奴隷 どれい 制 せい は、有史 ゆうし 以来 いらい あまねく存在 そんざい したが、時代 じだい 的 てき ・地域 ちいき 的 てき にその現 あら われ方 かた は複雑 ふくざつ かつ多様 たよう であった。抽象 ちゅうしょう 的 てき にいえば生産 せいさん 力 りょく 発達 はったつ が他人 たにん の剰余 じょうよ 労働 ろうどう 搾取 さくしゅ を可能 かのう とした段階 だんかい 以降 いこう の現象 げんしょう であり、始原 しげん 的 てき には共同 きょうどう 体 たい 間 あいだ に発生 はっせい する戦争 せんそう 捕虜 ほりょ 、被 ひ 征服 せいふく 民 みん に対 たい する略奪 りゃくだつ ・身分 みぶん 格下 かくさ げ、共同 きょうどう 体内 たいない 部 ぶ の階層 かいそう 分化 ぶんか 、成員 せいいん の処罰 しょばつ や売却 ばいきゃく 、債務 さいむ 不払 ふばら いなどが供給 きょうきゅう 源 げん であった。この奴隷 どれい 化 か 手段 しゅだん は、いずれも奴隷 どれい 制 せい の終末 しゅうまつ に至 いた るまで主要 しゅよう な奴隷 どれい 供給 きょうきゅう 手段 しゅだん であり続 つづ けた。このほか、海賊 かいぞく や盗賊 とうぞく 、武装 ぶそう 勢力 せいりょく などによって所属 しょぞく する社会 しゃかい から誘拐 ゆうかい された人々 ひとびと もまた、奴隷 どれい の供給 きょうきゅう 源 げん として非常 ひじょう に大 おお きな割合 わりあい を占 し めていた[1] 。
戦争 せんそう は奴隷 どれい 供給 きょうきゅう 源 げん として非常 ひじょう に大 おお きかった。ロ ろ ーマ帝国 まていこく では2世紀 せいき 頃 ころ になるとパクス・ロマーナ による戦争 せんそう 奴隷 どれい の枯渇 こかつ により、奴隷 どれい 制 せい を主 おも とする大 だい 農園 のうえん であるラティフンディウム からコロヌス と呼 よ ばれる小作 こさく 人 じん によるコロナートゥス へと農業 のうぎょう 経営 けいえい が移行 いこう し[2] 、やがて農奴 のうど 制 せい へとつながっていった。17世紀 せいき から19世紀 せいき にかけてのアフリカでは在地 ざいち 諸 しょ 勢力 せいりょく 間 あいだ において奴隷 どれい 獲得 かくとく 目的 もくてき の戦争 せんそう が多発 たはつ し、戦争 せんそう 捕虜 ほりょ は輸出 ゆしゅつ 奴隷 どれい のほぼ半数 はんすう を占 し めたほか、奴隷 どれい 獲得 かくとく 目的 もくてき の誘拐 ゆうかい や略奪 りゃくだつ も多発 たはつ した[3] 。国家 こっか 間 あいだ では戦争 せんそう 以外 いがい にも、属国 ぞっこく から宗主 そうしゅ 国 こく に向 む けて服従 ふくじゅう のしるしとして奴隷 どれい を貢 みつげ 納 おさめ することが広 ひろ く行 おこな われ、とくに19世紀 せいき までのイスラム圏 けん やアフリカにおいては主要 しゅよう な奴隷 どれい 供給 きょうきゅう 源 げん の一 ひと つだった[4] 。貢 みつぎ 納 おさめ だけでなく、北 きた アフリカでは国家 こっか 間 あいだ の贈答 ぞうとう 品 ひん としても奴隷 どれい のやりとりは行 おこな われた[5] 。婚 こん 資 し としての奴隷 どれい 贈与 ぞうよ は広 ひろ く見 み られ、また通貨 つうか の発行 はっこう ・流通 りゅうつう していないような未開 みかい 社会 しゃかい においては奴隷 どれい そのものが貨幣 かへい として使用 しよう されることが多 おお かったため、こうした取引 とりひき の結果 けっか としての奴隷 どれい 取得 しゅとく も多 おお く見 み られた[6] 。15世紀 せいき のサハラ交易 こうえき では奴隷 どれい は主 おも に馬 うま と交換 こうかん され、奴隷 どれい 8人 にん から20人 にん に対 たい し馬 うま 1頭 とう のレートで交換 こうかん されていたとされる[7] 。しかし多 おお くの場合 ばあい 、奴隷 どれい 身分 みぶん の親 おや から生 う まれた子供 こども 、つまり出生 しゅっしょう 奴隷 どれい が奴隷 どれい の中 なか で最 もっと も大 おお きな部分 ぶぶん を占 し めていた[8] 。
18世紀 せいき 中間 なかま 航路 こうろ の奴隷 どれい 船 せん の断面 だんめん 図 ず (国立 こくりつ アメリカ歴史 れきし 博物館 はくぶつかん の展示 てんじ )
奴隷 どれい 制 せい は自前 じまえ の奴隷 どれい 補給 ほきゅう が困難 こんなん であったため、古来 こらい 戦争 せんそう による奴隷 どれい 供給 きょうきゅう と奴隷 どれい 商業 しょうぎょう の発達 はったつ を不可欠 ふかけつ とした。奴隷 どれい は未開 みかい の社会 しゃかい においてすら主要 しゅよう 交易 こうえき 品 ひん の一 ひと つであり、こうした社会 しゃかい では対外 たいがい 商業 しょうぎょう 活動 かつどう が奴隷 どれい 輸出 ゆしゅつ のほかに存在 そんざい しないことすらあった[9] 。奴隷 どれい の取得 しゅとく において最 もっと も大 おお きなものは対外 たいがい 貿易 ぼうえき であり、歴史 れきし 上 じょう 世界 せかい 各地 かくち でいくつもの大 だい 規模 きぼ 奴隷 どれい 貿易 ぼうえき システムが成立 せいりつ してきた[10] 。