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ソビエト連邦 - Wikipedia

ソビエト連邦れんぽう

かつてユーラシアにあった社会しゃかい主義しゅぎこく
ソ連それんから転送てんそう
ソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく連邦れんぽう
Союз Советских Социалистических Республик
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国
ウクライナ・ソビエト社会主義共和国
白ロシア・ソビエト社会主義共和国
ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国
1922ねん - 1991ねん
ソビエト連邦、ソビエト聯邦、ソ連、ソ聯、ソビエト、ソ連邦、ソ聯邦、ソ、蘇の国旗 ソビエト連邦、ソビエト聯邦、ソ連、ソ聯、ソビエト、ソ連邦、ソ聯邦、ソ、蘇の国章
国旗こっきくにあきら
くに標語ひょうご: Пролетарии всех стран, соединяйтесь!
万国ばんこく労働ろうどうしゃよ、団結だんけつせよ!
国歌こっか: Интернационал(ロシア
インターナショナル
(1922–1944)

Государственный гимн СССР(ロシア
初代しょだい ソビエト連邦れんぽう国歌こっか
(1944–1955) [注釈ちゅうしゃく 1]

2代目だいめ ソビエト連邦れんぽう国歌こっか
(1955–1977)[注釈ちゅうしゃく 2]

3代目だいめ ソビエト連邦れんぽう国歌こっか
(1977–1991) [注釈ちゅうしゃく 3]

3代目だいめ ソビエト連邦れんぽう国歌こっか (演奏えんそうばん)
(1977–1991)
ソビエト連邦、ソビエト聯邦、ソ連、ソ聯、ソビエト、ソ連邦、ソ聯邦、ソ、蘇の位置
1945ねん以後いごのソビエト連邦れんぽうりょう実効じっこう支配しはい地域ちいきふくむ)
公用こうよう ロシア事実じじつじょう
首都しゅと モスクワ
最高さいこう指導しどうしゃ[役職やくしょく 2]
1922ねん - 1924ねんウラジーミル・レーニン[役職やくしょく 1]
1924ねん - 1953ねんヨシフ・スターリン[役職やくしょく 3]
1953ねん - 1953ねんゲオルギー・マレンコフ[役職やくしょく 4]
1953ねん - 1964ねんニキータ・フルシチョフ[役職やくしょく 5]
1964ねん - 1982ねんレオニード・ブレジネフ[役職やくしょく 6]
1982ねん - 1984ねんユーリ・アンドロポフ[役職やくしょく 7]
1984ねん - 1985ねんコンスタンティン・チェルネンコ[役職やくしょく 8]
1985ねん - 1991ねんミハイル・ゴルバチョフ[役職やくしょく 9]
国家こっか元首げんしゅ
1922ねん - 1946ねん ミハイル・カリーニン初代しょだい[役職やくしょく 10]
1988ねん - 1991ねんミハイル・ゴルバチョフ最後さいご[役職やくしょく 11]
首相しゅしょう
1923ねん - 1924ねんウラジーミル・レーニン初代しょだい[役職やくしょく 12]
1991ねん - 1991ねんイワン・シラーエフ最後さいご[役職やくしょく 13]
面積めんせき
1922ねん19,553,129km²
1933ねん21,352,572km²
だい世界せかい大戦たいせん22,402,200km²
人口じんこう
1933ねん163,166,100にん
1970ねん242,768,000にん
1991ねん293,047,571にん
変遷へんせん
じゅうがつ革命かくめい 1917ねん11月7にち
建国けんこく1922ねん12月30にち
承認しょうにん1924ねん2がつ1にち
いちとう独裁どくさい体制たいせい放棄ほうき1990ねん3月14にち
8がつクーデター1991ねん8がつ19にち - 22にち
ソビエト共産党きょうさんとう解散かいさん勧告かんこく1991ねん8がつ24にち
解体かいたい消滅しょうめつ1991ねん12月26にち
通貨つうかソビエト連邦れんぽう・ルーブル
時間じかんたいUTC +2 - +13(DST: なし)
ccTLD.su
国際こくさい電話でんわ番号ばんごう+7
現在げんざいロシアの旗 ロシア
 ベラルーシ
 ウクライナ
モルドバの旗 モルドバ沿ドニエストル共和国の旗沿ドニエストル共和きょうわこくふくむ)
ジョージア (国)の旗 ジョージア
アルメニアの旗 アルメニア
アゼルバイジャンの旗 アゼルバイジャン
カザフスタンの旗 カザフスタン
ウズベキスタンの旗 ウズベキスタン
トルクメニスタンの旗 トルクメニスタン
キルギスの旗 キルギス
タジキスタンの旗 タジキスタン
 エストニア
 ラトビア
 リトアニア
先代せんだい次代じだい
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国 ロシア・ソビエト連邦れんぽう社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく
ウクライナ・ソビエト社会主義共和国 ウクライナ・ソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく
白ロシア・ソビエト社会主義共和国 はくロシア・ソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく
ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国 ザカフカース社会しゃかい主義しゅぎ連邦れんぽうソビエト共和きょうわこく
ロシア ロシア
ベラルーシ ベラルーシ
ウクライナ ウクライナ
モルドバ モルドバ
グルジア グルジア
アルメニア アルメニア
アゼルバイジャン アゼルバイジャン
カザフスタン カザフスタン
ウズベキスタン ウズベキスタン
トルクメニスタン トルクメニスタン
キルギス キルギス
タジキスタン タジキスタン
エストニア エストニア
ラトビア ラトビア
リトアニア リトアニア

ソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく連邦れんぽう(ソビエトしゃかいしゅぎきょうわこくれんぽう、ロシア: Союз Советских Социалистических Республик 発音はつおん頭字かしらじ: СССР[注釈ちゅうしゃく 4])は、1922ねんから1991ねんまでユーラシア大陸たいりく北部ほくぶ存在そんざいした社会しゃかい主義しゅぎ国家こっか複数ふくすうソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこくから構成こうせいされる連邦れんぽう国家こっかであった。首都しゅとモスクワ

国土こくど面積めんせきやく2,240まんkm2で、世界せかい最大さいだい面積めんせきゆうしていた。国土こくど南西なんせいではアジアヨーロッパ各国かっこく国境こっきょうせっしており、一方いっぽう北東ほくとうでは、うみはさんできたアメリカ大陸あめりかたいりくかいっていた。人口じんこう1991ねん時点じてんで2おく9,010まんにんたっし、当時とうじ世界せかいにおいて中国ちゅうごくインドだい3であった[1]

だい世界せかい大戦たいせん解体かいたいするまでの40ねん以上いじょうわたり、米国べいこくなら世界せかいちょう大国たいこく地位ちい維持いじしていた。「ソビエト帝国ていこく」ともばれ、軍事ぐんじりょく経済けいざいりょく代理だいり戦争せんそう発展はってん途上とじょうこくへの影響えいきょうりょく宇宙うちゅう技術ぎじゅつ兵器へいき中心ちゅうしんとした科学かがく研究けんきゅうへの資金しきん提供ていきょうなどで、東中ひがしなかおうをはじめ世界せかいてき覇権はけん行使こうししていた[2][3]

概要がいよう

編集へんしゅう

ソビエト連邦れんぽうは、1917ねんウラジーミル・レーニンひきいるボリシェヴィキが、がつ革命かくめいにより成立せいりつしたロシア臨時りんじ政府せいふ転覆てんぷくしたじゅうがつ革命かくめい起源きげんとする。ボリシェヴィキは憲法けんぽう保障ほしょうされた世界せかいはつ社会しゃかい主義しゅぎ国家こっかであるロシア社会しゃかい主義しゅぎソビエト共和きょうわこく樹立じゅりつしたが、じゅうがつ革命かくめいがもたらした緊張きんちょうはボリシェヴィキの赤軍せきぐんと、しろぐん代表だいひょうされるたんボリシェヴィキしょ勢力せいりょくとのあいだおこなわれるロシア内戦ないせんへと発展はってんした。

ボリシェヴィキを脅威きょうい協商きょうしょうこくによる干渉かんしょうけつつも、赤軍せきぐんは1920ねんまでに内戦ないせんでの勝利しょうり決定的けっていてきなものとし、じゅうがつ革命かくめいロシア共和きょうわこくからの分離ぶんり独立どくりつたしていたしょ地域ちいき(ウクライナなど)を1921ねんまでに占領せんりょうして、各地かくちにボリシェヴィキが支配しはいするソビエト共和きょうわこく樹立じゅりつした[4][5]。ボリシェヴィキはきゅうロシア帝国ていこくりょうさい統合とうごう企図きとし、1922ねん12月30にちにロシア、ウクライナザカフカースはくロシア(ベラルーシ)の4つのソビエト共和きょうわこくからるソビエト連邦れんぽう以下いかソ連それん)を成立せいりつさせた[4][5]

1924ねんのレーニンの死後しご党内とうない闘争とうそうヨシフ・スターリン政権せいけん掌握しょうあく[6]共産党きょうさんとう内外ないがい反対はんたい弾圧だんあつし、計画けいかく経済けいざい体制たいせい確立かくりつした。その結果けっか急速きゅうそく工業こうぎょう強制きょうせいてき集団しゅうだん時期じきむかえ、いちじるしい経済けいざい成長せいちょうげたが、1932ねんから1933ねんにかけて人為じんいてき飢饉ききんこした。また、収容しゅうようしょ制度せいどもこの時期じき拡大かくだいした。スターリンはまた、政治せいじてきパラノイアをあおり、軍事ぐんじ指導しどうしゃ共産きょうさん党員とういん一般いっぱん市民しみんわず大勢おおぜい逮捕たいほし、強制きょうせい労働ろうどうじょうおくるか死刑しけい宣告せんこくすることによって、自分じぶん実際じっさいてき認識にんしきじょうてきとうから排除はいじょするだい粛清しゅくせい実施じっしした。

1939ねん8がつ23にち西側にしがわ諸国しょこくとのはんファシスト同盟どうめい構築こうちく失敗しっぱいしたのちソ連それんナチス・ドイツ不可侵ふかしん条約じょうやく締結ていけつした。だい世界せかい大戦たいせん開戦かいせん中立ちゅうりつこくだったソ連それんは、ポーランドリトアニアラトビアエストニア東部とうぶ地域ちいきふく東欧とうおう諸国しょこく侵攻しんこうし、領土りょうど併合へいごうした。1941ねん6がつドイツぐんバルバロッサ作戦さくせんによりソ連それんりょう侵略しんりゃくし、どくせんまくけた。スターリングラード攻防こうぼうせんなどで枢軸すうじくこく交戦こうせんする過程かていで、ソ連それん戦死せんししゃ連合れんごうこく死傷ししょうしゃ大半たいはんめた。ソ連それんぐん最終さいしゅうてきベルリンを占領せんりょうし、1945ねん5がつ9にち、ヨーロッパでのだい世界せかい大戦たいせん勝利しょうりした。赤軍せきぐん制圧せいあつした地域ちいきは、東側ひがしがわ諸国しょこく衛星えいせいこくとなった。1947ねん東西とうざい冷戦れいせん勃発ぼっぱつし、東側ひがしがわ諸国しょこく西側にしがわ諸国しょこく対峙たいじし、西側にしがわ諸国しょこくは1949ねんにはNATO統合とうごうされることになる。

1953ねん3がつ5にち、スターリンの死後しごニキータ・フルシチョフ指導しどうのもと、スターリンゆきどけ英語えいごばんばれる時期じきおとずれた。なにひゃくまんにんもの農民のうみん工業こうぎょうされた都市とし移動いどうし、くに急速きゅうそく発展はってんした。ソ連それんは、史上しじょうはつ人工じんこう衛星えいせい人類じんるいはつ宇宙うちゅう飛行ひこう惑星わくせいである金星かなぼしへのはつ探査たんさ着陸ちゃくりくにより、宇宙うちゅう開発かいはつ競争きょうそうはやくから主導しゅどうけんにぎった。1970年代ねんだい米国べいこくとの関係かんけい一時いちじてきデタント状態じょうたいになったが、1979ねんソ連それんがアフガニスタンにぐん展開てんかいすると緊張きんちょう再開さいかいされた。この戦争せんそう経済けいざい資源しげん枯渇こかつし、それにわせるようにアメリカムジャヒディン戦闘せんとういんへの軍事ぐんじ援助えんじょがエスカレートしていった。

1980年代ねんだいなかばに、ソ連それん最後さいご指導しどうしゃミハイル・ゴルバチョフが、グラスノスチペレストロイカという政策せいさくで、さらなる改革かいかく経済けいざい自由じゆう目指めざした。その目的もくてきは、共産党きょうさんとう維持いじしつつ、経済けいざい停滞ていたい逆転ぎゃくてんさせることだった。かれ在任ざいにんちゅう冷戦れいせん終結しゅうけつし、1989ねんにはなか東欧とうおうワルシャワ条約じょうやく機構きこう諸国しょこくがそれぞれのマルクス・レーニン主義しゅぎ体制たいせい打破だはした。ソ連それん全土ぜんど強力きょうりょく民族みんぞく主義しゅぎ分離ぶんり主義しゅぎ運動うんどう勃発ぼっぱつした。ゴルバチョフは、リトアニア、ラトビア、エストニア、アルメニア、グルジア、モルドバがボイコットした国民こくみん投票とうひょう実施じっしし、過半数かはんすう国民こくみんソ連それんあらたな連邦れんぽうとして存続そんぞくすることを支持しじする結果けっかとなった。1991ねん8がつ共産党きょうさんとう強硬きょうこうによるクーデター発生はっせいしたが、ロシア共和きょうわこく大統領だいとうりょうエリツィン中心ちゅうしん阻止そしされ、失敗しっぱいわった。その結果けっか共産党きょうさんとうへの信頼しんらい失墜しっついし、ロシアとウクライナを中心ちゅうしんとする共和きょうわこく独立どくりつ宣言せんげんした。1991ねん12月25にち、ゴルバチョフが辞任じにんした。ソビエト連邦れんぽう崩壊ほうかいにより、すべての共和きょうわこくポストソビエトの独立どくりつこくとして誕生たんじょうした。ロシア連邦れんぽうはソビエト連邦れんぽう権利けんり義務ぎむけ、世界せかい情勢じょうせいにおいてその継続けいぞくてき法的ほうてき人格じんかくとして認識にんしきされている。

ソ連それんは、社会しゃかいてき技術ぎじゅつてきおおくの重要じゅうよう成果せいかげ、軍事ぐんじりょくかんしても革新かくしんてきなものをした。日本にっぽんやイギリス、西にしドイツにかれるまでは世界せかいだい2経済けいざいりょく世界せかい最大さいだい常備じょうびぐんほこり、公式こうしき核保有かくほゆうこくである5かこくの1つとして認識にんしきされていた。国連こくれん安全あんぜん保障ほしょう理事りじかい創設そうせつ常任じょうにん理事りじこくであり、OSCEWFTU経済けいざい相互そうご援助えんじょ会議かいぎワルシャワ条約じょうやく機構きこう主要しゅようこくであった。

国名こくめい象徴しょうちょう

編集へんしゅう

国名こくめい由来ゆらい

編集へんしゅう

ソビエト(: Совет)というロシアは「評議ひょうぎかい」の意味いみ[注釈ちゅうしゃく 5]をもち、スラヴ祖語そごのvět-iti(「らせる」)の動詞どうし語幹ごかんから派生はせいしたものである。労働ろうどうしゃ代表だいひょうによる評議ひょうぎかいとしての「ソビエト」は、1905ねんロシアだいいち革命かくめいなかはじめて出現しゅつげんした[7][8]。それらのソビエトは帝国ていこく政府せいふによってすみやかに解散かいさんさせられたが、1917ねんがつ革命かくめいによる帝政ていせい崩壊ほうかい、ロシア各地かくち労働ろうどうしゃ兵士へいしがソビエトを組織そしきし、首都しゅとペトログラードの労働ろうどうしゃ兵士へいし代表だいひょうソビエトはロシア臨時りんじ政府せいふ対抗たいこう権力けんりょくゆうした[7][5]。このじゅう権力けんりょく状態じょうたいなかで、ボリシェヴィキは「ぜん権力けんりょくをソビエトへ」のスローガンをかかげて臨時りんじ政府せいふ対立たいりつし、1917ねん10がつ旧暦きゅうれき)にはソビエトのした武装ぶそう蜂起ほうき実行じっこうして臨時りんじ政府せいふから権力けんりょく奪取だっしゅした(じゅうがつ革命かくめい[9]。1918ねん1がつ、ボリシェヴィキは「ロシア社会しゃかい主義しゅぎ連邦れんぽうソビエト共和きょうわこく」の建国けんこく宣言せんげんし、1922ねん12月30にちには同国どうこくのソビエト共和きょうわこく統合とうごうする連邦れんぽう国家こっかとして「ソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく連邦れんぽう」を成立せいりつさせた[5][10]。ソビエト連邦れんぽう政治せいじ基盤きばん人民じんみん代表だいひょうによるソビエトと憲法けんぽうさだめられていたが、実際じっさい政治せいじてき権力けんりょくはボリシェヴィキの後継こうけいである共産党きょうさんとうによって掌握しょうあくされていた[5][11]。(ソビエト連邦れんぽう#政治せいじ参照さんしょう

国名こくめい表記ひょうき

編集へんしゅう

ロシア表記ひょうき正式せいしき名称めいしょうСоюз Советских Социалистических Республик[注釈ちゅうしゃく 6]通称つうしょうСоветский Союз[注釈ちゅうしゃく 7]で、国歌こっか歌詞かしにも使用しようされている。略称りゃくしょうСССР、またはラテン文字もじでSSSRとなるが、これは正式せいしき名称めいしょう音訳おんやくすると「Soyuz Sovietskikh Sotsialisticheskikh Respublik」となるためである。英語えいご表記ひょうき正式せいしき名称めいしょうは、Union of Soviet Socialist Republics通称つうしょうSoviet Union略称りゃくしょうUSSRもちいられる。

日本語にほんご表記ひょうきでは「ソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく連邦れんぽう」がもちいられる。通称つうしょうは、ソビエト連邦れんぽう(「ソビエト」は「維埃」「ソヴィエト」「ソヴィエット」「ソヴェト[12]」「ソヴエト」「ソヴェート」「ソベート[13]」「ソブイエト[14]」「ソウエト[15]」「ソウェート」「ソウエート[16]」「ソウエット[17]」「ソウエツト[17]」「サウエト[18]」「サウェート[19]」「サウエート[20]」「サウエット[21]」「サウィエート[22]」、より原語げんごちかづけて「サヴィェート」とも)。略称りゃくしょうソ連邦それんぽうソ連それん、またはたんソビエトソヴィエトともする。漢字かんじでは聯邦れんぽうれんなどと表記ひょうきされ、りゃくされる。

だい世界せかい大戦たいせんすくなくともヨシフ・スターリンが1953ねん死去しきょするまでの日本にっぽんではソヴェト同盟どうめい表記ひょうき主流しゅりゅうであり、ソビエト連邦れんぽう表記ひょうき前者ぜんしゃくらべれば劣勢れっせいであった。しかし、ソ連それん自体じたいが「Союз とは Федерация連邦れんぽう)である」と説明せつめいし、在日ざいにちソ連それん大使館たいしかん戦前せんぜんから一貫いっかんして「連邦れんぽう」の訳語やくご使用しようしたことから[注釈ちゅうしゃく 8]、1950年代ねんだい後半こうはんから現在げんざいまで、「連邦れんぽう」が優勢ゆうせいとなっている。

構成こうせい共和きょうわこくロシア・ソビエト連邦れんぽう社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこくザカフカース社会しゃかい主義しゅぎ連邦れんぽうソビエト共和きょうわこく国名こくめいにも「連邦れんぽう」の文字もじふくまれるが、こちらは Союз ではなく Федерацияわけである。きゅうソ連それんけん統合とうごう目指めざしているユーラシア連合れんごうユーラシア経済けいざい連合れんごうСоюз は「連合れんごう」とやくされている。日本語にほんごみでは Союзソユーズられる。ソ連それん構成こうせいしたロシア・ソビエト連邦れんぽう社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこくと、その後継こうけい国家こっかロシア連邦れんぽうは「Федерация連邦れんぽう)」である。

ソビエト連邦れんぽうは、国名こくめい固有名詞こゆうめいし地名ちめい)をふくまない世界せかいでも希有けうれいであるが、連邦れんぽう構成こうせいするかく共和きょうわこく国名こくめいには「ロシア・ソビエト連邦れんぽう共和きょうわこく」など地名ちめいふくまれている。

一部いちぶ西側にしがわ諸国しょこくではソビエト連邦れんぽう全体ぜんたいして「ロシア」(Russia)とつづけるれいおおかった。日本にっぽんでは労農ろうのうロシア[23]あか[24]などともばれたが、「ソ連それん」「ソビエト」(NHKひとし)「ソビエト連邦れんぽう」が一般いっぱんした。

象徴しょうちょう

編集へんしゅう
 
ロシア・ニジニ・ノヴゴロドしゅう州都しゅうとニジニ・ノヴゴロドソルモフスキー地区ちくロシアばんにあるレーニン記念きねん英語えいごばん台座だいざ刻印こくいんされた連邦れんぽう徽章きしょう

ソビエト連邦れんぽうにおける国家こっか象徴しょうちょうとしてもちいられたのは、あかほしならびかまづちをベースとしたくにあきらであった。これはソビエト国家こっかならびにじゅうがつ革命かくめい体現たいげんする構成こうせい国家こっか共産きょうさん革命かくめいにおける特徴とくちょうてき記号きごうとしておおきな意味いみつものとなっていた。

ロシア歴史れきし
 
この記事きじシリーズ一部いちぶです。
ヴォルガ・ブルガール (7c–13c)
ハザール (7c–10c)
キエフ大公たいこうこく (9c–12c)
ウラジーミル・スーズダリ大公たいこうこく (12c–14c)
ノヴゴロド公国こうこく (12c–15c)
タタールのくびき (13c–15c)
モスクワ大公たいこうこく (1340–1547)
ロシア・ツァーリこく (1547–1721)
ロシア帝国ていこく (1721–1917)
ロシア臨時りんじ政府せいふ / ロシア共和きょうわこく (1917)
ロシア・ソビエト連邦れんぽう社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく / ソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく連邦れんぽう (1917–1991)
ロシア連邦れんぽう (1991–現在げんざい)

ロシア ポータル

ロシア革命かくめい

編集へんしゅう
 
じゅうがつ革命かくめい2周年しゅうねんいわレーニントロツキーカーメネフ(1919ねん)。

1917ねん3月8にちロシアれき2がつ23にち)に首都しゅとペトログラードこったデモはしはっするがつ革命かくめいにより、ロシア帝国ていこく崩壊ほうかいして漸進ぜんしんてき改革かいかく志向しこうするロシア臨時りんじ政府せいふ成立せいりつした[25]臨時りんじ政府せいふだいいち世界せかい大戦たいせんへの参戦さんせん継続けいぞく決定けっていしたが、ドイツぐんとの戦線せんせんはすでに破綻はたんしており、国内こくない政治せいじてき混乱こんらんにも収拾しゅうしゅうのめどはついていなかった。他方たほうがつ革命かくめいなか労働ろうどうしゃ兵士へいし代表だいひょうによるソビエト会議かいぎ評議ひょうぎかい)がロシア各地かくち組織そしきされ、なかでも最大さいだい影響えいきょうりょくペトログラード労働ろうどうしゃ兵士へいし代表だいひょうソビエト英語えいごばん臨時りんじ政府せいふあいだでは「じゅう権力けんりょく状態じょうたいしょうじた[5]

1917ねん8がつラーヴル・コルニーロフ将軍しょうぐん臨時りんじ政府せいふたいする反乱はんらんこし、それがソビエトのちからによって鎮圧ちんあつされると、ソビエトないではウラジーミル・レーニンひきいるボリシェヴィキたいする支持しじたかまった[26]。ボリシェヴィキは、かねてよりソビエトへのぜん権力けんりょく集中しゅうちゅううったえ、戦争せんそう継続けいぞく主張しゅちょうする臨時りんじ政府せいふとの対決たいけつ姿勢しせいあらわにしていた[26]同年どうねん10がつ、ボリシェヴィキは武装ぶそう蜂起ほうき方針ほうしんめ、11月7にち(ユリウスれき10がつ25にち)に首都しゅとペトログラードのほぼ全域ぜんいき制圧せいあつし、臨時りんじ政府せいふから権力けんりょく奪取だっしゅした(じゅうがつ革命かくめい)。この11月7にちが、ロシア革命かくめい記念きねんである。同日どうじつ開催かいさいされただい2かいぜんロシア・ソビエト大会たいかいでは、ソビエトによる体制たいせい成立せいりつと、しん政府せいふである人民じんみん委員いいん会議かいぎ成立せいりつ宣言せんげんされた。首相しゅしょうにあたる人民じんみん委員いいん会議かいぎ議長ぎちょうにはレーニン、外務がいむ人民じんみん委員いいんにはレフ・トロツキー民族みんぞく問題もんだい人民じんみん委員いいんヨシフ・スターリン就任しゅうにんしている[27]。ソビエト政権せいけんモスクワ近郊きんこう制圧せいあつし、11月10にちには左派さは社会しゃかい革命かくめいとう政権せいけんんだ。1918ねん1がつ10日とおかからはだい3かいぜんロシア・ソビエト大会たいかい開催かいさいされ、ロシアが労働ろうどうしゃ兵士へいし農民のうみんのソビエトの共和きょうわこくであると宣言せんげんされ、連邦れんぽうせいをとるとした宣言せんげん採択さいたくされた(ロシア社会しゃかい主義しゅぎ連邦れんぽうソビエト共和きょうわこく[28]

1918ねん3がつ、ボリシェヴィキはドイツ帝国ていこくふく中央ちゅうおう同盟どうめいこくブレスト=リトフスク条約じょうやく締結ていけつし、だいいち世界せかい大戦たいせんから離脱りだつしたが、以降いこう連合れんごうこくによるシベリア出兵しゅっぺい干渉かんしょう戦争せんそうや、しろぐんなどはん革命かくめい勢力せいりょくとのロシア内戦ないせん (1917-22) に対処たいしょすることになった[29]一方いっぽうで、ウクライナ人民じんみん共和きょうわこくアゼルバイジャンバクー・コミューンなどボリシェヴィキのソビエト政権せいけん各地かくち次々つぎつぎ樹立じゅりつされた[30]。これらのかく政権せいけん独立どくりつこくであったが、ロシア・ソビエト政府せいふ一部いちぶであるとみずからを定義ていぎすることもあった[31]

ロシア内戦ないせん

編集へんしゅう
 
ひだりにウラジーミル・レーニンとみぎにレフ・カーメネフ。

じゅうがつ革命かくめい直後ちょくごからはじまったロシア内戦ないせんは、1918ねん5がつチェコ軍団ぐんだん反乱はんらん契機けいき本格ほんかくした[32]。ソビエト政府せいふ内戦ないせんちゅう経済けいざい政策せいさくとして戦時せんじ共産きょうさん主義しゅぎ導入どうにゅうしたが、これは農業のうぎょう工業こうぎょう崩壊ほうかいまねき、すうひゃくまんにん餓死がししゃした[33]土地とち国有こくゆうによって地主じぬし階級かいきゅう自作農じさくのう(フートルのう、オートルプのう)も消滅しょうめつし、さん圃制にもとづく農村のうそん共同きょうどうたい復活ふっかつしたが、農業のうぎょう生産せいさんには重大じゅうだい打撃だげきしょうじた[34]。1918ねん5がつ食料しょくりょう独裁どくさいれい農産物のうさんぶつ国家こっか専売せんばいとされ、自由じゆう取引とりひき禁止きんしされた[34]だいいち世界せかい大戦たいせん経済けいざい復興ふっこうのために農民のうみんは、十分じゅうぶん食料しょくりょう供給きょうきゅう生産せいさん義務ぎむされた[34]。1920ねん凶作きょうさくとなり、おも負担ふたん不満ふまんをもった農民のうみん西にしシベリアやタンボフけん反乱はんらんこした[35]。1921-1922ねんにはロシア飢饉ききん発生はっせいし、農民のうみん反乱はんらん拡大かくだい政権せいけんおびやかすことを懸念けねんしたレーニンは、1921ねんより戦時せんじ共産きょうさん主義しゅぎわるしん経済けいざい政策せいさくネップ)を導入どうにゅうし、穀物こくもつ強制きょうせい徴収ちょうしゅう廃止はいしされ、部分ぶぶんてき市場いちば経済けいざいれられた[4]

1920ねん、ロシア内戦ないせんにおけるボリシェヴィキの勝利しょうり決定的けっていてきとなった[5]。1921ねんまでに、赤軍せきぐんじゅうがつ革命かくめいロシアから分離ぶんり独立どくりつたしていたウクライナベラルーシザカフカース民族みんぞく国家こっか侵攻しんこうし、占領せんりょうすることに成功せいこうした[4]同時どうじに、ボリシェヴィキはそれらの地域ちいきウクライナベラルーシアゼルバイジャンアルメニアグルジアなど)でソビエト政権せいけん樹立じゅりつした[4][30]

ソビエト連邦れんぽう成立せいりつ

編集へんしゅう
 
1922ねんにおけるソビエト連邦れんぽう一部いちぶとしてのロシアSFSR
 
ソ連邦それんぽう結成けっせい確定かくていさせたぜん連合れんごうだいいちかいソビエト大会たいかいひらかれたボリショイ劇場げきじょうには、このようなプレートがけられている。

ロシア内戦ないせん収束しゅうそくかうと、各地かくちのソビエト政権せいけんあいだでは統合とうごうへのうごきがつよまった[36]。ロシア共産党きょうさんとうによって各地かくち革命かくめい政権せいけんとの統合とうごう進行しんこうし、1920ねんにはロシア連邦れんぽう共和きょうわこくアゼルバイジャン社会しゃかい主義しゅぎソビエト共和きょうわこくあいだで、緊密きんみつ軍事ぐんじてき政治せいじてき同盟どうめい条約じょうやく締結ていけつされ、ウクライナはくロシアグルジアアルメニアとも同様どうよう条約じょうやくむすばれた[37]。これらの国々くにぐに憲法けんぽう主権しゅけん国家こっかではあったが、最高さいこう機関きかんぜんロシア・ソビエト大会たいかいぜんロシア中央ちゅうおう執行しっこう委員いいんかいであり、ロシア連邦れんぽう共和きょうわこく主導しゅどうけん明確めいかくであった[38]

1921ねん1がつには、燃料ねんりょう危機きき運輸うんゆ危機きき食糧難しょくりょうなん連鎖れんさてき発生はっせいし、3月にはクロンシュタットの反乱はんらんき、党内とうないでも党内とうない民主みんしゅもとめられた[35]とう指導しどう党員とういん過剰かじょうであるとの理由りゆうで「とうそう粛清しゅくせい」を開始かいしとうれきながさにおうじてヒエラルヒーがつくられ、古参こさん党員とういんによる寡頭支配しはい成立せいりつしていった[35]

1922ねん5月にはレーニンが脳出血のうしゅっけつたおれ、一命いちめいめたものの影響えいきょうりょく急速きゅうそく低下ていかした[39]。4月にはスターリンがロシア共産党きょうさんとう書記しょきちょう就任しゅうにんとう組織そしき掌握しょうあくはじめた[40]。8月にはソビエト政権せいけん統合とうごうのための委員いいんかい設置せっちされ、スターリンが主導しゅどうしゃ一人ひとりとなった。スターリンは9月にかく政権せいけん自治じち共和きょうわこくとして、ロシア・ソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく連邦れんぽう加入かにゅうするという統合とうごう形式けいしき発表はっぴょうした[31]。この意見いけんはグルジア以外いがいのソビエト共和きょうわこく賛成さんせい採択さいたくされたものの、かく共和きょうわこくにとっては不満ふまんのこるものであり、レーニンの指導しどうによって10がつ中央ちゅうおう委員いいんかいでは、かく共和きょうわこく対等たいとう共和きょうわこくとして連邦れんぽう加入かにゅうするという形式けいしきさだめられた[41]。しかし、この修正しゅうせいではザカフカースの3共和きょうわこくがいったん連邦れんぽうとなってから加入かにゅうすることがさだめられたため、グルジアでのもう反発はんぱつまねいた(グルジア問題もんだい[41]反対はんたい次第しだいめられ、これによってザカフカース社会しゃかい主義しゅぎ連邦れんぽうソビエト共和きょうわこく成立せいりつしている[42]

1922ねん12月にはだい1かいソビエト連邦れんぽうぜん連邦れんぽうソビエト大会たいかいロシアばん開催かいさいされ、12月30にちにロシア社会しゃかい主義しゅぎ連邦れんぽうソビエト共和きょうわこく、ウクライナ社会しゃかい主義しゅぎソビエト共和きょうわこくはくロシア社会しゃかい主義しゅぎソビエト共和きょうわこく、ザカフカース社会しゃかい主義しゅぎ連邦れんぽうソビエト共和きょうわこくの4こく平等びょうどう立場たちば加盟かめいするとしたソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく連邦れんぽう樹立じゅりつ宣言せんげんする[39]連邦れんぽう結成けっせい条約じょうやく英語えいごばんロシアばん調印ちょういんされた。この連邦れんぽうには各国かっこく自由じゆう意志いし参加さんか脱退だったいできるとさだめられており、あらたな最高さいこう機関きかん設立せつりつ決定けっていされた。

