 れんぽう の軍事 ぐんじ 支援 しえん により、蔣介石 せき 率 ひき いる中国 ちゅうごく 国民党 こくみんとう (国民 こくみん 政府 せいふ )との国共 こっきょう 内戦 ないせん に勝利 しょうり した毛沢東 もうたくとう 率 ひき いる中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう によって1949年 ねん に建国 けんこく された中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく とは、当初 とうしょ 「向 こう ソ一辺倒 いっぺんとう 」を掲 かか げ中 ちゅう ソ友好 ゆうこう 同盟 どうめい 相互 そうご 援助 えんじょ 条約 じょうやく により同盟 どうめい 関係 かんけい にあったが、1960年代 ねんだい の後半 こうはん には領土 りょうど 問題 もんだい による軍事 ぐんじ 衝突 しょうとつ (ダマンスキー島 とう 事件 じけん などの中 ちゅう ソ国境 こっきょう 紛争 ふんそう )や指導 しどう 層 そう の思想 しそう 的 てき な相違 そうい の問題 もんだい から中 ちゅう ソ対立 たいりつ が表面 ひょうめん 化 か する。両国 りょうこく 間 あいだ のこのような対立 たいりつ 関係 かんけい はその後 ご 、中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく における事実 じじつ 上 じょう の内乱 ないらん である文化 ぶんか 大 だい 革命 かくめい が終結 しゅうけつ する1970年代 ねんだい 後半 こうはん まで続 つづ くことになる。
そのような対立 たいりつ 関係 かんけい を見 み たアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく は、ソ連 それん を牽制 けんせい する意図 いと で1970年代 ねんだい に入 はい り急速 きゅうそく に中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく に接近 せっきん し、1979年 ねん には国交 こっこう 樹立 じゅりつ (一方 いっぽう で中華民国 ちゅうかみんこく とは国交 こっこう 断絶 だんぜつ )に至 いた ることになる。一方 いっぽう 、中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく もアメリカの接近 せっきん に応 こた える形 かたち で、東側 ひがしがわ 陣営 じんえい にもかかわらず当時 とうじ のモスクワオリンピック のボイコットとロサンゼルスオリンピック の参加 さんか という、西側 にしがわ と歩調 ほちょう を合 あ わせる行動 こうどう を取 と ることとなる。カンボジア内戦 ないせん やアンゴラ内戦 ないせん 、オガデン戦争 せんそう などのように米 べい 中 ちゅう ソ三 み つ巴 どもえ となる代理 だいり 戦争 せんそう も発生 はっせい した。
その後 ご は、独裁 どくさい 体制 たいせい を敷 し きソ連 それん と対立 たいりつ していた毛沢東 もうたくとう の死去 しきょ と文化 ぶんか 大 だい 革命 かくめい の終焉 しゅうえん 、ゴルバチョフの訪中 ほうちゅう といった要因 よういん により、ソ連 それん と中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく の関係 かんけい も再 ふたた び改善 かいぜん に向 む かった。
1959年 ねん 1月 がつ に、キューバ革命 かくめい でアメリカの支援 しえん を受 う けていた独裁 どくさい 者 しゃ のフルヘンシオ・バティスタ を政権 せいけん の座 ざ から引 ひ きずり下 お ろしたフィデル・カストロ は、当初 とうしょ 米 べい ソ両国 りょうこく との間 あいだ で比較的 ひかくてき 中立 ちゅうりつ な立場 たちば を取 と っていたものの、アメリカのドワイト・D・アイゼンハワー 政権 せいけん はキューバ革命 かくめい 後 のち に産業 さんぎょう の国営 こくえい 化 か を進 すす めたカストロを「社会 しゃかい 主義 しゅぎ 者 しゃ 的 てき 」と警戒 けいかい し距離 きょり を置 お いた。同時 どうじ にソ連 それん が「アメリカの裏庭 うらにわ 」にあるキューバの最高 さいこう 指導 しどう 者 しゃ となったカストロに援助 えんじょ を申 もう し出 で たことから両国 りょうこく は急 きゅう 接近 せっきん し、南北 なんぼく アメリカ大陸 あめりかたいりく における唯一 ゆいいつ のソ連 それん の友好国 ゆうこうこく となる。
その後 ご 、ジョン・F・ケネディ 政権 せいけん 下 か でアメリカはキューバ侵攻 しんこう を画策 かくさく し、1961年 ねん に「ピッグス湾 ぴっぐすわん 事件 じけん 」を起 お こしたことから、カストロはアメリカのキューバ侵攻 しんこう に備 そな えてソ連 それん に武器 ぶき の供与 きょうよ を要求 ようきゅう しはじめた。しかしソ連 それん は表立 おもてだ った武器 ぶき の供与 きょうよ はアメリカを刺激 しげき しすぎると考 かんが え、キューバ軍 ぐん への武器 ぶき 提供 ていきょう の代 か わりに軍事 ぐんじ 顧問 こもん 団 だん を置 お くほか、ソ連 それん の核 かく ミサイル をキューバ国内 こくない に配備 はいび する「アナディル作戦 さくせん 」を可決 かけつ し、1962年 ねん にソ連 それん 製 せい の核 かく ミサイルをキューバに配備 はいび した。しかし、このことを察知 さっち したアメリカは、海軍 かいぐん 艦艇 かんてい によりキューバ海域 かいいき を海上 かいじょう 封鎖 ふうさ し、キューバに近 ちか づくソ連 それん 船舶 せんぱく に対 たい する臨検 りんけん を行 おこな うなど、キューバを舞台 ぶたい にしたアメリカとの軍事 ぐんじ 的 てき 緊張 きんちょう を引 ひ き起 お こした(いわゆるキューバ危機 きき )。
その後 ご もソ連 それん はその崩壊 ほうかい まで、キューバに対 たい する軍事 ぐんじ 的 てき 支援 しえん のみならず経済 けいざい 的 てき 支援 しえん も活発 かっぱつ に行 おこな い、キューバの主要 しゅよう 産業 さんぎょう であるサトウキビ を破格 はかく の価格 かかく で買 か い取 と り、その見返 みかえ りにキューバがその供給 きょうきゅう を完全 かんぜん に輸入 ゆにゅう に頼 たよ っている石油 せきゆ を与 あた えるなどさまざまな支援 しえん を行 おこな い続 つづ けた。
対 たい 資本 しほん 主義 しゅぎ 陣営 じんえい (西側 にしがわ )
編集 へんしゅう
帝政 ていせい ロシア時代 じだい に行 い っていた南下 なんか 政策 せいさく により日本 にっぽん やイギリスと衝突 しょうとつ し、イギリスと日 にち 英 えい 同盟 どうめい を結 むす んでいた日本 にっぽん との間 あいだ に日 にち 露 ろ 戦争 せんそう が起 お きて敗北 はいぼく した。第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 時 とき 、ボリシェヴィキ 政権 せいけん の成立 せいりつ 後 ご に、他 た の連合 れんごう 国 こく (三 さん 国 こく 協商 きょうしょう )を無視 むし して対 たい 独 どく 単独 たんどく 講和 こうわ を行 おこな ったため、ドイツ兵 へい の通過 つうか を許可 きょか するのではないかとして、日本 にっぽん および中華民国 ちゅうかみんこく (北京 ぺきん 政府 せいふ )から警戒 けいかい されることとなった(日 ひ 支 ささえ 共同 きょうどう 防 ぼう 敵 てき 軍事 ぐんじ 協定 きょうてい )。ドイツへ資源 しげん 供与 きょうよ するのではないかとして、イギリスおよびフランスからも警戒 けいかい され、両国 りょうこく によってシベリア出兵 しゅっぺい を打診 だしん され、実際 じっさい に出兵 しゅっぺい した日米 にちべい と直接 ちょくせつ 衝突 しょうとつ することとなった。その後 ご 、連合 れんごう 国 こく の擁護 ようご する臨時 りんじ 全 ぜん ロシア政府 せいふ を打 う ち負 ま かしたものの、そのときに日本 にっぽん へと亡命 ぼうめい した白 しろ 系 けい ロシア人 じん らによって反 はん ソ宣伝 せんでん を広 ひろ められた(反共 はんきょう 主義 しゅぎ #歴史 れきし )。
日本 にっぽん の帝国 ていこく 議会 ぎかい は1922年 ねん の政変 せいへん を受 う け、「露西亜 ろしあ 政変 せいへん 及ビ西 にし 比 ひ 利 とぎ 亜 あ 事変 じへん ノ為 ため ヲ被 ひ リタル者 しゃ 等 とう ノ救恤 きゅうじゅつ ニ関 せき スル法律 ほうりつ (ロシア政変 せいへん 及 およ びシベリア事変 じへん の為 ため を被 こうむ りしたる者 しゃ 等 とう の救恤 きゅうじゅつ に関 かん する法律 ほうりつ )」を成立 せいりつ させ、ロシアとシベリアからの引揚者 しゃ に国債 こくさい や現金 げんきん を支給 しきゅう する措置 そち をとった[ 106] 。救恤 きゅうじゅつ (きゅうじゅつ)とは、金品 きんぴん などを与 あた えて救済 きゅうさい するという意味 いみ である。
ソビエト連邦 れんぽう の成立 せいりつ 後 ご 、コミンテルン支部 しぶ の中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう によって漢 かん 口 こう 事件 じけん を起 お こしたが、その後 ご に反日 はんにち 運動 うんどう を停止 ていし する方向 ほうこう で動 うご いていた。しかし、中 ちゅう ソ紛争 ふんそう 勝利 しょうり 後 ご に、中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう によって朝鮮 ちょうせん 共産党 きょうさんとう に対 たい し満 まん 洲 しゅう にある日本 にっぽん 領事館 りょうじかん などへの襲撃 しゅうげき を行 おこな わせた(間島 まじま 共産党 きょうさんとう 暴動 ぼうどう )ほか、中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう によって満 まん 洲 しゅう のソビエト化 か を計画 けいかく していたが、関東 かんとう 州 しゅう の日本 にっぽん 警察 けいさつ によって計画 けいかく を暴 あば かれてしまう[ 107] [ 108] 。その後 ご 、日本 にっぽん によって満 まん 洲 しゅう 事変 じへん を起 お こされ、満 まん 洲 しゅう 国 こく が建国 けんこく されてしまい、満 まん 洲 しゅう 国 こく との国境 こっきょう などでたびたび日本 にっぽん と軍事 ぐんじ 的 てき 衝突 しょうとつ を起 お こしていた(日 にち ソ国境 こっきょう 紛争 ふんそう )。中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう が朝鮮 ちょうせん 地方 ちほう の普天 ふてん 堡を襲撃 しゅうげき したり(普天 ふてん 堡の戦 たたか い )と、日本 にっぽん に対 たい し赤色 あかいろ テロ活動 かつどう を続 つづ けたりしていた。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 ちゅう の1941年 ねん 4月 がつ に日 にち ソ中立 ちゅうりつ 条約 じょうやく が締結 ていけつ され、独 どく ソ戦 せん 開始 かいし 後 ご は連合 れんごう 国 こく に所属 しょぞく した。アメリカ軍 ぐん はドーリットル空襲 くうしゅう の際 さい にはウラジオストク を避難 ひなん 場所 ばしょ とすることを検討 けんとう してソ連 それん に提案 ていあん したが、日本 にっぽん と中立 ちゅうりつ 条約 じょうやく を結 むす んでいた同国 どうこく は拒否 きょひ している[ 109] 。
ヤルタ会議 かいぎ において連合 れんごう 国 こく 間 あいだ で結 むす ばれた密約 みつやく を元 もと に、1945年 ねん 8月 がつ にこれを一方 いっぽう 的 てき に破棄 はき し日本 にっぽん に宣戦 せんせん 布告 ふこく し(ソ連 それん 対 たい 日 にち 宣戦 せんせん 布告 ふこく )、日本 にっぽん が連合 れんごう 国 こく に降伏 ごうぶく したにもかかわらず侵略 しんりゃく を続 つづ け千島 ちしま 列島 れっとう ・北方 ほっぽう 地域 ちいき なども占拠 せんきょ した。そのうえ、多 おお くの日本人 にっぽんじん 捕虜 ほりょ を戦後 せんご の長 なが い間 あいだ シベリアなどに拘留 こうりゅう して強制 きょうせい 労働 ろうどう に処 しょ し、全 ぜん 収容 しゅうよう 者 しゃ の一 いち 割 わり 以上 いじょう が病気 びょうき ・事故 じこ により死亡 しぼう している(シベリア抑留 よくりゅう )。
このような経緯 けいい による日本 にっぽん の反 はん ソ感情 かんじょう に加 くわ え、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご に吉田 よしだ 茂 しげる 首相 しゅしょう がアメリカとの同盟 どうめい 関係 かんけい (日米 にちべい 同盟 どうめい )を主軸 しゅじく とした外交 がいこう を採用 さいよう したことから、日 にち ソ関係 かんけい はしばらく進展 しんてん がなかった。その後 ご 、西側 にしがわ 諸国 しょこく 以外 いがい の国 くに も重視 じゅうし した独自 どくじ 外交 がいこう を模索 もさく する鳩山 はとやま 一郎 いちろう へ政権 せいけん が交代 こうたい したことで、日 にち ソ間 あいだ での国交 こっこう 正常 せいじょう 化 か の機運 きうん が生 う まれ、1956年 ねん に日 にち ソ共同 きょうどう 宣言 せんげん を出 だ して国交 こっこう を回復 かいふく し、ソ連 それん が反対 はんたい し続 つづ けていたために実現 じつげん しなかった日本 にっぽん の国際 こくさい 連合 れんごう 加盟 かめい が実現 じつげん した。
しかし、その後 ご もソ連 それん が北方領土 ほっぽうりょうど を不法 ふほう 占拠 せんきょ し続 つづ けたことや、日本 にっぽん 社会党 しゃかいとう などの左翼 さよく 政党 せいとう や反 はん 政府 せいふ 組織 そしき に資金 しきん 援助 えんじょ を行 おこな うなど内政 ないせい 干渉 かんしょう を行 おこな っていたこと、さらに日本 にっぽん がアメリカの同盟 どうめい 国 こく で連合 れんごう 国軍 こくぐん による占領 せんりょう の終了 しゅうりょう 後 ご もアメリカ軍 ぐん の駐留 ちゅうりゅう が続 つづ いたこともあり(在 ざい 日米 にちべい 軍 ぐん )、関係 かんけい 改善 かいぜん は進展 しんてん しないまま推移 すいい した。その一方 いっぽう で、与党 よとう の自由民主党 じゆうみんしゅとう 所属 しょぞく の一部 いちぶ の議員 ぎいん は、自主 じしゅ 的 てき にソ連 それん とのパイプを持 も ち日 び ソ関係 かんけい が完全 かんぜん に断絶 だんぜつ することはなかった。北洋 ほくよう 漁業 ぎょぎょう や北洋 ほくよう 材 ざい の輸入 ゆにゅう 、機械 きかい や鉄鋼 てっこう 製品 せいひん の輸出 ゆしゅつ など両国 りょうこく の経済 けいざい 関係 かんけい はソ連 それん の崩壊 ほうかい に至 いた るまで続 つづ いた。
亡命 ぼうめい した白 しろ 系 けい ロシア人 じん が満 まん 洲 しゅう のハルビン市 し を中心 ちゅうしん に居住 きょじゅう していた。崩壊 ほうかい した臨時 りんじ 全 ぜん ロシア政府 せいふ (オムスク政府 せいふ )や白 しろ 軍 ぐん と関 かか わりのある者 もの によって、ザリヤ やグンバオ などのソ連 それん に批判 ひはん 的 てき な白 しろ 系 けい 露 ろ 字 じ 新聞 しんぶん が執筆 しっぴつ されており、白 しろ 系 けい ロシア人 じん が中国 ちゅうごく や日本 にっぽん とともに反 はん 革命 かくめい を計画 けいかく していたため、ソ連 それん は満 まん 洲 しゅう に住 す む白 しろ 系 けい ロシア人 じん に手 て を焼 や いていた(たとえば、中 ちゅう ソ紛争 ふんそう におけるハバロフスク議定 ぎてい 書 しょ には、白 しろ 系 けい ロシア人 じん に対 たい する条項 じょうこう が含 ふく まれている)。
大戦 たいせん 末期 まっき の1945年 ねん にソ連 それん は満 まん 洲 しゅう 国 こく に攻 せ め込 こ み(ソ連 それん 対 たい 日 にち 参戦 さんせん )、満 まん 洲 しゅう 国 こく を崩壊 ほうかい させ、満 まん 洲 しゅう を共産 きょうさん 化 か させて白 しろ 系 けい ロシア人 じん を満 まん 洲 しゅう の表 おもて 舞台 ぶたい から追 お い出 だ した。
