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ヒトラー内閣 - Wikipedia

ヒトラー内閣ないかく

アドルフ・ヒトラーを首相しゅしょうとするドイツの内閣ないかく

ヒトラー内閣ないかく(ヒトラーないかく)は、アドルフ・ヒトラー首相しゅしょうとするドイツ内閣ないかく。1933ねん1がつ30にち成立せいりつし、1945ねん4がつ30にちアドルフ・ヒトラーのまで存続そんぞくした。いわゆるヴァイマル共和きょうわせいまくきと、ナチス・ドイツ時代じだいをもたらした。

ヒトラー内閣ないかく
ドイツこく だい21だい内閣ないかく
1933ねん – 1945ねん
組閣そかくはつ会合かいごうおこなうヒトラーと閣僚かくりょう
成立せいりつ年月日ねんがっぴ1933ねん1がつ30にち
終了しゅうりょう年月日ねんがっぴ1945ねん4がつ30にち
組織そしき
元首げんしゅパウル・フォン・ヒンデンブルク (1934ねん8がつ2にちまで、大統領だいとうりょう)
アドルフ・ヒトラー (1934ねん-1945ねん総統そうとう)
首相しゅしょうアドルフ・ヒトラー
首相しゅしょうまえしょく野党やとう党首とうしゅ
ふく首相しゅしょうフランツ・フォン・パーペン (1933ねん1がつ30にち – 1934ねん8がつ7にち)
与党よとう国民こくみん社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう
議会ぎかいにおける地位ちい連立れんりつ政権せいけん (1933ねん6がつまで)
いちとう独裁どくさい体制たいせい (1933ねん7がつ以降いこう)
野党やとうドイツ社会しゃかい民主党みんしゅとう(1933ねん6がつまで)
野党やとう党首とうしゅオットー・ヴェルス
詳細しょうさい
成立せいりつ直前ちょくぜん選挙せんきょ1932ねん11月ドイツ国会こっかい選挙せんきょ
成立せいりつ連立れんりつ与党よとうドイツ国家こっか人民じんみんとう (1933ねん6がつ27にちまで)
ぜん内閣ないかくフォン・シュライヒャーないかく
内閣ないかくゲッベルスないかく
1933ねん1がつ30にちのヒトラー内閣ないかく閣僚かくりょう前列ぜんれつひだりからゲーリング無任所むにんしょ大臣だいじん、ヒトラー首相しゅしょう、パーペンふく首相しゅしょう後列こうれつひだりからクロージク財務ざいむ大臣だいじん、フリック内務ないむ大臣だいじん、ブロンベルク国防こくぼう大臣だいじん、フーゲンベルク経済けいざい農業のうぎょう食糧しょくりょう大臣だいじん

概要がいよう

編集へんしゅう

ドイツこく大統領だいとうりょうパウル・フォン・ヒンデンブルク1933ねん1がつ30にち、ヒトラーをヴァイマル憲法けんぽうしたにおける11にん首相しゅしょう任命にんめいした。ヴァイマル憲法けんぽう規定きていによって成立せいりつした21番目ばんめ内閣ないかくであり、最後さいご内閣ないかくとなった。この発足ほっそく時点じてんのヒトラー内閣ないかくは、国民こくみん社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう(ナチとう保守ほしゅ貴族きぞく連立れんりつないかくであった。

