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奴隷制 - Wikipedia

奴隷どれいせい

奴隷どれい生産せいさんになとして使役しえきする社会しゃかい制度せいど

奴隷どれいせい(どれいせい)とは、奴隷どれい身分みぶんないし階級かいきゅうとして存在そんざいする社会しゃかい制度せいど

ブーランジェ奴隷どれい市場いちば

供給きょうきゅう

編集へんしゅう

奴隷どれいせいは、有史ゆうし以来いらいあまねく存在そんざいしたが、時代じだいてき地域ちいきてきにそのあらわれかた複雑ふくざつかつ多様たようであった。抽象ちゅうしょうてきにいえば生産せいさんりょく発達はったつ他人たにん剰余じょうよ労働ろうどう搾取さくしゅ可能かのうとした段階だんかい以降いこう現象げんしょうであり、始原しげんてきには共同きょうどうたいあいだ発生はっせいする戦争せんそう捕虜ほりょ征服せいふくみんたいする略奪りゃくだつ身分みぶん格下かくさげ、共同きょうどう体内たいない階層かいそう分化ぶんか成員せいいん処罰しょばつ売却ばいきゃく債務さいむ不払ふばらいなどが供給きょうきゅうげんであった。この奴隷どれい手段しゅだんは、いずれも奴隷どれいせい終末しゅうまついたるまで主要しゅよう奴隷どれい供給きょうきゅう手段しゅだんでありつづけた。このほか、海賊かいぞく盗賊とうぞく武装ぶそう勢力せいりょくなどによって所属しょぞくする社会しゃかいから誘拐ゆうかいされた人々ひとびともまた、奴隷どれい供給きょうきゅうげんとして非常ひじょうおおきな割合わりあいめていた[1]

戦争せんそう奴隷どれい供給きょうきゅうげんとして非常ひじょうおおきかった。マ帝国まていこくでは2世紀せいきころになるとパクス・ロマーナによる戦争せんそう奴隷どれい枯渇こかつにより、奴隷どれいせいおもとするだい農園のうえんであるラティフンディウムからコロヌスばれる小作こさくじんによるコロナートゥスへと農業のうぎょう経営けいえい移行いこう[2]、やがて農奴のうどせいへとつながっていった。17世紀せいきから19世紀せいきにかけてのアフリカでは在地ざいちしょ勢力せいりょくあいだにおいて奴隷どれい獲得かくとく目的もくてき戦争せんそう多発たはつし、戦争せんそう捕虜ほりょ輸出ゆしゅつ奴隷どれいのほぼ半数はんすうめたほか、奴隷どれい獲得かくとく目的もくてき誘拐ゆうかい略奪りゃくだつ多発たはつした[3]国家こっかあいだでは戦争せんそう以外いがいにも、属国ぞっこくから宗主そうしゅこくけて服従ふくじゅうのしるしとして奴隷どれいみつげおさめすることがひろおこなわれ、とくに19世紀せいきまでのイスラムけんやアフリカにおいては主要しゅよう奴隷どれい供給きょうきゅうげんひとつだった[4]みつぎおさめだけでなく、きたアフリカでは国家こっかあいだ贈答ぞうとうひんとしても奴隷どれいのやりとりはおこなわれた[5]こんとしての奴隷どれい贈与ぞうよひろられ、また通貨つうか発行はっこう流通りゅうつうしていないような未開みかい社会しゃかいにおいては奴隷どれいそのものが貨幣かへいとして使用しようされることがおおかったため、こうした取引とりひき結果けっかとしての奴隷どれい取得しゅとくおおられた[6]。15世紀せいきのサハラ交易こうえきでは奴隷どれいおもうま交換こうかんされ、奴隷どれい8にんから20にんたいうま1とうのレートで交換こうかんされていたとされる[7]。しかしおおくの場合ばあい奴隷どれい身分みぶんおやからまれた子供こども、つまり出生しゅっしょう奴隷どれい奴隷どれいなかもっとおおきな部分ぶぶんめていた[8]