1924年 ねん のジノヴィエフ書簡 しょかん 事件 じけん により、イギリスから警戒 けいかい される。さらに1927年 ねん のアルコス事件 じけん によって、秘密 ひみつ 文書 ぶんしょ がイギリスに漏 も れてしまう。その一方 いっぽう で、1941年 ねん 7月 がつ には独 どく ソ戦 せん を受 う けて軍事 ぐんじ 同盟 どうめい の条約 じょうやく を結 むす ぶ。しかし、1960年 ねん にはイギリスに暗号 あんごう 文 ぶん 解読 かいどく のためのアメリカのベノナ 計画 けいかく へと参加 さんか されてしまった。
アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく とは、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん においては連合 れんごう 国軍 こくぐん における同盟 どうめい 国 こく として協力 きょうりょく 関係 かんけい にあり、武器 ぶき の提供 ていきょう を受 う けるなど親密 しんみつ な関係 かんけい にあった。
しかし、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご は東側 ひがしがわ の共産 きょうさん 主義 しゅぎ 陣営 じんえい の盟主 めいしゅ として、対 たい する西側 にしがわ の資本 しほん 主義 しゅぎ の事実 じじつ 上 じょう の盟主 めいしゅ となっていたアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく と、いわゆる「冷戦 れいせん 」という形 かたち で対立 たいりつ することになった。
このような関係 かんけい の変化 へんか を受 う けて、1950年代 ねんだい における朝鮮 ちょうせん 戦争 せんそう や1960年代 ねんだい におけるベトナム戦争 せんそう など、いわゆる代理 だいり 戦争 せんそう という間接 かんせつ 的 てき な形 かたち で軍事 ぐんじ 的 てき 対立 たいりつ をしたが、全面 ぜんめん 的 てき な核 かく 戦争 せんそう に対 たい する恐怖 きょうふ が双方 そうほう の抑止 よくし 力 りょく となったこともあり、直接的 ちょくせつてき かつ全面 ぜんめん 的 てき な軍事 ぐんじ 的 てき 対立 たいりつ はなかった。しかしベルリン封鎖 ふうさ やキューバ危機 きき などでは全面 ぜんめん 的 てき な軍事 ぐんじ 的 てき 対立 たいりつ の一 いち 歩 ほ 手前 てまえ まで行 い ったほか、U-2撃墜 げきつい 事件 じけん における領空 りょうくう 侵犯 しんぱん を行 おこな ったアメリカ軍 ぐん 機 き の撃墜 げきつい など、限定 げんてい 的 てき な軍事 ぐんじ 的 てき 対立 たいりつ があったのも事実 じじつ である。
このような対立 たいりつ 関係 かんけい にあったにもかかわらず、冷戦 れいせん 下 か においても正式 せいしき な国交 こっこう が途絶 とだ えることはなく、双方 そうほう の首都 しゅと に対 たい する民間 みんかん 機 き の乗 の り入 い れが行 おこな われていた。
外国 がいこく 、特 とく に西側 にしがわ 諸国 しょこく への個人 こじん 的 てき 理由 りゆう での渡航 とこう は、亡命 ぼうめい とそれに伴 ともな う国家 こっか 機密 きみつ の流出 りゅうしゅつ や外貨 がいか 流出 りゅうしゅつ などを防止 ぼうし することを主 おも な理由 りゆう として原則 げんそく 的 てき に禁止 きんし されており、渡航 とこう 先 さき の国 くに と国交 こっこう があるか否 ひ かに関 かか わらず当局 とうきょく の許可 きょか がない限 かぎ り渡航 とこう は不可能 ふかのう であった。許可 きょか が下 お りた場合 ばあい でもさまざまな制限 せいげん があり、少 すく なくとも個人 こじん 単位 たんい の自由 じゆう な旅行 りょこう は不可能 ふかのう であった。これはソ連 それん 社会 しゃかい 、および東側 ひがしがわ の社会 しゃかい 主義 しゅぎ 体制 たいせい の閉鎖 へいさ 性 せい の象徴 しょうちょう として西側 にしがわ の資本 しほん 主義 しゅぎ 陣営 じんえい から批判 ひはん された。
さらに、外国 がいこく から帰国 きこく した旅行 りょこう 者 しゃ は必 かなら ずといっていいほどに諜報 ちょうほう 部 ぶ から尋問 じんもん を受 う けるため、本人 ほんにん にはその意思 いし がなくても外国 がいこく で見 み たことを洗 あら いざらい喋 しゃべ らねばならず、結果 けっか 的 てき にスパイ をしてしまうというケースが多 おお かった。他 ほか にも、アエロフロート のような民間 みんかん 航空 こうくう 会社 かいしゃ や乗客 じょうきゃく が実際 じっさい にスパイとしての役割 やくわり を兼 か ねている場合 ばあい もあった[ 注釈 ちゅうしゃく 22] 。ただし、経済 けいざい 相互 そうご 援助 えんじょ 会議 かいぎ (コメコン)加盟 かめい 国 こく 同士 どうし での海外 かいがい 渡航 とこう は容易 ようい に可能 かのう であり、観光 かんこう や就労 しゅうろう 、留学 りゅうがく などさまざまな目的 もくてき にて人的 じんてき 交流 こうりゅう は存在 そんざい した。
西側 にしがわ 諸国 しょこく 人 じん との交際 こうさい や結婚 けっこん は多 おお くの障害 しょうがい があり、特 とく に幅広 はばひろ く指定 してい された「国益 こくえき に直接 ちょくせつ 関係 かんけい する者 もの 」や「国家 こっか 機密 きみつ に関 かか わる者 もの 」の婚姻 こんいん は禁 きん じられていた。それでも一応 いちおう 、結婚 けっこん 自体 じたい は可能 かのう であったが(石井 いしい 紘 ひろし 基 もと のナターシャ夫人 ふじん や川村 かわむら カオリ の母親 ははおや のエレーナのように)、その時点 じてん でソ連 それん 社会 しゃかい での出世 しゅっせ の道 みち は途絶 とだ えたうえに、今度 こんど は配偶 はいぐう 者 しゃ の母国 ぼこく に出国 しゅっこく するためのパスポート 発給 はっきゅう に長 なが い年月 としつき を要 よう した。これは西側 にしがわ の資本 しほん 主義 しゅぎ 国 こく に限 かぎ らず、衛星 えいせい 国 こく の人 ひと との結婚 けっこん でさえも当局 とうきょく からさまざまな妨害 ぼうがい を受 う けたといわれている。
外国 がいこく 航路 こうろ を運行 うんこう する船舶 せんぱく や外国 がいこく で演奏 えんそう 旅行 りょこう をする楽団 がくだん のみならず、海軍 かいぐん 艦艇 かんてい に至 いた るまで、乗務 じょうむ 員 いん や楽団 がくだん 員 いん の亡命 ぼうめい を阻止 そし し、外国 がいこく における言論 げんろん を監視 かんし するために必 かなら ずソ連 それん 共産党 きょうさんとう の政治 せいじ 将校 しょうこう が同行 どうこう していた。それでもスポーツ大会 たいかい や演奏 えんそう 会 かい などでの亡命 ぼうめい は個人 こじん や集団 しゅうだん を問 と わず絶 た えなかった。しかし運 うん よく移住 いじゅう できた場合 ばあい でも、移住 いじゅう 先 さき の国家 こっか や社会 しゃかい からは「ソ連 それん のスパイ」という疑念 ぎねん を持 も たれることが多 おお く、決 けっ して安住 あんじゅう の地 ち とは言 い えなかった。
例外 れいがい として、1950年代 ねんだい までのユダヤ人 じん のイスラエル 出国 しゅっこく がある。ソ連 それん 政府 せいふ はパレスチナ でのイスラエル建国 けんこく (1948年 ねん )を支持 しじ し、大戦 たいせん からの復興 ふっこう 途上 とじょう にある自国 じこく からユダヤ人 じん を平和 へいわ 的 てき に減 へ らせるこの移住 いじゅう 政策 せいさく を積極 せっきょく 的 てき に推進 すいしん した。しかし、間 ま もなくイスラエルがアメリカの強 つよ い支援 しえん を受 う け、対抗 たいこう したアラブ諸国 しょこく がソ連 それん との関係 かんけい を深 ふか めると、このユダヤ人 じん 移住 いじゅう も徐々 じょじょ に減 へ っていった。1967年 ねん の第三次中東戦争 だいさんじちゅうとうせんそう で両国 りょうこく の国交 こっこう は断絶 だんぜつ し、以後 いご 、冷戦 れいせん の終結 しゅうけつ まで集団 しゅうだん 出国 しゅっこく はほとんど行 おこな われなかった。
もう一 ひと つの例外 れいがい として、ソ連 それん 政府 せいふ の意 い に沿 そ わない人間 にんげん に対 たい する国外 こくがい 追放 ついほう があった。国家 こっか の安定 あんてい や社会 しゃかい 主義 しゅぎ 体制 たいせい の発展 はってん の害 がい となり、かつ国外 こくがい での知名度 ちめいど が高 たか いために国内 こくない での粛清 しゅくせい や拘禁 こうきん が困難 こんなん な場合 ばあい には、対象 たいしょう 者 しゃ の市民 しみん 権 けん やパスポートを奪 うば い、西側 にしがわ 諸国 しょこく に強制 きょうせい 追放 ついほう した。これによりレフ・トロツキー やアレクサンドル・ソルジェニーツィン はソ連 それん から出国 しゅっこく したが、追放 ついほう 者 しゃ の帰国 きこく を認 みと めない点 てん では、外国 がいこく 渡航 とこう 禁止 きんし と同一 どういつ の発想 はっそう に立 た った政策 せいさく であった。しかし政府 せいふ の意 い に沿 そ わない人間 にんげん であっても、物理 ぶつり 学者 がくしゃ のアンドレイ・サハロフ のような、軍事 ぐんじ 機密 きみつ や技術 ぎじゅつ の流出 りゅうしゅつ につながる人物 じんぶつ は国外 こくがい 追放 ついほう せずに、国内 こくない で軟禁 なんきん したり流刑 りゅうけい を科 か したりする形 かたち を取 と った。
ソ連 それん 初 はつ の女性 じょせい 宇宙 うちゅう 飛行 ひこう 士 し ワレンチナ・テレシコワ (中央 ちゅうおう の女性 じょせい )。ニキータ・フルシチョフ (右 みぎ )らと共 とも に(1963年 ねん )
スプートニク1号 ごう の軌道 きどう を示 しめ すソ連 それん の切手 きって
航空 こうくう 宇宙 うちゅう 技術 ぎじゅつ では、アメリカとの対抗 たいこう 上 じょう 、国 くに の威信 いしん をかけた開発 かいはつ が行 おこな われた(宇宙 うちゅう 開発 かいはつ 競争 きょうそう )。人類 じんるい 初 はつ の人工 じんこう 衛星 えいせい 「スプートニク1号 ごう 」の打 う ち上 あ げ成功 せいこう 、ユーリ・ガガーリン による人類 じんるい 初 はつ の有人 ゆうじん 宇宙 うちゅう 飛行 ひこう の成功 せいこう 、宇宙 うちゅう ステーション 「ミール 」の長期間 ちょうきかん に渡 わた る運用 うんよう の成功 せいこう などの宇宙 うちゅう 開発 かいはつ のほか、世界 せかい 初 はつ の原子力 げんしりょく 発電 はつでん 所 しょ オブニンスク を建設 けんせつ するなど、ソ連 それん は人類 じんるい の巨大 きょだい 科学 かがく に偉大 いだい な足跡 あしあと を残 のこ している。現代 げんだい のロケット工学 こうがく や宇宙 うちゅう 開発 かいはつ の基礎 きそ は、ソ連 それん のコンスタンチン・ツィオルコフスキー が築 きず いたものである。
航空機 こうくうき でもミコヤン・グレビッチ設計 せっけい 局 きょく (ミグ )、イリューシン 設計 せっけい 局 きょく 、ツポレフ 設計 せっけい 局 きょく などによって独創 どくそう 的 てき な機構 きこう が開発 かいはつ され、自国 じこく での軍用 ぐんよう 機 き 調達 ちょうたつ を可能 かのう とした他 ほか 、衛星 えいせい 国 こく への販売 はんばい にも成功 せいこう し、ソ連 それん 崩壊 ほうかい 後 ご にも保守 ほしゅ 部品 ぶひん 販売 はんばい による収益 しゅうえき をもたらした。一方 いっぽう で経済 けいざい 効率 こうりつ や品質 ひんしつ の向上 こうじょう には無頓着 むとんじゃく なままで、国内 こくない と衛星 えいせい 国 こく 以外 いがい ではほとんど採用 さいよう されず、特 とく に採算 さいさん 性 せい を重視 じゅうし する民間 みんかん 機 き の採用 さいよう は皆無 かいむ であった。これらの宇宙 うちゅう 研究 けんきゅう や原子力 げんしりょく 研究 けんきゅう は、関係 かんけい 者 しゃ 以外 いがい の立 た ち入 い りを許 ゆる さず、地図 ちず にも記載 きさい されない閉鎖 へいさ 都市 とし で行 おこな われることがあった。
一方 いっぽう で、航空 こうくう 宇宙 うちゅう 、土木 どぼく 、建築 けんちく など国 くに が推進 すいしん する分野 ぶんや 以外 いがい では遅 おく れが目立 めだ った。特 とく にスターリン時代 じだい では、科学 かがく 的 てき 見地 けんち よりイデオロギーが優先 ゆうせん されることがしばしばであり、特 とく にトロフィム・ルイセンコ の提唱 ていしょう したルイセンコ理論 りろん などにより、ソ連 それん の農業 のうぎょう は壊滅 かいめつ 的 てき な被害 ひがい を受 う け、輸入 ゆにゅう 国 こく に転落 てんらく した。計画 けいかく 経済 けいざい による工場 こうじょう の建設 けんせつ や開発 かいはつ は、時 とき として実情 じつじょう を無視 むし したものとなり、利益 りえき 面 めん や環境 かんきょう 面 めん で失敗 しっぱい することもたびたびであった。このため、地域 ちいき によっては土壌 どじょう や河川 かせん に深刻 しんこく な環境 かんきょう 破壊 はかい が発生 はっせい し、多 おお くの人 ひと が健康 けんこう 被害 ひがい を受 う けることになった。さらにチェルノブイリ原子力 げんしりょく 発電 はつでん 所 しょ 事故 じこ に代表 だいひょう されるような官僚 かんりょう 的 てき な隠蔽 いんぺい 体質 たいしつ はこれらの被害 ひがい を表面 ひょうめん 上 じょう は覆 おお い隠 かく し、被害 ひがい を拡大 かくだい させた。特 とく にアラル海 あらるかい の開発 かいはつ 計画 けいかく は20世紀 せいき 最大 さいだい の環境 かんきょう 破壊 はかい と呼 よ ばれる事態 じたい を引 ひ き起 お こした。時 とき には土木 どぼく 工事 こうじ などに「国家 こっか 経済 けいざい のための核 かく 爆発 ばくはつ 」が使用 しよう されることすらあった。
原油 げんゆ など資源 しげん に依存 いぞん する構造 こうぞう から重厚 じゅうこう 長大 ちょうだい 産業 さんぎょう を重視 じゅうし したために「軽薄 けいはく 短小 たんしょう 産業 さんぎょう 」に対応 たいおう できず、半導体 はんどうたい や集積 しゅうせき 回路 かいろ 、液晶 えきしょう 技術 ぎじゅつ でも大幅 おおはば に遅 おく れを取 と り、西側 にしがわ のようにコンピュータの急速 きゅうそく な進歩 しんぽ と一般 いっぱん 生活 せいかつ に至 いた る本格 ほんかく 的 てき 普及 ふきゅう を実現 じつげん することはできず、ハイテク分野 ぶんや で決定的 けっていてき に立 た ち遅 おく れることとなった。軍事 ぐんじ 利用 りよう 目的 もくてき で東芝 とうしば や日立製作所 ひたちせいさくしょ などの日本 にっぽん の民間 みんかん メーカーから製品 せいひん や技術 ぎじゅつ を導入 どうにゅう することもあった(東芝機械 とうしばきかい ココム違反 いはん 事件 じけん )。特 とく に半導体 はんどうたい 分野 ぶんや は2023年 ねん 時点 じてん (ロシア連邦 れんぽう )でもアメリカやアジアに後 おく れをとり、輸入 ゆにゅう 頼 たの みとなっている[ 110] 。
宇宙 うちゅう 食 しょく など国 くに が推進 すいしん する分野 ぶんや と関連 かんれん がある研究 けんきゅう テーマには資金 しきん が拠出 きょしゅつ されていた[ 111] 。
ソ連 それん では研究 けんきゅう 開発 かいはつ のために国立 こくりつ の研究 けんきゅう 機関 きかん が設立 せつりつ されたが、崩壊 ほうかい により資金 しきん 不足 ふそく に陥 おちい り、特許 とっきょ や技術 ぎじゅつ を西側 にしがわ の企業 きぎょう に売却 ばいきゃく した例 れい もある[ 111] 。また科学 かがく 者 しゃ や技術 ぎじゅつ 者 しゃ が仕事 しごと を求 もと め西側 にしがわ へ移住 いじゅう する頭脳 ずのう 流出 りゅうしゅつ により後 のち の研究 けんきゅう 開発 かいはつ に支障 ししょう を来 きた した。