ナチとうから入閣にゅうかくしたのは首相しゅしょうヒトラー、内務ないむ大臣だいじんヴィルヘルム・フリック無任所むにんしょ大臣だいじんヘルマン・ゲーリングの3にんのみであり、施政しせい一般いっぱんたいして、ふく首相しゅしょうフランツ・フォン・パーペン承認しょうにんがなければ大統領だいとうりょうはこれを裁可さいかしないとの条件じょうけんされていた。パーペンは「われわれはかれやとったのさ」「わたしはヒンデンブルクに信頼しんらいされている。ヶ月かげつもしないうちにヒトラーはすみっこのほうにいやられてきいきいいているだろう」とかた[1]内閣ないかく実権じっけんにぎるつもりでいた。当時とうじ内閣ないかく合議ごうぎせいであり、首相しゅしょう突出とっしゅつした実権じっけんあたえられていたわけではなかった。さらに、ゲーリングは閣僚かくりょうとはいっても無任所むにんしょ大臣だいじんにしかすぎなかったし、フリックは内務ないむ大臣だいじんとはいっても全国ぜんこくてき警察けいさつ指揮しき権限けんげんたない(連邦れんぽうせいっていたヴァイマル体制たいせいのドイツでは、各州かくしゅう独自どくじ警察けいさつかれていた)という弱体じゃくたいぶりであった。

ところが、パーペンはくにさい重要じゅうよう地域ちいきであったプロイセン自由じゆうしゅう国土こくど人口じんこう過半かはんめるとともに首都しゅとベルリンをその域内いきないおさめていた)を掌握しょうあくして自分じぶん権力けんりょく確立かくりつするため、みずかどう自由じゆうしゅう首相しゅしょう就任しゅうにんした。しかしこのときに、ヒトラーはさすがに勘所かんどころはずさず、パーペンに要求ようきゅうしてゲーリングをプロイセン自由じゆうしゅう内務ないむ大臣だいじん就任しゅうにんさせることに成功せいこうする。プロイセン自由じゆうしゅう内務省ないむしょうどうしゅう警察けいさつ所管しょかんしていたから、中央ちゅうおう政府せいふにおいては無任所むにんしょ大臣だいじんにすぎなかったゲーリングが国土こくど面積めんせき過半数かはんすうめるプロイセン自由じゆうしゅう首都しゅとにおよぶ警察けいさつ組織そしき指揮しきけんれたのである。ゲーリングはこの権限けんげん行使こうししてプロイセン自由じゆうしゅう警察けいさつ首脳しゅのうをナチ党員とういんにすげえ、権力けんりょく基盤きばん確固かっこたるものとしていった。

さらにヒトラーは、即座そくざ国会こっかい解散かいさんし、2がつ国会こっかい議事堂ぎじどう放火ほうか事件じけん大統領だいとうりょうれいによる野党やとう弾圧だんあつ、3月のそう選挙せんきょ全権ぜんけん委任いにんほう成立せいりつとうつうじて次第しだい独裁どくさい権力けんりょく掌握しょうあくし、4がつごろには「内閣ないかくなか指導しどうしゃ(ヒトラー)の権威けんい完全かんぜん確立かくりつされるにいたった。もはや表決ひょうけつおこなわれることはない。指導しどうしゃ決定けっていくだすのだ。」とゲッベルスが日記にっきしるすほどになった[2]以降いこうナチ党員とういん閣僚かくりょう辞職じしょくするか実権じっけんうしなったし、閣議かくぎすらひらかれることがめっきりなくなっていった。たとえば、ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージクは1933ねんから1945ねんまで財務ざいむ大臣だいじんつとめたが、最後さいごにヒトラーと面会めんかいしたのは1942ねんであった。ふく首相しゅしょうパーペンもヒトラーの巧妙こうみょう権力けんりょく掌握しょうあくにはなすすべもなく、1934ねん6がつ30にちの「ながいナイフのよる事件じけんによって事実じじつじょう失脚しっきゃくし、同年どうねん8がつ7にちにはふく首相しゅしょう辞任じにんまれた。一方いっぽうでは、1933ねん3がつにゲッベルスが国民こくみん啓蒙けいもう宣伝せんでん大臣だいじんとして入閣にゅうかくしたことを皮切かわきりとして、閣僚かくりょうはヒトラーに忠実ちゅうじつなナチ党員とういんやヒトラーの信任しんにん人物じんぶつえられていった。

