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ソ連型社会主義 - Wikipedia

ソ連それんがた社会しゃかい主義しゅぎ

ソ連それんがた社会しゃかい主義しゅぎ(それんがたしゃかいしゅぎ、英語えいご: Bureaucratic collectivism[1])また官僚かんりょうあつまりさん主義しゅぎ[2](かんりょうしゅうさんしゅぎ)、官僚かんりょう独裁どくさい[3](かんりょうどくさい)とは、1917ねんロシア革命かくめいから1991ねんソビエト連邦れんぽう崩壊ほうかいまで、ソ連それん実施じっしされた社会しゃかい主義しゅぎ政策せいさく体制たいせい統治とうち方法ほうほう指導しどう思想しそうなどの総称そうしょう。この用語ようご共産きょうさん主義しゅぎ政権せいけん東欧とうおう諸国しょこく導入どうにゅうされ、現代げんだい中国ちゅうごく北朝鮮きたちょうせんにもひろ使つかわれている。

マルクス・レーニン主義しゅぎによる社会しゃかい主義しゅぎである共産きょうさん主義しゅぎかかげ、共産党きょうさんとうによる検閲けんえついちとう独裁どくさい生産せいさん手段しゅだん国有こくゆう中央ちゅうおう集権しゅうけん計画けいかく経済けいざい軍事ぐんじ工業こうぎょう発達はったつなどが最大さいだい特徴とくちょうである。ソ連それんがた社会しゃかい主義しゅぎ官僚かんりょう階級かいきゅう莫大ばくだい特権とっけんにぎり、くにほとんどの資源しげんゆうし、農民のうみん労働ろうどうしゃ商人しょうにんはん体制たいせいなどを搾取さくしゅすることが常態じょうたいにしているのが最大さいだい弊害へいがいとなる[4][5][6]

ソ連それん崩壊ほうかい左翼さよく陣営じんえいなかでもこのソ連それんがた社会しゃかい主義しゅぎへの批判ひはんこえ次々つぎつぎている。対比たいひ用語ようごは「社会しゃかい民主みんしゅ主義しゅぎチトー主義しゅぎユーロコミュニズム」など。

概説がいせつ

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ソ連それんがた社会しゃかい主義しゅぎ」という用語ようごは、社会しゃかい主義しゅぎ体制たいせいには複数ふくすうのモデルがありうる、という認識にんしき前提ぜんていとした用語ようごであり、ソビエト連邦れんぽうなどによる既存きそん社会しゃかい主義しゅぎ体制たいせい以外いがい社会しゃかい主義しゅぎモデルを表現ひょうげんするさい使用しようされている。

カール・マルクス共産きょうさん主義しゅぎ社会しゃかい実現じつげんされれば階級かいきゅう国家こっか消滅しょうめつし、自由じゆう平等びょうどう社会しゃかい実現じつげんすると提唱ていしょうした。しかし共産党きょうさんとう権力けんりょくにぎったロシア・中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく東欧とうおうなどの既存きそん社会しゃかい主義しゅぎこくでは、共産党きょうさんとうによる国家こっか経済けいざい社会しゃかいへの統制とうせい強化きょうかされ、民主みんしゅ主義しゅぎ基本きほんてき人権じんけん制限せいげんされた。

1917ねんのロシア革命かくめい直後ちょくご戦時せんじ共産きょうさん主義しゅぎ実施じっしされた。革命かくめい支持しじしたがわからも、アナキストはソビエト連邦れんぽう国家こっか主義しゅぎを「国家こっか社会しゃかい主義しゅぎ」と批判ひはんし、マルクス主義まるくすしゅぎものローザ・ルクセンブルクらはレーニン主義しゅぎ民主みんしゅ主義しゅぎてきではいと批判ひはんした。またカール・カウツキーらはソビエト連邦れんぽういちとう独裁どくさい批判ひはんし、社会しゃかい民主みんしゅ主義しゅぎ民主みんしゅ社会しゃかい主義しゅぎ一部いちぶ反共はんきょう主義しゅぎかかげた。

ぎゃくに、より急進きゅうしん主義しゅぎてき共産きょうさん主義しゅぎしゃ立場たちばからは、1921ねん以降いこうネップ資本しほん主義しゅぎ復活ふっかつであると批判ひはんした。レフ・トロツキーはソビエト連邦れんぽうスターリン主義しゅぎ、「堕落だらくした労働ろうどうしゃ国家こっか」と批判ひはんした。1960年代ねんだい以降いこうちゅう対立たいりつでは、中国ちゅうごくはソビエト連邦れんぽうを「修正しゅうせい主義しゅぎ社会しゃかい帝国ていこく主義しゅぎ」と批判ひはんした。

