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ローマ帝国 - Wikipedia

マ帝国まていこく

古代こだいローマの帝政ていせい共和きょうわせいのち時代じだい
マ帝国まていこく
IMPERIVM·ROMANVM (ラテン語らてんご)
Βασιλεία τたうνにゅー Ῥωμαίων (古代こだいギリシャ)
共和政ローマ
プトレマイオス朝
ぜん27ねん - 1453ねん
ローマ帝国の国旗 ローマ帝国の国章
ローマぐんウェクシルム(ローマぐんアクイラ
くに標語ひょうご: Senatus Populusque Romanusラテン語らてんご
ローマの元老げんろういん市民しみん
ローマ帝国の位置
  西暦せいれき117ねん当時とうじマ帝国まていこく最大さいだい版図はんと
  2世紀せいきまでに間接かんせつてき支配しはいした地域ちいき
公用こうよう ラテン語らてんご
ギリシャ
じゅん公用こうよう629ねんからは公用こうよう
首都しゅと ローマ
ぜん27ねん-286ねん
ニコメディア
ひがし、286ねん-330ねん
メディオラヌム
西にし、286ねん-330ねん
コンスタンティノープル
(330ねん-395ねん
コンスタンティノープル
ひがし、395ねん-1453ねん
メディオラヌム
西にし、395ねん-401ねん
ラヴェンナ
西にし、401ねん-403ねん、408ねん-450ねん、457ねん-461ねん、475ねん-476ねん
ローマ
西にし、403ねん-408ねん、450ねん-457ねん、461ねん-475ねん
皇帝こうてい
ぜん27ねん - 14ねん アウグストゥス
98ねん - 117ねんトラヤヌス
307ねん - 337ねんコンスタンティヌス1せい
379ねん - 395ねんテオドシウス1せい
1449ねん - 1453ねんコンスタンティノス11せいパレオロゴス
執政しっせいかん
ぜん27ねん - ぜん23ねんアウグストゥス
476ねん - 476ねんバシリスクス
面積めんせき
ぜん25ねん[1][2]2,750,000km²
50ねん[1]4,200,000km²
117ねん[1]5,000,000km²
390ねん[1]4,400,000km²
人口じんこう
ぜん25ねん[3]56,800,000にん
変遷へんせん
オクタウィアヌスアウグストゥス尊称そんしょういただ ぜん27ねん1がつ16にち
トラヤヌス治世ちせいマ帝国まていこく最大さいだい版図はんと実現じつげん117ねん
ディオクレティアヌス即位そくい分担ぶんたん統治とうち開始かいし285ねん
東西とうざい分裂ぶんれつ395ねん
ゲルマンじん傭兵ようへいオドアケル反乱はんらんにより西にしローマ皇帝こうてい廃位はいい東西とうざい皇帝こうてい統一とういつ476ねん
オスマン帝国ていこく攻撃こうげきによりひがしマ帝国まていこく滅亡めつぼう1453ねん5がつ29にち
通貨つうかソリドゥス金貨きんか
アウレウス
デナリウス
セステルティウス
アス
現在げんざいイタリアの旗 イタリア
フランスの旗 フランス
スイスの旗 スイス
スペインの旗 スペイン
ベルギーの旗 ベルギー
オランダの旗 オランダ
ルクセンブルクの旗 ルクセンブルク
モナコの旗 モナコ
サンマリノの旗 サンマリノ
マルタの旗 マルタ
アンドラの旗 アンドラ
ポルトガルの旗 ポルトガル
リヒテンシュタインの旗 リヒテンシュタイン
ドイツの旗 ドイツ連邦れんぽう共和きょうわこく
イングランドの旗 イングランド
ウェールズの旗 ウェールズ
 オーストリア
 ハンガリー
 ウクライナ
 ルーマニア
 ブルガリア
スロベニアの旗 スロベニア
クロアチアの旗 クロアチア
ボスニア・ヘルツェゴビナの旗 ボスニア・ヘルツェゴビナ
セルビアの旗 セルビア
モンテネグロの旗 モンテネグロ
コソボの旗 コソボ
アルバニアの旗 アルバニア
ギリシャの旗 ギリシャ
トルコの旗 トルコ
キプロスの旗 キプロス
北キプロス・トルコ共和国の旗 きたキプロス
ジョージア (国)の旗 ジョージア
アルメニアの旗 アルメニア
アルツァフ共和国の旗 アルツァフ共和きょうわこく
アゼルバイジャンの旗 アゼルバイジャン
ロシアの旗 ロシア
イランの旗 イラン
イラクの旗 イラク
シリアの旗 シリア
レバノンの旗 レバノン
シリアの旗 シリア
クウェートの旗 クウェート
イスラエルの旗 イスラエル
ヨルダンの旗 ヨルダン
パレスチナ国の旗 パレスチナ
 エジプト
リビアの旗 リビア
チュニジアの旗 チュニジア
アルジェリアの旗 アルジェリア
モロッコの旗 モロッコ
先代せんだい次代じだい
共和政ローマ 共和きょうわせいローマ
プトレマイオス朝 プトレマイオスあさ
ひがしマ帝国まていこく 東ローマ帝国
西にしマ帝国まていこく 西ローマ帝国
オスマン帝国ていこく オスマン帝国
イスラム帝国ていこく イスラム帝国
ひがしゴート王国おうこく 東ゴート王国
西にしゴート王国おうこく 西ゴート王国
ブルグント王国おうこく ブルグント王国
ヴァンダル王国おうこく ヴァンダル王国
スエビ王国おうこく スエビ王国
フランク王国おうこく フランク王国
ブルガリア帝国ていこく ブルガリア帝国
ヴェネツィア共和きょうわこく ヴェネツィア共和国

マ帝国まていこく(ローマていこく、ラテン語らてんご: Imperium Romanum)は、古代こだいローマ共和きょうわせい時代じだい以降いこう言葉ことばである。この時代じだい古代こだいローマはイタリア半島はんとう誕生たんじょうした都市とし国家こっかから、地中海ちちゅうかいにまたがる領域りょういき国家こっかへと発展はってんしていった。

コンスタンティヌスあさ以降いこうくにあきらラバルム(ギリシアでキリストを意味いみする言葉ことば頭文字かしらもじΧかいΡろーかさわせた文字もじ)。

1世紀せいきから2世紀せいきころ最盛さいせいには地中海ちちゅうかい沿岸えんがん全域ぜんいきくわえ、ヨーロッパヒスパニアゲルマニアガリアブリタンニアクリミアきたアフリカ一帯いったい西にしアジアではメソポタミアシリアアルメニアペルシア西部せいぶなどをはじめとする広大こうだい地域ちいき中心ちゅうしんとしただい規模きぼ領土りょうど皇帝こうていアウグストゥス)が支配しはいしていた。カエサル・アウグストゥス即位そくいから3世紀せいき軍事ぐんじてき無政府むせいふ状態じょうたいまで、それはイタリアを中心ちゅうしんてき領土りょうど(メトロポール)とし、ローマ唯一ゆいいつ首都しゅととしたプリンキパトゥスだった(紀元前きげんぜん27ねん-紀元きげん286ねん)。

軍事ぐんじ危機ききあいだ断片だんぺんされたが、帝国ていこく強制きょうせいてきさい編成へんせいされ、その西にしマ帝国まていこくミラノのちラヴェンナ拠点きょてんく)とひがしマ帝国まていこくニコメディアアンティオキア中心ちゅうしんに、のちコンスタンティノープル拠点きょてんく)で支配しはいける複数ふくすう皇帝こうていによって支配しはいされた。ローマは、オドアケル蛮族ばんぞくによるラヴェンナ奪取だっしゅロムルス・アウグストゥルス退位たいいつづいて、コンスタンティノープルに帝国ていこく記章きしょうおくられた西暦せいれき476ねんまでりょう部分ぶぶん名目めいもくじょう首都しゅとのままであった。西にしマ帝国まていこくゲルマンじんおうたちに支配しはいされ、ひがしマ帝国まていこくがビザンツ帝国ていこくへとヘレニズムしたことで、古代こだいローマわりと中世ちゅうせいはじまりをげることになる。