ナチとう権力けんりょく掌握しょうあく(マハトエアグライフング)をつうじて、ナチとうとドイツ国家こっか一体化いったいかすすめられた。その結果けっか、ナチとう有力ゆうりょくしゃ内閣ないかく大臣だいじんねたもの強大きょうだい政治せいじてき権限けんげんをふるった(国民こくみん啓蒙けいもう宣伝せんでん大臣だいじんゲッベルス、航空こうくう大臣だいじんゲーリング、ひとし)。なかには、ナチとう組織そしき権力けんりょく基盤きばんとしつつ、類似るいじ分野ぶんや担当たんとうする政府せいふ機関きかん権力けんりょく闘争とうそうをくりひろげ、ついには後者こうしゃ圧倒あっとうして閣僚かくりょうしょく手中しゅちゅうおさめたもの親衛隊しんえいたい全国ぜんこく指導しどうしゃ内務ないむ大臣だいじん兼任けんにんすることとなったヒムラー、ドイツ労働ろうどう戦線せんせん指導しどうしゃ無任所むにんしょ大臣だいじん兼任けんにんすることとなったライ、ひとし)もいる。一方いっぽう閣僚かくりょうであっても、ナチとう基盤きばんたないもの政治せいじてき実権じっけんたず、その大臣だいじんごう名誉めいよしょく事務じむ担当たんとうしゃぎないものとなった(財務ざいむ大臣だいじんシュヴェリン・フォン・クロージク、労働ろうどう大臣だいじんゼルテ、ひとし)。ただし、ナチとう確固かっこたる基盤きばんたないものであっても、最高さいこう指導しどうしゃヒトラーの信頼しんらいけてさえいれば、その度合どあいに比例ひれいして強大きょうだい権力けんりょくをふるうことができた(経済けいざい大臣だいじん時代じだいのシャハト、軍需ぐんじゅ大臣だいじんシュペーア、外務がいむ大臣だいじんリッベントロップ、ひとし)。ナチとう幹部かんぶではあってもヒトラーからの信任しんにんうすものは、閣僚かくりょうとしての権限けんげん充分じゅうぶんではなかった(東部とうぶ占領せんりょう地域ちいき大臣だいじんローゼンベルク、ひとし)。