1923ねん、スターリンら党内とうない主流しゅりゅうは、ソ連それん体制たいせい正当せいとうせい工場こうじょう労働ろうどうしゃからの支持しじ見出みいだし、労働ろうどうしゃ入党にゅうとうキャンペーンを展開てんかいしたが、さらに党内とうない対立たいりつまねいた[43]工場こうじょう労働ろうどうしゃ支持しじ母体ぼたいとみなす一方いっぽうで、農民のうみん潜在せんざいてきには「てき」(はん革命かくめい分子ぶんし)とみなされた[35]

1924ねん1がつ31にちには最初さいしょソビエト連邦れんぽう憲法けんぽう成立せいりつした[39]

1924ねんにレーニンが死亡しぼうしたが、生前せいぜんにはスターリンとトロツキー対立たいりつうれい、スターリンを警戒けいかいするようになっていた[40]。スターリンはまずトロツキーを孤立こりつさせ、いでレーニンの側近そっきんだったグリゴリー・ジノヴィエフや、レフ・カーメネフ、カール・ラデックらを攻撃こうげきした。1927ねんにはトロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフをとうから除名じょめいしたことで、あきらかな優越ゆうえつしゃとしての地位ちい確保かくほし、[40]スターリンは正式せいしき最高さいこう指導しどうしゃになった。

外交がいこうめんでは連合れんごうこく直接ちょくせつ干渉かんしょう自体じたいはなくなったものの、ソビエト政権せいけんきゅうロシア帝国ていこく債務さいむ支払しはらいを拒否きょひしたため、関係かんけい改善かいぜんすすまなかった[44]一方いっぽう国際こくさいてき孤立こりつしていたヴァイマル共和きょうわせいしたのドイツはソ連それん接近せっきんし、賠償ばいしょう相互そうご放棄ほうきさだめたラパッロ条約じょうやく締結ていけつとなった[45]。ドイツぐんはソビエト領内りょうない軍事ぐんじ開発かいはつ秘密裏ひみつりおこない、ソ連それんはそれによって情報じょうほう取得しゅとくするという関係かんけいきずかれた[45]。こののち中東ちゅうとう諸国しょこく中華民国ちゅうかみんこくとの国交こっこう成立せいりつしたものの、1925ねんにはロカルノ条約じょうやく成立せいりつによってドイツが西欧せいおう諸国しょこくがわになったとめられた。これにたいしてソ連それん東欧とうおう諸国しょこくやフランスと不可侵ふかしん条約じょうやく締結ていけつすることで対抗たいこうしようとした。

いちこく社会しゃかい主義しゅぎカ年かねん計画けいかく

編集へんしゅう

一方いっぽうコミンテルン各国かっこく共産きょうさん主義しゅぎ運動うんどう支援しえんする世界せかい革命かくめい目指めざしていたが、いちこく社会しゃかい主義しゅぎとなえるスターリンの勝利しょうりによって、その運動うんどうソ連それんまもるためのものとなった[46]1925ねん5がつスターリンは「ロシアのような後進こうしんこくでも完全かんぜん社会しゃかい主義しゅぎ実現じつげんできる」とするいちこく社会しゃかい主義しゅぎろんとなえ、金属きんぞく工業こうぎょう重視じゅうしした[43]。しかし、1925ねんには「商品しょうひん飢饉ききん」がきると、スターリン政権せいけんは、穀物こくもつ木材もくざい輸出ゆしゅつによる利益りえき差益さえき)による解決かいけつ決定けっていし、農民のうみんから穀物こくもつやすげた[43]

ネップで農業のうぎょう生産せいさん拡大かくだいしたが、商品しょうひん価値かちたか生産せいさん集中しゅうちゅうするようになり、穀物こくもつ供給きょうきゅうとどこおるようになった[47]。スターリンはネップをわらせ、計画けいかく経済けいざいへの転換てんかんによるソ連それん工業こうぎょうをはかった。1928ねんからだいいちカ年かねん計画けいかくはじまり、鉄鋼てっこう生産せいさん増強ぞうきょう農業のうぎょう集団しゅうだん電化でんか機械きかい重点じゅうてんいた工業こうぎょう達成たっせいされた。1928ねんと1937ねん比較ひかくすると、石炭せきたんは3ばいきょう粗鋼そこうは4ばいきょう生産せいさんだかたっしており[48]工業こうぎょう全体ぜんたいではだいいちで2ばいだいカ年かねん計画けいかくで2.2ばいたっしたといわれる[49]どう時期じき欧米おうべい諸国しょこく世界せかい恐慌きょうこうによって多数たすう失業しつぎょうしゃし、経済けいざい縮小しゅくしょうさせたのと比較ひかくして、ソ連それん経済けいざい成長せいちょうりつ世界せかい最高さいこう記録きろくした。

農業のうぎょう集団しゅうだんとクラーク撲滅ぼくめつ

編集へんしゅう

1927ねんあきには、農産物のうさんぶつやすくにへの販売はんばい農民のうみんがしぶったため、穀物こくもつ調達ちょうたつなんこり、都市とし食糧難しょくりょうなん発生はっせいし、これはスターリンの構想こうそう崩壊ほうかいさせかねない危機ききとなった[50]。スターリンは穀物こくもつ調達ちょうたつなん原因げんいんを「クラーク(富農ふのう」にあるとめつけ弾圧だんあつつよ[50][51]、1929ねん12月には「クラーク階級かいきゅう抹殺まっさつ」を宣言せんげんした[52]。また、農民のうみん集団しゅうだん農場のうじょうコルホーズ編入へんにゅうさせ、強引ごういん農業のうぎょう集団しゅうだん推進すいしんした[50]餓死がししゃ報告ほうこくたいして、スターリンは集団しゅうだんによる飢饉ききんは「つくばなし」で「悪意あくいあるうわさ」であるとみなし[53]、1932ねん8がつ社会しゃかい主義しゅぎてき財産ざいさん保護ほごほう穀物こくもつを「横領おうりょう」したものにはぜん財産ざいさん没収ぼっしゅうをともなう死刑しけい、または10ねん自由じゆう剥奪はくだつしょされた[54]。1932ねんまつから1933ねんはじめに国内こくないパスポート義務ぎむづけられたが、農民のうみんには交付こうふされなかったため、農民のうみん仕事しごとをもとめて都市としくこともできなくなった[54]。1932ねんから1934ねんにかけてウクライナきたカフカース、ヴォルガ流域りゅういきカザフスタン飢饉ききん発生はっせいし、すうひゃくまんにん犠牲ぎせいとなった[50]。カザフスタンでは農業のうぎょう集団しゅうだんによる100まんにん死亡しぼう[55]、30%の農民のうみん中国ちゅうごく逃亡とうぼうした。ウクライナでは400まんから600まんにん飢饉ききん犠牲ぎせいとなった[51]ホロドモール)[56]きたカフカースでも100まんにん犠牲ぎせいになった[55]ソ連それん全体ぜんたい餓死がししゃは600まんにんから700まんにんともいわれ[57]犠牲ぎせいしゃすう諸説しょせつある。さらに工業こうぎょう賃金ちんぎん上昇じょうしょうせず、労働ろうどうしゃ実質じっしつ賃金ちんぎんも12%ちか減少げんしょうした[49]

クラーク(富農ふのう認定にんていされた農民のうみんなんひゃくまんにん極北きょくほくやシベリアの強制きょうせい収容しゅうようしょ(グラグ)に強制きょうせい移住いじゅうさせられた[50]しろうみバルト海ばるとかい運河うんが計画けいかくなどのだい規模きぼインフラの建設けんせつには、クラークや弾圧だんあつされた共産きょうさん党員とういん囚人しゅうじん労働ろうどうしゃ動員どういんされた。レーニンから「とう寵児ちょうじ」とばれ、穏健おんけん計画けいかくとなえたニコライ・ブハーリンはこの時期じき失脚しっきゃくした[58]。1930年代ねんだい富農ふのう撲滅ぼくめつ運動うんどうでは650まんにん犠牲ぎせいとなり、強制きょうせい収容しゅうようしょでは350まんにん死亡しぼうした[55]

せんあいだ外交がいこう

編集へんしゅう

外交がいこうめんでは、コミンテルンは当初とうしょ社会しゃかいファシズムろんとなえ、社会しゃかい民主みんしゅ主義しゅぎ勢力せいりょくへの批判ひはんつよめていたが、ファシズムナチズムについてはむしろ容認ようにんしていた[46]。しかし、ヒトラー内閣ないかく成立せいりつ、1933ねん11月にアメリカと国交こっこう樹立じゅりつ。1934ねん9がつには国際こくさい連盟れんめい加盟かめいし、常任じょうにん理事りじこくとなった。りしもドイツではナチとう政権せいけん成立せいりつし(ナチス・ドイツ)、1935ねんにはさい軍備ぐんび宣言せんげんした。ソ連それんはこれに対抗たいこうするために、フランスとむす東方とうほうロカルノ政策せいさく対抗たいこうしようとし、1935ねんふつ相互そうご援助えんじょ条約じょうやく締結ていけつされた[59]。コミンテルンだい7かい大会たいかいにおいてもはんファシズム統一とういつ戦線せんせん方針ほうしん確認かくにんされ、人民戦線じんみんせんせん戦術せんじゅつがとられるようになった[60]赤軍せきぐんは1934ねんには60まんにんから94まんにん、1935ねんには130まんにん拡大かくだいされ、1937ねんソビエト連邦れんぽう海軍かいぐん設置せっちおこなわれるなど急速きゅうそく拡大かくだいつづけられた[61]

しかしながら、イギリス・アメリカ・フランスなど資本しほん主義しゅぎ陣営じんえいなかで、ファシズムより共産きょうさん主義しゅぎたいする懸念けねん依然いぜんとしてつよく、むしろファシズムを共産きょうさん主義しゅぎたいする防波堤ぼうはていとして利用りようしようとするきもあった。とくにそのソ連それん敵視てきし如実にょじつあらわれたのが1936ねんだいエチオピア戦争せんそうであり、ファシズムのイタリアによるエチオピア侵攻しんこうという事態じたいたいして、ソ連それんイタリアたいする非難ひなんおこなうも、イギリス・フランスはイタリアとの戦争せんそう懸念けねんしてなん制裁せいさいすことはしなかった。えいふつ態度たいど失望しつぼうしたスターリンは、さらにミュンヘン会談かいだんにおける両国りょうこくのナチスにたいする譲歩じょうほソ連それんへの侵攻しんこう容認ようにんしているのではないかという疑惑ぎわくふかめていく[よう出典しゅってん]

だい粛清しゅくせい

編集へんしゅう

急進きゅうしんする集団しゅうだん工業こうぎょうについては、党内とうないセルゲイ・キーロフグリゴリー・オルジョニキーゼらといった勢力せいりょく穏健おんけんもとめるようになった。その最中さいちゅうこった1934ねんのキーロフ暗殺あんさつ事件じけん以降いこうスターリンにより党内とうない粛清しゅくせい激化げきかし、ブハーリン、ゲオルギー・ピャタコフ、レーニンの後継こうけい人民じんみん会議かいぎ議長ぎちょうであったアレクセイ・ルイコフ、ジノヴィエフ、カーメネフらといった有力ゆうりょく党員とういんミハイル・トゥハチェフスキーらといった軍人ぐんじん次々つぎつぎ処刑しょけいされた。そのおおくの党員とういん軍人ぐんじん一般いっぱん国民こくみん死刑しけいもしくは流罪るざいなどにより粛清しゅくせいされた。この粛清しゅくせいはスターリンの配下はいかである粛清しゅくせい実行じっこうしゃですらその対象たいしょうとなり、ゲンリフ・ヤゴーダニコライ・エジョフらもその犠牲ぎせいとなっている。

流罪るざいさきとしてだい規模きぼ強制きょうせい収容しゅうようしょシベリアコルィマ鉱山こうざんなど)が整備せいびされた。だい粛清しゅくせいによる犠牲ぎせいしゃすうには諸説しょせつがあるが、当時とうじおこなわれた正式せいしき報告ほうこくによると、1930年代ねんだいに「はん革命かくめいざい」で死刑しけい判決はんけつけたものはやく72まんにんとされる。この粛清しゅくせいによりスターリンの体制たいせいはより強固きょうこなものとなった[62]。1938ねん以降いこう、スターリンが1953ねん死去しきょするまでとう大会たいかいは1かい中央ちゅうおう委員いいんかいすうかいしかひらかれず、重要じゅうよう決定けっていすべスターリンによっておこなわれた[63]

だい世界せかい大戦たいせん

編集へんしゅう

1938ねんアンシュルスソ連それんは「明日あしたではもうおそすぎるかもれない」と、えいふつたいしてファシスト勢力せいりょくへの具体ぐたいてき集団しゅうだんてき行動こうどうによる対応たいおうもとめた[64]。しかしミュンヘン会談かいだんによるドイツへの宥和ゆうわ政策せいさくは、えいふつがドイツの矛先ほこさきソ連それんけようとしているというソ連それんがわ疑念ぎねんつよめさせた[64]

ソ連それん軍事ぐんじ拡大かくだいいそぎ、世界せかい最初さいしょ機甲きこう部隊ぶたい整備せいびおこなうなどしていたが、だい粛清しゅくせい赤軍せきぐん幹部かんぶうしなったことでそのスピードはあきらかに低下ていかしていた[65]。このため当時とうじソ連それん首脳しゅのうはこの時期じきソ連それん経済けいざい建設けんせつにあり、深刻しんこく戦争せんそうにはえられないとかんがえており、大戦たいせんそうさきばしを基本きほん政策せいさくとしていた[66]。1939ねん外相がいしょうヴャチェスラフ・モロトフ交代こうたいした。ポーランド危機きき切迫せっぱくするなかえいふつ同時どうじ進行しんこうしてドイツとも提携ていけい交渉こうしょうおこない、8がつ23にちにはどく不可侵ふかしん条約じょうやく締結ていけつした[67]。この条約じょうやくにはポーランドとバルト3こく分割ぶんかつ付属ふぞく秘密ひみつ議定ぎていしょにおいてめられていた[68]

9月ドイツぐんポーランド侵攻しんこうさいにはソ連それん・ポーランド不可侵ふかしん条約じょうやく一方いっぽうてき破棄はきするとともに侵攻しんこうし、ポーランドのひがし半分はんぶん占領せんりょうした[67]ソ連それんがわカーゾンせん沿った範囲はんいであり、ウクライナじん・ベラルーシじん多数たすう居住きょじゅうする地方ちほうであると主張しゅちょうしている[67]

 
ドイツぐんばくげきけるレニングラード(1942ねん
 
1943ねんのテヘラン会談かいだんにて、ひだりから、ヨシフ・スターリン・ソ連それん議長ぎちょうフランクリン・ルーズベルトべい大統領だいとうりょうウィンストン・チャーチルえい首相しゅしょう

バルトさんこく圧力あつりょくをかけ、赤軍せきぐん通過つうかおや政権せいけん樹立じゅりつ要求ようきゅうし、その回答かいとうたずに侵攻しんこう傀儡かいらい政権せいけん成立せいりつさせて併合へいごうした[69]同時どうじソ連それんルーマニアベッサラビア割譲かつじょうするように圧力あつりょくをかけ、1940ねん6がつにはソ連それんぐんがベッサラビアときたブコビナ進駐しんちゅうし、割譲かつじょうさせた。さらに隣国りんごくフィンランドふゆ戦争せんそうにより侵略しんりゃくしてカレリア地方ちほう併合へいごうした[70]。しかしフィンランドの抵抗ていこうおもわぬ損害そんがいまねき、国際こくさい連盟れんめいからも追放ついほうされた[70]

だい祖国そこく戦争せんそう

編集へんしゅう

ドイツとの関係かんけい一定いってい協調きょうちょう関係かんけいとなっていたが、細部さいぶではきしみがしょうじていた。ソ連それんがわはドイツがわ刺激しげきしないよう対応たいおうし、ドイツがわ侵攻しんこう警戒けいかいする情報じょうほう放擲ほうてきされた[71]。1941ねん6がつにドイツはバルバロッサ作戦さくせん発動はつどうし、どくせん勃発ぼっぱつした。これをまったく予期よきしていなかったスターリンはきわめて動転どうてんした[72]えいソはドイツ打倒だとうのために接近せっきんし、7がつ12にちえい両国りょうこく代表だいひょうはモスクワにあつまってえい軍事ぐんじ同盟どうめい締結ていけつした。8月25にちにはペルシア回廊かいろうといわれる補給ほきゅうせん確保かくほするためイランに侵攻しんこう、その占領せんりょういた

ドイツぐん猛攻もうこう首都しゅとモスクワにすうじゅうキロメートルにまでせまられ、レニングラード攻防こうぼうせんクルスクのたたかなどにより軍民ぐんみんあわせてすうひゃくまんにん死傷ししょうしゃしたが、スターリンは戦争せんそうを「だい祖国そこく戦争せんそう」と位置いちづけて国民こくみん愛国心あいこくしんうったえ、ドイツの占領せんりょう民衆みんしゅう中心ちゅうしんとしたパルチザン組織そしきてき補給ほきゅうせん攪乱かくらんした。味方みかた撤退てったいするさいには焦土しょうど作戦さくせんばれる住民じゅうみん強制きょうせい疎開そかいさせたうえで家屋かおくはたけなどを破壊はかいして焼却しょうきゃくする作戦さくせんおこない、ドイツぐんにはなにわたらないようにさせた。連合れんごうこくがわであり西部せいぶ戦線せんせんでドイツぐんたたかうアメリカやイギリスによる膨大ぼうだい軍事ぐんじ支援しえんレンドリースほう)、また極東きょくとうにおける日本にっぽんによる参戦さんせんがなかったこともあり、たいドイツせん専念せんねんできたソ連それんぐん気候きこう補給ほきゅうなんくるしむドイツぐんかえしていった。熾烈しれつ攻防こうぼうせんすえ、1943ねん2がつスターリングラードのたたか勝利しょうりすると、これを契機けいきにしてソ連それん次第しだい戦局せんきょく有利ゆうりすすめるようになる。1943ねん5がつにはコミンテルン解散かいさんした。

やがてドイツぐん後退こうたいとともにソ連それんぐん東欧とうおう各国かっこくを「解放かいほう」した。東欧とうおう各国かっこく民衆みんしゅうは、ドイツぐん占領せんりょうたいして抵抗ていこう最前線さいぜんせんった共産きょうさん主義しゅぎしゃたちを支持しじした。東欧とうおう各国かっこく共産党きょうさんとうは、赤軍せきぐん圧力あつりょく民衆みんしゅう支持しじ背景はいけいに、ソ連それんがた社会しゃかい主義しゅぎをモデルにした社会しゃかい主義しゅぎ政権せいけん各地かくち樹立じゅりつした。1945ねん5がつソ連それんぐんはドイツの首都しゅとであるベルリン陥落かんらくさせ、ドイツぐん降伏ごうぶくんだ。

1945ねん8がつ8にちソ連それんにち中立ちゅうりつ条約じょうやく一方いっぽうてき破棄はきして日本にっぽん宣戦せんせん布告ふこくした。これは連合れんごうこく首脳しゅのうによるヤルタ会議かいぎにおける密約みつやくヤルタ協定きょうてい)にもとづくものであったが、ソ連それんぐん日本にっぽん千島ちしま列島れっとうみなみ樺太からふと朝鮮半島ちょうせんはんとう北部ほくぶ、そして日本にっぽん同盟どうめいこくまんしゅうこくたい侵攻しんこうした。このさいソ連それんぐん行動こうどうは、中立ちゅうりつ条約じょうやく破棄はき日本にっぽん民間みんかんじんたいする暴虐ぼうぎゃく、そして戦後せんご捕虜ほりょシベリア抑留よくりゅう北方領土ほっぽうりょうど問題もんだいなど、戦後せんご関係かんけいおおきなしこりを原因げんいんとなった。

終戦しゅうせん

編集へんしゅう

だい世界せかい大戦たいせん期間きかんちゅうに2700まん以上いじょうソ連それん国民こくみん死亡しぼうするなどおおきな犠牲ぎせいした[73]一方いっぽうでその勝利しょうりおおきく貢献こうけんしたことで国家こっか威信いしんたかめ、世界せかいにおけるちょう大国たいこく地位ちい確立かくりつした。大戦たいせん期間きかんちゅうにはヤルタ会談かいだんなどの戦後せんご秩序ちつじょ構築こうちくにあたっての会議かいぎにもふか関与かんよしている。国際こくさい連合れんごう創設そうせつにもおおきく関与かんよし、安全あんぜん保障ほしょう理事りじかい常任じょうにん理事りじこくとなっている。さらに占領せんりょう地域ちいきであった東欧とうおう諸国しょこくへの影響えいきょうつよめ、衛星えいせいこくしていった。その一方いっぽう、ドイツ、ポーランド、チェコスロバキアからそれぞれ領土りょうど獲得かくとくし、西方せいほうおおきく領土りょうど拡大かくだいした。 開戦かいせんまえ併合へいごうしたエストニアラトビアリトアニアのバルトさんこく併合へいごう、ルーマニアから獲得かくとくしたベッサラビア(現在げんざいモルドバ)の領有りょうゆう承認しょうにんさせ、これらのしん領土りょうどからおおくの住民じゅうみん追放ついほうあるいはシベリアなどに強制きょうせい移住いじゅうさせ、わりにロシアじん移住いじゅうさせた。

極東きょくとうでは日本にっぽん領土りょうどであったみなみ樺太からふとおよび千島ちしま列島れっとう占領せんりょうし、領有りょうゆう宣言せんげんした。さらに、1945ねん8がつ14にち連合れんごうこくいちこくにあたる中華民国ちゅうかみんこくとのあいだちゅう友好ゆうこう同盟どうめい条約じょうやく締結ていけつし、日本にっぽんきゅうまんしゅうっていた各種かくしゅ権益けんえきのうち、関東かんとうしゅう旅順りょじゅん大連たいれんりょうみなと租借そしゃくけんきゅうあずまきよし鉄道てつどうみなみまんしゅう鉄道てつどう一部いちぶ)の管理かんりけん継承けいしょう中華民国ちゅうかみんこくみとめさせた(中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく建国けんこく返還へんかん)。

冷戦れいせん開始かいしとフルシチョフ時代ときよ

編集へんしゅう
 
1959ねんキューバ革命かくめい以後いごおよび1961ねんちゅう対立たいりつ以前いぜんにおける、ソ連それんおよびソ連それんをモデルとした政府せいふのそのこく

戦後せんごソ連それんはドイツの支配しはいからソ連それん支配しはいけんとしたひがしヨーロッパ諸国しょこく反対はんたい粛清しゅくせいし、スターリン主義しゅぎてき社会しゃかい主義しゅぎ政権せいけん導入どうにゅうしこれらをソ連それん衛星えいせいこくとした。ワルシャワ条約じょうやく機構きこうなどにおける東側ひがしがわ諸国しょこくのリーダーとして、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくをリーダーとする資本しほん主義しゅぎ西側にしがわ諸国しょこく陣営じんえい対抗たいこうした。スターリン政権せいけんではベルリン封鎖ふうさなどの行動こうどう朝鮮ちょうせん戦争せんそうなどの世界せかい各地かくちでの代理だいり戦争せんそうというかたち冷戦れいせんばれる対立たいりつ関係かんけい形成けいせいされた。

1953ねんスターリンが死去しきょし、ゲオルギー・マレンコフとニキータ・フルシチョフによる共同きょうどう指導しどう体制たいせいはじまった。スターリン体制たいせい恐怖きょうふ政治せいじ主導しゅどうしゃとなったラヴレンチー・ベリヤ処刑しょけいされ、スターリン路線ろせんぎた独裁どくさい政策せいさく大幅おおはば緩和かんわされた[63]。1955ねんにはマレンコフが失脚しっきゃくし、フルシチョフによる指導しどう体制たいせい確立かくりつした。1956ねんにはスターリン批判ひはんおこない、だい粛清しゅくせいへの告発こくはつと、スターリン体制たいせいからの決別けつべつ表明ひょうめいされた。これは東欧とうおう諸国しょこくにもつよ衝撃しょうげきあたえ、各国かっこくでは政治せいじ改革かいかくうごきやはん体制たいせい運動うんどうポズナン暴動ぼうどうなど)が発生はっせいしたが、ハンガリー動乱どうらんには武力ぶりょく介入かいにゅうしてこれを鎮圧ちんあつした。反対はんたい殺害さつがい処刑しょけい投獄とうごくし、各国かっこく政権せいけん圧力あつりょくをかけ収拾しゅうしゅうさせた。一方いっぽうで、スターリン批判ひはん中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく反発はんぱつまねき、ちゅう対立たいりつ進行しんこうすることになった。アルバニアエンヴェル・ホッジャもスターリン批判ひはんおこなったソ連それん非難ひなんし、ワルシャワ条約じょうやく機構きこう脱退だったいすることにいたる。朝鮮民主主義人民共和国ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこくではソ連それんがた社会しゃかい主義しゅぎ体制たいせい目指めざソ連それんきむ日成いるそん排除はいじょのクーデターを画策かくさくするが、失敗しっぱいし、勢力せいりょく一掃いっそうされた。

フルシチョフ時代じだいにも軍拡ぐんかくすすめられており、核兵器かくへいきとミサイル兵器へいき配備はいびすすんでいた。1962ねんのキューバ危機ききかく戦争せんそう危機きき世界せかいらしめることになり、そのはアメリカとの関係かんけい改善かいぜんすすんだ(雪解ゆきど英語えいごばん)。しかしベトナム戦争せんそうアフリカみなみアメリカでの、代理だいり戦争せんそうばれる紛争ふんそう継続けいぞくしていた。

フルシチョフは食料しょくりょう生産せいさんちからそそ一時いちじてきにはおおきな成功せいこうおさめるものの、あまりにもきゅう農業のうぎょう生産せいさん拡大かくだいにより農地のうち栄養えいよう砂漠さばくすすんだ結果けっかソ連それん食料しょくりょう国外こくがいから輸入ゆにゅうしなければならない事態じたいまれた。

停滞ていたい時代じだい

編集へんしゅう
 
1979ねん6がつ18にちだい戦略せんりゃく兵器へいき制限せいげん交渉こうしょう(SALT II)調印ちょういんおこなうレオニード・ブレジネフ・ソれん書記しょきちょうおよびジミー・カーターべい大統領だいとうりょう

1964ねんに、フルシチョフは農業のうぎょう政策せいさく失敗しっぱい西側にしがわ諸国しょこくたいして寛容かんよう政策せいさくをとったことを理由りゆう失脚しっきゃくさせられた。わってレオニード・ブレジネフが指導しどうしゃとなった。しかし中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくとは、ちゅう対立たいりつ激化げきかしたことによって、両国りょうこく関係かんけいはほぼ断絶だんぜつ状態じょうたいちかくなり、1970年代ねんだいにはべいちゅう国交こっこう正常せいじょうによる中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく西側にしがわへの接近せっきんゆるすことになった。ソ連それん東欧とうおう諸国しょこく勢力せいりょくけんつづけるため、1968ねんには「制限せいげん主権しゅけんろん(いわゆるブレジネフ・ドクトリン)」のしたチェコスロバキア社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく民主みんしゅてき改革かいかくプラハのはる)にたいして介入かいにゅうし、ソ連それんつよ国際こくさい社会しゃかい批判ひはんびるようになった。この状況じょうきょうソ連それん西側にしがわ諸国しょこくとの協調きょうちょうはかるようになり(デタント)、戦略せんりゃく兵器へいき制限せいげん交渉こうしょうなどがおこなわれた。

プラハのはる武力ぶりょく弾圧だんあつした事実じじつは、おな共産きょうさん主義しゅぎ陣営じんえいなかにも動揺どうようんだ。中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくソ連それんを「社会しゃかい帝国ていこく主義しゅぎ」と批判ひはんし、ルーマニア社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこくニコラエ・チャウシェスク同様どうようソ連それん批判ひはんして西側にしがわ諸国しょこく接近せっきんし、独自どくじ外交がいこう展開てんかい。1973ねんチリ・クーデターのち誕生たんじょうしたアウグスト・ピノチェト政権せいけんたいしてソ連それん中心ちゅうしんとした東側ひがしがわ諸国しょこく国交こっこう断絶だんぜつおこななかで、中国ちゅうごくとルーマニアは関係かんけい維持いじつづけた。西側にしがわ諸国しょこく共産党きょうさんとうにおいてもイタリア共産党きょうさんとうスペイン共産党きょうさんとうソ連それんがた社会しゃかい主義しゅぎ決別けつべつするユーロコミュニズム採択さいたくするなど、国際こくさい共産きょうさん主義しゅぎ運動うんどう分裂ぶんれつ状態じょうたいおちいった。

1963ねん2がつふつ通商つうしょう条約じょうやく。1965ねんふつ原子力げんしりょく平和へいわ利用りよう協定きょうてい。そしてベトナム戦争せんそうホー・チ・ミンひきいるきたベトナム支援しえんした(きゅうフランスりょうインドシナ)。1969ねんにはかねて対立たいりつしていた中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく珍宝ちんぽうとう/ダマンスキーとうをめぐってちゅう国境こっきょう紛争ふんそうたたかった。1970ねん1がつイタリアと、2がつには西にしドイツ貿易ぼうえき協定きょうてい。1971ねん3がつふつウラン協定きょうてい。10月、ふつ共同きょうどう宣言せんげんふつしん経済けいざい協力きょうりょく協定きょうてい。1972ねんソ連それん凶作きょうさくのため穀物こくもつメジャーたよった。1974ねん5がつえい経済けいざい協力きょうりょく協定きょうてい。12月、ふつ首脳しゅのう会談かいだん経済けいざい協力きょうりょく5カ年かねん協定きょうてい。1975ねん1がつべい通商つうしょう協定きょうてい破棄はき通告つうこく。10月、べい穀物こくもつ協定きょうてい。1976ねん3がつ日米にちべいソ3かこくヤクート天然てんねんガス探査たんさ協定きょうてい。11月、べい漁業ぎょぎょう協定きょうてい。1977ねん3がつ排他はいたてき経済けいざい水域すいいき実施じっし[74]

1979ねん12月、ソ連それんアフガニスタン共産きょうさん主義しゅぎ政権せいけんソ連それん距離きょりろうとしているとなして、アフガニスタンへの侵攻しんこうおこなった。これはパキスタンサウジアラビアイランなどといった一部いちぶイスラム諸国しょこくおよび西側にしがわ諸国しょこく中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくによるもう反発はんぱつけ、翌年よくねんおこなわれたモスクワオリンピック大量たいりょうボイコットをまねき、デタントのながれは終焉しゅうえんした。アメリカはチャーリー・ウィルソンCIA支援しえんしたでイスラム・ゲリラにたいして支援しえんおこない、アフガニスタンでの戦闘せんとう泥沼どろぬまして1989ねんまでつづき、国際こくさい社会しゃかいからの孤立こりつまねいただけでなく、多大ただい人命じんめい戦費せんぴ損失そんしつまねいた。さらにソ連それんを「あく帝国ていこく」と名指なざしで批判ひはんするロナルド・レーガン大統領だいとうりょう政権せいけんのアメリカとの軍拡ぐんかく競争きょうそうがさらに激化げきかするようになった。1983ねん9がつには大韓航空だいかんこうくう撃墜げきつい事件じけん発生はっせいしたことで西側にしがわ諸国しょこくとの緊張きんちょうはさらにした。

ブレジネフ政権せいけんは18ねんにわたった長期ちょうき政権せいけんだった。停滞ていたいしつつも安定あんていし、ソ連それん歴史れきしじょうはじめて飢餓きが騒擾そうじょう事件じけん粛清しゅくせいもなくなった。そのわり、改革かいかくはまるでおこなわれず官僚かんりょう主義しゅぎによるとう官僚かんりょう特権とっけん階級かいきゅうノーメンクラトゥーラ)、ブレジネフ一族いちぞく縁故えんこ主義しゅぎなど体制たいせい腐敗ふはいすすんだ。経済けいざいめんでも、1960年代ねんだいごろまで10%をほこった成長せいちょうりつ次第しだい鈍化どんかしていった。そのツケは国民こくみん生活せいかつまわり、食料しょくりょう燃料ねんりょう生活せいかつ必需ひつじゅひん配給はいきゅう販売はんばいとどこおるようになった。改革かいかく開放かいほうはじめた中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくのぞき、東側ひがしがわ諸国しょこく全体ぜんたい経済けいざいも1970年代ねんだい後半こうはんから停滞ていたいしていくことになる。1980年代ねんだいはい西側にしがわ諸国しょこくゆたかな生活せいかつ情報じょうほうソ連それん国内こくない入手にゅうしゅできるようになると、国民こくみん体制たいせいへの不満ふまん自由じゆう西側にしがわへのあこがれをつよめていくことになる。小麦こむぎ生産せいさんりょう世界一せかいいちだった農業のうぎょう慢性まんせいてき不振ふしんとなり、小麦こむぎをアメリカから輸入ゆにゅうすることが恒常こうじょうした。しかしデタントの終焉しゅうえん穀物こくもつ輸入ゆにゅう逼迫ひっぱくし、さらに経済けいざい悪化あっかまねいた。技術ぎじゅつ競争きょうそうでもアメリカや日本にっぽんおおきなおくれをとるようになり、ソ連それん崩壊ほうかい直前ちょくぜんGNP日本にっぽんかれて3となる。