名称めいしょう

編集へんしゅう

マ帝国まていこく」は「ローマの命令めいれいけんおよ範囲はんい」を意味いみするラテン語らてんごの “Imperium Romanum” の訳語やくごである。インペリウム (imperium) は元々もともとはローマの「命令めいれいけん統治とうちけん)」という意味いみであったが、てんじてその支配しはいけんおよ範囲はんいのことをもすようになった[4]Imperium Romanumかたり共和きょうわせい時代じだいからもちいられており、その意味いみにおいて共和きょうわせい時代じだいからの古代こだいローマ名称めいしょうである。日本語にほんごの「帝国ていこく」には「皇帝こうてい支配しはいするくに」という印象いんしょうつよいために、しばしば帝政ていせい以降いこうのみをしめ言葉ことばとしてもちいられているが、西洋せいようにおける「帝国ていこく」は皇帝こうてい存在そんざい前提ぜんていとした言葉ことばではなく統治とうち形態けいたいにのみ着目ちゃくもくした言葉ことばであり[5]、「民族みんぞく人種じんしゅ宗教しゅうきょう内包ないほうしつつもおおきな領域りょういき統治とうちする国家こっか」という意味いみ言葉ことばである。ちなみに、現代げんだい日本にっぽんでは帝政ていせいローマにおいてインペリウムを所持しょじしたインペラトル皇帝こうていやくされているが、インペリウムは共和きょうわせいローマにおいてもコンスルプロコンスル、およびプラエトルプロプラエトルあたえられていた。また、ローマが帝政ていせい移行いこうしたのちも、元首げんしゅせいプリンキパトゥスにおいては名目めいもくじょう帝国ていこく共和きょうわせいであった。

中世ちゅうせいにおける「マ帝国まていこく」である、ひがしマ帝国まていこくドイツかみきよしマ帝国まていこく区別くべつするために、西にしマ帝国まていこくにおける西方にしかたただしみかど消滅しょうめつまでを古代こだいマ帝国まていこくぶこともおおい。

概要がいよう

編集へんしゅう

マ帝国まていこく前身ぜんしんであるローマ共和きょうわこく紀元前きげんぜん6世紀せいきローマの君主くんしゅせいわっていた)は、一連いちれん内戦ないせん政治せいじてき対立たいりつなか深刻しんこく不安定ふあんていになった。紀元前きげんぜん1世紀せいきなかばにガイウス・ユリウス・カエサル終身しゅうしん独裁どくさいかん任命にんめいされ、紀元前きげんぜん44ねん暗殺あんさつされた[6]。その内戦ないせんプロスクリプティオつづき、紀元前きげんぜん31ねんアクティウムの海戦かいせんでカエサルの養子ようしであるオクタウィアヌスマルクス・アントニウスクレオパトラ勝利しょうりしたことで最高潮さいこうちょうたっした。翌年よくねんオクタウィアヌスプトレマイオスあさエジプトを征服せいふくし、紀元前きげんぜん4世紀せいきマケドニア王国おうこくアレキサンダー大王だいおう征服せいふくからはじまったヘレニズム時代じだい終止符しゅうしふった[7]。そのオクタウィアヌス権力けんりょくるぎないものとなり、紀元前きげんぜん27ねんローマ元老げんろういん正式せいしきオクタウィアヌス全権ぜんけんあたらしい称号しょうごうアウグストゥスをあたえ、事実じじつじょうかれ最初さいしょのローマ皇帝こうていとした[8]

帝国ていこく最初さいしょの2世紀せいきは、前例ぜんれいのない安定あんてい繁栄はんえい時代じだいであり、「パクス・ロマーナ」としてられている[9]。ローマはトラヤヌス治世ちせい(98-117 AD)のあいだにその最大さいだい領土りょうどひろがりにたっした。また、トラヤヌスの後任こうにんであるハドリアヌスの治世ちせいでは、マ帝国まていこく最盛さいせいむかえ、繁栄はんえい謳歌おうかした。そのアントニヌス・ピウスマルクス・アウレリウス・アントニヌス先帝せんてい平和へいわ繁栄はんえい維持いじしたが、アウレリウスみかど治世ちせい後半こうはんごろには疫病えきびょう民族みんぞく侵入しんにゅうなどによって繁栄はんえいかげりがえはじめた。トラブルの増加ぞうか衰退すいたい期間きかんは、アウレリウスみかど息子むすこコンモドゥス(177-192)の治世ちせいはじまった。コンモドゥスの暗殺あんさつのち混乱こんらんつづ状況じょうきょうとなった。3世紀せいきには、ガリア帝国ていこくパルミラ帝国ていこくがローマ国家こっかから離脱りだつし、短命たんめい皇帝こうてい続出ぞくしゅつし、おおくの場合ばあい軍団ぐんだん権勢けんせいもっ帝国ていこくひきいていたため、帝国ていこくはその存続そんぞくおびやかす危機きき見舞みまわれた(3世紀せいき危機きき)。帝国ていこくアウレリアヌス(R.270-275)のもとでさい統一とういつされた。そのふたた混乱こんらんつづくが、3帝国ていこく安定あんていさせるための努力どりょくとして、ディオクレティアヌスは286ねんギリシャのひがしおよびラテン西にしの2つのことなった宮廷きゅうてい設置せっちし、ディオクレティアヌスによって専制せんせい政治せいじ開始かいしされた。ディオクレティアヌスの退位たいい複数ふくすう皇帝こうていたちの相互そうごあらそいによって帝国ていこく分断ぶんだんされたが、最終さいしゅうてきにはコンスタンティヌス1せいがその強大きょうだい権力けんりょくもっ帝国ていこくさい統一とういつした。大帝たいていともしょうされるコンスタンティヌスは伝統でんとうてき最初さいしょキリスト教きりすときょう信仰しんこうした皇帝こうていであるとされる。313ねんミラノみことのりれいつづく4世紀せいきには一時いちじてき危機ききはあったもののキリスト教徒きりすときょうと権力けんりょくにぎるようになり、皇帝こうていおおくもキリスト教きりすときょう信仰しんこうした。コンスタンティヌス死後しご混乱こんらんテオドシウス1せいによってふたたび帝国ていこく一人ひとり皇帝こうていのもとにべられた。テオドシウスはキリスト教きりすときょう国教こっきょうとして異教いきょう禁止きんしかれ死後しごには2人ふたり子供こども東西とうざい分割ぶんかつされた領域りょういきをそれぞれ支配しはいした。そのすぐに、寒冷かんれいなどにはしはっするゲルマンじんアッティラフンぞくによるだい規模きぼ侵略しんりゃくふく移住いじゅう時代じだい西方せいほうマ帝国まていこく西にしマ帝国まていこく)の衰退すいたいにつながった。ゲルマンじん勢力せいりょくはローマ宮廷きゅうていない権力けんりょくにぎり、最終さいしゅうてきにはローマから宮廷きゅうていうつされたラヴェンナあきにゲルマンじんヘルールぞくオドアケルによって476 ADにロムルス・アウグストゥルス退位たいいし、西にしマ帝国まていこく一旦いったん崩壊ほうかいした。

東方とうほうのローマ皇帝こうていゼノンはオドアケルからの「もはや西方せいほう担当たんとう皇帝こうてい必要ひつようではない」とする書簡しょかんけて正式せいしきに480 ADにそれを廃止はいしした。しかし、きゅう西にしマ帝国まていこく領土りょうどないフランスおよびドイツ位置いちしたかみきよしマ帝国まていこくは、ローマ皇帝こうてい最高さいこう権力けんりょく継承けいしょうしており、800ねんのローマ・カトリック教皇きょうこうレオ3せいによるカールの戴冠たいかんによって西にしマ帝国まていこく復活ふっかつしたと主張しゅちょうし、その10世紀せいき以上いじょうにわたってかみきよしマ帝国まていこく存続そんぞくした。ひがしマ帝国まていこくは、通常つうじょう現代げんだい歴史れきしによってビザンチン帝国ていこくとして記述きじゅつされ、コンスタンティノープルが1453ねんにスルタン・メフメト2せいオスマン帝国ていこく皇帝こうていコンスタンティノス11せい戦死せんし崩壊ほうかいするまで、べつ千年紀せんねんきび、変質へんしつこそしたものの、古代こだいマ帝国まていこく命脈めいみゃくたもった。