発足ほっそくのヒトラー内閣ないかく

編集へんしゅう

ヒトラー内閣ないかく歴代れきだい閣僚かくりょう

編集へんしゅう
職名しょくめい だい 氏名しめい 出身しゅっしんとう その役職やくしょく 備考びこう
首相しゅしょう 15 アドルフ・ヒトラー   国家こっか社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう 国防こくぼうぐん最高さいこう司令しれいかん
陸軍りくぐんそう司令しれいかん
ナチとう指導しどうしゃ[注釈ちゅうしゃく 1]
1933ねん - 1945ねん自殺じさつ
ふく首相しゅしょう 11 フランツ・フォン・パーペン   無所属むしょぞく
[注釈ちゅうしゃく 2]
退役たいえき陸軍りくぐん中佐ちゅうさ
男爵だんしゃく
プロイセン総督そうとく兼任けんにん もと首相しゅしょう[注釈ちゅうしゃく 3]
1933ねん - 1934ねん辞任じにん
外務がいむ大臣だいじん 11 コンスタンティン・フォン・ノイラート   国家こっか社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう[注釈ちゅうしゃく 4]
男爵だんしゃく
親衛隊しんえいたい大将たいしょう 1933ねん - 1938ねん2がつ4にち解任かいにん[注釈ちゅうしゃく 5]
12 ヨアヒム・フォン・リッベントロップ   国家こっか社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう ちゅうイギリス大使たいし親衛隊しんえいたい大将たいしょう 1938ねん - 1945ねん
内務ないむ大臣だいじん 18 ヴィルヘルム・フリック   国家こっか社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう とう国会こっかい議員ぎいん団長だんちょう 1933ねん - 1943ねん8がつ20日はつか解任かいにん
19 ハインリヒ・ヒムラー   国家こっか社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう[注釈ちゅうしゃく 6] 親衛隊しんえいたい全国ぜんこく指導しどうしゃ
ぜんドイツ警察けいさつ長官ちょうかん[注釈ちゅうしゃく 7]
1943ねん - 1945ねん解任かいにん
財務ざいむ大臣だいじん 13 ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク   国家こっか社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう[注釈ちゅうしゃく 8]
伯爵はくしゃく
1933ねん - 1945ねん
司法しほう大臣だいじん 14 フランツ・ギュルトナー   国家こっか社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう[注釈ちゅうしゃく 9] 1933ねん - 1941ねん1がつ29にち死亡しぼう
フランツ・シュレーゲルベルガードイツばん   国家こっか社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう 司法しほう次官じかん 司法しほう大臣だいじん代行だいこう(1941ねん - 1942ねん[注釈ちゅうしゃく 10]
15 オットー・ゲオルク・ティーラック   国家こっか社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう 人民じんみん法廷ほうてい長官ちょうかん 1942ねん - 1945ねん
国防こくぼう大臣だいじん 5 ヴェルナー・フォン・ブロンベルク   国家こっか社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう[注釈ちゅうしゃく 11]
陸軍りくぐん元帥げんすい
国防こくぼうぐんそう司令しれいかん 1933ねん - 1938ねん2がつ27にち解任かいにん
国防省こくぼうしょう廃止はいし 1938ねん廃止はいし
国防こくぼうぐん最高さいこう司令しれい総長そうちょう
(1938ねん新設しんせつ
1 ヴィルヘルム・カイテル   無所属むしょぞく
陸軍りくぐん元帥げんすい
内閣ないかく枢密院すうみついん顧問こもんかん
国防こくぼう閣僚かくりょう会議かいぎ議員ぎいん
1938ねん - 1945ねん
経済けいざい大臣だいじん 14 アルフレート・フーゲンベルク   ドイツ国家こっか人民じんみんとう [注釈ちゅうしゃく 12] ドイツ国家こっか人民じんみんとう党首とうしゅ国会こっかい議員ぎいん
農業のうぎょう食糧しょくりょう大臣だいじん兼任けんにん
1933ねん - 同年どうねん6がつ29にち辞任じにん
15 クルト・シュミットドイツばん   国家こっか社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう 1933ねん - 1935ねん1がつ31にち解任かいにん
16 ヒャルマル・シャハト   国家こっか社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう[注釈ちゅうしゃく 13] ライヒスバンク総裁そうさい 1935ねん - 1937ねん11月26にち辞任じにん
17 ヘルマン・ゲーリング   国家こっか社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう 国家こっか元帥げんすい航空こうくう大臣だいじん空軍くうぐんそう司令しれいかん兼任けんにん 1937ねん - 1938ねん1がつ15にち辞任じにん
18 ヴァルター・フンク   国家こっか社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう ライヒスバンク総裁そうさい 1938ねん - 1945ねん
労働ろうどう大臣だいじん 8 フランツ・ゼルテ   国家こっか社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう[注釈ちゅうしゃく 14] 国会こっかい議員ぎいん突撃とつげきたい大将たいしょう 1933ねん - 45ねん
運輸うんゆ大臣だいじん 12 パウル・フォン・エルツ=リューベナッハ   無所属むしょぞく
男爵だんしゃく
郵政ゆうせい大臣だいじん兼任けんにん 1933ねん - 1937ねん2がつ1にち解任かいにん
13 ユリウス・ドルプミュラー   国家こっか社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう[注釈ちゅうしゃく 15] 1937ねん - 1945ねん
郵政ゆうせい大臣だいじん 5 パウル・フォン・エルツ=リューベナッハ   無所属むしょぞく
男爵だんしゃく
運輸うんゆ大臣だいじん兼任けんにん 1933ねん - 1937ねん2がつ1にち解任かいにん
6 ヴィルヘルム・オーネゾルゲ   国家こっか社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう 1937ねん - 1945ねん
農業のうぎょう