とくプラハのはる以降いこうユーロコミュニズム西側にしがわ先進せんしんこく左翼さよくは、従来じゅうらいマルクス・レーニン主義しゅぎ原則げんそく放棄ほうきした。日本にっぽんでは「ソ連それんがた社会しゃかい主義しゅぎ」と対比たいひさせ、「日本にっぽんがた社会しゃかい主義しゅぎ」や「日本にっぽんがた社会しゃかい民主みんしゅ主義しゅぎ」などが提唱ていしょうされ、日本にっぽん共産党きょうさんとう自主じしゅ独立どくりつ路線ろせん採用さいようした。またアラブ社会しゃかい主義しゅぎアフリカ社会しゃかい主義しゅぎビルマしき社会しゃかい主義しゅぎなども提唱ていしょうされた。ロナルド・レーガンはソビエト連邦れんぽうを「あく帝国ていこく」とんだ。トニー・ブレアは「だいさんみち」を提唱ていしょうした。

ソ連それん成立せいりつからだい世界せかい大戦たいせんまで

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レーニン時代じだい

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1917ねんロシア革命かくめい結果けっかきゅうロシア帝国ていこくにはウラジーミル・レーニン首班しゅはんとするボリシェヴィキ革命かくめい政権せいけん登場とうじょうした。しかしロシアはマルクスが社会しゃかい主義しゅぎ革命かくめい発生はっせいこくとして想定そうていしたイギリスやフランスのような先進せんしん工業こうぎょうこくではなく、両国りょうこくアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく比較ひかくして資本しほん主義しゅぎ発展はってんおくれ、民間みんかん企業きぎょう発展はってん不十分ふじゅうぶんだったため、とく重工業じゅうこうぎょうにおいては国家こっか主導しゅどうによる経済けいざい建設けんせつ必要ひつよう段階だんかいにあった。また政治せいじ専制せんせいてきロマノフ王朝おうちょうによる支配しはいながつづき、民主みんしゅせい伝統でんとう制限せいげん選挙せんきょによるドゥーマなどごくかぎられたものぎなかった。

レーニンは帝政ていせいロシアの残党ざんとうしろぐん)などのはん革命かくめい勢力せいりょくしょ外国がいこくからの干渉かんしょう戦争せんそうからみずからの政権せいけんまもるために、戦時せんじ共産きょうさん主義しゅぎばれる統制とうせい経済けいざいちか体制たいせいいた。農村のうそんからは武力ぶりょくによる食料しょくりょう徴収ちょうしゅう実施じっしされ、すべての企業きぎょう国有こくゆうされた。企業きぎょう地主じぬし追放ついほうされ、内戦ないせん勝利しょうりすることができた。ボリシェヴィキ以外いがいすべての政党せいとう解散かいさんされ、世界せかいはつ野党やとう非合法ひごうほうしたうえいちとう独裁どくさいせい確立かくりつさせ、反対はんたいたいしては秘密ひみつ警察けいさつによる取締とりしまりを強化きょうかした。党員とういん昇格しょうかくにはとう中央ちゅうおう承認しょうにん不可欠ふかけつとなり、ノーメンクラトゥーラ制度せいどによる事実じじつじょう階層かいそう分化ぶんかはじまった。

これにより1922ねん正式せいしきソビエト連邦れんぽう成立せいりつしたが、内戦ないせん影響えいきょう国内こくないにおける経済けいざい活動かつどう完全かんぜん破壊はかいされ、農村のうそんではすうひゃくまんにん餓死がししゃ発生はっせいし、工業こうぎょう生産せいさんりょくだいいち世界せかい大戦たいせんまえの20-30%程度ていどまでんだ。レーニンは社会しゃかい主義しゅぎいち後退こうたいかんがえ、1921ねんネップしん経済けいざい政策せいさく)を発表はっぴょうして一定いってい規模きぼ市場いちば経済けいざいみとめる方針ほうしんをとった。

スターリン独裁どくさい

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1924ねんのレーニンの死後しごソ連それん最高さいこう権力けんりょくしゃ一人ひとりとなったスターリンふたた強硬きょうこう社会しゃかい主義しゅぎ路線ろせんもどり、1928ねんだいいちヶ年かねん計画けいかく開始かいしして、農業のうぎょう集団しゅうだん重工業じゅうこうぎょうおおきくかたよった国家こっか主導しゅどう工業こうぎょう建設けんせつ強行きょうこうした。ボリシェヴィキから改組かいそされソ連それんにおける独裁どくさい政党せいとうとなった共産党きょうさんとう内部ないぶ批判ひはん一掃いっそうされ、くなったレーニンと、その後継こうけいしゃであるスターリンへの個人こじん崇拝すうはいまでおこなわれるにいたった。

社会しゃかい主義しゅぎかかげたソ連それんは1930年代ねんだい世界せかいるがした世界せかい恐慌きょうこう影響えいきょうまったけず、おおきな経済けいざい成長せいちょうげた。そして、その経済けいざい成長せいちょう大量たいりょう政治せいじはん思想しそうはん中心ちゅうしんとした強制きょうせい労働ろうどう実質じっしつてき奴隷どれいせい)にささえられたとおもわれているが杜撰ずさん管理かんり体制たいせいのため生産せいさんせいおそろしくひくほとんどは正規せいき工場こうじょうなどのちからによってソ連それん経済けいざいうごいていた。そのとみ共産党きょうさんとう上層じょうそう集中しゅうちゅうして、そのとみ労働ろうどうしゃさい分配ぶんぱいされており、資本しほん主義しゅぎ国家こっかぐん知識ちしきじんジョージ・バーナード・ショーなど)からは、ソ連それん理想りそう社会しゃかいのようにめられた。