貿易ぼうえき

編集へんしゅう
 
18世紀せいき中間なかま航路こうろ奴隷どれいせん断面だんめん国立こくりつアメリカ歴史れきし博物館はくぶつかん展示てんじ

奴隷どれいせい自前じまえ奴隷どれい補給ほきゅう困難こんなんであったため、古来こらい戦争せんそうによる奴隷どれい供給きょうきゅう奴隷どれい商業しょうぎょう発達はったつ不可欠ふかけつとした。奴隷どれい未開みかい社会しゃかいにおいてすら主要しゅよう交易こうえきひんひとつであり、こうした社会しゃかいでは対外たいがい商業しょうぎょう活動かつどう奴隷どれい輸出ゆしゅつのほかに存在そんざいしないことすらあった[9]奴隷どれい取得しゅとくにおいてもっとおおきなものは対外たいがい貿易ぼうえきであり、歴史れきしじょう世界せかい各地かくちでいくつものだい規模きぼ奴隷どれい貿易ぼうえきシステムが成立せいりつしてきた[10]歴史れきしじょうもっとだい規模きぼ奴隷どれい貿易ぼうえきシステムは、15世紀せいきなかばから19世紀せいき後半こうはんまで継続けいぞくした大西洋たいせいよう奴隷どれい貿易ぼうえきである。大西洋たいせいよう奴隷どれい貿易ぼうえきは、16世紀せいきなかばまではきゅう世界せかいへの輸出ゆしゅつ中心ちゅうしんであったが、それ以降いこう新大陸しんたいりくへの輸出ゆしゅつがほとんどをめるようになった。この時期じき奴隷どれい貿易ぼうえき三角さんかく貿易ぼうえきばれ、ヨーロッパからじゅう弾薬だんやく綿布めんぷ鉄棒てつぼうビーズなどをんで出航しゅっこうし、アフリカ沿岸えんがん奴隷どれい交換こうかんし、ブラジル西にしインド諸島しょとうなどの新大陸しんたいりく奴隷どれい売却ばいきゃく砂糖さとうなど新大陸しんたいりく農産物のうさんぶつんでヨーロッパへともどるルートが主流しゅりゅうだった。アフリカから新大陸しんたいりくへの奴隷どれい輸出ゆしゅつルートは中間ちゅうかん航路こうろばれ、およそ400年間ねんかんやく800まんにんから1050まんにんられ、そのうち15%から20%の奴隷どれい輸送ゆそう途中とちゅう死亡しぼうしたとかんがえられている[11]サハラ交易こうえきでも奴隷どれいかねとならんでアフリカがわ主要しゅよう輸出ゆしゅつひんであり、とくかね産出さんしゅつしないカネム・ボルヌ帝国ていこくハウサしょ王国おうこくなどサヘル中央ちゅうおう諸国しょこく奴隷どれい主力しゅりょく商品しょうひんとしていて、さかんに奴隷どれいりをおこなった[12]。アフリカからはこのほかに紅海こうかい経由けいゆルートでもおおくの奴隷どれい輸出ゆしゅつされ[13]、またひがしアフリカでは内陸ないりくかられてこられた奴隷どれいザンジバルなどのインド洋いんどよう沿岸えんがんしょみなとあつめられ、インド洋いんどよう交易こうえきルートをとおしてアラビアインドへとおおくの奴隷どれい輸出ゆしゅつされた[14]

こうした奴隷どれい貿易ぼうえきは、さまざまな影響えいきょう社会しゃかいおよぼした。とくだい規模きぼ奴隷どれい輸出ゆしゅつおこなわれた17世紀せいきから19世紀せいきにかけてのアフリカでは、アシャンティ王国おうこくダホメ王国おうこくオヨ王国おうこく代表だいひょうされる奴隷どれい輸出ゆしゅつ経済けいざい基盤きばんとしたしょ王国おうこく繁栄はんえいし、港湾こうわん都市としなど一部いちぶでは奴隷どれい輸出ゆしゅつによって新興しんこう商人しょうにんそう台頭たいとうられたが、あまりにもだい規模きぼ奴隷どれい輸出ゆしゅつ労働ろうどうりょく大量たいりょう流出りゅうしゅつ人口じんこう停滞ていたいまねき、アフリカ全体ぜんたい経済けいざい社会しゃかいそのものを停滞ていたいさせた[15]。これにたいし、奴隷どれい貿易ぼうえきがヨーロッパ経済けいざいあたえた影響えいきょうについては諸説しょせつある。歴史れきし学者がくしゃエリック・ウィリアムズは1944ねんに『資本しほん主義しゅぎ奴隷どれいせい』を発表はっぴょうし、奴隷どれい貿易ぼうえき奴隷どれいせいによる資本しほん蓄積ちくせき産業さんぎょう革命かくめいにつながったとする、いわゆる「ウィリアムズ・テーゼ」を提唱ていしょうしたが、のちの実証じっしょう研究けんきゅうによって奴隷どれい貿易ぼうえき利潤りじゅん資本しほん形成けいせい寄与きよした割合わりあいすくないことが証明しょうめいされている[16]。ただしかれ立論りつろんおおきな議論ぎろんび、奴隷どれい貿易ぼうえき経済けいざい発展はってんおおきく寄与きよした[17]

国内こくないでの奴隷どれい取引とりひき歴史れきしつうじてどの社会しゃかいでもつね存在そんざいしたもののきわめて低調ていちょうであり、ほとんどの社会しゃかいにおいて新規しんき奴隷どれい供給きょうきゅう国外こくがいからのものによった。ただし、19世紀せいき初頭しょとうにヨーロッパ諸国しょこく奴隷どれい貿易ぼうえき停止ていしすると様相ようそうわり、いまだだい規模きぼ奴隷どれいせい残置ざんちしていたアメリカ南部なんぶしょしゅうおよびブラジルでは国外こくがいからの供給きょうきゅう停止ていししたため国内こくないでの奴隷どれい取引とりひきさかんとなった[18]。アメリカ南部なんぶでは1808ねん奴隷どれい貿易ぼうえき廃止はいしヴァージニアしゅうノースカロライナしゅうから綿花めんか栽培さいばい中心ちゅうしんとするふか南部なんぶしょしゅうへと大量たいりょう奴隷どれい売却ばいきゃくされるようになった[19]同様どうように1850ねん奴隷どれい貿易ぼうえき禁止きんしされたブラジルにおいても、サトウキビ農園のうえんおおブラジル北東ほくとうからコーヒー農園のうえんおおブラジル南東なんとう奴隷どれい売却ばいきゃくおこなわれた[20]