ペレストロイカ

編集へんしゅう
 
ロナルド・レーガンべい大統領だいとうりょうと1たい1で会談かいだんおこなミハイル・ゴルバチョフ書記しょきちょう

1982ねん死去しきょしたブレジネフの後継こうけいしゃとなったユーリ・アンドロポフコンスタンティン・チェルネンコ老齢ろうれい指導しどうしゃ相次あいついで政権せいけんいた。しかし、とも就任しゅうにんあいだもなく闘病とうびょう生活せいかつはいりそのまま病死びょうししたため、経済けいざい問題もんだい中心ちゅうしんとした内政ないせいのみならず、外交がいこうやアフガニスタン問題もんだいについてさえも具体ぐたいてき政策せいさくをほとんど実行じっこううつせず、ブレジネフ体制たいせい以来いらい長老ちょうろう支配しはい内外ないがい印象いんしょうづけることになった。

その、このりょう時代じだいにおいてますます深刻しんこくした経済けいざいてき危機きき打開だかいすべく、1985ねん3がつ誕生たんじょうしたミハイル・ゴルバチョフ政権せいけん社会しゃかい主義しゅぎ体制たいせい改革かいかく刷新さっしんかかげ、ペレストロイカ改革かいかく)をすすめた。ゴルバチョフの選出せんしゅついちばんかけての会議かいぎ決定けっていされた。

これによりちょうきにわたったいちとう独裁どくさい体制たいせい腐敗ふはいした政治せいじ体制たいせい改革かいかくすすめられた。1988ねんにはそれまでのソ連それん最高さいこう会議かいぎわり人民じんみん代議員だいぎいん大会たいかい創設そうせつ決定けっていされ、翌年よくねん3がつ26にちにはソ連それんはつ民主みんしゅてき選挙せんきょであるだい1かい人民じんみん代議員だいぎいん大会たいかい選挙せんきょ実施じっしされた。ゴルバチョフは人民じんみん代議員だいぎいん国民こくみん直接ちょくせつ選挙せんきょえらばせることによって、改革かいかく支障ししょうとなっていた保守ほしゅ官僚かんりょう(アパラチキ)を一掃いっそうしようとこころみた。1986ねん4がつ発生はっせいしたチェルノブイリ原子力げんしりょく発電はつでんしょ事故じこ対応たいおうおくれと隠蔽いんぺいによってソ連それん深刻しんこく官僚かんりょう主義しゅぎ体質たいしつ露呈ろていすると、ゴルバチョフはグラスノスチを本格ほんかくさせ、情報じょうほう統制とうせい緩和かんわすすめた。これをけて、ソ連それん国民こくみんあいだでは歴史れきし見直みなおしや、活発かっぱつ政治せいじ討論とうろんなどがおこなわれるようになった。

グラスノスチの進展しんてんにともない国民こくみんあいだでは民主みんしゅ要求ようきゅう拡大かくだい、それをけてソ連それん共産党きょうさんとう指導しどうてき役割やくわりさだめたソ連それん憲法けんぽうだい6じょう削除さくじょされ、1990ねんにはソ連それん共産党きょうさんとうによるいちとう独裁どくさいせい放棄ほうき、そして複数ふくすう政党せいとうせい大統領だいとうりょうせい導入どうにゅう決定けっていされた。同年どうねん3がつ15にち人民じんみん代議員だいぎいんによる間接かんせつ選挙せんきょによって、ゴルバチョフが初代しょだいソ連それん大統領だいとうりょう選出せんしゅつされた。どう時期じき当局とうきょく検閲けんえつ廃止はいしした新聞しんぶんほう制定せいていされた。

しかし、これらの一連いちれん政治せいじ経済けいざい改革かいかく一定いってい成果せいかげた反面はんめん改革かいかく範囲はんいやスピードをめぐってソ連それん共産党きょうさんとうない内部ないぶこうそう激化げきかさせた。とく保守ほしゅは、改革かいかく進展しんてんによりぐんさんふく合体がったいなどみずからの既得きとく権益けんえきうしなわれることにつよ反発はんぱつした。そして、共産党きょうさんとうはエリツィンら急進きゅうしん改革かいかくとゴルバチョフら穏健おんけん改革かいかく、そして保守ほしゅのグループに分裂ぶんれつした。党内とうない分裂ぶんれつもあって国内こくない経済けいざい改革かいかく遅々ちちとしたものとなり、経済けいざい危機きき一層いっそう深刻しんこくさせた。こうした状況じょうきょうなかエリツィン保守ほしゅはばかせる共産党きょうさんとう見切みきりをつけ、1990ねん7がつソ連それん共産党きょうさんとうだい28かい大会たいかい離党りとうし、ポポフサプチャークアファナーシェフサハロフらとともに共産党きょうさんとうけい政治せいじ組織そしきである地域ちいきあいだ代議員だいぎいんグループ結成けっせい共産党きょうさんとう対抗たいこうした。一方いっぽう穏健おんけん改革かいかくのゴルバチョフは保守ほしゅ急進きゅうしん改革かいかく板挟いたばさみになり、抜本ばっぽんてき改革かいかく推進すいしんできなかった。

従来じゅうらい中央ちゅうおう集権しゅうけんがた指令しれい経済けいざい破棄はきし、市場いちばメカニズムを導入どうにゅうすることがはかられたが、保守ほしゅ抵抗ていこうなどで経済けいざい改革かいかくおくれ、国内こくないではインフレもの不足ふそく深刻しんこくした。市民しみんあいだでは、事態じたい打開だかいできないゴルバチョフらソ連それん共産党きょうさんとうたいする批判ひはんたかまった。こうした国民こくみん不満ふまん吸収きゅうしゅうしたのがエリツィンら急進きゅうしん改革かいかくである。1991ねん6がつ12にちにはロシア共和きょうわこく大統領だいとうりょう選挙せんきょ実施じっしされてエリツィン・ロシア共和きょうわこく最高さいこう会議かいぎロシアばん議長ぎちょう当選とうせんし、7がつ10日とおか就任しゅうにんした。ロシア共和きょうわこく大統領だいとうりょう選挙せんきょ同日どうじつにモスクワ市長しちょう選挙せんきょレニングラード市長しちょう選挙せんきょがそれぞれ実施じっしされ、ポポフがモスクワ市長しちょうに、サプチャークがレニングラード市長しちょう当選とうせんした。こうした急進きゅうしん改革かいかく躍進やくしん保守ほしゅらせ、のちの8がつクーデターへとてる要因よういんひとつとなった。

民族みんぞく問題もんだい再燃さいねん連邦れんぽうせい動揺どうよう

編集へんしゅう

ペレストロイカは東西とうざい緊張きんちょう緩和かんわ東欧とうおう民主みんしゅ、そしてソ連それん国内こくない政治せいじ改革かいかくにおいておおきな成果せいかげたものの、改革かいかくすすむにつれて共産党きょうさんとう権力けんりょく弱体じゃくたいと、連邦れんぽう政府せいふかく共和きょうわこくたいする統制とうせいりょく低下ていかという事態じたいまねいた。こうしたなかで、国内こくないでは封印ふういんされていた民族みんぞく問題もんだい先鋭せんえいかく共和きょうわこく主権しゅけん拡大かくだい要求ようきゅうするうごきがまれた。

1986ねん12月にはペレストロイカ開始かいしはじめての民族みんぞく暴動ぼうどうであるアルマアタ事件じけんカザフ共和きょうわこく発生はっせいした。1988ねんからはナゴルノ・カラバフ自治じちしゅう帰属きぞくをめぐってアルメニア共和きょうわこくとアゼルバイジャン共和きょうわこくとのあいだだい規模きぼ紛争ふんそう発生はっせいグルジアモルダヴィア共和きょうわこくでも民族みんぞくあいだ衝突しょうとつきた。

1990ねん3がつ11にちにははんソ連それん急先鋒きゅうせんぽうられていたバルト3こくリトアニア共和きょうわこく連邦れんぽうからの独立どくりつ宣言せんげん、ゴルバチョフ政権せいけん経済けいざい制裁せいさい実施じっしし、宣言せんげん撤回てっかいさせたものの、同年どうねん3がつ30にちにはエストニア共和きょうわこくが、5月4にちにはラトビア共和きょうわこく独立どくりつ宣言せんげんした。1990ねん5がつ29にちにはロシア連邦れんぽう共和きょうわこく最高さいこう会議かいぎ議長ぎちょう急進きゅうしん改革かいかくのエリツィンが当選とうせん同年どうねん6がつ12にちにはロシア連邦れんぽう共和きょうわこくが、7がつ16にちにはウクライナ共和きょうわこく共和きょうわこく主権しゅけん連邦れんぽう主権しゅけん優越ゆうえつするという国家こっか主権しゅけん宣言せんげんおこない、かく共和きょうわこくもこれにつづいた。こうした民族みんぞく運動うんどう高揚こうよう連邦れんぽうからの自立じりつもとめるかく共和きょうわこくうごきは、ゴルバチョフ自身じしん推進すいしんしたペレストロイカとグラスノスチによってこされたとえる半面はんめん連邦れんぽう最高さいこう会議かいぎ保守ほしゅとのこうそうやぶれた急進きゅうしん改革かいかくかく共和きょうわこく最高さいこう会議かいぎうつり、そこでそれらの運動うんどう指揮しきしているという側面そくめんもあった。とくソ連それんぜん面積めんせきの76%、ぜん人口じんこうの51%、そして共和きょうわこく比較ひかくして圧倒的あっとうてき経済けいざいりょくようするロシア共和きょうわこく元首げんしゅ急進きゅうしん改革かいかくのエリツィンが就任しゅうにんしたことはおおきな意味いみっていた。

従来じゅうらい中央ちゅうおう集権しゅうけんがた連邦れんぽうせい動揺どうようするなかでゴルバチョフは連邦れんぽうゆうしていた権限けんげんかく共和きょうわこく大幅おおはば移譲いじょうし、主権しゅけん国家こっか連合れんごうとして連邦れんぽう再編さいへんするというしん構想こうそうあきらかにした。そのうえでまず枠組わくぐみとなるしん連邦れんぽう条約じょうやく締結ていけつするためかく共和きょうわこくとの調整ちょうせいすすめた。1991ねん3がつ17にちにはしん連邦れんぽう条約じょうやく締結ていけつ布石ふせきとして連邦れんぽうせい維持いじ賛否さんぴ国民こくみん投票とうひょうかく共和きょうわこくおこなわれ、投票とうひょうしゃの76.4%が連邦れんぽうせい維持いじ賛成さんせいひょうとうじることとなった[注釈ちゅうしゃく 9]。この国民こくみん投票とうひょう結果けっかけ4がつ23にち、ゴルバチョフ・ソ連それん大統領だいとうりょう国民こくみん投票とうひょう参加さんかした9共和きょうわこく元首げんしゅあつまり、そのかく共和きょうわこくとのあいだしん連邦れんぽう条約じょうやく締結ていけつし、連邦れんぽう構成こうせいするかく共和きょうわこくへの大幅おおはば権限けんげん委譲いじょう連邦れんぽう再編さいへんおこなうことで合意ごういした。そのさい国名こくめいをそれまでの「ソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく連邦れんぽう」から社会しゃかい主義しゅぎ文字もじ廃止はいしし、「ソビエト主権しゅけん共和きょうわこく連邦れんぽう」に変更へんこうすることも決定けっていされた。

冷戦れいせん終結しゅうけつ

編集へんしゅう
 
冷戦れいせん終結しゅうけつ国境こっきょう変化へんか

1987ねん12月にはアメリカとのあいだ中距離ちゅうきょりかく戦力せんりょく全廃ぜんぱい条約じょうやく締結ていけつされ、よく1988ねん5がつからはソ連それんぐんがアフガニスタンから撤退てったい開始かいしした。同時どうじ東欧とうおう各国かっこく駐留ちゅうりゅうしていたソ連それんぐん一部いちぶも、本国ほんごくへのげをおこなった。

ゴルバチョフは1988ねん3がつしんベオグラード宣言せんげんなかブレジネフ・ドクトリン否定ひてい東欧とうおう諸国しょこくへのソ連それん内政ないせい不干渉ふかんしょう表明ひょうめいしていたが、これをけ1989ねんから1990ねんにかけてドイツ民主みんしゅ共和きょうわこくひがしドイツ)やハンガリー人民じんみん共和きょうわこくポーランド人民じんみん共和きょうわこくやチェコスロバキアなどの衛星えいせいこく相次あいついで民主みんしゅ達成たっせいした。そのほとんどは事実じじつじょう無血むけつ革命かくめいであったが、ルーマニアでは一時いちじてき体制たいせい改革かいかくあいだ戦闘せんとう状態じょうたいとなり、長年ながねん独裁どくさい体制たいせいいてきたニコラエ・チャウシェスク大統領だいとうりょう処刑しょけいされ、流血りゅうけつ革命かくめいとなった。ソビエト連邦れんぽうはかつてのハンガリー動乱どうらんやプラハのはるときとはことなり、これらの衛星えいせいこくにおける改革かいかくたいして介入かいにゅう表明ひょうめいし、これらの政府せいふによる国民こくみんたいする武力ぶりょく行使こうしたいしては明確めいかく嫌悪けんおかんしめした。

このようなながれのなかで、ソビエト連邦れんぽうふく東側ひがしがわ諸国しょこく相次あいつ民主みんしゅにより東西とうざい冷戦れいせん構造こうぞう事実じじつじょう崩壊ほうかいし、これらのうごきをけて1989ねん12月2にちから12月3にちにかけて地中海ちちゅうかいマルタでゴルバチョフとアメリカ大統領だいとうりょうジョージ・H・W・ブッシュ会談かいだんし、正式せいしき冷戦れいせん終結しゅうけつ宣言せんげんした(マルタ会談かいだん)。

崩壊ほうかい

編集へんしゅう

国内こくないでは1991ねん8がつ20日はつかしん連邦れんぽう条約じょうやく締結ていけつけて準備じゅんびすすめられていた。しかし、しん連邦れんぽう条約じょうやく締結ていけつかく共和きょうわこく独立どくりつみずからの権力けんりょく基盤きばん喪失そうしつむすびつくことを危惧きぐしたゲンナジー・ヤナーエフふく大統領だいとうりょうウラジーミル・クリュチコフKGB議長ぎちょうドミトリー・ヤゾフ国防こくぼうしょうら8にんソ連それん共産党きょうさんとう中央ちゅうおう委員いいんかいメンバーらによって条約じょうやく締結ていけつ目前もくぜんひかえた8がつ19にちにクーデターが発生はっせい、ゴルバチョフを軟禁なんきんして条約じょうやく締結ていけつ阻止そしこころみたものの、ボリス・エリツィンら改革かいかくがこれに抵抗ていこうし、さらにぐん国民こくみんおおく、くわえてアメリカやフランス、日本にっぽんやイギリスなどの西側にしがわ諸国しょこく大半たいはんもクーデターを支持しじしなかったことから完全かんぜん失敗しっぱいわった。

クーデターの失敗しっぱいによってしん連邦れんぽう条約じょうやく締結ていけつ挫折ざせつ、クーデターをこしたソ連それん共産党きょうさんとう中央ちゅうおう委員いいんかいメンバーらは逮捕たいほされた。クーデターをこしたメンバーはいずれも共産党きょうさんとう主要しゅよう幹部かんぶでゴルバチョフの直属ちょくぞく部下ぶかだったこともあり、共産党きょうさんとうとゴルバチョフの権威けんい失墜しっついした。8月24にち、ゴルバチョフは共産党きょうさんとう書記しょきちょう辞任じにんし、同時どうじ共産党きょうさんとう中央ちゅうおう委員いいんかい解散かいさん勧告かんこく、8がつ28にちソ連それん最高さいこう会議かいぎソ連それん共産党きょうさんとう活動かつどう全面ぜんめんてき禁止きんしする決議けつぎ採択さいたくし、どうとう事実じじつじょう解体かいたいまれた。

連邦れんぽう政府せいふ中核ちゅうかくにない、そして連邦れんぽうひとつにまとめげてきたソ連それん共産党きょうさんとう解体かいたいされたことにより、かく共和きょうわこく統制とうせいすることができる政府せいふ組織そしき存在そんざいしなくなり、かく共和きょうわこく元首げんしゅ独自どくじ権力けんりょくつようになった。そしてこれ以後いご実権じっけんかく共和きょうわこく元首げんしゅから構成こうせいされる国家こっか評議ひょうぎかいうつっていくことになる。

9月6にち国家こっか評議ひょうぎかいはバルトさんこく独立どくりつ承認しょうにんした。しん連邦れんぽう条約じょうやく締結ていけつ失敗しっぱいしたゴルバチョフ・ソ連それん大統領だいとうりょうはこのあいだ連邦れんぽうせい維持いじ奔走ほんそうし、11月14にち、ロシア共和きょうわこくとベラルーシ共和きょうわこく、そして中央ちゅうおうアジアいつつの共和きょうわこく元首げんしゅとのあいだ主権しゅけん国家こっか連邦れんぽう創設そうせつすることで合意ごうい、また連邦れんぽうへの加盟かめいこばんでいるのこりの共和きょうわこくへの説得せっとくつづけた。しかし12月1にちにはウクライナ共和きょうわこく独立どくりつ是非ぜひ国民こくみん投票とうひょう実施じっしされ、投票とうひょうしゃの90.3%が独立どくりつ支持しじ当初とうしょ連邦れんぽうせい維持いじ賛成さんせいしていたエリツィン・ロシア連邦れんぽう共和きょうわこく大統領だいとうりょうも、5000まん人口じんこうようソ連それんだい2工業こうぎょうこくであるウクライナが加盟かめいしない主権しゅけん国家こっか連邦れんぽうに、ロシア共和きょうわこく加入かにゅうすることは利益りえきにならないとして、12月3にちにウクライナ独立どくりつ承認しょうにんソ連それん崩壊ほうかいながれを決定けっていづけた。

同年どうねん12がつ8にちベロヴェーシ合意ごういにおいて、ロシア、ウクライナはくロシア(ベラルーシ)が連邦れんぽう離脱りだつして、あらたに独立どくりつ国家こっか共同きょうどうたい(CIS)を創設そうせつし、のこ諸国しょこくもそれにならってCISに加入かにゅうした。12月17にち、ゴルバチョフ大統領だいとうりょうは1991ねんちゅう連邦れんぽう政府せいふ活動かつどう停止ていしすることを宣言せんげん。12月21にち、グルジアとすでに独立どくりつしたバルトさんこくのぞく11のソ連それん構成こうせい共和きょうわこく元首げんしゅがCIS発足ほっそくソ連それん解体かいたい決議けつぎしたアルマアタ宣言せんげん採択さいたく、これをけて12月25にちにゴルバチョフはソ連それん大統領だいとうりょう辞任じにんし、翌日よくじつには最高さいこう会議かいぎ連邦れんぽう解体かいたい宣言せんげん、ソビエト連邦れんぽう崩壊ほうかいした。

概要がいよう

編集へんしゅう

ソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく連邦れんぽう国土こくどが22,402,200km2であり、当時とうじにおいて世界一せかいいちひろさをほこったくにであった。そのために隣接りんせつしていたくにひがしヨーロッパきたヨーロッパ中央ちゅうおうアジアひがしアジア、などはばひろい。

ソビエト連邦れんぽうとの陸上りくじょう国境こっきょう共有きょうゆうした諸国しょこく(1960ねん時点じてん)
国名こくめい 地域ちいき 備考びこう
  アフガニスタン王国おうこく アジア
  イラン アジア
  北朝鮮きたちょうせん アジア
  チェコスロバキア ヨーロッパ
  中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく アジア ソ連それんとの領土りょうど問題もんだいゆう
  トルコ アジア
  ノルウェー ヨーロッパ
  ハンガリー ヨーロッパ
  フィンランド ヨーロッパ
  ブルガリア ヨーロッパ
  ポーランド ヨーロッパ
  モンゴル アジア
  ルーマニア ヨーロッパ

陸続りくつづきで隣接りんせつしたくには、西にしノルウェーフィンランドポーランドチェコスロバキアハンガリールーマニアみなみトルコイランアフガニスタンモンゴル中華民国ちゅうかみんこく(1949ねん以降いこう中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく)、北朝鮮きたちょうせん(1948ねん以降いこう)であり、うみはさんでみなみ日本にっぽん(1945ねん以前いぜん樺太からふとおよび当時とうじ日本にっぽんりょうだった朝鮮ちょうせん国境こっきょうせっしていた)、ひがしアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくである。全域ぜんいき寒波かんぱ影響えいきょう非常ひじょう強力きょうりょくなため、冬季とうき北極ほっきょくかいめんしたところや内陸ないりく中心ちゅうしんに、極寒ごっかんである。そのためなかなか開発かいはつすすまず、囚人しゅうじん酷使こくしした強制きょうせい労働ろうどうおおくのいのちうしなわれた。

自動車じどうしゃどう開発かいはつおくれたがゆきつよ鉄道てつどう発達はったつしており、シベリア鉄道てつどうちょう長距離ちょうきょり路線ろせんであるにもかかわらず「共産きょうさん主義しゅぎはソビエト権力けんりょく+全国ぜんこく電化でんかである」というレーニン以来いらい方針ほうしんにより電化でんかすすんでおり、軍事ぐんじ輸送ゆそう貨物かもつ輸送ゆそうおおいに役立やくだった。

なが国境こっきょうのうちにはいくつかの領土りょうど問題もんだいかかえており、1960年代ねんだいには軍事ぐんじ紛争ふんそう中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくとのあいだにおけるダマンスキーとう事件じけんなど)になったケースもある。うみへだてた隣国りんごくひとつである日本にっぽんとは、だい世界せかい大戦たいせんから北方領土ほっぽうりょうど問題もんだいっており、この問題もんだいはロシア連邦れんぽうになった現在げんざい解決かいけつされていない。フィンランドにもカレリア地域ちいき問題もんだいのこされている。

また、ソ連それんはヨーロッパとアジアの2区域くいきで11の時間じかんたい (標準時ひょうじゅんじ)をまたぐ、世界せかい最大さいだい規模きぼくにであったことから、現在げんざいではユーラシアきたアジアばれることがおおい。

サッカーカザフスタン欧州おうしゅう連盟れんめい参加さんかしていることからヨーロッパとする見方みかたがあるが、トルコキプロスイスラエルなどの西にしアジアの国々くにぐに加盟かめいしており、まったくこれは論拠ろんきょにならない。

ソ連それん時代じだいにいわゆる公用こうよう存在そんざいしなかった。すなわちロシアソ連それん公用こうようではなかった。レーニンがオーストロ・マルキシズムカウツキー影響えいきょうのもと、1914ねん論文ろんぶん強制きょうせいてき国家こっか必要ひつようか?(Нужен ли обязательный государственный язык?)』において国家こっか制定せいてい批判ひはんし、スターリン民族みんぞく問題もんだい専門せんもんとして民族みんぞく奨励しょうれい政策せいさく採用さいようしている。

汚染おせん地域ちいき

編集へんしゅう

ソビエト連邦れんぽうちょう大国たいこくであったが軍事ぐんじ核兵器かくへいき以外いがい産業さんぎょうおくれており、エネルギーの効率こうりつ環境かんきょう対策たいさくおくれていた。そのため汚染おせん地域ちいきおおく、ジェルジンスクノリリスクスムガイト現在げんざいアゼルバイジャン)、チェルノブイリどうウクライナ)はきわめて汚染おせんひどかった。

とくチェルノブイリ原子力げんしりょく発電はつでんしょ事故じこでは広島ひろしまがた原爆げんばくやく500はつぶん放射ほうしゃせい降下こうかぶつがまきらされ、おおくの被災ひさいしゃた。かく実験じっけんのあったセミパラチンスク現在げんざいカザフスタンセメイ)では120まんにんがいわゆるはいけ、30まんにん後遺症こういしょう深刻しんこく被害ひがいけている。

環境かんきょう破壊はかい

編集へんしゅう

1948ねんにソビエト連邦れんぽうは「自然しぜん改造かいぞう計画けいかく」を実行じっこうし、綿花めんか栽培さいばいのためにだい規模きぼ灌漑かんがいはじめた結果けっか、1960ねんさかいアラル海あらるかい面積めんせき急激きゅうげき縮小しゅくしょう干上ひあがることで、1979ねんには塩分えんぶん濃度のうど上昇じょうしょうによりさかながほとんど死滅しめつ漁業ぎょぎょう潰滅かいめつした。すなしおげる砂嵐すなあらしにはしおがたっぷりとふくまれており、残留ざんりゅう農薬のうやく化学かがく肥料ひりょう細菌さいきん兵器へいき残滓ざんしなど人体じんたい有害ゆうがい物質ぶっしつふくまれておりぜんそくなどの呼吸こきゅう疾患しっかんだい流行りゅうこう植物しょくぶつそだたず砂漠さばくとなりじんめず農業のうぎょうりたなくなり、おおくのむらまちえていった。 ソ連それん崩壊ほうかいの2005ねんカザフスタン政府せいふアラル海あらるかい消滅しょうめつめようと、世界銀行せかいぎんこうなどからの支援しえんによってコカラル堤防ていぼう建設けんせつするなどきたアラル海あらるかい回復かいふく傾向けいこうにあるが、ウズベキスタン領有りょうゆうするみなみアラル海あらるかいは、干上ひあがった湖底こてい石油せきゆ・ガスの採掘さいくつおこな計画けいかくてている。

地方ちほう行政ぎょうせい区分くぶん

編集へんしゅう
ソビエト連邦れんぽう
ロシア共和きょうわこく構成こうせい共和きょうわこく
自治じち共和きょうわこく地方ちほう
自治じち共和きょうわこく自治じちしゅう
しゅう
しゅう
自治じち管区かんく自治じちしゅう

ソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく

編集へんしゅう

ソビエト連邦れんぽうは、ソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこくСоветская Социалистическая Республика 通称つうしょう ССР)の連合体れんごうたいとして成立せいりつしたという特異とくい事情じじょう存在そんざいし、そのためソ連邦それんぽう領土りょうどというのはソ連邦それんぽう領土りょうどであると同時どうじにソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく以下いか構成こうせいこく」)の領土りょうどでもあった。

ソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく(1955ねん 首都しゅと 加盟かめい 離脱りだつ[注釈ちゅうしゃく 10] 現在げんざい 首都しゅと
1   ロシア・ソビエト連邦れんぽう社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく モスクワ 1922ねん[75] 1991ねん   ロシア モスクワ
2   ウクライナ・ソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく キエフ 1922ねん[75] 1991ねん   ウクライナ キーウ[注釈ちゅうしゃく 11]
3   はくロシア・ソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく ミンスク 1922ねん[75] 1991ねん   ベラルーシ ミンスク
4   ウズベク・ソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく タシュケント 1924ねん[76] 1991ねん   ウズベキスタン タシケント
5   カザフ・ソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく アルマトイ 1936ねん[77] 1991ねん   カザフスタン アスタナ
6   グルジア・ソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく トビリシ 1936ねん[78] 1991ねん   ジョージア トビリシ
7   アゼルバイジャン・ソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく バクー 1936ねん[78] 1991ねん   アゼルバイジャン バクー
8   リトアニア・ソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく ヴィリニュス 1940ねん[79] 1991ねん   リトアニア ヴィリニュス
9   モルダヴィア・ソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく キシニョフ 1940ねん[注釈ちゅうしゃく 12] 1991ねん   モルドバ キシナウ
10   ラトビア・ソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく リガ 1940ねん[79] 1991ねん   ラトビア リガ
11   キルギス・ソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく フルンゼ 1936ねん[77] 1991ねん   キルギス ビシュケク
12   タジク・ソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく ドゥシャンベ 1929ねん[77] 1991ねん   タジキスタン ドゥシャンベ
13   アルメニア・ソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく エレバン 1936ねん[78] 1991ねん   アルメニア エレバン
14   トルクメン・ソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく アシガバート 1924ねん[76] 1991ねん   トルクメニスタン アシガバート
15   エストニア・ソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく タリン 1940ねん[79] 1991ねん   エストニア タリン

当初とうしょのソビエト連邦れんぽうは、ロシア、ウクライナ、はくロシア、そしてカフカース位置いちしたザカフカース連邦れんぽう共和きょうわこくの4共和きょうわこく構成こうせいされており[注釈ちゅうしゃく 13]、その中央ちゅうおうアジア民族みんぞく境界きょうかい策定さくてい作業さぎょうや、1936ねんのザカフカース連邦れんぽう共和きょうわこく廃止はいし、まただい世界せかい大戦たいせん前後ぜんこうのバルトさんこく併合へいごうとモルダヴィア共和きょうわこくかれるベッサラビア地域ちいきさい領有りょうゆうふゆ戦争せんそうでのカレリア獲得かくとくじゅうすう以上いじょう構成こうせいこくようする要因よういんとなった。しかし、ザカフカースの解体かいたいによって共和きょうわこくになったアゼルバイジャン、アルメニア、グルジアの3カ国かこく対照たいしょうてきに、共和きょうわこくから自治じち共和きょうわこくへとろされたカレリアのれいもある。

憲法けんぽうじょう地位ちい

編集へんしゅう

構成こうせいこくという存在そんざいは、憲法けんぽう明記めいきされており、たとえば1936ねん連邦れんぽう憲法けんぽうでは、構成こうせいこくをこのように明記めいきしている。

...だい13じょう ソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく連邦れんぽうは、平等びょうどう権利けんりをもつ下記かきのソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく自由じゆう意志いしによる結合けつごうもとづいて形成けいせいされた同盟どうめい国家こっかである。

...だい15じょう 連邦れんぽう構成こうせいしょ共和きょうわこくは、それぞれ共和きょうわこく特殊とくしゅせい考慮こうりょし、かつ連邦れんぽう憲法けんぽう適合てきごうする範疇はんちゅうにおいて固有こゆう憲法けんぽうゆうする

...だい17じょう すべての連邦れんぽう構成こうせい共和きょうわこくたいして、連邦れんぽうからの脱退だったい権利けんり留保りゅうほされる。

これらの規定きていは、およそ40ねんの1977ねん制定せいていされたブレジネフ憲法けんぽうにおいても明記めいきされる。しかし、構成こうせいこく保障ほしょうされた権利けんりだい部分ぶぶん終始しゅうし形骸けいがいしており、とく連邦れんぽうからの脱退だったい明記めいきしただい17じょうでは、脱退だったいけた詳細しょうさい手続てつづきがさだまっていないなど、共和きょうわこく平等びょうどうというものはもはや存在そんざいしないようなものであった。

国際こくさい社会しゃかいでは、ウクライナ共和きょうわこくはくロシア共和きょうわこくいちこくとして国際こくさい連合れんごう加盟かめいするなど、構成こうせいこくとしての外交がいこうもごく一部いちぶおこなわれていた。

自治じちソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく

編集へんしゅう

構成こうせい国内こくないには、自治じちソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこくАвтономная Советская Социалистическая Республика 通称つうしょう АССР)が存在そんざいする場合ばあいがあり、こちらはソビエト連邦れんぽう直接ちょくせつ構成こうせいするものではないものの、ソ連邦それんぽう中央ちゅうおう現地げんちとの協議きょうぎによって成立せいりつした。

自治じちソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく(1987ねん現在げんざい 成立せいりつ 場所ばしょ
バシキール自治じちソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく 1919ねん   ロシア連邦れんぽう共和きょうわこく
ブリヤート自治じちソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく 1956ねん  ロシア連邦れんぽう共和きょうわこく
チェチェン・イングーシ自治じちソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく 1936ねん  ロシア連邦れんぽう共和きょうわこく
チュヴァシ自治じちソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく 1925ねん  ロシア連邦れんぽう共和きょうわこく
ダゲスタン自治じちソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく 1921ねん  ロシア連邦れんぽう共和きょうわこく
カバルダ・バルカル自治じちソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく 1936ねん  ロシア連邦れんぽう共和きょうわこく
カルムイク自治じちソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく 1935ねん  ロシア連邦れんぽう共和きょうわこく
カレリア自治じちソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく 1923ねん  ロシア連邦れんぽう共和きょうわこく
コミ自治じちソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく 1936ねん  ロシア連邦れんぽう共和きょうわこく
マリ自治じちソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく 1936ねん  ロシア連邦れんぽう共和きょうわこく
モルドヴィア自治じちソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく 1934ねん  ロシア連邦れんぽう共和きょうわこく
きたオセチア自治じちソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく 1934ねん  ロシア連邦れんぽう共和きょうわこく
タタール自治じちソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく 1920ねん  ロシア連邦れんぽう共和きょうわこく
トゥヴァ自治じちソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく 1961ねん  ロシア連邦れんぽう共和きょうわこく
ウドムルト自治じちソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく 1934ねん  ロシア連邦れんぽう共和きょうわこく
ヤクート自治じちソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく 1922ねん  ロシア連邦れんぽう共和きょうわこく
ナヒチェヴァン自治じちソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく 1931ねん   アゼルバイジャン共和きょうわこく
アブハズASSR 1931ねん   グルジア共和きょうわこく
アジャリアASSR 1921ねん   グルジア共和きょうわこく
カラカルパクASSR 1932ねん   ウズベク共和きょうわこく