歴史 れきし 上 じょう 最 もっと も大 だい 規模 きぼ な奴隷 どれい 貿易 ぼうえき システムは、15世紀 せいき 半 なか ばから19世紀 せいき 後半 こうはん まで継続 けいぞく した大西洋 たいせいよう 奴隷 どれい 貿易 ぼうえき である。大西洋 たいせいよう 奴隷 どれい 貿易 ぼうえき は、16世紀 せいき 半 なか ばまでは旧 きゅう 世界 せかい への輸出 ゆしゅつ が中心 ちゅうしん であったが、それ以降 いこう は新大陸 しんたいりく への輸出 ゆしゅつ がほとんどを占 し めるようになった。この時期 じき の奴隷 どれい 貿易 ぼうえき は三角 さんかく 貿易 ぼうえき と呼 よ ばれ、ヨーロッパから銃 じゅう や弾薬 だんやく 、綿布 めんぷ や鉄棒 てつぼう 、ビーズ などを積 つ んで出航 しゅっこう し、アフリカ沿岸 えんがん で奴隷 どれい と交換 こうかん し、ブラジル や西 にし インド諸島 しょとう などの新大陸 しんたいりく で奴隷 どれい を売却 ばいきゃく し砂糖 さとう など新大陸 しんたいりく の農産物 のうさんぶつ を積 つ んでヨーロッパへと戻 もど るルートが主流 しゅりゅう だった。アフリカから新大陸 しんたいりく への奴隷 どれい 輸出 ゆしゅつ ルートは中間 ちゅうかん 航路 こうろ と呼 よ ばれ、およそ400年間 ねんかん に約 やく 800万 まん 人 にん から1050万 まん 人 にん が連 つ れ去 さ られ、そのうち15%から20%の奴隷 どれい が輸送 ゆそう 途中 とちゅう に死亡 しぼう したと考 かんが えられている[11] 。サハラ交易 こうえき でも奴隷 どれい は金 かね とならんでアフリカ側 がわ の主要 しゅよう 輸出 ゆしゅつ 品 ひん であり、特 とく に金 かね を産出 さんしゅつ しないカネム・ボルヌ帝国 ていこく やハウサ諸 しょ 王国 おうこく などサヘル 中央 ちゅうおう 部 ぶ の諸国 しょこく は奴隷 どれい を主力 しゅりょく 商品 しょうひん としていて、盛 さか んに奴隷 どれい 狩 か りを行 おこな った[12] 。アフリカからはこのほかに紅海 こうかい 経由 けいゆ ルートでも多 おお くの奴隷 どれい が輸出 ゆしゅつ され[13] 、また東 ひがし アフリカ では内陸 ないりく 部 ぶ から連 つ れてこられた奴隷 どれい がザンジバル などのインド洋 いんどよう 沿岸 えんがん 諸 しょ 港 みなと に集 あつ められ、インド洋 いんどよう 交易 こうえき ルートを通 とお してアラビア やインド へと多 おお くの奴隷 どれい が輸出 ゆしゅつ された[14] 。
こうした奴隷 どれい 貿易 ぼうえき は、さまざまな影響 えいきょう を社会 しゃかい に及 およ ぼした。特 とく に大 だい 規模 きぼ な奴隷 どれい 輸出 ゆしゅつ が行 おこな われた17世紀 せいき から19世紀 せいき にかけてのアフリカでは、アシャンティ王国 おうこく やダホメ王国 おうこく 、オヨ王国 おうこく に代表 だいひょう される奴隷 どれい 輸出 ゆしゅつ を経済 けいざい 基盤 きばん とした諸 しょ 王国 おうこく が繁栄 はんえい し、港湾 こうわん 都市 とし など一部 いちぶ では奴隷 どれい 輸出 ゆしゅつ によって新興 しんこう 商人 しょうにん 層 そう の台頭 たいとう も見 み られたが、あまりにも大 だい 規模 きぼ な奴隷 どれい 輸出 ゆしゅつ は労働 ろうどう 力 りょく の大量 たいりょう 流出 りゅうしゅつ と人口 じんこう の停滞 ていたい を招 まね き、アフリカ全体 ぜんたい の経済 けいざい や社会 しゃかい そのものを停滞 ていたい させた[15] 。これに対 たい し、奴隷 どれい 貿易 ぼうえき がヨーロッパ経済 けいざい に与 あた えた影響 えいきょう については諸説 しょせつ ある。歴史 れきし 学者 がくしゃ エリック・ウィリアムズ は1944年 ねん に『資本 しほん 主義 しゅぎ と奴隷 どれい 制 せい 』を発表 はっぴょう し、奴隷 どれい 貿易 ぼうえき と奴隷 どれい 制 せい による資本 しほん の蓄積 ちくせき が産業 さんぎょう 革命 かくめい につながったとする、いわゆる「ウィリアムズ・テーゼ」を提唱 ていしょう したが、のちの実証 じっしょう 研究 けんきゅう によって奴隷 どれい 貿易 ぼうえき の利潤 りじゅん が資本 しほん 形成 けいせい に寄与 きよ した割合 わりあい は少 すく ないことが証明 しょうめい されている[16] 。ただし彼 かれ の立論 りつろん は大 おお きな議論 ぎろん を呼 よ び、奴隷 どれい 貿易 ぼうえき 史 し や経済 けいざい 史 し の発展 はってん に大 おお きく寄与 きよ した[17] 。