食糧しょくりょう大臣だいじん
11 アルフレート・フーゲンベルク   ドイツ国家こっか人民じんみんとう ドイツ国家こっか人民じんみんとう党首とうしゅ経済けいざい大臣だいじん兼任けんにん 1933ねん - 同年どうねん6がつ29にち辞任じにん
12 リヒャルト・ヴァルター・ダレ   国家こっか社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう 全国ぜんこく農民のうみん指導しどうしゃ
親衛隊しんえいたい大将たいしょう
1933ねん - 1944ねん(1942ねん5がつ23にちから病気びょうき療養りょうようのため休職きゅうしょく
13 ヘルベルト・バッケ   国家こっか社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう 全国ぜんこく農民のうみん指導しどうしゃ
親衛隊しんえいたい大将たいしょう
1944ねん - 1945ねん
国民こくみん啓蒙けいもう

宣伝せんでん大臣だいじん
(1933ねん3がつ13にち新設しんせつ)
1 ヨーゼフ・ゲッベルス   国家こっか社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう 宣伝せんでん全国ぜんこく指導しどうしゃベルリンだい管区かんく指導しどうしゃ 1933ねん - 1945ねん
航空こうくう大臣だいじん(1933ねん5がつ5にち新設しんせつ) 1 ヘルマン・ゲーリング   国家こっか社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう 国家こっか元帥げんすい空軍くうぐんそう司令しれいかん 1933ねん - 1945ねん4がつ23にち解任かいにん
科学かがく

教育きょういく

国民こくみん文化ぶんか大臣だいじん

(1934ねん5がつ1にち新設しんせつ)

1 ベルンハルト・ルスト   国家こっか社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう みなみハノーファー=ブラウンシュヴァイクだい管区かんく指導しどうしゃ 1934ねん - 1945ねん
宗教しゅうきょう大臣だいじん

(1935ねん7がつ16にち新設しんせつ)

1 ハンス・ケルル   国家こっか社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう 国会こっかいだいいちふく議長ぎちょう突撃とつげきたい大将たいしょう 1935ねん - 1941ねん12月14にち在任ざいにんちゅう死去しきょ
ヘルマン・ムース 国家こっか社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう 宗教しゅうきょうしょう次官じかん 1941ねん - 1945ねん宗教しゅうきょう大臣だいじん代行だいこう[注釈ちゅうしゃく 16]
軍需ぐんじゅ大臣だいじん