国民 こくみん は自分 じぶん の在住 ざいじゅう している地域 ちいき 以外 いがい への遠距離 えんきょり 移動 いどう が事実 じじつ 上 じょう 限 かぎ られていただけでなく、国外 こくがい からの旅行 りょこう 者 しゃ のソビエト国内 こくない における移動 いどう に大幅 おおはば な制限 せいげん があったため、国内外 こくないがい の交通 こうつう に対 たい する需要 じゅよう は非常 ひじょう に限 かぎ られていた。鉄道 てつどう 網 もう は、長距離 ちょうきょり や近距離 きんきょり を問 と わず軍事 ぐんじ 転用 てんよう が容易 ようい なことから比較的 ひかくてき 整備 せいび が進 すす んでいたが、西側 にしがわ 諸国 しょこく と違 ちが い個人 こじん 所有 しょゆう の自動車 じどうしゃ の数 かず が限 かぎ られていたことから、高速 こうそく 道路 どうろ やガソリンスタンド 、レンタカー 、タクシー などの自動車 じどうしゃ インフラは貧弱 ひんじゃく なままであった。
外国 がいこく 、特 とく に西側 にしがわ 諸国 しょこく への個人 こじん 的 てき 理由 りゆう での渡航 とこう は、亡命 ぼうめい と外貨 がいか 流出 りゅうしゅつ を防 ふせ ぐということを主 おも な理由 りゆう に原則 げんそく 的 てき に禁止 きんし されており、また国交 こっこう がある国 くに であろうがなかろうが、当局 とうきょく の許可 きょか がない限 かぎ り渡航 とこう は不可能 ふかのう であった。許可 きょか が下 お りた場合 ばあい でもさまざまな制限 せいげん があり、個人 こじん 単位 たんい の自由 じゆう な旅行 りょこう は不可能 ふかのう であった。しかしながら、国力 こくりょく と友好 ゆうこう 関係 かんけい を誇示 こじ することと外貨 がいか 獲得 かくとく を目的 もくてき に、国外 こくがい への航空機 こうくうき や船舶 せんぱく による定期 ていき 便 びん は比較的 ひかくてき 整備 せいび されていた。
ソ連 それん 時代 じだい のアエロフロート の旗 はた
広大 こうだい な国土 こくど は主 おも に航空機 こうくうき によって結 むす ばれていた。国内 こくない の航空 こうくう 路線 ろせん 網 もう は、唯一 ゆいいつ にして最大 さいだい の航空 こうくう 会社 かいしゃ で、ナショナル・フラッグ・キャリア である国営 こくえい のアエロフロート・ソビエト航空 こうくう によって運行 うんこう されており、長距離 ちょうきょり 国際線 こくさいせん から国内 こくない 幹線 かんせん 、航空機 こうくうき によってのみアクセスが可能 かのう な僻地 へきち や、舗装 ほそう された滑走 かっそう 路 ろ が整備 せいび されていない地方 ちほう 空港 くうこう への運行 うんこう が可能 かのう なように、超 ちょう 音速 おんそく 旅客機 りょかくき を含 ふく む大型 おおがた ジェット機 じぇっとき からターボプロップ 機 き 、小型 こがた 複葉 ふくよう 機 き や大型 おおがた 貨物 かもつ 機 き までさまざまな機材 きざい を運行 うんこう していた。
使用 しよう 機材 きざい のほとんどは、イリューシン やツポレフ 、ヤコブレフ などの国産 こくさん 機材 きざい であったが、一部 いちぶ はチェコスロバキアやポーランドなど東側 ひがしがわ 友好国 ゆうこうこく の機材 きざい も導入 どうにゅう されていた。有事 ゆうじ にはそのまま軍事 ぐんじ 利用 りよう できるように、一部 いちぶ の機材 きざい は銃座 じゅうざ が残 のこ されたまま運航 うんこう されていた。
尾 お 部 ぶ に銃座 じゅうざ を残 のこ したアエロフロートのイリューシンIl-76
同 おな じく国際線 こくさいせん もアエロフロートによってのみ運行 うんこう されていたが、ソビエト国民 こくみん の海外 かいがい 渡航 とこう や国外 こくがい からの旅行 りょこう 者 しゃ のソビエト国内 こくない における移動 いどう には大幅 おおはば な制限 せいげん があった。一方 いっぽう で、国力 こくりょく と友好 ゆうこう 関係 かんけい を誇示 こじ することと、外貨 がいか 獲得 かくとく を目的 もくてき に、イギリス 、日本 にっぽん 、アメリカ などの西側 にしがわ の主要 しゅよう 国 こく や東 ひがし ドイツ やポーランド 、ブルガリア などの東欧 とうおう の衛星 えいせい 国 こく 、キューバ やアンゴラ 、北朝鮮 きたちょうせん などの友好国 ゆうこうこく をはじめとする世界 せかい 各国 かっこく に乗 の り入 い れを行 おこな っていた。
しかし、国力 こくりょく と友好 ゆうこう 関係 かんけい を誇示 こじ することという主 おも な目的 もくてき から、完全 かんぜん に採算 さいさん 度外視 どがいし で運行 うんこう していたこともあり格安 かくやす な航空 こうくう 料金 りょうきん で提供 ていきょう していたものの、その空港 くうこう 、機内 きない サービスは西側 にしがわ 諸国 しょこく のものには遠 とお く及 およ ばなかったことから、西側 にしがわ 諸国 しょこく の多 おお くでは格安 かくやす な料金 りょうきん と劣悪 れつあく なサービスでのみ知 し られていた。
海外 かいがい からは多 おお くの友好国 ゆうこうこく の航空 こうくう 会社 かいしゃ がモスクワやハバロフスクなどの大都市 だいとし を中心 ちゅうしん に乗 の り入 い れていたほか、アメリカ、イギリス、日本 にっぽん 、西 にし ドイツなどの西側 にしがわ 諸国 しょこく からも、パンアメリカン航空 こうくう 、英国 えいこく 海外 かいがい 航空 こうくう や日本航空 にほんこうくう 、ルフトハンザ・ドイツ航空 こうくう などのナショナル・フラッグ・キャリア航空 こうくう 会社 かいしゃ が乗 の り入 い れていた。
西側 にしがわ 諸国 しょこく に乗 の り入 い れた際 さい には、航路 こうろ から外 はず れて軍事 ぐんじ 基地 きち や港湾 こうわん 施設 しせつ の近 ちか くを飛 と ぶことも多々 たた あったと報告 ほうこく されており、そのため日本 にっぽん でも航空 こうくう 自衛隊 じえいたい の基地 きち と併設 へいせつ している千歳空港 ちとせくうこう への乗 の り入 い れを拒否 きょひ されていた。さらにイリューシンIL-76などは尾 お 部 ぶ に銃座 じゅうざ を残 のこ したまま(銃 じゅう は取 と り外 はず されていた)運航 うんこう されていた機材 きざい もある。
日本 にっぽん との間 あいだ は日本航空 にほんこうくう とアエロフロートが東京 とうきょう (羽田空港 はねだくうこう 、成田空港 なりたくうこう )、新潟 にいがた (新潟 にいがた 空港 くうこう )とモスクワ、ハバロフスク、イルクーツクとの間 あいだ に定期 ていき 便 びん を運行 うんこう しており、一部 いちぶ 路線 ろせん においては日本航空 にほんこうくう とのコードシェア 運航 うんこう も行 おこな われていた。
シベリア鉄道 てつどう を代表 だいひょう とする鉄道 てつどう 網 もう によって各 かく 都市 とし が結 むす ばれていたほか、衛星 えいせい 国 こく を中心 ちゅうしん とした近隣 きんりん 諸国 しょこく に国際 こくさい 列車 れっしゃ も運行 うんこう されていた。モスクワやレニングラード(現在 げんざい のサンクトペテルブルク)などのいくつかの大都市 だいとし には防空壕 ぼうくうごう を兼 か ねた地下鉄 ちかてつ 網 あみ が整備 せいび されており、社会 しゃかい 主義 しゅぎ 建設 けんせつ の成功 せいこう を誇示 こじ する目的 もくてき で、スターリン時代 じだい に建設 けんせつ された一部 いちぶ の駅 えき 構内 こうない は宮殿 きゅうでん のような豪華 ごうか な装飾 そうしょく が施 ほどこ されていた。
個人 こじん による自動車 じどうしゃ の所有 しょゆう だけでなく、自分 じぶん の在住 ざいじゅう している地域 ちいき 以外 いがい への遠距離 えんきょり 移動 いどう が事実 じじつ 上 じょう 限 かぎ られていたこともあり、西側 にしがわ 諸国 しょこく で行 おこな われていたような高速 こうそく 道路 どうろ による国民 こくみん の自由 じゆう な移動 いどう は一般 いっぱん 的 てき なものではなかった。大都市 だいとし の市街地 しがいち にはトロリーバス を含 ふく むバス 路線 ろせん 網 もう が張 は り巡 めぐ らされていた。
ソ連 それん において数 すう ある水力 すいりょく 発電 はつでん 所 ところ のうちの一 ひと つであるドニエプル水力 すいりょく 発電 はつでん 所 しょ
経済 けいざい 面 めん では計画 けいかく 経済 けいざい 体制 たいせい が敷 し かれ、農民 のうみん の集団 しゅうだん 化 か が図 はか られた(集団 しゅうだん 農場 のうじょう )。医療 いりょう 費 ひ などが無料 むりょう で税 ぜい がまったくないことでも知 し られた。1930年代 ねんだい に世界 せかい 恐慌 きょうこう で資本 しほん 主義 しゅぎ 国 こく が軒並 のきな み不況 ふきょう に苦 くる しむ中 なか 、ソ連 それん はその影響 えいきょう を受 う けずに非常 ひじょう に高 たか い経済 けいざい 成長 せいちょう を達成 たっせい したため、世界 せかい 各国 かっこく に大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えた。しかし、その経済 けいざい 成長 せいちょう は政治 せいじ 犯 はん や思想 しそう 犯 はん を中心 ちゅうしん とした強制 きょうせい 労働 ろうどう に支 ささ えられ、その富 とみ は共産党 きょうさんとう の上層 じょうそう 部 ぶ に集中 しゅうちゅう して配分 はいぶん されていた実態 じったい がその後 ご に明 あき らかになった。
ジョン・ケネス・ガルブレイス は「資本 しほん 主義 しゅぎ 諸国 しょこく が1930年代 ねんだい に大 だい 恐慌 きょうこう と不況 ふきょう にあえいでいたとき、ソ連 それん の社会 しゃかい 主義 しゅぎ 経済 けいざい は躍進 やくしん に躍進 やくしん を続 つづ け、アメリカに次 つ ぐ世界 せかい 第 だい 二 に の工業 こうぎょう 国 こく になった。そして完全 かんぜん 雇用 こよう と社会 しゃかい 保障 ほしょう をやってのけた」としながらも、1970年代 ねんだい には崩壊 ほうかい し始 はじ めたと総括 そうかつ している(しかし、1930年代 ねんだい 当時 とうじ のソ連 それん 経済 けいざい の躍進 やくしん の裏 うら には、数 すう 百 ひゃく 万 まん 人 にん といわれる規模 きぼ の強制 きょうせい 労働 ろうどう 従事 じゅうじ 者 しゃ のほぼ無償 むしょう の労働 ろうどう による貢献 こうけん があった点 てん を、ガルブレイスは見落 みお としているか故意 こい に無視 むし していることに注意 ちゅうい が必要 ひつよう である)。実際 じっさい 、1960年代 ねんだい 以降 いこう は計画 けいかく 経済 けいざい の破綻 はたん が決定的 けっていてき なものとなり、消費 しょうひ 財 ざい の不足 ふそく などで国民 こくみん の生活 せいかつ は窮乏 きゅうぼう した。
流通 りゅうつう の整備 せいび が遅 おく れたため、農 のう 製品 せいひん の生産 せいさん が十分 じゅうぶん にあったとしても、それが消費 しょうひ 者 しゃ の手元 てもと に届 とど けられるまでに腐敗 ふはい してしまうこともあった。そのために闇 やみ 市場 いちば のような闇 やみ 経済 けいざい や汚職 おしょく が蔓延 まんえん し、そのような中 なか で共産 きょうさん 貴族 きぞく がはびこるという結果 けっか になった。
1930年代 ねんだい のアルメニア にて、綿花 めんか の収穫 しゅうかく
ソ連 それん の農業 のうぎょう は、気候 きこう 条件 じょうけん の厳 きび しさから農業 のうぎょう に適 てき した地域 ちいき は比較的 ひかくてき 限 かぎ られており、また各 かく 共和 きょうわ 国 こく にモノカルチュア 的 てき な生産 せいさん を割 わ り振 ふ ってきた結果 けっか 、ウクライナやベラルーシ、ロシアの黒土 こくど 地帯 ちたい ・コーカサス地帯 ちたい などでは主要 しゅよう な作物 さくもつ は小麦 こむぎ 等 ひとし の穀類 こくるい や飼料 しりょう 作物 さくもつ (ビート など)、ジャガイモ 、ヒマワリ 、果樹 かじゅ 、野菜 やさい 、シベリアでは穀類 こくるい が中心 ちゅうしん 、極東 きょくとう では大豆 だいず 、中央 ちゅうおう アジアは綿花 めんか [ 注釈 ちゅうしゃく 23] であった。農業 のうぎょう 労働 ろうどう 者 しゃ たちは、集団 しゅうだん 農場 のうじょう と国営 こくえい 農場 のうじょう で計画 けいかく 経済 けいざい のもとで定 さだ められた賃金 ちんぎん でノルマを満 み たすだけの作業 さぎょう のみ従事 じゅうじ させられていた。農作物 のうさくもつ の価格 かかく は国家 こっか が決定 けってい し、価格 かかく を調整 ちょうせい するために補助 ほじょ 金 きん を支給 しきゅう していた。これらが労働 ろうどう 意欲 いよく を減退 げんたい させ、農業 のうぎょう 生産 せいさん 性 せい を極端 きょくたん に低 ひく くし、1970年代 ねんだい からは肉 にく 類 るい 、穀物 こくもつ の恒常 こうじょう 的 てき な輸入 ゆにゅう 国 こく になり農業 のうぎょう はソ連 それん のアキレス腱 あきれすけん になった。
ロシア革命 かくめい 時 じ 、農村 のうそん は人口 じんこう の80%を占 し めていた発 はつ などを含 ふく む「戦時 せんじ 共産 きょうさん 主義 しゅぎ 」によって[疑問 ぎもん 点 てん – ノート ] 、荒廃 こうはい し特 とく にウクライナで数 すう 百 ひゃく 万 まん 人 にん ともいわれる餓死 がし 者 しゃ を出 だ した。そのため1921年 ねん に穀物 こくもつ の強制 きょうせい 徴発 ちょうはつ を廃止 はいし した新 しん 経済 けいざい 政策 せいさく 「ネップ」により、農業 のうぎょう は戦前 せんぜん の水準 すいじゅん を回復 かいふく したが穀物 こくもつ の調達 ちょうたつ は困難 こんなん になっていった。そこで1928年 ねん 、スターリンは、農業 のうぎょう 集団 しゅうだん 化 か を実施 じっし し低 てい 賃金 ちんぎん で酷使 こくし される集団 しゅうだん 農場 のうじょう と国営 こくえい 農場 のうじょう に改編 かいへん された。クラーク とされた勤勉 きんべん な農民 のうみん 900万 まん 人 にん は追放 ついほう され、半数 はんすう は処刑 しょけい され残 のこ りは強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ に送 おく られた。穀物 こくもつ の調達 ちょうたつ 量 りょう は増加 ぞうか したが生産 せいさん は低下 ていか し、1931年 ねん から1933年 ねん にかけて700万 まん 人 にん が餓死 がし した。抵抗 ていこう した農民 のうみん たちも最終 さいしゅう 的 てき には工業 こうぎょう 労働 ろうどう 者 しゃ となったり集団 しゅうだん 農場 のうじょう に組織 そしき されたりした。
1941年 ねん に独 どく ソ戦 せん が始 はじ まると農村 のうそん は壊滅 かいめつ 的 てき な打撃 だげき を受 う け、戦後 せんご も戦前 せんぜん と同様 どうよう の経済 けいざい 体制 たいせい を維持 いじ しながら戦後 せんご 復興 ふっこう に着手 ちゃくしゅ したため、1946年 ねん から1947年 ねん かけて100万 まん 人 にん 以上 いじょう が餓死 がし し、多 おお くが離農 りのう した。1953年 ねん 、スターリンの死後 しご 、フルシチョフは、カザフスタンや西 にし シベリアなどの未 み 開墾 かいこん 地 ち 、耕作 こうさく 放棄 ほうき 地 ち の開拓 かいたく 事業 じぎょう を提案 ていあん し、処女 しょじょ 地 ち からの穀物 こくもつ の収穫 しゅうかく が試 こころ みられた。1955年 ねん から数 すう 年 ねん の間 あいだ は処女 しょじょ 地 ち の収穫 しゅうかく 物 ぶつ によって穀物 こくもつ の不足 ふそく は一時 いちじ 的 てき に解消 かいしょう されたが、ルイセンコ理論 りろん や農地 のうち の砂漠 さばく 化 か で処女 しょじょ 地 ち が不作 ふさく に陥 おちい ると穀物 こくもつ は再 ふたた び欠乏 けつぼう し国外 こくがい から輸入 ゆにゅう するようになった。フルシチョフ失脚 しっきゃく 後 ご も集団 しゅうだん 農場 のうじょう の生産 せいさん 性 せい は上 あ がらず、1980年代 ねんだい には集団 しゅうだん 請負 うけおい 制 せい を導入 どうにゅう するも、コルホーズ 内 うち のわずかな自 じ 留 とめ 地 ち では支 ささ えきれない大量 たいりょう の食料 しょくりょう をアメリカから輸入 ゆにゅう していた。