マ帝国まていこく広大こうだい範囲はんい長期ちょうきにわたる存続そんぞくのために、ローマの制度せいど文化ぶんかは、ローマが統治とうちしていた地域ちいき言語げんご宗教しゅうきょう芸術げいじゅつ建築けんちく哲学てつがく法律ほうりつ政府せいふ形態けいたい発展はってんふかく、永続えいぞくてき影響えいきょうあたえた。ローマじんラテン語らてんご中世ちゅうせい近代きんだいロマンスへと発展はってんし、中世ちゅうせいギリシャひがしマ帝国まていこく言語げんごとなった。帝国ていこくキリスト教きりすときょう採用さいようしたことで、中世ちゅうせいキリスト教きりすときょう形成けいせいされた。ギリシャローマの芸術げいじゅつは、イタリア・ルネッサンスおおきな影響えいきょうあたえた。ローマの建築けんちく伝統でんとうは、ロマネスク様式ようしきルネサンス建築けんちくしん古典こてん主義しゅぎ建築けんちく基礎きそとなり、また、イスラーム建築けんちくつよ影響えいきょうあたえた。ローマほうコーパスは、ナポレオン法典ほうてんのような今日きょう世界せかいおおくのほう制度せいどにその子孫しそんっているが、ローマの共和きょうわせい制度せいどは、中世ちゅうせいのイタリアの都市とし国家こっか共和きょうわこく初期しょき米国べいこくやその近代きんだいてき民主みんしゅてき共和きょうわこく影響えいきょうあたえ、永続えいぞくてき遺産いさんのこしている。

古代こだいローマがいわゆるマ帝国まていこくとなったのは、イタリア半島はんとう支配しはいする都市とし国家こっか連合れんごうから「民族みんぞく人種じんしゅ宗教しゅうきょう内包ないほうしつつもおおきな領域りょういき統治とうちする国家こっか」へと成長せいちょうげたからであり、帝政ていせい開始かいしをもってマ帝国まていこくとなったわけではない。

紀元前きげんぜん27ねんよりマ帝国まていこく共和きょうわせいから帝政ていせいへと移行いこうする。ただし初代しょだい皇帝こうていアウグストゥス共和きょうわせい守護しゅごしゃとしてった。この段階だんかいプリンキパトゥス元首げんしゅせい)という。ディオクレティアヌスみかど即位そくいした285ねん以降いこう専制せんせい君主くんしゅせいドミナートゥス)へと変貌へんぼうした。

330ねんコンスタンティヌス1せいが、のち帝国ていこく東方とうほうにおいて皇帝こうてい所在地しょざいちとなるマ帝国まていこく首都しゅとコンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)のまち建設けんせつした。テオドシウス1せいは、ふるくからのかみ々をはいし、392ねんキリスト教きりすときょう国教こっきょうとした。395ねん、テオドシウス1せい2人ふたり息子むすこによる帝国ていこく分担ぶんたん統治とうちはじまる。以後いご東方とうほうせいみかど西方にしかたただしみかど支配しはいした領域りょういきを、現在げんざいではそれぞれひがしマ帝国まていこく西にしマ帝国まていこくけている。

西にしマ帝国まていこく皇帝こうてい政権せいけんは、経済けいざいてきゆたかでない国家こっか兵力へいりょくなどの軍事ぐんじてき基盤きばんよわく、ゲルマンじん侵入しんにゅうこうせず、476ねん以降いこう西方にしかたただしみかど権限けんげん東方とうほうせいみかど吸収きゅうしゅうされた。6世紀せいきひがしマ帝国まていこくによる西方にしかたさい征服せいふくおこなわれたが、7世紀せいき以降いこうひがしマ帝国まていこく領土りょうどおおきくらし、国家こっか体制たいせい変化へんか進行しんこうした。ひがしマ帝国まていこくは、8世紀せいきにローマうしなったのちなが存続そんぞくしたが、オスマン帝国ていこくにより、1453ねん首都しゅとコンスタンティノポリスが陥落かんらくし、完全かんぜん滅亡めつぼうした。

帝政ていせい開始かいし

編集へんしゅう
 
コロッセオ
 
ポン・デュ・ガール。ローマの水道橋すいどうばし
 
ガイウス・ユリウス・カエサル

マ帝国まていこく起源きげんは、紀元前きげんぜん8世紀せいきなかごろにイタリア半島はんとう南下なんかしたラテンじん一派いっぱがティベリスがわげんテヴェレがわ)のほとりに形成けいせいした都市とし国家こっかローマである(王政おうせいローマ)。当初とうしょエトルリアじんなどのおうようしていたローマは、紀元前きげんぜん509ねんに7代目だいめおうであったタルクィニウス・スペルブス追放ついほうして、貴族きぞくパトリキ)による共和きょうわせいいた。共和きょうわせいでは2めいコンスル国家こっか指導しどうしゃとしながらも、クァエストル財務ざいむかん)など公職こうしょく経験けいけんしゃから元老げんろういん圧倒的あっとうてき権威けんいゆうしており、国家こっか運営うんえいおおきな影響えいきょうあたえた(共和きょうわせいローマ)。やがて平民へいみんプレブス)のちから増大ぞうだいし、紀元前きげんぜん4世紀せいきから紀元前きげんぜん3世紀せいきにかけて身分みぶん闘争とうそうきたが、じゅうひょうほうリキニウス・セクスティウスほう制定せいていにより対立たいりつ緩和かんわされていき、紀元前きげんぜん287ねんホルテンシウスほう制定せいていによって身分みぶん闘争とうそうには終止符しゅうしふたれた。

都市とし国家こっかローマは次第しだいちからをつけ、中小ちゅうしょう独立どくりつ自営じえい農民のうみん基盤きばんとするじゅうそう歩兵ほへい部隊ぶたい中核ちゅうかくとした市民しみんぐん紀元前きげんぜん272ねんにはイタリア半島はんとうしょ都市とし国家こっか統一とういつ、さらに地中海ちちゅうかい覇権はけんばして広大こうだい領域りょういき支配しはいするようになった。紀元前きげんぜん1世紀せいきにはローマ民権みんけんもとめるイタリア半島はんとうないしょ同盟どうめいによる反乱はんらん同盟どうめい戦争せんそう)をて、イタリア半島はんとうないしょ都市とし市民しみん市民しみんけん付与ふよし、せま都市とし国家こっかわくえた帝国ていこくへと発展はってんしていった。

しかし、ぜん3世紀せいきから2世紀せいき、3にわたるポエニ戦争せんそう前後ぜんごから、イタリア半島はんとうでは兵役へいえき戦禍せんかにより農村のうそん荒廃こうはいし、反面はんめん貴族きぞく騎士きし階級かいきゅう富裕ふゆうそう収入しゅうにゅう増大ぞうだい貧富ひんぷ格差かくさ拡大かくだいし、それと並行へいこうして元老げんろういんみんかいでは汚職おしょく暴力ぼうりょく横行おうこう、やがて「内乱ないらんいち世紀せいき」とばれた時代じだいになるとマリウスなど一部いちぶものは、武力ぶりょくもちいて政争せいそう解決かいけつはかるようになる。こうしたなかで、スッラおよユリウス・カエサル絶対ぜったいてき権限けんげんゆうする終身しゅうしん独裁どくさいかん就任しゅうにん元老げんろういん中心ちゅうしん共和きょうわせい徐々じょじょ崩壊ほうかい過程かてい辿たどる。紀元前きげんぜん44ねんにカエサルが暗殺あんさつされたのち共和きょうわ主義しゅぎしゃ打倒だとう協力きょうりょくしたオクタウィアヌスマルクス・アントニウス覇権はけんあらそい、これに勝利しょうりおさめたオクタウィアヌスが紀元前きげんぜん27ねん共和きょうわせい復活ふっかつ声明せいめいし、元老げんろういん権限けんげん返還へんかんもうた。これにたいして元老げんろういんプリンケプス元首げんしゅ)としてのオクタウィアヌスにおおくの要職ようしょくと、「アウグストゥス尊厳そんげんなるもの)」の称号しょうごうあたえた。一般いっぱんてきにこのときから帝政ていせい開始かいししたとされている。