民族みんぞく人種じんしゅ宗教しゅうきょう

編集へんしゅう

どういち民族みんぞくない奴隷どれい取得しゅとくする社会しゃかいもあったが、おおくの社会しゃかいにおいておな共同きょうどうたいどういち民族みんぞくのものを奴隷どれいにすることはけられる傾向けいこうにあった。どういち民族みんぞく戦争せんそう捕虜ほりょころされるか売却ばいきゃくされることがおおく、奴隷どれいにすることはかなりまれで、奴隷どれいきんじている社会しゃかいもあった[21]。このため、主人しゅじん奴隷どれい民族みんぞくことなることがおおかった[22]

人種じんしゅ奴隷どれいせいおおきな役割やくわりたしたのは新大陸しんたいりくであり、またイスラムけんでもつよ相関そうかん存在そんざいしたが[23]、そのほかの社会しゃかいでも人種じんしゅけっして奴隷どれい無関係むかんけいではなく、民族みんぞくほどではないにせよ相関そうかん存在そんざいした[24]。18世紀せいきはいると、ヨーロッパにおいては人種じんしゅ奴隷どれいせいむすびつける言説げんせつ強化きょうかされた。これは、当時とうじヨーロッパ文明ぶんめいけん流入りゅうにゅうする奴隷どれいのほぼ全員ぜんいん黒人こくじんだったからである。ヨハン・フリードリヒ・ブルーメンバッハらによって誕生たんじょうしたばかりの人類じんるいがく人種じんしゅ概念がいねん体系たいけいし、人種じんしゅ主義しゅぎへとつながっていった[25]きたアメリカ大陸あめりかたいりくのイギリス植民しょくみんにおいては、創設そうせつ当初とうしょ奴隷どれいせい確立かくりつしておらず年期ねんき契約けいやく奉公人ほうこうにんによる期限きげんった労働ろうどう中心ちゅうしんであったとされるが[26][27]、やがて17世紀せいき後半こうはんには人種じんしゅむすびついた奴隷どれいせい確立かくりつした[28]

イスラム教いすらむきょうは、ムスリム奴隷どれいきんじていた。このため、イスラム教いすらむきょうけん供給きょうきゅうされる奴隷どれいきょう圏外けんがいのブラックアフリカやひがしヨーロッパ、中央ちゅうおうアジアからの奴隷どれい中心ちゅうしんとなり、12世紀せいき以後いごはブラックアフリカがイスラムけんへのおも奴隷どれい供給きょうきゅうげんとなった[29]。しかしムスリムの奴隷どれい禁止きんしかならずしも厳格げんかくまもられたわけではなく、イスラムした黒人こくじん地域ちいきへの襲撃しゅうげき奴隷どれい頻繁ひんぱんこっていた。すでに13世紀せいきには、イスラムしたカネム・ボルヌ帝国ていこくからマムルークあさてて、黒人こくじんムスリムの奴隷どれい中止ちゅうしするよう嘆願たんがんする書簡しょかんおくられている[30]

実態じったい

編集へんしゅう
 
主人しゅじんによって鞭打むちうたれた奴隷どれい(1863ねん

奴隷どれい使途しと多岐たきにわたり、輸出ゆしゅつされた地域ちいきにおいてもおも使途しとにはちがいがあった。サハラ交易こうえきによってアフリカからイスラムけんへと輸出ゆしゅつされた奴隷どれいわか女性じょせい大半たいはんめ、わらわ召使めしつかいとして使つかわれることがおおかった。また男性だんせい奴隷どれいナツメヤシえんなどの管理かんりぐん兵士へいしなどに使つかわれた[31]インド洋いんどよう交易こうえきにおいては建設けんせつ労働ろうどう家内かない奴隷どれいぐん兵士へいしなどがおおかったが、18世紀せいき後半こうはんプランテーション農業のうぎょうさかんになると、モーリシャスレユニオンのサトウキビ農園のうえんや、ザンジバルとうペンバとうクローブ農園のうえんなどで大量たいりょう農業のうぎょう奴隷どれい使役しえきされるようになった[32]。イスラムけんのいくつかの国家こっかでは積極せっきょくてき黒人こくじん奴隷どれいへい採用さいようしており、とくにエジプトトゥールーンあさファーティマあさモロッコアラウィーあさだい規模きぼ黒人こくじん奴隷どれいぐん編成へんせいられる[33]。ファーティマあさ打倒だとうしたアイユーブあさ黒人こくじん奴隷どれいへいをほとんど使用しようしなかったが[33]わってマムルークばれる白人はくじん奴隷どれいへいおお使役しえきされるようになり、やがて1250ねんにマムルークたちはアイユーブあさ打倒だとうしてマムルークあさ建国けんこくした[34]。これにたいし、大西洋たいせいよう交易こうえき輸出ゆしゅつされた奴隷どれいのほとんどはプランテーションにて農業のうぎょう奴隷どれいとして使用しようされた。カリブ海かりぶかい諸島しょとうやブラジルではおもにサトウキビ農園のうえん奴隷どれい使用しようされ[35]きたアメリカ植民しょくみんでは当初とうしょタバコ農園のうえん[36]、19世紀せいきふか南部なんぶでは綿花めんか農園のうえん奴隷どれい大量たいりょう使役しえきされた[37]