東西 とうざい 対立 たいりつ の世界 せかい 構造 こうぞう の中 なか で、軍需 ぐんじゅ 産業 さんぎょう に高 たか い技術 ぎじゅつ と莫大 ばくだい な資金 しきん を投 とう じることで軍民 ぐんみん 転換 てんかん が遅 おく れ、冷蔵庫 れいぞうこ や洗濯 せんたく 機 き 、乾電池 かんでんち や電子 でんし レンジ などの国民 こくみん 生活 せいかつ に必要 ひつよう な電化 でんか 製品 せいひん や、石鹸 せっけん や洗剤 せんざい 、シャンプー やトイレットペーパー 、鉛筆 えんぴつ やボールペン などの一般 いっぱん 消費 しょうひ 財 ざい 、たばこ や清涼飲料水 せいりょういんりょうすい などの嗜好 しこう 品 ひん の開発 かいはつ と生産 せいさん 、物流 ぶつりゅう の整備 せいび は疎 おろ かにされ、西側 にしがわ 諸国 しょこく に比 くら べ技術 ぎじゅつ 、品質 ひんしつ ともに比 くら べ物 もの にならない低 てい レベルの電化 でんか 製品 せいひん でさえ、入手 にゅうしゅ するために数 すう 年 ねん 待 ま たなければいけないというような惨憺 さんたん たる状態 じょうたい であり、これはリチャード・ニクソン との台所 だいどころ 論争 ろんそう でもアメリカから槍玉 やりだま にされた。
さらにほとんどの電化 でんか 製品 せいひん や自動車 じどうしゃ の技術 ぎじゅつ は、西側 にしがわ 諸国 しょこく の技術 ぎじゅつ より数 すう 十 じゅう 年 ねん 遅 おく れていたといわれているうえ、その多 おお くがフィアット (トリヤッチ を参照 さんしょう )やパッカード などの西側 にしがわ の企業 きぎょう と提携 ていけい し、旧型 きゅうがた 製品 せいひん の技術 ぎじゅつ 供与 きょうよ を受 う けたもの、もしくは西側 にしがわ 製品 せいひん の無断 むだん コピーや、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 時 じ にドイツ国内 こくない から接収 せっしゅう 、略奪 りゃくだつ したオペル の生産 せいさん 工場 こうじょう 施設 しせつ からの技術 ぎじゅつ の流用 りゅうよう であった。
電化 でんか 製品 せいひん や一般 いっぱん 消費 しょうひ 財 ざい 、嗜好 しこう 品 ひん や自動車 じどうしゃ は、市場 いちば における競争 きょうそう に勝 か ち残 のこ るために西側 にしがわ 諸国 しょこく では頻繁 ひんぱん に行 おこな われていた新 しん 製品 せいひん の開発 かいはつ や市場 いちば 投入 とうにゅう 、改良 かいりょう や価格 かかく 改定 かいてい はほとんど行 おこな われず、なにも改良 かいりょう されないまま30年 ねん 以上 いじょう にわたり同 おな じ製品 せいひん が製造 せいぞう されていた。
自動車 じどうしゃ の個人 こじん 所有 しょゆう は共産党 きょうさんとう 幹部 かんぶ などの限 かぎ られた階級 かいきゅう の人間 にんげん に限 かぎ られ、それ以外 いがい の階級 かいきゅう のものが手 て にするためには、電化 でんか 製品 せいひん 同様 どうよう 数 すう 年 ねん 待 ま たなければいけない状態 じょうたい であった。まして労働 ろうどう 者 しゃ 階級 かいきゅう がジル やヴォルガ などの高級 こうきゅう 車 しゃ や、レオニード・ブレジネフなどが愛用 あいよう したシトロエン などの西側 にしがわ 諸国 しょこく からの輸入 ゆにゅう 車 しゃ を所有 しょゆう することは事実 じじつ 上 じょう 不可能 ふかのう であった。
上記 じょうき のように、電化 でんか 製品 せいひん や消費 しょうひ 財 ざい 、工作 こうさく 機械 きかい や自動車 じどうしゃ などの技術 ぎじゅつ や品質 ひんしつ が西側 にしがわ 諸国 しょこく のそれに対 たい して決定的 けっていてき に劣 おと っていたことから、西側 にしがわ 諸国 しょこく に対 たい しての輸出 ゆしゅつ は、農産物 のうさんぶつ や魚介 ぎょかい 類 るい などの第 だい 一 いち 次 じ 産品 さんぴん や、原油 げんゆ や天然 てんねん ガス などのエネルギー資源 しげん が主 おも であった。通貨 つうか のルーブル 自体 じたい が、国外 こくがい で通貨 つうか としての価値 かち が低 ひく かったこともあり、エネルギー資源 しげん の貿易 ぼうえき がある国 くに を除 のぞ いては、西側 にしがわ 諸国 しょこく との貿易 ぼうえき 収支 しゅうし はおおむね赤字 あかじ であったか非常 ひじょう に少 すく ないものであった。また農産物 のうさんぶつ などとの物々交換 ぶつぶつこうかん の形式 けいしき とした例 れい もあった。農産物 のうさんぶつ により外貨 がいか 獲得 かくとく のため食料 しょくりょう 輸出 ゆしゅつ 輸入 ゆにゅう 公団 こうだん (S.P.I. Groupの前身 ぜんしん )が西側 にしがわ にも輸出 ゆしゅつ していたが、ウォトカ は西側 にしがわ 諸国 しょこく ではカクテル ベースとして人気 にんき があったことから、アメリカでのストリチナヤ の販売 はんばい 権 けん を得 え たペプシコ は、ソ連 それん 国内 こくない で販売 はんばい されるペプシコーラ の濃縮 のうしゅく 液 えき との物々交換 ぶつぶつこうかん で支払 しはら っていた[ 113] 。
衛星 えいせい 国 こく や社会 しゃかい 主義 しゅぎ 国 こく との間 あいだ の貿易 ぼうえき は、それらの多 おお くの国 くに の外貨 がいか が乏 とぼ しかったことや、ココム などの貿易 ぼうえき 規制 きせい により西側 にしがわ 諸国 しょこく からの貿易 ぼうえき 品目 ひんもく が制限 せいげん されていたことから、一 いち 次 じ 産品 さんぴん やエネルギー資源 しげん はもとより、西側 にしがわ 諸国 しょこく では相手 あいて にされなかった電化 でんか 製品 せいひん や消費 しょうひ 財 ざい 、工作 こうさく 機械 きかい から自動車 じどうしゃ 、航空機 こうくうき などの軍事 ぐんじ 物資 ぶっし に至 いた るまでが輸出 ゆしゅつ された。1975年 ねん の国 くに 別 べつ 工作 こうさく 機械 きかい 生産 せいさん 額 がく でもソ連 それん は世界 せかい 3位 い である。その多 おお くが事実 じじつ 上 じょう の援助 えんじょ 品 ひん とあるいは、相手 あいて 国 こく の一 いち 次 じ 産品 さんぴん とのバーター貿易 ぼうえき など無償 むしょう に近 ちか い形 かたち で供給 きょうきゅう された。1930年 ねん からペレストロイカ実施 じっし まで、商業 しょうぎょう 手形 てがた が廃止 はいし されていたので流通 りゅうつう ・割引 わりびき がなく、取引 とりひき はゴスバンク (国有 こくゆう 銀行 ぎんこう )で集中 しゅうちゅう 決済 けっさい された[ 114] 。
西側 にしがわ 諸国 しょこく の電化 でんか 製品 せいひん や化粧 けしょう 品 ひん 、衣類 いるい などの消費 しょうひ 財 ざい の輸入 ゆにゅう 、流通 りゅうつう は原則 げんそく 禁止 きんし されていたものの、モスクワなどの大都市 だいとし のみに設 もう けられた「グム 」などの外貨 がいか 専用 せんよう の高級 こうきゅう デパート で入手 にゅうしゅ することが可能 かのう であった。しかし実際 じっさい にそれらを購入 こうにゅう することができるのは外国 がいこく 人 じん か共産党 きょうさんとう の上層 じょうそう 部 ぶ とその家族 かぞく だけであった。そのため、マールボロ のたばこ やリーバイス のジーンズ など多 おお くの西側 にしがわ 製品 せいひん が闇 やみ ルートで流通 りゅうつう していた。
会計 かいけい も社会 しゃかい 主義 しゅぎ に基 もと づいて進 すす められ、会計士 かいけいし は計画 けいかく 経済 けいざい を進 すす める最高 さいこう 国民 こくみん 経済 けいざい 会議 かいぎ のために働 はたら くこととなった。国営 こくえい 企業 きぎょう の会計 かいけい 責任 せきにん 者 しゃ は、貸借 たいしゃく 対照 たいしょう 表 ひょう と会計 かいけい 報告 ほうこく 書 しょ を作成 さくせい して会計 かいけい を組織 そしき する責任 せきにん を負 お った。中央 ちゅうおう 集権 しゅうけん 化 か と集団 しゅうだん 農場 のうじょう 化 か が進 すす んだ1930年代 ねんだい からは、スターリン主義 しゅぎ 者 しゃ によって会計 かいけい 学 がく は個別 こべつ 企業 きぎょう のみを対象 たいしょう にしていると批判 ひはん され、スターリン主義 しゅぎ に批判 ひはん 的 てき な会計士 かいけいし は活動 かつどう の場 ば を奪 うば われ、ソ連 それん 財務省 ざいむしょう と中央 ちゅうおう 統計 とうけい 局 きょく が会計 かいけい の指導 しどう と監督 かんとく を行 おこな うようになった。
会計 かいけい 人 じん は中央 ちゅうおう 省庁 しょうちょう の計画 けいかく をもとに実務 じつむ を行 おこな う簿記 ぼき 係 がかり と、上級 じょうきゅう 機関 きかん に責任 せきにん を持 も つ会計 かいけい 担当 たんとう 者 しゃ に分 わ かれた。経営 けいえい の改善 かいぜん や専門 せんもん 家 か としてのイニシアティブを発揮 はっき する余地 よち はなくなり、会計 かいけい は硬直 こうちょく 化 か した。1960年代 ねんだい からは経済 けいざい 改革 かいかく による分権 ぶんけん 化 か が始 はじ まり、計画 けいかく 経済 けいざい や企業 きぎょう 管理 かんり において利潤 りじゅん ・原価 げんか ・価格 かかく ・利子 りし なども評価 ひょうか されるようになり、会計士 かいけいし は科学 かがく 技術 ぎじゅつ 協会 きょうかい (HTO)に所属 しょぞく して専門 せんもん 家 か として活動 かつどう した。HTOでは資本 しほん 主義 しゅぎ 諸国 しょこく の会計 かいけい の取 と り入 い れも検討 けんとう された[ 注釈 ちゅうしゃく 24] 。
1980年代 ねんだい 後半 こうはん のペレストロイカ から民営 みんえい 化 か や市場 いちば 経済 けいざい 化 か が始 はじ まり、西側 にしがわ 諸国 しょこく との合弁 ごうべん 企業 きぎょう で市場 いちば 経済 けいざい の会計 かいけい が部分 ぶぶん 的 てき に導入 どうにゅう され、企業 きぎょう の営業 えいぎょう 秘密 ひみつ が認 みと められた。1991年 ねん のソ連 それん の崩壊 ほうかい 後 ご は市場 いちば 経済 けいざい 化 か がさらに進 すす み、ロシアでは公認 こうにん 会計士 かいけいし にあたる監査 かんさ 士 し が国家 こっか 資格 しかく 化 か された。
1989年 ねん 時点 じてん における米 べい ソの比較 ひかく 1990年 ねん のザ・ワールド・ファクトブック に基 もと づくデータ[ 122] 。
ソビエト連邦 れんぽう
アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく
GDP (PPP,1989年 ねん – million $)
2兆 ちょう 6,595億 おく ドル
5兆 ちょう 2,333億 おく ドル
人口 じんこう (1990年 ねん 7月 がつ )
約 やく 2億 おく 9,093万 まん 人 にん
約 やく 2億 おく 5,041万 まん 人 にん
1人 ひとり あたりのGDP(PPP,$)
9,211ドル
21,082ドル
労働 ろうどう 力 りょく (1989年 ねん )
約 やく 1億 おく 5,230万 まん 人 にん
約 やく 1億 おく 2,555万 まん 人 にん
ソビエト連邦 れんぽう はアメリカとは同 どう レベルのGDPでなかったが、アメリカ以上 いじょう に巨大 きょだい な面積 めんせき と資源 しげん で超 ちょう 大国 たいこく としての地位 ちい を得 え ていた。アメリカと対等 たいとう レベルの核兵器 かくへいき を保有 ほゆう しているとみられていたために、直接 ちょくせつ 対決 たいけつ だと共倒 ともだお れを招 まね くために自国 じこく の軍事 ぐんじ 行動 こうどう にアメリカを介入 かいにゅう させることはできなかった。国内 こくない 総 そう 生産 せいさん 、また1人 ひとり あたりのGDPもアメリカの2分 ぶん の1から3分 ぶん の1ほどであった。
国民 こくみん の生活 せいかつ レベルを犠牲 ぎせい にして、ひたすら重工業 じゅうこうぎょう 投資 とうし と、軍事 ぐんじ 支出 ししゅつ に資源 しげん を集中 しゅうちゅう していた。1950年代 ねんだい に約 やく 15%だったソ連 それん の投資 とうし 率 りつ は、1980年代 ねんだい には30%に達 たっ し、軍事 ぐんじ 費 ひ 率 りつ もある推定 すいてい では1980年代 ねんだい 中頃 なかごろ には16%に達 たっ していた。1970年代 ねんだい 以降 いこう 、コンピュータや半導体 はんどうたい といったハイテク部門 ぶもん の重要 じゅうよう 性 せい が増 ま すと、重工業 じゅうこうぎょう 優先 ゆうせん のソ連 それん ではその技術 ぎじゅつ を導入 どうにゅう するのが困難 こんなん となり、技術 ぎじゅつ 進歩 しんぽ 率 りつ は停滞 ていたい 、ついには設備 せつび の老朽 ろうきゅう 化 か と相 あい まって1980年代 ねんだい には技術 ぎじゅつ 進歩 しんぽ 率 りつ はマイナスに陥 おちい ってしまった。
ソ連 それん の経済 けいざい は1950年代 ねんだい から1960年代 ねんだい の初頭 しょとう まで目覚 めざま しいペースでアメリカの国力 こくりょく を追 お い上 あ げており、「20年 ねん 以内 いない にアメリカを追 お い抜 ぬ く」というフルシチョフの強気 つよき の発言 はつげん も信 しん じられていたが、1960年代 ねんだい に入 はい るとそのペースは一服 いっぷく したものの、1975年 ねん にソ連 それん の相対 そうたい 的 てき な国力 こくりょく は対 たい 米 べい 比 ひ 45%と頂点 ちょうてん に達 たっ した。しかしその後 ご は衰退 すいたい 局面 きょくめん に入 はい り、逆 ぎゃく にアメリカとの相対 そうたい 的 てき な国力 こくりょく の差 さ は拡大 かくだい していった。
ソ連 それん 崩壊 ほうかい 後 ご 、ロシアの軍事 ぐんじ 力 りょく と経済 けいざい 力 りょく は急激 きゅうげき に衰 おとろ え、アメリカとは1人 ひとり 当 あ たりのGDPと軍事 ぐんじ 費 ひ において大 おお きく差 さ をつけられた。さらに経済 けいざい 混乱 こんらん の影響 えいきょう で、国民 こくみん は社会 しゃかい 保障 ほしょう を破壊 はかい されて苦 くる しんだため、親米 しんべい 的 てき でペレストロイカを行 おこな ったゴルバチョフを、「アメリカに魂 たましい を売 う った売国奴 ばいこくど 」や「国益 こくえき を損 そこ ねた裏切 うらぎ り者 もの 」と酷評 こくひょう する者 もの も少 すく なくない[ 123] 。
年代 ねんだい 別 べつ の人口 じんこう (1989年 ねん )。ロシア内戦 ないせん 期 き に誕生 たんじょう した70歳 さい 、大 だい 祖国 そこく 戦争 せんそう 中 ちゅう に誕生 たんじょう した45歳 さい の前後 ぜんご では、出生 しゅっしょう 数 すう が大 おお きく減少 げんしょう している。
ソビエト連邦 れんぽう は150もの民族 みんぞく を擁 よう する多 た 民族 みんぞく 国家 こっか であり、それぞれの地域 ちいき に基幹 きかん 民族 みんぞく が存在 そんざい した。民族 みんぞく 共和 きょうわ 国 こく の内部 ないぶ に自治 じち 共和 きょうわ 国 こく や自治 じち 州 しゅう が置 お かれたのはこのためである[ 注釈 ちゅうしゃく 25] 。また、国民 こくみん の多 おお くは差異 さい あれどロシア語 ご を解 かい し、モスクワやレニングラード、ロシア人 じん が古来 こらい より定住 ていじゅう する地域 ちいき を除 のぞ いてはこのロシア語 ご と現地 げんち 語 ご の併用 へいよう [ 注釈 ちゅうしゃく 26] が見 み られた。
また、国民 こくみん は帝政 ていせい 期 き より文化 ぶんか 交流 こうりゅう を盛 さか んとしており、ロシア人 じん の間 あいだ でグルジア料理 りょうり が親 した しまれたり、ボルシチ といったスラヴ料理 りょうり はソビエト連邦 れんぽう の国民 こくみん 食 しょく として世界 せかい に紹介 しょうかい される。
学校 がっこう の様子 ようす (1930年代 ねんだい )。