以降いこう帝政ていせい初期しょきユリウス=クラウディウスあさ世襲せしゅう皇帝こうていたちは実質じっしつてきには君主くんしゅであったにもかかわらず、表面ひょうめんてきには共和きょうわせい尊重そんちょうしてプリンケプス元首げんしゅ)としてふるまった。これをプリンキパトゥス元首げんしゅせい)とぶ。かれらが即位そくいするさいには、まず軍隊ぐんたい忠誠ちゅうせい宣言せんげんしたのち元老げんろういん形式けいしきてきしん皇帝こうてい元首げんしゅ任命にんめいした。皇帝こうてい代々だいだいのような称号しょうごう権力けんりょくゆうした。

  • アウグストゥス」と「カエサル」の称号しょうごう
  • インペラトル」(凱旋がいせん将軍しょうぐんぐん最高さいこう司令しれいかん)の称号しょうごうとそれにともなぜんぐん最高さいこう指揮しきけん(「エンペラー」の語源ごげん)。
  • プリンケプス」(市民しみんなか第一人者だいいちにんしゃ)の称号しょうごう本来ほんらい元老げんろういんにおいて、最初さいしょ発言はつげんする第一人者だいいちにんしゃ意味いみ
  • 執政しっせいかん命令めいれいけん」をっており、最高さいこう政務せいむかんである執政しっせい官職かんしょくかずして、首都しゅとローマとイタリアにたいして政治せいじてき軍事ぐんじてき権限けんげん行使こうしした。
  • プロコンスル命令めいれいけん」により皇帝こうていぞくしゅう総督そうとく任命にんめいけん元老げんろういんぞくしゅう総督そうとくたいする上級じょうきゅう命令めいれいけんゆうしていた。また、エジプトは皇帝こうてい直轄ちょっかつとして位置いちづけられた。
  • まもるみん官職かんしょくけん」をっており、実際じっさいまもるみんかんには就任しゅうにんしていないにもかかわらず権限けんげん行使こうしした。これには身体しんたい不可侵ふかしんけんくわえ、元老げんろういんへの議案ぎあん提出ていしゅつけんやその決議けつぎたいする拒否きょひけんなどがふくまれており、歴代れきだい皇帝こうていはこの権限けんげん利用りようして国政こくせい自由じゆう支配しはいした。
  • 最高さいこう神祇官じんぎかん」のしょく多神教たしんきょう基本きほんのローマ社会しゃかいにおいて、その祭事さいじ主催しゅさいする。

これらにくわえ、皇帝こうていたちは必要ひつよう場合ばあい年次ねんじしょく執政しっせいかんケンソル監察かんさつかん)などの共和きょうわせいじょう公職こうしょく就任しゅうにんすることもあった。さらに、皇帝こうていたちには「国家こっかちち」などの尊称そんしょうがよくおくられた。また皇帝こうてい死後しごつぎ皇帝こうてい請願せいがんけた元老げんろういん承認しょうにんによって、神格しんかくされることもすくなくなかった。たとえばアウグストゥスはガリアぞくしゅう祭壇さいだんもうけられ、2世紀せいきまつまで公的こうてきかみとしてまつられつづけた。一方いっぽう独裁どくさいてき権限けんげん所持しょじしていたにもかかわらず、ローマ皇帝こうていはあくまでも「元老げんろういん、ローマ市民しみん代表だいひょうしゃ」という立場たちばであったため、ローマ市民しみんという有力ゆうりょくしゃ支持しじうしなうと元老げんろういんに「国家こっかてき」とみなされ自殺じさつまれたり、コロッセウムなどで姿すがたをみせると容赦ようしゃないブーイングをびるなど、官僚かんりょうせい多数たすう文武ぶんぶかんによる専制せんせい体制たいせい確立かくりつしたオリエントてき君主くんしゅとはちがった存在そんざいであった。 また、国家こっか要職ようしょくだけでなく最高さいこう権力けんりょくしゃである皇帝こうていでさえも、ローマに征服せいふくされた地域ちいき民族みんぞくものくことが可能かのうであった。たとえば、セウェルスあさ創始そうししゃセプティミウス・セウェルスみかどアフリカぞくしゅう出身しゅっしんであったし、けんみかど一人ひとりであるトラヤヌスみかどヒスパニアぞくしゅう出身しゅっしんであった[10]

ユリウス=クラウディウスあさ内乱ないらん

編集へんしゅう

このようにアウグストゥス皇帝こうてい就任しゅうにんとユリウス=クラウディウス世襲せしゅうはじまったローマ帝政ていせいだが、ティベリウス死後しごあたりから、政治せいじ軍事ぐんじ両面りょうめん徐々じょじょ変化へんかこった。軍事ぐんじめんでは、共和きょうわせい末期まっきからの自作農じさくのう没落ぼつらく結果けっか徴兵ちょうへいせい破綻はたんし、わって傭兵ようへいせいられたが、それは領土りょうど拡大かくだいとあいまって帝国ていこく内部ないぶ親衛隊しんえいたいふく強大きょうだい常備じょうびぐん常駐じょうちゅううながし、それはりもなおさずそく物的ぶってきちからった潜在せんざいてき政治せいじ集団しゅうだん発生はっせいつながった。

やがて、世襲せしゅう弊害へいがいにより、カリグラネロなど無軌道むきどう皇帝こうてい登場とうじょうすると、かれらは対立たいりつ候補こうほげて決起けっきし、また複数ふくすう対立たいりつ候補こうほたがいにぐんひきいてあらそ内乱ないらん発生はっせい結果けっか、ユリウス=クラウディウスあさからフラウィウスあさわずか100ねんあいだに、3めい皇帝こうてい軍隊ぐんたいによって殺害さつがいされ、2めい自殺じさつまれ、不自然ふしぜんかたちでの皇帝こうてい交代こうたい頻発ひんぱつするようになる。

ただし、この時期じきにもローマは周辺しゅうへん勢力せいりょくして格段かくだんたか軍事ぐんじりょく保持ほじつづけており、こうした政治せいじ軍事ぐんじ緩慢かんまん変化へんか帝国ていこく運命うんめいそくおおきな影響えいきょうをもたらすことはなかった。むしろ帝国ていこく拡大かくだいはこの時期じきにもつづいており、43ねんにはクラウディウスみかどによってグレートブリテンとう南部なんぶ占領せんりょうされてぞくしゅうブリタンニア創設そうせつされるなどしている。

また、時代じだいすすむにつれて、はじめは俸給ほうきゅう市民しみんけん獲得かくとく目的もくてきに、後期こうきにはイタリアじん惰弱だじゃくにより、兵士へいしめるゲルマンじんなど周辺しゅうへん蛮族ばんぞく割合わりあい増加ぞうかした。それらは徐々じょじょ軍隊ぐんたい劣化れっか反乱はんらん頻発ひんぱつ促進そくしんした。ローマの領域りょういきない安定あんていせたものの、けんみかどとされるアウグストゥスやクラウディウスの時代じだいにもヌミディアより西にし位置いちするアフリカでは強圧きょうあつてき支配しはい土地とちげ・収奪しゅうだつたいする抵抗ていこう反乱はんらんえないなど、周辺しゅうへんぞく州民しゅうみんにとっても善政ぜんせいだったかどうかは疑問ぎもんがある。