(1940ねん3がつ17にち-1943ねん兵器へいき弾薬だんやく大臣だいじん
1943ねん-1945ねん軍備ぐんび戦時せんじ生産せいさん大臣だいじん

1 フリッツ・トート   国家こっか社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう 突撃とつげきたい大将たいしょう空軍くうぐん少将しょうしょう 1940ねん - 1942ねん2がつ8にち在任ざいにんちゅう死去しきょ
2 アルベルト・シュペーア   国家こっか社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう 帝国ていこく首都しゅと建設けんせつ総監そうかん 1942ねん - 1945ねん
東部とうぶ占領せんりょう地域ちいき大臣だいじん(1941ねん12月17にち新設しんせつ) 1 アルフレート・ローゼンベルク   国家こっか社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう 対外たいがい政策せいさく全国ぜんこく指導しどうしゃ 1941ねん - 1945ねん
帝国ていこく無任所むにんしょ大臣だいじん ヘルマン・ゲーリング   国家こっか社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう プロイセン自由じゆうしゅう内務ないむ大臣だいじんどうしゅう首相しゅしょう 1933ねん(→経済けいざい大臣だいじん航空こうくう大臣だいじん
ルドルフ・ヘス   国家こっか社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう 親衛隊しんえいたい大将たいしょうとうふく総統そうとう 1933ねん - 1941ねん
エルンスト・レーム   国家こっか社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう
退役たいえき陸軍りくぐん大尉たいい
突撃とつげきたい幕僚ばくりょうちょう 1933ねん - 1934ねん殺害さつがい
ハンス・ケルル   国家こっか社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう 突撃とつげきたい大将たいしょう
国会こっかいだいいちふく議長ぎちょう
1934ねん - 1935ねん(→宗教しゅうきょう大臣だいじん
ハンス・フランク   国家こっか社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう 司法しほう全国ぜんこく指導しどうしゃ
ポーランド総督そうとく
予備よびやく陸軍りくぐん少尉しょうい
1934ねん - 1942ねん
ヒャルマル・シャハト   国家こっか社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう ぜん経済けいざい大臣だいじんまえライヒスバンク総裁そうさい 1937ねん - 1943ねん
コンスタンティン・フォン・ノイラート   国家こっか社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう
男爵だんしゃく
親衛隊しんえいたい大将たいしょうぜん外務がいむ大臣だいじん、ベーメン・メーレン保護ほごりょう初代しょだい総督そうとく 1938ねん - 1945ねん
アルトゥール・ザイス=インクヴァルト   国家こっか社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう 親衛隊しんえいたい大将たいしょうもとオーストリア首相しゅしょう、オランダ国家こっか弁務べんむかん 1938ねん - 1945ねん
マルティン・ボルマン   国家こっか社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう 親衛隊しんえいたい大将たいしょうとう官房かんぼうちょう 1941ねん - 1945ねん
帝国ていこく大臣だいじん待遇たいぐう
ヴィルヘルム・フリック   国家こっか社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう ぜん内務ないむ大臣だいじん
とう国会こっかい議員ぎいん団長だんちょう、ベーメン・メーレン保護ほごりょう2だい総督そうとく
1943ねん - 1945ねん
コンスタンティン・ヒールル   国家こっか社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう 名誉めいよ陸軍りくぐん少将しょうしょう
労働ろうどう全国ぜんこく指導しどうしゃ兼任けんにん
1943ねん - 1945ねん
ハンス・ハインリヒ・ラマース   国家こっか社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう 親衛隊しんえいたい大将たいしょう
首相しゅしょう官房かんぼうちょう兼任けんにん
1937ねん - 1945ねん
国務大臣こくむだいじん

上述じょうじゅつ大臣だいじんは「Reichsminister」(大臣だいじん国家こっか大臣だいじん帝国ていこく大臣だいじん、ライヒ大臣だいじんなどとやくされる)とばれる上級じょうきゅう大臣だいじんしょくであった。ドイツ政府せいふにはこのほかに、イギリスの閣外かくがい大臣だいじん相当そうとうする下位かい大臣だいじんしょく存在そんざいし、「Staatsminister」(国務大臣こくむだいじん国務相こくむしょうなどとやくされる)とばれていた。この地位ちいにあったことが確認かくにんされるのは下記かきの2めいである。ただしかれらは「Staatsminister im Rang eines Reichsministers」つまり「閣僚かくりょう待遇たいぐう国務大臣こくむだいじん」と位置いちづけられていた。

職名しょくめい だい 氏名しめい 所属しょぞく政党せいとう 担当たんとう部門ぶもん 備考びこう
閣僚かくりょう待遇たいぐう国務大臣こくむだいじん カール・ヘルマン・フランク   国家こっか社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう 親衛隊しんえいたい大将たいしょうベーメン・メーレン保護ほごりょう担当たんとう 1943ねん8がつ20日はつか就任しゅうにん
オットー・マイスナー   国家こっか社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう[注釈ちゅうしゃく 17] 指導しどうしゃけん首相しゅしょう大統領だいとうりょう官房かんぼうちょう 1937ねん1がつ30にち就任しゅうにん