これは1936ねん制定せいていされたソ連それんしん憲法けんぽうスターリン憲法けんぽう)が民主みんしゅ主義しゅぎ発展はってん国民こくみん幅広はばひろ権利けんり擁護ようご明記めいきしたためでもあるが、実際じっさいにはこの憲法けんぽう精神せいしんまったかえりみられることはなく、むしろ堕児禁止きんしほうなど家庭かてい関係かんけい強行きょうこうかんして、民意みんいはんするとう転換てんかんおおくの人々ひとびと不安ふあんおもはじめていたころであった。また、ちょうどこの時期じきとう指導しどう反対はんたい双方そうほう粛清しゅくせいだい規模きぼおこなわれた。これは社会民主労働党しゃかいみんしゅろうどうとうないにおけるレーニンのメンシェヴィキ粛清しゅくせいよりもだい規模きぼなものであり、この時期じき粛清しゅくせいされた共産党きょうさんとう幹部かんぶ国民こくみんおおくには、とう指導しどうせい挑戦ちょうせんした「はんとう分子ぶんし」、「はん革命かくめい分子ぶんし」、「トロツキスト」の汚名おめいせられるなど過酷かこく政治せいじおこなわれていた。

ただし、このスターリンによる社会しゃかい主義しゅぎ体制たいせいは、すうひゃくまんにんともすうせんまんにんともわれる大量たいりょう人々ひとびと餓死がし処刑しょけい流刑りゅうけいまねいた一方いっぽうだい地主じぬし貴族きぞくへのとみ偏在へんざいとく農村のうそんにおける絶対ぜったいてき貧困ひんこん公衆こうしゅう衛生えいせいおくれなど、帝国ていこく政府せいふすうひゃくねんにわたって解決かいけつできなかった社会しゃかいてき問題もんだいたいして一定いってい成果せいかげた。道路どうろなどインフラの分野ぶんやは(ソ連それん末期まっきいたるまで深刻しんこく問題もんだいであった農業のうぎょう発展はってん犠牲ぎせいにするかたちで)ある程度ていどととのった。しょ外国がいこく技術ぎじゅつしゃ不可能ふかのう断言だんげんしたモスクワ地下鉄ちかてつさんねん完成かんせいさせるなど、政府せいふ直接ちょくせつ指導しどうするものだけなら技術ぎじゅつめんでも世界せかいのかなり上位じょういにいた。

ノルマばれる計画けいかく生産せいさん数値すうち設定せってい巨大きょだい工場こうじょうぐんであるコンビナート陣地じんち大量たいりょう配備はいびされたトーチカ生産せいさんぶつしつよりりょう重視じゅうしされたこの時代じだいでは一定いってい効果こうかがあり、ソ連それんちからたかめた。また、中長期ちゅうちょうきてき経済けいざい目標もくひょう国家こっか設定せっていする方式ほうしき世界せかい恐慌きょうこうめられなかった資本しほん主義しゅぎ諸国しょこくにも影響えいきょうあたえ、ケインズ経済けいざいがくによる公共こうきょう投資とうし重視じゅうしやアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領だいとうりょうによるニューディール政策せいさく実施じっし西にしヨーロッパ諸国しょこくとくフランスイタリア採用さいようされた混合こんごう経済けいざい体制たいせい構築こうちくにつながった。また、ナチズムかかげるナチス・ドイツでもよんヶ年かねん計画けいかくによる経済けいざい建設けんせつ軍備ぐんび増強ぞうきょうおこなわれた(統制とうせい方法ほうほうについてもスターリンがた社会しゃかい主義しゅぎ参考さんこうにしたという意見いけんもある)。

だい世界せかい大戦たいせん以後いご

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ソ連それんがた社会しゃかい主義しゅぎ拡大かくだい混乱こんらん

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ソ連それんだい世界せかい大戦たいせん勝利しょうりすると、みずからの影響えいきょうおさめたひがしヨーロッパくににこの体制たいせいけるかたちで「人民じんみん民主みんしゅ主義しゅぎ体制たいせい」と自称じしょうする社会しゃかい主義しゅぎ政権せいけん樹立じゅりつしていき、資本しほん主義しゅぎこく対峙たいじした。各国かっこくではスターリン主義しゅぎならったひがしドイツヴァルター・ウルブリヒトハンガリーラーコシ・マーチャーシュチェコスロヴァキアクレメント・ゴットワルトユーゴスラヴィアヨシップ・ブロズ・チトーのような「しょうスターリン」が登場とうじょうした。