どき系列けいれつてきには、初代しょだい皇帝こうていアウグストゥスの時代じだい常備じょうびぐん創設そうせつ補助ほじょへい制度せいど正式せいしき通貨つうか制度せいど整備せいび、ローマ改造かいぞうぞくしゅう制度せいど改革かいかく元老げんろういんぞくしゅう皇帝こうていぞくしゅう創設そうせつ)などをおこない、帝国ていこく基盤きばんととのえられた。さらに防衛ぼうえいのしやすい自然しぜん国境こっきょうさだめ、そこまでの地域ちいき征服せいふくしたため、帝国ていこく領域りょういき拡大かくだいし、安定あんていした防衛ぼうえいせんまもられた帝国ていこく領内りょうない安定あんていして、パクス・ロマーナばれる平和へいわながつづくこととなった。14ねんにアウグストゥスがぼっしたのち帝位ていいいだティベリウス内政ないせいめをおこなって大過たいかなくくにおさめたものの、3だいカリグラは暴政ぼうせいおこなって暗殺あんさつされた。つぎのクラウディウスはカリグラの破綻はたんさせた内政ないせい再建さいけんし、ふたた安定あんていした国家こっかきずきあげた。つづネロ統治とうち当初とうしょ善政ぜんせいだったものの、次第しだい暴政ぼうせいいろくし、ネロは68ねん反乱はんらん自害じがいした。ネロがぬと皇位こうい継承けいしょう戦争せんそう発生はっせいした。4にん皇帝こうてい次々つぎつぎ擁立ようりつされたことから、この時期じきよん皇帝こうていとしともぶ。これによって一時いちじ帝国ていこく複数ふくすうぞくしゅう軍閥ぐんばつ分割ぶんかつされ、これにガリアなどローマすすんでいたぞくしゅうやユダヤじんなど東方とうほう反乱はんらん同期どうきしたが、やがてウェスパシアヌス勝利しょうり70ねんフラウィウスあさ開始かいしすると、ローマは小康しょうこう状態じょうたいもどした。

フラウィウスあさはウェスパシアヌス、ティトゥス名君めいくんつづいたが、つぎドミティアヌス暗殺あんさつされ、後継あとつぎがなかったためにフラウィウスあさ断絶だんぜつした。

けんみかど時代じだい(ネルウァ=アントニヌスあさ

編集へんしゅう

ドミティアヌスが暗殺あんさつされたのち、紀元きげん1世紀せいきすえから2世紀せいきにかけて即位そくいした5にん皇帝こうてい時代じだいマ帝国まていこく最盛さいせいむかえた。この5にん皇帝こうていけんみかどという。

のちにかなり理想りそうされた歴史れきし叙述じょじゅつによれば、かれらは生存せいぞんちゅう逸材いつざいさがして養子ようしとして帝位ていいがせ、安定あんていした帝位ていい継承けいしょう実現じつげんした。ユリウス=クラウディウスあさ時代じだいには建前たてまえであった元首げんしゅせいが、この時期じきには実質じっしつてき元首げんしゅせいとして機能きのうしていたともえる。しかしながらけんみかどは、ややとおいながらも血縁けつえん関係かんけいがあり、またマルクス・アウレリウス・アントニヌスの死後しご実子じっしのコンモドゥスが帝位ていいいだことから、この時代じだい理想りそうけた観点かんてんからは、ネルウァからコンモドゥスまでの7にん皇帝こうてい時代じだいを、ネルウァ=アントニヌスあさともぶ。

またこの時代じだいには、法律ほうりつローマほう)、交通こうつう度量衡どりょうこう幣制へいせいなどの整備せいび統一とういつおこなわれ、領内りょうないには軍事ぐんじてき安定あんてい状態じょうたいたもたれていたとおもわれるが、地中海ちちゅうかい海上かいじょう流通りゅうつう減退げんたいられ軍隊ぐんたい移動いどうもっぱ陸路りくろをとるようになる時期じきだった。また軍隊ぐんたいつながるだい土地とち所有しょゆうしゃちからち、自由じゆう農民のうみんがローマ伝統でんとう重税じゅうぜいけてむケースがえ、自給自足じきゅうじそくてき共同きょうどうたい増加ぞうかした時期じきでもある。

  • 96ねん - 98ねん ネルウァ
    • 元老げんろういんから選出せんしゅつされる。後継こうけいしゃにトラヤヌスを指名しめいした。
  • 98ねん - 117ねん トラヤヌス
    • 至高しこう皇帝こうてい」。最大さいだい領土りょうど現出げんしゅつ。ダキア、アラビア、アルメニア、メソポタミア、アッシリアを占領せんりょうしてぞくしゅうき、帝国ていこく領土りょうどひがしメソポタミア西にしイベリア半島はんとうみなみエジプトきたブリテンとうにまでおよんだ。
  • 117ねん - 138ねん ハドリアヌス
    • パルティア和平わへいしてアルメニア、メソポタミア、アッシリアから撤退てったいし、東方とうほう国境こっきょう安定あんていさせる。ぜんぞくしゅう視察しさつ内政ないせい整備せいびと、ブリタンニアのハドリアヌスの長城ちょうじょう代表だいひょうされる防衛ぼうえい体制たいせい確立かくりつつとめた。
  • 138ねん - 161ねん アントニヌス・ピウス
    • 内政ないせい改革かいかく財政ざいせい健全けんぜんつとめた。
  • 161ねん - 180ねん マルクス・アウレリウス・アントニヌス
    • 哲人てつじん皇帝こうてい」。ストア哲学てつがく熱心ねっしんまなんだ。晩年ばんねん各地かくち反乱はんらん災害さいがいやゲルマンじん民族みんぞく侵入しんにゅうなやまされ、各地かくち転戦てんせん陣中じんちゅうぼっした。
  • 161ねん - 169ねん ルキウス・ウェルス
    • マルクス・アウレリウスと共同きょうどう皇帝こうてい、パルティア戦争せんそう従事じゅうじ。その蛮族ばんぞく侵攻しんこう最中さいちゅう食中毒しょくちゅうどく病死びょうし
  • 180ねん - 192ねん コンモドゥス
    • マルクス・アウレリウスの嫡子ちゃくしマ帝国まていこくれい直系ちょっけい継承けいしょうたしたが悪政あくせいすえ暗殺あんさつされネルウァ=アントニヌスあさ断絶だんぜつした。

セウェルスあさ

編集へんしゅう

マルクス・アウレリウス・アントニヌスの死後しご実子じっしであるコンモドゥスみかど悪政あくせいにより社会しゃかい混乱こんらんし、かれ192ねん暗殺あんさつされると内乱ないらん勃発ぼっぱつした。193ねんには5にん皇帝こうてい乱立らんりつし、皇帝こうていとしばれる混乱こんらんきた。この内戦ないせんせいしたセプティミウス・セウェルスによって193ねんセウェルスあさひらかれた。セウェルスあさ軍事ぐんじりょくをバックに成立せいりつし、当初とうしょから軍事ぐんじしょくつよ政権せいけんであった。

けんみかど時代じだい末期まっきごろ天然痘てんねんとう流行りゅうこうにより人口じんこう減少げんしょうし、その各地かくち反乱はんらん頻発ひんぱつするようになり、また軍団ぐんだんへい補助ほじょへいともなり不足ふそくから編成へんせい支障ししょうをきたした。これに対処たいしょすべく、212ねんカラカラみかどの「アントニヌスみことのりれい」によって、ローマの支配しはいにあるすべての地域ちいきに、同等どうとう市民しみんけんあたえられた。これによってきびしい階級かいきゅう社会しゃかいだったローマ社会しゃかいにおける、ローマ市民しみんいちじるしい不平等ふびょうどう裁判さいばんけん不在ふざい収穫しゅうかくりょうの1/3に上乗うわのせされる1/10のぞくしゅうぜいなど)は多少たしょうなりとも緩和かんわされたが、これによってローマ民権みんけん価値かち崩壊ほうかいし、政治せいじバランスが激変げきへんして、以後いごながつづ混乱こんらん一因いちいんとなった。また、それまでぞくしゅう出身しゅっしん補助ほじょへいは25ねんつとげるとローマ民権みんけんることができたために精強せいきょう補助ほじょへい大量たいりょう供給きょうきゅうされてきたが、市民しみんけん価値かちがなくなったために帝国ていこくない補助ほじょへいのなり急減きゅうげんし、さらに不足ふそくした兵力へいりょくはゲルマンじんなどの周辺しゅうへん蛮族ばんぞくから補充ほじゅうされたため、軍事ぐんじりょく衰退すいたいまねいた[11]