国内 こくない での奴隷 どれい 取引 とりひき は歴史 れきし を通 つう じてどの社会 しゃかい でも常 つね に存在 そんざい したものの極 きわ めて低調 ていちょう であり、ほとんどの社会 しゃかい において新規 しんき 奴隷 どれい の供給 きょうきゅう は国外 こくがい からのものによった。ただし、19世紀 せいき 初頭 しょとう にヨーロッパ諸国 しょこく が奴隷 どれい 貿易 ぼうえき を停止 ていし すると様相 ようそう が変 か わり、いまだ大 だい 規模 きぼ な奴隷 どれい 制 せい を残置 ざんち していたアメリカ南部 なんぶ 諸 しょ 州 しゅう およびブラジル では国外 こくがい からの供給 きょうきゅう が停止 ていし したため国内 こくない での奴隷 どれい 取引 とりひき が盛 さか んとなった[18] 。アメリカ南部 なんぶ では1808年 ねん の奴隷 どれい 貿易 ぼうえき 廃止 はいし 後 ご 、ヴァージニア州 しゅう やノースカロライナ州 しゅう から綿花 めんか 栽培 さいばい を中心 ちゅうしん とする深 ふか 南部 なんぶ 諸 しょ 州 しゅう へと大量 たいりょう の奴隷 どれい が売却 ばいきゃく されるようになった[19] 。同様 どうよう に1850年 ねん に奴隷 どれい 貿易 ぼうえき の禁止 きんし されたブラジルにおいても、サトウキビ農園 のうえん の多 おお いブラジル北東 ほくとう 部 ぶ からコーヒー農園 のうえん の多 おお いブラジル南東 なんとう 部 ぶ へ奴隷 どれい の売却 ばいきゃく が行 おこな われた[20] 。
同 どう 一 いち 民族 みんぞく 内 ない で奴隷 どれい を取得 しゅとく する社会 しゃかい もあったが、多 おお くの社会 しゃかい において同 おな じ共同 きょうどう 体 たい や同 どう 一 いち 民族 みんぞく のものを奴隷 どれい にすることは避 さ けられる傾向 けいこう にあった。同 どう 一 いち 民族 みんぞく の戦争 せんそう 捕虜 ほりょ は殺 ころ されるか売却 ばいきゃく されることが多 おお く、奴隷 どれい にすることはかなり稀 まれ で、奴隷 どれい 化 か を禁 きん じている社会 しゃかい もあった[21] 。このため、主人 しゅじん と奴隷 どれい の民族 みんぞく は異 こと なることが多 おお かった[22] 。
人種 じんしゅ が奴隷 どれい 制 せい に大 おお きな役割 やくわり を果 は たしたのは新大陸 しんたいりく であり、またイスラム圏 けん でも強 つよ い相関 そうかん が存在 そんざい したが[23] 、そのほかの社会 しゃかい でも人種 じんしゅ は決 けっ して奴隷 どれい 化 か と無関係 むかんけい ではなく、民族 みんぞく ほどではないにせよ相関 そうかん が存在 そんざい した[24] 。18世紀 せいき に入 はい ると、ヨーロッパにおいては人種 じんしゅ と奴隷 どれい 制 せい を結 むす びつける言説 げんせつ が強化 きょうか された。これは、当時 とうじ ヨーロッパ文明 ぶんめい 圏 けん に流入 りゅうにゅう する奴隷 どれい のほぼ全員 ぜんいん が黒人 こくじん だったからである。ヨハン・フリードリヒ・ブルーメンバッハ らによって誕生 たんじょう したばかりの人類 じんるい 学 がく は人種 じんしゅ の概念 がいねん を体系 たいけい 化 か し、人種 じんしゅ 主義 しゅぎ へとつながっていった[25] 。北 きた アメリカ大陸 あめりかたいりく のイギリス植民 しょくみん 地 ち においては、創設 そうせつ 当初 とうしょ は奴隷 どれい 制 せい が確立 かくりつ しておらず年期 ねんき 契約 けいやく 奉公人 ほうこうにん による期限 きげん を切 き った労働 ろうどう が中心 ちゅうしん であったとされるが[26] [27] 、やがて17世紀 せいき 後半 こうはん には人種 じんしゅ と結 むす びついた奴隷 どれい 制 せい が確立 かくりつ した[28] 。
イスラム教 いすらむきょう は、ムスリム の奴隷 どれい 化 か を禁 きん じていた。このため、イスラム教 いすらむきょう 圏 けん に供給 きょうきゅう される奴隷 どれい は教 きょう 圏外 けんがい のブラックアフリカや東 ひがし ヨーロッパ、中央 ちゅうおう アジアからの奴隷 どれい が中心 ちゅうしん となり、12世紀 せいき 以後 いご はブラックアフリカがイスラム圏 けん への主 おも な奴隷 どれい の供給 きょうきゅう 源 げん となった[29] 。しかしムスリムの奴隷 どれい 化 か 禁止 きんし は必 かなら ずしも厳格 げんかく に守 まも られたわけではなく、イスラム化 か した黒人 こくじん 地域 ちいき への襲撃 しゅうげき と奴隷 どれい 化 か は頻繁 ひんぱん に起 お こっていた。すでに13世紀 せいき には、イスラム化 か したカネム・ボルヌ帝国 ていこく からマムルーク朝 あさ に宛 あ てて、黒人 こくじん ムスリムの奴隷 どれい 化 か を中止 ちゅうし するよう嘆願 たんがん する書簡 しょかん が送 おく られている[30] 。
主人 しゅじん によって鞭打 むちう たれた奴隷 どれい (1863年 ねん )