ただし、チトーは1948ねんにスターリンと決別けつべつし、国家こっかではなく労働ろうどうしゃ企業きぎょう管理かんりする独自どくじ経済けいざいと、ソ連それん資本しほん主義しゅぎ諸国しょこくとの中立ちゅうりつ同盟どうめい外交がいこう政策せいさくはしらとした独自どくじ社会しゃかい主義しゅぎ国家こっか建設けんせつしていった。これをスターリンはチトー主義しゅぎんでつよ批判ひはんし、ひがしヨーロッパ諸国しょこくでは共産党きょうさんとうないはん主流しゅりゅうを「チトー主義しゅぎしゃ」として粛清しゅくせいするれい続出ぞくしゅつした。

1953ねんのスターリン死去しきょ1956ねんかれ後継こうけいしゃニキータ・フルシチョフスターリン批判ひはんおこなうとソ連それん国内こくないでも一定いっていわくない言論げんろん自由じゆう粛清しゅくせい犠牲ぎせいしゃ名誉めいよ回復かいふくおこなわれた。もっともフルシチョフの言論げんろんへの弾圧だんあつかれ主権しゅけんにぎってからきびしさをし、地方ちほうたいしてはスターリン時代じだいよりもはげしいものになった。言論げんろんかんしてある程度ていど自由じゆうあたえられるには、官僚かんりょう腐敗ふはいすすんで権力けんりょく危機ききうすくなったブレジネフ時代じだいまでたねばならない(もっとも、ブレジネフも人々ひとびとにはフルシチョフ弾圧だんあつ改革かいかく必要ひつようせいみとめているとする一方いっぽうで、実際じっさいにはフルシチョフ時代じだいぐというかたちにより、独立どくりつ主義しゅぎしゃ民族みんぞく主義しゅぎしゃにはおなじような弾圧だんあつをもってこたえている)。

また、ひがしヨーロッパ諸国しょこくでは1956ねんハンガリー動乱どうらん1968ねんのチェコスロヴァキアできたプラハのはるのようなよりおおきな変革へんかくもとめる運動うんどうきた。しかし、ソ連それん制限せいげん主権しゅけんろんブレジネフ・ドクトリン)を主張しゅちょうして、これらのうごきを武力ぶりょく鎮圧ちんあつした。

とくソ連それん問題もんだいとしたのは、これらの運動うんどう要求ようきゅう共産きょうさん主義しゅぎ政党せいとう指導しどうせい否定ひていし、自由じゆう選挙せんきょもとづく複数ふくすう政党せいとうせいへの志向しこうせたことであった。これは社会しゃかい主義しゅぎイデオロギーの問題もんだいであると同時どうじに、ロシア防衛ぼうえい最前線さいぜんせん絶対ぜったい後退こうたいさせないという帝政ていせい時代じだいからの地政学ちせいがくてき問題もんだいでもあった。

また、とくにチェコスロヴァキア軍事ぐんじ介入かいにゅうについては1956ねんスターリン批判ひはん以来いらい徐々じょじょあらわれていた西にしヨーロッパ各国かっこく共産党きょうさんとう日本にっぽん共産党きょうさんとう、および各国かっこく知識ちしきじん社会しゃかい主義しゅぎ社会しゃかい民主みんしゅ主義しゅぎ政党せいとうにおけるソ連それんがた社会しゃかい主義しゅぎへの不信ふしんかん増幅ぞうふくさせた。その結果けっかユーロコミュニズムばれる、議会ぎかいせい民主みんしゅ主義しゅぎによる政権せいけん交代こうたい前提ぜんていとした平和へいわ革命かくめいによる社会しゃかい主義しゅぎ建設けんせつへの路線ろせんをとらせた。ただし、これらの共産党きょうさんとうおおくでも、その内部ないぶにおいてはとう指導しどう頂点ちょうてんとした民主みんしゅ集中しゅうちゅうせい維持いじした。

停滞ていたい改革かいかく

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ソ連それんがた社会しゃかい主義しゅぎは、とくに1970年代ねんだい以降いこう経済けいざい疲弊ひへい目立めだち、食料しょくりょうにち用品ようひんにも事欠ことか状態じょうたいになったために、各国かっこく人民じんみんには不満ふまん鬱積うっせきしていた。とくにノルマを重視じゅうしする生産せいさん計画けいかくではしつ問題もんだい軽視けいしされ、とくソ連それんではアメリカとの冷戦れいせんにより国力こくりょくたいして過重かじゅう軍拡ぐんかく競争きょうそういられたため、軽工業けいこうぎょうへの生産せいさん資源しげん配分はいぶんかぎられるという事情じじょうがあった。

流通りゅうつうぎょうなどのサービス部門ぶもん価値かち非常ひじょうひくられ、共産党きょうさんとう幹部かんぶなど一部いちぶ特権とっけん階級かいきゅう共産きょうさん貴族きぞく)や外国がいこくじんのぞいた一般いっぱん国民こくみんにはコスト意識いしき奉仕ほうし精神せいしんひく従業じゅうぎょういんによる劣悪れつあくなサービスしか提供ていきょうされないことがおおかった。流通りゅうつう部門ぶもん脆弱ぜいじゃくせいのため、農業のうぎょう生産せいさんぶつ市場いちば出回でまわるまでの損失そんしつりつ異常いじょうたかかった。また、資本しほん主義しゅぎ諸国しょこく急速きゅうそくすすんだ情報じょうほう工学こうがく導入どうにゅう一部いちぶ研究けんきゅう機関きかん軍需ぐんじゅ部門ぶもんのぞいておこなわれず、資本しほん主義しゅぎ諸国しょこくこった情報じょうほう革命かくめいまった発生はっせいしなかったため、東西とうざい経済けいざい格差かくさ絶望ぜつぼうてきひらいた。また、ノルマ至上しじょう主義しゅぎ構造こうぞうてき欠陥けっかんとして環境かんきょう問題もんだいへの対応たいおう完全かんぜん後手ごてまわった。