235ねんアレクサンデル・セウェルスみかどぐん反乱はんらんによって殺害さつがいされたことでセウェルスあさ断絶だんぜつし、以後いごマ帝国まていこく軍人ぐんじん皇帝こうてい時代じだいばれる混乱こんらん突入とつにゅうしていく。

混乱こんらん分裂ぶんれつ

編集へんしゅう

いわゆる「元首げんしゅせい」の欠点けってんは、元首げんしゅ選出せんしゅつするための明確めいかく基準きじゅん存在そんざいしないことである。そのため、地方ちほう有力ゆうりょくしゃ服従ふくじゅう目立めだつようになり行政ぎょうせい弛緩しかんはじめると相対そうたいてき軍隊ぐんたい強権きょうけんったため、反乱はんらん増加ぞうか皇帝こうてい進退しんたいをも左右さゆうした。やく50年間ねんかんに26にん[注釈ちゅうしゃく 1]皇帝こうていいたこの時代じだい軍人ぐんじん皇帝こうてい時代じだいしょうされる。

パクス・ロマーナ(ローマの平和へいわ)により、戦争せんそう奴隷どれい供給きょうきゅう減少げんしょうして労働ろうどうりょく不足ふそくはじめ、わりにコロヌス土地とち移動いどう自由じゆうのない農民のうみん家族かぞくつことができる。みつぎおさめ義務ぎむう)が急激きゅうげき増加ぞうかした。この労働ろうどうりょく使つかった小作こさくせいコロナートゥス発展はってんはじめると、人々ひとびと移動いどうり、商業しょうぎょう衰退すいたいし、地方ちほうはなれしん促進そくしんされた。

284ねん最後さいご軍人ぐんじん皇帝こうていとなったディオクレティアヌス在位ざいい284ねん-305ねん)は混乱こんらん収拾しゅうしゅうすべく、みかどけん強化きょうかした。元首げんしゅせいばれる、わば終身しゅうしん大統領だいとうりょうのような存在そんざい皇帝こうていえたキメのあらゆるやかな支配しはいから、オリエントのような官僚かんりょうせいおもとする緻密ちみつ統治とうちおこな専制せんせいくんしゅたる皇帝こうていえる体制たいせいにしたのである。これ以降いこう帝政ていせいを、それまでのプリンキパトゥス(元首げんしゅせい)にたいして「ドミナートゥス専制せんせい君主くんしゅせい)」とぶ。またテトラルキアよん分割ぶんかつ統治とうち)を導入どうにゅうした。よん分割ぶんかつ統治とうちは、二人ふたりせいみかどアウグストゥス)とふくみかどカエサル)によっておこなわれ、ディオクレティアヌス自身じしんひがしせいみかどいた。強大きょうだい複数ふくすう外敵がいてきめんした結果けっか皇帝こうてい以外いがい将軍しょうぐん指揮しきするおおきな軍団ぐんだん必要ひつようとされたが、軍団ぐんだんはしばしば中央ちゅうおう政府せいふ反乱はんらんこした。テトラルキアは皇帝こうていかずやすことでこの問題もんだい解決かいけつし、帝国ていこく一時いちじ安定あんていもどした。

ディオクレティアヌスは税収ぜいしゅう安定あんてい離農りのう逃亡とうぼう阻止そしすべく、大幅おおはばほう改訂かいてい市民しみん身分みぶん固定こてい職業しょくぎょう選択せんたく自由じゆう廃止はいしされ、かれしたでローマは古代こだいから中世ちゅうせいけて、外面がいめんでも内面ないめんでもおおきな変化へんか開始かいしする。

ディオクレティアヌスが305ねん引退いんたいしたのち、テトラルキアは急速きゅうそく崩壊ほうかいしていった。混乱こんらんつづなか西方にしかたふくみかどだったコンスタンティヌス1せい有力ゆうりょくとなり、324ねんには唯一ゆいいつ皇帝こうていとなった。コンスタンティヌス1せい専制せんせい君主くんしゅせい確立かくりつにつとめる一方いっぽうひがしサーサーンあさペルシアの攻撃こうげきそなえるため、330ねん交易こうえきルートの要衝ようしょうビュザンティオン(ビザンティウム。現在げんざいトルコりょうイスタンブール)に遷都せんとしてくになおしをはかった。このまちはコンスタンティヌスみかど死後しごコンスタンティノポリス(コンスタンティヌスのまち)と改名かいめいした。コンスタンティヌスの死後しご北方ほっぽうゲルマンじん侵入しんにゅう激化げきかとく375ねん以降いこうゲルマン民族みんぞくだい移動いどう帝国ていこくることとなった。378ねんには皇帝こうていウァレンスハドリアノポリスのたたかゴート戦争せんそう)でゴートぞくはいした。

キリスト教きりすときょう浸透しんとう

編集へんしゅう

帝政ていせい初期しょき帝国ていこく領内りょうないのユダヤぞくしゅうまれたイエス・キリスト創始そうししたキリスト教きりすときょうは、徐々じょじょ信徒しんとすうやしてゆき、2世紀せいきまつには帝国ていこく全土ぜんどきょうせん拡大かくだいしていた。ディオクレティアヌス退位たいいこった内戦ないせん収拾しゅうしゅうしてのち単独たんどく皇帝こうていとなるコンスタンティヌス1せい大帝たいてい在位ざいいふくみかど306ねん-、せいみかど324ねん-337ねん)は、当時とうじひがしみかどリキニウス共同きょうどうで、313ねんミラノみことのりれい公布こうふしてキリスト教きりすときょう公認こうにんした。そのキリスト教きりすときょう影響えいきょうりょく増大ぞうだいつづけ、ユリアヌスみかどによる異教いきょう復興ふっこうなどのもどしはあったものの、テオドシウス1せい在位ざいい379ねん-395ねん)のときには国教こっきょうさだめられ、異教いきょう禁止きんしされることになった(392ねん)。394ねんには、かつてローマの永続えいぞく安定あんてい象徴しょうちょうとされ、フォロ・ロマーノにありローマの建国けんこくよりやすことのなかったウェスタ神殿しんでんウェスタせいなるほのおされた。

帝国ていこく衰退すいたい

編集へんしゅう

帝国ていこく分裂ぶんれつ

編集へんしゅう
 
テオドシウス1せい没後ぼつご、395ねんマ帝国まていこく分割ぶんかつ両者りょうしゃ国境こっきょうせんくろせんにて表示ひょうじ (白線はくせん現代げんだい国境こっきょうせん)

コンスタンティヌス1せい没後ぼつご帝国ていこくではふたた分担ぶんたん統治とうちおこなわれるようになった。テオドシウス1せいも、395ねんさいして長男ちょうなんアルカディウスひがしを、次男じなんホノリウス西にしあたえてぶんさせた。当初とうしょはあくまでもディオクレティアヌス時代じだいよん分割ぶんかつ統治とうち以来いらい何人なんにんもの皇帝こうていがそうしたのと同様どうように1つの帝国ていこく分割ぶんかつ統治とうちするというつもりであったのだが、これ以後いご帝国ていこく東西とうざい領域りょういき実質じっしつてき一人ひとり統治とうちする支配しはいしゃあらわれなかった。もっとも3世紀せいき後半こうはん以降いこう東西とうざい皇帝こうていけん統一とういつされていた期間きかんわずかに20ねんかぞえるのみであり、経済けいざいてき流通りゅうつうも2世紀せいき前半ぜんはん以降いこうはオリーブなどのかつての特産とくさんひん各地かくち自給じきゅうされはじめるにつれとぼしくなり、また自由じゆう農民のうみん温存おんぞんされた東方とうほうたいして西方せいほうではコロナートゥスが増大ぞうだいするなど、東西とうざい分裂ぶんれつはや段階だんかいから進行しんこうしていた。今日きょうでは以降いこうマ帝国まていこくをそれぞれ西にしマ帝国まていこくひがしマ帝国まていこくける。ただし、史料しりょうなどからは当時とうじ意識いしきとしては別々べつべつ国家こっか分裂ぶんれつしたわけではなく、あくまでもひとつのマ帝国まていこくだったことうかがえる。