特殊とくしゅ技術ぎじゅつ奴隷どれい価値かちたかく、おおくの社会しゃかいにおいて技術ぎじゅつのない奴隷どれいよりはたか待遇たいぐうけることができた[38]奴隷どれい所有しょゆうしゃ財産ざいさんであり、本質ほんしつてきには個人こじんてき財産ざいさん所有しょゆうみとめられていなかったものの、奴隷どれい存在そんざいするすべての社会しゃかいにおいて主人しゅじん許可きょかもと財産ざいさん所有しょゆうすることはみとめられていた。ただし「主人しゅじん許可きょかもとで」の財産ざいさん所有しょゆうであるため、本来ほんらい所有しょゆうけん主人しゅじん所属しょぞくしており、当該とうがい奴隷どれい死去しきょすればその財産ざいさんふたた主人しゅじんしたへともどり、家族かぞくへの相続そうぞくけんはすべての社会しゃかいにおいてみとめられていなかった[39]。ほとんどの社会しゃかいにおいて、奴隷どれい結婚けっこん家族かぞくつことができた[40]。19世紀せいきのアメリカ南部なんぶでは奴隷どれい結婚けっこん奨励しょうれいされ、みずかのぞ相手あいて結婚けっこんすることがおおかったが、一方いっぽう奴隷どれい売買ばいばいさかんにおこなわれており、家族かぞく別々べつべつ売却ばいきゃくされてバラバラになることもおおかった[41]

解放かいほう逃亡とうぼう

編集へんしゅう

奴隷どれい解放かいほうされることはほとんどの社会しゃかい存在そんざいし、解放かいほうされた奴隷どれい解放かいほう奴隷どれいとして独特どくとく地位ちいめることがおおかった。解放かいほう奴隷どれいおおくの場合ばあい自由じゆうみんからは一段いちだんひく立場たちばなされた[42]。またすべての社会しゃかいにおいて、解放かいほう奴隷どれいもと主人しゅじん保護ほごかれた[43]奴隷どれい解放かいほうについては社会しゃかい時代じだいによって態度たいどはばがあり、古代こだいローマなどは積極せっきょくてき奴隷どれい解放かいほうおこなっていたことがられる一方いっぽう、19世紀せいきのアメリカ南部なんぶでは奴隷どれい貿易ぼうえき禁止きんしによって奴隷どれい資産しさん価値かちがるにつれ解放かいほう減少げんしょうし、ほとんどが国内こくないにおいて売却ばいきゃくされるようになった[19]

逃亡とうぼうはどの社会しゃかいでも禁止きんしされていたが、実際じっさい逃亡とうぼう奴隷どれいおおく、なかでも16世紀せいき以降いこう新大陸しんたいりくにおいてはマルーンばれる逃亡とうぼう奴隷どれい大量たいりょう発生はっせいし、しばしば山岳さんがく地帯ちたい辺境へんきょう共同きょうどうたいをきずきあげ、またその地域ちいきアメリカ先住民せんじゅうみんつうこんして同化どうかし、白人はくじん戦闘せんとうおこなった。山岳さんがくてこもってイギリスぐん長期ちょうきにわたる戦闘せんとうひろげたジャマイカのマルーンや、内陸ないりく一大いちだい勢力せいりょくきずいたブラジルのキロンボなどがられている[44]アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくにおいて19世紀せいきなかばに奴隷どれいせい廃止はいし運動うんどうさかんになると、南部なんぶやつ隷州から北部ほくぶ自由じゆうしゅうへと奴隷どれい逃亡とうぼう手助てだすけする地下鉄ちかてつどうばれる秘密ひみつ結社けっしゃ結成けっせいされ、おおくの奴隷どれいがこのルートで逃亡とうぼうしていった[45]。ただし1793ねん逃亡とうぼう奴隷どれいほうでは逃亡とうぼう奴隷どれいもと所有しょゆうしゃへともどすべきことが規定きていされており、1850ねんにはこのほう強化きょうかされて自由じゆうしゅう各地かくち衝突しょうとつこるようになった[46]