これらの生活せいかつ水準すいじゅんひくさや公害こうがい拡大かくだい政府せいふ失政しっせいとして批判ひはんすることは社会しゃかい主義しゅぎ体制たいせいへのはん革命かくめい行為こういなされ、危険きけん行為こういであったため、国民こくみんあいだにはことなかれ主義しゅぎ政治せいじてき関心かんしん蔓延まんえん国民こくみん不満ふまん社会しゃかい奥深おくふかくに、急速きゅうそく蓄積ちくせきされた。また、共産党きょうさんとう幹部かんぶ出世しゅっせ担当たんとう部門ぶもんにおけるノルマの達成たっせい左右さゆうされたため、立身出世りっしんしゅっせ保身ほしんのための超過ちょうか数値すうち虚偽きょぎ報告ほうこく横行おうこうし、的確てきかく経済けいざい政策せいさく作成さくせいするための前提ぜんていくずれた。

この社会しゃかい危機ききたいし、各国かっこく共産きょうさん主義しゅぎ政党せいとう政権せいけんった方針ほうしんじつ多様たようであった。ソ連それん自身じしんではエフセイ・リーベルマンにより提唱ていしょうされた生産せいさん利潤りじゅんせい導入どうにゅうが1960年代ねんだい後半こうはんアレクセイ・コスイギン首相しゅしょうによっておこなわれたが、プラハのはる以降いこう保守ほしゅによって中断ちゅうだんされ、レオニード・ブレジネフ時代じだい長期ちょうき停滞ていたいすすんでいった。プラハのはるのち保守ほしゅグスターフ・フサーク政権せいけん掌握しょうあくしたチェコスロヴァキアや、ブレジネフと良好りょうこう関係かんけい維持いじしたエーリッヒ・ホーネッカー支配しはいしゃとなったひがしドイツも政治せいじ言論げんろんめん自由じゆう拒絶きょぜつし、国営こくえい企業きぎょう中心ちゅうしんとした中央ちゅうおう集権しゅうけん管理かんり主義しゅぎてき経済けいざい体制たいせい維持いじした。これは国民こくみんあいだおおくの不満ふまんみ、とく西にしドイツからの情報じょうほう流入りゅうにゅう容易よういひがしドイツでは西にしドイツへけた国民こくみん亡命ぼうめい延々えんえんつづき、国家こっか維持いじには「ベルリンのかべ」の構築こうちくによる交流こうりゅう遮断しゃだん不可欠ふかけつとなっていた。

一方いっぽう、ハンガリー動乱どうらん成立せいりつしたハンガリーカーダール・ヤーノシュ政権せいけん外交がいこうめんでのたい追従ついしょうハンガリー社会しゃかい主義しゅぎ労働ろうどうしゃとうによるいちとう支配しはい体制たいせい堅持けんじ確約かくやくしてソ連それんによる再度さいど軍事ぐんじ介入かいにゅうふうじたうえで、民営みんえい企業きぎょう育成いくせい農産物のうさんぶつ流通りゅうつう自由じゆうなどの国内こくない経済けいざい改革かいかく実施じっしし、社会しゃかい主義しゅぎこくとしては例外れいがいてき継続けいぞくてき経済けいざい成長せいちょう成功せいこうした(グヤーシュ・コミュニズムen))。ポーランドポーランド人民じんみん共和きょうわこく)ではスターリン批判ひはんポズナン暴動ぼうどうけてポーランド統一とういつ労働ろうどうしゃとうだいいち書記しょきかえいたヴワディスワフ・ゴムウカ農業のうぎょう集団しゅうだん中止ちゅうしぜん政治せいじはん釈放しゃくほう一定いってい自由じゆう路線ろせんかじり、1970ねん後継こうけいしゃとなったエドヴァルド・ギェレク西側にしがわ資本しほん主義しゅぎ諸国しょこくからの借款しゃっかん民間みんかん企業きぎょうによる投資とうしれを積極せっきょくてきすすめたが、高度こうど経済けいざい成長せいちょう1973ねん1979ねん続発ぞくはつした石油せきゆ危機ききによる原油げんゆ価格かかく上昇じょうしょう直撃ちょくげきされて短期間たんきかんわり、とくに1979ねんには債務さいむ返済へんさいべを実施じっしする事態じたいとなって、生活苦せいかつく反発はんぱつした国民こくみんによる1980ねん以降いこう独立どくりつ自主じしゅ管理かんり労働ろうどう組合くみあい連帯れんたいによる活動かつどう中核ちゅうかくとした民主みんしゅ運動うんどうへとつながった。