ソビエト連邦 れんぽう において公 おおやけ 教育 きょういく は、少年 しょうねん 少女 しょうじょ に基礎 きそ 教育 きょういく を施 ほどこ すだけではなく、青年 せいねん への分野 ぶんや 別 べつ の専門 せんもん 教育 きょういく を保証 ほしょう した。1918年 ねん の教会 きょうかい 分離 ぶんり 布告 ふこく 以降 いこう に発展 はってん したソ連 それん の公 おおやけ 教育 きょういく は、16歳 さい 未満 みまん の教育 きょういく に対 たい する学費 がくひ を撤廃 てっぱい し、母国 ぼこく 語 ご での教育 きょういく 体制 たいせい の確保 かくほ し、その発展 はってん に大 おお きく寄与 きよ した。また同時 どうじ に公 おおやけ 教育 きょういく は国家 こっか 方針 ほうしん を浸透 しんとう させる場所 ばしょ としても機能 きのう し、後述 こうじゅつ するピオネール とコムソモール は、共産党 きょうさんとう 直属 ちょくぞく の組織 そしき であった。
ピオネール
学校 がっこう で成績 せいせき な優秀 ゆうしゅう を収 おさ める15歳 さい 以下 いか の生徒 せいと はピオネールに所属 しょぞく した。正式 せいしき 名称 めいしょう はヴェ・イ・レーニン名称 めいしょう 全 ぜん 連合 れんごう ピオネール (Всесоюзная пионерская организация имени В. И. Ленина )、1922年 ねん に創設 そうせつ し、主 しゅ として課外 かがい 授業 じゅぎょう を実施 じっし する組織 そしき であった。赤 あか いネッカチーフ を身 み につけ、ラッパ やドラム を演奏 えんそう しながら行進 こうしん することが多 おお かった。入団 にゅうだん は、自由 じゆう 意志 いし の参加 さんか に基 もと づくがその門 もん は狭 せま く、児童 じどう の二 に 割 わり 程 ほど に許 ゆる された所属 しょぞく であったのである。そのためピオネールには品行 ひんこう 方正 ほうせい が要求 ようきゅう され、「ポケットに手 て を入 い れてはならない」や「指 ゆび を舐 な めない」、「握手 あくしゅ をしてはならない[ 注釈 ちゅうしゃく 27] 」など、禁止 きんし 事項 じこう は100にのぼった[ 124] 。
スローガンである「備 そな えは常 つね にあり!(Всегда готов! ) は、ピオネールによる大 だい 号令 ごうれい でもあった。80年代 ねんだい には日 にち ソ交流 こうりゅう の一環 いっかん として、日本 にっぽん の児童 じどう がピオネール・キャンプ(多 おお くはナホトカ、ウラジオストク、ハバロフスク、イルクーツク)に参加 さんか した。
ソビエト連邦 れんぽう の消滅 しょうめつ 後 ご には、各地 かくち に小規模 しょうきぼ ながらも酷似 こくじ した組織 そしき が存在 そんざい し、その中 なか でもベラルーシ は30万 まん 人 にん が在籍 ざいせき する[ 125] 。
ソビエト連邦 れんぽう の医療 いりょう 制度 せいど は、1918年 ねん に保健 ほけん 人民 じんみん 委員 いいん 部 ぶ (英語 えいご 版 ばん ) によって考案 こうあん された。革命 かくめい 前 まえ の1917年 ねん 時 じ 、人々 ひとびと の保健 ほけん は他 た の先進 せんしん 国 こく に比 くら べてかなり遅 おく れていたが、革命 かくめい 後 ご に制定 せいてい された医療 いりょう 制度 せいど により、すべての年齢 ねんれい 層 そう の平均 へいきん 寿命 じゅみょう が延 の びるなど大幅 おおはば な改善 かいぜん が見込 みこ めた。連邦 れんぽう における医療 いりょう 制度 せいど の原案 げんあん は当時 とうじ の政治 せいじ 家 か であり医師 いし でもあったニコライ・セマシコ (ロシア語 ご 版 ばん ) によって打 う ち立 た てられたものでもあった。 同 どう 連邦 れんぽう の医療 いりょう は無料 むりょう で提供 ていきょう され、国 くに の全 ぜん 人口 じんこう が適切 てきせつ な医療 いりょう を受 う けられるように定 さだ められていた。
しかし、その後 ご の1980年代 ねんだい 後半 こうはん になるとゴルバチョフ による社会 しゃかい 保証 ほしょう 費 ひ の削減 さくげん により無料 むりょう 制度 せいど は揺 ゆ らぎ初 はじ め、ソ連 それん 崩壊 ほうかい 後 ご は経済 けいざい 不 ふ 況 きょう や資本 しほん 主義 しゅぎ 化 か などによりその制度 せいど はなくなっていた。
ロシア・ボリシェヴィキによる教会 きょうかい 財産 ざいさん の接収 せっしゅう 。 Ivan Vladimirov (ロシア語 ご 版 ばん ) 作 さく 。
ロシア・革命 かくめい 派 は によって死刑 しけい を宣告 せんこく される聖職 せいしょく 者 しゃ と地主 じぬし 。 Ivan Vladimirov (ロシア語 ご 版 ばん ) 作 さく 。
ロシア・ボリシェヴィキの命令 めいれい で強制 きょうせい 労働 ろうどう に従事 じゅうじ する聖職 せいしょく 者 しゃ 。 Ivan Vladimirov (ロシア語 ご 版 ばん ) 作 さく 。
1931年 ねん のモスクワにて、爆破 ばくは される救世主 きゅうせいしゅ ハリストス大 だい 聖堂 せいどう
ロシア革命 かくめい によって世俗 せぞく 主義 しゅぎ 、無 む 神 かみ 論 ろん 、唯物 ゆいぶつ 論 ろん を奉 ほう じるソビエト連邦 れんぽう が成立 せいりつ すると、ロシア帝国 ていこく の国教 こっきょう であった正教 せいきょう (組織 そしき としてはロシア正教会 せいきょうかい のほか、ウクライナ正教会 せいきょうかい 、グルジア正教会 せいきょうかい などを含 ふく む)は多数 たすう の聖堂 せいどう や修道院 しゅうどういん が閉鎖 へいさ され、財産 ざいさん が没収 ぼっしゅう された。のちに世界 せかい 遺産 いさん となるソロヴェツキー諸島 しょとう の修道院 しゅうどういん 群 ぐん は強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ に転用 てんよう された。
聖職 せいしょく 者 しゃ や信者 しんじゃ が外国 がいこく のスパイなどの嫌疑 けんぎ で逮捕 たいほ され、多数 たすう の者 もの が処刑 しょけい され致命 ちめい した。初代 しょだい の京都 きょうと 主教 しゅきょう を務 つと めた大 だい 主教 しゅきょう アンドロニク・ニコリスキイ は生 い き埋 う めの上 うえ で銃殺 じゅうさつ されるという特異 とくい な致命 ちめい で知 し られる。モスクワ総 そう 主教 しゅきょう ティーホン は当初 とうしょ 、無 む 神 かみ 論 ろん を標榜 ひょうぼう するボリシェヴィキに対 たい して強硬 きょうこう な反発 はんぱつ を示 しめ していたが、想像 そうぞう 以上 いじょう に苛烈 かれつ な弾圧 だんあつ が教会 きょうかい に対 たい して行 おこな われていく情勢 じょうせい に対 たい して現実 げんじつ 的 てき 姿勢 しせい に転換 てんかん し、ソヴィエト政権 せいけん をロシアの正当 せいとう な政府 せいふ と認 みと め一定 いってい の協力 きょうりょく を行 おこな ったが、教会 きょうかい の活動 かつどう はなお著 いちじる しく抑圧 よくあつ された。
1921年 ねん から1923年 ねん にかけてだけで、主教 しゅきょう 28人 にん 、妻帯 さいたい 司祭 しさい 2691人 にん 、修道 しゅうどう 士 し 1962人 にん 、修道 しゅうどう 女 おんな 3447人 にん 、その他 た 信徒 しんと 多数 たすう が処刑 しょけい された[ 126] 。1918年 ねん から1930年 ねん にかけてみれば、およそ4万 まん 2000人 にん の聖職 せいしょく 者 しゃ が殺 ころ され、1930年代 ねんだい にも3万 まん から3万 まん 5000の司祭 しさい が銃殺 じゅうさつ もしくは投獄 とうごく された[ 127] 。1937年 ねん と1938年 ねん には52人 にん の主教 しゅきょう のうち40人 にん が銃殺 じゅうさつ された[ 128] 。
政府 せいふ の迫害 はくがい を恐 おそ れ多数 たすう の亡命 ぼうめい 者 しゃ も出 で た。亡命 ぼうめい 者 しゃ たちの中 なか からはセルゲイ・ブルガーコフ 、ウラジーミル・ロースキイ 、パーヴェル・エフドキーモフ 、イリア・メリア (メリアはグルジア人 じん )など世界 せかい 的 てき に著名 ちょめい な神学 しんがく 者 しゃ が輩出 はいしゅつ され、20世紀 せいき 初頭 しょとう まであまり知 し られていなかった正教 せいきょう の伝統 でんとう が海外 かいがい に知 し られるきっかけとなった。
1931年 ねん にはスターリンの命令 めいれい によって救世主 きゅうせいしゅ ハリストス大 だい 聖堂 せいどう が爆破 ばくは された。
1940年代 ねんだい に入 はい ると、独 どく ソ戦 せん におけるドイツの侵攻 しんこう に対 たい して国民 こくみん の士気 しき を鼓舞 こぶ する必要 ひつよう に駆 か られたスターリンは、それまでの物理 ぶつり 的 てき 破壊 はかい を伴 ともな った正教会 せいきょうかい への迫害 はくがい を方向 ほうこう 転換 てんかん して教会 きょうかい 活動 かつどう の一定 いってい の復興 ふっこう を認 みと め、1925年 ねん に総 そう 主教 しゅきょう ティーホンが永眠 えいみん して以降 いこう 、空位 くうい となっていたモスクワ総 そう 主教 しゅきょう の選出 せんしゅつ を認 みと めた(1943年 ねん )。この際 さい にそれまで禁止 きんし されていた教会 きょうかい 関連 かんれん の出版 しゅっぱん 物 ぶつ がきわめて限定 げんてい されたものではあったものの認 みと められ、1918年 ねん から閉鎖 へいさ されていたモスクワ神学 しんがく アカデミーは再開 さいかい を許可 きょか された。
ただし1940年代 ねんだい 半 なか ばにはソ芬戦争 そう 以後 いご 、ヴァラーム修道院 しゅうどういん のある地域 ちいき がソ連 それん 領 りょう となったため、ヴァラーム修道院 しゅうどういん の修道 しゅうどう 士 し 達 たち はフィンランドに亡命 ぼうめい し、この結果 けっか フィンランド正教会 せいきょうかい で新 しん ヴァラーム修道院 しゅうどういん が設立 せつりつ されるなど、ソ連 それん における正教 せいきょう 弾圧 だんあつ は亡命 ぼうめい 者 しゃ が出 で ることがないほどにまで緩和 かんわ されたわけではない。
スターリンの死 し 後 ご 、フルシチョフは再度 さいど 、正教会 せいきょうかい への統制 とうせい を強化 きょうか 。緩 ゆる やかかつ細々 こまごま とした回復 かいふく 基調 きちょう にあったロシア正教会 せいきょうかい は再度 さいど 打撃 だげき を蒙 こうむ り、教会 きょうかい 数 すう は半分 はんぶん 以下 いか に減少 げんしょう 。以降 いこう 、ソ連 それん 崩壊 ほうかい に至 いた るまでロシア正教会 せいきょうかい の教 きょう 勢 ぜい が回復 かいふく することはなかった。
広大 こうだい な国土 こくど の中 なか でも、中央 ちゅうおう アジア地域 ちいき ではイスラム教 いすらむきょう が大 おお きな勢力 せいりょく を持 も っていたが、ソビエト連邦 れんぽう の成立 せいりつ とともに正教 せいきょう など他 た の宗教 しゅうきょう とともに弾圧 だんあつ されることとなり、ムスリム宗務 しゅうむ 局 きょく によって国家 こっか 統制 とうせい された。しかし人々 ひとびと の心 しん の中 なか の信仰 しんこう 心 しん までは抑 おさ えることができず、他 た の宗教 しゅうきょう と同 おな じくソ連 それん 崩壊 ほうかい 後 ご は教 きょう 勢 ぜい が回復 かいふく した。
信仰 しんこう されていた地域 ちいき に偏 かたよ りはあったものの、全 ぜん ソビエト連邦 れんぽう 領内 りょうない におけるイスラム教徒 きょうと の人口 じんこう は最終 さいしゅう 的 てき に7000万 まん 人 にん 前後 ぜんこう にも達 たっ し、総 そう 人口 じんこう の実 じつ に4人 にん に1人 ひとり がイスラム教徒 きょうと (もしくはイスラムを文化 ぶんか 的 てき 背景 はいけい に持 も つ人 ひと )で占 し められていた。この数字 すうじ はイラン、トルコ、エジプトなどの総 そう 人口 じんこう にも匹敵 ひってき し、ソビエト連邦 れんぽう は総 そう 人口 じんこう においても、国民 こくみん に占 し める割合 わりあい においても、非 ひ イスラム教 いすらむきょう 国家 こっか としては最大 さいだい 級 きゅう のムスリム人口 じんこう を抱 かか える国家 こっか となっていた。
イスラムが多数 たすう 派 は の地域 ちいき 以外 いがい のロシア連邦 れんぽう などの諸 しょ 州 しゅう においても、イスラムを背景 はいけい に持 も った諸 しょ 民族 みんぞく 、特 とく にタタール人 じん 、アゼルバイジャン人 じん が全土 ぜんど に居住 きょじゅう し、ソビエト連邦 れんぽう 内 ない のどの地域 ちいき においても一定 いってい 数 すう のイスラム社会 しゃかい が存在 そんざい していた。この点 てん は同 おな じ非 ひ イスラム教 いすらむきょう 国 こく でありながら全土 ぜんど にイスラム社会 しゃかい を内包 ないほう しているインドや中国 ちゅうごく とも共通 きょうつう していた。
ただソビエト連邦 れんぽう におけるイスラムは、中国 ちゅうごく やインドとは異 こと なり、多数 たすう 派 は 民族 みんぞく と、文化 ぶんか 、言語 げんご 、血統 けっとう 、形質 けいしつ などを共有 きょうゆう する集団 しゅうだん 、具体 ぐたい 的 てき に言 い えば、スラヴ系 けい のロシア人 じん などと文化 ぶんか や言語 げんご を共有 きょうゆう する集団 しゅうだん の間 あいだ にはあまり広 ひろ まらなかった。ソビエト連邦 れんぽう 内 ない のイスラムはあくまでテュルク系 けい やイラン系 けい 、コーカサス系 けい などの、(多数 たすう 派 は 民族 みんぞく であるロシア人 じん から見 み た)異 い 民族 みんぞく の間 あいだ で主 おも に信仰 しんこう されていた。全土 ぜんど に幅広 はばひろ く分散 ぶんさん していたイスラム系 けい 民族 みんぞく のうちタタール人 じん の間 あいだ にはスンナ派 は が多 おお く、アゼルバイジャン人 じん の間 あいだ にはシーア派 は が多 おお いため、両派 りょうは が近 ちか い比率 ひりつ で全土 ぜんど に散 ち らばっていたこともユニークである。この点 てん はソビエト連邦 れんぽう 崩壊 ほうかい 後 ご も、ロシア連邦 れんぽう において引 ひ き継 つ がれている。
ユダヤ教 きょう 弾圧 だんあつ ・民衆 みんしゅう による反 はん ユダヤ主義 しゅぎ
編集 へんしゅう
社会 しゃかい 主義 しゅぎ のソ連 それん 政府 せいふ は他 た の宗教 しゅうきょう と同様 どうよう にユダヤ教 きょう も弾圧 だんあつ し、同 どう 国民 こくみん の反 はん ユダヤ感情 かんじょう も強 つよ かった[ 129] 。
民衆 みんしゅう の間 あいだ ではソ連 それん という共産 きょうさん 主義 しゅぎ 国家 こっか の誕生 たんじょう で国内 こくない における宗教 しゅうきょう 活動 かつどう 制限 せいげん された影響 えいきょう で、ソ連 それん の低迷 ていめい は同 どう 国内 こくない の人々 ひとびと の中 なか にロシア正教 せいきょう に救 すく いを求 もと めた人々 ひとびと が増加 ぞうか した一方 いっぽう で反 はん ユダヤ主義 しゅぎ も台頭 たいとう した[ 130] 。ソ連 それん 誕生 たんじょう 直後 ちょくご の指導 しどう 部 ぶ には多 おお くのユダヤ人 じん がいたことから「社会 しゃかい 主義 しゅぎ 革命 かくめい はユダヤ人 じん の陰謀 いんぼう 」とのデマも拡散 かくさん し、第 だい 2次 じ 大戦 たいせん 中 ちゅう にもナチスによるユダヤ人 じん 迫害 はくがい に加 くわ わる住民 じゅうみん さえもいた[ 131] 。
1939年 ねん の独 どく ソ不可侵 ふかしん 条約 じょうやく で東欧 とうおう 諸国 しょこく の分割 ぶんかつ 支配 しはい を決 き めると、東欧 とうおう のユダヤ人 じん は独 どく ソ間 あいだ に挟 はさ まれて行 い き場 ば を失 うしな った。当時 とうじ のポーランド共和 きょうわ 国 こく (現 げん ベラルーシ 含)から逃亡 とうぼう したユダヤ人 じん は、ソ連 それん が併合 へいごう 手前 てまえ であったリトアニアから日本 にっぽん 経由 けいゆ で第三国 だいさんごく に逃 のが れようとし、彼等 かれら を杉原 すぎはら 千畝 ちうね や根井 ねい 三郎 さぶろう が救 すく っている[ 129] 。ソ連 それん の民衆 みんしゅう はソ連 それん への不満 ふまん を「ユダヤ人 じん が作 つく った共産 きょうさん 主義 しゅぎ 」のせいだと噂 うわさ し、ソ連 それん 右翼 うよく 団体 だんたい 等 とう がユダヤ人 じん 襲撃 しゅうげき などしていた。そのため、ソ連 それん 崩壊 ほうかい 後 ご にロシア人 じん からユダヤ人 じん への憎悪 ぞうお が高 たか まると、多 おお くのユダヤ人 じん がイスラエルに移住 いじゅう している[ 130] 。