また奴隷どれい反乱はんらんこすことも歴史れきしつうじてみられ、共和きょうわせいローマにおける3奴隷どれい戦争せんそう、なかでもだいさん奴隷どれい戦争せんそう(スパルタクスの反乱はんらん)や、9世紀せいきアッバースあさ統治とうちメソポタミアきたザンジュのらんなどのように、いちこくるがすようなだい反乱はんらんへとつながることもあった。なかでも1791ねんにフランスりょうサン=ドマング勃発ぼっぱつした奴隷どれい反乱はんらんは、トゥーサン・ルーヴェルチュールジャン=ジャック・デサリーヌらの指導しどうしたハイチ革命かくめいとなり、フランスぐん追放ついほうして1804ねんにはハイチとして独立どくりつした[47]

1833ねんにイギリスが奴隷どれいせい廃止はいしすると、イギリス海軍かいぐんはアフリカ沿岸えんがんにおいて奴隷どれい貿易ぼうえきせんまりを開始かいしし、船上せんじょうっていた奴隷どれいたち解放かいほう開始かいしした。当初とうしょ自国じこく船籍せんせき船舶せんぱくかぎられていたものの、1848ねん以降いこう他国たこく奴隷どれいせん停止ていしさせ、奴隷どれい解放かいほうおこなうようになった。こうした船上せんじょう解放かいほう奴隷どれいはフリータウンやモンロビアといった近隣きんりん解放かいほう奴隷どれい入植にゅうしょくにおいて解放かいほうされ、おおくのものはここで定着ていちゃくした[48]

18世紀せいきまつには奴隷どれい解放かいほううごきがつよまるなかで、黒人こくじん解放かいほう奴隷どれいをアフリカの入植にゅうしょく植民しょくみんさせる国家こっかあらわれた。1787ねんにはグランビル・シャープ支援しえんもと、イギリスの解放かいほう奴隷どれいがシエラレオネ半島はんとうへと入植にゅうしょくし、すう失敗しっぱいののちフリータウン中心ちゅうしんとした植民しょくみん建設けんせつ成功せいこうし、イギリス海軍かいぐん奴隷どれい貿易ぼうえきまりによって解放かいほうされた黒人こくじんがここに流入りゅうにゅうすることによって拡大かくだいしていった[49]。ついで1821ねんにはアメリカ植民しょくみん協会きょうかい西にしアフリカ土地とち獲得かくとくして解放かいほう奴隷どれい入植にゅうしょくはじ[50]モンロビア建設けんせつ、1847ねんにはこの植民しょくみん独立どくりつしてリベリア建国けんこくされた[51]。さらに1849ねんにはフランスが解放かいほう奴隷どれい入植にゅうしょくとしてリーブルヴィル建設けんせつした[52]

またこれによって解放かいほう奴隷どれいあいだ混血こんけつすすみ、シエラレオネではクリオ[53]、リベリアではアメリコ・ライベリアンばれるあらたな民族みんぞく誕生たんじょうした[54]。こうした解放かいほう奴隷どれいたちはヨーロッパしきたか教育きょういくけたものがおおく、現地げんち支配しはい階層かいそう形成けいせいするようになった[53][54]

近代きんだいまで

編集へんしゅう

ふるくから一般いっぱん家長かちょうけんのもとに家族かぞく構成こうせい部分ぶぶんとして家内かない労働ろうどう使役しえきされたが(家父長制かふちょうせい奴隷どれい)、古代こだいギリシア古代こだいローマカルタゴ近世きんせいアメリカ大陸あめりかたいりくなどでは、プランテーション鉱山こうざんぎょうなどの生産せいさん労働ろうどう私的してき公的こうてきだい規模きぼ使役しえきされた(労働ろうどう奴隷どれい)。古代こだいギリシアでは当初とうしょ債務さいむ奴隷どれいおも使役しえきされていたが、やがて奴隷どれい貿易ぼうえきなどによる供給きょうきゅう主流しゅりゅうとなり、おも工業こうぎょう用途ようと使用しようされた[55]古代こだいローマではおも戦争せんそう捕虜ほりょとして大量たいりょう奴隷どれい流入りゅうにゅうし、鉱山こうざんやラティフンディウムとばれるだい農園のうえんワインオリおりブ油ぶゆなどの生産せいさんなど、広範こうはん分野ぶんやにおいて使役しえきされた[56]