反対はんたいアルバニアではアルバニア労働党ろうどうとうだいいち書記しょきエンヴェル・ホッジャ一切いっさい改革かいかく拒否きょひし、スターリン以上いじょうスターリン主義しゅぎてきばれる独裁どくさい体制たいせいきずき、みずからの方針ほうしんはんする何人なんにんもの政府せいふ高官こうかん処刑しょけいした。

1949ねんソ連それんなどの支援しえんけて建国けんこくされた中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくでは、当初とうしょ毛沢東もうたくとうらがソ連それん農業のうぎょう集団しゅうだん安易あんい模倣もほうしただい躍進やくしん政策せいさく実施じっしするも悲惨ひさん失敗しっぱいわり、そのスターリン批判ひはん反発はんぱつして1960年代ねんだいよりちゅう対立たいりつ表面ひょうめんし、両国りょうこくあいだ国境こっきょう紛争ふんそうまで発生はっせいした。以降いこう中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくソ連それんを「社会しゃかい帝国ていこく主義しゅぎ」と批判ひはんし、1970年代ねんだいはいソ連それん牽制けんせいするために利害りがい一致いっちしたアメリカとの国交こっこう樹立じゅりついたる。

1960年代ねんだい後半こうはんから1970年代ねんだい前半ぜんはんにかけて、毛沢東もうたくとうやその夫人ふじん江青こうせいらが指導しどうおこなわれた文化ぶんかだい革命かくめい以降いこう中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくは「ソ連それんがた社会しゃかい主義しゅぎ」とは異質いしつ体制たいせいとみなされるようになった。これは、中国共産党ちゅうごくきょうさんとう実権じっけん掌握しょうあくした鄧小ひらた1978ねん改革かいかく開放かいほう政策せいさく発表はっぴょうして、経済けいざい特区とっく設置せっちめたことでより明確めいかくとなった。ただし、政治せいじめんではとう指導しどうせい貫徹かんてつされいちとう独裁どくさいせいいていることなど、かつてのソ連それんめんおおくみられ、このような体制たいせい民主みんしゅもとおこなわれた1989ねんだい天安門てんあんもん事件じけんでもらぐことはなかった。

ソ連それんがた社会しゃかい主義しゅぎ崩壊ほうかい残存ざんそん

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ペレストロイカと東欧とうおう民主みんしゅ革命かくめい

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1980年代ねんだいはいると、ソ連それん国内こくないでは、硬直こうちょくした自国じこく社会しゃかい主義しゅぎ体制たいせい根本こんぽんてき改革かいかくする必要ひつようせい共産党きょうさんとう指導しどうあいだでも共有きょうゆうされはじめた。1982ねん共産党きょうさんとう書記しょきちょう就任しゅうにんしたKGB出身しゅっしんユーリ・アンドロポフ国内こくない綱紀こうきめをはかり、1985ねん同職どうしょくいたミハイル・ゴルバチョフペレストロイカとなえて経済けいざい再建さいけん着手ちゃくしゅした。

これはポーランドやハンガリーで先行せんこうしていた経済けいざい改革かいかくがモデルとなった。改革かいかく進行しんこうすると長年ながねん政治せいじてき抑圧よくあつ経済けいざいてき統制とうせい疲弊ひへいした国民こくみんあいだ自由じゆうもとめるこえ一気いっき増加ぞうかし、1989ねんには東欧とうおう一帯いったい民主みんしゅ革命かくめい勃発ぼっぱつし、ソ連それんがた社会しゃかい主義しゅぎ体制たいせい放棄ほうきされた。

ソ連それん崩壊ほうかいとその

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このうごきを容認ようにんしたゴルバチョフはソ連それん複数ふくすう政党せいとうせい導入どうにゅうして共産党きょうさんとう連邦れんぽう政府せいふ権力けんりょく分離ぶんりし、社会しゃかい主義しゅぎイデオロギーしょくいたうえで、民族みんぞく共和きょうわこく共同きょうどうたいとしてソビエト連邦れんぽう再生さいせいすることをかんがえた。1990ねんソ連それん憲法けんぽう改正かいせいされ、共産党きょうさんとういちとう支配しはい否定ひていされたことで、従来じゅうらいソ連それんがた社会しゃかい主義しゅぎ実質じっしつてき終焉しゅうえんした。