西にしマ帝国まていこく

編集へんしゅう

ディオクレティアヌスみかど以降いこう皇帝こうてい所在地しょざいち首都しゅとローマからミラノのちラヴェンナうつっていた。西にしマ帝国まていこく皇帝こうてい政権せいけんゲルマンじん侵入しんにゅうれず、イタリア半島はんとう維持いじさえおぼつかなくなったすえ476ねんゲルマンじん傭兵ようへい隊長たいちょうオドアケルによってロムルス・アウグストゥルス在位ざいい476ねん)が廃位はいいされ西方にしかたただしみかど地位ちい消滅しょうめつした。そのガリア地方ちほう北部ほくぶにはシアグリウス維持いじするソワソン管区かんくがローマりょうとして存続そんぞくしたが、486ねんにゲルマンけい新興しんこうこくメロヴィングあさフランク王国おうこくクローヴィス1せいによる攻撃こうげき消滅しょうめつした。きゅう西にしマ帝国まていこく版図はんとであった領域りょういき成立せいりつしたゲルマンけいしょ王国おうこくおおくは、消滅しょうめつした西にし皇帝こうていわって、ぜんマ帝国まていこく皇帝こうていとなったひがし皇帝こうてい宗主そうしゅけんあおぎ、ローマ皇帝こうてい任命にんめいされた西にしマ帝国まていこく地方ちほう長官ちょうかんとして統治とうちおこなった。したがって、現代げんだい人的じんてき認識にんしきでは西方にしかたただしみかど消滅しょうめつマ帝国まていこくとはべつのゲルマンけいしょ王国おうこく誕生たんじょうしたかのようにえる西欧せいおうも、どう時代じだい人的じんてき認識にんしきとしては依然いぜんとして「マ帝国まていこく」を国号こくごうとする西にしマ帝国まていこくのままであり、ゲルマンけい諸王しょおうマ帝国まていこくかんじんとしてマ帝国まていこく印璽いんじもちい、住民じゅうみんたちもまた自分じぶんたちのことをたんに「ローマじん」とつづけていた[12]

ひがしマ帝国まていこく

編集へんしゅう
 
ひがしマ帝国まていこく最大さいだい進出しんしゅついき
  1025ねんバシレイオス2せい

ひがしマ帝国まていこく395ねん-1453ねん)は、首都しゅとコンスタンティノポリスとし、15世紀せいきまでつづいた。中世ちゅうせいひがしマ帝国まていこくは、後世こうせいビザンツ帝国ていこくあるいはビザンティン帝国ていこくばれるが、正式せいしき国号こくごうマ帝国まていこくのままであった。このくに古代こだい末期まっきマ帝国まていこく体制たいせいいでいたが、完全かんぜんキリスト教きりすときょうこくであり、また徐々じょじょにギリシアてき性格せいかくつよめていった。

ひがしマ帝国まていこくは、軍事ぐんじりょく経済けいざいりょくたかめてゲルマンじん侵入しんにゅう最小限さいしょうげんめ、またいくつかの部族ぶぞくたいして西にしくようはからった。西にしマ帝国まていこくにおける西方にしかたただしみかど消滅しょうめつひがしマ帝国まていこく皇帝こうてい唯一ゆいいつのローマ皇帝こうていとして、名目めいもくじょうではぜんマ帝国まていこく統治とうちけんった。

ひがしマ帝国まていこくによる帝国ていこく再建さいけんなんこころみられ、実際じっさいに5世紀せいきレオ1せいや12世紀せいきマヌエル1せいように、アフリカやイタリア征服せいふくこころみた皇帝こうていもいた。6世紀せいきユスティニアヌス1せいによるものは一定いってい成功せいこうおさめ、地中海ちちゅうかい広範こうはん地帯ちたいふたたびローマ皇帝こうていりょうとなった。ユスティニアヌスは、ローマほう集大成しゅうたいせいであるローマほう大全たいぜん編纂へんさんでもられている。

ユスティニアヌス没後ぼつご混乱こんらん縮小しゅくしょう時代じだいはいり、7〜8世紀せいきにかけイスラム帝国ていこくスラヴじんなどの侵入しんにゅうにより領土りょうど大幅おおはば縮小しゅくしょうした。統治とうち体制たいせい再編さいへん余儀よぎなくされ、テマばれる軍閥ぐんばつせいかれた。ラテン語らてんご使用しようされていた帝国ていこく西方せいほうとの隔絶かくぜつ公用こうようのギリシャ(7世紀せいき)をうながし、8世紀せいきにはローマやラヴェンナをふくきたイタリア管区かんくうしない、また、西欧せいおうたいする影響えいきょうりょく低下ていかした。一連いちれん出来事できごと帝国ていこく性格せいかく変化へんかさせ、ヘレニズムとローマほう正教会せいきょうかい基盤きばんとしたあらたな「ビザンツ文明ぶんめい」ともべる段階だんかい移行いこうした。

9〜10世紀せいきごろには安定あんていはいり、ふたた積極せっきょくてき対外たいがい行動こうどうをとる。帝国ていこく領土りょうどふたた拡大かくだいし、11世紀せいき初頭しょとうにはバルカン半島ばるかんはんとうとアナトリア半島はんとう全域ぜんいきみなみイタリア、シリア北部ほくぶとう領有りょうゆうした。しかし、そのはイスラムや西欧せいおうたいして劣勢れっせいになり、13世紀せいき十字軍じゅうじぐんにより首都しゅとコンスタンティノポリスを占領せんりょうされた。13世紀せいきまつにコンスタンティノポリスをもどすも、以後いご内乱ないらん頻発ひんぱつもあり、オスマン帝国ていこくひとし領土りょうど侵食しんしょくされていった。

1453ねん4がつオスマン帝国ていこくぐんがコンスタンティノポリスを攻撃こうげき。2ヶ月かげつにもおよ包囲ほういせんすえ、5月29にち城壁じょうへき突破とっぱされコンスタンティノポリスは陥落かんらくした。最後さいご皇帝こうていコンスタンティノス11せいパレオロゴス戦死せんしし、ひがしマ帝国まていこく滅亡めつぼうした。

このひがしマ帝国まていこく滅亡めつぼうは、中世ちゅうせいわりを象徴しょうちょうするおおきな出来事できごとの1つではあったが、通常つうじょうマ帝国まていこく滅亡めつぼう」として認識にんしきされることはすくない。これは、ひがしマ帝国まていこくがそのなが歴史れきしなか性質せいしつおおきく変化へんかさせ、みずからの認識にんしきとは裏腹うらはら古代こだいローマとはことなるくにへと変貌へんぼうしたことに起因きいんしている。中期ちゅうき以降いこうひがしマ帝国まていこくは、ヘレニズムとローマほう正教会せいきょうかい基盤きばんとしたあらたな「ビザンツ文明ぶんめい」ともべる段階だんかい移行いこうした。このため、とくマ帝国まていこくぜんげたい場合ばあい[注釈ちゅうしゃく 2]のぞいて西にしマ帝国まていこくの「滅亡めつぼう」をもってマ帝国まていこくの「滅亡めつぼう」とすることが一般いっぱんてきである。[注釈ちゅうしゃく 3]

コンスタンティノープルを領有りょうゆうしたひがしマ帝国まていこく滅亡めつぼう、まだひがしローマけい国家こっかはいくつか存在そんざいしたが、それもながくはたなかった。モレアス専制せんせいおおやけりょうが1459ねんに、トレビゾンド帝国ていこくも1461ねんに、やはりオスマン帝国ていこくによってほろぼされた。最終さいしゅうてきに、クリミア半島くりみあはんとうトレビゾンド帝国ていこく関係かんけいふかかったしょう国家こっかテオドロ公国こうこくのこされたが、このくにも1475ねんにオスマン帝国ていこく攻撃こうげきけた。モルドバクリミア・ハンこくからの援軍えんぐんくわえてはげしいたたかいがおこなわれたが、やく6ヶ月かげつあいだ防戦ぼうせんすえ、1475ねん12月にマングプ陥落かんらく滅亡めつぼうした。