奴隷 どれい の使途 しと は多岐 たき にわたり、輸出 ゆしゅつ された地域 ちいき においても主 おも な使途 しと には違 ちが いがあった。サハラ交易 こうえき によってアフリカからイスラム圏 けん へと輸出 ゆしゅつ された奴隷 どれい は若 わか い女性 じょせい が大半 たいはん を占 し め、妾 わらわ や召使 めしつかい として使 つか われることが多 おお かった。また男性 だんせい 奴隷 どれい はナツメヤシ 園 えん などの管理 かんり や軍 ぐん の兵士 へいし などに使 つか われた[31] 。インド洋 いんどよう 交易 こうえき においては建設 けんせつ 労働 ろうどう や家内 かない 奴隷 どれい 、軍 ぐん の兵士 へいし などが多 おお かったが、18世紀 せいき 後半 こうはん にプランテーション 農業 のうぎょう が盛 さか んになると、モーリシャス やレユニオン のサトウキビ農園 のうえん や、ザンジバル島 とう やペンバ島 とう のクローブ 農園 のうえん などで大量 たいりょう の農業 のうぎょう 奴隷 どれい が使役 しえき されるようになった[32] 。イスラム圏 けん のいくつかの国家 こっか では積極 せっきょく 的 てき に黒人 こくじん 奴隷 どれい 兵 へい を採用 さいよう しており、とくにエジプト のトゥールーン朝 あさ やファーティマ朝 あさ 、モロッコ のアラウィー朝 あさ は大 だい 規模 きぼ な黒人 こくじん 奴隷 どれい 軍 ぐん の編成 へんせい で知 し られる[33] 。ファーティマ朝 あさ を打倒 だとう したアイユーブ朝 あさ は黒人 こくじん 奴隷 どれい 兵 へい をほとんど使用 しよう しなかったが[33] 、変 か わってマムルーク と呼 よ ばれる白人 はくじん 奴隷 どれい 兵 へい が多 おお く使役 しえき されるようになり、やがて1250年 ねん にマムルークたちはアイユーブ朝 あさ を打倒 だとう してマムルーク朝 あさ を建国 けんこく した[34] 。これに対 たい し、大西洋 たいせいよう 交易 こうえき で輸出 ゆしゅつ された奴隷 どれい のほとんどはプランテーションにて農業 のうぎょう 奴隷 どれい として使用 しよう された。カリブ海 かりぶかい 諸島 しょとう やブラジルでは主 おも にサトウキビ農園 のうえん で奴隷 どれい が使用 しよう され[35] 、北 きた アメリカ植民 しょくみん 地 ち では当初 とうしょ はタバコ 農園 のうえん [36] 、19世紀 せいき の深 ふか 南部 なんぶ では綿花 めんか 農園 のうえん で奴隷 どれい が大量 たいりょう に使役 しえき された[37] 。
特殊 とくしゅ な技術 ぎじゅつ を持 も つ奴隷 どれい は価値 かち が高 たか く、多 おお くの社会 しゃかい において技術 ぎじゅつ のない奴隷 どれい よりは高 たか い待遇 たいぐう を受 う けることができた[38] 。奴隷 どれい は所有 しょゆう 者 しゃ の財産 ざいさん であり、本質 ほんしつ 的 てき には個人 こじん 的 てき な財産 ざいさん 所有 しょゆう を認 みと められていなかったものの、奴隷 どれい の存在 そんざい するすべての社会 しゃかい において主人 しゅじん の許可 きょか の元 もと で財産 ざいさん を所有 しょゆう することは認 みと められていた。ただし「主人 しゅじん の許可 きょか の元 もと で」の財産 ざいさん 所有 しょゆう であるため、本来 ほんらい の所有 しょゆう 権 けん は主人 しゅじん に所属 しょぞく しており、当該 とうがい 奴隷 どれい が死去 しきょ すればその財産 ざいさん は再 ふたた び主人 しゅじん の下 した へと戻 もど り、家族 かぞく への相続 そうぞく 権 けん はすべての社会 しゃかい において認 みと められていなかった[39] 。ほとんどの社会 しゃかい において、奴隷 どれい は結婚 けっこん し家族 かぞく を持 も つことができた[40] 。19世紀 せいき のアメリカ南部 なんぶ では奴隷 どれい の結婚 けっこん が奨励 しょうれい され、自 みずか ら望 のぞ む相手 あいて と結婚 けっこん することが多 おお かったが、一方 いっぽう で奴隷 どれい 売買 ばいばい も盛 さか んに行 おこな われており、家族 かぞく が別々 べつべつ に売却 ばいきゃく されてバラバラになることも多 おお かった[41] 。
奴隷 どれい が解放 かいほう されることはほとんどの社会 しゃかい で存在 そんざい し、解放 かいほう された奴隷 どれい は解放 かいほう 奴隷 どれい として独特 どくとく な地位 ちい を占 し めることが多 おお かった。解放 かいほう 奴隷 どれい は多 おお くの場合 ばあい 自由 じゆう 民 みん からは一段 いちだん 低 ひく い立場 たちば と見 み なされた[42] 。またすべての社会 しゃかい において、解放 かいほう 奴隷 どれい は元 もと の主人 しゅじん の保護 ほご 下 か に置 お かれた[43] 。奴隷 どれい の解放 かいほう については社会 しゃかい や時代 じだい によって態度 たいど に幅 はば があり、古代 こだい ローマなどは積極 せっきょく 的 てき に奴隷 どれい 解放 かいほう を行 おこな っていたことが知 し られる一方 いっぽう 、19世紀 せいき のアメリカ南部 なんぶ では奴隷 どれい 貿易 ぼうえき の禁止 きんし によって奴隷 どれい の資産 しさん 価値 かち が上 あ がるにつれ解放 かいほう は減少 げんしょう し、ほとんどが国内 こくない において売却 ばいきゃく されるようになった[19] 。