憲法けんぽうじょう地位ちい

編集へんしゅう

1977ねん憲法けんぽうでは、だい10しょうでこれがさだめられ、独自どくじ憲法けんぽう制定せいていする権利けんりなどが明記めいきされた。

自治じち自治じち管区かんく

編集へんしゅう

ソビエト連邦れんぽう都市とし起源きげんは、中央ちゅうおうアジアやカフカース地方ちほうでは紀元前きげんぜんからの歴史れきしをもつが、ルーシの歴史れきしにおいてははやくとも6世紀せいきごろからとなっている。しかし、ソ連それん時代じだい直結ちょっけつする都市とし発展はってん帝政ていせい時代じだいの19世紀せいきとくに19世紀せいき後半こうはん改革かいかくによって成長せいちょうげたとえる。都市としとし平均へいきん人口じんこう増加ぞうかりつは、1811ねんから1867ねんの56年間ねんかんで1.5パーセントであったのにたいし、1868ねんから1913ねんの45年間ねんかんでは2.3パーセントと増加ぞうか[80]、その結果けっか、1811ねん時点じてんでの都市とし人口じんこう277まんにんぜん人口じんこうの7%)から、1867ねんで740まんにんぜん人口じんこうの10%)、1914ねんになると2,328まんにん(12.5%)へと上昇じょうしょうした[80]都市とし規模きぼ注目ちゅうもくするなら、1811ねん時点じてん人口じんこう10まんにん以上いじょう都市としがペテルブルクとモスクワの2都市とし、1まんにん以上いじょう人口じんこうようする都市としが77[80]だけであったのが、1897ねんには人口じんこう10まん都市としが17、1まん都市としは356にもえたことが明確めいかくにしてくれる。このすさまじい発展はってんには帝政ていせい当時とうじ鉄道てつどう建設けんせつ穀物こくもつ移出いしゅつ炭鉱たんこう採油さいゆ繊維せんいぎょうなどの全体ぜんたいてき産業さんぎょう発展はってんによるところがおおきい。

これらの都市としも、革命かくめい国内こくないせん荒廃こうはいし、1917ねんから1920ねんにはマイナス5.7パーセントの人口じんこうげん記録きろくした。この数値すうち都市とし人口じんこうがおよそ500まんにん減少げんしょうしたことをしめ[81]。しかし、ネップがこうおさめたことにより1920ねんから1926ねん都市とし人口じんこう増加ぞうかりつ年間ねんかん3.7パーセントと、若干じゃっかんでありながらも回復かいふく傾向けいこうにあった[注釈ちゅうしゃく 14]。1926ねんから1939ねんソ連それん国内こくないせん復興ふっこうからも脱却だっきゃくし、ソビエト国家こっか発展はってん全力ぜんりょくそそげた。このあいだ都市とし人口じんこうばいちかくに増加ぞうかし、都市とし人口じんこう比率ひりつは30パーセントとなる[注釈ちゅうしゃく 15]。この急速きゅうそく発展はってん成功せいこうした理由りゆうとしては、都市とし自体じたい発達はったつ存在そんざいしていたというめん存在そんざいするが、どう時期じき工業こうぎょう政策せいさくによるところがおおきいとされる。

代表だいひょうする都市とし

編集へんしゅう

ここで列挙れっきょする都市としは、おも構成こうせいこく首都しゅとであったり、革命かくめいゴエルロ計画けいかく地域ちいき都市としさだめられたり、あるいはだい世界せかい大戦たいせんとくどくせん)において英雄えいゆう都市とし指定していされたりした都市としである。構成こうせいこくだと、ロシア共和きょうわこくだい多数たすうめ、そのつぎにウクライナ共和きょうわこくとなる。構成こうせいこく首都しゅとである6都市とし(モスクワ、キエフ、タシケント、トビリシ、エレバン、バクー)、また、英雄えいゆう都市とし指定していされた4都市とし(モスクワ、レニングラード、キエフ、オデッサ)すべてがロシア共和きょうわこくとウクライナ共和きょうわこく点在てんざいする。

名称めいしょう 構成こうせい共和きょうわこく 人口じんこう(1981ねん) 名称めいしょう 行政ぎょうせい区分くぶん 人口じんこう(ひと)
1 モスクワ   ロシア連邦れんぽう共和きょうわこく 8,015,000にん 11 トビリシ   グルジア共和きょうわこく 1,095,000
2 レニングラード   ロシア連邦れんぽう共和きょうわこく 4,156,000にん 12 オデッサ   ウクライナ共和きょうわこく 1,072,000
3 キエフ   ウクライナ共和きょうわこく 2,248,000にん 13 チェリャビンスク   ロシア連邦れんぽう共和きょうわこく 1,055,000
4 タシケント   ウズベク共和きょうわこく 1,858,000にん 14 エレバン   アルメニア共和きょうわこく 1,055,000
5 ハリコフ   ウクライナ共和きょうわこく 1,485,000にん 15 バクー   アゼルバイジャン共和きょうわこく 1,046,000
6 ゴーリキー   ロシア連邦れんぽう共和きょうわこく 1,367,000にん 16 オムスク   ロシア連邦れんぽう共和きょうわこく 1,044,000
7 ノヴォシビルスク   ロシア連邦れんぽう共和きょうわこく 1,343,000にん 17 ドネツク   ウクライナ共和きょうわこく 1,040,000
8 スベルドロフスク   ロシア連邦れんぽう共和きょうわこく 1,239,000にん 18 ペルミ   ロシア連邦れんぽう共和きょうわこく 1,018,000
9 クイビシェフ   ロシア連邦れんぽう共和きょうわこく 1,238,000にん
10 ドネプロペトロフスク   ウクライナ共和きょうわこく 1,100,000にん
ソビエト連邦れんぽう国家こっか構造こうぞう
1924ねん憲法けんぽう 1936ねん憲法けんぽう 1977ねん憲法けんぽう[82][83][84]
最高さいこう決定けってい機関きかん ソビエト大会たいかい 最高さいこう会議かいぎ 人民じんみん代議員だいぎいん大会たいかい
最高さいこう立法りっぽう機関きかん 中央ちゅうおう執行しっこう委員いいんかい 最高さいこう会議かいぎ幹部かんぶかい[注釈ちゅうしゃく 16] 最高さいこう会議かいぎ 最高さいこう会議かいぎ[注釈ちゅうしゃく 17]
臨時りんじ立法りっぽう機関きかん 中央ちゅうおう執行しっこう委員いいんかい幹部かんぶかい[注釈ちゅうしゃく 19]
最高さいこう行政ぎょうせい機関きかん 人民じんみん委員いいん会議かいぎ 人民じんみん委員いいん会議かいぎ[85]

閣僚かくりょう会議かいぎ[86]

閣僚かくりょうないかくロシアばん

いちとう独裁どくさいせい

編集へんしゅう
 
1982ねんソビエト連邦れんぽう最高さいこう会議かいぎ議事堂ぎじどうだいクレムリン宮殿きゅうでん

ソビエト連邦れんぽう複数ふくすうのソビエト共和きょうわこくから成立せいりつする連邦れんぽう国家こっかとして誕生たんじょうした国家こっか連邦れんぽうであったが、実態じったいとして中央ちゅうおう集権しゅうけん様相ようそうていすることとなり、一連いちれん改革かいかく終盤しゅうばん1990ねんまではソビエト連邦れんぽう共産党きょうさんとうによるいちとう独裁どくさい国家こっかであった。

間接かんせつ代表だいひょうせい拒否きょひし、労働ろうどうしゃ組織そしきソビエト」(協議きょうぎかい評議ひょうぎかい)がかく職場しょくば最下位さいかい単位たんいから最高さいこう議決ぎけつ単位たんい最高さいこう会議かいぎ)まで組織そしきされることで国家こっか構成こうせいされていた。

ただし、こうしたソビエト制度せいど有効ゆうこう機能きのうした期間きかんはほとんどないにひとしく、実際じっさいにはソビエトの最小さいしょう単位たんいから最高さいこう単位たんいまですべてに浸透しんとうした私的してき組織そしき国家こっか組織そしき)であるソビエト連邦れんぽう共産党きょうさんとうがすべてのソビエトを支配しはいしており、事実じじつじょういちとう独裁どくさいせい国家こっかとなっていた(ただし、ロシア革命かくめい直後ちょくごのレーニン時代じだい初期しょきとゴルバチョフ時代じだい複数ふくすう政党せいとうせいであった)。こうしたとうによる国家こっかかく単位たんい把握はあくおよびそのじゅう権力けんりょく体制たいせいはしばしば「とう-国家こっか体制たいせい」とばれている。

この細胞さいぼうめぐらせる民主みんしゅ集中しゅうちゅうせい計画けいかく経済けいざい基礎きそとするいわゆるソ連それんがた社会しゃかい主義しゅぎばれる体制たいせいは、アパラチキ(「器官きかん」の)による抑圧よくあつてき体制たいせいであり、言論げんろんなどの表現ひょうげん集会しゅうかい結社けっしゃ自由じゆう事実じじつじょう存在そんざいしなかった。指導しどうしゃ選出せんしゅつのためのノーメンクラトゥーラ制度せいど縁故えんこ主義しゅぎ温床おんしょうとなり、あらたな階級かいきゅうした。一般いっぱん労働ろうどうしゃ農民のうみんにとっては支配しはいしゃロマノフあさ皇帝こうていから共産党きょうさんとうわっただけで、政治せいじてきにはなん解放かいほうもされておらず、むしろロマノフあさ時代じだいより抑圧よくあつてき民主みんしゅてきいちとう独裁どくさい体制たいせいであった。そのため実質じっしつてき最高さいこう指導しどうしゃであるソビエト連邦れんぽう共産党きょうさんとう書記しょきちょうは「赤色あかいろ皇帝こうてい」(あか共産きょうさん主義しゅぎあらわいろ)ともばれる。

スターリン時代じだいからゴルバチョフが大統領だいとうりょうせい導入どうにゅうするまで、名目めいもくじょう国家こっか元首げんしゅ最高さいこう会議かいぎ幹部かんぶかい議長ぎちょうであったが、実権じっけんソビエト連邦れんぽう共産党きょうさんとう書記しょきちょうにぎっていた。

ブレジネフ以降いこう共産党きょうさんとう書記しょきちょう最高さいこう会議かいぎ幹部かんぶかい議長ぎちょう兼務けんむするようになったが、最高さいこう会議かいぎ幹部かんぶかい議長ぎちょう権限けんげん儀礼ぎれいてき名誉めいよてきなものであり、かれらの権力けんりょく源泉げんせん支配しはい政党せいとうである共産党きょうさんとう書記しょきちょうしょくであった。

ソビエト連邦れんぽう指導しどうしゃ

編集へんしゅう
国家こっか元首げんしゅ 政府せいふちょう首相しゅしょう
中央ちゅうおう執行しっこう委員いいんかい幹部かんぶかい共同きょうどう議長ぎちょう

最高さいこう会議かいぎ幹部かんぶかい議長ぎちょう

  1. ミハイル・カリーニン(1938ねん1がつ17にち - 1946ねん3月19にち
  2. ニコライ・シュヴェルニク(1946ねん3がつ19にち - 1953ねん3月15にち
  3. クリメント・ヴォロシーロフ(1953ねん3がつ15にち - 1960ねん5月7にち
  4. レオニード・ブレジネフ(1960ねん5がつ7にち - 1964ねん7がつ15にち
  5. アナスタス・ミコヤン(1964ねん7がつ15にち - 1965ねん12月9にち
  6. ニコライ・ポドゴルヌイ(1965ねん12月9にち - 1977ねん6月16にち
  7. レオニード・ブレジネフ(1977ねん6がつ16にち - 1982ねん11月10にち
  8. ヴァシリー・クズネツォフ(1982ねん11がつ10日とおか - 1983ねん6月16にち
  9. ユーリ・アンドロポフ(1983ねん6がつ16にち - 1984ねん2がつ9にち
  10. ヴァシリー・クズネツォフ(1984ねん2がつ9にち - 1984ねん4がつ11にち
  11. コンスタンティン・チェルネンコ(1984ねん4がつ11にち - 1985ねん3がつ10日とおか
  12. ヴァシリー・クズネツォフ(1985ねん3がつ10日とおか - 1985ねん7がつ2にち
  13. アンドレイ・グロムイコ(1985ねん7がつ2にち - 1988ねん10月1にち
  14. ミハイル・ゴルバチョフ(1988ねん10がつ1にち - 1989ねん5月25にち

最高さいこう会議かいぎ議長ぎちょう

  • ミハイル・ゴルバチョフ(1989ねん5がつ25にち - 1990ねん3がつ15にち

連邦れんぽう大統領だいとうりょう

  • ミハイル・ゴルバチョフ(1990ねん3がつ15にち - 1991ねん12月25にち
人民じんみん委員いいん会議かいぎ議長ぎちょう
  1. ウラジーミル・レーニン(1922ねん - 1924ねん
  2. アレクセイ・ルイコフ(1924ねん - 1930ねん
  3. ヴャチェスラフ・モロトフ(1930ねん - 1941ねん
  4. ヨシフ・スターリン(1941ねん - 1953ねん

閣僚かくりょう会議かいぎ議長ぎちょう

  1. ゲオルギー・マレンコフ(1953ねん - 1955ねん
  2. ニコライ・ブルガーニン(1955ねん - 1958ねん
  3. ニキータ・フルシチョフ(1958ねん - 1964ねん
  4. アレクセイ・コスイギン(1964ねん - 1980ねん
  5. ニコライ・チーホノフ(1980ねん - 1985ねん
  6. ニコライ・ルイシコフ(1985ねん - 1991ねん

閣僚かくりょうないかく議長ぎちょう

  1. ヴァレンチン・パヴロフ(1991ねん

国民こくみん経済けいざい管理かんり委員いいんかい委員いいんちょう

  1. イワン・シラーエフ(1991ねん

ソビエト連邦れんぽう指導しどうしゃというのは、その政権せいけん当時とうじソ連それん内政ないせい、そしてその政権せいけん特異とくい象徴しょうちょうするように、その地位ちい名称めいしょう幾多いくたとなく変更へんこうされた。1922ねん結成けっせいから解体かいたいまでの1991ねんまでの69年間ねんかん一貫いっかんして存続そんぞくした最高さいこうしょくというのは存在そんざいせず、ソ連それん最高さいこう指導しどうしゃ代名詞だいめいし相応ふさわしい書記しょきちょうというのも、初代しょだい最高さいこう指導しどうしゃであるレーニンはこの書記しょきちょうしょくいたことが名実めいじつともになく、ましてやこの書記しょきちょうという役職やくしょくは、ソビエト連邦れんぽうという国家こっかにおけるしょくではなく共産党きょうさんとうといういち政党せいとう役職やくしょくぎなかったのである。このように、ソビエト連邦れんぽう歴史れきしでは一貫いっかんして明確めいかく最高さいこう指導しどうしゃといえる役職やくしょく存在そんざいせず、その区別くべつというのは様々さまざま論争ろんそうぶが、ほん記事きじでは一般いっぱん通用つうようされる指導しどうしゃのみを列挙れっきょしていく。

ウラジーミル・レーニン

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ウラジミール・レーニン

ロシア革命かくめい指導しどうし、一般いっぱんてきにソビエト連邦れんぽう建国けんこくしゃとしてられるウラジーミル・レーニンは、1870ねん4がつ22にち誕生たんじょうした。本名ほんみょうウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフВлади́мир Ильи́ч Улья́нов)であり、レーニン(Ленин)というは150をえるペンネームのひとつにぎない。なお、レーニンの由来ゆらいさだかではく、レナがわから由来ゆらいするというせつや、ロシアで「なまもの」を意味いみするレニーヴィ(Ленивцын)からというせつなどがある[87]。そんなレーニンは、カルムイクけいちちイリヤに、ドイツスウェーデンはいははマリアとのあいだまれた。

皇帝こうてい暗殺あんさつ計画けいかく関与かんよしたあにアレクサンドルが処刑しょけいされたことを契機けいき革命かくめい思想しそう傾倒けいとうし、学生がくせい運動うんどうへの参加さんかなど、積極せっきょくてき活動かつどうおこなった。レーニンが在学ざいがくしていたカザン大学だいがくからは放校ほうこうされ、1897ねんには扇動せんどうざい逮捕たいほされる。逮捕たいほ、レーニンはシベリアにおくられるが、のちにレーニンのつまとなるナデジダ・クルプスカヤとはここで出会であう。刑期けいきえたのちにレーニンは西欧せいおう拠点きょてんき、ロシア社会民主労働党しゃかいみんしゅろうどうとう幹部かんぶとして頭角とうかくあらわはじめる[注釈ちゅうしゃく 20]

ロシア革命かくめいほうきつけロシアに帰国きこくしたレーニンはボリシェヴィキを指導しどうし、ブレスト=リトフスク条約じょうやく締結ていけつ反対はんたい排除はいじょのための赤色あかいろテロ国際こくさいてき共産きょうさん主義しゅぎ枠組わくぐみであるコミンテルン創設そうせつなど、世界せかい左右さゆうする出来事できごと関与かんよした。ロシア内戦ないせん赤軍せきぐん勝利しょうりしたのち、レーニンは西欧せいおうへの革命かくめい波及はきゅうこころみたが、失敗しっぱいわり、また、どう時期じきのロシアで発生はっせいしただい飢饉ききんからの反発はんぱつへの妥協だきょうとしてしん経済けいざい政策せいさく(ネップ)への転換てんかんすすめ、経済けいざい戦前せんぜん水準すいじゅんまでに回復かいふくすることとなった。

1920年代ねんだいはいると、レーニンの身体しんたいはあらゆる部分ぶぶん悪化あっかしはじめ、療養りょうようのために職務しょくむからはなれることがえたが、病状びょうじょう悪化あっかするなかでもレーニンはソビエト連邦れんぽうソ連それん)の構想こうそうへの意見いけん交換こうかんなど、政治せいじへの関与かんよよわめることはなく、グルジア問題もんだいめぐってはスターリン公論こうろんまでに発展はってんするなど、とても病人びょうにんとはおもわせないようないを側近そっきんにみせた。1923ねんに3度目どめ脳卒中のうそっちゅうこすと、もはやまともな意思いし疎通そつう不可能ふかのうとなり、1924ねん1がつ21にち、54さい死去しきょ遺体いたい防腐ぼうふ処理しょりほどこしたうえレーニンびょう安置あんちされる。

ヨシフ・スターリン

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ヨシフ・スターリン

本名ほんみょうヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ。1878ねん12月18にちグルジア(ジョージア)ゴリまれる。ちちヴィッサリオン・ジュガシヴィリはゴリに工房こうぼうかまえるグルジアくつ職人しょくにんははケテワン・ゲラーゼは、レンガ職人しょくにんむすめであり、とも農奴のうど家系かけい出身しゅっしんであった[88][89]まれ故郷こきょうゴリは、周辺しゅうへんほか都市としくらべて治安ちあんわる地域ちいきであったが[90]ちちヴィッサリオンはくつ職人しょくにんとして成功せいこうおさめており、一時いちじじゅうすうにん従業じゅうぎょういんやとうほどの経済けいざいてき余裕よゆうがあった[91]。しかし事業じぎょうづまりをはじ[92]次第しだいさけ心身しんしん支配しはいされるようになったちちヴィッサリオンは、つまおさな息子むすこ(スターリン)への暴力ぼうりょく日常にちじょうてきるうようになる[91][93]

ははケテワンはスターリンをれ、1886ねん、ある司祭しさいいえ居候いそうろうはじめる[94]。また、ははケテワンは、息子むすこスターリンに学校がっこう教育きょういくけさせることをつよ熱望ねつぼうしていたという[95]。その司祭しさいはからいによりゴリの教会きょうかい付属ふぞく学校がっこう入学にゅうがくゆるされたスターリンは、同級生どうきゅうせいたちと頻繁ひんぱんあらそいながらも学業がくぎょうめんではきわめて優秀ゆうしゅう成績せいせきのこした[96][97]一方いっぽうで、幼少ようしょうのスターリンは病気びょうき怪我けがくるしめられ1884ねんには天然痘てんねんとう罹患りかんし、いのちたすかったものの顔面がんめん皮膚ひふには一生いっしょう目立めだ痘痕いものこした。

首都しゅとトビリシ神学校しんがっこう入学にゅうがくしたスターリンは[98]、ここでも優秀ゆうしゅう成績せいせきおさめたが、いつしか神学しんがくたいする興味きょうみうしない、成績せいせきがっていった。このころにはカール・マルクス著作ちょさくである『資本しほんろん』に影響えいきょうされ[99]熱心ねっしんマルクス主義まるくすしゅぎものとなったとされており[100]、スターリンがみずからをかみろんしゃだと宣言せんげんしていた時期じきかさなることから、ここでの生活せいかつかれなんらしらの影響えいきょうおよぼし、活動かつどうみちこころざすようになったとおもわれる。結局けっきょくスターリンは、トビリシ神学校しんがっこうり、もどることはなかった[101]

ニキータ・フルシチョフ

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ニキータ・フルシチョフ

1894ねん4がつ17にちまれる。炭鉱たんこう労働ろうどうしゃ農民のうみんとのであったフルシチョフは、幼少ようしょうより十分じゅうぶん教育きょういくけることができなかった。ロシア革命かくめい以前いぜんより労働ろうどう運動うんどう参加さんかしたことがけとなり、1918ねんにロシア共産党きょうさんとう入党にゅうとう内戦ないせんちゅう赤軍せきぐん政治せいじ委員いいんとして参加さんかし、1921ねん帰郷ききょう

1925ねん、ユゾフカのペトロフスコ・マリインスク地区ちくとう書記しょき就任しゅうにんして以後いごとう活動かつどう専従せんじゅうすることとなる。現地げんち広範こうはん知識ちしき台頭たいとうし、ヨシフ・スターリン側近そっきんであったカガノーヴィチ注目ちゅうもくされることになる。1931ねんにモスクワとう専従せんじゅうとなり、モスクワ地下鉄ちかてつ建設けんせつ指揮しきする。この功績こうせきがスターリンのまり、1934ねん1がつだい17かいソ連それん共産党きょうさんとう大会たいかい中央ちゅうおう委員いいん選出せんしゅつされ、翌年よくねん1935ねん3がつにはモスクワとうだいいち書記しょきとなる。1938ねん4がつ政治せいじ局員きょくいん候補こうほとなり、粛清しゅくせいされたスタニスラフ・コシオール後任こうにんとして、ウクライナ共産党きょうさんとうだいいち書記しょきとなった。1939ねん3がつだい18かいとう大会たいかい政治せいじ局員きょくいん昇格しょうかくする。

スターリンの死後しご共産党きょうさんとうないではスターリンの後任こうにんとしてフルシチョフ、マレンコフベリヤ注目ちゅうもくされることになった。ただ、マレンコフはあまりにも人気にんきがあまりなく、フルシチョフとの協力きょうりょく関係かんけいをきずきあげる。党内とうないベリヤへの攻勢こうせい仕掛しかけ、処刑しょけいまでにむと、9月にだいいち書記しょきへと就任しゅうにん。1957ねんには中央ちゅうおう委員いいんかい幹部かんぶかいにていち解任かいにんまるも中央ちゅうおう委員いいんかい総会そうかいによって見送みおくりとなった。

しかし、7ねんの1964ねんレオニード・ブレジネフらはフルシチョフの確実かくじつ解任かいにん目途もくとみ、これはフルシチョフの自発じはつてき辞任じにんによってこうおさめる。だいいち書記しょき就任しゅうにんちゅうスターリン批判ひはん皮切かわきりとした内政ないせい改革かいかく推進すいしん外交がいこうでのキューバ危機ききこすなど、とても感情かんじょうてき人物じんぶつであったとされる。また、フルシチョフの時期じきにはスプートニク1ごうげを成功せいこうさせるなど、まさにソビエト連邦れんぽう黄金おうごんであった。

引退いんたいのフルシチョフはダーチャ別荘べっそう)での生活せいかつなかいられた。ダーチャのいたるところに盗聴とうちょう仕掛しかけられており、生活せいかつはKGBが把握はあくくだしていたため、実質じっしつじょう軟禁なんきん状態じょうたいにあり、回想かいそうろく出版しゅっぱんでは、当局とうきょく妨害ぼうがいけつつもこれを実現じつげんさせた。7年間ねんかん年金ねんきん生活せいかつのち、1971ねん9がつ11にちモスクワ病院びょういん死去しきょした。

レオニード・ブレジネフ

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レオニード・ブレジネフ

1906ねん12月19にちロシア帝国ていこくエカテリノスラフけんカメンスコエ現在げんざいウクライナカーミヤンシケ)でまれた。ちちイリヤは祖父そふだい以来いらい金属きんぞく工場こうじょう労働ろうどうしゃであり、レオニードも15さい製鉄せいてつしょ勤務きんむする。1921ねん一家いっかクルスク転居てんきょ1923ねんにはコムソモールくわわる。1924ねんから1927ねんまでクルスクの職業しょくぎょう技術ぎじゅつ学校がっこうまなび、初級しょきゅう農業のうぎょう技師ぎしとなって土壌どじょう改良かいりょう業務ぎょうむく。1930ねんまれ故郷こきょうカメンスコエにもどり、1931ねん10がつ共産党きょうさんとう入党にゅうとうした。入党にゅうとう冶金やきん大学だいがく在学ざいがくし、1935ねん5月に卒業そつぎょうしてひがしウクライナの製鉄せいてつしょ技師ぎしになった。

同年どうねん10がつ赤軍せきぐん入隊にゅうたいし、戦車せんしゃ訓練くんれんこう修了しゅうりょうすると戦車せんしゃ部隊ぶたい政治せいじ委員いいんとなった。1936ねんすえにはドニエプロジェルジンスク冶金やきん大学だいがく校長こうちょうになった。1937ねんウクライナ共産党きょうさんとう幹部かんぶ、モルダヴィア(モルダヴィア・ソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこくげんモルドバとう委員いいんかいだいいち書記しょき1939ねん5月にドニエプロペトロフスクしゅうとう委員いいんかい書記しょきになり、防衛ぼうえい産業さんぎょう組織そしきおこなった。

だい祖国そこく戦争せんそうでは、ブレジネフのドニエプロペトロフスクは8がつ26にちにドイツぐんちるも、ブレジネフらの努力どりょくによって産業さんぎょう疎開そかいさせたことにより壊滅かいめつ惨状さんじょうまぬかれた。1943ねん4がつだい18ぐん政治せいじ部長ぶちょう、1945ねん5がつ時点じてんだい4ウクライナ方面ほうめんぐん政治せいじ指導しどう部長ぶちょうとしてプラハ入城にゅうじょう1946ねん8がつ、ブレジネフは少将しょうしょう階級かいきゅう赤軍せきぐん退役たいえき

1950ねん3がつ最高さいこう会議かいぎ代議員だいぎいん選出せんしゅつされ、6がつ、モルダヴィア共産党きょうさんとう中央ちゅうおう委員いいんかいだいいち書記しょき就任しゅうにんし、1952ねん10月に共産党きょうさんとう中央ちゅうおう委員いいんかいおよ最高さいこう会議かいぎ幹部かんぶ会議かいぎいんとなった。1953ねん3がつとう幹部かんぶかい廃止はいしされ、よりちいさな政治せいじきょくさい構成こうせいされると、政治せいじ局員きょくいんにこそならなかったが、そのわりに中将ちゅうじょう階級かいきゅうともソ連それんぐん政治せいじそう局長きょくちょうだいいち代理だいり任命にんめいされた。1954ねんカザフ共産党きょうさんとう中央ちゅうおう委員いいんかいだい書記しょきとなり、1955ねん5月にカザフ共産党きょうさんとう中央ちゅうおう委員いいんかいだいいち書記しょきとして、カザフ・ソビエト共和きょうわこく開拓かいたく事業じぎょう指導しどうした。1956ねん2がつモスクワもどされ、共産党きょうさんとう中央ちゅうおう委員いいんかい政治せいじ局員きょくいん候補こうほけん書記しょきとして防衛ぼうえい産業さんぎょう宇宙うちゅう重工業じゅうこうぎょうおよ首都しゅと建設けんせつ指揮しきする。

1960ねん5月には最高さいこう会議かいぎ幹部かんぶかい議長ぎちょう就任しゅうにんし、名目めいもくとしての国家こっか元首げんしゅとなった。そして1964ねん10がつ、フルシチョフの失脚しっきゃくによってだいいち書記しょき就任しゅうにん1966ねん4がつにはだいいち書記しょきをスターリンの肩書かたがきであった書記しょきちょうへと改称かいしょうし、フルシチョフとはぎゃくみちすすむ。1970年代ねんだい経済けいざい停滞ていたい書記しょきちょうであったブレジネフの国内こくないてき権力けんりょくは、次第しだい虚栄きょえいあらわす。1982ねん11月死去しきょ

ユーリ・アンドロポフ

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ユーリ・アンドロポフ

1914ねん6がつ15にちスタヴロポリしゅうまれる。鉄道てつどう職員しょくいんちちをもち、16さいよりコムソモール参加さんか[102][103]。そのしょく転々てんてんとし、1932ねんルイビンスク水上すいじょう輸送ゆそう技術ぎじゅつ専門せんもん学校がっこう入学にゅうがく卒業そつぎょうの1936ねんにはどう都市としにおかれた造船ぞうせん所内しょないのコムソモール専従せんじゅう書記しょきとなり、このころKGB所属しょぞくした。1938ねんまでにヤロスラヴリしゅうとう委員いいんかいのコムソモールだいいち書記しょき昇進しょうしんし、1939ねんソ連それん共産党きょうさんとう入党にゅうとう。1940ねんには、カレロ=フィン・ソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこくだいいち書記しょきとなる。なぜここまでの出世しゅっせげたかについては、当時とうじだい粛清しゅくせい影響えいきょうされているとかんがえられており、戦後せんごにはだい書記しょき降格こうかくとなった。しかし、同地どうちソ連それんすすめたことが評価ひょうかされ、1951ねんとう中央ちゅうおう委員いいんかい転属てんぞくする。1953ねんちゅうハンガリー参事官さんじかん翌年よくねんアンドロポフは同国どうこく大使たいし昇進しょうしんする。一見いっけん順調じゅんちょうえるアンドロポフのキャリアであるが、中央ちゅうおう委員いいんかいざいぞくしたもの大使館たいしかん配属はいぞくというのは、ほとんどの場合ばあい出世しゅっせみちざされることを意味いみした。しかしアンドロポフがハンガリー赴任ふにんすることになったのは、当時とうじニキータ・フルシチョフだいいち書記しょき書記しょきちょう)がだつスターリン政策せいさく一環いっかんとして党員とういん配置はいち転換てんかんおこなっており、それにえをけたためである。

1967ねん5がつKGB議長ぎちょう就任しゅうにんどう時期じき政治せいじ局員きょくいん候補こうほへと選出せんしゅつされる。秘密ひみつ警察けいさつ組織そしきであるKGBのちょう政治せいじ局員きょくいん候補こうほ選出せんしゅつされるのは、スターリン政権せいけん手腕しゅわんるったラヴレンチー・ベリヤ以来いらいとなり、これには西側にしがわには激震げきしんはしった。KGB議長ぎちょうというのは軍人ぐんじんという名目めいもくかれるため、その階級かいきゅう上級じょうきゅう大将たいしょうであったが、書記しょきちょうになることを見据みすえたアンドロポフは必要ひつよう以外いがい軍服ぐんぷく着用ちゃくようすることは滅多めったになく、精力せいりょくてき活動かつどうした。就任しゅうにんすうひゃくにんもの外国がいこくじんをKGBのネットワークにみ、1まんけん以上いじょう技術ぎじゅつ情報じょうほうソ連それん中央ちゅうおう提供ていきょうするなどの成果せいかげ、また、このころソ連それん横行おうこうしていた汚職おしょく賄賂わいろ徹底的てっていてき対処たいしょすることを決意けついし、1969ねん、ブレジネフの意向いこうまずKGB職員しょくいんヘイダル・アリエフをアゼルバイジャン共産党きょうさんとう中央ちゅうおう委員いいんかいだいいち書記しょき任命にんめいする。そのもアンドロポフは、KGBというみゃくをあらゆる手段しゅだん駆使くしし、レニングラードしゅうだいいち書記しょき、グルジアだいいち書記しょき解任かいにんいやり、ブレジネフの周辺しゅうへんにも手加減てかげんをかけなかった。このソ連それん全土ぜんどでの汚職おしょく摘発てきはつにはゴルバチョフすらも関与かんよしており、クラスノダール地区ちく書記しょきでありブレジネフの旧友きゅうゆうであったメドノフは、このゴルバチョフの手柄てがらによって処分しょぶんされた。

1982ねん11月には、ブレジネフの死去しきょともな書記しょきちょう就任しゅうにん今後こんご改革かいかく約束やくそくし、内政ないせいめんでは労働ろうどう規律きりつ強化きょうか汚職おしょく摘発てきはつなど、多種たしゅにわたってブレジネフ時代じだい弊害へいがいのぞこうと躍起やっきになった。しかし外交がいこうめんでは、デタント崩壊ほうかい大韓航空だいかんこうくう撃墜げきつい事件じけんなど、ブレジネフ政権せいけん以上いじょう緊張きんちょうふかめさせた。かねて健康けんこうがすぐれなかったアンドロポフだが、書記しょきちょう就任しゅうにんしてからはより一層いっそう多忙たぼうによって悪化あっかきわめた。フィンランド大統領だいとうりょうマウノ・コイヴィストとの接見せっけんでは、通常つうじょう接見せっけん会場かいじょうである空港くうこうではおこなわれずクレムリンでおこなわれ、このときのアンドロポフはボディーガードにりょううでささえられているようであった。こうして、アンドロポフは姿すがたせないまま、腎不全じんふぜんにより1984ねん2がつ9にち死去しきょ

コンスタンティン・チェルネンコ

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コンスタンティン・チェルネンコ

1911ねん9月24にちクラスノヤルスクにてまれる。鉱山こうざん労働ろうどう従事じゅうじするちち農作業のうさぎょうはたらははとのあいだにまれた[104]チェルネンコは、幼少ようしょうより積極せっきょくてきはたらき、1930ねんには赤軍せきぐん入隊にゅうたいソ連それん中華民国ちゅうかみんこく国境警備隊こっきょうけいびたい配属はいぞくされる。