正教 せいきょう のみならず、他 た のキリスト教 きりすときょう であるカトリック教会 きょうかい (東方 とうほう 典礼 てんれい カトリック教会 きょうかい を含 ふく む)、聖 せい 公会 こうかい 、プロテスタント も弾圧 だんあつ を受 う けた。
日本 にっぽん の創価学会 そうかがっかい (日蓮 にちれん 仏教 ぶっきょう 系 けい )に関 かん しては、ソ連 それん 国内 こくない における布教 ふきょう 活動 かつどう 自体 じたい は認 みと めなかったが[ 注釈 ちゅうしゃく 28] 、外交 がいこう 的 てき および経済 けいざい 的 てき 見地 けんち から友好 ゆうこう 関係 かんけい を保 たも っていた。とりわけ池田 いけだ 大作 だいさく 会長 かいちょう (のちに名誉 めいよ 会長 かいちょう )が1974年 ねん 以降 いこう にソ連 それん 訪問 ほうもん を繰 く り返 かえ すようになると、政府 せいふ や党 とう の要人 ようじん が面会 めんかい に応 おう じるのが慣例 かんれい だった。1974年 ねん 、1975年 ねん の訪 ほう ソではアレクセイ・コスイギン 、1981年 ねん の訪 ほう ソではニコライ・チーホノフ 、1987年 ねん の訪 ほう ソではニコライ・ルイシコフ 、1990年 ねん の訪 ほう ソではゴルバチョフと面会 めんかい している。池田 いけだ 名誉 めいよ 会長 かいちょう と最高 さいこう 指導 しどう 者 しゃ との面会 めんかい が行 おこな われたのはゴルバチョフ政権 せいけん 時代 じだい の1990年 ねん だった。
ソビエト連邦 れんぽう では国家 こっか 連邦 れんぽう の歴史 れきし が始 はじ まった当初 とうしょ から多 おお くの混乱 こんらん が生 しょう じていたため、多数 たすう の戦災 せんさい 孤児 こじ やその他 た のストリートチルドレン に対処 たいしょ しなければならなかった。また、その後 ご 独 どく ソ戦 せん が始 はじ まると戦災 せんさい 孤児 こじ も増 ふ えていき、戦後 せんご の1945年 ねん から1950年代 ねんだい にかけてはソビエト連邦 れんぽう にとって大 おお きな社会 しゃかい 問題 もんだい となっていたが、その後 ご の1960年代 ねんだい から1991年 ねん までは終戦 しゅうせん からの時間 じかん 的 てき 経過 けいか により戦争 せんそう 孤児 こじ も日 ひ に日 ひ に少 すく なくなっていった。そのため、1922年 ねん から1991年 ねん にかけて孤児 こじ に絡 から む問題 もんだい は大 おお きく変動 へんどう している。
1941年 ねん 時 じ におけるソビエト連邦 れんぽう の民族 みんぞく 誌 し 地図 ちず
1970年 ねん 時 じ におけるソビエト連邦 れんぽう の民族 みんぞく 誌 し 地図 ちず
ソ連 それん におけるユダヤ系 けい ・反 はん ソ感情 かんじょう による反 はん ユダヤ主義 しゅぎ
編集 へんしゅう
日本 にっぽん 記者 きしゃ クラブ によるとソ連 それん 時代 じだい だけでなく、革命 かくめい 前 まえ のロシア帝国 ていこく でも、ユダヤ人 じん 迫害 はくがい はたびたび起 お きていたこと[ 132] 、ロシア帝政 ていせい 下 か で、ロシア帝国 ていこく はユダヤ人 じん はウクライナに定住 ていじゅう させ、移動 いどう を禁止 きんし するなどの政策 せいさく をとってきたこと、多 おお くのユダヤ人 じん がロシア帝国 ていこく に不満 ふまん を持 も っていたため、若 わか いユダヤ人 じん たちがロシア革命 かくめい に参加 さんか したことは事実 じじつ であると指摘 してき している[ 132] 。
1948年 ねん のイスラエル 建国 けんこく まで、反 はん ソ連 それん (親 おや ロシア帝国 ていこく 又 また は自 じ 民族 みんぞく 国家 こっか 独立 どくりつ 活動 かつどう 家 か )の人々 ひとびと に反 はん ユダヤ的 てき 立場 たちば を取 と る人 ひと が多 おお かった背景 はいけい には、ロシア帝国 ていこく 時代 じだい からロシア人 じん からも差別 さべつ されていた上 うえ に、当時 とうじ 自民 じみん 族 ぞく 国家 こっか を持 も たなかったユダヤ人 じん にはソ連 それん の掲 かか げた共産 きょうさん 主義 しゅぎ 思想 しそう に共感 きょうかん する者 もの が多 おお く、彼 かれ らが共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ となったこと、マルクス だけでなく、ソ連 それん の幹部 かんぶ にユダヤ人 じん が多数 たすう いたことがある。そのため、白 しろ 系 けい ロシア人 じん などのようにソ連 それん に対 たい する敵対 てきたい 行動 こうどう せずとも反 はん ソ連 それん 感情 かんじょう を持 も っていた非 ひ 共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ の一般 いっぱん ロシア人 じん は「ユダヤ人 じん に母国 ぼこく を乗 の っ取 と られた」、ソ連 それん に侵略 しんりゃく された地域 ちいき ・国家 こっか の人々 ひとびと は「ユダヤ人 じん に自国 じこく を侵略 しんりゃく された」として、反 はん ユダヤの思想 しそう となっていた。ソ連 それん 政府 せいふ 指導 しどう 層 そう におけるユダヤ人 じん の割合 わりあい は当時 とうじ の他国 たこく を圧倒 あっとう し、国内外 こくないがい のユダヤ人 じん も資本 しほん 主義 しゅぎ を支持 しじ する富裕 ふゆう 層 そう 以外 いがい はソ連 それん にシンパシーを持 も つほどであった。ただし、1948年 ねん にイスラエルが建国 けんこく されると、裕福 ゆうふく でもないユダヤ人 じん もソ連 それん からイスラエルへ心 しん が移 うつ っている[ 133] 。 更 さら には、『資本 しほん 論 ろん 』を書 か いたマルクスはユダヤ人 じん であり、第 だい 二 に 次 じ ロシア革命 かくめい である十 じゅう 月 がつ 革命 かくめい でロシア帝国 ていこく からソ連 それん になり、成立 せいりつ した当初 とうしょ のレーニン の内閣 ないかく のメンバーは半分 はんぶん 以上 いじょう がユダヤ系 けい だった[ 132] 。
ロシア正教 せいきょう の復権 ふっけん ・ソ連 それん 崩壊 ほうかい 後 ご のユダヤ人 じん 大 だい 移動 いどう
編集 へんしゅう
更 さら にソ連 それん という共産 きょうさん 主義 しゅぎ 国家 こっか の誕生 たんじょう で、ソ連 それん 国内 こくない では宗教 しゅうきょう 活動 かつどう が制限 せいげん された。そのため、ソ連 それん が行 い き詰 づ まると、ソ連 それん 国内 こくない の人々 ひとびと は再 ふたた びロシア正教 せいきょう に救 すく いを求 もと めた一方 いっぽう で反 はん ユダヤ主義 しゅぎ が台頭 たいとう した。ソ連 それん の人々 ひとびと は経済 けいざい の不満 ふまん を「ユダヤ人 じん が作 つく った共産 きょうさん 主義 しゅぎ 」のせいだと噂 うわさ し、ソ連 それん 右翼 うよく 団体 だんたい 等 とう がユダヤ人 じん 襲撃 しゅうげき さえ起 お こしていた。ソ連 それん 崩壊 ほうかい 後 ご にロシア人 じん からユダヤ人 じん への憎悪 ぞうお が高 たか まると、多 おお くのユダヤ人 じん がイスラエルに移住 いじゅう している[ 132] 。ソ連 それん 崩壊 ほうかい 前後 ぜんこう のロシアにおける反 はん ユダヤ主義 しゅぎ の台頭 たいとう のため、イスラエルへの大 だい 移動 いどう がおこり、2016年 ねん 4月 がつ 時点 じてん イスラエルの人口 じんこう は現在 げんざい 840万 まん 人 にん に増 ふ えているが、そのうちロシアからの移民 いみん は120万 まん 人 にん にも達 たっ し、人口 じんこう の15%を占 し めるほどになっている[ 132] 。
ソビエト連邦 れんぽう における強盗 ごうとう 、殺人 さつじん 、その他 た の暴力 ぼうりょく 犯罪 はんざい は米国 べいこく ほど蔓延 まんえん しておらず、薬物 やくぶつ 乱用 らんよう の発生 はっせい 率 りつ も低 ひく かったとされる。だが反面 はんめん で汚職 おしょく や国家 こっか 腐敗 ふはい (英語 えいご 版 ばん ) は日常 にちじょう 茶飯事 さはんじ であった[ 134] 。
ソ連 それん における警察 けいさつ 機関 きかん は『ミリツィア (ロシア語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) 』と呼 よ ばれていた。この組織 そしき はソビエト連邦 れんぽう 内務省 ないむしょう の下部 かぶ 機関 きかん で、ソ連 それん 構成 こうせい 国 こく およびワルシャワ条約 じょうやく 機構 きこう 加盟 かめい 国 こく を中心 ちゅうしん とした社会 しゃかい 主義 しゅぎ 諸国 しょこく の治安 ちあん において絶大 ぜつだい ともいえる影響 えいきょう 力 りょく を示 しめ していた。
ソビエト連邦 れんぽう の人権 じんけん 概念 がいねん は国際 こくさい 法 ほう とは大 おお きく異 こと なっていた。ソ連 それん の法理 ほうり 論 ろん によれば、「個人 こじん に対 たい して主張 しゅちょう されるべき人権 じんけん の受益 じゅえき 者 しゃ は政府 せいふ である」[ 135] 、即 すなわ ち「ソビエト国家 こっか は人権 じんけん の源 みなもと である」と考 かんが えられていたのである[ 136] 。
同 どう 連邦 れんぽう における人権 じんけん は厳 きび しく制限 せいげん されたものとなっていた。言論 げんろん の自由 じゆう は抑圧 よくあつ され、反対 はんたい 意見 いけん は容赦 ようしゃ なく処罰 しょばつ されるといった状態 じょうたい が連邦 れんぽう の崩壊 ほうかい まで長 なが きに亘 わた って続 つづ いていた。これに伴 ともな い、独立 どくりつ した政治 せいじ 活動 かつどう は 自由 じゆう 労働 ろうどう 組合 くみあい 、民間 みんかん 企業 きぎょう 、独立 どくりつ 教会 きょうかい 、野党 やとう への参加 さんか に関係 かんけい なく容認 ようにん されておらず、国民 こくみん の移動 いどう の自由 じゆう は国内外 こくないがい で制限 せいげん されていた。
上記 じょうき のように外国 がいこく の放送 ほうそう の傍受 ぼうじゅ が禁止 きんし されていたうえ、テレビ やラジオ 、新聞 しんぶん などのマスコミ による報道 ほうどう は共産党 きょうさんとう の管制 かんせい 下 か に置 お かれ、国家 こっか や党 とう にとってマイナスとなる報道 ほうどう は、1986年 ねん にグラスノスチが始 はじ まるまで流 なが れることはなかった。
このような規制 きせい は外国 がいこく の事件 じけん や、チェルノブイリ事故 じこ や大韓航空 だいかんこうくう 機 き 撃墜 げきつい 事件 じけん のような国際 こくさい 的 てき に影響 えいきょう がある事件 じけん に対 たい してだけでなく、国内 こくない の政治 せいじ 、経済 けいざい 的 てき な事件 じけん も、党 とう 幹部 かんぶ の粛清 しゅくせい や地下鉄 ちかてつ 事故 じこ 、炭鉱 たんこう 事故 じこ のような事件 じけん に至 いた るまで、それが国家 こっか や党 とう に対 たい してマイナスの影響 えいきょう を与 あた えると判断 はんだん されたものはほとんど報道 ほうどう されることがなかったか、仮 かり に報道 ほうどう されても国家 こっか や党 とう に対 たい して有利 ゆうり な内容 ないよう になるよう歪曲 わいきょく されていた。そのため、西側 にしがわ の国 くに でオリンピックなどがあると、そこで初 はじ めて真実 しんじつ を知 し ったソ連 それん の選手 せんしゅ や関係 かんけい 者 しゃ がそのまま亡命 ぼうめい 希望 きぼう するケースが頻発 ひんぱつ した。
ロシア革命 かくめい 以前 いぜん の支配 しはい 者 しゃ のニコライ2世 せい やその家族 かぞく を裁判 さいばん なしに銃殺 じゅうさつ した真実 しんじつ を明 あき らかにしようと、1979年 ねん に地質 ちしつ 調査 ちょうさ 隊 たい が皇帝 こうてい 一家 いっか の遺骨 いこつ の発掘 はっくつ を行 おこな ったが、KGBに逮捕 たいほ された事例 じれい がある。しかしソ連 それん 崩壊 ほうかい 後 ご にロシアでは70年 ねん 以上 いじょう も隠蔽 いんぺい されたこの事実 じじつ が明 あき らかになり、ロシア革命 かくめい から80年 ねん を経 へ た1998年 ねん に葬儀 そうぎ が行 おこな われた。
西側 にしがわ 諸国 しょこく の報道 ほうどう 機関 きかん の特派 とくは 員 いん は基本 きほん 的 てき に国内 こくない を自由 じゆう に取材 しゅざい 、報道 ほうどう することは禁 きん じられており、事前 じぜん に申請 しんせい が必要 ひつよう であったがその多 おお くは却下 きゃっか され、たとえ許 ゆる されたとしても取材 しゅざい 先 さき の人選 じんせん や日程 にってい はすべてお膳立 ぜんだ てされたものに沿 そ わなければならなかった。モスクワオリンピックなどの国際 こくさい 的 てき イベント や、西側 にしがわ 諸国 しょこく の首脳 しゅのう 陣 じん の公式 こうしき 訪問 ほうもん が行 おこな われる際 さい にソ連 それん を訪 おとず れた報道陣 ほうどうじん に対 たい しては、このようなお膳立 ぜんだ てされた取材 しゅざい スケジュールが必 かなら ず提供 ていきょう された。
西側 にしがわ 諸国 しょこく の報道 ほうどう 機関 きかん で働 はたら くソビエト人 じん 従業 じゅうぎょう 員 いん も自主 じしゅ 的 てき に選択 せんたく することは許 ゆる されず、当局 とうきょく からあてがわれた者 もの を受 う け入 い れるのみとされ、その多 おお くが西側 にしがわ 諸国 しょこく の報道 ほうどう 機関 きかん やその特派 とくは 員 いん の行動 こうどう を当局 とうきょく に報告 ほうこく する義務 ぎむ を負 お っていた。
国内 こくない における報道 ほうどう 管制 かんせい の一環 いっかん として、共産党 きょうさんとう 書記 しょき 長 ちょう などの党 とう の要人 ようじん が死去 しきょ した際 さい には、党 とう による正式 せいしき 発表 はっぴょう に先立 さきだ ち、テレビやラジオが通常 つうじょう の番組 ばんぐみ を急遽 きゅうきょ 停止 ていし し、クラシック音楽 おんがく もしくは第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 戦史 せんし などの歴史 れきし の映像 えいぞう に切 き り替 か わり、クレムリン などの要所 ようしょ に掲揚 けいよう されている国旗 こっき が半旗 はんき になるのが慣 なら わしであった。このため、国民 こくみん (と西側 にしがわ の報道 ほうどう 機関 きかん )の多 おお くは、テレビやラジオの番組 ばんぐみ が変更 へんこう され、要所 ようしょ に掲揚 けいよう されている国旗 こっき が半旗 はんき になるたびに、モスクワ市内 しない の政府 せいふ の建物 たてもの や病院 びょういん 、軍 ぐん 施設 しせつ などを訪 おとず れ情報 じょうほう 収集 しゅうしゅう に努 つと めたうえに、これらの対応 たいおう を見 み てどの階層 かいそう の要人 ようじん が死去 しきょ したかを推測 すいそく しあっていたといわれている。
さらに党 とう の要人 ようじん が失脚 しっきゃく した(もしくは粛清 しゅくせい された)際 さい にはその事実 じじつ が即座 そくざ に政府 せいふ より正式 せいしき 発表 はっぴょう されることはまれで、このため西側 にしがわ 諸国 しょこく の情報 じょうほう 機関 きかん 員 いん や報道 ほうどう 機関 きかん の特派 とくは 員 いん は、メーデー などをはじめとする記念 きねん 日 び のパレードの際 さい にクレムリンの赤 あか の広場 ひろば の台 だい の上 うえ に並 なら ぶ要人 ようじん の立 た ち位置 いち の変化 へんか や、新聞 しんぶん やテレビ、ラジオニュースでの扱 あつか い回数 かいすう や順番 じゅんばん を観測 かんそく し、失脚 しっきゃく などによる党 とう 中央 ちゅうおう における要人 ようじん の序列 じょれつ の変化 へんか を推測 すいそく し、これを「クレムリノロジー 」と呼 よ んでいた。