継承けいしょう国家こっか

編集へんしゅう

西方にしかたただしみかど消滅しょうめつ西にしマ帝国まていこく統治とうちしたゲルマンけいしょ王国おうこくおおくは、消滅しょうめつした西にし皇帝こうていわってひがし皇帝こうてい宗主そうしゅけんあおぎ、ひがし皇帝こうてい任命にんめいされたマ帝国まていこく官僚かんりょう資格しかく統治とうちおこなった。したがって、現代げんだい人的じんてき認識にんしきでは西方にしかたただしみかど消滅しょうめつマ帝国まていこくとはべつのゲルマンけいしょ王国おうこく誕生たんじょうしたかのようにえる西欧せいおうも、どう時代じだいじん認識にんしきとしては依然いぜんとして「マ帝国まていこく」を国号こくごうとする西にしマ帝国まていこくのままであり、住民じゅうみんたち自分じぶんたちのことをたんに「ローマじん」とつづけていた[12]。しかし、フランク王国おうこくカロリングあさ時代じだいむかえ、800ねんカール教皇きょうこうレオ3せいによりローマ皇帝こうてい戴冠たいかんされたことで、ローマそう大司教だいしきょう管轄かんかつのキリスト教会きょうかいともども、ひがし皇帝こうてい宗主そうしゅけんから名実めいじつともに離脱りだつし、マ帝国まていこく東西とうざい分裂ぶんれつした。ここに後世こうせいかみきよしマ帝国まていこくばれる政体せいたい結実けつじつするローマ皇帝こうていみかどけん誕生たんじょうし、1806ねんライン同盟どうめい結成けっせいまで継続けいぞくした。

ひがしマ帝国まていこく征服せいふくし、ほろぼしたオスマン帝国ていこく君主くんしゅスルターン)であるメフメト2せいおよびスレイマン1せいは、みずからをひがしローマ皇帝こうてい継承けいしょうしゃとしてい、「ルーム・カエサリ」(トルコでローマ皇帝こうてい)と名乗なのった。もともとひがしマ帝国まていこくにおいては帝国ていこく征服せいふくした辺境へんきょう民族みんぞく帝国ていこくそのものとなったり帝位ていい簒奪さんだつしゃ定着ていちゃくすることは幾度いくどとなくかえされてきた歴史れきしでもあり、このことについて吉村よしむら忠典ただのりは「だいさんのローマとしては、モスクワよりイスタンブールほう本家ほんけのようにおもえる[13]」とする感想かんそうべている。ただしバヤズィト2せいのように異教徒いきょうと文化ぶんかをオスマン帝国ていこく導入どうにゅうすることを嫌悪けんおする皇帝こうていもおり、オスマン皇帝こうていがローマ皇帝こうてい継承けいしょうしゃ自称じしょうするのは、一時いちじことわった。

そのにも、ロシア帝国ていこくロシア・ツァーリこく)はマ帝国まていこくとギリシア帝国ていこく[注釈ちゅうしゃく 4]つづだいさんマ帝国まていこくとしてマ帝国まていこく後継こうけいしゃしょうした。ただし、君主くんしゅロシア皇帝こうてい自称じしょうするも、当初とうしょ国内こくないけの称号しょうごうまり、対外たいがいてきにはたんなる「モスクワこく大公たいこう」としてあつかわれている。その国際こくさいてき皇帝こうていとしてみとめられるようになるが、ローマ皇帝こうてい継承けいしょうしゃとしての皇帝こうていという意味合いみあいはわすられていた。

現在げんざいでは公式こうしきマ帝国まていこく継承けいしょう国家こっかであることを主張しゅちょうする国家こっか存在そんざいしないが、ルーマニア国名こくめいは「ローマじんくに」という意味いみである。そのルーマニア国歌こっか目覚めざめよ、ルーマニアじん!」とイタリア国歌こっかマメーリの賛歌さんか」の歌詞かしには、国民こくみんマ帝国まていこくとの連続れんぞくせい主張しゅちょうする部分ぶぶんがあるほか、それぞれトラヤヌススキピオ正確せいかくには、スキピオは家名かめい)が歌詞かしはいっている。

歴代れきだい皇帝こうてい

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 僭称せんしょうしゃとされる皇帝こうていふくめるとそのかずさらえる。
  2. ^ たとえばエドワード・ギボンマ帝国まていこく衰亡すいぼう』。
  3. ^ カール大帝たいていだい分裂ぶんれつしたひがしマ帝国まていこくみかどけん後継こうけいしゃ自任じにんするかみきよしマ帝国まていこく1806ねんまで存在そんざいしていたが、帝国ていこく解散かいさん宣言せんげんは「ドイツ皇帝こうてい」の名義めいぎでなされている。
  4. ^ 当時とうじのロシアでひがしマ帝国まていこく名称めいしょう

出典しゅってん

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  1. ^ a b c d Rein Taagepera (1979). “Size and Duration of Empires: Growth-Decline Curves, 600 B.C. to 600 A.D.”. Social Science History 3 (3/4): 125. doi:10.2307/1170959. http://links.jstor.org/sici?sici=0145-5532%281979%293%3A3%2F4%3C115%3ASADOEG%3E2.0.CO%3B2-H. 
  2. ^ John D. Durand, Historical Estimates of World Population: An Evaluation, 1977, pp. 253-296.
  3. ^ John D. Durand, Historical Estimates of World Population: An Evaluation, 1977, pp. 253–296.
  4. ^ 吉村よしむら2003, pp53-58
  5. ^ 吉村よしむら2003, pp55-56
  6. ^ 「ブルータス」カエサル暗殺あんさつ敗北はいぼくしゃとなった理由りゆう”. PRESIDENT Online(プレジデントオンライン) (2012ねん1がつ20日はつか). 2020ねん10がつ7にち閲覧えつらん
  7. ^ さんていばん, ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてん,デジタル大辞泉だいじせん,大辞林だいじりん だいさんはん,日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ),精選せいせんばん 日本にっぽん国語こくごだい辞典じてん,旺文社おうぶんしゃ世界せかい事典じてん. “プトレマイオスあさとは”. コトバンク. 2020ねん10がつ8にち閲覧えつらん
  8. ^ さんていばん,世界せかいだい百科ひゃっか事典じてんない言及げんきゅう, デジタル大辞泉だいじせん,百科ひゃっか事典じてんマイペディア,世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん だいはん,大辞林だいじりん だいさんはん,日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ),旺文社おうぶんしゃ世界せかい事典じてん. “アウグストゥスとは”. コトバンク. 2020ねん10がつ8にち閲覧えつらん
  9. ^ しょう項目こうもく事典じてん,日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ), ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん. “パックス・ロマーナとは”. コトバンク. 2020ねん10がつ7にち閲覧えつらん
  10. ^ アルベルト・アンジェラちょ マ帝国まていこく1まん5せんキロのたび p.493 ISBN 978-4-309-22589-0
  11. ^ 菊池きくち 2002, pp. 32-33.
  12. ^ a b ミシェル・ソ、ジャン=パトリス・ブデ、アニータ・ゲロ=ジャラベール『中世ちゅうせいフランスの文化ぶんかきりむら泰次やすじやくさとしそうしゃ、2016ねん3がつ
  13. ^ 吉村よしむら2003, p35

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 菊池きくちりょうせい傭兵ようへいせんねん講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ 1587〉、2002ねん1がつISBN 978-4-06-149587-6 
  • 樺山かばやま紘一こういち岩波いわなみ講座こうざ 世界せかい歴史れきし だい5かん 帝国ていこく支配しはい」』岩波書店いわなみしょてん、1998ねんISBN 9784000108256 
  • 吉村よしむら忠典ただのり古代こだいマ帝国まていこく研究けんきゅう岩波書店いわなみしょてん、2003ねんISBN 9784000228329 

関連かんれん文献ぶんけん

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小説しょうせつ

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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