1931ねんソビエト連邦れんぽう共産党きょうさんとうへの入党にゅうとうたし、ぐん除隊じょたいしたのちはクラスノヤルスク地方ちほうとう宣伝せんでんふく部長ぶちょうとなる。だい世界せかい大戦たいせんなかにクラスノヤルスク地方ちほうとう書記しょきつとめ、それと同時どうじにモルドバのキシニョフ教育きょういく大学だいがく卒業そつぎょう1945ねんペンザしゅうとう委員いいんかい書記しょきて、1948ねんにモルダビア共産党きょうさんとう中央ちゅうおう委員いいんかい宣伝せんでん扇動せんどう部長ぶちょうとなる。当時とうじモルダビアだいいち書記しょきつとめていたレオニード・ブレジネフとは、このころ親交しんこうふかめたとされる。

モスクワへの階段かいだんがるブレジネフと並列へいれつして、チェルネンコもまたブレジネフの右腕うわんとして昇進しょうしんつづけた。1960ねんにブレジネフはチェルネンコを首席しゅせき補佐ほさかん任命にんめいし、ブレジネフがだいいち書記しょき就任しゅうにんした翌年よくねん1965ねんには、ソ連それん共産党きょうさんとう総務そうむ部長ぶちょうへの就任しゅうにんまり、そのもチェルネンコは、1971ねん中央ちゅうおう委員いいんかい委員いいん1976ねん中央ちゅうおう委員いいんかい書記しょき1977ねん政治せいじ局員きょくいん候補こうほ就任しゅうにんし、1978ねんには政治せいじ局員きょくいん抜擢ばってきされる。チェルネンコはブレジネフの右腕うわんとしてい、1982ねんにブレジネフが死去しきょするまで、かれのすべてをかばつづけた。ブレジネフ逝去せいきょほうつたわってすぐに開会かいかいされた中央ちゅうおう委員いいんかいでチェルネンコは、アンドロポフにたいし、チェルネンコがアンドロポフを書記しょきちょう推薦すいせんすることをえに、アンドロポフはチェルネンコをだい書記しょき任命にんめいすることをちかけ、見事みごとチェルネンコはだい書記しょきとしてアンドロポフ政権せいけん始動しどう見守みまもった。

1984ねん2がつにアンドロポフが死去しきょするにあたりあらたに書記しょきちょう就任しゅうにんしたチェルネンコは、やまいおかされ、書記しょきちょう就任しゅうにんからの数ヶ月すうかげつ最後さいご書記しょきちょう職務しょくむ満足まんぞくできずにいた。そして1985ねん3がつ、チェルネンコはなが闘病とうびょうすえ、73さい死去しきょするのであった。書記しょきちょう在任ざいにんした期間きかんはおよそ1ねんであり、もっと短命たんめいソ連それん政権せいけんであった。しかしチェルネンコの1ねんは、冷戦れいせん激化げきかによる軍事ぐんじ増大ぞうだい西側にしがわ諸国しょこくけた1984ねんロサンゼルスオリンピックへの報復ほうふくてきボイコットなど、今日きょうられる事象じしょうおこなわれた時期じきでもあった。

ミハイル・ゴルバチョフ

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ミハイル・ゴルバチョフ

最後さいごソ連それん最高さいこう指導しどうしゃとしてほこるミハイル・ゴルバチョフは1931ねん3月2にちスタヴロポリ地方ちほうまずしい家庭かていせいけた[105]ヨシフ・スターリンだい粛清しゅくせい旋風せんぷうれる幼少ようしょう時代じだいごし、少年しょうねんには集団しゅうだん農場のうじょうにおいてその功績こうせき当局とうきょくによって評価ひょうかされ、1950ねんには当局とうきょく推薦すいせんのもとソ連それん学術がくじゅつかい権威けんいモスクワ大学だいがくへと入学にゅうがくした。在学ざいがくちゅうの1952ねんにはソビエト連邦れんぽう共産党きょうさんとう入党にゅうとうし、1970ねんスタヴロポリ地方ちほうとう委員いいんかいだいいち書記しょき就任しゅうにんする。

だいいち書記しょき時代じだいのゴルバチョフは、スタヴロポリだい運河うんが建設けんせつ指揮しきするなど、後年こうねん指導しどうしゃ時代じだい彷彿ほうふつとさせる積極せっきょくぶりを発揮はっきした。1978ねん、チェルネンコによって農業のうぎょう担当たんとうとしてとう中央ちゅうおう委員いいんかい書記しょき抜擢ばってきされ、2ねんの1980ねんにはとう政治せいじ局員きょくいんとなる。18ねん長期ちょうき政権せいけんをきずきあげたレオニード・ブレジネフあとユーリ・アンドロポフコンスタンティン・チェルネンコ時代じだいて、1985ねん、ついに共産党きょうさんとう書記しょきちょうへとのぼめた。このとき55さいのゴルバチョフは、前任ぜんにんの3にんとはまるで対照たいしょうてき活動かつどうすることとなる。

1986ねん11月にひらかれたソ連それん共産党きょうさんとう大会たいかいさかいに、ゴルバチョフはソ連それんのその閉鎖へいさてき体制たいせい根本こんぽんから見直みなおしにうごはじめ、それぞれ「なおし」「情報じょうほう公開こうかい」を意味いみするペレストロイカグラスノスチ提唱ていしょうした。また外交がいこうではしん冷戦れいせん以降いこう悪化あっかした西側にしがわ諸国しょこくとの関係かんけい改善かいぜんちゅう対立たいりつ解消かいしょう日本にっぽんとの領土りょうど問題もんだい協議きょうぎすすめ、その成果せいかとしてベルリンのかべ崩壊ほうかい冷戦れいせん終結しゅうけつ宣言せんげん[注釈ちゅうしゃく 21]があげられる。

1990ねん新設しんせつのソビエト連邦れんぽう大統領だいとうりょう就任しゅうにんし、低下ていかしつつあった求心力きゅうしんりょくもどそうとこころみるが、当時とうじソ連それん各地かくち混乱こんらんおさえることは失敗しっぱいわり、保守ほしゅらのこした1991ねん8がつクーデター失敗しっぱい、ゴルバチョフの権威けんいはもはや存在そんざいしないようなもだった。1991ねん12月の独立どくりつ国家こっか共同きょうどうたい創設そうせつ同時どうじソ連邦それんぽう大統領だいとうりょう辞任じにん、これと同時どうじにソビエト連邦れんぽう消滅しょうめつした。

大統領だいとうりょう辞任じにんはそのままロシアにみ、政治せいじ活動かつどう専念せんねんした時期じきはあるものの、全体ぜんたいとして熱心ねっしん政治せいじ活動かつどうおこなうことはなかった。そのわり、ちょう大国たいこく最後さいご指導しどうしゃとして世界せかい各国かっこく、とりわけ西側にしがわ諸国しょこくでの講演こうえんやインタビューなどにおうじ、緊迫きんぱくする国際こくさい情勢じょうせいや、長期ちょうきてき政権せいけんすプーチン政権せいけんへの意見いけんもとめられた。2022ねん8がつ30にちモスクワにて死去しきょ歴代れきだいソ連それん最高さいこう指導しどうしゃなかではさい長寿ちょうじゅの91さいであった。

司法しほう裁判さいばん

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建国けんこくしゃのレーニンは秘密ひみつ警察けいさつチェーカー設立せつりつし、即座そくざ容疑ようぎしゃ逮捕たいほ投獄とうごく処刑しょけいなどをおこな権限けんげんあたえられ、これが粛清しゅくせいがねとなった。チェーカーは建前たてまえじょうとう所属しょぞくするものとされていたが、実際じっさいにはレーニン個人こじん直属ちょくぞくであったといっても過言かごんではない。チェーカーの無差別むさべつ処刑しょけいは、はん体制たいせいはともかく無関係むかんけいものまでも日常にちじょうてき処刑しょけいしており、ときには罪状ざいじょうをでっちげてまで処刑しょけいしていた。レーニンは「ニコライれているのだから裁判さいばん必要ひつようない」という理由りゆう皇帝こうてい一家いっかともども処刑しょけいおこなうなどほうたいする姿勢しせいがずさんであったために、歴史れきしドミトリー・ヴォルコゴーノフは「ボリシェビキがほうまもるふりさえしなくなった」契機けいきだと批判ひはんした。

スターリン時代じだいには密告みっこく奨励しょうれいされるなど、警察けいさつ国家こっか全体ぜんたい主義しゅぎ国家こっかとしての色合いろあいがつよくなった。モスクワ裁判さいばんなど形式けいしきてき裁判さいばんによりおおくの人々ひとびと有罪ゆうざい判決はんけつをいいわたされ、処刑しょけいされるか各地かくち強制きょうせい収容しゅうようしょおくられることになった。スターリンは、トロツキーキーロフなどの政敵せいてきたちや党内とうない反対はんたいころすためにチェーカーを改名かいめいしたGPU(ゲーペーウー)をもちいた。

スターリン批判ひはんには、このような抑圧よくあつてきなシステムはいくふん緩和かんわされることになったが、秘密ひみつ警察けいさつのGPUが改編かいへんされたKGBとして存続そんぞく国民こくみん生活せいかつつよかんする体制たいせいのこった。

外交がいこう関係かんけい

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概要がいよう

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あか社会しゃかい主義しゅぎこくうすあかはその影響えいきょうにあるくに

外交がいこう関係かんけいでは、東側ひがしがわ社会しゃかい主義しゅぎ陣営じんえいワルシャワ条約じょうやく機構きこう)の盟主めいしゅとして、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく筆頭ひっとうとする西側にしがわ資本しほん主義しゅぎ陣営じんえい北大西洋きたたいせいよう条約じょうやく機構きこう)と対決たいけつしていた(いわゆる冷戦れいせん)。

成立せいりつ当初とうしょフランスイギリスアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくなど大国たいこく承認しょうにんられず孤立こりつしたうえ、シベリア出兵しゅっぺいひとしおこなわれ、またソビエト政府せいふバルトさんこく攻撃こうげきした。 そのモンゴルひがしトルキスタン衛星えいせいこくとした。このころからソ連それん各国かっこく承認しょうにんされていく。とくにアメリカはソ連それん経済けいざいへの介入かいにゅうをはかりいちはや承認しょうにんした。

だい世界せかい大戦たいせんはじめにはバルトさんこくやフィンランドにも侵攻しんこうした。どくせん侵攻しんこうしてきたドイツを撃退げきたい打倒だとうしただい世界せかい大戦たいせんに、ひがしドイツやチェコスロバキア、ブルガリアなどのひがしヨーロッパ諸国しょこく衛星えいせいこくさせた。さらにユーゴスラビア主導しゅどうする同盟どうめい諸国しょこくばれる中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくインドキューバエチオピアエジプトイラクシリアなどのいわゆるだいさん世界せかい友好ゆうこう協力きょうりょく条約じょうやくむすび、関係かんけいつ。

経済けいざい相互そうご援助えんじょ会議かいぎ(コメコン)ではメキシコモザンビーク、フィンランドといった社会しゃかい主義しゅぎ協力きょうりょくこくもあった。ひがしアジアベトナムラオス北朝鮮きたちょうせんなど)、中南米ちゅうなんべいチリニカラグアなど)、アフリカアンゴラリビアコンゴなど)などでも「民族みんぞく解放かいほう」「たん帝国ていこく主義しゅぎ」「植民しょくみん独立どくりつ」をとなえる共産きょうさん主義しゅぎ政権せいけん専制せんせい政治せいじおこなわれた政権せいけんもある)の成立せいりつ協力きょうりょくし、アメリカや西にしドイツ、イギリスやフランスなどの西にしヨーロッパ諸国しょこく日本にっぽんなどの資本しほん主義しゅぎこく対峙たいじした。

たい社会しゃかい主義しゅぎ陣営じんえい東側ひがしがわ

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中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく

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ソビエト連邦れんぽう軍事ぐんじ支援しえんにより、蔣介せきひきいる中国ちゅうごく国民党こくみんとう国民こくみん政府せいふ)との国共こっきょう内戦ないせん勝利しょうりした毛沢東もうたくとうひきいる中国共産党ちゅうごくきょうさんとうによって1949ねん建国けんこくされた中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくとは、当初とうしょこう一辺倒いっぺんとう」をかかちゅう友好ゆうこう同盟どうめい相互そうご援助えんじょ条約じょうやくにより同盟どうめい関係かんけいにあったが、1960年代ねんだい後半こうはんには領土りょうど問題もんだいによる軍事ぐんじ衝突しょうとつダマンスキーとう事件じけんなどのちゅう国境こっきょう紛争ふんそう)や指導しどうそう思想しそうてき相違そうい問題もんだいからちゅう対立たいりつ表面ひょうめんする。両国りょうこくあいだのこのような対立たいりつ関係かんけいはその中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくにおける事実じじつじょう内乱ないらんである文化ぶんかだい革命かくめい終結しゅうけつする1970年代ねんだい後半こうはんまでつづくことになる。

そのような対立たいりつ関係かんけいアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくは、ソ連それん牽制けんせいする意図いとで1970年代ねんだいはい急速きゅうそく中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく接近せっきんし、1979ねんには国交こっこう樹立じゅりつ一方いっぽう中華民国ちゅうかみんこくとは国交こっこう断絶だんぜつ)にいたることになる。一方いっぽう中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくもアメリカの接近せっきんこたえるかたちで、東側ひがしがわ陣営じんえいにもかかわらず当時とうじモスクワオリンピックのボイコットとロサンゼルスオリンピック参加さんかという、西側にしがわ歩調ほちょうわせる行動こうどうることとなる。カンボジア内戦ないせんアンゴラ内戦ないせんオガデン戦争せんそうなどのようにべいちゅうどもえとなる代理だいり戦争せんそう発生はっせいした。

そのは、独裁どくさい体制たいせいソ連それん対立たいりつしていた毛沢東もうたくとう死去しきょ文化ぶんかだい革命かくめい終焉しゅうえん、ゴルバチョフの訪中ほうちゅうといった要因よういんにより、ソ連それん中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく関係かんけいふたた改善かいぜんかった。

1959ねん1がつに、キューバ革命かくめいでアメリカの支援しえんけていた独裁どくさいしゃフルヘンシオ・バティスタ政権せいけんからきずりろしたフィデル・カストロは、当初とうしょべい両国りょうこくとのあいだ比較的ひかくてき中立ちゅうりつ立場たちばっていたものの、アメリカのドワイト・D・アイゼンハワー政権せいけんキューバ革命かくめいのち産業さんぎょう国営こくえいすすめたカストロを「社会しゃかい主義しゅぎしゃてき」と警戒けいかい距離きょりいた。同時どうじソ連それんが「アメリカの裏庭うらにわ」にあるキューバの最高さいこう指導しどうしゃとなったカストロに援助えんじょもうたことから両国りょうこくきゅう接近せっきんし、南北なんぼくアメリカ大陸あめりかたいりくにおける唯一ゆいいつソ連それん友好国ゆうこうこくとなる。

そのジョン・F・ケネディ政権せいけんでアメリカはキューバ侵攻しんこう画策かくさくし、1961ねんに「ピッグス湾ぴっぐすわん事件じけん」をこしたことから、カストロはアメリカのキューバ侵攻しんこうそなえてソ連それん武器ぶき供与きょうよ要求ようきゅうしはじめた。しかしソ連それん表立おもてだった武器ぶき供与きょうよはアメリカを刺激しげきしすぎるとかんがえ、キューバぐんへの武器ぶき提供ていきょうわりに軍事ぐんじ顧問こもんだんくほか、ソ連それんかくミサイルをキューバ国内こくない配備はいびする「アナディル作戦さくせん」を可決かけつし、1962ねんソ連それんせいかくミサイルをキューバに配備はいびした。しかし、このことを察知さっちしたアメリカは、海軍かいぐん艦艇かんていによりキューバ海域かいいき海上かいじょう封鎖ふうさし、キューバにちかづくソ連それん船舶せんぱくたいする臨検りんけんおこなうなど、キューバを舞台ぶたいにしたアメリカとの軍事ぐんじてき緊張きんちょうこした(いわゆるキューバ危機きき)。

そのソ連それんはその崩壊ほうかいまで、キューバにたいする軍事ぐんじてき支援しえんのみならず経済けいざいてき支援しえん活発かっぱつおこない、キューバの主要しゅよう産業さんぎょうであるサトウキビ破格はかく価格かかくり、その見返みかえりにキューバがその供給きょうきゅう完全かんぜん輸入ゆにゅうたよっている石油せきゆあたえるなどさまざまな支援しえんおこなつづけた。

たい資本しほん主義しゅぎ陣営じんえい西側にしがわ

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日本にっぽん

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帝政ていせいロシア時代じだいっていた南下なんか政策せいさくにより日本にっぽんやイギリスと衝突しょうとつし、イギリスとにちえい同盟どうめいむすんでいた日本にっぽんとのあいだにち戦争せんそうきて敗北はいぼくした。だいいち世界せかい大戦たいせんときボリシェヴィキ政権せいけん成立せいりつに、連合れんごうこくさんこく協商きょうしょう)を無視むししてたいどく単独たんどく講和こうわおこなったため、ドイツへい通過つうか許可きょかするのではないかとして、日本にっぽんおよび中華民国ちゅうかみんこく北京ぺきん政府せいふ)から警戒けいかいされることとなった(ささえ共同きょうどうぼうてき軍事ぐんじ協定きょうてい)。ドイツへ資源しげん供与きょうよするのではないかとして、イギリスおよびフランスからも警戒けいかいされ、両国りょうこくによってシベリア出兵しゅっぺい打診だしんされ、実際じっさい出兵しゅっぺいした日米にちべい直接ちょくせつ衝突しょうとつすることとなった。その連合れんごうこく擁護ようごする臨時りんじぜんロシア政府せいふかしたものの、そのときに日本にっぽんへと亡命ぼうめいしたしろけいロシアじんらによってはん宣伝せんでんひろめられた(反共はんきょう主義しゅぎ#歴史れきし)。

日本にっぽん帝国ていこく議会ぎかいは1922ねん政変せいへんけ、「露西亜ろしあ政変せいへん及ビ西にしとぎ事変じへんためリタルしゃとう救恤きゅうじゅつせきスル法律ほうりつ(ロシア政変せいへんおよびシベリア事変じへんためこうむりしたるしゃとう救恤きゅうじゅつかんする法律ほうりつ)」を成立せいりつさせ、ロシアとシベリアからの引揚しゃ国債こくさい現金げんきん支給しきゅうする措置そちをとった[106]救恤きゅうじゅつ(きゅうじゅつ)とは、金品きんぴんなどをあたえて救済きゅうさいするという意味いみである。

ソビエト連邦れんぽう成立せいりつ、コミンテルン支部しぶ中国共産党ちゅうごくきょうさんとうによってかんこう事件じけんこしたが、その反日はんにち運動うんどう停止ていしする方向ほうこううごいていた。しかし、ちゅう紛争ふんそう勝利しょうりに、中国共産党ちゅうごくきょうさんとうによって朝鮮ちょうせん共産党きょうさんとうたいまんしゅうにある日本にっぽん領事館りょうじかんなどへの襲撃しゅうげきおこなわせた(間島まじま共産党きょうさんとう暴動ぼうどう)ほか、中国共産党ちゅうごくきょうさんとうによってまんしゅうのソビエト計画けいかくしていたが、関東かんとうしゅう日本にっぽん警察けいさつによって計画けいかくあばかれてしまう[107][108]。その日本にっぽんによってまんしゅう事変じへんこされ、まんしゅうこく建国けんこくされてしまい、まんしゅうこくとの国境こっきょうなどでたびたび日本にっぽん軍事ぐんじてき衝突しょうとつこしていた(にち国境こっきょう紛争ふんそう)。中国共産党ちゅうごくきょうさんとう朝鮮ちょうせん地方ちほう普天ふてん堡を襲撃しゅうげきしたり(普天ふてん堡のたたか)と、日本にっぽんたい赤色あかいろテロ活動かつどうつづけたりしていた。

だい世界せかい大戦たいせんちゅうの1941ねん4がつにち中立ちゅうりつ条約じょうやく締結ていけつされ、どくせん開始かいし連合れんごうこく所属しょぞくした。アメリカぐんドーリットル空襲くうしゅうさいにはウラジオストク避難ひなん場所ばしょとすることを検討けんとうしてソ連それん提案ていあんしたが、日本にっぽん中立ちゅうりつ条約じょうやくむすんでいた同国どうこく拒否きょひしている[109]

ヤルタ会議かいぎにおいて連合れんごうこくあいだむすばれた密約みつやくもとに、1945ねん8がつにこれを一方いっぽうてき破棄はき日本にっぽん宣戦せんせん布告ふこくし(ソ連それんたいにち宣戦せんせん布告ふこく)、日本にっぽん連合れんごうこく降伏ごうぶくしたにもかかわらず侵略しんりゃくつづ千島ちしま列島れっとう北方ほっぽう地域ちいきなども占拠せんきょした。そのうえ、おおくの日本人にっぽんじん捕虜ほりょ戦後せんごながあいだシベリアなどに拘留こうりゅうして強制きょうせい労働ろうどうしょし、ぜん収容しゅうようしゃいちわり以上いじょう病気びょうき事故じこにより死亡しぼうしている(シベリア抑留よくりゅう)。

このような経緯けいいによる日本にっぽんはん感情かんじょうくわえ、だい世界せかい大戦たいせん吉田よしだしげる首相しゅしょうがアメリカとの同盟どうめい関係かんけい日米にちべい同盟どうめい)を主軸しゅじくとした外交がいこう採用さいようしたことから、にち関係かんけいはしばらく進展しんてんがなかった。その西側にしがわ諸国しょこく以外いがいくに重視じゅうしした独自どくじ外交がいこう模索もさくする鳩山はとやま一郎いちろう政権せいけん交代こうたいしたことで、にちあいだでの国交こっこう正常せいじょう機運きうんまれ、1956ねんにち共同きょうどう宣言せんげんして国交こっこう回復かいふくし、ソ連それん反対はんたいつづけていたために実現じつげんしなかった日本にっぽん国際こくさい連合れんごう加盟かめい実現じつげんした。

しかし、そのソ連それん北方領土ほっぽうりょうど不法ふほう占拠せんきょつづけたことや、日本にっぽん社会党しゃかいとうなどの左翼さよく政党せいとうはん政府せいふ組織そしき資金しきん援助えんじょおこなうなど内政ないせい干渉かんしょうおこなっていたこと、さらに日本にっぽんがアメリカの同盟どうめいこく連合れんごう国軍こくぐんによる占領せんりょう終了しゅうりょうもアメリカぐん駐留ちゅうりゅうつづいたこともあり(ざい日米にちべいぐん)、関係かんけい改善かいぜん進展しんてんしないまま推移すいいした。その一方いっぽうで、与党よとう自由民主党じゆうみんしゅとう所属しょぞく一部いちぶ議員ぎいんは、自主じしゅてきソ連それんとのパイプを関係かんけい完全かんぜん断絶だんぜつすることはなかった。北洋ほくよう漁業ぎょぎょう北洋ほくようざい輸入ゆにゅう機械きかい鉄鋼てっこう製品せいひん輸出ゆしゅつなど両国りょうこく経済けいざい関係かんけいソ連それん崩壊ほうかいいたるまでつづいた。

ひがしさんしょうまんしゅうこく

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亡命ぼうめいしたしろけいロシアじんまんしゅうハルビン中心ちゅうしん居住きょじゅうしていた。崩壊ほうかいした臨時りんじぜんロシア政府せいふ(オムスク政府せいふ)やしろぐんかかわりのあるものによって、ザリヤグンバオなどのソ連それん批判ひはんてきしろけい新聞しんぶん執筆しっぴつされており、しろけいロシアじん中国ちゅうごく日本にっぽんとともにはん革命かくめい計画けいかくしていたため、ソ連それんまんしゅうしろけいロシアじんいていた(たとえば、ちゅう紛争ふんそうにおけるハバロフスク議定ぎていしょには、しろけいロシアじんたいする条項じょうこうふくまれている)。

大戦たいせん末期まっきの1945ねんソ連それんまんしゅうこくみ(ソ連それんたいにち参戦さんせん)、まんしゅうこく崩壊ほうかいさせ、まんしゅう共産きょうさんさせてしろけいロシアじんまんしゅうおもて舞台ぶたいからした。

1924ねんジノヴィエフ書簡しょかん事件じけんにより、イギリスから警戒けいかいされる。さらに1927ねんアルコス事件じけんによって、秘密ひみつ文書ぶんしょがイギリスにれてしまう。その一方いっぽうで、1941ねん7がつにはどくせんけて軍事ぐんじ同盟どうめい条約じょうやくむすぶ。しかし、1960ねんにはイギリスに暗号あんごうぶん解読かいどくのためのアメリカのベノナ計画けいかくへと参加さんかされてしまった。

アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく

編集へんしゅう

アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくとは、だい世界せかい大戦たいせんにおいては連合れんごう国軍こくぐんにおける同盟どうめいこくとして協力きょうりょく関係かんけいにあり、武器ぶき提供ていきょうけるなど親密しんみつ関係かんけいにあった。

しかし、だい世界せかい大戦たいせん東側ひがしがわ共産きょうさん主義しゅぎ陣営じんえい盟主めいしゅとして、たいする西側にしがわ資本しほん主義しゅぎ事実じじつじょう盟主めいしゅとなっていたアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくと、いわゆる「冷戦れいせん」というかたち対立たいりつすることになった。

このような関係かんけい変化へんかけて、1950年代ねんだいにおける朝鮮ちょうせん戦争せんそうや1960年代ねんだいにおけるベトナム戦争せんそうなど、いわゆる代理だいり戦争せんそうという間接かんせつてきかたち軍事ぐんじてき対立たいりつをしたが、全面ぜんめんてきかく戦争せんそうたいする恐怖きょうふ双方そうほう抑止よくしりょくとなったこともあり、直接的ちょくせつてきかつ全面ぜんめんてき軍事ぐんじてき対立たいりつはなかった。しかしベルリン封鎖ふうさキューバ危機ききなどでは全面ぜんめんてき軍事ぐんじてき対立たいりついち手前てまえまでったほか、U-2撃墜げきつい事件じけんにおける領空りょうくう侵犯しんぱんおこなったアメリカぐん撃墜げきついなど、限定げんていてき軍事ぐんじてき対立たいりつがあったのも事実じじつである。

このような対立たいりつ関係かんけいにあったにもかかわらず、冷戦れいせんにおいても正式せいしき国交こっこう途絶とだえることはなく、双方そうほう首都しゅとたいする民間みんかんれがおこなわれていた。

外国がいこく渡航とこう制限せいげん

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外国がいこくとく西側にしがわ諸国しょこくへの個人こじんてき理由りゆうでの渡航とこうは、亡命ぼうめいとそれにともな国家こっか機密きみつ流出りゅうしゅつ外貨がいか流出りゅうしゅつなどを防止ぼうしすることをおも理由りゆうとして原則げんそくてき禁止きんしされており、渡航とこうさきくに国交こっこうがあるかかにかかわらず当局とうきょく許可きょかがないかぎ渡航とこう不可能ふかのうであった。許可きょかりた場合ばあいでもさまざまな制限せいげんがあり、すくなくとも個人こじん単位たんい自由じゆう旅行りょこう不可能ふかのうであった。これはソ連それん社会しゃかい、および東側ひがしがわ社会しゃかい主義しゅぎ体制たいせい閉鎖へいさせい象徴しょうちょうとして西側にしがわ資本しほん主義しゅぎ陣営じんえいから批判ひはんされた。

さらに、外国がいこくから帰国きこくした旅行りょこうしゃかならずといっていいほどに諜報ちょうほうから尋問じんもんけるため、本人ほんにんにはその意思いしがなくても外国がいこくたことをあらいざらいしゃべらねばならず、結果けっかてきスパイをしてしまうというケースがおおかった。ほかにも、アエロフロートのような民間みんかん航空こうくう会社かいしゃ乗客じょうきゃく実際じっさいにスパイとしての役割やくわりねている場合ばあいもあった[注釈ちゅうしゃく 22]。ただし、経済けいざい相互そうご援助えんじょ会議かいぎ(コメコン)加盟かめいこく同士どうしでの海外かいがい渡航とこう容易ようい可能かのうであり、観光かんこう就労しゅうろう留学りゅうがくなどさまざまな目的もくてきにて人的じんてき交流こうりゅう存在そんざいした。

西側にしがわ諸国しょこくじんとの交際こうさい結婚けっこんおおくの障害しょうがいがあり、とく幅広はばひろ指定していされた「国益こくえき直接ちょくせつ関係かんけいするもの」や「国家こっか機密きみつかかわるもの」の婚姻こんいんきんじられていた。それでも一応いちおう結婚けっこん自体じたい可能かのうであったが(石井いしいひろしもとのナターシャ夫人ふじん川村かわむらカオリ母親ははおやのエレーナのように)、その時点じてんソ連それん社会しゃかいでの出世しゅっせみち途絶とだえたうえに、今度こんど配偶はいぐうしゃ母国ぼこく出国しゅっこくするためのパスポート発給はっきゅうなが年月としつきようした。これは西側にしがわ資本しほん主義しゅぎこくかぎらず、衛星えいせいこくひととの結婚けっこんでさえも当局とうきょくからさまざまな妨害ぼうがいけたといわれている。

外国がいこく航路こうろ運行うんこうする船舶せんぱく外国がいこく演奏えんそう旅行りょこうをする楽団がくだんのみならず、海軍かいぐん艦艇かんていいたるまで、乗務じょうむいん楽団がくだんいん亡命ぼうめい阻止そしし、外国がいこくにおける言論げんろん監視かんしするためにかならソ連それん共産党きょうさんとう政治せいじ将校しょうこう同行どうこうしていた。それでもスポーツ大会たいかい演奏えんそうかいなどでの亡命ぼうめい個人こじん集団しゅうだんわずえなかった。しかしうんよく移住いじゅうできた場合ばあいでも、移住いじゅうさき国家こっか社会しゃかいからは「ソ連それんのスパイ」という疑念ぎねんたれることがおおく、けっして安住あんじゅうとはえなかった。

例外れいがい

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ユダヤじん

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例外れいがいとして、1950年代ねんだいまでのユダヤじんイスラエル出国しゅっこくがある。ソ連それん政府せいふパレスチナでのイスラエル建国けんこく(1948ねん)を支持しじし、大戦たいせんからの復興ふっこう途上とじょうにある自国じこくからユダヤじん平和へいわてきらせるこの移住いじゅう政策せいさく積極せっきょくてき推進すいしんした。しかし、もなくイスラエルがアメリカのつよ支援しえんけ、対抗たいこうしたアラブ諸国しょこくソ連それんとの関係かんけいふかめると、このユダヤじん移住いじゅう徐々じょじょっていった。1967ねん第三次中東戦争だいさんじちゅうとうせんそう両国りょうこく国交こっこう断絶だんぜつし、以後いご冷戦れいせん終結しゅうけつまで集団しゅうだん出国しゅっこくはほとんどおこなわれなかった。

国外こくがい追放ついほう

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もうひとつの例外れいがいとして、ソ連それん政府せいふ沿わない人間にんげんたいする国外こくがい追放ついほうがあった。国家こっか安定あんてい社会しゃかい主義しゅぎ体制たいせい発展はってんがいとなり、かつ国外こくがいでの知名度ちめいどたかいために国内こくないでの粛清しゅくせい拘禁こうきん困難こんなん場合ばあいには、対象たいしょうしゃ市民しみんけんやパスポートをうばい、西側にしがわ諸国しょこく強制きょうせい追放ついほうした。これによりレフ・トロツキーアレクサンドル・ソルジェニーツィンソ連それんから出国しゅっこくしたが、追放ついほうしゃ帰国きこくみとめないてんでは、外国がいこく渡航とこう禁止きんし同一どういつ発想はっそうった政策せいさくであった。しかし政府せいふ沿わない人間にんげんであっても、物理ぶつり学者がくしゃアンドレイ・サハロフのような、軍事ぐんじ機密きみつ技術ぎじゅつ流出りゅうしゅつにつながる人物じんぶつ国外こくがい追放ついほうせずに、国内こくない軟禁なんきんしたり流刑りゅうけいしたりするかたちった。

強力きょうりょく軍事ぐんじりょく

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アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく筆頭ひっとうとする西側にしがわ諸国しょこくへの対抗たいこうじょう核兵器かくへいき核兵器かくへいき搭載とうさい可能かのうちょう音速おんそくばくげき、ICBM(大陸たいりくあいだ弾道だんどうミサイル)や大陸たいりくあいだ弾道だんどうミサイルを搭載とうさい可能かのう原子力げんしりょく潜水せんすいかんちょう音速おんそく戦闘せんとう戦車せんしゃなどを配備はいびし、強力きょうりょく軍事ぐんじりょく保持ほじしていた。