逃亡 とうぼう はどの社会 しゃかい でも禁止 きんし されていたが、実際 じっさい に逃亡 とうぼう 奴隷 どれい は多 おお く、なかでも16世紀 せいき 以降 いこう の新大陸 しんたいりく においてはマルーン と呼 よ ばれる逃亡 とうぼう 奴隷 どれい が大量 たいりょう に発生 はっせい し、しばしば山岳 さんがく 地帯 ちたい や辺境 へんきょう に共同 きょうどう 体 たい をき上 ずきあ げ、またその地域 ちいき のアメリカ先住民 せんじゅうみん と通 つう 婚 こん して同化 どうか し、白人 はくじん と戦闘 せんとう を行 おこな った。山岳 さんがく に立 た てこもってイギリス軍 ぐん と長期 ちょうき にわたる戦闘 せんとう を繰 く り広 ひろ げたジャマイカのマルーンや、内陸 ないりく に一大 いちだい 勢力 せいりょく を築 きず いたブラジルのキロンボなどが知 し られている[44] 。アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく において19世紀 せいき 半 なか ばに奴隷 どれい 制 せい 廃止 はいし 運動 うんどう が盛 さか んになると、南部 なんぶ の奴 やつ 隷州から北部 ほくぶ の自由 じゆう 州 しゅう へと奴隷 どれい の逃亡 とうぼう を手助 てだす けする地下鉄 ちかてつ 道 どう と呼 よ ばれる秘密 ひみつ 結社 けっしゃ が結成 けっせい され、多 おお くの奴隷 どれい がこのルートで逃亡 とうぼう していった[45] 。ただし1793年 ねん の逃亡 とうぼう 奴隷 どれい 法 ほう では逃亡 とうぼう 奴隷 どれい を元 もと の所有 しょゆう 者 しゃ へと戻 もど すべきことが規定 きてい されており、1850年 ねん にはこの法 ほう が強化 きょうか されて自由 じゆう 州 しゅう 各地 かくち で衝突 しょうとつ が起 お こるようになった[46] 。
また奴隷 どれい が反乱 はんらん を起 お こすことも歴史 れきし を通 つう じてみられ、共和 きょうわ 政 せい ローマ における3度 ど の奴隷 どれい 戦争 せんそう 、なかでも第 だい 三 さん 次 じ 奴隷 どれい 戦争 せんそう (スパルタクスの反乱 はんらん )や、9世紀 せいき のアッバース朝 あさ 統治 とうち 下 か メソポタミア で起 お きたザンジュの乱 らん などのように、一 いち 国 こく を揺 ゆ るがすような大 だい 反乱 はんらん へとつながることもあった。なかでも1791年 ねん にフランス領 りょう サン=ドマング で勃発 ぼっぱつ した奴隷 どれい 反乱 はんらん は、トゥーサン・ルーヴェルチュール やジャン=ジャック・デサリーヌ らの指導 しどう の下 した でハイチ革命 かくめい となり、フランス軍 ぐん を追放 ついほう して1804年 ねん にはハイチ として独立 どくりつ した[47] 。
1833年 ねん にイギリスが奴隷 どれい 制 せい を廃止 はいし すると、イギリス海軍 かいぐん はアフリカ沿岸 えんがん において奴隷 どれい 貿易 ぼうえき 船 せん の取 と り締 し まりを開始 かいし し、船上 せんじょう に乗 の っていた奴隷 どれい 達 たち の解放 かいほう を開始 かいし した。当初 とうしょ は自国 じこく 船籍 せんせき の船舶 せんぱく に限 かぎ られていたものの、1848年 ねん 以降 いこう は他国 たこく の奴隷 どれい 船 せん も停止 ていし させ、奴隷 どれい 解放 かいほう を行 おこな うようになった。こうした船上 せんじょう 解放 かいほう 奴隷 どれい はフリータウンやモンロビアといった近隣 きんりん の解放 かいほう 奴隷 どれい 入植 にゅうしょく 地 ち において解放 かいほう され、多 おお くのものはここで定着 ていちゃく した[48] 。
18世紀 せいき 末 まつ には奴隷 どれい 解放 かいほう の動 うご きが強 つよ まるなかで、黒人 こくじん 解放 かいほう 奴隷 どれい をアフリカの入植 にゅうしょく 地 ち に植民 しょくみん させる国家 こっか が現 あらわ れた。1787年 ねん にはグランビル・シャープ の支援 しえん の元 もと 、イギリスの解放 かいほう 奴隷 どれい がシエラレオネ半島 はんとう へと入植 にゅうしょく し、数 すう 度 ど の失敗 しっぱい ののちフリータウン 市 し を中心 ちゅうしん とした植民 しょくみん 地 ち の建設 けんせつ に成功 せいこう し、イギリス海軍 かいぐん の奴隷 どれい 貿易 ぼうえき 取 と り締 し まりによって解放 かいほう された黒人 こくじん がここに流入 りゅうにゅう することによって拡大 かくだい していった[49] 。ついで1821年 ねん にはアメリカ植民 しょくみん 地 ち 協会 きょうかい が西 にし アフリカ に土地 とち を獲得 かくとく して解放 かいほう 奴隷 どれい の入植 にゅうしょく を始 はじ め[50] モンロビア 市 し を建設 けんせつ 、1847年 ねん にはこの植民 しょくみん 地 ち が独立 どくりつ してリベリア が建国 けんこく された[51] 。さらに1849年 ねん にはフランスが解放 かいほう 奴隷 どれい の入植 にゅうしょく 地 ち としてリーブルヴィル 市 し を建設 けんせつ した[52] 。
またこれによって解放 かいほう 奴隷 どれい 間 あいだ の混血 こんけつ が進 すす み、シエラレオネではクリオ [53] 、リベリアではアメリコ・ライベリアン と呼 よ ばれる新 あら たな民族 みんぞく が誕生 たんじょう した[54] 。こうした解放 かいほう 奴隷 どれい たちはヨーロッパ式 しき の高 たか い教育 きょういく を受 う けたものが多 おお く、現地 げんち の支配 しはい 階層 かいそう を形成 けいせい するようになった[53] [54] 。