ソビエト連邦 れんぽう のプロパガンダ は現代 げんだい の手法 しゅほう を先駆 さきが けるものであり、ソ連 それん は世界 せかい 初 はつ の宣伝 せんでん 国家 こっか と呼 よ ばれる(en:Peter Kenez のThe Birth of the Propaganda State;Soviet Methods of Mass Mobilization 1985)。映画 えいが ではレーニンの「すべての芸術 げいじゅつ の中 なか で、もっとも重要 じゅうよう なものは映画 えいが である」との考 かんが えから世界 せかい 初 はつ の国立 こくりつ 映画 えいが 学校 がっこう が作 つく られ、セルゲイ・エイゼンシュテイン がモンタージュ を編 あ み出 だ したことにより、当時 とうじ としては極 きわ めて斬新 ざんしん なものになり、その精巧 せいこう さは各国 かっこく の著名 ちょめい な映画 えいが 人 じん や、後 のち にナチス 政権 せいけん 下 か のドイツの宣伝 せんでん 相 しょう となるヨーゼフ・ゲッベルス を絶賛 ぜっさん させた。宣伝 せんでん 映画 えいが を地方 ちほう 上映 じょうえい できるよう、移動 いどう 可能 かのう な映写 えいしゃ 設備 せつび として映画 えいが 館 かん を備 そな えた列車 れっしゃ ・船舶 せんぱく ・航空機 こうくうき が製造 せいぞう ・活用 かつよう された(例 れい :マクシム・ゴーリキー号 ごう )。看板 かんばん やポスターではロシア・アヴァンギャルド から発展 はってん した力強 ちからづよ い構図 こうず ・強烈 きょうれつ なインパクトのフォトモンタージュ が生 う まれ、これは世界 せかい 各国 かっこく で模倣 もほう された。
特 とく にバベル ばべる の塔 とう にも例 たと えられる世界 せかい 最大 さいだい 最高 さいこう 層 そう の超 ちょう 巨 きょ 大 だい 建築 けんちく 物 ぶつ を目指 めざ したソビエト・パレス は後世 こうせい の建築 けんちく 家 か だけでなく、形態 けいたい 的 てき にはイタリア やドイツ、日本 にっぽん などの建築 けんちく に大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えた。日本 にっぽん でもソビエト・パレスの計画 けいかく を見 み て丹下 たんげ 健三 けんぞう が建築 けんちく 家 か を目指 めざ すに至 いた った。当時 とうじ 世界一 せかいいち 高 たか い建造 けんぞう 物 ぶつ であったオスタンキノ・タワー も完成 かんせい させた。スターリンはモスクワをニューヨーク のような摩天楼 まてんろう にするため、スターリン様式 ようしき の建物 たてもの を多 おお く建設 けんせつ した。ソ連 それん のプロパガンダはイワン・パヴロフ やレフ・ヴィゴツキー などの心理 しんり 学 がく 者 もの の理論 りろん に基 もと づいていた点 てん で先駆 せんく 的 てき だったと評 ひょう するものもいる。ほかにもボリス・ロージング がブラウン管 ぶらうんかん を使 つか ったテレビを世界 せかい で初 はじ めて発案 はつあん するなど、テレビの研究 けんきゅう も活発 かっぱつ だった。
ソビエト連邦 れんぽう における食 しょく 文化 ぶんか は、社会 しゃかい 主義 しゅぎ 体制 たいせい の影響 えいきょう から壊滅 かいめつ 的 てき な打撃 だげき を受 う けていたものが散見 さんけん される。
ウォッカ は輸出 ゆしゅつ 品 ひん として貴重 きちょう な外貨 がいか をもたらした。
西側 にしがわ の嗜好 しこう 品 ひん に対 たい しても社会 しゃかい 主義 しゅぎ のイデオロギーによる排除 はいじょ が行 おこな われていたが、コカ・コーラ に「反共 はんきょう 的 てき な飲 の み物 もの 」というレッテルを貼 は った一方 いっぽう で[ 137] 、ペプシ の流通 りゅうつう は許可 きょか されるなど一様 いちよう ではなかった。
ソビエト連邦 れんぽう では上述 じょうじゅつ されているように言論 げんろん の自由 じゆう や表現 ひょうげん の自由 じゆう がなかったため、文学 ぶんがく 者 しゃ の中 なか には亡命 ぼうめい を余儀 よぎ なくされた者 もの や、ノーベル文学 ぶんがく 賞 しょう 受賞 じゅしょう のボリス・パステルナーク のように受賞 じゅしょう 辞退 じたい を余儀 よぎ なくされたもの、同 おな じくノーベル文学 ぶんがく 賞 しょう 受賞 じゅしょう のソルジェニーツィン のように国外 こくがい 追放 ついほう された者 もの がいるなど、文化 ぶんか 人 じん にとっては受難 じゅなん が相次 あいつ ぐ上 うえ に言論 げんろん と表現 ひょうげん の封殺 ふうさつ が慢性 まんせい 化 か した状況 じょうきょう が続 つづ いていた。
1930年代 ねんだい のソ連 それん の流行 りゅうこう 歌 か であるEnthusiast's March
ソビエト連邦 れんぽう では音楽 おんがく 教育 きょういく 制度 せいど が創設 そうせつ され、多 おお くの才能 さいのう ある作曲 さっきょく 家 か や演奏 えんそう 家 か が輩出 はいしゅつ されていたが、その大 だい 部分 ぶぶん はロシア人 じん で占 し められていた。しかしながらウクライナ人 じん やベラルーシ人 じん 、ユダヤ人 じん 、コーカサスエリアの出身 しゅっしん 者 しゃ も音楽 おんがく 分野 ぶんや において重要 じゅうよう な貢献 こうけん を果 は たしており、それらの人物 じんぶつ は主 おも にクラシック音楽 おんがく などで名曲 めいきょく を遺 のこ している。
革命 かくめい 直後 ちょくご のソ連 それん では革命 かくめい 的 てき な前衛 ぜんえい 芸術 げいじゅつ が流行 りゅうこう し、抽象 ちゅうしょう 芸術 げいじゅつ や構成 こうせい 主義 しゅぎ が生 う まれ、ロシア・アヴァンギャルド は共産党 きょうさんとう のいわば公認 こうにん 芸術 げいじゅつ として革命 かくめい 思想 しそう を宣伝 せんでん するプロパガンダ ポスターに広 ひろ く採用 さいよう された。当時 とうじ のソ連 それん は世界 せかい 初 はつ の電子 でんし 音楽 おんがく 機器 きき テルミン が作 つく られ、モンタージュ理論 りろん が生 う まれるなど前衛 ぜんえい 芸術 げいじゅつ の一大 いちだい 中心 ちゅうしん 地 ち と化 か しており、不遇 ふぐう であった多 おお くの外国 がいこく 出身 しゅっしん の前衛 ぜんえい 芸術 げいじゅつ 家 か がソビエト連邦 れんぽう の建設 けんせつ に参加 さんか した。たとえば、前述 ぜんじゅつ したソビエト・パレスの計画 けいかく にはル・コルビュジエ 、ヴァルター・グロピウス 、エーリヒ・メンデルスゾーン 、オーギュスト・ペレ 、ハンス・ペルツィヒ といった新進 しんしん 気鋭 きえい のモダニズム建築 けんちく 家 いえ たちが関 かか わった。レーニン自身 じしん もダダイスト であったという学説 がくせつ もある(塚原 つかはら 史 ふみ 『言葉 ことば のアヴァンギャルド』)。フセヴォロド・メイエルホリド がアジ・プロ演劇 えんげき 手法 しゅほう の確立 かくりつ 、古典 こてん の斬新 ざんしん 的 てき 解釈 かいしゃく に基 もと づく演出 えんしゅつ 、コメディア・デラルテ、サーカス などの動 うご きと機械 きかい 的 てき イメージを組 く み合 あ わせた身体 しんたい 訓練 くんれん 法 ほう 「ビオメハニカ 」の提唱 ていしょう などを次々 つぎつぎ と行 おこな い、1920年代 ねんだい におけるソビエト・ロシア演劇 えんげき はもとより20世紀 せいき 前半 ぜんはん の国際 こくさい 演劇 えんげき に大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えた(スターリン政権 せいけん 期 き にはスタニスラフスキー・システム があった)。
スターリン政権 せいけん 下 か の1932年 ねん に行 おこな われたソ連 それん 共産党 きょうさんとう 中央 ちゅうおう 委員 いいん 会 かい にて「社会 しゃかい 主義 しゅぎ リアリズム 」の方針 ほうしん が提唱 ていしょう されて以降 いこう は、1930年代 ねんだい 前半 ぜんはん のうちに文学 ぶんがく や彫刻 ちょうこく 、絵画 かいが などあらゆる芸術 げいじゅつ 分野 ぶんや の作家 さっか 大会 たいかい で公式 こうしき に採用 さいよう されるに至 いた り、これにそぐわぬものは制限 せいげん され、次第 しだい に衰退 すいたい することを余儀 よぎ なくされた。
一方 いっぽう でバレエ などのロシアの伝統 でんとう 的 てき な芸術 げいじゅつ は政府 せいふ により潤沢 じゅんたく な予算 よさん が投 とう じられたことで高 たか い水準 すいじゅん を維持 いじ し、クラシック音楽 おんがく でも、当局 とうきょく による制限 せいげん を受 う けながらドミートリイ・ショスタコーヴィチ らが作品 さくひん を残 のこ し、エフゲニー・ムラヴィンスキー 率 ひき いるレニングラード・フィルハーモニー交響 こうきょう 楽団 がくだん などが演奏 えんそう を残 のこ している。バレエ団 だん やオーケストラは共産 きょうさん 主義 しゅぎ の理想 りそう を広 ひろ めるためとして海外 かいがい 公演 こうえん を行 おこな っていたが、実際 じっさい には外貨 がいか の獲得 かくとく が主 しゅ 目的 もくてき であったとされる。ソ連 それん 崩壊 ほうかい 後 ご は存続 そんぞく が難 むずか しくなり、オーケストラが改名 かいめい したり団員 だんいん が独立 どくりつ したりするなどして幽霊 ゆうれい オーケストラ が多数 たすう 誕生 たんじょう した。アナトリー・ヴェデルニコフ のように当局 とうきょく に迎合 げいごう しない演奏 えんそう 家 か は海外 かいがい 公演 こうえん を制限 せいげん された。
ソビエト連邦 れんぽう における祝日 しゅくじつ は、以下 いか の通 とお りである。
西側 にしがわ 諸国 しょこく で人気 にんき のあったロックンロール やヘヴィメタル 、ジャズ などの音楽 おんがく や、ハリウッド映画 えいが などの大衆 たいしゅう 文化 ぶんか は「商業 しょうぎょう 的 てき で、退廃 たいはい を招 まね く幼稚 ようち なもの」として規制 きせい され、わずかに北 きた ヨーロッパ諸国 しょこく や西 にし ドイツなどのポピュラー音楽 おんがく や、衛星 えいせい 国 こく や日本 にっぽん 、イタリアなどの芸術 げいじゅつ 的 てき 要素 ようそ の高 たか い映画 えいが のみが上映 じょうえい を許 ゆる されていた。これに伴 ともな い、外国 がいこく のラジオ放送 ほうそう を傍受 ぼうじゅ することも禁止 きんし されていた。
映画 えいが
ゲーム
アニメ
社会 しゃかい 主義 しゅぎ 体制 たいせい が描 えが かれている作品 さくひん
007シリーズ やゴルゴ13 など、40年代 ねんだい から90年代 ねんだい までの世界 せかい 情勢 じょうせい を背景 はいけい とするフィクション作品 さくひん において、ソビエト連邦 れんぽう は頻繁 ひんぱん に描 えが かれている。特 とく に諜報 ちょうほう 機関 きかん KGB の暗躍 あんやく や、政府 せいふ 高官 こうかん や科学 かがく 者 しゃ の亡命 ぼうめい 事件 じけん 等 とう がよく題材 だいざい となる。作成 さくせい された国 くに が西側 にしがわ 諸国 しょこく であるためと、ソビエト連邦 れんぽう の内部 ないぶ が不明 ふめい であったために、ソビエト連邦 れんぽう の関係 かんけい 者 しゃ は悪役 あくやく として描 えが かれることも多 おお い。
アメリカとソ連 それん の緊張 きんちょう が緩和 かんわ した冷戦 れいせん 終結 しゅうけつ 前後 ぜんこう には、レッドブル (1988年 ねん )のように単 たん なる悪役 あくやく ではなく堅物 かたぶつ で西側 にしがわ 文化 ぶんか に戸惑 とまど うキャラクターとして描 えが かれる例 れい も増 ふ えた。
ウォッカ・タイム (片山 かたやま まさゆき )
運動 うんどう 競技 きょうぎ では国 くに の威信 いしん をかけた強化 きょうか 策 さく がとられ、選手 せんしゅ 育成 いくせい プログラムによって育成 いくせい させられた選手 せんしゅ が、オリンピック で数 すう 多 おお くのメダルを獲得 かくとく していた。レスリング 、アイスホッケー 、サッカー 、バレーボール 、バスケットボール 、ホッケー 、体操 たいそう 競技 きょうぎ の強豪 きょうごう 国 こく として知 し られ、オリンピックや世界 せかい 選手権 せんしゅけん で多 おお くのメダル を獲得 かくとく した(オリンピック初 はつ 参加 さんか 後 ご のメルボルンオリンピック から)。しかし崩壊 ほうかい 後 ご にそれらの選手 せんしゅ の多 おお くが人権 じんけん を無視 むし したトレーニングのみの生活 せいかつ と違法 いほう ドーピング によるものだったことが当事 とうじ 者 しゃ の告白 こくはく により明 あき らかになった。それらの記録 きろく はいまもなお剝奪されずに現存 げんそん している。
共産 きょうさん 主義 しゅぎ というシステム上 じょう 、すべてのスポーツ選手 せんしゅ が国家 こっか の管理 かんり 下 か におけるステート・アマ であるという位置 いち づけであり、よって資本 しほん 主義 しゅぎ 諸国 しょこく のようなプロ スポーツおよびプロ選手 せんしゅ は存在 そんざい しなかった。尚 なお 、プロ級 きゅう の選手 せんしゅ は大勢 おおぜい いた。
1980年 ねん に、ソビエト連邦 れんぽう の歴史 れきし 上 じょう 唯一 ゆいいつ の夏季 かき オリンピック であるモスクワオリンピック が行 おこな われた。冷戦 れいせん 下 か ということもあり、国 くに の総力 そうりょく を挙 あ げてオリンピック の成功 せいこう を目指 めざ したものの、前年 ぜんねん に行 おこな われたアフガニスタン侵攻 しんこう に対 たい する抗議 こうぎ という名目 めいもく で、日本 にっぽん や西 にし ドイツ 、アメリカなどの西側 にしがわ 諸国 しょこく 、東側 ひがしがわ 諸国 しょこく の中 なか でも、ソ連 それん と対立 たいりつ の最中 さいちゅう であった中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく がボイコットを行 おこな った。
クレムリンの時計 とけい 塔 とう であるスパスカヤ塔 とう の時報 じほう とともに始 はじ まった開会 かいかい 式 しき では、レーニン・スタジアム の中央 ちゅうおう のマスゲーム が国 くに 章 あきら や、マスコットキャラクターであるこぐまのミーシャ 、さらにソビエト連邦 れんぽう を構成 こうせい する15の共和 きょうわ 国 こく の基幹 きかん 民族 みんぞく の衣装 いしょう 模様 もよう を体現 たいげん するなど、まさに多種 たしゅ 多様 たよう な画 が を体現 たいげん したのである。
そして、1984年 ねん に開催 かいさい された次回 じかい のロサンゼルスオリンピック では、1983年 ねん のアメリカ軍 ぐん によるグレナダ侵攻 しんこう への抗議 こうぎ という名目 めいもく で、ソビエト連邦 れんぽう と東 ひがし ドイツ をはじめ、ソ連 それん の衛星 えいせい 国 こく である東側 ひがしがわ 諸国 しょこく の多 おお くが報復 ほうふく ともいえる一斉 いっせい ボイコットを表明 ひょうめい した。しかしソ連 それん は、その代替 だいたい ともいえるフレンドシップ・ゲームズ (Дружва-84 )の開催 かいさい を決定 けってい し、東側 ひがしがわ 諸国 しょこく の一流 いちりゅう 選手 せんしゅ が参加 さんか した。
識字 しきじ 率 りつ が30%であった革命 かくめい 直後 ちょくご から数 すう 十 じゅう 年 ねん で87%に改善 かいぜん させ、戦後 せんご にほぼ100%を達成 たっせい させるなど基礎 きそ 教育 きょういく は充実 じゅうじつ していた。さらに国威 こくい 発揚 はつよう のため専 せん 門 もん のトレーニングへの公的 こうてき な補助 ほじょ が行 おこな われたが、第 だい 1回 かい 国際 こくさい 数学 すうがく オリンピック は「下 した から2番目 ばんめ の6位 い 」をという結果 けっか に指導 しどう 部 ぶ から叱責 しっせき を受 う け、3年 ねん 後 ご の1962年 ねん からは高 たか い成績 せいせき を誇 ほこ るようになる強豪 きょうごう 国 こく となった。参加 さんか 者 しゃ は国内 こくない の大学 だいがく を卒業 そつぎょう 後 ご に科学 かがく 者 しゃ や技術 ぎじゅつ 者 しゃ として活動 かつどう した。