1960年代ねんだいはいり、東西とうざいあいだかく開発かいはつ競争きょうそう過激かげきするなかソ連それんちょう大型おおがた水素すいそばくだん・AN602を製造せいぞうする。通称つうしょうツァーリ・ボンバ」とばれるこの水素すいそばくだん広島ひろしまがた原爆げんばくやく3300ばい威力いりょくといわれ、だい世界せかい大戦たいせんちゅうぜん世界せかい使つかわれたそう爆薬ばくやくりょうやく10ばい威力いりょくともいわれる単一たんいつ兵器へいきとしては人類じんるい史上しじょう最大さいだい威力いりょくゆうしていた。この時期じきソ連それん運用うんよう開始かいしした自動じどう報復ほうふくシステムは、ひとつの些細ささい判断はんだんミスでも世界せかい規模きぼかく戦争せんそうこしかねないことから「終末しゅうまつ兵器へいき 」とばれた。その危険きけんせいしめ実例じつれいとして、1983ねん監視かんしシステムのコンピュータがかくミサイル発射はっしゃ誤報ごほうした事件じけんがある。

しかし、こうした強力きょうりょく軍事ぐんじりょく維持いじ軍事ぐんじ増大ぞうだいをもたらして国家こっか予算よさん圧迫あっぱくし、そのぶん民生みんせいけのインフラ流通りゅうつうシステムなどの整備せいびおくれをきたし、結果けっかてき国民こくみん経済けいざい疲弊ひへいさせた。1979ねんから10ねんつづいたアフガニスタン侵攻しんこう泥沼どろぬまし、なん成果せいかられずに失敗しっぱいした。多大ただい戦費せんぴついやし多数たすう兵士へいし人命じんめいうしなったのみならず、ソビエト連邦れんぽう威信いしんをも低下ていかさせ、結果けっかてきソビエト連邦れんぽう崩壊ほうかいはやめたとされる。

軍事ぐんじ支援しえん

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東側ひがしがわ陣営じんえいワルシャワ条約じょうやく機構きこう中心ちゅうしんこくとなり、ひがしヨーロッパ諸国しょこく基地きちき、ハンガリー動乱どうらんプラハのはるなど衛星えいせいこくでの改革かいかく運動うんどう武力ぶりょく鎮圧ちんあつし、ワルシャワ条約じょうやく機構きこう加盟かめいこくのみならず、中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく北朝鮮きたちょうせんキューバきたベトナムなど、世界中せかいじゅう反米はんべいてき社会しゃかい主義しゅぎ共産きょうさん主義しゅぎこくたいして小銃しょうじゅうからばくげきいたるまで各種かくしゅ武器ぶき輸出ゆしゅつした。現在げんざいでもだいさん世界せかいにはきゅうソ連それんせい武器ぶき大量たいりょう流通りゅうつうしている。

それだけでなく、みずからの軍事ぐんじ技術ぎじゅつをこれらのくに輸出ゆしゅつしたほかにも、将校しょうこうなどを派遣はけんして軍事ぐんじ訓練くんれんおこない、これらのくににおける軍事ぐんじ技術ぎじゅつ向上こうじょう寄与きよし、そのなかには、モスクワパトリス・ルムンバ名称めいしょう民族みんぞく友好ゆうこう大学だいがく各種かくしゅぐん施設しせつなどにおけるスパイテロリスト養成ようせい資金しきん供与きょうよ武器ぶき供与きょうよなどもふくまれている。朝鮮ちょうせん戦争せんそうベトナム戦争せんそうなどの代理だいり戦争せんそうさいには、友好国ゆうこうこくがわ積極せっきょくてき支援しえんした。

冷戦れいせん期間きかんつうじて、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくヨーロッパ諸国しょこくなどの西側にしがわ諸国しょこくや、みなみアメリカ中東ちゅうとうアジアアフリカ諸国しょこく社会しゃかい主義しゅぎ政権せいけんこくにおける社会しゃかい主義しゅぎ政党せいとうはん政府せいふ勢力せいりょく非合法ひごうほう団体だんたいやテロ組織そしきふくはん社会しゃかいてき勢力せいりょく反戦はんせん運動うんどう団体だんたい(そのおおくが事実じじつじょう反米はんべい運動うんどうであった)にたいする支援しえんおこない、そのなかには上記じょうきおなじく各種かくしゅぐん施設しせつなどにおけるスパイやテロリストの養成ようせい資金しきん供与きょうよ武器ぶき供与きょうよなどもふくまれていた。

情報じょうほう機関きかん

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科学かがく技術ぎじゅつ

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ソ連それんはつ女性じょせい宇宙うちゅう飛行ひこうワレンチナ・テレシコワ中央ちゅうおう女性じょせい)。ニキータ・フルシチョフみぎ)らとともに(1963ねん
 
スプートニク1ごう軌道きどうしめソ連それん切手きって

航空こうくう宇宙うちゅう技術ぎじゅつでは、アメリカとの対抗たいこうじょうくに威信いしんをかけた開発かいはつおこなわれた(宇宙うちゅう開発かいはつ競争きょうそう)。人類じんるいはつ人工じんこう衛星えいせい「スプートニク1ごう」の成功せいこうユーリ・ガガーリンによる人類じんるいはつ有人ゆうじん宇宙うちゅう飛行ひこう成功せいこう宇宙うちゅうステーションミール」の長期間ちょうきかんわた運用うんよう成功せいこうなどの宇宙うちゅう開発かいはつのほか、世界せかいはつ原子力げんしりょく発電はつでんしょオブニンスク建設けんせつするなど、ソ連それん人類じんるい巨大きょだい科学かがく偉大いだい足跡あしあとのこしている。現代げんだいのロケット工学こうがく宇宙うちゅう開発かいはつ基礎きそは、ソ連それんコンスタンチン・ツィオルコフスキーきずいたものである。

航空機こうくうきでもミコヤン・グレビッチ設計せっけいきょくミグ)、イリューシン設計せっけいきょくツポレフ設計せっけいきょくなどによって独創どくそうてき機構きこう開発かいはつされ、自国じこくでの軍用ぐんよう調達ちょうたつ可能かのうとしたほか衛星えいせいこくへの販売はんばいにも成功せいこうし、ソ連それん崩壊ほうかいにも保守ほしゅ部品ぶひん販売はんばいによる収益しゅうえきをもたらした。一方いっぽう経済けいざい効率こうりつ品質ひんしつ向上こうじょうには無頓着むとんじゃくなままで、国内こくない衛星えいせいこく以外いがいではほとんど採用さいようされず、とく採算さいさんせい重視じゅうしする民間みんかん採用さいよう皆無かいむであった。これらの宇宙うちゅう研究けんきゅう原子力げんしりょく研究けんきゅうは、関係かんけいしゃ以外いがいりをゆるさず、地図ちずにも記載きさいされない閉鎖へいさ都市としおこなわれることがあった。

一方いっぽうで、航空こうくう宇宙うちゅう土木どぼく建築けんちくなどくに推進すいしんする分野ぶんや以外いがいではおくれが目立めだった。とくにスターリン時代じだいでは、科学かがくてき見地けんちよりイデオロギーが優先ゆうせんされることがしばしばであり、とくトロフィム・ルイセンコ提唱ていしょうしたルイセンコ理論りろんなどにより、ソ連それん農業のうぎょう壊滅かいめつてき被害ひがいけ、輸入ゆにゅうこく転落てんらくした。計画けいかく経済けいざいによる工場こうじょう建設けんせつ開発かいはつは、ときとして実情じつじょう無視むししたものとなり、利益りえきめん環境かんきょうめん失敗しっぱいすることもたびたびであった。このため、地域ちいきによっては土壌どじょう河川かせん深刻しんこく環境かんきょう破壊はかい発生はっせいし、おおくのひと健康けんこう被害ひがいけることになった。さらにチェルノブイリ原子力げんしりょく発電はつでんしょ事故じこ代表だいひょうされるような官僚かんりょうてき隠蔽いんぺい体質たいしつはこれらの被害ひがい表面ひょうめんじょうおおかくし、被害ひがい拡大かくだいさせた。とくアラル海あらるかい開発かいはつ計画けいかくは20世紀せいき最大さいだい環境かんきょう破壊はかいばれる事態じたいこした。ときには土木どぼく工事こうじなどに「国家こっか経済けいざいのためのかく爆発ばくはつ」が使用しようされることすらあった。

原油げんゆなど資源しげん依存いぞんする構造こうぞうから重厚じゅうこう長大ちょうだい産業さんぎょう重視じゅうししたために「軽薄けいはく短小たんしょう産業さんぎょう」に対応たいおうできず、半導体はんどうたい集積しゅうせき回路かいろ液晶えきしょう技術ぎじゅつでも大幅おおはばおくれをり、西側にしがわのようにコンピュータの急速きゅうそく進歩しんぽ一般いっぱん生活せいかついた本格ほんかくてき普及ふきゅう実現じつげんすることはできず、ハイテク分野ぶんや決定的けっていてきおくれることとなった。軍事ぐんじ利用りよう目的もくてき東芝とうしば日立製作所ひたちせいさくしょなどの日本にっぽん民間みんかんメーカーから製品せいひん技術ぎじゅつ導入どうにゅうすることもあった(東芝機械とうしばきかいココム違反いはん事件じけん)。とく半導体はんどうたい分野ぶんやは2023ねん時点じてん(ロシア連邦れんぽう)でもアメリカやアジアにおくれをとり、輸入ゆにゅうたのみとなっている[110]

宇宙うちゅうしょくなどくに推進すいしんする分野ぶんや関連かんれんがある研究けんきゅうテーマには資金しきん拠出きょしゅつされていた[111]

ソ連それんでは研究けんきゅう開発かいはつのために国立こくりつ研究けんきゅう機関きかん設立せつりつされたが、崩壊ほうかいにより資金しきん不足ふそくおちいり、特許とっきょ技術ぎじゅつ西側にしがわ企業きぎょう売却ばいきゃくしたれいもある[111]。また科学かがくしゃ技術ぎじゅつしゃ仕事しごともと西側にしがわ移住いじゅうする頭脳ずのう流出りゅうしゅつによりのち研究けんきゅう開発かいはつ支障ししょうきたした。

交通こうつう

編集へんしゅう

国民こくみん自分じぶん在住ざいじゅうしている地域ちいき以外いがいへの遠距離えんきょり移動いどう事実じじつじょうかぎられていただけでなく、国外こくがいからの旅行りょこうしゃのソビエト国内こくないにおける移動いどう大幅おおはば制限せいげんがあったため、国内外こくないがい交通こうつうたいする需要じゅよう非常ひじょうかぎられていた。鉄道てつどうもうは、長距離ちょうきょり近距離きんきょりわず軍事ぐんじ転用てんよう容易よういなことから比較的ひかくてき整備せいびすすんでいたが、西側にしがわ諸国しょこくちが個人こじん所有しょゆう自動車じどうしゃかずかぎられていたことから、高速こうそく道路どうろガソリンスタンドレンタカータクシーなどの自動車じどうしゃインフラは貧弱ひんじゃくなままであった。

外国がいこくとく西側にしがわ諸国しょこくへの個人こじんてき理由りゆうでの渡航とこうは、亡命ぼうめい外貨がいか流出りゅうしゅつふせぐということをおも理由りゆう原則げんそくてき禁止きんしされており、また国交こっこうがあるくにであろうがなかろうが、当局とうきょく許可きょかがないかぎ渡航とこう不可能ふかのうであった。許可きょかりた場合ばあいでもさまざまな制限せいげんがあり、個人こじん単位たんい自由じゆう旅行りょこう不可能ふかのうであった。しかしながら、国力こくりょく友好ゆうこう関係かんけい誇示こじすることと外貨がいか獲得かくとく目的もくてきに、国外こくがいへの航空機こうくうき船舶せんぱくによる定期ていき便びん比較的ひかくてき整備せいびされていた。

航空こうくう

編集へんしゅう

アエロフロート

編集へんしゅう
国内線こくないせん
編集へんしゅう
 
ソ連それん時代じだいアエロフロートはた

広大こうだい国土こくどおも航空機こうくうきによってむすばれていた。国内こくない航空こうくう路線ろせんもうは、唯一ゆいいつにして最大さいだい航空こうくう会社かいしゃで、ナショナル・フラッグ・キャリアである国営こくえいアエロフロート・ソビエト航空こうくうによって運行うんこうされており、長距離ちょうきょり国際線こくさいせんから国内こくない幹線かんせん航空機こうくうきによってのみアクセスが可能かのう僻地へきちや、舗装ほそうされた滑走かっそう整備せいびされていない地方ちほう空港くうこうへの運行うんこう可能かのうなように、ちょう音速おんそく旅客機りょかくきふく大型おおがたジェット機じぇっときからターボプロップ小型こがた複葉ふくよう大型おおがた貨物かもつまでさまざまな機材きざい運行うんこうしていた。

使用しよう機材きざいのほとんどは、イリューシンツポレフヤコブレフなどの国産こくさん機材きざいであったが、一部いちぶはチェコスロバキアやポーランドなど東側ひがしがわ友好国ゆうこうこく機材きざい導入どうにゅうされていた。有事ゆうじにはそのまま軍事ぐんじ利用りようできるように、一部いちぶ機材きざい銃座じゅうざのこされたまま運航うんこうされていた。

国際線こくさいせん
編集へんしゅう
 
銃座じゅうざのこしたアエロフロートのイリューシンIl-76

おなじく国際線こくさいせんもアエロフロートによってのみ運行うんこうされていたが、ソビエト国民こくみん海外かいがい渡航とこう国外こくがいからの旅行りょこうしゃのソビエト国内こくないにおける移動いどうには大幅おおはば制限せいげんがあった。一方いっぽうで、国力こくりょく友好ゆうこう関係かんけい誇示こじすることと、外貨がいか獲得かくとく目的もくてきに、イギリス日本にっぽんアメリカなどの西側にしがわ主要しゅようこくひがしドイツポーランドブルガリアなどの東欧とうおう衛星えいせいこくキューバアンゴラ北朝鮮きたちょうせんなどの友好国ゆうこうこくをはじめとする世界せかい各国かっこくれをおこなっていた。

しかし、国力こくりょく友好ゆうこう関係かんけい誇示こじすることというおも目的もくてきから、完全かんぜん採算さいさん度外視どがいし運行うんこうしていたこともあり格安かくやす航空こうくう料金りょうきん提供ていきょうしていたものの、その空港くうこう機内きないサービスは西側にしがわ諸国しょこくのものにはとおおよばなかったことから、西側にしがわ諸国しょこくおおくでは格安かくやす料金りょうきん劣悪れつあくなサービスでのみられていた。

海外かいがいからはおおくの友好国ゆうこうこく航空こうくう会社かいしゃがモスクワやハバロフスクなどの大都市だいとし中心ちゅうしんれていたほか、アメリカ、イギリス、日本にっぽん西にしドイツなどの西側にしがわ諸国しょこくからも、パンアメリカン航空こうくう英国えいこく海外かいがい航空こうくう日本航空にほんこうくうルフトハンザ・ドイツ航空こうくうなどのナショナル・フラッグ・キャリア航空こうくう会社かいしゃれていた。

西側にしがわ諸国しょこくれたさいには、航路こうろからはずれて軍事ぐんじ基地きち港湾こうわん施設しせつちかくをぶことも多々たたあったと報告ほうこくされており、そのため日本にっぽんでも航空こうくう自衛隊じえいたい基地きち併設へいせつしている千歳空港ちとせくうこうへのれを拒否きょひされていた。さらにイリューシンIL-76などは銃座じゅうざのこしたまま(じゅうはずされていた)運航うんこうされていた機材きざいもある。

日本にっぽんとのあいだ日本航空にほんこうくうとアエロフロートが東京とうきょう羽田空港はねだくうこう成田空港なりたくうこう)、新潟にいがた新潟にいがた空港くうこう)とモスクワ、ハバロフスク、イルクーツクとのあいだ定期ていき便びん運行うんこうしており、一部いちぶ路線ろせんにおいては日本航空にほんこうくうとのコードシェア運航うんこうおこなわれていた。

鉄道てつどう

編集へんしゅう

シベリア鉄道てつどう代表だいひょうとする鉄道てつどうもうによってかく都市としむすばれていたほか、衛星えいせいこく中心ちゅうしんとした近隣きんりん諸国しょこく国際こくさい列車れっしゃ運行うんこうされていた。モスクワやレニングラード(現在げんざいのサンクトペテルブルク)などのいくつかの大都市だいとしには防空壕ぼうくうごうねた地下鉄ちかてつあみ整備せいびされており、社会しゃかい主義しゅぎ建設けんせつ成功せいこう誇示こじする目的もくてきで、スターリン時代じだい建設けんせつされた一部いちぶえき構内こうない宮殿きゅうでんのような豪華ごうか装飾そうしょくほどこされていた。

自動車じどうしゃ

編集へんしゅう

個人こじんによる自動車じどうしゃ所有しょゆうだけでなく、自分じぶん在住ざいじゅうしている地域ちいき以外いがいへの遠距離えんきょり移動いどう事実じじつじょうかぎられていたこともあり、西側にしがわ諸国しょこくおこなわれていたような高速こうそく道路どうろによる国民こくみん自由じゆう移動いどう一般いっぱんてきなものではなかった。大都市だいとし市街地しがいちにはトロリーバスふくバス路線ろせんもうめぐらされていた。

経済けいざい

編集へんしゅう
 
ソ連それんにおいてすうある水力すいりょく発電はつでんところのうちのひとつであるドニエプル水力すいりょく発電はつでんしょ

計画けいかく経済けいざい

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経済けいざいめんでは計画けいかく経済けいざい体制たいせいかれ、農民のうみん集団しゅうだんはかられた(集団しゅうだん農場のうじょう)。医療いりょうなどが無料むりょうぜいがまったくないことでもられた。1930年代ねんだい世界せかい恐慌きょうこう資本しほん主義しゅぎこく軒並のきな不況ふきょうくるしむなかソ連それんはその影響えいきょうけずに非常ひじょうたか経済けいざい成長せいちょう達成たっせいしたため、世界せかい各国かっこくおおきな影響えいきょうあたえた。しかし、その経済けいざい成長せいちょう政治せいじはん思想しそうはん中心ちゅうしんとした強制きょうせい労働ろうどうささえられ、そのとみ共産党きょうさんとう上層じょうそう集中しゅうちゅうして配分はいぶんされていた実態じったいがそのあきらかになった。

ジョン・ケネス・ガルブレイスは「資本しほん主義しゅぎ諸国しょこくが1930年代ねんだいだい恐慌きょうこう不況ふきょうにあえいでいたとき、ソ連それん社会しゃかい主義しゅぎ経済けいざい躍進やくしん躍進やくしんつづけ、アメリカに世界せかいだい工業こうぎょうこくになった。そして完全かんぜん雇用こよう社会しゃかい保障ほしょうをやってのけた」としながらも、1970年代ねんだいには崩壊ほうかいはじめたと総括そうかつしている(しかし、1930年代ねんだい当時とうじソ連それん経済けいざい躍進やくしんうらには、すうひゃくまんにんといわれる規模きぼ強制きょうせい労働ろうどう従事じゅうじしゃのほぼ無償むしょう労働ろうどうによる貢献こうけんがあったてんを、ガルブレイスは見落みおとしているか故意こい無視むししていることに注意ちゅうい必要ひつようである)。実際じっさい、1960年代ねんだい以降いこう計画けいかく経済けいざい破綻はたん決定的けっていてきなものとなり、消費しょうひざい不足ふそくなどで国民こくみん生活せいかつ窮乏きゅうぼうした。

流通りゅうつう整備せいびおくれたため、のう製品せいひん生産せいさん十分じゅうぶんにあったとしても、それが消費しょうひしゃ手元てもととどけられるまでに腐敗ふはいしてしまうこともあった。そのためにやみ市場いちばのようなやみ経済けいざい汚職おしょく蔓延まんえんし、そのようななか共産きょうさん貴族きぞくがはびこるという結果けっかになった。

農業のうぎょう

編集へんしゅう
 
1930年代ねんだいアルメニアにて、綿花めんか収穫しゅうかく

ソ連それん農業のうぎょうは、気候きこう条件じょうけんきびしさから農業のうぎょうてきした地域ちいき比較的ひかくてきかぎられており、またかく共和きょうわこくモノカルチュアてき生産せいさんってきた結果けっか、ウクライナやベラルーシ、ロシアの黒土こくど地帯ちたい・コーカサス地帯ちたいなどでは主要しゅよう作物さくもつ小麦こむぎひとし穀類こくるい飼料しりょう作物さくもつビートなど)、ジャガイモヒマワリ果樹かじゅ野菜やさい、シベリアでは穀類こくるい中心ちゅうしん極東きょくとうでは大豆だいず中央ちゅうおうアジアは綿花めんか[注釈ちゅうしゃく 23]であった。農業のうぎょう労働ろうどうしゃたちは、集団しゅうだん農場のうじょう国営こくえい農場のうじょう計画けいかく経済けいざいのもとでさだめられた賃金ちんぎんでノルマをたすだけの作業さぎょうのみ従事じゅうじさせられていた。農作物のうさくもつ価格かかく国家こっか決定けっていし、価格かかく調整ちょうせいするために補助ほじょきん支給しきゅうしていた。これらが労働ろうどう意欲いよく減退げんたいさせ、農業のうぎょう生産せいさんせい極端きょくたんひくくし、1970年代ねんだいからはにくるい穀物こくもつ恒常こうじょうてき輸入ゆにゅうこくになり農業のうぎょうソ連それんアキレス腱あきれすけんになった。

ロシア革命かくめい農村のうそん人口じんこうの80%をめていたはつなどをふくむ「戦時せんじ共産きょうさん主義しゅぎ」によって[疑問ぎもんてん]荒廃こうはいとくにウクライナですうひゃくまんにんともいわれる餓死がししゃした。そのため1921ねん穀物こくもつ強制きょうせい徴発ちょうはつ廃止はいししたしん経済けいざい政策せいさく「ネップ」により、農業のうぎょう戦前せんぜん水準すいじゅん回復かいふくしたが穀物こくもつ調達ちょうたつ困難こんなんになっていった。そこで1928ねん、スターリンは、農業のうぎょう集団しゅうだん実施じっしてい賃金ちんぎん酷使こくしされる集団しゅうだん農場のうじょう国営こくえい農場のうじょう改編かいへんされた。クラークとされた勤勉きんべん農民のうみん900まんにん追放ついほうされ、半数はんすう処刑しょけいされのこりは強制きょうせい収容しゅうようしょおくられた。穀物こくもつ調達ちょうたつりょう増加ぞうかしたが生産せいさん低下ていかし、1931ねんから1933ねんにかけて700まんにん餓死がしした。抵抗ていこうした農民のうみんたちも最終さいしゅうてきには工業こうぎょう労働ろうどうしゃとなったり集団しゅうだん農場のうじょう組織そしきされたりした。

1941ねんどくせんはじまると農村のうそん壊滅かいめつてき打撃だげきけ、戦後せんご戦前せんぜん同様どうよう経済けいざい体制たいせい維持いじしながら戦後せんご復興ふっこう着手ちゃくしゅしたため、1946ねんから1947ねんかけて100まんにん以上いじょう餓死がしし、おおくが離農りのうした。1953ねん、スターリンの死後しご、フルシチョフは、カザフスタンや西にしシベリアなどの開墾かいこん耕作こうさく放棄ほうき開拓かいたく事業じぎょう提案ていあんし、処女しょじょからの穀物こくもつ収穫しゅうかくこころみられた。1955ねんからすうねんあいだ処女しょじょ収穫しゅうかくぶつによって穀物こくもつ不足ふそく一時いちじてき解消かいしょうされたが、ルイセンコ理論りろん農地のうち砂漠さばく処女しょじょ不作ふさくおちいると穀物こくもつふたた欠乏けつぼう国外こくがいから輸入ゆにゅうするようになった。フルシチョフ失脚しっきゃく集団しゅうだん農場のうじょう生産せいさんせいがらず、1980年代ねんだいには集団しゅうだん請負うけおいせい導入どうにゅうするも、コルホーズうちのわずかなとめではささえきれない大量たいりょう食料しょくりょうをアメリカから輸入ゆにゅうしていた。

消費しょうひざい流通りゅうつう

編集へんしゅう

東西とうざい対立たいりつ世界せかい構造こうぞうなかで、軍需ぐんじゅ産業さんぎょうたか技術ぎじゅつ莫大ばくだい資金しきんとうじることで軍民ぐんみん転換てんかんおくれ、冷蔵庫れいぞうこ洗濯せんたく乾電池かんでんち電子でんしレンジなどの国民こくみん生活せいかつ必要ひつよう電化でんか製品せいひんや、石鹸せっけん洗剤せんざいシャンプートイレットペーパー鉛筆えんぴつボールペンなどの一般いっぱん消費しょうひざいたばこ清涼飲料水せいりょういんりょうすいなどの嗜好しこうひん開発かいはつ生産せいさん物流ぶつりゅう整備せいびおろかにされ、西側にしがわ諸国しょこくくら技術ぎじゅつ品質ひんしつともにくらものにならないていレベルの電化でんか製品せいひんでさえ、入手にゅうしゅするためにすうねんたなければいけないというような惨憺さんたんたる状態じょうたいであり、これはリチャード・ニクソンとの台所だいどころ論争ろんそうでもアメリカから槍玉やりだまにされた。

さらにほとんどの電化でんか製品せいひん自動車じどうしゃ技術ぎじゅつは、西側にしがわ諸国しょこく技術ぎじゅつよりすうじゅうねんおくれていたといわれているうえ、そのおおくがフィアットトリヤッチ参照さんしょう)やパッカードなどの西側にしがわ企業きぎょう提携ていけいし、旧型きゅうがた製品せいひん技術ぎじゅつ供与きょうよけたもの、もしくは西側にしがわ製品せいひん無断むだんコピーや、だい世界せかい大戦たいせんにドイツ国内こくないから接収せっしゅう略奪りゃくだつしたオペル生産せいさん工場こうじょう施設しせつからの技術ぎじゅつ流用りゅうようであった。

電化でんか製品せいひん一般いっぱん消費しょうひざい嗜好しこうひん自動車じどうしゃは、市場いちばにおける競争きょうそうのこるために西側にしがわ諸国しょこくでは頻繁ひんぱんおこなわれていたしん製品せいひん開発かいはつ市場いちば投入とうにゅう改良かいりょう価格かかく改定かいていはほとんどおこなわれず、なにも改良かいりょうされないまま30ねん以上いじょうにわたりおな製品せいひん製造せいぞうされていた。

自動車じどうしゃ個人こじん所有しょゆう共産党きょうさんとう幹部かんぶなどのかぎられた階級かいきゅう人間にんげんかぎられ、それ以外いがい階級かいきゅうのものがにするためには、電化でんか製品せいひん同様どうようすうねんたなければいけない状態じょうたいであった。まして労働ろうどうしゃ階級かいきゅうジルヴォルガなどの高級こうきゅうしゃや、レオニード・ブレジネフなどが愛用あいようしたシトロエンなどの西側にしがわ諸国しょこくからの輸入ゆにゅうしゃ所有しょゆうすることは事実じじつじょう不可能ふかのうであった。

貿易ぼうえき

編集へんしゅう

上記じょうきのように、電化でんか製品せいひん消費しょうひざい工作こうさく機械きかい自動車じどうしゃなどの技術ぎじゅつ品質ひんしつ西側にしがわ諸国しょこくのそれにたいして決定的けっていてきおとっていたことから、西側にしがわ諸国しょこくたいしての輸出ゆしゅつは、農産物のうさんぶつ魚介ぎょかいるいなどのだいいち産品さんぴんや、原油げんゆ天然てんねんガスなどのエネルギー資源しげんおもであった。通貨つうかルーブル自体じたいが、国外こくがい通貨つうかとしての価値かちひくかったこともあり、エネルギー資源しげん貿易ぼうえきがあるくにのぞいては、西側にしがわ諸国しょこくとの貿易ぼうえき収支しゅうしはおおむね赤字あかじであったか非常ひじょうすくないものであった。また農産物のうさんぶつなどとの物々交換ぶつぶつこうかん形式けいしきとしたれいもあった。農産物のうさんぶつにより外貨がいか獲得かくとくのため食料しょくりょう輸出ゆしゅつ輸入ゆにゅう公団こうだん(S.P.I. Groupの前身ぜんしん)が西側にしがわにも輸出ゆしゅつしていたが、ウォトカ西側にしがわ諸国しょこくではカクテルベースとして人気にんきがあったことから、アメリカでのストリチナヤ販売はんばいけんペプシコは、ソ連それん国内こくない販売はんばいされるペプシコーラ濃縮のうしゅくえきとの物々交換ぶつぶつこうかん支払しはらっていた[113]

衛星えいせいこく社会しゃかい主義しゅぎこくとのあいだ貿易ぼうえきは、それらのおおくのくに外貨がいかとぼしかったことや、ココムなどの貿易ぼうえき規制きせいにより西側にしがわ諸国しょこくからの貿易ぼうえき品目ひんもく制限せいげんされていたことから、いち産品さんぴんやエネルギー資源しげんはもとより、西側にしがわ諸国しょこくでは相手あいてにされなかった電化でんか製品せいひん消費しょうひざい工作こうさく機械きかいから自動車じどうしゃ航空機こうくうきなどの軍事ぐんじ物資ぶっしいたるまでが輸出ゆしゅつされた。1975ねんくにべつ工作こうさく機械きかい生産せいさんがくでもソ連それん世界せかい3である。そのおおくが事実じじつじょう援助えんじょひんとあるいは、相手あいてこくいち産品さんぴんとのバーター貿易ぼうえきなど無償むしょうちかかたち供給きょうきゅうされた。1930ねんからペレストロイカ実施じっしまで、商業しょうぎょう手形てがた廃止はいしされていたので流通りゅうつう割引わりびきがなく、取引とりひきゴスバンク国有こくゆう銀行ぎんこう)で集中しゅうちゅう決済けっさいされた[114]

輸入ゆにゅう消費しょうひざい

編集へんしゅう

西側にしがわ諸国しょこく電化でんか製品せいひん化粧けしょうひん衣類いるいなどの消費しょうひざい輸入ゆにゅう流通りゅうつう原則げんそく禁止きんしされていたものの、モスクワなどの大都市だいとしのみにもうけられた「グム」などの外貨がいか専用せんよう高級こうきゅうデパート入手にゅうしゅすることが可能かのうであった。しかし実際じっさいにそれらを購入こうにゅうすることができるのは外国がいこくじん共産党きょうさんとう上層じょうそうとその家族かぞくだけであった。そのため、マールボロたばこリーバイスジーンズなどおおくの西側にしがわ製品せいひんやみルートで流通りゅうつうしていた。

会計かいけい監査かんさ

編集へんしゅう

会計かいけい社会しゃかい主義しゅぎもとづいてすすめられ、会計士かいけいし計画けいかく経済けいざいすすめる最高さいこう国民こくみん経済けいざい会議かいぎのためにはたらくこととなった。国営こくえい企業きぎょう会計かいけい責任せきにんしゃは、貸借たいしゃく対照たいしょうひょう会計かいけい報告ほうこくしょ作成さくせいして会計かいけい組織そしきする責任せきにんった。中央ちゅうおう集権しゅうけん集団しゅうだん農場のうじょうすすんだ1930年代ねんだいからは、スターリン主義しゅぎしゃによって会計かいけいがく個別こべつ企業きぎょうのみを対象たいしょうにしていると批判ひはんされ、スターリン主義しゅぎ批判ひはんてき会計士かいけいし活動かつどううばわれ、ソ連それん財務省ざいむしょう中央ちゅうおう統計とうけいきょく会計かいけい指導しどう監督かんとくおこなうようになった[115][116]

会計かいけいじん中央ちゅうおう省庁しょうちょう計画けいかくをもとに実務じつむおこな簿記ぼきがかりと、上級じょうきゅう機関きかん責任せきにん会計かいけい担当たんとうしゃかれた。経営けいえい改善かいぜん専門せんもんとしてのイニシアティブを発揮はっきする余地よちはなくなり、会計かいけい硬直こうちょくした[117]。1960年代ねんだいからは経済けいざい改革かいかくによる分権ぶんけんはじまり、計画けいかく経済けいざい企業きぎょう管理かんりにおいて利潤りじゅん原価げんか価格かかく利子りしなども評価ひょうかされるようになり、会計士かいけいし科学かがく技術ぎじゅつ協会きょうかい(HTO)に所属しょぞくして専門せんもんとして活動かつどうした。HTOでは資本しほん主義しゅぎ諸国しょこく会計かいけいれも検討けんとうされた[注釈ちゅうしゃく 24][119]

1980年代ねんだい後半こうはんペレストロイカから民営みんえい市場いちば経済けいざいはじまり、西側にしがわ諸国しょこくとの合弁ごうべん企業きぎょう市場いちば経済けいざい会計かいけい部分ぶぶんてき導入どうにゅうされ、企業きぎょう営業えいぎょう秘密ひみつみとめられた[120]。1991ねんソ連それん崩壊ほうかい市場いちば経済けいざいがさらにすすみ、ロシアでは公認こうにん会計士かいけいしにあたる監査かんさ国家こっか資格しかくされた[121]

アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくとの比較ひかく

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1989ねん時点じてんにおけるべいソの比較ひかく
1990ねんザ・ワールド・ファクトブックもとづくデータ[122]
  ソビエト連邦れんぽう   アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
GDP(PPP,1989ねん – million $) 2ちょう6,595おくドル 5ちょう2,333おくドル
人口じんこう(1990ねん7がつ やく2おく9,093まんにん やく2おく5,041まんにん
1人ひとりあたりのGDP(PPP,$) 9,211ドル 21,082ドル
労働ろうどうりょく(1989ねん やく1おく5,230まんにん やく1おく2,555まんにん