古 ふる くから一般 いっぱん に家長 かちょう 権 けん のもとに家族 かぞく の構成 こうせい 部分 ぶぶん として家内 かない 労働 ろうどう に使役 しえき されたが(家父長制 かふちょうせい 奴隷 どれい )、古代 こだい ギリシア 、古代 こだい ローマ 、カルタゴ や近世 きんせい のアメリカ大陸 あめりかたいりく などでは、プランテーション 、鉱山 こうざん 業 ぎょう などの生産 せいさん 労働 ろうどう に私的 してき 、公的 こうてき に大 だい 規模 きぼ に使役 しえき された(労働 ろうどう 奴隷 どれい )。古代 こだい ギリシアでは当初 とうしょ は債務 さいむ 奴隷 どれい が主 おも に使役 しえき されていたが、やがて奴隷 どれい 貿易 ぼうえき などによる供給 きょうきゅう が主流 しゅりゅう となり、主 おも に工業 こうぎょう 用途 ようと に使用 しよう された[55] 。古代 こだい ローマでは主 おも に戦争 せんそう 捕虜 ほりょ として大量 たいりょう の奴隷 どれい が流入 りゅうにゅう し、鉱山 こうざん やラティフンディウムと呼 よ ばれる大 だい 農園 のうえん 、ワイン やオリ おり ーブ油 ぶゆ などの生産 せいさん など、広範 こうはん な分野 ぶんや において使役 しえき された[56] 。
歴史 れきし 上 じょう 、とくに大 だい 規模 きぼ な奴隷 どれい 制 せい として、15世紀 せいき から19世紀 せいき 半 なか ばまで大西洋 たいせいよう 地域 ちいき に成立 せいりつ した近代 きんだい 奴隷 どれい 制 せい が挙 あ げられる。このシステムは15世紀 せいき 、ポルトガル がマデイラ諸島 しょとう で、スペイン がカナリア諸島 かなりあしょとう で推 お し進 すす めたサトウキビ 農園 のうえん に直接 ちょくせつ の起源 きげん を持 も つ[57] 。これらの島々 しまじま に作 つく られたプランテーション においては奴隷 どれい が労働 ろうどう 力 りょく として多数 たすう 使用 しよう され、供給 きょうきゅう はギニア湾 わん 岸 きし の黒人 こくじん 諸 しょ 地域 ちいき からなされていた。クリストファー・コロンブス の新大陸 しんたいりく 発見 はっけん と同時 どうじ に現地 げんち 住民 じゅうみん の奴隷 どれい 化 か も進 すす められたものの、疫病 えきびょう や圧政 あっせい による急激 きゅうげき な先住民 せんじゅうみん 人口 じんこう の減少 げんしょう によって半 はん 世紀 せいき もしないうちに歯止 はど めがかかり、代 か わってアフリカ大陸 たいりく からの奴隷 どれい 供給 きょうきゅう が主流 しゅりゅう となった[58] 。新大陸 しんたいりく では北 きた アメリカからカリブ海 かりぶかい 諸島 しょとう 、ブラジルに至 いた るまで、イギリス、フランス、スペイン、オランダ、ポルトガルによって多数 たすう のプランテーションが建設 けんせつ されたが、ここでの労働 ろうどう 力 りょく はほとんどがアフリカから奴隷 どれい 船 せん によって供給 きょうきゅう された黒人 こくじん 奴隷 どれい によってまかなわれた[59] 。この奴隷 どれい 流入 りゅうにゅう によって多数 たすう の黒人 こくじん がこの地域 ちいき に移住 いじゅう することになり、とくに先住民 せんじゅうみん 人口 じんこう がほぼ消滅 しょうめつ していたカリブ海 かりぶかい 諸島 しょとう においては多 おお くの地域 ちいき で黒人 こくじん が多数 たすう 派 は となった[60] 。
18世紀 せいき 後半 こうはん に入 はい ると、ヨーロッパやアメリカでは啓蒙 けいもう 思想 しそう の広 ひろ がりのなかで奴隷 どれい 制 せい への批判 ひはん の動 うご きが出 で てきた。ただし奴隷 どれい 制度 せいど と奴隷 どれい 貿易 ぼうえき は社会 しゃかい に大 おお きな部分 ぶぶん を占 し めており、廃止 はいし には社会 しゃかい 構造 こうぞう の大 おお きな転換 てんかん を伴 ともな うことから、啓蒙 けいもう 思想家 しそうか の多 おお くは奴隷 どれい 制 せい に批判 ひはん 的 てき だったものの廃止 はいし を求 もと めるものはほとんどいなかった[61] 。奴隷 どれい 制 せい 廃止 はいし の動 うご きは18世紀 せいき 半 なか ば以降 いこう イギリスで始 はじ まった。1772年 ねん のサマーセット事件 じけん (英語 えいご 版 ばん ) では逃亡 とうぼう 奴隷 どれい であるジェームズ・サマーセット の自由 じゆう を保障 ほしょう する判決 はんけつ が下 くだ され、奴隷 どれい 制 せい 廃止 はいし 運動 うんどう の大 おお きな転換 てんかん 点 てん となったが、この判決 はんけつ が奴隷 どれい 制 せい の廃止 はいし に直接 ちょくせつ 貢献 こうけん したわけではなかった[62] 。ただしこれによって廃止 はいし 運動 うんどう は勢 いきお いづいた。1789年 ねん には解放 かいほう 奴隷 どれい のオラウダ・イクイアーノ (英語 えいご 版 ばん ) によって奴隷 どれい 体験 たいけん 記 き であるアフリカ人 じん 、イクイアーノの生涯 しょうがい の興味深 きょうみぶか い物語 ものがたり が出版 しゅっぱん されている[63] 。