歴史れきしじょう、とくにだい規模きぼ奴隷どれいせいとして、15世紀せいきから19世紀せいきなかばまで大西洋たいせいよう地域ちいき成立せいりつした近代きんだい奴隷どれいせいげられる。このシステムは15世紀せいきポルトガルマデイラ諸島しょとうで、スペインカナリア諸島かなりあしょとうすすめたサトウキビ農園のうえん直接ちょくせつ起源きげん[57]。これらの島々しまじまつくられたプランテーションにおいては奴隷どれい労働ろうどうりょくとして多数たすう使用しようされ、供給きょうきゅうギニアわんきし黒人こくじんしょ地域ちいきからなされていた。クリストファー・コロンブス新大陸しんたいりく発見はっけん同時どうじ現地げんち住民じゅうみん奴隷どれいすすめられたものの、疫病えきびょう圧政あっせいによる急激きゅうげき先住民せんじゅうみん人口じんこう減少げんしょうによってはん世紀せいきもしないうちに歯止はどめがかかり、わってアフリカ大陸たいりくからの奴隷どれい供給きょうきゅう主流しゅりゅうとなった[58]新大陸しんたいりくではきたアメリカからカリブ海かりぶかい諸島しょとう、ブラジルにいたるまで、イギリス、フランス、スペイン、オランダ、ポルトガルによって多数たすうのプランテーションが建設けんせつされたが、ここでの労働ろうどうりょくはほとんどがアフリカから奴隷どれいせんによって供給きょうきゅうされた黒人こくじん奴隷どれいによってまかなわれた[59]。この奴隷どれい流入りゅうにゅうによって多数たすう黒人こくじんがこの地域ちいき移住いじゅうすることになり、とくに先住民せんじゅうみん人口じんこうがほぼ消滅しょうめつしていたカリブ海かりぶかい諸島しょとうにおいてはおおくの地域ちいき黒人こくじん多数たすうとなった[60]

奴隷どれい廃止はいし

編集へんしゅう

18世紀せいき後半こうはんはいると、ヨーロッパやアメリカでは啓蒙けいもう思想しそうひろがりのなかで奴隷どれいせいへの批判ひはんうごきがてきた。ただし奴隷どれい制度せいど奴隷どれい貿易ぼうえき社会しゃかいおおきな部分ぶぶんめており、廃止はいしには社会しゃかい構造こうぞうおおきな転換てんかんともなうことから、啓蒙けいもう思想家しそうかおおくは奴隷どれいせい批判ひはんてきだったものの廃止はいしもとめるものはほとんどいなかった[61]奴隷どれいせい廃止はいしうごきは18世紀せいきなか以降いこうイギリスではじまった。1772ねんサマーセット事件じけん英語えいごばんでは逃亡とうぼう奴隷どれいであるジェームズ・サマーセット自由じゆう保障ほしょうする判決はんけつくだされ、奴隷どれいせい廃止はいし運動うんどうおおきな転換てんかんてんとなったが、この判決はんけつ奴隷どれいせい廃止はいし直接ちょくせつ貢献こうけんしたわけではなかった[62]。ただしこれによって廃止はいし運動うんどういきおいづいた。1789ねんには解放かいほう奴隷どれいオラウダ・イクイアーノ英語えいごばんによって奴隷どれい体験たいけんであるアフリカじん、イクイアーノの生涯しょうがい興味深きょうみぶか物語ものがたり出版しゅっぱんされている[63]

奴隷どれい制度せいど廃止はいし運動うんどうは、メソジストクエーカー教徒きょうとといったプロテスタントのしょう宗派しゅうはからはじまり、アメリカ北部ほくぶのいくつかの植民しょくみんでは18世紀せいきまつには奴隷どれいせい廃止はいしされる地域ちいき出現しゅつげんはじめた[64]。ついでフランス革命かくめいによってフランスでも1794ねん奴隷どれいせい廃止はいしされたものの、ナポレオンは1803ねん奴隷どれいせい復活ふっかつさせ[65]完全かんぜん廃止はいしがつ革命かくめいの1848ねんたねばならなかった[66]。イギリスでは人道じんどう主義しゅぎしゃ福音ふくいん主義しゅぎしゃ、そして砂糖さとう関税かんぜいげと自由じゆう貿易ぼうえきもとめる産業さんぎょう資本しほんによって支持しじされた奴隷どれい貿易ぼうえき廃止はいし運動うんどう活発かっぱつ[67]、1807ねんにイギリス国会こっかい奴隷どれい貿易ぼうえき禁止きんしほう成立せいりつした[68]ことで、奴隷どれい貿易ぼうえき終結しゅうけつへとうごはじめた。最大さいだい海運かいうんこくであるイギリスの奴隷どれい貿易ぼうえき廃止はいし他国たこく奴隷どれい貿易ぼうえきにも甚大じんだい影響えいきょうあたえ、さらにイギリスが他国たこくにも奴隷どれい貿易ぼうえき廃止はいしせまったことで、19世紀せいき前半ぜんはんには奴隷どれい貿易ぼうえき衰退すいたい一途いっとをたどった[69]。フランスも1848ねん奴隷どれいせいおよび奴隷どれい貿易ぼうえき禁止きんしり、ポルトガルやスペインなどのこ諸国しょこくも1860ねんごろには奴隷どれい貿易ぼうえき停止ていしした[70]。これにより外国がいこくからの奴隷どれい供給きょうきゅう停止ていしし、奴隷どれいせい諸国しょこく国内こくないでの奴隷どれい調達ちょうたつ余儀よぎなくされるようになった。イギリスの奴隷どれい貿易ぼうえき禁止きんし輸入ゆにゅうこくがわだけでなく輸出ゆしゅつするアフリカ諸国しょこくにも強制きょうせいされ、1830年代ねんだいから40年代ねんだいにかけて沿岸えんがん諸国しょこくとイギリスのあいだ奴隷どれい貿易ぼうえき禁止きんし協定きょうてい相次あいついで締結ていけつされて[71]ラゴスのように抵抗ていこうするくにには軍事ぐんじ侵攻しんこうおこなわれた[72]