ソビエト連邦れんぽうはアメリカとはどうレベルのGDPでなかったが、アメリカ以上いじょう巨大きょだい面積めんせき資源しげんちょう大国たいこくとしての地位ちいていた。アメリカと対等たいとうレベルの核兵器かくへいき保有ほゆうしているとみられていたために、直接ちょくせつ対決たいけつだと共倒ともだおれをまねくために自国じこく軍事ぐんじ行動こうどうにアメリカを介入かいにゅうさせることはできなかった。国内こくないそう生産せいさん、また1人ひとりあたりのGDPもアメリカの2ぶんの1から3ぶんの1ほどであった。

国民こくみん生活せいかつレベルを犠牲ぎせいにして、ひたすら重工業じゅうこうぎょう投資とうしと、軍事ぐんじ支出ししゅつ資源しげん集中しゅうちゅうしていた。1950年代ねんだいやく15%だったソ連それん投資とうしりつは、1980年代ねんだいには30%にたっし、軍事ぐんじりつもある推定すいていでは1980年代ねんだい中頃なかごろには16%にたっしていた。1970年代ねんだい以降いこう、コンピュータや半導体はんどうたいといったハイテク部門ぶもん重要じゅうようせいすと、重工業じゅうこうぎょう優先ゆうせんソ連それんではその技術ぎじゅつ導入どうにゅうするのが困難こんなんとなり、技術ぎじゅつ進歩しんぽりつ停滞ていたい、ついには設備せつび老朽ろうきゅうあいまって1980年代ねんだいには技術ぎじゅつ進歩しんぽりつはマイナスにおちいってしまった。

ソ連それん経済けいざいは1950年代ねんだいから1960年代ねんだい初頭しょとうまで目覚めざましいペースでアメリカの国力こくりょくげており、「20ねん以内いないにアメリカをく」というフルシチョフの強気つよき発言はつげんしんじられていたが、1960年代ねんだいはいるとそのペースは一服いっぷくしたものの、1975ねんソ連それん相対そうたいてき国力こくりょくたいべい45%と頂点ちょうてんたっした。しかしその衰退すいたい局面きょくめんはいり、ぎゃくにアメリカとの相対そうたいてき国力こくりょく拡大かくだいしていった。

ソ連それん崩壊ほうかい、ロシアの軍事ぐんじりょく経済けいざいりょく急激きゅうげきおとろえ、アメリカとは1人ひとりたりのGDPと軍事ぐんじにおいておおきくをつけられた。さらに経済けいざい混乱こんらん影響えいきょうで、国民こくみん社会しゃかい保障ほしょう破壊はかいされてくるしんだため、親米しんべいてきでペレストロイカをおこなったゴルバチョフを、「アメリカにたましいった売国奴ばいこくど」や「国益こくえきそこねた裏切うらぎもの」と酷評こくひょうするものすくなくない[123]

国民こくみん

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年代ねんだいべつ人口じんこう(1989ねん)。ロシア内戦ないせん誕生たんじょうした70さいだい祖国そこく戦争せんそうちゅう誕生たんじょうした45さい前後ぜんごでは、出生しゅっしょうすうおおきく減少げんしょうしている。

ソビエト連邦れんぽうは150もの民族みんぞくようする民族みんぞく国家こっかであり、それぞれの地域ちいき基幹きかん民族みんぞく存在そんざいした。民族みんぞく共和きょうわこく内部ないぶ自治じち共和きょうわこく自治じちしゅうかれたのはこのためである[注釈ちゅうしゃく 25]。また、国民こくみんおおくは差異さいあれどロシアかいし、モスクワやレニングラード、ロシアじん古来こらいより定住ていじゅうする地域ちいきのぞいてはこのロシア現地げんち併用へいよう[注釈ちゅうしゃく 26]られた。

また、国民こくみん帝政ていせいより文化ぶんか交流こうりゅうさかんとしており、ロシアじんあいだグルジア料理りょうりしたしまれたり、ボルシチといったスラヴ料理りょうりはソビエト連邦れんぽう国民こくみんしょくとして世界せかい紹介しょうかいされる。

人口じんこう統計とうけい

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おおやけ教育きょういく

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学校がっこう様子ようす(1930年代ねんだい)。

ソビエト連邦れんぽうにおいておおやけ教育きょういくは、少年しょうねん少女しょうじょ基礎きそ教育きょういくほどこすだけではなく、青年せいねんへの分野ぶんやべつ専門せんもん教育きょういく保証ほしょうした。1918ねん教会きょうかい分離ぶんり布告ふこく以降いこう発展はってんしたソ連それんおおやけ教育きょういくは、16さい未満みまん教育きょういくたいする学費がくひ撤廃てっぱいし、母国ぼこくでの教育きょういく体制たいせい確保かくほし、その発展はってんおおきく寄与きよした。また同時どうじおおやけ教育きょういく国家こっか方針ほうしん浸透しんとうさせる場所ばしょとしても機能きのうし、後述こうじゅつするピオネールコムソモールは、共産党きょうさんとう直属ちょくぞく組織そしきであった。

 
ピオネール

学校がっこう成績せいせき優秀ゆうしゅうおさめる15さい以下いか生徒せいとはピオネールに所属しょぞくした。正式せいしき名称めいしょうヴェ・イ・レーニン名称めいしょうぜん連合れんごうピオネールВсесоюзная пионерская организация имени В. И. Ленина)、1922ねん創設そうせつし、しゅとして課外かがい授業じゅぎょう実施じっしする組織そしきであった。あかネッカチーフにつけ、ラッパドラム演奏えんそうしながら行進こうしんすることがおおかった。入団にゅうだんは、自由じゆう意志いし参加さんかもとづくがそのもんせまく、児童じどうわりほどゆるされた所属しょぞくであったのである。そのためピオネールには品行ひんこう方正ほうせい要求ようきゅうされ、「ポケットにれてはならない」や「ゆびめない」、「握手あくしゅをしてはならない[注釈ちゅうしゃく 27]」など、禁止きんし事項じこうは100にのぼった[124]

スローガンであるそなえはつねにあり!(Всегда готов!は、ピオネールによるだい号令ごうれいでもあった。80年代ねんだいにはにち交流こうりゅう一環いっかんとして、日本にっぽん児童じどうがピオネール・キャンプ(おおくはナホトカ、ウラジオストク、ハバロフスク、イルクーツク)に参加さんかした。

ソビエト連邦れんぽう消滅しょうめつには、各地かくち小規模しょうきぼながらも酷似こくじした組織そしき存在そんざいし、そのなかでもベラルーシは30まんにん在籍ざいせきする[125]

ソビエト連邦れんぽう医療いりょう制度せいどは、1918ねん保健ほけん人民じんみん委員いいん英語えいごばんによって考案こうあんされた。革命かくめいまえの1917ねん人々ひとびと保健ほけん先進せんしんこくくらべてかなりおくれていたが、革命かくめい制定せいていされた医療いりょう制度せいどにより、すべての年齢ねんれいそう平均へいきん寿命じゅみょうびるなど大幅おおはば改善かいぜん見込みこめた。連邦れんぽうにおける医療いりょう制度せいど原案げんあん当時とうじ政治せいじであり医師いしでもあったニコライ・セマシコロシアばんによっててられたものでもあった。 どう連邦れんぽう医療いりょう無料むりょう提供ていきょうされ、くにぜん人口じんこう適切てきせつ医療いりょうけられるようにさだめられていた。

しかし、そのの1980年代ねんだい後半こうはんになるとゴルバチョフによる社会しゃかい保証ほしょう削減さくげんにより無料むりょう制度せいどらぎはじめ、ソ連それん崩壊ほうかい経済けいざいきょう資本しほん主義しゅぎなどによりその制度せいどはなくなっていた。

宗教しゅうきょう

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正教せいきょう弾圧だんあつ

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ロシア・ボリシェヴィキによる教会きょうかい財産ざいさん接収せっしゅうIvan Vladimirovロシアばんさく
 
ロシア・革命かくめいによって死刑しけい宣告せんこくされる聖職せいしょくしゃ地主じぬしIvan Vladimirovロシアばんさく
 
ロシア・ボリシェヴィキの命令めいれい強制きょうせい労働ろうどう従事じゅうじする聖職せいしょくしゃIvan Vladimirovロシアばんさく
 
1931ねんのモスクワにて、爆破ばくはされる救世主きゅうせいしゅハリストスだい聖堂せいどう

ロシア革命かくめいによって世俗せぞく主義しゅぎかみろん唯物ゆいぶつろんほうじるソビエト連邦れんぽう成立せいりつすると、ロシア帝国ていこく国教こっきょうであった正教せいきょう組織そしきとしてはロシア正教会せいきょうかいのほか、ウクライナ正教会せいきょうかいグルジア正教会せいきょうかいなどをふくむ)は多数たすう聖堂せいどう修道院しゅうどういん閉鎖へいさされ、財産ざいさん没収ぼっしゅうされた。のちに世界せかい遺産いさんとなるソロヴェツキー諸島しょとう修道院しゅうどういんぐん強制きょうせい収容しゅうようしょ転用てんようされた。

聖職せいしょくしゃ信者しんじゃ外国がいこくのスパイなどの嫌疑けんぎ逮捕たいほされ、多数たすうもの処刑しょけいされ致命ちめいした。初代しょだい京都きょうと主教しゅきょうつとめただい主教しゅきょうアンドロニク・ニコリスキイめのうえ銃殺じゅうさつされるという特異とくい致命ちめいられる。モスクワそう主教しゅきょうティーホン当初とうしょかみろん標榜ひょうぼうするボリシェヴィキにたいして強硬きょうこう反発はんぱつしめしていたが、想像そうぞう以上いじょう苛烈かれつ弾圧だんあつ教会きょうかいたいしておこなわれていく情勢じょうせいたいして現実げんじつてき姿勢しせい転換てんかんし、ソヴィエト政権せいけんをロシアの正当せいとう政府せいふみと一定いってい協力きょうりょくおこなったが、教会きょうかい活動かつどうはなおいちじるしく抑圧よくあつされた。

1921ねんから1923ねんにかけてだけで、主教しゅきょう28にん妻帯さいたい司祭しさい2691にん修道しゅうどう1962にん修道しゅうどうおんな3447にん、その信徒しんと多数たすう処刑しょけいされた[126]。1918ねんから1930ねんにかけてみれば、およそ4まん2000にん聖職せいしょくしゃころされ、1930年代ねんだいにも3まんから3まん5000の司祭しさい銃殺じゅうさつもしくは投獄とうごくされた[127]。1937ねんと1938ねんには52にん主教しゅきょうのうち40にん銃殺じゅうさつされた[128]

政府せいふ迫害はくがいおそ多数たすう亡命ぼうめいしゃた。亡命ぼうめいしゃたちのなかからはセルゲイ・ブルガーコフウラジーミル・ロースキイパーヴェル・エフドキーモフイリア・メリア(メリアはグルジアじん)など世界せかいてき著名ちょめい神学しんがくしゃ輩出はいしゅつされ、20世紀せいき初頭しょとうまであまりられていなかった正教せいきょう伝統でんとう海外かいがいられるきっかけとなった。

1931ねんにはスターリンの命令めいれいによって救世主きゅうせいしゅハリストスだい聖堂せいどう爆破ばくはされた。

1940年代ねんだいはいると、どくせんにおけるドイツの侵攻しんこうたいして国民こくみん士気しき鼓舞こぶする必要ひつようられたスターリンは、それまでの物理ぶつりてき破壊はかいともなった正教会せいきょうかいへの迫害はくがい方向ほうこう転換てんかんして教会きょうかい活動かつどう一定いってい復興ふっこうみとめ、1925ねんそう主教しゅきょうティーホンが永眠えいみんして以降いこう空位くういとなっていたモスクワそう主教しゅきょう選出せんしゅつみとめた(1943ねん)。このさいにそれまで禁止きんしされていた教会きょうかい関連かんれん出版しゅっぱんぶつがきわめて限定げんていされたものではあったもののみとめられ、1918ねんから閉鎖へいさされていたモスクワ神学しんがくアカデミーは再開さいかい許可きょかされた。

ただし1940年代ねんだいなかばにはソ芬戦そう以後いごヴァラーム修道院しゅうどういんのある地域ちいきソ連それんりょうとなったため、ヴァラーム修道院しゅうどういん修道しゅうどうたちはフィンランドに亡命ぼうめいし、この結果けっかフィンランド正教会せいきょうかいしんヴァラーム修道院しゅうどういん設立せつりつされるなど、ソ連それんにおける正教せいきょう弾圧だんあつ亡命ぼうめいしゃることがないほどにまで緩和かんわされたわけではない。

スターリンの、フルシチョフは再度さいど正教会せいきょうかいへの統制とうせい強化きょうかゆるやかかつ細々こまごまとした回復かいふく基調きちょうにあったロシア正教会せいきょうかい再度さいど打撃だげきこうむり、教会きょうかいすう半分はんぶん以下いか減少げんしょう以降いこうソ連それん崩壊ほうかいいたるまでロシア正教会せいきょうかいきょうぜい回復かいふくすることはなかった。

イスラム弾圧だんあつ

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広大こうだい国土こくどなかでも、中央ちゅうおうアジア地域ちいきではイスラム教いすらむきょうおおきな勢力せいりょくっていたが、ソビエト連邦れんぽう成立せいりつとともに正教せいきょうなど宗教しゅうきょうとともに弾圧だんあつされることとなり、ムスリム宗務しゅうむきょくによって国家こっか統制とうせいされた。しかし人々ひとびとしんなか信仰しんこうしんまではおさえることができず、宗教しゅうきょうおなじくソ連それん崩壊ほうかいきょうぜい回復かいふくした。

信仰しんこうされていた地域ちいきかたよりはあったものの、ぜんソビエト連邦れんぽう領内りょうないにおけるイスラム教徒きょうと人口じんこう最終さいしゅうてきに7000まんにん前後ぜんこうにもたっし、そう人口じんこうじつに4にん1人ひとりがイスラム教徒きょうと(もしくはイスラムを文化ぶんかてき背景はいけいひと)でめられていた。この数字すうじはイラン、トルコ、エジプトなどのそう人口じんこうにも匹敵ひってきし、ソビエト連邦れんぽうそう人口じんこうにおいても、国民こくみんめる割合わりあいにおいても、イスラム教いすらむきょう国家こっかとしては最大さいだいきゅうのムスリム人口じんこうかかえる国家こっかとなっていた。

イスラムが多数たすう地域ちいき以外いがいのロシア連邦れんぽうなどのしょしゅうにおいても、イスラムを背景はいけいったしょ民族みんぞくとくタタールじんアゼルバイジャンじん全土ぜんど居住きょじゅうし、ソビエト連邦れんぽうないのどの地域ちいきにおいても一定いっていすうのイスラム社会しゃかい存在そんざいしていた。このてんおなイスラム教いすらむきょうこくでありながら全土ぜんどにイスラム社会しゃかい内包ないほうしているインドや中国ちゅうごくとも共通きょうつうしていた。

ただソビエト連邦れんぽうにおけるイスラムは、中国ちゅうごくやインドとはことなり、多数たすう民族みんぞくと、文化ぶんか言語げんご血統けっとう形質けいしつなどを共有きょうゆうする集団しゅうだん具体ぐたいてきえば、スラヴけいのロシアじんなどと文化ぶんか言語げんご共有きょうゆうする集団しゅうだんあいだにはあまりひろまらなかった。ソビエト連邦れんぽうないのイスラムはあくまでテュルクけいイランけい、コーカサスけいなどの、(多数たすう民族みんぞくであるロシアじんからた)民族みんぞくあいだおも信仰しんこうされていた。全土ぜんど幅広はばひろ分散ぶんさんしていたイスラムけい民族みんぞくのうちタタールじんあいだにはスンナおおく、アゼルバイジャンじんあいだにはシーアおおいため、両派りょうはちか比率ひりつ全土ぜんどらばっていたこともユニークである。このてんはソビエト連邦れんぽう崩壊ほうかいも、ロシア連邦れんぽうにおいてがれている。

ユダヤきょう弾圧だんあつ民衆みんしゅうによるはんユダヤ主義しゅぎ

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社会しゃかい主義しゅぎソ連それん政府せいふ宗教しゅうきょう同様どうようにユダヤきょう弾圧だんあつし、どう国民こくみんはんユダヤ感情かんじょうつよかった[129]

民衆みんしゅうあいだではソ連それんという共産きょうさん主義しゅぎ国家こっか誕生たんじょう国内こくないにおける宗教しゅうきょう活動かつどう制限せいげんされた影響えいきょうで、ソ連それん低迷ていめいどう国内こくない人々ひとびとなかにロシア正教せいきょうすくいをもとめた人々ひとびと増加ぞうかした一方いっぽうはんユダヤ主義しゅぎ台頭たいとうした[130]ソ連それん誕生たんじょう直後ちょくご指導しどうにはおおくのユダヤじんがいたことから「社会しゃかい主義しゅぎ革命かくめいはユダヤじん陰謀いんぼう」とのデマも拡散かくさんし、だい2大戦たいせんちゅうにもナチスによるユダヤじん迫害はくがいくわわる住民じゅうみんさえもいた[131]

1939ねんどく不可侵ふかしん条約じょうやく東欧とうおう諸国しょこく分割ぶんかつ支配しはいめると、東欧とうおうのユダヤじんどくあいだはさまれてうしなった。当時とうじポーランド共和きょうわこくげんベラルーシ含)から逃亡とうぼうしたユダヤじんは、ソ連それん併合へいごう手前てまえであったリトアニアから日本にっぽん経由けいゆ第三国だいさんごくのがれようとし、彼等かれら杉原すぎはら千畝ちうね根井ねい三郎さぶろうすくっている[129]ソ連それん民衆みんしゅうソ連それんへの不満ふまんを「ユダヤじんつくった共産きょうさん主義しゅぎ」のせいだとうわさし、ソ連それん右翼うよく団体だんたいとうがユダヤじん襲撃しゅうげきなどしていた。そのため、ソ連それん崩壊ほうかいにロシアじんからユダヤじんへの憎悪ぞうおたかまると、おおくのユダヤじんがイスラエルに移住いじゅうしている[130]

その宗教しゅうきょう弾圧だんあつ

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正教せいきょうのみならず、キリスト教きりすときょうであるカトリック教会きょうかい東方とうほう典礼てんれいカトリック教会きょうかいふくむ)、せい公会こうかいプロテスタント弾圧だんあつけた。

創価学会そうかがっかいとの交流こうりゅう

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日本にっぽん創価学会そうかがっかい日蓮にちれん仏教ぶっきょうけい)にかんしては、ソ連それん国内こくないにおける布教ふきょう活動かつどう自体じたいみとめなかったが[注釈ちゅうしゃく 28]外交がいこうてきおよび経済けいざいてき見地けんちから友好ゆうこう関係かんけいたもっていた。とりわけ池田いけだ大作だいさく会長かいちょう(のちに名誉めいよ会長かいちょう)が1974ねん以降いこうソ連それん訪問ほうもんかえすようになると、政府せいふとう要人ようじん面会めんかいおうじるのが慣例かんれいだった。1974ねん、1975ねんほうソではアレクセイ・コスイギン、1981ねんほうソではニコライ・チーホノフ、1987ねんほうソではニコライ・ルイシコフ、1990ねんほうソではゴルバチョフと面会めんかいしている。池田いけだ名誉めいよ会長かいちょう最高さいこう指導しどうしゃとの面会めんかいおこなわれたのはゴルバチョフ政権せいけん時代じだいの1990ねんだった。

社会しゃかい問題もんだい

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戦災せんさい貧困ひんこん孤児こじ

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ソビエト連邦れんぽうでは国家こっか連邦れんぽう歴史れきしはじまった当初とうしょからおおくの混乱こんらんしょうじていたため、多数たすう戦災せんさい孤児こじやそのストリートチルドレン対処たいしょしなければならなかった。また、そのどくせんはじまると戦災せんさい孤児こじえていき、戦後せんご1945ねんから1950年代ねんだいにかけてはソビエト連邦れんぽうにとっておおきな社会しゃかい問題もんだいとなっていたが、そのの1960年代ねんだいから1991ねんまでは終戦しゅうせんからの時間じかんてき経過けいかにより戦争せんそう孤児こじすくなくなっていった。そのため、1922ねんから1991ねんにかけて孤児こじから問題もんだいおおきく変動へんどうしている。

民族みんぞく不和ふわ

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1941ねんにおけるソビエト連邦れんぽう民族みんぞく地図ちず
 
1970ねんにおけるソビエト連邦れんぽう民族みんぞく地図ちず

ソ連それんにおけるユダヤけいはん感情かんじょうによるはんユダヤ主義しゅぎ

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日本にっぽん記者きしゃクラブによるとソ連それん時代じだいだけでなく、革命かくめいまえのロシア帝国ていこくでも、ユダヤじん迫害はくがいはたびたびきていたこと[132]、ロシア帝政ていせいで、ロシア帝国ていこくはユダヤじんはウクライナに定住ていじゅうさせ、移動いどう禁止きんしするなどの政策せいさくをとってきたこと、おおくのユダヤじんがロシア帝国ていこく不満ふまんっていたため、わかいユダヤじんたちがロシア革命かくめい参加さんかしたことは事実じじつであると指摘してきしている[132]

1948ねんイスラエル建国けんこくまで、はんソ連それん(おやロシア帝国ていこくまた民族みんぞく国家こっか独立どくりつ活動かつどう)の人々ひとびとはんユダヤてき立場たちばひとおおかった背景はいけいには、ロシア帝国ていこく時代じだいからロシアじんからも差別さべつされていたうえに、当時とうじ自民じみんぞく国家こっかたなかったユダヤじんにはソ連それんかかげた共産きょうさん主義しゅぎ思想しそう共感きょうかんするものおおく、かれらが共産きょうさん主義しゅぎしゃとなったこと、マルクスだけでなく、ソ連それん幹部かんぶにユダヤじん多数たすういたことがある。そのため、しろけいロシアじんなどのようにソ連それんたいする敵対てきたい行動こうどうせずともはんソ連それん感情かんじょうっていた共産きょうさん主義しゅぎしゃ一般いっぱんロシアじんは「ユダヤじん母国ぼこくられた」、ソ連それん侵略しんりゃくされた地域ちいき国家こっか人々ひとびとは「ユダヤじん自国じこく侵略しんりゃくされた」として、はんユダヤの思想しそうとなっていた。ソ連それん政府せいふ指導しどうそうにおけるユダヤじん割合わりあい当時とうじ他国たこく圧倒あっとうし、国内外こくないがいのユダヤじん資本しほん主義しゅぎ支持しじする富裕ふゆうそう以外いがいソ連それんにシンパシーをつほどであった。ただし、1948ねんにイスラエルが建国けんこくされると、裕福ゆうふくでもないユダヤじんソ連それんからイスラエルへしんうつっている[133]さらには、『資本しほんろん』をいたマルクスはユダヤじんであり、だいロシア革命かくめいであるじゅうがつ革命かくめいでロシア帝国ていこくからソ連それんになり、成立せいりつした当初とうしょレーニン内閣ないかくのメンバーは半分はんぶん以上いじょうがユダヤけいだった[132]

ロシア正教せいきょう復権ふっけんソ連それん崩壊ほうかいのユダヤじんだい移動いどう
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さらソ連それんという共産きょうさん主義しゅぎ国家こっか誕生たんじょうで、ソ連それん国内こくないでは宗教しゅうきょう活動かつどう制限せいげんされた。そのため、ソ連それんまると、ソ連それん国内こくない人々ひとびとふたたロシア正教せいきょうすくいをもとめた一方いっぽうはんユダヤ主義しゅぎ台頭たいとうした。ソ連それん人々ひとびと経済けいざい不満ふまんを「ユダヤじんつくった共産きょうさん主義しゅぎ」のせいだとうわさし、ソ連それん右翼うよく団体だんたいとうがユダヤじん襲撃しゅうげきさえこしていた。ソ連それん崩壊ほうかいにロシアじんからユダヤじんへの憎悪ぞうおたかまると、おおくのユダヤじんがイスラエルに移住いじゅうしている[132]ソ連それん崩壊ほうかい前後ぜんこうのロシアにおけるはんユダヤ主義しゅぎ台頭たいとうのため、イスラエルへのだい移動いどうがおこり、2016ねん4がつ時点じてんイスラエルの人口じんこう現在げんざい840まんにんえているが、そのうちロシアからの移民いみんは120まんにんにもたっし、人口じんこうの15%をめるほどになっている[132]

ソビエト連邦れんぽうにおける強盗ごうとう殺人さつじん、その暴力ぼうりょく犯罪はんざい米国べいこくほど蔓延まんえんしておらず、薬物やくぶつ乱用らんよう発生はっせいりつひくかったとされる。だが反面はんめん汚職おしょく国家こっか腐敗ふはい英語えいごばん日常にちじょう茶飯事さはんじであった[134]

公安こうあん警察けいさつ

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ソ連それんにおける警察けいさつ機関きかんは『ミリツィアロシアばん英語えいごばん』とばれていた。この組織そしきソビエト連邦れんぽう内務省ないむしょう下部かぶ機関きかんで、ソ連それん構成こうせいこくおよびワルシャワ条約じょうやく機構きこう加盟かめいこく中心ちゅうしんとした社会しゃかい主義しゅぎ諸国しょこく治安ちあんにおいて絶大ぜつだいともいえる影響えいきょうりょくしめしていた。

人権じんけん

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ソビエト連邦れんぽう人権じんけん概念がいねん国際こくさいほうとはおおきくことなっていた。ソ連それん法理ほうりろんによれば、「個人こじんたいして主張しゅちょうされるべき人権じんけん受益じゅえきしゃ政府せいふである」[135]すなわち「ソビエト国家こっか人権じんけんみなもとである」とかんがえられていたのである[136]

どう連邦れんぽうにおける人権じんけんきびしく制限せいげんされたものとなっていた。言論げんろん自由じゆう抑圧よくあつされ、反対はんたい意見いけん容赦ようしゃなく処罰しょばつされるといった状態じょうたい連邦れんぽう崩壊ほうかいまでながきにわたってつづいていた。これにともない、独立どくりつした政治せいじ活動かつどう自由じゆう労働ろうどう組合くみあい民間みんかん企業きぎょう独立どくりつ教会きょうかい野党やとうへの参加さんか関係かんけいなく容認ようにんされておらず、国民こくみん移動いどう自由じゆう国内外こくないがい制限せいげんされていた。

言論げんろん報道ほうどう

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報道ほうどう統制とうせい

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国内こくない

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上記じょうきのように外国がいこく放送ほうそう傍受ぼうじゅ禁止きんしされていたうえ、テレビラジオ新聞しんぶんなどのマスコミによる報道ほうどう共産党きょうさんとう管制かんせいかれ、国家こっかとうにとってマイナスとなる報道ほうどうは、1986ねんにグラスノスチがはじまるまでながれることはなかった。

このような規制きせい外国がいこく事件じけんや、チェルノブイリ事故じこ大韓航空だいかんこうくう撃墜げきつい事件じけんのような国際こくさいてき影響えいきょうがある事件じけんたいしてだけでなく、国内こくない政治せいじ経済けいざいてき事件じけんも、とう幹部かんぶ粛清しゅくせい地下鉄ちかてつ事故じこ炭鉱たんこう事故じこのような事件じけんいたるまで、それが国家こっかとうたいしてマイナスの影響えいきょうあたえると判断はんだんされたものはほとんど報道ほうどうされることがなかったか、かり報道ほうどうされても国家こっかとうたいして有利ゆうり内容ないようになるよう歪曲わいきょくされていた。そのため、西側にしがわくにでオリンピックなどがあると、そこではじめて真実しんじつったソ連それん選手せんしゅ関係かんけいしゃがそのまま亡命ぼうめい希望きぼうするケースが頻発ひんぱつした。

ロシア革命かくめい以前いぜん支配しはいしゃニコライ2せいやその家族かぞく裁判さいばんなしに銃殺じゅうさつした真実しんじつあきらかにしようと、1979ねん地質ちしつ調査ちょうさたい皇帝こうてい一家いっか遺骨いこつ発掘はっくつおこなったが、KGBに逮捕たいほされた事例じれいがある。しかしソ連それん崩壊ほうかいにロシアでは70ねん以上いじょう隠蔽いんぺいされたこの事実じじつあきらかになり、ロシア革命かくめいから80ねんた1998ねん葬儀そうぎおこなわれた。

国外こくがい

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西側にしがわ諸国しょこく報道ほうどう機関きかん特派とくはいん基本きほんてき国内こくない自由じゆう取材しゅざい報道ほうどうすることはきんじられており、事前じぜん申請しんせい必要ひつようであったがそのおおくは却下きゃっかされ、たとえゆるされたとしても取材しゅざいさき人選じんせん日程にっていはすべてお膳立ぜんだてされたものに沿わなければならなかった。モスクワオリンピックなどの国際こくさいてきイベントや、西側にしがわ諸国しょこく首脳しゅのうじん公式こうしき訪問ほうもんおこなわれるさいソ連それんおとずれた報道陣ほうどうじんたいしては、このようなお膳立ぜんだてされた取材しゅざいスケジュールがかなら提供ていきょうされた。

西側にしがわ諸国しょこく報道ほうどう機関きかんはたらくソビエトじん従業じゅうぎょういん自主じしゅてき選択せんたくすることはゆるされず、当局とうきょくからあてがわれたものれるのみとされ、そのおおくが西側にしがわ諸国しょこく報道ほうどう機関きかんやその特派とくはいん行動こうどう当局とうきょく報告ほうこくする義務ぎむっていた。

「クレムリノロジー」

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国内こくないにおける報道ほうどう管制かんせい一環いっかんとして、共産党きょうさんとう書記しょきちょうなどのとう要人ようじん死去しきょしたさいには、とうによる正式せいしき発表はっぴょう先立さきだち、テレビやラジオが通常つうじょう番組ばんぐみ急遽きゅうきょ停止ていしし、クラシック音楽おんがくもしくはだい世界せかい大戦たいせん戦史せんしなどの歴史れきし映像えいぞうわり、クレムリンなどの要所ようしょ掲揚けいようされている国旗こっき半旗はんきになるのがならわしであった。このため、国民こくみん(と西側にしがわ報道ほうどう機関きかん)のおおくは、テレビやラジオの番組ばんぐみ変更へんこうされ、要所ようしょ掲揚けいようされている国旗こっき半旗はんきになるたびに、モスクワ市内しない政府せいふ建物たてもの病院びょういんぐん施設しせつなどをおとず情報じょうほう収集しゅうしゅうつとめたうえに、これらの対応たいおうてどの階層かいそう要人ようじん死去しきょしたかを推測すいそくしあっていたといわれている。

さらにとう要人ようじん失脚しっきゃくした(もしくは粛清しゅくせいされた)さいにはその事実じじつ即座そくざ政府せいふより正式せいしき発表はっぴょうされることはまれで、このため西側にしがわ諸国しょこく情報じょうほう機関きかんいん報道ほうどう機関きかん特派とくはいんは、メーデーなどをはじめとする記念きねんのパレードのさいにクレムリンのあか広場ひろばだいうえなら要人ようじん位置いち変化へんかや、新聞しんぶんやテレビ、ラジオニュースでのあつか回数かいすう順番じゅんばん観測かんそくし、失脚しっきゃくなどによるとう中央ちゅうおうにおける要人ようじん序列じょれつ変化へんか推測すいそくし、これを「クレムリノロジー」とんでいた。

プロパガンダ

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ソビエト連邦れんぽうプロパガンダ現代げんだい手法しゅほう先駆さきがけるものであり、ソ連それん世界せかいはつ宣伝せんでん国家こっかばれる(en:Peter KenezのThe Birth of the Propaganda State;Soviet Methods of Mass Mobilization 1985)。映画えいがではレーニンの「すべての芸術げいじゅつなかで、もっとも重要じゅうようなものは映画えいがである」とのかんがえから世界せかいはつ国立こくりつ映画えいが学校がっこうつくられ、セルゲイ・エイゼンシュテインモンタージュしたことにより、当時とうじとしてはきわめて斬新ざんしんなものになり、その精巧せいこうさは各国かっこく著名ちょめい映画えいがじんや、のちナチス政権せいけんのドイツの宣伝せんでんしょうとなるヨーゼフ・ゲッベルス絶賛ぜっさんさせた。宣伝せんでん映画えいが地方ちほう上映じょうえいできるよう、移動いどう可能かのう映写えいしゃ設備せつびとして映画えいがかんそなえた列車れっしゃ船舶せんぱく航空機こうくうき製造せいぞう活用かつようされた(れいマクシム・ゴーリキーごう)。看板かんばんやポスターではロシア・アヴァンギャルドから発展はってんした力強ちからづよ構図こうず強烈きょうれつなインパクトのフォトモンタージュまれ、これは世界せかい各国かっこく模倣もほうされた。

とくバベルばべるとうにもたとえられる世界せかい最大さいだい最高さいこうそうちょうきょだい建築けんちくぶつ目指めざしたソビエト・パレス後世こうせい建築けんちくだけでなく、形態けいたいてきにはイタリアやドイツ、日本にっぽんなどの建築けんちくおおきな影響えいきょうあたえた。日本にっぽんでもソビエト・パレスの計画けいかく丹下たんげ健三けんぞう建築けんちく目指めざすにいたった。当時とうじ世界一せかいいちたか建造けんぞうぶつであったオスタンキノ・タワー完成かんせいさせた。スターリンはモスクワをニューヨークのような摩天楼まてんろうにするため、スターリン様式ようしき建物たてものおお建設けんせつした。ソ連それんのプロパガンダはイワン・パヴロフレフ・ヴィゴツキーなどの心理しんりがくもの理論りろんもとづいていたてん先駆せんくてきだったとひょうするものもいる。ほかにもボリス・ロージングブラウン管ぶらうんかん使つかったテレビを世界せかいはじめて発案はつあんするなど、テレビの研究けんきゅう活発かっぱつだった。