奴隷 どれい 制度 せいど 廃止 はいし 運動 うんどう は、メソジスト派 は やクエーカー教徒 きょうと といったプロテスタントの小 しょう 宗派 しゅうは からはじまり、アメリカ北部 ほくぶ のいくつかの植民 しょくみん 地 ち では18世紀 せいき 末 まつ には奴隷 どれい 制 せい の廃止 はいし される地域 ちいき が出現 しゅつげん し始 はじ めた[64] 。ついでフランス革命 かくめい によってフランスでも1794年 ねん に奴隷 どれい 制 せい が廃止 はいし されたものの、ナポレオン は1803年 ねん に奴隷 どれい 制 せい を復活 ふっかつ させ[65] 、完全 かんぜん な廃止 はいし は二 に 月 がつ 革命 かくめい 後 ご の1848年 ねん を待 ま たねばならなかった[66] 。イギリスでは人道 じんどう 主義 しゅぎ 者 しゃ や福音 ふくいん 主義 しゅぎ 者 しゃ 、そして砂糖 さとう の関税 かんぜい 引 ひ き下 さ げと自由 じゆう 貿易 ぼうえき を求 もと める産業 さんぎょう 資本 しほん 家 か によって支持 しじ された奴隷 どれい 貿易 ぼうえき 廃止 はいし 運動 うんどう が活発 かっぱつ 化 か し[67] 、1807年 ねん にイギリス国会 こっかい で奴隷 どれい 貿易 ぼうえき 禁止 きんし 法 ほう が成立 せいりつ した[68] ことで、奴隷 どれい 貿易 ぼうえき は終結 しゅうけつ へと動 うご き始 はじ めた。最大 さいだい の海運 かいうん 国 こく であるイギリスの奴隷 どれい 貿易 ぼうえき 廃止 はいし は他国 たこく の奴隷 どれい 貿易 ぼうえき にも甚大 じんだい な影響 えいきょう を与 あた え、さらにイギリスが他国 たこく にも奴隷 どれい 貿易 ぼうえき の廃止 はいし を迫 せま ったことで、19世紀 せいき 前半 ぜんはん には奴隷 どれい 貿易 ぼうえき は衰退 すいたい の一途 いっと をたどった[69] 。フランスも1848年 ねん に奴隷 どれい 制 せい および奴隷 どれい 貿易 ぼうえき の禁止 きんし に踏 ふ み切 き り、ポルトガルやスペインなど残 のこ る諸国 しょこく も1860年 ねん 頃 ごろ には奴隷 どれい 貿易 ぼうえき を停止 ていし した[70] 。これにより外国 がいこく からの奴隷 どれい の供給 きょうきゅう が停止 ていし し、奴隷 どれい 制 せい 諸国 しょこく は国内 こくない での奴隷 どれい 調達 ちょうたつ を余儀 よぎ なくされるようになった。イギリスの奴隷 どれい 貿易 ぼうえき 禁止 きんし は輸入 ゆにゅう 国 こく 側 がわ だけでなく輸出 ゆしゅつ するアフリカ諸国 しょこく にも強制 きょうせい され、1830年代 ねんだい から40年代 ねんだい にかけて沿岸 えんがん 部 ぶ 諸国 しょこく とイギリスの間 あいだ に奴隷 どれい 貿易 ぼうえき 禁止 きんし 協定 きょうてい が相次 あいつ いで締結 ていけつ されて[71] 、ラゴス のように抵抗 ていこう する国 くに には軍事 ぐんじ 侵攻 しんこう も行 おこな われた[72] 。
この動 うご きはやがて加速 かそく し、1833年 ねん にはイギリスが奴隷 どれい 制 せい を廃止 はいし する[73] など、奴隷 どれい 制 せい そのものの廃止 はいし へと進 すす んでいった。アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 南部 なんぶ においては奴隷 どれい 制 せい プランテーション農園 のうえん 主 ぬし の政治 せいじ 的 てき 発言 はつげん 力 りょく が大 おお きく、奴隷 どれい 制 せい がむしろ強化 きょうか される傾向 けいこう にあったのに対 たい し、北部 ほくぶ 諸 もろ 州 しゅう では奴隷 どれい 制 せい がすでに廃止 はいし されており、やがて合衆国 がっしゅうこく が西部 せいぶ へと版図 はんと を広 ひろ げ加盟 かめい 州 しゅう が拡大 かくだい していくのに伴 ともな い、奴隷 どれい 制 せい は南北 なんぼく の対立 たいりつ の焦点 しょうてん となっていった。この対立 たいりつ は数 すう 度 ど の妥協 だきょう を挟 はさ んで先鋭 せんえい 化 か していき、1860年 ねん に奴隷 どれい 制度 せいど 反対 はんたい 派 は の共和党 きょうわとう ・エイブラハム・リンカーン 大統領 だいとうりょう の当選 とうせん によって破局 はきょく を迎 むか え、1861年 ねん に南北戦争 なんぼくせんそう が勃発 ぼっぱつ することとなった。この戦争 せんそう の中 なか で1863年 ねん にリンカーンが奴隷 どれい 解放 かいほう 宣言 せんげん を行 おこな い、南部 なんぶ の降伏 ごうぶく とともにアメリカでも奴隷 どれい 制 せい が廃止 はいし された[74] 。ブラジルでは奴隷 どれい 制 せい 廃止 はいし が遅 おく れたものの、1888年 ねん に奴隷 どれい 制 せい は廃止 はいし されることとなった[75] 。