ゴルバチョフはソ連それん大統領だいとうりょう共産党きょうさんとう書記しょきちょう兼任けんにんしたが、共産党きょうさんとう急速きゅうそく求心力きゅうしんりょくうしない、これに危機ききかんいたぐんやKGBの保守ほしゅ首脳しゅのう国営こくえい軍需ぐんじゅ産業さんぎょう企業きぎょう経営けいえいしゃ支持しじして発生はっせいした1991ねんソ連それん8がつクーデター失敗しっぱいすると、ゴルバチョフは共産党きょうさんとう解散かいさん宣言せんげんした。ソビエト連邦れんぽう自体じたい構成こうせい共和きょうわこく自立じりつすすみ、改革かいかくとして共産党きょうさんとうから脱退だったいした経験けいけんち、1990ねん6がつにはロシア共和きょうわこく主権しゅけん国家こっか宣言せんげんおこなっていたボリス・エリツィン同国どうこく大統領だいとうりょうが1991ねん12月8にちウクライナベラルーシくわえた3こくベロヴェーシ合意ごういむすび、連邦れんぽう存在そんざい意義いぎがほぼ喪失そうしつしたのをけて同年どうねん12がつ25にちにゴルバチョフが大統領だいとうりょう辞任じにん職務しょくむ停止ていし)を宣言せんげんし、ソビエト連邦れんぽう解体かいたいされた。

ソ連それん後継こうけい国家こっかとなったロシアではエリツィン政権せいけん首相しゅしょうとなったエゴール・ガイダルすすめた軍需ぐんじゅ産業さんぎょう民生みんせい転換てんかんふく急速きゅうそく民営みんえいプログラムが急速きゅうそくなインフレをまねき、エリツィンとむすんできゅう国営こくえい企業きぎょう格安かくやす入手にゅうしゅした一部いちぶ新興しんこう財閥ざいばつ(オリガルヒ)の極端きょくたん富裕ふゆう一般いっぱん大衆たいしゅうのさらなる窮乏きゅうぼう並行へいこうし、1998ねんにはロシア財政ざいせい危機きき発生はっせいした。きゅうKGB出身しゅっしん2000ねん大統領だいとうりょうとなったウラジーミル・プーチン新興しんこう財閥ざいばつへのけを強化きょうかし、外資がいし導入どうにゅう利用りようした民生みんせい部門ぶもん成長せいちょうによる経済けいざい発展はってん国民こくみん生活せいかつ向上こうじょう達成たっせいしたが、テレビメディアの政府せいふ独占どくせん象徴しょうちょうされる言論げんろん統制とうせいさい強化きょうかみなみオセチア紛争ふんそうによる大国たいこく主義しゅぎ復活ふっかつなどでしめされるソ連それん時代じだいへの回帰かいき指摘してきされ、ゴルバチョフなどからは自由じゆう後退こうたいなどという批判ひはんけている。また、ペレストロイカでは改革かいかくりでゴルバチョフをささえたカザフスタンヌルスルタン・ナザルバエフ大統領だいとうりょう連邦れんぽう崩壊ほうかい長期ちょうき政権せいけん維持いじして縁故えんこしゃによる支配しはい体制たいせいかため、ベラルーシではアレクサンドル・ルカシェンコ大統領だいとうりょう反対はんたい抑圧よくあつして「欧州おうしゅう最後さいご独裁どくさいしゃ」と批判ひはんびるなど、おおくのきゅうソ連それん諸国しょこくでは経済けいざいめんでの資本しほん主義しゅぎ外資がいし導入どうにゅうすすめながらも「ソ連それんがた社会しゃかい主義しゅぎ」の影響えいきょうつよのこっている。

なお、日本にっぽん共産党きょうさんとうはゴルバチョフ時代じだいソ連それん共産党きょうさんとうとの関係かんけい正常せいじょうしていたが、ソビエト連邦れんぽう崩壊ほうかいさいして宮本みやもと顕治けんじは「歴史れきしてききょあくとうだったソ連それん共産党きょうさんとう解体かいたいを、諸手もろてげて歓迎かんげいする」と発言はつげんした。一方いっぽう日本にっぽん社会党しゃかいとうやその左派さはをリードした社会しゃかい主義しゅぎ協会きょうかいしんにとってはソ連それん崩壊ほうかいおおきな打撃だげきとなり、社会党しゃかいとう後継こうけい政党せいとうである社会しゃかい民主党みんしゅとうきゅう社会党しゃかいとう左派さは一部いちぶ結成けっせいしたしん社会党しゃかいとうにも影響えいきょうのこっている。これらの左派さはけい政党せいとう自由民主党じゆうみんしゅとう中心ちゅうしんとする保守ほしゅ勢力せいりょくから「体制たいせい選択せんたくろん」などとしてソ連それん崩壊ほうかい攻撃こうげき材料ざいりょう利用りようされ、1990年代ねんだい後半こうはんからの党勢とうせい衰退すいたいへとつながった。

社会しゃかい主義しゅぎこく改革かいかく存続そんぞく

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ペレストロイカからソ連それん崩壊ほうかいまでの激動げきどうは、ひがしヨーロッパ以外いがい社会しゃかい主義しゅぎ諸国しょこくにもおおきな影響えいきょうあたえた。ただし、これらの諸国しょこくでは、共産きょうさん主義しゅぎ政党せいとうのようないちとう支配しはい経済けいざい統制とうせい放棄ほうきまではおよばない場合ばあいおおかった。