しょく文化ぶんか料理りょうり

編集へんしゅう

ソビエト連邦れんぽうにおけるしょく文化ぶんかは、社会しゃかい主義しゅぎ体制たいせい影響えいきょうから壊滅かいめつてき打撃だげきけていたものが散見さんけんされる。

ウォッカ輸出ゆしゅつひんとして貴重きちょう外貨がいかをもたらした。

西側にしがわ嗜好しこうひんたいしても社会しゃかい主義しゅぎのイデオロギーによる排除はいじょおこなわれていたが、コカ・コーラに「反共はんきょうてきもの」というレッテルをった一方いっぽう[137]ペプシ流通りゅうつう許可きょかされるなど一様いちようではなかった。

文学ぶんがく

編集へんしゅう

ソビエト連邦れんぽうでは上述じょうじゅつされているように言論げんろん自由じゆう表現ひょうげん自由じゆうがなかったため、文学ぶんがくしゃなかには亡命ぼうめい余儀よぎなくされたものや、ノーベル文学ぶんがくしょう受賞じゅしょうボリス・パステルナークのように受賞じゅしょう辞退じたい余儀よぎなくされたもの、おなじくノーベル文学ぶんがくしょう受賞じゅしょうソルジェニーツィンのように国外こくがい追放ついほうされたものがいるなど、文化ぶんかじんにとっては受難じゅなん相次あいつうえ言論げんろん表現ひょうげん封殺ふうさつ慢性まんせいした状況じょうきょうつづいていた。

音楽おんがく

編集へんしゅう
1930年代ねんだいソ連それん流行りゅうこうであるEnthusiast's March

ソビエト連邦れんぽうでは音楽おんがく教育きょういく制度せいど創設そうせつされ、おおくの才能さいのうある作曲さっきょく演奏えんそう輩出はいしゅつされていたが、そのだい部分ぶぶんはロシアじんめられていた。しかしながらウクライナじんやベラルーシじん、ユダヤじん、コーカサスエリアの出身しゅっしんしゃ音楽おんがく分野ぶんやにおいて重要じゅうよう貢献こうけんたしており、それらの人物じんぶつおもクラシック音楽おんがくなどで名曲めいきょくのこしている。

芸術げいじゅつ

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革命かくめい直後ちょくごソ連それんでは革命かくめいてき前衛ぜんえい芸術げいじゅつ流行りゅうこうし、抽象ちゅうしょう芸術げいじゅつ構成こうせい主義しゅぎまれ、ロシア・アヴァンギャルド共産党きょうさんとうのいわば公認こうにん芸術げいじゅつとして革命かくめい思想しそう宣伝せんでんするプロパガンダポスターにひろ採用さいようされた。当時とうじソ連それん世界せかいはつ電子でんし音楽おんがく機器ききテルミンつくられ、モンタージュ理論りろんまれるなど前衛ぜんえい芸術げいじゅつ一大いちだい中心ちゅうしんしており、不遇ふぐうであったおおくの外国がいこく出身しゅっしん前衛ぜんえい芸術げいじゅつがソビエト連邦れんぽう建設けんせつ参加さんかした。たとえば、前述ぜんじゅつしたソビエト・パレスの計画けいかくにはル・コルビュジエヴァルター・グロピウスエーリヒ・メンデルスゾーンオーギュスト・ペレハンス・ペルツィヒといった新進しんしん気鋭きえいモダニズム建築けんちくいえたちがかかわった。レーニン自身じしんダダイストであったという学説がくせつもある(塚原つかはらふみ言葉ことばのアヴァンギャルド』)。フセヴォロド・メイエルホリドがアジ・プロ演劇えんげき手法しゅほう確立かくりつ古典こてん斬新ざんしんてき解釈かいしゃくもとづく演出えんしゅつ、コメディア・デラルテ、サーカスなどのうごきと機械きかいてきイメージをわせた身体しんたい訓練くんれんほうビオメハニカ」の提唱ていしょうなどを次々つぎつぎおこない、1920年代ねんだいにおけるソビエト・ロシア演劇えんげきはもとより20世紀せいき前半ぜんはん国際こくさい演劇えんげきおおきな影響えいきょうあたえた(スターリン政権せいけんにはスタニスラフスキー・システムがあった)。

スターリン政権せいけんの1932ねんおこなわれたソ連それん共産党きょうさんとう中央ちゅうおう委員いいんかいにて「社会しゃかい主義しゅぎリアリズム」の方針ほうしん提唱ていしょうされて以降いこうは、1930年代ねんだい前半ぜんはんのうちに文学ぶんがく彫刻ちょうこく絵画かいがなどあらゆる芸術げいじゅつ分野ぶんや作家さっか大会たいかい公式こうしき採用さいようされるにいたり、これにそぐわぬものは制限せいげんされ、次第しだい衰退すいたいすることを余儀よぎなくされた。

一方いっぽうバレエなどのロシアの伝統でんとうてき芸術げいじゅつ政府せいふにより潤沢じゅんたく予算よさんとうじられたことでたか水準すいじゅん維持いじし、クラシック音楽おんがくでも、当局とうきょくによる制限せいげんけながらドミートリイ・ショスタコーヴィチらが作品さくひんのこし、エフゲニー・ムラヴィンスキーひきいるレニングラード・フィルハーモニー交響こうきょう楽団がくだんなどが演奏えんそうのこしている。バレエだんやオーケストラは共産きょうさん主義しゅぎ理想りそうひろめるためとして海外かいがい公演こうえんおこなっていたが、実際じっさいには外貨がいか獲得かくとくしゅ目的もくてきであったとされる。ソ連それん崩壊ほうかい存続そんぞくむずかしくなり、オーケストラが改名かいめいしたり団員だんいん独立どくりつしたりするなどして幽霊ゆうれいオーケストラ多数たすう誕生たんじょうした。アナトリー・ヴェデルニコフのように当局とうきょく迎合げいごうしない演奏えんそう海外かいがい公演こうえん制限せいげんされた。

建築けんちく

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祝祭日しゅくさいじつ

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ソビエト連邦れんぽうにおける祝日しゅくじつは、以下いかとおりである。

ソビエト連邦れんぽう祝日しゅくじつ
日付ひづけ 名称めいしょう 概説がいせつ
1がつ1にち 新年しんねんНовый год 1930ねんから1947ねんまでは休業きゅうぎょうであった
1がつ22にち みどろのКровавое воскрессенье がつ革命かくめい直前ちょくぜんきた日曜日にちようび事件じけん犠牲ぎせいしゃ追悼ついとうするとしてさだめられた。1951ねん廃止はいし
2がつ23にち ソビエト陸軍りくぐん海軍かいぐんロシアばんДень Советской Армии и Военно-морского флота СССР 1918ねんプスコフ付近ふきんにてドイツぐん勝利しょうりしたことを記念きねんして1922ねん制定せいてい1949ねんまでは赤軍せきぐん海軍かいぐん明記めいきされ、ソ連それん崩壊ほうかい1993ねん以降いこう祖国そこく防衛ぼうえいしゃ変更へんこうされた。
3月8にち 国際こくさい女性じょせいデーМеждународный женский день 1965ねん以降いこう休業きゅうぎょう
3月12にち 専制せんせい打倒だとうНизвержение самодержавия がつ革命かくめい記念きねんして制定せいてい、モスクワなどの都市としでは1929ねん地方ちほうでは1940ねん廃止はいしとなった。
3月18にち パリ・コミューンДень Парижском комуны 1918ねん制定せいてい、1929ねん廃止はいしされたが、地方ちほうでは1940ねんごろまで存在そんざいした。
4がつ12にち 宇宙うちゅう飛行ひこうДень космонавтки ユーリイ・ガガーリン世界せかいはつ有人ゆうじん宇宙うちゅう飛行ひこうげた
5月1にち5月2にち メーデーДень интернационалаДень международной солидарности трудящихся 休業きゅうぎょう。1917ねんじゅうがつ革命かくめい以前いぜん)に制定せいていされ、1918ねん名称めいしょうが「国際こくさい労働ろうどうしゃ」に変更へんこうするのと同時どうじ休業きゅうぎょうとなった。1928ねんからは5月2にちもメーデーに追加ついかされ、1970ねんには「国際こくさい労働ろうどうしゃ連帯れんたい」に名称めいしょうわり、ソ連それん崩壊ほうかいの1992ねんにはロシアで「はる労働ろうどう」に名称めいしょうさい再度さいど変更へんこうされた。
5月9にち 戦勝せんしょう記念きねんДень Поведы 休業きゅうぎょうだい祖国そこく戦争せんそうにおけるソ連それん勝利しょうり記念きねんして1965ねん制定せいてい、それ以前いぜん一応いちおう記念きねんであったものの、休業きゅうぎょうではなかった。
5月19にち ピオネールのДень пионерии ピオネール創設そうせつ
9月3にち たいにち戦勝せんしょう記念きねんДень победы над Японией だい世界せかい大戦たいせん終結しゅうけつ日本にっぽん降伏ごうぶく文書ぶんしょ調印ちょういん)を記念きねんして制定せいていされた。
10月7にち ソ連それん憲法記念日けんぽうきねんび 1977ねん憲法けんぽう改正かいせい記念きねんして制定せいてい。1978ねんから1991ねんまでは休業きゅうぎょうであった。
10月29にち コムソモールのДень рождения Комсомола コムソモール創設そうせつ
11月7にち11月8にち じゅうがつ社会しゃかい主義しゅぎだい革命かくめいГодовщина Великой Октябрьской социалистической революции 休業きゅうぎょう。1917ねんじゅうがつ革命かくめい記念きねんして1918ねん制定せいていソ連それん崩壊ほうかいきゅうソ連それん諸国しょこくでは、ベラルーシが11月7にちのみを祝日しゅくじつとしている[注釈ちゅうしゃく 29]
12月5にち ソ連それん憲法記念日けんぽうきねんび 1936ねん憲法けんぽう改正かいせい記念きねんして制定せいてい。1977ねん以降いこうは10月7にち移動いどうした。

外来がいらい文化ぶんか

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西側にしがわ諸国しょこく人気にんきのあったロックンロールヘヴィメタルジャズなどの音楽おんがくや、ハリウッド映画えいがなどの大衆たいしゅう文化ぶんかは「商業しょうぎょうてきで、退廃たいはいまね幼稚ようちなもの」として規制きせいされ、わずかにきたヨーロッパ諸国しょこく西にしドイツなどのポピュラー音楽おんがくや、衛星えいせいこく日本にっぽん、イタリアなどの芸術げいじゅつてき要素ようそたか映画えいがのみが上映じょうえいゆるされていた。これにともない、外国がいこくラジオ放送ほうそう傍受ぼうじゅすることも禁止きんしされていた。

ソビエトをえがいた作品さくひん

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映画えいが

ゲーム

アニメ

  • ウサビッチ日本にっぽん
  • Axis powers ヘタリア作中さくちゅうでは時代じだいがまちまちなため「ロシア」としてあつかわれ、ソ連それんは「みなんでいたいえ」となっている)

社会しゃかい主義しゅぎ体制たいせいえがかれている作品さくひん

  • 007シリーズゴルゴ13など、40年代ねんだいから90年代ねんだいまでの世界せかい情勢じょうせい背景はいけいとするフィクション作品さくひんにおいて、ソビエト連邦れんぽう頻繁ひんぱんえがかれている。とく諜報ちょうほう機関きかんKGB暗躍あんやくや、政府せいふ高官こうかん科学かがくしゃ亡命ぼうめい事件じけんとうがよく題材だいざいとなる。作成さくせいされたくに西側にしがわ諸国しょこくであるためと、ソビエト連邦れんぽう内部ないぶ不明ふめいであったために、ソビエト連邦れんぽう関係かんけいしゃ悪役あくやくとしてえがかれることもおおい。
  • アメリカとソ連それん緊張きんちょう緩和かんわした冷戦れいせん終結しゅうけつ前後ぜんこうには、レッドブル(1988ねん)のようにたんなる悪役あくやくではなく堅物かたぶつ西側にしがわ文化ぶんか戸惑とまどうキャラクターとしてえがかれるれいえた。
  • ウォッカ・タイム片山かたやままさゆき

ステート・アマチュア

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運動うんどう競技きょうぎではくに威信いしんをかけた強化きょうかさくがとられ、選手せんしゅ育成いくせいプログラムによって育成いくせいさせられた選手せんしゅが、オリンピックすうおおくのメダルを獲得かくとくしていた。レスリングアイスホッケーサッカーバレーボールバスケットボールホッケー体操たいそう競技きょうぎ強豪きょうごうこくとしてられ、オリンピックや世界せかい選手権せんしゅけんおおくのメダル獲得かくとくした(オリンピックはつ参加さんかメルボルンオリンピックから)。しかし崩壊ほうかいにそれらの選手せんしゅおおくが人権じんけん無視むししたトレーニングのみの生活せいかつ違法いほうドーピングによるものだったことが当事とうじしゃ告白こくはくによりあきらかになった。それらの記録きろくはいまもなお剝奪されずに現存げんそんしている。

共産きょうさん主義しゅぎというシステムじょう、すべてのスポーツ選手せんしゅ国家こっか管理かんりにおけるステート・アマであるという位置いちづけであり、よって資本しほん主義しゅぎ諸国しょこくのようなプロスポーツおよびプロ選手せんしゅ存在そんざいしなかった。なお、プロきゅう選手せんしゅ大勢おおぜいいた。

1980ねんモスクワオリンピック

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1980ねんに、ソビエト連邦れんぽう歴史れきしじょう唯一ゆいいつ夏季かきオリンピックであるモスクワオリンピックおこなわれた。冷戦れいせんということもあり、くに総力そうりょくげてオリンピック成功せいこう目指めざしたものの、前年ぜんねんおこなわれたアフガニスタン侵攻しんこうたいする抗議こうぎという名目めいもくで、日本にっぽん西にしドイツ、アメリカなどの西側にしがわ諸国しょこく東側ひがしがわ諸国しょこくなかでも、ソ連それん対立たいりつ最中さいちゅうであった中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくがボイコットをおこなった。

クレムリンの時計とけいとうであるスパスカヤとう時報じほうとともにはじまった開会かいかいしきでは、レーニン・スタジアム中央ちゅうおうマスゲームくにあきらや、マスコットキャラクターであるこぐまのミーシャ、さらにソビエト連邦れんぽう構成こうせいする15の共和きょうわこく基幹きかん民族みんぞく衣装いしょう模様もよう体現たいげんするなど、まさに多種たしゅ多様たよう体現たいげんしたのである。

そして、1984ねん開催かいさいされた次回じかいロサンゼルスオリンピックでは、1983ねんのアメリカぐんによるグレナダ侵攻しんこうへの抗議こうぎという名目めいもくで、ソビエト連邦れんぽうひがしドイツをはじめ、ソ連それん衛星えいせいこくである東側ひがしがわ諸国しょこくおおくが報復ほうふくともいえる一斉いっせいボイコットを表明ひょうめいした。しかしソ連それんは、その代替だいたいともいえるフレンドシップ・ゲームズДружва-84)の開催かいさい決定けっていし、東側ひがしがわ諸国しょこく一流いちりゅう選手せんしゅ参加さんかした。

頭脳ずのうスポーツ

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識字しきじりつが30%であった革命かくめい直後ちょくごからすうじゅうねんで87%に改善かいぜんさせ、戦後せんごにほぼ100%を達成たっせいさせるなど基礎きそ教育きょういく充実じゅうじつしていた。さらに国威こくい発揚はつようのためせんもんのトレーニングへの公的こうてき補助ほじょおこなわれたが、だい1かい国際こくさい数学すうがくオリンピックは「したから2番目ばんめの6」をという結果けっか指導しどうから叱責しっせきけ、3ねんの1962ねんからはたか成績せいせきほこるようになる強豪きょうごうこくとなった。参加さんかしゃ国内こくない大学だいがく卒業そつぎょう科学かがくしゃ技術ぎじゅつしゃとして活動かつどうした。

マインドスポーツなかでもとくチェス伝統でんとうてきさかんで、国民こくみんにとっても公認こうにんされている数少かずすくない娯楽ごらくであったが、ソ連それん時代じだいにはくに管理かんりするチェス学校がっこう各地かくち建設けんせつされ、体制たいせい崩壊ほうかいするまでは世界せかい最高さいこう水準すいじゅんたもっていた。国内こくない選手権せんしゅけん開催かいさい書籍しょせき出版しゅっぱんなどもさかんだった。コンピュータチェス研究けんきゅうさかんで、だい1かい世界せかいコンピュータチェス選手権せんしゅけんでもソ連それんのプログラムが優勝ゆうしょうし、人工じんこう知能ちのう権威けんいジョン・マッカーシーアラン・コトックひきいるマサチュまさちゅセッツ工科大学せっつこうかだいがくソ連それんのモスクワ理論りろん実験じっけん物理ぶつり研究所けんきゅうじょによっておこなわれた世界せかいはつのコンピュータ同士どうしのチェス対戦たいせんでもっている。

チェスかいではプロとアマの区別くべつがないため、ミハイル・タリミハイル・ボトヴィニクガルリ・カスパロフなど、ソ連それん出身しゅっしん選手せんしゅ世界せかい王者おうじゃ長期ちょうきにわたって[注釈ちゅうしゃく 30]独占どくせんしていた。一時期いちじき国際こくさい大会たいかいられなかったグランドマスターきゅう国内こくない選手せんしゅたいし、ソ連それんのチェス協会きょうかいが「ソ連邦それんぽうグランドマスター」という独自どくじのタイトルを創設そうせつしたこともあったが、次第しだいにトップ選手せんしゅならば試合しあい渡航とこう許可きょかされるようになった。西側にしがわ大会たいかい優勝ゆうしょう国威こくい発揚はつよう貢献こうけんするだけでなく、大会たいかい賞金しょうきん指導しどう対局たいきょく謝礼しゃれい執筆しっぴつした棋書の印税いんぜいなどおおくはないが貴重きちょう外貨がいかをもたらした。しかし有力ゆうりょく選手せんしゅがこれを利用りようして亡命ぼうめいすることもあった。とくヴィクトール・コルチノイ亡命ぼうめい西側にしがわ選手せんしゅ」としてアナトリー・カルポフソ連それん代表だいひょう国際こくさい大会たいかい対戦たいせんしたことがあり、ソ連それんがわから非難ひなんけることとなった。

ソ連それん代表だいひょう西側にしがわ選手せんしゅがチームで対戦たいせんすることもあったが、とくボリス・スパスキーとアメリカじんボビー・フィッシャー対戦たいせんした1972ねん世界せかい王者おうじゃ決定けっていせん試合しあい進行しんこうをめぐり、クレムリンやホワイトハウスが介入かいにゅうするなど、政治せいじてき問題もんだいにまで発展はってんすることがあった。やぶれたスパスキーはその待遇たいぐう悪化あっかなどで、1975ねんにはフランスへ亡命ぼうめいした。

体制たいせい崩壊ほうかい西側にしがわ拠点きょてんうつ選手せんしゅもいたが、ウラジーミル・クラムニクなど、ソ連それん時代じだいのチェス学校がっこう教育きょういくけた選手せんしゅ多数たすう活躍かつやくしている。旧東きゅうとうドイツや近隣きんりん東欧とうおう諸国しょこくでもソ連それん状況じょうきょうにあった。

中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくではスポーツの管理かんりかんしてソ連それん手本てほんとしたため、半官半民はんかんはんみん組織そしき中華ちゅうか全国ぜんこく体育たいいく総会そうかい)による統括とうかつやマインドスポーツを国家こっか体育たいいく総局そうきょく管轄かんかつするなど影響えいきょうおおきい。

サッカーはソビエト連邦れんぽうもっと人気にんきのあるスポーツの1つであった。サッカーソビエト連邦れんぽう代表だいひょうは1950年代ねんだいから1960年代ねんだいにかけて黄金おうごんむかえており、ステート・アマを採用さいようしたオリンピックでの活躍かつやく目覚めざましかった。1956ねんメルボルンきんメダル、1972ねんミュンヘン1976ねんモントリオール1980ねんモスクワではどうメダルを獲得かくとくした。1988ねんソウルはプロ解禁かいきんおこなわれたのちであったが、きんメダルを獲得かくとくソ連それん代表だいひょう有終ゆうしゅうかざった。

FIFAワールドカップでは、オリンピックほどの目立めだった活躍かつやくはないものの、1966 FIFAワールドカップではベスト4に進出しんしゅつするなど、しばしば上位じょうい進出しんしゅつする強豪きょうごうこくとしてられていた。またソ連それん伝説でんせつてき選手せんしゅであり、史上しじょう最高さいこうゴールキーパーとされるレフ・ヤシン世界せかい年間ねんかん最優秀さいゆうしゅうゴールキーパーにあたえられるしょうであるヤシン・トロフィーにそののこしており往時おうじつよさをしのばせている。

UEFA欧州おうしゅう選手権せんしゅけんでの活躍かつやく目覚めざましく、1960ねんだい1かい大会たいかい優勝ゆうしょう。そのも1964ねん、1972ねん、1988ねんじゅん優勝ゆうしょう成績せいせきおさめている。1988ねんじゅん優勝ゆうしょう同年どうねんのオリンピックきんメダルとならんで、ソ連それん代表だいひょう有終ゆうしゅうかざった。

ソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく連邦れんぽうにおけるサッカーの結果けっか
開催かいさいこく 結果けっか
1958 FIFAワールドカップ   スウェーデン王国おうこく ベスト8
1960 欧州おうしゅうネイションズカップ   フランス 優勝ゆうしょう
1962 FIFAワールドカップ   チリ共和きょうわこく ベスト8
1964 欧州おうしゅうネイションズカップ   スペイン じゅん優勝ゆうしょう
1966 FIFAワールドカップ   イングランド 4
1970 FIFAワールドカップ   メキシコ合衆国がっしゅうこく 4
1974 FIFAワールドカップ   ドイツ 4
1978 FIFAワールドカップ   アルゼンチン共和きょうわこく 予選よせん敗退はいたい
1982 FIFAワールドカップ   スペイン王国おうこく 2リーグ敗退はいたい
1985 FIFA U-16世界せかい選手権せんしゅけん   中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく 不参加ふさんか
1986 FIFAワールドカップ   メキシコ合衆国がっしゅうこく ベスト16
1987 FIFA U-16世界せかい選手権せんしゅけん   カナダ 優勝ゆうしょう
1989 FIFA U-16世界せかい選手権せんしゅけん   スコットランド 不参加ふさんか
1990 FIFAワールドカップ   イタリア共和きょうわこく グループリーグ敗退はいたい
1991 FIFA U-17世界せかい選手権せんしゅけん   イタリア 不参加ふさんか

連邦れんぽう遺産いさん

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ソビエト連邦れんぽうのような共産きょうさん主義しゅぎ国家こっか社会しゃかい経済けいざいてき性質せいしつとくにスターリンのもとで実施じっしされてきた政策せいさくでは、官僚かんりょうてきあつまりさん主義しゅぎ国家こっか資本しほん主義しゅぎ国家こっか社会しゃかい主義しゅぎ、あるいはまった特異とくい生産せいさん様式ようしきいち形態けいたいなど、様々さまざまなレッテルをられ、おおくの議論ぎろんわされてきた[138]ソ連それん長期間ちょうきかんにわたって幅広はばひろ政策せいさく実施じっしし、様々さまざま指導しどうしゃによって大量たいりょう相反あいはんする政策せいさく実施じっしされてきたため、肯定こうていてき見方みかたをするひとがいれば「抑圧よくあつてき寡頭政治かとうせいじ」としてどう連邦れんぽういま批判ひはんてきひと存在そんざいする[139]現在げんざいにおいてソ連それんかんする意見いけん複雑ふくざつ状況じょうきょうであり、時間じかん経過けいかとともに変化へんかしている。そのため、世代せだいことなれば、この問題もんだいやそれらの歴史れきしことなる期間きかん対応たいおうするソビエトの政策せいさくについてもことなる見解けんかいわせる現状げんじょうつづいている[140]

脚注きゃくちゅう

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役職やくしょく

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  1. ^ 人民じんみん委員いいん会議かいぎ議長ぎちょう
  2. ^ ソビエト連邦れんぽうにおいては、1936ねん憲法けんぽう126じょうで「とう指導しどうてき役割やくわり」が明記めいきされており、国家こっか元首げんしゅである最高さいこう会議かいぎ幹部かんぶかい議長ぎちょうや、行政ぎょうせいちょう首相しゅしょうかく)である人民じんみん委員いいん会議かいぎ議長ぎちょうではなく、ソビエト連邦れんぽう共産党きょうさんとう書記しょきちょう最高さいこう指導しどうしゃであった。
  3. ^ ソビエト共産党きょうさんとう書記しょきちょう人民じんみん委員いいん会議かいぎ議長ぎちょう閣僚かくりょう会議かいぎ議長ぎちょう
  4. ^ 閣僚かくりょう会議かいぎ議長ぎちょう
  5. ^ ソビエト共産党きょうさんとうだいいち書記しょき閣僚かくりょう会議かいぎ議長ぎちょう
  6. ^ ソビエト共産党きょうさんとうだいいち書記しょき書記しょきちょう最高さいこう会議かいぎ幹部かんぶかい議長ぎちょう
  7. ^ ソビエト共産党きょうさんとう書記しょきちょう最高さいこう会議かいぎ幹部かんぶかい議長ぎちょう
  8. ^ ソビエト共産党きょうさんとう書記しょきちょう最高さいこう会議かいぎ幹部かんぶかい議長ぎちょう
  9. ^ ソビエト共産党きょうさんとう書記しょきちょうソビエト連邦れんぽう大統領だいとうりょう
  10. ^ 中央ちゅうおう執行しっこう委員いいんかい議長ぎちょう(ロシア代表だいひょう)→最高さいこう会議かいぎ幹部かんぶかい議長ぎちょう
  11. ^ 最高さいこう会議かいぎ幹部かんぶかい議長ぎちょう最高さいこう会議かいぎ議長ぎちょうソビエト連邦れんぽう大統領だいとうりょう
  12. ^ 人民じんみん委員いいん会議かいぎ議長ぎちょう
  13. ^ 国民こくみん経済けいざい管理かんり委員いいんかい委員いいんちょう

注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ ソビエト連邦れんぽうでは1922ねん建国けんこくから革命かくめいである『インターナショナル』が国歌こっかとされていたが、だい世界せかい大戦たいせんちゅうの1944ねんにはあらたに『ソビエト連邦れんぽう国歌こっか』が制定せいていされ、このきょくは1991ねんソビエト崩壊ほうかいまで国歌こっかとして使用しようされた。なお、2001ねん制定せいていされたロシア連邦れんぽう国歌こっかは『ソビエト連邦れんぽう国歌こっか』の旋律せんりついだものである。
  2. ^ 1944ねん制定せいていされた歌詞かしはスターリン崇拝すうはい戦時せんじしょくつよいとして、スターリン死後しごの1955ねんから1977ねんまでは歌詞かしなしで演奏えんそうされたが、ソビエト連邦れんぽう法律ほうりつじょうでは1944年版ねんばん歌詞かしのままで変更へんこうかった。
  3. ^ 1977ねんあたらしい歌詞かしさだめられ、1991ねんのソビエト崩壊ほうかいまでこの国歌こっか使用しようされた。
  4. ^ ロシアのラテン文字もじ表記ひょうきほうにおいては『SSSR』となる
  5. ^ それとはべつсоветには「助言じょげん」(えい: advice)という意味いみもある。
  6. ^ ラテン文字もじ表記ひょうきれい:Sojúz Sovétskikh Sotsyalistícheskikh Respúblik[sɐˈjus sɐˈvʲetskʲɪx sətsɨəlʲɪˈstʲitɕɪskʲɪx rʲɪsˈpublʲɪk]発音はつおん
  7. ^ Sovétskij Sojúz サヴィェーツキイ・サユース
  8. ^ 大正たいしょう15ねんがつ17にち 長門ながと招待しょうたい礼状れいじょう」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.C11080444900 、「4.連邦れんぽう大使館たいしかん関税かんぜい免除めんじょけん」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.B04120003800 など
  9. ^ 共和きょうわこくべつではロシア連邦れんぽう共和きょうわこくで71%、ウクライナ共和きょうわこくで70%、はくロシア共和きょうわこくで83%、カザフ共和きょうわこくで94%、ウズベク共和きょうわこくで90%、キルギス共和きょうわこくで95%、タジク共和きょうわこくで96%、トルクメン共和きょうわこくで98%、アゼルバイジャン共和きょうわこくで93%が連邦れんぽうせい維持いじ賛成さんせいひょうとうじた。ただし独立どくりつ志向しこうつよめていたバルトさんこく、グルジア共和きょうわこく、アルメニア共和きょうわこく、モルダビア共和きょうわこくの6共和きょうわこくでは投票とうひょうはボイコットされた
  10. ^ 連邦れんぽうからの離脱りだつ宣言せんげんしたとしもとづく
  11. ^ キエフとどう都市とし
  12. ^ ウクライナ・ソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこくからの分離ぶんりにより創設そうせつ
  13. ^ ソ連邦それんぽう結成けっせい条約じょうやくには、これらの4カ国かこく調印ちょういんしている。
  14. ^ 1926ねん都市とし人口じんこうは、1917ねん当時とうじ人口じんこうすこえた2,600まんにんぜん人口じんこうからの都市とし人口じんこうりつは18パーセントとなった。
  15. ^ このような驚異きょういてき発展はってん先進せんしん諸国しょこくにもられる現象げんしょうで、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくでは1900ねんから1930ねんあいだ倍増ばいぞうイギリスでは1871ねんから1931ねんの60年間ねんかん都市とし人口じんこう倍増ばいぞうした。しかしソビエト連邦れんぽうじゅうすうねん都市とし人口じんこう倍増ばいぞうさせたことから、世界せかいてきにもまれ事例じれいとされる。
  16. ^ 最高さいこう会議かいぎ会期かいきのぞいて、その所管しょかん代行だいこうした。
  17. ^ 1990ねん権能けんのう一部いちぶ人民じんみん代議員だいぎいん大会たいかいうつされた。
  18. ^ 1991ねん10がつをもって最高さいこう会議かいぎ共和きょうわこくいんわった。
  19. ^ 中央ちゅうおう執行しっこう委員いいんかい会期かいきのぞいて、その所管しょかん代行だいこうした。
  20. ^ どうとうは1903ねんにレーニンのボリシェヴィキとマルトフメンシェヴィキ分裂ぶんれつした。
  21. ^ しかし、その同席どうせきしたジョージ・H・W・ブッシュべい大統領だいとうりょう冷戦れいせん終結しゅうけつ明確めいかくにせず、ゴルバチョフのみが冷戦れいせん終結しゅうけつ明確めいかく宣言せんげんした。
  22. ^ 西側にしがわ同様どうよう役割やくわりあたえられていた航空こうくう会社かいしゃとして中華民国ちゅうかみんこくみん航空こうくううん公司こうしがある。
  23. ^ 皮肉ひにくにもその栽培さいばい計画けいかくにより、ソ連それん連邦れんぽう崩壊ほうかい加速かそくさせる結果けっかとなった[112]
  24. ^ 検討けんとう項目こうもくとしては、標準ひょうじゅん原価げんか計算けいさん直接ちょくせつ原価げんか計算けいさん操業そうぎょう原価げんかとの関連かんれん固定こてい変動へんどう分類ぶんるい損益そんえき分岐ぶんきてん責任せきにんせい対応たいおうした原価げんか設定せってい、コストセンター、原価げんか差異さい許容きょよう限度げんど差異さい分析ぶんせき利用りよう製造せいぞう原価げんか設定せってい標準ひょうじゅん修正しゅうせいしょ勘定かんじょうからられる設備せつび投資とうし情報じょうほう自製じせい外注がいちゅう選択せんたくなどがあった[118]
  25. ^ 自治じち共和きょうわこく自治じちしゅうというのは、こうした民族みんぞく共和きょうわ国内こくない少数しょうすう民族みんぞくのためにかれた。民族みんぞく共和きょうわこくおなじように独自どくじ憲法けんぽうなどを制定せいていできた自治じち共和きょうわこく自治じちしゅうであったが、連邦れんぽう離脱りだつけんなどの権利けんり明記めいきされず、ソ連それん崩壊ほうかい前夜ぜんやでも自治じち共和きょうわこくのほとんどは主権しゅけん宣言せんげん採択さいたくのみにとどまった。
  26. ^ ウクライナベラルーシエストニアラトビアリトアニアモルドバ実質じっしつてきにはルーマニア)、ウズベクタジクトルクメンカザフキルギスアルメニアアゼルバイジャングルジアもちいられていたほか、いくつかの少数しょうすう民族みんぞく言語げんごはなされていた。
  27. ^ 独自どくじ敬礼けいれいがあるため
  28. ^ 布教ふきょう活動かつどうみとめられたのは、連邦れんぽう崩壊ほうかい1994ねん
  29. ^ ロシアでは2005ねん以降いこう民族みんぞく統一とういつ移動いどうし、キルギスでは名称めいしょう変更へんこうした祝日しゅくじつとなっている。
  30. ^ 1927ねん〜1935ねん、1948ねん〜1972ねん、1975ねん〜1999ねん、2000ねん〜2007ねん

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

編集へんしゅう
単行本たんこうぼん
論文ろんぶん

学研がっけん漫画まんが世界せかい歴史れきし

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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