奴隷 どれい 制 せい の廃止 はいし は、解放 かいほう された元 もと 奴隷 どれい 達 たち の地位 ちい 向上 こうじょう を必 かなら ずしも意味 いみ しなかった。アメリカ南部 なんぶ では急進 きゅうしん 派 は 共和党 きょうわとう の主導 しゅどう 権 けん の元 もと でリコンストラクション と呼 よ ばれる南部 なんぶ 統治 とうち が行 おこな われ、奴隷 どれい の即時 そくじ 解放 かいほう や黒人 こくじん 参政 さんせい 権 けん の承認 しょうにん が行 おこな われたものの、クー・クラックス・クラン らの武装 ぶそう 勢力 せいりょく による黒人 こくじん 襲撃 しゅうげき が多発 たはつ し、民主党 みんしゅとう の復権 ふっけん とともに黒人 こくじん の権利 けんり は狭 せば められていった。そして1877年 ねん には南部 なんぶ からのアメリカ軍 ぐん の完全 かんぜん 撤退 てったい によって共和党 きょうわとう 州 しゅう 政府 せいふ は全 すべ て崩壊 ほうかい し、以後 いご 黒人 こくじん は経済 けいざい 的 てき にも政治 せいじ 的 てき にも長 なが く抑圧 よくあつ されつづけることとなった[76] 。ブラジルでは1888年 ねん に奴隷 どれい の無償 むしょう 即時 そくじ 解放 かいほう が行 おこな われたが、これはブラジルを支配 しはい する大 だい 農園 のうえん 主 ぬし 層 そう の激 はげ しい不満 ふまん を招 まね き、翌 よく 1889年 ねん にデオドロ・ダ・フォンセカ のクーデターによってブラジル帝国 ていこく は崩壊 ほうかい 、皇帝 こうてい ペドロ2世 せい は亡命 ぼうめい して、共和 きょうわ 制 せい のブラジル合衆国 がっしゅうこく が成立 せいりつ した[77] 。
奴隷 どれい 制 せい の廃止 はいし された地域 ちいき では、不足 ふそく する労働 ろうどう 力 りょく の代替 だいたい としてさまざまな制度 せいど が考案 こうあん され実施 じっし された。イギリス領 りょう 植民 しょくみん 地 ち においては主 おも にサトウキビプランテーションを基盤 きばん とする地域 ちいき において、諸 しょ 費用 ひよう の前貸 まえが しと引 ひ き換 か えに3年 ねん から5年間 ねんかん の労働 ろうどう を雇用 こよう 者 しゃ の元 もと で行 おこな う年季奉公 ねんきぼうこう 契約 けいやく 労働 ろうどう 者 しゃ の大量 たいりょう 導入 どうにゅう が行 おこな われた[78] 。アメリカ南部 なんぶ ではシェアクロッピング制度 せいど と呼 よ ばれる分 ぶん 益 えき 小作 こさく 制度 せいど が導入 どうにゅう され、解放 かいほう 奴隷 どれい の多 おお くは地主 じぬし の元 もと で小作 こさく 人 じん 化 か したものの、地主 じぬし の横暴 おうぼう や搾取 さくしゅ 、黒人 こくじん の貧困 ひんこん はほとんど変 か わらなかった[79] 。ブラジルにおいては解放 かいほう 以前 いぜん から主 おも な奴隷 どれい 使用 しよう 者 しゃ であるコーヒー農園 のうえん において賃金 ちんぎん による自由 じゆう 労働 ろうどう 化 か が進展 しんてん しており、解放 かいほう の進 すす んでいなかったリオデジャネイロ州 しゅう においてはコーヒー 生産 せいさん の減退 げんたい を招 まね く一方 いっぽう 、従来 じゅうらい から自由 じゆう 労働 ろうどう 化 か が進 すす んでいたサンパウロ州 しゅう ではさらにコーヒー生産 せいさん が発展 はってん することとなった[80] 。
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宮本 みやもと 正 ただし 興 きょう 、松田 まつだ 素 もと 二 に 編 へん 『新書 しんしょ アフリカ史 し 』(改訂 かいてい 新版 しんぱん )〈講談社 こうだんしゃ 現代新書 げんだいしんしょ 〉、2018年 ねん 11月20日 にち 。
ジャイルズ・ミルトン 著 ちょ 、仙 せん 名 めい 紀 き 訳 わけ 『奴隷 どれい になったイギリス人 じん の物語 ものがたり :イスラムに囚 とら われた100万 まん 人 にん の白人 はくじん 奴隷 どれい 』アスペクト、2006年 ねん 。ISBN 4-7572-1211-9 。
原題 げんだい 『White gold : the extraordinary story of Thomas Pellow and North Africa's one million European slaves』ISBN 9780340794708
和田 わだ 光弘 みつひろ (2019-04-19). 植民 しょくみん 地 ち から建国 けんこく へ 19世紀 せいき 初頭 しょとう まで(シリーズアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 史 し 1) . 岩波 いわなみ 新書 しんしょ (第 だい 1刷 さつ ed.)
脚注 きゃくちゅう に未 み 使用 しよう のもの。発行 はっこう 年 ねん 順 じゅん 。
Engels, F (1884) (ドイツ語 ご ). Der Ursprung der Familie, des Pricateigentums und des Staats : im Anschluss an Lewis H. Morgan's Forschungen . Schweizerische Genossenschaftsbuchdruckerei. NCID BA23663328 仮題 かだい 「家族 かぞく 、私有 しゆう 財産 ざいさん 、国家 こっか の起源 きげん :ルイス・H・モーガンの研究 けんきゅう に基 もと づく」