このうごきはやがて加速かそくし、1833ねんにはイギリスが奴隷どれいせい廃止はいしする[73]など、奴隷どれいせいそのものの廃止はいしへとすすんでいった。アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく南部なんぶにおいては奴隷どれいせいプランテーション農園のうえんぬし政治せいじてき発言はつげんりょくおおきく、奴隷どれいせいがむしろ強化きょうかされる傾向けいこうにあったのにたいし、北部ほくぶもろしゅうでは奴隷どれいせいがすでに廃止はいしされており、やがて合衆国がっしゅうこく西部せいぶへと版図はんとひろ加盟かめいしゅう拡大かくだいしていくのにともない、奴隷どれいせい南北なんぼく対立たいりつ焦点しょうてんとなっていった。この対立たいりつすう妥協だきょうはさんで先鋭せんえいしていき、1860ねん奴隷どれい制度せいど反対はんたい共和党きょうわとうエイブラハム・リンカーン大統領だいとうりょう当選とうせんによって破局はきょくむかえ、1861ねん南北戦争なんぼくせんそう勃発ぼっぱつすることとなった。この戦争せんそうなかで1863ねんにリンカーンが奴隷どれい解放かいほう宣言せんげんおこない、南部なんぶ降伏ごうぶくとともにアメリカでも奴隷どれいせい廃止はいしされた[74]。ブラジルでは奴隷どれいせい廃止はいしおくれたものの、1888ねん奴隷どれいせい廃止はいしされることとなった[75]

奴隷どれいせい廃止はいし

編集へんしゅう

奴隷どれいせい廃止はいしは、解放かいほうされたもと奴隷どれいたち地位ちい向上こうじょうかならずしも意味いみしなかった。アメリカ南部なんぶでは急進きゅうしん共和党きょうわとう主導しゅどうけんもとリコンストラクションばれる南部なんぶ統治とうちおこなわれ、奴隷どれい即時そくじ解放かいほう黒人こくじん参政さんせいけん承認しょうにんおこなわれたものの、クー・クラックス・クランらの武装ぶそう勢力せいりょくによる黒人こくじん襲撃しゅうげき多発たはつし、民主党みんしゅとう復権ふっけんとともに黒人こくじん権利けんりせばめられていった。そして1877ねんには南部なんぶからのアメリカぐん完全かんぜん撤退てったいによって共和党きょうわとうしゅう政府せいふすべ崩壊ほうかいし、以後いご黒人こくじん経済けいざいてきにも政治せいじてきにもなが抑圧よくあつされつづけることとなった[76]。ブラジルでは1888ねん奴隷どれい無償むしょう即時そくじ解放かいほうおこなわれたが、これはブラジルを支配しはいするだい農園のうえんぬしそうはげしい不満ふまんまねき、よく1889ねんデオドロ・ダ・フォンセカのクーデターによってブラジル帝国ていこく崩壊ほうかい皇帝こうていペドロ2せい亡命ぼうめいして、共和きょうわせいのブラジル合衆国がっしゅうこく成立せいりつした[77]

奴隷どれいせい廃止はいしされた地域ちいきでは、不足ふそくする労働ろうどうりょく代替だいたいとしてさまざまな制度せいど考案こうあんされ実施じっしされた。イギリスりょう植民しょくみんにおいてはおもにサトウキビプランテーションを基盤きばんとする地域ちいきにおいて、しょ費用ひよう前貸まえがしとえに3ねんから5年間ねんかん労働ろうどう雇用こようしゃもとおこな年季奉公ねんきぼうこう契約けいやく労働ろうどうしゃ大量たいりょう導入どうにゅうおこなわれた[78]。アメリカ南部なんぶではシェアクロッピング制度せいどばれるぶんえき小作こさく制度せいど導入どうにゅうされ、解放かいほう奴隷どれいおおくは地主じぬしもと小作こさくじんしたものの、地主じぬし横暴おうぼう搾取さくしゅ黒人こくじん貧困ひんこんはほとんどわらなかった[79]。ブラジルにおいては解放かいほう以前いぜんからおも奴隷どれい使用しようしゃであるコーヒー農園のうえんにおいて賃金ちんぎんによる自由じゆう労働ろうどう進展しんてんしており、解放かいほうすすんでいなかったリオデジャネイロしゅうにおいてはコーヒー生産せいさん減退げんたいまね一方いっぽう従来じゅうらいから自由じゆう労働ろうどうすすんでいたサンパウロしゅうではさらにコーヒー生産せいさん発展はってんすることとなった[80]