マインドスポーツ の中 なか でも特 とく にチェス は伝統 でんとう 的 てき に盛 さか んで、国民 こくみん にとっても公認 こうにん されている数少 かずすく ない娯楽 ごらく であったが、ソ連 それん 時代 じだい には国 くに が管理 かんり するチェス学校 がっこう が各地 かくち に建設 けんせつ され、体制 たいせい が崩壊 ほうかい するまでは世界 せかい 最高 さいこう の水準 すいじゅん を保 たも っていた。国内 こくない 選手権 せんしゅけん の開催 かいさい や書籍 しょせき の出版 しゅっぱん なども盛 さか んだった。コンピュータチェス の研究 けんきゅう も盛 さか んで、第 だい 1回 かい 世界 せかい コンピュータチェス選手権 せんしゅけん でもソ連 それん のプログラムが優勝 ゆうしょう し、人工 じんこう 知能 ちのう の権威 けんい ジョン・マッカーシー とアラン・コトック 率 ひき いるマサチュ まさちゅ ーセッツ工科大学 せっつこうかだいがく とソ連 それん のモスクワ理論 りろん 実験 じっけん 物理 ぶつり 研究所 けんきゅうじょ によって行 おこな われた世界 せかい 初 はつ のコンピュータ同士 どうし のチェス対戦 たいせん でも勝 か っている。
チェス界 かい ではプロとアマの区別 くべつ がないため、ミハイル・タリ やミハイル・ボトヴィニク 、ガルリ・カスパロフ など、ソ連 それん 出身 しゅっしん の選手 せんしゅ が世界 せかい 王者 おうじゃ を長期 ちょうき にわたって[ 注釈 ちゅうしゃく 30] 独占 どくせん していた。一時期 いちじき は国際 こくさい 大会 たいかい に出 で られなかったグランドマスター 級 きゅう の国内 こくない 選手 せんしゅ に対 たい し、ソ連 それん のチェス協会 きょうかい が「ソ連邦 それんぽう グランドマスター」という独自 どくじ のタイトルを創設 そうせつ したこともあったが、次第 しだい にトップ選手 せんしゅ ならば試合 しあい 渡航 とこう も許可 きょか されるようになった。西側 にしがわ の大会 たいかい で優勝 ゆうしょう し国威 こくい 発揚 はつよう に貢献 こうけん するだけでなく、大会 たいかい の賞金 しょうきん 、指導 しどう 対局 たいきょく の謝礼 しゃれい 、執筆 しっぴつ した棋書の印税 いんぜい など多 おお くはないが貴重 きちょう な外貨 がいか をもたらした。しかし有力 ゆうりょく 選手 せんしゅ がこれを利用 りよう して亡命 ぼうめい することもあった。特 とく にヴィクトール・コルチノイ は亡命 ぼうめい 後 ご 「西側 にしがわ の選手 せんしゅ 」としてアナトリー・カルポフ らソ連 それん 代表 だいひょう と国際 こくさい 大会 たいかい で対戦 たいせん したことがあり、ソ連 それん 側 がわ から非難 ひなん を受 う けることとなった。
ソ連 それん 代表 だいひょう と西側 にしがわ の選手 せんしゅ がチームで対戦 たいせん することもあったが、特 とく にボリス・スパスキー とアメリカ人 じん のボビー・フィッシャー が対戦 たいせん した1972年 ねん の世界 せかい 王者 おうじゃ 決定 けってい 戦 せん は試合 しあい の進行 しんこう をめぐり、クレムリンやホワイトハウスが介入 かいにゅう するなど、政治 せいじ 的 てき な問題 もんだい にまで発展 はってん することがあった。敗 やぶ れたスパスキーはその後 ご の待遇 たいぐう 悪化 あっか などで、1975年 ねん にはフランスへ亡命 ぼうめい した。
体制 たいせい 崩壊 ほうかい 後 ご は西側 にしがわ へ拠点 きょてん を移 うつ す選手 せんしゅ もいたが、ウラジーミル・クラムニク など、ソ連 それん 時代 じだい のチェス学校 がっこう で教育 きょういく を受 う けた選手 せんしゅ が多数 たすう 活躍 かつやく している。旧東 きゅうとう ドイツや近隣 きんりん の東欧 とうおう 諸国 しょこく でもソ連 それん と似 に た状況 じょうきょう にあった。
中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく ではスポーツの管理 かんり に関 かん してソ連 それん を手本 てほん としたため、半官半民 はんかんはんみん の組織 そしき (中華 ちゅうか 全国 ぜんこく 体育 たいいく 総会 そうかい )による統括 とうかつ やマインドスポーツを国家 こっか 体育 たいいく 総局 そうきょく が管轄 かんかつ するなど影響 えいきょう が大 おお きい。
サッカーはソビエト連邦 れんぽう で最 もっと も人気 にんき のあるスポーツの1つであった。サッカーソビエト連邦 れんぽう 代表 だいひょう は1950年代 ねんだい から1960年代 ねんだい にかけて黄金 おうごん 期 き を迎 むか えており、ステート・アマを採用 さいよう したオリンピック での活躍 かつやく は目覚 めざ ましかった。1956年 ねん のメルボルン で金 きん メダル、1972年 ねん のミュンヘン 、1976年 ねん のモントリオール 、1980年 ねん のモスクワ では銅 どう メダルを獲得 かくとく した。1988年 ねん のソウル はプロ解禁 かいきん が行 おこな われた後 のち であったが、金 きん メダルを獲得 かくとく しソ連 それん 代表 だいひょう の有終 ゆうしゅう の美 び を飾 かざ った。
FIFAワールドカップ では、オリンピックほどの目立 めだ った活躍 かつやく はないものの、1966 FIFAワールドカップ ではベスト4に進出 しんしゅつ するなど、しばしば上位 じょうい に進出 しんしゅつ する強豪 きょうごう 国 こく として知 し られていた。またソ連 それん の伝説 でんせつ 的 てき な選手 せんしゅ であり、史上 しじょう 最高 さいこう のゴールキーパー とされるレフ・ヤシン は世界 せかい 年間 ねんかん 最優秀 さいゆうしゅう ゴールキーパーに与 あた えられる賞 しょう であるヤシン・トロフィー にその名 な を残 のこ しており往時 おうじ の強 つよ さを偲 しの ばせている。
UEFA欧州 おうしゅう 選手権 せんしゅけん での活躍 かつやく も目覚 めざ ましく、1960年 ねん の第 だい 1回 かい 大会 たいかい で優勝 ゆうしょう 。その後 ご も1964年 ねん 、1972年 ねん 、1988年 ねん で準 じゅん 優勝 ゆうしょう の成績 せいせき を収 おさ めている。1988年 ねん の準 じゅん 優勝 ゆうしょう は同年 どうねん のオリンピック金 きん メダルと並 なら んで、ソ連 それん 代表 だいひょう の有終 ゆうしゅう の美 び を飾 かざ った。
ソビエト連邦 れんぽう のような共産 きょうさん 主義 しゅぎ 国家 こっか の社会 しゃかい 経済 けいざい 的 てき 性質 せいしつ 、特 とく にスターリンのもとで実施 じっし されてきた政策 せいさく では、官僚 かんりょう 的 てき 集 あつまり 産 さん 主義 しゅぎ 、国家 こっか 資本 しほん 主義 しゅぎ 、国家 こっか 社会 しゃかい 主義 しゅぎ 、あるいは全 まった く特異 とくい な生産 せいさん 様式 ようしき の一 いち 形態 けいたい など、様々 さまざま なレッテルを貼 は られ、多 おお くの議論 ぎろん が交 か わされてきた[ 138] 。ソ連 それん は長期間 ちょうきかん にわたって幅広 はばひろ い政策 せいさく を実施 じっし し、様々 さまざま な指導 しどう 者 しゃ によって大量 たいりょう の相反 あいはん する政策 せいさく が実施 じっし されてきたため、肯定 こうてい 的 てき な見方 みかた をする人 ひと がいれば「抑圧 よくあつ 的 てき な寡頭政治 かとうせいじ 」として同 どう 連邦 れんぽう に未 いま だ批判 ひはん 的 てき な人 ひと も存在 そんざい する[ 139] 。現在 げんざい においてソ連 それん に関 かん する意見 いけん は複雑 ふくざつ な状況 じょうきょう であり、時間 じかん の経過 けいか とともに変化 へんか している。そのため、世代 せだい が異 こと なれば、この問題 もんだい やそれらの歴史 れきし の異 こと なる期間 きかん に対応 たいおう するソビエトの政策 せいさく についても異 こと なる見解 けんかい を持 も ち合 あ わせる現状 げんじょう が続 つづ いている[ 140] 。
^ ソビエト連邦 れんぽう では1922年 ねん の建国 けんこく 時 じ から革命 かくめい 歌 か である『インターナショナル 』が国歌 こっか とされていたが、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 ちゅう の1944年 ねん には新 あら たに『ソビエト連邦 れんぽう 国歌 こっか 』が制定 せいてい され、この曲 きょく は1991年 ねん のソビエト崩壊 ほうかい まで国歌 こっか として使用 しよう された。なお、2001年 ねん に制定 せいてい されたロシア連邦 れんぽう の国歌 こっか は『ソビエト連邦 れんぽう 国歌 こっか 』の旋律 せんりつ を受 う け継 つ いだものである。
^ 1944年 ねん に制定 せいてい された歌詞 かし はスターリン崇拝 すうはい や戦時 せんじ 色 しょく が強 つよ いとして、スターリン死後 しご の1955年 ねん から1977年 ねん までは歌詞 かし なしで演奏 えんそう されたが、ソビエト連邦 れんぽう の法律 ほうりつ 上 じょう では1944年版 ねんばん の歌詞 かし のままで変更 へんこう は無 な かった。
^ 1977年 ねん に新 あたら しい歌詞 かし が定 さだ められ、1991年 ねん のソビエト崩壊 ほうかい までこの国歌 こっか が使用 しよう された。
^ ロシア語 ご のラテン文字 もじ 表記 ひょうき 法 ほう においては『SSSR』となる
^ それとは別 べつ にсовет には「助言 じょげん 」(英 えい : advice )という意味 いみ もある。
^ ラテン文字 もじ 表記 ひょうき の例 れい :Sojúz Sovétskikh Sotsyalistícheskikh Respúblik 、[sɐˈjus sɐˈvʲetskʲɪx sətsɨəlʲɪˈstʲitɕɪskʲɪx rʲɪsˈpublʲɪk] 、発音 はつおん ⓘ
^ Sovétskij Sojúz サヴィェーツキイ・サユース
^ 「大正 たいしょう 15年 ねん 6月 がつ 17日 にち 長門 ながと 招待 しょうたい 礼状 れいじょう 」 アジア歴史 れきし 資料 しりょう センター Ref.C11080444900 、「4.蘇 そ 連邦 れんぽう 大使館 たいしかん 関税 かんぜい 免除 めんじょ ノ件 けん 」 アジア歴史 れきし 資料 しりょう センター Ref.B04120003800 など
^ 共和 きょうわ 国 こく 別 べつ ではロシア連邦 れんぽう 共和 きょうわ 国 こく で71%、ウクライナ共和 きょうわ 国 こく で70%、白 はく ロシア共和 きょうわ 国 こく で83%、カザフ共和 きょうわ 国 こく で94%、ウズベク共和 きょうわ 国 こく で90%、キルギス共和 きょうわ 国 こく で95%、タジク共和 きょうわ 国 こく で96%、トルクメン共和 きょうわ 国 こく で98%、アゼルバイジャン共和 きょうわ 国 こく で93%が連邦 れんぽう 制 せい 維持 いじ に賛成 さんせい 票 ひょう を投 とう じた。ただし独立 どくりつ 志向 しこう を強 つよ めていたバルト三 さん 国 こく 、グルジア共和 きょうわ 国 こく 、アルメニア共和 きょうわ 国 こく 、モルダビア共和 きょうわ 国 こく の6共和 きょうわ 国 こく では投票 とうひょう はボイコットされた
^ 連邦 れんぽう からの離脱 りだつ を宣言 せんげん した年 とし に基 もと づく
^ キエフと同 どう 都市 とし
^ ウクライナ・ソビエト社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく からの分離 ぶんり により創設 そうせつ
^ ソ連邦 それんぽう 結成 けっせい 条約 じょうやく には、これらの4カ国 かこく が調印 ちょういん している。
^ 1926年 ねん の都市 とし 人口 じんこう は、1917年 ねん 当時 とうじ の人口 じんこう を少 すこ し超 こ えた2,600万 まん 人 にん 。全 ぜん 人口 じんこう からの都市 とし 人口 じんこう 率 りつ は18パーセントとなった。
^ このような驚異 きょうい 的 てき な発展 はってん は他 た の先進 せんしん 諸国 しょこく にも見 み られる現象 げんしょう で、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく では1900年 ねん から1930年 ねん の間 あいだ に倍増 ばいぞう 、イギリス では1871年 ねん から1931年 ねん の60年間 ねんかん に都市 とし 人口 じんこう が倍増 ばいぞう した。しかしソビエト連邦 れんぽう は十 じゅう 数 すう 年 ねん で都市 とし 人口 じんこう を倍増 ばいぞう させたことから、世界 せかい 的 てき にも稀 まれ な事例 じれい とされる。
^ 最高 さいこう 会議 かいぎ の会期 かいき を除 のぞ いて、その所管 しょかん を代行 だいこう した。
^ 1990年 ねん 、権能 けんのう の一部 いちぶ が人民 じんみん 代議員 だいぎいん 大会 たいかい に移 うつ された。
^ 1991年 ねん 10月 がつ をもって最高 さいこう 会議 かいぎ 共和 きょうわ 国 こく 院 いん に置 お き換 か わった。
^ 中央 ちゅうおう 執行 しっこう 委員 いいん 会 かい の会期 かいき を除 のぞ いて、その所管 しょかん を代行 だいこう した。
^ 同 どう 党 とう は1903年 ねん にレーニン派 は のボリシェヴィキとマルトフ 派 は のメンシェヴィキ に分裂 ぶんれつ した。
^ しかし、その場 ば に同席 どうせき したジョージ・H・W・ブッシュ米 べい 大統領 だいとうりょう は冷戦 れいせん の終結 しゅうけつ を明確 めいかく にせず、ゴルバチョフのみが冷戦 れいせん の終結 しゅうけつ を明確 めいかく に宣言 せんげん した。
^ 西側 にしがわ で同様 どうよう の役割 やくわり を与 あた えられていた航空 こうくう 会社 かいしゃ として中華民国 ちゅうかみんこく の民 みん 航空 こうくう 運 うん 公司 こうし がある。
^ 皮肉 ひにく にもその栽培 さいばい 計画 けいかく により、ソ連 それん は連邦 れんぽう の崩壊 ほうかい を加速 かそく させる結果 けっか となった[ 112]
^ 検討 けんとう 項目 こうもく としては、標準 ひょうじゅん 原価 げんか 計算 けいさん 、直接 ちょくせつ 原価 げんか 計算 けいさん 、操業 そうぎょう 度 ど と原価 げんか との関連 かんれん 、固定 こてい 費 ひ と変動 へんどう 費 ひ の分類 ぶんるい 、損益 そんえき 分岐 ぶんき 点 てん 、責任 せきにん 制 せい と対応 たいおう した原価 げんか 設定 せってい 、コストセンター、原価 げんか 差異 さい の許容 きょよう 限度 げんど 、差異 さい 分析 ぶんせき の利用 りよう 、製造 せいぞう 原価 げんか 設定 せってい と標準 ひょうじゅん 修正 しゅうせい 、諸 しょ 勘定 かんじょう から得 え られる設備 せつび 投資 とうし の情報 じょうほう 、自製 じせい ・外注 がいちゅう 選択 せんたく などがあった。
^ 自治 じち 共和 きょうわ 国 こく や自治 じち 州 しゅう というのは、こうした民族 みんぞく 共和 きょうわ 国内 こくない の少数 しょうすう 民族 みんぞく のために置 お かれた。民族 みんぞく 共和 きょうわ 国 こく と同 おな じように独自 どくじ の憲法 けんぽう などを制定 せいてい できた自治 じち 共和 きょうわ 国 こく と自治 じち 州 しゅう であったが、連邦 れんぽう 離脱 りだつ 権 けん などの権利 けんり は明記 めいき されず、ソ連 それん 崩壊 ほうかい 前夜 ぜんや でも自治 じち 共和 きょうわ 国 こく のほとんどは主権 しゅけん 宣言 せんげん の採択 さいたく のみにとどまった。
^ ウクライナ語 ご 、ベラルーシ語 ご 、エストニア語 ご 、ラトビア語 ご 、リトアニア語 ご 、モルドバ語 ご (実質 じっしつ 的 てき にはルーマニア語 ご )、ウズベク語 ご 、タジク語 ご 、トルクメン語 ご 、カザフ語 ご 、キルギス語 ご 、アルメニア語 ご 、アゼルバイジャン語 ご 、グルジア語 ご が用 もち いられていた他 ほか 、いくつかの少数 しょうすう 民族 みんぞく の言語 げんご が話 はな されていた。
^ 独自 どくじ の敬礼 けいれい があるため
^ 布教 ふきょう 活動 かつどう が認 みと められたのは、連邦 れんぽう 崩壊 ほうかい 後 ご の1994年 ねん
^ ロシアでは2005年 ねん 以降 いこう 、民族 みんぞく 統一 とういつ の日 ひ に移動 いどう し、キルギスでは名称 めいしょう を変更 へんこう した祝日 しゅくじつ となっている。
^ 1927年 ねん 〜1935年 ねん 、1948年 ねん 〜1972年 ねん 、1975年 ねん 〜1999年 ねん 、2000年 ねん 〜2007年 ねん
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