ベトナム社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく
前身ぜんしんだい世界せかい大戦たいせんベトミンであり、ベトナム戦争せんそう中越なかごえ戦争せんそうなどの歴史れきしからソ連それん共産党きょうさんとうしたしく、中国共産党ちゅうごくきょうさんとう敵対てきたいしたベトナム社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこくでは、ベトナム共産党きょうさんとうドイモイばれる経済けいざい改革かいかく路線ろせんり、市場いちば経済けいざい導入どうにゅう積極せっきょく推進すいしん共産党きょうさんとう単独たんどく支配しはいによる国家こっか体制たいせい存続そんぞく両立りょうりつさせた。アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくとの国交こっこう回復かいふくさせ、ASEAN諸国しょこく一員いちいんとして東南とうなんアジア諸国しょこくとの連携れんけい友好ゆうこうふかめる一方いっぽう中国共産党ちゅうごくきょうさんとうとの冷戦れいせん状態じょうたいなおっておらず、日本にっぽん韓国かんこくとの関係かんけい重視じゅうししつつ両国りょうこく過去かこ戦争せんそう犯罪はんざいたいしてはきびしくのぞんでいる。
キューバ共和きょうわこく
キューバ共産党きょうさんとう支配しはいするキューバ共和きょうわこくでは、うみ対峙たいじするアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく経済けいざい制裁せいさい影響えいきょうつづくため、経済けいざい改革かいかくすすまず、かつてのソ連それんがた社会しゃかい主義しゅぎ体制たいせいつよのこった。ラウル・カストロ権力けんりょく委譲いじょうされる前後ぜんごから、中南米ちゅうなんべい諸国しょこくしんキューバてき社会しゃかい主義しゅぎ政権せいけん成立せいりつしたこともあって、経済けいざい開放かいほう自由じゆう限定げんていされたかたちながらようやくすすみはじめている。米国べいこくとの国交こっこうオバマ政権せいけん時代じだい復活ふっかつした。
朝鮮民主主義人民共和国ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく
朝鮮ちょうせん労働党ろうどうとう支配しはい政党せいとう朝鮮民主主義人民共和国ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこくでは、きむ日成いるそんぬときむ正日じょんいるに、さらにきむただしおんにとさんだいわたって権力けんりょく世襲せしゅうされて「きむ王朝おうちょう」による支配しはい固定こていされ、「きむ王朝おうちょう」の主体しゅたい(チュチェ)思想しそう国教こっきょうあつかいされるなど、絶対ぜったい君主くんしゅせい様相ようそうていしている。政治せいじめんでは、朝鮮人民軍ちょうせんじんみんぐん社会しゃかい主義しゅぎ建設けんせつ主力しゅりょくとするさきぐん政治せいじかかげ、事実じじつじょう軍事ぐんじ政権せいけんした。経済けいざいめんでは、冷戦れいせん終結しゅうけつけた1990年代ねんだい以来いらい混乱こんらんなかにあって、ソビエト連邦れんぽうのような政府せいふ統制とうせい経済けいざい運用うんようはできていない。
2000年代ねんだい以降いこう中南米ちゅうなんべい諸国しょこく
2000年代ねんだい以降いこう中南米ちゅうなんべい諸国しょこくでは、しん自由じゆう主義しゅぎ政策せいさくへの批判ひはんから、ベネズエラ筆頭ひっとう社会しゃかい主義しゅぎかかげる政権せいけんが、貧困ひんこんそう中心ちゅうしんとした国民こくみん支持しじけて相次あいついで成立せいりつし、政治せいじてき自由じゆう保障ほしょうするなどソ連それんがた社会しゃかい主義しゅぎとはことなる21世紀せいき社会しゃかい主義しゅぎぞう模索もさくしている。ただし、ベネズエラで2007ねんおこなわれた、社会しゃかい主義しゅぎ体制たいせいへの移行いこう銘打めいうった憲法けんぽう是非ぜひ国民こくみん投票とうひょうは、僅差きんさ否決ひけつされた。

関連かんれん項目こうもく

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出典しゅってん

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  1. ^ Finger, BarryI (Summer 1997). “On Bureaucratic Collectivism”. New Politics 6. http://nova.wpunj.edu/newpolitics/issue23/finger23.htm9. [リンク]
  2. ^ Kennedy, M. D. (1991). Professionals, power, and Solidarity in Poland: A critical sociology of Soviet-type society. Cambridge, UK; New York, NY, Cambridge University Press.
  3. ^ Ernest E. Haberkern and Arthur Lipow, editors, Neither Capitalism nor Socialism, Humanities Press, Atlantic Highlands, 1996.
  4. ^ Cliff, Tony (1948). The theory of bureaucratic collectivism: A critique. http://www.marxists.org/archive/cliff/works/1948/xx/burcoll.htm 2011ねん1がつ17にち閲覧えつらん. 
  5. ^ Mandel, Ernest (1979). “Why The Soviet Bureaucracy is not a New Ruling Class”. Monthly Review. http://www.ernestmandel.org/en/works/txt/1979/soviet_bureaucracy.htm 2011ねん1がつ17にち閲覧えつらん. 
  6. ^ Slovo, J. (1990). Has socialism failed? London, UK, Inkululeko Publications; Imported Publications Available at: https://www.sacp.org.za/docs/history/failed.html.