現代げんだい奴隷どれいせい

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21世紀せいきにおいて、法的ほうてき奴隷どれいせいみとめているくには1ヶ国かこく存在そんざいしない。1948ねん採択さいたくされた世界せかい人権じんけん宣言せんげんでは、だい4じょうにおいて奴隷どれい制度せいどならびに奴隷どれい売買ばいばい明確めいかくきんじている[81]。1930ねんには強制きょうせい労働ろうどう条約じょうやく強制きょうせい労働ろうどう禁止きんしされるようになり、1957ねん強制きょうせい労働ろうどう廃止はいしかんする条約じょうやくにおいて禁止きんしはさらに強化きょうかされた[82]

一方いっぽうで、人身じんしん売買ばいばいなどによって自由じゆう制限せいげんされ、劣悪れつあく環境かんきょう拘束こうそくのもとにある人々ひとびとはいまだにおおく、そうした状態じょうたい総称そうしょうして現代げんだい奴隷どれいせい英語えいごばんばれる。国際こくさい労働ろうどう機関きかん定義ていぎでは、現代げんだい奴隷どれいせい強制きょうせい労働ろうどう強制きょうせい結婚けっこんの2つによって構成こうせいされ、2021ねん時点じてん強制きょうせい労働ろうどういられている人々ひとびとが2800まんにん強制きょうせい結婚けっこんをさせられた人々ひとびとが2200まんにん合計ごうけいでおよそ5000まんにん奴隷どれいてき拘束こうそく状態じょうたいにおかれていると推定すいていされており、この数値すうちは2016ねんくらべ5年間ねんかんでおよそ1000まんにん増加ぞうかしめしている[83]

関連かんれん項目こうもく

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それぞれ50おとじゅん


奴隷どれい制度せいど詳細しょうさい

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • かねなな紀男のりお住田すみたいくほう、髙橋彦、富野とみの幹雄みきお『ブラジル研究けんきゅう入門にゅうもん』(初版しょはんだい1さつあきらよう書房しょぼう、2000ねん5がつ10日とおか、80-81ぺーじ 
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  • 島田しまだ周平しゅうへい物語ものがたり ナイジェリアの歴史れきし』〈中公新書ちゅうこうしんしょ〉2019ねん5がつ25にち 
  • 田辺たなべひろし島田しまだ周平しゅうへい柴田しばたただしひらめ『アフリカ』朝倉書店あさくらしょてん世界せかい地理ちりだい百科ひゃっか事典じてん2〉、1998ねん、110-111ぺーじ 
  • 中村なかむら勝己かつみ世界せかい経済けいざい』(だい1さつ講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ〉、1994ねん4がつ10日とおか 
  • オルランド・パターソン ちょ奥田おくだ暁子あきこ やく世界せかい奴隷どれいせい歴史れきし』(だい1さつ明石書店あかししょてん世界せかい人権じんけん問題もんだい叢書そうしょ41〉、2001ねん6がつ20日はつか 
  • 布留ふるがわ正博まさひろ奴隷どれいせん世界せかい』(だい1さつ岩波書店いわなみしょてん岩波いわなみ新書しんしょ〉、2019ねん8がつ22にち、207-209ぺーじ 
  • 松田まつだもと へん『アフリカ社会しゃかいまなひとのために』(だい1さつ世界せかい思想しそうしゃ、2014ねん3がつ20日はつか 
    • 宮本みやもとただしきょう松田まつだもと へん新書しんしょアフリカ』(改訂かいてい新版しんぱんだい1さつ講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ〉、2018ねん11月20にち 
  • オレリア・ミシェル ちょ児玉こだましおり やく『「黒人こくじん白人はくじん世界せかい:『人種じんしゅ』はいかにつくられてきたか』(初版しょはんだい1さつ明石書店あかししょてん、2021ねん10がつ25にち 
  • 宮本みやもとただしきょう松田まつだもと へん新書しんしょアフリカ』(改訂かいてい新版しんぱん)〈講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ〉、2018ねん11月20にち 
  • ジャイルズ・ミルトン ちょせんめい わけ奴隷どれいになったイギリスじん物語ものがたり:イスラムにとらわれた100まんにん白人はくじん奴隷どれい』アスペクト、2006ねんISBN 4-7572-1211-9 
    原題げんだい『White gold : the extraordinary story of Thomas Pellow and North Africa's one million European slaves』ISBN 9780340794708
  • 和田わだ光弘みつひろ (2019-04-19). 植民しょくみんから建国けんこくへ 19世紀せいき初頭しょとうまで(シリーズアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく1). 岩波いわなみ新書しんしょ (だい1さつ ed.) 

関連かんれん資料しりょう

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脚注きゃくちゅう使用しようのもの。発行はっこうねんじゅん

  • Engels, F (1884) (ドイツ). Der Ursprung der Familie, des Pricateigentums und des Staats : im Anschluss an Lewis H. Morgan's Forschungen. Schweizerische Genossenschaftsbuchdruckerei. NCID BA23663328  仮題かだい家族かぞく私有しゆう財産ざいさん国家こっか起源きげん:ルイス・H・モーガンの研究けんきゅうもとづく」

外部がいぶリンク

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