ヒトラーの遺書いしょによる内閣ないかく

編集へんしゅう

1945ねん、ヒトラーは自殺じさつ先立さきだって遺書いしょ英語えいごばんをしたため、みずからの後継こうけいしゃとしてデーニッツ海軍かいぐん元帥げんすい大統領だいとうりょう任命にんめいするとともに、デーニッツがひきいるべきしん政府せいふ閣僚かくりょうをすべて指名しめいした。ただし、こうした内容ないようんだヒトラーの遺書いしょは3つうつくられて総統そうとう地下ちかごうから外部がいぶ(デーニッツあて中央ちゅうおうぐん集団しゅうだん司令しれいかんフェルディナント・シェルナー元帥げんすいあて、ミュンヘンのナチとう文書ぶんしょかんあて)におくられたものの、いずれも移送いそうちゅう隠匿いんとくされてしまい、全文ぜんぶんられるには終戦しゅうせん調査ちょうさたなければならなかった。

したがって、この遺書いしょなか当時とうじ公表こうひょうされ、一応いちおう任命にんめい発効はっこうしたといえるのは、ベルリンの総統そうとう官邸かんてい地下ちかごうにいたゲッベルスとナチとう官房かんぼうちょうマルティン・ボルマンがデーニッツに電報でんぽうらせた部分ぶぶん、すなわち大統領だいとうりょうデーニッツ、首相しゅしょうゲッベルス、ナチとう担当たんとう大臣だいじんボルマン、外務がいむ大臣だいじんザイス=インクヴァルトの4めいだけであった。さらに、大統領だいとうりょうとなったデーニッツはヒトラーの遺言ゆいごんによる閣僚かくりょう指名しめい黙殺もくさつし、みずからの内閣ないかくとしてフレンスブルク政府せいふ組織そしきした。

※( )ない任命にんめい当時とうじしょく

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 1934ねんから首相しゅしょうとう指導しどうしゃ兼任けんにんするかたち総統そうとうとなる。
    1938ねんから国防こくぼうぐん最高さいこう司令しれいかん、1941ねんから陸軍りくぐんそう司令しれいかんとなり、政府せいふ役職やくしょく以外いがいにもぐん役職やくしょく就任しゅうにんすることとなった。
  2. ^ もと中央ちゅうおうとうこう国家こっか社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう入党にゅうとう
  3. ^ ドイツこくだい13だい首相しゅしょう
  4. ^ 入閣にゅうかく無所属むしょぞく、1937ねん入党にゅうとう
  5. ^ 1938ねん外相がいしょう解任かいにん。1938ねんから無任所むにんしょ大臣だいじん、1939ねんから1943ねんまでベーメン・メーレン保護ほごりょう総督そうとくとなる。
  6. ^ 1923ねんまではバイエルン人民じんみんとういん
  7. ^ 1944ねんからはドイツ国防こくぼうぐん国内こくない予備よびぐん司令しれいかんとなる。
  8. ^ 財務ざいむ官僚かんりょう入閣にゅうかく無所属むしょぞく、1937ねん入党にゅうとう
  9. ^ 1937ねん入党にゅうとう。1933ねんまではドイツ国家こっか人民じんみんとう所属しょぞく
  10. ^ 1941ねんから1942ねんあいだ司法しほう大臣だいじん代行だいこうつとめた。
  11. ^ 1937ねん入党にゅうとう
  12. ^ 1933ねんとう解散かいさんともな離党りとう
  13. ^ 1937ねん入党にゅうとうもとドイツ民主党みんしゅとういん
  14. ^ もとドイツ人民じんみんとういん
  15. ^ 1941ねん入党にゅうとう
  16. ^ ハンス・ケルルの死亡しぼうともな宗教しゅうきょう大臣だいじん代行だいこうつとめる。
  17. ^ 1937ねん入党にゅうとう

出典しゅってん

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  1. ^ エヴァルト・フォン・クライスト=シュメンツィン (en)「Die letzte Möglichkeit」よりの引用いんよう、トーランド、124p
  2. ^ みなみ指導しどうしゃ-国家こっか-憲法けんぽう体制たいせいにおける立法りっぽう(1)、4がつ22にちのゲッベルス日記にっき

参考さんこう文献ぶんけん

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